Quantcast
Channel: 英国の偉人の生涯をたどる 『Great Britons』 - Onlineジャーニー
Viewing all articles
Browse latest Browse all 93

『クリミアの天使』と呼ばれた、改革の鬼 フローレンス・ナイチンゲール [Florence Nightingale]

$
0
0
英国の偉人の生涯をたどる 『Great Britons』

2017年3月30日 No.977

プリントする 他のGreat Britonsを読む
『クリミアの天使』と呼ばれた、改革の鬼フローレンス・ナイチンゲール

●Great Britons●取材・執筆/本誌編集部

『クリミアの天使』と呼ばれた、改革の鬼

フローレンス・ナイチンゲール

フローレンス・ナイチンゲール――。
この名を聞いたことがないという人は少ないだろう。
しかし、彼女が看護婦だったということ以外は存外知られていない。
英国出身のナイチンゲールは、19世紀中期に勃発したクリミア戦争に看護婦として従軍し、英国軍の死亡率を劇的に下げた人物だ。
「看護婦」という響きから、母性的で優しげな女性をイメージしがちだが、実際には、可憐な存在では決してなく、女性の社会進出などありえなかった時代に男性からも一目置かれ、恐れられる存在であったという。
今号ではナイチンゲールの生い立ちや苦悩、そして人物像に触れながら、彼女が残した特筆すべき功績の数々をご紹介したい。

※本特集は2008年5月29日に掲載したものを再編集してお届けしています。

運命のクリミア戦争

「彼女は救いの天使だ。誇張するわけではないが、彼女の細身の身体がそっと病院の廊下を通る時、病人たちが彼女の姿を目にすれば、どの顔も穏やかになっていく。軍医が皆寝静まり、傷病兵たちを暗闇と静寂が包んでいる頃、彼女はランプを持って一人で看回りをしていた――」(タイムズ基金 コミッショナー ジョン・C・マクドナルド)
フローレンス・ナイチンゲールが『看護婦』として英国中にその名を知られ、後世まで語り継がれるきっかけとなった出来事は、「クリミア戦争」(1854年3月~56年3月)だ。そもそもクリミア戦争とは、ロシアがヨーロッパ、地中海方面への勢力拡大の足がかりのために、トルコに宗教的正当性を振りかざし、仕掛けていった戦争として知られる。英国が参加したのは、開戦間もない頃、トルコ艦隊がロシア軍にすんなりと打ち破られてしまったためで、ロシアの地中海進出をなんとか阻みたい英国は、フランス、イタリアと組んでトルコの後ろ盾となり、ヨーロッパ四国同盟を作ってロシアを攻撃していく。
ロシア軍220万、同盟軍100万人を動員する大規模な国際戦争に発展するが、この戦争は史上稀に見る「愚かな戦争」としても知られる。というのも、2年余り経っても決着がつかず、両陣営ともに不手際が続発したからだ。ロシア軍13万人、同盟軍7万人という甚大な数の死者を出しただけで、どちらが戦勝国か分からない混沌とした状況に、人々の虚脱感が残るだけだったという。英国では膨大な戦費の捻出により、ついには内政が破綻してしまう事態を引き起こすまでになっていた。

