◆◆◆ 化石ハンター誕生 ◆◆◆
ジョセフとメアリーが見つけた、イクチオサウルスの頭部の化石=エヴェラード・ホーム(Everard Home)によるスケッチ(1814年)。 冬の嵐が過ぎ去ったばかりの海岸。
もろく崩れやすい崖の断面から覗く巨大な眼窩、くちばしの様な細長い口にびっしり並んだ歯。かつて誰も見た事もない不思議な生き物の頭部が、少女と兄の目の前にあった。
4フィート(約1・219メートル)もある頭骨を慎重に岩場から掘り出した2人は、化石を土産物として販売する小さな店を営んでいた自宅へと、この不思議な『物体』を持ち帰る。ニュースを聞き及んだ村人たちが続々と店を訪れ、この奇怪な発見について喧々ごうごうの議論を始める。
実物はだれも見たことがないけれど、これが、人々がクロコダイルと呼ぶ生き物なのだろうか。少女は父がかつて語った様々な話を思い起こしながら、この生き物の正体について思いを巡らしたに違いない。そしてどこか近くに埋もれているはずのこの生物の残り部分を探し当ててみたいと熱望したはずだ。少女の小さな瞳の奥には、情熱という名の炎がすでに激しく燃え盛っていたのである。
ロンドンの観光名所のひとつ、サウス・ケンジントンにある自然史博物館の中でもひときわ高い人気を誇る化石ギャラリー内に展示された、ジュラ紀の首長竜「プレシオサウルス」。この化石の脇に、岩場にたたずむ婦人の小さな肖像画が添えてあるのをご存知だろうか。
彼女の手にはその服装には似つかわしくない1本のハンマーが握られている。
この絵のモデルこそ、2010年に王立学会が発表した「科学の歴史に最も影響を与えた英国人女性10人」の1人に選ばれたプロの化石ハンター、メアリー・アニング(Mary Anning 1799~1847)だ。
冒頭で触れたのは、彼女と兄が発見した化石で、2億年前もの昔に存在した、イルカのような姿をしていたというジュラ紀の魚竜「イクチオサウルス」の頭部である。
この後、残りの胴体部分の化石を見つけ出した彼女は、世界で初めてイクチオサウルスの完全な骨格標本を発見した人物となる。当時わずか12歳。食べていくために、地元で化石を掘り出し土産物として売っていた貧しい「化石屋」の娘が、どのような経緯で世界的な発見に至り、19世紀初頭に英国でも盛んになりつつあった古生物学の世界への道を拓いたのか。彼女の幼少期から順を追って探っていきたい。
◆◆◆ 雷に打たれた赤子 ◆◆◆
中生代のジュラ紀に形成された地層が海へと突き出した、東デヴォンからドーセットまで続くドラマチックな海岸線は、ユネスコの世界自然遺産にも登録され、化石の宝庫であることから現在はジュラシック・コースト(Jurassic Coast)とも呼ばれる。
英仏海峡に面したライム・リージス(Lyme Regis)は、ジュラシック・コースト沿いにある、何の変哲もない小さな町だ。ここで、メアリーは1799年、家具職人リチャード・アニングの娘として誕生した。リチャードは妻のメアリー・ムーア(通称モリー)との間に10人の子供をもうけたが、流行病や火傷などの事故によってほとんどの子供たちが幼少時に他界し、成人まで生き残ったのはメアリーと兄のジョセフだけだった。
子供の生存率が低かったこの時代、アニング家の事情はさほど珍しくはなかったとはいうものの、夫妻は跡継ぎの長男のジョセフ、そして3歳年下のメアリーを、貧しいなりにも大切に育てていた。
1812年にジョセフとメアリーが発見した、イクチオサウルスの化石のスケッチ(1814年発表)。 しかしある時、隣人女性が、生後15ヵ月だったメアリーを抱き木陰でほかの女性2人と馬術ショーを観戦していた際、思いがけない事故が起こる。雷がその木を直撃、メアリーを抱いていた女性を含む3人が死亡したのだ
