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Channel: 英国の偉人の生涯をたどる 『Great Britons』 - Onlineジャーニー
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心優しい才人? それともロリコン?不思議の国の住人 ルイス・キャロル 後編

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●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/田中晴子・本誌編集部

■ 『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』といった児童文学の名作を生み出し、英国が誇る作家として現在も世界中の子どもたちを魅了するルイス・キャロル。写真家や数学者としての顔も持つなど、彼の生涯はいまだに謎に包まれている部分が多く、各時代や伝記作家によって描かれるイメージは大きく異なる。心優しい宗教家、頭の切れる無口な才人、またはポルノまがいの写真を撮る小児偏愛者…。
前編>に続き、数々のレッテルを貼られたルイスの素顔に迫る。

こだわり抜いた自費出版

ジョージ・マクドナルドの肖像写真

テムズ河でのボート下りを楽しんでいた夏の日に、ルイスが即興で語った、懐中時計を手に大急ぎで走り去っていく白ウサギの物語。自分と同じ名前の主人公が登場する冒険譚をとりわけ気に入った10歳のアリスが、物語の続きを知りたいと「お願い」したのがきっかけとなって執筆された『地下の国のアリス』は、ルイス自身が丁寧にイラストを描き加え、アリスに手渡されたことで完成を見た。それですべては終わるはずであった。ところが、ルイスの知人で彼が「師匠」とあおぐ詩人で聖職者のジョージ・マクドナルド(日本でも『リリス』などの妖精文学で知られる)から絶賛され、書籍化を強く勧められたことにより、事態は別の展開を迎える。ルイスはマクドナルドのアドバイスを受けて、この手書きの物語を一冊の正式な本として出版することを決断した。

ルイス・キャロル(中央)とジョージ・マクドナルドの一家

ルイスは文章に手を入れ、さらにプロのイラストレーター探しに乗り出す。児童書において挿絵がどれほど重要かを理解していた彼は、イラストレーターの採用に妥協するつもりはなかった。やがてその熱意に打たれた人気風刺雑誌『パンチ』の編集者を介して、売れっ子イラストレーターとして活躍するジョン・テニエルを紹介される。テニエルは観察眼が鋭く、また動物の生態に関する知識も豊富に持ち合わせていたため、ウサギをはじめ、芋虫やヤマネ、ウミガメやドードー鳥などの動物がぞろぞろ出て来るキャロルの物語には適任であった。

ただ残念ながら、2人の仲はあまり良好なものにはならなかった。自分のイメージにこだわるルイスは、しばしばテニエルのイラストに文句をつけ、出版にこぎ着ける頃にはかなり険悪なものになっていた。実は、本の出版費用は、イラスト代も含め全てルイス自身が負担することになっていたので、何に対しても彼は妥協することがなく、2人は終始ぶつかり合うはめに陥ったのである。

そうした困難を乗り越えた1865年11月、書名を『不思議の国のアリス』と改めて無事刊行された。人気イラストレーターが挿絵を描いていることもあって評判となり、好評を持って迎えられた。

蜜月の終わりと深まる謎

7歳の頃のアリス。リデル家の子どもたちは整った容貌をしていたが、なかでもアリスは「目力」が強かった。

さて、ケンブリッジ大学内のルイスの自室を頻繁に訪れるほど仲が良かったルイスとリデル家の子どもたちだが、手書きの「地下の国のアリス」が完成する時期を境に亀裂が入り、その深く大きなひび割れは二度と埋まることはなかった。

1863年6月頃まで彼らの関係は良好で、6月にはいつものようにピクニックへ一緒に出かけているし、ルイスの日記にもそのときの楽しげな様子が書き残されている。しかし、その次のページはどうしたことかカミソリで乱雑に切り取られ、次にリデル姉妹に関する記述が出てくるのは半年後。しかも、街で姉妹とその母親に偶然出会ったルイスが「私は彼らに対し超然としていた」と書き記しているだけである。半年前のピクニックで、一体何が起きたのか…? 肝心の日記が切り取られているため、詳細はわからない。これはルイスの死後に日記を整理した親族(彼の義妹)が、「一家のために公にしたくない事実があったため、切り取って削除した」と言われているが、真相は闇の中だ。

だが、この失われたページはドラマティックな憶測を人々に促し、ルイスが「幼いアリスに交際を申し込んで断られた」説や「長女のロリーナに結婚を申し込んで断られた」説などがささやかれた。この頃の次女アリスは11歳、長女ロリーナは14歳、一方ルイスは31歳である。現在の常識にしてみれば少々考えづらい話だが、ヴィクトリア朝時代の英国の法律では、なんと14歳からの結婚が認められていた。そのことから、もっとも可能性が高いと考えられる理由は、婚期の近づいた娘たちが独身のルイスと親密に会い続けることで「あらぬ噂」を立てられ、結婚のチャンスを逃すことを恐れた母親が、「これ以上、子どもたちと会わないでくれ」とルイスに告げた結果、ひと悶着あった――という説である。

でもそれにしては、果たしてページを切り取る必要があったのか…と、疑問が残るところだ。いずれにせよ、こうしてルイスとアリスの友情は突如終わりを迎えたのだった。

長男としての重責

そんな中、1868年にルイスの父親が急死。晩年はリポン大聖堂大執事という「高教会派」の重鎮となっていた父親の死は、ルイスにひどいショックをもたらした。父を尊敬し、彼の足跡を辿っていたルイスは後に、父親の死は「生涯最大の損失」であったと書いている。

長男のルイスはドジソン家の跡取りであるため、父の亡き後、家族を養う義務があった。当時36歳のルイスを筆頭に、11人きょうだいの誰も結婚しておらず、また自活しているのはルイスのみ。彼の銀行口座は、家族や親戚関係への送金のために、たびたび赤字を記録した。しかしながら一方で、多くのチャリティ団体への定期的な寄付や送金も絶対に欠かさなかった。

やがて1872年、アリスの冒険を描いた続編『鏡の国のアリス』を刊行。ガイ・フォークス・デーの前日、暖炉の上に掛けられた鏡を通り抜けて、またもや不思議な世界へ迷い込んだアリスの冒険を描き、ハンプティ・ダンプティなどの新たなキャラクターが登場する本作は、前作『不思議の国のアリス』に続く大ヒットとなった。

「ロリコン」伝説の誕生

晩年のルイスとアリス。ルイスは風邪をこじらせ、独身のまま65歳にて死去した。右の写真は、亡くなる2年前に撮影された80歳のアリス。クライスト・チャーチに入学したヴィクトリア女王の息子レオポルト王子と親しくするなど浮名を流し、28歳で裕福な地主の息子と結婚した。

40代に入ると、ルイスは自ら「老人」と名乗り、人付き合いを控えるようになった。180センチの細身の姿に白髪のまじったダーク・ヘアのルイスは、実年齢より若く見えるくらいだったが、精神的に老成してしまった彼は、一人で歩く長い散歩を好んだ。その距離にして、毎日30キロ以上。冬でも決してコートを着ずに、やがてそれが原因で命を落とすことになる。あれほど好きだった写真も、ある時期からパタリと撮影をやめてしまい、もともと細かい性格がさらに気難しくなる。大学構内の彼の部屋に供される「3時のお茶」の湯加減や、昼食のタイミングに対するクレームの手紙が現存し、そこには子どもたち相手に自作の奇怪なストーリーを語る、チャーミングな青年の面影はなかった。

著作に没頭するほか、オカルトやホメオパシー(身体の自然治癒力を引き出す自然療法)の研究にも熱心に取り組み、50歳を前に数学教授の座からも退任。そして「教授社交室主任」という一種の世話係へ転じ、残りの人生を執筆活動一本にしぼっている。

一方、数学者としての彼は、当時起きていた論理学に関する変化にも深い興味を抱いていた。それは、言葉の代わりに数学の演算規則をあてはめ、概念や観念を記号変換することで合理的に理解しようという思想だった。自身の最も重要な著作と位置づけている数学書『記号論理学』も執筆し、その第2巻を書き進める中で風邪をこじらせ、気管支炎を併発。1898年1月14日、愛する妹たちに囲まれて死去する。66歳になる2週間前だった。

作家ルイス・キャロルの伝説は、彼の死後に生まれたといってもよい。生前も人気作家として知られていたが、彼の人物像を謎めいたイメージに変えたのは20世紀に入り、ナボコフが『ロリータ』を著し、フロイトが『性理論』を唱え始めてからだ。ルイスは20世紀前半のジャーナリストたちから「小児愛者」のレッテルを貼られ、フロイトの思想に基づいて『不思議の国のアリス』が解読された。「彼はロリータ・コンプレックスだった」というわけである。

ただ、ルイスはリデル姉妹の写真だけでなく、ほかにも多くの子どもたちの写真、さらには水彩画などを描き残しているのも事実である。

実はルイスの妹の一人が「幼い少女たちと親しくするのは、世間の噂になるのではないか」と心配の手紙を送っている。それに対するルイスの返事は、次のようなものだった。

「人の目を気にしてばかりいると、人生は何もできないまま終っちゃうよ」

これは彼の毛嫌いした、偽善的なヴィクトリア朝の風潮に対する批判でもある。女性の脚を連想させるからと、椅子の脚までが「わいせつ」とカバーをかけられ、それが転じて「足」という単語さえタブーになった時代。その一方で、ほんの10歳の子どもが売春婦として街角に立っていた。もし彼を「ロリコン」と呼ぶならば、ヴィクトリア朝時代の英国もまた同様の、あるいはさらに重症な『患者』としての呼び名を与えられなければ不公平だろう。

世界に一冊しかないルイス自身による挿絵のついた『地下の国のアリス』は、1926年に夫を亡くした74歳のアリスによって売却されている。そしてサザビーズのオークションで当時の史上最高額で落札された後、大英図書館に寄贈され、現在も同館に展示されている。

「黙っておれ!」と 女王が言いました。
「いやよ!」とアリスが言いました。
「あなたたちなんて、ただのトランプじゃないの!」

(『不思議の国のアリス』高橋康也/高橋迪訳から)

週刊ジャーニー No.1239(2022年5月12日)掲載


世界初の女性化石ハンター メアリー・アニング【前編】

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世界初の女性化石ハンター メアリー・アニング 【前編】

■ 世界に先駆けて、地質学研究が発展した19世紀初頭のイングランドに、プロの「女性化石ハンター」がいた。彼女の名前は、メアリー・アニング。今回は、貧しい階層の出身ながら、時代の最先端をいく学者たちと渡り合い、不屈の精神で化石発掘に人生を捧げたひとりの女性の生涯を、前後編で振り返る。

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/根本玲子・本誌編集部

12歳の少女の偉業

冬の嵐が過ぎ去ったばかりの海岸。

もろく崩れやすい崖の断面から覗く巨大な眼窩(がんか)、くちばしのような細長い口、そこにびっしりと並んだ歯――。かつて誰も見た事ない不思議な生き物の頭部が、少女とその兄の目の前にあった。4フィート(約1・2メートル)もある頭骨を慎重に岩場から掘り出した2人は、化石を「土産物」として販売する小さな店を営んでいた自宅へと、この不思議な「物体」を抱えて持ち帰った。

このとき発見したのは、2億年前もの昔に存在した、イルカのような姿をしていたというジュラ紀の魚竜「イクチオサウルス」の頭部(上図)。この後、残りの胴体部分の化石を見つけ出したメアリーは、世界で初めてイクチオサウルスの完全な骨格標本を発見した人物となる。

食べていくために地元で化石を掘り出し、土産物として売っていた貧しい「化石屋」の若干12歳の娘が、どのような経緯で世界的な発見に至り、やがてプロの化石ハンターとして古生物学の世界への道を拓いていったのだろうか。彼女の幼少期から、順を追って探っていきたい。

雷に打たれた赤子

中生代のジュラ紀に形成された地層が海へと突き出した、東デヴォンからドーセットまで続くドラマチックな海岸線は、ユネスコの世界自然遺産にも登録され、化石の宝庫であることから、現在はジュラシック・コースト(Jurassic Coast)とも呼ばれる。

英仏海峡に面したライム・リージスは、ジュラシック・コースト沿いにある、何の変哲もない小さな町。ここで、メアリーは1799年、家具職人の娘として誕生した。父親は妻との間に10人の子供をもうけたが、流行病や火傷などの事故によって多くが幼少時に他界し、成人まで生き残ったのはメアリーと兄のジョセフだけだった。

ある日、隣人女性が生後15ヵ月だったメアリーを抱き、木陰でほかの女性2人と馬術ショーを観戦していた際、思いがけない事故が起こる。雷がその木を直撃、メアリーを抱いていた女性を含む3人が死亡したのだ。

赤子のメアリーも意識不明となるが、目撃者が大急ぎでメアリーを連れ帰り、熱い風呂に入れたところ、奇跡的に息を吹き返す。そして不思議なことに、それまで病気がちだったメアリーは、その日以降、元気で活発な子供になった。町の人々は、この「雷事件」が彼女の好奇心や知性、エキセントリックと評される性格に影響を及ぼしたに違いないと、のちに噂したという。

1826年まで、アニング家が住んでいた住宅のスケッチ。ライム・リージス博物館建設にあたり、1889年に取り壊された。右上にあるプラークは、同博物館の外壁に飾られている。

副業で化石探し

父親は仕事の合間を縫って海岸に出ては、化石を探して「土産物」として売り、家計の足しにしていた。当時のライム・リージスは富裕層が夏を過ごす「海辺のリゾート地」として栄えており、フランスで革命やナポレオン戦争が起こってからは特に、国外で休暇を過ごすことをあきらめた人々が押し寄せるようになっていた。

専門家でなくとも化石を所有することがファッションのひとつとされ、地質学・古生物学の基礎が築かれつつあったこの時代、富裕層や学者たちは化石の発見に常に注目していた。しかし一般には、これらの化石は、聖書に描かれた「ノアの大洪水」で死んだ生き物の名残だと考えられており、とぐろを巻いたアンモナイトの化石には「ヘビ石」、イカに似た生物ベレムナイトの化石には「悪魔の指」といった呼称がつけられていた。

また、「化石(fossil)」という名称もまだ確立されておらず、人々は不思議なもの、興味をそそるものという意味で「キュリオシティ(curiosity)」と呼んでいた。

アニング家は子供を毎日学校に通わせる余裕がなく、父親は本業の傍らに子供たちを海辺に連れて行き、化石探しを手伝わせ、商品として売るためのノウハウを教え込んだ。

化石売りはよい副収入になるものの、天候や潮の満ち引きに左右され、地滑りや転落事故と隣り合わせの危険な仕事。発掘に適しているのは嵐の多い冬期で、土砂崩れや大波により、新たな地層が露わになった岸壁を狙い、ハンマーとたがねを携え浜辺を歩く。そうしてせっかく「大物」を見つけても、掘り出しているうちに満潮となり、足場をなくして見失ったり、潮に流されてしまったりすることも多かった。加えて、沿岸部では密輸船も行き交っており、トラブルに巻き込まれる可能性も十分あった。そうした危険の中で、いかに化石を持ち帰るか――。子供たちが父親から学ぶことは山ほどあった。

メアリーは教会の日曜学校で読み書きを覚え、もともとの聡明さもあって、のちには独学で地質学や解剖学にも親しんでいくようになる。

リゾート地ゆえの出会い

東デヴォンからドーセットまで続く「化石の宝庫」の海岸線、ジュラシック・コースト。地滑りなどが起こると、化石が地表に姿を現すことがある。現在も浜辺で化石堀り体験ができる。
© Kevin Walsh

メアリーの化石や古生物学に対する情熱は、父とライム・リージスにやってきた様々な人々との出会いによって形作られていった。中でも、この地に引っ越してきたロンドンの裕福な法律家の娘たち、フィルポット3姉妹の存在は大きい。

兄がライム・リージスに屋敷を購入したのに伴いやって来た、メアリー、マーガレット、エリザベスの3姉妹は、いずれも熱心な化石コレクターで、彼女らにとってこの地は宝箱のような場所であった。幼かったメアリーは、自分より20歳も年上で身分も高い彼女たちと化石を介して出会い、末娘エリザベスと毎日のように化石探しに出掛けるようになる。2人の友情はメアリーが成長するにつれ、高名な地質学者や彼らの妻たちとの交流につながっていった。

そしてもうひとり、10代のメアリーの人生に大きな影響を与えることになった人物がいる。のちにロンドン地質学会の会長を務めることになる、若き日のヘンリー・デ・ラ・ビーチ卿だ。裕福な軍人の家系に生まれたものの、地質学へと傾倒した彼は、多感な思春期にライム・リージスでメアリーと出会った。ともに化石探しに夢中になり、生涯にわたって2人は友人関係を保ち続けた。メアリーの経済状態が悪化した際には、自らが描いた古代生物のスケッチを売るなどして、援助を惜しまなかったのも彼であった。

半クラウン硬貨の希望

メアリーが発見した、約2億~1億7500万年前のジュラ紀に、ヨーロッパに生息していた魚竜イクチオサウルス。眼が大きく直径は20センチ、全長の最大推定は9~12メートルにおよぶ。
© Dmitry Bogdanov

1810年の冬、結核を病んでいたにもかかわらず、体にむち打つようにいつもの海辺に出掛けたメアリーの父は崖から転落、命を落としてしまう。

働き手を失った家族に残されたのは、多額の借金ばかり。メアリーはこのとき11歳、兄ジョセフもまだ手に職はなく、一家の大黒柱になるには若過ぎた。教会の救済金に頼るまでに困窮した一家は、サイドビジネスだった化石屋に活路を見出そうとする。母と子供たちは連日のように海辺へと向かい、化石を探しては自宅で販売するだけでなく、町の馬車発着所でも売り歩き、細々と生計を立てていた。

そんなある日、海岸で掘り出したばかりのアンモナイトを手にしたメアリーを、ある女性が呼び止めた。彼女は半クラウン硬貨でそれを買い上げる。当時、半クラウンあれば一家の1週間の食料を手に入れることができた。

母親に硬貨を手渡したメアリーのつぶらな目は、一人前の稼ぎを手にした誇りと喜びに輝いていた。この出来事により、メアリーはプロの化石ハンターを目指すことを考え始める。化石を買った女性は地主の妻で、メアリーに雑用を頼み小遣いを与えるなど、日頃からアニング家の様子を気遣っていた。また知的好奇心が旺盛であるメアリーに対して、「ただの化石拾いに終わるには惜しい」とも思っていた。メアリーはこの婦人によって、初めて地質学の本を手にすることになった。

そして、父の死の翌年となる1811年の冬、彼女の運命を決定づける出来事が起こる。

いつものように、兄と嵐が過ぎ去ったばかりの海岸を訪れると、激しい波によって一部崩れた岸壁の断面に、「頭部のようなもの」が覗いているのを目にしたのだ――。この発見をきっかけに、メアリーの運命は大きく動き出していく。

週刊ジャーニー No.1163(2020年11月12日)掲載

東西の融合をめざした陶芸家 バーナード・リーチ 前編

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Special Thanks to: Leach Pottery, Tate St Ives.

