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『クリミアの天使』と呼ばれた、改革の鬼 フローレンス・ナイチンゲール [Florence Nightingale]

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英国の偉人の生涯をたどる 『Great Britons』

2017年3月30日 No.977

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『クリミアの天使』と呼ばれた、改革の鬼フローレンス・ナイチンゲール

●Great Britons●取材・執筆/本誌編集部

『クリミアの天使』と呼ばれた、改革の鬼

フローレンス・ナイチンゲール

フローレンス・ナイチンゲール――。
この名を聞いたことがないという人は少ないだろう。
しかし、彼女が看護婦だったということ以外は存外知られていない。
英国出身のナイチンゲールは、19世紀中期に勃発したクリミア戦争に看護婦として従軍し、英国軍の死亡率を劇的に下げた人物だ。
「看護婦」という響きから、母性的で優しげな女性をイメージしがちだが、実際には、可憐な存在では決してなく、女性の社会進出などありえなかった時代に男性からも一目置かれ、恐れられる存在であったという。
今号ではナイチンゲールの生い立ちや苦悩、そして人物像に触れながら、彼女が残した特筆すべき功績の数々をご紹介したい。

※本特集は2008年5月29日に掲載したものを再編集してお届けしています。

運命のクリミア戦争

「彼女は救いの天使だ。誇張するわけではないが、彼女の細身の身体がそっと病院の廊下を通る時、病人たちが彼女の姿を目にすれば、どの顔も穏やかになっていく。軍医が皆寝静まり、傷病兵たちを暗闇と静寂が包んでいる頃、彼女はランプを持って一人で看回りをしていた――」(タイムズ基金 コミッショナー ジョン・C・マクドナルド)
フローレンス・ナイチンゲールが『看護婦』として英国中にその名を知られ、後世まで語り継がれるきっかけとなった出来事は、「クリミア戦争」(1854年3月~56年3月)だ。そもそもクリミア戦争とは、ロシアがヨーロッパ、地中海方面への勢力拡大の足がかりのために、トルコに宗教的正当性を振りかざし、仕掛けていった戦争として知られる。英国が参加したのは、開戦間もない頃、トルコ艦隊がロシア軍にすんなりと打ち破られてしまったためで、ロシアの地中海進出をなんとか阻みたい英国は、フランス、イタリアと組んでトルコの後ろ盾となり、ヨーロッパ四国同盟を作ってロシアを攻撃していく。
ロシア軍220万、同盟軍100万人を動員する大規模な国際戦争に発展するが、この戦争は史上稀に見る「愚かな戦争」としても知られる。というのも、2年余り経っても決着がつかず、両陣営ともに不手際が続発したからだ。ロシア軍13万人、同盟軍7万人という甚大な数の死者を出しただけで、どちらが戦勝国か分からない混沌とした状況に、人々の虚脱感が残るだけだったという。英国では膨大な戦費の捻出により、ついには内政が破綻してしまう事態を引き起こすまでになっていた。

ナイチンゲールの支援者でもあった
シドニー・ハーバート
(Sidney Herbert, 1st Baron Herbert of Lea,
PC、1810~61/1847年、Francis Grant作)。
「傷病兵が苦しみもだえても医療品は不足し、手術する外科医もいなければ看護婦もいない。傷口を手当てするガーゼすらなく、包帯する布さえないありさまだ。寒さと疫病に苦しみながら、毎日多くの兵士が命を落としている。我々にはなぜ慈善婦人会がないのか? 優しい心を持ち、献身的な英国人女性はたくさんいるはずなのに」(1854年10月12日付、タイムズ紙)
実は、クリミア戦争は新聞記者が従軍し、ジャーナリストの観点から戦況を伝え、翌日の新聞に掲載するという今日的な報道体制が初めて確立された戦争であった。
そのため、英国陸軍の医療体制のずさんさがすぐさま英国民の知るところとなる。このタイムズ紙の報道なくしては、のちにナイチンゲールが「国民的英雄」として広く知れ渡ることはなかったと言っても過言ではないだろう。
「あの人しかいない…」
英国陸軍の野戦病院の悲惨な状況を深刻に受け止めた当時の国防相シドニー・ハーバートは、すでに看護のエキスパートとして頭角を現しはじめていたナイチンゲールに従軍を依頼。ナイチンゲールはそれを二つ返事で快諾し、看護婦として、現在のイスタンブール対岸にあった英国軍後方基地のスクタリ野戦病院へと赴く。
ナイチンゲールがこの野戦病院で過ごした約2年間が、彼女の名声を決定づける最重要なポイントであったことは紛れもない事実だが、クリミア戦争終結後も40年余りに渡り、作家として、看護の権威として、そして改革の鬼として、精力的な活動を続けたことはあまり注目されていないように思われる。また、ナイチンゲールは生涯独身を貫き通したことから、「結婚が女性の最大の幸せ」という、当時の一般的価値観に反した生き方をした女性である点も忘れてはならない事実だ。
まずはナイチンゲールが、看護への道へ突き進むまでの半生を追っていきたい。

才色兼備のスーパーお嬢様

ナイチンゲールは19歳の時、
ヴィクトリア女王に拝謁している。
社交界デビューを果たし、
美しく裕福だったナイチンゲールは、
周りの男性たちからの人気が高かった。
c Florence Nightingale Museum
1820年5月20日、フローレンス・ナイチンゲールは富豪であるジェントリー(*1)階級の両親の元、二人姉妹の次女としてイタリア・フィレンツェ(英語ではフローレンス)で生まれる。父、ウィリアムは学問に秀で、ケンブリッジ大学を卒業し、政治活動や娘たちへの教育に熱心な人物。一方の母、フランシスは社交好きな美しい女性であった。国民の3パーセントの上流階級に属する富豪のお嬢様として、何不自由のない環境で成長する。一家は大陸旅行と称し、1~2年という時間をかけ、英国の屋敷から持ち運んだ一家専用馬車でヨーロッパを周遊。旅先では観劇、オペラ、景勝地めぐり、舞踏会などを楽しむセレブリティ生活を送っていた。
幼い頃は学校へは通わず、姉妹揃って父から在宅教育を受ける。歴史や哲学、語学さらに音楽まで様々な学問を習うが、その中でもナイチンゲールがもっとも興味を示したのが数学であったという。両親との旅行中にも旅行距離と時間を記録に取るほど、数字にのめり込んでいった。
ナイチンゲール家の人々は当時の上流階級らしく、季節によって屋敷の住み替えをしている。夏の家とされるダービシャーのリーハーストと、冬の家、ハンプシャーのエンブリーを行き来し、時にはロンドンへ赴き、当時メイフェアにあった高級ホテル、バーリントン・ホテルで過ごしたり、英国王室の避暑地としてヴィクトリア女王も訪れていた英国南部の島、ワイト島の別荘で過ごしたりしていたという。
そのような中、恵まれた生活が許された階級の人々であったからこそ、とも言えることだが、ヴィクトリア朝時代の貴婦人には、貧しい人を訪ね、食物や薬を与える習慣があった。
幼いナイチンゲールも母に連れられて、リーハーストの屋敷近くの村へ出かけていく。そこでナイチンゲールは、ある時一人の女性の死に遭遇し、「病院」の存在を初めて知ることとなった。というのは、当時の上流階級の家庭では、医師による往診が当たり前で、たとえ病気になろうとも、みずから医師のいるもとへ足を運ぶことなどありえなかったのである。
しかし「病院」とはいえ当時は汚く不潔で、排泄物などの悪臭が漂うのが普通であった。
若いナイチンゲールは、自分が住む経済的に満ち足りた世界と、掃き溜めのようなその状況の格差に疑問を抱いていく。裕福な家に生まれながらも、貧民層の人々の生活に強く感じ入ったという事実から、彼女は人一倍広い視野と感受性を持つ女性であったことは容易に想像がつく。こうして、かけ離れた二つの現実を掛け持ちすることになった、10代のナイチンゲールの苦悩の日々が始まる。

ナイチンゲールの育った屋敷

① ハンプシャーのエンブリー・パーク(冬の家)

② ダービシャーのリーハースト(夏の家)

リーハーストの家は父、ウィリアムによる設計で一家のおもな住まいであったが、ナイチンゲール家にとっては屋敷というには小さすぎ、加えて「寒すぎる」との妻フランシスの不満から、ナイチンゲールが5歳の時にエンブリー・パークの屋敷=写真=を購入する。 エンブリー・パークは1946年から現在まで学校として利用されており、リーハーストは1874年のウィリアムの死後、親戚の手に渡り、戦後には老人向けケアハウスとなるが、現在は売りに出されており、所有者不在となっている。

異性は二の次

きっかけは、ナイチンゲールが20歳になった時に訪れた。
彼女は、興味をもっとも抱いた学問である数学を極め、「世間に出て活躍したい」と家族に相談する。19世紀の封建的なヴィクトリア朝時代の英国では、たとえ上流階級出身であっても女性の社会的地位はまだ低く、学問を身につけ一般社会で活躍したい、などという娘の告白は、両親にとって天地を揺るがすほどの衝撃的な「事件」であったに違いない。
ナイチンゲールの一番の理解者であった父、ウィリアムですら当惑するばかりだった。しかし、ついには、ナイチンゲールの長期に渡る執拗な懇願に根負けし、両親は個人講師をつけて数学を学ぶことを許可する。とはいえ、ナイチンゲールを完全には理解することのできない家族との間にはしこりが残り、このことから彼女は家族との間に葛藤を抱えていく。

旧10ポンド紙幣に用いられていた、
ナイチンゲールの肖像画。
c Florence Nightingale Museum
ちょうどこの頃、英国は飢饉と不況に襲われており、ナイチンゲールは幼い頃、母に連れられて行ったように、屋敷近くの村を訪問し、病人を見舞っていた。この経験を通じ病人看護に取り組みたいという思いを確固たるものとしたナイチンゲールは、ついに家族にその熱意を告白する。
だがそれは、家族にとって耐え難い衝撃的な出来事に他ならなかった。というのも、当時、看護婦という職業は、下層階級の無教養な人々が就く仕事だと考えられており、娼婦、アルコール中毒者などがたずさわっているのが実情であった。そのため、上流階級の淑女が就くような仕事では決してなかったのだ。世間体を重視する上流階級の一家にあっては、娘が看護婦になるという事実は、隠し通したい恥ずかしいことであっただろう。結局この時は諦めるしかなかったという。
家族の強い反対にあうことは分かりきっていたにもかかわらず、ナイチンゲールはなぜ、かたくなに自分の意思を貫こうとしたのか――。そこには、ナイチンゲールが人生で計4回聞いたという神の声があったとされている。
ナイチンゲール自身の日記によると、彼女は寝室で、茨の冠をかぶったキリストが光輝く姿で現れ、「我に仕えよ!(To My Service)」という神の啓示を受けたという。17歳で最初にこの声を聞いた時は「仕える(service)」が何を意味するのか理解できなかったが、前述のような貧困層のひどい暮らしぶりを見つめ続けた結果、24歳の時ようやくその答えを見つけだすことができたとされる。
良家のお嬢様という生い立ちはもとより、才色兼備で、さらには教養に裏付けられた機知に富んだ会話術を身につけていた20代のナイチンゲールは、社交界では当然人気者であった。近づいてくる男性も多く、何度かプロポーズも受けている。
その中でも国会議員にして慈善活動家の富豪、R・M・ミルズとの関係は特別であったようだ。貧しい人を看護したいという気持ちを理解した上でナイチンゲールを愛し、6年間に渡って求婚しつづけた。しかし29歳の時、「結婚して夫に忠誠を尽くすことになれば、神の意思をまっとうする機会を奪われてしまう」との理由から、彼女は生涯独身を貫く決心を固め、最終的には彼の熱烈な求婚に対し、「ノー」の答えを出す。これは、R・M・ミルズを、娘を『更生』させる最後の頼みの綱と信じていた母フランシスを失望の淵へ突き落とすことでもあった。

立ちはだかる男たちの「壁」

「私は30歳、キリストが責務を果たしはじめた年齢。今はもう子供っぽいこと、無駄なことはしない、愛も結婚もいらない。神よ、ただ自分の意思に付き従わせてください」(1850年、日記)
31歳の時、諦めともとれる家族の同意を得て、ドイツの病院付学園施設カイゼルスベルト学園に滞在し、3ヵ月間看護婦としての専門的訓練を積む。英国に戻った後も独学で病院管理や衛生学を学び、33歳でロンドンのハーレイ・ストリートにある慈善病院に就職し、監督者となった。
一方で自分の行動が家族や親戚を不幸にしているという良心の呵責を感じずにはいられなかったが、それでも自分の意思を貫き通して生きたいと強く思うナイチンゲールは、人知れず思い悩み、打ち明けられない気持ちを吐き出すかのようにメモを連ねていく。34歳でナイチンゲールが書き上げた自伝的小説『カサンドラ』(未出版)の中では、神からの啓示を実行するために結婚を断ったこと、看護の道へ進むことに反対する母との確執から神経衰弱に陥ったこと、そして自殺願望があったことまでが赤裸々に綴られている。
『カサンドラ』の執筆から間もない1854年3月、クリミア戦争勃発。
前述のとおり、国防相シドニー・ハーバートからの従軍依頼を受け、開戦から8ヵ月後の10月末、ナイチンゲールは職業看護師14名とシスター24名を引き連れ、戦地に赴いた。
荒れ狂う海原を越え、ようやくたどり着いたスクタリの地で、冷たい風が吹きすさぶ中、ナイチンゲールが目にしたものは、汚物まみれの病室と、満足な手当ても施されないまま、ゴキブリ、シラミ、ネズミなどがうごめき走り回るむき出しの固い床に寝かされた傷病兵たちの姿であった。彼らの多くは痩せこけ、痛みに半狂乱となるか、その場で弱々しく頭をうなだれていた。その環境の劣悪さから、多くの者がチフスやコレラを罹っていた。その上、必需品である薬や食料が不足し、死者の数だけが増え続けていた。驚くべきことに、病院での死亡率は戦地でのそれに対して7倍の高さであったとも伝えられている。
このような状況下で、ナイチンゲールは「救いの女神、来たり」という具合に現地で迎えられたわけではなかった。伝統的に英国陸軍には、「戦場は男の世界」という概念があり、陸軍の軍医局の幹部たちは、ナイチンゲールら看護婦たちを、ろくに役に立たない邪魔者として蔑み、冷遇した。
ナイチンゲールの最大の敵は、不足する物資でも不潔な環境でもなく、陸軍の「男性社会の壁」であったのだ。このためナイチンゲールら看護団は、当初、傷病兵の手当てをすることを許されず、破れたシャツを縫ったり病床を整えたりといった、ごく簡単な作業を行いながら、もどかしい日々を過ごさざるを得なかった。

