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スコットランド最愛の息子 詩人ロバート・バーンズ [Robert Burns]

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2012年11月29日

●Great Britons●取材・執筆/佐々木敦子、本誌編集部

 

スコットランド最愛の息子
詩人
ロバート・バーンズ
Robert Burns

酒を愛し女性を愛し、
そしてハギスにまで情熱的な詩を捧げた
18世紀スコットランドの国民詩人、
ロバート・バーンズ。
『スコットランドの息子』と呼ばれ、
今なお愛されるバーンズの詩の秘密と、
自由とロマンを追い求めたその短い生涯を探る。

 



ダンフリースの中心部にたたずむ、バーンズの像。
余談ながら、バーンズはイングランドに足を踏み入れることなく世を去った。
© ISeneca

実は別れの歌ではない『蛍の光』

 

 大晦日の夜、新年のカウント・ダウンが終わるやいなや、ペラペラの紙でできたカラフルな王冠をかぶった英国人たちが、体の前で交差させた腕を両隣りの人に差し出して握りあい、突如『蛍の光』を歌いだす―。そんな場面に立ち会った読者の人も多いことだろう。
ところが、メロディーは確かに私たち日本人に馴染み深い『蛍の光』なのだが、年越しパーティーの佳境で、つまり祝宴の席で歌われるような歌詞だったろうか? と疑問がわいたのは筆者だけではないはずだ。日本で『蛍の光』といえば、卒業式の定番、紛れもなく別れの曲である。しかも葬儀の際にBGMとして流れることがあるくらい、かなり深刻な歌詞ではないか。英国人たちは、過ぎて行った年を惜しむつもりで、この曲を歌っているのだろうか、と考えずにはいられなかった。
日本の『蛍の光』が、英語の歌詞をそのまま邦訳したものではないということは後日知った。アルコールの入った英国人たちが大晦日に怒鳴るがごとくに歌っていたのは、原題を『オールド・ラング・ザイン(Auld Lang Syne)』といい、彼らはなんと『友よ、古き昔のために、親愛をこめてこの一杯を飲み干そうではないか』と歌っていたのだ。
この曲はもともと古くからスコットランドに伝わる民謡で、作曲者は不明である。これに歌詞を付けたのが、ロバート・バーンズという人物だ。スコットランドでは国民詩人と言われるが、同じくスコットランド出身の正統派詩人・著述家のウォルター・スコットとは対極にあると言える。
バーンズは貧しい家庭に生まれ、勤勉というより、熱しやすい性格から文学の知識を吸収した、生まれながらの詩人である。惚れっぽく、関係をもった女性は数知れず。恋愛を詩作の原動力としていた向きもある。ジタバタと生き、あっけなく死んだ、そしてそれ故に今でも庶民に愛され続ける。そんなバーンズの37年の生涯を辿ってみよう。



「サー」の称号を与えられた、ウォルター・スコット
(Sir Walter Scott, 1771~1832)はスコットランドの誇る、
偉大なる詩人であり作家であった。エディンバラ出身。
弁護士の父の跡を継ぎ、いったんは弁護士になったが、25歳で著述活動を開始。
存命中に国内外で名声を得たほか、名士としても知られ、バーンズとは対照的な存在だったと言える。

この肖像画は、スコットランド国立ギャラリー所蔵、ヘンリー・レイバーンHenry Raeburn作(1822年)。

 


 

貧しくとも「子供の教育が先!」

 

 ロバート・バーンズ(Robert Burns)は、1759年1月25日、スコットランド南西部の海岸沿いエアシャーにある、アロウェイ(Alloway)という寒村の貧しい家に7人兄弟の長男として生まれた。バーンズの生まれた家は父親の手による粗末な土作りで、バーンズが生まれた数日後に起こった強風で半壊し、バーンズと産後間もない母親のアグネスは隣家にしばらく避難しなければならなかったというエピソードもある。
父親のウィリアムはスコットランド北東部アバディーンシャーの出身で、元はインヴェルジー城の庭師だった。だが、1745年に起きたジャコバイト蜂起(※)の余波で自らの人生も軌道修正せざるを得ず、不本意ながら故郷をあとにして アロウェイに移った経緯を持つ。
だが、この地で育苗業を始めるも、それだけでは生計が立てられず、裕福な家庭へ園丁としても出向くなどし、働き者ながらもなかなか運を掴めない気の毒な人物だったようだ。

