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不思議の国の住人 ルイス・キャロル [Lewis Carroll]

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2011年3月31日 No.670

●Great Britons●取材・執筆/佐々木 敦子・本誌編集部

不思議の国の住人
ルイス・キャロル

『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』といった児童文学の名作を生み出し、英国が誇る作家として現在も世界中の子供たちを魅了するルイス・キャロル。写真家や数学者としての顔も持ち、その憂いを含んだ肖像写真は「ヴィクトリア朝のダンディ」という印象を与える。だが、実はキャロルの生涯はいまだに謎に包まれていることが多く、時代や伝記作家によって、描かれる彼のイメージは大きく異なる。心優しい宗教家、頭の切れる無口な才人、またはポルノまがいの写真を撮る小児偏愛者。数々のレッテルを貼られたルイス・キャロルの素顔に迫ってみたい。

 

 

参考文献  ●「The Mystery of Lewis Carroll」 by Jenny Woolf /2010 Haus Books London

●「不思議の国のアリスの誕生」 ステファニー・ラヴェット・ストッフル著・笠井勝子監修/創元社
●「ヴィクトリア朝のアリスたち」ルイスキャロル写真集 高橋康也/新書館

 

  1865年の出版以来、日本語はもちろんスワヒリ語や、ドイツ語の一方言といわれるイディッシュ語など、現在までに計65もの言語に翻訳され、英米では聖書とシェイクスピア作品に次いで読まれているという『不思議の国のアリス』。白ウサギの後を追ってウサギの穴に飛び込み、奇妙な世界に入り込んだ少女アリスの大冒険を描いた、このおなじみの物語は、31歳の数学者キャロルが、当時「9歳の友人」、アリス・リデルにせがまれ、ボート遊びの際に語ったものを後に文章化して出版した作品といわれる。夏の明るい日射しの中、ボート上で子供たちと楽しげに語らう青年ルイス・キャロルの罪のない姿は、伝記の中で語られる定番であるが、物語のモデルとなったとされる「9歳の友人」アリスとの関係を含め、『不思議の国のアリス』誕生のストーリーを改めて探ってみよう。
ルイス・キャロルことチャールズ・ラトウィッジ・ドジソン(Charles Lutwidge Dodgeson)は、1832年1月27日、ヴィクトリア女王即位を5年後に控え、英国が世界にその国力を示し始めた輝かしい時期に、イングランド北西部チェシャーのデアーズベリー(Daresbury)という、人口わずか150人の小さな村に生まれた。ドジソン家の大半は代々聖職者か軍仕官という、当時の上層中産階級の代表的職業に従事しているが、ルイスの父親チャールズ・ドジソンもその例に漏れず、オックスフォード大学で数学と古典に親しんだ後、この地の教区で牧師を務めていた。 子沢山のドジソン一家において、キャロルは11人きょうだいの3番目の子供にあたり、またドジソン家の長男として生まれている。
当時のデアーズベリー、特に一家の暮らす牧師館のある辺りは陸の孤島とも呼べるほどの辺境の地で、父親がその高学歴には見合わない質素なキャリアを選んだため、大所帯のドジソン一家もまた、つましい暮らしを強いられた。彼らは自ら野菜を育てる半自給生活を営み、子供たちの着る服はドジソン夫人の手作り。一家のもとを訪れたある人はそれを見て、「カーテンの生地を利用したのか、子供たちは布の袋に入ってるみたいだった」と振り返っている。 だが、ここで多くのきょうだいと共に過ごす静かな生活は、終生キャロルが懐かしく思い出す幸せな日々だったようだ。勉強は父親から学ぶホーム・スクール方式で、子供たちは皆敬虔なクリスチャンとして育てられた。キャロルの数学に対する興味も、この時培われたといえる。1843年、父親のチャールズ・ドジソンはヨークシャー、クロフト(Croft)のセント・ピーターズ教会への栄転が決まるが、それまでルイスはこのデアーズベリーで、まわりは肉親ばかりといういわば「無菌状態」の世界に暮らした。
父親の栄転先であるクロフトはデアーズベリーより遥かに大きな教区で、一家の暮らしも次第に楽になっていく。11歳になっていたキャロルは、相変わらず父親の元で数学や古典の勉強に励みながらも、人形劇や芝居、手品、物語の朗読など、様々な遊びを考案しては、弟や妹たちを楽しませていたという。この頃の経験が、キャロルが成長してから幼い子供たちと友人になる上で大いに役に立ったのではないだろうか。