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/田中晴子・本誌編集部

■ 明治末期の東京を訪れ、陶芸の魅力に取り憑かれた英国人、バーナード・リーチ。白樺派とも交わり、柳宗悦による民芸運動の発展にも大きく貢献、日本では「親日派」「日本の陶芸を西洋に広めた人物」として語られることが多い。幼少期をアジアで過ごし自己の確立に悩んだ彼が、数十年の旅路の果てに辿り着いた独自の思想と、その生涯を前・後編で追ってみたい。

東西の文化が融合した作風が特徴的なバーナード・リーチの作品群。© The estate of Bernard Leach/Tate St Ives

桜、たくあん…朧げな日本の記憶

「To Leach or not to Leach」

スタジオ・ポタリー(Studio Pottery/製陶所)の父と呼ばれ、それまでの英国における陶芸の意識を大きく変えたバーナード・リーチ。だが20世紀前半の英国では、東洋の陶芸から強烈な影響を受けているリーチの姿勢や作品に対し、拒否反応を示す陶芸家も少なくなかった。しかし、流行した冒頭の「リーチか、否か」というフレーズは、英国の陶芸家にとってリーチがどれほど大きな存在であるかを示しているとも言える。

リーチはヴィクトリア女王の即位50周年に沸く大英帝国下の香港で、1887年1月5日に生まれた。当時の英国は世界各地に植民地を所持し、リーチ家の人々の多くは政府関係者、あるいは法律家として、東アジアの植民地各地で活躍していた。父親もオックスフォード大学を卒業した後、香港で弁護士として働いていたものの、妻がリーチを出産した直後に死去。そのため彼は、日本で英語教師をしていた母方の祖父母に預けられることになる。4歳まで京都の祖父母のもとで育てられたが、その頃の日本を「桶の中で泳ぐ大きな魚、桜の花、たくあんの味…」という「五感」に密着した断片で記憶していることを後に語っている。

やがて父親が再婚。リーチは再び香港で暮らし始めた。父の再婚相手はリーチの亡き母の従妹にあたったが、リーチはこの継母に馴染むことができず、代わりにアイルランド人と中国人の血を引く乳母を慕った。彼は生涯を通じて実母の面影を追い続け、これは成人してからの私生活にも多大な影響を与えることになる。

少し経つと、父親の仕事の関係で一家はシンガポールへと転居。香港~日本~香港~シンガポールとめまぐるしく引越しを繰り返し、やがて両親から離れて初めてひとりで英国の地に降り立った時は10歳になっていた。

「中国人」と呼ばれた少年時代

幼いリーチが両親から離れて単身渡英したのは、「本国で高等教育を受けさせたい」という父親の意向があったためだ。ウィンザーにあるイエズス会の寄宿学校に入学するが、ここでのリーチのあだ名は「Chink」。日本人でいう「Jap」に等しい中国人へのの蔑称である。これはリーチが東洋で暮らしてきたことからついたあだ名であったが、アジア生活が長いリーチと、アジアの異文化など何も知らずにヴィクトリア朝末期の繁栄の中に育つ生徒たちの間に、どんな不協和音が流れたかは想像するに難くない。ひとりっこで引っ込み思案、しかも夢想家でもあったリーチは、イジメの格好のターゲットにされてしまった。うんざりした彼にできることは、それこそ夢想による現実逃避くらいだっただろう。

芸術家を目指したリーチは16歳の史上最年少で、ロンドンのスレード美術学校へ入学。ところが、父親の発病により、わずか1年で道は閉ざされることになる。ガンを宣告された父がひとり息子の将来を心配し、美術学校を辞めて銀行に勤めるよう命じたのだ。リーチはまだ17歳。自分の意志を通すには若すぎた。彼は父親の言いつけを守り、スレードを中退した。

翌年、大きな影響力を持っていた父親が死去。しばらく継母と共にボーンマスで生活したが、どうにも我慢がならなかったようで、「銀行員になるための試験勉強に集中するため」と称し、マンチェスターに住む亡母の妹宅に身を寄せた。そして、彼はここで1人の女性と出会うことになる――叔母夫妻の愛娘で4歳上のミュリエルである。だが、従姉弟という近親関係にあたるため、2人の関係は周囲に反対された。

父親の遺言通り、リーチはロンドンのシティにある香港上海銀行(The Hong Kong and Shanghai Bank)に就職、毎晩11時まで働く日々が続く。慣れない仕事に加え、反対されるミュリエルへの想いや中退した美術学校への未練など、あきらめきれないことばかり。精神的にどんどん追い詰められ、我慢の限界に達したリーチは結局1年で銀行を辞職してしまった。

日本との再会と出発

当時、彼が好んで読んでいた小説の中に、「怪談」で知られる小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの著作があった。ハーンは放浪の末、日本に帰化し「小泉八雲」となったアイルランド出身の作家である。古きよき日本の姿が理想化された形で書かれた彼の著書は、リーチの日本に対する興味をいたく刺激した。リーチは「私の他国人に対する同情、すなわち非ヨーロッパ人、黒人、褐色人、あるいは黄色人種に対する私の同情がたかぶり出した。そして東洋に対する私の好奇心が育って来た。そこで私は日本の現状を知ろうとしたのだ」とハーンから受けた影響について語っている。「他国人に対する同情」と彼は言うが、英国において彼は常に疎外感を覚え、他国人の目で西洋を眺めていたのではないだろうか。実際に友人も南アフリカ人やオーストラリア人など、外国人ばかりだった。

ロンドンに留学していた高村光太郎。

銀行勤めで貯めた資金で、リーチはロンドン美術学校に通い始める。そこは留学生も多く受け入れており、その中には後に詩集「智恵子抄」で知られることになる、4歳上の高村光太郎の姿があった。きっかけは高村からであった。教室でひとり静かにハーンを読んでいたリーチに、高村が興味を持って声をかけたのだ。この高村光太郎との出会いにより、リーチの日本への想いはますます強くなっていった。

21歳の成人を迎え、父親の遺産の管理が自らの手で行えるようになると、即座にミュリエルへ求婚。さらに銅版画(エッチング)の印刷機も購入した。美術学校で学んだ銅版画の技術を日本で教えながら、ミュリエルと結婚生活を送ろうと考えたのだ。落ち着いたらミュリエルを呼び寄せることを約束し、リーチは高村からの紹介状6通を手に、ドイツ船で日本へ向かう。1909年3月のことだった。

白樺派との出会いと交流

高村が書いた紹介状のあて先の中には、彼の父親である彫刻家の高村光雲、その友人の岩村透がいた。2人とも東京美術学校(現・東京芸大)の教授である。日本語を全く解さないリーチのために、岩村は教え子を紹介。その教え子の協力を得ながら、まずは上野桜木町にある寛永寺の貸地に、西洋風でもあり和風でもある一軒家を新築し、英国からミュリエルを招き寄せた。

次にリーチが着手したのは、この自宅兼スタジオで銅版画を教えること。生徒募集のため、宣伝を兼ねた3日間のデモンストレーションを開催すると、数人の見学者が訪れる。それは名前をあげれば、柳宗悦、児島喜久雄、里見弴、武者小路実篤、志賀直哉などの、翌年には「白樺派」(※)を起こすことになる蒼々たるメンバーであった。

これ以後、リーチと白樺派のメンバーは互いに学び合い、思想の上でも双方共に多くの刺激を受けていくことになる。特にリーチと2歳下の柳宗悦の関係は生涯続き、日本民藝館(目黒区駒場)の設立にも携わるなど、リーチの思想形成や作品制作に重要な役割を果たしている。

リーチと柳宗悦。© Leach Archive

結局、銅版画クラスはリーチが白樺派から日本文化を学ぶ時間にとって代わられた形で自然消滅。しかし当時の日本は物価も安く、父親の豊富な遺産もあったリーチは、近くの学校で英語を教えたり、美術誌にエッセイを寄稿したりして十分に生活でき、あくせく働く必要はなかったようだ。

一方、妻との関係は彼が芸術にのめり込む分だけ、希薄になっていった。しかも家族愛を知らず、10歳で寮暮らしを始めていた彼は家庭生活、とりわけ夫婦生活がどういうものかよくわかっておらず、異国の地で夫にほとんど置き去りにされたミュリエルは、キリスト教の布教のために日本を訪れている西洋人グループと時間を共にするしかなかった。それは子どもが生まれてからも変わらず、ミュリエルは夫の女性問題にも頭を悩ませることになる。

※白樺派とは、1910年創刊の文学誌「白樺」を中心にして活躍した作家、美術家たちのことで、人道主義・理想主義・個人主義など自由な思想を掲げ大正時代の文壇に大きな勢力を誇った。

陶芸で変化した東西の価値観

1936年に開館した、リーチの作品が多く収蔵されている日本民藝館。© Kamemaru 2000

そんなリーチに、再び転機が訪れる。訪れた茶会の席で、初めて「楽焼き」を体験したのだ。

楽焼きとは低温で焼く、素人も参加できる素朴な焼き物の一種だ。リーチは自分の絵が皿に焼き付けられるのを見て、強い興味を覚える。そして友人を介して紹介された6代目・尾形乾山のもとに入門し、毎日のように工房へ通った。1年後には自宅に陶芸用の窯を築くまでになり、さらに1年後には7代目・尾形乾山の伝書をもらい、免許皆伝とまでなっている。

陶芸を学ぶことは、茶の湯や禅など、より深く日本文化を知ることに繋がり、また中国や韓国の文化に触れることでもあった。リーチは陶芸を通し、さらに広い視野で東洋を、そして美術の世界を見つめていく。それまでは「西洋に対する東洋」という対比で物事を見てきたが、やがて二者の融合――「西洋と東洋の融合」ひいては「西と東の架け橋」となる存在になりたいと考えた。そのためにはもっと東洋を知る必要がある…。彼の目は次の目的地、中国へ向けられていた。

週刊ジャーニー No.1232(2022年3月24日)掲載

東西の融合をめざした陶芸家 バーナード・リーチ 後編

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Special Thanks to: Leach Pottery, Tate St Ives.

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/田中晴子・本誌編集部

■〈 前回のあらすじ〉明治末期の東京を訪れ、陶芸の魅力に取り憑かれた英国人、バーナード・リーチ。日本では「親日派」「日本の陶芸を西洋に広めた人物」として語られることの多いリーチだが、幼少期をアジアで過ごし自己の確立に悩んだ彼が、数十年の「自分探し」の旅路の果てにたどり着いたのは、陶芸家として東西文化を融合させた独自の作品を生み出し、「東と西の架け橋」となることだった――。

今号では、リーチの生涯を前編に続きご紹介したい。

中国での挫折、陶芸家の誕生

「銅版画を教えながら、愛する妻と懐かしい日本で暮らす」という大胆だが単純な希望を胸に1909年に来日し、5年の歳月を経て「東と西の架け橋」となることを目指し始めたバーナード・リーチ。それが最終的にどんな形を取ることになるのか依然わからないままだったものの、飽くなき探究心に突き動かされて、次の自分探しの旅路の地、そして最初の東西架け橋の地として中国を選んだ。

雑誌の投稿文をきっかけに、中国で暮らす怪しげなユダヤ系ドイツ人の思想家、アルフレッド・ウエストハープを知ったリーチは、彼の思想が自分の考えに近いと感じ、つてをたどって文通を開始。間もなく妻と幼い子どもを連れて中国へ渡った。

だが、その結果は惨憺たるものだった。日本のように西洋にかぶれる以前の「純粋な東洋」である中国において、東洋をさらに深く学ぶのと同時に、西洋のいい部分を同国へ接ぎ木しようという、いわば「啓蒙者」としての中国行きであったが、その壁は想像以上に厚かった。最終的にはウエストハープとの思想的不和により、リーチ一家は日本へ戻った。

がっくりと落ち込んで帰国したリーチに、柳宗悦はこう声をかけた。

「きみにはもう指導者はいらないのではないか。僕はウエストハープの思想よりも、きみの陶芸の方が素晴らしいと思うよ」

そして千葉県我孫子(あびこ)市にある柳所有の敷地内に、窯をつくったらどうかと誘ったのだ。英国へ戻ることも考えていたリーチだが、英国はおりしも第一次世界大戦の渦中にあった。リーチは家族の安全を考えて日本にいることを選び、本格的に陶芸家の道を歩むことにした。

当時の我孫子は何もない田舎町であったが、ここに突然リーチや白樺派の人々が現れ、一種の芸術家コロニーのような集落が形成される。中国で質のよい白磁や青磁を見たことは大きなプラスとなり、ここで5年にわたり腰を据えて、陶芸の生地や釉薬などの研究にいそしむ日々を送っている。

また、若き陶芸家の濱田庄司との出会いもリーチの世界を広げた。当時20代前半だった濱田はリーチの陶芸作品をすでに知っており、東京で展覧会を開いたリーチのもとを訪ねたのである。とくに濱田は釉薬の配合に関して、リーチが英語で話せる唯一の人物でもあった。濱田はのちに陶芸家として人間国宝に指定されるほどの巨匠に成長するが、リーチが英国へ戻り、コンウォールのセント・アイヴズに開窯する際には、濱田は助手として同行することになる。

リーチ・ポタリーの設立

コンウォールの港町セント・アイヴズ。現在はリゾート地として知られ、観光客や芸術家が多く訪れる。

10年以上におよぶ日本生活にピリオドを打ち、リーチが濱田とセント・アイヴズにやって来たのは1920年9月、33歳の初秋のこと。

コンウォール独特の美しさを持つこの港町は、当時はまだ石と海に囲まれた荒涼とした町だった。しかし、ここでは活動的な老婦人が「セント・アイヴズ手工芸ギルド」という組織を主催しており、彼女はこの組合に陶芸家を加えたいと考えていた。それを知ったリーチは会員に応募し、ギルドからの出資金で製陶所「リーチ・ポタリー」を建造したのである。「東西の融合」「中国の形、朝鮮の線、日本の色」を制作理念に、産業革命によって押し進められた「悪しき機械化の波に対抗しよう」というのが、リーチ・ポタリーの運営方針だった。

初めて英国を訪れた26歳の濱田は、口数も少なく手のかからない優秀な助手で、1人で町を散策し港を歩き回り、現地の英国人にも受け入れられていたようだ。港近くに住む漁師上がりの老人などは、毎週日曜日に決まって鯛を持って濱田の仕事場を訪れ、椅子に腰掛けて楽しそうに彼の仕事ぶりを眺めていたという。また、実直な人柄の濱田は幼かったリーチの子どもたちにも好かれており、リーチ一家のスナップ写真の中には、2人の子どもたちに挟まれ、手を握られている濱田の姿が残されている。

東京育ちの濱田にとってもコンウォールの自然と、そこに住まう朴訥とした人々は大きな好印象を残し、やがて日本に帰国した彼が、栃木県の片田舎である益子に窯を開くのは、益子焼に興味を抱いていたのはもちろんのこと、セント・アイヴズでの暮らしが印象深かったためである。濱田は関東大震災の発生をきっかけに帰国を決意するまで、セント・アイヴズで4年を過ごしている。

リーチ・ポタリーの暖炉の前で、陶芸制作について指導するリーチ(中央)。 © Leach Archive

さて、当初のリーチ・ポタリーでは、リーチと濱田を含む4人のスタッフによる、試行錯誤の状態が続いた。リーチは山の斜面などを利用して作られる日本式の登り釜を英国で初めて採用したが、ヨーロッパとは違うスタイルの窯で制作すること自体、温度調節も含め大変な苦労だった。さらに、粘土の違い、釉薬の違い、灰の違いなど、日本とコンウォールの地質や材料の違いもひとつひとつ吟味しなければならない。彼らは他所で手に入る質のいい土ではなく、その土地の材料を使うことを重んじたことから、その苦労もひと塩であった。

こうした様々なこだわりゆえにポタリーの経営状態は総じて不安定で、リーチはロンドンや日本でしばしば展覧会を開いたり、愛好家や収集家に作品を売ったり、町の人々や観光客相手に楽焼教室を開いたりして日々の生活をしのいだ。2度にわたって工房破産の危機も迎えたが、妻ミュリエルが父親から相続した遺産などでなんとか切り抜けている。

リーチ・ポタリーで、工房の職人とともに撮影。濱田庄司(前列中央)、リーチ(濱田から向かって左隣)、リーチの3人目の妻ジャネット(右端から2人目)。
© Leach Archive

繰り返す離婚

1930~50年代のリーチは、ポタリーを離れる時間が増え、その間の管理は成人したリーチの長男、デヴィッドがあたった。日本で人気の高いリーチが、講演会や展覧会を日本で頻繁に開いてポタリー存続の資金を得ようと考えたことに加え、数々の女性問題による罪悪感が、リーチをポタリーから遠ざけたのである。

実母の顔を知らないリーチは、生涯を通して母性愛を欲していた。常に自分を受け止め支えてくれた妻ミュリエルには母親のような愛情を求め、その結果、異性愛はほかの女性で満たすというサイクルに陥ってしまったのだ。この問題は日本に滞在していた時からたびたび浮上していたが、リーチ・ポタリーで学ぶ学生で、秘書としても働くローリーとただならぬ関係になった彼は、「良き妻で母親」のミュリエルではなく、陶芸について深く語り合える同志のローリーを選ぶ。リーチは家族のもとを去り、24年間連れ添ったミュリエルと離婚。1944年にローリーと再婚している。

第二次世界大戦下ではセント・アイヴズはドイツ軍の爆撃を受け、リーチ・ポタリーも被害を受けた。ところが、ほかの製陶所が次々に閉鎖する中、リーチのポタリーは細々とではあったが持ちこたえている。戦時下のため展覧会向けの作品の需要はなかったものの、一般家庭向けの食器の需要があったからだ。そのため、安くて質のよいスタンダード・ウェアの制作に力を入れた。

やがて戦争が終わると、戦争中に工場生産された白い簡素な食器しか手に入れることのできなかった人々が、リーチ・ポタリーの暖かい色使いや手作りの風合いに魅せられ、人気が殺到。ロンドンの各大型デパートは、生産量の追いつかない商品の在庫を得ようと張り合った。

「自分」を見つけられたのか?

