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早すぎた美の殉教者 オスカー・ワイルド [Oscar Wilde]

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2012年3月29日

●取材・執筆/佐々木 敦子・本誌編集部

 

早すぎた美の殉教者
オスカー・ワイルド
Oscar Wilde

ヴィクトリア朝の英国で、「才気溢れる世紀末のダンディ」として活躍し、
スキャンダラスな人生を歩んだオスカー・ワイルド。
今号の『Great Britons』では「番外編」として
アイルランド出身のワイルドを取り上げ、その短くも華やかな一生を辿る。

 

キス・マークの絶えぬ墓

 オスカー・ワイルドの死から111年が経過した2011年12月、パリ東部のペール・ラシェーズ墓地には、記念式典のため多くの人々が集まった。そこには、ワイルドの原作を映画化した『理想の夫』に出演した英俳優のルパート・エヴェレットなどと並び、ワイルドの孫で作家のマーリン・ホランド(Merlin Holland)氏の姿もあった。彼らは新たに修復されたワイルドの墓のお披露目式に立ち会ったのだ。
パリで客死したワイルドのために1914年に出来上がったこの墓は、当時の現代彫刻家ジェイコブ・エプスタインによってデザインされ、以来ワイルド・ファンの巡礼地となっている。


最初はパリ郊外の貧相な墓地に葬られたワイルドだったが、
1909年にペール・ラシェーズ墓地(Pre Lachaise Cemetery)に改めて埋葬された。

 1990年代、ワイルドの死後100年に向けて、映画、特別エキシビションなど様々な記念企画が実現したおかげでワイルド・ブームが再燃した。誰かが墓石にキスすることを思いついたらしく、それに倣う女性が続出。墓石の天使の像がファンの残した赤いキス・マークで覆われる事態となった。この墓は、多くの有名人が眠るペール・ラシェーズ墓地の中でもひときわ目立つものの一つだが、長年の間に口紅の油が石に染み込んで損傷が進んだため、これらのキス・マークを徹底的に洗い落として修復する作業が必要になったのだという。
墓石が傷む程のキスを受けた人気作家オスカー・ワイルド。果たして彼は生前にも同様の扱いを受けていたのだろうか? その生涯を追ってみよう。

 


 

女の子のドレスを着て育った優しい少年

 オスカー・ワイルドことオスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルズ・ワイルド(Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde)は、1854年10月16日、アイルランドの首都ダブリンの裕福な上流家庭に生まれた。
オスカーの父親は後にサーの称号を得たウィリアム・ワイルド。ヴィクトリア女王の専属医も務めたアイルランド有数の耳目外科医である。考古学や民間伝承の本なども執筆し、アイルランドでは名士として知られる人物だった。一方、妻のジェーンは作家としても活躍するリベラルで快活な女性で、エスペランザというペンネームでも活動。アイルランド愛国者として政治活動にも積極的に参加し、パーティーの花形だったという。当時としては「とんでいる」女性だったといって良いだろう。
彼らにはオスカーのほかに2人の子供がいる。オスカーの2歳年上のウィリアム、そして4歳年下のアイソラ(Isola)である。アイソラはオスカーが13歳の時に病死しているが、彼は封筒に入れた妹の遺髪を、終生、大切に持ち続けたという。
運動好きの長男ウィリアムとは違い、幼い頃は母親によって女の子のドレスを着せられていたという夢見がちで優しい少年オスカーは、9歳まで両親の元で教育を受け、その後は北アイルランドのファーマナ州(Fermanagh)エニスキレン(Enniskillen)にある名門校ポートラ・ロイヤル・スクール(Portora Royal School)へ進学した。夏の休暇は家族と共に田舎や別荘で過ごすという、恵まれた少年時代であった。
ワイルドは終生、アイルランド出身であることに誇りを持っていたといわれ、イングランドでは、彼なりのやりかたで「反体制」の姿勢を貫こうとしたが、彼にとって、アイルランドがそれだけ特別な場所だったのは幸せな思い出のおかげ、ひいては両親のおかげだったと考えて良さそうだ。


ダブリンにあるメリオン・スクエア(Merrion Square)の北西の角に設置されているワイルドの像。
道をはさんだ向かい側には、ワイルドがかつて住んだ家があり、一般公開されている。