 


 

 

 

写真の発明と流行
 世界で最初の写真は1827年、フランスの発明家ジョセフ・ニセフォール・ニエプスによって撮影されたが、これは明るい日光の下で8時間もの露出を必要としたという。だが1839年に鉄板写真といわれるダゲレオ・タイプの写真が発明されたことで、時間は大幅に短縮され、肖像写真の流行が起こる。19世紀後半の作家や音楽家の肖像写真などはほとんどこのタイプだといってよい。さらに複製写真の作れるカロ・タイプ、ガラス板を使ったネガのコロジオン法など次々と新しい技術が生みだされ、それと共に写真技術は一般にも広まっていく。
ルイス・キャロルが使用したのも、1850年代に主流となったこのコロジオン法の写真技術だった。色あせの少ない印画紙も開発され、以前より格段に繊細な空気や光なども表現できるこの技術は、風景写真や報道写真に適し、クリミア戦争の様子や植民地化した異国の風景などが驚きを持って人々に迎えられた。当時開国したばかりの日本もこの技術で撮影されている。この頃から自らカメラを購入する裕福なアマチュア写真家が登場する。ヴィクトリア女王とアルバート公も夢中になり、ウィンザー城に暗室を作らせた程だという。さらに、英国写真協会が設立され、第1回の展覧会が開催されたのは1853年だった。若いキャロルはまさに、新しい文化が生まれるところに立ち会った世代といえよう。キャロルがカメラを購入したのは1856年3月18日。前述の展覧会を見て刺激を受けた彼は、ロンドンで撮影機材一式を揃えている。
当時英国の美術界を牽引していたのはラファエロ前派だが、同時期の写真にも大きな影響を与えている。ガブリエル・ロセッティの描く憂いを含んだ女性の肖像を始め、理想の女性像や、移ろいやすい美を描いた彼らの作品は、露出時間の長さのために限られていた、当時の写真の構図にもヒントを与えた。キャロル自身、ガブリエル・ロセッティのお気に入りのモデルであるヘレーネ・バイヤーを撮影しているが、手すりに寄り物思いに耽る姿は、ラファエロ前派の作品を彷彿とさせる。

 

◆◆◆ 家族と離れて ◆◆◆

 