戦後、リーチは再び海外で展覧会を開くようになる。米国や日本をまわり、2年以上の長期にわたってポタリーを留守にしたこともあった。また、リーチは訪れた米国で新しいパートナーとの出会いも果たしている。相手は熱心なリーチ・ファンの陶芸家ジャネットで、彼女が単なる自分の崇拝者ではなく、時に歯に衣着せぬ物言いで発破をかける「母親のような強さ」を持つ面に惹かれたようである。リーチはローリーと離婚し、ジャネットと3度目の婚姻を結んだ。

今や高齢の域に達した69歳のリーチに替わり、ポタリーの運営はジャネットがあたった。彼女が取り仕切るようになって以降、ポタリーでは従弟の制度がなくなり、美大やほかの工房で基本訓練を受けた陶芸家たちが雇われるようになる。

リーチは視力が弱って引退する最晩年まで、ポタリーでの指導にあたっていたが、1979年5月6日、肺炎にかかってセント・アイヴズの病院で死去。92歳であった。盟友・濱田庄司は前年に亡くなっており、死の数日前、リーチは「夢で楽しく濱田と会話した」とジャネットに告げている。

東西文化の融合を陶芸によって完成させようとしたリーチだが、それは自分の中にある東洋と西洋の融合でもあった。幼児期から複数の国、複数の家庭、複数の文化に身をおいた彼は、絶えず自分をひとつに保とうと、もがいていたのではないだろうか。

数々の作品が生まれた リーチ・ポタリー

西洋初の日本式登り窯として1920年に開業したリーチ・ポタリーは、リーチの死後、3人目の妻ジャネットに引き継がれたが、彼女が亡くなると売却され、解体の危機にさらされた。 工房を救おうと、「リーチ・ポタリー再建運動委員会」が発足して募金活動が始まり、また日本でも柳宗悦や濱田庄司が館長をつとめた日本民藝館が中心となって、募金活動がスタート。晴れて2008年、新リーチ・ポタリーが完成した。

現在は、リーチの足跡をたどるミュージアムや若い陶芸家を育てるワークショップ、ギャラリー、ショップを備えた国際的な「陶芸センター」となっている。

The Leach Pottery
Higher Stennack, St Ives, Cornwall, TR26 2HE
www.leachpottery.com

週刊ジャーニー No.1233(2022年3月31日)掲載

心優しい才人? それともロリコン?不思議の国の住人 ルイス・キャロル  前編

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●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/田中晴子・本誌編集部

■『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』といった児童文学の名作を生み出し、英国が誇る作家として現在も世界中の子どもたちを魅了するルイス・キャロル。写真家や数学者としての顔も持つなど、彼の生涯はいまだに多くの謎に包まれ、各時代や伝記作家によって描かれるイメージも大きく異なる。心優しい宗教家、頭の切れる無口な才人、またはポルノまがいの写真を撮る小児偏愛者…。生誕190年を迎えた今、数々のレッテルを貼られたルイスの素顔に迫ってみたい。

1963年、のちに「不思議の国のアリス」と改名して出版する冒険譚「地下の国のアリス」の執筆を終えた頃のルイス・キャロル、30歳。

貧しい大家族の長男

英米では、聖書とシェイクスピア作品に次いで読まれている『不思議の国のアリス』。白ウサギの後を追ってウサギの穴に飛び込み、奇妙な世界に入り込んだ少女アリスの大冒険を描いた物語は、30歳の数学者ルイス・キャロルが「10歳の友人」アリス・リデルにせがまれ、ボート遊びの際に語ったものを文章化して出版した作品だ。

ルイス・キャロルことチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンは1832年、ヴィクトリア女王の即位を5年後に控え、英国が世界にその国力を示し始めた輝かしい時期に、イングランド北西部チェシャーの小さな村デアーズベリーで生まれた。11人きょうだいの3番目、そしてドジソン家の待望の長男だった。一家の大半は代々聖職者か軍仕官という、当時の上層中産階級の代表的職業に従事していたが、ルイスの父親もその例に漏れず、オックスフォード大学で数学と古典に親しんだ後、この地の教区で牧師を務めていた。

一家の暮らす牧師館のある辺りは「陸の孤島」とも呼べるほどの辺境の地で、父親がその高学歴には見合わない質素なキャリアを選んだため、大所帯のドジソン一家もまた、慎ましい暮らしを強いられた。自ら野菜を育てる半自給生活を営み、子どもたちの着る服はドジソン夫人の手作り。だが、ここで多くのきょうだいと共に過ごした静かで質素な生活をルイスは終生懐かしく思い返しており、彼にとっては幸せな日々だったようだ。子どもたちは父親の元で敬虔なクリスチャンとして育てられ、ルイスの数学に対する興味もこの時に培われている。

やがて父親の栄転により、ヨークシャーに転居。ルイスは英国で最も古い歴史を誇る私立寄宿学校のひとつ、ウォリックシャーのラグビー・スクールに入学する。しかし、荒々しい校風を持つ同校での3年間は、もの静かで心優しいルイスにとってきわめて苦痛なものとなった。低学年の生徒に対するイジメや嫌がらせといったお決まりの寄宿学校の慣習に苦しみ、野蛮で乱暴な男子生徒たちを忌み嫌い、自分が高学年になってからは「幼い生徒たちを守る」と保護監督者の役割に率先して徹した。その「守護神」ぶりは、彼が卒業した後も、しばらく生徒たちの間で語り継がれていたほどだった。

その後、父親の母校であるオックスフォード大学のクライスト・チャーチ校に進学。しかし、当時のクライスト・チャーチは優秀な学生が学ぶ場である一方、裕福な貴族の息子たちが当主となる前の数年を費やす、娯楽場のような場所でもあった。ギャンブルやキツネ狩りを楽しみ、勉学には全く興味を示さない享楽的な人物の集まりが幅を利かせており、ルイスは彼らのような学生たちとは距離を置き、静かに勉学に身を投じる毎日を送った。

欲した母親の愛情

順風満帆な人生を歩んでいるように思えるルイスだが、実はどれほど欲しても手に入らないものがあった――それは「母親の愛情」である。大家族の「できる」長男の宿命といえるのかもしれない。

ルイスの母は、彼が大学へ入学したわずか2日後、47歳の若さで病死。髄膜炎か脳梗塞と思われる脳の疾患が原因だった。母親に関しての彼の記述は少なく、2人の絆はかなり希薄だった。だが、決してルイスが母親を嫌いだったというわけではなく、むしろ幼い頃から母の愛情に飢え、常に彼女の関心を買おうとしていた。ところが、子どもの多いドジソン家では、おとなしい長男の存在は地味なもの。面倒見のよいルイスはきょうだい間では絶大な人気を誇っていたものの、母親にしてみれば、数多い子どもの中で「手のかからない子」と関心は薄かった。また、ルイスは吃音症(言葉が円滑に話せない発話障害)を患っていたが、彼を含めきょうだい全員が何らかの言語障害を抱えており、自閉症めいた症状を持つ妹もいたことから、母親がルイスに目をかけることはほとんどなかった。

距離を埋めることができなかった母親を永遠に失い、満たされることがない空虚な心を埋めてくれたのは、母親の弟にあたり、法廷弁護士としてロンドンで暮らしていた叔父だった。彼は鷹揚なキャラクターで、新しいものが大好き。発明されたばかりの望遠鏡や顕微鏡といった光学機器に多大な興味を持ち、その情熱はルイスにも伝播していった。後にルイスは叔父から写真の技術を学び、写真家としても名を馳せるようになる。

運命の少女との出会い

やがてルイスは大学の数学の試験で「第1級」を獲得し、特別研究生の地位を得る。この地位を得た者は生涯クライスト・チャーチに留まり、年俸をもらいながら自由な研究をすることを保証されることから、ルイスにとってはまたとないチャンスの到来であった。かつて、彼の父親もこの資格を得たことがあったが、父親はほかの有資格者同様、数年でこの身分を放棄。というのも、特別研究生であり続けるには、聖職の資格を取らなければならないだけでなく、「独身」でいることも条件のひとつだったからだ。しかし、ルイスはこの身分を手放すことなく、学士号の取得後に正式な数学教授への昇進試験にも合格。彼の授業は学生には不評で、あまりの退屈さゆえに学生たちが「キャロル・ボイコット運動」を起こしたほどだったものの、それにもめげずに教壇に立ち続け、数学の参考書『行列式初歩』も刊行した。

そして運命の出会いがやってくる。

学寮長(クライスト・チャーチの最高運営責任者)が老齢のため死去すると、名門ウェストミンスター・カレッジで校長を務めていた古典文献学者ヘンリー・ジョージ・リデルが新たに赴任してきた。若くカリスマ的な魅力に溢れるリデルは、次々に保守的な校内システムの改革を行っていく。新人教師のルイスも改革に伴う議論にスタッフの一員として参加したが、ルイスに大きな影響を与えたのは、この校内改革ではなかった。リデルがオックスフォードへの赴任に際して伴ってきた、妻と4人の子どもたち――長男ハリーと、長女ロリーナ、次女アリス、三女イーディスの3姉妹だ。とくに次女のアリスは『不思議の国のアリス』誕生のきっかけとなり、ルイスの人生を大きく変える存在となる。

ルイスが撮影したリデル3姉妹。向かって右から次女アリス、長女ロリーナ、三女イーディス。

アリスのわがままと名作の誕生

物乞い風のボロボロのドレスを身にまとい、裸足で施しを求めるポーズをするアリス。ルイスが撮影したもの。

ルイスとアリスが初めて顔を合わせたのは、ルイス23歳、アリスはわずか3歳のときのこと。叔父から写真技術をマスターしたルイスは、自らもカメラを購入し、被写体を探していたところだった。そのお眼鏡に叶ったのが、リデルの幼い子どもたちだ。でも最初からアリスが特別だったわけではない。ルイスがまず称えたのは長男ハリーの美しさで「今まで会った中で一番ハンサムな少年だ」と感嘆し、家族に撮影許可をもらっている。こうしてルイスとリデル一家との密な交遊が始まった。

リデル家の子どもたちは、すぐにクライスト・チャーチ内のルイスの自室を訪れるようになった。そこには子どもが大喜びしそうなオモチャや複雑な機械がところ狭しと並んでおり、薄暗くてまるで秘密の隠れ家のようだった。彼らはルイスが集めた撮影用の子ども服、例えば物乞い風のボロボロのドレス、ジプシー風の衣装、当時流行していたオリエンタルな小物などを自由に選び出し、ルイスの求めに応じてポーズをとった。

天気の良い日ですら屋外で1枚の写真を撮るのに45秒もかかる時代に、子どもたちをひとつのポーズのままでじっとさせておくのは、本来なら至難の技。しかしながら、すでに数学者としての顔以外に作家としても数冊の短編小説を発表していたルイスは、幼い子どもに対する持ち前のサービス精神で、奇妙で愉快な物語を即興で語るなど、彼らに退屈を感じさせず、リラックスして撮影に臨ませることに成功。アリスも後年にインタビューで「彼の部屋の大きなソファに座って、皆で彼のお話を聞くのは本当に楽しかった。写真撮影も全然苦にならなかったし、お部屋へ行くのが楽しみでした」と語っている。

中華風の衣装をまとった長女のロリーナ(左)とアリス(右)。

『不思議の国のアリス』の物語が生まれたのは、彼らが出会ってから約7年後の1862年7月4日、ピクニック先でのことだ。この日は歌のうまいルイスの大学の同僚も参加し、子どもたちと共にテムズ河でのボート下りを楽しんでいた。夏の日射しが水面に反射する、後にルイスが「金色の午後」と形容した日のことである。舟の上でいつものようにアリスに話をせがまれたルイスは、懐中時計を手に大急ぎで走ってくる白ウサギの場面を語り始める。ボートを漕いでいた同僚男性が振り返り、「今即興で作った話なのか?」とたずねると、ルイスはこう答えた。

「そうなんだ。まず女の子をウサギの穴に落としてみたんだが、その後どうするかな…」

自分と同じ名前の主人公が登場する話をとりわけ気に入ったアリスは、物語の先を知りたがり、「私のために文字にして書いて!」と何度もせがんだ。アリスのこの「お願い」がきっかけとなり、ルイスは翌日から物語を書き始める。当初『地下の国のアリス』と名付けられた手書きの本は、7ヵ月後の1863年2月10日に完成。さらにルイス自身がイラストを丁寧に描き入れ、1864年11月26日に「クリスマス・プレゼントとして、夏の日の思い出に」とアリスに手渡された。

おそらくこのときがルイスにとって最も輝いていた時間だったのではないだろうか。ルイスとアリス、そしてリドル家との関係は、以降跡形もなく立ち消えることとなる――。

週刊ジャーニー No.1238(2022年5月5日)掲載

映画を知りすぎていた男 アルフレッド・ヒッチコック

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映画を知りすぎていた男 アルフレッド ヒッチコック [Alfred Hitchcock]
■『知りすぎていた男』や『サイコ』をはじめとする数々の名作を生み出した、英国出身の映画監督アルフレッド・ヒッチコック。生涯に制作した作品は53作にものぼり、悪夢を紡ぎ出す手腕は現在も他の追従を許さない。今回は、観客を怖がらせることに心血を注いだ「サスペンスの巨匠」のサクセス・ストーリーをお届けする。

●参考文献『It's Only a Movie - Alfred Hitchcock A Personal Biography』Charlotte Chandler著、『定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー』山田宏一・蓮實重彦訳

●Great Britons●取材・執筆/田中晴子・本誌編集部

主題なんか、どうでもいい。演技なんか、どうでもいい。大事なことは、映画のさまざまなディテールが、映像が、音楽が、純粋に技術的な要素のすべてが、観客に悲鳴をあげさせるに至ったということだ。大衆のエモーションを生みだすために映画技術を駆使することこそ、わたしたちの最大の歓びだ。(中略)観客をほんとうに感動させるのは、メッセージなんかではない。俳優たちの名演技でもない。原作小説のおもしろさでもない。観客の心をうつのは、純粋に映画そのものなのだ。(―定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー 訳:山田宏一・蓮實重彦)

1960年作『サイコ』の大ヒットに満足したヒッチコックは、フランスの映画監督フランソワ・トリュフォーとの対談で上記のように語っている。役作りに悩む俳優から助言を求められると、「たかが映画じゃないか」という言葉をしばしば口にしたという。ありふれた日常に潜む恐怖や、幸せと隣り合わせに存在する悪など、白日のもとに襲い来る恐怖に心引かれたというヒッチコックは、後年インタビューで「人間は本当に恐ろしいものからは目を背けるものだ。映画はしょせん映画だよ。一番怖いのは現実なんだ」とも語っている。冒頭の作品を始め、『鳥』『北北西に進路を取れ』『裏窓』『めまい』など、エンターテインメント色の強い作品をハリウッドで数えきれない程制作しながらも、常に冷めたシビアな視点を維持していたように思われる、ヒッチコック監督の秘密を探っていこう。

アルフレッド・ジョセフ・ヒッチコック(Alfred Joseph Hitchcock)は、1901年に幕を閉じることになるヴィクトリア朝の最後期にあたる、1899年8月13日にロンドンのイーストエンド、レイトンストーンの青果商の次男坊として誕生する。当時は産業革命による景気の拡大が既にピークを越え、英国経済は次第に陰りを見せ始めていた。失業者が増加し社会主義も台頭する中、街頭では労働者たちによるデモが絶えず、また『切り裂きジャック』として知られるホワイトチャペルでの連続殺人事件も、まだ人々の記憶に新しい時代であった。

そんな状況にあって、アルフレッド・ヒッチコックの生家である青果商店は、父親のウィリアムによって手堅く営まれており、一家は裕福とまではいえないまでも、比較的余裕のある暮らしを送っていた。末っ子でもあったアルフレッドは、年の離れた兄姉が家業を手伝う中、地図や列車の時刻表を眺めて空想旅行を楽しんだり、窓からの眺めをスケッチしたりと、一人でおとなしく遊ぶ夢見がちな少年だったという。

© Spudgun67
ヒッチコックの生家跡は現在、ガソリンスタンドになっている(517 High Road, Leytonstone, London E11 3EE)。向かいの建物は、映画「鳥」をイメージした壁画で飾られている。

プロテスタントの多いイングランドには珍しく、敬虔なカトリック教徒だった一家は、近所の人々から「ちょっと変わった家」と見なされていたようである。毎週日曜日にきちんと正装し家族揃って教会へ出かけたが、特に熱心な母親のエマが教会へ行かなかったのはただの一度だけ、それはアルフレッドを出産した日曜日のみだったという。父のウィリアムは堅実かつ厳格な人物で、過度に道徳を重んじるヴィクトリア朝の時代にありがちな価値観の持ち主だったようだ。ある時、彼が幼いアルフレッドに施した「ちょっとした教育」が、その後のアルフレッドの人生に影響を及ぼすトラウマを植え付けることになる。

警官嫌い

アルフレッド・ヒッチコックが4、5歳の時のこと、父親の言いつけで知り合いの警察署長に手紙を持って行くお使いに出された。警察署長はその場で父親からの手紙を読むや否や、いきなりアルフレッドを留置所に閉じ込めてしまったという。5分後には釈放されたものの、恐怖におののくアルフレッドにはそれが数時間にも感じられた。釈放後「悪い子にはこうするんだ」(This is what we do to naughty boys.)と署長に言われたが、彼は悪いことをした覚えもなく、ただひたすら恐ろしがるばかり。成人した後ですら、背後で閉まる重い鍵の音や、暗くて長い刑務所の廊下の様子などをありありと思い浮かべることが出来たという。父親ウィリアムの思惑は予想以上の効果をもたらし、ヒッチコックはこれが原因で警官に恐怖を抱くようになり、子供心に「警察にお世話になる様なことは絶対避ける」と誓った。やがて成長するに従い、それが権力への漠然とした恐怖感や嫌悪へと転化していくわけだが、『間違えられた男』(1956) や『北北西に進路を取れ』(1959) をはじめ、ヒッチコック作品に「身に覚えのない罪で追われる主人公」が繰り返し登場するのは、幼い頃に起きたこの事件の影響だという。

やがてアルフレッドはロンドン北東部トテナムにある、聖イグナチウス・カレッジというイエズス会の寄宿学校に通い始める。ヒッチコックと同級生だったヒュー・グレイ教授は後に当時のヒッチコックの姿を回想し、「休み時間に校庭へ出ても、他の子供たちとけっして遊ぼうとしない丸顔の太った少年」と表現している。スポーツが苦手で、自分の体型にコンプレックスを抱いていたアルフレッドは、仲間の少年たちが校庭で無邪気に走り回るのを離れたところから観察したり、読書に没頭して一人で時間を過ごすような、孤独で無口な少年だったようだ。ヒッチコックはこの時代の愛読書にエドガー・アラン・ポーやコナン・ドイル、そしてディケンズの著作を挙げている。

当時のイエズス会の寄宿学校は体罰の厳しいことで知られ、若いヒッチコックの通う聖イグナチウス・カレッジもその例外ではなかった。教師たちはクジラの骨で出来たムチを持っており、言いつけを守らない生徒を、罪の重さに応じて規定の回数ビシビシ打ったという。ヒッチコックはフランソワ・トリュフォーとのインタビューに答えて、何かムチで打たれる様な悪いことをしたのではないかという恐怖心が常にあり、体罰が恐ろしくていつもビクビクしていたと当時を振り返っている。

さらに、悪とは何か、善とは何かを考えるきっかけにもなったとして、カレッジで学んだことがいかに映画作りに役立っているかを、皮肉まじりに語っている。また体罰そのものよりも、エンマ帳に彼の名前がメモされ、放課後改めて呼び出しを受けるまでの「猶予時間」こそが、体罰それ自体よりも恐ろしかったと強調しており、これはまさにヒッチコックが観客をジワジワと怖がらせるために用いた、彼の映画手法と同じであるともいえる。

「鳥」の宣伝写真で、おどけた表情を見せるヒッチコック。

1914年、第一次世界大戦勃発の年に、父親のウィリアムが心臓麻痺のため52歳で急死。ヒッチコックは15歳になったばかりだった。兄が家業を継ぐことになり、アルフレッドも聖イグナチウス・カレッジを去り、手に職をつけるための訓練校である海洋技術専門学校に入学。そこで技師になるために必要な電気工学などを学んだ後、W・T・ヘンリー電信会社に勤め始める。当初ヒッチコックの担当は海底ケーブルの電力測定だったが、単調な仕事に飽き足らなくなった彼は、同社の広告デザイン部門へ押し掛けて、難なくグラフィック・デザイナーとしての仕事を得てしまう。そこで広告やチラシのデザインを始めたヒッチコックは社内報の編集も手伝い、時には自分で書いた短編小説も掲載した。その中の一作である『Gas』は、パリに出かけた英国人女性がギャングに誘拐され、セーヌに投げ込まれる話だが、最後にはそれが全て、その女性が歯医者の診察台の上で空想した事だったという、いかにもヒッチコックらしい話のオチがついている。

こうして彼の社会人生活が始まったわけだが、仕事の後は同僚たちとパブへ行くわけでもなく、ロンドン大学のイブニング・コースでドローイングを習っていた。そして休日には一人でアメリカ映画を観に行き、映画産業の業界誌を眺める毎日だったという。

映画との関わり

幼い頃から人付き合いが悪く、一人で過ごす時間の多かったヒッチコックだが、芝居好きだった両親の影響もあり、16歳頃から映画や演劇に興味を持ち始めた。好きな映画はチャップリンやD・W・グリフィス作品。当時人気のあったバスター・キートン、ダグラス・フェアバンクスの出演作も観たという。また、F・W・ムルナウやフリッツ・ラングといったドイツの巨匠が作りあげる奇妙な世界にも心惹かれていた。映画雑誌も多く購読したが、それはよくあるファン雑誌ではなく、制作に関する技術雑誌や業界誌ばかりだったとされている。「監督になるつもりは全くなかった」と語るヒッチコックだが、何らかの形で映画の世界に関わりたいという気持は常にあったようだ。

