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日本を愛した喜劇王 チャップリン [Charles Spencer Chaplin KBE]

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英国の偉人の生涯をたどる 『Great Britons』

2016年11月3日 No.957

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日本を愛した喜劇王 チャップリン

●Great Britons●取材・執筆・写真/名取 由恵・本誌編集部

日本を愛した喜劇王

チャップリン

ハリウッド映画初期の俳優、脚本家、映画監督として活躍し、バスター・キートン、ハロルド・ロイドと共に「世界の三大喜劇王」として世界的な人気を集める、チャーリー・チャップリン。
山高帽にチョビひげ、きついコートにだぶだぶのズボン、大きな靴にステッキで、よたよたと歩く姿は、映画ファンのみならず、誰もが知っているキャラクターだろう。笑わせながらもほろりとさせる彼の作品は、今もなお、世界中の人々を魅了し続けている。
一方、私生活では大の親日家で、日本と深い関わりをもち、五・一五事件では危うく命を落としかけてもいる。
英国の偉大な人物を紹介する『グレート・ブリトンズ』、今回は喜劇王チャップリンの生涯を辿ってみよう。

参考文献:大野裕之『チャップリン暗殺 五・一五事件で誰よりも狙われた男』(メディアファクトリー刊)、DVD『チャーリー』、Charles Chaplin, MY AUTOBIOGRAPHY, 1964

貧しき子供時代

「喜劇とは何であろうか。映画とはいったい何なのであろう。ただ人を笑わせるだけが喜劇じゃないことは確かだ。わたしの思いを表現するなら、わたしという人間を培ってきた社会を表現しなければならない。スクリーンの中の出来事は現実の社会と関わっているのだ。少なくとも『チャーリー』はそうだ」
『放浪紳士チャーリー』を生みだし、世界の喜劇王として人気を集めた、チャーリー・チャップリンの本名は、チャールズ・スペンサー・チャップリン(Charles Spencer Chaplin KBE)。1889年4月16日にロンドンのウォルワースで生まれる。父親チャールズ・チャップリン、母親ハナ・ヒル(芸名リリー・ハーヴィー)は、ともにミュージック・ホール(音楽、芝居、喜劇などを披露する当時の娯楽施設)の舞台芸人だったが、一家の生活は大変に貧しく過酷なものだったという。両親はチャップリンが1歳のときに離婚。11年後、父親はアルコール依存症により死亡。母親は、女手ひとつでチャップリンと4歳年上の異父兄シドニーを育てるが、チャップリンが幼いとき、極貧生活と栄養失調が原因で精神に異常をきたし、精神病院に入ってしまう。その後、シドニーとチャップリンは、孤児院や貧民院を転々とさせられた。
「わたしは貧乏をいいものだとも、人間を向上させるものだとも考えたことはない。貧乏がわたしに教えたものは、なんでも物をひねくれて考えること、そしてまた、金持ちやいわゆる上流階級の美徳、長所に対するひどい買いかぶりという、ただそれだけだった」
貧しかった幼少時代がその後のチャップリンの人格形成に多大な影響を与えたことは確かだ。
両親の感性を受け継いだチャップリンは、早くから舞台に立ち、家計を支えてきた。初舞台は5歳。舞台で突然声が出なくなった母親に変わって、チャップリンが急遽ステージに登場し、歌を披露したという。10歳でエイト・ランカシャー・ラッズ劇団に入団したチャップリンはタップダンサーとして注目を集め、その後は劇団を転々としながら芸を磨いていき、1908年に兄の勧めでフレッド・カーノー劇団に入団。ここでパントマイムの技術を磨き、「酔っぱらい」の演技で人気を集め、一躍花形コメディアンに成長していく。