※スコットランド出身のスチュワート王家復興を悲願とするジャコバイト派(亡命したジェームズ〈ラテン語でJacobus〉2世とその直系男子を支持するという意味)と、イングランド軍の戦い。これに勝利したイングランドは、スコットランドの氏族(クラン)制度を解体し、民族衣装であるキルトやタータンの着用を禁止した。

 そんな経緯から、ウィリアムは息子のロバートに対し勉学の機会を惜しまずに与えた。将来少しでも息子がいい暮らしが出来るように。それには知識や教養が不可欠だと、ウィリアムは考えたのだ。彼自身も極めて厳格なカルヴァン主義(プロテスタントの一派で、長老派教会派)で、神学や哲学を好む知性ある人物であり、一家は敬虔なクリスチャンとして質素な日々を送っていた。バーンズはこの父親に大きな恩恵を受けている。この時代、このような貧しい環境に生まれ育った者なら、少しでも暮らしの足しにと幼い頃から働かされ、知識や教養を身につけるなど夢物語だと、勉学の道を閉ざされるのが普通であろうからだ。
バーンズは6歳になり、近隣の小学校に入学するが、数ヵ月で教師が転勤となり、事実上学校が閉鎖されてしまう。教育熱心なバーンズの父親は近所の父兄と5人で、ジョン・マードック(John Murdoch)という18歳の青年を家庭教師として雇う。父兄たちはそれぞれ持ち回りでこの家庭教師を自宅に宿泊させ、わずかな給料で子供たちをスパルタ方式で教育してもらったという。
この頃父親は園丁から小作人に転じていたものの、相変わらず苦しい暮らしの中から、バーンズの教育費を捻出したのだった。一家はこの後も数度の引越を繰り返すが、どういう運命なのか、そのたびに貧しくなっていくようであった。にもかかわらず、「子供の教育が大事」という父親の信念が揺らぐことはなかった。
一方、バーンズの母親アグネスは、農家の主婦としての知識に長け、「落ち着いていて、陽気でエネルギッシュ」だったと言われる。字は書けないが、聖書はかろうじて読むことができた。また、バーンズによるとこの母親は「悪魔、幽霊、妖精、魔女などについての物語や歌については、スコットランド中を探しても、彼女以上に詳しい人物は見つからないだろう」というほどだった。陽気な歌声を聞かせる母親の遺伝子は、バーンズの楽観的な性格の中に見ることができる。バーンズは学問に対する真摯な態度を父親から、その明るい性格とリズムに関する感性を母親から譲り受けたと言えるだろう。

 



アロウェイにある、バーンズの生家「バーンズ・コテージ」。
博物館として公開されている。

 

Auld Lang Syne (1788)  『遥かな遠い昔』(蛍の光)

© Toby001
 バーンズの歌詞では、『旧友と幼い頃の思い出を語り合いながら酒を酌み交わす』内容を持つこのスコットランド民謡は、もとは作曲者もわからない古い曲で、歌詞もかろうじて数フレーズ残っているだけだった。現在知られているのは、古い歌詞にバーンズが新たに詩を加えたもの。
また、日本においては随分異なる歌詞が付けられている。『蛍の光』は1881年(明治14 年)、文部省が小学唱歌集を編纂する際に、国学者の稲垣千穎(いながき・ちかい:『ちょうちょ』の歌詞でも知られる)の歌詞を採用した。当時文部省は出典を記さず、すべて『文部省唱歌』としたため、この曲がスコットランド民謡であることを知らない人も多い。そして、『蛍の光』の歌詞は全部で4番まであるが、3番と4番は、その国家主義的内容から、現在では歌われることはない。以下がその歌詞である。3番「筑紫の極み、陸の奥、海山遠く、隔つとも、その真心は、隔て無く、一つに尽くせ、国の為」。4番「千島の奥も、沖繩も、八洲の内の、護りなり、至らん国に、いさおしく、努めよ我が背、つつがなく」というものだ。
この曲は日本と韓国では卒業式に、台湾、香港では葬儀の際に、フィリピンでは新年や卒業式に演奏され、モルディブでは1972年まで国歌の代わりになっていた。大晦日のカウントダウン直後に演奏するのは、英国を中心とした、英語圏の各国である。
原詞 
1
Should auld acquaintance be forgot,
and never brought to mind ?
Should auld acquaintance be forgot,
and auld lang syne ?

