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未踏の地を追い求めた男 キャプテン・クック [Captain Cook]

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2011年9月29日

●取材・執筆/佐々木 敦子・本誌編集部

 

未踏の地を追い求めた男
キャプテン・クック
Captain Cook

ヨークシャーの港町でロンドンへ石炭を運ぶ船を眺めては、
彼方への憧れを膨らませていた少年時代のジェームズ・クック。
「遠くへ行ってみたい」という想いは彼を航海士にし、
やがてはキャプテン・クックとして知られる名船長へ成長させる。
ハワイの発見を始め、彼が海洋冒険家として成し遂げた、
文字通り世界の地図を塗り替えた経緯を紹介する。

 

 2011年に最終飛行を終えたNASAのスペースシャトルと、月面着陸のために作られたアポロ15号は、いずれも「エンデバー(Endeavor)」号と名付けられている。これはクックの第1回南太平洋探検の時に使われた帆船の名前にちなんでいる。エンデバー号が1768年にロンドンのドックランズから船出した時、南半球には「北半球にあるのと同等の、大きな大陸があるのではないか」と考えられていた。そんな時代にあっての海洋探検は、スペースシャトルによる宇宙探索にも等しい期待や危険を伴っていたのではないだろうか。
 新しい土地の発見とその植民地化をめぐり、欧州がしのぎを削っていた時代に生まれあわせた、ジェームズ・クックという一人の男性の波瀾万丈の生涯を辿ってみよう。

 キャプテン・クックことジェームズ・クック(James Cook)は、1728年10月27日、ヨークシャー北部のマートン(Marton)という小さな村に生まれた。当時の英国はイングランドとスコットランドが連合したばかりで、「グレートブリテン王国」が誕生してから20年。次第に「英国」としての国力を高めつつある、上昇の機運に富んだ時期にあった。この時代に多くの優秀なスコットランド人がイングランドへ移住したが、父親のジェームズ・シニアもまたスコットランドの辺境出身で、よりよい暮らしを求めてイングランドにやってきた一人だった。
 彼はマートンではハンサムで性格のいい働き者の小作人として知られ、妻のグレイスとの間に5人の子供をもうける。後のキャプテン・クックとなる次男のジェームズは、8歳から兄と共に農場仕事を手伝い始め、勤勉な親子の姿は村でも有名だったといわれる。  特に利発で明朗闊達なジェームズ少年に感心した領主は、彼を学校にやろうと申し出、ジェームズは農場で働きながら初等教育を修めるチャンスを得る。そして17歳になったところで、両親の勧めもあり町へ奉公へ出ることになる。単なる「勤勉な肉体労働者」以上の人間になるように、というのが彼らの願いであった。
 しかしジェームズが家族と別れて向かったのは、ステイテス(Staithes)というヨークシャー北部の漁村にある雑貨店だった。ここで商売に関してのノウハウを学ぶというのが、ジェームズの父親と店主との間で交わされた約束だったらしい。
 幼い頃から農場で働いていたジェームズは、17歳にしては非常に背が高く、父親譲りの彫りの深い顔立ちをした逞しい青年に成長していた。当時を知る人々によれば、ジェームズの生涯を通して変わらない「自分を信じ、断固とした決断をする」という独立独歩の姿勢は、この頃すでに現れていたという。そんな彼にとって、雑貨店での丁稚奉公は何とも単調な日々だったようだ。よく働くので雇い主にも顧客にも好かれたが、物足りない気持ちを抑えることは出来なかった。
 ジェームズは暇さえあれば港に向かい、漁船やロンドンへ石炭を運ぶ商業船などを眺めていたという。仕事帰りにパブへ行き、そこで漁師たちの交わす様々な話に耳を傾けるうちに、次第に彼は海や見知らぬ土地に対する憧れを募らせていく。

 


 ある時、ジェームズは雑貨店で客の支払った代金の中に、サウス・シー・シリングといわれるジョージ1世のシリング硬貨を見つける。これは新大陸のスペイン領との貿易を目的に設立された、英国の南海会社(サウス・シー・カンパニー)の記念硬貨で、表面にSSCと記されていた。光り輝くその硬貨に魅せられたジェームズは、こっそりレジからサウス・シー・シリングを抜き取ると、代わりに自分のポケットから普通の1シリング硬貨を入れておく。だが彼は、店主に呼ばれ、泥棒の疑いを掛けられてしまう。慌ててことの経緯を説明したおかげで疑いは晴れたものの、ジェームズはこれを機会に店を辞めようと決意。雑貨店に奉公に来て1年半が経過していた。「それで、これからどうするつもりだね?」と店主に聞かれたジェームズは、迷わず「海に出たいのです」と答えていた。

