2013年春、横浜市歴史博物館で、ある特別展が開かれた。タイトルは「N・G・マンローと日本考古学 ―横浜を掘った英国人学者」。スコットランド出身のニール・ゴードン・マンロー(Neil Gordon Munro)生誕150周年を記念して開催されたものである。
1942年に79歳で死去したマンローが初めて日本の地を踏んだのが28歳の時のこと。横浜で行った発掘調査で見つけた旧石器時代の人骨がきっかけで、
マンローは日本人のルーツ、そして期せずして日本の暗部に触れることになる。マンローにとって、そして日本人にとってアイヌはどう捉えられていたのか。前編では、マンローの横浜時代を中心に送る。
◆◆◆ 考古学に魅せられた青年医学生 ◆◆◆
マンローが医学を学んだ、エディンバラ大学医学部の旧校舎(1906年当時)ニール・ゴードン・マンローは1863年6月16日、北海に面したスコットランドの都市ダンディー(Dundee)に、外科医の父ロバート、母マーガレット・ブリング・マンローの長男として生まれた。ちなみにマンローという苗字を持つ一族はスコットランドでは名家のひとつであり、その祖先は14世紀まで辿ることが可能だという。
父親のロバートは開業医で、その傍らで刑務所と救貧院の医師も兼任していた。マンローの下には後に彼のあとを追って日本の地を踏むロバート(父親と同名)を始め、5人の兄弟妹が誕生。だが、一般に同族意識や故郷への愛着が強いとされるスコットランド人には珍しく、マンローには家族や故郷に関する逸話があまり残っていない。しかも25歳でスコットランドを離れて以来、79歳で死去するまでにたった1度しか英国、欧州に戻っておらず、かなり淡白な性格だったとも思われる。
だがそんなマンローでも、一家の長男である以上は将来父親の医院を継ぐはずであり、親の期待もあったようだ。現に本人もそのつもりで1879年から1888年までエディンバラ大学の医学部に在籍している。ところが医学の勉強中に、マンローは考古学の魅力に取り憑かれてしまう。
当時はチャールズ・ダーウィンが『種の起源』を出版して20年が経過したところで、進化論に対する評価はようやく定着したばかり。この頃の欧州考古学界は、進化論の法則に基づいた人類の起源や進化の過程を確かめようと、原人発掘ブームに沸いていた。1866年に大森貝塚を発見したエドワード・S・モースを始め、ハインリッヒ・フォン・シーボルト(江戸末期に来日したシーボルトの次男。父親と区別するため、日本では『小シーボルト』とも呼ばれている)の日本での発掘調査などでも分かるように、考古学界の目は東洋へと向けられてもいたので、マンローがインドや東南アジアでの原人発掘を夢見たとしても不思議ではない。
また、ダーウィンが死去したのはマンローがエディンバラ大在学中の1882年であり、若きマンローがその著作に影響を受けた可能性も高い。
その昔、ダーウィンはマンロー同様エディンバラ大で医学を学ぶも、血を見るのが苦手で退学し、ビーグル号に乗って世界の海へ繰り出していった。そして各地で動植物を収集しながら、後に世界を揺るがすことになる進化論の基礎を導き出すに至るのだ。マンローが卒業後、インド航路客船医という一見奇妙なポストに就いたのは、ダーウィンという先例があったからと考えても、まるきり見当違いではないと思われる。
◆◆◆ 憧れの世界を目指して離英 ◆◆◆
病気で1年休学したものの、マンローは1888年に医学士と外科修士の学位をとり無事にエディンバラ大を卒業。そして当時大英帝国の植民地であったインドや香港を往復する貨客船の船医として働き始める。
マンローのこの進路選択について、父ロバートはどういう態度を見せたのか。記録はないようだが、諸手を挙げて賛成してくれたとは考えづらい。それどころか、いつ遭難するともしれぬ危険な仕事として大反対されたとしてもおかしくない。父ロバートはこの翌年に他界するが、この際に家族内で大きなしこりができたとすれば、この後、マンローが故郷と疎遠になったことも説明がつく。