【大意】
旧友は忘れ去られるものなのか。
古き昔も心から消えいくものなのか。
CHORUS(以下、繰り返し)
For auld lang syne, my dear,
for auld lang syne,
we'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne.
【大意】
我が友よ、古き昔のために、
親愛をこめてこの杯を飲み干そうではないか。
2
And surely ye'll be your pint-stoup !
And surely I'll be mine !
And we'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne.
【大意】
我々は互いに杯を手にし、いまここに、
古き昔のため、親愛をこめてこの一杯を飲み干さんとしている。

CHORUS
3
We twa hae run about the braes,
and pou'd the gowans fine ;
But we've wander'd mony a weary fit,
sin' auld lang syne.
【大意】
我々二人は丘を駈け、可憐な雛菊を手折ったものだ。
しかし古き昔より時は移ろい、二人は距離を隔ててさすらって来た。

CHORUS
4
We twa hae paidl'd in the burn,
frae morning sun till dine ;
But seas between us braid hae roar'd
sin' auld lang syne.
【大意】
我々二人は日なが川辺に遊んだものだ。
しかし古き昔より二人を隔てた荒海は広かった。
CHORUS
5
And there's a hand my trusty fiere !
And gies a hand o' thine !
And we'll tak a right gude-willie waught,
for auld lang syne.
【大意】
今ここに、我が親友の手がある。
今ここに、我々は手をとる。
今我々は、友情の杯を飲み干すのだ。
古き昔のために。
CHORUS

 


 

詩作の原動力は恋心と憤り

 

 1773年、14歳になったロバート・バーンズは、農場の刈り取り作業で知り合ったネリー・キルパトリックという少女に恋心を抱く。その恋心からバーンズは初めての詩『おお、かつて僕は愛した』を作り上げる。この詩はネリーの好きだった旋律『私は未婚の男』にあわせて作られた歌詞で、バーンズはこのように民謡や流行歌に詩を付けることを好み、生涯を通し、多くの歌詞を残している。これはスコットランド民謡の保存にもまた、一役買ったといえる。
バーンズは後にこの詩についてこう語っている。「詩人になろうとか、なりたいなどとはまったく思わなかった。しかし恋心を知ってしまうと、詩や歌が私の心から自然と湧き出た」。バーンズにとって恋愛は詩を書く際の一番の刺激、そして創造の泉となった。本人がこれを自覚していたのかどうかは定かではないが、この後バーンズは、死ぬまで恋多き男性として生きることになる。
さらに、社会的格差に対する憤りも彼が詩を書く際の大きな原動力となった。これは、幼い頃に一緒に遊んでいた地主の子供たちが成長するにつれ彼を見下すようになったことや、自分の父親が過酷な労働と貧困に苦しみ衰えていく姿、容赦のない土地管理人の仕打ちなど身近な出来事に加え、当時のイングランドとスコットランドの関係もまた、スコットランド人にしてみれば不平等で不愉快なものであったからであるに違いない。多くのスコットランド人同様、バーンズも、成長するに連れてスコットランドへの強い愛国心を育んでいく。このことはバーンズにスコッツ語で詩を書き続けさせる動機ともなっていたのだ。
1766年から11年間一家が暮らしたマウント・オリファント(Mount Oliphant)の地は、極めて辛い状況を彼らにもたらしていた。彼らが借りた土地は土壌が痩せていて農業にはまったく向いていなかったのである。長男のバーンズは15歳にして大人と同様の農作業を、この不毛な地ですぐ下の弟ギルバートとともにこなしていた。
ただ、一時期、実務的な土地の測量術を学ぶため、家から16キロ程離れたカーコズワルド(Kirkoswald)の測量学校に通ったこともあったが、学校の隣にペギー・トムソンという美少女が住んでいたせいで、バーンズの言葉によれば「私の三角法はすっかりメチャクチャになった」。
しかも、現在は海に近いリゾート地として知られるこの地は、18世紀当時「密輸商人の浜」という悪評を取っており、船乗りや荒稼ぎした男たちが酒場で大暴れをするような町でもあった。バーンズは勉強を疎かにしただけでなくここで夜遊びを覚え、それが厳格な父親にバレた訳なのか、早々に家に呼び戻されている。だが、後に彼の代表作の一つともなる詩『タム・オ・シャンター』のモデルともなる人物や光景にも巡り会うなど、農家育ちの若いバーンズにとっては刺激的で貴重な体験だったようだ。

