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ロンドン復興に生涯を捧げた、超人クリストファー・レン(Sir Christopher Wren)

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2010年9月30日 No.645

取材・執筆/根本玲子・本誌編集部

ロンドン復興に生涯を捧げた
超人クリストファー・レン

ロンドン大火後の街を復興するという壮大な都市計画に携わり、
シティの麗しきランドマーク聖ポール大聖堂を完成させたクリストファー・レンChristopher Wren。
建築一筋の人生と思いきや、天文学者、数学者としても活躍したのち
建築家として天才的な才能を発揮するという華麗なキャリアの持ち主だった。
今回は英国が誇るこの偉大な建築家の生涯を辿ってみたい。

 

 英国王家の教会堂ウエストミンスター・アビーと並び称される聖ポール大聖堂。英国国教会の代表的な司教座聖堂として様々な国家的式典が行われるほか、ネルソン提督やチャーチル首相、ナイチンゲールなど英国要人が眠っていることでも知られる。
 チャールズ皇太子と故ダイアナ元妃が挙式したり、最近ではエリザベス女王の80歳の誕生日を祝う式典が催されたりしていることから、その名前に馴染みがある人が多いのではないだろうか。 
 優雅で壮大なドームが印象的なこの大聖堂については、グリニッジ展望台やリッチモンド・パークなど、市内の主要な規定ポイントからこの大聖堂が常に見えるよう、それらのポイントと大聖堂を結ぶ線上には高い建物を建てることを禁ずる「ビューイング・コリドー」という建築規制が設けられているという。
 この麗しい大聖堂を完成させたのが17世紀の建築家クリストファー・レン(1632―1723年)である。
 レンは1632年、イングランド、ウィルトシャーで王党派(イギリスの内乱期において議会派に対抗し、国王を支持した貴族たちによる派閥)の聖職者の家庭に生まれた。オックスフォード大出身の聖職者である父クリストファー・レン(同名)には、前年に長男が誕生し、父親と同じくクリストファーと名付けられたが生後まもなく死亡。翌年誕生したレンは待望の息子であった。父親はウィンザー主席司祭で高学歴のエリート、母親のメアリーはウィルトシャーの大地主の1人娘で父の遺産を相続しており、経済的に恵まれた境遇にあったレンだが、母メアリーは2歳年下の妹エリザベスを出産した後しばらくしてこの世を去り、レンは姉スーザンを母親代わりにして育つ。レンは小柄で病弱だったが絵の才能に恵まれ、同じく聖職者だった父方の従兄弟と仲が良く、兄弟のような関係だった。チャールズ1世の息子、つまり皇太子も遊び仲間だったという。

◆◆◆ 科学への扉 ◆◆◆

 体が丈夫でなかったこともあり、レンは父親と個人教授による教育を受けたのち、9歳でロンドンのウエストミンスター・スクールに進学する。この頃すでに科学の世界に魅せられ、ラテン語で父親に手紙を書くといった神童ぶりを見せていたという。
 レンの1族は王党派で、王室の恩恵を厚く受けていたことから、1642年に清教徒革命が勃発すると、叔父のマシュー・レンは議会派によって捕らえられ、ロンドン塔に投獄されてしまう。このためレンの父親は疎開を決心し、家族を引き連れブリストルへと移る。レンが01歳になった頃、スーザンが音楽理論家で数学者のウィリアム・ホールダーと結婚したことをきっかけに、一家は彼女の嫁ぎ先オックスフォードシャーへと居を移す。レンの義理の兄となったホールダーはレンの数学教授的な役割を果たし、彼の学術的、知的成長に強い影響を及ぼしたとされる。彼に天文学への扉を開いたのもホールダーだった。
 卒業するとレンは、そのまま大学へは進学せず、その後数年を科学の広い知識を身につけることに費やす。大学進学を断念したのは体調が思わしくなかったという説もあるが、この間、解剖学者チャールズ・スカバーグ(Charles Scarburgh)のもとへ赴き助手を務め解剖学についても学ぶ。なかなか優秀な助手ぶりだったのだろう、スカバーグの助手を終えた後のレンは数学者ウィリアム・オートレッド(William Oughtred)のもとで、彼の研究結果をラテン語に翻訳するという仕事に推薦されている。こうして、オックスフォード大学ウォダム・カレッジに進学したのは3年後のことだった。

 


◆◆◆ 非凡な科学者としての活躍 ◆◆◆

 大学卒業後のレンは研究員に選出され、様々な研究に専念しはじめた。この時代のレンは人間の脳のスケッチを行うかと思えば、一頭の犬から別の犬への輸血を行う装置を発明してその実演を行い、月観測に没頭しては、地磁気の研究に勤しむといった具合。天文学をはじめとし、数学、解剖学といったジャンルにこだわらず、アイデアとインスピレーションの赴くまま突っ走った青年時代だった。
 彼の評判は瞬く間に知れ渡っていったらしく、1657年、レンは25歳の若さでロンドン大学グレシャム・カレッジに天文学教授として招かれる。
 また、オックスフォード時代から物理学や科学について討論を行っていた科学者仲間とも交流を続け、彼らがロンドンでレンの講義に参席することもあった。この討論グループはのちに現在も続く王立協会(ロイヤル・ソサエティ)に発展していく。
 こうしてますます学者としての名声を高めたレンは1661年、再び母校オックスフォード大に戻る。今度も30歳に満たぬ歳で、天文学教授の職を得たのである。 

 

気鋭の学者たちが集った科学の梁山泊
ロイヤル・ソサエティ
 現存する最も古い科学学会である「ロイヤル・ソサエティ」は正式名称を「The Royal Society of London for the Improvement of Natural Knowledge/自然についての知識を推進するためのロンドン王立協会」という。これはレンをはじめ、物理学者のロバート・フックや数学者のジョン・ウォリスなどオックスフォードの自然哲学および実験哲学に興味を持つ学者たちがお互いの家や大学を行き来し、それぞれの専門知識やアイデアを交換しては議論をたたかわせ切磋琢磨していた集まりが原型となっている。
 約12名の科学者たちで構成され、「インビジブル・カレッジ(見えない大学)」と呼ばれていたこの討論会は 1660年には週に一度の公式ミーティングを開始し、62年にはチャールズ2世の特許状によって王立組織に、現在では会員1400名を擁する一大組織に発展した。そうそうたる顔ぶれの創立メンバーの中でも、オックスフォードからロンドンへと移り、グレシャム・カレッジで天文学教授をつとめたクリストファー・レンの業績と人脈が、組織の成立に大きく貢献したのは間違いないだろう。ちなみにこのグレシャム・カレッジ時代、望遠鏡の仕組みを学び改良を行っていたレンは土星の観測を行い、土星の輪についての理論を固めつつあったが、オランダの天文学者クリスティアーン・ホイエンスに実証論文で先を越されるという悔しい思いもしている。また創立メンバーの一員であっただけでなく、1680~82年までは3代目会長も務めた。
 ちなみに1982年に米アリゾナ州のローウェル天文台でエドワード・ボールが発見した小惑星レン(3062 Wren)、そして水星にあるクレーターのレンは、彼の功績をたたえて命名されたという。

 

◆◆◆ 建築家レンの誕生 ◆◆◆

 科学、数学、天文学の分野で学者としての地位を得たレンの興味が建築へと向かい始めたのはいつごろだったのだろうか。
 レンの生きた時代には、現在我々がイメージするような「建築家」という確固とした専門職はまだ存在していなかった。当時、建築は数学の応用としてとらえられ、高等教育を受けた人間が建築に手を出すというのはそれほど「畑違い」なことではなかった。レンも数学や幾何学を応用し、広場の設計や都市計画のあり方について独自の研究をすすめていた最中だった。しかし、机上の理論を実践に移すチャンスがなければ、実際の建築家としての能力を試すことはできない。そして、このチャンスは意外に早くやってきた。
 1661年、当時ポルトガルからイングランドに割譲されたばかりの北アフリカの港、タンジールの防衛強化工事について依頼を受けたのだ。しかしレンは、健康上の理由でこれを断ることになる。
 だが2年後には、レンが建築へと傾倒していく重要な転換期が訪れる。1663年、彼は当時バロック建築の最先端を行っていたローマに渡り、当時の彫刻と建築の巨匠ジャン・ロレンツォ・ベルニーニに会い、古代ローマ時代に建てられたマルケッルス劇場の調査を行うのだ。
 そして同年、イーリー司教だった叔父より、ケンブリッジのペンブルック・カレッジのチャペル設計の依頼を受ける。これが、レンの建築家としての第1号の仕事となった。
 続いて彼は、オックスフォードのシェルドニアン劇場の設計にも着手。この建物は前述のマルケッルス劇場の影響を大きく受けたデザインとなった。また1665年には、パリに長期滞在し、バロック建築について研究を深め、ここを拠点にフランドルやオランダにも足を運ぶ。これには単なる学問以上の目的があった。当時レンのもとには、1大プロジェクトが舞い込んでいたからである。

 

◆◆◆ 大災害とともに訪れたチャンス ◆◆◆

 1660年に王政が復古すると、国王チャールズ2世は老朽化の進んでいたロンドンの「シティ」のランドマーク、聖ポール大聖堂を蘇らせるため、本格的な修復計画に乗り出した。62年には建物の状態を調査するため勅定委員会が設立され、レンは修復計画の準備を行うよう要請を受ける。彼はこのために前述の建築の研究を行っていたのである。設計プランは66年8月末に認可されるが、作業に取りかかる間もなく9月2日未明にロンドン大火が発生。4日間に渡る猛火でシティの3分の2が焼け野原と化し、大聖堂は修復どころか取り壊しを余儀なくされるほどの壊滅的ダメージを受けてしまう。
 鎮火後まもなく国王とロンドン市長により、識者、権力者6人からなる再建委員会が結成される。レンはもちろんその1員となった。
 大火という災害によって、レンの仕事は単なる「建物の修復」から「都市再建」という巨大なプロジェクトに膨れ上がる。思わぬ形ではあったが、これまでは思い描くだけだった都市計画を実現させる絶好のチャンスが到来したのである。火災発生後0日と経たないうちに、レンは国王に壮大な再建プランを提出する。これはイタリアの都市をモデルに、主要となるモニュメントやピアザと呼ばれる広場から、街路が放射状に伸びる、バロック様式の「光」の構造を取り入れたものだった。
 しかし生憎なことに、この巨大プロジェクトは国王と枢密院によって承認されたものの、生活を優先して再建を急ぎたいシティ住民の反対を招き、地主と所有権をめぐり紛争が起こるなどしたため、結局採用されずに終わってしまう。もし、レンの構想が実現されていたとしたら、今日のロンドンはパリやローマのような華やかで「大陸的」な顔をもっていたかも知れない。

 


◆◆◆ 夢のドーム実現 ◆◆◆


第1案、第2案と却下された後、
最終的に落ち着いた大聖堂の設計案
 夢のシティ復興プランは諦めざるを得なかったものの、レンは災害の再発を防ぐ都市づくりのため、法制備に着手する。まず、火事調停裁判所を設けて家主と借家人の利害調停を行うようにし、建築規制などを盛り込んだ「再建法」をスピード成立させた。
 これには、シティに持ち込まれる石炭に課税し公共施設の再建に充てる/新築される建物はすべてレンガもしくは石造りにし建築認可を義務付ける/防火のため主要な通りの幅に規制を設ける/建物の階数を規制する、といった内容が盛り込まれていた。テムズ河沿いに集中していた煙害や悪臭をもたらす工場群を、市壁の外に移転させることにしたのも彼だった。これらは現代にも通用する立派な再建策であり、ここでもレンは学問のジャンルを超えた「天才」ぶりを発揮している。
 レンの采配によりシティは急速な復興を遂げ、今日に続く大都市ロンドンの中核が形作られていった。火事が日常茶飯事だったという街は「防災都市」として生まれ変わり、その後大火災が発生することはなく、猖獗を極めた疫病ペストすら街から姿を消していった。
 しかしその1方で、彼が大火前から携わっていた聖ポール大聖堂の再建は思ったように運ばず、ろくな準備も始められないまま5年近い歳月が経過していた。
 これは、国王をはじめ聖堂参事会や聖職者たちからの要望や期待が大きく、設計案が決定するまでに二転三転したことによる。レンは聖堂内に広がりのある空間を作るためには大きなドームは必須と考えていたが、長い尖塔やラテン0字型といった伝統にとらわれる聖堂参事会や聖職者たちからは悉く反対に合う。時間と労力が必要以上にかかり、レンの苛立ちは頂点に達していた。

レンが最後までこだわり続けた大型ドーム。しかし、ドーム内にモザイクを施したいというレンの意向は打ち砕かれ、代わりにジェームズ・ソーンヒルによる天井画が描かれている。
 結局、第1案、第2案を却下されたレンは、3度目の設計案として誰もが納得するようなデザインを取り入れた図を提出して着工許可を得、建設が進むにつれ、囲いを立てて現場を見られないようにし、そのままの設計を提出していたら賛同が得られなかったであろう理想の大型ドームを完成させてしまうという「荒技」に出る。
 現在でも世界有数の規模を誇る、高さ111・3メートルのドームは、レンの思い描いていた「光の都市」の中核となる建物であった。巨大プロジェクトを目の前に何度も挫折を味わった中で、これだけは何としても作り上げたいという思いがどれだけ強かったことか。
 聖ポール大聖堂には、他のレンの建築物には見られない建築家としての意地と誇りが秘められているのである。

 

◆◆◆ 愛する者を次々に失った壮年期 ◆◆◆

 ロンドン再建委員会での仕事を機に、1669年、王室建築総監に任命された307歳のレンは、建築家としての名声を得たおかげもあったのだろうか、長年オックスフォードシャーで交友を深めていたコッグヒル卿の娘フェイスと結婚する。
 子供時代からの知り合いで、レンの4つ年下だったというフェイスがどのような人物であったのかについては残念ながらほとんど記録が残されていないが、夫婦仲は円満だったようで、プレゼントの腕時計と共に妻宛に送ったレンの熱烈なラブレターが残されている。
 だが、2人の結婚生活はたった6年で終焉を向かえる。2人の間には長男ギルバートが誕生するが、病弱のため1歳半にならないうちに死亡。次に誕生した息子は父親の名を引き継ぎクリストファーと名付けられたものの、同じ年にフェイスが天然痘にかかり死亡してしまうのである。子を亡くし妻を亡くすという、父親の若き日をなぞるような悲運の連続に、レンはさぞかし落胆したことだろう。
 それでも、愛妻の死から約1年半後という比較的早い時期に、レンはフィッツウィリアム卿の娘ジェーンと再婚する。妻を亡くした孤独感には、さすがの天才も耐えがたかったと見える。加えて、1人息子のクリストファーに母親を与えてやりたいという気持ちも強かったのだろう。
 しかしこの結婚生活はさらに短命に終わった。2年後、ジェーンも2人の子供を産んだ後、結核でこの世を去るのである。彼はその後、独身を貫くことになった。

 


◆◆◆ 天才的建築家として活躍 ◆◆◆

 私生活では不幸続きであったレンだが、この時期から晩年までの建築家としての活躍には目覚ましいものがある。まるで悲しみを追い払うために必死に仕事に打ち込んでいたかのようにも思える。
 聖ポール大聖堂の建設が進められる間にも、大火で焼け落ちた50を超える教区教会の再建に取りかかり、ロンドン大火とその後の復興を記念した「ロンドン大火記念塔」、「ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ図書館」、「ハンプトン・コート」、そして若き日の天文学者としての素養と建築家としての才能の結晶ともいえる「グリニッジ天文台」など、数えきれないほどの建物の設計を手がけ、英国を代表する建築家としていよいよその地位を不動のものとする。イタリアやフランスでの研究をもとに、劇的な建築空間を演出する「バロック建築」を英国に最初に取り入れたのも彼だった。
 もともと数学や天文学、幾何学を専門とする科学者であったレンは、数字や平面を立体的に捉え思考することに人一倍長けていた。また彼のバロック的空間構成には、数学的思考をベースにした彼自身の美的解釈が反映され、これまでにない独創性や大胆な試みが用いられた。彼の建築における天才的センスは、科学者としての素質に裏打ちされたものだったのである。

 

◆◆◆ ロンドン詣でが趣味となった晩年 ◆◆◆


息子クリストファーによる言葉が刻まれたレンの墓碑。大聖堂の地下納骨堂にて見ることができる。
 1710年、レンの最高傑作となる聖ポール大聖堂が完成する。着工許可から約35年、彼は76歳になっていた。父親の名を引き継いだ長男クリストファーも建築家となるべく教育を受け、成長してからは父とともに大聖堂の建設に関わっており、完成時には彼が最後の石材を頂に置いたという。数々の難題を乗り越え、理想の聖堂を作り上げたレンの感慨、誇らしさはひとしおだったであろう。
 レンは1718年、血気盛んな建築家ウィリアム・ベンソンに高齢を理由に王立の建築監督の座を明け渡すよう迫られ引退することになるが、引退後もハンプトン・コート地区にある自宅から定期的に大聖堂を訪れては、その美しい姿を眺めるのを晩年の楽しみの1つにしていたという。
 1723年2月、91歳になっていたレンはいつも通りロンドン詣でをした帰りにひどい風邪を引き、数日間床についたまま自宅で息を引き取る。使用人が彼を起こそうとした所、すでに冷たくなったいたのを発見したとされている。
 3月5日、レンはのちに偉人達が葬られることになる大寺院地下の納骨堂に葬られることになった。彼の最高傑作はまた彼の墓標ともなったのである。
 若き日には科学の発展に貢献し、その後の生涯を建築を通してロンドン復興に捧げた超人クリストファー・レン。
 彼の墓碑には息子クリストファーによる「我がためではなく、人々の幸福の為に生きた。レンの記念碑を探している者は周りを見よ」という言葉がラテン語で刻まれている。
 父親に育てられ、その仕事ぶりを間近で眺めてきた息子の心からの賞賛の言葉であったろう。

 

ニュートンの「世紀の理論」誕生裏話
 万有引力の法則を発見した天才科学者アイザック・ニュートン=右=(1643~1727)。他人をおおっぴらに賞賛することはほとんどなかったという彼だが、万有引力の法則と運動方程式について述べたかの大著「自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)」の中でレンのことを最も優れた数学者の1人であると記している。ちなみに、ニュートンがこの大著を仕上げる前にはこんな話があったとか。 1684年1月のある日、当時学者や作家たちの社交場のような機能を果たしていたコーヒー・ハウスのひとつに、建築家として働き盛りのクリストファー・レン、そして彼の助手を務めたこともある物理学者のロバート・フック=下右、ハレー彗星で知られるエドモンド・ハレー=下左=が集い、惑星の軌道に保つ力の向きと強さについて討論していた。
 このとき最初に「これは太陽に引っ張られる力で、強さは太陽からの距離の2乗に反比例(逆2乗の法則)すると思う。しかしその証明ができなかった」と発言したのがレン。これに対してフックは「逆2乗の法則からすべての天体の運動の法則が証明される」と自信満々の発言をしたものの、実際にはその証明を提示しなかった。
 フックが本当に証明できるのか疑問に思ったハレーは、その後ケンブリッジに赴きニュートンに同様の質問をぶつけてみたところ、はるか昔に万有引力の法則(=逆2乗の法則)に気付いていた彼は「惑星の軌道の形は楕円だ」と即答。事の重要性に驚いたフックはニュートンにまとまった書物を記すよう説得し、彼はハレーの様々な質問に計算や証明を続けながら大著「プリンキピア」の構想を練っていった。しかし同著が発表されると、ニュートンをライバル視していたロバート・フックは「この内容は自分が以前ニュートンに文通で知らせたものだ」と怒り出し大論争に発展する。俗世離れしているように思える学問の世界も、実社会に劣らず人間臭さに満ち満ちているという見本である。レンはこのエピソードの中では脇役といった感じだが、建築家として第一線を行く彼が天文学への興味を失わないばかりか、世紀の科学者ニュートンに劣らない次元の研究に勤しんでいたということがうかがえ興味深い。


 

 

ロンドン大火記念塔
Monument 【ロンドン】

クリストファー・レンとロバート・フックによる設計により1677年完成。高さは、ロンドン大火の火元であるプディング・レーンまでの距離と同じ61メール。

トリニティ・カレッジ図書館
The Wren Library 【ケンブリッジ】

1676年から1684年建設。英国に5館存在する納本図書館(流通された全ての出版物を義務的に納本される権利を有する図書館)のひとつ。

 

ハンプトン・コート東面
Hampton Court Palace 【ロンドン郊外】

1689年から1694年にかけ、ウィリアム3世とメアリー2世の時代に建て替えられた東面。噴水のある中庭「ファウンテン・コート」もレンによるデザイン。

セント・ジェームズ教会
St James's Church 【ロンドン】

ロンドン大火では被害を避けられたものの、1940年に激しい爆撃を受け、その後修復された。

 

シェルドニアン劇場
Sheldonian Theatre 【オックスフォード】

1668年設立。建築家としてスタートを切ったばかりのレンの作品。トラス屋根を採用するなど、既に彼の敏腕ぶりが表れている。

大クライスト・チャーチのトム・タワー
Tom Tower 【オックスフォード】

中にグレート・トムと呼ばれる大鐘が設置されており、午後9時5分になると101回鳴る。その昔、カレッジの門限が21時5分だったためだとか。101という数は、カレッジ創設時の学生数といわれている。

 

グリニッジ天文台
Royal Greenwich Observatory 【ロンドン】

イングランドが新大陸との貿易で富を築くため、航海を安全に行うことが第一優先だった時代、天体観測データを必要としていた時の国王チャールズ2世は、天文学者でもあったレンにこの観測所の設計を依頼。しかし当時は国家歳入が慢性的に不足しており、チャールズ2世は古い建物を売却して得た500ポンドを建設費用としてレンに渡す。彼は廃材を利用するなどして最終的には20ポンドの予算オーバーでこの天文台を作り上げたとされている。

旧王立海軍学校
Old Royal Naval College 【ロンドン】

1694年負傷した船乗り達を収容する「グリニッジ・ホスピタル」として設立された。1869年に病院が閉鎖されると海軍学校として使用された。現在、建物の一部が一般公開されている。もともとチューダー朝にヘンリー8世などが生まれたプラセンティア宮殿があった場所。

 

 


生誕130周年 謎の失踪劇を起こした ミステリーの女王アガサ・クリスティー 【前編】

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 生誕130周年 謎の失踪劇を起こした
 ミステリーの女王アガサ・クリスティー 【前編】
Photo by Angus McBean © The National Portrait Gallery, London

■ 英国生まれの名探偵といえば、まず思い浮かべるのはシャーロック・ホームズだろう。だが、ほかにも世界的に高い人気を誇る名探偵がいる。そのうちの一人、エルキュール・ポアロやミス・マープルを生み出したのが、アガサ・クリスティー。彼女の著書は100ヵ国語以上の言語に翻訳され、聖書とシェイクスピアに次いで読まれているという「世紀の大作家」だ。生誕130周年、ポアロ誕生から100年を迎え、映画の公開も迫っているアガサの人生を前後編に分けてたどる。

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/柳下加奈子・本誌編集部

海辺のリゾート地、トーキー。デビュー作「スタイルズ荘の怪事件」を執筆したホテルは今も健在。© Laura H.