さて、貨客船といっても大型客船ではなく、郵便物、そして軍用品などの貨物の運搬が主だったため、マンローの仕事は船員の怪我や客の船酔いの手当といった簡単なものばかりだった。
マンローは1ヵ月のうち1週間から10日を陸上で暮らしたが、その貴重な時間を現地での旧石器発掘調査などにあてたわけだ。鉛色の空をあおぎ見ることの多いスコットランドから一転、カラフルな未知の文化圏へ。マンローの驚きと歓びは大きかったに違いない。彼は英国の発掘隊たちが訪れた遺跡などを一人で精力的に回っている。
だが、当時インドの統治国だった英国は、発掘のために正式な届け出をすることもせず、出土したものはそのまま英国に持ち帰るといった、現代においては「略奪」と呼ばれる行為を繰り返していた。そして、希望に溢れたマンローがインドや香港で見たものは、 植民地を統治する英国人による現地の人々に対する人種差別、民族的偏見、およびインド国内のカースト制による激しい階級差別だったという。
マンローはそのことに心を痛め、後に妻であるチヨに当時の模様を語っている。海外では「英国」と一括りにされてしまうものの、マンローがスコットランド人だったことを思うと、彼はスコットランドやアイルランド、またケルト文化に対して行われたイングランドによる侵略行為や差別の歴史を重ねあわせていたのではないだろうか。また、原人の頭蓋骨を扱う考古学者的見地からすれば、「ある人種の民族的な優越性」などは存在しないというのがマンローの立場だった。やがてこの時の体験や思索は、後にマンローが北海道で見せるアイヌへの献身的態度につながっていく。
◆◆◆ 病床で聞いた原人発掘の報 ◆◆◆
オランダの解剖学者、人類学者、マリ・ウジェーヌ・フランソワ・トマ・デュボワ(Marie Eugne Franois Thomas Dubois、1858~1940)=写真下=が発掘した、『ジャワ原人』の頭蓋骨の一部と大たい骨=同左 © Peter Maas=は、世界に衝撃を与えた。インドで細々とながら石器発掘を行っていたマンローだが、北国育ちの彼にとってこの国の猛暑とモンスーンはひどく体にこたえた。体調を崩した彼は1890年にはインドを離れ、香港と横浜を結ぶ定期船アンコナ号の船医になる。さらに翌1891(明治24)年5月12日、28歳目前のマンローは香港より一層気候の穏やかな横浜へ向かうため、汽船オセアニック号の客となる。療養が目的だったようで、マンローは到着後すぐに横浜の山手地区にある外国人専用のゼネラルホスピタルに入院した。
奇しくもその8月、33歳の軍医ウジェーヌ・デュボワが当時オランダ領だったインドネシアで原始人類の骨を発掘。それは「ジャワ原人(ピテカントロプス・エレクトゥス)」と名付けられ、東南アジアで人類が進化したとする学説に俄然信憑性が出てきた。
マンローがこのニュースに興奮したであろうことは間違いない。デュボワに「先を越された」とさえ思っただろう。やがて健康を取り戻したマンローは、医師として日本で暮らし始める。現在は英国同様島国の日本だが、大陸とつながっていた時に原人が渡っているはずである。それはいつの時代で、どんな原人なのか。それを自分が発見しようと決意したのだ。とはいっても、マンローはこの後50年の長きにわたって日本で暮らすことになると、その時想像していただろうか。答えは「ノー」である。運命の出会いは、まだそれが起こる兆しさえ見せてはいなかった。
◆◆◆ 駆け出しの発掘研究家 ◆◆◆
ドイツ帝国出身の医師、エルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Blz、1849~1913)は、『お雇い外国人』として日本の近代化に関わった。。実はこの後数年のマンローの足取りははっきりと掴めていない。30歳でゼネラルホスピタルの院長に就任したという説がある一方で、横浜市内の病院を転々とした後、自らの診療所を開いたとする説もある。ただ確かなことは、優秀な外科医として腕を振るう傍ら、横浜を中心とした神奈川県各地の発掘を試みていたということだ。