 

To A Haggis (1786) 『ハギスのために』

付き合わせにはニンジン、ターニップなどが添えられることが多いハギス。ニガテな人も少なくない…。© zoonabar
 初の詩集キルマーノック版を出版し、大成功を収めたバーンズは、エディンバラの社交界から招待される。この詩はその直後に書かれたもので、友人宅で出された郷土料理ハギスに感動したバーンズがその場で披露した詩。「つまらないものを食べてるヤツは、しなびた草のように弱々しいが、ハギスで育った田舎者は、歩くたびに地面が震える。敵の腕も頭も足も、スパリスパリと切りまくる」というような、ハギスを通してスコットランドや農夫を賛美する勇ましい詩だ。
スコットランドの伝統食とされるハギスは、茹でた羊の内臓(肝臓、心臓、腎臓、肺など)のミンチを、麦やタマネギ、ハーブと共に羊の胃袋に詰めて茹でるか蒸すかした料理で、スコッチ・ウィスキーを振りかけて食すのが正統派の食べ方。現在では羊の胃袋の代わりにビニールパック入りや缶詰などがあり、一般家庭で食べる場合はこちらが主流だ。パイなど固形物に包まれている訳ではないので、皿に分けた時の見た目が甚だ悪いことでも有名。
ハギスが大好物だったというバーンズにちなみ、彼の誕生日、1月25日になると、スコットランドでは毎年『バーンズ・ナイト』と呼ばれるハギス・パーティーが行われる。バグパイプの演奏とともに、3本の羽根の刺さったハギス(ハギスは、毛の長いカモノハシのような、3本足の動物であるという伝説が残っていることからくる)の皿が入場し、バーンズの『ハギスのために』や『タム・オ・シャンター』(左ページのコラム参照)が朗読される。そして儀式の後はウィスキーとハギスでパーティーが進んでいく。次回の1月25日には、ハギスを試してみてはいかが。

 

詩人としての自覚の芽生え

 

 1777年、農地の契約が切れたため、一家はエアシャーの北西にあるロッホリー(Lochlea)に引っ越す。ところが、バーンズの父親はまたも選択を誤ったらしい。以前より労働は苛酷さを増したにもかかわらず、今度の土地は酸性土壌だっため、収穫量が上がらないというひどい有様だった。
だがバーンズは、きつい農作業の後でダンス教室に通い(これは大いに父親の不評を買った)スマートな立ち振る舞いを学びつつ、女性たちとのやり取りを楽しんだ。また、男性のための独身者クラブを結成して討論会を開催したりと、決して働くだけの日々ではなかったのである。
母親譲りの陽気で人なつこいバーンズは、誰とでもすぐ仲良くなれるという才能に恵まれていた。彼はここで、当時の欧州で広まっていた友愛結社「フリーメイソン協会」にも入会している。会員であれば相互に助け合うというフリーメイソンは、困難を抱えた人間にとって非常にありがたい協会で、ウィーン支部に加入していたモーツァルト(1756年生まれで、バーンズの3歳上である)はフリーメイソン仲間に借金の無心をするなどしている。バーンズはここで、自分と同じ階級の人間だけではなく、上流階級に属する人々と知り合う機会を得たが、後にバーンズ初の詩集出版に尽力したのも、こうしたフリーメイソン仲間だったのである。
22歳になる頃、バーンズはアリソン・ベグビーという近所の屋敷で働く女性に夢中になり、『セスノックの岸辺に住む娘』、『かわいいペギー・アリソン』などの詩を書き、求婚するが断られてしまう。がっかりしたバーンズはこの後古い港町アーヴィン(Irvine)へ、一人で亜麻精製の技術を学びに出掛ける。1781年のことだ。先の見えない農場での労働にうんざりし打開策を考えていたとも、単なる失恋のショックだとも言われているが、比較的都会であるこの町で、バーンズはかなり羽目を外して遊び回ったらしい。
この町は彼に重要な転機をもたらした。リチャード・ブラウンという、女好きだが性格の良い、教養を備えた船乗りと友人になり、彼はバーンズの詩の良さを認め、詩人としての自覚を持つよう説いたのだ。また、ロバート・ファーガソン(Robert Fergusson)という詩人による、スコッツ語で書かれた詩集も手に入れた。その詩は平易な日常のスコットランドの言葉でつづられており、バーンズは目の覚めるような思いをした。こうして友人ブラウンの言葉とファーガソンの詩集は、若いバーンズの進む道を照らしたのだ。彼は自分の詩作を、単なるなぐさみで終らせるべきではないことに気づくのである。

