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ロンドン復興に生涯を捧げた、超人クリストファー・レン(Sir Christopher Wren)

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2010年9月30日 No.645

取材・執筆/根本玲子・本誌編集部

ロンドン復興に生涯を捧げた
超人クリストファー・レン

ロンドン大火後の街を復興するという壮大な都市計画に携わり、
シティの麗しきランドマーク聖ポール大聖堂を完成させたクリストファー・レンChristopher Wren。
建築一筋の人生と思いきや、天文学者、数学者としても活躍したのち
建築家として天才的な才能を発揮するという華麗なキャリアの持ち主だった。
今回は英国が誇るこの偉大な建築家の生涯を辿ってみたい。

 

 英国王家の教会堂ウエストミンスター・アビーと並び称される聖ポール大聖堂。英国国教会の代表的な司教座聖堂として様々な国家的式典が行われるほか、ネルソン提督やチャーチル首相、ナイチンゲールなど英国要人が眠っていることでも知られる。
 チャールズ皇太子と故ダイアナ元妃が挙式したり、最近ではエリザベス女王の80歳の誕生日を祝う式典が催されたりしていることから、その名前に馴染みがある人が多いのではないだろうか。 
 優雅で壮大なドームが印象的なこの大聖堂については、グリニッジ展望台やリッチモンド・パークなど、市内の主要な規定ポイントからこの大聖堂が常に見えるよう、それらのポイントと大聖堂を結ぶ線上には高い建物を建てることを禁ずる「ビューイング・コリドー」という建築規制が設けられているという。
 この麗しい大聖堂を完成させたのが17世紀の建築家クリストファー・レン(1632―1723年)である。
 レンは1632年、イングランド、ウィルトシャーで王党派(イギリスの内乱期において議会派に対抗し、国王を支持した貴族たちによる派閥)の聖職者の家庭に生まれた。オックスフォード大出身の聖職者である父クリストファー・レン(同名)には、前年に長男が誕生し、父親と同じくクリストファーと名付けられたが生後まもなく死亡。翌年誕生したレンは待望の息子であった。父親はウィンザー主席司祭で高学歴のエリート、母親のメアリーはウィルトシャーの大地主の1人娘で父の遺産を相続しており、経済的に恵まれた境遇にあったレンだが、母メアリーは2歳年下の妹エリザベスを出産した後しばらくしてこの世を去り、レンは姉スーザンを母親代わりにして育つ。レンは小柄で病弱だったが絵の才能に恵まれ、同じく聖職者だった父方の従兄弟と仲が良く、兄弟のような関係だった。チャールズ1世の息子、つまり皇太子も遊び仲間だったという。

◆◆◆ 科学への扉 ◆◆◆

 体が丈夫でなかったこともあり、レンは父親と個人教授による教育を受けたのち、9歳でロンドンのウエストミンスター・スクールに進学する。この頃すでに科学の世界に魅せられ、ラテン語で父親に手紙を書くといった神童ぶりを見せていたという。
 レンの1族は王党派で、王室の恩恵を厚く受けていたことから、1642年に清教徒革命が勃発すると、叔父のマシュー・レンは議会派によって捕らえられ、ロンドン塔に投獄されてしまう。このためレンの父親は疎開を決心し、家族を引き連れブリストルへと移る。レンが01歳になった頃、スーザンが音楽理論家で数学者のウィリアム・ホールダーと結婚したことをきっかけに、一家は彼女の嫁ぎ先オックスフォードシャーへと居を移す。レンの義理の兄となったホールダーはレンの数学教授的な役割を果たし、彼の学術的、知的成長に強い影響を及ぼしたとされる。彼に天文学への扉を開いたのもホールダーだった。
 卒業するとレンは、そのまま大学へは進学せず、その後数年を科学の広い知識を身につけることに費やす。大学進学を断念したのは体調が思わしくなかったという説もあるが、この間、解剖学者チャールズ・スカバーグ(Charles Scarburgh)のもとへ赴き助手を務め解剖学についても学ぶ。なかなか優秀な助手ぶりだったのだろう、スカバーグの助手を終えた後のレンは数学者ウィリアム・オートレッド(William Oughtred)のもとで、彼の研究結果をラテン語に翻訳するという仕事に推薦されている。こうして、オックスフォード大学ウォダム・カレッジに進学したのは3年後のことだった。

 