 1871年、17 歳になったオスカー・ワイルドは兄のウィリアムの後を追って、「アイルランドのイートン校」と言われる名門パブリック・スクール、トリニティ・カレッジに入学。頭脳明晰であるばかりでなく、好奇心旺盛な17歳にとって、心躍るできごとであったはずだ。彼はここでマハフィ教授(J.P. Mahaffey)の指導によって古代ギリシャ・ローマ文明に対する興味を開眼させる。これが同性愛嗜好に結びついたのかどうかは想像の域を出ないが、すべては後の創作活動にいかされたであろうことは間違いない。そして古典で優秀な成績を修めた学生に贈られる、バークレー・ゴールド・メダルを受賞している。
また、ポートラ・ロイヤル・スクールで萌芽した彼のおしゃべり好きは、トリニティ・カレッジで学んだ討論術で更なる発展を見せる。人生にドラマを求め知的な会話を愛する、母親ジェーンの性格がワイルドに色濃く『遺伝』していたのだ。また、この頃人気の絶頂にあったチャールズ・ディケンズの著作が「大嫌いだ」とも語っており、ワイルドの耽美主義への傾倒は、すでに現れていたといえる。経験主義者で道徳家のディケンズは、若いワイルドに「俗物」と見なされたわけだ。
1874年、奨学金を得て、オックスフォード大学のモードリン・カレッジに入学。いよいよ、英国に足を踏み入れたのである。しかし、特権階級である貴族の子弟ばかりが通うオックスフォード大学で、ワイルドはカルチャーショックを受ける。ダブリン名士の息子とはいえ、この超エリート校に漂う貴族的雰囲気には圧倒されたようだ。だが、ワイルドは自分のアイルランド・アクセントをすぐさま矯正すると、持ち前の警句やウィットに満ちた話術で次第に頭角を現していく。ワイルドは美しいか、美しくないかということについて、すでに確固たる判断基準を持っていたと考えられるが、アイルランド訛りは美しくないもののグループに入れられてしまったのだろう。
私たちがイメージする、ロマンチックな古典的ファッションに身を包んだ長髪のワイルドというのはこの頃に培われたが、当時としてもかなり奇抜なものであったようだ。しかし、ワイルドにとって、自分の判断こそが最も重要。自分に似合っている、美しく見える―それだけで十分だった。

 

大学停学中にロンドン社交界へ

 この頃、ワイルドの人生を大きく変えるできごとが起こる。父親ウィリアムの死だ。それを境にワイルド家は斜陽に傾き始める。
だが、母親のジェーンは別荘などを売却して年間200ポンドの仕送りを続けた。ワイルドはそれを惜しげもなく使い、そのうえ借金もしていたと伝えられる。当時の物価は、独身の若い紳士が暮らすロンドン市内のフラット賃貸料が年間20~40ポンド、労働者階級の最低年間給与が50ポンドといったところである。200ポンドはかなりの額だったといえるものの、彼には足りなかった。だが、ワイルドは単に贅沢をして喜ぶというケチな精神から散財していたわけではない。ワイルドにとって、極上のものに、できるだけ囲まれていたいという思いは美に対する感性を磨くことに通じていたのだ。
ワイルドの金銭感覚は母親や叔母から受け継がれ、その嗜好はトリニティ・カレッジのマハフィ教授の影響を大いに受けて形成されたといえる。教授は美酒や葉巻、そして骨董品を愛する人物で、若いワイルドは彼から多くを学んだ。また、教授の著作の手伝いをするまでにお気に入りとなっていたワイルドは、オックスフォード在学中に友人たちとローマへ旅する際、このマハフィ教授も誘っている。


オックスフォード大学時代のワイルド。

 当時の英国では、裕福な大学生が卒業旅行と称してイタリアやフランスへ出掛ける習慣があった。これは「グランド・ツアー」と呼ばれ、18世紀に始まったものである。数ヵ月から数年にも及ぶ滞在で、貴族の子弟たちはフランスで優雅なマナーを学び、イタリアでは古代ローマやルネサンス文化の遺産に触れるというのがお決まりのパターンだった。現代の学生旅行とは比べようもない、特権階級にのみ許された召使い付きの優雅な旅である。規模は縮小されたものの、19 世紀にもグランド・ツアーは依然として行われており、大学生たちは「ハクをつける」ため欧州へと向かった。
ワイルドもこの分に漏れず3年生の春休みである1877年にマハフィ教授らと共に欧州大陸に赴く。ローマだけではなくギリシャがその訪問先で、この旅はワイルドに強いインパクトを与えた。イタリアで触れたカトリック文化のレベルの高さに感服したからか、あるいは当時、裕福な若者の間で流行していたからか、この旅行はプロテスタントからカトリックへの改宗を考えるきっかけともなったといわれている。ワイルドはギリシャのコルフからオックスフォード大学の学寮長へ向け、新学期の始まりに10日程遅れるという手紙を投函。学寮長はこれを読み大いに不快に思うとともに、ワイルドがそのままカトリックに改宗するのではないかと気を揉んだようだ。英国国教会(プロテスタント)を「国教」と定めるイングランドにおいて、当時、カトリック教徒への差別はまだ公然と行われていた。 
結局、欧州旅行のため新学期の始まりに2週間以上遅れたワイルドは、不遜な態度から教授の心証を悪くして半年間の停学と、奨学金の停止処分を受けてしまう。だが、ワイルドはここぞとばかりにロンドンの社交界へ顔を出し始め、その特異なファッションと人を逸らさぬ会話術であっという間に人気を獲得する。ワイルドはまだ何もしていない大学生のうちから英国社交界の有名人になってしまったのである。