 


 

ジャマイカ移住計画

 

 翌年バーンズがアーヴィンから戻ってみると、一家は地主を相手に面倒な裁判沙汰に巻き込まれていた。契約とは異なる農地の値上げが原因だった。数年にわたる裁判費用の捻出に苦しんだバーンズの父親は、経済不安と心労、そして長年の重労働が原因で、ついに1784年の2月に63歳で逝去してしまう。
長男であるバーンズは、家長として一家を養っていかなければならないことになる。だが、尊敬する厳格な父親の死は、彼を少なからず解放的にしたようで、彼の本格的な詩作はこれを機会に一気に開花する。そして女性関係もまたそれと比例するように、にぎやかになっていくのだった。
まず、病床に付いていた父親の世話にあたっていたエリザベス・ペイトンという少女を口説き、彼女はバーンズの子を生むことになる。母親はバーンズがエリザベスと結婚することを望んだが、反対があったうえ、バーンズ自身も結婚の意志はなかったようで、生まれた娘は結局バーンズの母親が育てることになる。これは醜聞となって広がり、教会でも問題となったが、バーンズはこのことから『あの娘は素敵な女の子』『詩人、愛娘の誕生を祝う、「お父さん」という敬称を詩人に与えた最初の機会に』『うるさい犬』の3本の詩を作り上げた。
一家は父親の死後、フリーメイソン仲間の地主の紹介でロッホリーの北西にあるモスギール(Mossgiel)に移り住み、そこで25歳のバーンズは将来の妻となるジーン・アーマー(Jean Armour)と出会う。彼女は石工の娘で、愛らしい快活な17歳の少女だった。1786年の春にジーンは妊娠し、これを知ったバーンズは困惑するものの、結婚の証文をジーンに与える。だがジーンの両親に大反対されてしまう。

  

▲モーホリンに建つ、若きジーン・アーマーの像。Rosser1954 ▲55歳当時のジーン・アーマーの肖像画。愛らしさは既にない…。

 