また、文明開化を遂行し、欧米に追いつこうとする明治政府によって招待されていた「お雇い外国人」たちが当時はまだ日本に残留しており、マンローはこうした先輩たちと交流していた。中でもマンローが影響を受けたのは、東京大学で医学を教え、のちに宮内省侍医となったエルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Blz)であろう。
ベルツは、当時の日本が近代化を急ぐあまり、自国固有の文化を軽視するばかりか、恥ずべきものと考えてさえいることに危惧をいだいていた。そして「今の日本に必要なのは、まず日本文化の所産のすべての貴重なものを検討し、これを現在と将来の要求に、ゆっくりと慎重に適応させることなのだ」と憂える言葉を残している。
彼は考えを同じくする、小シーボルトと共に多くの美術品・工芸品を購入し保存に努めるほか、若いマンローとともに発掘にも参加。やがて、1905年に日本を去り、1913年に祖国ドイツで64歳で死去するが、日本にいるマンローに考古学研究費として3千円を贈るよう遺言を残している。
◆◆◆ 「満郎」になったマンロー ◆◆◆
マンローを北海道へと誘った、ジョン・バチェラー(John Batchelor、1854~1944)=写真中央ここで、マンローのプライベートな側面について触れておこう。マンローは80年近い生涯の中で4人の妻を娶っているが、最初の妻とは1895(明治28)年に結婚した。19 歳のドイツ人アデル(Adele M.J.Retz)で、医薬品から雑貨、武器までを扱う横浜きっての貿易商「レッツ商会」の令嬢だった。彼らの暮らしは何一つ不自由のない恵まれた新婚生活であったに違いない。翌年にはマンローの父親と同名の長男ロバートが生まれている(1902年に死去)。
また、1898年には、1877年以来北海道でキリスト教の伝導に努めるイングランド人宣教師、ジョン・バチェラー(John Batchelor)の案内で初めて北海道に旅している。これが、マンローの後の生涯を大きく左右することになる。この時はマンロー自身も気づいてはいなかったものの、アイヌ人、アイヌ文化との運命の出会いだったといえるだろう。
バチェラーはアイヌにキリスト教に基づいた教育を施すための学校を創立したほか、アイヌ語の言語学的、民族的研究に多くの業績を残した人物である。彼は、アイヌ人はコーカソイドが日本に渡ったものだという、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(江戸末期に来日した『大シーボルト』)の唱えた「アイヌ白人説」を支持し、原ヨーロッパ人の子孫が現在の日本人によって不当な仕打ちを受けていると考えていた(次頁コラム参照)。
この説は極東の「高貴な野蛮人」というロマンチックなイメージで捉えられ、当時欧州の研究家たちの関心を誘っていたのである。バチェラーはマンローを誘うことで、共にこの説を証明しようとしたのだろう。マンローとバチェラーはやがて大論争の果てに袂を分かつに至るのだが、これについては後編で述べよう。
マンローの幸せな結婚生活はそう長くは続かなかった。医師としての仕事に従事する以外は、マンローは泥だらけになって発掘をするか調査レポートを書いているかのどちらかで、華やかな社交界での集まりに慣れていたアデルに構うことはなかった。
そればかりか、彼は高畠トクという女性と関係を持つに至るのである。時期的には長男を亡くした後とされるが、ある時、横浜で旧石器に関する講演を行ったマンローは、終了後、一人の日本人女性から日本語の読み方に関する誤りを指摘される。それが高畠トクだった。
釧路を訪問した際、宿泊先でくつろいだ表情を見せるマンローとチヨ夫人(写真:北海道大学提供)マンローは英語で講演をしたのだが、彼女は旧士族の娘で英語も堪能な教養ある女性だった。感銘を受けたマンローはその場で彼女に通訳として働いてくれるよう頼む。そして1905(明治38)年にアデルと離婚。数ヵ月後にトクと再婚している。