 

海への第一歩

 親切な雑貨店の店主は早速彼を近隣の港町ウィトビー(Whitby)の船主ウォーカー(Walker)に紹介する。ウォーカー家は当地の有力な船主で、商家でもあった。こうしてジェームズは晴れて「海の男」としての第一歩を踏み出す。18歳の時のことである。
 彼は雇い主のウォーカー宅に寝起きしながら、測量法や天文学、数学や航海術などの船乗りになるために必要な事柄を教える地元の学校へ通った。ウォーカー家の年老いた女中は熱心なジェームズをかわいがり、彼が夜遅くまで勉強できるよう、椅子と机、キャンドルなどを率先して用意したという逸話も残っている。
 1747年2月、ジェームズはキャット(Cat)と呼ばれる小型船の見習い(apprentice)として、初めての1ヵ月半に渡る船上暮らしを体験する。ロンドンへ石炭を運ぶこの船には10人の見習いが乗船していたが、ジェームズは中でも最も未経験な1人だった。更に翌年は大型の石炭貿易船である「スリー・ブラザーズ号」で1年半海上の人となる。ミドルズバラ、ダブリン、リヴァプール、そしてフランダース(現在のベルギー)などを訪れたが、この体験は最初の本格的な航海として、ジェームズに深い印象を残したという。

 


1923年にオーストラリアの航海長、
フランシス・ジョセフ・ベイルドンFrancis Joseph Bayldonによって
描かれたエンデバー号

 

 1750年、3年間の見習い期間を終了した彼は、晴れて「水兵」(seaman)と認められ、2本のマストを持ち、バルト海を中心に活動する貿易船「フレンドシップ号」で働き始める。ジェームズはこの後1752年に「航海士」(mate)となるための昇進テストを受け、優秀な成績で合格。「フレンドシップ号」の航海士として3年を過ごす。ジェームズは27歳に達し、そろそろ自分がベテランの域に達しつつあると感じ始めていた。仕事の合間に読むオランダ人やポルトガル人の書いた海洋旅行記などから、まだ見ぬ東洋や米国への憧れも芽生えていたが、彼は地中海にすら行ったことがないのだった。
 そんな時期に、雇い主のウォーカーが、ジェームズにフレンドシップ号を与えようと持ちかける。これは航海士にとっては独立のチャンスであり、大きな幸運だといえる。ジェームズがいかに雇い主の信頼を受けていたかがわかるだろう。
 ところが、ウォーカーはひどく落胆させられることになる。ジェームズはその申し出を断り、「海軍に入隊して、世界を見たいと思います」と答えたのである。もし海軍に入れば、船長どころかせっかく獲得した航海士のランクですらない、水兵からやり直しだというのに。ウォーカーは驚きあきれつつも、入隊のための紹介状を書いてやったのだった。 
 ジェームズにとって、フレンドシップ号がバルト海との往復である限り、その立場が船長だろうと航海士だろうと、大きな違いはなかったのだ。世界を見るためなら海軍でも海賊でも構わなかったのではないかとさえ言えよう。ともあれ、ジェームズには幸いなことに、当時の英国海軍は7年戦争に備え軍備を強化中であり、大々的に志願兵を募集していた。彼は両親のもとを訪れ暇乞いをすると、ロンドンのワッピングを目指す。そこには英国海軍のHMSイーグル号が停泊していた。1755年6月17日、ジェームズ(以下クック)は「熟練水兵」(able seaman)として入隊する。

 