1919年、そんな彼にいよいよ転機が訪れる。いつものように読んでいた業界誌に、フェイマス・プレイヤーズ・ラスキー(Famous Players-Lasky:のちのパラマウント社)という米映画会社のロンドン支社設置のニュースが載っていた。イズリントンに撮影所を建設中で、製作予定作品のラインナップも発表されている。ヒッチコックは早速自分なりに字幕デザインのサンプルを作り上げると、映画支社に駆けつけた。そして自分の作ったデザインを見せると、「映画を撮影する際に必要になるだろうから置いて行きます。ご自由にお使いください」と言ったという。生来の性格に似合わぬ強気の行動には驚かされるが、ヒッチコック自身「若くて物を知らないからできた事だ」と回想している。

このおかげでフェイマス・プレイヤーズ・ラスキー社の字幕制作班に配属されることになったヒッチコックは、そこで数多くのアメリカ人脚本家たちと知り合い、シナリオの書き方を学んでいくことになる。

サイレント映画では、俳優は口を動かしているだけで、セリフはそのあとに字幕で出る。つまりテキスト次第で登場人物にどんなことも言わせることができるため、字幕テキスト上で脚本が書き直されることも度々あったという。わずか3年後、フェイマス・プレイヤーズ・ラスキーのロンドン支社は業績不振により閉鎖されるが、その間にヒッチコックは映画作りの過程を内側から観る幸運に恵まれ、字幕制作はむろん、脚本や美術なども手掛け、助監督的な仕事すらこなすようになっていた。ヒッチコックの未完の処女作『第十三番』はこの頃作られたコメディだが、ヒッチコックの言葉を借りれば「ハリウッドでチャップリンと仕事をしたことがあるというだけで、皆に天才扱いされていた女性」―アニタ・ロスの脚本によるお粗末な作品だったようで、ヒッチコック自身はこの作品を処女作と呼ばれることを嫌っている。幸か不幸かフェイマス・プレイヤーズ・ラスキー社がロンドン支社を閉鎖したため撮影も中止になり、この作品は「世に出ないで済んだ」のである。

凝り性だったヒッチコック
驚きのエピソード

下宿人/ The Lodger: A Story of the London Fog (1926年)

【あらすじ】2階に住む下宿人が殺人犯である可能性が濃厚になり、それに気づいた娘と恋人が小声で話し合っていると、頭上で下宿人が神経質に歩き回る足音が聞こえてきて…。

この時代はまだサイレント映画。ヒッチコックは大きな透明のガラス板を天井にはめ込み、その上を歩き回る下宿人を下から撮影することで足音を表現した。観客は2階の床の上を歩く殺人者を、まるで自分の頭に思い描いたかのように見ることができる。


断崖/ Suspicion(1941年)

【あらすじ】浪費家でウソつきの男性と結婚してしまったヒロイン。彼女は夫が殺人者で、いつか自分も殺されるのではないかと思い始める。ある日、夫が妻に飲ませるため、毒入りのミルクを持って階段を上がってきて…。

このシーンでヒッチコックは、観客の眼がミルクの入ったコップだけに注がれるように、ミルクの中に豆電球を入れている。おかげでミルクの白さが輝く印象的なシーンが出来上がった。


ロープ/ Rope
(1948年)

【あらすじ】ニューヨークの高層マンションの一室で、ある日の夕方から夜までの1時間45分の間に起きた殺人事件を、進行時間そのままに映画に置き換えた。カメラは切れ目なくワンカットで事件を追っていく…。

マンションの外景は、遠近感を出すためにマンションのセットより3倍大きくつくり、透明なワイヤーで雲も浮かべた。さらにスタッフたちがこの雲を少しずつ移動させ、時間の経過を表現した。


北北西に進路を取れ/ North by Northwest(1959年)

【あらすじ】米情報部が敵のスパイを欺くために作り上げた「架空の人物」に間違えられた男性が、スパイたちから命を狙われ…。

主人公が駆け込んだ国連本部の建物は、内外とも全てセット。国連内での撮影は禁止されていたため、隠しカメラで資料になる写真をこっそり撮影し、本物と一分も違いがないように作り上げた。これはヒッチコックが常にこだわる点で、どの作品も実際の場所で撮影できない場合は、本物そのままのセットを作り上げて再現した。


鳥/ The Birds(1961年)

【あらすじ】屋根裏部屋に向かったヒロインが、突然鳥の群れに襲われ…。

機械仕掛けの精巧な鳥や調教された鳥を使うことも考えたヒッチコックだが、結局はヒモで足を結わえた本物の鳥を大量に使った。そのため、ヒロイン役のメラニー・ダニエルズは実際に鳥たちに襲われ、顔などに深い傷を負った。これが原因で、彼女とヒッチコックの関係は不和になったと言われる。なお、鳥の不気味な鳴き声や羽ばたきの効果音は、作曲家のバーナード・ハーマンが電子音を使い編集した。

監督としての出発/伴侶との出会い

「山鷲」の宣伝写真に映るヒッチコック(カメラの右手前で指を差す人物)。その後ろにいる女性は、のちに妻となるアルマ・レヴィル。

1922年にフェイマス・プレイヤーズ・ラスキー社が撤退した後、英国の映画会社であるゲインズボロ・ピクチャーズ(Gainsborough Pictures)が撮影所を買い取り、ヒッチコックを始めとする多くのスタッフが、そのまま撮影所に残ることになる。ヒッチコックはここで助監督として5本の作品を撮っているが、そのうちの『女対女』(1922)を作るにあたり、アルマ・レヴィルという女性をフィルムの編集に抜擢する。後にヒッチコックの妻となる彼女は、これ以降57年にわたり常にヒッチコックを影で支えるかけがえのないパートナー、そして彼の作品のよき理解者として存在していくことになる。

1926年、ケンジントンにあるローマ・カトリック教会「Brompton Oratory」で挙式した2人。

1925年、26歳のヒッチコックは初の監督作品『快楽の園』に着手する。オリヴァー・サンデスの原作を基にしたメロドラマ色の強いサスペンス物で、英独合作としてミュンヘンで撮影された。第一次世界大戦後の当時はヨーロッパ映画界の好況期にあたるが、なかでもドイツは映画製作会社ウーファ(UFA: Universum Film AG)に牽引され、『カリガリ博士』(1920) 『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922) 『メトロポリス』(1927) といった数々の実験的で過激な名作を生み出し、ドイツ表現主義映画の隆盛期にあった。ヒッチコックはそこで英国映画にない最先端の技術や、斬新なカメラワークを貧欲に吸収していく。もっとも影響を受けた監督はF・W・ムルナウで、『吸血鬼ノスフェラトゥ』や『最後の人』(1924)などの斬新な演出で知られるこのサイレント期の巨匠から、「言葉に頼らず映像だけで映画を作ること」を学んだという。のちのインタビューでも「映像は映るものではなくて、つくるものだ」、つまり見えるものを単に映すのではなく、頭の中で厳密にイメージした映像を再現することが、結果的に映画のリアリズムに達する方法だと語っている。ヒッチコックの映画作りにおいて最も重要な点のひとつであろう。現にヒッチコックは全ての絵コンテを撮影開始までに完成させ、一度決まった構図は俳優の位置を含め1センチ足りとも動かさなかった。コンテをカメラマンに渡し、現場ではカメラを覗かなかったヒッチコックにとって、俳優の余計な動きや演技などは、煩わしいだけであった。

監督3作目にあたる『下宿人』(1926)は、写実を排し象徴や比喩をふんだんに用いるドイツ表現主義的手法と、ヒッチコックのストーリー作りが見事に融合した、「ヒッチコックらしさ」のあふれた最初の作品といえる。自分の作品中にこっそりカメオ出演することで知られるヒッチコックだが、この『下宿人』において初めてスクリーン上にその姿を見せている。本作のヒットで一躍有望な若手英国監督として認められた彼は、その後も矢継ぎ早に作品を発表していく。1928年には一人娘であるパトリシアも誕生し、ヒッチコックは公私ともに充実した日々を送る。

ハリウッドの英国人として

ヒッチコックが家族と共にハリウッドに移ったのは1939年。米国プロデューサーからの製作依頼がきっかけだった。ロンドンでは米国映画会社に勤めたこともあり、何より米国映画を偏愛していたヒッチコックにしては、このハリウッド行きは遅いようにも思える。映画監督フランソワ・トリュフォーは、ヒッチコックを「ハリウッドで映画を撮るために生まれてきた様な人間」といい、それにも関わらずヒッチコックが英国にしばらく留まっていたのは「こちらからノコノコ出かけて行くのではなく、ハリウッドから招かれるまで待っていた」とし、ヒッチコックの自尊心の強さが理由だろうと推測している。

この頃すでにヒッチコックは英国でもっとも才能ある監督の一人に数えられており、俳優より小道具に気を配るという評判や、「俳優は家畜だ」という毒舌でも知られ、ひねりのあるユーモアを持つ少々エキセントリックな人物という風評を得ていた。さらに、幼い頃から太り気味だったヒッチコックだが、肥満に関する問題は成人してからも続いていた。若い時から美食を好んだ彼は、撮影合間の昼食もフルコース並みだったという。お気に入りのメニューはステーキ、ポテト、サラダで、毎日好んで同じものを食べた。昼食に招かれた俳優たちは、その量の多さに驚いている。

また、ヒッチコックと言えば黒のスーツに黒のネクタイが定番だが、自宅のワードローブには何十着もの仕立ての良い黒いスーツが並び、どれもほとんど同じデザインだったとされる。まだ冷房装置もない時代、ライトの照りつけるスタジオで、背広も脱がずネクタイさえ緩めないヒッチコックの姿は、米国においてはかなり異質なものに映ったであろう。これは青果商の父親がいつもきちんとした服装で働いていたという、ヒッチコックの思い出に繋がっている。「レタスに敬意を表していたわけではなく、自分の仕事に誇りをもっていたから」ネクタイを緩めなかったのだとして、自分のスーツ姿にも同じ意味合いがあるとしている。

米国進出第1作目となった『レベッカ』の撮影風景。ローレンス・オリヴィエ=写真右、ジョーン・フォンテイン=同中央=と。 ©ABC/Disney/Buena Vista

米国での第1作は、英国の女流作家ダフネ・デュ・モーリアの小説を映画化した『レベッカ』(1940)。ヒッチコックはハリウッド進出当初、プロデューサーから英国がらみの作品ばかりを依頼されている。だが米国人の考える「英国」のイメージを忠実になぞらなければいけないことや、ロンドンの街中で男性がふつうに使う言い回しが、米国では「ホモセクシャル的」として、即座に書き直しを命じられてしまうなど、ヒッチコックは英米の違いにかなり頭を痛めたようだ。さらに、当時のハリウッドではミステリーやサスペンスなどのジャンルは「B級映画」と考えられていたため、ヒッチコックが出演依頼をした有名俳優たちの多くが、その依頼を断って来るという悲劇にも見舞われた。

ヒッチコックがハリウッドに移って間もなく、第二次世界大戦が勃発。1940年にはドイツ軍による英国本土爆撃が激化し、戦火は次第にヨーロッパ全土へと広がっていく。連合国に危機が迫っている時期に、一人ハリウッドで安穏としているべきではないと考えたヒッチコックは、1944年にロンドンへ飛び、フランスの対独レジスタンス運動を称賛する2本の短編作品を作り上げる。さらに翌年のドイツ降伏の際には、英国情報省(Ministry of Information)の依頼で、終戦直後のユダヤ人強制収容所の記録映画製作にも協力している。収容所を訪れたヒッチコックは、想像を遥かに超えた惨状に非常なショックを受けるが、いかなる状況であろうと目を背けずに記録しようと決意する。

だが出来上がった記録フィルムを観た英国政府は、その作品があまりにも残酷に描かれていることに驚き、これをお蔵入りにしてしまう。フィルムは、収容所で骨と皮ばかりになり、目の落ち窪んだユダヤ人たちの死体のアップと共に、赤い頬をして健康的な、収容所近隣に住む小太りの一般ドイツ市民を映し出しており、そこにヒッチコック自身のユーモアを交えた辛辣なナレーションがかぶさるショッキングな出来映えで、有刺鉄線に隔てられた2つの世界の違いをあますことなく捉えている。

英国政府は「敗戦から立ち直り、これから新たに国を建て直そうとしているドイツ国民に、このような物を見せるのはモラルに反する」というのを理由に上映を禁止。ヒッチコックは落胆し、冒頭の名言、「どんなに怖くても映画はしょせん映画だよ。一番怖いのは現実なんだ」を吐いた。ちなみに本作品にタイトルはなく、単に整理番号『F3080』、通称『Memory of the Camps』と呼ばれ、この作品が初めて日の目を見るのは、約40年後の1980年代後半、英国のテレビ・ドキュメンタリー番組『A Painful Reminder』としてであった。この時も、ショックを受けた視聴者からの非難がテレビ局に殺到したという。

写真左:『裏窓』のセットにてジェームズ・スチュアート=左=とグレース・ケリー=同中央=と。©Universal Studios
写真右:『めまい』のセットにてキム・ノヴァクと。©Universal Studios

愛妻家だったヒッチコック

写真前列の左からヒッチコック、孫のメアリー・アルマ、妻のアルマ、後列の左から一人娘のパトリシア、孫のテリー、娘婿のジョセフ。

自作のヒロインにクールなブロンド女性を起用することが多かったヒッチコック監督。だが彼の「ブロンド好み」は作品中のことに過ぎず、実生活において彼が生涯を通じて愛した唯一の女性は、妻のアルマ・レヴィルだった。彼女は小柄で赤毛の可愛らしい英国人女性で、巨体のヒッチコックと彼に寄り添う小さなアルマのおしどり夫婦ぶりは、映画界では有名だったという。ヒッチコックは仕事上で大切な決断をする際に「うちへ帰ってマダムに相談するよ」としばしば言ったそうで、アルマに対する彼の信頼の程が伺われる。

20歳のヒッチコックが字幕制作係としてフェイマス・プレイヤーズ・ラスキー社に入社した時、アルマはすでにスクリプト担当のベテランだった。それまで女性とつき合った経験もなく奥手だったヒッチコックは、明るく皆の人気者だったアルマになかなか声をかけることが出来ずにいたという。最初の出会いから実に3年後、ヒッチコックがアルマに仕事依頼の電話をかけたのがきっかけで、それ以降、彼女は常にヒッチコックを影で支える重要なパートナーになる。2人は1926年の12月に結婚するが、プロポーズはドイツでの撮影が終了し英国へ向かう船上で、アルマはヒッチコックの助監督として同行していた。あいにく折からの悪天候で船の揺れがひどく、激しい吐き気に悩まされていた彼女は、ヒッチコックの申し出に、口を覆ったままうなずいたという。

撮影のない時、ヒッチコックはアルマと一緒に過ごす時間を何よりも楽しみにしており、ほとんど外出もしなかった。インタビューでも、夕食後二人で一緒にソファに座り、黙って別々の物を読む静かな楽しみについて言及している。ヒッチコックはタイムズ紙を、アルマは小説を好んだが、それが次の作品のアイデアに繋がる場合もあったといわれる。1979年にヒッチコックが米国映画協会(American Film Institute)から功労賞を贈られた際、ヒッチコックは「この場を借りて、特に4人の協力者の名前を挙げてお礼をいいたい。—編集者、脚本家、我が娘パットの母親、そして素晴らしい料理を作る家庭人。—この4人とはいずれも我妻アルマ・レヴィルのことです。彼女なしでは、今の私も存在しないのです」とスピーチしている。

ヒッチコックは晩年、肥満が原因の病に悩まされるが、彼と同年齢のアルマも看護師に付き添われる毎日であった。アルマに先立たれ自分だけが取り残されてしまうのではないかという恐怖心は、ヒッチコックを酒びたりにし、プロダクション事務所から泥酔状態のところを担がれて帰宅することも度々あったという。「絶対に妻より先に死にたい。彼女なしでは生きて行けないから」と言われていたアルマは、夫の言いつけを守る様にヒッチコックの死を見届け、そのわずか2年後に死去する。

お茶の間の人気者に

『白い恐怖』(1946)以降、デヴィッド・O・セルズニックを始めとする、口うるさい辣腕米国プロデューサーとの契約が切れたヒッチコックは、自らのプロダクションを立ち上げ、以後全ての自作のプロデュースに携わる。これによりヒッチコックは水を得た魚のようにヒット作を放ち始める。

1955年以降は彼の最も創作活動の盛んな時期であり、『知りすぎた男』『めまい』『北北西に進路をとれ』『サイコ』『鳥』などを矢継ぎ早に発表する。さらにテレビという新しい映像媒体にも興味を向け、米テレビ・シリーズ『ヒッチコック劇場』(原題 : Alfred Hitchcock Presents)を総監修する。これは1962年まで放映された毎回完結の短編サスペンスドラマ・シリーズだが、どのエピソードにもユーモアやどんでん返しの妙味が効いた人気番組となった。葬送行進曲で始まるこの番組は、ヒッチコック自身も数エピソードを監督する他、自ら司会役を買って出て、番組内の冒頭と終わりに軽妙なユーモアを交えた解説を行い、一躍お茶の間に顔を知られることになる。このシリーズは日本を含む海外でも放映され(日本では朝倉一雄がヒッチコックの声を担当)、当時は新人であったロバート・アルトマン、アーサー・ヒラー、シドニー・ポロックといった現在米映画界で活躍する有名監督たちの作品も見ることができる。

写真左:『鳥』のセットにて ©Universal Studios
写真右:『ヒッチコック劇場』でおどけた司会役をこなすヒッチコック ©Universal Studios

1960年代に入ると、「ウーマンリブ」と呼ばれる女性解放運動が米国に吹き荒れる。ちょうど同じ頃、ヒッチコック作品のヒロインたちが皆「ブロンド美人」ばかりであるという批判が噴出した。確かにヒッチコックは好んでブロンドの女性を起用しており、中でもグレース・ケリーは大のお気に入りだった。ヒッチコックによれば、彼が都会的なソフィスティケートされた金髪美人ばかりを使う理由は、「内面に炎のように燃える情熱を秘めながら、表面は冷ややかに慎ましやかに装っている女性」の方が驚きや発見があり、サスペンスに向いているからとのことで、マリリン・モンローやブリジッド・バルドーのような開けっぴろげな性的魅力を持つ女性には驚きがない、と説明している。ヒッチコックが俳優を小道具のように扱うといわれる所以だろう。ベトナム戦争やヒッピー・ムーブメントが起こる中、ヒッチコック作品の登場人物たちは、ヒッチコックの黒いスーツ姿と同様に、次第に「時代遅れ」の様相を示し始めていた。

結婚後、ヒッチコックが妻や娘と暮らした家(写真中央/153 Cromwell Road, London SW5 0TQ)。1939年に一家でハリウッドへ移るまで13年間住んだ。

1960年代後半、長年ヒッチコックの手足となって働いてきたスタッフの死が相次ぐようになる。ヒッチコックの気性もクセも心得ていた彼らの死は、妥協をしないヒッチコックには大きな痛手であった。さらに、肥満が原因で次第に歩行に困難を感じ始めてもいて、『ファミリー・プロット』(1976)の撮影中に心臓発作を起こした彼は、歩くことができずに車の中から指示を出していたという。

