![]() |
![]() |
【前編のあらすじ】
考古学への憧れが高じて来日。横浜で行った発掘調査で見つけた旧石器時代の人骨がきっかけで、図らずも日本人のルーツ、そして日本の暗部に触れることになったニール・ゴードン・マンロー(Neil Gordon Munro 1863~1942)。スコットランドのダンディー生まれながら日本に帰化したマンローは、関東大震災を始め、満州事変、日中戦争と激動の時代に巻き込まれていく。やがて太平洋戦争が勃発。敵国である英国からやってきたマンローが、当時「土人」とさえ呼ばれていたアイヌの人々や、その文化を守ることができるのか。後編では、マンローの北海道時代を中心に送る。
◆◆◆ 大震災で垣間見た地獄 ◆◆◆
1923年9月1日午前11時58分。関東一円を激しい揺れが襲った時、マンローは軽井沢にいた。横浜で医師として勤めるかたわら、夏場は外国人客でにぎわう軽井沢のサナトリウムで診療にあたっていたのである。
関東大震災の翌朝、横浜へ向かおうとしたものの、汽車は日暮里駅どまり。マンローは馬を買い取り、みずから手綱を握って駆けた。ようやく横浜にたどりついた時にはすでに夜半になっていた。港近くの石油タンクが巨砲の炸裂するような爆発音とともに黒煙をあげて燃え上がっていたという。
マンローの病院も新居も、3人目の夫人であるアデルの実家も全て焼失。日本人だけではなく外国人居留地に住む数千人の西洋人も被災し、多数の死者が出た。マンローは新居に残していた研究メモや蔵書をことごとく失うが、多くの論文や発掘物を定期的に英国に送っていたのは不幸中の幸いだったといえる。マンローは焼失した英領事館の敷地内に大急ぎで作ったテント張りの医療施設で、怪我人の手当や防疫に奔走した。
190万人が被災し、10万人以上が死亡あるいは行方不明になったとされるこの関東大震災で、マンローは幸いにも自分の家族の誰をも失わずにすんだ。しかし、英国の領事夫妻は帰国中で難を逃れたが、領事代理は重傷、副領事は圧死という惨状だった。また、多くの避難民が横浜公園に逃れたものの、四方八方から火の手が襲い、人々は防波堤をのり越え海中へ避難したという。その数は数千人とも言われるが、風に乗った熱と煙りは沖へ向かい、救援の船が埠頭に近づくのを妨げた。怪我人の手当にあたるマンローの脳裏を、「地獄」という言葉が一度ならずよぎったのではなかろうか。
横浜の住居を失ったマンローは、これを機会に本格的に軽井沢に居を移すことにし、横浜の病院へは年末限りと辞表を提出する。32年にわたる長い横浜時代はこうして終わった。
◆◆◆ 『同胞』からの支援 ◆◆◆
軽井沢サナトリウムでのスタッフ集合写真。マンローは前列中央(写真:北海道大学提供)
横浜きっての資産家で大貿易商であるアデルの父親、ファヴルブラントからの援助で開設していた「軽井沢サナトリウム」は、主に結核患者の療養所として運営されていた。東京都内や横浜で被災し、家を失ったことにより軽井沢の別荘へ避難した西洋人は少なくなかったとはいえ、避暑地の病院を、1年を通してオープンし続けるのは効率的ではなかった。マンローは日本でいち早くレントゲンを導入した1人で、その他の最新機器導入にも積極的だっただけに、人口も減り、患者は近所の貧しい小作人や木こりたちのみになる(マンローはこうした患者には無料診療するのが常だった)冬季の軽井沢では、大幅な赤字を計上したのである。
しかも、関東大震災の直前に、富裕な義父が他界したこともあり、軽井沢で新生活をスタートさせた一家は瞬くうちに経済難に陥る。そんな中でのマンローの不倫は、妻のアデルを精神的に不安定にさせるには十分だった(『前編』9頁のコラム参照)。彼はサナトリウムの婦長、木村チヨと関係を持ち始めたのである。アデルは「軽井沢の冬は寂しすぎる」という言葉を残して、マンローの元を去る。ウィーンのフロイト博士の元で精神面の治療を受けるというのが名目だったが、実際には、マンローに欧州に送り返されてしまったといったほうが正確だろう。この後マンローとアデルが再び会うことはなかった。