こう書くとスムーズに話が進んだようにもみえるが、当時の日本で外国人同士が離婚するというのは余り例のないことであり、法律上の手続きは難航した。業を煮やしたマンローは荒技を使う。即ち、離婚前の妻共々日本に帰化したのである。満郎(まんろう)という漢字をあてて日本人となった夫妻は、無事に離婚することができたという。マンローが日本に帰化したのは、つまりは「いろいろ面倒だったから」ということになる。
マンローと4人の妻たち
マンローが故郷や家族に対して比較的距離を置いていて、淡白(冷淡?)な性格らしいことは本文でも触れた。その一方で4度も結婚している。ここではマンローが築いた4つの家庭から、マンローの姿を探ってみよう。
①アデル・マリー・ジョセフィン・レッツ(婚姻期間:1895~1905年)
ドイツ人。声楽とピアノの得意なレッツ商会の令嬢。マンローとの間にロバート、イアンの2人の男児をもうけるが、ロバートは幼くして病死。マンローは自著『Prehistoric Japan』を彼に捧げている。発掘に熱中し研究に湯水のごとくお金を使うマンローと、それを疎ましく思うアデルは夫婦喧嘩が絶えなかった。やがて秘書兼通訳である高畠トクが現れ、夫婦間の亀裂は決定的となる。マンローとトクとの関係に嫉妬したアデルは、トクも招待された実家のクリスマス・パーティーで、ピアノを叩き付けるようにヒステリックに演奏し、客の前でマンローから平手打ちを食らっている。
トク(32歳)とアヤメ(4歳)。離婚した頃の写真といわれている(『高畠とく先生思い出の記』より転載)②高畠トク (婚姻期間:1905~09年)
久留米柳川藩江戸詰家老の次女。明治維新で零落し、自活の道を築くため横浜で女中奉公をしながら和漢の学識や英語力を身につけた。芙蓉の花にも似た気高い美しさを持っていたといわれる。マンローとの間にはアヤメ(アイリス)という女児を出産。しかし、博士号取得のために英国へ赴いたマンローは、戻ってくると手のひらを返したように冷たくなっていたという。離婚の際、武士の娘だからだろうか、トクはマンローに金銭を要求せず、黙ってアヤメを連れて立ち去った。アヤメは成人してからフランスに絵画留学することになり、トクがマンローにそのことを連絡すると「いいんじゃない?」という返事のみが返ってきたと伝えられている。アヤメは留学中に結核にかかり、28歳で死去する。
③アデル・ファヴルブラン
(婚姻期間:1914~24年/正式な離婚成立は1937年)
父はスイス人、母は日本人。父親の死去以降、ファヴルブラント家は傾き、妻の実家の財力をあてに無料診療ばかりしていたマンローは負債を抱える。貧乏とマンローの浮気の双方に悩んだアデルはヒステリー状態になり、「精神系疾患の治療で有名な精神科医フロイトに治療してもらえ」とマンローに無理矢理欧州へ送り出されてしまう。結婚祝いに父親から3000坪の敷地と豪邸をもらっていたアデルは、それを売り払い、マンローの負債も補ってウィーンへ去る。
④木村チヨ
(婚姻期間:1924~42年/正式な結婚は1937年)
香川県高松市のべっこう商の娘で、日赤看護婦養成所を首席で卒業した後、日露戦争に従軍し宝冠章勲八等を受ける。その後神戸の病院で婦長として働いているところをマンローにスカウトされる。アデルとの離婚が難航したため、チヨは長い間「妻」という肩書きの無いままマンローを支えた。軽井沢でも北海道でも無給だったという。マンローはチヨを「地上の天使」と呼び、全ての遺産をチヨに贈るという遺言状を残している。チヨはマンロー亡きあとも、軽井沢で婦長として長く働き、1974年に89歳で死去。
◆◆◆ 横浜で竪穴式住居を発掘 ◆◆◆
今年はマンロー生誕150周年にあたる。これを記念し、4月から5月末にかけて横浜市歴史博物館で行われた特別展のポスター。同展にあわせて発行されたカタログの内容の濃さも特筆に価する。マンローの業績を広く知らしめたい、という主催者側の情熱がそこかしこに感じられた。トクという優秀な通訳を得た後、マンローの行動半径はいっきに拡大する。 バチェラーとの北海道旅行でアイヌの風俗や文化に触れたマンローは、アイヌに深い興味を抱き、彼らが用いる木工品の彫り文様と、縄文土器に施された模様の共通点に注目した。そしてアイヌこそ縄文人の子孫なのではないかと考える。