次作『みじかい夜』のシナリオを前にスタッフと話し合うヒッチコックは、腎臓病と関節炎も併発しており、もはや自分が思うように映画を撮れない体であることに絶望していた。1979年5月、ヒッチコックは自ら「アルフレッド・ヒッチコック・プロダクション」の事務所を閉じてしまう。もう映画を撮ることができないということは、ヒッチコックには死を意味していた。『たかが映画じゃないか』といったサスペンスの巨匠にとって、映画は彼のすべてだったともいえる。翌年の4月29日、アルフレッド・ヒッチコックはビヴァリー・ヒルズの自宅で眠ったまま息を引き取る。80歳であった。死の半年前にナイトの称号を受けていたため、5月8日に故郷のロンドン、ウェストミンスター寺院で国葬扱いの礼拝が行われる。だが生前の希望通り遺体は米国で火葬にされ、遺灰は太平洋に散布された。2年後には妻のアルマの遺灰も、同じ場所で散布されたという。

東ロンドン・レイトンストーン生まれのアルフレッド・ヒッチコック卿の人生は、チャンスと才能と生涯の伴侶に恵まれ、好きなことだけをやり通した幸福な一生だったといえる。

ヒッチコックが『サイコ』を制作するまでの葛藤を描いたスティーヴン・レベロのノンフィクション小説『アルフレッド・ヒッチコック&ザ・メイキング・オブ・サイコ』をもとに、現在ヒッチコックその人を描いた映画が製作中だ。ヒッチコック役はアンソニー・ホプキンス、妻のアルマをヘレン・ミレンが演じるという。また、『鳥』をジョージ・クルーニーとナオミ・ワッツでリメイクする企画も進行中とのことだ。世の中に怖がりたい観客がいる限り、ヒッチコックの名は忘れ去られることはなさそうだ。


週刊ジャーニー No.1280(2023年3月2日)掲載

銃殺された戦場のナース イーデス・カヴェル

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●サバイバー●取材・執筆/手島 功

■第一次世界大戦初期、ドイツ軍によって占領されたブリュッセルの病院で、懸命に看護にあたる英国人看護婦長がいた。ジュネーブ条約と赤十字の理念の下、運ばれて来る負傷者は敵味方分け隔てなく献身的に看護した。しかし後に彼女はドイツ軍によって逮捕され、軍法会議にかけられた末、銃殺刑に処された。献身を貫いた彼女の身に一体何が起こったのか。英国でも日々忘れ去られつつある戦場のヒロインの実像に迫る。

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誰かの役に立ちたい

本編の主人公、名前をイーデス・ルイーザ・カヴェル(Edith Louisa Cavell)という。イーデスは1865年12月4日、ノーフォーク県都ノリッチに近いスウォーデストン村に、4人きょうだいの長女として生まれた。英国国教会の牧師だった父親や家庭教師から在宅教育を受けながら厳しく育てられた。

イーデスの父が勤務したスウォーデストンの聖メアリー・ヴァージン教会。

イーデスはフランス語と絵画に才能を発揮した。ヴィクトリア時代の習わしとして両親は子どもたちに地域社会への奉仕と貢献を促したが、16歳の時、父親の書斎でタバコを吸っているところを見咎められた。父親は在宅教育に限界を感じ、イーデスを全寮制の女学校に預けた。

21歳になったイーデスは自宅に戻った。ロマンスがあって良い年齢になっていたが、過疎の村から女学校の寮に入れられたイーデスに男性と出会う機会はなかった。父親はイーデスに家庭教師(governess)として働きに出るよう命じた。この頃、イングランドには2万5000人ほどの家庭教師がいたとされる。家庭教師と言っても実際には見知らぬ家庭に住み込み、食住とわずかな賃金を受けながら子どもたちの世話をしたり家事を手伝うなど、日本で言うお手伝いさんのような存在だった。25歳までに結婚相手が見つかれば御の字。それを超えると陰で「行き遅れ」と言われた。

25歳の時、イーデスはブリュッセル市内の富裕層宅で家庭教師の職を得た。期待を胸に訪れたブリュッセル。生まれて初めて体験する大都会での生活。彼女は4人の子どもたちに英語を教える傍ら、自らはフランス語を磨いた。しかし、29歳の時、イーデスは倒れた父の面倒を見るために帰国した。妹2人は看護婦になっていた。献身的に父の看護をする中でイーデスは人のために尽くすことの高潔さを知った。

40歳頃のフローレンス・ナイチンゲール (Florence Nightingale, 1820~1910)。

「傷つき、不幸せな人の助けになりたい。何かの役に立ちたい。人のために何かをしたい」という衝動が彼女を突き動かした。この頃、看護婦という職業はイングランドにあってもその地位が確立されていなかった。看護とは本来、家の誰かがするもので、他人の身の回りの世話をする者はアルコール中毒患者や娼婦、老婆、そして他にすることがない人間がするものと認識されていた。その古い認識を変えようとナイチンゲールがロンドンで奔走している最中だった。しかしノーフォークの田舎にまでその影響が及ぶのはまだ先のことだった。田舎では病院自体が稀な存在だった。

三十路の転機

旧ロンドン病院に飾られたイーデス・カヴェルのブループラーク。

1895年12月4日、イーデスは30歳の誕生日を迎えた。父親も回復したある日、ロンドン病院(London Hospital=現ロイヤル・ロンドン病院)が看護婦アシスタントを募集していることを知り履歴書を送付した。しばらくして採用の通知が届いた。イーデスは偶然にもナイチンゲールが看護婦を志した時と同じ30歳でナース見習いとなった。

イーデスが見習い看護婦として学んだ旧ロンドン病院。現在は改装され、タウンホールになっている。

半年ほど勤務した後、イーデスは看護婦という仕事に生涯を捧げようと心に決め、正式な訓練を受けた。ロンドン病院は東ロンドン、ホワイトチャペルで病床700を備える大病院だった。もともとは篤志家たちがファンドを募って始めた病院だった。ホワイトチャペルには職を求めてロンドンに移って来たアイルランド人労働者の他、迫害を逃れて東欧から渡ってきたユダヤ人難民などが劣悪な環境の中で肩を寄せ合って暮らしていた。

イーデスが働き始める7年前には病院の目と鼻の先で世界初の劇場型連続娼婦殺人事件「ジャック・ザ・リッパー(切り裂きジャック)」が起こり、遺体のいくつかが同病院に運び込まれた。犯人と思われる人物から病院宛てに「内臓を焼いて食べた。美味かった」と書かれた挑発的な手紙が届くなどしてロンドン病院は一躍注目の的となった。

イーデスが働き始める数年前までエレファントマンことジョゼフ・メリック氏がロンドン病院内の一室で暮らしていた。

また、ほぼ同じ頃、のちに「エレファントマン」として映画化されたジョゼフ・メリックが病院内の一室をあてがわれ1890年に27歳で息を引き取るまでこの病院内で暮らしていた。

まともな労働基準法がない時代、看護婦の仕事は過酷だった。朝6時起床、6時半から朝食をとると7時から12時間の勤務。休憩は昼食時の30分のみだった。夜勤の場合は午後9時から翌朝8時まで。年2週間与えられる休暇だけが生身の人間に戻れる至福の時だった。その後、イーデスは私設看護婦として独立。患者宅を訪問したり、依頼があれば病院副寮長を務めるなど忙しい日々を送っていた。

運命のブリュッセル行

1907年、イーデスはブリュッセルに新設される見習い看護婦養成校の看護婦長に推薦された。養成校は英国式の近代的な看護婦育成法を広めることを目的としており、職務に熱心でフランス語に堪能な指導者が求められていた。42歳になっていたイーデスに白羽の矢が立った。

学校は同年10月1日に開校したが初年度の入校者はわずか4名だった。イーデスは清廉を意味するエーデルワイス(西洋ウスユキソウ)を学校のシンボルと定め、ユニフォームにもエーデルワイスの刺繍を施した。教育方針は規律や規則に厳格なヴィクトリア時代そのものの教育を反映させたものだった。身だしなみは特にそうで、若い生徒たちがナースキャップを斜めに被るなど、お洒落をしたがると「ちゃんと被りなさい」と𠮟りつけて直させた。朝7時の朝食時には真っ先にダイニングテーブルに着いた。手元に懐中時計を置き、遅れた者を厳しく叱責した。

ナイチンゲールの教本通り、学校内の衛生状態向上に神経をとがらせ、まるで嫌味な姑のように部屋中をチェックし、少しでも指にホコリが付くと拭き掃除のやり直しを命じた。イーデスは時に冷酷な人物として生徒たちの目に映ったが、時折見せる笑顔はたちまち人の心を溶解させた。教師としての仕事を終えるとイーデスは総務と会計の仕事に没頭した。

開校からわずか1年後、ブリュッセルでは早くも近代的看護の重要性が理解され始め、英国式養成法が評価されるようになった。英国式は近代看護のモデルとなった。開校から2年後、23人が入校してきた。生徒たちはオランダやドイツ、ロシアやベルギーなど出身もまちまちだったが、最新の英国式看護法を学んで自国の看護技術に寄与しようとする真剣で実直な若い女性たちだった。

イーデスと共に写真に収まるジャック(右)とドン。

指導に厳しいイーデスだったが、学校に物乞いが来ると食べ物とわずかばかりの現金を分け与えた。また、年の瀬には子どもたちのためにクリスマスパーティーを必ず開いた。イーデスには社会的弱者への献身と言う、牧師であった父の生き様が脊髄にまで沁み込んでいた。また、飲食に対して極めてストイックで自己否定的。さらに禁欲的で神との対話を重視した。一方、イーデスは学校敷地内に迷い込んできた2匹の犬を保護して可愛がった。ジャックとドンと名付けた。野良犬だったため警戒心が強く、人に向かってよく吠えたが不思議とイーデスにだけ懐いた。

わずか4人の生徒から始まった養成校だったが6年後には300人を超える看護師を育て上げた。養成校は予想以上のスピードで軌道に乗った。何もかもが順調に見え、イーデスも神から与えられた使命を果たせているのかもしれないと密かに胸をなで下ろした。しかしこの頃、ヨーロッパには第一次世界大戦の暗い影がひたひたと迫っていた。

不吉な電報

1914年8月1日、ノーフォークに里帰りしていたイーデスの元に1通の電報が届いた。「ドイツ軍のベルギー侵攻が迫っている」という内容だった。未亡人となっていた老母は「危険だから行かないで欲しい」とすがり、イーデスを困らせた。

イーデスが育ったスウォーデストン村の実家。

翌朝、身支度を終えたイーデスは病床の母に「戦争は身体だけでなく人の心にも傷を負わせます。学校で戦傷者の看護経験があるのはボーア戦争を体験した私しかおりません。私が育てた大切な生徒たちが不安な思いで私の帰りを待っているのです。彼らを見捨てることはできません。必ず、生きて帰ります。約束致します。その日までお母さまもどうかお元気で」。そう言い残して実家を飛び出したイーデスはブリュッセル行きのフェリーに飛び乗った。イーデスは翌年、母親との約束を破ることになる。

イーデスが実家を出たその日、ドイツ軍はパリに軍を進めるため、中立国だったベルギーに「我が軍を無抵抗で通過させよ。明朝7時までに返答がなければ敵と見做し、力ずくで通過する」と通達していた。8月3日朝、ベルギー政府はドイツ軍の恫喝を無視し、戦闘の準備を急いだ。今まさにドイツ軍のベルギー侵攻が始まろうとしていた。そんな緊迫した状況の中、イーデスは看護学校に戻った。イーデスの戦争が今まさに始まろうとしていた。イーデス・カヴェル、銃殺まであと14ヵ月。

(中編に続く)

※本稿では時代背景を鑑み、看護師をあえて看護婦と表現しています。

参考資料: Diana Souhami著「Edith Cavell」、Nick Miller著「Edith Cavell: A Forgotten Heroine」他。

週刊ジャーニー No.1296(2023年6月22日)掲載

銃殺された戦場のナース イーデス・カヴェル 中編

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銃殺された戦場のナース イーデス・カヴェル 中編
ブリュッセルの看護婦養成校で生徒たちと写真に収まるイーデス・カヴェル(中央:濃い色の制服を着た女性ふたりのうち、向かって右側)。

●サバイバー●取材・執筆/手島 功

■ドイツ軍はフランス侵攻にあたり、既に要塞化されていたフランスとの国境線を避け、中立国ベルギーを通過する方針を固めた。1914年8月3日午後、ドイツ軍はベルギーに「我が軍を無抵抗で通過させよ。明朝午前7時までに回答なき場合は敵と見做す」と通達。ベルギー側はこれを無視。ドイツ軍はベルギー侵攻を決めた。看護婦長イーデス・カヴェルの戦争が始まる。

前編はこちら

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占領下のブリュッセル

1914年8月4日午前9時、ドイツ軍はベルギー軍への侵攻を開始した。ベルギー中立の保障という立場にあったイギリスは即日、ドイツに宣戦布告した。故郷ノーフォークから前日に戻ったばかりのイーデスはドイツ人看護婦見習い生たちを伴ってブリュッセル北駅へと急いだ。そこから中立国オランダのアムステルダム行き最終列車が出る。別れ際、イーデスは困惑し涙を流すドイツ人生徒たちを抱きしめ「どこにいようと、看護婦として与えられた職務を全うしなさい」と檄を飛ばし笑顔で見送った。

看護婦養成校の庭で犬と写るイーデス・カヴェル。

イーデスの横に幼いドイツ人の娘が立っていた。マリエという名のメイドだった。ドイツに誰一人、身寄りのないマリエはそばを離れたくないとイーデスに泣いてすがった。イーデスはマリエを手元に置くことにした。イングランド出身の見習いたちの何人かもブリュッセルに残ると言い出した。イーデスは帰国を説得しながらも心の底では彼女たちに感謝していた。

ブリュッセルに残った看護婦たちは負傷者を受け入れるベッドを整える作業に没頭した。養成校の屋根に赤十字の旗が翻った。養成校や近隣の病院はことごとく赤十字社の管理下に入った。何とか受け入れ態勢を整えたものの、大量の負傷兵が運ばれて来た場合、どうやって彼らを食べさせていけばいいのか。学校には大人数の食事を賄えるキッチンがない。そもそも戦争となれば、食材自体どうやって調達すればいいのか。イーデスは途方に暮れた。

ドイツ軍とベルギー軍はリエージュ(Liège)という国境付近の街で対峙していた。守るベルギー軍の兵力は3万7000。一方のドイツ軍は10万7000。ベルギー軍は英仏からの援軍を待ちながら善戦した。しかしドイツ軍の火力は圧倒的で、開戦から2週間経った8月17日、リエージュの防衛線は崩壊。ベルギー軍は後退を余儀なくされた。ベルギーはたちまちドイツ軍に占領された。

ブリュッセルに到着したドイツ軍。

3日後、ドイツ軍はブリュッセルに到達した。学校前をドイツ軍兵士たちが軍靴を鳴らして行進した。その様子を窓から見ていたイーデスは怯える見習い看護婦たちを教室に集めて言った。「ジュネーブ条約、ならびに赤十字社の理念の元、敵であれ、味方であれ、分け隔てなく看護いたしましょう」。

「えっ、敵兵もですか!?」若い看護婦たちは動揺を隠せなかった。イーデスは表情を変えることなく言葉を繋いだ。「誰もが誰かの父であり、夫であり、息子なのです。看護婦はいさかいの表舞台に出るべきではありません。言葉を慎み、患者に不必要に介入しないよう努め、プロとして職務に専念致しましょう」と告げた。

養成校や近隣の病院は次々に運ばれて来る傷病兵たちでたちまち大混乱となった。イーデスたちの日常は一転した。ドイツ軍は抵抗を続けるベルギー兵やパルチザンを捕らえて殺害した。生け捕りにした負傷者はドイツ本国の病院に、無傷の者は強制収容所に送った。

ドイツ軍の攻撃で破壊され尽くしたベルギー、フランドルの町。

危険なミッション

レジスタンス活動に身を投じたベルギー貴族、クロイ王女マリー。

1914年12月のある日、イーデスに1通の極秘文書が届いた。クロイ王女マリーというベルギー人貴族からだった。フランスとの国境に近いクロイ王女の居城周辺もドイツ軍によって占領されていた。ドイツ軍は国境や港湾を封鎖してベルギーを孤立状態にしていた。フランス国境近くにいた英ミドルセックス連隊やフランス軍の兵士らは逃げ遅れ、散り散りになって森の中や農家の納屋などに潜んでいた。ドイツ軍は彼らを見つけ次第射殺した。

クロイ王女は何とか彼らを国外に脱出させる方法はないかと思案していた。いくつかのルートが検討されたが最終的にイーデスの養成校経由で中立国オランダに脱出させるのが最も成功の可能性が高いと結論付けた。クロイ王女は手紙で英仏兵士らが置かれた状況とレジスタンスとの連携による脱出の方法をこと細かに説明し、イーデスの協力を仰いだ。

極めて危険なミッションだった。逃亡の手伝いをしていたことが発覚すれば処罰は相当厳しいものとなる。イーデスは迷った。しかし「弱者を救済したい」という強い意志が彼女の背中を押した。戦傷者の看護をしながら、戦場に閉じ込められた友軍兵士たちを国外に脱出させるという危険なミッションが秘密裏に動き始めた。

12月29日、1回目の作戦が実行に移された。一般人に紛れ込んだ一人の兵士が夜陰に紛れて養成校の扉を叩いた。合言葉は「ミスター・ヨーク(Mr Yorc)」。イーデスらは地下の小部屋に男を匿った。そして彼をオランダまで送り届けるレジスタンスからの連絡を待った。決行の夜が来るとイーデスは兵士にわずかばかりの現金を与え、無事を祈って夜陰に送り出した。この作業を数日に一度の割合で繰り返した。

英兵にはノーフォークの母の住所を教えた。無事、英国まで逃げ帰った兵士はイーデスの母親に礼を述べる手紙を書いた。母親は無邪気に「〇〇さんが着きましたよ」とイーデスに手紙を書いた。イーデスは蒼ざめた。母の手紙にはそれ以外、不審なことは書かれていなかったが、手紙はドイツ軍によって検閲されているに違いなかった。それ以降、イーデスは匿った兵士に自宅住所を教えるのを止めた。

カジュアル・スパイと秘密警察

1915年も6月頃になると、訪ねて来る兵士の数も目に見えて増えた。しかしこの頃、イーデスは自分たちの行動が監視されていることに気づいていた。ブリュッセルではカジュアル・スパイと呼ばれる密告屋が市民の中に放たれていた。彼らは戦争が始まる前は商人や庭師、肉屋や囚人だった国籍もまちまちな人たちで男女問わず6000人が密偵として活動していた。トラムに乗っては周囲の会話に耳をそばだて、集会に加わっては議論に加わるなどした。不審な動きがあるとすぐにドイツ軍に報告した。

1年だけで60万人のベルギー人が検挙され、罰金を科されたり牢にぶち込まれたり、銃殺されるなどした。イーデスは外出すると決まって尾行して来る影があることに気づいていた。これまでオランダに脱出させた兵士の数はおよそ200。「これ以上は危険だ」という意見が出始めた。しかしイーデスは「捕まったらどのみち罰せられるでしょう。だったら出来るだけ多くの人を救って罰せられましょう」と言って意に介さなかった。周囲は沈黙せざるを得なかった。しかしこの時、彼らの行動はドイツ軍にほぼ筒抜けになっていた。

 

7月31日、別動隊の拠点に憲兵たちが雪崩れ込み、レジスタンスが一斉に逮捕された。追手がイーデスの前に姿を現すのはもはや時間の問題だった。8月5日午後、養成校に秘密警察がやって来た。イーデスはスパイ容疑で逮捕された。その後、クロイ王女をはじめ脱出の手助けをした総勢十数名が一斉に逮捕された。