 


 

文化人としてアメリカへ

 1878年に大学を主席で卒業し、ロンドンに住まいを移したワイルドだが、この頃にはすでにロンドン社交界での人気が高まり、自宅で開くサロンには有力な政治家や王室のメンバーまでが訪れるようになっていた。81年に上演されたギルバート&サリヴァンの耽美主義を風刺したオペレッタ 『ペイシェンス』には、ワイルドをモデルにした人物まで登場している。
ニューヨークで『ペイシェンス』が非常に成功したことから、興行主はワイルドを米国に送りこんで講演旅行をさせるアイディアを思いつく。ワイルドは特定の職業に就いておらず、時々雑誌や新聞に寄稿したりする暮らしを続けていた。このためその人気とは裏腹に、ますます金銭的余裕がなくなってきていたのだった。このチャンスに背を向けるはずはなく、81年12月、27歳のワイルドは「アリゾナ号」でリヴァプールから海路、ニューヨークへと向かう。
当時の米国は富裕層が増えたものの、文化的にはまだ未熟な若い国であり、欧州文化への憧れが強かった。そのため、当時はチャールズ・ディケンズを始めとする欧州の人気作家が、自作を読み聞かせたり、講演をする目的で米国を訪問した。彼らは米国に欧州の文化を紹介することで、高い報酬を得ていたのである。
ワイルドはこの時、到着したニューヨークの税関で「私の才能以外に申告するものはない」と言ったとされているが、真偽の程は定かではない。彼は「英国のルネサンス」等の主題で、西部開拓地を含む米国各地を過密スケジュールでまわる。
欧州文化に憧れる米国の観客たちを喜ばせるため、ワイルドは長い髪をなびかせ、衣装も耽美主義的な華美なものにして壇上に上がった。そして口を開けばオックスフォード大学で鍛えたクイーンズ・イングリッシュによる警句が飛び出すというわけで、ワイルドの米講演ツアーは各地で大好評をもって迎えられた。ファン・レターが殺到し、まるでアイドル・スターのような扱いを受けたという。やがて、戯曲作家としても名声を手に入れるワイルドだが、観客が何を欲しているか、どうすれば「受ける」かということを本能的に察知する稀有な才能に恵まれていたのだ。
ワイルドは米国人の子供じみた素朴な反応を面白がっていたようである。開拓の進む西部の銀鉱山を訪れ、鉱夫たちを相手に講演も行っている。米国滞在は当初3ヵ月の予定だったが、講演が好評を博したため延長となり、結局ワイルドは1年近くも米国に滞在した。各地での講演数は70回に上ったといわれる。ロンドンに戻ったワイルドを迎えた母親のジェーンは、彼が随分成長したことに驚いたと伝えられている。
米国から戻ったワイルドはその足でパリへ向かう。パリでの講演を試みたワイルドだが、当時デカダン(退廃的な芸術至上主義)の本場で世紀末文化の中心地であったパリは、米国と違いワイルドを無邪気に迎えてはくれなかった。だが、この時ワイルドは文豪ビクトル・ユゴーやゾラ、人気画家のドガなどと親交を結び、爛熟したパリの文化を改めて吸収する。そして1ヵ月の滞在で米国で稼いだ講演費をすべて使い果たし、ロンドンへ戻る。

 

つかのまの家庭人生活

 1883年、29歳のワイルドは11月にアイルランド名士の娘であるコンスタンス・メアリー・ロイドと婚約。彼女とワイルドが初めて会ったのは、ワイルドが金策に悩んで米国行きを考えていた頃だが、コンスタンスの家族は当初、2人の交際に反対していた。ワイルドの生活態度に懸念を抱き、難色を示していた家族を押し切ったのは、コンスタンスの熱意だった。コンスタンスはおとなしいが聡明な女性で、ダンテの『神曲』を原語のイタリア語で読むようなインテリであり、ワイルドの大ファンでもあった。この時、彼女の中に根付いたワイルドへの崇拝の念は、その後、様々な困難に見舞われても衰えることはなかった。それは、はからずも、ワイルドが同性愛の罪で投獄された際に証明されることになる。


