Quantcast
Channel: 英国の偉人の生涯をたどる 『Great Britons』 - Onlineジャーニー
Viewing all articles
Browse latest Browse all 93

ツタンカーメン発掘に生涯をかけた男 ハワード・カーター [Howard Carter]

$
0
0
2012年5月31日

●取材・執筆/本誌編集部

 

ツタンカーメン発掘に生涯をかけた男
ハワード・カーター
Howard Carter

 

1922年、世界中の専門家が実在を否定していた
ツタンカーメン王墓が、未盗掘で発見された。
その偉業を成し遂げたのは無名の英国人考古学者ハワード・カーター。
今号では、輝かしい世紀の大発見に隠されたカーターの苦難と悲哀を辿る。

 

 

 時をさかのぼること約3300年前、紀元前14世紀。
 エジプトの首都テーベ(現ルクソール)の町は、深い悲しみに包まれていた。まだ10代後半であったツタンカーメン王の早過ぎる死。先王が強行した宗教改革や遷都などによって国政が混乱していたこともあり、その突然ともいえる不可解な死は、事故死説、病死説、そして暗殺説など、様々な憶測もまた呼んでいた。
 人々が寝静まった頃、松明の光を受けて輝く少年王の棺のそばには、王妃としての威厳を保つべく、今にも目から溢れ出そうになる涙を必死にこらえているアンケセナーメンの姿があった。豪奢な黄金の人型棺には緻密な装飾が施されており、アンケセナーメンはそれをゆっくりと目で追っていく。やがて、王の生前の面差しを写した頭部にたどりつくと、とうとう彼女の視界はぼやけ、大粒の涙が頬を伝ってこぼれ落ちていった。
 2人は幼馴染であった。父王の死にともない、弱冠9歳でツタンカーメンが王に即位するのと同時に結婚。もちろん政略結婚であったが、複数の妾妃を持つのが当然であったこの時代に、ツタンカーメンはアンケセナーメン以外の女性をそばに置くことはなかった。権力闘争の渦巻く王宮にあって、年若き王が唯一心を許せる存在が、2歳年上のこの王妃だったのである。
 アンケセナーメンは亡き夫のもとへとさらに一歩足を進め、手にしていた花束をそっと棺の上に捧げた。
 「花はいつか枯れてしまうけれど、私の心は永遠に貴方のそばに」
 20年に満たない短い生涯を終え、永遠の眠りについたツタンカーメンに向けて、彼女はそう静かに語りかけた。

 


 

 

