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「銅版画を教えながら、愛する妻と日本で暮らす」という、大胆だが単純な希望を胸に来日し、やがて「東と西の架け橋」となることを目指すという、大きな問題に取り組むことになったバーナード・リーチ。それが最終的にどんな形を取ることになるのか依然分からないまま、リーチは探究心に突き動かされて自分探しの旅を続ける。乱暴な言い方をすれば、陶芸やポタリーはリーチの思索のための手がかりの1つに過ぎなかったとさえいえるのかもしれない。だがそれは、必要不可欠な要素であったことは間違いないだろう。後編では、陶芸家バーナード・リーチの誕生とその軌跡を追ってみよう。
◆◆◆ 陶芸家リーチの誕生◆◆◆
1914年頃からリーチは中国へ渡る準備を開始するが、それは東洋と西洋の融合という問題を考えるうちに出てきたアイデアであった。リーチは雑誌の投稿文をきっかけに、アルフレッド・ウエストハープ(Alfred Westharp)という、中国で暮らす怪しげなユダヤ系ドイツ人の思想家を知る。ウエストハープの思想が自分の考えに近いと感じたリーチは、幾度か文通した後、精神的な指導者を求めて中国へ渡ることにしたのだ。日本語をやっと覚えたかというところに、次は中国語の世界である。しかも妻と幼い子供を連れての移住であった。だが結果は惨憺たるものだったらしい。日本のように西洋にかぶれる以前の、「純粋な東洋」である中国において、西洋のいい部分を接ぎ木しようという、いわば啓蒙者としての中国行きでもあったようだが、ウエストハープとの思想的不和によって、リーチ一家は日本へ戻る。
《左》濱田庄司作「鉄絵角皿」©Phil Rogers《右》バーナード・リーチ作「Flat-sided Bottle」1957年 ©Tateこの影には柳宗悦の力があった。彼は「きみにはもう指導者はいらないのではないか。僕はウエストハープの思想よりも、きみの陶芸の方が素晴らしいと思う」と告げ、千葉県我孫子市にある自分の敷地内に、窯を作ったらどうかと誘う。英国へ戻ることも考えていたリーチだが、英国はおりしも第一次世界大戦の渦中にあった。リーチは家族のことを考え日本を選ぶ。リーチの我孫子時代の幕開けである。
当時の我孫子は何もない田舎の町であったが、ここに突然リーチや白樺派の人々が現れ、一種の芸術家のコロニーのような集落が形成された。中国では全く陶芸制作を行わなかったリーチだが、本場で質のよい白磁や青磁を見たことは、大きなプラスとなっていた。リーチはここで1920年まで、腰を据えて生地や釉薬などの研究にいそしみ、更に柳宗悦らと、禅について語り合う日々を送る。また、河井寛次郎と共に京都で釉薬の研究を行っていた若き濱田庄司との出会いも重要だ。当時20代だった濱田はリーチの陶芸作品をすでに知っており、東京で展覧会を開いたリーチのもとを訪れるが、2人の間に熱心な会話が交わされたという。濱田は釉薬の配合に関して、リーチが英語で話せる唯一の人物でもあった。彼はのちに人間国宝になる陶芸家だが、リーチが20年に英国へ戻り、セント・アイヴズに開窯する際、濱田がリーチの助手として同行し、その後関東大震災をきっかけに日本への帰国を決意するまで、その地で4年を過ごすことになる。
◆◆◆ リーチ・ポタリーの設立◆◆◆
リーチ・ポタリーにて。工房の職人とともに撮影された写真。前列中央=濱田、濱田から向かって左=リーチ、濱田から向かって右二人目=ジャネット。 ©Leach Archive バーナード・リーチが濱田庄司と共にセント・アイヴズにやってきたのは1920年9月、リーチが33の秋であった。コーンウォール独特の美しさを持つこの港町は、昔から多くの観光客やアーティストたちを惹き付け、バーバラ・ヘップワースや、ベン・ニコルソンといった20世紀のアーティストたちも制作を行っている。しかし、リーチたちがやって来た20年当時のセント・アイヴズは、石と海に囲まれた荒涼とした港町であり、この地方の自然を愛する地方画家が、ターナーを真似て筆を握っているような、まだまだマイナーな地域であった。だがここでは活動的な老婦人が、セント・アイヴズ手工芸ギルド(The St Ives Handicraft Guild)という組織を主催しており、彼女はこの組合に陶芸家を加えたいと考えていた。知人を介してそれを知ったリーチは会員に応募し、ギルドからの出資金で製陶所を制作する。リーチは「東西の融合」や「中国の形、朝鮮の線、日本の色」を制作理念に、産業革命によって押し進められた「悪しき機械化の波に対抗しよう」というのがポタリーの運営方針となった。