ワイルドの妻コンスタンスと、1885年生まれの長男シリル(Cyril)。
1886年には次男ヴィヴィアン(Vyvyan)も誕生した。

 1884年、5月に結婚。当時のワイルドは講演で各地を走り回ってはいたものの、文壇に地位を確立しているわけではなく、単なる耽美主義者、ダンディとして有名な人物であり、1200ポンドもの借金を抱える身であった。一方でコンスタンスは年収が250ポンドあり、祖父が死んだ場合はそれに加え、年900ポンドが与えられるはずだった。2人はチェルシーのタイト・ストリート16番地(現在の34番地)に新居を構える。装飾美術にうるさいワイルドのため、コンスタンスは改装費に5000ポンドもの大金を用意している。当初から、コンスタンスがワイルドに尽くすという関係だったと見ていいだろう。


ワイルド一家が1884年に移り住んだチェルシーのタウンハウス。
住所は「16 Tite Street」(現在は34番地)。

 1885年には長男のシリルが生まれ、翌年には次男のヴィヴィアンが誕生。ワイルドの生活は家庭人として変化する。もっと家にいなければという意識が、講演で飛び回る日々から執筆生活へと向かわせたのだ。その結果、『幸福な王子』『カンタヴィルの幽霊』『秘密のないスフィンクス』『アーサー・サヴィル卿の犯罪』といった小説を雑誌に連載をするほか、87年には『婦人世界』という女性誌の編集長も務め始める。週3日、1日1時間程度オフィスに顔を出すだけといういい加減なものではあったが、ワイルドの進言で雑誌の内容は向上し、売り上げも伸びたという。
仕事も家庭もようやく軌道に乗り始めていたが、妻のコンスタンスが2人目の子供を妊娠した頃から、ワイルドは彼女の体型の変化に幻滅するようになっていた。「少年のように細くて優雅だった体が、醜く鈍重になってしまった」と友人に漏らしている。古代ギリシャ文明を愛するワイルドの理想は、若くて鞭の様にしなやかな少年であり、脂肪の多い女性は、ワイルドの美的感覚とは合わなかったのだ。
そんな折、ワイルドはパーティーでカナダから来たケンブリッジ大学の学生、ロバート・ロス(Robert Ross)に出会う。彼の祖父はカナダ首相、父親は駐英大使という家柄で、ワイルドの大ファンを公言していた。さらに、彼は同性愛者でもあった。しかも、18歳の時、自分がゲイであることを母親にカミング・アウトするような、進取の気性を持った若者だったのだ。

ワイルドの妻 コンスタンス
キャンダルの多いオスカー・ワイルドを夫に持ち、常に彼を支えたコンスタンス・メアリー・ワイルド(Constance Mary Wilde、1859~1898)は、ワイルドの才能を信じてさまざまな不安と戦う日々を送った。その美貌はパーティーでも注目の的であり、当時の新聞に彼女の着ていたドレスの詳細が載る程であったが、彼女自身はもの静かで控えめな人物であったようだ。
に対する繊細なセンスをワイルドと共有しており、それは意外な方向で発揮された。ワイルドが2年間『婦人世界』の編集長を務めたことは本文で後述するが、その際ワイルドは妻のコンスタンスに執筆を依頼している。彼女は「今世紀の子供服」というタイトルで、子供服は実用的で着心地がよいものであるべきだ、という良い文章を寄せている。それがきっかけとなり、コンスタンスは「合理服協会」の主催者のひとりに祭り上げられる。これは、いかなる流行であろうと体を変形させたり動きを妨げたりする服やデザインに抗議する集団で、ヴィクトリア朝後期に現れた女性解放運動の一種であった。コルセットで締め付けられたり、極端なハイヒールから解放されなければならない、というのが主張である。ワイルドもたった1人の男性会員として、この会のメンバーに名を連ねたという。
う一つコンスタンスが情熱を燃やしたのが政治。当時女性に参政権はなかったが、女性議員を当選させるため、婦人自由党同盟のサンドハースト男爵夫人と共に奮闘した。ワイルドに対するコンスタンスの我慢強い性格や賢妻ぶりばかりが強調され、こうした活動面はあまり知られていないのは残念なことである。

 


 

運命を狂わす出会い

 ワイルドはこのロバート・ロスによって自分の嗜好を期せずして『発見』することになる。年上の男性が若い男性に経験や知恵を授け、引き換えに若い男性は太陽のように輝くばかりの美しさを提供するという、「古代ギリシャ文明に存在した男性同士の真に崇高な愛のスタイル」だとワイルドは言う。


「ロビー」ことロバート・ロス(1869~1918)