絵の才能を買われた修行時代

 時は流れ、1891年。エジプトのベニ・ハッサン。
 ナイル河中流域にある岩窟墳墓の中で、一心不乱に壁画の模写をしていた少年は、一息つこうとスケッチブックを小脇に挟み、薄暗い墳墓から抜け出した。目の前に広がるのは、一面の砂漠と透き通るような青い空、照りつける太陽。そこに佇むかつての繁栄の面影を伝える壮大な遺跡の数々は、何度見ても少年の心を強く揺さぶる。この少年が、のちにツタンカーメンの墓を発見するハワード・カーター(Howard Carter 1874~1939)である。
 カーターは、1874年にロンドンのサウス・ケンジントンで、9人兄姉の末っ子として生まれる。体が丈夫でなかったカーターは学校に通えなかったが、絵を描くことは得意であった。動物画家である父親から手ほどきを受け、次第に父親の助手としてわずかながらも収入を得るまでになっていく。
 父親の顧客からの紹介で、エジプト考古学の第一人者フリンダーズ・ピートリー率いる発掘隊がエジプトから持ち帰った、出土品などの模写画を整理していたカーターのもとに、ある日運命の話が舞い込む。目に映るものを精密に描くことのできる才能を高く評価され、エジプト調査基金(現在の英国エジプト学会)の調査隊のスケッチ担当として、エジプトに同行しないかと誘われたのである。このときカーターは17歳、エジプトでの長い発掘生活の幕開けであった。
 カーターは、この調査が終わっても英国へ戻らなかった。ピートリーやスイス人考古学者エドワール・ナヴィーユの発掘隊に引き続き助手として参加し、やがて発掘作業にも加わるようになる。朝は誰よりも早く起きて現場に向かい、昼間は発掘の一からを実地で教わり、夜は古代エジプト史やヒエログリフ(象形文字)を独学で学ぶ日々を送った。
 1899年、25歳になったカーターは、これまでの現場経験やピートリーらの推挙もあり、エジプト考古局のルクソール支部・首席査察官に就任。この若さでの首席査察官採用はきわめて例外的だったはずであり、カーターの優秀さがうかがえよう。
 古代エジプト時代にテーベと呼ばれていたルクソールはナイル河で分断されており、その一帯には多くの遺跡が残されている。日が昇る方向であるナイル河東岸にはカルナック神殿やルクソール神殿など「生」を象徴する建造物が建ち、日が沈む方向である西岸には「死」を象徴する王家の谷などの墓所が広がる。カーターは査察業務の傍ら、アメリカの富豪セオドア・デイヴィスが発掘中の王家の谷で、遺跡発掘の現場監督としても采配をふるっていた。発掘への情熱をいかんなく注ぎ込むことのできる職を得て、カーターがやりがいと充実感を味わっていたであろうことは想像に難くない。
 ところが1903年、首都カイロ近郊のサッカラ支部へ異動が決まったことにより、順調に進んでいた人生は急変する。赴任したサッカラのセラピウム(聖なる牡牛の地下回廊)入口にいた警備員と、入場料を払わずに入ろうしたフランス人観光客の間で起きた小競り合いに巻き込まれたのだ。カーターは仲裁に入るが、観光客たちは酔っ払っており、警備員と殴り合いにまで発展。この事件を知ったフランス総領事は責任者であるカーターを非難し、公式な謝罪を要求した。しかしその謝罪を拒んだため、考古局を解雇されてしまう。
 失業したカーターはルクソールに戻り、デイヴィスに発掘監督として再び雇ってもらえないかと頼むが、考古局という後ろ盾をなくした代償は大きく、話さえ聞いてもらえず、引き下がるしかなかった。仕方なく観光ガイドをしたり、自身で描いた水彩画を観光客に売ったりしながら凌ぎ、発掘のチャンスが巡ってくるのを待った。



1924年、49歳のハワード・カーター。

 

「執念」と「財力」―運命の出会い

 1907年、遺跡発掘に投資している一人の英国人紳士が、カイロのエジプト考古局にやって来た。考古局長は「またか」とひっそりため息をついた。当時、発掘の真似事をしたがるヨーロッパの上流階級出身者は珍しくなかった。しかし、そう簡単に遺跡が見つかるはずがなく、また作業中は発掘現場に立ち会わなくてはならないため、1~2年ほどで音をあげる。その結果、中途半端に放置される場所が増え、考古局長は頭を悩ませていた。ところが、「発掘放棄の話だろう」と覚悟を決めて会った紳士の態度は、これまでの投資者とは少し異なっていた。
 11世紀にさかのぼる家柄を誇るカナーヴォン伯爵家の第5代当主、ジョージ・エドワード・スタンホープ・モリニュー・ハーバート(George Edward Stanhope Molyneux Herbert, 5th Earl of Carnarvon 1866~1923)は子供の頃から好奇心旺盛で、冒険にあふれた生活に憧れていた。乗馬やヨットを好み、爵位を継いでからは自動車に熱中。自らハンドルを握ってヨーロッパ中を旅した。しかし、数年前にドイツで起こした自動車事故により、毎年冬は英国を離れて療養するようになる。ギリシャやスペイン、南イタリアでの生活に飽きたカナーヴォン卿は、医者に勧められてエジプトで過ごすうちに、神秘的な遺跡群に魅了されて発掘投資を決めたのであった。
 発掘開始から数ヵ月が経ち、ほとんど成果が出なかったにもかかわらず、カナーヴォン卿に諦める気配はなかった。どうすれば墓が見つかるのか真剣に相談を持ちかける、その並々ならぬ熱意は、ある男を彷彿とさせたに違いない。考古局長は発掘には知識のあるプロの考古学者が必要であることを説き、無職であるものの、発掘への情熱だけは人一倍熱いカーターを推薦したのである。