赤子のメアリーも意識不明となるが、目撃者が大急ぎでメアリーを連れ帰り熱い風呂に入れたところ奇跡的に息を吹き返す。そして不思議なことに、それまで病気がちだったメアリーはその日以降、元気で活発な子供になったとされ、町の人々はメアリーが成長したのちも「雷事件」が彼女の好奇心や知性、エキセントリックと評される性格に影響を及ぼしたに違いないと噂しあっていたという。
◆◆◆ サイドビジネスの化石探し ◆◆◆
父リチャードは、仕事の合間を縫って海岸に出ては化石を探して土産物として売り、家計の足しにしていた。当時のライム・リージスは富裕層が夏を過ごす海辺のリゾート地として栄えており、1792年にフランス革命戦争、ついでナポレオン戦争が起こってからは特に、国外で休暇を過ごすことをあきらめた人々が保養先にと押し寄せるようになっていた。
大博物時代を迎えていた英国では専門家でなくとも化石を所有することはファッションのひとつでもあり、地質学・古生物学の基礎が築かれつつあったこの時代、学者たちは研究の重要な手がかりとなる化石の発見に常に注目していた。しかし一般には、これらの化石は、聖書に描かれたノアの大洪水で死んだ生き物の名残だと考えられており、とぐろを巻いたアンモナイトの化石には「ヘビ石」、イカに似た生物ベレムナイトの化石には「悪魔の指」といった呼称がつけられていた。 また、「化石(fossil)」という名称はまだ確立されておらず、人々は不思議なもの、興味をそそるものという意味でこれらを「キュリオシティ(curiosity)」と呼んでいた。
化石って一体何?どうやってできる?
■化石とは今から1万年以前の生物、あるいは足跡や巣穴、フンなど生物の生活していた様子が地層に埋没して自然状態で保存されたもの。そのまま形が残っているものだけでなく、化石燃料と呼ばれるようにプランクトンや草木が変質して原油になったものや、植物が石炭や鉱物に変化したものなども含まれる。
デ・ラ・ビーチ卿が、1830年にメアリーの発見した化石をもとにえがいた、「Duria Antiquior (a more ancient Dorset)」(直訳すると「太古のドーセット」)。■どうやって生物が化石に変化するのか。メアリーが発見したアンモナイトやイクチオサウルスなど、海の生物を例にして挙げてみよう。
①死骸が海の底に沈む 。
②土砂に埋もれ体の柔らかい部分は微生物に分解され骨や歯だけが残る。
③長い年月をかけて積もった土砂の圧力などにより、骨の成分が石の成分に置き換えられることで「石化」し、「体化石」となる。
■ただし、こうして出来上がった化石がそのまま発見されることはない。地殻変動によって海や川の底が隆起して陸地となった後、地震などの働きで断層ができ、化石を含む地層がようやく表面に現れ、やがて化石が発見されるのだ。また地殻変動の過程で化石はばらばらになってしまう可能性が高く、恐竜など大きな生物の化石が丸ごと見つかることは非常にまれ。
■また、生物そのものでなく足跡や巣穴、フンといった生物の活動の痕跡が岩石などに残された「生痕化石」は、生物自体の化石より地味な印象があるものの、その生き物の生活場所が水辺なのか陸なのか、食生活はどうだったかなど、「体化石」だけでは不明な要素を明らかにする重要な判断材料となっている。
地質時代の中で、中新世(ちゅうしんせい=約2,300万年前から約500万年前までの期間)と呼ばれる時代の昆虫のものと考えられる化石。ドミニク共和国で採掘された琥珀に含まれているのが見つかった。© Michael S. Engel■ちなみに地球が経てきた46億年の歴史の中で化石になった生物はほんの数パーセント、発見されるのもその中からまたほんのわずか。本当はもっと多様な生物がいたはずでも我々が知り得ることができるのは氷山の一角なのだ。