スクタリ病院の真実
~ 誤解が生んだ統計学への傾倒 ~

ナイチンゲールがスクタリにたどり着いた翌年の1855年2月には負傷兵の死亡率は約42%にまで跳ね上がっていた。しかし、物資補給体制を整えたり、職員や病室を増やしたりといったナイチンゲールの寄与もあり、4月に14.5%、5月に5%となり、同年冬にはなんと2%にまで激減した。
戦時中、ナイチンゲールは兵士の死亡原因は、極度の栄養失調や、兵士が疲弊し手遅れになって病院に送られて来るためだと信じていた。このため、軍司令部の無能さや非情さ、物資補給を滞らせる政府や軍当局、病院管理者を激しく批判した。
戦後になって、このことを実証する目的で、統計学者のウィリアム・ファーとともに手がけた調査で、ナイチンゲールは、2万5,000人の兵士のうちの1万8,000人を死なせたおもな原因が、戦傷や兵士の過労によるものよりも、病院の過密と不衛生な状況によるものであったという、当初の推測とは異なる結論を得て、みずからも愕然とした。数字上では、死亡率は劇的な減少を遂げたものの、看護の監督者として、病院の衛生管理事項の注意を怠ったために、助かったかもしれない負傷兵を死に追いやった、という罪の意識にさいなまれたナイチンゲールはあまりの衝撃に虚脱状態に陥るほどだった。
このことからナイチンゲールは、「死亡率の要因」という真実をできるだけ多くの人々に知らせることで、再び同じ過ちが繰返されるのを防ごうと決意。ナイチンゲールが生涯に渡り、統計学と衛生統計へ情熱を注いだのはそのためだった。

クリミアに天使現る

「勇気と高い志を持った女性たちに対する冷遇はやがて、懇親的な働きから感謝の気持ちへと、自己犠牲をいとわない働きぶりは畏敬の念へと変化していった」(1855年、野戦病院の医師)
ナイチンゲールたちに転機が訪れたのは、その2週間後の1854年11月5日。ロシア軍が本格攻撃を仕かけてきたのだ。その数ざっと5万人。対する英国軍はわずかに8000人…。
たった6時間のこの『インカーマンの激戦』で、英国軍はあっという間に2500もの負傷兵を出した。スクタリ病院は次々と担ぎ込まれる負傷兵たちであふれ返り、土埃と負傷兵のうめき、汗、そして血で覆われた地獄へと一変した。
すでに憔悴しきっていた軍医たちが、何千という負傷兵に処置を施すのは無理であった。そしてこの緊急事態が軍医局のプライドをつき崩し、ついに、ナイチンゲールたちが実務に従事する許可がおりる。ナイチンゲール一行は迅速な対応と見事な働きぶりを見せつけ、その実力を証明した。
ナイチンゲールは、ある時は患者に包帯を巻くために8時間もひざまずき通し、兵士が負傷した足をノコギリで切断されている際には、その絶叫と切断音の只中に身を置いて、患者のそばを離れなかったという。夜はランプを手に持ち、何百、何千という患者を見回ったというエピソードはあまりに有名だ。

クリミア戦争時の
1856年3月9日に
ナイチンゲールが書いた手紙。
c Florence Nightingale Museum
ナイチンゲールの献身的な働きは、これだけにとどまらなかった。
彼女はこの悲惨な状況を国に報告し、患者の傷の手当てをする人材の不足、包帯や薬などもろくに補給されていない現状を訴えた。当時国防相を務めていたシドニー・ハーバートは、ナイチンゲールとは慈善事業を通じて旧知の仲であったことから、彼女の戦地レポートを深刻に受け止め、支持した。
ハーバートの後ろ盾もあり、ナイチンゲールはすさんだ野戦病院の抜本的改善を推し進めていった。
重傷兵のための特別食を用意したり、今でいうナースコールを取り入れて昼夜を問わず患者の元に駆けつけることができるようにしたりした。現在においては当たり前のシステムだが、当時としては画期的なアイディアであった。
すでに負傷兵たちの間では「天使」となっていたナイチンゲールであったが、彼女の取り組みはまだまだ続く。軍病院改善のため、ついには個人財産を投げ打ち、リネン類や包帯、防寒具などの日用品の買い付けから、200人の職員増員、病院施設の拡張・改築まで、まさに徹底的な改革に乗り出した。ナイチンゲールがつぎ込んだ財産はざっと約7000ポンド。これは現在の35万ポンドにも相当する。
いわゆる「看護」の領域を超えた渾身の活動により、死者の数はみるみるうちに激減(11項コラム参照)。ナイチンゲールの、革命とも呼べるこの大規模な改革は、英国の新聞で大々的に報じられ、ナイチンゲールは一躍時の人となっていく。さらに、ナイチンゲールを支持する多くの英国一般市民から寄付が集まり、その総額は5万ポンドにも膨れ上がったという。

天使から一転、改革の鬼へ

入院患者の生活環境としての病院の構造について
種々の提案をし、設計図を残している。その設計は、
現代においても病院設計の専門家が参考にするほどの
優れた見識を示しているという。
1856年3月30日、パリで平和条約が締結され、翌月29日、クリミア戦争終結。
7月、最後の患者の退院を見届けたナイチンゲールは、ロンドンへの帰路についた。英国国内ではすでに国民的英雄として祭り上げられていたが、過剰に注目されるのを嫌い、「スミス」という偽名を使って人知れず帰国している。休む間を惜しんで、ナイチンゲールは幼少時に家族が別宅として利用していたバーリントン・ホテルの一室を自室兼事務所とし、クリミア戦争の英国兵の死亡原因の統計をまとめる作業に没頭する。この分析で、負傷兵の死亡の最大要因は、病院の「衛生環境の劣悪さ」であることを突き止める。
第二の人生ともいうべきナイチンゲールの改革人生がスタートした瞬間だった。
まずは、統計資料などを用いて、英国陸軍の衛生状態や病院管理に関する、800ページに及ぶ調査書(*2)を書き上げた。そしてスクタリで目の当たりにした病院の悲惨な状況を参考に、陸軍病院全組織の改革を提唱し、病院のみならず兵舎の設備の改善にも取り組む。
下水道、調理設備の完備、換気や暖房、照明器具の設置なども徹底した。陸軍管理官たちの管理規定も改め、個人の健康管理を考えるという、現代では当然だが、当時としては画期的な発想で規定を作った。

ベストセラー作家ナイチンゲール

晩年は、闘病生活のかたわら、
ベッドの上で執筆活動はつづけていたが、
1901年81歳の時には失明し、
その10年後この世を去った。
c Florence Nightingale Museum
看護と衛生の大切さを広く一般に伝承することにも力を注ぎ、1860年に出版した『看護覚え書(Notes on Nursing)』は、看護婦の教本としてのみならず、各家庭の衛生管理を担う主婦たちのバイブルとされ、ベストセラーとなった。
同じ年、クリミア戦争中に創設された「ナイチンゲール基金」に集まった5万ポンドで、ロンドンの聖トマス病院内にナイチンゲール看護学校が設立され、ナイチンゲールは指導者として後継者の育成に努めるようになる。
生徒数は当初10人に過ぎなかったが、これを境に英国各地に同様の看護婦養成学校が作られるようになり、現在に近い看護婦養成体制が整えられる礎となった。そして、それまで雑用係同様に扱われていた看護婦という職業が、高い教養を要する専門職として世間に認知されていくようになる。
しかし、40代を迎えたナイチンゲールは、陸軍という男性社会の中で発言を続けてきた極度のストレスに加え、ナイチンゲールを支え続けたシドニー・ハーバートの過労死、クリミア戦争の時にともに活動した親族内での唯一の理解者であった叔母、メイとの突然の別れなどにより、食事を受け付けなくなるほど心身ともに消耗してしまう。
そして、度重なる試練と不幸の末、ついに大きな発作を起こし、死の淵をさまよう。その後の10年間は病床に伏した。
ところが、このような状況の中ですら、仕事への情熱は消えることがなかった。ナイチンゲールはクリミア戦争時に出会い、さらにナイチンゲールの主治医となったジョン・サザランド医師との筆談によって、仕事を進めていく。
50代になり、ようやく体調も安定してきたナイチンゲールは、ナイチンゲール看護学校の卒業生を自宅に招き、リーダーになれそうな女性を選び出して積極的に支援したりもした。
52歳の時、自力で生活することが困難になった両親を訪問し、介護することを決意。理解しあえなかった過去の、失われた時を取り戻すべく家族との絆を深めていくナイチンゲールであったが、1874年には父のウィリアムを、80年には母フランシスを亡くし、ナイチンゲールは徐々に心の支えを失っていった。そして90年には、関節炎で病に臥していた姉のパーセノープも病死。これが決定打となりナイチンゲールの活動意欲は徐々に削ぎ落とされていく。

長く濃い人生の最期

ハンプシャー州、ロムジーの近くにある
イーストウィロー教会内の墓。
墓石にはナイチンゲールの遺志により、
イニシャルで「F. N. Born 1820. Died 1910.」
(F.N. 1820年生 1910年没)とだけ記された。
姉の死後も70歳半ばまで仕事を続けたナイチンゲールではあったが、76歳の時には二度とベッドを離れられなくなるまで衰弱し、81歳では失明。しばしば昏睡状態に陥ることもあったという。それまでは拒絶していた家政婦や秘書も雇い入れた。
生涯独身を貫き通し、家族を亡くして孤独の身となったナイチンゲールであったが、晩年のナイチンゲール宅は、甥や姪、看護学校の生徒や卒業生が出入りし、賑やかで幸福に包まれていたという。
何千何万という傷ついた英兵たちを支え、戦後も改革にまい進したナイチンゲールを世間も忘れるはずはなかった。1907年には、87歳にしてエドワード7世より女性初のメリット勲章(*3)が授与された。
1910年8月13日、ハイドパークに隣接する自宅でナイチンゲールは静かに息を引き取った。享年90。彼女の死を伝えるニュースは英国内のみならず世界中を駆け、当時の新聞は「ナイチンゲールの死はヴィクトリア女王の死と並ぶほど甚大な損失であり、国葬に値する」と書きたてた。
しかし、彼女は華美で盛大な葬儀を望む多くの人々の声を拒んだ。彼女の遺志どおり、葬儀はごく小規模に執り行われ、ナイチンゲールの棺は両親の眠る墓のそばに、たった6人の陸軍曹の手によりしめやかに埋葬された。その様子を、みすぼらしい身なりの庶民たちが、遠巻きに見守っていたという。

Florence Nightingale Museum
(St Thomas' Hospital内)

St Thomas' Hospital
2 Lambeth Palace Road, London SE1 7EW
Tel: 020-7188-4400
www.florence-nightingale.co.uk
【入場料】 大人£7.50 子供£3.80
【最寄駅】 Waterloo, Westminster


[写真左]テムズ河を挟んで国会議事堂の正面に立つ聖トマス病院の一部。病院の正面入り口に向かって左奥の一角。なお、博物館内には、ナイチンゲールの著書をはじめ、バッジやノートなど、オリジナルロゴ入りのグッズを購入できるショップもあり。


【ジャーニー編集部がロンドンの街をぶらりとレポート】 ナイチンゲール博物館に行ってみた
【ジャーニー編集部がロンドンの街をぶらりとレポート】 ヴィクトリア朝時代の薬局を改装! ナイチンゲールゆかりのカフェ

用語解説
*1 ジェントリー:下級地主層の総称。男爵の下に位置し、貴族には含まれないが、貴族との間に称号以外の特権的差異はない。両者ともに「地主貴族層」に位置づけられる。
*2 英題:Notes on matters affecting the health, efficiency, and hospital administration of the British Army, founded chiefly on the experience of the late war. [1858]
*3 メリット勲章:英国国王、もしくは女王から、軍事、科学、芸術、文学、文化の振興に功績のあった人物に贈られる。現存する勲章の中で最も名誉なものであると言われている。ナイチンゲールは女性として史上初の受賞者となった。


全英オープンを中止に追い込んだ男 トム・モリス・ジュニア

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全英オープンを中止に追い込んだ男

トム・モリス・ジュニア

1860年秋、第1回となるゴルフの全英オープンが、スコットランドのプレストウィックにて開催された。開始以来、毎年行われているはずの全英オープンではあるが、やむを得ない理由で過去12回、中止となった。それは2度の世界大戦によるものだ。しかしそれが原因で大会が中止されたのは全部で11回である。実は全英オープンには、戦争とは全く異なる理由によって中止された、もう1つの空白が存在する。黎明期の全英オープンを中止に追い込んだ若者の、太く短い生涯を追う。

●Great Britons●取材/本誌編集部 ※本特集は2011年6月30日号の週刊ジャーニーに掲載したものを再編集してお届けしています。

全英オープン史を語る上で避けて通ることができない人物に、トミー・モリスという若者がいる。彼は1851年、スコットランドのセント・アンドリュースに生まれた。父親のトム・モリスは「近代ゴルフの父」と称され、セント・アンドリュースのプロ兼グリーンキーパーを務めた人で、近代ゴルフの体系化に大いに寄与した人である。また、自身も全英オープンを4度制するほどの腕前であり、晩年はミュアフィールドやロイヤル・ドーノック等、数々の名門コースを設計した人としても知られる。

トミーにはわずか4歳で早逝した兄がいた。その兄もまたトム・モリスといい、両親は彼をウィー・トム(小さなトム)と呼んで溺愛した。その時、弟となるトミーはまだ母親のお腹の中にいたが、ウィー・トムは弟とすれ違うようにしてこの世を去ってしまう。長男を失った悲しみと新しい命を授かった喜びのはざまで、両親は新しい命に再びトムという名を与えた。両親や周りの人々は、新しく生まれたトムを、父親や兄と区別するためトミーと呼んだ(父親と明確に区別するためトミーを、トム・モリス・ジュニア、またはヤングトムと表現する資料も多いが、本文内では父トム・モリスが呼んでいたように「トミー」で統一する)。

トムは生粋のセント・アンドリュースの人で14歳の時に、プロゴルファー第1号と言われるボール作りの巨匠、アラン・ロバートソンの元に奉公に入った。

ロバートソン家が代々、独占的に作り続けていたのはフェザーボールという代物で、これは丸く削ったつげの木製のボールに取って代わって17世紀初頭に登場したと言われている。フェザーボールとは、ひょうたん型に切った牛皮に帽子にいっぱい入るほどの羽毛を濡らしてギュウギュウに詰め、牛皮を縫い合わせて乾燥させたものだ。ボールの大きさは現在のものとあまり変わらず、上級者が渾身の力でひっぱたけば200ヤードも飛んだと言われる。

ただ、原材料が高価な上、製造するのに大変な手間がかかり、熟練の職人でも1日3個程度しか作れず、名人でも4個がやっとだったという。そのため、ボールは自ずと高価となり、フェザーボール1個が当時の手作りクラブ1本の代金に相当したというから、庶民にはなかなか手の届かない高級品であった。