好奇心旺盛だった英国の名門貴族、第5代カナーヴォン伯爵。

 

 


 

忘れられた王と王家の谷

 カーターとカナーヴォン卿は、すぐに意気投合したわけではなかった。カナーヴォン卿は名のある考古学者と組みたがったし、考古局から解雇されたというカーターの履歴も不安材料であった。だが、自分を上回るほどの情熱と忍耐力に感服し、何より同じ目標を持っていたことが発掘を任せる決定打となった――2人は王家の谷での発掘を狙っていたのである。
 古代エジプトにおいて、ミイラとして墓に埋葬されたのは、王族や貴族などの身分の高い者や裕福な者に限られていた。数々の豪華な副葬品が納められた墓は、常に墓泥棒による盗掘の危険に曝されており、新王国時代・第18王朝の王トトメス1世は、自分の墓が暴かれないようにと険しい岩壁がそびえたつ地に岩窟墓の造営を考え出した。以後500年の間、歴代の王がそれにならって岩窟墓や地下墓を造ったため、その地は「王家の谷」と呼ばれるようになったという。カナーヴォン卿は未盗掘の王墓を発見できる可能性があるとすれば、それは王家の谷しかないと考えていた。
 しかし、カーターにはもっと具体的な目標があった。それはツタンカーメン王墓の発見である。ツタンカーメンは謎に包まれた「考古学者泣かせ」の王で、「歴代の王名リスト」にその名はないにもかかわらず、ツタンカーメン王の印章が刻まれた指輪などが、時々単独で見つかったりする。実在した王かすら確かではなく、実在したとしても在位の短い、歴史上大して重要ではない王だと推測できた。それでも「忘れ去られた王」の墓を見つけることは、考古学者なら一度は夢見るロマンといえる。多くが夢半ばで諦めていった中、カーターはツタンカーメン王墓は実在すると考え、発掘生活を送るうちに、それを発見するのは自分だと強く信じるようになったのではないだろうか。そして、そのターゲットを王家の谷に絞っていたのだ。
 王家の谷の発掘権は、引き続きセオドア・デイヴィスが握っていた。彼もツタンカーメンの墓を探し求める一人で、王家の谷から離れる様子はない。カーターたちは他の候補地を発掘しながら、時期をうかがっていた。
 1914年、ついにデイヴィスが王家の谷からはこれ以上何も発見されないと結論を出し、10年以上保持した発掘権を放棄する。知らせを聞いたカーターは、英国にいるカナーヴォン卿に電報を打ち、王家の谷の発掘権を至急手に入れるよう訴え、聞き入れられた。とはいえ、やはり好事魔多し。いよいよ念願の作業開始という時に第一次世界大戦が勃発し、発掘は一時中断となってしまう。





ルクソールのナイル河西岸に広がる王家の谷。
古代エジプト新王国時代の王の墓が集中している。© Nowic

 

