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東西の融合をめざした美の旅人 バーナード・リーチ [Barnard Leach] ―前編―

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2010年7月22日 No.635

取材・執筆/佐々木敦子・本誌編集部

東西の融合をめざした美の旅人
バーナード・リーチ(前編)

明治末期の東京を訪れ、陶芸の魅力に取り憑かれた英国人、バーナード・リーチ(1887 - 1979)。大正時代には白樺派とも交わり、柳宗悦による民芸運動の発展にも大きく貢献した。日本では「親日派」「日本の陶芸を西洋に広めた人物」として語られることの多いリーチだが、故郷英国に戻った彼が、そこで目指したものは何だったのか。自己の確立に悩んでいた若者リーチが、数十年の旅路の果てに辿り着いたイングランド南西端の町セント・アイヴズ。自らの製陶所「リーチ・ポタリー」を開き、やがて独自の思想を生みだすに至る、バーナード・リーチの生涯を辿ってみたい。

参考文献:『Bernard Leach Life & Work』 Emmanuel Cooper著(Yale University Press)、『バーナード・リーチの生涯と芸術 「東と西の結婚」のヴィジョン』鈴木禎宏著(ミネルヴァ書房)、『浜田庄司  窯にまかせて』濱田庄司著(日本図書センター)、『バーナード・リーチ展 Bernard Leach - Potter and Artist』 (1997年展覧会カタログ)Special Thanks to: Leach Pottery, Tate St Ives
 

 

 「To Leach or not to Leach」―― スタジオ・ポタリーの父と呼ばれ、それまでの英国における陶芸の意識を大きく変えたバーナード・リーチ。だが英国には、東洋の陶芸から強烈な影響を受けているリーチの姿勢や作品に対し、拒否反応を示す陶芸家も少なくなかったという。しかし、冒頭の「リーチか、否か」というフレーズは、英国の陶芸家にとってリーチがどれほど大きな存在であるかを示しているともいえよう。
日本から戻ったリーチがイングランド南西部コーンウォールのセント・アイヴズに窯を開いて、2010年でちょうど90年を迎えた。社会の中における工芸の位置や、陶芸家のあるべき姿勢を常に考えていたリーチ。東西の文化の自然な融合を目指したリーチが蒔いた種は、21世紀の今も、確実に育っているのではないだろうか。
バーナード・ハウェル・リーチ(Bernard Howell Leach)は、ヴィクトリア女王の即位五十周年に沸く大英帝国下の香港で、1887年の1月5日に生まれた。当時の英国は世界各地に植民地を所持し、リーチ家の人々の多くは政府関係者、あるいは法律家として、東アジアの植民地各地で活躍していた。リーチの父親アンドリューもオックスフォード大学を卒業した後、香港で弁護士として働いていたが、妻がリーチを出産直後に死亡。そのため幼いリーチは、日本で英語教師をしていた母方の祖父母に預けられることになる。4歳まで京都の祖父母のもとで育ったリーチは、その頃の日本を「桶の中で泳ぐ大きな魚、桜の花、タクアンの味…」という五感に密着した断片で記憶している。やがて父親のアンドリューが再婚。リーチは父と新しい母親に合流して再び香港で暮らし始める。父の再婚相手はリーチの亡き母の従妹にあたるが、リーチはこの継母に馴染むことができず、2人のギクシャクした関係は彼が成長してからも続く。代わりに幼いリーチが慕ったのは、アイルランド人と中国人のハーフの乳母だったという。リーチは生涯を通じ、顔を見ることのなかった実母の面影を追い続け、これは成人してからのリーチの私生活にも大きな影響を与えることになる。
やがて父親アンドリューの仕事の関係で、一家は香港からシンガポールへと移る。幼い時期に香港―日本―香港―シンガポールと、めまぐるしく引越を繰り返したリーチだが、初めて英国の地に降り立った時、リーチは10歳になっていた。
 

◆◆◆ 「中国人」と呼ばれた少年時代 ◆◆◆

 