 しかし、奇しくもこの前年、英国では同性愛者を今まで以上に厳しく罰する法律が施行されたばかリだった。富国強兵と帝国主義の道をまっしぐらに進む英国にとって、子孫繁栄を阻害する不毛な同性愛は無用どころか、この世の悪、罰するに値するものだったのである。これに挑むように、ワイルドは「芸術はすべて無用なものである」という逆説的な言葉を残している。
彼がもし、素直に世間の道徳観念に従うような人物であれば、悲劇的な道を歩むことは避けられただろうが、そもそも、ワイルドの作品の数々も生まれることはなかった。運命という言葉で片付けるべきではないかもしれないが、オスカー・ワイルドの才知は、反社会的な環境の中でこそ輝く運命にあったのである。
やがて、ワイルドの思想を散りばめた『ドリアン・グレイの肖像』が1890年に発表されるが、この本はこの時代の価値観である物質主義や富国論、偽善的なモラルなどに真っ向から挑戦していた。「非道徳」で「堕落の頂点に達した」小説だと大きな非難を呼ぶが、ワイルドは「世間が非道徳と呼ぶ本とは、それが社会の恥辱を暴いたからだ」「道徳的な本とか不道徳な本とか言うものは存在しない。よく書けた本かヘタクソな本か、それだけだ」と批判に答えている。
『ドリアン・グレイの肖像』によってワイルドは芸術至上主義者として、ヴィクトリア社会に反旗をひるがえしたのだ。多くの芸術家たちがこの本に感銘と刺激を受け称賛し、ワイルドは遂に「ダンディな服装の社交家」から、革新的な作家へと脱皮したのだった。


ワイルド(左)とボウジー(1893年撮影)。
スティーヴン・フライ主演の映画『ワイルド』では、このボウジーを当時25歳、
美しかりし頃のジュード・ロウ(髪のはえぎわも後退していない)が演じている。

 だが、この成功によってワイルドは一人の青年と出会うことになる。ワイルドが後に身を滅ぼす原因となった、「ボウジー」ことアルフレッド・ダグラス卿(Lord Alfred Bruce Douglas)の出現である。クイーンズベリー侯爵の次男という22歳のボウジーはオックスフォード在学中の学生で、友人から勧められて『ドリアン・グレイの肖像』を読む。大いに気に入った彼はタイト・ストリートのワイルドの自宅を訪れた。ボウジーは小柄でブロンドの美しい青年だった。おそらくワイルドが美の理想とした姿そのものであったのだろう。更に、甘やかされて無軌道で生意気という、美しい者にのみ許される非常にやっかいな性質も持ち合わせていた。ワイルドはあっという間にボウジーの虜になってしまう。ワイルドは37歳になっていた。

 

「英国」相手の法廷対決

 ワイルドと自分の息子が関係を持つことに我慢ならなかったクイーンズベリー侯爵は、ワイルドと会うことを続けるなら勘当し、金銭的援助を打ち切るとボウジーに申し渡すと同時に、ワイルドに何度も嫌がらせを試みている。このクイーンズベリー侯爵というのは、貴族でありながらかなり粗野な人物で、偏執狂的な性格を持ち併せていた。家庭内では、暴君的存在で、ボウジーとの親子仲もよくなかった。
侯爵は、ワイルドの戯曲『真面目が肝心』の初演当日、劇場に野菜クズを投げ込もうとしたり、拳闘家を連れてワイルドの家に乗り込んだり、ワイルドの通うクラブに「男色家を気取るワイルドへ」という名刺を置いて帰ったりという、かなり低俗な行動をとっている。それに対し、ワイルドは侯爵を名誉毀損で訴えるのだが、これは自発的な行為ではなく、これを機に父親に仕返しをしようと考えたボウジーのアイディアだったとする説もある。しかし、この裁判は『ウィンダミア卿夫人の扇』『サロメ』『何でもない女』『理想の夫』と矢継ぎ早に作品を発表し、制作の上で絶頂期にあったワイルドの運命を大きく変えてしまうことになる。


アルフレッド・ダグラス卿(1870~1945)。
ボウジーと呼ばれるようになったのは、彼を溺愛した母親が、
「坊や」を意味するボイジー(Boysie)を縮めた
ボウジー(Bosie)という愛称をつけたことに始まる。