キャロルが撮影したリデル姉妹。右端がアリス。1859年撮影
  12歳になったキャロルは、クロフトから15キロ程離れた、規模は小さいが評判のよい私立の寄宿学校リッチモンド・グラマー・スクール(Richmond Grammar School)に入学する。住み慣れた家を離れ、リッチモンド校の校長宅に下宿した彼は、そこで2年間、総じて楽しい生活を送ったようだ。校長は若いルイス・キャロルに大変感心し、彼の父親に向けて「非常に優れた才能の持ち主である」こと、そしてルイスが「重要な問題には妥協しないが、小さな誤りには寛大である」と手紙を送っている。喜んだ父親がいつまでもその手紙を大事に保管しておいたことはいうまでもない。
その2年後、キャロルは英国で最も古い歴史を誇る私立寄宿学校のひとつ、ウォーリックシャーのラグビー・スクール(Rugby School)に入学。だが荒々しい校風を持つ同校での3年間は、もの静かで心優しいキャロルにとってはきわめて苦痛だった。寄宿舎での低学年の生徒へ向けたイジメや嫌がらせといったお決まりの慣習に苦しみ、野蛮な男子生徒たちを忌み嫌ったキャロルは、自分が高学年になってからは、幼い生徒たちを守るという保護監督者の役割に徹したという。沢山の弟や妹たちを持つ長男の彼には、それはおそらく自然な行為だったのだろう。キャロルがラグビー校を卒業した後も、彼の守護神ぶりはしばらく生徒たちの間で語り継がれていたという。
成績は優秀ながら、ここでの日々にうんざりしていたキャロルは、クロフトに住む家族に向けてたびたび長い手紙を送っている。だがそれは現状を嘆いたものではなく、自分の毎日を面白おかしく綴ったもので、読んで楽しいエンターテインメント色の強いものであった。また同時に、彼の妹や弟たちにも参加を要請した「家族雑誌」も発行する。それは身近なニュースや挿絵、そしてウィットに富んだ詩などで構成された、後の「ルイス・キャロル」の萌芽がみられるような内容だった。
1850年、キャロルは父親の母校であるオックスフォード大学のクライスト・チャーチに入学。当時のクライスト・チャーチは優秀な学生が学ぶ場である一方、裕福な貴族の息子たちが当主となる前の数年を費やす、娯楽場のような場所でもあった。彼らはギャンブルやキツネ狩りを楽しみ、勉学には全く興味を示さない享楽的な人種であり、キャロルのような学生たちとは一線を画していたといえる。
そして、キャロルの大学入学のわずか2日後、母親のフランシスが47歳の若さで病死する。髄膜炎か脳梗塞と思われる脳の疾患が原因であった。母親に関しての彼の記述は少なく、ルイス・キャロルと母親の絆はかなり希薄だったと思われる。それは決して母親に愛情がなかったり、キャロルが母親嫌いだったという証拠ではない。むしろキャロルは幼い頃から母親の愛情に飢え、常に彼女の関心を買おうとした。寄宿舎に暮らしながら家族に向けて長い手紙を書いていたのも、母親のことが頭にあったからだとさえいわれる。
だが、子供の多いドジソン家では、長男としてのキャロルの存在は地味なものであった。きょうだいたちの間では絶大な人気を誇るキャロルだが、母親にしてみれば、数多い子供の中の手のかからない一人として、溺愛の対象にはなり得なかったようである。さらに、ドジソン家の子供たちは吃音症のキャロルを含め全員が何らかの言語障害を持っており、彼の妹の中には自閉症めいた症状を持つ者もいた。そのため母親は彼らの世話に忙しく、現に幼い頃、キャロルの身の回りの世話をしていたのは、2番目の姉だったという。
このことは、『不思議の国のアリス』で、最終的に夢から覚めたアリスが「姉の膝の上」で目を覚ましたこと、さらに『不思議の国のアリス』、あるいはキャロルの最後の作品『シルヴィーとブルーノ』でも、成人した女性は「トランプの女王」や「皇后」など、いずれも規則に縛られた愚かな権力者として登場することなどから、母親の不在は彼の作品にも少なからず影響しているように思われる。

  


 

◆◆◆ アリスとの出会い ◆◆◆

 


