●Great Britons●取材・執筆/根本 玲子・本誌編集部
造園の魔術師
ケイパビリティ・ブラウン
古き善き時代の面影と大英帝国の威光を感じさせる邸宅や城が放つ魅力は、手入れの行き届いた壮麗な庭園によりさらに輝きを増す。こうした庭園は、各時代を代表する造園家たちによって造られ、建築や絵画と等しく英国の文化史を彩ってきた。今回は数多い造園家の中でもその名を広く知られ、英国の風景を一変させたといわれる人物で、生誕300年を迎えたケイパビリティ・ブラウンの生涯とその仕事ぶりを紹介しよう。
ケイパビリティ・ブラウンの生誕300年となる今年、ブラウンが手がけた英国に点在する各庭園では、ガイド付き散策ツアーやトークなど、記念イベントが予定されている。詳しくは「Capability Brown Festival 2016」のウェブサイト(www.capabilitybrown.org)にて。
有能な「セールスマン」だった?
「家」と「庭」好きで知られる英国人。一般人がプロの手を借りマイホームや庭を一新する、テレビの「お宅改装」番組や、持ち家の価値を上げるノウハウを伝授する番組は英国の娯楽番組の一ジャンルとしてすっかり定着している。これらの番組でよく耳にする言葉が「It's got potential.(可能性・将来性がある)」。改装後の家は見違えるほど素晴らしくなる、という意味で使われているお馴染みのフレーズだ。古い家に手を加えて大切に住みこなし、後世へと引き継いでいくという、不動産好きの英国らしい精神の表われといえるだろう。
興味深いことに、二百五十年近くも前に同様のフレーズを使っていた人物がいる。十八世紀半ばにブレナム宮殿やチャツワース(十二ページ、十四ページの各コラム参照)といった英国きっての屋敷の庭園を設計した造園家、ランスロット・『ケイパビリティ』・ブラウン(Lancelot "Capability" Brown)である。日本ではあまり馴染みがないものの、英国では数多くの名庭園を手がけたことで広く知られる人物。生涯に手がけた庭園の数は百七十を超えるというから驚きだ。
彼の手がけた主要な庭園については後出のリスト(十四ページ)を参照していただくことにして、まずは本名の「ランスロット」よりも知られているニックネーム「ケイパビリティ(capability)」の由来から話を始めよう。この単語には「能力、才能」のほかにも「可能性、将来性」といった意味もあることはご存知だろう。造園の依頼を受けたブラウンは、貴族や地主階級の紳士が地方に所有するカントリー・ハウス、マナーハウスを訪れ、どんな庭でも開口一番、さらに素晴らしい庭にできる「ケイパビリティ(可能性、将来性)がある」と言うのが口癖で、ここからニックネームがつけられたとのことだ。
「貴公の庭園は今よりもっと素晴らしくなりますよ」
所領する庭園を流行のスタイルにできないものかと思案中の王侯貴族たちにとって、これは魅力的な言葉だったに違いない。これで『ツカミ』はOK。造園家としての腕もさることながら、ブラウンの営業センスはなかなかのものだったようだ。
菜園係から大プロジェクトの現場監督へ
ブラウンは一七一六年、イングランド最北部、スコットランドとの境界に近いイングランド北東部ノーサンバランド、カークハールに生まれる。英国史に名を残す人物でありながらも、彼の生い立ちについてはあまり多くの記録が残っておらず、母親の出自については知られていないという有様。子供は六人おり、ブラウンは五番目だったという。父親のウィリアム・ブラウンは農業労働者であったという記録が残っているが、ブラウンがまだ幼かった頃に死去している。しかし家計を支えるため十二、十三歳で働きに出される子供が多かった時代に、一家の大黒柱である父親を失いながらも十六歳まで学校教育を受けていることから、ブラウン一家は経済的にほどほどに恵まれた環境にあったことが推察できるだろう。
学業を終えたブラウンは、地元の大地主であるウィリアム・ロレイン卿の屋敷に、屋敷の食料をまかなう菜園スタッフとして雇われ、見習いを務めながら園芸の基礎を学んでいく。
この頃すでに老年を迎え、政治の表舞台から引退していたロレイン卿は、先代から引き継いだ屋敷を当世風に改装するなど、その興味と情熱を「内」に注ぐようになり、さまざまな工事を計画。美観のため領地内の村を別の場所に丸ごと移動させたり、時代遅れになった花壇を取り壊したり、樹木数千本を新たに植え直すといった数年がかりの巨大プロジェクトに取りかかっていた。