マンローはこの仮説を証明しようと、横浜根岸競馬場付近貝塚(1904年)、小田原の酒匂川・早川流域(1905年)、横浜三ツ沢貝塚(1905年)の3ヵ所を精力的に調査するが、三ツ沢貝塚発掘の際には「トレンチ(塹壕)方式」という地層に沿って掘り進む画期的な方法を採用した。
それまで日本で行われてきた発掘調査は、ここぞと思うところを掘ってみて、何も出なかったら別の場所を掘るという、宝探しにも似た行き当たりばったりな方法で、調査も日帰り程度が主流だった。しかしマンローは、7ヵ月という長い期間を費やし、何かが出ようが出まいが関係なく、一定の広い区域を層位区分ごとに均等に掘り進めるというやり方を採用した。
そしてこれによって日本初の縦穴住居跡を発掘したばかりではなく、土器、石器、そしてアイヌ人の特徴を有する原人5体の人骨を、ほぼ完全な姿で掘り出したのである。それまで日本列島には前期旧石器文化は存在しないと思われていたので、これは実は大きな発見であった。
マンローはこれらの結果をまとめ、『Prehistoric Japan』として自費出版する。そしてアイヌ縄文人説に一石を投じたのである。当時日本の学会でも「日本人起源論」については議論されており、概ね「コロポックル説」と「アイヌ説」とに分かれていた。コロポックルとはアイヌの神話の中に出てくる小人で、それによると「アイヌがこの土地に住み始める前から、この土地にはコロポックルという種族が住んでいた。彼らは背丈が低く、動きがすばやく、漁に巧みであった。又屋根をフキの葉で葺いた竪穴にすんでいた」という。
マンローはコロポックルはアイヌ伝説に過ぎず、実在はしないとしている。だがコロポックル説を唱えるのが日本人類学会の会長である坪井正五郎氏とその一派であったためなのか、マンローの三ツ沢貝塚での重要な発見そのものが、一介のアマチュアの慰みとして学会から黙殺されてしまう。『Prehistoric Japan』が英語で書かれたせいもあるのだろうか。評価したのはほんの一握りの人々に過ぎなかったようだ。
マンローの発見から44年後の1949年、群馬県岩宿遺跡から旧石器が発見されたことで、日本における前期旧石器文化の存在は、やっと認知されたという有り様である。
この頃のマンローは、書いた論文を定期的に英国へ送ったほか、発掘品の多くも整理してスコットランド博物館へ送っているが、それは単に英国が「アイヌ白人説」のためにマンローの研究に興味を持っていたからだけではなく、日本の学会における面倒な派閥システムのために、自分の研究が日の目を見ないことを怖れたからではないかと推測できる。
また、エディンバラ大学では医学士を取得し、日本での医療行為には何の問題もないマンローだが、なぜかこの頃博士号の学位の必要性を痛切に感じていたという。おそらくそれも、日本の学会で自分の論文や発見が取り上げられなかったことと関係があるのではないだろうか。「医学博士」という肩書きを重視する人々が学会の中に多くいたであろうことは想像に難くない。マンローは『日本人と癌』という博士論文を執筆すると、1908(明治41)年にエディンバラ大での口頭試験のために英国へ向かう。マンローにとって20年ぶりの、そして最後の英国行きであった。
明治政府のアイヌの扱い
1997年まで残った
「北海道旧土人保護法」
◆北海道は古くから「蝦夷」と呼ばれ、沖縄同様、日本国内の外国というような特殊な扱いを受けてきた。明治時代になると、政府による植民策がすすみ北海道への移住者が増加。開拓使や北海道庁は、先住していたアイヌの人たちに一部の地域で農業の奨励や教育・医療などの施策をおこなったが十分ではなく、生活に困窮する者たちが続出した。