ナイチンゲールの支援者でもあった
シドニー・ハーバート
(Sidney Herbert, 1st Baron Herbert of Lea,
PC、1810~61/1847年、Francis Grant作)。
「傷病兵が苦しみもだえても医療品は不足し、手術する外科医もいなければ看護婦もいない。傷口を手当てするガーゼすらなく、包帯する布さえないありさまだ。寒さと疫病に苦しみながら、毎日多くの兵士が命を落としている。我々にはなぜ慈善婦人会がないのか? 優しい心を持ち、献身的な英国人女性はたくさんいるはずなのに」(1854年10月12日付、タイムズ紙)
実は、クリミア戦争は新聞記者が従軍し、ジャーナリストの観点から戦況を伝え、翌日の新聞に掲載するという今日的な報道体制が初めて確立された戦争であった。
そのため、英国陸軍の医療体制のずさんさがすぐさま英国民の知るところとなる。このタイムズ紙の報道なくしては、のちにナイチンゲールが「国民的英雄」として広く知れ渡ることはなかったと言っても過言ではないだろう。
「あの人しかいない…」
英国陸軍の野戦病院の悲惨な状況を深刻に受け止めた当時の国防相シドニー・ハーバートは、すでに看護のエキスパートとして頭角を現しはじめていたナイチンゲールに従軍を依頼。ナイチンゲールはそれを二つ返事で快諾し、看護婦として、現在のイスタンブール対岸にあった英国軍後方基地のスクタリ野戦病院へと赴く。
ナイチンゲールがこの野戦病院で過ごした約2年間が、彼女の名声を決定づける最重要なポイントであったことは紛れもない事実だが、クリミア戦争終結後も40年余りに渡り、作家として、看護の権威として、そして改革の鬼として、精力的な活動を続けたことはあまり注目されていないように思われる。また、ナイチンゲールは生涯独身を貫き通したことから、「結婚が女性の最大の幸せ」という、当時の一般的価値観に反した生き方をした女性である点も忘れてはならない事実だ。
まずはナイチンゲールが、看護への道へ突き進むまでの半生を追っていきたい。

才色兼備のスーパーお嬢様

ナイチンゲールは19歳の時、
ヴィクトリア女王に拝謁している。
社交界デビューを果たし、
美しく裕福だったナイチンゲールは、
周りの男性たちからの人気が高かった。
c Florence Nightingale Museum
1820年5月20日、フローレンス・ナイチンゲールは富豪であるジェントリー(*1)階級の両親の元、二人姉妹の次女としてイタリア・フィレンツェ(英語ではフローレンス)で生まれる。父、ウィリアムは学問に秀で、ケンブリッジ大学を卒業し、政治活動や娘たちへの教育に熱心な人物。一方の母、フランシスは社交好きな美しい女性であった。国民の3パーセントの上流階級に属する富豪のお嬢様として、何不自由のない環境で成長する。一家は大陸旅行と称し、1~2年という時間をかけ、英国の屋敷から持ち運んだ一家専用馬車でヨーロッパを周遊。旅先では観劇、オペラ、景勝地めぐり、舞踏会などを楽しむセレブリティ生活を送っていた。
幼い頃は学校へは通わず、姉妹揃って父から在宅教育を受ける。歴史や哲学、語学さらに音楽まで様々な学問を習うが、その中でもナイチンゲールがもっとも興味を示したのが数学であったという。両親との旅行中にも旅行距離と時間を記録に取るほど、数字にのめり込んでいった。
ナイチンゲール家の人々は当時の上流階級らしく、季節によって屋敷の住み替えをしている。夏の家とされるダービシャーのリーハーストと、冬の家、ハンプシャーのエンブリーを行き来し、時にはロンドンへ赴き、当時メイフェアにあった高級ホテル、バーリントン・ホテルで過ごしたり、英国王室の避暑地としてヴィクトリア女王も訪れていた英国南部の島、ワイト島の別荘で過ごしたりしていたという。
そのような中、恵まれた生活が許された階級の人々であったからこそ、とも言えることだが、ヴィクトリア朝時代の貴婦人には、貧しい人を訪ね、食物や薬を与える習慣があった。
幼いナイチンゲールも母に連れられて、リーハーストの屋敷近くの村へ出かけていく。そこでナイチンゲールは、ある時一人の女性の死に遭遇し、「病院」の存在を初めて知ることとなった。というのは、当時の上流階級の家庭では、医師による往診が当たり前で、たとえ病気になろうとも、みずから医師のいるもとへ足を運ぶことなどありえなかったのである。
しかし「病院」とはいえ当時は汚く不潔で、排泄物などの悪臭が漂うのが普通であった。
若いナイチンゲールは、自分が住む経済的に満ち足りた世界と、掃き溜めのようなその状況の格差に疑問を抱いていく。裕福な家に生まれながらも、貧民層の人々の生活に強く感じ入ったという事実から、彼女は人一倍広い視野と感受性を持つ女性であったことは容易に想像がつく。こうして、かけ離れた二つの現実を掛け持ちすることになった、10代のナイチンゲールの苦悩の日々が始まる。