米国に上陸 ハリウッドのスーパースターへ

1912年、カーノー劇団が2度目の米国巡業を行った際にチャップリンは喜劇映画界の雄、マーク・セネットに見いだされる。セネットは喜劇専門の映画製作会社であるキーストン社の監督/プロデューサーだった人物。キーストン社には無声映画全盛期を代表する名だたる役者が所属し、大衆の人気を集めていた。キーストン社から提示されたチャップリンのギャラは平均的労働者の10倍の週給150ドル。当時、映画は舞台より低級とみられていたため、出演を希望する役者が少なく、映画会社は高いギャラを払って俳優を確保していたという。
チャップリンは『成功争ひ(原題: Making A Living)』(1914年)のペテン師役で映画デビュー。以後、1年間キーストン社に所属し、34本の短編映画に出演することになる。そして、2作目『ヴェニスの子供自動車競争(Kid Auto Raves At Venice)』(1914年)で、放浪者にして紳士である『放浪紳士チャーリー』というお馴染みのキャラクターがようやく登場する。
「つまり、小さな口髭は自分の虚栄心、不格好で窮屈な上着とダブダブのズボンは人間が持つ愚かしさと不器用さ、同時に物質的な貧しさにあっても品位を維持しようとする人間の必死のプライド。そして大きなドタ靴は貧困にあえいだ幼い頃の忘れえぬ思い出だ。それが僕に閃いた人間の個性なのだ」と、チャップリンは後に回想している。
当時は無声映画の時代であり、派手なアクションのドタバタ劇が人気を集めていた。キーストン喜劇も然り、即興で撮影されるということもあって、追いかけ回したり、喧嘩したりの連続が主流だった。そんな中でも、チャップリンは監督業を兼任するなど映画人として修行を積んでいく。やがてめきめきと実力をつけたチャップリンは、他の映画会社から次々と引き抜かれ、その度にギャラも上がっていった。2年目の1915年には週給1000ドルで移籍し、14本の短編で監督・主演を務めた。さらに3年目には週給1万ドルという破格の契約金で移籍、12本の映画を製作する。
1918年には、独立して自分の撮影所を設立。ファースト・ナショナル社(後にワーナー・ブラザーズと合併)と年棒175万5000ドルで契約を結び、名実ともにハリウッドのスーパースターとなる。自らの撮影所で自由に映画製作できるという環境が整い、映画作りにおいて主導権が握れるようになったおかげで、チャップリンは当初のドタバタ劇から、「喜劇は人を泣かせることもできる」という自分の信念にもとづく作品を創るようになる。こうして、社会的メッセージと人間の内面を、笑いと涙を織り交ぜながら描くというチャップリンの独自のスタイルが確立されていったのだった。
さらに、1919年には、その後アメリカの映画界で隆盛を極める配給会社、ユナイテッド・アーティスツを設立。チャップリンは、監督・プロデューサー・脚本・主演と、ひとりでいくつもの役割をこなし、無干渉で映画製作のできる環境を手に入れた。そして、『キッド(The Kid)』(1921年)=写真右、『黄金狂時代(The Gold Rush)』(1925年)、『サーカス(The Circus)』(1928年)、『街の灯(City Lights)』(1931年)など、大ヒット作を次々に製作し、またたく間に世界的な人気者になっていく。
チャップリンは、わずか数秒のシーンを納得のいくまで何百回と撮り直し、少しでも無駄な演技のシーンは大胆にカットするなど、業界随一の完璧主義者と呼ばれた。NGがでたフィルムはほとんど焼却していたほど、その完璧ぶりは徹底していたという。

少女趣味(ロリコン)で4度も結婚
~多彩な女性関係~

ロバート・ダウニー・Jr主演、リチャード・アッテンボロー監督の伝記映画『チャーリー(原題:Chaplin)』(1992年)でも描かれているように、チャップリンは4度の結婚で11人の子供をもうけるなど、女性関係は実に華やかだった。
初恋の人は踊り子のヘッティ・ケリー。彼女が15歳のときに出会い恋に落ちるが、彼女が若くして亡くなったため、チャップリンは一生ヘッティの面影を追い求めたといわれる。最初の妻は女優のミルドレット・ハリス=写真右。1918年に結婚し2年後に離婚。2番目の妻はリタ・グレイ。1924年に結婚し3年後に離婚。ふたりの間には長男チャールズJr、次男のシドニーが生まれている。3番目の妻とされるのは、ポーレット・ゴダード=同左下。女優としては彼女が最も有名で『モダン・タイムス』『独裁者』でも共演している。1936年に結婚し6年で離婚。しかし彼女とは結婚の法的証拠がなく、正式に結婚していなかったという説もある。そして4人目の妻は、ウーナ・オニール。ノーベル賞受賞の劇作家、ユージン・オニールの娘でもある。1943年に結婚、8人の子宝に恵まれる。
他にも数々の浮き名を流し、父権裁判を起こされたこともある。また、チャップリンが少女趣味(ロリコン)だったというのも、ハリウッドでは有名な話。ミルドレットが結婚したのは16歳で、リタも16歳のときに妊娠して結婚している。離婚後まもなくリタは慰謝料訴訟を起こし、夫婦の性生活を暴露するなど、チャップリンにはかなりの痛手だったという。一説によると、ナボコフの小説『ロリータ』は、チャップリンとリタの関係をヒントに書かれたという噂も。ウーナは17歳で結婚。当時チャップリンは54歳で、年の差はなんと37歳!8番目の子供が生まれたとき、チャップリンは73歳だった。