史上最高ベストセラー作家

子供時代のアガサ。© Crakkerjakk

手がかりゼロの難事件が、絡まった糸をほどくようにその全容をあらわにしていき、やがて複数の登場人物が、誰しも何らかの殺意となりうる動機を持っていることに気づかされる――。

どんでん返しに次ぐ大どんでん返しで、最後の最後に容疑者を前にして明かされる謎解きに、胸のつかえが取れたような解放感を味わえるアガサ・クリスティーの小説。アガサは半世紀以上におよぶ執筆活動の中で、66の長編のほか、短編、戯曲、さらにメアリ・ウェストマコット名義によるロマンス小説を書き上げ、ギネスブックでも「史上最高のベストセラー作家」に認定されている。彼女の作品を読んだことがなくとも、孤島のホテルに集められた人々が次々と姿を消していく「そして誰もいなくなった(Ten Little Niggers)」、超豪華特急という動く密室の中で起こる殺人事件「オリエント急行の殺人 (Murder on the Orient Express)」など、ドラマや映画、舞台など、何らかの形で作品に触れたことのある人が多いはずだ。

断念した音楽家への道

アガサは実業家である米国人の父とアイルランド人の母の第3子として、1890年9月15日、イングランド南西部デボンの湾に囲まれた町トーキーにて(Torquay)誕生。トーキーは、ペイントン(Paignton)、ブリックサム(Brixham)と合わせてイングランドの「リヴィエラ」(フランスからイタリアにかけて広がる地中海沿岸地方のリゾート地)と呼ばれ、19世紀から高級保養地として発展してきた。アガサは、そこで裕福な家庭の娘として育った。

姉や兄と10歳ほど年齢が離れていた末っ子のアガサは、寄宿学校で学ぶ姉や英軍に入隊した兄と顔を合わせる機会は少なく、またトーキーに同年代の子供がほとんどいなかったため、ペットとともに「想像上の友人」と遊ぶことが多かった。母親は子供2人を育てた経験からか、「学校教育は脳や目をダメにする」と信じており(兄は寄宿学校を中退して英軍に入隊した)、アガサには学校へ通わせず、自宅で教育を受けさせた。

11歳の時に父親が病死。その翌年には姉が嫁ぎ、兄は海外駐留が決定、家族の距離はますます遠くなった。母親はアガサに物を書くことを薦め、この頃から詩や短編小説を書きはじめている。また、姉が大好きだったコナン・ドイルの著作「シャーロック・ホームズ」シリーズに熱中し、近所に住む作家のもとを度々訪れては、読書や執筆の指導を仰ぐようにもなった。

しかし、娘をオペラ歌手かピアニストにしたかった母親は、アガサが16歳になると、パリの教養学校に進学させる。期待に応えるため声楽を学び、 ピアノの練習に励んだものの、元来の内向的な性格により「舞台に立って人前で演奏する」ことに耐えかね、音楽家としての道は諦めざるを得なかった。

アガサが生んだ愛すべき名探偵ポアロ&ミス・マープル

エルキュール・ポアロ

卵頭にツンとはねた八の字ヒゲがトレードマークのベルギー人探偵。身長は163センチほどで小柄。チリひとつでも気にするほど、身だしなみにうるさい。初登場はアガサの処女作「スタイルズ荘の怪事件」。最終作となる「カーテン」まで33の長編、54の短編に登場。ベルギー警察の有能な警察官だったが、第一次世界大戦中に英国に亡命。以後、ロンドンで私立探偵として難事件を解決している。

相棒/ヘイスティングス大尉
物語の語り手的役割で、素人的見地で読者の視点を代弁。「シャーロック・ホームズ」シリーズのワトソン博士のような存在。容疑者の言葉をすぐ鵜呑みにしたり、外見で判断(美人に弱い)したりしがちだが、捜査が煮詰まった時にふとを口にする言葉が、ポアロの推理に救いの手を差し伸べることが多い。

代表作
「アクロイド殺し 」「オリエント急行の殺人 」
「ABC殺人事件」「ナイルに死す」

ミス・マープル

セント・メアリー・ミード村に暮らす、ガーデニングや編み物が趣味の英国人おばあちゃん探偵。ファーストネームはジェシー。「牧師館の殺人」から「スリーピング・マーダー」まで12の長編、20の短編に登場。アガサの祖母がモデルという説あり。青い目にバラ色の頬をもつ上品な老婦人。

相棒/なし

特徴
どんな物的証拠も見逃さず、論理と経験をもとに推理するポアロに対し、ミス・マープルは女性的勘と、一見ただの世間話ともとれる巧みな聞き込みなどをもとに推理。人の感情の揺れや仕草の変化を見逃さない、優れた人間観察力を持つ。ただ、警察にとって彼女の活躍は愉快なものではなく、煙たがられている。

代表作
「予告殺人」「パディントン発4時50分 」
「スリーピング・マーダー 」

「毒薬」との出会い

パリに渡ってから2年後、教養学校を卒業。結婚適齢期を迎えていたアガサは、故郷へ戻って「婚活」に励み、軍人のレジー・ルーシー少佐と婚約した。ところが、舞踏会で知り合ったアーチボルド・クリスティー大尉と恋に落ちてしまう。「運命の出会い」からわずか3ヵ月後、アーチー(アーチボルドのニックネーム)からプロポーズされた彼女は快諾し、レジーとの婚約を破棄。2年の婚約期間を経て1914年、第一次世界大戦が勃発して間もないクリスマス・イブに結婚した。アガサは24歳、アーチーは25歳だった。

第一次世界大戦中、故郷トーキーの病院で看護師をしていた頃のアガサ。この経験が、殺人事件で頻繁に登場する「毒薬」の知識をもたらすことになった。© Maypm

新婚生活を楽しむ時間はほとんどなく、アーチーは出征。アガサはトーキーの赤十字病院で、無償の看護婦として勤めはじめる。知的で人目をひく赤毛のアガサは、医者や患者から人気があり、やがて薬剤師の助手として薬局勤務に昇進するが、ここでの経験が「毒薬の知識」という、ミステリー作家としてかけがえのない財産をアガサに与えることになった。

さらに、ひょんなことから始まった、姉との「簡単には結末が予測できない探偵小説が書けるかどうか」という競い合いが、アガサの作家としての才能を開花させることとなる。この挑発に奮起した彼女は、自宅を離れてホテルに3週間こもり、執筆に専念。トーキーに似た町を舞台に、病院で出会ったベルギーからの避難民をモデルにして、かの名探偵ポアロを創出、奇怪な殺人事件を完結させた。こうして、「ホームズとワトソン博士」に匹敵する「ポアロとその相棒ヘイスティングス」を生み出したわけだが、原稿を送った出版社から良い返事はなかなかもらえず、ようやく出版にこぎつけたのは7社目。これが彼女の記念すべきデビュー作「スタイルズ荘の怪事件(The Mysterious Affair At Styles)」(1920年)である。完成から4年の歳月が経っていた。

デビュー作が出版される前年の1919年には、一人娘のロザリンドを出産。その後も次々と新作を発表し、瞬く間に人気作家への階段をかけのぼったアガサは、「大英帝国博覧会」の広報チームの一員として、世界中をまわるまでになった。

だが、結婚、出産、作家としての成功――と順風満帆に見えた日々は長くは続かなかった。博覧会のための世界巡業には夫も同行していたが、この縁がもたらした「ある騒動」によって、アガサは小説を地で行くような「謎の失踪事件」を起こすのである――。 (次号へ続く)

大英帝国博覧会の宣伝のため、世界をまわった広報チームメンバー。左からアガサの夫アーチー、博覧会主催者のアーネスト・ベルチャー、その秘書、アガサ。© Maypm

週刊ジャーニー No.1157(2020年10月1日)掲載

生誕130周年 謎の失踪劇を起こした ミステリーの女王アガサ・クリスティー 【後編】

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生誕130周年 謎の失踪劇を起こした ミステリーの女王アガサ・クリスティー 【後編】
Photo by Angus McBean © The National Portrait Gallery, London

■〈前編のあらすじ〉 結婚、出産、作家デビュー、そして小説の大ヒット――。順風満帆に見えた日々は、長くは続かなかった。結婚から12年目の夏、夫が起こした「ある騒動」によって、悲しみのどん底に突き落とされたアガサは、驚くべき行動に出る…。生誕130周年、そして名探偵ポアロ誕生から100年を迎え、新たな映画の公開も迫る彼女の後半生をたどる。

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/柳下加奈子・本誌編集部

謎の失踪――空白の11日間

「悲劇」がアガサを襲ったのは1926年のこと。6冊目の著書「アクロイド殺し(The Murder of Roger Ackroyd)」を出版し、そのトリックが「フェアかアンフェアか」で様々な論争を巻き起こすという、ミステリー作家として願ってもない成功を収めた矢先のことだった。

1926年4月、病に臥していたアガサの母親が死去。幼くして父親を亡くし、母親と多くの時間を過ごしきたアガサにとって、その喪失は大きく、悲しみに暮れるアガサはフランス南西部で4ヵ月ほど療養生活を送る。そして8月、英国へ戻った彼女が夫・アーチーと久々に顔を合わせると、彼の口から想像だにしなかった言葉が飛び出した。

「離婚してくれないか?」

アーチーは、アガサに帯同して世界巡業を行った際に知り合った「大英帝国博覧会」の主催者、アーネスト・ベルチャーの友人である10歳下の女性、ナンシー・ニールとの不倫を打ち明けたのだ。アガサは離婚を拒否した。時間が経てば、夫の気持ちも落ち着くだろう…そう信じて過ごしたが、同年12月、アーチーは「クリスマス前後の1週間は友人たちと過ごすことにする」と宣言。アガサの同伴も拒絶したのである。あまりのショックに耐えかねた彼女は、その日の深夜、娘を置いて行方をくらましてしまう。

当時、アガサ一家はバークシャーで暮らしていた。「ドライブに出る」と言って出かけた彼女の車が、サリーの車道脇で乗り捨てられているのを発見。車内には、有効期限の切れた運転免許証と洋服が残されていた。人気作家の失踪は瞬く間に表沙汰になり、これに飛びついた新聞社は、夫に疑惑の目を向け、報奨金付で情報提供を促すなど大騒ぎとなった。

失踪していたアガサが発見されたことを報道する、当時の新聞記事。

それから11日後、アガサはヨークシャーのハロゲートにあるホテルに、夫の不倫相手の苗字を使い「ミセス・ニール」の名で宿泊しているところを保護される。事件の後、数人の医者により「記憶喪失」と診断されたアガサは、このスキャンダルの詳細を語ることはなかった。自身の著書さながらの謎に包まれた失踪劇は「解離性記憶障害説」「夫をこらしめるための計画説」など多くの憶測を呼び、皮肉にも彼女の名をより世間に轟かせる結果となった。

この事件以降、彼女はマスコミを敬遠するようになり、往年の名女優グレタ・ガルボのマスコミ嫌いを文字って「ミステリー界のガルボ」と呼ばれるようになる。家族や親しい友人に囲まれた、穏やかで静かな生活に強く固執するようになった。

遺跡発掘現場での出会い

1928年、アガサとアーチーの調停離婚が成立。その1週間後、アーチーは不倫相手のナンシーと再婚している。しかし、アガサは離婚した後も前夫の名字「クリスティー」を使用し、執筆活動を続けた。そんなアガサの人生が新たな局面を迎えるのは、それほど先のことではなかった。

アガサは英国をしばらく離れようと、長距離夜行列車「オリエント急行」に乗って、トルコとイラクへ旅行に出かけた。そしてイラクでは遺跡発掘作業に参加し、知り合った英国人考古学者夫妻と意気投合。1930年に再びイラクを訪れて、発掘現場へ向かった。そこで運命の出会いを果たしたのが、14歳下の英国人考古学者マックス・マローワン。年齢も育った環境も異なる2人だったが、あっという間に惹かれあい、7ヵ月後に結婚した。アガサは40歳、マックスは26歳だった。以後、アガサは夫の中東での発掘作業にはタイプライター持参で同行し、「メソポタミヤの殺人 (Murder in Mesopotamia)」や「ナイルに死す」など、異国情緒あふれる作品を次々と生み出している。

やがて第二次世界大戦が勃発。アガサは再びロンドンの病院で薬剤師として働きはじめるが、先行きの見えない混沌とした情勢の中で、彼女は自分に万が一のことがあった場合を考えて、名探偵ポアロの最終作となる「カーテン(Curtain)」、同じく名探偵ミス・マープルの完結編「スリーピング・マーダー (Sleeping Murder)」を書き上げる。そして、2作とも「彼女の死後に出版する」という契約を出版社と交わし、著作権をそれぞれ夫と娘に遺した。この原稿は、爆撃で失われるのを避けるためにニューヨークで保管されたが、結局、出版社に急かされて「カーテン」はアガサが亡くなる前の1975年に刊行されている。

ポアロ誕生から 100年 映画「ナイル殺人事件」、12月に公開!

英俳優・監督のケネス・ブラナーが、映画「オリエント急行殺人事件」(2017年)に続きメガホンをとった、名探偵ポアロ・シリーズの第2弾。新型コロナウイルス蔓延の影響で上映が延期され続けていたが、ついに12月18日に公開が決定した(10月6日現在、公開延期の可能性あり)。

容疑者は乗客全員――愛の数だけ秘密がある。

アガサ自身が「旅行物のミステリーで史上最高傑作」と称した「ナイルに死す(映画の邦題はナイル殺人事件)」の舞台は、エジプトのナイル河を行く豪華客船。ギザの3大ピラミッドやアブシンベル大神殿など、エジプトの名所をバックにした映像美とともに、密室殺人、予想もつかないトリック、複雑な人間ドラマが繰り広げられる。

ポアロ役は前回に続きケネス・ブラナーが務めるほか、ガル・ギャドット、アーミー・ハマー、アネット・ベニングら豪華キャストが出演。
映画予告編は こちらから

色褪せないミステリー

1964年、74歳のアガサ。© Joop van Bilsen / Anefo

1971年にその功績を称えられ、大英帝国勲章(デイムの称号)を授かったアガサ。翌年に心臓病を患い、ベッドでの安静を言い渡されたが、オックスフォードシャーにあるテムズ河沿いの町、ウォリングフォードで執筆を続行。滅多に公に姿を見せることはなく、彼女の晩年の作品は、クリスマス・シーズンに合わせて出版されるようになっていたため、アガサ・ファンにとってクリスマスはかけがえのないものとなっていた。だが、それも1976年に終止符が打たれる。

同年1月12日、ウォリングフォードにて永眠。近郊の教会に埋葬された。

85歳で亡くなるまで精力的に活動し、ミステリー界に革新の波を次々と起こしたアガサ。1952年の初演の後、ロンドンでの最長公演記録を持つ舞台「マウストラップ」(短編小説「Three Blind Mice」を戯曲化したもの)や、過去幾度も映像化されている「そして誰もいなくなった」など、アガサの小説は様々な役者や監督により、舞台、映画、ドラマ化され、死後40年以上経った今でも輝きを失うことなく愛されている。遺産や痴情のもつれなど、小説の背景はドロドロしたものであることが多いが、そこには彼女が愛したものがたくさん詰まっている。生まれ故郷のトーキーを中心としたデボンの風情、パリの学校で学んだ音楽、世界各地を旅して目にしたもの、夫の仕事を支え育んだ考古学への興味など、一見、まったく関連性のないものばかりだが、彼女の著した小説のごとく巧に繋がり、物語を彩るエッセンスとなっている。

新型コロナウイルスの蔓延により、毎年恒例の様々なイベントが中止となっている2020年。今年の秋は、自宅でゆっくりとアガサ・クリスティーを読破してみてはいかがだろうか。

アガサが1934~41年までの7年間、再婚した夫と暮らした家。引越し好きだった彼女は数多くの転居先の中でも、とくにこの家を気に入り、「オリエント急行殺人事件」「ナイルに死す」はここで生まれた。同所にはブループラークが飾られている。
58 Sheffield Terrace, London W8 7NA

週刊ジャーニー No.1158(2020年10月8日)掲載

天然痘を制圧せよ 世界初のワクチン誕生物語 エドワード・ジェンナー 【前編】

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天然痘を制圧せよ 世界初のワクチン誕生物語 エドワード・ジェンナー 【前編】

■ かつて地球上には天然痘というウイルス性の感染症が存在し、紀元前から多くの人が命を奪われてきた。しかしその天然痘は人類史上初となるワクチンの開発により根絶された。人類が初めて開発に成功したワクチン。開発の礎を築いたのは今から200年ほど前、イングランドの片田舎で開業医をしていた一人の医師だった。

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/本誌編集部

奈良の大仏と天然痘

電子顕微鏡が捉えた天然痘ウイルスの姿。

天然痘。英語ではスモールポックス(smallpox)と言う。ポックスとは疱瘡のことだ。突然の熱発と共に頭痛や四肢痛、小児では嘔吐や意識障害といった症状が現れ、2~3日後には体温が40度を突破する。その後一時的に熱が下がるが安心したのも束の間、やがて顔面や頭部を中心に全身に発疹が浮かび上がる。発疹は水疱、そして9日目あたりには膿を含んだ膿疱へと変化する。

重症化すると喉が焼かれたような激痛が走り、物を飲み込むのも困難になり呼吸障害を発して死に至る。幸運にも治癒に向かった場合は2~3週間程度で膿疱がかさぶたとなって脱落する。しかし皮膚に色素が沈着し、生涯醜い痘痕(あばた)となって残る。強毒性の場合、致死率は20~50%と言われ、誠に恐ろしい感染症だった。

天然痘は紀元前から死に至る恐ろしい疫病として人々に恐れられていた。古代エジプト王朝のラムセス5世も、そのミイラを研究したところ天然痘を患っていたことが分かった。

日本にも仏教の伝来と共に大陸から九州に持ち込まれたと言われ、それがやがて平城京にまで達して大流行し、政府要人の多くも天然痘の犠牲となった。聖武天皇は、人の容姿を激変させて死に至らせる謎の疫病と天候不順による飢饉などが生む社会不安や政治的混乱から脱却するため仏教の力に救いを求め、東大寺に巨大な仏像を造らせた。奈良の大仏だ。

15世紀末から始まった大航海時代、中南米に進出したスペイン人がアステカやインカといった帝国をほぼ壊滅させた。この時、スペイン人が現地に持ち込んだ疫病が大きな役割を果たした。数千年に渡って天然痘と共存してきたスペイン人と違い、ユーラシア大陸やアフリカ大陸とほぼ接触がなかった中南米のインディオや北米のインディアンは天然痘に対する耐性や免疫を全く持っていなかった。そのためスペイン人が持ち込んだ天然痘ウイルスにバタバタとやられ、帝国は崩壊した。

さらに18世紀、英国が北米の植民地経営を巡ってフランスと戦った際(フレンチ・インディアン戦争)、英軍はフランスと連携したインディアンのチェロキー族に親切を装って接近。天然痘ウイルスをすり込んだ毛布などを大量に与えた。死のギフトだった。たちまちウイルスに感染したチェロキー族は大混乱に陥り、戦力は著しく低下したと言われる。この戦争にフランスは敗れ、ルイジアナを英国に譲渡。これによって西部開拓への障害物は消えた。 さらにフランスと同盟していたスペインからもフロリダを取り上げ、アメリカに英語圏が拡大していく。英国側は認めていないが、この天然痘すり込み毛布の件が史実だとすると人類が初めて戦争で意図的に使用した「生物兵器」ということになる。

天然痘に感染した人々。運よく生還しても顔や全身に多くの痘痕(あばた)が残った。

田園に広がる奇妙なうわさ

エドワード・ジェンナーは1749年、イングランド西部、ウェールズにも近いグロスターシャーのバークレーと言う田舎町で9人兄弟姉妹の8番目の子として生まれた。ジェンナーは敬虔な牧師家庭で育ったが、両親はジャンナーが5歳の時に亡くなった。そのためジェンナーは年長の兄弟たちに育てられた。ジェンナーが生まれた頃、ヨーロッパでは天然痘がほぼ定着しており英国も例外ではなく、多い年では5万人近くが天然痘で命を落としていた。

ジェンナーは幼少期に人痘接種を受けていた。天然痘に感染しながら生還したオスマン帝国駐在大使夫人が英国に持ち帰り、上流階級層に広めたものだった。これは天然痘患者の膿疱内の膿から体液を取り出し、健常者に接種させてあえてウイルスに感染させるもので一定の成果を上げていた。しかし2~3%程度の人が重症化し死亡する危険をはらむ不完全なものだった。

ジェンナーは14歳の時から7年に渡り、グロスターシャー南部、チッピング・ソドベリーという村の開業医ダニエル・ルドローの元で奉公人として働く機会を得、後に自らが開業医となるための知識と経験をここで習得した。この医院で働いている時、ジェンナーは迷信にも近い不思議なうわさ話を耳にした。

「乳しぼりをしている女は天然痘にかからない」

科学的根拠のない言い伝え程度の話だったが、これがジェンナーの脳裏に深く刻まれることとなる。

奉公を終え、21歳になったジェンナーは最先端医学を学ぶため、ロンドンに向かった。幸運なことに「近代外科学の開祖」と称される著名なスコットランド人の外科医にして解剖学者、ジョン・ハンターに弟子入りした。

ハンターは、研究熱心で技術も確かなうえ、詩や音楽の才も備える上品なジェンナーに惚れ込んだ。天然痘に関する議論が白熱すると「考え過ぎることなく、挑戦し続けなさい。辛抱強く、正確に」とジェンナーを鼓舞した。ハンターはジェンナーを王立協会会員にも推薦した。しかしジェンナーは1773年、多くの人に惜しまれながら故郷バークレーに戻り、開業医となった。

© Nick from Bristol
世界最初のワクチン開発に成功した、グロスターシャー、バークレーにあるジェンナーの自宅兼診療所。現在はジェンナー博物館となり一般公開されている(残念ながらコロナウイルスのため2021年春まで休館)。

「ジキル博士とハイド氏」のモデル

外科医・解剖学者 ジョン・ハンター (John Hunter 1728~1793)

グラスゴー出身のジョン・ハンターは20歳の頃、ロンドンで外科医、解剖学者として活躍していた10歳上の兄の元を訪れ、助手となることで医学を学んだ。ハンターは解剖を好んだが、当時は処刑された罪人の死体が出回るだけだったため希望者が殺到してなかなか入手できなかった。そのためハンターは死体盗賊人らに報酬を払って死体を集めて解剖を続けた。時には自らも盗賊人らに混じって死体を掘り出したというなかなかの奇人ぶりだった。ハンターはまた異常なまでの収集家として知られ、遺体から取り出した臓器や骨格標本から珍獣、はたまた植物まで、世界中から1万4000点もの標本を集めた。富裕層から高額な報酬を受け取っていたため収入は多かったが、そのほとんどを趣味に費やした。そのため亡くなった時に残ったのはこれらのコレクションと莫大な借金だけだったと言われる。その標本のほとんどは現在、ロンドンの王立外科医師会内ハンテリアン博物館に保管されている(2022年まで改装のため閉館中)。レスタースクエアにあったハンターの巨大な邸宅は表玄関では社交界の友人や患者が出入りする一方、裏口は解剖用の死体の搬入口とされていた。のちにこの話を耳にした作家、ロバート・ルイス・スティーブンソンは、ハンターをモデルに「ジキル博士とハイド氏」を書き上げたと言われている。

とんでもない実験

© Japan Journals Ltd
ケンジントンガーデンズ内噴水脇に置かれたジェンナー像。人類を天然痘から救った偉大なドクターだが、視線を向ける人は少ない。

故郷に戻ったジェンナーは幼い頃、奉公先で何度も耳にした「乳しぼりの女は天然痘にかからない」という伝承が耳から離れずにいた。さらに牛がかかる「牛痘」に感染した人で、その後天然痘に感染した人がいないという、より具体的な話がジェンナーの耳に届いた。牛痘とは牛がかかるウイルス性の伝染病でヒトにも伝染した。ところが牛痘で牛は重症化するがヒトは比較的軽い症状で済み、快復後は天然痘に感染することもなかった。

「牛痘に感染することで得られる免疫が天然痘ウイルスへの免疫としても機能しているのではないか。だとすれば牛痘によってできた膿疱から体液を抽出し、健康な人に接種すれば人痘法より遥かに安全に免疫が獲得できるのではないか」。ジェンナーはそう推測した。それを実証するため、牛痘に罹患した患者の出現を待ち続けた。

1796年5月、ついに患者が現れた。サラ・ネルメスという乳しぼりを生業とする女性でブロッサムと名付けられた牝牛の乳房から牛痘に感染していた。人類初のワクチン完成に向けてジェンナーのとんでもない実験が始まろうとしていた。
(後編へ続く)

週刊ジャーニー No.1159(2020年10月15日)掲載

天然痘を制圧せよ 世界初のワクチン誕生物語 エドワード・ジェンナー 【後編】

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天然痘を制圧せよ 世界初のワクチン誕生物語 エドワード・ジェンナー 【後編】
8歳のジェームズ・フィップス少年に牛痘接種を施すジェンナー。

■1796年5月、エドワード・ジェンナー(Edward Jenner)は牛痘に感染したという若い搾乳婦、サラ・ネルメスと会った。なるほど彼女の両手や腕にはぷっくり膨らんだ複数の水疱が確認できた。典型的な牛痘感染者の症状だった。牛痘(cowpox)とは牛がかかる天然痘(smallpox)のことでヒトにも感染する。牝牛の乳房の辺りに水疱が現れ、それに触れた乳しぼりの女たちの間で感染する者が多かった。牛痘に感染すると牛は重症化するが、ヒトは腕に疱瘡ができ、多少発熱するものの軽症のうちに10日間ほどで完治した。さらに一度牛痘に感染した者は二度と牛痘に感染しなかった。それどころか牛痘に感染した者はその後、天然痘に感染しないという言い伝えがあった。ジェンナーは、牛痘に感染し快復する過程で獲得する免疫が天然痘に対しても免疫力を発揮するのではないかと仮説を立てていた。そしてついに、この仮説を実証する機会を得た。

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/本誌編集部

仮説は正しかった

牝牛の乳房に現れた膿疱のスケッチ画。

ジェンナーはサラの膿疱内にある液体を採取した。そして5月14日、ジェームズ・フィップスという8歳の健康な男児の両腕に2本の引っかき傷を作り、そこに牛痘種痘を行った。ジェームズはジェンナー家の使用人であった貧しい庭師の息子だった。後に全人類を救うターニングポイントとなる重要な実験だったが、安全が100%担保されていない、仮説に基づく人体実験だった。今なら医療訴訟を起こされても何の不思議もない、ある意味とんでもない実験だ。しかしジェンナーは実行した。それが問題にならないほど社会が人道や人権に対して未成熟だったことが人類に幸いした。