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◆◆◆ 父から受けた実地教育 ◆◆◆
1826年まで、メアリー一家が住んでいた住宅のスケッチ(1842年に描かれたもの)。ライム・リージス博物館建設にあたり、1889年に取り壊された。右上にあるプラークは、同博物館の外壁にかけられている。 アニング家は子供たちを毎日学校に通わせる余裕がなく、父リチャードは本業の傍らに子供たちを海辺に連れて行き化石探しを手伝わせ、商品として売るためのノウハウを教え込んだ。
化石売りはよい副収入になるものの、天候や潮の満ち引きに左右され、地滑りや転落事故と隣り合わせの危険な仕事。発掘に適しているのは嵐の多い冬期で、土砂崩れや大波により、新たな地層が露わになった岸壁を狙い、ハンマーとたがねを携え浜辺を歩く。
しかしせっかく大物を見つけても、掘り出しているうちに満潮となり、足場をなくして見失ったり、潮に流されてしまったりすることも多かった。加えて、沿岸部では密輸船なども行き交っており、トラブルに巻き込まれる可能性も十分あった。そうした危険の中でいかに化石を持ち帰るか―。子供たちが父親から学ぶことは山ほどあったのだ。
また、アニング家は英国国教会の信者ではなく、組合教会に属していた。当時、組合教会に属する人々は法的または職業的な差別を受けたり、周囲から偏見の目で見られることもあったというが、組合教会が貧しい人々への教育を重視していたことは幼いメアリーに幸いした。
もともとの聡明さもあって、メアリーは教会の日曜学校で読み書きを覚え、のちには独学で地質学や解剖学にも親しんでいく。もしメアリーが貧しい文盲の女性として成長していたら、学者たちと学術的な意見を交わしたり、国内外の博物館と渡り合ったりする姿は見られなかったであろうし、化石を採集するだけの一介の労働者として人知れず生涯を終えていたかもしれない。メアリーの運命は、すでに「化石ハンター」へと舵を切っていたのだ。
◆◆◆ 生涯の友人たちとの出会い ◆◆◆
ヘンリー・トマス・デ・ラ・ビーチ卿(Sir Henry Thomas De la Beche、1796~1855)。地質学者として活躍した。 メアリーの化石、そして古生物学に対する情熱は父から、そしてライム・リージスにやってきた様々な人々との出会いによって形作られていった。中でも、メアリーがほんの幼女だった時分にこの地に引っ越してきたロンドンの裕福な法律家の娘たち、フィルポット3姉妹の存在は大きい。
兄がライム・リージスに屋敷を購入したのに伴いやって来た、メアリー、マーガレット、エリザベスのフィルポット3姉妹は、いずれも熱心な化石コレクターで、彼女らにとってこの地は宝箱のような場所であった。
幼かったメアリーは、自分より20歳も年上で身分も高い彼女らと化石を介して出会い、中でもエリザベスと親交を深め毎日のように化石探しに出掛けるようになる。また2人の友情はメアリーが成長するにつれ、高名な地質学者ウィリアム・バックランドをはじめとしたそうそうたる学者たち、そして彼らの妻たちとの交流につながっていった。その中にはバックランド夫人のメアリー・モーランド、またロデリック・マーチソンの妻シャーロットのように学者の妻であるだけでなく、自身もその分野に精通した女性たちが少なくなかった。
女性で、かつ身分の低いメアリーと、男性ばかりの「お偉方」学者サークルの間で、階層的に上の女性たちがクッション的役割を果たす。男社会の学会でスポットが当たりにくかったとはいえ、フィルポット3姉妹の属する女性グループが、後年、メアリーのキャリアの大きな助けとなったことは想像に難くない。