キャロルが撮影した7歳のアリス・リデル。1860年撮影
  母親との関係は希薄だったが、キャロルにはお気に入りの叔父がいた。名をスケフィントン・ラトウィッジ(Skeffington Lutwidge)という。彼は母親フランシスの弟にあたり、法廷弁護士としてロンドンに暮らしていた。彼は鷹揚なキャラクターで、新しもの好き。当時発明されたばかりの望遠鏡や顕微鏡といった光学機器に多大な興味を持ち、彼の情熱はキャロルにも伝わった。やがて彼はこの叔父から写真の技術を学ぶことになる。
1852年、20歳のキャロルはまだ学部生だったが、数学の試験で「第1級」を獲得し、特別研究生の地位を得る。この地位を得た者は生涯クライスト・チャーチに留まり、年俸をもらいながら自由な研究をすることを保証されることから、キャロルにとってはまたとないチャンスの到来であった。かつて、彼の父親であるチャールズ・ドジソンもこの資格を得たことがあったが、彼はほかの有資格者同様、数年でこの身分を放棄した。というのも、特別研究生であり続けるには、聖職の資格を取らなければならないうえに、独身でいることも条件のひとつだったからだ。しかし、ルイス・キャロルはこの身分を放棄することなく、生涯クライスト・チャーチに留まり続けることになる。
1854年に学士号を取得した彼は、正式な数学教授になる試験にも合格し、本格的にクライスト・チャーチに腰を落ち着ける。この時ルイス・キャロルはまだ23歳だった。翌年、保守的で知られる学寮長(クライスト・チャーチの最高運営責任者)が老齢のため死去。新たに赴任してきたのは名門ウェストミンスター・カレッジで校長を務めていた44歳のヘンリー・ジョージ・リデル(Henry George Liddell )であった。若くカリスマ的な魅力に溢れるリデルは、次々に校内システムの改革を行う。キャロルも改革に伴う議論にスタッフの一員として参加したという。だが、キャロルに最も大きな影響を与えたのは校内改革ではなかった。リデルは妻と4人の子供たち―長男のハリー、そしてロリーナ、アリス、イーディスの3姉妹―を伴いオックスフォードに赴任してきたが、この次女のアリス・リデルこそ、やがて『不思議の国のアリス』誕生のきっかけとなり、キャロルの人生を大きく変える存在となるのである。
この頃キャロルの新し物好きの叔父は、持ち前の好奇心で新しい写真技術をマスターしていた。忠実な聞き手であるキャロルに、早速その技術を披露したのはいうまでもない。当時の写真はまだ発明されてから日も浅く、撮影や現像に大変な労力と時間が費やされていた時代である。だが元来細かい作業を厭わない性格のうえ、叔父の影響を受けたキャロルは、自らもカメラを購入。被写体は、かねてから考えていたリデルの幼い子供たちであった。
キャロルは当初長男ハリーの美しさに驚き、「今まで会った中で一番ハンサムな少年だ」として家族に撮影許可を貰った。最新機器である「カメラ」の被写体になるということは、子供たちばかりではなく、家族全員にとっても新鮮な出来事であったに違いない。親としても、我が子の幼い肖像を手元に残せる貴重な機会だったはずである。こうしてキャロルとリデル一家との交遊が始まった。

 


 

◆◆◆ 『不思議の国のアリス』の誕生 ◆◆◆

 