過酷過ぎる判決

イーデスが収容されたセント・ジャイルズ刑務所の独房。

イーデスはセント・ジャイルズ刑務所の独房に収監された。独房は縦4メートル×横2・5メートル、高さは2・75メートル。身長160センチのイーデスには十分過ぎる広さだった。

逮捕から3日後の8月8日、イーデスはブリュッセル市内の警察署に連行され1回目の取り調べを受けた。小さな個室には3人の男が待っていた。秘密警察がドイツ語で質問した内容をピンクホフという軍曹がフランス語に訳してイーデスに伝えた。イーデスがフランス語で回答するとピンクホフがドイツ語に訳して上官に伝えた。10日後、2度目の取り調べが行われたが1回目と全く同じ顔触れだった。イーデスには彼女を擁護する第三者をつけることも許されなかった。さらにたった一人の通訳の力量と人間性次第で話した内容の印象がガラリと変わるという、真に公平性に欠けた取り調べだった。ピンクホフはイーデスに良い印象を抱いていなかった。

イーデスが独房から同僚に宛てて書いた手紙。

独房の中でイーデスは養成校の総務や経理の仕事を続けた。それが終わると聖書を読み、祈り、母親や友人宛に手紙を書くなど、穏やかな日々を過ごした。逮捕から3週間ほど経った頃、イーデス逮捕のニュースは英国にも伝わった。軍は外務省に掛け合い、ドイツ軍に早期釈放を要求した。また、駐英米国大使にも協力を仰ぎ、圧力をかけるよう要請した。

10月7日、イーデスらの裁判が始まった。法廷に臨むにあたりイーデスは白いブラウスに濃紺のジャケットとスカートをかちっとまとい、その上にグレーのストールを羽織った。

クロイ王女や同僚たちはイーデスに「裁判官や傍聴人の同情を得られるかもしれない」と看護婦のユニフォームを着て出廷するよう懇願した。イーデスは首を横に振って言った。「私は看護婦という職業を代表して法廷に立つのではありません。あくまでも私個人として臨むのです」。

イーデスは自分がユニフォームを着ることで看護婦と言う職業自体に偏見を持たれることを危惧した。イーデスの後、何人もの同僚や教え子たちの公判が控えている。彼らが不利になることだけは避けたかった。

裁判は3日間に及んだ。最終日となった10月9日、判決が言い渡された。

法廷はスパイ行為ならびにドイツに対する反逆行為を主導したとしてイーデスら5人に銃殺刑を言い渡した。法廷内に悲鳴が轟いた。他の十数名も最高15年の強制労働など大方の予想を遥かに超えた厳しい判決だった。クロイ王女は首謀者の一人だったがドイツ貴族との血縁から10年の強制労働と忖度された。

死刑判決の知らせを受けた英軍部は国際社会に呼びかけ、赦免の圧力をかけ始めた。イーデス・カヴェル銃殺の時が迫っていた。

(後編に続く)

※本稿では時代背景を鑑み、看護師をあえて看護婦と表現しています。

参考資料: Diana Souhami著「Edith Cavell」、Nick Miller著「Edith Cavell: A Forgotten Heroine」他。

週刊ジャーニー No.1297(2023年6月29日)掲載


銃殺された戦場のナース イーデス・カヴェル 後編

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銃殺された戦場のナース イーデス・カヴェル 後編

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/手島 功

■第一次世界大戦下のブリュッセル。病院で負傷兵の看護にあたっていたイーデス・カヴェル(Edith Cavell)らだったが、同時にレジスタンスから接触を受け、ベルギー内に取り残された英仏軍兵士を中立国オランダに脱出させる危険なミッションを手伝っていた。しかしついにドイツ秘密警察に逮捕され、軍法会議にかけられた末、イーデスに死刑判決が下った。

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2人の牧師

ユニフォームをまとったイーデス。

死刑判決を受けた翌日、イーデスは遺書をしたためた。1通は母親にこれまでの感謝と別れを告げるもの。もう1通は見習い看護婦たちに宛てたものだった。それは「親愛なる皆さん。悲しいことですがお別れを言わなければなりません」から始まった。そして厳しい指導に堪えて立派な看護婦に成長した生徒たちを称える言葉の数々を紡いだ。最後に「もし私のことを恨んでいる人がいたとしたら、どうか私を許して下さい。私は時に厳し過ぎたかもしれません。ですが誰も不公平に扱ったことはありません。私はあなたたち全員を心より愛していました。今まで本当にありがとう。あなたたちのことが大好きな看護婦長 イーデス・カヴェル 1915年10月10日」と締めくくられていた。

翌10月11日。ドイツ人牧師ポール・ル・シュールは憂鬱な足取りで刑務所内廊下を歩いていた。今からイーデスに死刑執行の日時を伝えなくてはならない。フランス語ができる自分を呪った。

独房の前に着くと看守が開錠するのを待った。ドアが開いた。イーデスは背筋をピンと伸ばして立っていた。牧師は軽く会釈し「入ってもよろしいでしょうか」と尋ねた。イーデスは静かに頷いた。牧師が自己紹介を終えると、イーデスは穏やかな口調で尋ねた。

「私にはあとどれくらい時間が残されているのでしょうか」。

真っすぐに牧師を見詰めるイーデス。牧師は少したじろぎながら答えた。

「残念ながら、明日の朝までです」。

イーデスの頬はたちまちピンク色に染まった。瞳は走馬灯を見ているかのように細かく動揺した。牧師が祈りを捧げても良いかと尋ねるとイーデスは申し訳なさそうな表情で首を横に振った。そこで牧師はブリュッセルにアイルランド人の英国国教会牧師がいることを告げ、彼の聖餐(せいさん)を受けたいかと尋ねた。途端にイーデスの瞳に生気がみなぎり、感謝と共にその申し出を受け入れた。

牧師はイーデスに別れを告げるとアイルランド人牧師宅へと急いだ。アイルランド人牧師はスターリング・ガハンと言った。ガハンは留守にしていた。ドイツ人牧師は「英国人女性に死が迫っている」と書いたメモをドアに挟んでその場を去った。その頃、アメリカやスペインのブリュッセル駐在公使らは「彼女は看護婦としてドイツ兵の看護もしていた立派な人物。死刑は過酷過ぎる」とドイツ政府に宛てて刑の見直しをするよう除名嘆願の手紙を書き続けていた。

イーデスらが収監されたセント・ジャイルズ刑務所。

最後の晩餐

処刑前夜、イーデスのもとを訪れたガハン牧師(Reverend H. Stirling Gahan)。

ガハン牧師が帰宅したのは午後6時半頃だった。メモを見て驚き、聖杯や聖瓶など聖餐の支度をしてから刑務所に向かった。到着したのは午後9時半を過ぎていた。刑務所のゲートで来訪を告げると看守の一人が「素晴らしい女性です」と言いながらイーデスの真似をして背筋をピンと伸ばした。

独房に案内されるとイーデスが穏やかな表情でガハン牧師を迎え入れた。イーデスは木製の椅子を牧師に薦めた。どちらからともなく静かな会話が始まった。牧師は今も多くの人が助命のために動いているので希望を捨てないようにと告げた。しかしイーデスは裁判の結果を批判することなく喜んで祖国のために命を捧げるつもりだと答えた。そして「ここの方々はどなたも親切な方ばかりでした」と収監されてから過ごした独房での穏やかな10週間に感謝した。

続けて「死は怖くないのです。これまでさんざん人の死を見てきましたから。死は珍しいことでも恐れることでもありません。ただ、何とも忙しく、難しい人生でした」と言って微笑んだ。次の瞬間、イーデスは一転して表情を引き締め、自らに言い聞かせるようにして言った。「神と来世を前にして一言だけ言わせて下さい。私は分かったのです。愛国心だけでは不十分です。私は誰も憎んだり恨んだりしてはならないのです」。ガハン牧師は圧倒された。それは隣人同士が殺し合う、愚かな戦争に対する痛烈な批判だった。ドイツ人を含む多様な国々から来た献身的な女性たち数百人を一人前の看護婦に育て上げて来たイーデスだからこそ、辿り着いた心境だった。

長い沈黙を破ったのはガハン牧師だった。「私たちはあなたのことを理想の女性、そして偉大な殉教者として記憶し続けるでしょう」。イーデスは首を横に振りながら答えた。「そのようなお考えはお止めください。私は職務を全うしようと努めた一人の看護婦にすぎません。それで十分です」。

2人はベッドに腰かけ、椅子の上に置いた聖杯を傾け、ウエハースを口に入れた。最後の晩餐だった。その後2人は祈りを捧げた。最後に牧師が「主よ、私のそばに」と繰り返した。イーデスは牧師の手に自分の手を重ね「主よ、私のそばに」と続けた。

1時間ほどが経った。ガハン牧師は静かに立ち上がり「そろそろ行きます。あなたもお休みになった方がいい」と告げた。イーデスは「そうですね。明日は5時起きですので」と乾いた冗談を返した。去り際、2人は固い握手を交わした。イーデスは微笑みを浮かべて言った。「また、お会いしましょう」。ガハン牧師は一瞬言葉を失い「ええ、きっと」と答えるのがやっとだった。イーデスは閉まるドアの向こう側にゆっくりと消えた。

ガハン牧師を見送ったイーデスは妹のように可愛がっていた同僚のエリザベス・ウィルキンスに最後の遺書をしたためた。借入金の返済や小切手の処理、帳簿への記入など経理上の引継ぎの他、養成校の玄関ホール用に柱時計を買うよう依頼するなど、死の直前まで遣り残しがないよう細心の注意を払った。それが終わるとこれまでの献身に対して最大級の賛辞と礼を述べ、養成校の未来をエリザベスに託した。

そして「皆さんのことが大好きでした。怖くなどありません。幸せなのです。さようなら。E・カヴェル 1915年10月11日 」と締めくくった。生真面目なイーデスの生きざまを象徴するかのようなラストメッセージだった。

イーデス(中央)と写るエリザベス・ウィルキンス(Elizabeth Wilkins/後方左端)。

凛として

10月12日、イーデスは朝5時に起床して洗顔を済ませるとベッドを綺麗に片づけた。持ち物を整理すると櫛で髪を綺麗にといた。そして裁判の時と同じ白いブラウスに濃紺のジャケットをかちっと着こなし、グレーのショールを羽織って静かにその時を待った。

午前6時、独房のドアがノックされた。イーデスは外で待っていた車に乗り込んだ。車は夜明け前のブリュッセルの街をひた走り、郊外にある射撃場に到着した。そこにはイーデスを追い詰めた検察や刑務所所長らの他、兵士や憲兵などおよそ250名が待機していた。銃弾を受け止めるために土が盛られたスロープの前に白い柱が立てられ、その横には黄色い棺桶が置かれていた。

午前7時、イーデスはル・シュール牧師と共に白い柱に向かって歩みを進めた。前日降った雨のせいで地面が少しぬかるんでいた。歩きながら牧師は神の恵みを説いた。イーデスが口を開いた。「私の心は晴れやかです。神と祖国のためにこの命を捧げます」。

柱の前まで来るとイーデスはゆっくりと振り返った。そして周囲がはっとするほど凛とした姿で立った。後ろから目隠しをしようとした兵士はイーデスの頬を伝う大粒の涙に気がついた。16人の銃殺隊が2列になって銃を構えていた。

士官の号令と共に銃が一斉に火を噴いた。イーデスはその場に崩れ落ちた。心臓と眉間を撃ち抜かれていた。医師が駆け寄りその場で死亡が宣告された。イーデスの遺体は棺桶に入れられ、墓標もないまま埋葬された。魂のナース、イーデス・カヴェル。49年の忙しく、難しい人生の幕が下りた。

利用された死

イーデス処刑を知らせるニュースが英国を駆け巡ったのは処刑から6日経った10月18日のことだった。タイムズ、デイリー・メール、エクスプレスなど各紙が一斉に英国人女性の非業の死を伝え、ドイツ軍の残虐性を書き立てた。同21日、トラファルガー広場近くのセント・マーティンズ教会で盛大な追悼ミサが催され、多くの市民が弔問に訪れた。

ドイツ軍の残虐性を強調し、国威発揚を図るイーデス処刑のイラスト。

イーデスは隣人同士の愚かな戦争を嘆き、誰も恨むべきではないと言葉を残して逝った。しかしイーデスの死はたちまち軍部によって国威発揚のプロパガンダに利用された。「英国の若き兵士たちを救ったヒロインの死を無駄にすることなかれ。男子よ、銃を取って戦え」と煽り、若者たちの自発的入隊を促した。

アメリカでも参戦の機運が高まった。イーデス・カヴェル戦争記念委員会が結成された。ケンジントンガーデンのピーターパン像作者として知られる彫刻家ジョージ・フランプトンはカッラーラ大理石とグレーのコーンウォール御影石を使ったイーデスの像を無償で彫り始めた。イーデスは遺志に反して英国のヒロインに祭り上げられていった。

静かな帰郷

ノリッチ大聖堂脇に佇むイーデスの墓標

1918年11月、第一次世界大戦終結。翌1919年5月13日、鉛製の棺桶に移し替えられたイーデスの亡骸が英海軍戦艦ロウェナに載せられてドーバーに向かった。ドーバーでは教会の鐘が3時間に渡って鳴り響いた。

同14日早朝、ドーバーから列車でロンドンのヴィクトリア駅へ。そこからウエストミンスター寺院へは砲車に載せられた。イーデスの葬儀は民間人には極めて異例な国葬で行われた。その後、ノリッチ大聖堂に移され、そこでも荘厳な追悼式が執り行われた。イーデスは生まれ故郷であるノリッチ近郊のスウォーデストン村で眠る父の墓の横に埋葬されることを望んでいたが、世論がそれを許さず、大聖堂の南側に埋葬された。


セント・マーティンズ・プレイスに建てられたイーデス・カヴェルの像。

1920年3月、トラファルガー広場に近いセント・マーティンズ・プレイスにジョージ・フランプトン作のイーデス・カヴェル記念碑が建てられた。


世界的なシャンソン歌手となったエディット・ピアフ(Édith Piaf/1915-1963)。

イーデスが処刑された日から約2ヵ月後、パリで1人の女児が誕生した。献身の英国人看護婦の姿に感銘を受けた両親は女児をイーデスと名付けた。イーデスはフランス語でエディットと発音した。女児はのちに「バラ色の人生」や「愛の賛歌」など数々の名曲を歌った世界的シャンソン歌手、エディット・ピアフとなった。  (了)

※本稿では時代背景を鑑み、看護師をあえて看護婦と表現しています。

参考資料: Diana Souhami著「Edith Cavell」、Nick Miller著「Edith Cavell: A Forgotten Heroine」他。

本紙編集部が制作したユーチューブ動画

「英国ぶら歩き」シリーズNo81「銃殺された信念のナース イーデス・カヴェル」も併せてご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=LixQac9-wYQ

週刊ジャーニー No.1298(2023年7月6日)掲載

天然痘を制圧せよ ワクチン誕生物語 エドワード・ジェンナー 前編

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天然痘を制圧せよ ワクチン誕生物語 エドワード・ジェンナー 前編

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/手島 功

電子顕微鏡が捉えた天然痘ウイルスの姿。

■ かつて地球上には天然痘というウイルス性の感染症が存在し、紀元前から多くの人が命を奪われてきた。しかしその天然痘は人類史上初となるワクチンの開発により根絶された。人類が初めて開発に成功したワクチン。開発の礎を築いたのは今から200年ほど前、イングランドの片田舎で開業医をしていた一人の医師だった。

奈良の大仏と天然痘

天然痘に感染した人々。運よく生還しても顔や全身に多くの痘痕(あばた)が残った。

天然痘。英語ではスモールポックス(smallpox)と言う。ポックスとは疱瘡のことだ。突然の熱発と共に頭痛や四肢痛、小児では嘔吐や意識障害といった症状が現れ、2~3日後には体温が40度を突破する。その後一時的に熱が下がるが安心したのも束の間、やがて顔面や頭部を中心に全身に発疹が浮かび上がる。発疹は水疱、そして9日目あたりには膿を含んだ膿疱へと変化する。

重症化すると喉が焼かれたような激痛が走り、物を飲み込むのも困難になり呼吸障害を発して死に至る。幸運にも治癒に向かった場合は2~3週間程度で膿疱がかさぶたとなって脱落する。しかし皮膚に色素が沈着し、生涯醜い痘痕(あばた)となって残る。強毒性の場合、致死率は20~50%と言われ、誠に恐ろしい感染症だった。

天然痘は紀元前から死に至る恐ろしい疫病として人々に恐れられていた。古代エジプト王朝のラムセス5世も、そのミイラを研究したところ天然痘を患っていたことが分かった。

日本にも仏教の伝来と共に大陸から九州に持ち込まれたと言われ、それがやがて平城京にまで達して大流行し、政府要人の多くも天然痘の犠牲となった。聖武(しょうむ)天皇は、人の容姿を激変させて死に至らせる謎の疫病と天候不順による飢饉などが生む社会不安や政治的混乱から脱却するため、仏教の力に救いを求め、東大寺に巨大な仏像を造らせた。奈良の大仏だ。

▲聖󠄁武天皇(701~756年)。 在位は724~749年で、娘・阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位し、みずからは太上天皇となった。737年(天平9年)に天然痘の大流行が起こり、東大寺大仏の造立を決意。同大仏の開眼法要は752年5月30日に行われた。
東大寺盧舎那仏像 © Mafue
天然痘の被害を伝えるアステカの絵=1585年。

15世紀末から始まった大航海時代、中南米に進出したスペイン人がアステカやインカといった帝国をほぼ壊滅させた。この時、スペイン人が現地に持ち込んだ疫病が大きな役割を果たした。数千年に渡って天然痘と共存してきたスペイン人と違い、ユーラシア大陸やアフリカ大陸とほぼ接触がなかった中南米のインディオや北米のインディアンは天然痘に対する耐性や免疫を全く持っていなかった。そのためスペイン人が持ち込んだ天然痘ウイルスにバタバタとやられ、帝国は崩壊した。

天然痘の予防接種を呼びかけるポスター。

さらに18世紀、英国が北米の植民地経営を巡ってフランスと戦った際(フレンチ・インディアン戦争)、英軍はフランスと連携したインディアンのチェロキー族に親切を装って接近。天然痘ウイルスをすり込んだ毛布などを大量に与えた。死のギフトだった。たちまちウイルスに感染したチェロキー族は大混乱に陥り、戦力は著しく低下したと言われる。この戦争にフランスは敗れ、ルイジアナを英国に譲渡。これによって西部開拓への障害物は消えた。 さらにフランスと同盟していたスペインからもフロリダを取り上げ、アメリカに英語圏が拡大していく。英国側は認めていないが、この天然痘すり込み毛布の件が史実だとすると、人類が初めて戦争で意図的に使用した「生物兵器」ということになる。

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田園に広がる奇妙なうわさ

ケンジントンガーデンズ内の噴水脇に置かれたジェンナー像。人類を天然痘から救った偉大なドクターだが、視線を向ける人は少ない。© Japan Journals Ltd

エドワード・ジェンナーは1749年、イングランド西部、ウェールズにも近いグロスターシャーのバークレーと言う田舎町で9人兄弟姉妹の8番目の子として生まれた。ジェンナーは敬虔な牧師家庭で育ったが、両親はジェンナーが5歳の時に亡くなった。そのためジェンナーは年長の兄弟たちに育てられた。ジェンナーが生まれた頃、ヨーロッパでは天然痘がほぼ定着しており英国も例外ではなく、多い年では5万人近くが天然痘で命を落としていた。

ジェンナーは幼少期に人痘接種を受けていた。天然痘に感染しながら生還したオスマン帝国駐在大使夫人が英国に持ち帰り、上流階級層に広めたものだった。これは天然痘患者の膿疱内の膿から体液を取り出し、健常者に接種させてあえてウイルスに感染させるもので一定の成果を上げていた。しかし2~3%程度の人が重症化し死亡する危険をはらむ不完全なものだった。