一方でマンローは、患者だった詩人の土井晩翠、避暑客だった思想家の内村鑑三、そして来日講演の際に軽井沢を訪れた科学者のアインシュタインなどと交遊をもった。この頃結核を病んで療養滞在していた、『風立ちぬ』で知られる作家、堀辰雄とも顔見知りだったようだ。彼の『美しい村』に登場する「レエノルズ博士」は、マンローがモデルであると言われている。ただし、あまり良くは書かれておらず、マンローについて否定的な声もあったことを伺わせる。
また、1929(昭和4)年には来日中の社会人類学者で、ロンドン大学のC・G・セリーグマン教授が軽井沢を訪問。教授はマンローが日本亜細亜協会で行った講演に関する著作を読み、そのアイヌ研究を高く評価、研究を続けるよう激励している。ロックフェラー財団による研究助成金に申し込むことも勧め、教授自身が推薦者となった。マンローは、祖国からの来訪者である同教授の応援を得てどんなに嬉しかっただろうか。この教授の後押しこそ、マンローが北海道へ移住する大きなきっかけとなったのである。
セリーグマン教授はマンローに、起源や解釈の偏重から脱して正確な事実の記述を行うよう伝え、一般化を焦らずに小グループのアイヌの行動、言説、考えを優先してまとめるよう助言。これ以降、マンローは「熊送り」(右コラム参照)に代表されるようなアイヌならではの風習の記録に努める。今でいう人類学のフィールドワークというところだろう。
数奇な運命を辿った 「熊送り」の映像
マンローと二風谷アイヌの長老、
イソンノアシ氏=写真右。
© electricscotland ◆熊送りは狩猟にまつわる儀礼のひとつで、アイヌ語で「イオマンテ」と呼ばれる。動物(子グマであることが多い)を儀式に従って殺し、その魂が喜んで神々の世界に戻って行き、再び狩りの対象となって、仲間と共に肉体という形で戻ってくるよう、祭壇を設えてクマの頭部を祀り、酒や御馳走を捧げる。
◆マンローは1905年と30年にこの儀式を見学し、映像でくまなく記録した。ジョン・バチェラーが野蛮な風習と呼び、マンローとの考え方の違いを決定的にした問題の映像である。また、当時の警察からは検閲時にズタズタにカットされ、四分の一の短さになってしまったとも言われる。
◆オリジナル・フィルムはマンローの死後行方不明となっていたが、敗戦直後の長崎で米進駐軍用の土産物屋から出てきたのである。店先でこれを偶然発見した人物は、そこに映されている映像を見て、ただのフィルムではないと気付き、言語学者の金田一京助博士の元へ送った。やがて国立歴史民族博物館に安住の地を見いだしたのは1982(昭和57)年のことである。
◆一方、マンローはこのオリジナル映像から16mmプリントを何本か製作しており、そのうちの1本は英国に送られていた。ロンドンの王立人類学協会(Royal Anthropological Institute)に保管されており、『The Ainu Bear Ceremony』のタイトル、監督: N.G Munroとして、現在 27分のDVDで購入も可能になっている。
◆また、イオマンテの儀式は「生きたクマを殺す野蛮な行為」として1955年以来法律で禁じられていたが、2007年に「正当な理由で行われる限り」として禁止通達が撤廃された。マンローが生きていたら、さぞ喜んだことだろう。昔ながらの伝統や風習に対する評価は、その時々の時勢によって変化していくものなのだと、改めて思わずにはいられない。
◆◆◆ 「アイヌの聖地」への移住 ◆◆◆
1933年、東釧路貝塚で行われた調査の様子。ゴム長靴をはいたマンローの姿が中央に見える(写真:北海道大学提供)。 結婚こそしていないものの、アデルのいない今となっては実質的な妻である木村チヨ婦長を連れ、マンローは1931(昭和6)年、北海道へと移住する。彼はこの時すでに68歳になっていた。広い北海道にあって、日高山脈の麓にある二風谷(ニブタニ)を選んだのは、アイヌへのキリスト教布教に努めるバチェラー宣教師の勧めだったらしい。二風谷は沙流(サル)川に沿ってコタン(アイヌの集落)が点在し比較的人口が密集しており、和人(日本人)の数も少なく、昔から「アイヌの聖地」とも呼ばれていた。