ここに菜園係の若きブラウンが現場監督として投入されることになったのは驚くべきことである。初めての働き口で、しかも学校を出たばかりの若者に与えられる仕事にしてはあまりに大き過ぎるというほかない。しかし邸宅の敷地内にある広大な沼地を一新する工事を指揮することになった彼は、ここで見事な手腕を発揮する。
水はけの悪かった土地に勾配をつけ直し、ブナやオークなどの樹木を植え、風格を備えた素晴らしい景観を生み出したのだ。植物の知識についてはまだ学び始めたばかりだったとはいえ、ブラウンには生まれながらにして造園家に必要とされる美的センスや、三次元かつ広大なスケールの構想を頭に描き、そのアイディアを作業員や業者たちに的確に伝え、プロジェクトを進めていくという事業家的資質が備わっていたようだ。
工事の指揮を任されるようになったいきさつについては残念ながら知られていないが、彼が一介の庭師以上の器を持っていることが、すでに周りの知る所となっていたのであろう。またロレイン卿は自分の使用人であるブラウンを、知人の庭園に出張させて造園にあたらせている。これだけをとっても彼の才能が傑出していたことが十分うかがえる。
「運」と「人脈」に恵まれたストウ屋敷時代
こうして造園家として幸運なスタートを切ったブラウンは、二十代のはじめにロレイン卿のもとを離れリチャード・グレンヴィル卿の屋敷に雇われるが、まもなく彼の義理の息子であるテンプル家のコバム卿(リチャード・テンプル子爵)の目にとまり、バッキンガムシャーにある英国有数のストウ屋敷へと移る。当時、この屋敷の造園を指揮していたのは庭園史上の重要人物ウィリアム・ケント。広大な土地をキャンバスに「風景画を描くように」造園を行うと称された、当時の最先端をゆく「風景式庭園(landscape garden)」を生んだのが彼だった。ブラウンはここで晩年を迎えていたケントから様々な植物の知識や建築技術、土木工事といった大掛かりな技術までを学び、生来の才能に磨きをかけていく。
またケントの造園スタイルは、ブラウンの自然派志向に重なる部分があった。彼はこれ以上望むべくもない師を得たのである。こうしてケントの右腕的存在へと登りつめたブラウンは、彼の引退後は主任庭師として、ストウ庭園の造園作業を引き継いでいった。
屋敷の主人であるコバム卿は社交家で進取の精神に富み、屋敷に客人を招いてもてなす機会も多かったのもブラウンにとって幸いした。流行の最先端をいくストウ庭園に魅了された客人たちが、造園家ブラウンに注目しはじめたのだ。こうして彼はそこに居ながらにして未来のクライアントを獲得していく。また園芸業者など、ケントから引き継いだ人脈も後の彼の仕事に大いに味方した。
本人の才能もさることながら、格好の雇い主、優れた師匠、そして人脈などに恵まれ、何拍子も揃った環境で本格的にキャリアをスタートすることができたブラウンは強運の持ち主だったといえよう。実際、ストウ庭園での主任庭師時代にも、ブラウンはコバム卿の依頼を受けて他の貴族の庭園に出張し、より自分らしいスタイルを打ち出した庭園を作り上げている。
またこの時代、プライベートでも充実した日々を送ったようで、彼は地元の娘ブリジット・ワイエットを妻に迎え、四子のうちの最初の子供をもうけている。家族のために、とブラウンが一層仕事に精を出すようになったと考えても差し支えないだろう。
ふいに息をのむような眺めが目の前にひらけることがあり、
劇的な効果に感嘆の声をあげたくなる(ペットワース・ハウス)。
© National Trust Images/Andrew Butler
いよいよロンドンに進出
長年の主人であったコバム卿が死去したことをきっかけに、一七五〇年代のはじめに、ブラウンは十年近くを過ごしたストウ屋敷を離れロンドンへと向かう。造園設計家として独立するためである。その頃、同業者が多く居を構えていたというハマースミスを居住場所に選び、ブラウンは本格的な営業活動を始めた。当時、上流階級の紳士たちは郊外や地方の広大な屋敷に加えて、社交のためにロンドンにも住宅を構えているのが常であり、ブラウンの腕前はすでに人々の知るところとなっていた。