海軍での活躍と新たな才能

 イーグル号の艦長ジョセフ・ハマー(Joseph Hamar)は憂鬱な気分だった。前回の対フランス戦で多くの乗組員を失ったばかりで、満足に人員を集められないまま再び出動命令を受けていたのだ。「人数不足なだけではない。ブリストルから来た25人は水兵ですらない。こんな状態で出航する船は他にないだろう」と嘆く手紙が残っている。そんな中で経験も情熱も備えたジェームズ・クックがどんなに光って見えたことか。彼は乗船後1ヵ月もしないうちに、一等航海士(master mate)の地位に就く。
 イーグル号の任務は英仏海峡周辺の警備だったが、クックは2度の大きな対仏戦に遭遇している。2度目の戦いでは多くの味方を失い、「マストはボロボロ」という厳しい状態だったが、フランス船を拿捕し、チームは御賞金を受け取る活躍をみせた。この戦いはクックにとっては昇進のためのテストでもあったが、彼の勇気と能力が十分に発揮され、最高レベルの成績で士官待遇の航海長(master)へと昇進。1759年には29歳で大型船「HMSペンブローク」号(HMS Pembroke)を任されるに至る。ちなみに航海長とは「複雑極まる帆船の操船、海図の管理の責任を持ち、艦長らの正規海軍士官を戦闘に専念させるための職」であった。正規の指揮権は有さないものの、艦内での待遇や俸給は海尉と同等であり、航海長の方が艦長より年長で、海上勤務年数が長いことが珍しくなかったという。
 ペンブローク号は彼がウィトビーで見習いだった頃、まさに夢見ていたような大型船でもあった。クックはこの船で念願だった大西洋横断を果たし、カナダへと向かう。
 この間、クックは同乗の測量家サミュエル・ホランド(Samuel Holland)から本格的な測量を学ぶチャンスを得る。もともと数学を得意とした彼は、すっかり測量の魅力にはまってしまい、ホランドの助手として測量に同行するほか、艦長の許しを得て自分だけでケベックのセントローレンス(St Lawrence)川河口、ガスペ(Gaspe)湾の綿密な測量も行い、優れた海図を制作した。戦時中の敵地での測量である。昼間でなく夜半にフランス軍の警備の目をぬって行う、命がけの仕事であった。
 一方この頃、時の英首相ウィリアム・ピット(William Pitt)はフランスが北部新大陸(現カナダ)をあきらめるよう、様々な形で重圧をかけていた。1759年、ケベックをめぐる戦いには著名な英将軍ジェームズ・ウルフ(James Wolfe)が参加。クックの作成した先の海図を利用したウルフは、川対岸の岬に築いた砲台から徹底的なケベック市街砲撃を行い、フランス軍を驚愕させた。クックの作成した綿密な海図が、ウルフ将軍のケベック奇襲上陸作戦を成功に導いたのだった。ケベックでの勝利は翌年、英軍のモントリオール上陸をもたらし、北米に置けるフランスの支配は実質的に終わりを告げる。その点から見ても、この勝利は英軍にとっての歴史的な出来事であった。
 今回の測量による貢献でクックは一躍、英国海軍本部と、王立協会(Royal Society)から注目を受けることとなる。
 引き続き1762年まで北米で任務を続け、英国帰還の機会が訪れた時、クックは33歳になっていた。英国へ戻った彼は、まず結婚相手を探し始める。ハンサムで有能な航海長だけに相手探しに困った形跡がない。彼はポーツマス港からロンドンに到着したおり、水兵の町として知られるシャドウェル(Shadwell)で、当時20歳のエリザベスと出会う。1年のほとんどを海上で暮らすクックに、どれ程ロマンティックな恋愛の観念があったのかは分からないが、2人は同年12月21日に出会いから約1ヵ月というスピードで結婚。そして東ロンドンのマイル・エンド(Mile End)に所帯を持つが、その3ヵ月後には早くもクックに測量士としての出発命令が下る。彼はそれからの5年をカナダ東部の島、ニューファンドランド(Newfoundland)島海域の測量に費やしたのだった。
 クックのこの測量によって、ニューファンドランド島海域の正確な海図が初めて作成された。彼は従来の船乗りとは異なり、最新の科学的測量を実行したと言われている。従来はコンパスで方位を確かめながら沿岸を進み目測していただけだったのが、クックは四分儀と経緯儀、測鎖を使って、三角測量と天体観測を行ったのだ。船で移動しながらボートで上陸を繰り返し、船を頂点の1つに利用して三角鎖を作り測量するという根気のいる仕事を繰り返した結果、クックの作成した海図は、現代のこの地域の海図と比べても、ほとんど遜色のない見事な出来だという。こうした科学的業績が評価され、彼は王立協会の会員にも選ばれた。
 ニューファンドランド島海域測量の奮闘を終えた時、「これまでの誰よりも遠くへ、それどころか、人間が行ける果てまで私は行きたい」とクックは記した。そしてその願いに応えるかのように、次の大きな冒険が待ち受けていたのである。