 一方で、バーンズにはもう一人の女性がいた。メアリー・キャンベル(Mary Campbell)である。彼女は大きな農場でメイドとして働いていたが、彼から『カリブに来るかい、ぼくのメアリー』という詩を送られている。バーンズはジーンの父親から告訴され、生まれてくる子供の養育費を迫られていたが、モスギールの農場経営は思わしくなかった。
行き詰まった彼は、全てを捨ててジャマイカに移住する計画を立てたのである。バーンズはメアリーと聖書を交換しているが、これは婚約を意味しており、メアリーと秘かにジャマイカへ渡ろうというつもりだった。しかし、メアリーも妊娠していることが分かり、彼女は実家へ将来を相談しにいく。そしてこれがバーンズとの永遠の別れになった。チフスが原因で、1786年10月に彼女は嬰児ともに他界してしまったのである。この事から、バーンズの中でメアリーは神聖化され、後に『ハイランドのメアリー』という名作が生まれた。
実家から戻るはずのメアリーを待つあいだ、バーンズはジャマイカ行きの旅費を工面するために自作の詩をまとめて出版する作業に入っていた。フリーメイソン仲間の協力も得て、やがてバーンズは1786年7月31日に、『詩集―主としてスコットランド方言による』をキルマーノック社から刊行する。1冊6シリングで初版は620部、印税は50ポンドだった。
バーンズは序文にこう記している。「これは、上流階級の優雅と怠惰の中で田舎の生活を見下して歌う詩人の作品ではない。…自分と自分の周囲の農夫仲間の中で感じたり見たりした心情や風習を自分の生まれた国の言葉で歌っているのだ」と。この詩集はすぐに大歓迎を受けた。エディンバラの貴族から、エアシャーの農夫の少年までが手にして夢中になる、大ベストセラーとなったのである。初版は1ヵ月で売り切れた。文学界も、「スコットランドが生んだ天才の顕著な見本」であると手放しで大絶賛した。こうしてバーンズはジャマイカではなく、スコットランドの首都エディンバラへ向かうことになる。

 



タムとメグが魔女を振り切ったとされる、オールド・ブリガドゥーン
(the auld Brig o'Doon=ドゥーンの古い橋)。
© James Denham

 


 

エディンバラの田舎詩人

 

 バーンズが必要とあらば『格調高い英語』を正確に話すことができたのは、教育熱心だった両親と家庭教師のおかげだが、それに加え、当意即妙の話術を操る、母親似のハンサムな好青年に成長していた彼は、瞬く間にエディンバラ社交界の寵児となった。バーンズは紹介状を持って多くの名士のもとを訪れたが、招かれたどの家やサロンでも歓迎され、人々はバーンズの飾り気のない男らしさや、自分をわきまえ、虚栄心のないところなどに好意を持ったという。当時は『自然に帰れ』と提唱するフランスの哲学者ジャン・ジャック・ルソーの思想がもてはやされており、人々はバーンズにルソーのいう『高貴な未開人』を見ていたのだともいわれる。
バーンズは2年に及ぶ滞在のあいだ、詩集の『エディンバラ版』を準備するほか、失われつつあるスコットランドの民謡や歌謡の保存に努めるジェームズ・ジョンソンと出会い、その歌謡集編纂への協力も約束している。
また、恋多きバーンズのエディンバラでの相手は、アグネス・ナンシー・マクルホーズ夫人(Agnes Nancy Maclehose)。彼女は評判の美貌と知性を併せ持つ女性で、バーンズの作品に興味を持ち、しかも夫とは別居中という身の上だった。ただし、バーンズは身分の違いや社交界の醜聞を恐れた夫人とプラトニックな関係を貫かざるを得ず、2人の間には大量の熱烈な手紙が残るばかリである。バーンズは『やさしいキス』という詩を彼女に送っている。欲求不満が募ったためか、バーンズは、マクルホーズ夫人宅の召使いの少女と関係を持ち子供を産ませたり、酒場の女性とつき合ったりと、ここでも同様のカサノヴァぶりを披露した。
エディンバラ版の詩集が出版されると、バーンズの評判はついに国境を越えた。ロンドンやダブリンで評判をとるばかりではない、海を渡り米国のフィラデルフィアやニューヨークでも好評をもって迎えられた。これで一気に長年の貧困から解放されたバーンズだが、浮かれた有名人にはならず、不思議な程冷静な判断をくだしている。エディンバラに2年滞在する間に、社交界の人々がすでに彼の存在に次第に飽き始めているのを感じ取り、やがて彼に向かって丁重にドアを閉めるであろうと考えたのである。もともとバーンズが欲しているのは詩作であり、自由を得ることであり、決して上流階級の仲間入りすることではなかった。
バーンズはエディンバラに来る前、農業をあきらめて収税官になることを考え(ジャマイカへ移住するとも言っていたはずだが)、エディンバラでは資格を獲得するための勉強もしている。人々がバーンズの詩を称賛しているまさにその頃である。このような現実的な感覚と、恋愛に熱中し詩作に励む感覚が、バーンズの中には違和感なく共存していたのだ。
1788年2月、バーンズは故郷の家族のもとへ向かう。稼いだ印税は、留守中に家族を守った弟のギルバートに半分以上渡した。そして、残った資産でエリスランド(Ellisland)に家を購入すると、ジーン・アーマーを迎えて初めて自分の所帯を持ったのである。
ジーンの親はかつてバーンズを告訴した過去があるにもかかわらず、彼が有名になると手のひらを返したような卑屈な態度で接した。だが、バーンズを想うジーンの気持ちに変わりがないうえ、収税官になるには妻帯が条件だったこともあり、結婚に関してバーンズに不満はなかった。