◆◆◆ 非凡な科学者としての活躍 ◆◆◆

 大学卒業後のレンは研究員に選出され、様々な研究に専念しはじめた。この時代のレンは人間の脳のスケッチを行うかと思えば、一頭の犬から別の犬への輸血を行う装置を発明してその実演を行い、月観測に没頭しては、地磁気の研究に勤しむといった具合。天文学をはじめとし、数学、解剖学といったジャンルにこだわらず、アイデアとインスピレーションの赴くまま突っ走った青年時代だった。
 彼の評判は瞬く間に知れ渡っていったらしく、1657年、レンは25歳の若さでロンドン大学グレシャム・カレッジに天文学教授として招かれる。
 また、オックスフォード時代から物理学や科学について討論を行っていた科学者仲間とも交流を続け、彼らがロンドンでレンの講義に参席することもあった。この討論グループはのちに現在も続く王立協会(ロイヤル・ソサエティ)に発展していく。
 こうしてますます学者としての名声を高めたレンは1661年、再び母校オックスフォード大に戻る。今度も30歳に満たぬ歳で、天文学教授の職を得たのである。 

 

気鋭の学者たちが集った科学の梁山泊
ロイヤル・ソサエティ
 現存する最も古い科学学会である「ロイヤル・ソサエティ」は正式名称を「The Royal Society of London for the Improvement of Natural Knowledge/自然についての知識を推進するためのロンドン王立協会」という。これはレンをはじめ、物理学者のロバート・フックや数学者のジョン・ウォリスなどオックスフォードの自然哲学および実験哲学に興味を持つ学者たちがお互いの家や大学を行き来し、それぞれの専門知識やアイデアを交換しては議論をたたかわせ切磋琢磨していた集まりが原型となっている。
 約12名の科学者たちで構成され、「インビジブル・カレッジ(見えない大学)」と呼ばれていたこの討論会は 1660年には週に一度の公式ミーティングを開始し、62年にはチャールズ2世の特許状によって王立組織に、現在では会員1400名を擁する一大組織に発展した。そうそうたる顔ぶれの創立メンバーの中でも、オックスフォードからロンドンへと移り、グレシャム・カレッジで天文学教授をつとめたクリストファー・レンの業績と人脈が、組織の成立に大きく貢献したのは間違いないだろう。ちなみにこのグレシャム・カレッジ時代、望遠鏡の仕組みを学び改良を行っていたレンは土星の観測を行い、土星の輪についての理論を固めつつあったが、オランダの天文学者クリスティアーン・ホイエンスに実証論文で先を越されるという悔しい思いもしている。また創立メンバーの一員であっただけでなく、1680~82年までは3代目会長も務めた。
 ちなみに1982年に米アリゾナ州のローウェル天文台でエドワード・ボールが発見した小惑星レン(3062 Wren)、そして水星にあるクレーターのレンは、彼の功績をたたえて命名されたという。

 

◆◆◆ 建築家レンの誕生 ◆◆◆

 科学、数学、天文学の分野で学者としての地位を得たレンの興味が建築へと向かい始めたのはいつごろだったのだろうか。
 レンの生きた時代には、現在我々がイメージするような「建築家」という確固とした専門職はまだ存在していなかった。当時、建築は数学の応用としてとらえられ、高等教育を受けた人間が建築に手を出すというのはそれほど「畑違い」なことではなかった。レンも数学や幾何学を応用し、広場の設計や都市計画のあり方について独自の研究をすすめていた最中だった。しかし、机上の理論を実践に移すチャンスがなければ、実際の建築家としての能力を試すことはできない。そして、このチャンスは意外に早くやってきた。
 1661年、当時ポルトガルからイングランドに割譲されたばかりの北アフリカの港、タンジールの防衛強化工事について依頼を受けたのだ。しかしレンは、健康上の理由でこれを断ることになる。
 だが2年後には、レンが建築へと傾倒していく重要な転換期が訪れる。1663年、彼は当時バロック建築の最先端を行っていたローマに渡り、当時の彫刻と建築の巨匠ジャン・ロレンツォ・ベルニーニに会い、古代ローマ時代に建てられたマルケッルス劇場の調査を行うのだ。
 そして同年、イーリー司教だった叔父より、ケンブリッジのペンブルック・カレッジのチャペル設計の依頼を受ける。これが、レンの建築家としての第1号の仕事となった。
 続いて彼は、オックスフォードのシェルドニアン劇場の設計にも着手。この建物は前述のマルケッルス劇場の影響を大きく受けたデザインとなった。また1665年には、パリに長期滞在し、バロック建築について研究を深め、ここを拠点にフランドルやオランダにも足を運ぶ。これには単なる学問以上の目的があった。当時レンのもとには、1大プロジェクトが舞い込んでいたからである。

 