種痘を受けたジェームズは7日目に腕の付け根部分に不快感を訴えた。さらにその2日後、頭痛と悪寒を訴え、食欲が減退した。牛痘感染者の典型的な症状だった。ところがその翌日、状況は一変しジェームズはほぼ快復した。

それから6週間後、ジェンナーは再びジェームズに種痘を行った。ただし今度接種したのは天然痘患者の膿疱から取り出した体液だった。

何日経ってもジェームズは天然痘を発症しなかった。その後、何度天然痘接種を繰り返してもジェームズは天然痘の症状を発しなかった。どうやら牛痘に感染することで獲得する免疫が天然痘に対しても効力を発揮するというジェンナーの仮説は正しいようだった。

これまで中東やヨーロッパで広く行われていた「人痘法」は天然痘に感染した患者の体液を健康な人に接種し、あえて天然痘を発症させて免疫を作るという乱暴な方法だった。効果はあったが2~3%の人が重症化し、死に至る危険なものだった。その上、生涯顔に醜い痘痕(あばた)を残す人が多かった。しかし、ジェンナーが辿り着いた種痘であれば重症化の危険性も痘痕も回避できた。ジェンナーはこの後も11歳になる息子ロバートを含む23人の子どもたちをグループに分けて考察を繰り返した。その結果、牛痘種痘を施した子は全員が天然痘に対する免疫を獲得している事実を確認できた。

2000年、フィンランドの農村で牛痘に感染した4歳女児の腕に現れた疱瘡。

収まらない拒絶反応

1797年、ジェンナーはこの実験の結果をまとめ、王立協会に論文を送付し出版するよう依頼した。世界中で大勢の人の命が救われる大きな一歩となるはずだった。ところが王立協会はこの論文を無視し、そのままジェンナーに送り返した。理由は明らかになっていない。失意のジェンナーはさらなる実験の結果を追記した上で翌年『インクワイアリー(Inquiry:審理)』を自費出版した。『インクワイアリー』はたちまち医師や学者の間で話題となり議論が噴出した。

ジェンナーはさらに自説を実証するため単身ロンドンに向かった。そこでボランティアの募集を試みたが初めの3ヵ月間、自ら手を挙げる物好きは誰一人として現れなかった。それでも諦めなかった。ある日、ジェンナーの前に自分の患者に接種してみても良いと協力を申し出る医師が2人現れた。さらにジェンナーは『インクワイアリー』に興味を抱いた医師たちに対して牛痘種痘を指南して回った。しかしこの当時、人々の間では「牛の体液を体内に入れたら牛になる」といって種痘を拒絶する意見が圧倒的だった。これは幕末、種痘を日本でも広めようとした適塾の緒方洪庵も直面した分厚い壁だった。牛痘種痘法を扱う医師らへの執拗ないやがらせが続いた。さらに種痘のやり方を間違えた医師から「効果なし」といった報告が上がるなど、激しい向かい風に吹き飛ばされそうになる日々が続いた。しかしやがて「効果あり」という声が圧倒的となり、その声は英国全土へと拡大していった。

「牛の体液なんか入れたらウシになる」と牛痘を拒否する人たちを描いた風刺画。

天然痘根絶へ

ジェンナーは苦労の末に辿り着いた種痘の特許を取得することは遂になかった。特許を取ってしまうと種痘が高価なものになり、より多くの人を救うという自身の理念と矛盾した。それどころかジェンナーは問い合わせがあれば世界中、誰が相手でも私費で指南書やサンプルを提供し続けた。

1802年、英議会はそんなジェンナーに対し1万ポンド、さらに5年後には2万ポンドの褒賞金を与えた。褒賞金を出すことで政府公認の印象を作り、種痘をいち早く国民に認めさせる狙いがあった。にもかかわらずその後も種痘を否定する声が止むことはなく、ジェンナーの元には批判や中傷の手紙が届き続けた。しかしそういった雑音を打ち消すかの勢いで種痘は世界に拡大していった。

ジェンナーは誰もが種痘の有効性を認める前の1823年1月26日、脳卒中のため死去した。享年73。ジェンナーの死から17年後の1840年、英議会は種痘以外を禁止。種痘が完全に人痘法に取って替わった。もはや種痘を非難する者は一人もいなかった。その後ジェンナーは「近代免疫学の父」と呼ばれ、その功績は今も世界中で高く評価されている。1980年、世界保健機構(WHO)は天然痘の根絶を宣言。天然痘は人類史上初、そして唯一根絶に成功した感染症となった。

種痘の正当性が認められ、ジェンナーの前から逃げ出す反対派の医師たち。© Wellcome Images

ワクチンは牝牛への敬意

ジェンナーが到達した感染症に対する予防接種はワクチン(vaccine)と呼ばれるようになった。これはラテン語で牝牛を意味する「vacca」から来ている。ジェンナーが診療や研究にあたっていたバークレーの実家は現在、博物館となって一般に公開されている。その一角にはワクチン開発のために体液を提供した牝牛ブロッサムの角も展示されている。ジェンナーが最初に種痘を行ったジェームズ・フィップスはその後もジェンナー家に仕え、結婚後はジェンナーからコテージを生涯無償で提供され、住み続けた。没後、ジェンナーが眠るバークレーの聖メアリー教会墓地に埋葬された。

カッコウの托卵(たくらん)を発見したジェンナー

自分より大きいカッコウの雛に餌を与えるオオヨシキリ。 © Per Harald Olsen

エドワード・ジェンナーが恩師ジョン・ハンター医師のもとを離れ、故郷のグロスターシャーに帰ったのは彼が外科や解剖学よりも自然科学により興味をいだいたためだった。探検家のジェームズ・クック(キャプテン・クック)=下の肖像画=が第1回目の航海を終えて帰国すると、彼が持ち帰った博物標本の整理をなみなみならぬ興味を持って手伝った。クックは好奇心旺盛な若きジェンナーを大変気に入り、2回目の航海に同行しないかと熱心に誘ったがジェンナーはこれを固辞した。

故郷バークレーに戻って開業医となってからもジェンナーは地質学や人間の血液に関する研究に没頭した。さらにハンター医師からの提案でカッコウなどの生態を研究する中、カッコウがウグイスなど、他の鳥の巣に産卵して他人にわが子を育てさせる、いわゆる「托卵(たくらん)」の生態を発見し1788年、この研究結果をまとめて発表した。この功績が認められ、ジェンナーは王立協会のフェローに推薦された。しかし保守的なイングランドの博物学者たちの多くは「托卵」を「ひどいデタラメ」と一蹴し全く取り合わなかった。1921年、カッコウの生態を追っていたカメラマンが托卵の瞬間の撮影に成功。これによってジェンナーの説は完全に証明された。発表から133年、ジェンナーの死から98年が経っていた。また、一部の鳥が食料や繁殖、環境などの事情において長距離を移動する「渡り鳥」の性質を持つことを発見したのもジェンナーだった。

週刊ジャーニー No.1160(2020年10月22日)掲載

世界初の女性化石ハンター メアリー・アニング【前編】

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世界初の女性化石ハンター メアリー・アニング 【前編】

■ 世界に先駆けて、地質学研究が発展した19世紀初頭のイングランドに、プロの「女性化石ハンター」がいた。彼女の名前は、メアリー・アニング。今回は、貧しい階層の出身ながら、時代の最先端をいく学者たちと渡り合い、不屈の精神で化石発掘に人生を捧げたひとりの女性の生涯を、前後編で振り返る。

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/根本玲子・本誌編集部

12歳の少女の偉業

冬の嵐が過ぎ去ったばかりの海岸。

もろく崩れやすい崖の断面から覗く巨大な眼窩(がんか)、くちばしのような細長い口、そこにびっしりと並んだ歯――。かつて誰も見た事ない不思議な生き物の頭部が、少女とその兄の目の前にあった。4フィート(約1・2メートル)もある頭骨を慎重に岩場から掘り出した2人は、化石を「土産物」として販売する小さな店を営んでいた自宅へと、この不思議な「物体」を抱えて持ち帰った。

このとき発見したのは、2億年前もの昔に存在した、イルカのような姿をしていたというジュラ紀の魚竜「イクチオサウルス」の頭部(上図)。この後、残りの胴体部分の化石を見つけ出したメアリーは、世界で初めてイクチオサウルスの完全な骨格標本を発見した人物となる。

食べていくために地元で化石を掘り出し、土産物として売っていた貧しい「化石屋」の若干12歳の娘が、どのような経緯で世界的な発見に至り、やがてプロの化石ハンターとして古生物学の世界への道を拓いていったのだろうか。彼女の幼少期から、順を追って探っていきたい。

雷に打たれた赤子

中生代のジュラ紀に形成された地層が海へと突き出した、東デヴォンからドーセットまで続くドラマチックな海岸線は、ユネスコの世界自然遺産にも登録され、化石の宝庫であることから、現在はジュラシック・コースト(Jurassic Coast)とも呼ばれる。

英仏海峡に面したライム・リージスは、ジュラシック・コースト沿いにある、何の変哲もない小さな町。ここで、メアリーは1799年、家具職人の娘として誕生した。父親は妻との間に10人の子供をもうけたが、流行病や火傷などの事故によって多くが幼少時に他界し、成人まで生き残ったのはメアリーと兄のジョセフだけだった。

ある日、隣人女性が生後15ヵ月だったメアリーを抱き、木陰でほかの女性2人と馬術ショーを観戦していた際、思いがけない事故が起こる。雷がその木を直撃、メアリーを抱いていた女性を含む3人が死亡したのだ。

赤子のメアリーも意識不明となるが、目撃者が大急ぎでメアリーを連れ帰り、熱い風呂に入れたところ、奇跡的に息を吹き返す。そして不思議なことに、それまで病気がちだったメアリーは、その日以降、元気で活発な子供になった。町の人々は、この「雷事件」が彼女の好奇心や知性、エキセントリックと評される性格に影響を及ぼしたに違いないと、のちに噂したという。

1826年まで、アニング家が住んでいた住宅のスケッチ。ライム・リージス博物館建設にあたり、1889年に取り壊された。右上にあるプラークは、同博物館の外壁に飾られている。

副業で化石探し

父親は仕事の合間を縫って海岸に出ては、化石を探して「土産物」として売り、家計の足しにしていた。当時のライム・リージスは富裕層が夏を過ごす「海辺のリゾート地」として栄えており、フランスで革命やナポレオン戦争が起こってからは特に、国外で休暇を過ごすことをあきらめた人々が押し寄せるようになっていた。

専門家でなくとも化石を所有することがファッションのひとつとされ、地質学・古生物学の基礎が築かれつつあったこの時代、富裕層や学者たちは化石の発見に常に注目していた。しかし一般には、これらの化石は、聖書に描かれた「ノアの大洪水」で死んだ生き物の名残だと考えられており、とぐろを巻いたアンモナイトの化石には「ヘビ石」、イカに似た生物ベレムナイトの化石には「悪魔の指」といった呼称がつけられていた。

また、「化石(fossil)」という名称もまだ確立されておらず、人々は不思議なもの、興味をそそるものという意味で「キュリオシティ(curiosity)」と呼んでいた。

アニング家は子供を毎日学校に通わせる余裕がなく、父親は本業の傍らに子供たちを海辺に連れて行き、化石探しを手伝わせ、商品として売るためのノウハウを教え込んだ。

化石売りはよい副収入になるものの、天候や潮の満ち引きに左右され、地滑りや転落事故と隣り合わせの危険な仕事。発掘に適しているのは嵐の多い冬期で、土砂崩れや大波により、新たな地層が露わになった岸壁を狙い、ハンマーとたがねを携え浜辺を歩く。そうしてせっかく「大物」を見つけても、掘り出しているうちに満潮となり、足場をなくして見失ったり、潮に流されてしまったりすることも多かった。加えて、沿岸部では密輸船も行き交っており、トラブルに巻き込まれる可能性も十分あった。そうした危険の中で、いかに化石を持ち帰るか――。子供たちが父親から学ぶことは山ほどあった。

メアリーは教会の日曜学校で読み書きを覚え、もともとの聡明さもあって、のちには独学で地質学や解剖学にも親しんでいくようになる。

リゾート地ゆえの出会い

東デヴォンからドーセットまで続く「化石の宝庫」の海岸線、ジュラシック・コースト。地滑りなどが起こると、化石が地表に姿を現すことがある。現在も浜辺で化石堀り体験ができる。
© Kevin Walsh

メアリーの化石や古生物学に対する情熱は、父とライム・リージスにやってきた様々な人々との出会いによって形作られていった。中でも、この地に引っ越してきたロンドンの裕福な法律家の娘たち、フィルポット3姉妹の存在は大きい。

兄がライム・リージスに屋敷を購入したのに伴いやって来た、メアリー、マーガレット、エリザベスの3姉妹は、いずれも熱心な化石コレクターで、彼女らにとってこの地は宝箱のような場所であった。幼かったメアリーは、自分より20歳も年上で身分も高い彼女たちと化石を介して出会い、末娘エリザベスと毎日のように化石探しに出掛けるようになる。2人の友情はメアリーが成長するにつれ、高名な地質学者や彼らの妻たちとの交流につながっていった。

そしてもうひとり、10代のメアリーの人生に大きな影響を与えることになった人物がいる。のちにロンドン地質学会の会長を務めることになる、若き日のヘンリー・デ・ラ・ビーチ卿だ。裕福な軍人の家系に生まれたものの、地質学へと傾倒した彼は、多感な思春期にライム・リージスでメアリーと出会った。ともに化石探しに夢中になり、生涯にわたって2人は友人関係を保ち続けた。メアリーの経済状態が悪化した際には、自らが描いた古代生物のスケッチを売るなどして、援助を惜しまなかったのも彼であった。

半クラウン硬貨の希望

メアリーが発見した、約2億~1億7500万年前のジュラ紀に、ヨーロッパに生息していた魚竜イクチオサウルス。眼が大きく直径は20センチ、全長の最大推定は9~12メートルにおよぶ。
© Dmitry Bogdanov

1810年の冬、結核を病んでいたにもかかわらず、体にむち打つようにいつもの海辺に出掛けたメアリーの父は崖から転落、命を落としてしまう。

働き手を失った家族に残されたのは、多額の借金ばかり。メアリーはこのとき11歳、兄ジョセフもまだ手に職はなく、一家の大黒柱になるには若過ぎた。教会の救済金に頼るまでに困窮した一家は、サイドビジネスだった化石屋に活路を見出そうとする。母と子供たちは連日のように海辺へと向かい、化石を探しては自宅で販売するだけでなく、町の馬車発着所でも売り歩き、細々と生計を立てていた。

そんなある日、海岸で掘り出したばかりのアンモナイトを手にしたメアリーを、ある女性が呼び止めた。彼女は半クラウン硬貨でそれを買い上げる。当時、半クラウンあれば一家の1週間の食料を手に入れることができた。

母親に硬貨を手渡したメアリーのつぶらな目は、一人前の稼ぎを手にした誇りと喜びに輝いていた。この出来事により、メアリーはプロの化石ハンターを目指すことを考え始める。化石を買った女性は地主の妻で、メアリーに雑用を頼み小遣いを与えるなど、日頃からアニング家の様子を気遣っていた。また知的好奇心が旺盛であるメアリーに対して、「ただの化石拾いに終わるには惜しい」とも思っていた。メアリーはこの婦人によって、初めて地質学の本を手にすることになった。

そして、父の死の翌年となる1811年の冬、彼女の運命を決定づける出来事が起こる。

いつものように、兄と嵐が過ぎ去ったばかりの海岸を訪れると、激しい波によって一部崩れた岸壁の断面に、「頭部のようなもの」が覗いているのを目にしたのだ――。この発見をきっかけに、メアリーの運命は大きく動き出していく。(後編へ続く)

週刊ジャーニー No.1163(2020年11月12日)掲載

世界初の女性化石ハンター メアリー・アニング【後編】

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世界初の女性化石ハンター メアリー・アニング 【後編】

■〈前回あらすじ〉貧しい家具職人の娘として生まれたメアリーは、父や兄とともに近所の海岸へ出掛けては、化石を探して「土産物」として売り、家計の足しにしていた。ところが、父親が発掘中に崖から転落して死去。困窮した一家は、「化石屋」に活路を見出そうとするが…。後編では、19世紀初頭のイングランドに登場したプロの女性化石ハンター、メアリー・アニングの偉業と女性ゆえの苦悩を追う。

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/根本玲子・本誌編集部

12歳の少女の大発見

冬の嵐が過ぎ去ったばかりの海岸。

父親を事故で亡くしてから1年が経った、1811年の冬。

いつものように、兄ジョセフと嵐が過ぎ去ったばかりの海岸を訪れた12歳のメアリーは、前夜の激しい波によって削られた岸壁に、「不思議な物体」の一部が覗いているのを発見した。メアリーは「目」がよく、アンモナイトなどの化石を誰よりも多く見つけていたが、そんな彼女の勘が「これは大物だ」と告げていた。兄と2人で崖の中から慎重に掘り出したものは、1・2メートルにも達する頭骨だった。

「これが、人々がクロコダイルと呼ぶ生き物なのかな?」

メアリーは父がかつて語った様々な話を思い起こしながら、どこか近くに埋もれているはずのこの生物の残り部分を探し当てたい…という情熱に駆られた。彼女にとって、化石はすでに「食べていくため」だけの商品ではなくなっていた。

頭骨だけでも偉大な発見であったが、メアリーはその後、1年以上も粘り強く残りの部分を探し続けた。そして、地滑りで地層が露わになった崖の地上から約9メートルの位置から、ついに体部分を発見。これは全長5メートル以上におよび、兄と作業員の助けを借りながら、見事に発掘に成功した。

ニュースを知ったオックスフォード大学の学者が、すぐにアニング家へと調査に訪れた。化石の「体内」には、なんとこの生物が食べていた魚の残骸が残されていたという。

奪われた名誉

人々は、この謎の化石を南国に生息する「クロコダイル」と信じていた。クロコダイルの化石は、ライム・リージス在住の地主が買い上げ、その後、ロンドンの著名な化石蒐集家の手に渡る。彼の邸宅で行われた博物展示会には、かのキャプテン・クックが世界各地から持ち帰った化石や、ナポレオンにまつわる品々、メキシコからやって来たエキゾチック

そして様々な研究ののち、1817年、このクロコダイルは古代の魚竜「イクチオサウルス」と命名された。イクチオサウルスの化石自体は、1699年にウェールズですでに発見されていたが、メアリーが見つけたのは世界初の全身化石。この世紀の発見により、「イクチオサウルス」という正式名が誕生したのだ。

しかし、オークションにかけられたイクチオサウルスの目録には、所有する化石蒐集家の名前が記されただけで、幼いメアリーの名前が言及されることはなかった。「世界初のイクチオサウルス全骨格の発見者」という輝かしい称号は、不運にも奪われてしまった。

海岸で採掘にいそしむメアリーの姿を描いたスケッチ。

「神の手」を誇った20代

イクチオサウルスの発見で、多少まとまった額の金を手に入れたものの、アニング家は相変わらずの貧乏暮らしだった。兄ジョセフは家具職人の修行に忙しく、母親が化石販売業を取り仕切り、年若いメアリーが採集人の主として岩場での作業を行った。

当時、女性がこのような危険な仕事に就くことは珍しいだけでなく、「化石少女」とからかいの対象になることもあった。だが、メアリーは父から授けられた技術、そして緻密な観察力と化石への情熱を武器に、プロの化石ハンターとして成長していく。また、独学で地質学や解剖学の知識を深めていった彼女は、見つけた化石を観察して分類するだけでなく、スケッチと特徴を詳細に記したものを学者たちに送り、その学術的価値を売り込むなど「営業」にも精力的だった。

最初の大きな発見から10年の年月を経た1821年、彼女は新たなイクチオサウルスの化石、そしてジュラ紀に生息した首長竜の一種「プレシオサウルス」(右頁の図)の骨格化石を世界で初めて発見するという再度の幸運に恵まれる。続いて1823年には、より完全な形で保存されたプレシオサウルス、1828年には新種の魚の化石、ドイツ以外では初めてとなる翼竜「ディモルフォドン」の全身化石などを次々と発見。「化石ハンター」としてのピークを迎えた。

イングランド南部 「ジュラシック・コースト」は地球のタイムカプセル

イングランド南部の東デヴォンからドーセットまで延びる、95マイル(約153キロ)に及ぶ海岸線(左図参照)は、2億5000年前から始まる三畳紀から、ジュラ紀、白亜紀へと続く「中生代」の地層が見られる世界唯一の場所として、ユネスコの世界自然遺産に指定されている。

この一帯では、白亜紀(1.4億~6500万年前)に地面が大きく傾いたため、さらに昔の三畳紀やジュラ紀の地層が露わになっており、数世紀に渡って地球科学の研究に貢献してきた。

メアリーが暮らしたライム・リージズ付近の海岸線も、三畳紀からジュラ紀にかけて形成されたライムストーン(石灰岩)と頁岩(けつがん)と呼ばれる2つの石が層になった「ブルー・ライアス(Blue Lias)」=写真下=と呼ばれる地層がむき出しになっている。メアリーは、この浜辺でイクチオサウルスを始めとする貴重な化石を見つけ出した。

現在でも、アンモナイトの化石などはビーチで簡単に見つけることができ、持ち帰りも自由だ。

認められた功績

30代半ばを迎えたメアリーは、大きな発見に恵まれず、このころから病魔に蝕まれていく。乳がんだった。その後も病気と闘いながら化石採集を続け、1847年3月、47歳の生涯を閉じる。

ロンドンの地質学会会長へと出世していたデ・ラ・ビーチ卿はメアリーの死を悼み、学会で彼女への追悼文を発表した。20世紀初頭まで女性の参加を許さず、性差と階級の壁が厚かった地質学会では異例のことであった。

メアリーの死から12年後、チャールズ・ダーウィンによる「種の起源」が発表される。突然変異と自然淘汰による進化論を世に知らしめた本書は、メアリーと交流し、彼女の化石をもとに研究を進めた当時一流の地質学者らからインスピレーションを得たものであったという。

1冊の書物も残さなかった彼女だったが、地質学に古生物学、そして進化論への道をも拓いたメアリー。19世紀初頭の社会が要求する「女性らしい生き方」にはこだわらず、情熱のおもむくまま在野のフィールドワーカーとして生涯を全うした。メアリーにより、英国の自然科学の発展にもたらされた功績は計り知れない。それは、2010年に王立学会が発表した「科学の歴史に最も影響を与えた英国人女性10人」の1人に選ばれていることからもわかるだろう。彼女が発見したジュラ紀の首長竜「プレシオサウルス」は現在、サウス・ケンジントンにある自然史博物館の化石ギャラリーに展示されているが、その全身化石の目の前に立てば、あまりの大きさに圧倒されるはずだ。

英語の早口言葉「She sells sea shells by the sea shore.(彼女は海岸で貝殻を売った)」のモデルとも言われるメアリーは、愛する故郷ライム・リージスの岸壁の上に建つ小さな教会で、今も海辺を見守るようにして眠りについている。

▲ ライム・リージスの崖の上に建つ、聖マイケルズ教会。メアリーは、ここに埋葬されている。
© Ballista
▲ 自然史博物館に展示されている、メアリーが発見したプレシオサウルス。見物客と比較すると、その巨大さがわかる。

週刊ジャーニー No.1164(2020年11月19日)掲載

一青年の重過ぎる生涯 エレファントマン 【前編】

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一青年の重過ぎる生涯 エレファントマン 【前編】

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/手島 功

「さあさあ、お集まりの皆さん、次はいよいよ本日のメインイベントだ。お客さんたちはラッキーだ。これほどの掘り出し物は滅多に見られるもんじゃない。象に祟(たた)られた母親が産んだのは、半分人間、半分象の姿をした恐ろしい赤ん坊だった。さあさあ、心の準備はよろしいですかな? 卒倒しないよう、気をしっかり持ってご覧になってくださいよ」。

興行主の口上が終わると薄暗い会場はたちまち水を打ったように静まり返った。誰もがカーテンが開く瞬間を、固唾を飲んで見守った。スルスルと上げられていくカーテン。ステージの暗闇に何やら潜む黒い塊。やがてその塊はゆっくりと立ち上がったかのようだった。次の瞬間、一条のライトが当てられ、塊の正体が人々の前にはっきりと浮かび上がった。

「キャアアアッ」

「おおおぉぉっ!」

甲高い悲鳴や唸るような低い声が反響し、その後も得体の知れないざわめきが会場を覆った。恐怖に手で顔を覆ったまま会場を後にする女性もいた。

「一体、これは何だ。人間なのか?」

およそ人が目にしたことのない生命体がそこに立っていた。

興行主はしたり顔で続けた。

「半分人間、半分象。人呼んでエレファントマンにございます」

不幸は束になって

1862年8月5日、イングランド中部の街レスターに暮らすメリック夫妻のもとに1人の男児が誕生した。ジョゼフ(Joseph Carey Merrick)と名づけられた。父は綿織物工場付き乗り合い馬車の御者をするかたわら小間物を扱う副業をしていた。母親は日曜学校で教師を務めていた。