キャロル(右から3人目)とジョージ・マクドナルドの家族。1862年撮影
  リデル家の子供たちは、しばしばクライスト・チャーチ内のルイス・キャロルの自室を訪れている。そこには子供が大喜びしそうなオモチャや複雑な機械がところ狭しと並んでおり、薄暗くてまるで秘密の隠れ家のようだったという。子供たちはルイスが集めた撮影用の子供服、例えば物乞い風のボロボロのドレスや、ジプシー風の衣装、当時流行だったオリエンタルな小物などを自由に選び出し、キャロルの求めに応じてポーズをとった。天気の良い日ですら、屋外で1枚の写真を撮るのに45秒もかかる時代に、子供たちを一つのポーズのままでじっとさせておくのは、本来なら至難の技である。
だが、キャロルの子供に対する持ち前のサービス精神と、彼が即興で語る奇妙で愉快な物語に、彼らは退屈を感じず、リラックスして撮影に臨んだ。その結果、写真に残る子供たちの表情は当時としては意外な程に自然である。成長したアリス・リデルも、1932年にジャーナリストのインタビューに答えて、「ドジソンさん(ルイスの本名)の部屋の大きなソファに座って、皆でお話を聞くのは本当に楽しかった。写真も全然苦にならなかったし、お部屋へ行くのが楽しみでした」と語っている。
『不思議の国のアリス』の物語が生まれたのは1862年の7月4日、この頃子供たちが「ドジソンさん」と頻繁に行っていたピクニック先でのことだった。この日は、キャロルの大学の同僚で、歌のうまいロビンソン・ダックワース(Robinson Duckworth)も参加し、子供たちと共にテムズ川でのボート下りを楽しんだ。夏の日射しが水面に反射する、後にキャロルが「金色の午後」と形容した日であった。
舟の上でいつものようにアリスにお話をせがまれたキャロルは、懐中時計を手に大急ぎで走ってくるウサギの場面を語り始める。ボートを漕いでいたダックワースが振り返り、今即興で作った話なのかたずねると、キャロルは「そうなんだ。まず女の子をウサギの穴に落としてみたんだが、その後どうするか、続きは考えてなかったんだよ」。キャロルはよく即興で物語を作って彼らに話を聴かせていたが、自分と同じ名前の主人公が登場するその日のお話をとりわけ気に入ったアリスは、「私のために文字にして書いて」と頼んだという。
アリスのこの「お願い」がきっかけとなり、キャロルは翌日から物語を書き始めた。当初『地下の国のアリス』と名付けられたこの手書きの本は1863年2月10日に完成し、キャロル自身がイラストを付け、1864年11月26日にアリスに手渡された。
当時キャロルの知人で、彼が「師匠」とあおぐ詩人で聖職者のジョージ・マクドナルド(日本でも『リリス』などの妖精文学で知られる)からの勧めもあり、キャロルはこの手書きの本を正式に出版することを考え始める。マクドナルドの6歳になる息子も「この本は6万部くらい刷ったらいいね!」と大絶賛し、キャロルを勇気づけたという。
正式な出版を前にキャロルは文章に手を入れ、更にプロのイラストレーターを探した。子供の本にあって挿絵がどれ程重要か、キャロルは理解していたのだろう。1864年、人気風刺雑誌『パンチ』の編集者であるトム・テイラーの紹介で、キャロルはその雑誌の売れっ子イラストレーターとして活躍するジョン・テニエル(John Tenniel)と契約を結ぶ。テニエルは観察眼が鋭く、また動物の生態に関する知識も豊富に持ち合わせており、ウサギを始め、芋虫やヤマネ、ウミガメやドードー鳥などの動物がぞろぞろ出て来るキャロルの物語には適任だった。
キャロルとテニエルの間で交わされたはずの、当時の記録はほとんど現存しない。しかし、自分のイメージにこだわるキャロルは、しばしばテニエルのイラストに文句をつけ、出版にこぎ着けるまでに2人の仲はかなり険悪なものになっていたといわれる。本の出版費用はイラスト代も含め全てキャロル自身が負担することになっていたので、彼は出版社のマクミラン社に対しても妥協することはなかったのである。。


1898年発行版の『不思議の国のアリス』
1865年、『不思議の国のアリス』と改題されてオリジナルの二倍の長さに書き改められた物語がついに出版される。部数は2000冊。キャロルは早速友人や家族に配ってまわる。ところが、イラスト担当のテニエルから「待った」の声がかかる。出来上がりを見たテニエルは、挿絵の印刷が気に入らないというのだ。残された初版本を見ると、インクの盛り過ぎで字が裏面に透け、挿絵部分に重なっている。それが理由なのかはっきりとしたことは分からないままだが、キャロルは初版をすべて回収し、文字組みから全部やり直すことになった。その時のキャロルの日記には「今度の初版の2000部が全部売れたとしても200ポンドの損害。第2版の2000部が売れれば、300ポンドの費用で500ポンドが入るからそれで収支は合う。もっと売れたら利益が出るが、そんなことは無理だろう―」と憂鬱な文章が並んでいる。
それから3ヵ月後の1865年11月、名作『不思議の国のアリス』は無事出版され、好評を持って迎えられた。人気イラストレーターであるテニエルが挿絵を描いていることもあり、1867年までに1万部を売り上げ、1872年には3万5千部に達した。収支が合えばいいが、と気を揉んだルイス・キャロル自身もさぞ驚いたことだろう。
テニエルに差し止められた初版本の2000部は、1950部が未製本で紙の束のままだった、キャロルはこれを米国の出版社に売却。友人や家族に配った製本済みの50冊に関しては、キャロルは新しい版が出来た時に返却してもらっており、それはそのままロンドンなどの子供病院に寄付された。これらが後に大変な価値をもつことになったのは想像に難くない。一方、世界に一冊しかないキャロル自身による挿絵のついた手書きの『地下の国のアリス』は、1926年に夫を亡くした74歳のアリスによって売却された。そしてサザビーズのオークションで当時の史上最高額である1万5400ポンドで、米国のディーラーのもとへ渡る。だが、1948年には大英図書館に寄贈され、現在も同図書館に展示されている。