看板をあげてまもなく、顧客獲得には苦労しないどころか、方々から依頼が殺到し始めた。この時期から約十年はブラウンの黄金期ともいうべき時期で、彼は前述のブレナム宮殿やチャツワース、ペットワースなどに代表される名庭園を次々と作り出していく。「ケイパビリティ」というニックネームが生まれたのもこの頃だ。
ケントの元で建築技術も学んでいた彼は建築家としての依頼を受けることも多々あった。仕事はストウ屋敷のように十年がかりのプロジェクトもあれば、アドバイザーとして意見を提案するのみといった立場もあったというが、常に複数のプロジェクトを掛け持ちし、各地を飛び回る日々だった。彼自身が「ケイパビリティ」の名にふさわしい人物だったというわけだ。
庭園探訪①ブレナム宮殿
ブレナム宮殿の庭園
© Magnus Manske
ブラウンは1764年よりこの宮殿の造園に着工。英国バロック式建築の傑作とされる宮殿をとり巻く2100エーカー(約850ヘクタール)という広大な土地をキャンバスに、川をせき止めて人工湖を作り、装飾的すぎる彫像や花壇などを取り壊して緑の大海原を作り出すなどそれまでの庭を一新、思わずため息のもれる壮大な風景を描き出した。オックスフォードやコッツウォルズ、ストラットフォード・アポン・エイヴォンからもほど近いため、観光ルートに組み込みやすいのも嬉しい。1987年には世界遺産にも指定されている。
【住所】Blenheim Palace, Woodstock, Oxfordshire OX20 1PP
www.blenheimpalace.com/
ブレナム宮殿周辺の大改修後の様子(F.O. Morris作/1880年)
「水」と「樹木」の芸術家
彼の作り出した庭園は、建物から広がる、なだらかな起伏の広大な芝生地帯、茂み、木立、そして小川をせき止めて作られた湖水などが絶妙のバランスで配置され、周辺に広がる田園風景とすらも調和した一服の風景画のような美しさを備えていた。もちろん「自然風景のような庭園」といっても、その景観を作り出すためには不要なものを取り払うほか、時には川の流れさえ変えるといった大掛かりな工事を要する。彼の得意とするのは沼、湖、小川、蛇行した湖、カスケード(階段式に連続した滝)といった水のデザインと、樹木を使った空間演出だった。
そして何よりも、庭を一見して何を削り、どこにポイントを作り、何を植えるべきかを見極める天賦の才がブラウンには与えられていた。
しかし、当時の主流であった幾何学的・装飾的な要素を極力排したブラウンの庭園には「退屈」「単調」「人間味がない」という批判もつきまとった。また「自然を模倣したに過ぎない」という声も多かった。この時代、多くの人々にとって、いまだ「自然」とは征服し支配するべきものであり、その優美さを愛で、讃え、そこから学ぶというものではなかったのである。
例えば彼と同時代を生きた著名建築家ウィリアム・チェインバースはブラウンを真っ向から否定し、詩人のリチャード・オーウェン・ケンブリッジにいたっては、「ブラウンより先に死んで、彼に『改善』されてしまう前の天国を見ておきたいものだ」と皮肉った。 時代の最先端をゆく者に対する風当たりの強さはいつの世にあっても避けられないものなのかもしれない。ただ、そのような批判や中傷をよそに、ウィリアム・ケントの作り出した「風景式庭園」はブラウンの手によって国中に広められ、ヨーロッパの庭園史は新たな一ページを開くことになったのである。
(The Backs)
王室の庭まで任されたワーカホリック
超人的な仕事ぶりによって英国の庭園スタイルを一新したブラウンは、その功労を認められ一七六四年に王室所有の庭園の主任庭師に任命される。この背景には名門ノーサンバランド公爵家の所有するロンドンの邸宅サイオン・ハウスの庭園を一新した業績が、王室関係者の目にとまったことも大きかったという。これを機にハマースミスからハンプトン・コートへと居を移したブラウンは、バッキンガム・ハウス(現在のバッキンガム宮殿)、セント・ジェームズ宮殿、リッチモンド公園、キュー・ガーデン、そしてハンプトン・コートといった王室所有の土地で造園を次々と手がけていく。
またこれらの傍ら、個人的にも多くの造園を引き受け、晩年までそのワーカホリックぶりは衰えることがなかった。現存する庭園の中には後世の王室庭師たちによって手が加えられてしまったものも多いが、彼が晩年まで主任庭師を務めたハンプトン・コートでは、ブラウンの設計によって植えられたブドウ棚が現在も美しく手入れされ、毎年豊かに実をつけているという。