初めて英国を訪れた26歳の濱田は、口数も少なく手のかからない優秀な助手だったようで、1人で町を散策し港を歩き回り、現地の英国人にも受け入れられていた様子がうかがえる。港近くに住む漁師上がりの老人などは、毎週日曜日に決まって鯛を持って濱田の仕事場を訪れ、椅子に腰掛けて楽しそうに彼の仕事ぶりを眺めていたという。また、実直な人柄の濱田は当時幼かったリーチの子供たちにも好かれており、リーチ一家のスナップ写真の中には、2人の子供たちに挟まれ、手を握られている濱田の姿が残っている。濱田庄司は、明治時代に政府からヨーロッパに派遣された多くのエリート日本人たちとは違う、ユニークな魅力を持っていたのではないだろうか。東京育ちの濱田にとってもコーンウォールの自然と、そこに住まう朴訥とした人々は大きな印象を残したようで、やがて日本に帰国した彼が、栃木県の片田舎である益子に窯を開くのは、益子焼に興味を抱いていたのはもちろんのこと、英国の田舎町セント・アイヴズでの暮らしが印象深かったためだという。
リーチ・ポタリーにて、暖炉の前で語るリーチ=左から2番目。1947年撮影。©Leach Archive
当初の「リーチ・ポタリー」ではリーチと濱田を含む4人のスタッフによる、試行錯誤の状態が続いた。リーチは山の斜面などを利用して作られる日本式の登り釜を採用したが、ヨーロッパとは違うスタイルの窯で制作すること自体、温度調節も含め大変な苦労であった。さらに、粘土の違い、釉薬の違い、灰の違いなど、日本とコーンウォールの地質や材料の違いも、一つ一つ吟味しなければならない。彼らは他所で手に入る質のいい土ではなく、その土地の材料を使うことを重んじたため、その苦労もひと塩であった。しかし、自分の思想を1から体現し、新たな物を生みだして行く喜びはどれほどだったであろうか。「指導者」を求めて彷徨っていたリーチが自らの足で立ち、闘い始めた時期だといえよう。今までの内面の試行錯誤を経て、実践的に解決していく時が来たのである。
当時の英国では、絵画や彫刻などの純粋芸術(Fine Art)と応用芸術(Applied Art)には区別が設けられており、純粋芸術がアーティストの仕事だとすれば、応用芸術は職人による労働と、下に見なされていた。リーチはここに「artist-craftsman」という新たな自己規定を持ち込む。芸術家の個性に重きを置きながら工芸に携わる、というスタンスである。さらに、工房でも工場でもなく「スタジオ」という、作家の個性を重視した陶磁器を生産する場所としてポタリーを捉えた。このような従来の枠組みから逸脱したアプローチは、その後英国で活動する作家たちのあり方に大きな影響を及ぼしていくことになる。
さらにリーチと濱田は、当時は過去の遺物として忘れ去られていた17世紀の英国の伝統的陶芸、スリップウェアの制作にも着手する。スリップウェアは生乾きのまだ柔らかい皿や鉢などに化粧土をかける、昔ながらの素朴な厚手の陶器である。彼らは偶然に自分たちの窯の近くで、大昔のスリップウェアの破片を発見し、その健康的な伸び伸びした美しさに魅せられ、自分たちもこの技法を使い、英国の伝統陶芸に新しい息吹を吹き込もうと考えたのだった。
しかしポタリーの経営状態は総じて不安定で、リーチはロンドンや日本でしばしば展覧会を開き、愛好家や収集家に作品を売るほか、町の人々や観光客相手に楽焼教室を開いてしのいでいたという。2度にわたって起こった破産の危機は、妻ミュリエルが父親から相続した遺産で切り抜けたり、支援者からの資金援助で持ち直したりと、苦労も絶えなかった。また、関東大震災が起こり濱田庄司が日本に帰国したため、ポタリーの作品の質にばらつきが出るなど、技術的な面でも苦労を強いられた。