 



1840年当時のエリスランド農場の様子(作者不詳)。



▲現在のエリスランド農場。© Rosser1954 Roger Griffith

 


 

受け継がれる想い

 

 やがて一家は、1791年にエリスランドの北西にあるダンフリース(Dumfries)の町へ移る。ここは『スコットランドの南の女王』と言われる美しい町だが、町議会からバーンズを名誉市民にすると案内が来たのだ。彼の子供の学校教育費を無料にするという特典付きである。バーンズはこの地で『タム・オ・シャンター』『なんといっても人は人』をはじめとする多くの詩作をしながら、劇場建設に関わったり義勇軍に参加したりと、名誉市民としての務めも果たす。
そして、有能な沿岸収税官としての仕事もこなしていた。10代の頃バーンズが酒場で見かけたような、密輸業者の男たちを摘発する仕事である。彼はある時このような業者から4丁の拳銃を摘発し、これをフランスの革命軍に送ろうとしたことがある。自由を求めて戦う革命の思想に大いに共感したからだが、これで危うくバーンズは職を失うところであった。
また、こりないバーンズは、グローブ・タヴァーンというパブの女将の姪、アンナ・パークと関係を持ち子供をもうけている。バーンズは妻を含め5人の女性に子供を産ませているが、彼女が最後の相手であり、妻のジーンはその子を引き取っている。しかもジーンもこの時妊娠中であり、この1ヵ月後には出産しているのだ。バーンズはジーンに頭が上がらなかったと想像できる。
詩作と女性と家族生活、そして政治への興味。ようやく叶った人間らしい生活はまだまだ続くはずであった。しかし、バーンズを容赦なく人生の残酷な『いじめ』が襲う。1795年からバーンズを悩ませてきたリューマチ熱が、悪化し始めたのである。
10ヵ月ほど寝たり起きたりの生活をしたあと、医者の勧めで海辺に滞在する。この病は今の医学で言うと「リューマチ熱を伴った心内膜炎」ということになり、抗生物質で治療が可能だ。しかし、当時は違った。
帰宅後、バーンズはジーンの父親に向けて手紙を書いている。「アーマー夫人(ジーンの母)をどうかすぐにダンフリースへ寄越して下さい。妻の出産が目前に迫っているのです。私は今日海水浴から戻ってきました」。ところが、このわずか3日後である翌年7月21日に、バーンズは突然息を引き取る。37歳だった。25日には町の名誉市民であるバーンズのために、ダンフリースの国防義勇軍による盛大な葬儀が執り行われた。そしてちょうどこの日、バーンズの家ではジーンが第7子を出産したのである。それは、バーンズの詩が代々受け継がれていくことを示唆するような出来事であった。バーンズ本人はこの世にいなくとも、その心は、そしてその詩は永遠の命を得て、これからも愛されていくのである。

 



ダンフリースでバーンズが晩年を過ごした家。© Rosser1954

 