ナイチンゲールの育った屋敷

① ハンプシャーのエンブリー・パーク(冬の家)

② ダービシャーのリーハースト(夏の家)

リーハーストの家は父、ウィリアムによる設計で一家のおもな住まいであったが、ナイチンゲール家にとっては屋敷というには小さすぎ、加えて「寒すぎる」との妻フランシスの不満から、ナイチンゲールが5歳の時にエンブリー・パークの屋敷=写真=を購入する。 エンブリー・パークは1946年から現在まで学校として利用されており、リーハーストは1874年のウィリアムの死後、親戚の手に渡り、戦後には老人向けケアハウスとなるが、現在は売りに出されており、所有者不在となっている。

異性は二の次

きっかけは、ナイチンゲールが20歳になった時に訪れた。
彼女は、興味をもっとも抱いた学問である数学を極め、「世間に出て活躍したい」と家族に相談する。19世紀の封建的なヴィクトリア朝時代の英国では、たとえ上流階級出身であっても女性の社会的地位はまだ低く、学問を身につけ一般社会で活躍したい、などという娘の告白は、両親にとって天地を揺るがすほどの衝撃的な「事件」であったに違いない。
ナイチンゲールの一番の理解者であった父、ウィリアムですら当惑するばかりだった。しかし、ついには、ナイチンゲールの長期に渡る執拗な懇願に根負けし、両親は個人講師をつけて数学を学ぶことを許可する。とはいえ、ナイチンゲールを完全には理解することのできない家族との間にはしこりが残り、このことから彼女は家族との間に葛藤を抱えていく。

旧10ポンド紙幣に用いられていた、
ナイチンゲールの肖像画。
c Florence Nightingale Museum
ちょうどこの頃、英国は飢饉と不況に襲われており、ナイチンゲールは幼い頃、母に連れられて行ったように、屋敷近くの村を訪問し、病人を見舞っていた。この経験を通じ病人看護に取り組みたいという思いを確固たるものとしたナイチンゲールは、ついに家族にその熱意を告白する。
だがそれは、家族にとって耐え難い衝撃的な出来事に他ならなかった。というのも、当時、看護婦という職業は、下層階級の無教養な人々が就く仕事だと考えられており、娼婦、アルコール中毒者などがたずさわっているのが実情であった。そのため、上流階級の淑女が就くような仕事では決してなかったのだ。世間体を重視する上流階級の一家にあっては、娘が看護婦になるという事実は、隠し通したい恥ずかしいことであっただろう。結局この時は諦めるしかなかったという。
家族の強い反対にあうことは分かりきっていたにもかかわらず、ナイチンゲールはなぜ、かたくなに自分の意思を貫こうとしたのか――。そこには、ナイチンゲールが人生で計4回聞いたという神の声があったとされている。
ナイチンゲール自身の日記によると、彼女は寝室で、茨の冠をかぶったキリストが光輝く姿で現れ、「我に仕えよ!(To My Service)」という神の啓示を受けたという。17歳で最初にこの声を聞いた時は「仕える(service)」が何を意味するのか理解できなかったが、前述のような貧困層のひどい暮らしぶりを見つめ続けた結果、24歳の時ようやくその答えを見つけだすことができたとされる。
良家のお嬢様という生い立ちはもとより、才色兼備で、さらには教養に裏付けられた機知に富んだ会話術を身につけていた20代のナイチンゲールは、社交界では当然人気者であった。近づいてくる男性も多く、何度かプロポーズも受けている。
その中でも国会議員にして慈善活動家の富豪、R・M・ミルズとの関係は特別であったようだ。貧しい人を看護したいという気持ちを理解した上でナイチンゲールを愛し、6年間に渡って求婚しつづけた。しかし29歳の時、「結婚して夫に忠誠を尽くすことになれば、神の意思をまっとうする機会を奪われてしまう」との理由から、彼女は生涯独身を貫く決心を固め、最終的には彼の熱烈な求婚に対し、「ノー」の答えを出す。これは、R・M・ミルズを、娘を『更生』させる最後の頼みの綱と信じていた母フランシスを失望の淵へ突き落とすことでもあった。