大の親日家

1927年に撮影されたチャップリンと高野虎市(右)
=高野の遺族、東嶋トミエ氏所有の写真。
チャップリンと日本の縁は深い。1916年秋、チャップリンは在米日本人の高野虎市を運転手として採用した。それまでのチャップリンは特に親日家だったというわけではなく、高野を選んだのは、単に人種についての偏見がなかったからといわれている。
高野は1885年広島県生まれ、裕福な庄屋の出だったが、15歳のとき親には「留学」と称し、自由を求めて渡米。以来、米国で生活していた。
運転手として働き始めた高野は、車の運転はもちろん、経理、秘書、護衛、看護師などさまざまな仕事をこなし、チャップリンの身の回りのことをすべて任されるようになった。高野は映画にも端役で出演したことがあり、長男にはチャップリンのミドルネームからスペンサーという名前がつけられた。一時はチャップリンの遺書のなかで遺産相続人のひとりに選ばれるほど、絶大なる信頼を得ていたという。高野の誠実な人柄や勤勉な仕事ぶりに感心したチャップリンは、使用人に次々と日本人を雇い、1926年頃には使用人すべてが日本人になっていた。チャップリンの2番目の夫人であるリタ・グレイは「まるで日本のなかで暮らしているよう」と表現していたと伝えられる。

「キムラ」と呼ばれて
ロンドンでも人気だった
滋賀県産のステッキと
同様のデザイン。
当時は年間200万本も
輸出されていたという。
1931年初め、チャップリンは突然世界旅行に出発することを決意。高野は1年半にわたり、チャップリンの世界旅行の全行程に同行した。そしてその世界旅行の途中、32年5月にチャップリンは遂に憧れの地、日本の土を踏むことになる。
その後、チャップリンは1936年3月と同年5月、そして戦後の61年6月と生涯で4度来日を果たしている。すっかり親日家となり、歌舞伎や相撲など日本の伝統文化を愛し、西陣織の羽織をガウンとして愛用、天ぷらを好んで食べ、天つゆまで自分で作るほど、日本に惚れ込んでいた。ちなみに、チャップリンが映画のなかで愛用した、かの有名なステッキは、しなりが強いのが特徴の滋賀県産の竹で作られていたもの。竹根鞭細工と呼ばれる木村熊次郎が考案した滋賀の特産品で、明治初期から海外に輸出され、かつてロンドンではステッキを「キムラ」と呼ぶほど好評を博したという。

日本では暗殺の的に

「五・一五事件」といえば、戦前の日本で起きたクーデター事件として、「二・二六事件」と共に歴史の授業でもお馴染みだが、その事件にチャップリンが関与していたという意外な事実がある。
1932(昭和7)年に起きた「五・一五事件」では、大日本帝国海軍の急進派である青年将校たちが首相官邸に乱入、護憲運動を進めた犬飼毅首相を暗殺。この事件により、政党政治は衰退、日本は軍部主導の体制になり、戦争へと向かっていくことになる。この「五・一五事件」が起こった当時、チャップリンは偶然にも日本を訪れていた。しかも、チャップリン自身が暗殺の標的になっていたというから驚きだ。
日本チャップリン協会発起人代表であり、チャップリン研究家の大野裕之氏の著書『チャップリン暗殺 五・一五事件で誰よりも狙われた男』には、当時の情勢とチャップリンの足跡が詳細に述べられている。それによると、事件の首謀者たちは、「外国文化の象徴」であるチャップリンを暗殺することにより、米国をはじめ世界中に衝撃を与え、さらに日米開戦にもちこみ、世界全体を改革することを目指していたという。チャップリンは国際的スターであり、資産家でもあり、世界的に重要な人物だったため、クーデター首謀者にとって、格好の暗殺の標的だったのだ。