進まぬ発掘と許されぬ恋

 第一次世界大戦が終結し、王家の谷で発掘作業が再開されてから3年が過ぎた1920年、何も発見できないことにカーターは焦りを感じていた。カナーヴォン卿もしびれを切らし始めており、カーターは調査方法を一新する。考古局の資料と照らし合わせて、過去数十年にわたって王家の谷で発掘された全箇所を記した測量図を作成し、未着手の場所を徹底的に掘る作戦だ。カナーヴォン卿は期待に胸を膨らませたが、結局成果は上がらなかった。失望したカナーヴォン卿は翌年の発掘権を手放し、投資からも手を引くことを示唆する。慌てたカーターは再度測量図を作成し直し、今度は発掘の際に積み上げられた土砂で覆われ、作業が困難なために避けてきた箇所をしらみつぶしに調べる方法を提案して説得を試みるが、カナーヴォン卿は難色を示したという。土砂を取り除きながらの作業は、2倍の手間と時間がかかるからだ。しかし、最後にはカーターの勢いと必死さに折れ、翌年も発掘続行を許可した。
 自分だけの指揮で結果を出さなければならない状況と、周囲から遮断された岩山の狭間での長期間にわたる仕事は、強靱な意志と忍耐力、強い信念がなければ続けられないだろう。そんなカーターを支えたのは、ツタンカーメンに寄せる執念ともいえる思いと、ある女性――カナーヴォン卿の娘イヴリンの存在だったと思われる。
 カーターがイヴリンと初めて出会ったのは、王家の谷であった。第一次世界大戦の終戦により情勢が落ち着くと、カナーヴォン卿はエジプトに娘を伴って来たのである。父からずっと話に聞いていたエジプトを訪れるのは、イヴリンにとって長年の夢であった。イヴリンは上流階級の女性にありがちな気取ったところのない控えめな人柄で、考古学の造詣も深かったといわれており、カーターの発掘への思いを理解してくれる唯一の女性であったのかもしれない。当時40代半ばを迎えていたカーターと17歳のイヴリンは、親子ほどに年齢が離れていたが、瞬く間に心を通わせるようになったとされる。イヴリンが英国に戻ってからも2人の手紙のやり取りは続き、毎年冬の発掘シーズンには父に付き添ってエジプトに滞在するようになっていた。



写真右からカナーヴォン卿、カーター、
カナーヴォン卿の娘イヴリン、カーターの助手。

 

 


 

最後のチャンス

 1921年、勝負の年が始まった。山のように堆積した土砂を取り除きながらの発掘は、通常通りに行っていたのではすぐに時間切れになってしまう。カーターは作業員の数を増やし、人海戦術で広範囲にわたってひたすら掘り進めていくことにする。膨大な量の土砂を休まずに動かし続けたが、実りのないままその年も終わってしまった。
 1922年の夏、カナーヴォン卿はついに探索打ち切りを決め、王家の谷の発掘権を放棄する旨をカーターに手紙で伝える。大戦により一時中断を余儀なくされたとはいえ、王家の谷を発掘し始めてから8年。遺跡発掘への投資を始めてからだと15年以上が経過している。カナーヴォン卿がそろそろ潮時だと判断したとしても不思議ではない。たとえ盗掘されていたとしても、埋もれた遺跡の発見は学術的には大きな意義があるが、投資する者にとっては多大な犠牲を払うことになる。大戦前とは違って英国も物価が上がり、道楽というには発掘は強大な負担になっていたであろうことは、容易に推測できよう。
 カーターは手紙を読み、部屋で呆然と立ち尽くした。本当に王家の谷は掘り尽くされてしまったのか。それともツタンカーメンの墓を探し当てるなど、自分には大それた夢だったのか。あるいはツタンカーメンは実在しなかったのか? ぼんやりと測量図を眺めていると、ふとある場所に目がとまった。
 「そうだ! ここはまだ手を付けていなかった!」
 ラムセス6世の墓の壁画は保存状態が良いため、人気観光スポットの一つである。その隣には墓を造る際に建てられた、作業員小屋の跡とされる遺構が残っており、王の墓の上に作業小屋を建てるなどありえないとして、これまで見逃されてきた場所であった。しかしよく考えると、第18王朝の王とされるツタンカーメンと第20王朝のラムセス6世の治世は、少なくとも200年ほど離れている。埋葬場所がわからないように地中に造られた墓だ。200年の間に所在が忘れられ、その上に小屋を建ててしまった可能性もあるはず…。カーターの心に、一筋の希望の光が駆け抜けた。
 カーターはすぐに英国に渡り、カナーヴォン卿のもとを訪れた。カナーヴォン卿が発掘資金を提供してくれないならば、自分の蓄えをすべて放出しても構わないとカーターは告げる。そしてもし何か発見できた場合は、自分はその遺跡に関するすべての権利を放棄し、カナーヴォン卿に一任することも約束した。話し合いは三日三晩続き、カナーヴォン卿はその熱意に負け、今回が最後という条件で発掘権の延長を決断した。