マンローとチヨはこの地に永住する決意をかため、土地も購入、新居の建設に取りかかる。ロックフェラー研究助成金があるとはいえ、もう昔のように余裕のある暮らしをすることはできない。しかも満州事変が勃発し、日本は軍国主義の道を歩み始めていた。前途は多難に見えたが、それでも2人は夢と希望を持って進んだ。
1933年に完成した、二風谷の自宅の玄関前に立つマンローとチヨ夫人。2人のうれしそうな笑顔が印象的(写真:北海道大学提供)。 二風谷のアイヌたちは興味津々でマンローとチヨを迎え入れた。今まで多くの研究者たちがこの地を訪れ、自分たちを「研究」しては去って行ったが、この西洋人は何をする気なのか。
マンローは家が出来上がるまでの間にと、ある商店の倉庫を借り受けた。倉庫といっても藁葺き屋根の小さな木造建てで、それを改造し、診療所、書斎、自宅に分けた。そして時間をかけて、コタンの人々と信頼関係を築いていこうと決める。彼は横浜時代に研究がはかどらなかった時、自分が大学で正規に考古学を履修しなかったことを何度も悔やんだことがあるはずだ。しかし、この北の大地で、考古学者ではなく医者であることのメリットに改めて気づかされたのではないだろうか。
マンローはアイヌの人々に向け無料で診療を開始する。チヨが優秀な看護婦であることは大きな助けだった。バターや小麦粉、牛乳といった、マンローには欠かせないがコタンでは珍しい食材を使って料理をするのも彼女の役割で、チヨが作るビスケットは特にコタンの子供たちの間で大評判だったという。「マンロー・クッキー」と呼ばれたその菓子のために、子供たちは嫌な注射も我慢したと伝えられている。マンローは往診をこなし、農作業のアドバイスまでしていたとされ、「コタンの先生」としてアイヌの人々に受け入れられた様子がうかがえる。
しかし、マンローはここで「飲酒」という大きな障害につきあたる。当時アイヌの人々のあいだで、これは深刻な問題で、マンローは「過度の飲酒はしないように」と何度も住民たちに告げたものの、効き目はあまりなかった。
原因は日本政府による「旧土人法」にあった。同法はアイヌに狩猟と漁業を禁じていたが、元来アイヌは狩猟民族であり、農耕民族ではない。自分の土地を持つという感覚にすら乏しい彼らに、突然、種や苗を与えて、これからは農業一本で暮らすようにと命じた訳だ。それがどんなに乱暴な政策だったかは想像に難くない。家の前の川に鮭が泳いでいるのを見ながら餓死するアイヌ住民が現れた。結核も流行し、農業どころの話ではない。すっかり自信を失ったアイヌの人々が行き着いた逃避先が、アルコールだったのだ。また、アルコール依存症による労働力の低下が、さらに彼らの状況を悪化させるに至っていたのである。
◆◆◆ 2度目の研究資料喪失 ◆◆◆
二風谷に移り住んで間もない1932(昭和7)年12月の深夜、診療所兼自宅として使っていた商店の倉庫の薪ストーブ煙突付近から突然火の手が上がった。気づいたコタンの人々が手に手にバケツを持ち、雪の塊をすくって駆けつけたものの、藁葺き屋根の木造家屋はあっという間に火に包まれる。マンローとチヨは着の身着のまま、ガウン姿の裸足で飛び出し、やっとの思いで難を逃れた。
だが、関東大震災で多くを失った経験のあるマンローは、これまでに蓄積してきたアイヌの研究資料と蔵書を再び失うことに耐えられず、燃え盛る家の中へ戻ろうとする。皆に抱きとめられ、家に戻ることは叶わなかったが、ショックのあまり狭心症の発作を起こし、雪の上に倒れ込んでしまう。その間にも火は木造家屋を焼き、短時間のうちに全ては灰燼に帰した。
マンローの診療鞄と、横浜で仕立てられたスーツ(写真:北海道大学提供) 68歳という年齢ながらも、新たな気持ちで再出発したばかり。研究資料を再び失ってしまうとは―なぜこんな目に遭うのかと、マンローは自分の運を呪う。だが、運命の女神はその後も手加減することなく、彼を翻弄し続けるのである。