 クイーンズベリー侯爵への裁判が行われ、侯爵には無罪の判決が下る。怒りのおさまらぬ侯爵から、今度は逆にワイルドが男色罪(正しくは複数の青年といかがわしい行為をした猥褻罪)で訴えられてしまう。侯爵は国会議員であった甥の力を利用して、入念な政界工作を施したのだった。しかも私立探偵を雇い、ワイルドと関係した青年たちを集め不利な証言をさせようと待ち構えていたとも言われている。ワイルドが様々な階級の青年たちを知るに至ったのはボウジーの誘いによるものであるが、ボウジー自身は裁判中フランスへ逃れていた。
ワイルドは嘘をつく気も逃げるつもりもなかった。おそらく自分の弁舌の才能に自信を持っていたのだろう。だが、同性愛に対する嫌悪、頑固な階級制度、ヴィクトリア朝の道徳観、つまり「英国」はワイルドを許すつもりは到底なかった。この点をワイルドは過小評価しすぎていたとしか思えない。
下層階級の若者を豪華なレストランに連れて行き、食事を振る舞ったり銀のシガレット・ケースを与えたりするのは、「異常なこと」であるとワイルドはしつこく追求される。
そして、1895年4月4日、公判の2日目に、ワイルドはついに敵の術にはまってしまう。ある一人の少年との関係について「キスをしたのですか?」とダイレクトな質問を受けたワイルドは「まさか。彼は地味な青年で、随分と醜かったんです。気の毒になるくらいでした」と答えてしまったのである。ワイルドがボロを出すことを虎視眈々とねらっていた原告側がこれを見逃すはずはなかった。「醜いからキスをしなかったということですか」という鋭い質問が重ねて発せられた。これは「醜くなければキスをしていた」、つまりワイルドが自ら男色の嗜好があることを認める発言につながる。ワイルドは、次第に追い詰められて行く。また、当時の法律では被告の証言は証拠として採用されなかったため、ワイルドは文字通り孤立無援の状態で法廷に立っていたわけである。
ワイルドの弁護士は国外逃亡を薦めたが、彼は頑としてそれに従おうとしなかった。4月6日、ロンドンのカドガン・ホテルの滞在中に逮捕され、5月25日に有罪判決を受ける。懲役2年、重労働の刑であった。
この結果にクイーンズベリー侯爵は大喜びし、仲間たちと大々的な祝賀パーティーを開いた。かたや、ワイルドの書物は書店から姿を消し、芝居も上演中止となった。ダンディと言われたワイルドが、丸刈りにされ囚人服を着せられると知り喜ぶ人々もいた。
ワイルドはホロウェイ、ペントンヴィル、ワンズワースとロンドン市内の刑務所を点々と廻されたあと、ロンドン郊外、レディングの獄舎に送られる。ここは囚人に特に過酷なことで知られた刑務所で、ワイルドは「C・3・3」という囚人番号で呼ばれることになった。1日6時間「トレッド・ミル」という足踏み式の水車をまわし、郵便配達用の袋も縫わされたとされている。面会に訪れた妻のコンスタンスは、衰弱して傷だらけのワイルドの姿にショックを受ける。多くの友人から離婚を勧められていた彼女だが、ワイルドを見捨てることなど出来ないと考え、出所後も彼を金銭的にサポートすることを約束したのだった。

デカダンスと反プロテスタント主義
「食事も十分出来ない状況下で生きる者に清貧を説くのは酷であり、侮辱だ」。これはワイルドが当時ヴィクトリア朝の英国で美徳とされていたプロテスタントの「清く貧しく美しく」という教えに対して述べた言葉である。贅沢を愛するワイルドがプロテスタント思想を否定するのは、ごく至当なことともいえるが、これを単なるデカダンス趣味と片付けるべきではないようである。当時の英国の状況を簡単に振り返ってみよう。
州は1873年~1896年の間、世界初の同時恐慌(The Long Depression)に見舞われていた。中でも英国は最も激しい打撃をこうむった国の一つといわれており、英国の巨大産業が他の欧州国に対して保っていた優位も失っている。こうした中で真っ先に影響を受けるのは立場の弱い労働者階級であり、貧困層だろう。この時代のプロテスタントの思想は資本主義と深く結びつき、グロテスクな様相を示していた。「低賃金にもめげない忠実な労働を神は深く喜び給う」というのである。支配層は、自分たちはいかにして富を増やすか思案しながら、その一方で労働者たちに勤勉と清貧を説いていたわけだ。産業革命後の労働者は効率よく製品を量産するためのロボットであり、個人の能力を発展させるようなものはすべて「悪い」として潰された。こんな時代にあって「神はいつもおまえを見ている」という言葉は、もはや宗教ではなく脅しであろう。
19世紀末の退廃的なデカダンス文化やダンディズムは、このような風潮に反して現れた、反プロテスタント主義、反全体主義の文化といって良いだろう。「健康的で質素でよく働く」まるでロボットか家畜のような人間が求められる中、不健康でアンニュイなライフ・スタイルが反抗の象徴、一つのポーズだったのである。ワイルドは個人主義の必要性を、その著作「社会主義下における人間の魂」の中で説いており、イエス・キリストは最大の個人主義者だったとも記している。ワイルドが抵抗したのは、ねじ曲げられた当時の道徳観であって、宗教そのものではなかったのだ。後に発表される童話「幸福な王子」は、信仰心なしには書けない作品である。 ワイルドを始めとした世紀末の芸術家たちは、退廃的な背徳者である点ばかり強調されがちだが、当時の時代背景を考えることなしには、彼らの立場を正しく捉えることは難しいだろう。