1930年代から1950年代のリーチは、ポタリーを離れる時間が増え、その間の管理は成人したリーチの長男、デヴィッドがあたった。日本で人気の高いリーチが、講演や展覧会によりポタリー存続の資金を得ようと考えたことに加え、女性問題によるリーチの罪悪感も、リーチをポタリーから遠ざけた。彼の母親がリーチを産んですぐ死んだことは前編で述べたが、そのためリーチは母性愛を欲していた。ミュリエルと結婚したことで、彼女はリーチの中で「母親」となってしまい、その結果ほかの女性を求めるというサイクルに陥った。これは日本に滞在していた時からの、ミュリエルとリーチの問題でもあった。これまでに何人かの女性がリーチの前に現れたが、ポタリーで学ぶ学生で、秘書としても働くローリー・クックス(Laurie Cooks)とのただならぬ関係を知ったミュリエルは、初めて離婚を意識する。ミュリエルは良き妻で母親だが、ローリーは陶芸についても詳しい、いわばリーチの同志であった。一度はやり直すことを考えたリーチも、結局このローリーと共に家族のもとを去り、1936年にはデヴォンシャーでダーティントン・ポタリー(Dartington Pottery)を立ち上げ、ミュリエルと離婚が成立した44年にローリーと結婚する。
この時期は、濱田庄司によれば「(リーチが)まるで巡礼の様に」毎年日本へ通う、忙しい時代でもあった。のちに陶芸家のバイブルと言われるに至る『A Potter's Book』の出版や、柳宗悦らの日本民藝館創立への参加、そしてロンドンにおける幾つかの個展開催など、リーチのキャリアに置いては重要な時期であったにも関わらず、私生活に関して見るとまるで流浪の民である。幼い頃から各国を点々としたリーチは、晩年に至るまで、定住の地を見つけることはなかった。東西の架け橋を目指したリーチにとって、このような暮らしはあるいは自然だったのかもしれない。
リーチは長男デヴィッドの要請で、1940年末にセント・アイヴズに戻る。これは第二次世界大戦で戦局が悪化したのと、デヴィッドの兵役などが理由であった。セント・アイヴズはドイツ軍の爆撃を受け、リーチ・ポタリーも被害をこうむる。しかし、ほかの製陶所が次々に閉鎖する中、リーチのポタリーは細々とではあったが持ちこたえた。戦時下のため展覧会向けの作品の需要はないが、一般家庭向けの食器の需要があったのだ。ポタリーでは安くて質のよい、スタンダード・ウェアの制作に力を入れる。日本で柳宗悦が提唱する「用の美」、すなわち日常使いの雑器にシンプルで質の高いものを使うという、民芸運動の波に同調した形だ。やがて戦争が終わると、戦争中に工場生産の白い簡素な食器しか手に入れることのできなかった人々が、リーチ・ポタリーの暖かい色使いや、手作りの風合いに魅せられ、ロンドンの大型デパートなどは、生産量の追いつかない在庫を得ようと張り合ったという。戦前には考えられなかった好景気がポタリーに訪れた。この売り上げに助けられたリーチ・ポタリーは、兵役を終えた長男デヴィッドを共同経営者に迎え、財政安定化へと向かう。
◆◆◆ 晩年のリーチ◆◆◆
柳宗悦とリーチ。1935年東京にて撮影。©Leach Archive*白樺派―1910年に創刊された同人誌「白樺」を中心にして起こった文芸文学者・美術家の集団をいう。自然主義に代わり、人道主義・個人主義・理想主義などを唱え、大正期の文壇の中心的な存在となった一派のこと。
戦後リーチ・ポタリーが軌道に乗ると、リーチは再び海外で展覧会を開くようになる。米国や日本をまわり、2年以上の長期にわたりポタリーを留守にしたこともあった。その間の経営や制作は、長男のデヴィッドや次男のマイケル、献身的な弟子であるウィリアム・マーシャル(William Marshall)などによって手堅く行われており、常に10人以上のスタッフが働いていた。以下、1950年以降のリーチの行動をしばらく時系列にそって追ってみよう。リーチの奔走ぶりが伝わって来る。
1950年(63歳)3月―米国に4ヵ月旅行、ワシントンの現代美術協会による巡回展を行う。4月―米国陶磁協会から「ビンズ賞」を受賞。