ロバートソンは、当代きってのボール職人であったのみならず、ゴルファーとしても腕前は超一級で、今も多数残るマッチプレーの試合記録を見ても遂に1度たりとも敗北したという結果が見当たらない。そのため「不敗の名手」とも呼ばれている。ロバートソンはキャディとしても働くかたわら、クラブの会員に依頼されては謝礼を受け取って彼らにゴルフの指南をし始めた最初の人物と言われ、また、懸賞金のかかったマッチプレーにも多数参加していた。そのため、ゴルフ史研究家たちは、彼をもってプロゴルファー第1号としている。

「プロゴルファー第1号」と、その弟子であり、後に「近代ゴルフの父」と呼ばれることになるこの2人に、ある日修復不可能な深い傷が刻まれることとなる。

悪い知らせはいつも南から 

1850年ごろにセント・アンドリュースで撮影された写真に納まる、トム・モリス(左から2人目)とアラン・ロバートソン(右から3人目)。

英国の東インド会社が進出を果たしていたマレー半島から、ガッタパーチャという天然ゴムの一種が本国イングランドを経由してスコットランドにも運ばれてきた。この頃に敷設が始まった海底ケーブルの絶縁体として使われた素材で、さらに虫歯の詰め物としても随分と重宝がられたという。

この樹液を丸めて固めると案外、フェザーボールの代用となることが分かった。それどころかフェザーボールと較べて製造がはるかに簡単で、しかも安価に作ることができ、また例え変形しても型に入れて圧縮、冷却するだけで何度でも再利用できるため、ガッタパーチャボール(通称ガッティ)は、あっという間に人々の間に浸透していった。

230年もの間、フェザーボールの製造と販売を一手に引き受けてきたロバートソン家にとって、ガッティの登場はまさに先祖代々続いてきた家業をおびやかす脅威以外の何者でもない。ロバートソンは「悪い知らせはいつだって南(つまりイングランド)から来る」と憤慨し、弟子に申し付けて手当たり次第にガッティを買い漁らせ、これらを焼却する日々に追われた。

しかし、日頃から高価に過ぎるフェザーボールに疑問を抱いていた弟子のトムは、師匠の意向に反してガッティに将来性を見出し、師匠には内緒でガッティの性能を試していた。それはフェザーボールより若干飛距離が落ちるものの、とにかく原価が安い上に羽毛や牛皮と違って供給も安定的で、価格もフェザーボールの4分の1に抑えることが可能となる代物だった(ボールに打ち損じの際に傷がつくことで、ボールがさらに飛ぶようになることも分かり、飛距離の問題も解決されることになる。今で言うディンプルという意図的につけた凹みの起源だ。ただし、この当時はまだその原理が分かっていない)。

トムは意を決して師匠に、この際フェザーボールを捨ててガッティ製造業へと軌道修正すべきではないかと進言する。しかしこれにロバートソンは激怒し、2人の間は修復不能なまでに決裂した。結局、ロバートソンの元を飛び出したトムは、妻ナンシーとまだ乳飲み子であったトミーの2人を連れ、スコットランド西海岸にあるプレストウィック・ゴルフクラブへと向かった。そこでプロゴルファー兼グリーンキーパーの職を得、1864年に再びセント・アンドリュースの町に戻るまでの約13年間、モリス一家はプレストウィックで過ごすこととなる。

全英オープンのつまずき

1859年、アラン・ロバートソンが亡くなった。フェザーボール作りの職人は、羽毛の細かな粉塵を毎日のように吸い込むため、早死にする者が多かった。享年44。

「不敗の名手」が世を去った。ロバートソン亡きあと、この世の中で最強のゴルファーは一体誰か。

それまでアマチュアの間だけで行われていた競技会だったが、遂にそれがプロの世界でも始まろうとしていた。全英オープン(正確には「ジ・オープン」)。それは、世界最強プロの座を争うプロのための競技会であった。

1860年、プレストウィック・ゴルフクラブの提唱により遂に第1回目となる全英オープンが開催された。会場はもちろんプレストウィックである。

しかし、蓋を開けてみれば、参加者はわずかに6名。まだ鉄道が網の目のように走っていない時代、人々の主な移動手段は徒歩か、せいぜい馬車である。これでは例え行き先がわずか数十キロ先であったとしても、そこそこの小旅行となってしまう。まだまだ遠距離を気軽に往来できる時代ではなかった。1860年とは、日本では大老、井伊直弼が桜田門外で暗殺された年にあたる。鉄道発祥の地とはいえ、さすがに英国でもこの時はまだ、交通事情が今ほどに整っていたわけではなかった。

さらに主催者を落胆させることがあった。参加者たちのスコアが、アマチュアのチャンピオンとさほど大差のないものだったのである。こんなことであればいっそのこと、プロもアマも関係なく、腕に覚えがある者になら誰でも参加を許し、世界一のゴルファーの座を競わせるものとしよう、という意見でまとまった。そして宣言は成された。

「今後永久に、チャレンジベルトを全世界に対して公開(オープン)する」。

第1回目となった1860年の大会は、声をかけたゴルフクラブのプロたちだけによるものであった。そして1861年の2回目以降は、今の全英オープンの理念に通じる「全世界のゴルファーに公開した」大会となって再出発を果たした。

1864年、パースで開催されたトーナメントに参加した、13歳のトミー(最後列左端)と父のトム(トミーが肩に手を乗せている人物)。

始まってから数年の間、目論んだほどには参加者は増えず、まだまだ足元も頼りない全英オープンであったが、1868年、第9回目となった全英オープンで異変が起こる。この年の全英オープンを制したのは17歳に成長していたトム・モリスの子、トミーだった。まだ表情にあどけなさすら残る少年であったが、当時のスコットランドを代表するプロたちを抑えての堂々の優勝であった。この時に打ち立てられた最年少記録は今もって塗り替えられていない。

トミーの活躍ぶりに周囲の大人たちは大いに驚かされたが、驚くのはむしろ早過ぎた。トミーは翌年、さらにはその翌年の大会も制し、大会史上まだ誰も成し遂げたことのなかった3連覇を、いともあっさりと達成してしまったのである。

初優勝の折には、その表情に幼ささえ湛えていた少年も、この時すでに19歳。体つきもがっしりとした立派な大人の男性へと成長し、もはや誰もが認めざるを得ないスーパーチャンピオンとなっていた。

1870年、3年連続で全英オープンを制し、チャレンジベルトを永遠に我がものとした時のトミー・モリス

トミーが3年連続で手にした優勝の証とは「チャレンジベルト」と呼ばれる、いわゆるチャンピオンベルトであった。これは、プロを集めてナンバーワンを競うという全英オープンの開催を提唱したプレストウィック・ゴルフクラブが出資して作らせたもので、上等なモロッコ皮に豪華な銀飾りを施した、高価で立派なベルトだった。

それまで、アマチュアの競技会においてはクラレットジャグ(ボルドーの赤ワインを入れるジョッキ)型の銀製トロフィーが贈られる慣わしとなっていた。歴史上初めてとなるプロの大会が、アマチュアと同じクラレットジャグを競い合うということに若干の抵抗があったのかもしれない。いずれにしても全英オープンの勝者にはベルトを贈ることが決定された。

当時12ホールしかなかったプレストウィック・ゴルフクラブを1日で3ラウンド、つまり36ホールをプレーして最も少ない打数(ストローク)を競う、という極めて単純な決め事だけで始まった全英オープンであったが、実はそれとは別に、もう1つだけルールが存在した。それは「この大会を3年連続で制した者に限り、このチャレンジベルトを永久に自己の所有としてよし」とするものであった。

かくしてトミーは、大会の規定どおり、この世界にひとつしかない立派なチャレンジベルトを永久に彼の所有物とした。

問題はその後である。

主催者側は新しいベルトの用意をしていなかった。予算がなかったのである。人々は金策に走り回った。しかし翌年の大会までにベルトは間に合わず、1871年の全英オープンはやむなく中止に追い込まれてしまった。

主催者たちが出した結論とは、全英オープンの単独主催をあきらめ、セント・アンドリュースとマッセルバラの両クラブを巻き込んで予算を確保することであった。その見返りとして今後の全英オープンはこの3つのコースで順繰りに開催することを提案した。さらにチャレンジベルトは廃止とし、代わりに銀製のクラレットジャグを優勝杯と定めた。クラレットジャグは毎年、チャンピオンの氏名を刻み込んだ上で主催者が保管し、優勝者には賞金とともにメダルを授与することも決定した。

1872年。装いも新たに全英オープンが再開された。1年の歴史的空白を経てこれを制したのはまたしてもトミーであった。唯一無二のチャンピオンベルトを永遠のものとしたのもトミーなら、毎年7月の第3日曜日の夕刻、その年のチャンピオンに与えられる、あのクラレットジャグを最初に手にしたのもトミーであった。参加者の少ない黎明期とはいえ、空前絶後の4年連続制覇をやってのけたトミー。真新しいクラレットジャグを高々と持ち上げるトミーの雄姿を、誰もがため息交じりに見つめていた。一体これからどれだけこのクラレットジャグにトミーの名が刻み込まれていくことになるのであろうか…。トミーはまだ21歳の若者なのである。

 

トム・モリス・シニア

(1821年~1908年)通称:オールド・トム

全英オープンを4度制したゴルフの名手であり、グリーンキーパー、クラブメーカー、ボールメーカー、インストラクター、コースデザイナーでもあった。最後に全英オープンを制した時は46歳であり、これは今も最年長記録として破られていない。2009年、ターンベリーで開催された全英オープン。当時59歳のトム・ワトソンが初日から快進撃を続け、遂にトム・モリスの最年長記録が塗り替えられるかと大きな話題となったが、プレーオフでスチュアート・シンクに敗れ、記録更新はならなかった。
晩年はミュアフィールドやロイヤル・ドーノック、ウエストワード・ホーなど数々の名門コースのデザインを手がけ、ゴルフの世界に巨大な足跡を残した。1908年没。享年86。

メグとの出会い 

新しい朝を迎えたセント・アンドリュースのオールドコース。このゴルフコースがいつここにできたのか、誰も知らない。

翌年の1873年、全英オープンは遂にプレストウィックを離れ、初めてセント・アンドリュース(オールドコース)で行われた。さすがのトミーも5連覇の夢は叶わず、さらにその翌年の1874年の大会でも、5度目の優勝はお預けとなった。

しかしこの年、トミーは優勝杯よりも嬉しい財産を得た。伴侶である。お相手はマーガレット・ドリネンという9つ年上の女性であった。メグ(マーガレットの愛称)はウィットバーンというウエスト・ロージアン地方の小さな町の出身であった。ウィットバーン。19世紀に良質の石炭と鉄鉱石の鉱脈が発見され、大英帝国の成長を地下資源で支えた町として知られる。従って当時の人たちはこの地名を聞いただけでその娘が、恐ろしく不衛生で貧しい鉱山労働者の家の出であると容易に理解できた。

事実、メグは2ベッドのフラットに家族10人がひしめきあって暮らす貧しい家の出身であった。長身で人目を引く美人だったという。その上聡明で性格も明るく、レース編みを得意としていた。彼女は25歳の時、エジンバラでも名の通った弁護士宅での住み込み女中の仕事を見つけ、黒く煙る故郷を後にした。当時の女中という仕事は炊事、洗濯、掃除に始まり、暖炉に薪をくべ、風呂に水を運び、家中の真鍮を磨き、と夜明けと共に休むことなく働き倒し、自分の部屋に戻って息をつけるのは夜の10時半ごろで、週7日の休みなき過酷な労働だった。それでも鉱山の仕事に比べれば、ここでの生活は清潔で明るい上に食事も充実し、彼女にとってはまさにパラダイスであった。

ある日、雇い主である弁護士が、メグにセント・アンドリュースに行けないかと打診した。かの地に暮らす弁護士の母親が、働き者で信頼のできるメイドを探していたためで、弁護士は迷うことなくメグを母親に推薦したのである。敬愛する主人の願いを断るわけにもいかず、1872年、メグは小さな鞄一つを抱え、セント・アンドリュースへと向かった。

そしてトミーとメグはセント・アンドリュースの町で出会い、いつしか惹かれあうようになった。

父親のトムは当初、メグを快く思っていなかった。トムはプレストウィック時代、何とか家計をやりくりしトミーを貴族や裕福な者らの子息が通う私立のアカデミーに通わせた。ここでトミーには教養だけでなく、上流階級の世界との接点を身につけさせたつもりであった。ところがトミーが見つけてきた相手は、ウィットバーンの出身だといい、さらにトミーより9つも年が上だという。

そのトムを諌め、メグを優しく迎え入れようとしたのは母親のナンシーであった。ナンシーもまたトムとの結婚前は女中をしていた人であり、トムより5つ年上の姉さん女房だった。ナンシーにしてみれば、メグを否定することは、過去の自分を否定することにもなったのであろう。

ただ、メグにはもうひとつ、あまり知られたくない過去があった。ウィットバーン時代に、当時の鉱山の主任を務めていた男との間に女の子をもうけていた。2人の間はロマンチックな関係ではなく、むしろメグの意志に反した出来事であったらしい。出産から1ヵ月の後、女児は病気でこの世を去った。彼女が故郷を捨て、エジンバラに移った本当の理由はその辺りにあるようだ。

メグの告白を聞いたトミーは、あまり気にする風でもなく、過去を全てひっくるめてメグを受け入れた。

かくして2人は神の前で結ばれ、メグはマーガレット・モリスとなった。  たちまちセント・アンドリュースの小さな町は、貧民窟からやってきた女中上がりの姉さん女房に関するゴシップで溢れることとなる。

しかし、トミーの毅然とした態度とメグの聡明でいながら控えめで明るい性格はやがて人々の心を溶かし、彼女自身も次第に町に受け入れられていった。

そしてその翌年、メグはトミーの子を宿した。

妻を娶り、そしてやがて父親になる。トミーの闘争心に再び火がついた。2年間遠ざかっていた全英オープン王者の座を奪還すべく、より一層練習に精を出す日々が始まった。

一通の電報

トミーとトム、珍しく2人で写った1枚

1875年9月4日。

フォース湾を挟んでセント・アンドリュースの対岸にある、ノースベリック・ゴルフクラブにて、トムとトミーのモリス親子対、彼らの宿命のライバルとも言える、ウィリー・パークとその甥っ子のマンゴ・パークの2人による、フォーサム(各チームがそれぞれ1つのボールを交互にプレーして競う競技形態)競技が行われた。試合には25ポンドという当時としては高額な賞金がかけられ、当代人気の2家族・4人の取り組みということで、近隣の大観衆を集めての熱戦となった。

トミーはこの試合への参加に気乗りしていなかった。というのも、新妻であるメグのお腹が9ヵ月に満たぬというのに破裂せんばかりに大きくなっていたのである。陽気なメグにも背中を押されたトミーは、助産婦をそばにつけ、不承不承会場へと赴いた。