3歳になる頃、それまで普通の子として育っていたジョゼフの身体に小さな異変が生じた。唇が大きく膨れ上がり、前頭部に硬いしこりが出来た。それは日ごとに大きくなっていった。皮膚は象のようにザラザラになり、緩んで深い皺を刻んだ。ほどなくして右手と両脚の肥大化が始まり、後頭部も腫れあがった。日ごとに人間の姿から遠ざかっていく我が子を前に両親は「あの時の祟りに違いない」と考えるようになった。

ジョゼフを妊娠中、母はレスターにやってきた移動動物園のパレード見物に出かけた。珍しい動物を一目見ようと通りには大勢の人が集まっていた。やがて興奮した群衆が押し合い、人々が将棋倒しとなった。たまたま一番前で見物していた母は押された勢いで路上に転がり出た。運悪く一頭の巨象が目の前を通過中であり、母は興奮した象の下敷きになりそうになった。象使いが慌てて制したことで九死に一生を得たが、その時味わった恐怖はトラウマとなってその後も母を苦しめた。その当時、妊娠中に体験した恐怖は、お腹の子に何らかの悪影響を与えるといった迷信があった。

「象が憑りついているのだ」。

それでも母は象のような姿に変貌していく息子を精一杯可愛がった。不幸は重ねてやって来る。ジョゼフは小学生の時に転倒し左臀部を強打した。その後関節炎を併発して脊柱が湾曲した。歩行困難となり生涯杖が手放せなくなった。さらに11歳の時、優しかった母が気管支肺炎のため36歳の若さで死んだ。父親はジョゼフと妹を連れて転居した。翌年、入居したアパートの大家だった子持ちの未亡人と再婚した。

絶望の救貧院へ

12歳で学校を卒業したジョゼフの日々は暗澹たるものとなった。父親はジョゼフの妹だけを可愛がり、継母は連れ子にのみ愛情を注いだ。居場所がないジョゼフは何度か家出を試みたが、その都度父親に連れ戻された。ジョゼフは工場で葉巻を巻く仕事を得た。その間も腫物は肥大化を続けた。3年後、遂に繊細な仕事をすることが困難となり離職を余儀なくされた。収入がなくなったジョゼフを継母は毎日口汚く罵り、冷笑した。ジョゼフは次第に継母を避けるようになり、一人、レスターの街を彷徨うようになった。

父親はジョゼフのために行商人の免許を取得し、小間物の行商をさせた。しかしその容姿に街の人は戦慄した。。怯えた主婦らが玄関の扉を開けることはなかった。腫物で大きく変形したジョゼフの口から発せられる言葉が相手に伝わることもなかった。ある日、売り上げがないまま帰宅したジョゼフを父親は激しく殴りつけた。耐えきれずジョゼフは家を飛び出した。その後、二度と家に戻ることはなかった。

ジョゼフはレスター市内で路上生活を始めた。甥の窮状を見かねた理容師の叔父チャールズ・メリックがジョゼフを自宅に連れて帰り、一緒に生活した。叔父の家から行商の仕事を続けたが、街頭に立つジョゼフの姿に人々はパニックとなった。行商の免許は更新されなかった。17歳の時だった。

貧しい叔父も経済的に追い込まれ、ジョゼフはレスター救貧院に収容された。救貧院には1000人を超える生活困窮者や社会生活不適合者が収容されていた。1年後、ジョゼフは救貧院を自主的に出て仕事を探したがうまくいかず、再び救貧院に戻った。そして4年の歳月が流れた。その間にも身体の変異は進み、口の腫物が巨大化。話すことも食べることも困難になっていた。そこで救貧院は手術を施し、腫物の大部分を切除した。しかし、病状の悪化を食い止めることはできなかった。

悲しき選択

ジョゼフはもはや普通の仕事に就くことは不可能と悟った。であればいっそのこと、この特異な身体を武器に金を稼ぐことはできないか。救貧院では粗末ながら衣食住は保証されていた。「貧困者の監獄」とまで言われた救貧院ではその容姿のため周囲から壮絶な仕打ちを受けた。出るも地獄、残るも地獄。それでもジョゼフはここを出ると決めた。後年、ジョゼフが救貧院での体験を人に話すことはなかった。

ジョゼフはレスターで見世物小屋を経営していたコメディアンのサム・トーに手紙を書いた。早速救貧院を訪れたトーはジョゼフと面会するなり「これは金になる」と踏んだ。すぐに仲間と見世物ツアーの計画を立てた。1884年8月、ジョゼフは救貧院から連れ出された。22歳になっていた。

興行師のジョージ・ヒッチコックはジョゼフから母親が妊娠期間中に体験した出来事を聞き、ジョゼフをエレファントマンと名付けた。「半分人間、半分象」の宣伝文句と共にレスターやノッティンガムなど、ミッドランド地方を巡業した。興行は成功とは程遠いものだった。ヒッチコックは東ロンドンのホワイトチャペルで結合双生児や小人症など、異形の人々を集めた、当時ロンドン最大の見世物小屋だった「ペニー・ガフ(The penny gaff)」を営むトム・ノーマンに手紙を書いた。その年の冬、ジョゼフはヒッチコックに連れられてロンドンに行き、身柄をノーマンに預けられた。

ジョゼフと面会したノーマンはその容姿に衝撃を受けた。あまりに恐ろしい姿のため客が嫌悪し、興行は失敗するのではないかとさえ思った。そこでジョゼフを小屋の裏にあるスペースに置いて知り合いに試験公開した。その結果に満足したノーマンはエレファントマンの一般公開を決め、宣伝を始めた。ジョゼフの生い立ちが大袈裟に書かれたパンフレットも印刷した。ノーマンは店の外に出て呼び込みを始めた。そして会場が一杯になると「さあさあ、お集まりの皆さん、次はいよいよ本日のメインイベントだ」と冒頭のように口上を述べてからジョゼフを公開した。

エレファントマンの興行はそこそこの成績を収めた。パンフレットも売れた。ジョゼフは給料を受け取った。そして夢見た。

「いつの日か、お金を貯めて自分だけの家を買うんだ」

運命の出会い

見世物小屋の真向かいにロンドン病院(現ロイヤル・ロンドン病院)があった。見世物小屋にはそこで勤務する医療関係者なども訪れていた。その中に1人の若い研修医、レジナルド・タケットがいた。タケットはエレファントマンのことを外科医、フレデリック・トリーヴス(Frederick Treves)に耳打ちした。トリーヴスは医者として興味を示した。後日、興行主に金を渡し、ショーが始まる前にジョゼフと会わせてくれるよう依頼した。面会当日、真向かいのロンドン病院を出たトリーヴスはホワイトチャペルロードを横切り、「ペニー・ガフ」を訪れ、薄暗い裏庭へと案内された。

ジョゼフの運命が大転換する出会いがすぐそこに迫っていた。

 

後編につづく

エレファントマンが公開されていた「ペニー・ガフ」は座席数1000を超えるロンドン最大の見世物小屋だった。現在はサリーを売る店舗になっている。(写真中央)
©Japan Journals

週刊ジャーニー No.1165(2020年11月26日)掲載


一青年の重過ぎる生涯 エレファントマン 【後編】

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一青年の重過ぎる生涯 エレファントマン 【後編】

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/手島 功

前編を読んでいない方はオンライン・ジャーニーでご覧ください。

トリーヴス医師にとってエレファントマン(ジョゼフ・メリックJoseph Merrick)との出会いは衝撃的なものだった。外科医としてこれまで事故や火災、刃傷沙汰で傷ついた患者や遺体とさんざん向き合ってきた。しかし目の前にいる生き物は、トリーヴスの知識ではおよそ説明できるものではなかった。わずか15分ほどの面会を終え、ロンドン病院に戻った。

後日、診察をしたいので一度、ジョゼフを病院に連れて来るよう見世物小屋のノーマンに伝えた。数日後、ジョゼフは顔をスッポリと覆うフードが着いた特殊な帽子を被り、ブカブカの黒いコートを着てやってきた。トリーヴスは出来る限り冷静にジョゼフに話しかけた。しかし突然慣れない場所に引き出されたジョゼフは狼狽し、すっかり怯えてトリーヴスの質問に答えることはなかった。そのためジョゼフが言葉を理解しないのではと思い込んだトリーヴスは、知的障害もあるようだと思うようになった。

トリーヴスはジョゼフの全身をくまなく観察した。皮膚には随所で乳頭状の腫瘍が現れ、頭部、そして胴体部分では皮下組織が増大した上に弛緩して垂れ下がっていた。頭部の周囲は92センチに及んだ。右手が極端に肥大化する一方、左手や性器には異常が認められなかった。一方でトリーヴスはジョゼフが全身から発する強烈な悪臭に悩まされた。臭いのもとは露出した皮下組織にあるようだった。このような診察が何度か繰り返される中、トリーヴスはジョゼフの全身を撮影した。別れ際、トリーヴスは診察券を1枚、ジョゼフのコートのポケットに忍ばせた。

さらに後日、トリーヴスはこの奇病に関する情報が得られるかもしれないと思い、ジョゼフを病理学界に連れて行き、大勢の医師の前で公開した。しかし医師たちの好奇の視線がジョゼフに突き刺さるだけだった。次に診察の誘いがあった時、ジョゼフは興行主のノーマンに「市場の牛のように裸にされて舐めるように見られるのはもう嫌だ」と抵抗した。ノーマンはそれ以降、無理強いすることはなかった。

棄てられて

外科医フレデリック・トリーヴス(Frederick Treves 1853~1923)。1902年、当時は危険と言われた虫垂炎手術を戴冠直前のエドワード7世に施し成功させたことで準男爵の称号が与えられた。

数日後、見世物小屋「ペニー・ガフ」は突然、警察によって閉鎖された。当時英国では見世物小屋は公序良俗に反するものとして問題視され始めていた。稼ぎの場を失ったジョゼフはレスター時代の興行主サム・ロジャーの元に戻り、再び地方巡業の旅に出た。しかし、見世物小屋を有害視する風潮は地方にも及び、国内での興行は困難になった。ロジャーらは大陸に目をつけ、ベルギーに渡った。しかしここでも同様の機運が高まっており、興行はさほどうまくいかなかった。

そんな中、ブリュッセル滞在中にマネージャーの男がジョゼフの全財産を持って失踪した。身寄りのない異国の街にジョゼフはたった一人、無一文で棄てられた。わずかな所持品を質入れして資金を得、鉄道でオステンドに向かった。そこからフェリーでドーバーに渡ろうと試みたが船会社から乗船を拒否された。仕方なくアントワープからフェリーに乗り、エセックスのハリッジに到着。そこから汽車に乗ってリバプールストリート駅に辿り着いた。頭からすっぽりとフードを被り、強烈な異臭を放つジョゼフはいやが上にも人目を引いた。心ない者がフードをはぎ取り、ジョゼフの顔が露わとなった。駅構内に悲鳴が響き渡り、辺りは騒然となった。騒ぎを聞きつけて警官が駆けつけた。

ジョゼフは救貧院時代にいじめにあった時のように身体を丸め、カタカタと小刻みに震えるだけで何も話さなかった。しびれを切らした警官の一人がジョゼフのコートのポケットをまさぐった。小さな紙片が出てきた。トリーヴスが忍ばせた診察券だった。警官はトリーヴスに連絡をした。すぐに馬車が差し向けられ、ジョゼフはロンドン病院へと運ばれた。到着するとそこにはトリーヴスが待っていた。ジョゼフの目から安堵の涙がとめどなくこぼれ落ちた。

トリーヴスはロンドン病院内にあった屋根裏部屋にジョゼフを収容した。しばらくは内緒で面倒を見ることにした。改めて診察すると初めて会った2年前よりジョゼフの腫物は遥かに悪化していた。さらに心臓も弱っていることが分かった。トリーヴスの懸命な介護が始まった。

やがてジョゼフの存在が病院内で知られるようになり、医師たちの間で問題視されるようになった。他の医師たちはジョゼフが治癒可能な患者か否かをトリーヴスに問い質した。トリーヴスは正直に病名の特定すらできず、治療法もないことを告げた。同時にジョゼフの病状は悪化を続けているため、何とか病院にとどめて治療にあたりたいと主張した。医師たちの反応は冷ややかだった。ベッドの数は限られている。治癒が見込めない上に治療費の支払い能力がない患者を留めることは病院にとって大きな負担となる。他の患者が動揺するため大部屋を使うこともできず、ジョゼフのための個室と専属の看護師が必要となる。医師たちの言い分には一理も二理もあった。ジョゼフ追放の機運が高まった。

突破口

ジョゼフが使用していたフード付きの帽子。The Royal London Hospital Museum所蔵。

医師たちから厳しい追及を受けたトリーヴスだったが、医師会会長のフランシス・カー・ゴムがジョゼフに同情的だったことが幸いした。カー・ゴムは他の病院や施設でジョゼフを受け入れられないか、ほうぼう手を尽くして聞いたが全て拒絶された。そこでカー・ゴムはジョゼフの生い立ちから病気のこと、救貧院や見世物小屋でのこと、そしてジョゼフをこれ以上院内に留めることが困難であることをしたため、タイムズ紙に寄稿した。医学専門誌「英メディカル・ジャーナル」もジョゼフの特集を組んでこれを後押しした。効果は絶大だった。中にはジョゼフを地方の灯台に収容しろ、といった心無い投書もあったが、富裕層から寄付が続々と届き始めた。たちまちジョゼフを生涯、面倒みられるだけの資金が集まった。反対派の医師たちも沈黙した。トリーヴスはロンドン病院地下にあった2部屋をつないでジョゼフの部屋とした。家具類も搬入され、ジョゼフの「安住の地」が完成した。鏡だけは持ち込まれることはなかった。

トリーヴスは頻繁にジョゼフの部屋を訪れて会話をするようになった。トリーヴスへの警戒心を完全に解いたわけではなかったが、一人の人間として扱われている安心感を覚えた。生まれて初めて長い言葉のキャッチボールを楽しんだ。ある日、トリーヴスはジョゼフが聖書の中の一節をそらんじているのを耳にした。知的障害があると思い込んでいただけに驚きだった。さらにジョゼフが非常に繊細で、豊かな感性の持ち主であることを知った。トリーヴスとジョゼフの間には友情にも似た信頼関係が芽生え始めていた。

トリーヴスはジョゼフが眠る際、横になると頭部の重みで窒息するため、膝を抱えるようにして座り、その膝の上に頭をちょこんと載せて眠っていることを知った。ジョゼフはいつも「普通の人のように、ベッドに横になって眠ってみたい」と言って笑った。

突然の別れ

ジョゼフは一日のほとんどを読書や聖堂などの模型作りをして過ごした。トリーヴスはジョゼフが少しずつ「普通の生活」に触れられるよう気を配った。ある日、自宅にジョゼフを招待し、妻を紹介した。妻と握手を交わしたジョゼフは母親の手のぬくもりを思い出し、その場に泣き崩れた。

その年のクリスマス、トリーヴスはジョゼフを観劇に連れ出した。コベントガーデンにあるドゥルリーレーン劇場でパントマイム劇を堪能した。さらには鉄道に乗り、ノーサンプトンのコテージで数日を過ごすなど、ジョゼフはトリーヴスの計らいでこれまで経験したことのない人間らしい豊かな時を過ごした。それはまるでこれまでの人生があまりにも過酷だったため、神様が大急ぎで帳尻を合わせているかのようだった。

1890年4月11日午後3時、ジョゼフは自室で冷たくなっているところを発見された。普通の人のように、ベッドに横になって眠るように死んでいた。検視の結果、頸椎の脱臼による窒息死と診断された。27歳。ジョゼフの過酷な人生は唐突に幕を閉じた。

ジョゼフを苦しめた疾患は当時、神経線維腫症の一種であるレックリングハウゼン病が疑われた。しかし最近の研究では遺伝的疾患の一つ、プロテウス症候群とする説が有力となっている。

ジョゼフは自分の身体のことを気に病む一方で、正常だった左手を何よりも誇っていた。彼がしたためた手紙にはいつも最後に19世紀初めに活動した牧師で賛美歌作者だったアイザック・ウォッツの詩が引用されていたという。

「私の身体は他人と違う。それに不満を言うことは神を責めること。ただ、もう一度私を創ることが叶うなら、その時は誰もが喜ぶ身体になりたい」。

■本紙編集部が制作した動画『エレファントマン  その壮絶過ぎる生涯』も併せてご覧ください。 https://www.youtube.com/watch?v=o4yT1lkYNw8&feature=emb_logo

週刊ジャーニー No.1165(2020年12月3日)掲載

「フランダースの犬」の作者 ウィーダ 知られざる数奇な人生

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「フランダースの犬」の作者 ウィーダ 知られざる数奇な人生

■ 涙なくしては見られないテレビアニメと言えば「フランダースの犬」。少年ネロと愛犬パトラッシュが悲しい最期を迎えるこの物語は、ベルギーの港湾都市アントワープが舞台だが、実は原作にあたる小説を書いたのは、19世紀に人気を博した英国人作家ウィーダ。今号ではロンドンの窮屈な社会から逃れ、フィレンツェで奔放に暮らした彼女の生涯と、「フランダースの犬」誕生の舞台裏を追う。

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/本誌編集部

1908(明治41)年、春。

「ニューヨークから小包が届いています」。少年向け児童雑誌の発行人で、内外出版協会を立ち上げた山縣悌三郎(やまがた・ていざぶろう)は、耳に入った秘書の声に書き物をしていた手を止めた。小包の差出人は「本田増次郎」。本田は外交官でありながら文筆家としても活躍しており、「女の一生」「路傍の石」で知られる作家、山本有三の義父でもある。当時はニューヨークで結核の療養中であった。

小包の封を開けると、手紙とニューヨーク・タイムズ紙の切り抜き、そして一冊の洋書が出てきた。手紙には、こう綴られていた。

「ウィーダという作家が、貧困の中、イタリアで死去しました。英国政府から給付された年金の大部分を、犬猫の食料に費やしていたとのこと。同封した本は、彼女の傑作のひとつです。ぜひ日本の若者に紹介してほしい」

ウィーダの死亡告知が載せられた新聞の切り抜きを一読した山縣は、早速同封された本を手に取った。そして同年秋、その翻訳本が店頭に並ぶ。この本こそが、ウィーダが1872年に発表した「フランダースの犬(A Dog of Flanders)」である。

贅沢三昧のロンドン生活

週刊誌「パンチ」に掲載されたウィーダ。退廃的で陰気な雰囲気が漂う。

ウィーダは1839年、イングランド東部サフォークの小さな町バリー・セント・エドマンズで、フランス人の父と英国人の母のもとに生まれた。本名はマリア・ルイーズ・ド・ラ・ラメー。幼い頃に「ルイーズ」と上手く発音できず、「ウィーダ」と名乗っていたのが、後にペンネームになっている。読書好きで幼少時から多くの本に囲まれて生活し、とくに父親が語る陰謀うずまく冒険譚や宮廷を舞台にした恋愛物語を聞くのが、何よりの楽しみだった。そんな夢見がちなウィーダの唯一の友達は「犬」。彼女を守るかのように、いつも一匹の犬が傍らに侍っていた。

24歳で文壇デビューを飾ったウィーダは、貴族社会の恋愛模様を情熱的にえがく「新進のロマンス小説家」として一躍人気者となる。1867年にはロンドンの高級ホテル「ランガム・ホテル」に移り住み、これまでの寂しい田舎暮らしを払拭するかのように、夜ごと華やかなパーティーをわたり歩いた。執筆作業はホテルの部屋のカーテンを閉めてキャンドルを灯し、バラに囲まれたベッドの中で行うなど、自分が生み出す世界そのままの優雅な生活を堪能した。

しかし、強い光が当たれば必ず影もできる。大げさな感情表現や、ときにシニカルともいえる社会批判を含ませた文章を酷評する評論家も多く、「陰気な顔」「ナイフのようにキーキーと尖った声」といった辛辣な言葉で揶揄(やゆ)されることもあった。

想い人を追ってイタリアへ

30代に入り、ウィーダは遅まきながら熱烈な恋に落ちる。相手はロンドンで知り合ったイタリア人オペラ歌手。母が止めるのも聞かず、帰国した彼を追って単身でイタリアへ渡航。毎日のようにラブレターを送ったり、オペラ公演のステージ上に花を投げ込んだりと必死にアピールするものの、結局この恋は実らずに終わってしまった。

情熱に身を任せて追いかけてきたウィーダにとって、失恋はかなり堪えた。胸にあいた風穴を埋めるかのごとく、生活はより派手になっていく。ロンドンには戻らずフィレンツェに居を定め、大きな邸宅を手に入れて数々の美術品を収集。華美に着飾っては自邸でパーティーを開いた。また、愛犬家であったウィーダは、ロンドンを離れる際にも数匹の犬を伴ってきていた。常に彼らを連れて歩き、与える食事もビーフ・ステーキやフォアグラ、ケーキなど、高級なものばかり。その常軌を逸した溺愛ぶりは誰もが知るところだった。

酷使される犬たち

「フランダースの犬」刊行当時のウィーダ。© National Portrait Gallery, London

1871年、イタリアを舞台にした恋愛小説を次々と発表し、作家として確固たる地位を築く一方で、ウィーダは作風に悩み始めていた。

「そろそろ新しい分野に挑戦したい」

だが、これといって良い案が浮かばない。そこで気分転換を兼ねて、ベルギー旅行を計画する。当時のベルギーはフランスとプロイセンによる普仏戦争が終結し、ようやく落ち着きを取り戻したところであった。そして、この決断は彼女に転機をもたらした。

ちょうどアントワープを訪れたときだった。ウィーダの目に、信じられない光景が飛び込んできた。息を切らしながら、ぬかるんだ道で荷車を引かされている犬の姿だ。荷車に犬を繋ぎとめている皮紐はその身体に食い込んでおり、歩みが遅くなれば鞭打たれる。道の端では、痩せ衰えた犬がピクリとも動かず倒れ伏していた。

ベルギーは中立国として普仏戦争に参戦していなかったが、隣国同士が争っていれば被害を受けるのは必然。当時のアントワープも例にもれず、とくに郊外では市民は苦しい生活を強いられていた。馬を所持する余裕があるはずもなく、人々は「貧乏人の馬」と呼ばれる犬に荷車を引かせていたのである。犬を家族同然に愛し、イタリア動物愛護協会の設立に尽力するほどの動物愛護家であるウィーダにとって、あまりにも胸が痛む情景だった。

「この現状を世界に知らせなければ!」

ホテルに戻ったウィーダは、すぐに机に向かった。今回のアントワープ訪問は、憧れていた画家ルーベンスの祭壇画を見ることが目的だった。しかし、酷使される犬や貧しい村の様子を見て、一気に物語が頭の中を駆け巡った。恋愛小説が多い彼女の作品の中では異色の「フランダースの犬」が刊行されるのは、その翌年のことである。

19世紀に描かれた絵画「ブリュッセルのミルク売り」。馬は高級であるため、農家の荷車を引くのは犬だった。

「誰も信じられない」

40歳を目前に控えたウィーダは、再び激しい恋に身を焦がした。ところが、その恋も長くは続かない。恋人であった男性は、なんとウィーダの友人とも恋愛関係にあったことが発覚したのだ。ウィーダには、心の底から信頼しあえる友人がほとんどいなかった。人気作家として敬われ、豊潤な資産を手にしていたが、それゆえに周囲は多くの欺瞞(ぎまん)や不実に満ちており、贅を尽くした生活を見せつけることで己を守ってもいた。そうした中で、唯一ともいえる親友の裏切りは、ウィーダを絶望の谷に突き落とした。

「もう誰も信じられない…」。満たされない愛情は、人間を裏切らない犬へとますます注がれていく。多いときには、30匹近くの犬や猫に囲まれて暮らすこともあった。

50代に入ると、浪費や動物救済のための裁判費用によって、財産が底をつき始める。元来金銭に無頓着な性格であったが、執筆作業が滞って収入が激減したことも一因だった。だが、どんなに困窮しようとも犬に高級な食事を与え続けた。服飾品や家財を売り払うのはもちろん、英国政府から支給される年金も彼らの食費にあてた。やがて家賃滞納で屋敷を追い出され、長きにわたる放浪生活を余儀なくされる。

ネロのような最期

1907年冬、1人のやせ細った老婆が、イタリア・トスカーナ地方の海辺にある町ヴィアレッジョの安アパートに運び込まれた。駅前の馬車の中で寝泊まりするホームレス女性であったが、厳しい寒さで肺炎を患い、さらに栄養失調で左目を失明。少しでも暖をとろうと、犬たちと寄り添って眠る姿を見かねた人々が、善意で家を提供したのである。しかし病状は回復せず、翌年1月25日、老婆ことウィーダは69年の生涯を閉じた。彼女の側には数匹の犬たちが付き添い、まるで「フランダースの犬」の最後の場面を重ね合わせたかのようだった。