◆◆◆ 大災害とともに訪れたチャンス ◆◆◆

 1660年に王政が復古すると、国王チャールズ2世は老朽化の進んでいたロンドンの「シティ」のランドマーク、聖ポール大聖堂を蘇らせるため、本格的な修復計画に乗り出した。62年には建物の状態を調査するため勅定委員会が設立され、レンは修復計画の準備を行うよう要請を受ける。彼はこのために前述の建築の研究を行っていたのである。設計プランは66年8月末に認可されるが、作業に取りかかる間もなく9月2日未明にロンドン大火が発生。4日間に渡る猛火でシティの3分の2が焼け野原と化し、大聖堂は修復どころか取り壊しを余儀なくされるほどの壊滅的ダメージを受けてしまう。
 鎮火後まもなく国王とロンドン市長により、識者、権力者6人からなる再建委員会が結成される。レンはもちろんその1員となった。
 大火という災害によって、レンの仕事は単なる「建物の修復」から「都市再建」という巨大なプロジェクトに膨れ上がる。思わぬ形ではあったが、これまでは思い描くだけだった都市計画を実現させる絶好のチャンスが到来したのである。火災発生後0日と経たないうちに、レンは国王に壮大な再建プランを提出する。これはイタリアの都市をモデルに、主要となるモニュメントやピアザと呼ばれる広場から、街路が放射状に伸びる、バロック様式の「光」の構造を取り入れたものだった。
 しかし生憎なことに、この巨大プロジェクトは国王と枢密院によって承認されたものの、生活を優先して再建を急ぎたいシティ住民の反対を招き、地主と所有権をめぐり紛争が起こるなどしたため、結局採用されずに終わってしまう。もし、レンの構想が実現されていたとしたら、今日のロンドンはパリやローマのような華やかで「大陸的」な顔をもっていたかも知れない。

 


◆◆◆ 夢のドーム実現 ◆◆◆


第1案、第2案と却下された後、
最終的に落ち着いた大聖堂の設計案
 夢のシティ復興プランは諦めざるを得なかったものの、レンは災害の再発を防ぐ都市づくりのため、法制備に着手する。まず、火事調停裁判所を設けて家主と借家人の利害調停を行うようにし、建築規制などを盛り込んだ「再建法」をスピード成立させた。
 これには、シティに持ち込まれる石炭に課税し公共施設の再建に充てる/新築される建物はすべてレンガもしくは石造りにし建築認可を義務付ける/防火のため主要な通りの幅に規制を設ける/建物の階数を規制する、といった内容が盛り込まれていた。テムズ河沿いに集中していた煙害や悪臭をもたらす工場群を、市壁の外に移転させることにしたのも彼だった。これらは現代にも通用する立派な再建策であり、ここでもレンは学問のジャンルを超えた「天才」ぶりを発揮している。
 レンの采配によりシティは急速な復興を遂げ、今日に続く大都市ロンドンの中核が形作られていった。火事が日常茶飯事だったという街は「防災都市」として生まれ変わり、その後大火災が発生することはなく、猖獗を極めた疫病ペストすら街から姿を消していった。
 しかしその1方で、彼が大火前から携わっていた聖ポール大聖堂の再建は思ったように運ばず、ろくな準備も始められないまま5年近い歳月が経過していた。
 これは、国王をはじめ聖堂参事会や聖職者たちからの要望や期待が大きく、設計案が決定するまでに二転三転したことによる。レンは聖堂内に広がりのある空間を作るためには大きなドームは必須と考えていたが、長い尖塔やラテン0字型といった伝統にとらわれる聖堂参事会や聖職者たちからは悉く反対に合う。時間と労力が必要以上にかかり、レンの苛立ちは頂点に達していた。

レンが最後までこだわり続けた大型ドーム。しかし、ドーム内にモザイクを施したいというレンの意向は打ち砕かれ、代わりにジェームズ・ソーンヒルによる天井画が描かれている。
 結局、第1案、第2案を却下されたレンは、3度目の設計案として誰もが納得するようなデザインを取り入れた図を提出して着工許可を得、建設が進むにつれ、囲いを立てて現場を見られないようにし、そのままの設計を提出していたら賛同が得られなかったであろう理想の大型ドームを完成させてしまうという「荒技」に出る。
 現在でも世界有数の規模を誇る、高さ111・3メートルのドームは、レンの思い描いていた「光の都市」の中核となる建物であった。巨大プロジェクトを目の前に何度も挫折を味わった中で、これだけは何としても作り上げたいという思いがどれだけ強かったことか。
 聖ポール大聖堂には、他のレンの建築物には見られない建築家としての意地と誇りが秘められているのである。

 