汽車を何度も乗り継いでほぼ1日がかりで辿り着いたノースベリック。ここでの因縁の対決は予想通りの大接戦となり、試合はいよいよ終盤へと差しかかっていた。

その時、観衆を掻き分けながら進んでくる1人の少年がいた。その手には1通の電報が握り締められていた。

観衆にもみくちゃにされながらも彼は尋ねた。

「トム・モリスさんはどちらです?」

周囲は答えた。

「2人いるぞ。ほら、あそこの親子だ。だがボウズ、ちょっと待ちな。今、いいところなんだ。邪魔するもんじゃないぞ」

少年は困惑した。彼が手にした電報の表には「緊急」と打たれているのである。少年は隙をついて観衆の前に飛び出し、父親のトムに電報をそっと渡した。

トムは、その電報をトミーに見せないようにそっと開いた。

「難産。至急、帰られたし」

トムは戸惑った。白熱した試合は残りわずかに2ホールであり、あと30分もすれば終わる。しかも次の汽車に乗るにしてもまだ数時間も先のことなのである。トムは電報をそっとポケットにしまった。

結局試合はモリス親子の勝利となった。

試合が決着し、大観衆の雄たけびのような大歓声がよくやく収まったころ、トムはトミーに囁いた。「帰ろう。メグがよくない」。

しかし汽車だとセント・アンドリュース到着は翌日の午後になってしまう。どうしたものかと思案しているところへ、ノースベリックの会員の一人が「海路、フォース湾を横切り、直接セント・アンドリュースに行くのが1番早かろう」と提案し、自らのヨットと使用人を提供した。

洋上、凍りついたような表情で1点を見つめ続けるトミーに、トムはかける言葉すら見出せない。2人の間には冷たい海風だけが流れていた。

ヨットが無事、セント・アンドリュースの湾に入ったのは日付が変わってまもなくのことであった。そこにトムの弟であり、トミーの伯父にあたるジョージがボートを漕いでやってきた。彼は悲痛な表情でトムに耳打ちをした。トムはそっと目を閉じ、ひとつ大きく息を吸い込んだ。そして何かを決心したかのように小さくうなずくと、青ざめるトミーに静かに告げた。

「トミー。メグは天に召された。赤ん坊もだ。残念だ」

その瞬間、トミーは大きく目を見開き、全身を細かく奮わせた。そして長い長い沈黙の後たったひと言「嘘だ…」と、うめくように呟き、その場に崩れ落ちた。

トミーの慟哭は激しく続いた。トムはその間黙って湾内をぐるぐると回遊させ続け、2時間後にトミーがある程度、落ち着いたのを見計らってボートを岸へと着けた。

家に辿り着き、そっと寝室のドアを開けた。そこには妹のリジーと末弟のジャック、そして医師や助産婦らに囲まれ、既に永遠の眠りについたメグの姿があった。そしてその横には、生きて両親に抱かれることすら叶わなかった小さな命が真っ白な布に巻かれて置かれていた。男の子だった。

子宮破裂による失血死だったという。4時間に亘って大量失血が続き、その中でメグも赤ん坊も力尽きた。

貧しい鉱山の町に生まれ、幼い頃から親の手伝いで坑道に入っては毎日、爪の中まで真っ黒になりながらも明るく生き、いつしか聡明で美しい女性へと成長したメグ。エジンバラやセント・アンドリュースでは夜明けから深夜まで休むことなく働き続けた。やがて心優しきトミーと出会い、結ばれ、愛する人の子を宿した。幼い頃から夢に見てきたあたたかな家庭は、まさに目の前にあった。その、ささやかな幸せを掴もうと手を伸ばした瞬間、突然何もかもが終わってしまった。まるでシャボン玉がパチンとはじけて消えるように。

結婚からわずか10ヵ月目のことであった。

彗星の運命 

セント・アンドリュースの町に、北海から冷たい秋風が吹き込み始める9月の中頃、メグと赤ん坊の葬儀が盛大に執り行われ、ゴルフの聖地は深い悲しみに覆われた。通常の葬儀代が3ポンド程度だった時代にあって、メグたちの葬儀には50ポンドが費やされたという。

2人の棺は、セント・アンドリュース大聖堂跡の横にある、小さな墓地の一角に埋葬された。

プレストウィックで行われたその年の全英オープンに、当然ながらトミーの姿はなかった。

メグの死から1ヵ月。トミーの心はいまだ、出口があるとも思えない漆黒の闇の中をさまよっていた。周囲の人々はトミーが再びその瞳に精気を取り戻し、天空に向かって急上昇するツバメのような、強烈なショットの復活を願っていた。

10月の半ば、友人らは遂にトミーをゴルフ場に引っ張り出すことに成功した。しかしもう、そこにはかつての溌剌としたトミーの姿はなかった。彼の心は、教会墓地に眠る妻と息子のそばにあるかのようであった。

わずか17歳で全英オープンで優勝し、その後1年の空白を経てこの大会を4度連続で制覇したトミー・モリス。まさに彗星のごとく現れた天才児であった。しかし突然現れ、突然去っていくのが彗星の運命である。その意味で、トミーは本物の彗星であった。

1875年のクリスマス・イヴ。トミーは友人らに誘われ、クリスマス・イヴを祝い、夜11時ごろに帰宅した。病が悪化し寝たきりになっていた母ナンシーであったが、この時まだ起きていてトミーは母の寝室でひとことふたこと言葉を交わした。続いて父親にも挨拶をしてから自室へ入り、そのままそっと眠りについた。

この夜、セント・アンドリュースに月はなく、大きな闇がモリス家を包みこんでいた。

12月25日、クリスマスの朝。トムはいつものように早起きし、妻と2人の息子と共に軽い朝食を済ませた。

いつもなら早起きのトミーが起きてこないことを心配したトムが、トミーの寝室のドアをノックしながら「もう10時だ。そろそろ起きて朝食にしないか」と声をかけた。しかし返事はなかった。悪い予感と共にトムは寝室のドアをそっと開けた。

「ああ、何と言うことだ…」。トムはベッドの傍らで呆然と立ち尽くした。

トミーは既に冷たくなっていた。永遠の眠りであった。しかしその表情は、メグが召されてから誰にも見せることがなかった、穏やかで幸せそうな表情であったという。

墓地の壁に掲げられたトミーのモニュメント。ゴルフの聖地、セント・アンドリュースならではの風景だ。

午前11時、駆けつけた医師によりトミーの死亡が確認された。死因は肺の内出血だったという。24歳と8ヵ月。短くも太い人生であった。

死の数日前、凍てつく寒空の下、6日間にわたる過酷なマラソンゴルフを続けたことが直接の原因ではないかとされている。特にコースに雪が舞い降りた日は、誰もがやめるよう説得したにも関わらず、なぜかこの時のトミーは頑なにこれを拒み、プレーを続けたという。

トミーはその時に肺炎を患い、それがもとで死んだ。しかし町の人々は「トミーは愛するものを失った悲しみで心臓が張り裂けたのだ」と囁きあった。

哀れなトム。彼はわずか4ヵ月にも満たない間に、義理の娘と孫の葬儀を出し、今度は息子の葬儀のために奔走しなければならなかった。

トミーの葬儀は12月30日に執り行われた。トムは借金までして当時としては破格の100ポンドを費やし、壮大な葬儀を執り行った。息子を偉大なるチャンピオンとして送りたかったのである。この日、トミーを見送る人たちでセント・アンドリュースの家の半分以上が空になったとされる。

トミーは、メグと赤ん坊の真横に並んで埋葬された。

トミーの死から3年後、スコットランドとイングランドの名だたる60のゴルフクラブから寄せられた基金を元に、大理石製の立派な記念碑が作られ、トミーの墓のそばに掲げられた。そこには、バルモラル帽を被り、ツイードのジャケットを着たトミーが、今まさにボールを打たんとする颯爽とした姿が刻まれている。そしてさらにセント・アンドリュース大学のタロック教授による碑文がそこに添えられた。

「チャンピオンベルトを続けて得ること3度。これを保持するも1人とてうらやむ者なし。その善良なる性質はゴルフでの偉業に勝るとも劣らず。多数の友人と全てのゴルファー、ここに深い哀悼の意を表す」。

いつ訪れても、この記念碑の前には誰が添えたか、真新しい花が飾られている。記念碑は丁寧に磨きがかけられているらしく、今もトミーが残した大記録と共に、変わらぬ輝きを放ち続けている。

トミーのゴルフ

トミーのゴルフの腕前がどの程度であったか、映像が存在しない以上、数字や証言に頼る以外ないが、1869年、彼がまだ18歳の時、セント・アンドリュースのオールドコースにて77という前人未到の最小スコアを達成している。当時のオールドコースは既に全長6500ヤードほどもあり、コースの整備状況は今と比較にならないほど粗悪だった時代である。さらにガッティボールと木製クラブで叩き出した77は、まさに驚異的な数字であった。
少年期のトミーは学業優秀であったが、次第にゴルフにのめりこむようになっていった。10歳のころのトミーはA地点からB地点に行くためには一本のまっすぐな道筋しかないと思い込んでいるかのようだった。父親のトムはトミーにA地点からB地点に駒を進めるには、無数のルートがあり、さらに戦略的にあえてC地点を経由させるという様々な選択肢があることを教え込んだ。それ以降、トミーは各ホールごと常に1ダースほどの攻略ルートを頭に描きながらプレーするようになったという。
トミーは身長173センチと、決して大柄とは言えないが、幅の広い肩から生まれるショットは強烈で、フルスイングをするたびに被っていた帽子が飛んでいくほどであった。また素振りの際のワッグル(小さな素振りのようなもので、クラブヘッドを左右に小さく動かすこと)だけで木製のクラブを根元からへし折ってしまうほどに腕っぷしも強かった。アプローチショットではボールを右足の前に置き、オープンに構えてダウンブローに打ち込むやり方で当時としては極めて斬新なスタイルで、強烈なバックスピンがかけられたアプローチは正確無比を誇ったという。

■参考文献
『Tommy's Honor』Kevin Cook / 『The Life of Tom Morris』W.W. Tulloch / 『Tom Morris of St Andrews』David Malcolm and Peter E. Crabtree / 摂津茂和著『ゴルフ史話』(ベースボールマガジン社)

週刊ジャーニー No.999(2017年8月31日)掲載

救世主か、破壊者か―。鉄の女 マーガレット・サッチャー《後編》 [Margaret Thatcher]

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2013年9月5日

●Great Britons ●取材・執筆/本誌編集部

 

救世主か、破壊者か―。
鉄の女 マーガレット・サッチャー
《後編》


© PA

『鉄の女』と呼ばれた英元首相マーガレット・サッチャーが
今春この世を去った。
英国病と嘆かれたこの国を、妥協を許さない救国の意志で率いて、
復活への道筋を示した。
逝去してもなお、賞賛と激しい憎悪を同時に受ける
稀有な女性の人生を前回に引き続き探ってみたい 。

 

【参考文献】『サッチャー 私の半生 上・下』マーガレット・サッチャー著、石塚雅彦訳、日本経済新聞社刊/『サッチャリズム 世直しの経済学』三橋規宏著、中央公論社刊/『Margaret Thatcher 1925-2013』The Daily Telegraph/『The Downing Street Years』Margaret Thatcher 他

 

【前編より】
1925年、マーガレット・サッチャーは小さな田舎町で食料雑貨店を営む一家に生まれた。勤勉な父のもと、運命に導かれるようにして政治の世界に強い関心を抱き、24歳で国政に打って出るチャンスを手にするが落選。結婚、出産を経ても政治に対する思いは日ごとに募り、夫デニスの強力なサポートを得て、国会議員初当選を果たす。確固たる信念で政策を推し進める姿は党内でも支持を集めて党首となり、1979年の総選挙に勝利。英国史上初の女性首相となった。しかし彼女の前に立ちはだかるのは、人々の夢や希望をつぶしてしまうような英国の惨状だった――。

 

英国に立ち込める暗雲

 

 テレビ画面の中で病院職員は平然とした様子でコメントしていた。
「賃上げ要求が通らなければ、患者が死んだとしてもしょうがない」
マーガレット・サッチャーが首相に就任する半年前の1978年末から79年初頭にかけて英国を激しく揺さぶった「不満の冬(Winter of Discontent)」。労働組合による一連のストライキによって、道路や下水道掃除などの公共サービスは機能せず、通りには回収されないゴミが積み上げられ、異臭を放つこともあった。医療関係者にまで及んだストの様子がテレビに映し出され、人々の心を暗くした。
この社会背景には、戦後に始まった「ゆりかごから墓場まで」をうたう手厚い福祉政策があった。労働党政権が中心となり、平等に福祉の行き届いた理想の社会を実現しようと躍起になった挙句の大盤振る舞い。主要産業が国有化されていたことも相まって、国民の勤労意欲は削がれ、国に依存する体質は人々を蝕んでいた。理想と現実はかけ離れ、サッチャー新政権発足時の財政は逼迫していた。歳出の肥大化、国際競争力の著しい低下、貿易収支の大幅な赤字。経済成長率はヨーロッパの中でも最低水準にあった。追い討ちをかけたのは、1973年の石油危機を受けた物価の上昇だ。失業率がじわじわと高まる中、さらなる石油危機が、首相就任と時を同じくして国を襲っていた。国内に立ち込める暗雲は黒く、しかも切れることが不可能と思えるほど厚かった。
大英帝国の落日、ヨーロッパの病人、英国病…。国外からも数々の言葉でさげすまれていた母国を立ち直らせるチャンスを手にした新首相マーガレット・サッチャーだったが、その前には取り組むべき課題が文字通り山積していた。

 



ロンドン中心部レスター・スクエアは、ストで回収されないゴミであふれ、
通称『フェスター(fester=腐る)・スクエア』と呼ばれた。

 

経済は手段、狙いは意識革命

 