ウィーダ死去のニュースは、その数奇な生涯とともに英国や米国で大々的に取り上げられた。ニューヨーク・タイムズ紙の記事を読んだ本田増次郎は、すぐに「フランダースの犬」を購入し、懇意にしていた日本の出版社へ送ったのである。爆発的なベストセラーとはならなかったが、その後、他の出版社も翻訳本を発行。そして1975年、欧米の児童文学を紹介するアニメシリーズ「世界名作劇場」で放映されたことにより、その名は日本中に広まった。ウィーダが紡いだ物語は、今も日本人の心の中で生き続けている。

「死ぬ前に一度は見たい」とネロが願った、ルーベンスの「キリストの降架」。聖母大聖堂内にルーベンスの絵は4点納められており、「聖母被昇天」「キリストの昇架」「キリストの降架」「藁の上のキリスト」を見ることができる。
© Mattana
アントワープの聖母大聖堂。

涙があふれてとまらない「フランダースの犬」あらすじ

▲アニメシリーズ「世界名作劇場」のネロ(右)とパトラッシュ(左)、後ろにいるのは友達のアロア。

19世紀、アントワープ近郊の小さな村ホーボーケン。両親を亡くし祖父とともに暮らす10歳の少年ネロは、重い荷車を引く労働犬として酷使されたあげく、土手に捨てられていた犬パトラッシュを助けた。祖父とネロは村の農家から預かったミルクを毎朝アントワープへ運んで売る仕事で細々と生計を立てており、パトラッシュは自ら進んでミルク缶がのせられた荷車を引き始める。

絵を描くことが好きなネロは画家ルーベンスに憧れ、いつかアントワープの聖母大聖堂にあるルーベンスの絵を見たいと切望する。当時、その祭壇画はカーテンで隠されており、お金を払わないと見ることができなかった。

やがて祖父が亡くなり、ネロは村の風車に放火した疑いで仕事をなくしてしまう。住まいも失い、最後の望みをかけた絵のコンクールにも落選。絶望し吹きすさぶ雪の中を茫然と歩き続け、クリスマスのミサが終わった大聖堂に入って行く。そこで目にしたのは、カーテンが開けられたルーベンスの絵であった。

「とうとう僕は見たんだ…。マリア様、ありがとうございます。これだけで僕はもう何もいりません」

必死に後を追いかけてきたパトラッシュがネロのもとへ駆け寄り、ともに崩れるように身体を横たえる。ネロはパトラッシュを抱きしめた後、そっとささやいた。「パトラッシュ、疲れたろう。僕も疲れたんだ。何だかとっても眠いんだ、パトラッシュ…」。翌朝、絵の前で凍死している彼らが発見されたのであった。

週刊ジャーニー No.1168(2020年12月17日)掲載

530年ぶり 世紀の発見!駐車場でよみがえった王 リチャード3世 【前編】

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530年ぶり
世紀の発見!駐車場でよみがえった王 リチャード3世 前編

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/本誌編集部

■ シェイクスピアの戯曲「リチャード3世」の中で、醜い姿をした狡猾で冷酷な人物として登場するリチャード3世。近親者を次々と手にかけて王位を簒奪(さんだつ)した「惨忍な暴君」というイメージが定着しているが、一方で軍事的才能に恵まれた「勇敢な王」だったとも言われている。今号では、戦いに明けくれた彼の激動の生涯と、その遺骨発掘をめぐる運命的な物語を追う。

眠りから覚めた「暴君」

2012年9月5日、イングランド中部の都市レスター。

立ち入り禁止となった市営駐車場の土壌を、作業員や考古学者らが細心の注意を払いながら黙々と掘り返していた。この駐車場は、13~16世紀にかけて修道院「グレイフライヤーズ」が建っていたとみられている場所だ。

この修道院は『稀代の暴君』として知られるリチャード3世とのつながりを、古くから指摘されてきた。遺骨はそこに埋葬され、かの王はそのまま地中に眠っているとも、ヘンリー8世の時代に修道院が閉鎖・破壊された際に掘り起こされ、川に投げ捨てられたとも言われていたが、5世紀以上にわたり、真相をつきとめた者はいなかった。

そして長年にわたる調査の結果、「修道院跡地でいまだに眠り続けているに違いない」と強く信じる、ある女性歴史家の働きかけによって、2009年、ついにリチャード3世の遺骨を探すための一大発掘プロジェクト「Looking for Richard(LFR)」が動き出したのだった。この日は、発掘作業がスタートしてから12日目。すでに建物の土台や床に敷き詰められていたタイル、数体の遺骨を見つけていた。

作業をはじめて数時間ほど経ったころのこと。修道院内でもっとも神聖な場所であり、祭壇や聖歌隊席が並ぶ内陣跡を手作業で掘り進めていた作業員が、人骨らしきものを発見。現れたのは、戦闘で受けたと思われる傷だらけの頭がい骨だった。修道院などに埋葬される場合、遺体は布に包まれるか、棺に納められるのが一般的であるにもかかわらず、布や棺があった形跡がない。そして何よりも埋葬地が内陣ということは、この遺骨がかなり高貴な身分の人物であることを示している。

「これはもしかして!?」

現場は騒然となった。現場責任者や発掘プロジェクトの担当者らを大急ぎで呼び寄せ、関係者が固唾をのんで見守る中、全身を覆った土を慎重に取り除いていく。やがて姿を現したのは、両手を縛られ、背骨がS字型に大きく曲がった人物の遺骨。リチャード3世の身体的特徴と合致するものだった。

いわくつきの王のものと思われる遺骨発見のニュースは瞬く間に広がり、世界を驚愕させた。在位はわずか2年であったにもかかわらず、シェイクスピアの戯曲によって、残忍冷酷、醜悪不遜、奸智陰険など、最大級の汚名を被せて語られてきたリチャード3世。戦場で命を散らせた最後の王でもある彼は、果たしてそれほどまでに極悪人だったのであろうか?

兄への強い忠誠

リチャードが生まれたフォザリンゲイ城跡。後にスコットランド女王メアリー・ステュワートが幽閉・処刑された場所でもある。現在は建物の一部だった石や砦跡の丘のみ残っている。

リチャード3世ことリチャード・プランタジネットは、エドワード3世の曾孫であるヨーク公夫妻の8男として、1452年にノーサンプトンシャーのフォザリンゲイ城で産声をあげた。夫妻は13人の子どもに恵まれたものの、うち6人は早逝。リチャードはその12番目で、実質上の末っ子だった。逆子でかなりの難産であったため、出産の際にリチャードは脊椎に強い後湾症(側湾症の一種)を患うことになった。

リチャードが誕生した時世は、曾祖父エドワード3世がフランスに反旗を翻したことによってはじまった英仏百年戦争の終盤であった。イングランド軍の劣勢が続き、1453年についに敗退。イングランド国内では、当時の国王ヘンリー6世への不満が噴出し、リチャードの父ヨーク公が立ち上がった。ヨーク家が白薔薇を、ランカスター家(ヘンリー6世)が赤薔薇の記章をつけていたことから「薔薇戦争」と呼ばれ、王位をめぐる壮絶な権力争いが繰り広げられることとなる。リチャードの父と次兄は戦死するが、長兄エドワードと母方の従兄弟ウォリック伯爵が勝利をおさめ、1461年、長兄はエドワード4世として即位。リチャードには、弱冠8歳でありながらグロスター公爵位が授与された。

19歳で王となったエドワード4世にとって、年齢の離れた末弟は唯一ともいえる「気を許せる存在」だったのだろう。常にリチャードを気にかけ、11歳になるころには軍事会議に参加させるようになる。リチャードは兄に忠誠を誓い、めきめきと頭角を現していった。

リチャードの長兄エドワード4世(右)と、年齢の離れた従兄弟のウォリック伯(左)。野心家のウォリック伯は別名「キングメーカー」と呼ばれた。

エドワード4世の王位は安泰なものではなかった。ランカスター派の残党に目を光らせなくてはならず、また政治の実権はウォリック伯が握っていた。その鬱憤を晴らすかのように多くの女性と浮名を流し、やがて遠征先で出会った年上の未亡人と秘密裏に結婚してしまう。あろうことか、敵対するランカスター一族の女性だった。

当然ながら、ウォリック伯はこれに激怒した。フランス王女との婚姻話を進めていた彼は面目を失い、さらに王妃の一族が次々と要職に就き、宮廷内の勢力図が塗り替えられようとしていたのである。1469年、ウォリック伯は自身の娘とエドワード4世のもう一人の弟にあたるジョージを結婚させ、彼と手を組んで反乱軍として決起。エドワード4世を王位から追い落とし、ヘンリー6世を復位させた。

ただウォリック伯はこのとき、大きなミスをひとつ犯した。リチャードを己の陣営に引き込むことができなかったのである。目覚しい能力で軍司令官として国王軍の一端を任されていた16歳のリチャードは、長兄と反撃の準備を整える。そして1471年、エドワード4世は王位に返り咲き、ウォリック伯は戦死。幽閉されたヘンリー6世も、ロンドン塔内で殺害された。

裏切りには裏切りを

エドワード4世の治世が長く続いていたら、歴史は変わっていたかもしれない。だが、まわりはじめた運命の輪を止める術はなかった。

1483年、ヨークシャーのミドラム城で妻子と過ごしていたリチャードのもとに、エドワード4世の急死の報が届く。まさに「寝耳に水」の出来事であった。リチャードはエドワード4世が復位した翌年に、ウォリック伯の末娘アン(リチャードの兄であるジョージの妻の妹。ジョージは処刑、妻は病死している)と結婚し、息子を授かっていた。終始忠実であったリチャードの信用は厚く、ウォリック伯が残した広大なイングランド北部の領地を相続。強大な権力を手にしたが、スコットランドとの国境線をしっかりと護り、領地を公平に治め、領民の評判もよかった。

40歳という若さでの王の死は肺炎が直接の死因だったものの、実は長年にわたる不摂生な生活でかなりの肥満体になっており、派手な女性関係によって多数の病も患っていた。王位は12歳になるエドワード4世の長男(エドワード5世)が継ぐことになったが、それに際し、同王は遺言を残していた。その内容とは「息子が戴冠するまでの国王代理、ならびに成人するまでの後見人(護国卿)としてリチャードを指名する」というもの。エドワード4世の弟に対する深い信頼がうかがえる。ところが、これを不服としたのが実権を握っていた王妃の親族である。一族から後見人をたてたうえで、王の死がリチャードに伝わる前に葬儀を終わらせ、エドワード5世の戴冠式を行おうとしたのだ。

しかしながら、その計画はリチャードの知るところとなった。

「これまで必死に尽くしてきた私を裏切るのか!」

激しい怒りで手を震わせながら手紙を握りしめたリチャードは、ひとつの大きな決断を下す。王を支える右腕になろうと研鑽を積み、奪われた王位を取り戻そうと共に戦った日々――兄の遺志を無にすることは気がとがめるが、これ以上、王妃の一族に好き勝手させるわけにはいかない。

「私が王になる…!!」

リチャードの行動は早かった。

ロンドン塔に幽閉されたエドワード4世の息子で、リチャードの甥にあたる、エドワード5世兄弟。幽閉中に殺害されたと伝えられている。

まずは王妃を油断させるために、エドワード5世に忠誠を誓う旨を記した文書を送った。そして兄王の追悼ミサをヨークで行い、喪に服すふりをしながらじっと機を待つ。やがてエドワード5世が滞在中のウェールズからロンドンへ向かったことを知ると、リチャードもヨークを発った。ノーサンプトンでの合流に成功したリチャードは、同行していたエドワード5世の側近たちを捕縛した後、エドワードの護衛として堂々とロンドンに進み、10歳の次男ともどもロンドン塔に幽閉した。身の危険を感じた王妃は、中立を保っていたウェストミンスター寺院へ逃げ込んでいる。

議会承認のもと、リチャードはエドワード4世が「重婚」していたことを明かし(事実関係は解明されていない)、王妃との婚姻無効を宣言、子どもたちはエドワード4世の庶子であるとして王位継承権の剥奪と自身の即位を表明した。新国王「リチャード3世」の誕生である。30歳の初夏のことだった。

しかし、少年王を廃して短期間のうちに力技で就いた玉座が、平穏無事であろうはずがない。壮絶な最期を遂げるまでのカウントダウンが、始まった瞬間でもあった。

 

後編につづく

週刊ジャーニー No.1176(2021年2月18日)掲載

530年ぶり 世紀の発見!駐車場でよみがえった王 リチャード3世 【後編】

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世紀の発見!駐車場でよみがえった王 リチャード3世 後編
© Carl Vivian, University of Leicester

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/本誌編集部

■〈 前回までのあらすじ〉兄王の右腕となるべく尽くしてきたリチャードだったが、亡き王の遺言を無視し、自身を排除しようとする王妃の裏切りに激怒。甥にあたる少年王を廃して、短期間のうちに力技で玉座に就いたものの、その強引な手法は大きな反発を呼び…。今号では「冷酷非情な暴君」とされたリチャード3世の凄惨な最期と、その遺骨発掘をめぐる運命的な物語を追う。

不安定な王位と相次ぐ死

わずか12歳のエドワード5世を「庶子」と公表して王位継承権を抹消させ、かわりに国王となったリチャード3世が最初に取り組んだことは、要職に就いている前王妃一族の一掃だった。

しかし、根回しのない突然の強引な即位や人事の一新に対し、「王位簒奪」「絶対君主」と捉える者も少なくなく、リチャードが王位を継ぐことに異を唱えていた反リチャード派はもとより、支持者のなかにも密約を交わして寝返る者が出てきてしまう。当時のイングランドの勢力は、主に3ヵ所に分散されていた。第1の地は政治の中心であり、国王のいるロンドン。第2の地は皇太子のいるウェールズ。第3の地は国境を守り、軍事の要であるヨーク。第3の地を引き継ぎ、名実ともに勇将として認められていたリチャードが、政権と軍事権の両方を手中に収めたことに、有力貴族たちは脅威を感じはじめたのだ。反乱の噂が絶えず、常に政情は不安定であった。

その機を逃さず、リチャード打倒に立ち上がった人物がいた。傍系ながらランカスター家の血を引くヘンリー・テューダー(のちのヘンリー7世)である。ヘンリーの母はエドワード3世の血筋の出身であったが、庶子の家系であったため、王位継承権を認められていなかった。それゆえに、エドワード4世が復位したときにも粛清の対象にならず、ヘンリーはフランスで亡命生活を送っていたのである。

さらに負は連鎖していく。1484年、生まれながらに病弱であったリチャードの息子が10歳で早逝。息子の後を追うかのように、妻も結核で死去してしまった。立ち込める暗雲を吹き飛ばすべく、リチャードは決意する。

「ヨーク家とランカスター家の因縁の戦いに、決着をつけよう」

家族の死が相次ぐ中、イングランドへの上陸を目論んで幾度も攻撃をしかけてくるヘンリーに、リチャードは苛立ちを隠せなくなっていたのだ。

1485年6月、リチャードはノッティンガムに滞在し、軍装備の拡充・製造に取りかかる。これまでヘンリーの上陸を阻んできたが、あえて降着を許し、戦場で壊滅しようと考えたのである。

ヘンリー・テューダー(右)とリチャード3世(左)。ヘンリーは、ヘンリー8世の父にあたる。

鬼神の壮絶な最期

運命の8月がやってくる。

ヘンリーがウェールズに降り立ったことが伝えられると、リチャードは北部から援軍を呼び寄せ、南部からの援軍はレスターで合流するよう指示する。20日の夕方、リチャード軍はレスターに集結。翌21日の朝、ヘンリーがアザーストーンに到達したとの報を受け、決戦の地へと進軍を開始する。22日朝、ついに両軍はレスターから西へ20キロほど離れたボスワース平原で向き合った。掲げられた無数の軍旗が大きくたなびき、甲冑の触れ合う音と馬のいななき以外、物音はしない。恐ろしいほどの緊張感が辺りを包んでいた。

バン! バーン!

リチャードの軍から敵陣に放たれた銃声を合図に、戦いの火ぶたは切って落とされた。

リチャードは勝利を確信していた。戦闘準備は万全であったし、兵力も圧倒的に有利(リチャード軍1万人、ヘンリー軍5000人)であるうえ、歴戦を戦い抜いてきた経験と自信があったからだ。一方、ヘンリーには軍事経験がなかった。軍の全権を握っていたのはオックスフォード伯で、彼さえ仕留めれば戦いはすぐに終結するように思われた。

リチャードは中央に本軍、右翼にノーフォーク公軍、左翼にノーサンバランド伯軍という布陣を敷いていた。オックスフォード伯はまず右翼に狙いを定め、ノーフォーク公を討ち取る。リチャードはすぐさま左翼に指令を飛ばすが、ノーサンバランド伯は軍隊をその場にとどめたまま動かない。

「裏切りだ!」

リチャードは叫んだ。この背信によって本軍は中央に取り残され、オックスフォード伯軍に囲まれてしまう。絶体絶命の危機に陥ったリチャードの目に、前方からスタンリー卿の援軍(6000人)が到着するのが映った。

「よし! これで挟み撃ちにできる!」

ところが希望を抱いたのもつかの間、なんとスタンリー卿も行進をやめて止まってしまう。

「裏切りだ! おまえもか!」

リチャードは怒りで目の前が真っ赤になった。打開策はないかと周囲に目を走らせると、主戦場から離れた場所で少人数の騎士たちに守られているヘンリーの姿を捉える。「奴を討つしか方法はない」。リチャードは側近に合図を出すと、愛馬の脇腹を力いっぱい蹴り上げて一気に駆け出した。

「ついてこれる者は来い!」

リチャードを先頭にした少数隊は敵兵を凪ぎ倒しながら、一直線にヘンリーへと向かっていく。みるみるうちに距離を詰めていく様は、鬼神さながらだった。しかし、あと一歩というところで邪魔が入る。中立を保っていたスタンリー卿の軍が、リチャードを包囲したのである。リチャードは馬から引きずり下ろされ、襲いかかる数多の剣や斧の前に倒れた。享年32、在位期間はわずか2年だった。

遺体は丸裸にされた後、両手首を縛られた状態で馬にのせられてレスターに運ばれ、衆目にさらされた。ヘンリーがロンドンへ凱旋すると、葬儀はもちろんのこと、身体を清められることさえもなく、グレイフライヤーズ修道院の内陣に簡易的に掘られた穴に放り込まれる。こうして約30年におよぶ薔薇戦争は幕を閉じた。

創作された「極悪人」

駐車場に書かれた「R」の文字。ブルドーザーでここから掘り返された。同所は現在、リチャード3世ビジターセンターになっている。
© Carl Vivian, University of Leicester

「歴史は勝者によって書かれる」という言葉があるように、リチャードの評判が悪いほどヘンリーにとって都合がよかったため、「テューダー朝の敵」としてリチャードは「悪役」に仕立て上げられた。そうして生み出されたのが、腕は萎え、足を引きずり、背中に大きなコブを背負った「醜悪な姿」を持ち、ヘンリー6世や2人の実兄、幼い甥たち、側近などを次々と殺害して王位を奪った「極悪人」である。とくにシェイクスピアによって、その人物像は後世に広く伝わった。

リチャードが見直されはじめたのは、18世紀以降のこと。彼の名誉回復を目指す「リカーディアン(Ricardian)」と呼ばれる歴史家や歴史愛好家たちが登場。そのうちの一人が、リチャードの遺骨発掘プロジェクトを立ち上げた女性、フィリッパ・ラングリーである。

2015年、厳かに進んだリチャード3世の葬列。レスター大学を出発、ボスワースを経由して、レスター大聖堂へと向かった

リチャードの墓の探索はこれまでも試みられてきたものの、手がかりを掴めたことはなかった。ラングリー氏は当時の地理を徹底的に検証し、現在は駐車場となっている旧小学校の裏地が、リチャードが埋葬されたというグレイフライヤーズ修道院の跡地ではないかと推測。レスター大学考古学部の協力を得て、発掘作業がスタートした。2012年8月25日、リチャードが埋葬された日から、ちょうど527年を迎えた日であった。

この遺骨発見には、運命的なエピソードがある。ラングリー氏が駐車場を初めて訪れたときのこと。ふと地面にペンキで書かれた「R」の文字が目に飛び込んできた。その瞬間、まるで天啓を得たかのように「リチャード3世はこの下に眠っている!」と確信したという。彼女の強い申し出で「R」のあった付近から掘り起こされ、見事に遺骨を探し当てた。ちなみに、この「R」は「Reserved Parking(専用駐車区間)」を意味するものだが、それにしては書かれた位置がおかしく、かつて専用駐車区間を設けていた記録もないという。

レスター大聖堂の内陣に据えられたリチャード3世の墓。

発見された遺骨は、リチャードの姉の家系の子孫とのDNA鑑定が行われた結果、リチャードと断定され、「せむし」とされた体形は誇張ではなかったことが証明された(手や足は健康だった)。ただ当時の上着は生地が厚くボリュームがあったため、背骨の湾曲はそれほど目立たなかったとされている。

また彼の頭がい骨に残された戦傷は、逃げることを拒み、「栄光か死か」の二者択一の突撃をかけた壮絶な最期をうかがわせるものだった。頭部には少なくとも8ヵ所の大きな損傷がみられ、長剣で数回にわたり切りつけられた後、左頬から突き刺された長槍が頭がい骨を貫通、後頭部に矛槍が直撃し、これが致命傷になった。さらに、地に伏したリチャードの頭頂部に短剣が突き立てられ、甲冑を剥ぎ取られた後に背と腰を長剣で刺されている。怨恨深かったように思われるが、中世の戦場ではこうした虐殺は珍しくなかったようだ。

よみがえったリチャードは、グレイフレイヤーズ修道院の向かいに建つ、レスター大聖堂にあらためて埋葬された。その石棺には、生前にリチャードが使っていた銘が古ラテン語で刻まれている。「Loyaulte Me Lie(ロワイヨテ・ム・リ)」、その意味は「忠誠がわれを縛る」。兄への忠心と周囲の裏切りに翻弄された生涯であった。

週刊ジャーニー No.1177(2021年2月25日)掲載

東日本大震災発生から10年日本地震学の父 ジョン・ミルン 前編

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東日本大震災発生から10年日本地震学の父 ジョン・ミルン 前編
© Carisbrooke Castle Museum

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/北川 香・本誌編集部

■2011年3月11日、東日本を襲った地震と大津波の 想像を絶する破壊力に、世界中の人々が言葉を失った。 日本人にとって地震は珍しいものではないが、 この『地震大国』で「地震学」が 確立されたのはそう昔のことではない。 しかも、その礎を築いたのはある英国人だった――。 今回は、ジョン・ミルン博士の 多大な功績を前後編でご紹介したい。

1876年3月8日、25歳の若き英国人科学者が明治政府の招聘で日本にやって来た。政府の役人に迎えられ、案内された日本家屋で眠りにつこうとした時、彼を突然襲ったのは「ぐらぐらっ」という不気味な揺れ。床にへたり込み、しばらくは口もきくこともできなかった。この英国人こそが、「日本地震学の父」にして「西欧地震学の祖」と言われるジョン・ミルンだ。

やがて正気を取り戻した時、ミルンの頭の中に様々な疑問が浮かんできた。あの不思議な現象は何なのか? あれだけの揺れがどこから来るのか? なぜ日本に起こって、英国には起こらないのか? 持ち前の探究心が刺激されたミルンは、この不思議な「揺れ」に大いに興味を覚えたのだった――。

ミステリアスな極東の地へ

ミルンの日本滞在中に起きた地震で、被害を受けた村の様子。1876~95年撮影。
© Carisbrooke Castle Museum

ジョン・ミルンは1850年、スコットランド人の両親のもと、リヴァプールで生まれ、ランカシャーのロッチデールにて育った。子供の頃から『知りたがり屋』で、いつも周りの大人を質問攻めにしていた少年だった。

やがて一家はロンドンに移り、17歳になったミルンはロンドン大学キングス・カレッジの応用科学部に入学。数学、機械学、地質学、鉱山学等を学び、さらに王立鉱山学専門大学に進んで地質学と鉱山学を極めた。積極的に実地調査を行い、ランカシャーやコーンウォール、中央ヨーロッパ各地の鉱山を回った。そして23歳になる頃には、地質学と鉱山学の分野で頭角を現すようになった。

学位と現場経験の両方を持ち合わせたミルンは、就職にも困らなかった。1873年、サイラス・フィールド社に鉱山技師として雇われ、ニューファンドランド島(現在はカナダの一部)で石炭と鉱物資源の発掘調査に取り組んだ。そして島の岩石の種類や構造を論文にまとめ、地理学会誌に発表。氷河にも興味を持ち、氷と岩石の相互作用についての調査も行っている。その後も有望な若手地質学者・鉱山学者として引っ張りだこだった。

1875年、ミルンのもとに意外な雇い主からの仕事が舞い込んだ。日本政府が新設した工部大学校の地質学・鉱山学教授職への招聘で、近代化を目指す明治政府のいわゆる「お雇い外国人」政策の一環だった。ミルンは極東のミステリアスな島国・日本で働けることを喜び、すぐに承諾した。