 

キャロルの宗教観 キャロルが11歳まで、牧師の父親から家庭内で教育を受けたことは本文でも述べた。子供の時に習った教え、それは抽象的な教義ではなく、日常の出来事に絡めた「悪いことをすると地獄に堕ちる」「神様はどんな時も、いつも私たちを見て下さっている」というような、幼い子供にもわかりやすいもの、または、聖書の読み聴かせであっただろう。キャロルの宗教観はここから出立しており、またここから発展することはなかったといわれる。オックスフォード大で特別研究生の地位を得たキャロルだが、実は生涯「聖職」の地位に就くことはなかった。これは彼の中で、「信仰心」と「論理的に考える」ことがどうしても一致せず、生徒に向かって教えを説くことが不可能だったからだという。当時はダーウィンが『種の起原』を発表したばかりであり、人間は神によって作られたという聖書の前提が大きく揺らいでいた。神の存在は疑わないが、ダーウィンの説に深い興味を抱くキャロルが、当時この2つを繋ぐラインを見つけられずにいたとしても無理はない。そんな風に迷うルイスは、自分には教える資格がないと考えていたようである。
自分が聖職に就き、他の人々に教えるなど神への冒涜だとして、ルイスは聖職義務の免除を学校側に訴える。本来なら聖職に就かない学生は研究生の特権的地位を失うはずだが、彼の悲鳴に近い度重なる嘆願は学長に聞き入られた。
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植民地主義や産業革命による貧富の差の拡大など、ヴィクトリア時代の英国は、成長期の社会に見られる弱者切り捨ての風潮が蔓延していた。その一方で、この時代の道徳観念は極端な程に厳しく、しばしば偽善的な様相を示したことでも知られる。ラグビー・スクール時代のひどいイジメや、オックスフォード大で遊ぶ傲慢な貴族の姿、そして植民地に対する英国の態度など、キャロルは権力を振りかざす者に対する嫌悪感を常に抱いていた。貧困状態にある女性や子供の保護、犯罪人の更生などに携わるチャリティ団体などに定期的な寄付を行い、その数は30を超えていたという。
また、キャロルは『鏡の国のアリス』の中で、7歳6ヵ月だというアリスに向かって、ハンプティ・ダンプティに「7歳でやめておけばよかったのに」と言わせている。キャロルにとっては、大人になることは「罪を犯す者になること」だったのではないだろうか。

 

 


 

◆◆◆ 「金色の午後」の終わり ◆◆◆

 