ジェンナーは14歳の時から7年に渡り、グロスターシャー南部、チッピング・ソドベリーという村の開業医ダニエル・ルドローのもとで奉公人として働く機会を得、後に自らが開業医となるための知識と経験をここで習得した。この医院で働いている時、ジェンナーは迷信にも近い不思議なうわさ話を耳にした。

「乳しぼりをしている女は天然痘にかからない」

科学的根拠のない言い伝え程度の話だったが、これがジェンナーの脳裏に深く刻まれることとなる。

奉公を終え、21歳になったジェンナーは最先端医学を学ぶため、ロンドンに向かった。幸運なことに「近代外科学の開祖」と称される著名なスコットランド人の外科医にして解剖学者、ジョン・ハンターに弟子入りした。

ハンターは、研究熱心で技術も確かなうえ、詩や音楽の才も備える上品なジェンナーに惚れ込んだ。天然痘に関する議論が白熱すると「考え過ぎることなく、挑戦し続けなさい。辛抱強く、正確に」とジェンナーを鼓舞した。ハンターはジェンナーを王立協会会員にも推薦した。しかしジェンナーは1773年、多くの人に惜しまれながら故郷バークレーに戻り、開業医となった。


とんでもない実験

故郷に戻ったジェンナーは、奉公先で何度も耳にした「乳しぼりの女は天然痘にかからない」という伝承が耳から離れずにいた。さらに牛がかかる「牛痘」に感染した人で、その後天然痘に感染した人がいないという、より具体的な話がジェンナーの耳に届いた。牛痘とは牛がかかるウイルス性の伝染病でヒトにも伝染した。ところが牛痘で牛は重症化するがヒトは比較的軽い症状で済み、快復後は天然痘に感染することもなかった。

牛痘に感染したブロッサムの肖像画

「牛痘に感染することで得られる免疫が天然痘ウイルスへの免疫としても機能しているのではないか。だとすれば牛痘によってできた膿疱から体液を抽出し、健康な人に接種すれば人痘法より遥かに安全に免疫が獲得できるのではないか」。ジェンナーはそう推測した。それを実証するため、牛痘に罹患した患者の出現を待ち続けた。

1796年5月、ついに患者が現れた。サラ・ネルメスという乳しぼりを生業とする女性で、ブロッサムと名付けられた牝牛の乳房から牛痘に感染していた。人類初のワクチン完成に向けてジェンナーのとんでもない実験が始まろうとしていた。

(次号に続く)

ジェンナー博物館内に再現された診察室。
© Japan Journals Ltd
Restaurant
Joke
Henry Q&A
Travel Guide
London Trend
Survivor
Great Britons
Afternoon Tea
© Japan Journals Ltd

Dr Jenner’s House
Church Lane, Berkeley, Gloucestershire GL13 9BN
Tel: 01453 810631
https://jennermuseum.com
※開館期間・時間、入館料は事前予告なく変更される可能性あり。

【開館期間】 2024年は4月1日~9月末日
月-水・日 11:00~15:00
【入館料】 大人 9ポンド
子ども(5~16歳)6ポンド
5歳未満無料
【アクセス】 ロンドン中心部から車で行く場合はM4またはA40経由で約130マイル、2時間半ほど。あるいは、電車でダーズリーDursley駅かブリストルBristol駅まで行き、バス62番(Dursley~Berkeley~Bristol)を利用する方法もある。

世界最初のワクチン開発に成功した、グロスターシャー、バークレーにあるジェンナーの自宅兼診療所。現在はジェンナー博物館として一般公開されている
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「ジキル博士とハイド氏」のモデル
外科医・解剖学者 ジョン・ハンター(John Hunter 1728~1793)

■グラスゴー出身のジョン・ハンターは20歳の頃、ロンドンで外科医、解剖学者として活躍していた10歳上の兄のもとを訪れ、助手となることで医学を学んだ。ハンターは解剖を好んだが、当時は処刑された罪人の死体が出回るだけだったため希望者が殺到してなかなか入手できなかった。そのためハンターは死体盗賊人らに報酬を払って死体を集めて解剖を続けた。時には自らも盗賊人らに混じって死体を掘り出したというなかなかの奇人ぶりだった。

■ハンターはまた異常なまでの収集家として知られ、遺体から取り出した臓器や骨格標本から珍獣、はたまた植物まで、世界中から1万4000点もの標本を集めた。富裕層から高額な報酬を受け取っていたことから収入は多かったが、そのほとんどを趣味に費やした。そのため亡くなった時に残ったのは、これらのコレクションと莫大な借金だけだったと言われる。

■その標本のほとんどは現在、ロンドンの王立外科医師会内ハンテリアン博物館に保管されている。レスタースクエアにあったハンターの巨大な邸宅は表玄関では社交界の友人や患者が出入りする一方、裏口は解剖用の死体の搬入口とされていた。のちにこの話を耳にした作家、ロバート・ルイス・スティーブンソンは、ハンターをモデルに「ジキル博士とハイド氏」を書き上げたと言われている。


Hunterian Museum
Royal College of Surgeons of England
38–43 Lincolns Inn Fields
London WC2A 3PE
https://hunterianmuseum.org
● 火ー土 10:00~17:00
● 入館料は原則として無料(特別イベントは有料)だが、事前予約推奨。

週刊ジャーニー No.1329(2024年2月15日)掲載

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天然痘を制圧せよ ワクチン誕生物語 エドワード・ジェンナー 後編

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天然痘を制圧せよ ワクチン誕生物語 エドワード・ジェンナー 後編
ジェームズ・フィップス(当時8歳)に世界初となる種痘を接種するジェンナー(1910年ごろに画家アーネスト・ボードErnest Board が制作した絵画より)。

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/手島 功

牝牛の乳房に現れた膿疱のスケッチ画。

■1796年5月、エドワード・ジェンナー(Edward Jenner)は牛痘に感染したという若い搾乳婦、サラ・ネルメスと会った。なるほど彼女の両手や腕にはぷっくり膨らんだ複数の水疱が確認できた。典型的な牛痘感染者の症状だった。牛痘(cowpox)とは牛がかかる天然痘(smallpox)のことでヒトにも感染する。牝牛の乳房の辺りに水疱が現れ、それに触れた乳しぼりの女たちの間で感染する者が多かった。牛痘に感染すると牛は重症化するが、ヒトは腕に疱瘡ができ、多少発熱するものの軽症のうちに10日間ほどで完治した。一度牛痘に感染した者は二度と牛痘に感染しなかった。それどころか牛痘に感染した者はその後、天然痘に感染しないという言い伝えがあった。ジェンナーは、牛痘に感染し快復する過程で獲得する免疫が天然痘に対しても免疫力を発揮するのではないかと仮説を立てていた。そしてついに、この仮説を実証する機会を得た。

前編はこちら

仮説は正しかった

2000年、フィンランドの農村で牛痘に感染した4歳女児の腕に現れた疱瘡。

ジェンナーはサラの膿疱内にある液体を採取した。そして5月14日、ジェームズ・フィップスという8歳の健康な男児の両腕に2本の引っかき傷を作り、そこに牛痘種痘を行った。ジェームズはジェンナー家の使用人であった貧しい庭師の息子だった。後に全人類を救うターニングポイントとなる重要な実験だったが、安全が100%担保されていない、仮説に基づく人体実験だった。今なら医療訴訟を起こされても何の不思議もない、ある意味とんでもない実験だ。しかしジェンナーは実行した。それが問題にならないほど社会が人道や人権に対して未成熟だったことが人類に幸いした。

種痘を受けたジェームズは7日目に腕の付け根部分に不快感を訴えた。さらにその2日後、頭痛と悪寒を訴え、食欲が減退した。牛痘感染者の典型的な症状だった。ところがその翌日、状況は一変しジェームズはほぼ快復した。

それから6週間後、ジェンナーは再びジェームズに種痘を行った。ただし今度接種したのは天然痘患者の膿疱から取り出した体液だった。
何日経ってもジェームズは天然痘を発症しなかった。その後、何度天然痘接種を繰り返してもジェームズは天然痘の症状を発しなかった。どうやら牛痘に感染することで獲得する免疫が天然痘に対しても効力を発揮するというジェンナーの仮説は正しいようだった。

これまで中東やヨーロッパで広く行われていた「人痘法」は天然痘に感染した患者の体液を健康な人に接種し、あえて天然痘を発症させて免疫を作るという乱暴な方法だった。効果はあったが2~3%の人が重症化し、死に至る危険なものだった。その上、生涯顔に醜い痘痕(あばた)を残す人が多かった。しかし、ジェンナーが辿り着いた種痘であれば重症化の危険性も痘痕も回避できた。

ジェンナーは、この後も息子ロバートを含む23人の子どもたちをグループに分けて考察を繰り返した。その結果、牛痘種痘を施した子は全員が天然痘に対する免疫を獲得している事実を確認できた。

収まらない拒絶反応

ジェンナー博物館に保管されている『インクワイアリー』。

1797年、ジェンナーはこの実験の結果をまとめ、王立協会に論文を送付し出版するよう依頼した。世界中で大勢の人の命が救われる大きな一歩となるはずだった。ところが王立協会はこの論文を無視し、そのままジェンナーに送り返した。理由は明らかになっていない。失意のジェンナーはさらなる実験の結果を追記した上で翌年『インクワイアリー(Inquiry:審理)』を自費出版した。『インクワイアリー』はたちまち医師や学者の間で話題となり議論が噴出した。

「牛の体液なんか入れたらウシになる」と牛痘を拒否する人たちを描いた、当時の風刺画。

ジェンナーはさらに自説を実証するため単身ロンドンに向かった。そこでボランティアの募集を試みたが初めの3ヵ月間、自ら手を挙げる物好きは誰一人として現れなかった。それでも諦めなかった。ある日、ジェンナーの前に自分の患者に接種してみても良いと協力を申し出る医師が2人現れた。さらにジェンナーは『インクワイアリー』に興味を抱いた医師たちに対して牛痘種痘を指南して回った。しかしこの当時、人々の間では「牛の体液を体内に入れたら牛になる」といって種痘を拒絶する意見が圧倒的だった。これは幕末、種痘を日本でも広めようとした適塾の緒方洪庵も直面した分厚い壁だった。牛痘種痘法を扱う医師らへの執拗ないやがらせが続いた。さらに種痘のやり方を間違えた医師から「効果なし」といった報告が上がるなど、激しい向かい風に吹き飛ばされそうになる日々が続いた。しかしやがて「効果あり」という声が圧倒的となり、その声は英国全土へと拡大していった。

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天然痘根絶へ

頼ってやって来る人々に、ジェンナーは庭の片隅のこの小屋で種痘を無償で打ち続けた。

ジェンナーは苦労の末に辿り着いた種痘の特許を取得することは遂になかった。特許を取ってしまうと種痘が高価なものになり、より多くの人を救うという自身の理念と矛盾した。それどころかジェンナーは問い合わせがあれば世界中、誰が相手でも私費で指南書やサンプルを提供し続けた。

1802年、英議会はそんなジェンナーに対し1万ポンド、さらに5年後には2万ポンドの褒賞金を与えた。褒賞金を出すことで政府公認の印象を作り、種痘をいち早く国民に認めさせる狙いがあった。にもかかわらずその後も種痘を否定する声が止むことはなく、ジェンナーの元には批判や中傷の手紙が届き続けた。しかしそういった雑音を打ち消すかのような勢いで種痘は世界に拡大していった。

ジェンナーは誰もが種痘の有効性を認める前の1823年1月26日、脳卒中のため死去した。享年73。ジェンナーの死から17年後の1840年、英議会は種痘以外を禁止。種痘が完全に人痘法に取って替わった。もはや種痘を非難する者は一人もいなかった。その後ジェンナーは「近代免疫学の父」と呼ばれ、その功績は今も世界中で高く評価されている。1980年、世界保健機構(WHO)は天然痘の根絶を宣言。天然痘は人類史上初、そして唯一根絶に成功した感染症となった。

ジェンナーは診療所のそばにある聖メアリー教会の内陣に埋葬された。
18世紀に描かれたジェンナーの肖像画(ジョン・ラファエル・スミスJohn Raphael Smith画)。

ワクチンは牝牛への敬意

ワクチン接種第一号となったジェームズが亡くなる日まで暮らしたコテージ(右側)。

ジェンナーが到達した感染症に対する予防接種はワクチン(vaccine)と呼ばれるようになった。これはラテン語で牝牛を意味する「vacca」から来ている。ジェンナーが診療や研究にあたっていたバークレーの実家は現在、博物館となって一般に公開されている。その一角にはワクチン開発のために体液を提供した牝牛ブロッサムの角も展示されている。

ジェンナーが最初に種痘を行ったジェームズ・フィップスはその後もジェンナー家に仕え、結婚後はジェンナーからコテージを生涯無償で提供され、住み続けた。没後、ジェンナーが眠るバークレーの聖メアリー教会墓地に埋葬された。(了)

ジェンナーが埋葬された聖メアリー教会。ジェームズもまた同教会内の墓地に眠っている。
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※情報はすべて2024年2月19日現在のもの。

ワクチンの祖となったブロッサムの角。

Church Lane, Berkeley, Gloucestershire GL13 9BN
Tel: 01453 810631
https://jennermuseum.com

【開館期間】 2024年は4月1日~9月末日
月-水・日 11:00~15:00
【入館料】
大人 9ポンド
子ども(5~16歳)6ポンド
5歳未満無料
【アクセス】
ロンドン中心部から車で行く場合はM4またはA40経由で約130マイル、2時間半ほど。ブリストルとグロスターの間のA38からすぐ。M5のジャンクション13と14の間。
電車の場合、最寄りの鉄道駅はCam & Dursley駅。ロンドン・パディントン駅から、およびグロスター駅とブリストル・パークウェイ駅から接続している。Cam Dursley駅からバークレーへの直通バスはなく、徒歩10分ほどで62番の路線バスに乗り継ぐか、またはタクシーを利用。ただし駅にはタクシー乗り場がないので事前予約が望ましい。

世界最初のワクチン開発に成功した、グロスターシャー、バークレーにあるジェンナーの自宅兼診療所。現在はジェンナー博物館として一般公開されている。
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カッコウの托卵(たくらん)を発見したジェンナー

■エドワード・ジェンナーが恩師ジョン・ハンター医師のもとを離れ、故郷のグロスターシャーに帰ったのは彼が外科や解剖学よりも自然科学により興味をいだいたためだった。探検家のジェームズ・クック(キャプテン・クック)=肖像画=が第1回目の航海を終えて帰国すると、彼が持ち帰った博物標本の整理をなみなみならぬ興味を持って手伝った。クックは好奇心旺盛な若きジェンナーを大変気に入り、2回目の航海に同行しないかと熱心に誘ったがジェンナーはこれを固辞した。

自分より大きいカッコウの雛に餌を与えるオオヨシキリ。© Per Harald Olsen

■故郷バークレーに戻って開業医となってからもジェンナーは地質学や人間の血液に関する研究に没頭した。さらにハンター医師からの提案でカッコウなどの生態を研究する中、カッコウがウグイスなど、他の鳥の巣に産卵して他人にわが子を育てさせる、いわゆる「托卵(たくらん)」の生態を発見し1788年、この研究結果をまとめて発表した。この功績が認められ、ジェンナーは王立協会のフェローに推薦された。しかし保守的なイングランドの博物学者たちの多くは「托卵」を「ひどいデタラメ」と一蹴し全く取り合わなかった。

■1921年、カッコウの生態を追っていたカメラマンが托卵の瞬間の撮影に成功。これによってジェンナーの説は完全に証明された。発表から133年、ジェンナーの死から98年が経っていた。また、一部の鳥が食料や繁殖、環境などの事情において長距離を移動する「渡り鳥」の性質を持つことを発見したのもジェンナーだった。

【英国ぶら歩き】
天然痘を制圧せよ エドワード・ジェンナーの闘い

本誌編集部が制作したユーチュ―ブ動画「ワクチン誕生物語」も併せてご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=-Hp692m9DZs

週刊ジャーニー No.1330(2024年2月22日)掲載

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うぬぼれ屋か天才か 19世紀の大建築家 ジョン・ナッシュ 前編

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19世紀の大建築家 ジョン・ナッシュ 前編
空から望むリージェンツ・パークとリージェント・ストリート©The Crown Estate
この傑作を生みだしたジョン・ナッシュの像はリージェント・ストリートの北端、オール・ソウルズ教会に設えられている。

ロンドンにある目抜き通りのなかでも、独特の華麗な曲線美でひときわ目立つリージェント・ストリート。
リージェンツ・パークを北に頂き、南は、バッキンガム宮殿へと西に向かって走るザ・マルにぶつかると同時に、トラファルガー広場を経由してチャリング・クロスへと至る道につながる壮大な構想の中心として造られた通りだ。
このプロジェクトを実現させたのは、浪費癖で知られたジョージ4世と、その寵愛を受けた建築家ジョン・ナッシュというふたりの人物。
今回は、このジョン・ナッシュに焦点をあててみることにしたい。

●Great Britons●取材・執筆/本誌編集部

英国王室の「長寿」のヒミツ

ノルマンディー公ウィリアムが、「征服王」ことウィリアム1世として即位して以来、千年近く続く現英国王室は欧州内で屈指の「長寿ぶり」を誇る。同王室の歴史のうち、約800年は国王と議会(当初は諸侯たちの集まり)の『綱引き』の歴史といっていいだろう。諸侯とはこの場合、国王から土地、すなわち財産を与えられた地主貴族を指す。贅沢をしよう、あるいは他国と戦争をしようともくろむ国王に対抗し、それを抑えることに全力を尽くすのが諸侯たち、というのが一般的な図式だった。

諸侯が一致団結したことが議会政治の始まりと考えられ、英国では1215年、諸侯たちが国王を相手に、「マグナカルタ(大憲章)」に署名させたことが大きなはずみとなった。やがて議会発足へと発展し、1258年には、英国史上で初めて「パーラメント(Parliament=議会)」という言葉が用いられたという。

土地を与える立場にある国王(統治者)を相手に、土地を与えられた諸侯(被治者)が、自分たちの身と財産を守るため、国王に「法に従うよう」要求し、「失地王」ジョン(※)にそれを認めさせた「マグナカルタ」の成立は、王室サイドから見るときわめて屈辱的なことだったが、長い目で眺めてみると幸いなことだったといえるのではなかろうか。このおかげで英国王室は今日まで生き残ることができたといっても過言ではないからだ。

暴走を抑制された歴代英国王は、フランス革命を招いたブルボン王朝のように湯水のごとく国庫を浪費することを許されなかったがゆえに、根絶やしにされるほど憎まれることもなかったというわけだ。

※ジョン王…無能と称されることの多い同王(在位1199―1216年)は、北西部フランスにあったイングランド王室領を全て失ったことから、「失地王」ジョン(John the Lackland)と呼ばれる。
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大プロジェクト好きの反逆児

「太陽王」ルイ14世(在位1643~1715年)。

繰り返しになるが、英国王と議会は対立の関係にあることが多かった。
ヘンリー8世(在位1509~47年)のように絶対王権をほぼ確立し、専制政治を行った国王もいたものの、フランスのルイ14世などとくらべると、派手さでは見劣りする。ヘンリー8世の時代には、英国の財政がそこまで豊かではなく、建築技術もまだまだ発展途上だったためともいえるが、英国ではヴェルサイユ宮殿をしのぐ王宮はついに造られなかった。豪華絢爛たる王宮で贅沢三昧の生活を送ることを夢見た英国王は、おそらく何人もいたことだろうが、議会による反対の壁は常に厚かった。