 

12段の階段と封印された扉

 11月7日、英南部バークシャーのハイクレア城。
 私室でのんびりと新聞を読んでいたカナーヴォン卿のもとに、エジプトから一通の電報が届く。
 「ついに谷で見事な発見。無傷の封印を持つすばらしい墓。元通りに封鎖して貴殿の到着を待つ。おめでとう」
 カナーヴォン卿は、この短い電報の意味を把握するまでにしばらく時間がかかった。そして理解した途端、ソファから勢いよく立ち上がり、家族が集っている談話室へと駆け込んだ。「カーターがとうとうやったぞ!」。カナーヴォン卿は、イヴリンとともに急いでエジプトへ向かった。
 最後の発掘権延長を申請した後、カーターはラムセス6世の墓の隣にある作業小屋の土台除去に着手した。「これが人生最後の発掘となるだろう。できることはすべてやり尽くした。後悔はしない」。おそらくカーターはこう覚悟を決めていたのではないだろうか。土台をすべて取り除くと、そこから南に向かって掘り返し始める。そして「その日」は突然やってきた。
 発掘開始から4日目の11月4日朝、カーターが現場に到着すると、作業員が誰も仕事をしていなかった。異常なほどの緊張感と静けさに包まれており、作業員の一人がカーターの姿を見るなり何か叫びながら駆け寄ってくる。
 「見つかりました! 階段です!」
 カーターはすぐに掘り進めるよう指示を出した。一段、また一段と下降階段が現れるたび、隠しきれない興奮で体が震える。そして12段目に辿り着いたとき、封印されたままの漆喰扉の上部が姿を見せたのである。
 11月24日、駆けつけたカナーヴォン卿とイヴリンが見守る中、調査を続けたカーターは、封じられた扉の下部にツタンカーメンのカルトゥーシュ(王の印章)が押されているのを発見した。これこそがツタンカーメンの墓だ…! カーターとカナーヴォン卿は思わず固く抱き合った。イヴリンは感激のあまり涙をこぼし、作業員たちは一斉に歓声を上げた。
 2日後、扉を崩して墓室へと続く通路の瓦礫を片付けたカーターらは、封鎖された第二の扉につきあたった。中の様子を探るため、扉の一部に穴を開けて顔を寄せると、カビくさい臭いとともに熱気が流れ出てくる。3000年以上密閉されていた古代の空気だ。カーターは、はやる気持ちを抑え、ろうそくを持った右手をその穴に差し込み、中を覗いた。
 「最初は何も見えなかった。しかし目が慣れていくにつれ、室内の細部がゆっくりと浮かび上がってきた。数々の奇妙な動物、彫像、黄金。どこもかしこも黄金だった」
 ツタンカーメンの王墓発見のニュースは瞬く間に広まり、世界中を驚愕させた。まだ発掘途中で見学ができないと知りつつも、世界各地から人々が王家の谷に押し寄せたという。忘れられた王は、一夜にしてエジプト史上最も有名な王となったのである。



黄金の厨子の扉を開き、内部をのぞきこむ
カーター(中央奥)とその助手たち。

 

 


 