庭園探訪② チャツワース
代々デヴォンシャー公爵家の住まいとなってきた、英国きってのマナーハウスのひとつ。『高慢と偏見(Pride and Prejudice)』の作者ジェーン・オースティン(1775-1817)は、本作に登場する白馬の王子様的存在「ダーシー氏」の邸宅にこの屋敷を想定したと言われており、この作品を映画化した2005年公開作品『プライドと偏見』でも、ダーシー氏の屋敷という設定でロケが行われている。ケイパビリティ・ブラウンによる風景式庭園が取り入れられたのは、第4代デヴォンシャー公爵時代の1750年代から1760年代にかけて。水の階段ともいえるカスケード=写真右=は既に先人の手によって完成していたが、ブラウンはよりレベルの高い庭園を目指した。装飾性の強いパーテア(幾何学模様花壇)を取り払い、広大な芝生の丘陵に作り替えるなど大規模な工事が行われた。広大な敷地は様々なスタイルの庭園が組み合わされているが、19世紀に入り、第1回ロンドン万博で水晶宮を建設したことで知られる建築家兼造園家のジョセフ・パクストンによってさらに手を加えられている。英国屈指の名園とされるチャツワース、ピーク・ディストリクト観光の際にはぜひ訪れてみたいスポットだ。
【住所】 Chatsworth House, Chatsworth, Bakewell, Derbyshire DE45 1PP
www.chatsworth.org/
英国の風景を作りかえた「庭園の超人」
ブラウンは富と名声を得た後も生涯現役であり続けた。彼の頭の中には常に様々なアイディアがあふれ、一息つく暇さえ惜しかったのかもしれない。しかしそんな彼にあまりに突然の死が訪れる。
一七八三年、自分の弟子であった建築家ヘンリー・ホランドと結婚した長女ブリジットのもとを訪れたブラウンは、その玄関先で階段から転げ落ち、帰らぬ人となってしまうのである。
当時の文化人であり、ブラウンの崇拝者でもあった作家ホレイス・ウォルポールはあまりに突然の出来事に、知人の貴婦人にあてた手紙の中で「ドリュアス(ギリシャ神話に登場する木の妖精)たちは喪に服さなくてはなりません。彼らの義理の父であり、自然という名の貴婦人の第二の夫が亡くなられたのです!」と記し、その死を悼んでいる。
ブラウンの亡骸は、彼が造園家として成功をおさめた後に購入したケンブリッジシャーの屋敷、フェンスタントン・マナーに近い聖ピーター&聖ポール教会に埋葬されたのだった。
「樹木と湖水、そしてそれを囲む広大な芝生地帯」が基調となったブラウンの庭園は、後世の造園家たちに多大な影響を及ぼした。時代と共に新しい流行が生まれ、そして廃れていった後も、その光景は英国人の郷愁を誘う眺めとして揺らぐことなく生き続けている。一冊の書物すら残さなかったにもかかわらず、彼が思い描いた景観は二百二十年以上経った現在でも愛され続けているのだ。
ブラウンのお師匠さん!?
ウィリアム・ケント(1685-1748)
若き日のケイパビリティ・ブラウンが、その才能を見事に開花させる舞台となったのはバッキンガムシャーのストウ屋敷。これは当時この屋敷の主任庭師を務めていたウィリアム・ケント(William Kent)=写真=に負うところが大きい。ケントは画家を目指しイタリアに滞在していたところを、芸術に深い造詣を持つバーリントン卿に見いだされて英国に帰国。同卿の保護を受けながら建築家、造園家、インテリア・デザイナーとして活躍した人物だ。「風景式庭園(landscape garden)」という、自然の風景を取り入れた英国独自の庭園様式を作り出したことで歴史にその名を刻むことになった。
ケントの念頭にあったのは、詩人のアレキサンダー・ポープがバーリントン卿に贈った「すべてにおいて、決して自然を忘れるな。すべてにおいて場の精霊に問いかけよ」という言葉だったという。
しかし彼は芸術家肌(文字は読めなかったという説あり)で凝り性、旅を嫌いロンドンの自宅や友人宅で過ごすのを好んだため、あまり多くの庭園を残さなかった。一方、彼のアシスタントとして働き始めたブラウンは旅を厭わない仕事人間で、ビジネスマンとしての手腕もあり、イングランド中に残した庭園は数知れず。このため「風景式」の造園家の中で最も知られる人物になってしまった。「風景式庭園」の生みの親、ケントは偉大過ぎる弟子を持ってしまったのかもしれない。
どちらがお好み?