 「サッチャリズム」と呼ばれる一連の政策は、「金融の引き締め」による物価上昇の収束、「税制改革」「規制緩和」「一般大衆参加の資本主義の導入」による企業活動の自由化と推進、経済全般の活性化を図ったことが中心にあげられる。英国の威信を取り戻そうと、多くの経済政策に着手するのだが、サッチャーが主眼を置いたのは、ぬるま湯に浸かりきった国民の依存体質を改めさせるという意識改革だった。
彼女の脳裏には、いつも離れないひとつの言葉があった。それはオックスフォード大在学中に開催された選挙集会でのこと。ひとりの年配男性がこう指摘したのだ。
「私が自分のお金を少しばかり貯金したからというだけの理由で、『生活保護』はもらえなくなる。もし、このお金を全部使ってしまったら、もらえるのに」
これは政治家に突きつけられる福祉制度の大きな問題点だった。健康上の理由から国がサポートしなければならない人がいるのは確かだ。しかし一方で、十分働けるにもかかわらず福祉に依存する人々を野放しにしてはならない。努力し、向上しようという人が評価される社会でなければ国は発展しない。幼い頃から自助努力に徹する父の姿を見ながら勉学に励んできたサッチャーがそう感じるのは当然だろう。彼女の信念は、就任後すぐに行った税制改革に色濃く表れている。
当時の税の仕組みは、所得税率が高く、真面目に働く人々の税負担によって、福祉に依存する人々を支えているような状況だった。上昇志向のある人でさえ、「給料が税金に消えるなら、一生懸命働く意味などない」という考えに至るのは仕方のないこと。サッチャーはすぐさま所得税を減税し、勤労意欲を呼び起こすためのキャンペーンを展開する。1979年に33%だった基本所得税率は、1980年に30%に、翌年以降も段階的に引き下げられていく(1988年には25%となる)。
このとき同時に、付加価値税を上げることも決定されている。一般税率8%、贅沢品税率12・5%のところを一律15%と増税。財政赤字を減らすため、収入の有無にかかわらず広く国民に税負担を強いる道を選んだのだ。
ところが、サッチャー政権は途端に支持率を落とすこととなる。付加価値税の引き上げが、所得の低い人には不利に、逆に富裕層を優遇する税制であるように受け止められたからだ。
メディアのみならず、党内からは中止を求める声が上がるが、どんなに不人気の政策であろうと自分の信念を曲げない強気のサッチャー。その姿勢は、極端な言い方をするならば「働かざる者、食うべからず」という冷酷な印象さえ与え、国民の中の反発感情を煽る結果となった。
また、異常なほどの高騰を見せていた物価は、金融財政の引き締めによって落ち着きを取り戻すきざしを見せていたものの、代わって深刻な不況を招く結果となったことも支持を落とした原因のひとつだ。政権発足後、2年連続で経済成長はマイナスを記録。大企業の人員削減、中小企業の倒産に伴い、職を追われた人も多く、1980年に160万人だった失業者は、翌年には250万人に急増。さらに1983年には300万人を超えるに至った。

 

「大きな政府」から「小さな政府」へ
 サッチャーが実施した政策のコンセプトは「小さな政府」、新自由主義とも呼ばれるものである。これは、政府の権限や役割を大きくし、経済活動を政府の管理の下に行う「大きな政府」に対して、経済の動向を市場にゆだね、役割を最小限にとどめた政府のこと。政府の役割を肥大化させる高福祉を抑制し、規制緩和や国有企業の民営化によって、民間企業が自由に活動できる場をつくり、それにより経済を活性化することを目指した。

 


© PA/photo by ROBERT DEAR

 


 

英国を揺るがした一大事件

 

 首相に就任して3年が過ぎようとしていたころ、失業率が示す数値は、紛れもない事実としてサッチャーの肩に重くのしかかっていた。解任までもささやかれる中の、1982年4月2日朝、英国中を揺るがす一大事件の報が英国民の耳に飛び込んできた。
「アルゼンチン、フォークランドに武力侵攻」。英国が南太平洋上で実効支配するフォークランド諸島の領有権を主張するアルゼンチンが、同諸島を取り戻そうと、突如部隊を派遣したのだ。
つい1週間前、国防省はひとつの軍事計画を提示していた。それは、アルゼンチンのフォークランド侵略を抑止する防衛計画。ところが、サッチャーは「アルゼンチンがまさかそんな愚かなことをするはずがない」と取り合わなかった。まさに青天の霹靂というべき事態が今、現実のものとして英国を襲ったのである。
サッチャーは間髪を入れずに軍隊の派遣を主張。党内には慎重論が多かったものの半ば強引にまとめ、武力行使に応戦する意向を示した。そして空母2隻を主力とする軍隊がフォークランドに向けて出動した。のちに「フォークランド紛争」と呼ばれる戦いである。
1ヵ月半が過ぎたころ、サッチャーのもとに一本の電話が入る。中立の立場にあった米国のロナルド・レーガン大統領からだった。
「アルゼンチンを武力で撃退する前に、話し合いの用意があることを示すべきではないだろうか。それが平和的解決の糸口だ」
するとサッチャーは、「アラスカが脅威にさらされたとき、同じことが言えますか?」と反論。その強い信念を誰に止められよう。「軍事力によって国境が書き換えられることがあってはならない」と、武力には屈しない姿勢で提案を跳ね返したのだ。
英国民にとって、はるか遠くに位置するこの諸島は、決してなじみのあるものではなかったが、日々伝えられる戦況に触れ、かつて大英帝国と称された誇りの、最後の断片をたぐり寄せるかのように、愛国心は高まりを見せていく。
そしてアルゼンチンのフォークランド上陸から約2ヵ月、アルゼンチンの降伏によってこの紛争に終止符が打たれた。
「Great Britain is great again.英国は再び偉大さを取り戻したのです」。この勝利は、フォークランド諸島を守り抜いたという事実以上のものを意味し、将来の見えない母国に不安を感じていた国民の心に大きな希望の光をともした。右肩下がりだった『冷血な女』の支持率は、祖国に自信を取り戻させた『英雄』として、急上昇するのだった。
翌年に行われた総選挙では、労働党に対し、前回の選挙を上回る圧倒的大差をつけて勝利。政権は2期目に突入し、サッチャーの世直し政策は勢いを増す。



良好な盟友関係を築いていたロナルド・レーガン米大統領と。
1984年、 米大統領別荘キャンプ・デーヴィッドにて。

 

夢を与えた大衆参加の資本主義

 

 首相就任直後から行われた国有企業の民営化も、引き続き実施されており、国民生活に大きな変化をもたらしていた。
新政権発足時に政府の管理下にあった企業の数は、放送や銀行などの公共性の高い企業のほかに、およそ50社。なかには、今では民営が当たり前と考えられるような、自動車メーカー「ロールスロイス」「ジャガー」なども含まれた。
国が運営する以上つぶれる心配はないといった安心感は、同時に就労者の意欲や向上心を低下させる。そう考えるサッチャーのもと、国有企業の民営化が次々と図られていった。
民間への移管は、政府の持ち株を一般大衆も対象に売却する形で行われた。つまり従業員も株を取得することが可能となり、業績が好転すれば配当金も受け取れるようになった結果、株主たる労働者の仕事に対する姿勢が変わったのは言うまでもない。
さらに政府が所有する資本の切り売りは、住宅分野にも適用された。低所得者に賃貸されていた公営住宅の大胆な払い下げが実施されたのだ。
階級社会の英国で、当時、家や株などの資本を持つということは、上流あるいは中流層の特権。そのため労働者層にとって、マイホームを持つということは、夢のまた夢と考えられていただけに、人生観に大きな変化を生じさせかねないほど革新的な政策だった。サッチャーは勤勉に励めば夢がつかめるということを示し、その夢は手頃な価格で手に入るよう配慮された。売却額は平均で相場の50%オフ。破格のものだった。
この政策を通し、一部の労働者層は、これまで手に届くはずなどないと思われた幸福をつかみ、財を手にする者も増えていった。サッチャーは、「労働者階級の革命家」とも称されるようになる。

 

Great Britain is
great again.
(英国は再び偉大さを取り戻したのです)

 



フォークランド紛争から帰港した空母「HMS Hermes」。
勝利を祝うため多くの市民がユニオン・ジャックを手にかけつけた。

 

労働組合との死闘

 

 労働組合が強大な力を有していたことも、英国経済と人々の勤労意欲にブレーキをかける原因のひとつだった。1970年代には毎年2000件以上のストライキが行われるような状況の中で、企業経営者の経営意欲は低下。好んで英国に投資する外国企業などあるはずもなく、サッチャー政権にとって労働組合の力を押さえ込むことは急務だった。
なかでも、やっかいな存在だったのは全国炭鉱労働組合(NUM: The aional Union of ineorkers)だ。石炭は国の重要なエネルギー資源であるため、彼らは政府の弱みを握っていたといっても過言ではない。当然、政府もしぶしぶ要求を呑まざるを得ない状況にあった。1973年にはストによるエネルギー不足のため、当時の政府が国民に「週3日労働」を宣言したこともあるほどだ。
そのNUMに、まるで宣戦布告をするかのようにサッチャーが打ち出した政策は、採算の取れなくなっていた鉱山20ヵ所を閉鎖し、合理化を図ることだった。もちろんNUMはだまっていない。1984年3月、無期限ストに突入した。政府にも劣らぬ権力を持っていたNUMは、サッチャー政権の打倒を目指し、政治闘争を激化させた。サッチャーにとって敗北はつまり、政権の終焉を意味し、結果次第では自身の進退も問われる状況となっていた。
当初は勢いのあったNUM。しかし、ストが長期化するにつれ、ストよりも雇用の確保という現実的な世論が強まり、次第に力を失っていく。これに対し、サッチャーは組合活動に規制を設けたほか、非常事態に備え、あらかじめエネルギー供給源を確保するなど、緻密な準備を行い、挑んでいく。最終的には政府の『作戦勝ち』で1年に及んだ闘いは幕を閉じた。
以降、労働組合によるストは減り、組合の攻勢の中で萎縮していた企業経営も活動意欲を見せ、健全さを取り戻していくこととなる。
一方、炭鉱の町では、「私の家族は、あの女に殺された」と、今も根に持つ人も少なくない。仕事を奪ったばかりか、町に暮らす若者の希望の芽を摘み取ったと嘆く人もいる。職を失い途方にくれる人々にとって、『鉄の女』がもたらした政策は非情かつ冷徹。弱者を踏み潰したと、恨みを募らせていった。サッチャーの毅然とした態度は、「そんなことなど構うものですか」という印象を与え、ますます嫌われていくようになる。
このように、サッチャーが求めた国民の意識改革は、すべての人を幸せにしたわけではなかった。見方によっては、弱者を支えた福祉制度を壊し、自由という名の競争社会で強者をより強くしたと捉えられ、さらなる格差につながったといわれている。またコミュニティの崩壊により、周りと協力し合った時代は過ぎ去り、代わって訪れたのは、自由競争社会の中で、自分さえ良ければいいという自己中心的な社会と指摘する人もいる。



産業の活性化を目指し、英国企業の売り込みや、外国企業の英国誘致を先頭に立って行ったサッチャー。
日本の自動車産業にも目をつけ、1986年9月に日産自動車が進出するに至った。
英国日産本社の開所式に訪れ、発展を祈った。© PA

 

割れるサッチャリズムへの評価
 サッチャーが行った「ビッグバン」と呼ばれる一連の金融自由化政策により、外国の資本が多く流入することになった英国。世界中から資金が集まり、なかでもロンドンは世界最大級の金融都市に発展したことで、サッチャーの政策は一定の評価を得てきた。しかし2007年に起きた世界金融危機は、英国金融業界にも深刻な影響を及ぼした。脆弱さが露呈し、サッチャリズムの重大な欠陥として表面化している。
また製造業から金融業などのサービス業へと重点がシフトしたため、国内の産業が空洞化する結果となった事実は長年指摘されていることである。

 


 

九死に一生を得た強運の持ち主

 

 英国でくすぶる火種は他にもあった。アイルランド統一を目指す、IRA(アイルランド共和軍)との確執だ。IRAは北アイルランドのみならずロンドン市内の公共交通機関や金融街などを狙い、テロを繰り返していた。NUMとの闘いが続く中の1984年10月、サッチャーの身にもその危険が襲いかかる。
開幕を控えた次期国会に向け、さらなる改革の促進に向け、弾みをつけるべく保守党の党大会がイングランド南部ブライトンで開催されようとしていた。自分の描くビジョンをより正確に力強く伝えたいと考えるサッチャーは、滞在していた壮麗なグランド・ホテルで、翌日のスピーチ原稿の確認に余念がなかった。作業も終わり、スピーチ・ライターらも自室に戻っていったときには、深夜2時半を回っていた。ようやく落ち着き、そろそろ就寝の準備に取り掛かろうとしていたところ、秘書が書類を確認してほしいと訪ねてきた。サッチャーは居間部分で対応し、書類に目を通して、自分の意見を述べた。秘書が書類を片付けようとしていたときだ。突然、衝撃をともなった激しい爆発音、続いて石造りの建物が崩れ落ちる轟音が響き渡り、居間には割れた窓ガラスの破片が飛び込んできた。
すぐにデニスが寝室から顔を出したおかげで、彼が無事であることはわかったが、浴室はひどいありようだった。
サッチャーのほか、閣僚、保守党員らが滞在していた同ホテルには、IRAによる爆弾が仕掛けられていたのだ。幸いサッチャーは無事だったものの、この爆破で5人の命が奪われ30人以上が重症を負うこととなった。
秘書に書類の確認を頼まれなければ危うく浴室で命を落としていた可能性もあったサッチャー。たったひとつの書類によって難を逃れた強運の持ち主は、すぐに官邸に戻る案が出されるものの、午前9時半より予定通り会議を行うことを決めた。多くは着の身着のまま避難しており、最寄りのマークス&スペンサーに朝8時の開店を依頼し、服の調達をしなければならないほどの状況だったが、テロをものともしない強硬な姿勢を見せつけたのだった。



IRAによって爆破されたブライトンのグランド・ホテル。© D4444n

 

強力なサポーター

 

 サッチャーが自らの信念のままにリーダーシップを発揮していく影には、10歳年上の夫デニスの存在がある。妻を温かく見守り、たゆむことなく支えたデニス。しかし、ふたりの関係は常に良好だったわけではない。1960年代、サッチャーが国会議員として仕事に没頭していくにつれ、デニスは孤独を感じていた。その頃、家族が経営する化学関連の会社で役員を務めていたデニスは、すれ違いの生活に神経を弱らせ、離婚まで考えていた時期もあった。心を癒すため、2ヵ月間英国を離れ、南アフリカを訪れたこともある。それは妻の元に戻るかどうかさえわからないという旅だった。しかし、何かがデニスを思いとどまらせ、ふたりは夫婦として再び歩み始める。
デニスが役員職から引退し、サッチャーが首相に就任して以降は、ふたりの関係は良好となっていった。危機を乗り越えた夫婦の絆は深く、政治家の夫として妻の活動を一番近くで支える、ますます力強い存在となる。
一家が大変なときは、その長が率先して事にあたることを、父の姿から学んでいたサッチャーは、一国を背負う者として寝る間も惜しんで仕事に励んでいた。深夜2時、3時までスピーチ原稿を確認していることも多く、平日の睡眠時間は4時間。親しい友人らと休暇旅行に出かけても、楽しいひと時を終え、友人らが寝室に引き上げると、サッチャーの仕事の時間が始まるといった具合だ。働きすぎのサッチャーに「眠った方がいい」と助言できたのは、夫デニスのみであった。

 

冷戦終結にむけて

 