少年王の呪い

 世紀の大発見から5ヵ月後、突如悲劇の幕が上がる。
 贅を尽くした副葬品の整理を終え、玄室(埋葬室)にある王の石棺が納められた巨大な4重の黄金厨子の解体作業に取り組むカーターのもとに、青天の霹靂ともいえる知らせが届く。それはカイロのホテルに滞在しているイヴリンからのもので、カナーヴォン卿が危篤だと告げていた。カーターは翌朝一番の船でカイロに向かうが、カナーヴォン卿と再び言葉を交わすことはできなかった。
 1923年4月6日午前1時50分、カナーヴォン卿が56歳で死去。黄金のマスクやツタンカーメンのミイラと対面することなく、その遺体は英国へと帰っていった。死因はひげを剃っている際に、蚊に刺された箇所を誤ってカミソリで傷つけてしまったことより菌血症を患い、肺炎を併発したためといわれている。
 ところが、これが一連の不思議な事件の始まりとなった。カナーヴォン卿の急死後、発掘関係者が次々と不遇の死を遂げていったのである。カナーヴォン卿の弟、専任看護婦、カーターの秘書と助手、調査に協力した考古学者やエジプト学者…その数は20人以上。ほとんどが病死と診断されたが、当時のマスメディアはこの異常事態を「ツタンカーメンの呪い」と大きく報道した。
 やがてカーターも受難に見舞われる。最初にそれをもたらしたのは、父の跡を継いで第6代カナーヴォン伯爵となった息子ヘンリーであった。ヘンリーは考古学に興味がなく、発掘投資は浪費の極致だと考えていたため、王家の谷の発掘権を今期限りで手放すと宣言したのである。発掘権が他者に移ると、ツタンカーメンの墓の調査権もその相手に渡ってしまう。カーターはヘンリーに連絡をとるが、話し合いの場さえ持つ気はないようだった。
 行き詰ったカーターに、さらなる衝撃が訪れる。イヴリンが敏腕の実業家でもある準男爵と婚約したのだ。カーターとイヴリンの恋は、当然周囲に反対されていた。カーター自身もその身分差、年齢差を理解していたと思うが、ツタンカーメンの調査権を失おうとしている今、イヴリンまでもが奪われてしまうという残酷な事実に、どれだけ悲嘆に暮れたであろうか。その衝撃は計り知れないものがある。
 しかし、状況はさらに一転する。イヴリンが慌ただしく結婚した後、ヘンリーが発掘権放棄を撤回したのだ。一体何がヘンリーの気持ちを変えさせたのか?――そこにはイヴリンの犠牲があった。ヘンリーは、イヴリンが身分に相応しい相手と結婚し、カーターと二度と会わないならば、発掘権を延長してもいいとイヴリンに持ちかけ、彼女はそれを了承したというのである。カーターがこの話を知っていたかどうかは、今となっては知ることはかなわない。



ツタンカーメンのミイラが今も眠る玄室。
壁画が完全に乾く前に埋葬されたため、壁には暗褐色の染みが多く見られる。 © Hajor


ツタンカーメン王墓の平面図

 