日本までの旅路は容易ではなかった。船酔いをするミルンは船旅を嫌い、周囲の猛反対を押し切って、ヨーロッパ、ロシア、シベリア、モンゴルそして中国へと至る陸路を選択。しかしミルンにとってこの旅程は、足を踏み入れたことのない地域で地質学の研究を深めることができる最高のチャンスだった。壮大な旅は全行程に11ヵ月を要した。

貪欲に火山を調査

工部大学校の環境は、ミルンにとって非常に働きやすいものだった。学長はスコットランド人でグラスゴー大学出身の技師だったし、同僚には英国ですでに顔なじみであった教授もいた。外国人教員のスケジュールはびっしり詰まっていたが、若いミルン教授は活力に満ち、高い評判を築いていった。豊富な知識と内容の濃い授業で学生を魅了し、研究活動にも余念がなく、教材が不十分だと自ら教科書をつくった。特に結晶学の教科書は非常に専門性の高いもので、後に英国で書籍として出版されている。また、時間の許す限り実地調査に出掛け、日本社会の歴史、火山と地震についての知識を深めていった。

1876年に伊豆大島の三原山が噴火した時には、自らの身の危険を心配するよりも研究を優先し、「貴重な研究材料を逃すまい」と現地へ急行。噴火が収まって間もない噴火口に近づき、直径1キロ、高さ100メートルという円形競技場のような噴火口を見下ろしながら、注意深く調べて回った。この調査により、ミルンは火山の生成過程に関する知識を深め、同時にこのような噴火が地震の原因となるのではと仮説を立てている。

この後もミルンは浅間山、千島列島、富士山を含め、日本中の50の火山に登って観測を実施した。そして総合的な研究の結果、「火山活動は地震の原因ではない」という結論に達している。

運命の女性との出会い

ミルンによって撮影されたと思われる、妻のトネ。
© Carisbrooke Castle Museum

1878年、日本に来てから2年目のある日、ミルンに運命の出会いが訪れる。大学校の休暇を利用した探検旅行で函館にやって来たミルンは、ハンプシャー出身の自然学者トーマス・ブラキストンと知り合い意気投合。ブラキストンは日本の鳥類学の基礎をつくった人で、ミルンと同じく学者としての名声を求めるよりも、謎を解き知識を深めることに集中するタイプの学者だった。このブラキストンがミルンに紹介した日本人女性が、堀川トネである。

トネは1860年、函館山の願乗寺(今の西本願寺別院)の住職・堀川乗経の娘として生まれた。日本はその頃、桜田門外の変で井伊大老の暗殺が起き、幕府は力を失い始めていたが、函館は貿易港として栄え、外国人居留者も多かった。ブラキストンもその一人で堀川家の近所に住んでおり、長いつきあいがあったのだ。

トネは当時の女性としては珍しく、「女性の身でも男性同様に夢を抱いて生きたい」と志す先進的な人物だった。外国や英語に強い興味を持っていたトネは、ブラキストンの勧めで、東京にできたばかりの開拓使仮学校女学校で英語を学んでいた。上流階級の子女が集う中、身分差から辛い思いをしながらも必死に勉強に身を投じていたが、幼い頃から患う脳の病気(詳しい病名は不明)が悪化し、夢半ばで函館へ帰郷。最愛の父も突然亡くなり、心身共に疲れ切っていた彼女が父の墓参りに行った墓地で出会ったのが、ブラキストンに同行していたミルンだった。

2人は3年におよぶ東京と函館の遠距離恋愛の末、1881年に結婚。トネは日本の文献の英訳や歴史の調査など、ミルンの研究に助力した。

ミルンによって生き返った女 堀川トネ

英語を学ぶために、難関の試験を突破して開拓史仮学校女学校へ進んだものの、幼少期から患っていた病気が悪化し、志半ばに退学せざるを得なくなったトネを待っていたのは、函館での「針のむしろ」のような生活だった。
学業の挫折に加え、病気持ちの女性に対する周りからの冷たい目…。呉服屋の息子から縁談が舞い込むも、「洋服を着せたらさぞ似合うだろう」というのが見初めた理由であったと聞いたトネは、「女性は着せかえ人形じゃない。私は飾り物じゃない。女を自分の所有物とみなすような人は好きになれない」と縁談を断った。そんな「先進的」なトネは「やはり脳の病だ」と誹謗中傷される毎日だった。

そんな中での最大の理解者であった父の急死。人生のどん底にいたトネは、函館の墓地でミルンと出会い、瞬く間に恋に落ちた。遠距離ゆえに1年に2度ほどしか会えなかったが、頻繁なラブレターのやりとりが2人の気持ちを近付けた。
3度目に会った時にトネは、ミルンに一生治らない病を持っていることを告白。それに対しミルンは「あなたが受けた屈辱と悲哀の経験をもとに、より広い視野で大きく物事を見ることが本当の勉強だ。私は地震と火山の研究に夢中だ。あなたも英語の勉強がしたいと言っていたね。2人でそんな生活を共にしよう」とプロポーズした。翌年函館に来るはずのミルンを待ちきれず、トネは単身東京に向かい、霊南坂教会で挙式。ミルン30歳、トネ20歳だった。婚姻届は後に渡英が決まってから出されたが、その時にトネは英国での永住を覚悟し、函館に永遠の別れを告げている。自分の意志で外国人との恋愛・結婚を貫くトネには、病に悩む姿はもう見られず、強く逞しい女性となっていた。

トネは34歳の時に、ミルンと共に渡英。ミルンの研究生活を支えながら、各地からの訪問者の接待に忙しい毎日を過ごした。ミルンの没後も6年間、1人で英国に留まったが、体調を崩し1920年にミルンの遺髪を携えて函館に帰郷。晩年はいつも「私はミルンによって生き返ることができた女です」と語っていたという。

「地震学」の設立へ

世界的に神話や迷信で地震の原因を説明していた時代だったが、工部大学校に新たに着任したジェームズ・ユーイングとトーマス・グレイも地殻運動に強い関心を寄せ、ミルンと3人で研究に没頭するようになる。

ミルンは地震研究を2つのアプローチから行った。ひとつは正確なデータをできるだけ多く集めること。そのツールとして、地震の頻度、大きさ、波動の幅と方角、時刻を記録することができる「計測器」を開発しなければならなかった。そしてもうひとつのアプローチは、組織だった研究機関を立ち上げることだった。地質学、鉱山学の専門家としての経験から、新しい科学を学問分野として設立するには、専門家集団が情報交換し共同研究できる場が必須であることを痛感していたのだ。

ミルンが「地震学者」へ完全に移行したのは1880年、マグニチュード五・五の横浜地震直後のことである。「激しい揺れのために部屋の中を歩くこともできなかった」と後にミルンが話しているように大地震だったが、部屋に実験的に設置していた2つの「水平振子の計測器」が、大まかな震度や発生方角等を測定していたのだ。より広範囲の地震のデータをとり、それを分析すれば、地震のメカニズムを解明できるとミルンは確信した。

最初の全国調査は人海戦術だった。各地の役所に、その地域で年間平均何度地震が起こるか、これまで起こった地震についての詳細な記述を用意するように依頼した。各地から多数の回答があり、日本では平均1日に3~4回の揺れがあることがわかった。さらに、ミルンは葉書調査を考案。東京周辺の町や村に依頼し、週単位で揺れの記録を葉書に書き留め返信してもらったのだ。この結果、揺れのほとんどが東または北東海岸線から派生しており、西または南西海岸線からのものがほぼないことが判明。この葉書調査はその後、東京から約700キロ北部の地域まで拡張して続けられた。

振子地震計の誕生

ミルン(右)とジェームズ・ユーイング。1900~13年頃撮影。
© Carisbrooke Castle Museum

実験や葉書調査と並行して、専門家集団の形成も進められた。ミルン、ユーイング、グレイが中心になって「日本地震学会」を設立。1880年には地震学会第1回大会が開催され、ミルンは地震学の現段階での功績と今後の課題を論じている。そして、開発した「振子地震計」15個を武蔵野平原の電報局内に置いて観測を行うことも発表した。

このグレイとミルンが共同開発した地震計は「グレイ・ミルン式地震計」と呼ばれた。当時の地震計がどのように機能したかというと、地球が震動を起こす度に精密なガラスの針が作動し、回転ドラムに巻かれた、黒煙で色付けされた感度の高い紙に線を描いていく。これが震動を表し、波動が極端であればあるほど、大きな地震ということになった。グレイ・ミルン式地震計は解像度と正確性を高めるために何度も改善が施される。1883年に地震測定に有効な三成分の地震波の同時記録に成功したことから、地震学会が東京気象台での公式地震計として採用した。学会でのミルンの最後の論文によると、グレイ・ミルン式地震計により、1885~93年までの間に8331の地震が記録されている。

地震学会が1892年に解散するまでの12年間に、ミルンは日本の地震学の土台を築いた。ちなみに「地震」という言葉も、この頃に初めて使われるようになっている。こうして3年契約の雇われ外国人として来日したはずのミルンは、気が付けば9回目の春を東京で迎えていた。    (後編へ続く)

週刊ジャーニー No.1178(2021年3月4日)掲載

生誕130周年 謎の失踪劇を起こした ミステリーの女王アガサ・クリスティー 【後編】

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生誕130周年 謎の失踪劇を起こした ミステリーの女王アガサ・クリスティー 【後編】
Photo by Angus McBean © The National Portrait Gallery, London

■〈前編のあらすじ〉 結婚、出産、作家デビュー、そして小説の大ヒット――。順風満帆に見えた日々は、長くは続かなかった。結婚から12年目の夏、夫が起こした「ある騒動」によって、悲しみのどん底に突き落とされたアガサは、驚くべき行動に出る…。生誕130周年、そして名探偵ポアロ誕生から100年を迎え、新たな映画の公開も迫る彼女の後半生をたどる。

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/柳下加奈子・本誌編集部

謎の失踪――空白の11日間

「悲劇」がアガサを襲ったのは1926年のこと。6冊目の著書「アクロイド殺し(The Murder of Roger Ackroyd)」を出版し、そのトリックが「フェアかアンフェアか」で様々な論争を巻き起こすという、ミステリー作家として願ってもない成功を収めた矢先のことだった。

1926年4月、病に臥していたアガサの母親が死去。幼くして父親を亡くし、母親と多くの時間を過ごしきたアガサにとって、その喪失は大きく、悲しみに暮れるアガサはフランス南西部で4ヵ月ほど療養生活を送る。そして8月、英国へ戻った彼女が夫・アーチーと久々に顔を合わせると、彼の口から想像だにしなかった言葉が飛び出した。

「離婚してくれないか?」

アーチーは、アガサに帯同して世界巡業を行った際に知り合った「大英帝国博覧会」の主催者、アーネスト・ベルチャーの友人である10歳下の女性、ナンシー・ニールとの不倫を打ち明けたのだ。アガサは離婚を拒否した。時間が経てば、夫の気持ちも落ち着くだろう…そう信じて過ごしたが、同年12月、アーチーは「クリスマス前後の1週間は友人たちと過ごすことにする」と宣言。アガサの同伴も拒絶したのである。あまりのショックに耐えかねた彼女は、その日の深夜、娘を置いて行方をくらましてしまう。

当時、アガサ一家はバークシャーで暮らしていた。「ドライブに出る」と言って出かけた彼女の車が、サリーの車道脇で乗り捨てられているのを発見。車内には、有効期限の切れた運転免許証と洋服が残されていた。人気作家の失踪は瞬く間に表沙汰になり、これに飛びついた新聞社は、夫に疑惑の目を向け、報奨金付で情報提供を促すなど大騒ぎとなった。

失踪していたアガサが発見されたことを報道する、当時の新聞記事。

それから11日後、アガサはヨークシャーのハロゲートにあるホテルに、夫の不倫相手の苗字を使い「ミセス・ニール」の名で宿泊しているところを保護される。事件の後、数人の医者により「記憶喪失」と診断されたアガサは、このスキャンダルの詳細を語ることはなかった。自身の著書さながらの謎に包まれた失踪劇は「解離性記憶障害説」「夫をこらしめるための計画説」など多くの憶測を呼び、皮肉にも彼女の名をより世間に轟かせる結果となった。

この事件以降、彼女はマスコミを敬遠するようになり、往年の名女優グレタ・ガルボのマスコミ嫌いを文字って「ミステリー界のガルボ」と呼ばれるようになる。家族や親しい友人に囲まれた、穏やかで静かな生活に強く固執するようになった。

遺跡発掘現場での出会い

1928年、アガサとアーチーの調停離婚が成立。その1週間後、アーチーは不倫相手のナンシーと再婚している。しかし、アガサは離婚した後も前夫の名字「クリスティー」を使用し、執筆活動を続けた。そんなアガサの人生が新たな局面を迎えるのは、それほど先のことではなかった。

アガサは英国をしばらく離れようと、長距離夜行列車「オリエント急行」に乗って、トルコとイラクへ旅行に出かけた。そしてイラクでは遺跡発掘作業に参加し、知り合った英国人考古学者夫妻と意気投合。1930年に再びイラクを訪れて、発掘現場へ向かった。そこで運命の出会いを果たしたのが、14歳下の英国人考古学者マックス・マローワン。年齢も育った環境も異なる2人だったが、あっという間に惹かれあい、7ヵ月後に結婚した。アガサは40歳、マックスは26歳だった。以後、アガサは夫の中東での発掘作業にはタイプライター持参で同行し、「メソポタミヤの殺人 (Murder in Mesopotamia)」や「ナイルに死す」など、異国情緒あふれる作品を次々と生み出している。

やがて第二次世界大戦が勃発。アガサは再びロンドンの病院で薬剤師として働きはじめるが、先行きの見えない混沌とした情勢の中で、彼女は自分に万が一のことがあった場合を考えて、名探偵ポアロの最終作となる「カーテン(Curtain)」、同じく名探偵ミス・マープルの完結編「スリーピング・マーダー (Sleeping Murder)」を書き上げる。そして、2作とも「彼女の死後に出版する」という契約を出版社と交わし、著作権をそれぞれ夫と娘に遺した。この原稿は、爆撃で失われるのを避けるためにニューヨークで保管されたが、結局、出版社に急かされて「カーテン」はアガサが亡くなる前の1975年に刊行されている。

ポアロ誕生から 100年 映画「ナイル殺人事件」、12月に公開!

英俳優・監督のケネス・ブラナーが、映画「オリエント急行殺人事件」(2017年)に続きメガホンをとった、名探偵ポアロ・シリーズの第2弾。新型コロナウイルス蔓延の影響で上映が延期され続けていたが、ついに12月18日に公開が決定した(10月6日現在、公開延期の可能性あり)。

容疑者は乗客全員――愛の数だけ秘密がある。

アガサ自身が「旅行物のミステリーで史上最高傑作」と称した「ナイルに死す(映画の邦題はナイル殺人事件)」の舞台は、エジプトのナイル河を行く豪華客船。ギザの3大ピラミッドやアブシンベル大神殿など、エジプトの名所をバックにした映像美とともに、密室殺人、予想もつかないトリック、複雑な人間ドラマが繰り広げられる。

ポアロ役は前回に続きケネス・ブラナーが務めるほか、ガル・ギャドット、アーミー・ハマー、アネット・ベニングら豪華キャストが出演。
映画予告編は こちらから

色褪せないミステリー

1964年、74歳のアガサ。© Joop van Bilsen / Anefo

1971年にその功績を称えられ、大英帝国勲章(デイムの称号)を授かったアガサ。翌年に心臓病を患い、ベッドでの安静を言い渡されたが、オックスフォードシャーにあるテムズ河沿いの町、ウォリングフォードで執筆を続行。滅多に公に姿を見せることはなく、彼女の晩年の作品は、クリスマス・シーズンに合わせて出版されるようになっていたため、アガサ・ファンにとってクリスマスはかけがえのないものとなっていた。だが、それも1976年に終止符が打たれる。

同年1月12日、ウォリングフォードにて永眠。近郊の教会に埋葬された。

85歳で亡くなるまで精力的に活動し、ミステリー界に革新の波を次々と起こしたアガサ。1952年の初演の後、ロンドンでの最長公演記録を持つ舞台「マウストラップ」(短編小説「Three Blind Mice」を戯曲化したもの)や、過去幾度も映像化されている「そして誰もいなくなった」など、アガサの小説は様々な役者や監督により、舞台、映画、ドラマ化され、死後40年以上経った今でも輝きを失うことなく愛されている。遺産や痴情のもつれなど、小説の背景はドロドロしたものであることが多いが、そこには彼女が愛したものがたくさん詰まっている。生まれ故郷のトーキーを中心としたデボンの風情、パリの学校で学んだ音楽、世界各地を旅して目にしたもの、夫の仕事を支え育んだ考古学への興味など、一見、まったく関連性のないものばかりだが、彼女の著した小説のごとく巧に繋がり、物語を彩るエッセンスとなっている。

新型コロナウイルスの蔓延により、毎年恒例の様々なイベントが中止となっている2020年。今年の秋は、自宅でゆっくりとアガサ・クリスティーを読破してみてはいかがだろうか。

アガサが1934~41年までの7年間、再婚した夫と暮らした家。引越し好きだった彼女は数多くの転居先の中でも、とくにこの家を気に入り、「オリエント急行殺人事件」「ナイルに死す」はここで生まれた。同所にはブループラークが飾られている。
58 Sheffield Terrace, London W8 7NA

週刊ジャーニー No.1158(2020年10月8日)掲載

東日本大震災発生から10年日本地震学の父 ジョン・ミルン 後編

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東日本大震災発生から10年日本地震学の父 ジョン・ミルン 後編
シャイド・ヒル・ハウスの庭で、日本人訪問客らと撮影した1枚。最後列右端がミルン、中央の椅子に座る女性が妻のトネ、その隣が助手の広田忍。 © Carisbrooke Castle Museum

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/北川 香・本誌編集部

■〈 前回のあらすじ〉地質学・鉱山学者としての経歴により、 「お雇い外国人」のひとりとして、英国から来日したジョン・ミルン。 初めて体験した「地震」に興味を持ち、研究の末に「地震計」を開発。 地震大国の日本で、外国人ながら「地震学」を確立するが…。 今号では、ミルンの多大な功績・後編をご紹介する。

ワイト島から世界へ

1895年2月、不運な出来事がミルンを襲った。東京の自宅と地震観測所が原因不明の火事で焼け落ち、開発した地震計や収集した文献を含む、それまでの研究成果のすべてを失ってしまったのだ。これはミルンに大きな打撃を与え、「潮時だ」と感じた彼は、大学を辞めて故郷の英国へ戻ることを決意。大学側も9年にわたるミルンの勤務に謝辞を示し、快く辞表願を受け入れた。同年6月の帰国直前には、地震学の礎を築いたミルンの功績を讃え、明治天皇からの招待を受けて謁見も果たしている。

7月、ミルンは妻のトネと共に渡英。トネにとっては、初めての外国生活のスタートであった。ミルンは気候が比較的穏やかで暮らしやすいワイト島に住むことを選び、「英国高等科学研究所(British Association of Advanced Science)」の認可を得て、島の中心部にある町シャイド(Shide)の「シャイド・ヒル・ハウス」を地震観測所として研究を続けることになった。

ミルンは、日本で開発した水平振子地震計をシャイド・ヒル・ハウスと3キロ程離れたカリスブルック城の2ヵ所に設置し、連日記録をとった。とはいうものの、ワイト島だけでは世界中の地震を観測することは当然ながら不可能だ。ミルンは以前から地球規模の地震観測網の必要性を痛感しており、少なくとも20の観測所を世界各地に設置し、相互に協力体制を敷き、共同で研究活動を行いたいと考えていたのである。この大掛かりな構想は、ミルン個人の力だけでは到底実現不可能であった。そのため、ミルンは英王立協会を説得して、まず英国に7つの観測所を設けることに成功。その後、ロシアに3つ、カナダに2つ、米国の東海岸に3つと徐々に建設先を増やしていった。ミルンが地震学の第一人者として、世界的に認められ高く評価されていたことがうかがえる。

1900年には莫大な資金援助が得られたお陰でシャイド地震観測所の設備も整い、本格的な観測を始めることができた。

心強い日本人助手

ワイト島でのミルンは、人がほとんど感じることのない地殻変動の研究、つまり微小地震(地震とは無関係の小さな地動)と遠地地震(遠くで起こった地震が原因で起こる地動)の研究に没頭した。英国内と世界各地における地震観測所の新設計画も順調に進み、日本では東京帝国大学構内に拠点が設けられた。また、南極点到達を目指していたスコット探検隊(1910~12)にも働きかけて、地震計を南極に置いて来てくれるように依頼したりもしている。

このように世界中で測定されたデータは、すべてシャイドに送られて分析された。データは膨大な量にのぼり、とてもミルンひとりではさばき切れない。そんな彼を支えたのが、日本から遥々同行してきてくれた助手の広田忍だ。英国高等科学研究所内に新しく設けられた「地震学調査委員会」の主事の役目までもミルンが果たすことができたのは、広田助手のサポートあってのこと。妻のトネも身近に日本語を心置きなく話せる人物がいることは心強く、ミルン夫妻は心から彼に感謝していた。研究以外のわずかな余暇の時間もミルンと広田助手は一緒に過ごし、ゴルフやクローケーのほか、共通の趣味であった写真を撮影するため、カメラ片手にしばしば出掛けたという。

ミルンは地震学調査委員会や「シャイド地震機関誌」の紙面上で、地震学の分野に国際的な学術交流が必要であることを強く訴え続け、この後20年間、シャイド地震観測所は世界の地震学の中枢となる(1919年にオックスフォードに移転)。

また、ミルンは数々の論文をまとめて本として出版している。「地震とその他の地球の運動」を1886年に、「地震学」を1898年に刊行。これらの著書は、地震学の貴重な教科書として長い間活用された。

謙虚な愛妻家、逝く

ミルンとトネ

シャイドでの地震観測に二人三脚で取り組んできた広田助手が、体調不全から1912年12月に日本へ帰国。その後、間もなく亡くなった。すると、ミルンも後を追うかのように体調を崩し始める。タンパク尿、むくみ、高血圧を伴う腎臓の病気として知られる「ブライト病」を患い、絶えず頭痛に苦しめられた。

翌1913年7月半ばにはベッドから起き上がれなくなり、同月末に昏睡状態に陥った末、トネに見守られながら62歳で息を引き取った。葬儀はワイト島最大の町ニューポートのセント・ポール教会で執り行われ、地震学の研究者のほか、世界中から多くの人々が弔意を表すために足を運んだ。日本からは、九条男爵が大正天皇の代役として参列。井上大使は弔意で「英国と世界の科学界にとって、そしてその名前が決して忘れられることのない日本にとって大きな喪失です」と深く追悼している。ミルンは葬儀後、そのまま同教会に埋葬された。

ミルンの死は、学術界に「ショック・ウェーブ」を巻き起こした。英国高等科学研究所や国際地震学協会がミルンの功績を振り返って敬意を表し、偉大な科学者の他界を惜しんだ。そして研究者としてだけではなく、人間的にも多くの人々から慕われていたことが、日本滞在時代からの同僚かつ友人であった学者、ジョン・ペリーの言葉からもわかる。

「ミルンの才能は、自分の研究にあらゆる人を惹きつけることができたことだ。一方で、ミルンは謙虚だった。地震学以外の分野にも興味を示し、他の研究から学ぼうとした。そしてミルンは最高の友人だった。日本でもシャイドでもいつも時間を作ってくれ、大切にもてなしてくれた」

ミルンはまた、妻思いの良き夫でもあった。夫妻は子供に恵まれなかったため、トネをひとり異国の地に残して逝くことを強く懸念し、彼女が経済的にも社会的にも困らないようにと、生前にあらゆる配慮を行っていた。夫亡き後もトネはシャイドでの生活をしばらく続けたが、やがて体調を崩してしまう。言葉の壁もあり、故郷・函館への恋しさも募っていったトネは、日本の親族からの説得もあって、ついに帰国を決意。第一次世界大戦が終わり、情勢が落ち着いた1920年、25年ぶりに二度と踏むことがないと思っていた日本の地に再び降り立ち、愛する函館へ戻った。

5年後の1925年1月、トネは函館の自宅で死去。64歳だった。ミルンと出会った「思い出の場所」である函館墓地の父が眠る墓の隣に、英国から大切に持ち帰った夫の遺髪とともにトネは埋葬された。

ミルンが眠るニューポートのセント・ポール教会(右)/函館山のふもとにある外国人墓地に立つ、トネの父、ミルンとトネの墓碑=青井元子氏提供 © Carisbrooke Castle Museum(左)。

今も燃えるミルンの情熱

「地震学の父」ミルンの業績は、日英の各団体から称賛された。火災が原因で英国に戻った直後の1895年、ミルンは明治天皇から異例の勲三等旭日章と年千円の恩給が授与されている。さらに、英国王立協会からは誰もが望むロイヤル・メダルを、オックスフォード大学からは名誉学位を、そして東京帝国大学からも名誉教授の称号が与えられている。これらは数々の受章のうちのごく一部だ。