パリ郊外の狩猟場だったヴェルサイユには、当初、小館があるだけだった。ルイ14世はこの地に壮大な宮殿を建造。大工事は1661年から始まり、完成に20年を要した。絵画は1668年当時の様子を描いたもの(ピエール・パテル作)。

ただ、いつの世にも「反逆児」はいる。英国でも、議会によるブレーキに対抗しつつ、壮大な都市計画と大型建築物の建造を次々に進めた国王がいた。
ジョージ4世である。

ジョージ4世。この肖像画ではうまく隠してあるが、美食家としても知られた同王は、超肥満体だったという。(Reproduced by courtesy of the National Portrait Gallery)

チャールズ1世の処刑により、いったん共和制になったものの、約10年後の1660年には王政復古が成った英国で、後期スチュワート朝の最後の統治者となったアン女王は、11歳で亡くなったひとり息子以外、子宝に恵まれなかった。同女王の逝去をうけ、ドイツ生まれのハノーヴァー選帝侯がジョージ1世として即位。ハノーヴァー朝時代が幕をあける。1714年のことだ。

ジョージ1世は、スチュワート朝の初代国王ジェームズ1世のひ孫にあたる。そのまたひ孫がジョージ3世で、ジョージ4世はその長男。ドイツ系らしく生真面目な性格だった父、ジョージ3世とは対照的に、4世は手に負えないほどの放蕩息子だった。

在位60年という立派な記録を持つジョージ3世だが、英国がアメリカとの独立戦争に敗北し合衆国の誕生を許した後、1788年ごろから精神障害をわずらうようになり、最後の10年余りは、国務を執り行うことが全くできなかった。

父王や側近からことあるごとにガミガミと小言をいわれ、父王が正気を失ったあとも、摂政皇太子(Prince Regent)として国王の仕事を代行しつつも約10年間、国王になれず、鬱屈した日々を長く送ったこの人物が、晴れて国王になれたのは58歳になってからのことだった。

1762年8月12日に生まれ、1830年6月26日に67歳で亡くなったジョージ4世の正式な在位期間はわずか10年。摂政皇太子時代を入れても20年ほどだが、この間にリージェント・ストリートとリージェンツ・パーク、カールトン・ハウス・テラス、シアター・ロイヤル・ヘイマーケット、オール・ソウルズ教会、カンバーランド・テラスにロイヤル・ミューズが完成。トラファルガー広場のもとが築かれ、バッキンガム・ハウス(現バッキンガム宮殿)の国家を挙げての大増改築も始まった。

ジョージ4世はそれまでためこんできた、不満や焦りをはじめとする負のパワーを爆発させるかのように、大プロジェクトにのめりこむ。そして、それらにことごとく関わったのが、今特集の主役、ジョン・ナッシュだった。

ウォータールー・プレイスからの眺め。ジョージ4世の邸宅、カールトン・ハウスがここに面して建っていた。ここからロウアー・リージェント・ストリートが、正面の「カウンティ・ファイヤー・オフィス(County Fire Office)」に向かって伸びる。

「ニュー・ストリート」建設計画

ジョン・ナッシュは1752年、ロンドンの下町、ランベスの水車大工の息子として生まれた。ナッシュは父親と同じ職に就くことを嫌い、建築家、ロバート・テイラー卿のもとに弟子入りする。しかし、徒弟生活のような「耐える」暮らしには向いていなかったらしく、まもなく師のもとを離れ、独自の商売を開始。レンガ造りの外壁に化粧しっくいを施すことにより、石造りのように見せ、手ごろな価格でまがい物の立派さを演出するというアイディアのビジネスだったが、成功には至らなかった。この最初のビジネスに、ナッシュの見栄っ張りの性格が既に表れていたといえそうだ。

ほどなくしてナッシュは隠居暮らしをするのに十分な金額の遺産を贈られ、ウェールズに引退する。ところが幸か不幸か投資に失敗。建築家として再び働き始めざるを得なくなってしまう。ナッシュが、もし遺産を賢く運用し、そのままウェールズに引っ込んでいたら、今のリージェント・ストリートはなかったかもしれない。

1792年、40歳で建築業界に復帰。まもなくロンドンへと戻ってきたナッシュを、ジョージ4世(当時はまだ摂政皇太子にもなっていなかった)がなぜそこまで重用するようになったのか、実はあまり知られていないとされている。一説によると、ナッシュとは大きく年の離れた若妻が、ジョージの愛人だったといい、なかなか説得力があるが、真偽のほどは不明。ただ、理由はどうあれ、ナッシュが与えられたチャンスを見事にいかしたことは確かだろう。

ジョージは摂政皇太子になった1811年、ナッシュを含む3人の建築家に、「メリルボン・パーク」周辺の再開発計画案を提出するよう依頼した。この「メリルボン・パーク」は、やがてリージェンツ・パークに名前を変えることになるのだが、厚い粘土質に覆われて常にじめじめしており、当時は牧草などが生える農地としてしか使われていなかった。

王室所有のこの広い農地と、自分の公邸であるカールトン・ハウスをつなぐ道路の建設をジョージは決断。その半世紀ほど前から、粗野で田舎くさいイメージの強いロンドンを、ウィーン、ローマ、パリのように洗練された都市にするためにも、ロンドンの再開発が必要だという声が高まっていたこともあり、議会でも、ジョージの野心について反対を唱える者は賛成者の数を下回った。

もっとも独創的、かつ収益性が高いとしてジョン・ナッシュの案が採用され、1813年に「ニュー・ストリート」法が採択された。この「ニュー・ストリート」こそ、後のリージェント・ストリートである。通り沿いの建物からの家賃収入に大幅アップが見込めることから、王室にとっては一石二鳥ともいえる案が実現に向けて動きだした。

5年の歳月をかけて1832年に完成した、カールトン・ハウス・テラス(Carlton House Terrace)。名首相のひとりといわれる、グラッドストーン(William E Gladstone)は1856年にはこの4番地に、1857年から75年にかけては11番地に住んだ。
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浪費王とはったり建築家の夢

うぬぼれ屋、派手好みなど、ジョン・ナッシュについての人々の評価は必ずしも好意的なものではなかったというが、ジョージ4世の完全なるバックアップのもと、ナッシュは自分の図面をもとに実際の形にする作業にとりかかった。カールトン・ハウス(現ウォータールー・プレイス)からロウアー・リージェント・ストリートをあがりピカデリー・サーカスへ。このすぐ北で湾曲するリージェント・ストリートからオックスフォード・サーカスを経て、やや広めのポートランド・プレイスを通り、パーク・クレセント、さらにはリージェンツ・パークに至るという大通りの建設作業が始まった。

しかしナッシュの案は、建設にともなって次々と修正されていった。また、大通り沿いにナッシュがデザインしたタウンハウスの人気も芳しくなかった。ナッシュお得意の化粧しっくいを施して石造りのように見せた建物は安っぽく見え、増改築をむりやり繰り返した建物はバランスがくずれ美しいとはいえなかったのだ。加えて、細かい部屋に分かれた古臭い造りの建物はファッショナブルな商品を展開しようとする小売業者たちの間では不評で、その後、多くの建物が建て替えられることになる。

さらに、大通り沿いの建物をすべてナッシュがデザインした訳ではなく、当時の建築業界の大物たち複数がデザインに携わっており、それらをまとめるのもナッシュの仕事だった。この点についてはナッシュは合格したといえ、まとめ役としての任を果たし、南北に走るこの大通り沿いの建物にある種の統一感を持たせることに成功した。

ロンドンを華麗に変えた、税金のムダ遣い

リージェント・ストリートのハイライトといえるのは、ピカデリー・サーカスのすぐ北にある「クワドラント(Quadrant)」と呼ばれる湾曲部分。このデザインはナッシュの原案に忠実に従ったものとされている。ナッシュが国王に取り入ってこの一大プロジェクトを任されたというのが事実としても、実力がなければやり遂げることはできなかったという点を証明するに足る、華麗さをたたえている。

また、リージェント・ストリートがロンドンにおける目抜き通りとして特筆されるべきは、観光都市としてのロンドンに大きな付加価値を与えた事実についてだろう。

ショッピング通りとしてだけでなく、圧倒的なエレガントさをもって、それ自体が観光名所となっているリージェント・ストリート=写真=は、紛れもなく英国の財産といえる。

リージェント・ストリート建設には多額の税金が使われ、非難の的になった時期もあったが、後世になってふりかえれば、観光収入として国民に還元されている。税金によって国宝が造られたとも考えられる。そして、ジョージ4世とジョン・ナッシュという「黄金コンビ」の存在なくしては、それは可能とはなりえなかった。

当時は悪評も多く聞かれたこの黄金コンビの作品群を、次号でご紹介するが、その数の多さに驚かれる読者も少なくないだろう。ジョン・ナッシュとジョージ4世の姿を思い浮かべながら探索されることをお薦めしたい。 (後編に続く)

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英国にいることを忘れそう!? ジョージ4世の別荘 ブライトンのロイヤル・パビリオン
©Qmin

■英国の名優、ナイジェル・ホーソーン主演の映画『英国万歳!(The Madness of King George)』(1994)で、狂気の王として描かれていたのがジョージ3世で、二枚目俳優ルパート・エヴェレットが演じていたダメ息子が後のジョージ4世だ。

■生真面目な父王ジョージ3世の、息の詰まるような宮廷から皇太子ジョージがブライトンに初めて逃がれてきたのは、1783年のこと。芝居好き、ギャンブル好きというおじのカンバーランド公爵に連れられてきたジョージは、当時、リゾート地として人気を博すようになっていたブライトンを大いに気に入った。首筋の腺病に海水が効くと医者にいわれたこともあり、ジョージはブライトンで堂々と湯治(水治)生活を楽しむことができたのだった。

オリエンタル色タップリの「ミュージック・ルーム」。
©Royal Pavilion, Libraries and Museums, Brighton & Hove

■その3年後、カールトン・ハウスの改築で大きな借金を抱えたジョージは、ブライトンでしばらく隠遁生活を強いられる。ここで、最愛の女性であるフィッツハーバート夫人(Mrs Maria Fitzherbert)とひそかに結婚するも、美貌で知られた同夫人(既婚者)は、離婚が許されないカトリック教徒だったため、この婚姻は違法だった。後に有力貴族の娘と政略結婚させられ、一人娘をもうけたが、すぐに別居したジョージは、この不誠実さでも国民の不評をかうことになる。

■しかし、国民に嫌われることを恐れるような皇太子ではなく、お気に入りの建築家、ジョン・ナッシュを呼び、ここに別荘を建てさせることにした。その結果、できあがったのが、外観はインド様式、中は東洋趣味で豪華絢爛というロイヤル・パビリオンだ。好き嫌いは別として、インパクトの強い建物であることは確か。一見に値する!

週刊ジャーニー No.1337(2024年4月11日)掲載

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うぬぼれ屋か天才か 19世紀の大建築家 ジョン・ナッシュ 後編

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19世紀の大建築家 ジョン・ナッシュ 後編
優美な曲線を描くリージェント・ストリートと、その生みの親であるジョン・ナッシュの肖像画©English Heritage。

一流店でのショッピングが楽しめる通りとしてだけでなく華麗な曲線美と立ち並ぶ建造物の美しさでも 人を惹きつけてやまないリージェント・ストリート。
この通りを造り上げたのは浪費癖で知られたジョージ4世と、その寵愛を受けた建築家ジョン・ナッシュというふたりの人物。
先週号に続き、このジョン・ナッシュに焦点をあてるとともにこのふたりが関わったロンドン内の名所の数々をご紹介することにしたい。

●Great Britons●取材・執筆/本誌編集部

在位期間は1820~30年と短かったジョージ4世(1762~1830)。

■ジョージ4世のバックアップを受けて、ある時は予算の使いすぎについて弁明するため議会に召喚され、ある時はメディアに手ひどくこきおろされながらも大プロジェクトを推し進めたジョン・ナッシュ(John Nash)。ジョージ4世が逝去したことにより後ろ盾を失い、一線から退いた。ワイト島で隠居生活を送り、83歳でこの世を去ったが、まだ摂政皇太子にもなっていなかったジョージ4世にとりたてられるようになってからの約40年、働きに働いた。ロンドンではリージェント・ストリートを中心に、「え、これも?」「あれも?」といいたくなるほど、多くの通りや建造物を手がけている。そのごく一部をご紹介する。

予算が大幅にオーバーしたバッキンガム宮殿

初代バッキンガム兼ノルマンディ公爵の依頼により、1702年から約3年かけて建てられたバッキンガム・ハウスを、1761年にジョージ3世が購入。以来、王室所有となった。後のジョージ4世の下の弟妹たちは、みなここで生まれている。

1820年、ようやく国王となったジョージ4世は即位して間もなく、それまで住みなれたカールトン・ハウスはイングランド王の邸宅としては手狭すぎるとし、バッキンガム・ハウスに大増改築をほどこし宮殿とすることを発表した。

建築家として任命されたのは、ジョージ4世お気に入りのジョン・ナッシュ。議会は、33万ポンド(現在の約4000万ポンド=約77億円にあたる)の予算を用意し、このプロジェクトが始まった。だが、建設案が議会で可決されてから、ほぼ現在のような形へと整えるのに12年ほどかかったリージェント・ストリート以上に膨大な時間がかかることになる。ジョージ4世はこの宮殿の完成を見ることなく、残念がりながらこの世を去った。また、同王が逝去した1830年、ナッシュはこのバッキンガム宮殿プロジェクトから解任された。

ナッシュの工事は遅れがちだったうえ、修正に修正がかさねられ、費用は雪だるま式にふくれあがり、最終的に70万ポンド(現在の約8500万ポンド=約163億円にあたる)に達した。しかも、これはマーブル・アーチ(11ページ参照)の建造費用を除いての金額だったという。
リージェント・ストリートのために議会が可決したのが60万ポンドというから、この宮殿の大増改築費がいかに莫大なものであったか、そしてそれが議会や世論の批判の的となったかは容易に想像できる。

▲ジョージ4世が亡くなる前年の1829年に描かれた風刺画(William Heath作/©The Fotomas Index UK)。英国を擬人化した時に用いられる人物、ジョン・ブル(右)がナッシュ(左)に向かってくどくどと詰問している様子。ナッシュの足元に建つのがバッキンガム宮殿だ。今とはかなり形が異なっていることがわかる。建物の後部に見える卵型のドームは大不評をかい、議会がナッシュを召還、「あのエッグカップは何か」と説明させたほど。この「エッグカップ」は後に取り除かれた。

男子の世継ぎなく逝去したジョージ4世のあとを継いで即位した、弟のウィリアム4世もここで暮らすことなく他界。1837年にジョージ4世の姪、ヴィクトリア女王が即位。宮殿として本来の役割を果たすようになるのは、同女王の即位後、数年たってからのこと。同女王はこの宮殿がことのほか気に入り、ここでの生活は「とても幸せ」と、日記の中で述べている。

その後も歴代国王により、様々に手が加えられ、600の部屋数を誇り、屋内プールまである大邸宅となったバッキンガム宮殿。今日では、夏季に限り、一部の部屋が一般公開されているほか、年間を通して多くの観光客が写真撮影に訪れる一大観光スポットとなっている。

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高級居住区つきリージェンツ・パーク

インナー・サークルへのゲート。

もともと「メリルボン・パーク」と呼ばれていたこの場所は、狩り好きのヘンリー8世が買い上げて以来、王室領となった。かのエリザベス1世も1582年にここで鹿狩りを楽しんだという記録が残っている。

鹿を囲い込むと同時に、密猟を防ぐ目的で、長い間、柵が張り巡らされていたが、1811年からナッシュを責任者として行われた再開発では、公園の緑をいかした「ガーデン・シティ」をリージェント・ストリートの北に作り上げることが目標に掲げられた。

1789年当時の「メリルボン・パーク」。©The Crown Estate

公園内にヴィラ、周囲にはテラス・ハウス、クレセント(半円の通り)を配し、人々(高い家賃を支払えるのは上流階級クラス出身者のみだったが)を住まわせる一方、公園内に運河を引き、湖を造るという計画で、一応の完成をみるまでに7年を要した。

また、1828年にはロンドン動物園が開園。1847年には公園の大部分が一般に開放されたのだった。



↓画像をクリックすると拡大します↓

リージェンツ・パーク Regent's Park

ロンドンっ子の憩いの場となっているリージェンツ・パーク。スポーツ・エリアとしても充実しており、予約すればラグビー、クリケット、サッカー、ソフトボールなどを楽しむこともできる。また、インナー・サークルの内側にある、「クイーン・メアリーズ・ガーデン」はバラで有名=写真右上。このガーデン内の池には、日本式とうろう=写真左上=のしつらえられた小さな「島」がある。

オール・ソウルズ教会 All Soul's Church

1822年に着工、2年後に完成したこの教会は、リージェント・ストリートとその北のポートランド・プレイスとの境界を示す位置にある。ギリシャ風の柱列が配された円型の外観、中央にそそりたつ尖塔などユニークなデザインで目を引くが、当時は酷評されたという。第2次世界大戦で爆撃による被害を受けたものの、1957年には復興がかなった。ナッシュの胸像が入り口近くに設置されている。

ロンドンの下町、ランベスの水車大工の子として生まれたジョン・ナッシュ(1752~1835)。リージェント・ストリートをはじめとする大プロジェクトに湯水のように税金を使った結果、議会から嫌われ、ナイトの称号を与えられることなく隠居先のワイト島でひっそりと息をひきとった。右側の写真は、オール・ソウルズ教会にあるナッシュの胸像からの眺め。リージェント・ストリートを望むことができる。

マーブル・アーチ Marble Arch

ローマのコンスタンティヌス門を参考に造られた。当初はバッキンガム宮殿の正面にすえられるはずだったが、同宮殿のさらなる増築に伴い(同アーチの完成後、狭すぎて王室の馬車が通れないことが判明したため移されたというのは通説)、1851年にハイド・パークの北西隅に移された。1908年、現在のようにラウンドアバウトの中心にくるよう変更が加えられた。

シアター・ロイヤル・ヘイマーケット Theatre Royal Haymarket

1820年にナッシュが建て替えた劇場だが、もともと1720年に建てられたもので、1766年に時のヨーク公(ジョージ3世の弟)から「ロイヤル」を名乗ることを許可された。


トラファルガー広場 Trafalgar Square

英国がナポレオン戦争で勝利をおさめたのは、1815年(ジョージ3世の晩年)。トラファルガーの海戦でネルソン提督が勝ってから、さらに10年を要した。


ウォータールー・プレイス Waterloo Place

ジョージ4世が即位するまで住んでいたカールトン・ハウス(取り壊され、現存せず)の正面玄関は、このウォータールー・プレイスに面していた。現在は、英国などがトルコでロシアと戦ったクリミア戦争の追悼記念碑が建てられている。ちなみに、写真の左端に見える像は、「白衣の天使」ナイチンゲールのもの。

セント・ジェームズ・パーク St James's Park

バッキンガム宮殿の東に広がる公園。ジェームズ1世の時代から、正式に王室所属として扱われるようになった。ジョージ4世の命をうけ、ナッシュは大幅に手を加えた。


バッキンガム宮殿 Buckingham Palace

詳細は記事上部、本文をご参照ください


9ロイヤル・ミューズ The Royal Mews

1825年に完成。「ミューズ」の名前の通り、もともとは「馬や」で、現在も王室所有の馬車などがここで保管・管理されている。隣の「クイーンズ・ギャラリー」(女王所有の美術品を展示)とともに、中を見学することができる(有料)。

週刊ジャーニー No.1338(2024年4月18日)掲載

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