ガンディー(前列右から2人目)とチャップリン(同3人目)
=1931年9月、ロンドンにて撮影。
世界旅行中、チャップリンは世界の著名人と会談を果たしている。英国では、ウィンストン・チャーチル首相やマハトマ・ガンディー、アインシュタインとも会談し、日本では、犬飼毅首相との面会及び首相官邸での歓迎パーティーが予定されていた。日本の不穏な空気を心配した高野虎市は、世界旅行中に一足早く日本を訪れ、犬飼毅首相の息子である犬飼健首相秘書官に相談。チャップリンと犬飼首相の会談は、チャップリンが親日家であることを強調することで日本の右翼勢力を懐柔し、チャップリンの身の安全を守ろうという高野と犬飼健氏が立てた作戦だったといわれる。
チャップリンはジャワ滞在中に熱病にかかり、日本到着予定が5月16日と遅れたために、一時は暗殺の標的から外されたが、結局船が快調に進み、14日朝に神戸に到着。首相との会談は事件当日の15日夜に首相官邸にて行われることに決定した。見事に首相官邸襲撃のタイミングに重なったことで、再びチャップリンの命は危険に晒されることになる。ところが、日頃から気まぐれなチャップリンが、当日になって突然相撲に行きたいと言い出したことから、首相との会談は延期。チャップリンは辛くも暗殺を逃れたのだった。チャップリンが直感的に危険を察知したかどうかは謎だが、予定どおり会談に出席していれば日本で暗殺されており、その後の日英関係にも大きく影を落としたに違いないと考えるとぞっとする。
また、14日に到着するなり東京に直行したチャップリンはまず二重橋を訪れ、皇居に一礼している。この一礼は当時の新聞に大々的に報道されたが、これも当時の時勢を配慮した高野が仕掛けたことで、チャップリンは後に「高野が『車から降りて皇居を拝んでください』というので、腑に落ちないまま礼をした」と自伝に記している。
事件後もチャップリンは、気丈に日本観光を続け、歌舞伎座と明治座で伝統芸能を鑑賞した。日本橋の「花長」ではエビの天ぷらを36尾も食べたという。5月17日、チャップリンは密かに首相官邸に行き、犬飼健氏と共に弾痕が残る現場を訪れた。また、帰国当日の6月2日にも斎藤実新首相と会見。再び暗殺の現場を訪れ、何度も「恐ろしい」と繰り返していたという。
その4年後の1936年3月、再び日本に訪れたチャップリンだが、同年2月26日には「二・二六事件」(*)が起きている。チャップリンは予定では2月末には日本にいるはずだったが、ハワイ滞在を延長したため、事件には巻き込まれなかった。しかし、この事件では、前回チャップリンを首相官邸に案内した斎藤実が殺されてしまう。
「五・一五事件」、「二・二六事件」という、日本の歴史を変えた事件の両方にチャップリンが関係していたとは、単なる偶然なのか、20世紀という時代が作り出した必然なのか。どちらにしても不思議な縁を感じる。

大野氏が発見した手紙。
秘書や知人らがチャップリン訪日の行動計画を
立てたことが明らかにされた。
上の記述では、「御到着の日」は「休養」だが、
他の箇所で宮城(皇居)に行く
よう求めている
=高野の遺族、東嶋トミエ氏所有のもの。
前述の大野氏の著書によると、チャップリンは初来日の際に記者会見で、世界情勢に関して質問を矢継ぎ早に受け、「それはわたしの職分ではない。各政治家の職分です」と答えると、ある記者から次のように声があがったという。
「君のユーモアによって、世界を救えばいいじゃないか!」(原文より抜粋)
すると会場内は笑いの渦となり、チャップリン自身も笑っていたという。ユーモアで世界を救う――この言葉が、チャップリンの心に響き、その後の彼を導いていったと思うのは、考え過ぎだろうか。世界旅行中に、ドイツやイタリアなどでファシズムが広がりつつあるのを目の当たりにし、自分が愛する日本でも軍国主義が始まろうとしているのを知ったチャップリン。この時期にチャップリンが世界で見聞したことが、後の彼の作品に多大な影響を与えたことは、間違いないだろう。
*1936年2月26―29日に、陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1500名近い兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」をスローガンに起こしたクーデター事件。これにより、斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監が暗殺された。