 


 

旅路の果て

 1897年5月19日、ワイルドはようやく出所した。
出会って以来ずっと友人関係を続けていたロバート・ロスは、ワイルドを同性愛の道へ引き入れたことを深く後悔しており、事件以後は献身的な働きを続けていた。彼はワイルドが劇作家としてパリで再起を図れるよう、当地での暮らしのための準備を整えていたのである。
「セバスチャン・メルモス」という変名を使ったワイルドは、こうしてフランスへ向かう。妻を始め、ワイルドの支援者からの仕送りによる亡命生活の始まりである。ところが、ワイルドはまたも過ちを犯してしまう。獄中では非常な怒りを感じていたはずのボウジーに、手紙を出してしまうのだ。この頃もボウジーは相変わらずの放蕩生活を続けており、金に困るとワイルドからの手紙を売って暮らすような有様だった。ワイルドの手紙に答えたボウジーはフランス北部のルーアンを訪れ、2人は再会する。たった1日の逢瀬だったが、ワイルドの再生への決意は完全に崩壊してしまう。


トラファルガー広場そばのアデレイド・ストリート(Adelaide Street)にある
『A Conversation with Oscar Wilde』と名づけられたオブジェ。

 この再会後ワイルドがボウジーへ宛てた「いとしい私だけの子へ」で始まる手紙には、「美しい芸術作品を創りたいという私の願望は、あなたと一緒でなければ果たせないことに気づきました」とある。この後ワイルドとボウジーはナポリへ遊びに行ってしまい、それを知ったコンスタンスは、さすがに仕送りを停止する。
ナポリで放蕩の限りを尽くしていたワイルドとボウジーは、すぐにすべての金を使い果たす。だが、ボウジーにとって貧乏なワイルドなど、何の魅力も感じられない、ただの中年男に過ぎなかった。2人の関係にも少々飽きてきた彼は、ワイルドの前から姿を消す。
傷心のワイルドが一文無しの状態でパリに辿り着くと、そこで待っていたのは妻コンスタンスの死の知らせであった。脊髄の病を患っていた彼女は、ジェノバでの手術のかいもなく、ワイルドの今後について心を痛めながら死去したのだった。
コンスタンスが病気で苦しんでいたことすら知らなかったワイルドは、自分を責めに責めた。彼女の墓を訪れた後ロバート・ロスに手紙を書いている。「どのように後悔しても、もうどうしようもないという気持ちでいっぱいだ」。墓にはワイルドの名字はなく、「コンスタンス・メアリー、弁護士ホレス・ロイドの娘」とだけ刻まれていた。
ワイルドの精魂は尽き果て、もう創造のための集中力さえ見つけられそうになかった。彼は強力なアブサン酒と友人からの支援に頼った日々を送る。ズボンには穴があき、滞在先のホテルは料金未払いで追い出された。更に健康も悪化し、激しい耳の痛みなどに悩まされ始める。
1900年9月、パリの街は万博で賑わっていた。エッフェル塔が完成し、地下鉄も開通。新しい時代の幕開けである。そんな中ワイルドの体調は悪化し、「アルザス・ホテル」の一室で寝込んでいた。「イングランド人は私が死んでも異議を唱えないだろうね」と、同性愛主義の友人、レジナルド・ターナーに述べている。ターナーは、一時的に所用で不在にしていたロスの代わりに看病につとめていたのだった。


1889年撮影のワイルド。

 10月に部屋で耳の手術を受けるが、経過が思わしくなく、11月に入って意識が混濁し始める。27日、突然「マンスター号では僕に食事を出してくれるかな?」とうわ言を口走る。マンスター号とはウェールズのホリーヘッドからアイルランドへ向かう定期船のことで、ワイルドの心はこの時すでに故郷アイルランドへ向かっていたと想像できる。英国でキャリアの絶頂を迎え、人生を棒にふるほど愛したボウジーと出会ったのも英国だったが、ワイルドが最後に欲したのは故郷での静かな日々だったのかもしれない。
29日、若い頃からの念願どおりカトリックに改宗し、その翌日である1900年11月30日午後1時50分、オスカー・ワイルドは大脳髄膜炎で息を引き取る。46歳だった。枕元にはロス、ターナー、そして宿の親切な主人の姿しかなかった。
かつて「芸術生活とは長い自殺行為である」と語り、「人生は芸術を模倣する」と書いたワイルド。芸術至上主義を謳った彼は、自ら破滅の美学を生きてみせることで、その人生を芸術作品として後世に残したのである。