きっちり人工美のイタリア&フランス式
VS
ゆったり自然派のイギリス式
ヨーロッパの庭園史は、その起源を古代ローマ時代にまでさかのぼる。だが現在のような庭園の原型が広まったのは中世の戦乱時代が一段落したあたり。軍事上の理由から城を強固な壁で囲む必要がなくなり、美観を追求した庭園文化が一気に花咲くことになった頃からだ。 また食料や薬品など実用が目的とされていた園芸が、純粋な装飾を目的とするようになっていった時代でもある。
ルネサンス全盛期の16世紀はイスラム文化の影響を受けたイタリア式庭園が主流となった。丘陵部斜面にテラス状の区画を設け、軸線を中心にした左右対称のデザインや立体感を強調した作りが特徴だ。ツゲなどの植物で結び目模様を描き、その間に草花を植えるノット・ガーデン(knot garden)、樹木を刈り上げるトピアリー(topiary)など装飾的なスタイルが好まれた。また15世紀中頃~17世紀中頃まで続いた大航海時代には「プラント・ハンター」と呼ばれる人々が世界各地で手に入れた珍しい植物を持ち帰り、裕福な王侯貴族や大商人たちがこれらを競って手に入れ、コレクションに加えたという。
そして17世紀。絶対王政の栄華を誇ったベルサイユ宮殿=写真2点とも=に代表されるフランス式庭園は、平らで広大な土地に幾何学的なデザインを描くように植物を配置し、方々に彫刻が置かれ花が咲き誇るといった華やかな「人工美」がポイント。自然を征服・支配する人間の力を誇示するかのようなスタイルには権力者の力を示すという意味合いもあり、このスタイルはヨーロッパ各国で流行した。
ところが18世紀に入ると今度は一気に自然派志向へ。こうした動きは、英国貴族の間で古代ローマやルネサンスの遺産に触れる「イタリア文化遊学」が流行し、豊かな景観や絵画に感銘を受けた人々が自国でもその美しさを再現したいと望むようになったことが背景となっている。
この自然賛美の思想から誕生したのが「風景式庭園(landscape garden)」だ。塀など視覚の障害になるものを取り払い、遠くまで見渡すことのできる緑の広がりと、周りの自然と調和した緩やかな曲線を用いたスタイルは、それまでの整然と作り込んだ庭園とは対照的。同時期、これまでの主流であった人工美を批判し、不規則性を愛でる「ピクチャレスク」という新しい美の概念も誕生したことで、風景式庭園熱はさらに高まっていく。産業革命が始まりつつあった当時の英国で、ロンドンに生活の拠点を持つようになった貴族が地方に所有する屋敷を「自然回帰の場」としてとらえるようになったことも、風景式庭園が流行した要因の1つだ。
また、一般に「イングリッシュ・ガーデン」と称されるスタイルは、19世紀以降に急増した中流階級の人々の所有する田舎家風の「コテージ・ガーデン」を指すこともあり広義に解釈されることが多いが、これらの様式ももとをたどればウィリアム・ケントやケイパビリティ・ブラウンら「風景式」造園家の作り出した庭園が原型になっている。国や時代によってそのスタイルは様々だが、どの庭園もそれらが造られた時代の社会的背景を反映しているのが興味深い。
庭園探訪③ ハイクレア城
17世紀からカナーヴォン一家が所有し、現在は第8代伯爵夫妻が暮らす邸宅。ドラマ『ダウントン・アビー』のロケ地として注目を集めたことは記憶に新しい。ブラウンがハイクレア・パークに着手したのは1770年。壁や生垣など、敷地内にあった境界線を取り除き、耕地だった場所は芝地へ、綿密な計算のもとヒマラヤスギやナラの木を植樹して森林や湖を造り上げると、一帯がブラウンの『色』に染まった。パーク内を歩いてみると、なだらかな丘や、木々の配置によって、時にドラマチックに変化する景色を楽しむことができる。毎年期間限定で一般公開されるので、あらかじめウェブサイトなどで確認してお出かけを。
Highclere Castle
Highclere Park, Newbury RG20 9RN
www.highclerecastle.co.uk
ブラウンが携わった庭園
※編集部の独断により一部割愛
ロンドン及びその近郊 英国各地 |
写真トップから: Bowood House Kev / Palladian Bridge at Prior Park, Bath / Castle Ashby Orangery Kokai / Ickworth House / Squeezyboy / Highclere Gardens JB + UK_Planet / Wilton House Gardens Jan van der Crabben / Blenheim Palace's garden / Triumph Arch, Berrington Hall J Scott |