立ちはだかる男たちの「壁」

「私は30歳、キリストが責務を果たしはじめた年齢。今はもう子供っぽいこと、無駄なことはしない、愛も結婚もいらない。神よ、ただ自分の意思に付き従わせてください」(1850年、日記)
31歳の時、諦めともとれる家族の同意を得て、ドイツの病院付学園施設カイゼルスベルト学園に滞在し、3ヵ月間看護婦としての専門的訓練を積む。英国に戻った後も独学で病院管理や衛生学を学び、33歳でロンドンのハーレイ・ストリートにある慈善病院に就職し、監督者となった。
一方で自分の行動が家族や親戚を不幸にしているという良心の呵責を感じずにはいられなかったが、それでも自分の意思を貫き通して生きたいと強く思うナイチンゲールは、人知れず思い悩み、打ち明けられない気持ちを吐き出すかのようにメモを連ねていく。34歳でナイチンゲールが書き上げた自伝的小説『カサンドラ』(未出版)の中では、神からの啓示を実行するために結婚を断ったこと、看護の道へ進むことに反対する母との確執から神経衰弱に陥ったこと、そして自殺願望があったことまでが赤裸々に綴られている。
『カサンドラ』の執筆から間もない1854年3月、クリミア戦争勃発。
前述のとおり、国防相シドニー・ハーバートからの従軍依頼を受け、開戦から8ヵ月後の10月末、ナイチンゲールは職業看護師14名とシスター24名を引き連れ、戦地に赴いた。
荒れ狂う海原を越え、ようやくたどり着いたスクタリの地で、冷たい風が吹きすさぶ中、ナイチンゲールが目にしたものは、汚物まみれの病室と、満足な手当ても施されないまま、ゴキブリ、シラミ、ネズミなどがうごめき走り回るむき出しの固い床に寝かされた傷病兵たちの姿であった。彼らの多くは痩せこけ、痛みに半狂乱となるか、その場で弱々しく頭をうなだれていた。その環境の劣悪さから、多くの者がチフスやコレラを罹っていた。その上、必需品である薬や食料が不足し、死者の数だけが増え続けていた。驚くべきことに、病院での死亡率は戦地でのそれに対して7倍の高さであったとも伝えられている。
このような状況下で、ナイチンゲールは「救いの女神、来たり」という具合に現地で迎えられたわけではなかった。伝統的に英国陸軍には、「戦場は男の世界」という概念があり、陸軍の軍医局の幹部たちは、ナイチンゲールら看護婦たちを、ろくに役に立たない邪魔者として蔑み、冷遇した。
ナイチンゲールの最大の敵は、不足する物資でも不潔な環境でもなく、陸軍の「男性社会の壁」であったのだ。このためナイチンゲールら看護団は、当初、傷病兵の手当てをすることを許されず、破れたシャツを縫ったり病床を整えたりといった、ごく簡単な作業を行いながら、もどかしい日々を過ごさざるを得なかった。