 

クックの海上健康管理法

1793年以前に描かれたとされるクックの肖像画。アラスカやハワイの風景を描いた作品で知られる英画家ジョン・ウェバー作。
 長期の船旅では新鮮な野菜や果物が不足することから、船員の間に壊血病(かいけつびょう)が蔓延した。これは皮膚や歯肉からの出血、骨折や骨の変形などに始まって、肺に水が溜まり、最後は高熱を伴い死に至る病とされる。16世紀から18世紀の大航海時代は、この病気の原因が分からなかったため、船員の間では海賊よりも恐れられたという。
 当時の壊血病予防法はガーリックやマスタード、トナカイの血や生魚など、ほとんど呪術的といってもよい様相を示していた。そんな中、英海軍の傷病委員会は食事環境が比較的良好な高級船員の発症者が少ないことに着目し、新鮮な野菜や果物を摂ることによってこの病気の予防が出来ることを突き止めた。その先例として、クックは航海中出来るだけ新鮮な柑橘類をとるよう命令を受ける。それが功を奏し、第1回南洋航海では、ただ1人の船員も壊血病で死者が出なかった。これは当時の航海では奇跡的な成果であった。
 航海中は新鮮な柑橘類の入手が困難なことから、海軍は抗壊血病の薬にと、麦汁やポータブルのスープ、濃縮オレンジジュース、ザワークラウト(酢漬けのキャベツ)などをクックに支給した。クックはこれらを食べるように部下に促したが、当時の船員は新しい習慣に頑強に抵抗し、最初は誰もザワークラウトを食べなかったという。そこでクックは、ザワークラウトは自分と士官に供させ、残りは希望者だけに分けることにした。そして上官らがザワークラウトを有り難そうに食する姿を見せると、1週間も経たない間に、自分たちにも食べさせろという声が船内に高まったという。これだけに限らず、クックは食事を残す者に対して厳しい処罰を与えた。
 しかしながら長期航海における壊血病の根絶はその後もなかなか進まず、ビタミンCと壊血病の関係がはっきり明らかになったのは、1932年のことであった。

 


最初の南太平洋冒険(1768~1771)

 王立協会は、クックを「金星の日面通過」の観測を目的に南太平洋へ派遣することにした。金星の日面通過とは、金星が地球と太陽のちょうど間に入る天文現象で、19世紀まではこれが太陽系の大きさを測定するためのほぼ唯一の手段だった。そのため国際的なプロジェクトとして欧州各国で観測隊が結成された。クックは18世紀に起きた2回目の日面通過にあたる、1769年の現象観測のため、英国からタヒチに送り込まれたわけである。ちなみに、20世紀は0回、21世紀は2004年が通過の年にあたり、次回はその8年後、すなわち来年2012年である。
 1768年、38歳のクックは、公式の指揮権を有する正規の海軍士官である海尉(Commanding Lieutenant)に任じられ、HMSエンデバー号(HMS Endeavour)の指揮官となった。もともと、エンデバー号はウィトビーで建造された石炭運搬船で、小型ではあるが暗礁の多い海洋や多島海を長期間航海するにはうってつけの性能を備えていた。
 エンデバー号には、様々な人物が調査員として乗り込んだ。熱帯の珍しい植物の採集のために、貴族で植物学者のジョセフ・バンクス(Joseph Banks)、カメラのない時代であったことから、詳細な記録を素描する画家にシドニー・パーキンソン(Sydney Parkinson)、金星の観測のため、天文学者のチャールズ・グリーン(Charles Green)などが選ばれた。さらに、黒人の召使いやペットの犬までが持ち込まれた。
 8月初旬に乗員94人で英国を出帆したエンデバー号は、南米大陸南端のホーン岬を東から西に周航し、太平洋を横断して西へ進み、天体観測の目的地であるタヒチには翌年4月13日に到着した。クックはタヒチに到着する前に、現地の住民と友好的にすること、彼らの生活習慣を尊重し人間的に扱うこと、そして勝手に船内の機材を物々交換に使用しないことなどを船員たちに言い渡した。これは命令であり、背いた場合は罰則が科せられた。異文化や人権尊重の立場からというより、自分たちの命を守るためであったと思われる。食料の調達や日面通過の観測を安全に行うには、現地のタヒチ人の協力が不可欠だからだ。彼らとのやり取りはほとんど身振り手振りで行われた。双方がおっかなびっくりの状態で、小競り合いなどはあったものの、タヒチ人は総じて好意的に接してくれたようだ。
 6月3日の金星の日面通過はクックを含む3人が同時に観測したが、それぞれ別に行った観測は誤差の範囲を越えていた。観測器具の解像度が未だ足りなかったのである。
 天体観測が終了するとすぐに、クックは航海の後半についての英海軍からの秘密指令を開封した。それは、南半球にあるという、北半球の大陸と同サイズの土地、伝説の南方大陸テラ・アウストラリス(Terra Australis) を探索せよ、という指令であった。金星観測を理由にすれば、英国にとってこの航海は、ライバルの欧州諸国を出し抜いて南方大陸を発見し、伝説の富を手に入れる絶好の機会となる、と王立協会は考えたのである。