 国内の経済活性化に取り組む一方、世界を舞台に外交面でもサッチャーはその力を遺憾なく発揮していく。
米大統領のロナルド・レーガンとは、互いの目指した政策が同じ方向を向いていたこともあり、良好な盟友関係を築いていた。後年、サッチャーが「自分の人生の中で2番目に大切な男性だった」と語り、『恋人関係』とも揶揄されるほどでもあった。
第二次世界大戦後から続いていた冷戦真っ只中にあった1970年代に、「(旧ソ連が示してきた)共産主義は大嫌いだ」と言い放ち、『鉄の女』のニックネームを与えられたサッチャー。のちにロシアの大統領となるゴルバチョフと出会うと、「彼となら一緒に仕事をしていくことができる」と評価している。
1987年に3期目に突入していたサッチャーは、両者との信頼関係を築くと、冷戦状態にあった米レーガン大統領と、旧ソ連ゴルバチョフの橋渡しに努め、冷戦終結に一役買ったともいわれている。
自分の推し進める政策と外交。何の後ろ盾もなかった彼女がここまでのし上がってきたのも、勤勉と努力の成果にほかならず、それによって彼女の自信が裏付けられた。そして、英国を新たな世界へと向かわせ、冷戦終焉に尽力、時代は大きく変わりつつあった。
しかしそのとき人々が求めたのはもはやサッチャーではなくなろうとしていた。

 

退陣までの3日間

 

 1990年11月、1期目からサッチャーを支えてきた閣僚ジェフリー・ハウが、欧州統合に懐疑的なサッチャーと彼女のリーダーシップのスタイルに反旗を翻す演説を行い、辞任したのだ。サッチャーが導入を決めた、国民1人につき税金を課す人頭税が市民からの強い反発を受けていたこともあり、ハウの演説を機に、党内での確執が表面化。党首選へ向けた動きが活発になる。
11月19日から開催された全欧安全保障協力会議で、ヨーロッパにおける冷戦終結が宣言されており、サッチャーは、党首選が行われた11月20日、同会議に出席するためパリに滞在していた。
英国では午後6時30分頃、投票結果が発表されていた。372票中、マーガレット・サッチャー204票、対立候補マイケル・ヘーゼルタイン152票。得票数ではサッチャーが勝っていたものの、その差が当選確定までに4票届かず、結論は2回目投票へと持ち越される。フランスの英国大使館前でインタビューに応じたサッチャーは、2回目の投票に立つ姿勢を見せるが、350キロ離れた英国国会議事堂の会議室に集まった議員たちの間には大混乱が巻き起こっていた。サッチャー派のメンバーも、今後の作戦を練り直す必要に迫られていた。
翌21日、ロンドンに戻ったサッチャーは、午後、官邸に着くとすぐにデニスのいる上の階へ向かった。冷静に状況を見極めていた彼は、ここで勇退を選ぶよう助言するのだった。それでも、自分を支持してくれる人がいる限り戦い抜くことを主張するサッチャー。しかし同僚たちと会って話すうちに、自分の辞任を望む人が数多くいる実情を悟っていく。
サッチャーは父が市会議員を辞したときのことを思い出していた。一時は市長を務めていたが、1952年に対立する政党によって上級議員の座を追われた父は、集まった支持者の前で誇り高くこう語った。
「私は名誉をもってこの議員服を脱ぐのです。私は倒れましたが、私の信念は倒れることはありません」
思い出すだけでも切ない、父に襲いかかった出来事が、今自分の身にも起こっている。
翌22日、ついに退陣を発表した。
首相官邸を去る日、男性政治家も顔負けの力強いリーダーシップで英国を率いてきた『鉄の女』は、長い在任期間を振り返り、声が震えるのをおさえるように口を開いた。
「みなさん、11年半のすばらしい日々を経て、去るときを迎えました。ここにやってきたときよりも、現在の英国の状態が格段に良くなっていることを、とても、とてもうれしく思っています」
彼女の側では11年半前と同じようにデニスが静かに寄り添っていた。
首相の座を追われるようにして官邸を去ることになったサッチャーの視界が涙でくもっていた。

 



首相官邸を去る日、官邸前で会見を行ったマーガレット・サッチャー。
20世紀では英国首相として最長の在任期間を誇った。
© PA/photo by SEAN DEMPSEY

 


 

寂しさか、達成感か

 

母にとって、
まず1番は国。
私たちは2番目なの

 

 2000年頃から認知症を患っていたことを、のちに娘キャロルが公にしている。繰り返し起こる脳卒中と、認知症に悩まされていたサッチャー。医師のアドバイスにより、2002年以降に公の場で話すことをやめた。そしてその翌年、政治家の夫として長きにわたって彼女を支え続けたデニスが88歳で他界。結婚生活は52年に及んだ。深い悲しみに包まれたサッチャーの症状は、悪化の一途を辿り、近年は、デニスが亡くなった事実を忘れることもあった。
昨年12月のクリスマス以降、ロンドン中心部のホテル「ザ・リッツ」で過ごしていた。1970年頃、尊敬してやまなかった父が最期のときを迎えようとしていた時期に、サッチャーは帰省している。親しい友人らが続々と父を訪ねてきたのを目の当たりにし、「自分も人生の終わりにはこのように多くの親友に恵まれていればいい」と思ったと自伝に記している。だが、政治家としての生涯は、その希望が叶うことをサッチャーに許さなかった。自分が死を迎えようとしている今、愛する夫に先立たれ、ふたりの子供の姿はそこにはなかった。娘キャロルが「母にとって、まず1番は国。私たちは2番目なの」と、母親の愛情を十分に受けることができなかった悲しみを告白している。サッチャー自身も晩年「私はいい母親ではなかった」という後悔の念をもらしていたという。
認知症を患ったサッチャーの心に最後にあったものは、寂しさか達成感か、それとも、愛する英国の輝かしい未来か。
サッチャーの行った政策によって、英国は大きく変化した。夢を与えられたと感謝する人もいる一方で、生活をつぶされたと嘆く声も根強い。
しかし、「英国病」とさげすまれ、瀕死の状態にあった母国を救うために奮闘し、強固な信念で国民を率いたひとりの女性政治家の名は、英国の歴史と人々の心に深く刻まれている。

 



セント・ポール大聖堂で行われた葬儀に参列するエリザベス女王。
女王が首相の葬儀に参列するのはきわめて稀で、ウィンストン・チャーチルの葬儀以来となった。
© PA/photo by PAUL EDWARDS

 



「サッチャーの葬儀が国葬級の規模で開催される一方、
街角では、死を喜ぶ一部の市民の姿が見られた。

 

サッチャーと ハンドバッグ
 『女性初』の英国首相としてフェミニズムの推進に貢献したと考えられてもおかしくはない。しかし実際は、「女性解放運動に対して義務はない」と述べているサッチャー。女性の権利を主張するよりは、むしろ女性であることを『武器』にしていた節も見られる。
封建的な男社会で力を発揮したが決して『男勝り』ではなかったことは、マーガレットの外見によく現れている。決してパンツ・スーツを着用せず、スタイリストを頻繁に官邸に呼んでおり、髪は常に綺麗に整えられていた(余談だが、スプレーでビシっと固められた髪型は、まるで『ヘルメット』のようで、彼女の信念のように『ぶれない』と冷やかされている)。夫デニスから贈られた真珠のネックレスを愛用。さらに女性らしさを表すかのように、いつもハンドバッグを手にし、それは彼女のシンボルとなっている。ちなみにオックスフォードの辞書にはマーガレット・サッチャーに由来するものとして、handbagの動詞の意味が記載されている。「handbag =〈動〉言葉で人やアイディアを情け容赦なく攻撃する」。

下町生まれの激情型 国民画家 ターナー [Turner]

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2014年5月29日

●Great Britons●取材・執筆/佐々木敦子、本誌編集部

 

下町生まれの激情型
国民画家 ターナー
Joseph Mallord William Turner



「ディエップの港」(1825年)テート・ブリテン所蔵。

「英国を代表する画家」というと、
まずその筆頭に名があがるターナー(1775~1851)。
しかし、「モヤモヤした風景画」を描く画家であるということ以外に、
私たちはターナーについてどの程度知っているだろうか。
床屋の息子としてコベント・ガーデンに生まれた生粋の下町っ子で、
身なりに構わず気取りとは無縁だったターナー。
寡黙でぶっきらぼうだが子供にやさしく、進取の気性にも富んでいたという、
この国民画家の知られざる素顔とその作品に迫ってみたい。

【参考資料】『Turner』Peter Ackroyd著、Vintage Books 、『Turner』 Barry Venning著、Phaidonほか

 



「自画像」(1799年)テート・ブリテン所蔵。

 

19世紀のダミアン・ハーストだった!?

 

 テート・ブリテンを舞台に、毎年秋から冬にかけて開催されるターナー賞(Turner Prize)展。英現代アート界において最も権威のある美術賞の一つといわれるターナー賞は、50歳以下の英国人もしくは英国在住の卓逸したアーティストに対して贈られる賞だが、同展に出品されるノミネート作品は、ダミアン・ハーストによるホルマリン漬けの牛の作品、トレーシー・エミンの避妊具やタバコ、日用品が散乱しただらしない自分のベッドなど、ショッキングな作品であることが多い(次頁のコラム参照)。なぜこのような過激な作品が選ばれる賞に、19世紀の風景画家ターナーの名が冠されているのだろうか。
ターナーが活躍したのは、英国の産業革命期。国外ではフランス革命などが起き、世界中が新しい時代に向かってうねりをあげて進んでいる時期だった。新しい技術や科学が次々に生まれ、親の世代には分からない思想や価値観が広まっていく、そんな時代の英国芸術、特に絵画の世界はどんな状況だったのか。
それまでの西洋絵画では、神話、聖書のエピソード、歴史上の大事件や偉人などをテーマとした歴史画が上位におかれ、「風景」は歴史画などの背景としての意味しか持っていなかった。ところが18世紀後半から19世紀になると、ヨーロッパ大陸へのグランド・ツアー(長期旅行)が定着し、また変化の激しい世の中の移り変わりを描き留めたいという要求もあったのか、風景をメインに描く人々が現れる。風景画というジャンルが英国で市民権を得るのはこの時代で、ターナーはその初期の一人である。
だがそれだけでなく、ターナーの画風の変化を見ると、まるで100年分の美術史の変遷を一人だけ数年で駆け抜けてしまったように思える。同時代の人々から「描きかけ?」「スキャンダラス」「訳がわからない」「石鹸水で描いたんじゃないか?」などと揶揄されたり、酷評されたりしたターナーの作品が当時いかに革新的だったかは、彼と同世代の風景画家ジョン・コンスタブル(1776~1837)の牧歌的な作品と比べてみると、一目瞭然だろう(11頁のコラム参照)。ターナーは、モネなどに代表されるフランス印象派を30年近く先取りしていたばかりでなく、作品によっては1960年代の米国の抽象表現主義作家、マーク・ロスコの作品を彷彿とさせるものすらある。毎年、作品のあまりの奇想天外さに物議をかもすターナー賞であるが、「新たな才能ある芸術家の作品を祝福する」「ビジュアル・アートの分野での新たな動きに注目する」ことに主眼がおかれた同賞が、ターナーの名を冠するのも不思議なことではく、むしろうまく名付けたといえるだろう。
しかしながら、ターナーも最初から「スキャンダラス」な作品を描いた訳ではない。ターナーがどのように後世に残るアーティストとなったかを、彼の生誕時まで時計の針を戻して見ていこう。

 

ちょっとだけ紹介! ターナー賞 過去の受賞・ノミネート作品
■今年のターナー賞展は、テート・ブリテンにて9月30日~2015年1月4日まで開催予定。
1995年受賞
ダミアン・ハースト
「Mother and Child, Divided」
1999年ノミネート
(受賞作家はスティーヴ・マックイーン)
トレイシー・エミン
「My Bed」
2003年受賞
女装アーティスト
グレイソン・ペリー
Grayson Perry at the 2003 Turner Prize reception, 2003 Tate Britain

 


 

3つの太陽が昇った日

 



米国ノースダコタ州で観察された幻日 © Gopherboy6956

 1775年4月23日、ロンドンの劇場街コベント・ガーデンのメイデン・レーン(Maiden Lane)21番地で床屋を営む、働き者のウィリアム・ターナーのもとに息子が生まれた。子供はその曾祖父と祖父と父の名を全部足した、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner)と名付けられる。奇しくもこの日は文豪ウィリアム・シェークスピアの誕生日と同じであり、またイングランドを守護する聖ジョージの日でもあった。
さらに、ターナーの誕生4日目に、空に3つの太陽が昇ったという逸話もある。これは「幻日」という非常に珍しい大気光学現象の一つで、太陽と同じ高度に、しかも太陽から離れた位置に光が現れる現象のこと。雲の中に六角板状の氷晶が生じ、風が弱い場合に限り、氷晶に反射した太陽光によって現れるというが、この日は太陽を挟んで左右対称に出現したと伝えられる。生まれたばかりのターナーがこれを見たはずはないが、成人した彼が太陽の光や大気の動きに興味を抱いてこれらを描いたことや、死の間際に「太陽は神だ(The Sun is God.)」とつぶやいたこと(これは後世によるでっちあげである可能性が高いと言われているが)などと照らし合わせてみると、ターナーの将来はもうすでにこの時に決まっていたのかもしれない。
とはいうものの、ターナー自身はこのような不思議な伝説や逸話に彩られるようなタイプのミステリアスな人物ではない。取り立てて善行を行なった訳でも、徳を積んだ訳でもない、非常に人間臭い、労働者階級の、そして卓越した才能を持った市井の画家であり、それゆえに、英国を代表するアーティストとして今もこの国で愛されているのだといえる。
ターナーの生まれ育ったコベント・ガーデンは現在同様、パブやレストラン、劇場、野菜市場、賭け屋などが混在する、ロンドンきっての繁華街であり、劇場へ向かう紳士淑女、夜の街に立つ売春婦、スリなど、多様な人間が入り乱れた場所だった。父親の経営する床屋にも様々な階級の客が訪れた。客あしらいがうまく商売熱心な父のウィリアムは、店の壁に少年のターナーが描いたドローイングを何枚かピンで留め、「うちのせがれは将来絵描きになるんですよ」と客に吹聴し、1枚1~3シリングと値段までつけて販売していたという。「いい買い物をして何シリング節約した、という時を除いて、父親に誉められたことは一度もない」というターナーだが、父親との関係は良好で、父親が死ぬまで一緒に暮らした。
ターナーの父親は小柄でずんぐりした体型で活力に溢れ、赤ら顔で鷲鼻だったというが、これは晩年のターナーの姿そのままでもある。ターナーがスケッチ旅行に出掛けると、大工の親方に間違えられることがしばしばだったという。青年期の姿(前頁)とは少し印象が異なるが、ターナーの自画像が極端に少ないのは、彼が自分の容姿を好んでいなかったからだとも伝えられている。

 



右図は1812年にターナーが描いた父ウィリアム(67歳)の横顔、
左図は銅版画家のチャールズ・ターナーが1841年に制作したターナー(66歳)の肖像。

 

経験豊富な「できる学生」

 