 1987年、リーチが10歳で両親から離れ、ひとり英国に向かったのは、本国で高等教育を受けさせたいという父親の意向があったためだ。彼はウィンザーにあるイエズス会の寄宿学校ボーモント・ジェジュイット・カレッジに入学するが、ここでのリーチのあだ名は「Chink」。日本人でいう「Jap」に等しい中国人の蔑称である。これは、リーチが東洋で暮らしてきたことからついたあだ名であったが、海外暮らしが長いリーチと、海外の異文化のことなど何も知らずに、ヴィクトリア朝末期の大英帝国の繁栄の中に育つ生徒たちの間に、どんな不協和音が流れたかは想像するに難くない。さらに、1人っ子で引っ込み思案、しかも夢想家というキャラクターのリーチは、「Chink」というあだ名の「虐められっ子」だったようだ。
父親のアンドリューがこの学校を選んだのは、リーチに海軍のキャリアを期待してのことだったが、息子の状態を知った継母は、シンガポールから息子に宛てて「将来のことを考えてよく勉強なさい。父上の期待に応えるように。父上の顔に泥を塗るような真似だけはしないで」、さらに「もっと社交的に。もっと積極的に。そしてあまり夢想ばかりしないこと」と書き送っている。家からのプレッシャーと、学校でのイジメ。うんざりしたリーチにできることは、それこそ夢想による現実逃避くらいではなかっただろうか。

日本の工房で作業をするリーチ=写真右。1920年撮影。©Leach Archive
 学校でのリーチの得意科目は美術、クリケット。そして意外にも、演説法を学ぶディベート・クラブにも参加していた。愛読書は当時ヨーロッパで大きな人気を誇っていた美術/社会評論家ジョン・ラスキンの著書。ラスキンはラファエロ前派やウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動にも影響を与え、中世のゴシック建築を賛美した人物で、芸術に関しては「自然をありのままに再現すべきだ」という考えを持っていた。その後のリーチの方向を思えば、当時のラスキンの思想はティーンエイジャーのリーチに大きな影響を及ぼしたと考えてもよいだろう。
1903年、卒業間近のリーチのもとに、両親がシンガポールからやって来る。美術とクリケットが得意科目だという我が子の将来を案じた父親だが、リーチが16歳という「大学創設以来」の最年少で、ロンドンのスレード美術学校(The Slade School of Art)に入学するということで、彼の才能に一縷の望みをたくすことにする。リーチはここで多くのアーティストを育てた教師、ヘンリー・トンクスに師事し、厳しいデッサンの勉強を始める。そして南アフリカ出身のクラスメートと共に、ハムステッドで下宿をしながらの学生生活は、リーチに新たな自信と希望をもたらしていく。 ところが順調に見えた日々は、父親の発病によりわずか1年で閉ざされることになる。ガンを宣告されたアンドリューが1人息子の将来を心配し、美術学校を辞めて銀行に勤めるよう言ってきたのだ。リーチはまだ17歳。自分の意志を通すには若すぎた。彼は父親の言いつけを守り、スレードを去る。まるで運命があの手この手を使い、リーチが将来「バーナード・リーチ」となるべき下準備を進めているかのようでもある。
翌年、大きな影響力を持っていた父親アンドリューが死去。しばらく継母と共にボーンマスで生活したリーチだが、どうにも我慢がならなかったようで、銀行員になるための試験勉強と称し、一時的にマンチェスターに住む亡母の妹宅に身を寄せる。そして彼はここで1人の女性と出会うことになる。叔母夫妻の1人娘ミュリエル(Edith Muriel Hoyle)で、リーチは4歳年上のこの従姉と恋に落ちる。近親関係にあるため2人の結婚は反対されるが、リーチは決してあきらめなかった。 

 


◆◆◆ 日本との再会 ◆◆◆


 