確固とした証拠がある訳ではないものの、火事の原因は放火ではないかとマンローとチヨは考えた。堀辰雄の『美しい村』の「レエノルズ博士」に関する記述が批判的であることからも推測できるように、2人は全ての人々から愛されていた訳ではなかったようだ。
特に、アイヌ相手に商売をする和人たちは、マンローがアイヌに飲酒しないよう戒めることを日頃から忌々しく思っていたという。しかも、「アイヌの世話をする西洋人」ということで、常に奇異の目で見られていた。この事件は新聞でも取り上げられたが、そこでは意外なことに、「放火」事件の原因にはジョン・バチェラーとの対立が関係しているのではないかと示唆されている。
考古学者でもある宣教師バチェラーとの対立とは、マンローが1930(昭和5)年から翌年にかけて撮影した「熊送り」の記録フィルムを北海道大学で上映したことに端を発する。バチェラーは「この様に残酷野蛮な行事の記録映画を公開するなどというのは、一民族の恥をさらすようなものである。マンローはなんと心ないやり方をしたものか」と批判した。
これに対し、マンローは「(バチェラーは)長年アイヌコタンを伝道に歩いているはずなのに、アイヌの精神面については全く理解しようとせず、一方的にキリスト教をおしつけ、沢山入信者を増やしたことを自慢するが、それは決してアイヌ民族の『心』を理解したことにはならない。アイヌにはアイヌの信仰する神がある」と烈火のごとく怒ったという。
マンローを北海道へと誘った、ジョン・バチェラー(John Batchelor、1854~1944)=写真中央=だったが、「熊送り」の記録をめぐって、マンローと対立してしまう。
新聞のゴシップ並の推測に従うならば、こうした意見の相違が高じて、バチェラーが、自分が改宗させた信者を扇動し、マンローの集めたアイヌの記録を焼失させた、ということになるだろうか。
しかし、いくら2人が対立していたといえ、アイヌを思う気持ちには変わりがないはずである。貴重なアイヌの記録を台無しにするようなことがあったとは信じ難い。とはいうものの、放火か失火かをも含め、今となっては真相は藪の中である。
さらに、この火事は和人との溝を深めるきっかけともなってしまった。マンローに倉庫を貸していた家主は、同じ敷地内にあった自分の倉庫を類焼で丸ごと失ったことが原因だった。倉庫には酒、味噌、醤油、菓子雑貨類の商品がギッシリ詰まっていて、商店を営む家主としては大損害である。だがこの火事を放火と信じるマンローは、家主に賠償金を払おうとはしなかった。この確執は醜聞となって広がり、「賠償金が払えないから放火だと触れ回って責任を逃れようとしている」と陰口を叩かれた。そして、腹の虫が収まらなかった家主のせいで、後年マンローたちは大変な苦労を強いられることになるのである。
脈々と受け継がれる、研究への思い
今回の前・後編の掲載にあたり、次の関係機関には多大なるご協力をいただいた。この場をお借りして厚く御礼申し上げます。また、マンローの思いがこうして受け継がれているのだと感じずにはいられなかった。
北海道大学 アイヌ・先住民研究センター www.cais.hokudai.ac.jp
◆2007年に北海道大学の共同教育研究施設として誕生。多文化が共存する社会において、とくにアイヌ・先住民に関する総合的・学際的研究に基づき、それらの互恵的共生に向けた提言を行うとともに、多様な文化の発展と地域社会の振興に寄与していくことを目的として設置された。
◆北海道大学アイヌ・先住民研究センターを中心とした研究グループによる「北方圏における人類生態史総合研究拠点」が、平成25年度日本学術振興会研究拠点形成事業「先端拠点形成型」に採択されたという。 国内の連携研究機関である東京大学総合研究博物館と琉球大学医学研究科と協力しつつ、海外の事業拠点機関であるアバディーン大学考古学部(連合王国)とアルバータ大学人類学部(カナダ)および連携機関であるオックスフォード大学東アジア考古学・芸術・文化センターと交流を重ねながら、北方圏における人類と環境との相関関係の歴史を解明するための領域横断型の研究拠点と若手研究者の育成を目指す。