 ターナーが絵に興味を持ったのは、おそらく寂しさをまぎらわすためだったと思われる。父親は忙しく、また精神を患っていた母親も息子の世話を十分にできなかったため、ターナーは10歳の頃に母方の実家に一時引き取られ、その後も親戚などの住まいを転々としなければならなかった。彼の人生に大きな影響を及ぼした母親についてはあらためて後述するが、温かな家庭とは縁遠い生活の中で、学校に行く道すがら壁に落書きしていたターナーは、やがて本格的に「絵描き」になることを考えはじめる。
さて、幼い息子が節約すると喜ぶような、堅実で現実的な父親が、我が子が画家になることに反対しなかったのは、現代では不思議に聞こえるかもしれない。だが、まだ写真技術が発明されていないこの時代において、画家は大工や床屋と同様、きちんと需要のある職業でもあった。そのため父親はターナーが美術に興味を持ったことを大いに喜び、当初から協力的だった。当時は現在のサマセット・ハウスにあったロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(王立芸術院)の教授が床屋に髪を切りにくれば、父親は決まって息子の話をし、壁に貼ったドローイングを示す。ターナーはそうした教授の一人をスポンサーに、1789年、弱冠14歳にしてロイヤル・アカデミーの付属学校に入学するのである。
しかしながら、これは幸運ではあったが驚くべきことではない。ターナーはこの歳までに、建築家のもとに弟子入りしてスケッチの仕事に携わると同時に、風景画家のもとでも修行を積んでいた。労働者階級の子弟に多い丁稚奉公による学習は、ターナーに英才教育ともいえる形で絵画の基礎力を身につけさせた。つまり付属学校に入学した時、すでに実地経験の豊富な『できる学生』であり、頭ひとつ抜きん出た存在となっていた訳である。

 

芝居の背景画で鍛えたセンス

 

 学校では歴史画の模写などを行っていたターナーだが、漠然と肖像画家になるのを夢見ていたという。貴族から依頼を受け、彼らの邸宅を出入りする肖像画家は画家の中でも花形であり、アーティストとして名を残せる可能性も高いジャンルだったからだろう。だが、肖像画家になるには、ターナーには決定的に欠けているものがあった。洗練された振る舞いや社交性である。下町育ちゆえの嗜好や短気な性格は、肖像画家には向かなかったのだ。もしもターナーが人好きのする、愛想の良い人物だったなら、貴族のパトロンの庇護を受ける「凡庸な肖像画家」として一生を終えていたかもしれず、人の一生は何が幸いするか分からない。
ターナーは付属学校に通いながら、オックスフォード・ストリートにある大衆劇場「パンテオン」で芝居の背景を描くアルバイトを始めた。メロドラマに相応しい、嵐で荒れる海や暴風雨の荒野の場面など、そこに描かれるドラマチックな風景は、その後のターナー自身の作品モチーフを彷彿とさせる。
ある時、この劇場が火事で炎に包まれているというニュースを聞いたターナーは、絵の具を持って駆けつけ、燃え続ける劇場をその場でスケッチした。その後10日間無断休学した彼は、やがて1点の水彩画を持って現れると、校内のエキシビションにそれを出品する。題は「パンテオン、火事の翌朝」。劇的で写実性に富み、しかも当世の出来事を描いた今までにない風景画だった。このあと彼が進む方向を指し示す作品といってよいであろう。ターナーは、自分が人物ではなく、火や水、風、岩といった自然や、廃墟のようなものに惹かれる傾向にあることに気づき始める。幸運なことに、この頃ちょうど水彩絵の具が大幅に改良され、発色も携帯性も現代のものに近くなってきており、風景のスケッチがより楽しめる時代が到来していた。そうした時代の流れは、彼の背を強く後押ししていく。

 



「パンテオン、火事の翌朝」(1792年)を水彩絵の具で描いたときのターナーは17歳。
同劇場でアルバイトをしていた。現在ここはマークス&スペンサーの
オックスフォード・ストリート・パンテオン店となっている。
テート・ブリテン所蔵。

 

 


 

若くして手に入れた名声

 

 卒業後のターナーは、絵の題材を探して英国各地を旅した。マーゲイト、ブリストル、ワイト島など海辺が多いのは、海の持つダイナミックさとパワフルな自然に惹かれたためだ。1796年の「海の猟師たち」はそんな旅先でのスケッチを元にした初めての油絵で、批評家からも好意を持って迎えられた。満月の晩に漁船で沖にくり出した漁師たちが荒波にもまれている様子は、理想化された自然とも、あるがままの自然を写実するのとも趣を異にする、人間の矮小さと自然の偉大さ対比させた、サブライム(Sublime崇高)と呼ばれるロマンチックな観念を持った新しいタイプの風景画だった。「彼は自然を崇拝するが、その創造者である神については忘れている」とも評されたが、ターナーにとっては自然自体が神だったのかもしれない。翌年発表した2点も好評で、「モーニング・ポスト」紙には「光の使い方はレンブラントにも匹敵する」とまで讃えられる。22歳にしてターナーは早くも名声を手にしたのだ。



ターナーが21歳のときに描いた「海の猟師たち」(1796年)。
テート・ブリテン所蔵。

 しかし一方で、スケッチ旅行費の捻出などに必死だったターナーは、雑誌のために銅版画を作成したり、貴族の絵画コレクションの模写を請け負ったりと、人と交わらず酒の席も断って働く毎日だった。不慣れな絵画教室さえ開いたが、ターナー自身の作品を模写しろというだけで、あとはかなり適当だったらしい。日々もくもくと絵の制作に没頭しているうえに、粗野でぶっきらぼうな物言いが災いし、「カネ好きでケチ」という評判が立つこともあったという。
1799年、24歳でターナーは念願のロイヤル・アカデミーの準会員に選出される(9頁の自画像はこの時のもの)。同メンバーに選ばれることは、その分野で高い評価を得ている職業芸術家である証。アカデミーが年1回主催する展覧会にも、作品を出品できた。1769年に始まった当時からこの展覧会は絶大な人気を誇り、芸術家としての認知度を上げるためには重要なイベントだった。ターナーは会員に昇格するために、なるべくアカデミーの好むような作品を描いたといわれる。初期の作品が具象的で、歴史画やフランスの画家クロード・ロランのような神話的風景画を下敷きにした作品が多いのは、このためである。ちなみに、この展覧会は現在も続くロイヤル・アカデミーの「サマー・エキシビション」の原型である。
3年後の1802年にアカデミーの会員となり、順調に出世街道を邁進していくが、やがて他のアカデミー会員から、ターナーの態度が悪いと次々に文句が出始める。「Pugnacious」――つまり「けんかっ早い」のだという。あらゆる階級の人々に門戸を開いていたとはいえ、アカデミー会員は貴族やそれに準ずる裕福な家庭の出身者が大半を占めていた。そんな中で、生まれも育ちも下町の、高尚とは言い難い言葉遣いのターナーが浮いてしまうのは当然と言えば当然。若くて態度が悪いうえに才能があるとなっては、ベテランのアカデミー会員にとってターナーの存在が面白いはずがない。展覧会ではターナーの作品をわざと見にくい場所に展示するなど、会員たちが陰湿な嫌がらせをすることさえあった。だがもちろん、タフなターナーは彼らに対して黙ってはいなかったのである。
ターナーは反発してアカデミーを脱退することもなく、かといって丸くなって皆に迎合する訳でもなく、独自の距離を保ちながら、32歳の若さでアカデミーの遠近法の教授という地位を得た。最終的にアカデミー副会長にまでのぼりつめ、40年あまりもアカデミーに居座ることになる。

 



「カルタゴを建設するディド」(1815年)。
古代都市カルタゴを建国した女王ディドを主題にした歴史的風景画。
クロード・ロランの影響を強く受けているが、やはり太陽の効果は欠かせないようだ。
ナショナル・ギャラリー所蔵。

 

ターナーにいじめられた!?  風景画家 コンスタブル

ターナーと同時期の風景画家で、同じくロイヤル・アカデミー会員だったコンスタブル=左下=のことを、ターナーは毛嫌いしていたらしい。「結婚している画家なんて嫌いだね。画家は制作に没頭するべきなんだ。結婚していると、すぐ家庭がどうとか言って、描けない理由を家族のせいにするからな!」――。これはコンスタブルへの当てつけで言われたものだという。
2人は同じ時期にアカデミー付属学校で学んだ。しかしコンスタブルの絵はなかなか認められず、ターナーが27歳でアカデミー会員になったのに対し、コンスタブルは43歳でやっと準会員に、会員に昇格したのは53歳の時であった。だが、裕福な家庭に生まれたコンスタブルは、絵が売れなくても生活に困ることはなく、愛する妻と子供たちに囲まれて幸福に暮らした。しかも故郷を愛し、のどかな田園風景を詩情豊かに描くという、ターナーを『イライラ』させる要素を山ほど持っていたのである。また、本人がハンサムなのも腹立たしかった。
ある時、2人が同じスタジオで隣り合わせで作品を仕上げていた時、湖の部分にバーミリオン(橙色)を使っているコンスタブルに近寄ったターナーは、じっとその画面を眺めた後、自分の絵に戻り、灰色の空の部分にコンスタブルのそれよりずっと赤くて目立つ円を描くと、一言も言わずスタジオから出て行ったという。ターナーは子供っぽい競争心を隠そうとせず、ことあるごとにコンスタブルに意地悪をした。それだけ気になるライバルだったのかもしれない。
コンスタブルは1837年に死去しセント・ポール大聖堂に記念碑が設置されたが、気の毒なことに、その14年後に彼の傍らにやってきたのはターナーであった…。



コンスタブル作「ワイブンホー・パーク」(1816年)

 


 

モンスター・マザーが残した影響

 

 ところで当時では珍しく、ターナーは生涯結婚しなかった。それは、病的なほど怒りっぽかった母親メアリーに原因があるとされている。
いったん怒り出すと制御不可能となり、父を大声で口汚く罵る母親に恐怖と嫌悪を感じ、ターナーは幼い頃、母親の「怒りの発作」が始まると両手で耳を押さえて駆け出し、近所の家に避難していた。それは週に3~4回にも及んだという。ターナーは母親については厳重に口を閉ざしているため詳細は分からないが(彼の妹が幼くして亡くなったことが、精神疾患を悪化させたという説もある)、最終的に彼女が精神病院で死去したことを考えると、かなり激烈な人物だったに違いない。このことはターナーの女性観に大きな影響を与えた。悩める父親の姿を見ていたため、結婚して、もし自分が父のような目にあったら…という思いが、女性に対し距離をとらせたのだった。
とはいっても、彼に女性の影がなかったわけではない。早世した友人(パンテオン劇場のピアノ弾き)の未亡人で10歳年上のサラ・ダンビーと関係を持ち、その4人の子供とターナーの父親も入れた7人で暮らすという、非常に「現代的」ともいえる構成の家庭を作り上げたりしている。結婚こそしなかったものの2人の娘を授かり、その関係はターナーが25歳の頃から10年以上続いた。ターナーの伝記を執筆したピーター・アクロイドは、「未亡人キラー」という名称をターナーに贈っており、これは彼の女性関係がサラだけに留まらなかったことを示唆している。そして、なぜことごとく相手が未亡人なのかといえば、その女性が「結婚しても狂気に陥らなかった」、つまりつきあっても「安心」だと分かっているからだ、とアクロイドは記している。
真偽のほどはさておき、ターナーは母親の血を引く自分が、いつか母の様に狂気の発作を起こすのではないか…とも考えていたらしい。ターナーの作品が抽象的になるにつれ、新聞の批評には「狂った男」という単語が踊るようになるが、ターナーはこれをひどく嫌い、マスコミに母親の病が暴かれるのを怖れたという。
母親が病院で息を引き取ると、ターナーはその呪縛から解き放たれたかのように、1804年、サラや子供たちと暮らしていたハーレー通り(Harley Street)の自宅近くに、ギャラリーをオープンする。このギャラリーはターナー自身の作品を展示した私営ショールームのようなもので、顧客が直にターナーのもとを訪れ、作品依頼や購入を行った。この時代の芸術家は往々にしてこのようなスタイルをとることが多かったといい、ターナーも晩年までエージェントを雇わず、すべて自分で交渉した。堅実な父親に鍛えられたせいなのか、ターナーは非常にビジネスに長けたな面をもち、金額を作品のサイズで換算(端数は切り捨て、と但し書き付きで)し、依頼を受けた場合は期日通りに作品を仕上げるなど、現代人が想像する「芸術家」のイメージを裏切り、職人に近い感覚を身に付けていたようだ。金銭の余裕ができるようになると、郊外に土地を購入したり少量の株を買ったりと、いざという時のための備えもきちんと整えていた。
また、妻に先立たれたターナーの父親は、コベント・ガーデンの店を畳んで、ギャラリーの留守番やキャンバス作り、顧客への書類作成などの雑用をしながら影でターナーを支えた。2人は客の前でも「ビリー・ボーイ」「オールド・ダッド」と呼び合っていたそうで、母親の愛情とは縁のなかったターナーだが、父との絆は強かったようだ。

 



ロイヤル・アカデミーの展覧会場にて、作品の仕上げをするターナー。
当時の画家たちは展覧会開催の前に、会場内で加筆や修正を行った。
ウィリアム・パロット作「Turner on Varnishing Day」(1846年)。

 

ターナーを崇拝!?  批評家 ジョン・ラスキン


ジョン・エヴァレット・ミレイ作「ジョン・ラスキン」(1853~54年)
 ヴィクトリア朝時代を代表する評論家ジョン・ラスキン(1819~1900)が初めてターナーに会ったのは1840年。ラスキンはまだ21歳、ターナーは65歳だった。詩人を目指していたラスキンだが、ターナーの作品との出会いがきっかけで美術評論家へと転身。抽象的な画風で狂人扱いされているターナーの擁護のために、たまらずペンをとったのがキャリアの始まりだった。ターナーの死後もその作品の価値を説き続けた、ターナーの熱烈な崇拝者である。ターナーはラスキンが自分の作品を深読みし過ぎだと考えたようだが、それでもラスキンの応援を嬉しく感じていたらしい。
ラスキンが日記に記したターナーの姿は、次のようなものだ。
「多くの人間が彼のことを無骨で下品で教養がないというのが信じられない。ちょっとエキセントリックで独特の行動もとるけれども、基本的に彼はイングランド的な紳士なのではないか。怒りっぽいが気立てがよくて、見かけ倒しのペテンを嫌う。ちょっと利己的だが理知に富んでいる。そして、めったに喜びの感情を表には出さないけれども、心に秘めた熱い想いがふとしたことから外に漏れることがある」。

 


 

色彩への目覚め

 