1951年(64歳)世界中の陶磁器からリーチが選んだ名品図録ともいえる、『A Potter's Portfolio』を刊行。
1952年(65歳)ロンドンのボザール・ギャラリーで濱田庄司と二人展。7月―ダーティントン・ホールで国際工芸会議を開く。柳宗悦、濱田庄司も参加。10月―柳、濱田と米国へ渡る。
1953年(66歳)2月―米国を経て来日。上野松坂屋で個展。翌年まで日本に滞在する。5月―布志名と湯町で制作。7月―益子の濱田窯で制作。8月―柳、濱田、河井寛次郎と信州に滞在し、琳派の研究を開始。10月―九谷で制作。 11月―大阪で河井、濱田と三人展を開催。
1954年(67歳)2月―柳と房州に滞在。4月―河井、濱田と小鹿田を訪れ制作。神戸で河井、濱田と三人展、東京で富本憲吉を加えて四人展を開催。夏は松本に滞在する。9月―三越で「滞日作品展」を開催 11月―英国帰国途中に、イスラエルの「バハイ教世界センター」を訪問。
1955年(68歳)4月―大阪で「現代民芸展」。6月―神戸で「リーチ監製家具陳列即売会」開催。さらに『A Potter's Book』が『陶工の本』として邦訳出版される。7月―ミュリエルが膀胱ガンで死去。
1956年(69歳)ローリーと離婚、ジャネット・ダーネルと結婚。
最終的にリーチがセント・アイヴズに帰り着いたのは1956年だが、それと同時に将来ポタリーを継ぐと思われていたデヴィッドが独立を宣言する。リーチの留守中ポタリーを守ってきたデヴィッドだが、彼自身1人の陶芸作家であった。今や巨大な存在である父親の助手として、再び自我を殺してリーチの下で働くのは辛かったと思われる。
加えて、リーチは米国から新しいパートナーを連れ帰っていた。3人目の妻、ジャネットであった。リーチは米国滞在中の1952年に熱心なリーチ・ファンの陶芸家ジャネットに出会い、日本滞在にも同伴した。リーチはジャネットが単なる自分の崇拝者ではなく、時に歯に衣着せぬ物言いで発破をかけるといった、彼女の強さに惹かれたようである。ジャネットは今や高齢の域に達した69歳のリーチに替わり、実質的にポタリーの運営にあたるようになる。彼女が製陶所を取り仕切るようになって以降、ポタリーでは従弟の制度がなくなり、美大やほかの工房で基本訓練を受けた陶芸家たちが雇われるようになった。
リーチはスタッフの作るスタンダード・ウェアと個人の作品双方を監修していたが、自分の死後を考えた彼は、自分のデザインしたスタンダード・ウェアの寸法や重量、素描を記し、彼らに配布している。自分が確立してきたことを「伝統」としていかに保存するかに心をくだいたといえる。彼自身、若き時代に6代乾山から伝書を授かった。リーチはかわりに『A Potter's Book』という、今では陶芸家のバイブルといわれる著作と、スタンダード・ウェアのレシピを残したのだった。
その後もリーチは精力的に活動を続ける。毎年日本を訪れて作陶し、英国ではポタリーでの指導に携わるというスタイルを保ち続け、最後の来日は1974年。リーチは89歳になっていた。1961年には畏友である柳宗悦を亡くしたが、柳の論文の英訳『The Unknown Craftsman』を72年に出版し、長年の友情と柳のキャリアを讃えた。リーチの名声はじわじわと高まりを見せ、77年にはヴィクトリア・アンド・アルバート・ミュージアムで大回顧展が開催されるまでになる。英国政府から大英帝国勲章のCBEやコンパニオンズ・オブ・オナー勲章などを受けることとなった。ポタリーには世界各国の陶芸家や学生が、リーチの魅力に惹かれやってきていた。リーチは視力が弱って引退する最晩年まで、ポタリーでの指導にあたったという。
1978年に濱田庄司の死の知らせがリーチのもとに届き、彼は陶工・濱田庄司についての回顧録の口述筆記を開始する。だが、翌年リーチは肺炎にかかり、6週間の闘病生活の後、1979年5月6日、セント・アイヴズの病院で死去。92歳であった。死の数日前、リーチは、夢で楽しく濱田と会話したと妻のジャネットに告げている。葬儀はリーチの遺言通り、彼の信仰するバハイの教えに基づいて行われた。墓石には「BERNARD LEACH POTTER」と刻まれているという。彼の墓はセント・アイヴズ郊外のロングストーン墓地(Longstone Cemetery)という共同墓地にあるが、これはリーチがキリスト教徒ではないため、教会の墓地に墓を作れなかったためともいわれている。