◆このため、政府は明治32年に「北海道旧土人保護法」を制定(マンローが初めて北海道旅行をした翌年でもある)。これは、アイヌの人たちを日本国民に同化させることを目的に、土地を付与して農業を奨励することをはじめ、医療、生活扶助、教育などの保護対策を行うものとされた。
◆しかし実際には、アイヌの財産を収奪し、文化帝国主義的同化政策を推進するための法的根拠として用いられる。具体的には、アイヌの土地の没収/収入源である漁業・狩猟の禁止/アイヌ固有の習慣風習の禁止/日本語使用の義務/日本風氏名への改名による戸籍への編入―などがあげられる。
◆明治から第二次世界大戦敗戦前まで使用された国定教科書には、アイヌは「土人」と表され(行政用語では明治11年から「旧土人」)、差別は続いた。
◆戦後は、一転して国籍を持つ者、すなわち「国民」としてのみ把握され、現在もその民族的属性や、集団としての彼らへの配慮がなされているとは言い難い。ちなみに、この法律が廃止されたのは、なんと1997年(平成7年)のことであった。
◆◆◆ 「不器用で八方破れ」な性格 ◆◆◆
マンローは、国立スコットランド博物館=写真右=に、日本で発掘したおびただしい量の考古学資料を送った。横浜市歴史博物館で行われた特別展で発行された厚いカタログ=同上=では、それらが丁寧に紹介されており、感嘆するばかり。
マンローは英国で試験を受け無事博士号を取得したほか、尊敬する先輩であったベルツと再会し旧交を温めた。その一方、エディンバラ博物館の美術民俗学部門を訪れ、正式な日本通信員に任命される。これによりマンローはその後6年に渡り、アイヌ民族学資料や2000点以上のコレクションをエディンバラに送り続けている。
半年後、父親の遺産(父親はマンローがまだ船医だった頃に死去している)の他に、マンローはあろうことか「ブロンドのフランス人女性」を連れて帰国。これが原因で高畠トクとは協議離婚し、彼女は2人の間に出来た娘アヤメを連れて家を出る。だが問題のフランス人女性は結局すぐ欧州へ送り返してしまい、マンローは優秀な通訳を失った状態でアイヌの調査を続けることになる。
40代後半になっていたマンローだが、自らの手で家庭を叩き壊した挙句、身の回りの世話をする小間使いと運転手を連れて、横浜市内で転々と住所を変えている。『わがマンロー伝』を著した桑原千代子氏の言葉を借りれば、この頃のマンローは「不器用な八方破れで、妥協知らずの突っ走り」だったというが、マンローはどんな精神状態で暮らしていたのだろう。帰化して日本国籍になってはいたものの、日本語はほとんど話せず、家族もいない。研究結果を発表するも学会からは無視される。そんなマンローがただ一つ握りしめていたのは、「自分の研究が正しく価値のあることだと信じる気持ち」だったのではないだろうか。
やがて、欧州で第一次世界大戦の勃発した1914年、51歳のマンローは、最初の妻の実家と並ぶ横浜きっての資産家であるスイス貿易商の娘で、名前も同じ、28歳のアデル・ファヴルブラント(Adele Favre‐ Brandt)と出会った。彼女の両親はマンローの年齢や過去の女性関係に不安を覚えたものの、二人は結婚。マンローはアデルの財産が目当てだったと考える人々もいるが、実際のところは分かっていない。
マンローはこの頃調査のためにしばしば北海道各地を訪れているが、次第に釧路や白老に住むアイヌたちと親交を深め、その独自の世界観に惹かれ始める。
軽井沢サナトリウムでポーズをとるマンロー(年代は不詳/写真:北海道大学提供)折しも1915年は北海道で大飢饉が起きていた。マンローはアイヌの置かれている境遇に心を痛め、研究の合間に無料で彼らの診察を始める。結核が蔓延していたが、アイヌは薬草と祈祷しか治療法を持たなかったのである。