Tam o' Shanter: A Tale (1790) 『タム・オ・シャンター』

アロウェイ教会の廃墟。ここで、タムは魔女たちの宴を覗き見してしまう。


魔女たちの宴。右上の窓から、タムが顔をのぞかせているのが見える。
 バーンズ作品の中でも特に名高い物語形式の詩で、朗読すると10分を超える長さになる。『スコットランドの古物』の著作もあるフランシス・グルース大尉に、廃墟となっているアロウェイ教会にまつわる魔女物語を依頼され、作られた。1791年に『エディンバラ・マガジン』に掲載され、1793年にはバーンズの詩集エディンバラ版にも収められている。
シャンター村のタムが嵐の晩に町で楽しく酒を飲んだ後、愛馬メグにまたがり帰宅する際、廃墟のはずのアロウェイ教会に灯りが点っていた。そこでは悪魔や魔女が音楽に合わせて踊りまくっている最中で、中でも短い下着の若い魔女ナニーの踊りに興奮したタムは、ついうっかり「うまいぞ!」と声を上げてしまう。タムに気づいた悪魔たちは一転、恐ろしい形相でタムに向かってくる。
魔女は水の流れを越すことができないとされている。愛馬のメグを必死に走らせ、命からがらドゥーン川を渡ったタムだが、愛馬メグのシッポは魔女につかまれ、そのオシリからスッポリ抜けてしまっていた…。
以上のような物語が、スコッツ語とイングランド語を駆使し、スピード感溢れる描写で描かれ、絶妙なリズムと場面転換の妙は、詩人のウォルター・スコットに「シェークスピアを除いて、いかなる詩人も、このようにすばやく場面転換させながら、この上なく多様で変化に富んだ感情をかき立てる力を持たない」と絶賛されている。
なお、スコットランドの土産物店でよく売られている、タータンチェックのベレー帽はこの物語の主人公の名にちなみ、 タム・オ・シャンター帽と呼ばれている。そして、タムに我を忘れさせた魔女ナニーの「短い下着」はスコッツ語で「カティー・サーク」。現在グリニッジに展示されている帆船カティー・サークは、その船首に魔女が飾られ、彼女の手には今なおタムの愛馬メグのシッポがしっかり握られているのである。

 


 

ロバート・バーンズ ゆかりの地

1 アロウェイ Alloway

1759年に、バーンズが生まれたコテージがあり、現在は「ロバート・バーンズ生家博物館Robert Burns Birthplace Museum」となっている(同じ敷地内に、ギフトショップ+カフェを併設した、「タム・オ・シャンター・エクスピリアンスThe Tam O'Shanter Experience」もある)。さらに、地元の観光案内所である「ランド・オブ・バーンズ・センターLand o’ Burns Centre」があるほか、父親のウィリアムが眠るアロウェイ教会Alloway Kirk、1820年に建てられた、バーンズ・モニュメントBurns Monumentや、タムが魔女たちの姿を目撃した所とされるオールド・アロウェイ・カークAuld Alloway Kirk、タムが愛馬メグと命からがら渡った、ブリガドゥーン橋Brig o'Doonもある。
Robert Burns Birthplace Museum
www.burnsmuseum.org.uk
Land o’ Burns Centre
www.thesite.co.uk/placesdetail.asp?cboPlaces=8785

 



バーンズが亡くなったとされる部屋の様子を描いた版画

2 エアAyr

3 ターボルトン Tarbolton

4 アーヴィン Irvine

5 キルマーノック Kilmarnock

地域の発展に貢献するべく設立された「バーンズ・モニュメント・センターBurns Monument Centre」がある。
Burns Monument Centre
www.burnsmonumentcentre.co.uk

6 モーホリン Mauchline

かつてバーンズが住んだ家が「バーンズ・ハウス博物館The Burns House Museum」として公開されている。
The Burns House Museum
www.visitscotland.com/info/see-do/the-burns-house-museum-p256201

7 エリスランド Ellisland

バーンズが1788年から3年間、経営した「エリスランド・ファームEllisland Farm」は見学できるようになっている。
Ellisland Farm
www.ellislandfarm.co.uk

8 ダンフリース Dumfries

1796年にバーンズが息を引き取った「バーンズ・ハウスBurns House」が博物館として公開されているほか、ビジター・センターである、「ロバート・バーンズ・センターRobert Burns Centre」もある。
Burns House
Robert Burns Centre
www.dumfriesmuseum.demon.co.uk/brnscent.html



ダンフリースのセント・マイケルズ教会の墓地にある、バーンズの墓。© MSDMSD

 

参考資料
ロバート・バーンズ スコットランドの国民詩人 木村正俊/照山顕人 編 晶文社
Robert Burn's Scotland Rev.J.A. Carruth M.A
www.robertburns.org他

 


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