そしてもう1人、10代のメアリーの人生に大きな影響を与えることになった人物がいる。のちにロンドン地質学会の会長をつとめることになる、若き日のヘンリー・デ・ラ・ビーチ卿だ。裕福な軍人の家系に生まれたものの、地質学へと傾倒した彼は多感な思春期にメアリーと出会い、共に化石探しに夢中になり、生涯にわたって友人関係を保ち続ける。
メアリーの経済状態が悪化した際には、自らが描いた古代生物のスケッチを売るなどして彼女への援助を惜しまなかったのも彼であった。だが学問への情熱を介して生まれた友情とはいえ、まだまだ保守的だった時代に若い男女が連れ立っていれば様々な憶測を呼ぶのは致し方のないところで、2人の関係はたびたび人々の話題に上ることとなる。ほとんどは根も葉もない噂であったかもしれないが、生涯独身で通したメアリーと3歳年上のデ・ラ・ビーチ卿との間に淡い恋心があったとしても不思議ではない。真相は当事者のみぞ知る、というところだが、少なくともメアリーは、探求者にありがちな孤独なだけの人生を歩んだわけではなかったと言って良さそうだ。
メアリーと関わった同時代の学者たち
■ジョルジュ・キュビエ(1769~1832)
Baron Georges Leopold Chretien Frederic Dagobert Cuvier
フランスの博物学者、解剖学者。地層の形成や時代によって異なる化石生物の存在は、天変地異によってその時代の全生物がほぼ死滅し、その後新たに創造されるという過程が繰り返されたためとする「天変地異説」を唱え、進化論と対立する立場をとった。
■ウィリアム・バックランド(1784~1856)
William Buckland
イングランドの聖職者、地質学者、古生物学者。ヨークシャーのカークデール洞窟で発見された化石群の研究などで有名。メガロザウルス(斑竜・はんりゅう)の命名者。オックスフォード大の名物教授として知られた。1829年、学会でメアリーの功績を褒めたたえた。
■チャールズ・ライエル(1797~1875)
Charles Lyell
スコットランド出身の地質学者、法律家。バックランドのもとで学ぶ。天変地異説と対立する、自然の法則は過去・現在を通じて不変とする「斉一説」を示した『地質学原理』を出版、チャールズ・ダーウィンの自然淘汰説に大きな影響を与えた。
■アダム・セジウィック(1785~1873)
Adam Sedgwick
イングランドの地質学者で近代地質学の創始者の1人。地質年代の「デボン紀」「カンブリア紀」の名称を提案。『種の起原』を記したチャールズ・ダーウィンの恩師でもあり、ダーウィンとは文通を通し生涯にわたって友好的な関係を保つ。
■ルイ・アガシー(1807~1873)
Jean Louis Rodolphe Agassiz
スイス出身、米ハーバード大学で活動した海洋学者、地質学者、古生物学者。氷河期の発見者として知られる。メアリーの生存中に彼女の名前にちなんで、魚の化石に「Acrodus anningiae」と命名した人物。
■ロデリック・マーチソン(1792~1871)
Roderick Impey Murchison
スコットランドの地質学者。軍人から地質学者へと転向、チャールズ・ライエルらとアルプス山脈の地質調査を行う。
◆◆◆ 半クラウン硬貨の希望 ◆◆◆
ライム・リージス近郊の岸壁。このような地滑りが起こると、化石が地表に姿を現すことがある。©Ballista 幼いうちから他人の屋敷に使用人として奉公に出され辛い思いをする子供たちもいた中、仕事とはいえ父親と共に海辺に出掛けることのできたアニング家の子供たちは、宝探しでもするように化石探しを楽しんだ。つましい生活ながらも、幸せだったといえるかもしれない。しかしそんな日々は長くは続かなかった。