ワイルドの華麗なる世界
◆◆ 童話 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ワイルドといえば、耽美主義的、皮肉とウィットに富んだ大人向けの作品ばかりを思い浮かべる人が多いだろうが、優れた児童文学を残している。代表作は『幸福な王子』と『わがままな巨人』で、ともにワイルドの子供向け短編集『The Happy Prince and Other Stories』(1888年刊)に収録されている。挿絵は当時の人気挿絵画家ウォルター・クレインとジャコブ・フッドによる。
『幸福な王子』The Happy Prince
ワイルド34歳の時の作品。自己犠牲により他人の幸福を願う人物が主人公。ある町の中心部に、金箔の王子の像が建っていた。その王子の両目は青いサファイア、腰の剣の装飾には真っ赤なルビーがはめ込まれ、美しい王子の姿は町の人々の誇りだった。ある時寝床を探すツバメが王子の足下で寝ようとすると、上から大粒の涙が降ってきた。それは、この場所から見える不幸な人々の姿に涙する王子のもので、彼は自分の体に付いている宝石を不幸な人々に与えるようにとツバメに頼む…。ワイルドの童話の中で最も有名な作品。
『わがままな巨人』The Selfish Giant
キリストと思われる人物も登場する、宗教色の強い作品。近所の子供たちを自分の庭で遊ばせないわがままな大男に、鳥や花そして春という季節すらも愛想を尽かし、彼の庭には冷たい風や雪しかやって来ないようになる。幼い2人の息子シリルとヴィヴィアンのために書かれ、ワイルド自身によって子供たちに読み聞かされたという。
◆◆ 小説 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ワイルドはその生涯に幾つもの戯曲を書いているが、長編小説は『ドリアン・グレイの肖像』が唯一のもの。
『ドリアン・グレイの肖像』(1890年)The Picture of Dorian Gray
年齢を重ねても美貌が衰えない美しい男性ドリアン。彼は享楽的な暮らしに明け暮れるが、代わりに醜く変化していくのは、彼の肖像画だった…。発表当時、主人公のドリアン・グレイとワイルド自身の相似点を挙げる批評家もおり、後の裁判で本作が「証拠」として使われることになる。主人公の名前グレイは、当時関係のあった青年ジョン・グレイから、ドリアンは古代ギリシャの部族の名から取られている。左は、1945年の映画版をリメイクした作品(2009年)のDVD。
◆◆ 主な戯曲 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
テレビも映画もなかった当時にあって、舞台はエンターテインメントとしてきわめて重要な地位を占めていた。特に、当時のイングランドでは上流階級が楽しむ娯楽とされており、戯曲で成功するには、こうした上流階級の観客の支持を得る必要があった。下に挙げたもののほかに、『つまらぬ女』(A Woman of No Importance/1893年)、   『理想の夫』(An ideal Husband/1895年)=写真はその映画版(1999年)のDVD、『真面目が肝心』(The Importance of Being Earnest)(1895年)などがある。
『ウィンダミア卿夫人の扇』(1892年)Lady Windermere's Fan
ワイルドの劇作家としての名声を一躍広めた作品で、4作目の戯曲。これまでワイルドは新訳聖書など古典的な題材を選んでいたが、この作品で初めて現代社会を舞台にした。1本の美しい扇を中心に展開する、謎めいた女性と若く貞淑な妻の対決という有閑階級の恋愛模様をスリリングに描いた風刺劇で、驚きの結末が用意されている。本作は大ヒットし、ワイルドは初公演にして7000ポンドという多額の興行成績を収めたという。ちなみに2004年には『理想の女』のタイトルで、スカーレット・ヨハンソン、ヘレン・ハント主演で映画化されている=写真。
『サロメ』(1892年)
ワイルドがフランス語で書いた、新約聖書を基にした戯曲。洗礼者ヨハネの首を欲しがったヘロデ王の娘サロメについては、これまでもたびたび芸術上の題材になっていたが、ワイルドは切り落とされたヨカナーンの首にサロメが口付けするシーンを加え、これが物議をかもした。1892年に公演を予定されていたが国内公演禁止を通達され、怒ったワイルドはフランス国籍に変えることも考えたと言われている。結局、1893年にフランス語版の戯曲が発表され、英語版は翌年1894年にボウジーの翻訳で出版された(ただし間違いが多く、ワイルドが随分手直しをしている)。世紀末の画家オーブリー・ビアズリーが妖艶な挿絵を提供している=右のイラスト。

 

参考資料
『Brief Lives: Oscar Wilde』by Richard Canning Hesperus Press Ltd
『オスカー・ワイルドの生涯』山田勝・著/NHKブックス
『オスカー・ワイルドの妻 コンスタンス・メアリー・ワイルドの生涯』アン・クラーク・アモール著、角田信恵・訳/彩流社 ほか

 


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