黄金よりも美しいもの

 1924年2月12日。厨子の解体がようやく終了し、カーターが設計した滑車によって、石棺の重い蓋がゆっくりと持ち上げられていくのを、カーターと調査に協力している学者らは固唾を呑んで見守っていた。王はどのようにして姿を現すのだろうか? 一秒が一分に、一分が一時間にも感じられる。石棺の中に少しずつ光が注がれていくと、古びた布で覆われているのがわかった。カーターはそれを慎重に巻き取っていき、最後の布が取り除かれたとき、驚きのあまり呼吸をするのを忘れてしまうほどに眩い光景を目にした。若い王の姿をした、光り輝く黄金の人型棺が横たわっていたのである。
 「死後も存在する崇高な雰囲気を感じた。深い畏敬の念に満ちた静寂が墓内を支配し、時が止まったように思われた」
 静まり返る玄室内で黄金の棺を見つめるカーターの心を最初に占めたのは、おそらくカナーヴォン卿への思いだったのではないだろうか。意見が合わず、対立することも多々あったが、ともに歩んだ15年間を思い出し、この歴史的瞬間に彼が立ち会えなかったことが残念でならなかったに違いない。
 白いアラレ石と黒曜石で飾られた人型棺の王の両眼はまっすぐに天井を見つめ、胸の前で交差された両手は王を表す王笏と殻竿をにぎっており、その若々しくも力強い王の威厳をまとった姿に、学者たちから感嘆の声がもれた。しかし、カーターは別のものに目を奪われていた。それは棺の上にそっと置かれている「小さな花束」である。
 「最も感動的だったのは、横たわった少年王の顔のあたりに、小さな花束が置かれていたことだ。私はこの花束を、夫に先立たれた少女の王妃が、夫に向けて捧げた最後の贈り物と考えたい。墓はいたるところが黄金で包まれていたが、どの輝きよりも、そのささやかな花ほど美しいものはなかった」
 奇跡的にもほのかに色を留めていたその花束は、石棺の開封によって外気に触れた途端、崩れ始めた。思わずカーターが手を伸ばすと、まるで空気中に溶け込むかのようにパラパラと崩れ去っていった。3300年のあいだ、孤独を癒すかのように王に寄り添い続けた花は、カーターの目の前で最後の輝きを放ち、過去へと帰っていったのだろう。カーターは、時代に翻弄されながらも強く生きようとした、若い夫婦の苦闘と悲哀、そして愛情をそこに見て、胸が熱くなったのだと思われる。3000年前の「古代人」も今の「現代人」も何ら変わりないことに気付いたのだ。墓には、死産だったと思われる2体の胎児のミイラも丁寧に葬られていたという。



ツタンカーメンの黄金棺の内部を慎重に精査するカーター。

 

暗殺? 事故?ツタンカーメン 死の真相

王墓に納められていた、幼少期のツタンカーメンの像
 2010年、エジプト考古学研究グループがCTスキャン撮影をはじめとするDNAや放射線調査によってツタンカーメンのミイラの検証を行なった結果、ツタンカーメンは近親結婚で生まれたことによる、先天的な疾患を患っていた可能性が高いことが判明した。背骨の変形や足の指の欠損、臓器疾患の跡が確認され、おそらく死因は大腿骨骨折による敗血症とマラリアの合併症であったというのが、最新説として発表されている。
 かつては、後頭部に強い打撃を受けて命を落としたという説が最も有力視されていたが、X線写真に写っていた頭蓋骨の中にあった骨片は、ミイラ作りの際に脳をかきだすために開けられた穴から落ちたものと結論づけられ、頭部打撃による暗殺説は現在では否定されている。
 少なくともツタンカーメンの直接的な死因が病死であることはほぼ間違いないとされているが、大腿骨には縦にひびが入っており、太い大腿骨を縦に割るにはかなり強い力を要することから、戦車等から落下したのではないかと推測されている。それが不幸な事故であったのか、何者かによる暗殺未遂であったのかは、今や知る術はない。

 

 


 