言葉より動きで伝える 政治への挑戦

チャップリンは、1932年6月に世界旅行から米国に戻るが、ハリウッドは無声映画からトーキーの時代へと移り変わっていた。1936年にチャップリンは自ら作曲の音楽をつけた『モダン・タイムス(Modern Times)』を製作するものの、トーキーではない作品に世間の評価は厳しかった。日本でも最初の来日後にチャップリンの評価は急落した。彼の映画はもはや時代遅れになってしまったのだ。
チャップリンの作品は無声映画がほとんどだが、トーキーを軽蔑していたのではなく、チャップリンの作り出したキャラクター=放浪者のイメージが声で崩れることを危惧したためといわれている。
「もし、わたしがトーキー映画を創っても、到底あのパントマイム芸術を超えることはできないだろう。『チャーリー』を殺すことは僕にはできない」
言葉よりも動きの方が正しく理解される、と信じていたチャップリンだからこそ、あくまで無声にこだわっていたということだろう。
『モダン・タイムス』では、過酷な状況で生きる貧者や労働者を描き、人間の機械化に反対したが、この頃から彼は米国の急進的な左右両派からの批判を浴びるようになった。極貧の少年時代を送った影響で、チャップリンは政治問題に大変な関心を持っていた。そのうえで、ファシズムの勃興と暗殺の標的として狙われた日本での体験は、チャップリンにあるアイディアを抱かせる。1938年、満を持して、戦争・ファシズムを批判する、チャップリン初のトーキー映画『独裁者(The Great Dictator)』の製作を発表するのだ。
当初、チャップリンはナポレオン皇帝を主人公にした悲喜劇を作ろうと思っていたようだが、それをボツにして『独裁者』の製作を決意した。1939年、ヒトラー率いるナチスドイツがポーランドに侵入し、第二次世界大戦が勃発した直後に撮影を開始。1940年10月に米国で公開されたが、当然のことながら戦前の日本では公開されず、日本では1960年になって初めて公開されたという。
映画の終盤にある演説は、もともと台本にはなく、当初はドイツ兵士とユダヤ人が一緒にダンスをするというラストだったとされている。しかし、独裁者に対する怒りを表現するために台本を書き換え、6分もの長さの大演説となった。製作当時、米国ではナチスドイツを反共主義の国として肯定的な見方をする向きも多く、不況を克服した政治家としてヒトラーを英雄扱いする傾向にあったといわれ、『独裁者』の演説シーンは賛否両論を呼んだ。
また、当時はチャップリンがユダヤ人という説がまことしやかに流れたというが、チャップリンは実際にはユダヤ人ではなく、アイルランド人とロマ(ジプシー)の血を引く。異父兄のシドニーがユダヤ系のクオーターと主張していることが関係しているといわれていたが、当のチャップリンは「ユダヤ人と思われて光栄だ」などと語っていたという。ちなみに、チャップリンとヒトラーは同い年で、誕生日もわずか4日違い。ヒトラーにも一時期ユダヤ人説が流れたこともあわせて、ふたりにはさまざまな共通点があるが、その理想はまったく異なる方向にあったといえよう。

チャップリンの先見の明が光る
『独裁者(The Great Dictator)』

おそらく、チャップリンの作品のなかで最も有名なのが、この『独裁者』だろう。チャップリンが監督・製作・脚本・主演を務め、ヒトラーとナチズムを風刺した作品で、チャップリンが最初に製作したトーキー映画として知られる。
本文で述べたように製作当時はヒトラーの人気も高く、人々はなぜチャップリンがヒトラーを風刺するのか不思議がったが、後に彼の先見の明が証明されることになった。
ストーリーは、架空の国トメニアの陸軍二等兵である床屋の店主チャーリーが主人公。独裁者のヒンケルが圧政を行うこの国で、ユダヤ人のチャーリーは迫害を受けながらも隣国に脱出。しかし、ヒンケルと容姿がそっくりだったことから、チャーリーはヒンケルに間違えられ、再びトメニアに連行されるが、ヒューマニズムと民主主義を訴える演説を行い=写真上、民衆から大喝采を受けるという内容だ。
戦争を憎み、平和の尊さを伝える本作は、商業的に最も成功したチャップリン作品となっている。