 


ジェームズ・クックによるニューファンドランド島地図。1775年。
現代の測量技術によって描かれたものとほぼ同じで精度が高い。

 

 南太平洋の地理に詳しいタヒチの青年、トゥパイア(Tupia)の助力を得て、1769年10月6日、クックはヨーロッパ人として史上2番目にニュージーランドに到達。海岸線のほぼ完全な地図を作製し、ニュージーランドが南方大陸の一部ではないことを確認する。また、ニュージーランドの北島と南島を分ける海峡も発見し、これは現在クック海峡と呼ばれている。一行はこの後さらに北西へ向かい、オーストラリアの東海岸に西洋人として初めてたどり着いた。だが海岸線を北上し西にまわったことで、オーストラリアはニューギニアと繋がっていないことが判明、「巨大な南方大陸」も存在しないように思われた。ただし、この航海はジョセフ・バンクスを筆頭にした3人の博物学者たちにとっては、ほかで類を見ない貴重な動植物を採集する素晴らしい機会でもあった。
 調査も終盤に掛かった頃、エンデバー号の船底が浅瀬で珊瑚礁に衝突するという事故が起こる。おりしも大暴風雨の最中で、船には大量の海水が流れ込んだ。上下左右にキリキリ舞いする船内で、クックとチームは50トン近い積荷を海中に投出し、藁や布を使って応急処置を施す。誰もが「もうダメかもしれない」と感じた数日だったが、幸い嵐が治まり、エンデバー号は危機を絶え抜いたのだった。
 また、長い船旅につきもののビタミン不足から来る壊血病は、当時は死に至る病として恐れられていた。クックの知恵によって一人の船員もこの病にかかることなく航海の前半を終え、これは当時としては画期的な快挙であった(11頁のコラム参照)。だが、帰国途中に船の修繕のために寄ったジャカルタで、船員たちがマラリアと赤痢に感染。多くの死者がでてしまう。その中にはタヒチ人のトゥパイア、バンクスの助手を務めたスペーリング、植物画家のシドニー・パーキンソンなどがいた。出発からここまでの27ヵ月の航海ではわずか8名だった死者は、ジャカルタ滞在中の10週間で31名に達してしまったのだった。クックはひどく心を痛め、彼らに対し船長としての責任を果たせなかったことを悔やんだ。
 それでも一行は1771年6月12日イングランドの南部のダウンズ(Downs)に帰着。3年に渡る大冒険は終了する。帰国すると直ぐ航海日誌が出版されクックは科学界で時の人となった。だがバンクスの発表した動植物の調査報告はよりセンセーショナルな驚きをもって迎えられた。彼はほとんど自分一人で航海したように振る舞い、幾つかの土地の発見も自分のものだと吹聴。また、オーストラリアが英国の植民地に適していると発言し、このアイデアはすぐに政府に受け入れられることとなる。これにショックを受けたクックは、ロンドンの喧噪を離れ、妻と故郷ヨークシャーへ向かう。父親や親戚一同に妻を初めて紹介するほか、自分を育てたウィトビーの船主、ウォーカーの元も訪れしばし旧交を温めたという。クックはロンドンの社交界に馴染むことは出来そうになかった。

 