 1863年の6月頃まで、リデル家の3人姉妹とキャロルの関係は良好で、6月にもいつものようにピクニックに出かけ、キャロルの日記にもその時の楽しげな様子が記されている。しかし、その次のページはカミソリで切り取られ、次に姉妹に関する記述が出てくるのは半年後。しかも、街で偶然リデル姉妹とその母親に出会ったキャロルは「私は彼らに対し超然としていた」と記している。半年前のピクニックで何が起きたのか。肝心の日記が切り取られているため、詳細はわからない。これはキャロルの死後に日記を整理した親族(彼の義妹)が、一家のために公にしたくない事実があったため削除したと言われている。
だが、切り取られたページのためにドラマティックな憶測がなされ、キャロルが「アリスに交際を申し込んで断られた」説や「長女のロリーナに結婚を申し込んで断られた」説が囁かれている。この頃アリスは11歳、ロリーナは14歳である。現在の常識にしてみればあり得ない話だが、ヴィクトリア期の英国の法律では、14歳からの結婚が認められていた。おそらく真相は、婚期の近づいた娘たちがキャロルと会い続けることであらぬ噂を立てられ、結婚のチャンスを逃すことを恐れた母親が、これ以上子供たちと会わないでくれとキャロルに告げた、といったものではなかったかと考えられる。真実は往々にして想像よりも地味である。だがいずれにせよ、真相の程は分かっていない。こうしてキャロルとリデル姉妹との友情は終わりを迎えた。
この頃のキャロルは創作意欲旺盛な時期だったといえる。『不思議の国のアリス』の出版で、ラファエロ前派の画家ダンテ・ガブリエル・ロセッティ、ウィリアム・ホルマン・ハント、ジョン・エヴァレット・ミレイなど同時期のアーティストたちとも交わり、多くの影響を受けた。
授業があまりにも退屈で、学生の間からキャロル・ボイコット運動が出た程と伝えられるが、大学では教授として講義を続け、キャロルは数学の参考書『行列式初歩』を出版するほか、舞台の脚本を書くことにも興味を示した。これは彼が子役時代からファンだったという女優、エレン・テリーと知り合ったこととも関係があるだろう。彼女はキャロルの数少ない「成人した女性」の友人であった。彼は、テリーの大人になっても損なわれなかった純真な子供のような性格を愛したという。
そんな中、1868年にキャロルの父親、チャールズ・ドジソンが急死する。晩年はリポン大聖堂大執事という「高教会派」の重鎮となっていた父親の死は、キャロルにはひどいショックであった。父親を尊敬し、彼の足跡を辿っていたキャロルは後に、父親の死は「生涯最大の損失」であったと書いている。
さらに、長男であるキャロルはドジソン一家の跡取りであるため、父の亡き後家族を養う義務があった。当時36歳のキャロルを筆頭に十一人きょうだいのドジソン家は誰も結婚しておらず、また自活しているのはキャロルだけであった。当時彼が持っていたバークレイズ・バンクの口座は、家族や親戚関係のためにたびたび赤字を記録した。その上、彼は多くのチャリティ団体にも定期的な送金を行っていたという。
やがて1872年にアリスの冒険を描いた続編『鏡の国のアリス』が出版される。キャロルは本作の執筆に数年を費やした。ガイ・フォークスの前日、暖炉の上に掛けられた鏡を通り抜けて、またもや不思議な世界へ迷い込んだアリスを描き、ハンプティ・ダンプティなどの新たなキャラクターの登場する本作は、前作『不思議の国のアリス』に続く大ヒットとなった。
ヴィクトリア女王が人気作家となったキャロルに「あなたの著書を送って欲しい」と依頼したところ、本名であるチャールズ・ドジソン名義の数学本『行列式初歩』を受け取って驚いたという逸話も残っているが、真偽の程は定かではない。

 

◆◆◆ ロリコン伝説の誕生 ◆◆◆

 

 40代になったキャロルは自ら「老人」と名乗り、以前のように演劇鑑賞に出かけたり友人と議論を戦わせたりすることが少なくなった。180センチの細身の姿に白髪のまじったダーク・ヘアのキャロルは、年齢より若く見えるくらいだが、精神的に老成してしまった彼は、一人で歩く長い散歩を好んだ。距離にして毎日30キロ以上。冬でも決してコートを着ない彼は、やがてそれが原因で命をとられることになる。あれほど好きだった写真も、ある時期からパタリと撮影をやめてしまい、もともと細かい性格が更に気難しくなる。大学構内の彼の部屋に供される「3時のお茶」の湯加減や、昼食のタイミングなどに対するクレームの手紙が現存し、そこには子供相手に自作のナンセンスなストーリーを語る、チャーミングな青年の面影はない。