沙流川歴史館 www.town.biratori.hokkaido.jp/biratori/nibutani/html/saru0N.htm
◆北海道沙流郡平取町字二風谷に設立された施設。北海道に人が住み始めたのは紀元前2万年ころの旧石器時代という。沙流川(さるがわ)流域でも、集落が形成されていた。沙流川歴史館では、そうした歴史を学ぶことができるよう、町内で出土した約一万年前からの考古資料を公開しているほか、平取町の母なる川、沙流川の今と昔に関する展示などを行っている。なお、同地域内には、平取町二風谷アイヌ文化博物館などもある。
◆◆◆ 「コタンの先生」が得たつかの間の幸せ ◆◆◆
1938年、フランスの考古学・人類学者、ルロワ・ガーデン=写真左端=を二風谷に迎えた、マンロー夫妻(写真:北海道大学提供) マンローの災難を知った多くの人々から見舞金や品物が彼の元に送られた。日本亜細亜協会、軽井沢避暑団、外人宣教師団や英国人類学会が手を差しのべてくれたほか、セリーグマン教授はロックフェラー財団から再度研究費がおりるように取り計らってくれたという。このことは、失意の中にあったマンローとチヨを大きく勇気づけたに違いない。
ほどなく、建設中だった診療所兼自宅も出来上がった。外から見ると2階建て、中は3階建てという立派なもので、書斎は火には絶対強い石造り。出窓が多くどことなくスコットランドを彷彿とさせるデザインには、マンローの好みが反映されているという。のちに北海道大学付属北方文化研究所分室となる建物の完成である。
無料で診療を受けられて薬ももらえ、子供には手作りのおいしいお菓子やパンまで配られるとあって、子供たちの手にひかれるようにしてコタンの大人たちも診療所を訪れ始めた。やがて治療を受けにくるだけではなく、仕事が暇になると他愛のないおしゃべりに集まるようになり、二風谷のマンロー邸は、コタンの人々のサロンとでも呼べる場所となった。
男たちは熊や鹿を射止めた際の昔の手柄話に花を咲かせ、時にはヤイシヤマ(情歌)を歌って聞かせたり、マンローやチヨも巻き込んで一緒にウポポ(伝統的なダンス)を踊ったりした。
また、2人はアイヌの伝統的な結婚式や葬式にも招待され、その貴重な風習を自ら体験する機会を得た。長老たちの信頼も得たマンローは、彼らの先祖伝来の様々なしきたりや儀式、病気にかかった時の「まじない」、薬草の使い方、狩りのための毒矢の扱い、鮭漁の方法など、様々なことを教えてもらい、それら全てを丹念にノートに書き写した。第二次世界大戦終結後、マンローの遺稿集として出版された『Ainu Creed and Cult』は、こうした聞き書きが編集されたものだが、本にまとめられたのはマンローの書き残したものの十何分の一に過ぎず、日の目をみないままの重要記録がいまだに眠っているという。
このように自分を信頼してくれる優しいコタンの人々が、なぜ貧しく気の毒な暮らしに追いやられ、和人たちから蔑まれなければいけないのか、マンローは憤った。人々が自らの歴史と誇りに目覚め、結核をはじめとする様々な病気を追い出し、健康で元気に働けるコタンを築くにはどうしたらいいのか。マンローはあれこれ考えをめぐらせる。稲作が難しいなら果樹栽培はどうか。リンゴ、梨、イチゴ、葡萄の苗を軽井沢や新潟から取り寄せ、実際に自分たちの庭で何年も試した。土壌や肥料の研究まで手がけたという。
そればかりか、将来は乳牛や羊の飼育をコタンに広げたらどうかともマンローは考えた。ワイン造りや、牧畜による酪農経営。もしも野菜や酪農が根付いたら、今度は沙流川の水を引き入れて一大スケートリンクを作り都会人を誘致してもいい。新鮮な食材を供給する大きなサナトリウムを作るのもいいかもしれない――。マンローの夢は広がった。