  1906年、父親の遺言通りリーチはロンドンで銀行勤めを始める。シティの香港上海銀行(The Hong Kong and Shanghai Bank)で、毎晩11時まで働く日々だったという。当時、リーチは19歳。慣れない仕事に加えて、従妹ミュリエルへの想いや中退した美術学校のことなど、あきらめきれないことばかりである。芸術家の多いチェルシー地区に下宿して美術のサークルに顔を出したり、ロバート・ルイス・スティーヴンソンやウォルター・ホイットマンの異国情緒あふれる作品を読み、どこか遠くの世界に思いを馳せるなど気晴らしはしてみるものの、リーチは精神的にどんどん追い詰められて行く。リーチ自身の言葉を借りると「まったく最悪の1年」だったようだ。そのうえ、父親の遺産はリーチが21歳に達するまで大嫌いな継母の管理下に置かれていた。だが我慢の限界に達したリーチはついに銀行を辞職し、北ウェールズへ向けた放浪の旅に出てしまう。
当時リーチが好んで読んでいた異国趣味的な小説の中に小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの著作があった。ハーンは放浪の末、日本に帰化し「小泉八雲」となったアイルランド出身の作家である。古きよき日本の姿が理想化された形で書かれた同書は、リーチの日本に対する興味をいたく刺激する。リーチは「私の他国人に対する同情、即ち非ヨーロッパ人、黒人、褐色人、或は黄色人種に対する私の同情が昴り出した。そして東洋に対する私の好奇心が育って来た。そこで私は日本の現状を知ろうとした…」とラフカディオ・ハーンから受けた影響について語っている。

《左》柳宗悦の民藝についての東洋的考察をまとめた 「The Unknown Craftsman」(1972)《右》陶工のバイブルと称される「A Potter's Book」(1972)
 「他国人に対する同情」とリーチは言うが、英国において彼は常に疎外感を感じ、他国人の目で西洋を眺めていたのではなかっただろうか。10歳まで東アジアで育ち、学校では「中国人」と呼ばれていたリーチ。自国にいながら常に居心地の悪い思いをしていた彼は、友人も南アフリカ人や、オーストラリア人など、外国人ばかりだった。 それに加え、当時の美術界にはジャポニズムの流行が押し寄せており、日本は一種の芸術的理想郷のような場所に考えられてもいた。4歳まで京都で育ったリーチが日本に対して特別な感情を抱いたとしても、不思議はないだろう。
銀行を辞めて放浪から戻ったリーチは、ロンドン美術学校(London School of Art)に通い始める。ここは2人の画家が主催する私立のアトリエのようなもので、留学生も学んでいた。その中に、のちに詩集『智恵子抄』で知られることになる、高村光太郎の姿があった。高村は教室でハーンを読んでいたリーチに声をかける。人生の中でそう幾つもない、重要な出会いの1つであろう。高村光太郎との出会いがきっかけで、リーチの日本への想いは、がぜん現実味を帯び始める。
同時に、リーチが21歳の成人を迎えたこともあり、遺産の管理が自らの手で行われるようになる。リーチが最初にしたことは、従姉ミュリエルへの求婚と、銅版画(エッチング)の印刷機の購入だった。彼は銅版画の技術を日本で教えながら、ミュリエルと結婚生活を送ろうと考えたのである。そしてリーチは全くその通り実行に移した。
リーチが再度プロポーズしたことで、ミュリエルの親も彼の真剣さを受け止め、最終的に2人の結婚を承諾。リーチが高村光太郎からの紹介状六通を手に、ドイツ船で日本へ向かったのは1909年、3月のことだった。
 

 