1810年の冬、結核を病んでいたにもかかわらず、体にむち打つようにいつもの海辺に出掛けた父リチャードは崖から転落、44歳の若さで命を落としてしまう。
働き手を失った家族に残されたのは多額の借金ばかり。メアリーはこのとき11歳、兄ジョセフもまだ手に職はなく一家の大黒柱になるには若過ぎた。そして教会の救済金に頼るまでに困窮した一家は、サイドビジネスだった化石屋に活路を見出そうとする。母モリーと子供たちは連日のように海辺へと向かい、化石を探しては自宅で販売するだけでなく、町の馬車発着所で売り歩き、細々と生計を立てることになる。
父を奪った海岸での作業は、幼い子供たちにとって肉体的にも精神的にも決して容易なものではなかったが、子供たちは化石店の切り盛りと家事に忙しい母を置いて、単独で採集にでかけることもしばしばだった。
そんなある日、海岸で掘り出したばかりのアンモナイトを手にしたメアリーを呼び止めた女性が、半クラウン硬貨(5シリング、60ペンスに相当)でそれを買い上げる。当時、半クラウンあれば一家の1週間相当の食料を手に入れることができた。
パリの自然史博物館に展示されている、メアリーが発見したプレシオサウルスの化石(© FunkMonk)。右側は、そのスケッチ。 母親に硬貨を手渡したメアリーのつぶらな目は、一人前の稼ぎを手にした誇りと喜びに輝いていた。この出来事がメアリーに本格的に化石ハンターとして活躍するきっかけを与える。
化石を買った女性は地主の妻で、メアリーに雑用を頼み小遣いを与えるなどして、日頃からアニング家の様子を気遣っていたようだ。また知的好奇心が旺盛であるメアリーに対して、ただの化石拾いに終わるには惜しいと思っていたとも考えられる。メアリーに初めて地質学の本を与えたのもこの婦人であったという。
その後、独りでこつこつと地質学や解剖学を身につけていったメアリーは、自分の化石が最先端の科学に関わっていることを知り、さらなる情熱を傾けていく。メアリーにとって化石はすでに「食べていくため」だけの商品ではなくなっていた。
◆◆◆ 最初の大発見 ◆◆◆
採掘にいそしむメアリーの姿を描いたスケッチ。 メアリーの運命を決定づける出来事が起こったのは、父の死の翌年となる1811年の冬(1810年の暮れという説もある)のことだった。
冒頭でご紹介したようにジョセフとメアリーは崖の中から1メートル余りにも達する、古代生物イクチオサウルスの頭骨化石を掘り出したのだった。この頭骨部分だけでも偉大な発見であったが、メアリーはその後も1年以上粘り強く残りの体部分を探し続け、地滑りで地層が露わになった崖の中ほど30フィート(約9・14メートル)の高さから、ついに残りの体部分(全長約5・2メートル)を発見し、兄と作業員の助けを借りみごと発掘に成功する。 イクチオサウルスの化石自体は、1699年にウェールズですでに発見されていたが、彼女が発見したのは世界初の全身化石であった。
思いがけない大物を掘り当てたメアリーの興奮はいかばかりのものだっただろうか。ニュースを知ったオックスフォード大学の地質学者・古生物学者のウィリアム・バックランドはさっそくアニング家へと調査に訪れる。化石の『体内』にはまるで昨日の出来事のようにこの生物が食べていた魚の残骸までもが残されていた。人々はこの謎の化石を南国に生息する「クロコダイル」のものであると信じていたが、この頭骨化石がクロコダイルと骨格的に大きく異なることに気付いていたメアリーは、その詳細をスケッチに書き記していた。
化石ザクザク!?