永遠の眠りへ

 1939年3月、ロンドン。
 冷たい雨が降りしきる中、ロンドン南部パットニーの墓地では、カーターの葬儀が行われていた。かつての国民的英雄は人々の記憶のかなたに消え、最後の別れの挨拶をするために集まった人は、ほんの一握りだった。その中に、地面に横たわる質素な棺を見つめる準男爵夫人イヴリンの姿があった。牧師の祈りが終わると、イヴリンは棺の上にそっと花を置いた。イヴリンは結婚後、エジプトを一度も訪れていない。カーターとも会っていないが、手紙のやり取りだけは続けていた――王墓発見の瞬間を共有した同志として。
 花が添えられた棺が土の中へと納められていくのを見つめながら、イヴリンはカーターから届いた一通の手紙を思い出していた。そこにはカーターが黄金の棺を目にした時の思いが綴られていたが、なかでも印象的だったのが、その人型棺に添えられていたという枯れた花束の話だった。カーターの魂がこの地に留まることはきっとないだろう。すでに飛び立ち、遥か海を越え、王家の谷へと辿り着いているかもしれない…。
 40年にわたるエジプト生活に終止符を打ち、1932年にカーターは英国に帰国するが、その後の人生は寂しいものであった。ツタンカーメン発掘という偉業を成し遂げながらも、高等教育を受けていなかったため、考古学者として高く評価されることはなかった。独身を通し、自宅で黙々と「ツタンカーメンの学術報告書」をまとめ上げる毎日を送り、結局その報告書の完成をみないまま、1939年3月2日、64歳で息を引き取った。
 ツタンカーメン王墓の発見は、20世紀におけるエジプト考古学史上最大の発見である。墓内にあった遺物のほとんどは、カイロ考古学博物館で見ることができるが、訪れた人はその質量に驚くことだろう。出土品はミイラも含め、研究と保存のために博物館へ移されるが、カーターはツタンカーメンのミイラを移動することだけは断固拒否したとされる。そして、カーターの願い通りにツタンカーメンは今も王家の谷で静かに眠っており、本来の王墓に納められている唯一の王だという。
 学者たちの唱える「常識」に屈せず、ツタンカーメン王墓の存在を確信し、鋭い感性と緻密な観察力、情熱と忍耐を持って、エジプトの大地を掘り続けたカーター。ひたすら追い求めた夢が現実となった時、彼の心を最も大きく揺り動かしたのが、黄金でもミイラでもなく、枯れた花束であったとは予想だにしていなかったに違いない。全調査を終えるまでツタンカーメンと2人きりで過ごした10年が、カーターにとって一番幸せな時間だったのかもしれない。

 

考古学者の憧れの家 カーターハウス in ルクソール

© Kameraad Pjotr
 王家の谷の発掘作業時に、カーターが実際に生活していたルクソールの高台にある家が、博物館として一般公開されている。2010年に修復を終えた館内では、書斎、暗室、寝室、キッチンなどが当時のままに復元されており、カナーヴォン卿や発掘作業員たちと写っている貴重な写真のほか、カーターが描いたツタンカーメンの棺のスケッチや直筆の手紙、使用した発掘道具なども展示されている。
ルクソールを訪れる際には、ツタンカーメンへの夢と情熱がぎっしりと詰まった「カーターハウス」へも、ぜひ足を運んでみよう。詳細はエジプト大使館 エジプト学・観光局(www.egypt.or.jp/)等にお問い合わせを。

 

47年ぶりの来日 ツタンカーメン展が大盛況!


大阪会場で開催された内覧会の様子(写真提供:産経新聞社)
 日本美術展史上最多の入場者数を記録し、日本を熱狂の渦に巻き込んだ「黄金のマスク」が来日してから約半世紀。ツタンカーメンの大型展覧会「ツタンカーメン展 ~黄金の秘宝と少年王の真実~」が、現在日本で開催されており、連日多くの観客が来場している。
 今回の展覧会では黄金のカノポス容器(ツタンカーメンの内臓が保管されていた器)、ツタンカーメンのミイラが身にまとっていた黄金の襟飾りや短剣など、ツタンカーメン王墓や王家の谷から発見された貴重な宝物122点を公開。
 大阪会場(7月16日まで、大阪天保山特設ギャラリー)では、開催してから2ヵ月で入場者数が60万人を突破。開館時間も延長され、不動のツタンカーメン人気を証明している。8月からは会場を東京に移して開催される予定。夏に一時帰国される方は、ツタンカーメンにまつわるミステリーを堪能してみては?

 開催日程:8月4日~12月9日
 会場:    東京、上野の森美術館
 
www.fujitv.co.jp/events/kingtut/top.html

 

参考資料
■『ツタンカーメン発掘記 上・下』ハワード・カーター著、酒井傳六/熊田亨・訳、ちくま学芸文庫
■『少年王ツタンカーメンの謎 考古学史上最大の発掘物語』P・ファンデンベルク著、坂本明美・訳、アリアドネ企画 ほか

Viewing all articles
Browse latest Browse all 93

Trending Articles