今も北海道の四季をみつめる 旧マンロー邸
1940年頃のマンロー邸。同邸の前に立つ、マンローの姿が認められる(写真:北海道大学提供)。右上の写真は、現在のマンロー邸(写真:沙流川歴史館提供) ◆1933年に完成した、木造3階建のマンロー邸。現在は北海道大学所有で「北海道大学文学部二風谷研究室」と呼ばれている。登録有形文化財(建造物)。
◆「マンサード」というスタイルの屋根、妻面屋根裏部の出窓などが特徴の洋館で、白い外観がまわりの景観に映える。
◆住所は、北海道沙流郡平取町字二風谷54-1。
◆◆◆ ワタシハ、ニホンジンダ! ◆◆◆
不安定な精神状態に陥り、その治療のためにウィーンへと旅立った妻のアデルからは、年に数回便りがあった。だがマンローはどうにかして正式に離婚出来ないか、そればかり考えていたようだ。老齢を迎えた彼は、自分の死後、チヨに財産が残せるようにと心配したのだった。なんとか協議離婚という体裁を整えたマンローが、晴れて木村チヨと結婚したのは1937(昭和12)年6月30日のことだった。マンローは74歳。チヨとの生活もすでに13年が経過していた。
マンローが愛用した籐椅子と机
(写真:北海道大学提供)チヨに残せる財産と言えば、助成金の半分を使って建てた診療所兼自宅、蔵書、自著からの印税などであろうが、一方で、ロックフェラーの研究助成金は、この結婚がなった1937年で終了することになっており、マンローはじりじりと生活経済の不安を感じるようになっていた。
マンローは、大事な自宅を売り払って札幌に引越し、借家住まいをしながら、コタンの人々からの聞き書きをまとめて出版することも選択肢に含めていた。考えが錯綜しているようにも思えるが、今までの研究成果を全部発表するには、5冊の著作を著すことになる計算だった。マンローにそれ程多くの時間が残されているだろうか。しかも金銭の余裕もない。マンローは焦っていた。
4度結婚したマンローには3人の子供があった(最初の子は幼少時に逝去)。マンローは、2番目の妻、高畠トクとの間に生まれたアヤメ(アイリス)=写真= を、ことのほかかわいがったが、1933年、アヤメは留学先のフランス・リヨンにて、28歳の若さで病死した(写真:北海道大学提供)。ちょうどその頃、奇妙な噂が相次いで流れ始めた。マンローが「無資格で診療している」「アイヌを使って北海道の地図を作成している英国のスパイらしい」というような根も葉もない悪意あるものだった。
「無資格」に関しては、無料診療を行うマンローのもとに患者が流れてしまうことを恐れる近隣の和人の医者が流したもので、「英国のスパイ」に関する度重なる様々なデマは、火事で仲のこじれた、かつての家主によるものだった。
当時の日本は国家総動員法が発令されたばかり。これは国を挙げて国民の一人一人を戦争に駆り立てるための様々な規制を含んだ法律で、物資欠乏に備えることに加え、言論や思想に関する規制が日本中を包み始めた。「贅沢は敵だ」「外人見たらスパイと思え」といった標語も大々的に宣伝され、防諜の名のもとに密告制度がはやり始めた。
北海道とて例外ではなく、マンローの外国への定期郵便物も検閲を受けており、検閲どころか没収されたものもあったようだ。この状況は、マンローを打ちのめした。実際どこへ行くにも監視付きで、秘かに尾行されていたという。しかも二風谷のコタンでこそ尊敬を集めていたものの、一歩その外へでれば「ガイジン、スパイ」とはやし立てられ、石を投げられることもあった。ある時、軽井沢からの帰りに、マンローとチヨは憲兵に列車から引きずり下ろされ、殴る蹴るの暴行を受ける。マンローは下手な日本語を使うことを嫌い、普段英語で通して暮らしていたが、この時「ワタシハ、ニホンジンダ! とっくの昔に帰化して日本人! 国籍日本人!」と日本語で叫んだという。チヨが、「マンローは秩父宮さまのテニスのお相手をおつとめ申しあげたこともある、軽井沢の病院長です」と訴え、これを憲兵が東京へ連絡。事実が確かめられたことで、ようやく2人は釈放されたという。