2回目の航海(1772~1755)

 先の航海で多大な功績を残したクックは、海尉から海尉艦長(Commander)へと昇進。帰国の1年後に再び海上の人となる。今回の船は「レゾルーション号」(HMS Resolution)、使命は南方大陸の発見と、正確な緯度や経度を測定できるという新しいマリン・クロノメーターの試用だった。王立協会は前回の捜査結果にもかかわらず、オーストラリアの先に南方大陸があるのではないかと、しつこく考えていたのだ。だが、この想像はまったく間違ってもいなかった。
 クックはオーストラリアのさらに南を行き、1773年1月17日に西洋人として初めて南極圏に突入。あと1歩で南極大陸を発見するところだった。だが帆船での南極圏航行は困難を極めた。船内の食用家畜が次々に死亡し、その結果として船員たちの間に壊血病が流行り始めた。クックはこれ以上の南下は不可能とみて、引き返すことにする。「南方大陸は人類が居住可能な緯度には存在しない」というのが結論であった。クックはレゾルーション号のほかにアドベンチャー号を従えていたが、この船はたびたびレゾルーション号とはぐれたうえ、ニュージーランドのマオリ族に捕らえられて、10人の船員が殺害・解体されマオリ族に食されてしまったという。クックは後に、遺体の残骸が入ったバスケットを見ることになる。

 


ドイツの新古典主義画家、ヨーハン・ゾファニJohann Zoffanyによって
描かれた「ジェームズ・クックの死」。1795年。未完成。

 

 また、ニュージーランドに関して、クックは航海日誌にこんなことも記している。「この国の女性は他の南海の小島の女性たちより貞淑だった。だが、西洋人との接触のせいで彼らは堕落してしまった。男性たちは貿易のために率先して自分の妻や娘を差し出すのだ。この国に西洋人は何をもたらしたのか。文化ではなく、梅毒や低級なモラルではないか」。フロンティアの開拓者として悩む、クックの真摯な人柄が垣間みられる言葉だろう。
 帰路にタヒチで水や食料を補給したレゾルーション号とアドベンチャー号は、ここでオマイ(Omai)というタヒチ人の青年をガイドに雇い、1774年にトンガ、イースター島、ニューカレドニア、バヌアツに上陸した後、南米大陸南端を回り南ジョージア島と南サンドウィッチ諸島を発見した。オマイはこの後アドベンチャー号に残り、船員とともに英国へ渡り、ロンドンの社交界でセレブリティ扱いを受けることになる。
 クックは帰国後に直ちに勅任艦長(Post Captain)に昇進。同時に海軍を休職して、グリニッジの海軍病院の院長に任命された。壊血病の予防に貢献したとして、王立協会からメダルを受け取り、特別会員に推挙もされた。だがクックはまだ48歳。海から離れた暮らしも、メダルをぶらさげてグリニッジに落ち着く自分も想像できないのだった。そんなおり、サンドウィッチ伯から、3回目の航海を勧める知らせを受け取る。出発は思ったよりも早く、前回の旅から1年も経っていない。実はクックは疲れ果てており、常に海水に脚をさらす生活でリューマチも発症していた。
 だが、この機会を逃すともう2度と冒険に出られないのではないかという恐れから、航海記を書き上げた直後に、彼の最後の航海となる第3回航海に出る。船の整備時、背の高いクックがドックランズを歩く姿は地元ではお馴染みの光景だったが、今回は港に行く時間もなかった。前回の旅の記録を記し終えていなかった上、次の航路を決めるため毎日地図と格闘していたのだ。クックのチェックなしで整備されたレゾルーション号は、後にひどい結果となる。だが、1776年6月25日、準備不足のまま、何かに追い立てられるようにしてクックは再びレゾルーション号で出発した。僚船は「ディスカバリー号」、チャールズ・クラーク(Charles Clark)の指揮である。