スクタリ病院の真実
~ 誤解が生んだ統計学への傾倒 ~

ナイチンゲールがスクタリにたどり着いた翌年の1855年2月には負傷兵の死亡率は約42%にまで跳ね上がっていた。しかし、物資補給体制を整えたり、職員や病室を増やしたりといったナイチンゲールの寄与もあり、4月に14.5%、5月に5%となり、同年冬にはなんと2%にまで激減した。
戦時中、ナイチンゲールは兵士の死亡原因は、極度の栄養失調や、兵士が疲弊し手遅れになって病院に送られて来るためだと信じていた。このため、軍司令部の無能さや非情さ、物資補給を滞らせる政府や軍当局、病院管理者を激しく批判した。
戦後になって、このことを実証する目的で、統計学者のウィリアム・ファーとともに手がけた調査で、ナイチンゲールは、2万5,000人の兵士のうちの1万8,000人を死なせたおもな原因が、戦傷や兵士の過労によるものよりも、病院の過密と不衛生な状況によるものであったという、当初の推測とは異なる結論を得て、みずからも愕然とした。数字上では、死亡率は劇的な減少を遂げたものの、看護の監督者として、病院の衛生管理事項の注意を怠ったために、助かったかもしれない負傷兵を死に追いやった、という罪の意識にさいなまれたナイチンゲールはあまりの衝撃に虚脱状態に陥るほどだった。
このことからナイチンゲールは、「死亡率の要因」という真実をできるだけ多くの人々に知らせることで、再び同じ過ちが繰返されるのを防ごうと決意。ナイチンゲールが生涯に渡り、統計学と衛生統計へ情熱を注いだのはそのためだった。

クリミアに天使現る

「勇気と高い志を持った女性たちに対する冷遇はやがて、懇親的な働きから感謝の気持ちへと、自己犠牲をいとわない働きぶりは畏敬の念へと変化していった」(1855年、野戦病院の医師)
ナイチンゲールたちに転機が訪れたのは、その2週間後の1854年11月5日。ロシア軍が本格攻撃を仕かけてきたのだ。その数ざっと5万人。対する英国軍はわずかに8000人…。
たった6時間のこの『インカーマンの激戦』で、英国軍はあっという間に2500もの負傷兵を出した。スクタリ病院は次々と担ぎ込まれる負傷兵たちであふれ返り、土埃と負傷兵のうめき、汗、そして血で覆われた地獄へと一変した。
すでに憔悴しきっていた軍医たちが、何千という負傷兵に処置を施すのは無理であった。そしてこの緊急事態が軍医局のプライドをつき崩し、ついに、ナイチンゲールたちが実務に従事する許可がおりる。ナイチンゲール一行は迅速な対応と見事な働きぶりを見せつけ、その実力を証明した。
ナイチンゲールは、ある時は患者に包帯を巻くために8時間もひざまずき通し、兵士が負傷した足をノコギリで切断されている際には、その絶叫と切断音の只中に身を置いて、患者のそばを離れなかったという。夜はランプを手に持ち、何百、何千という患者を見回ったというエピソードはあまりに有名だ。

クリミア戦争時の
1856年3月9日に
ナイチンゲールが書いた手紙。
c Florence Nightingale Museum
ナイチンゲールの献身的な働きは、これだけにとどまらなかった。
彼女はこの悲惨な状況を国に報告し、患者の傷の手当てをする人材の不足、包帯や薬などもろくに補給されていない現状を訴えた。当時国防相を務めていたシドニー・ハーバートは、ナイチンゲールとは慈善事業を通じて旧知の仲であったことから、彼女の戦地レポートを深刻に受け止め、支持した。
ハーバートの後ろ盾もあり、ナイチンゲールはすさんだ野戦病院の抜本的改善を推し進めていった。
重傷兵のための特別食を用意したり、今でいうナースコールを取り入れて昼夜を問わず患者の元に駆けつけることができるようにしたりした。現在においては当たり前のシステムだが、当時としては画期的なアイディアであった。
すでに負傷兵たちの間では「天使」となっていたナイチンゲールであったが、彼女の取り組みはまだまだ続く。軍病院改善のため、ついには個人財産を投げ打ち、リネン類や包帯、防寒具などの日用品の買い付けから、200人の職員増員、病院施設の拡張・改築まで、まさに徹底的な改革に乗り出した。ナイチンゲールがつぎ込んだ財産はざっと約7000ポンド。これは現在の35万ポンドにも相当する。
いわゆる「看護」の領域を超えた渾身の活動により、死者の数はみるみるうちに激減(11項コラム参照)。ナイチンゲールの、革命とも呼べるこの大規模な改革は、英国の新聞で大々的に報じられ、ナイチンゲールは一躍時の人となっていく。さらに、ナイチンゲールを支持する多くの英国一般市民から寄付が集まり、その総額は5万ポンドにも膨れ上がったという。