その他の主な作品

『ライムライト Limelight』では、
老いた喜劇俳優の悲哀を演じた。
1914年の第1作『成功争ひ(原題:Making a Living)』から1967年の『伯爵夫人(A Countess from Hong Kong)』(監督のみで出演はなし)まで、チャップリンは40余りの作品を手がけている。初期は短編映画が中心で、中期以降は中編や長編が多くなる。そのなかでも有名なのは、ファースト・ナショナル時代の『キッド(The Kid)』(1921年)、ユナイテッド・アーティスツ時代の『黄金狂時代(The Gold Rush)』(1925年)、『街の灯(City Lights)』(1931年)、『モダン・タイムス(Modern Times)』(1936年)、『独裁者(The Great Dictator) 』(1940年)、『ライムライト(Limelight)』(1952年)など。

 

笑うために闘ったチャーリー

第二次世界大戦後、1947年に『殺人狂時代(Monsieur Verdoux)』を製作した頃から、チャップリンに対する米国での風当たりがさらに厳しくなっていく。反戦色の強い作品や、左寄りの発言は、東側に対する冷戦が始まった米国では「容共的」として非難されることもあり、マッカーシズムと呼ばれる米国での赤狩りが吹き荒れた50年代には、上院政府活動委員会常設調査小委員会から、何度となく召還命令を受けている。
1952年、チャップリンは『ライムライト(Limelight)』のプレミア公演のため、ロンドンに出航するが、その直後に米政府から事実上の国外追放処分が出され、米国の地に戻ることは許されなかった。こうして、チャップリンは、40年間にわたって活動を続けた米国、そしてハリウッドと決別することになる。
チャップリンの右腕として活躍していた高野虎市は、それに先立つこと18年前の1934年に秘書役を辞任している。当時は恋人で、後にチャップリンの3番目の妻となる女優のポーレット・ゴダードと衝突したのが原因とされている。その後、高野はチャップリンから莫大な退職金とユナイテッド・アーティスツ日本支店の職を与えられるが、日本の暮らしに馴染まなかった高野は再び米国に戻り、第二次世界大戦中には、スパイ容疑でFBIに逮捕され、開戦後に強制収容所に送られた。息子のスペンサーは、父親の立場が良くなるようにと、志願兵となり日本軍と戦ったという。高野は戦後も事業に失敗するなど苦労をしたようだが、晩年は故郷の広島で静かに過ごし、86歳で逝去した。18年間を共に過ごしたチャップリンと高野が会うことは、二度となかった。

72歳の誕生日を迎えた
チャップリン=1961年撮影。
© Comet Photo AG (Zürich)
スイスに住み始めたチャップリンは、映画出演こそ少なくなったものの、世界各地で名士としての尊敬を受ける。また、50年近くを経て改めて、過去の作品が評価され、70年代初めには世界的にチャップリン・ブームが起こった。
1972年、米国映画界が事実上の謝罪を意味するアカデミー賞特別名誉賞をチャップリンに与えたことで、チャップリンは20年ぶりに米国の地を踏むことができた。授賞式の会場では招待客全員がチャップリンの作曲した楽曲「スマイル」を歌って功績を讃えたという。また、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムで長年消去されていたチャップリンの星印もこれを機に復活。さらに、政治的問題や女性問題で叙勲が遅れたものの、1975年には、母国英国のエリザベス女王からナイトの称号を贈られている。  チャップリンは、1977年クリスマスの朝に、スイスのヴェヴェイにある自宅で逝去した。就寝中に息を引き取るという安らかな最期だったという。享年88。
20世紀の怒濤の時代を生きぬき、金持ちや貧乏人、資本主義やプロレタリア、ファシズムなど、世界のすべてを笑い飛ばした喜劇王。世界中の人々から愛される作品を目指すため、誰かに不快感を与えるようなギャグを排除し、自分が納得するまで何度も作品を作り直した完璧主義者。日本を愛し、日本の文化を尊敬した親日家。戦争を憎み、平和を愛した理想高きヒューマニスト。さまざまな顔をもつチャップリンが作り上げた映像とメッセージは、時代を超え、世代を超えて、私たちに強く訴えかけ、今も私たちに愛され続ける。チャップリンはそのユーモアによって、数多くの人々の心を救った。そして、これからも救い続けていくことであろう。
「人生には、死よりも苦しいことがある。それは、生き続けることだ」
―チャーリー・チャップリン

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