◆◇リーチの思想と宗教観
  バーナード・リーチは「英国でイエズス会系学校に通ううちに、カトリックへの興味どころか、キリスト教自体への興味も信仰心も失った」と後年述べているが、リーチはその長い生涯を通し、実にさまざまな宗教・哲学に興味を持ち、影響を受けている。
20代の時、英国の幻想的な詩人で画家であるウィリアム・ブレイク(1757-1827)に傾倒したが、ブレイクはその作品「天国と地獄の結婚」の中で、天国と地獄、精神と肉体、理性と感情、善と悪というあらゆる対立項目とされるものが、結局は表裏一体の関係であり、分離して存在することはありえないという立場をとっている。これは「二元的一元論」という、当時の西洋では珍しい立場であり、それゆえにブレイクはヨーロッパではまだまだ異端者扱いを受けていた。だがリーチが東洋と西洋の融合を目指すうえで、ブレイクの思想が大きな影響を与えたことは間違いない。リーチがその著『Potter's Book』の中に「東と西の結婚」という項目を設けていることからもわかる。
ちなみに、リーチは若き柳宗悦にウィリアム・ブレイクの作品を紹介した。感銘を受けた柳はブレイク研究に没頭。1914年には「ヰリアム・ブレーク」を著し、リーチに捧げている。また、ブレイクの思想はのちの日本民藝館設立の構想母体となったともいえる。
柳宗悦が「ヰリアム・ブレーク」を発表したのと同じ頃、リーチはアルフレッド・ウエストハープ(Alfred Westharp)という、中国で暮らすユダヤ系ドイツ人の考えに同調する。ウエストハープはイタリアの教育思想家マリア・モンテッソーリの思想と、孟子や孔子などの中国思想に傾倒している、謎の多い人物であった。中国へ渡ったリーチは「中庸」を読み、ウエストハープと議論を戦わせたという。
「中庸」の「中」とは、物事を判断する上でどちらにも偏らず、かつ単なる中間でもない。中庸は儒教の倫理学的な側面における行為の基準をなす、最高概念であるとされる。詳しい資料はないが、リーチはここでも「2つのものの間」という考えに支配されていたと思われる。
中国でリーチが行き詰まり、迷走している様子を知った柳宗悦は、「東西のあいだに橋をかけるよりも、東西間の隔たりという観念自体を取り払ってはどうなのか」とし、「きみが禅を知らずに日本を去ったのは残念だ」と手紙を送っている。リーチは高村光太郎の影響でロンドン時代から禅に興味を持っていたが、本格的に学ぶのは日本を去り英国へ戻ってからである。
そんなリーチが最終的に辿り着いた信仰としての宗教は、バハイ教であった。バハイ教とは19世紀半ばにイランでバハーウッラーによって創始された一神教で、「バハーイー」「バハウラ」などとも呼ばれる。「人類の平和と統一」を目標とし、男女平等や偏見の除去、教育の普及を始めとした教義をもつ。また、宗教の根源はひとつであるという考えから、他の宗教を否定しないのもバハイの特徴のひとつだ。
1940年頃、リーチにバハイ教を紹介したのは英ダーティントンに住む米国人画家、マーク・トビーだといわれている。リーチは、バハイの教えを制作に置ける態度にも転用し、やがて「自力と他力」というアイデアを生みだすに至る。リーチの宗教に対する態度は、常に作品制作と密接な関係を持っていたわけだ。


◆◆◆ 白樺派との出会い ◆◆◆

 


柳宗悦とリーチ。1935年東京にて撮影。©Leach  Archive

*白樺派―1910年に創刊された同人誌「白樺」を中心にして起こった文芸文学者・美術家の集団をいう。自然主義に代わり、人道主義・個人主義・理想主義などを唱え、大正期の文壇の中心的な存在となった一派のこと。