天使から一転、改革の鬼へ

入院患者の生活環境としての病院の構造について
種々の提案をし、設計図を残している。その設計は、
現代においても病院設計の専門家が参考にするほどの
優れた見識を示しているという。
1856年3月30日、パリで平和条約が締結され、翌月29日、クリミア戦争終結。
7月、最後の患者の退院を見届けたナイチンゲールは、ロンドンへの帰路についた。英国国内ではすでに国民的英雄として祭り上げられていたが、過剰に注目されるのを嫌い、「スミス」という偽名を使って人知れず帰国している。休む間を惜しんで、ナイチンゲールは幼少時に家族が別宅として利用していたバーリントン・ホテルの一室を自室兼事務所とし、クリミア戦争の英国兵の死亡原因の統計をまとめる作業に没頭する。この分析で、負傷兵の死亡の最大要因は、病院の「衛生環境の劣悪さ」であることを突き止める。
第二の人生ともいうべきナイチンゲールの改革人生がスタートした瞬間だった。
まずは、統計資料などを用いて、英国陸軍の衛生状態や病院管理に関する、800ページに及ぶ調査書(*2)を書き上げた。そしてスクタリで目の当たりにした病院の悲惨な状況を参考に、陸軍病院全組織の改革を提唱し、病院のみならず兵舎の設備の改善にも取り組む。
下水道、調理設備の完備、換気や暖房、照明器具の設置なども徹底した。陸軍管理官たちの管理規定も改め、個人の健康管理を考えるという、現代では当然だが、当時としては画期的な発想で規定を作った。

ベストセラー作家ナイチンゲール

晩年は、闘病生活のかたわら、
ベッドの上で執筆活動はつづけていたが、
1901年81歳の時には失明し、
その10年後この世を去った。
c Florence Nightingale Museum
看護と衛生の大切さを広く一般に伝承することにも力を注ぎ、1860年に出版した『看護覚え書(Notes on Nursing)』は、看護婦の教本としてのみならず、各家庭の衛生管理を担う主婦たちのバイブルとされ、ベストセラーとなった。
同じ年、クリミア戦争中に創設された「ナイチンゲール基金」に集まった5万ポンドで、ロンドンの聖トマス病院内にナイチンゲール看護学校が設立され、ナイチンゲールは指導者として後継者の育成に努めるようになる。
生徒数は当初10人に過ぎなかったが、これを境に英国各地に同様の看護婦養成学校が作られるようになり、現在に近い看護婦養成体制が整えられる礎となった。そして、それまで雑用係同様に扱われていた看護婦という職業が、高い教養を要する専門職として世間に認知されていくようになる。
しかし、40代を迎えたナイチンゲールは、陸軍という男性社会の中で発言を続けてきた極度のストレスに加え、ナイチンゲールを支え続けたシドニー・ハーバートの過労死、クリミア戦争の時にともに活動した親族内での唯一の理解者であった叔母、メイとの突然の別れなどにより、食事を受け付けなくなるほど心身ともに消耗してしまう。
そして、度重なる試練と不幸の末、ついに大きな発作を起こし、死の淵をさまよう。その後の10年間は病床に伏した。
ところが、このような状況の中ですら、仕事への情熱は消えることがなかった。ナイチンゲールはクリミア戦争時に出会い、さらにナイチンゲールの主治医となったジョン・サザランド医師との筆談によって、仕事を進めていく。
50代になり、ようやく体調も安定してきたナイチンゲールは、ナイチンゲール看護学校の卒業生を自宅に招き、リーダーになれそうな女性を選び出して積極的に支援したりもした。
52歳の時、自力で生活することが困難になった両親を訪問し、介護することを決意。理解しあえなかった過去の、失われた時を取り戻すべく家族との絆を深めていくナイチンゲールであったが、1874年には父のウィリアムを、80年には母フランシスを亡くし、ナイチンゲールは徐々に心の支えを失っていった。そして90年には、関節炎で病に臥していた姉のパーセノープも病死。これが決定打となりナイチンゲールの活動意欲は徐々に削ぎ落とされていく。