◆◆◆ 愛する者を次々に失った壮年期 ◆◆◆

 ロンドン再建委員会での仕事を機に、1669年、王室建築総監に任命された307歳のレンは、建築家としての名声を得たおかげもあったのだろうか、長年オックスフォードシャーで交友を深めていたコッグヒル卿の娘フェイスと結婚する。
 子供時代からの知り合いで、レンの4つ年下だったというフェイスがどのような人物であったのかについては残念ながらほとんど記録が残されていないが、夫婦仲は円満だったようで、プレゼントの腕時計と共に妻宛に送ったレンの熱烈なラブレターが残されている。
 だが、2人の結婚生活はたった6年で終焉を向かえる。2人の間には長男ギルバートが誕生するが、病弱のため1歳半にならないうちに死亡。次に誕生した息子は父親の名を引き継ぎクリストファーと名付けられたものの、同じ年にフェイスが天然痘にかかり死亡してしまうのである。子を亡くし妻を亡くすという、父親の若き日をなぞるような悲運の連続に、レンはさぞかし落胆したことだろう。
 それでも、愛妻の死から約1年半後という比較的早い時期に、レンはフィッツウィリアム卿の娘ジェーンと再婚する。妻を亡くした孤独感には、さすがの天才も耐えがたかったと見える。加えて、1人息子のクリストファーに母親を与えてやりたいという気持ちも強かったのだろう。
 しかしこの結婚生活はさらに短命に終わった。2年後、ジェーンも2人の子供を産んだ後、結核でこの世を去るのである。彼はその後、独身を貫くことになった。

 


◆◆◆ 天才的建築家として活躍 ◆◆◆

 私生活では不幸続きであったレンだが、この時期から晩年までの建築家としての活躍には目覚ましいものがある。まるで悲しみを追い払うために必死に仕事に打ち込んでいたかのようにも思える。
 聖ポール大聖堂の建設が進められる間にも、大火で焼け落ちた50を超える教区教会の再建に取りかかり、ロンドン大火とその後の復興を記念した「ロンドン大火記念塔」、「ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ図書館」、「ハンプトン・コート」、そして若き日の天文学者としての素養と建築家としての才能の結晶ともいえる「グリニッジ天文台」など、数えきれないほどの建物の設計を手がけ、英国を代表する建築家としていよいよその地位を不動のものとする。イタリアやフランスでの研究をもとに、劇的な建築空間を演出する「バロック建築」を英国に最初に取り入れたのも彼だった。
 もともと数学や天文学、幾何学を専門とする科学者であったレンは、数字や平面を立体的に捉え思考することに人一倍長けていた。また彼のバロック的空間構成には、数学的思考をベースにした彼自身の美的解釈が反映され、これまでにない独創性や大胆な試みが用いられた。彼の建築における天才的センスは、科学者としての素質に裏打ちされたものだったのである。

 

◆◆◆ ロンドン詣でが趣味となった晩年 ◆◆◆


息子クリストファーによる言葉が刻まれたレンの墓碑。大聖堂の地下納骨堂にて見ることができる。
 1710年、レンの最高傑作となる聖ポール大聖堂が完成する。着工許可から約35年、彼は76歳になっていた。父親の名を引き継いだ長男クリストファーも建築家となるべく教育を受け、成長してからは父とともに大聖堂の建設に関わっており、完成時には彼が最後の石材を頂に置いたという。数々の難題を乗り越え、理想の聖堂を作り上げたレンの感慨、誇らしさはひとしおだったであろう。
 レンは1718年、血気盛んな建築家ウィリアム・ベンソンに高齢を理由に王立の建築監督の座を明け渡すよう迫られ引退することになるが、引退後もハンプトン・コート地区にある自宅から定期的に大聖堂を訪れては、その美しい姿を眺めるのを晩年の楽しみの1つにしていたという。
 1723年2月、91歳になっていたレンはいつも通りロンドン詣でをした帰りにひどい風邪を引き、数日間床についたまま自宅で息を引き取る。使用人が彼を起こそうとした所、すでに冷たくなったいたのを発見したとされている。
 3月5日、レンはのちに偉人達が葬られることになる大寺院地下の納骨堂に葬られることになった。彼の最高傑作はまた彼の墓標ともなったのである。
 若き日には科学の発展に貢献し、その後の生涯を建築を通してロンドン復興に捧げた超人クリストファー・レン。
 彼の墓碑には息子クリストファーによる「我がためではなく、人々の幸福の為に生きた。レンの記念碑を探している者は周りを見よ」という言葉がラテン語で刻まれている。
 父親に育てられ、その仕事ぶりを間近で眺めてきた息子の心からの賞賛の言葉であったろう。