 高村光太郎が書いた紹介状のあて先の中には、彼の父親である彫刻家の高村光雲、その友人の岩村透がいた。2人とも東京美術学校(現・東京芸大)の教授である。日本語を全く解さないリーチのために、岩村は教え子の1人を紹介し、身の回りの世話をさせることにする。リーチは日暮里に暮らしながら、上野桜木町にある寛永寺の貸し地に、西洋風でもあり和風でもある1軒家を新築し、英国からミュリエルを招き寄せる。リーチはここで銅版画を教える積もりであった。生徒募集のため、宣伝を兼ねた3日間のデモンストレーションを行ったリーチのもとに、数人の見学者が訪れる。それは名前をあげれば、柳宗悦、児島喜久雄、里見弴、武者小路実篤、志賀直哉などの、翌年には白樺派(*)を起こすことになる蒼々たるメンバーであった。これ以後リーチと白樺派のメンバーは互いに学び合い、思想の上でも双方共に多くの刺激を受けていくことになる。特にリーチと柳宗悦の関係は生涯続き、リーチの思想形成にも重要な役割を果たす。
結局、銅版画クラスはリーチが白樺派から日本文化を学ぶ時間にとって代わられた形で、自然消滅した。だが当時の日本は物価も安く、父親の遺産もあったリーチは、ミュリエルと共に近くの学校で英語を教えたり、前述の岩村透の関係する美術誌にエッセイを寄稿したりするなどして、必要以上にあくせく働く必要はなかったようだ。
リーチにとって、この時期はひたすら学びの時であった。日本文化についてばかりではない。ロダンやヴァン・ゴッホの作品を、西洋と変わらぬリアルタイムで鑑賞し、イプセンやウィリアム・ブレイクについて仲間と議論を戦わせるという体験もしている。柳宗悦によれば、ゴッホ並びに後期印象派の作品を全く知らなかったリーチは、ゴッホの作品を観て興奮し、帰り道に「英国は眠っている!」と電信柱を何度も殴っていたという。こうして、リーチはラフカディオ・ハーンの描くエキゾチックな過去の日本のイメージを次第に払拭しながら、「西洋美術」対「非西洋美術」という杓子定規な概念から離れてアートをとらえる視点を獲得しつつあった。

Bernard Leach Tile 1925 ©Tate St Ives
 一方、妻のミュリエルとの関係はリーチが芸術にのめり込む分だけ、希薄になっていた。しかも、10歳で寮暮らしを始めた彼は家庭生活、とりわけ夫婦生活がどういうものかよくわかっておらず、リーチにほとんど置き去りにされたミュリエルは、キリスト教の布教のために日本を訪れているグループと時間を共にしていたらしい。
1911年、白樺派との関係は良好だが、銅版画や絵画など、自身の作品の方向性に行き詰まりを感じていたリーチは、ミュリエルから妊娠を知らされる。これは彼に新たな責任が付加されることも意味した。父親になることに歓びながらも、一家の大黒柱となることに重圧を感じた。
しかし、その後この結婚生活が破綻するなどとは思いも寄らなかったのであろう。この時まだミュリエルは、夫との将来を信じており、英国にいる両親にもそのように書き送っている。
そんなリーチに、再び転機が訪れる。建築家の友人、富本憲吉と共に訪れた茶会の席で、初めて楽焼きを体験したのだ。楽焼きとは低温で焼く、素人にも参加できる素朴な焼き物の一種である。リーチは自分の絵が皿に焼き付けられるのを見て非常に興味を覚え、陶芸についてもっと学びたいと考える。友人を介し
Bernard Leach Ceramic 1925 ©Tate St Ives
て紹介されたのは、6代目乾山こと浦野繁吉で、リーチは彼に入門するとほぼ毎日工房に通う。1年後には自宅に窯を築くまでになり、更に一年後には7代目乾山の伝書をもらい免許皆伝となった。また、陶芸を学ぶことは、茶の湯や禅を始め、さらに深く日本文化を知ることであり、中国や韓国の文化に触れることだともいえる。リーチはこうして陶芸を通し、さらに広い視野で東洋を、そして美術の世界を見つめ始めていた。それまでは西洋に対する東洋、純粋美術に対する工芸など、AとBを対比させる二元論で物事を考えてきたリーチだが、陶芸の世界に触れたことで、これまでのような対比だけではなく、二者の融合の可能性を考えるようになっていく。
これは今後のリーチの生涯の軸ともなる問題でもあった。彼はこの問題を深く考えるうちに、次第に陶芸を離れ哲学の世界に傾倒して行く。こうして26歳のリーチが「手を動かしてこそ思想が生きる」のだということに気づくまで、まだもう1つの段階を経る必要があったのだ。
(次週へつづく)
 

 


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