マンローは医師として活動しながらアイヌの儀式と風習を調査するようになり、徐々に北海道での滞在期間が長くなりはじめた。湿度が低くて夏も涼しいこの地に、故郷の面影を見いだしたということもあるかもしれない。北海道庁は時折コタン(アイヌの村や集落の意)に滞在するこの外国人医師に興味を持ち、マンローに向けてアイヌに関する5つの質問を発している。その一つ、「アイヌは高等なる宗教を理解し享益し得るか?」という質問に対し、マンローはスコットランド高地人の例を挙げて説明。「かつては政治と教育の不在によって哀れむべき状態にあったが、その後英国における第一流の学者を輩出したことに照らし合わせれば、ある種族と他の種族の間に教育の差はあっても、知能上の差はない」と断言しているのだ。すでに医師や研究者として以上の熱意が、ここにはこもっていると見受けられる。
マンローは横浜だけでなく、外国人の多い避暑地軽井沢の病院で忙しい夏の間だけ働いていたが、これに加え北海道でアイヌの人々の世話をするという、移動の多い忙しい日々を送り始める。
今やマンローの研究の比重は、石器や人骨といった考古学から生きた人間、すなわち人類学の分野へと移りつつあった。さらにもう一つ、軽井沢の病院にマンローの未来の、そして最後の妻となるチヨが婦長としてやって来るのである。
欧州のアイヌの扱い
ナチスも利用した「アイヌ・コーカソイド説」
■ドイツの医師で博物学者のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866、日本では『大シーボルト』とも呼ばれる)によって、アイヌが周辺の他の言語系統と無縁で孤立していると言う見解が公にされてから、アイヌはコーカソイド、つまり原ヨーロッパ人もしくはヨーロッパ人に起源を有する民族ではないかと言う認識が1860年頃より広がった。
■欧州各国は調査団や研究者を派遣したり、現地にいる欧州出身者に働きかけ、競合しながらアイヌの骨格標本をこぞって入手し始めた。1865年に起きた英国領事館員によるアイヌ墳墓盗掘事件なども、この流れで起きた事件である。アイヌとヨーロッパ人の頭蓋骨比較研究によって、その類似性はより説得性に富むようになった。英語はもちろん、ドイツやフランス語で書かれたアイヌ研究書が意外な程多く存在する理由はこのためである。
■昭和初期、純血主義のナチス・ドイツはこのコーカソイド説を利用し、「アイヌは欧州から来たアーリア人の祖先である。ゆえに、日本人もアーリア人である」という、誰がどう考えても無理があるだろうと思われる論法で、日本と同盟を結んだ。
◆◆◆ 関東大震災発生! ◆◆◆
関東大震災が起こった翌日、東京から避難しようとする人々でごったがえす、日暮里駅。
1923(大正12)年の夏は特に暑かった。
例年のように夏だけ軽井沢で働くマンローと共に、妻のアデルやファヴルブラント一家も避暑のために勢揃いしていた。ところが、心臓に持病のあった82歳の義父ジェームズが8月7日に大動脈破裂で倒れ、マンローの手当のかいもなく急逝。横浜に戻り葬儀を済ませた一家が再び軽井沢へ戻ったのは8月25日だった。
そのわずか6日後、9月1日午前11時58分。マンローはいまだかつて経験したことのない天変地異に遭遇する。
関東大震災であった。京浜地方のほとんどが灰燼に化すことになる大震災が襲った時、マンローは昼食のため家族の待つ自宅へ戻ろうとしていた。軽井沢の病院内で激しい上下動を体験したマンローは、何度も続く揺り返しの中で、懸命に横浜の病院に電話をかけるもつながらず、不安はつのるばかりだった。
夜になると東京方面の空は炎のせいか奇妙に明るいようだ。マンローは、ともかく行けるところまで行ってみようと、救護体制を整えて翌朝一番の信越線に乗り込んだ。
東京が近づくにつれ、被災して恐怖の一夜を過ごした人々の疲れた姿が増え始めた。ところがマンローの乗った汽車は日暮里(現東京都荒川区)止まりで、そこから先は不通である。だが横浜まではまだ遠い―。赤十字の炊き出しや地方へ避難する人々でごった返す日暮里駅に下車したマンローは、近くの農家から馬を買い取る。彼は幼い頃から馬に乗り馴れており、交通の便の悪い軽井沢でも、足代わりにしていたほどであった。
マンローは馬の背にまたがると、傷つきよろめきながら避難する群集をよけつつ、あちこちで白煙がたちのぼる中、横浜方面に向けて一路駆け出した。
(後編に続く)