キャロル自身による肖像写真。1875年5月撮影
Courtesy of the National Museum of Photography, Film and Television, Bradford
 彼は著作に没頭するほか、オカルトやホメオパシー(体の自然治癒力を引き出す自然療法)の研究にも熱心に取り組み始める。やがて50歳を前に数学講師のポストも退き、「教授社交室主任」という一種の世話係へ転じた彼は、今後の人生を執筆活動一本に搾ろうと決意する。当時のヴィクトリア朝の平均寿命は40歳程度であり、キャロルが「今のうちに成さなければ」という心境になったとしても、不思議ではない。
ユークリッド幾何学に関する『ユークリッドと現代の好敵手たち』、詩集『ファンタズマゴリア』、キャロルの得意とする言葉遊びの本『タブレット』や『枕頭問題集』、そして長編としては最後の作品となる『シルヴィーとブルーノ』の執筆など、キャロルは精力的に著作活動を行う。『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』をもとにしたオペレッタの芝居の企画もあり、劇作家ヘンリー・サヴィル・クラーク(Henry Savile Clarke)の協力によって1886年にはロンドンのプリンス・オブ・ウェールズ劇場で初演された。このオペレッタはその後約40年間にわたり、クリスマス・シーズンになると公開される馴染みの演目となる。
一方、数学者としての彼は、当時起きていた論理学に関する変化にも深い興味を抱いていた。それは、言葉の代わりに数学の演算規則をあてはめ、概念や観念を記号変換することで合理的に理解しようという思想だった。1896年『記号論理学』を著したキャロルは、これを自分の最も重要な作品と位置づけている。
だが、引き続き第2巻の執筆に取りかかった彼は、家族の住むギルフォード(Guildford)で風邪をこじらせ、気管支炎を併発。かねてから喘息気味ではあったものの、医師の勧めで運動器具を購入するなど健康に気遣っており、この年齢にしてはなかなか健康である、とのお墨付きも貰っていたキャロルだが、ペニシリンなどの抗生物質のないこの時代、肺炎は結核を上回る程の死亡率を持つ死に至る病だった。180センチの身長で体重65キロというやせ形のキャロルの体力では、この病に絶えることができなかったのだろう。
1898年1月14日、ルイス・キャロルは彼の愛する妹たちに囲まれて死去する。66歳になる2週間前だった。
実はチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンこと、作家ルイス・キャロルの伝説は、彼の死後に生まれたといってもよい。生前も人気作家として活躍はしたが、彼の人物像を謎めいたイメージに変えたのは、20世紀に入り、ナボコフが『ロリータ』を著し、フロイトが『性理論』を唱え始めてからだった。ルイス・キャロルは20世紀前半のジャーナリストたちから「小児愛者」のレッテルを貼られ、フロイトの思想に基づいて『不思議の国のアリス』が解読された。「彼はロリータ・コンプレックスだった」というわけである。
もしルイス・キャロルが生きていてこれを知ったら、どんな反応を示すかは分からない。だが、以下のような言葉が残っている。
キャロルの晩年である1893年に、妹のメアリーがキャロルに向かい「少女たちと親しくするのは、世間の噂になるのではないか」と心配の手紙を送ったことがある。それに対するキャロルの返事は次のようなものだった。「人の目を気にしてばかりいると、人生は何もできないまま終っちゃうよ」。これは彼の毛嫌いした、偽善的なヴィクトリア朝の風潮に対する批判でもあるだろう。
女性の脚を連想させるからと、椅子の脚までが「わいせつ」とカバーをかけられ、それが転じて「足」という単語さえタブーになったというこの時代。その一方ではほんの10歳の子供が売春婦として街角に立っていた時代。それがルイス・キャロルの生きたヴィクトリア時代だった。もし彼をロリコンと呼ぶならば、ヴィクトリア時代の英国もまた同様の、あるいはさらに重症な『患者』としての呼び名を与えられなければ不公平ではないだろうか。

 「黙っておれ!」と 女王が言いました。
「いやよ!」とアリスが言いました。
「あなたたちなんて、ただのトランプじゃないの!」
(『不思議の国のアリス』
高橋康也/高橋迪訳から)

 

 


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