工部大学校での教え子や日本地震学会の同僚の中には、ミルンに強く影響を受け、その後の日本の地震研究に大きく寄与した者の枚挙にいとまがない。たとえば、初の日本人地震学教授となった関谷清景は、開成学校(現・東京大学)の地震研究所でミルンの指導を受け、地震計の完成にも協力している。関谷の後継者の大森房吉は、ミルンと共に、1891年に発生した濃尾地震の余震についての研究を行った。この濃尾地震が人々に与えたショックは大きく、大森らが中心になり、帝国議会に地震の専門研究機関の設置を申請。18年間にわたる地道な活動を経て、1929年に現在の形の「日本地震学会」が創立されている。大森はミルンの地震計の改良も行い、1898年に世界初の連続記録が可能な、より精密に振動を探知する「大森式地震計」を開発し、その後に続く国内での地震計開発の基盤を築いた。

ミルンが日本で地震学を確立してから130年近くが経ったが、彼が後世に残したものは、ひと口にまとめることができないほど大きい。科学と地震学における実質的な研究成果は言うまでもないが、さらに広い視野で将来を見据えた共同研究、日英連携、国際協力の基盤を築くために彼が注いだ情熱は世界中に広がり、火山の大噴火を招くマグマのように今も強いエネルギーを発し続けている。

週刊ジャーニー No.1179(2021年3月11日)掲載


神に挑んだ男 チャールズ・ダーウィン 前編

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神に挑んだ男 チャールズ・ダーウィン 前編

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/根岸玲子・本誌編集部

万物は神の手によって創られた――。

聖書が語るアダムとイブの誕生の伝承が当然のように信じられていた19世紀に、「人間はかつて猿であった」と常識を根底からくつがえす「進化論」を提唱したダーウィン。彼が世界へ与えた衝撃は計り知れないものだった…。今回は、この勇気ある偉大な自然科学者について、前・後編に分けてお届けする。

動物や自然にしか 興味を持てない劣等生

少年時代のダーウィン。

チャールズ・ダーウィンは1809年、イングランド西部シュロップシャーの街シュルーズベリーで、6人兄弟の5番目として誕生した。父は裕福な医師で事業家、母はイングランド最大の陶芸メーカー「ウェッジウッド社」の創始者ジョサイア・ウェッジウッドの孫娘、そして父方の祖父は高名な博物学者という非常に恵まれた一家の御曹司であった。

ところが、エリートの家系に生まれたにもかかわらず、ダーウィンは決して出来のよい優等生タイプではなかった。学校での勉強にはまったく興味を持てず、暇を見つけては寄宿学校を抜け出し、実家に戻って飼い犬と戯れたり、野山を駆けまわって昆虫採集や珍しい植物を探したり、そうして手に入れた「獲物」の標本作りに没頭したりした。

息子に医業を継がせたかった父親は業を煮やして、エディンバラ大学の医学部へダーウィンを無理やり放り込むが、なんと当時行われていた麻酔なしの手術や血を見ることに耐えられず、勝手に大学を中退。フラフラと実家に戻ってきた息子に怒り心頭の父が放った言葉は「医学がだめなら神学を修めて聖職者になれ」であった。

ダーウィンの恩師、植物学者のジョン・ヘンズロー教授。

そこでダーウィンは、ふと考えた。

「田舎で聖職者として生活しながら、余暇を動植物や昆虫など博物学の研究にあてればいいのでは?」

ものすごくよいアイディアに感じた彼は、「快く」ケンブリッジ大学神学部へ入学。そして、ここで彼の人生を大きく変えることになる植物学者、ジョン・ヘンズロー教授と出会うことになる。自然科学のあらゆる知識に通じていたヘンズロー教授に心酔したダーウィンは、標本集めの助手を自ら買って出るなど彼のそばに常にはりつき、大学内では「ヘンズローと歩く男」と呼ばれる程だった。

艦長とのおしゃべり要員?

大学を卒業した1831年の夏のこと。ダーウィンのもとに、ヘンズロー教授から一通の手紙が届く。そこには、英海軍の測量船ビーグル号の艦長が博物学者を探しており、ダーウィンを助手として推薦したいと記されていた。未知の世界への切符を手にしたダーウィンは自身の幸運に感謝したが、実はこの話には「裏」があった。

ビーグル号の艦長、ロバート・フィッツロイは公爵家の血筋を引く名家の出身だった。当時の海軍における規則のひとつに、「艦長は航海中に指揮下にある船員と個人的な接触をしてはならない」という禁止事項があった。業務以外の話を船員と一切してはならず、食事ももちろん一人でとらねばならない。場合によっては数年間にも及ぶ長期航海において、精神的苦痛がどれほどのものになるのか想像がつかなかった。実際にビーグル号の先代艦長は航海中に精神に異常をきたし、ピストル自殺を図っている。その後任となったフィッツロイは、正規の船員ではない人物で、かつ「自分の階級にふさわしい」話し相手を必要としていたのだ。

ビーグル号に与えられた任務は、南米大陸沿岸の測量調査。しかしながら、フィッツロイは博物学の専門家に現地で調査を行わせ、その分野でも功績をあげようと野心を燃やしていた。医者が博物学者を兼ねることが多かったため、船医のロバート・マコーミックに標本採集などの作業を指示。その助手という名目で自身の話し相手を探していたところ、ヘンズロー教授がダーウィンを推薦してきた――というのが、実際の採用理由であった。

脱落する者、昇格する者

ビーグル号の艦長ロバート・フィッツロイ(左)と、航海を終えて博物学者の道を進み始めたダーウィン(右)。

暮れも押し迫った1831年12月、ビーグル号はプリマスを出航。途中、伝染病の危険を避けるため、ダーウィンが憧れていた夢の地、カナリア諸島テネリフェ島への上陸は断念しなければならなかったものの、約2ヵ月後、一行は無事に南米大陸の東沿岸部、ブラジルのバイアに到着した。ここをスタート地点にして、ビーグル号は本格的な海岸線の測量を開始する。

ダーウィンは私費を投じて船員から希望者を募り、独自の探検隊を結成。彼らとともに内陸調査へと向かい、新種の鳥類や昆虫、化石を次々に採集して成果をあげた。裕福な御曹司だからこそできる「技」である。

一方、ビーグル号の公式の博物学者であったマコーミックはというと、船での医療職務が多忙を極めたというのも理由のひとつだったが、経済的に恵まれていたダーウィンとは異なり、フィッツロイの期待する博物学者としての働きの面ではかなり分が悪かった。しかも、代々船医の家系ではあるものの市民階級出身の彼は、フィッツロイやダーウィンとまったく馬が合わない。結局、一行がリオデジャネイロに到着した際、マコーミックは下船してしまう。こうして助手という名の「客人」として航海に参加したダーウィンは、非公式ながらマコーミックのポジションを任されることになり、さらに精力的に調査に乗り出していった。

当時の西欧人にとって「野蛮な未開地」であった南米も、ダーウィンにとってはまさに宝の山。寄港する先々でその記録を詳細につづり、山のように集めた標本を英国のヘンズロー教授へせっせと送った。なかでもアルゼンチンで発掘した「メガテリウム」と名付けられた古代の巨大なナマケモノの化石は、ロンドンの知識人らを大いに驚嘆させている。

南米フエゴ諸島に到着したビーグル号。

ガラパゴスで感じた違和感

南米での調査は4年近くにも及んだ。そしていよいよ、後に英国の自然科学界を激震させることになる新説のヒントをダーウィンに与えた、ガラパゴス諸島へとビーグル号は向かう。

同諸島に到着したのは、1835年9月のこと。ここには珍しいイグアナやゾウガメ、様々な鳥類が数多く生息しており、ダーウィンは島を転々としながら夢中で標本採集に取り組んだ。そうする中で、彼はガラパゴスの生物がこれまで滞在していた南米のものに酷似している点に気がつく。

ここまでの航海でも、実は不思議に思っていたことがあった。訪れる土地ごとに目にする生物は異なっていたが、その差異は微妙といえるものも少なくなかった。「もしかして、ひとつの動植物が生きる環境にあわせて、それぞれ少しずつ形状を変えているのでは…?」。南米大陸から離れているにもかかわらず、ガラパゴス諸島の生物の多くがまるで南米起源としか思えないほどによく似ている。また、イグアナやゾウガメなどは、各島に変種がいることもわかった。

聖書で語られる創世記(天地創造)によると、神の手により天と地が誕生し、海が生まれ、太陽と月が輝き、様々な生命が創り出された。それ以来、大地も生物もすべて「不変のもの」であるはず――。でも何かがおかしい…。そのときはそれ以上深く考えることなく終わってしまったが、数年後にこの「疑問」が再び湧き上がってきたとき、ダーウィンはついに神に挑むことになる。

若き博物学者の誕生

ビーグル号の測量任務は、ほぼ当初の予定通りに終了し、一行はタヒチ、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカのケープタウンなどに寄港したのち、1836年10月、英国のファルマス港に帰着。出発から早5年、ダーウィンにとって出会うものすべてが新鮮で、新たな発見の日々だった。

長旅を終えたダーウィンは古巣のケンブリッジ大学を訪れ、調査活動をサポートしてくれたヘンズロー教授と喜びの再会を果たした。また、ここで自然科学の第一線で活躍する学者たちを紹介されている。彼が旅先から送り続けた膨大な標本群は、研究者たちの注目の的となっており、ダーウィンは博物学界のちょっとした有名人になっていたのだ。

その後、ロンドンでしばらく過ごすことにし、ビーグル号航海での活動をつづった本を出版。さらに、動物学および地質学の分野で様々な講演も行った。5年前、田舎でのんびりと博物学を研究したいという「打算」で聖職者になろうとしていたダーウィンは、旅を経て才気あふれる若き博物学者へと成長していた。           (後編へ続く)

週刊ジャーニー No.1228(2021年2月24日)掲載

神に挑んだ男 チャールズ・ダーウィン 後編

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神に挑んだ男 チャールズ・ダーウィン 後編

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/根本玲子・本誌編集部

前回のあらすじ〉万物は神の手によって創られた――。

聖書にあるアダムとイブの誕生の伝承が当然のように信じられていた19世紀に、「人間はかつて猿であった」と常識を根底からくつがえす「進化論」を提唱したダーウィン。彼が世界へ与えた衝撃は計り知れないものだった…。勇気ある偉大な自然科学者の生涯、後編をお届けする。

結婚のメリットとデメリット徹底研究

左から、ダーウィンの妻エマ、ダーウィン、夭逝した愛娘アン。

約5年におよぶ南米大陸沿岸の測量調査を終え、将来を期待される若き博物学者へと成長したダーウィンだったが、当然ながら慣れない長旅にはトラブルがつきもの。実は英国を発って3年が過ぎた頃、南米で熱病に冒されている。一時は生死が危ぶまれるほどの状態にまで陥ったものの、1ヵ月間の療養の末、どうにか旅に復帰。しかしながら、おそらくこの時に何らかの慢性疾患にかかったのか、ダーウィンは亡くなるまで常に体調不良に悩まされ続けることになる。このほかにも、標本として採集したオオサシガメを媒介にシャーガス病と呼ばれる感染症にかかったという説、あるいは長期航海によるストレスなどの神経性疾患とする説もあるが、存命中に病名が判明することはなかった。

もともと動植物や昆虫を愛し、田舎での長閑な生活を好んでいた彼にとって、人口増加と貧困化の進む当時のロンドンは心休まる場所ではなかった。公演活動がひと段落すると、療養のために故郷のシュルーズベリーへ戻った。だが天才も、寂しさと孤独には弱かったのだろう。病に悩まされながらの静かな独身生活はつらく、温かい家庭に焦がれるようになったダーウィンは、再会した幼なじみの従姉弟、エマ・ウェッジウッドとの結婚を意識しはじめる。

しかし、根っからの几帳面な研究者気質が災いし、家庭生活に時間をとられ、研究に支障が出ることが心配で、なかなか一歩を踏み出せない。結局、結婚がもたらすメリットとデメリットをこっそりリストにしてじっくり検討することにした。一方、1歳上のエマは「明らかに彼は私に好意を持っている」はずなのに、ちっとも求婚してこないことにヤキモキ。ダーウィン家もウェッジウッド家も彼の決断をハラハラしながら見守っていたが、最終的に彼女にプロポーズ。後にエマへ宛てた手紙に「あなたは私を人間らしくしてくれる。沈黙と孤独の中で様々な事実を積み重ね、理論を構築するのよりも大きな幸せがあることをいつも教えてくれる」としたためている。

2人は1839年に結婚、ロンドンに新居を構えた。

オラウータンを観察

さて、ダーウィンは航海中に、各地の環境にあわせるように動植物が少しずつその形を変えている点、ガラパゴス諸島の生物の多くが南米起源としか思えないほど互いによく似ている点に着目していた。また、ガラパゴス諸島にいるゾウガメやイグアナは、島それぞれに変種が存在していることを知り、環境と生物の形態の関係に強い関心を寄せた。

加えて、地質学者チャールズ・ライエルの「地質学原理」を読み、アンデス山脈で地質調査にもあたったことで、これまで「不変のもの」と思われていた大地が、聖書の「創世記」以上の長い時間をかけて形成されてきたという現実を実感。「生物にもこれが当てはまるのでは?」との疑念を抱いた。

他の研究者たちと協力しながら航海で採取した標本の整理・分類を行う中で、神が生み出したときから人間は人間であったという「種の不変性」に対する疑問はどんどん膨らんでいく。そしてロンドン動物園にやってきたオランウータンを観察した際に、人間との多くの類似点に注目し、ついに思い至ってしまう――もしかしたら我々は共通の祖先を持つのではないか? と。

彼の考察ノートに、共通の祖先が変異によって枝分かれし、別の種へと発展していく様子を図で示した「生命の樹(Tree of Life)」が描かれる。現在我々の知る「進化(evolution)」論の根本原理が具現化された瞬間だった。1837年、ダーウィンが28歳のときのことである。

「犯罪の自白」と愛娘の死

体調不良がさらに悪化したため、1842年にロンドンの喧噪から離れてケントのダウン村にある「ダウンハウス」へ移り住む。腹痛や心臓の痛みなどにより一日数時間しか仕事ができない状態に陥っていたが、研究の合間に庭を歩いては思索に耽った。多くの手紙を介して学者たちと意見を交わしつつ、自説を裏付けるための膨大なデータを揃えていった。

しかし、自説が具体的になればなるほど、ダーウィンの苦悩も深まっていった。この理論はキリスト教を基盤にした当時の社会秩序を根本から揺るがすものになる。妻のエマは敬虔なキリスト教徒であり、自分の説を一般に公表することで夫婦間に大きな溝を生むこと、そして安定した生活を望む親族や友人たちをとんでもない騒動に巻き込む可能性があった。

初めてこの進歩的な構想を思い切って告白した相手は、親しくしていた植物学者のジョセフ・フッカーだったが、ダーウィンはこのときの心境を「殺人を告白するようなものだった」と記している。だが、彼が献身的な看護と神に深く祈りを捧げたにもかかわらず、最愛の娘アンがわずか10歳で世を去ると、「死は自然現象だ。どれほど祈っても結果はかわらない」と強く確信。自説をこのまま埋もれさせてしまう訳にはいかないと感じるようになった。

ダーウィンが愛した家 ダウンハウス

体調を崩し研究に没頭できる場所を求めたダーウィンが、33歳のときに妻と移り住み、約40年暮らしたケントのダウン村にある自邸。「種の起源」はこの家で執筆された。ダーウィンは1882年4月、敷地内にある小道「Sandwalk」を散歩中に狭心症で倒れ、妻と子どもたちに看取られながら、73歳で息を引き取った。現在、同所は記念館として一般公開されており、ダーウィンが自ら設計した温室も見学できる。

Down House
Luxted Road, Downe, Kent BR6 7JT
月・火曜休館 £16
https://www.english-heritage.org.uk/visit/places/home-of-charles-darwin-down-house/

「ヒトはサルだった」への猛反発

ダーウィンが自説の発表を決意したのは、若き博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレスから届いた一通の手紙がきっかけだった。それは「自分の新説を発表したい」と相談する内容であったが、同封されていた未発表の論文には、ウォレスがアマゾンやマレー諸島で調査活動を続けるうちに到達した「進化」に関する理論が記されていたのだ。

ダーウィンは心底驚いた。それは彼が温めてきた学説とほぼ同様であり、自分の理論が別の学者によって先に発表される可能性を今更ながら気付いたのである。大いに焦り動揺したものの、自分を信じて学説を公表してくれたウォレスのためにも、彼の論文は発表されるべきと考え、植物学者のフッカーと地質学者のライエルに協力を持ちかけた。

しかしながら、ダーウィンが同様の説を長年持ち続けてきたことを知っていた2人は、「ウォレスとの共同作業」を提案し、ダーウィンを説得。こうして1858年、共著という形で三部構成による論文が学会で発表される。これを機に翌年「種の起源(On the Origin of Species)」をダーウィンは上梓したが、懸念通りに大きな物議を醸すことになる。

とくに問題視されたのは、彼の学説の要である「自然淘汰説」だ。これは厳しい生存競争の中で生物の種の中に突然変異を持つものが生まれ、環境に有利な特徴を持ったものが生き残り、弱いものは淘汰されていく際に「種の分化(=進化)」が発生するというもの。さらに、種の分化は長い時間の中で偶然生まれ、生息環境によって枝分かれしていくため、生物はより優れたものへと変化しているのではない、とする考え方であった。この世に存在する生物はすべて神によって創り出されたとする聖書の記述を否定するだけでなく、人間は他の生物とは異なる優れた存在という考えを根底から覆すものだったのだ。

なかでも、「人類は猿から進化した」(正確には猿と共通の祖先から進化した)については、多くの人々が拒絶反応を起こした。新聞各紙はダーウィンを猿に見立てた風刺画を掲載し、進化論擁護派も「これだけは倫理的に受け入れ難い」と反対する学者が多く、自宅には批判文書が山のように届けられた。

「人類は猿から進化した」とする説は受け入れがたく、ダーウィンを風刺したイラストの数々が欧州全土の新聞や雑誌の紙面をにぎわせた。

今なお続く、教会との戦い

大論争を巻き起こしながらも、「種の起源」は数日で完売のベストセラーとなる。初版発行の翌年には、オックスフォード大学においてダーウィン支持派とオックスフォード司教ほかの反対派による大討論会が行われ、科学と宗教の対立を大きく浮き彫りにした。この後もダーウィンは10年以上かけて、「種の起原」の改訂を加えながら自説を掘り下げていった。

地動説を唱えたがゆえに二度の有罪判決を受けたガリレオは、350年以上を経た1992年、「裁判は誤りだった」としてローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が正式に謝罪している。これに対し、ダーウィンの進化論がカトリック教会、あるいは英国国教会から「認められる」日がくるかどうかは不明であり、神との戦いは結末をみていない。進化論をめぐる壮大なドラマは、今なお続いている。

週刊ジャーニー No.1229(2021年3月3日)掲載

東西の融合をめざした陶芸家 バーナード・リーチ 前編

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Special Thanks to: Leach Pottery, Tate St Ives.

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/田中晴子・本誌編集部

■ 明治末期の東京を訪れ、陶芸の魅力に取り憑かれた英国人、バーナード・リーチ。白樺派とも交わり、柳宗悦による民芸運動の発展にも大きく貢献、日本では「親日派」「日本の陶芸を西洋に広めた人物」として語られることが多い。幼少期をアジアで過ごし自己の確立に悩んだ彼が、数十年の旅路の果てに辿り着いた独自の思想と、その生涯を前・後編で追ってみたい。

東西の文化が融合した作風が特徴的なバーナード・リーチの作品群。© The estate of Bernard Leach/Tate St Ives

桜、たくあん…朧げな日本の記憶

「To Leach or not to Leach」

スタジオ・ポタリー(Studio Pottery/製陶所)の父と呼ばれ、それまでの英国における陶芸の意識を大きく変えたバーナード・リーチ。だが20世紀前半の英国では、東洋の陶芸から強烈な影響を受けているリーチの姿勢や作品に対し、拒否反応を示す陶芸家も少なくなかった。しかし、流行した冒頭の「リーチか、否か」というフレーズは、英国の陶芸家にとってリーチがどれほど大きな存在であるかを示しているとも言える。

リーチはヴィクトリア女王の即位50周年に沸く大英帝国下の香港で、1887年1月5日に生まれた。当時の英国は世界各地に植民地を所持し、リーチ家の人々の多くは政府関係者、あるいは法律家として、東アジアの植民地各地で活躍していた。父親もオックスフォード大学を卒業した後、香港で弁護士として働いていたものの、妻がリーチを出産した直後に死去。そのため彼は、日本で英語教師をしていた母方の祖父母に預けられることになる。4歳まで京都の祖父母のもとで育てられたが、その頃の日本を「桶の中で泳ぐ大きな魚、桜の花、たくあんの味…」という「五感」に密着した断片で記憶していることを後に語っている。

やがて父親が再婚。リーチは再び香港で暮らし始めた。父の再婚相手はリーチの亡き母の従妹にあたったが、リーチはこの継母に馴染むことができず、代わりにアイルランド人と中国人の血を引く乳母を慕った。彼は生涯を通じて実母の面影を追い続け、これは成人してからの私生活にも多大な影響を与えることになる。

少し経つと、父親の仕事の関係で一家はシンガポールへと転居。香港~日本~香港~シンガポールとめまぐるしく引越しを繰り返し、やがて両親から離れて初めてひとりで英国の地に降り立った時は10歳になっていた。

「中国人」と呼ばれた少年時代

幼いリーチが両親から離れて単身渡英したのは、「本国で高等教育を受けさせたい」という父親の意向があったためだ。ウィンザーにあるイエズス会の寄宿学校に入学するが、ここでのリーチのあだ名は「Chink」。日本人でいう「Jap」に等しい中国人へのの蔑称である。これはリーチが東洋で暮らしてきたことからついたあだ名であったが、アジア生活が長いリーチと、アジアの異文化など何も知らずにヴィクトリア朝末期の繁栄の中に育つ生徒たちの間に、どんな不協和音が流れたかは想像するに難くない。ひとりっこで引っ込み思案、しかも夢想家でもあったリーチは、イジメの格好のターゲットにされてしまった。うんざりした彼にできることは、それこそ夢想による現実逃避くらいだっただろう。

芸術家を目指したリーチは16歳の史上最年少で、ロンドンのスレード美術学校へ入学。ところが、父親の発病により、わずか1年で道は閉ざされることになる。ガンを宣告された父がひとり息子の将来を心配し、美術学校を辞めて銀行に勤めるよう命じたのだ。リーチはまだ17歳。自分の意志を通すには若すぎた。彼は父親の言いつけを守り、スレードを中退した。

翌年、大きな影響力を持っていた父親が死去。しばらく継母と共にボーンマスで生活したが、どうにも我慢がならなかったようで、「銀行員になるための試験勉強に集中するため」と称し、マンチェスターに住む亡母の妹宅に身を寄せた。そして、彼はここで1人の女性と出会うことになる――叔母夫妻の愛娘で4歳上のミュリエルである。だが、従姉弟という近親関係にあたるため、2人の関係は周囲に反対された。

父親の遺言通り、リーチはロンドンのシティにある香港上海銀行(The Hong Kong and Shanghai Bank)に就職、毎晩11時まで働く日々が続く。慣れない仕事に加え、反対されるミュリエルへの想いや中退した美術学校への未練など、あきらめきれないことばかり。精神的にどんどん追い詰められ、我慢の限界に達したリーチは結局1年で銀行を辞職してしまった。

日本との再会と出発

当時、彼が好んで読んでいた小説の中に、「怪談」で知られる小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの著作があった。ハーンは放浪の末、日本に帰化し「小泉八雲」となったアイルランド出身の作家である。古きよき日本の姿が理想化された形で書かれた彼の著書は、リーチの日本に対する興味をいたく刺激した。リーチは「私の他国人に対する同情、すなわち非ヨーロッパ人、黒人、褐色人、あるいは黄色人種に対する私の同情がたかぶり出した。そして東洋に対する私の好奇心が育って来た。そこで私は日本の現状を知ろうとしたのだ」とハーンから受けた影響について語っている。「他国人に対する同情」と彼は言うが、英国において彼は常に疎外感を覚え、他国人の目で西洋を眺めていたのではないだろうか。実際に友人も南アフリカ人やオーストラリア人など、外国人ばかりだった。

ロンドンに留学していた高村光太郎。

銀行勤めで貯めた資金で、リーチはロンドン美術学校に通い始める。そこは留学生も多く受け入れており、その中には後に詩集「智恵子抄」で知られることになる、4歳上の高村光太郎の姿があった。きっかけは高村からであった。教室でひとり静かにハーンを読んでいたリーチに、高村が興味を持って声をかけたのだ。この高村光太郎との出会いにより、リーチの日本への想いはますます強くなっていった。