妻エリザベスの生涯
 海洋探検家を夫に持ったエリザベス・クックは、ほとんどいつも地球の裏側にいる夫の留守を守りながら、どんな思いで暮らしていたのだろうか。現代ならインターネットや携帯電話などで連絡が取れようが、キャプテン・クックの活躍した18世紀には、手紙という手段さえままならなかったはずである。20歳で結婚し、クックがハワイで落命した時エリザベスは38歳。彼女が実際にクックと一緒に過ごした時間は、すべて合わせても4年に満たなかった。
 彼女は3人の息子を女手一つで育て上げる(6人の子を出産するが、3人は生まれてすぐ死去)。彼らはクックの血を受け継いだ優秀な人物に育ちつつあった。だが、海軍に入隊した次男のナサニエルは、クックの死のわずか9ヵ月後にジャマイカで遭難。16歳だった。海軍の海尉艦長(Commander)となった長男のジェームズは、1794年に31歳で海上事故により死去。そしてその数ヵ月前にはケンブリッジ大学の学生だった三男のヒューも猩紅熱で病死している。
 愛する夫ばかりか、その忘れ形見である大事な息子たちも次々と亡くしたエリザベスの悲しみは計り知れない。エリザベスは、彼らの命日には終日聖書を読んで過ごした。彼女を知る人によると「常に黒いサテンのドレスを着て、指にはクックの遺髪の入った指輪をして」いたという。
 エリザベス・クックはその後、英国に鉄道が敷かれ、蒸気汽船が英米の大西洋間を行き来する産業革命期も体験し、やがてヴィクトリア女王の戴冠式を目前に、南ロンドン・クラパムの自宅で息を引き取る。93歳だった。夫のクックと死別してから56年、常に彼との思い出と共に生きたという。

 


最後の冒険(1776~1780)

 今回は、アジアへの最短航路と考えられていた「北西航路」の発見を目的としていた。これは欧州から北西に向かい、北米の北側をまわってアジアに至るルートで、未だに仮説に留まっており、これまで多くの探検家が挑んで来た。つまり北極海をまわって大西洋と太平洋のつなぎ目を見つけようというのである。1745年に英国はこの航路の発見者に賞金を出す法律を成立させ、1775年の法案延長時に、賞金が2万ポンドにまで跳ね上がっていた。この賞金を得ようと考えた英国海軍は、クックに白羽の矢を立てたのだった。
 クックらはオマイをタヒチに返した後に、北へと進路を取り、1778年1月にはハワイ諸島を訪れた最初のヨーロッパ人になる。クック一行はカウアイ島(Kauai)南西部に上陸し、時の海軍大臣でクックの探検航海の重要な擁護者でもあったサンドウィッチ伯の名前をとり、ハワイを「サンドウィッチ諸島」と命名した。
 ハワイはこの時ちょうど農耕神のロノ(Lono)を讃えるマカヒキ祭(Makahiki)の最中だった。古来からロノ神は海から現れるという言い伝えがあり、白い帆を掲げた巨大な船は、彼らにとってはまさにロノ神の乗り物に見えたのだった。こうしてクックらは恭しく現地の人々から迎えられた。特に艦長であるクックの姿は神として認知され、人々はクックの足下に跪いたという。
 また、後のカメハメハ一世として知られるハワイのカリスマ王は、クックの訪問時はまだ25歳の若者だった。198センチの身長を持つ威風堂々としたカメハメハの姿に感銘を受けたクックは、「若くて荒々しい戦士」と日誌にその印象を残している。

 