長く濃い人生の最期

ハンプシャー州、ロムジーの近くにある
イーストウィロー教会内の墓。
墓石にはナイチンゲールの遺志により、
イニシャルで「F. N. Born 1820. Died 1910.」
(F.N. 1820年生 1910年没)とだけ記された。
姉の死後も70歳半ばまで仕事を続けたナイチンゲールではあったが、76歳の時には二度とベッドを離れられなくなるまで衰弱し、81歳では失明。しばしば昏睡状態に陥ることもあったという。それまでは拒絶していた家政婦や秘書も雇い入れた。
生涯独身を貫き通し、家族を亡くして孤独の身となったナイチンゲールであったが、晩年のナイチンゲール宅は、甥や姪、看護学校の生徒や卒業生が出入りし、賑やかで幸福に包まれていたという。
何千何万という傷ついた英兵たちを支え、戦後も改革にまい進したナイチンゲールを世間も忘れるはずはなかった。1907年には、87歳にしてエドワード7世より女性初のメリット勲章(*3)が授与された。
1910年8月13日、ハイドパークに隣接する自宅でナイチンゲールは静かに息を引き取った。享年90。彼女の死を伝えるニュースは英国内のみならず世界中を駆け、当時の新聞は「ナイチンゲールの死はヴィクトリア女王の死と並ぶほど甚大な損失であり、国葬に値する」と書きたてた。
しかし、彼女は華美で盛大な葬儀を望む多くの人々の声を拒んだ。彼女の遺志どおり、葬儀はごく小規模に執り行われ、ナイチンゲールの棺は両親の眠る墓のそばに、たった6人の陸軍曹の手によりしめやかに埋葬された。その様子を、みすぼらしい身なりの庶民たちが、遠巻きに見守っていたという。

Florence Nightingale Museum
(St Thomas' Hospital内)

St Thomas' Hospital
2 Lambeth Palace Road, London SE1 7EW
Tel: 020-7188-4400
www.florence-nightingale.co.uk
【入場料】 大人£7.50 子供£3.80
【最寄駅】 Waterloo, Westminster


[写真左]テムズ河を挟んで国会議事堂の正面に立つ聖トマス病院の一部。病院の正面入り口に向かって左奥の一角。なお、博物館内には、ナイチンゲールの著書をはじめ、バッジやノートなど、オリジナルロゴ入りのグッズを購入できるショップもあり。


【ジャーニー編集部がロンドンの街をぶらりとレポート】 ナイチンゲール博物館に行ってみた
【ジャーニー編集部がロンドンの街をぶらりとレポート】 ヴィクトリア朝時代の薬局を改装! ナイチンゲールゆかりのカフェ

用語解説
*1 ジェントリー:下級地主層の総称。男爵の下に位置し、貴族には含まれないが、貴族との間に称号以外の特権的差異はない。両者ともに「地主貴族層」に位置づけられる。
*2 英題:Notes on matters affecting the health, efficiency, and hospital administration of the British Army, founded chiefly on the experience of the late war. [1858]
*3 メリット勲章:英国国王、もしくは女王から、軍事、科学、芸術、文学、文化の振興に功績のあった人物に贈られる。現存する勲章の中で最も名誉なものであると言われている。ナイチンゲールは女性として史上初の受賞者となった。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 93

Trending Articles