東西の文化の融合を陶芸によって完成させようとしたリーチだが、それは自分の中にある東洋と西洋の融合でもあったのではないだろうか。幼児期から複数の国、複数の家庭、複数の文化に身を置いた彼は、絶えず自分を1つに保とうともがいた。数多くの宗教に興味をもったのも、これが原因だろう。リーチは「陶芸家」としてだけでは括れない魅力を持った人物だが、もし彼が今の世の中に生きていたら、リーチの苦悩も、目指すところも、もっと一般に理解されていたのではないだろうか。西洋、とりわけ英国におけるリーチの評価は未だ一定していないといってもよく、彼の思想が理解されているとはいい難い部分も多い。だが異文化の混在する現在の英国の姿や、陶芸やクラフト界の活性ぶりをみると、バーナード・リーチ再評価の時代がいよいよやってきたのではないかと思わずにはいられない。
リーチは1973年に、それまで書き溜めた詩を1冊の本にして出版しているが、長い序文の中にこう記している。
もちろん詩の分野では、私は自信がなく、しろうとであるが、陶工や図案工としても実はそうである。だが大切な点は、自分や自分の短所以上にずっと重要な何かについて、人に与えるべきメッセージを持っているか否かではないのか。もし私の生涯の仕事のどれかの中にある真実によって、その橋の建設にただ一箇の煉瓦でも貢献できたら、私は満足である。
Leach Pottery in St Ives
©Leach Archive
西洋初の日本式登り窯として1920年にスタートしたリーチ・ポタリーは、リーチの死後、リーチの3度目の夫人ジャネット・リーチにより引き継がれるが、彼女が亡くなると、売却され、解体の危機にさらされた。
2005年、陶芸の歴史上、重要な意味を持つこの工房を救おうと、「リーチポタリー再建運動委員会」が発足。英国政府より認可を受けた公的慈善団体として募金活動が始まり、06年にはポタリーの敷地および登り窯が買い戻された。
日本側でも、柳宗悦や濱田庄司がかつて館長をつとめた日本民藝館が中心となって、募金活動がスタート。資金はリーチ・ポタリーの再建および日英文化交流奨学基金の運営のために充てられた。
こうして保存・拡張工事を経て、晴れて2008年、新リーチ・ポタリーが完成。3月6日の竣工式ではバーナード・リーチの孫、ジョン・リーチさんと、濱田庄司の孫、濱田友緒さんによるテープカットが行われた。
セント・アイヴズにあるテート美術館の分館 現在のリーチ・ポタリーは、リーチの足跡をたどるミュージアムや、若い陶芸家を育てるワークショップ、ギャラリー、ショップなどを備えた国際的な「陶芸センター」として機能している。
現在、陶工は米テネシー出身のキャット・リバシー、英サマーセット出身のエラ・フィリップス、そして歴代のリーチ・ポタリー陶工として初めての日本人女性である遠藤みどりの各氏、計3名だ。
リーチ・ポタリーのあるセント・アイヴズは、風光明媚な海辺のリゾート地であるが、古くから芸術家コロニーが形成され、美術学校ができるなど、芸術村としても名高い。リーチ・ポタリーができたことで、そのアート色は強まり、現在では「バーバラ・ヘップワース美術館・彫刻庭園」、テートの分館「テート・セント・アイヴズ」のほか、多数のギャラリーやアート雑貨店など、アートを楽しむアトラクションに満ちている。
コーンウォールの名所、セント・マイケルズ・マウント、ランズ・エンド、ミナック・シアターなどと絡めて、ぜひアートの街、セント・アイヴズを堪能していただきたい。
The Leach Pottery
1970年代に撮影されたと思われるリーチ・ポタリー外観©Leach Archive
月曜―土曜 午前10時―午後5時(冬は4時半まで)。
日 午前11時―午後4時。
入館料 大人 4.50ポンド 子供 無料。
Higher Stennack, St Ives TR26 2HE。
Tel. 01736 799703。
www.leachpottery.com