ロンドンの
グリニッジにある
クックの銅像

イングランド北部の
港町ウィトビーでは、
10代のクックが見習い船員として
働いていた船主の住宅が
「キャプテン・クック博物館」=写真=
として公開されている。


 結局、ハワイを拠点にしながら行った北西航路の探索は、ベーリング海峡の氷山と流水に行く手を阻まれ、どうしてもその先に進むのは不可能で、これはクックを落胆させた。だが、実はこのエリアは氷圧に耐えられる船の出現する20世紀まで、誰も突破できない場所であり、クックには何の落ち度もない。
 一方で、この北洋航海でクックはカリフォルニアからベーリング海峡までの海図を製作し、今ではクック湾として知られているアラスカのエリアを発見。西方からロシア人が、南方からスペイン人が行っていた太平洋の北限探査の空隙を、クックはたった1回の調査でさっさと埋めてしまった。 1779年に北西航路の探索からハワイに戻ったクック一行は、ケアラケクア湾(Kealakekua)で船を整備し、英国へ向かおうとする。クックを神とあがめた住人たちや、常に協力的だった王も見送りに現れ、感動的な別れが繰り広げられた。ところが出発したばかりのレゾルーション号のマストが、おりからの強風で半分に折れてしまう事件が起こる。そればかりか古傷である船底の穴も開き、航海不能の事態に陥る。やむなくケアラケクア湾に戻った一行だが、そこでは意外な変化が起こっていた。
 事故で戻ったクックは、神ではないのではないか。神は事故になど遭遇するわけがない、というのが住人たちの考えであった。クックが王の詰問に答えている最中、一発の銃声が鳴り響く。それは僚船「ディスカバリー号」からで、船長クラークの銃だった。彼は大勢でやって来た住民たちが、船の備品に手を付けたことに気を揉み、威嚇の積もりで空砲を撃ったのだった。しかし、これまで友好的だった船員による威嚇は、住民たちを怒らせるに十分だった。クック一行はあっという間に住民たちと敵対関係に陥る。
 緊張の高まる2月14日、船から盗まれた大工道具のカッターが原因で、浜辺に集まった群衆と小ぜり合いが起きてしまう。船の修理に必要な道具類は何としても失うわけにはいかなかった。塵一つに至るまですべて返還しろ、というクックの態度に住民たちは怒り、また、住人の一人がクックらの捜索隊に殺されたという噂に動揺した結果、ヤリと投石でクックらを攻撃し始める。クックらも住民に向けて発砲するが、騒ぎの中、退却を余儀なくされた。しかし背中を向けゆっくり歩き始めたクックは追って来た住民に後ろから石で頭を殴られ、岩上での大格闘になる。やがて彼は後から追いついた住民たちに次々に組み付かれ、波打ち際に転倒したところを刺し殺された。
 この戦いでクックとほかの4人の船員、17人の住民が死亡した。奇妙なことに、クックの遺体は住民たちに持ち去られてしまう。
 次の日、クックに代わり指揮をとり、船の修理を急ぐクラークのもとに、一人の住民が現れた。手にしていたのは解体されたクックの体の一部だった。きれいな布に包まれていたという。彼は3晩にわたりやって来ては、クックの頭蓋骨、腰の骨、塩漬けにされた右手などを残していった。彼らは宗教の儀式に則って、クックの遺体を食べたのだった。神とされ崇拝されたクックの肉を体内に採り入れることで、自分たちもその力を得ることができる、というのが彼らの考えだったようだ。
 2月22日、クラークたちはクックの骨を正式な海軍の作法で水葬にし、クックの死の知らせは、半年掛かって英国に届けられた。やがて1780年10月4日、レゾルーション号の一行は英国に帰還する。
 クックの死を目撃した船員たちは、クックがなぜ最後の瞬間に逃げずに、また振り向きもせずにゆっくり歩いていたのか気にかかっていた。それはあたかも、戦う気持ちを全くもたない人のようだったという。これは様々な憶測を呼んだ。更に、クックの体調がひどく悪化していたとされる事実も浮上した。前回の旅の後半からクックはひどい腹痛に悩まされ、時には立っていることすら不可能な状態になったという。また彼が時折見せる別人のような姿、やる気や記憶力の減退、激しい気分の上下など、これは今ではすべて腸下部に起きる感染症の症状であることがわかっている。長年にわたり腸の壁がゆっくり浸食される病気だが、もしもクックの体調を知っていたら、サンドウィッチ伯は彼に最後の冒険を依頼しなかっただろう。クックは出発した時、自分がもう英国には戻れないのではないかと考えていたと思われる。
 一度はグリニッジ海軍病院の院長の役職を引き受けたクック。だが「こんな小さな世界で生きていけるものなのか、ちょっと心配です」と知人に手紙を書いている。
 「誰よりも遠くへ行きたい」という少年時代からの願いが叶ってしまったあと、自分には「さらにもっとその先へ」という道しか残されていないことに、クックは気づいたのであろう。だとすれば、クックの最期はまさに彼の望んだ、限界を定めぬ冒険家として理想的なものだったとはいえないだろうか。氷山から南国まで、誰よりも多く、驚くような地球の姿に触れたジェームズ・クック。なんと幸運な一生だったことだろう。

 

クックの通った3航路

は第1回航海(1768 - 1771年)
は第2回航海(1772 - 1775年)
は第3回航海(1776 - 1780年)

 

参考資料
"Captain James Cook" by Richard Hough, Coronet Books
"The Voyage of Captain Cook" by Anthony Cornish, Conway

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