イングランド南部「ジュラシック海岸」は
地球のタイムカプセル
■イングランド南部の、ドーセット州からデヴォン州東部まで延びる、95マイル(約153キロ)に及ぶ海岸線は、2億5千万年前から始まる三畳紀から、ジュラ紀、白亜紀へと続く中生代の地層が連続して見られる世界唯一の場所とされる。2001年にユネスコの世界自然遺産に指定されている。
■この一帯では白亜紀(1.4億~6500万年前)に地面が大きく傾いたため、通常はなかなか見られないそれよりさらに昔の三畳紀(2.5億~2億年前)やジュラ紀(2億~1.4億年前)の地層が露わになっており、世界有数の化石の宝庫。数世紀に渡って地球科学の研究に貢献してきた。
■メアリーが暮らしたライム・リージズ付近の海岸線も三畳紀からジュラ紀にかけて形成されたライムストーン(石灰岩)と頁岩(けつがん)と呼ばれる2つの石が層になった「ブルー・ライアス(Blue Lias)」=写真下=と呼ばれる地層が海に向かってむき出しになっている。メアリーはこの浜辺でイクチオサウルスを始めとする貴重な化石を見つけ出したのだ。©Michael Maggs
■現在でもアンモナイトの化石などはビーチで簡単に見つけることができ、持ち帰るのも自由とのこと。壮大な海岸線の眺めに加え美しい町や村が点在、宿泊施設も充実したこのエリア、現在もホリデー先として根強い人気を誇っている。
◆◆◆ 奪われた名誉 ◆◆◆
ウィリアム4世治世下の1833年、14歳だった王女ヴィクトリアはライム・リージスを訪問。馬車を出迎える人ごみの中には、当時34歳のメアリーの姿もあったに違いない。その後18歳の若さで英国君主となったヴィクトリア女王は、七つの海を支配し日の没せざる国と謳われた大英帝国の黄金時代を築いた。 その後、この「クロコダイル」の化石はライム・リージス在住の地主、ヘンリー・ホスト・ヘンリーが23ポンドで買い上げ、その後ロンドンの著名な化石蒐集家であるウィリアム・バロックの手に渡る。
同氏の所有するロンドン、ピカデリーの邸宅で行われた博物展示会には、かのキャプテン・クックが世界各地から持ち帰った化石や、ナポレオンにまつわる品々、メキシコからやって来たエキゾチックな財宝などが展示されるが、過去に種の絶滅が存在したことを示し、それが聖書の創世記よりはるかに大昔に起こったことを示唆するメアリーの化石は、一大センセーションを巻き起こす。
そして様々な研究ののち、1817年にこの「クロコダイル」は博物学者チャールズ・コニグらによって、古代の海生爬虫類「イクチオサウルス」と命名される。しかしオークションにかけられたこのイクチオサウルスの目録にはバロックの名前が記されるばかりで、 幼いメアリーの名前は言及されることはなかった。「世界初のイクチオサウルス全骨格の発見者」という輝かしい称号は、不運にも奪われてしまったのだ。
◆◆◆ 「化石少女」からプロの「化石婦人」へ ◆◆◆
保養地ライム・リージスには『高慢と偏見』ほか数々の名作で知られる女流作家ジェーン・オースティンも滞在。メアリーの父親リチャードが、滞在中のオースティン一家の所持品の修理を請け負ったという記録が残されている。ライム・リージスの町はオースティン最晩年の作品『説きふせられて(Persuasion)』の舞台にもなっている。
イクチオサウルスの発見で多少まとまった額の金を手に入れたものの、アニング家は相変わらずの貧乏暮らしだった。兄ジョセフは家具職人の修行に忙しくなっており、母モリーが化石販売業を取り仕切り、年若いメアリーが採集人の主として岩場での作業を行った。 当時、女性がこのような危険な仕事に就くことは珍しいだけでなく、「化石少女」とからかいの対象になることもあったが、メアリーは父から授けられた技術、そして緻密な観察力と化石への情熱を武器にプロの化石ハンターとして成長していく。また独学で地質学や解剖学の知識を深めていった彼女は、見つけた化石を観察して分類するだけでなく、スケッチと特徴を詳細に記したものを学者たちに送り、その学術的価値を売り込むなど『営業』にも精力的だった。 最初の大きな発見から10年近くの年月を経た1821年、彼女は新たなイクチオサウルスの化石、そして、ジュラ紀に生息した首長竜の一種、プレシオサウルスの骨格化石を世界で初めて発見するという再度の幸運に恵まれる。続いて1823年には、より完全な形で保存されたプレシオサウルス、1828年には新種の魚の化石や、ドイツ以外では初めてとなる翼竜ディモルフォドンの全身化石などを次々と発見。彼女の「化石ハンター」してのピークは20代にあったといえる。