21歳の成人を迎え、父親の遺産の管理が自らの手で行えるようになると、即座にミュリエルへ求婚。さらに銅版画(エッチング)の印刷機も購入した。美術学校で学んだ銅版画の技術を日本で教えながら、ミュリエルと結婚生活を送ろうと考えたのだ。落ち着いたらミュリエルを呼び寄せることを約束し、リーチは高村からの紹介状6通を手に、ドイツ船で日本へ向かう。1909年3月のことだった。

白樺派との出会いと交流

高村が書いた紹介状のあて先の中には、彼の父親である彫刻家の高村光雲、その友人の岩村透がいた。2人とも東京美術学校(現・東京芸大)の教授である。日本語を全く解さないリーチのために、岩村は教え子を紹介。その教え子の協力を得ながら、まずは上野桜木町にある寛永寺の貸地に、西洋風でもあり和風でもある一軒家を新築し、英国からミュリエルを招き寄せた。

次にリーチが着手したのは、この自宅兼スタジオで銅版画を教えること。生徒募集のため、宣伝を兼ねた3日間のデモンストレーションを開催すると、数人の見学者が訪れる。それは名前をあげれば、柳宗悦、児島喜久雄、里見弴、武者小路実篤、志賀直哉などの、翌年には「白樺派」(※)を起こすことになる蒼々たるメンバーであった。

これ以後、リーチと白樺派のメンバーは互いに学び合い、思想の上でも双方共に多くの刺激を受けていくことになる。特にリーチと2歳下の柳宗悦の関係は生涯続き、日本民藝館(目黒区駒場)の設立にも携わるなど、リーチの思想形成や作品制作に重要な役割を果たしている。

リーチと柳宗悦。© Leach Archive

結局、銅版画クラスはリーチが白樺派から日本文化を学ぶ時間にとって代わられた形で自然消滅。しかし当時の日本は物価も安く、父親の豊富な遺産もあったリーチは、近くの学校で英語を教えたり、美術誌にエッセイを寄稿したりして十分に生活でき、あくせく働く必要はなかったようだ。

一方、妻との関係は彼が芸術にのめり込む分だけ、希薄になっていった。しかも家族愛を知らず、10歳で寮暮らしを始めていた彼は家庭生活、とりわけ夫婦生活がどういうものかよくわかっておらず、異国の地で夫にほとんど置き去りにされたミュリエルは、キリスト教の布教のために日本を訪れている西洋人グループと時間を共にするしかなかった。それは子どもが生まれてからも変わらず、ミュリエルは夫の女性問題にも頭を悩ませることになる。

※白樺派とは、1910年創刊の文学誌「白樺」を中心にして活躍した作家、美術家たちのことで、人道主義・理想主義・個人主義など自由な思想を掲げ大正時代の文壇に大きな勢力を誇った。

陶芸で変化した東西の価値観

1936年に開館した、リーチの作品が多く収蔵されている日本民藝館。© Kamemaru 2000

そんなリーチに、再び転機が訪れる。訪れた茶会の席で、初めて「楽焼き」を体験したのだ。

楽焼きとは低温で焼く、素人も参加できる素朴な焼き物の一種だ。リーチは自分の絵が皿に焼き付けられるのを見て、強い興味を覚える。そして友人を介して紹介された6代目・尾形乾山のもとに入門し、毎日のように工房へ通った。1年後には自宅に陶芸用の窯を築くまでになり、さらに1年後には7代目・尾形乾山の伝書をもらい、免許皆伝とまでなっている。

陶芸を学ぶことは、茶の湯や禅など、より深く日本文化を知ることに繋がり、また中国や韓国の文化に触れることでもあった。リーチは陶芸を通し、さらに広い視野で東洋を、そして美術の世界を見つめていく。それまでは「西洋に対する東洋」という対比で物事を見てきたが、やがて二者の融合――「西洋と東洋の融合」ひいては「西と東の架け橋」となる存在になりたいと考えた。そのためにはもっと東洋を知る必要がある…。彼の目は次の目的地、中国へ向けられていた。

後編へ続く

週刊ジャーニー No.1232(2021年3月24日)掲載

東西の融合をめざした陶芸家 バーナード・リーチ 後編

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Special Thanks to: Leach Pottery, Tate St Ives.

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/田中晴子・本誌編集部

■〈 前回のあらすじ〉明治末期の東京を訪れ、陶芸の魅力に取り憑かれた英国人、バーナード・リーチ。日本では「親日派」「日本の陶芸を西洋に広めた人物」として語られることの多いリーチだが、幼少期をアジアで過ごし自己の確立に悩んだ彼が、数十年の「自分探し」の旅路の果てにたどり着いたのは、陶芸家として東西文化を融合させた独自の作品を生み出し、「東と西の架け橋」となることだった――。

今号では、リーチの生涯を前編に続きご紹介したい。

中国での挫折、陶芸家の誕生

「銅版画を教えながら、愛する妻と懐かしい日本で暮らす」という大胆だが単純な希望を胸に1909年に来日し、5年の歳月を経て「東と西の架け橋」となることを目指し始めたバーナード・リーチ。それが最終的にどんな形を取ることになるのか依然わからないままだったものの、飽くなき探究心に突き動かされて、次の自分探しの旅路の地、そして最初の東西架け橋の地として中国を選んだ。

雑誌の投稿文をきっかけに、中国で暮らす怪しげなユダヤ系ドイツ人の思想家、アルフレッド・ウエストハープを知ったリーチは、彼の思想が自分の考えに近いと感じ、つてをたどって文通を開始。間もなく妻と幼い子どもを連れて中国へ渡った。

だが、その結果は惨憺たるものだった。日本のように西洋にかぶれる以前の「純粋な東洋」である中国において、東洋をさらに深く学ぶのと同時に、西洋のいい部分を同国へ接ぎ木しようという、いわば「啓蒙者」としての中国行きであったが、その壁は想像以上に厚かった。最終的にはウエストハープとの思想的不和により、リーチ一家は日本へ戻った。

がっくりと落ち込んで帰国したリーチに、柳宗悦はこう声をかけた。

「きみにはもう指導者はいらないのではないか。僕はウエストハープの思想よりも、きみの陶芸の方が素晴らしいと思うよ」

そして千葉県我孫子(あびこ)市にある柳所有の敷地内に、窯をつくったらどうかと誘ったのだ。英国へ戻ることも考えていたリーチだが、英国はおりしも第一次世界大戦の渦中にあった。リーチは家族の安全を考えて日本にいることを選び、本格的に陶芸家の道を歩むことにした。

当時の我孫子は何もない田舎町であったが、ここに突然リーチや白樺派の人々が現れ、一種の芸術家コロニーのような集落が形成される。中国で質のよい白磁や青磁を見たことは大きなプラスとなり、ここで5年にわたり腰を据えて、陶芸の生地や釉薬などの研究にいそしむ日々を送っている。

また、若き陶芸家の濱田庄司との出会いもリーチの世界を広げた。当時20代前半だった濱田はリーチの陶芸作品をすでに知っており、東京で展覧会を開いたリーチのもとを訪ねたのである。とくに濱田は釉薬の配合に関して、リーチが英語で話せる唯一の人物でもあった。濱田はのちに陶芸家として人間国宝に指定されるほどの巨匠に成長するが、リーチが英国へ戻り、コンウォールのセント・アイヴズに開窯する際には、濱田は助手として同行することになる。

リーチ・ポタリーの設立

コンウォールの港町セント・アイヴズ。現在はリゾート地として知られ、観光客や芸術家が多く訪れる。

10年以上におよぶ日本生活にピリオドを打ち、リーチが濱田とセント・アイヴズにやって来たのは1920年9月、33歳の初秋のこと。

コンウォール独特の美しさを持つこの港町は、当時はまだ石と海に囲まれた荒涼とした町だった。しかし、ここでは活動的な老婦人が「セント・アイヴズ手工芸ギルド」という組織を主催しており、彼女はこの組合に陶芸家を加えたいと考えていた。それを知ったリーチは会員に応募し、ギルドからの出資金で製陶所「リーチ・ポタリー」を建造したのである。「東西の融合」「中国の形、朝鮮の線、日本の色」を制作理念に、産業革命によって押し進められた「悪しき機械化の波に対抗しよう」というのが、リーチ・ポタリーの運営方針だった。

初めて英国を訪れた26歳の濱田は、口数も少なく手のかからない優秀な助手で、1人で町を散策し港を歩き回り、現地の英国人にも受け入れられていたようだ。港近くに住む漁師上がりの老人などは、毎週日曜日に決まって鯛を持って濱田の仕事場を訪れ、椅子に腰掛けて楽しそうに彼の仕事ぶりを眺めていたという。また、実直な人柄の濱田は幼かったリーチの子どもたちにも好かれており、リーチ一家のスナップ写真の中には、2人の子どもたちに挟まれ、手を握られている濱田の姿が残されている。

東京育ちの濱田にとってもコンウォールの自然と、そこに住まう朴訥とした人々は大きな好印象を残し、やがて日本に帰国した彼が、栃木県の片田舎である益子に窯を開くのは、益子焼に興味を抱いていたのはもちろんのこと、セント・アイヴズでの暮らしが印象深かったためである。濱田は関東大震災の発生をきっかけに帰国を決意するまで、セント・アイヴズで4年を過ごしている。

リーチ・ポタリーの暖炉の前で、陶芸制作について指導するリーチ(中央)。 © Leach Archive

さて、当初のリーチ・ポタリーでは、リーチと濱田を含む4人のスタッフによる、試行錯誤の状態が続いた。リーチは山の斜面などを利用して作られる日本式の登り釜を英国で初めて採用したが、ヨーロッパとは違うスタイルの窯で制作すること自体、温度調節も含め大変な苦労だった。さらに、粘土の違い、釉薬の違い、灰の違いなど、日本とコンウォールの地質や材料の違いもひとつひとつ吟味しなければならない。彼らは他所で手に入る質のいい土ではなく、その土地の材料を使うことを重んじたことから、その苦労もひと塩であった。

こうした様々なこだわりゆえにポタリーの経営状態は総じて不安定で、リーチはロンドンや日本でしばしば展覧会を開いたり、愛好家や収集家に作品を売ったり、町の人々や観光客相手に楽焼教室を開いたりして日々の生活をしのいだ。2度にわたって工房破産の危機も迎えたが、妻ミュリエルが父親から相続した遺産などでなんとか切り抜けている。

リーチ・ポタリーで、工房の職人とともに撮影。濱田庄司(前列中央)、リーチ(濱田から向かって左隣)、リーチの3人目の妻ジャネット(右端から2人目)。

繰り返す離婚

1930~50年代のリーチは、ポタリーを離れる時間が増え、その間の管理は成人したリーチの長男、デヴィッドがあたった。日本で人気の高いリーチが、講演会や展覧会を日本で頻繁に開いてポタリー存続の資金を得ようと考えたことに加え、数々の女性問題による罪悪感が、リーチをポタリーから遠ざけたのである。

実母の顔を知らないリーチは、生涯を通して母性愛を欲していた。常に自分を受け止め支えてくれた妻ミュリエルには母親のような愛情を求め、その結果、異性愛はほかの女性で満たすというサイクルに陥ってしまったのだ。この問題は日本に滞在していた時からたびたび浮上していたが、リーチ・ポタリーで学ぶ学生で、秘書としても働くローリーとただならぬ関係になった彼は、「良き妻で母親」のミュリエルではなく、陶芸について深く語り合える同志のローリーを選ぶ。リーチは家族のもとを去り、24年間連れ添ったミュリエルと離婚。1944年にローリーと再婚している。

第二次世界大戦下ではセント・アイヴズはドイツ軍の爆撃を受け、リーチ・ポタリーも被害を受けた。ところが、ほかの製陶所が次々に閉鎖する中、リーチのポタリーは細々とではあったが持ちこたえている。戦時下のため展覧会向けの作品の需要はなかったものの、一般家庭向けの食器の需要があったからだ。そのため、安くて質のよいスタンダード・ウェアの制作に力を入れた。

やがて戦争が終わると、戦争中に工場生産された白い簡素な食器しか手に入れることのできなかった人々が、リーチ・ポタリーの暖かい色使いや手作りの風合いに魅せられ、人気が殺到。ロンドンの各大型デパートは、生産量の追いつかない商品の在庫を得ようと張り合った。

「自分」を見つけられたのか?

戦後、リーチは再び海外で展覧会を開くようになる。米国や日本をまわり、2年以上の長期にわたってポタリーを留守にしたこともあった。また、リーチは訪れた米国で新しいパートナーとの出会いも果たしている。相手は熱心なリーチ・ファンの陶芸家ジャネットで、彼女が単なる自分の崇拝者ではなく、時に歯に衣着せぬ物言いで発破をかける「母親のような強さ」を持つ面に惹かれたようである。リーチはローリーと離婚し、ジャネットと3度目の婚姻を結んだ。

今や高齢の域に達した69歳のリーチに替わり、ポタリーの運営はジャネットがあたった。彼女が取り仕切るようになって以降、ポタリーでは従弟の制度がなくなり、美大やほかの工房で基本訓練を受けた陶芸家たちが雇われるようになる。

リーチは視力が弱って引退する最晩年まで、ポタリーでの指導にあたっていたが、1979年5月6日、肺炎にかかってセント・アイヴズの病院で死去。92歳であった。盟友・濱田庄司は前年に亡くなっており、死の数日前、リーチは「夢で楽しく濱田と会話した」とジャネットに告げている。

東西文化の融合を陶芸によって完成させようとしたリーチだが、それは自分の中にある東洋と西洋の融合でもあった。幼児期から複数の国、複数の家庭、複数の文化に身をおいた彼は、絶えず自分をひとつに保とうと、もがいていたのではないだろうか。

数々の作品が生まれた リーチ・ポタリー

西洋初の日本式登り窯として1920年に開業したリーチ・ポタリーは、リーチの死後、3人目の妻ジャネットに引き継がれたが、彼女が亡くなると売却され、解体の危機にさらされた。 工房を救おうと、「リーチ・ポタリー再建運動委員会」が発足して募金活動が始まり、また日本でも柳宗悦や濱田庄司が館長をつとめた日本民藝館が中心となって、募金活動がスタート。晴れて2008年、新リーチ・ポタリーが完成した。

現在は、リーチの足跡をたどるミュージアムや若い陶芸家を育てるワークショップ、ギャラリー、ショップを備えた国際的な「陶芸センター」となっている。

The Leach Pottery
Higher Stennack, St Ives, Cornwall, TR26 2HE
www.leachpottery.com

週刊ジャーニー No.1233(2022年3月31日)掲載

心優しい才人? それともロリコン?不思議の国の住人 ルイス・キャロル  前編

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●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/田中晴子・本誌編集部

■『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』といった児童文学の名作を生み出し、英国が誇る作家として現在も世界中の子どもたちを魅了するルイス・キャロル。写真家や数学者としての顔も持つなど、彼の生涯はいまだに多くの謎に包まれ、各時代や伝記作家によって描かれるイメージも大きく異なる。心優しい宗教家、頭の切れる無口な才人、またはポルノまがいの写真を撮る小児偏愛者…。生誕190年を迎えた今、数々のレッテルを貼られたルイスの素顔に迫ってみたい。

1963年、のちに「不思議の国のアリス」と改名して出版する冒険譚「地下の国のアリス」の執筆を終えた頃のルイス・キャロル、31歳。

貧しい大家族の長男

英米では、聖書とシェイクスピア作品に次いで読まれている『不思議の国のアリス』。白ウサギの後を追ってウサギの穴に飛び込み、奇妙な世界に入り込んだ少女アリスの大冒険を描いた物語は、30歳の数学者ルイス・キャロルが「10歳の友人」アリス・リデルにせがまれ、ボート遊びの際に語ったものを文章化して出版した作品だ。

ルイス・キャロルことチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンは1832年、ヴィクトリア女王の即位を5年後に控え、英国が世界にその国力を示し始めた輝かしい時期に、イングランド北西部チェシャーの小さな村デアーズベリーで生まれた。11人きょうだいの3番目、そしてドジソン家の待望の長男だった。一家の大半は代々聖職者か軍仕官という、当時の上層中産階級の代表的職業に従事していたが、ルイスの父親もその例に漏れず、オックスフォード大学で数学と古典に親しんだ後、この地の教区で牧師を務めていた。

一家の暮らす牧師館のある辺りは「陸の孤島」とも呼べるほどの辺境の地で、父親がその高学歴には見合わない質素なキャリアを選んだため、大所帯のドジソン一家もまた、慎ましい暮らしを強いられた。自ら野菜を育てる半自給生活を営み、子どもたちの着る服はドジソン夫人の手作り。だが、ここで多くのきょうだいと共に過ごした静かで質素な生活をルイスは終生懐かしく思い返しており、彼にとっては幸せな日々だったようだ。子どもたちは父親の元で敬虔なクリスチャンとして育てられ、ルイスの数学に対する興味もこの時に培われている。

やがて父親の栄転により、ヨークシャーに転居。ルイスは英国で最も古い歴史を誇る私立寄宿学校のひとつ、ウォリックシャーのラグビー・スクールに入学する。しかし、荒々しい校風を持つ同校での3年間は、もの静かで心優しいルイスにとってきわめて苦痛なものとなった。低学年の生徒に対するイジメや嫌がらせといったお決まりの寄宿学校の慣習に苦しみ、野蛮で乱暴な男子生徒たちを忌み嫌い、自分が高学年になってからは「幼い生徒たちを守る」と保護監督者の役割に率先して徹した。その「守護神」ぶりは、彼が卒業した後も、しばらく生徒たちの間で語り継がれていたほどだった。

その後、父親の母校であるオックスフォード大学のクライスト・チャーチ校に進学。しかし、当時のクライスト・チャーチは優秀な学生が学ぶ場である一方、裕福な貴族の息子たちが当主となる前の数年を費やす、娯楽場のような場所でもあった。ギャンブルやキツネ狩りを楽しみ、勉学には全く興味を示さない享楽的な人物の集まりが幅を利かせており、ルイスは彼らのような学生たちとは距離を置き、静かに勉学に身を投じる毎日を送った。

欲した母親の愛情

順風満帆な人生を歩んでいるように思えるルイスだが、実はどれほど欲しても手に入らないものがあった――それは「母親の愛情」である。大家族の「できる」長男の宿命といえるのかもしれない。

ルイスの母は、彼が大学へ入学したわずか2日後、47歳の若さで病死。髄膜炎か脳梗塞と思われる脳の疾患が原因だった。母親に関しての彼の記述は少なく、2人の絆はかなり希薄だった。だが、決してルイスが母親を嫌いだったというわけではなく、むしろ幼い頃から母の愛情に飢え、常に彼女の関心を買おうとしていた。ところが、子どもの多いドジソン家では、おとなしい長男の存在は地味なもの。面倒見のよいルイスはきょうだい間では絶大な人気を誇っていたものの、母親にしてみれば、数多い子どもの中で「手のかからない子」と関心は薄かった。また、ルイスは吃音症(言葉が円滑に話せない発話障害)を患っていたが、彼を含めきょうだい全員が何らかの言語障害を抱えており、自閉症めいた症状を持つ妹もいたことから、母親がルイスに目をかけることはほとんどなかった。

距離を埋めることができなかった母親を永遠に失い、満たされることがない空虚な心を埋めてくれたのは、母親の弟にあたり、法廷弁護士としてロンドンで暮らしていた叔父だった。彼は鷹揚なキャラクターで、新しいものが大好き。発明されたばかりの望遠鏡や顕微鏡といった光学機器に多大な興味を持ち、その情熱はルイスにも伝播していった。後にルイスは叔父から写真の技術を学び、写真家としても名を馳せるようになる。

運命の少女との出会い

やがてルイスは大学の数学の試験で「第1級」を獲得し、特別研究生の地位を得る。この地位を得た者は生涯クライスト・チャーチに留まり、年俸をもらいながら自由な研究をすることを保証されることから、ルイスにとってはまたとないチャンスの到来であった。かつて、彼の父親もこの資格を得たことがあったが、父親はほかの有資格者同様、数年でこの身分を放棄。というのも、特別研究生であり続けるには、聖職の資格を取らなければならないだけでなく、「独身」でいることも条件のひとつだったからだ。しかし、ルイスはこの身分を手放すことなく、学士号の取得後に正式な数学教授への昇進試験にも合格。彼の授業は学生には不評で、あまりの退屈さゆえに学生たちが「キャロル・ボイコット運動」を起こしたほどだったものの、それにもめげずに教壇に立ち続け、数学の参考書『行列式初歩』も刊行した。

そして運命の出会いがやってくる。

学寮長(クライスト・チャーチの最高運営責任者)が老齢のため死去すると、名門ウェストミンスター・カレッジで校長を務めていた古典文献学者ヘンリー・ジョージ・リデルが新たに赴任してきた。若くカリスマ的な魅力に溢れるリデルは、次々に保守的な校内システムの改革を行っていく。新人教師のルイスも改革に伴う議論にスタッフの一員として参加したが、ルイスに大きな影響を与えたのは、この校内改革ではなかった。リデルがオックスフォードへの赴任に際して伴ってきた、妻と4人の子どもたち――長男ハリーと、長女ロリーナ、次女アリス、三女イーディスの3姉妹だ。とくに次女のアリスは『不思議の国のアリス』誕生のきっかけとなり、ルイスの人生を大きく変える存在となる。

ルイスが撮影したリデル3姉妹。向かって右から次女アリス、長女ロリーナ、三女イーディス。

アリスのわがままと名作の誕生

物乞い風のボロボロのドレスを身にまとい、裸足で施しを求めるポーズをするアリス。ルイスが撮影したもの。

ルイスとアリスが初めて顔を合わせたのは、ルイス23歳、アリスはわずか3歳のときのこと。叔父から写真技術をマスターしたルイスは、自らもカメラを購入し、被写体を探していたところだった。そのお眼鏡に叶ったのが、リデルの幼い子どもたちだ。でも最初からアリスが特別だったわけではない。ルイスがまず称えたのは長男ハリーの美しさで「今まで会った中で一番ハンサムな少年だ」と感嘆し、家族に撮影許可をもらっている。こうしてルイスとリデル一家との密な交遊が始まった。

リデル家の子どもたちは、すぐにクライスト・チャーチ内のルイスの自室を訪れるようになった。そこには子どもが大喜びしそうなオモチャや複雑な機械がところ狭しと並んでおり、薄暗くてまるで秘密の隠れ家のようだった。彼らはルイスが集めた撮影用の子ども服、例えば物乞い風のボロボロのドレス、ジプシー風の衣装、当時流行していたオリエンタルな小物などを自由に選び出し、ルイスの求めに応じてポーズをとった。

天気の良い日ですら屋外で1枚の写真を撮るのに45秒もかかる時代に、子どもたちをひとつのポーズのままでじっとさせておくのは、本来なら至難の技。しかしながら、すでに数学者としての顔以外に作家としても数冊の短編小説を発表していたルイスは、幼い子どもに対する持ち前のサービス精神で、奇妙で愉快な物語を即興で語るなど、彼らに退屈を感じさせず、リラックスして撮影に臨ませることに成功。アリスも後年にインタビューで「彼の部屋の大きなソファに座って、皆で彼のお話を聞くのは本当に楽しかった。写真撮影も全然苦にならなかったし、お部屋へ行くのが楽しみでした」と語っている。

中華風の衣装をまとった長女のロリーナ(左)とアリス(右)。

『不思議の国のアリス』の物語が生まれたのは、彼らが出会ってから約7年後の1862年7月4日、ピクニック先でのことだ。この日は歌のうまいルイスの大学の同僚も参加し、子どもたちと共にテムズ河でのボート下りを楽しんでいた。夏の日射しが水面に反射する、後にルイスが「金色の午後」と形容した日のことである。舟の上でいつものようにアリスに話をせがまれたルイスは、懐中時計を手に大急ぎで走ってくる白ウサギの場面を語り始める。ボートを漕いでいた同僚男性が振り返り、「今即興で作った話なのか?」とたずねると、ルイスはこう答えた。

「そうなんだ。まず女の子をウサギの穴に落としてみたんだが、その後どうするかな…」

自分と同じ名前の主人公が登場する話をとりわけ気に入ったアリスは、物語の先を知りたがり、「私のために文字にして書いて!」と何度もせがんだ。アリスのこの「お願い」がきっかけとなり、ルイスは翌日から物語を書き始める。当初『地下の国のアリス』と名付けられた手書きの本は、7ヵ月後の1863年2月10日に完成。さらにルイス自身がイラストを丁寧に描き入れ、1864年11月26日に「クリスマス・プレゼントとして、夏の日の思い出に」とアリスに手渡された。

おそらくこのときがルイスにとって最も輝いていた時間だったのではないだろうか。ルイスとアリス、そしてリドル家との関係は、以降跡形もなく立ち消えることとなる――。

後編へ続く

週刊ジャーニー No.1238(2022年5月5日)掲載

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