当時このような目にあっていた外国人はマンローだけではなかった。幕末に来日、貿易商として活躍した長崎のグラバー氏の長男、富三郎氏は、官憲の圧迫などに堪えかねて自殺している。また、函館にある食料品店「カール・レイモン」に商品注文のため連絡したマンローは、店主がユダヤ系のために迫害され、他社に強制買収されたことを知る。1938(昭和13)年6月に日独伊防共協定が締結されて以来、遠い東洋の地にもヒトラーのユダヤ排斥政策の波がおしよせてきていたのである。
◆◆◆ コタンの人々に見守られて ◆◆◆
二風谷の自邸内で、書棚の前に立つマンロー(写真:北海道大学提供)大柄で丈夫そうに見えていたものの、さすがにマンローの体にも衰えが目立ち始めていた。
コタンでの無料診療を続けるために、マンロー夫妻は毎年3ヵ月間だけ軽井沢を訪れ、裕福な患者の治療を続けることで1年分の生活費を稼いでいた。日中戦争が始まり、戦時態勢に入っていた日本で、列車で移動するだけでも大変だったことだろう。
1940(昭和15)年の夏は特に多忙で、友人に向けた手紙には「月50枚以上のレントゲン撮影、診療時間外の往診、今日も寝る前には虫垂炎の破裂で上海から担ぎ込まれた3歳の子の手当。78歳の男には限界です」とある。
翌年になると血尿が認められるようになり、マンローは腰の部分のしこりにも気が付いた。医師だけに、マンローはそれが何であるかすぐ分かったようだ。5月半ばに札幌にある北大の医学部で診察を受けると、果たして予想通り腎臓と前立腺の癌で、手術適期はすでに過ぎていた。
この検査結果が出た翌朝、マンローは市内に住む日本人の友に連絡をとった。その友人はマンローに「クロビール、ノミタイネ」と誘われたという。もう普通の店から黒ビールが姿を消して久しかったが、2人は遠くまで車を走らせ何とかビールの杯を傾けることができた。マンローはこの時自分の半生を振り返り、「研究に熱中するあまり妻子に冷たすぎた」と涙ぐんだという。
二風谷に眠る、マンロー夫妻の墓=右写真は改装前。下の写真は現在の墓碑
(写真:沙流川歴史館提供)この頃、かつてマンローの論争相手だった宣教師バチェラーは同じく札幌で、帰国に向けての準備を急いでいた。彼は11月に65年間暮らした日本を離れ、カナダ経由で英国へ帰国する。12月8日の太平洋戦争開戦を前に、まさに間一髪のタイミングであった。
多くの日本在住欧米人がこの時期に先を争って祖国へ戻り、軽井沢の住民も櫛の歯が欠けるように減ってきた。マンローも英国へ戻るようアドバイスを受けたが、日本に帰化したうえ末期ガンも抱えているマンローにそれはできない相談だった。また、そのつもりもなかった。マンローは自分の体が動かなくなる最後の時まで、アイヌの人々の世話をすると決意していたのである。
マンローはチヨに向かって言った。 「私が死んだら、アイヌの皆と同じように葬って欲しい。泣くんじゃないよ、皆、土に帰るだけのこと。アイヌに文字はなかった。土饅頭に名前はいらないよ」
解け切らない雪が残る1942(昭和17)年4月11日、二風谷の自宅でマンローは息をひきとった。享年78。カムイ(神)に祈る大勢のコタンの人々と、チヨに見守られての穏やかな最期だったという。
もしマンローが10年早く来日していたら、明治政府のお雇い外国人として、優遇されていたかもしれず、逆に10年遅く来日していたら、戦後にアイヌ研究を華々しく発表できたかもしれない。「もしも」と言っても仕方のないことだが、彼の集めた大事なコレクションや映像、原稿が戦中戦後の混乱の中、散り散りになってしまったことを知るにつけ、マンローに与えられた運命の厳しさに胸を痛めずにはいられない。幸い、分散し、行方の分からなくなっていたマンローのコレクションは、近年になって少しずつコタンの地に戻されつつあるといい、それに従い、彼の業績にも改めて光が当たり始めた。マンローが、激動の時代に身体を張ってアイヌの人々を助け、多くの記録を残したことは、これからも確かに語り継がれねばならないであろう。