◆◆◆ 「学者たちの援助とスキャンダル ◆◆◆
ロンドンの自然史博物館に展示されている、メアリーが発見したイクチオサウルスの化石。 これらの発見によりメアリーは化石ハンターとしての名を確固たるものにする。
しかし、古生物や地質学について学者顔負けの知識をそなえていたにもかかわらず、下層階級の女性であったことや「生活のために」化石発掘に関わっていたことから、身分の高い学者たちから一段低い者として扱われがちだった。いつまでも楽にならない自分の生活にひきかえ、他人の堀った化石で論文を書き、名を成していく学者達を恨めしい想いで眺めたことも1度ならずあったことだろう。
その一方で、彼女の功績を高く評価し、助力を惜しまない人々も存在した。前述の旧友ヘンリー・デ・ラ・ビーチ卿はもちろんのこと、家賃を払うため家具を売りに出そうとしていたアニング家の窮状を見かねて、自身の化石をオークションにかけ、その売上金400ポンド(現在の2万6000ポンドに相当)を惜しげもなく贈与した長年の顧客、化石収集家トマス・ジェームズ・バーチなど、彼女をサポートする学者たちも少なくなかった。
これらの援助によってメアリーは財政を立て直し、新しい化石店を構える。だがこういった援助は周りの人々の野次馬根性をかきたてるものでもあったようで、未婚のメアリーと年上の学者たちの『関係』が噂の対象になることもしばしばであった。
◆◆◆ 輝きを放ち続ける遺産◆◆◆
ライム・リージスのセント・マイケル墓地に兄ジョセフとともに眠る、メアリーの墓石。 30代半ばを迎えたメアリーは、大きな発見に恵まれず、財政的にも再び苦しい状態に陥る。ここでも、温かい手をさしのべてくれたのは旧友だった。イクチオサウルスの発見以来、メアリーを高く評価していた学者の1人、ウィリアム・バックランドが政府と英国学術振興会に掛け合い、年間25ポンドの年金支払いを取り付けるため奔走してくれたのだった。
十分とはいえないものの定期収入ができたことで彼女の生活は一応の安定を見るのだが、彼女の体はこのころから病魔に蝕まれていく。乳がんだった。
メアリーは、この後も長年に渡り病気と闘いながら化石採集を続け、1847年3月、47歳の生涯を閉じる。
ロンドンの地質学会会長へと出世していた旧友デ・ラ・ビーチ卿は彼女の死を悼み、学会で彼女への追悼文を発表した。20世紀初頭まで女性の参加を許さず、性差と階級の壁が厚かった地質学会では異例のことであった。
メアリーの死から12年後、チャールズ・ダーウィンによるかの有名な『種の起源』が発表される。突然変異と自然淘汰による進化論を世に知らしめた本書は、チャールズ・ライエルやダーウィンの師であったケンブリッジ大のアダム・セジウィックなど、メアリーと交流し彼女の化石をもとに研究を進めた当時一流の地質学者らからインスピレーションを得たものであったという。
1冊の書物も残さなかった彼女だったが、地質学に古生物学そして進化論への道を拓いたメアリー。その当時の社会が要求する「女性らしい生き方」にはこだわらず、情熱のおもむくまま在野のフィールドワーカーとして生涯を全うした。メアリーにより英国の自然科学の発展にもたらされた功績は計り知れない。
メアリー・アニングについてさらに調べたいなら… |
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メアリーの見つけた化石に出会える!
©Nikki Odolphie
Natural History Museum
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メアリーゆかりの地に建つ地域博物館 敷地の一部には、1826年までメアリーが家族とともに住んだ家の跡が含まれている。メアリーが採掘した化石の現物は、ロンドンの自然史博物館などに保管・展示されており、この博物館で通常見ることができるのは複製。 Lyme Regis Museum【住所】Bridge Street, Lyme Regis, Dorset DT7 3QA Tel: 01297 443370 【開館時間】 イースター ~10月末 月~土 10:00-17:00 日 11:00-17:00 11月~イースター 水~日 11:00-16:00 【入場料】3.95ポンド |