 

ニュートンの「世紀の理論」誕生裏話
 万有引力の法則を発見した天才科学者アイザック・ニュートン=右=(1643~1727)。他人をおおっぴらに賞賛することはほとんどなかったという彼だが、万有引力の法則と運動方程式について述べたかの大著「自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)」の中でレンのことを最も優れた数学者の1人であると記している。ちなみに、ニュートンがこの大著を仕上げる前にはこんな話があったとか。 1684年1月のある日、当時学者や作家たちの社交場のような機能を果たしていたコーヒー・ハウスのひとつに、建築家として働き盛りのクリストファー・レン、そして彼の助手を務めたこともある物理学者のロバート・フック=下右、ハレー彗星で知られるエドモンド・ハレー=下左=が集い、惑星の軌道に保つ力の向きと強さについて討論していた。
 このとき最初に「これは太陽に引っ張られる力で、強さは太陽からの距離の2乗に反比例(逆2乗の法則)すると思う。しかしその証明ができなかった」と発言したのがレン。これに対してフックは「逆2乗の法則からすべての天体の運動の法則が証明される」と自信満々の発言をしたものの、実際にはその証明を提示しなかった。
 フックが本当に証明できるのか疑問に思ったハレーは、その後ケンブリッジに赴きニュートンに同様の質問をぶつけてみたところ、はるか昔に万有引力の法則(=逆2乗の法則)に気付いていた彼は「惑星の軌道の形は楕円だ」と即答。事の重要性に驚いたフックはニュートンにまとまった書物を記すよう説得し、彼はハレーの様々な質問に計算や証明を続けながら大著「プリンキピア」の構想を練っていった。しかし同著が発表されると、ニュートンをライバル視していたロバート・フックは「この内容は自分が以前ニュートンに文通で知らせたものだ」と怒り出し大論争に発展する。俗世離れしているように思える学問の世界も、実社会に劣らず人間臭さに満ち満ちているという見本である。レンはこのエピソードの中では脇役といった感じだが、建築家として第一線を行く彼が天文学への興味を失わないばかりか、世紀の科学者ニュートンに劣らない次元の研究に勤しんでいたということがうかがえ興味深い。


 

 

ロンドン大火記念塔
Monument 【ロンドン】

クリストファー・レンとロバート・フックによる設計により1677年完成。高さは、ロンドン大火の火元であるプディング・レーンまでの距離と同じ61メール。

トリニティ・カレッジ図書館
The Wren Library 【ケンブリッジ】

1676年から1684年建設。英国に5館存在する納本図書館(流通された全ての出版物を義務的に納本される権利を有する図書館)のひとつ。

 

ハンプトン・コート東面
Hampton Court Palace 【ロンドン郊外】

1689年から1694年にかけ、ウィリアム3世とメアリー2世の時代に建て替えられた東面。噴水のある中庭「ファウンテン・コート」もレンによるデザイン。

セント・ジェームズ教会
St James's Church 【ロンドン】

ロンドン大火では被害を避けられたものの、1940年に激しい爆撃を受け、その後修復された。

 

シェルドニアン劇場
Sheldonian Theatre 【オックスフォード】

1668年設立。建築家としてスタートを切ったばかりのレンの作品。トラス屋根を採用するなど、既に彼の敏腕ぶりが表れている。

大クライスト・チャーチのトム・タワー
Tom Tower 【オックスフォード】

中にグレート・トムと呼ばれる大鐘が設置されており、午後9時5分になると101回鳴る。その昔、カレッジの門限が21時5分だったためだとか。101という数は、カレッジ創設時の学生数といわれている。

 

グリニッジ天文台
Royal Greenwich Observatory 【ロンドン】

イングランドが新大陸との貿易で富を築くため、航海を安全に行うことが第一優先だった時代、天体観測データを必要としていた時の国王チャールズ2世は、天文学者でもあったレンにこの観測所の設計を依頼。しかし当時は国家歳入が慢性的に不足しており、チャールズ2世は古い建物を売却して得た500ポンドを建設費用としてレンに渡す。彼は廃材を利用するなどして最終的には20ポンドの予算オーバーでこの天文台を作り上げたとされている。

旧王立海軍学校
Old Royal Naval College 【ロンドン】

1694年負傷した船乗り達を収容する「グリニッジ・ホスピタル」として設立された。1869年に病院が閉鎖されると海軍学校として使用された。現在、建物の一部が一般公開されている。もともとチューダー朝にヘンリー8世などが生まれたプラセンティア宮殿があった場所。

 

 


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