 ギャラリーを父親に任せ、ターナーは英国外へ足をのばしスケッチ旅行に出掛けることが増えていった。パリ経由でスイスを訪れ山脈や渓谷を描き、ベルギー・オランダではレンブラントをはじめとする名作にも触れる。しかし、真にターナーを変えたのはイタリアであった。
1819年、44歳で初めて訪れたイタリアの目がくらむほどに強い自然光に、ターナーは圧倒された。英国などの北方ヨーロッパにはない陽光の明るさと、そこから生まれる色彩の豊かさに息をのむ。特に「水の都」と言われるヴェネツィアに心惹かれ、この時の滞在は4週間にも満たなかったが、手がけたスケッチは400枚を超え、そのどれもが今までにない透明感ある光に溢れていた。以降、ターナーはたびたびヴェネツィアを訪れており、その後の画家としてのキャリアは、そこで目に焼き付けたイタリアの光を分解し、空気や大気の動きを色によって描きだす研究に捧げられたといっても過言ではない。その題材がナポレオン軍を描いた歴史画であれ、黄金色のリッチモンド・パークの風景画であれ、ターナーが描いたのは常に光と空気の関係性だった。以前から気に入リの主題だった海や港の光景は、洪水や雲気に形を変え、ついには「水蒸気」を表現するところにまで行き着くのである。
当時のロイヤル・アカデミーがサマセット・ハウスにあったことはすでに述べたが、敷地をロイヤル・ソサエティ(王立学会)と分け合っていた。王立学会は17世紀から続く英国最高の科学アカデミーで、産業革命時の英国における科学の行方はこの学会が牛耳っており、毎日のように刺激的な研究が発表され、議論が戦わされていた。光や空気を研究するターナーがこれを逃がすはずはない。最終学歴は小学校、さらに難読症でもあったターナーだが、それを補う人一倍の探究心を持ち合わせていた。雲の成り立ちに関する気象学者のレクチャーに出席したり、ニュートンの光学理論、ゲーテの色彩論にもとづき光を描いたりしている。まさに独学の人であった。
制作意欲は晩年になっても衰えることはなく、この先、ターナーが行き着く絵画は、ただ、まばゆいばかりの光の海、波と霧の渦でしかないように思えた。抽象画らしきものが生まれる半世紀も前のことであり、その概念もなかった時代に、ターナーは自分の色彩感覚を従来の絵画から完全に、自由に解き放ったのである。

 



「解体されるために最後の停泊地に曳かれてゆく戦艦テメレール号」(1838年)。
ナショナル・ギャラリー所蔵。

 



雨が降る中、蒸気機関車がテムズ河に架かる橋の上を疾走する様子を描いた
「雨、蒸気、スピード-グレート・ウェスタン鉄道」(1844年)。
ナショナル・ギャラリー所蔵。

 

光を描いた現代アートの先駆者

 

 1846年、老齢を迎えたターナーはアカデミーの副会長の座を辞す。そしてチェルシーのテムズ河沿いに居を構え、25歳年下の未亡人ソフィア・ブースと暮らしながらも作品制作を続ける。彼女は、ターナーの父親が1829年に死去し、彼が失意のどん底で苦しんでいた際に、そばで支えてくれた女性だった。ターナーは屋根を自分で改造して、そこに座ってスケッチができるようにした。視線の先は子供の頃から見慣れたテムズ河。近所の人々は、雨漏りのしそうな家に住み、いつも屋根のてっぺんに座っている奇妙な老人が画家のターナーであることなど知らない。彼は人々から「船長」とあだ名されていた。
健康も次第に衰えてきたが、相変わらず鋭いビジネス感覚を有するターナーは死後の作品の行方をすでに決めていた。作品を自分の子供のように考える彼は、自身の経験からか、「家族を離ればなれにしちゃだめだ。皆一緒じゃないと」と言い、すべて国に寄贈することにしていた。ただし、自分の作品専用の部屋を作ることが前提である。そうしてテート・ブリテンに収められたターナーの作品の数は油彩400点、水彩画は2万点に及ぶといわれる。
やがて体調を崩した1851年、ターナーは病床に絵の具を持ち込み、ドローイングするようになる。ある時医師が呼ばれ、診断の結果、残念ながら余命が残り少ないと告げられたターナーは、「ちょっと下に降りてシェリーを1杯やって、よく考えてからまた戻ってきてくれ」と医師に告げる。出直しを命じられた医師は言う通りにし、数分後、やはり同じ意見であると伝えた。「それじゃあ」とターナーは言う。「もうすぐ無に帰るわけだね」(I am soon to be a nonentity.)。その数日後である12月19日朝、ターナーは76歳の生涯を閉じる。鈍色の空が広がる日だったが、その死の1時間前、ターナーを天へ迎えるかのように雲の切れ目から太陽が顔をのぞかせ、彼が眠る室内をまばゆい光で満たしたという。
ターナーが光に向かって旅立った後、テート・ギャラリー(現テート・ブリテン)では一悶着が起きていた。ターナーの遺贈作品に完成か未完成か分からない作品が沢山あるというのだ。すばやく筆で線が引かれただけの作品を前に、館員たちは頭を悩ませた。未完成作品に額を付けて飾るのは如何なものか…。いや、もしかしたらこれはこういう作品なのではないか、と。同館では現在でも「未完成?」とクエスチョン・マークをつけられている作品を目にすることがある。彼は来たるべき現代アートの、紛れもない先駆者だったのだ。

 



「光と色彩(ゲーテの理論)」(1843年)は、
ノアの洪水を主題とする、正方形シリーズ作品のうちの1点。
テート・ブリテン所蔵。

 

ターナーをもっとよく知る!  展覧会&映画情報

 ■風景画のリバイバルなのか、現在またターナーに注目が集まっている。昨年秋には日本で大回顧展が開かれたのに加え、グリニッジの海洋博物館では好評のうちに「ターナーと海」展が幕を下ろしたばかリ。9月からは膨大なターナー・コレクションを所蔵するテート・ブリテンで、ターナー晩年の15年に描かれた作品を集めた 特別展「The EY Exhibition: Late Turner - Painting Set Free」が開催される。特に、当時の批評家から「とうとう本当に気がおかしくなった」と評された、正方形のシリーズ作品=図下=9点が初めて全作セットで展示される。9月10日~2015年1月25日まで。

■中年期以降のターナーその人にスポットを当てた伝記映画『Mr. Turner』も公開される。『秘密と嘘』『ヴェラ・ドレイク』などで知られる、カンヌやヴェネチア国際映画祭常連のベテラン監督マイク・リーが、構想に10年を掛けたという大作だ。ターナーを演じるのは同監督作品常連の個性派俳優ティモシー・スポール=写真上。本年度のカンヌ国際映画祭に出品され、英国の各メディアが5つ星評をつけ、さらにスポールが男優賞に選ばれるなど期待大。12月19日封切り予定。

近代郵便制度を確立した 熱血改革家 ローランド・ヒル [Rowland Hill]

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2014年7月31日

●Great Britons●取材・執筆/佐々木 敦子・本誌編集部

 

近代郵便制度を確立した
熱血改革家
ローランド・ヒル



Penny Black image courtesy of Royal Mail Group

産業革命の影響で電信や交通の手段が大きく変化した19世紀。
一般市民はなかなかその恩恵にあずかることができないでいた。
そうした時代に、最新技術をどのように市民の暮らしに
広めるか心を砕き、世界の郵便制度に大きな影響を与えた
ローランド・ヒルという人物がいる。
今回は、ヒルが特に心血を注いだ郵便改革を中心に、
彼の数々のアイディアを紹介。小さな1枚の切手から、
19世紀前半に英国民の置かれていた状況が
浮かび上がってくるかもしれない。

参考文献:『The Life & Work of Sir Rowland Hill』 Jean Farrugia著 National Postal Museum 1979 / 『Rowland Hill – Genius and Benefactor 1795-1879』Colin G. Hey著 Quiller Press London 1989 / 『Postal Reform & The Penny Black – A New Appreciation』Douglas N Muir著 National Postal Museum 1990 取材協力:The British Postal Museum & Archive

 

「社会改革家」と呼ばれる人々が 存在した時代

 1795年12月3日、イングランド中西部のウスターシャー。ローランド・ヒル(Rowland Hill)は、中産階級の一家に、8人兄弟の三男として生まれた。彼は、日々の食い扶持に困っていたとか、両親から虐待を受けていたとか、そういった不自由な暮らしとは縁のない幼少期を過ごすことになるのだが、日頃からいくつもの社会改革案を持っていた。こう聞くと、ヒルのように平凡に暮らす者が若い頃から社会改革に関心を抱き、没頭するのは少々とっぴなことに感じるかもしれない。
その疑問に対する答えの一つに、「時代の影響」がある。産業革命によって新しい技術や制度が次々に生まれ、社会が進歩すればするほど、それに取り残される人々も増えてきた。それは主に労働階級を中心とした一般国民なのだが、彼らは職を通じて産業革命に貢献しながらも、単なる労働力としてまるで道具のように扱われていた。
そうした事態に対処しようと立ち上がった人々が、この時代に多く現れる。英国では協同組合運動を指導した、ロバート・オーウェン(Robert Owen 1771~1858)が有名だが、彼らは現代では社会改革家(Social Reformer)として知られ、その目指す世界観はやがて「社会主義」と呼ばれることになる。つまりヒルは、社会主義の萌芽の時期に、多感な青年時代を過ごしたのだ。

 



産業革命期に活躍した社会改革主義者のロバート・オーウェン。

 

さらに、ヒルの場合は家族からの影響を多大に受けた。先に挙げた社会改革主義者ロバート・オーウェンと同世代のヒルの父親、トーマス・ライト・ヒルもまた、社会改革主義の熱烈な信奉者だった。一介の工場の主任に過ぎないものの、冒険心に富んでいて、因習を忌み、旧時代のシステムのすべてを嫌悪するような進歩的な人物だったようだ。
産業革命期にそのような価値観を持つ人が多く現れたのは時代の要請だったともいえる。ただしヒルの父親は1960年代のヒッピーにも似て、平等と平和と愛に満ちた社会を夢想するも、それを現実化する積極性を持たなかった。
一方で母親のサラは、働き者で地に足の着いた実践的なセンスに優れていたようで、彼女は自分が受けることのできなかった最高の教育を、息子たちに与えるつもりでいた。フワフワした空想家の夫は経済観念に乏しく、3代続いた家を手放すことになったものの、そんな夫を助けて一家を切り盛りしていた彼女は、やがて夫が給料の悪い工場に転勤になりしょげているのを見てこう言った。「そんな工場なんて辞めて、ご自分が本当にいいと思うような学校をお作りになったら? 息子たちはそこで学ばせましょう」。
すべてはそこから始まったのだった。

ドリトル先生の郵便局


ドリトル先生の郵便局のなかで描かれた非常に希少なファンティポ切手。© Project Gutenberg Canada
 植物から動物まで、あらゆる生物の言葉を解する医師、ドリトル先生の活躍を描き、今も世界各国の子供たちに読み継がれるヴィクトリア朝時代の児童小説「ドリトル先生」。全13巻に及ぶシリーズでは、ある時はアフリカ、またある時は月を訪れたり、海底を探検したりと、ドリトル先生は様々な冒険を繰り広げるのだが、その中の4巻目が「郵便局」。
アフリカの架空の国、ファンティポ王国の君主ココは大の新し物好き。自転車を乗り回しゴルフを習うかなりの西洋カブレだが、ある時、謁見した西洋人から、英国で始まったという郵便制度の話を聞く。赤い箱を街角に置き、そこへ小さな紙を貼って投函すれば、世界中に手紙が届く、魔法のようなシステムだという。ココ王は早速、郵便局を開設。さらに王の肖像入り切手を外国のコレクターが欲しがることに着目し、珍しい切手を立て続けに発行して、莫大な外貨を稼いだ。しかし集配機能は完全に破綻し…。そこに呼ばれるのがドリトル先生で、先生はずさんな郵便制度の立て直しに尽力する。ツバメを使った世界最速郵便を導入し、動物の通信教育も始まって…。
本作が発表されたのは1923年。ローランド・ヒルの郵政改革発表から80年あまりが経過しているが、世界に郵便システムが広まる中で、上記の物語のような事件が実際起きていたとも限らない?

ドリトル先生の郵便局
作・絵:ヒュー・ロフティング   訳:井伏鱒二   岩波少年文庫
Dr. Dolittle's Post Office
by Hugh Lofting   Red Fox Publishing


夢のようにリベラルな学校

 義務教育のない時代、誰もが私営の教育施設を作ることができたが故の決断だが、こうしてヒル一家は知人を通じてバーミンガム郊外の廃校を買い上げ、校舎を増改築して自宅も構内に造り上げた。そして1803年、父親のトーマス・ライト・ヒル校長が自身の思想と夢をふんだんに盛り込んだ学校、ヒル・トップ・スクールが開校する。
多額の借金を抱えての出発だったとはいえ、今までにない自由な校風が評判を呼び、瞬く間に「新しい時代を象徴するモデル校」となる。理想主義者のヒル校長が掲げた校訓5ヵ条は、「ボランティア精神の重要性を説く」「生徒の自由な発想を重視し、興味を持つ方向へ導く」「道徳を身につけさせる」「知識を詰め込むだけではなく、自分でものを考える訓練をさせる」「協調と思いやりの精神を育てる」。
年若いローランドとその兄弟たちは、父親から学校と家庭の両方で社会主義の思想を叩き込まれる。つまり「社会を良くするために何かする」のは当たり前という教育を、幼い頃から徹底して受けてきたわけだ。彼らは先を競うように改革案を提出する。
やがてローランドは、社会貢献のための自身の道を探し試行錯誤を繰り返すことになるのだが、この時点では、父親と同じく教育者となることを考えていたようだ。現にローランドはまだ生徒のうちから同校で指導に携わり、12歳という年齢にして、生徒でもあり教師でもあるという不思議なポジションについた。彼は数学や科学の分野に秀でていた上に、物心ついた頃から父の思想をそのままそっくり吸収しており、評判がよく猫の手も借りたいほど忙しかった学校運営を手伝うことになったのは、自然のなり行きだった。

 



ヒル一家がトテナムに開校した学校の校舎となったブルース・カッスル。現在は美術館として利用されている。
館内ではローランド・ヒルの軌跡を紹介するほか、地元ハリンゲイ地区出身の歴史上の人物についての展示も行われている。
Bruce Castle Museum(Lordship Lane, N17 8NU / www.haringey.gov.uk/brucecastlemuseum)、入場無料。

 

ヒル一家にとって幸いなことに、長男のマシューとローランドは、父親の思想を継承しただけではなく、現実的な母親の血もしっかり受け継いでいた。ふたりは10代の若さで、いまだ返済しきれていない借金を返すため、学校外でも教鞭をとるほか、アルバイトにも精をだした。17歳になる頃にはローランドは一家の家計を預かり、とうとう20歳の時に借金の全額返済を達成する。彼がもともと緻密な計算を好む性格だったことがその秘訣といえそうだが、さらにローランドは、目の前の関心事に並々ならぬ情熱を注ぎ、仕事に明け暮れるといういわばワーカホリックの傾向があったことも見逃せない。そしてそれは生涯を通じて変わることはなく、彼の資質がヒル一家の経済を支えたのみならず、未来を大きく変えることにつながっていく。
ちなみに余談ながら、当時の首相はウィリアム・ピット。24歳の若さで首相の座についたことにも驚くが、それ以前は財務大臣も務めていた。ピットはなんと子供が5歳から働けるような過酷な労働法を制定している。このような時代にあっては、ローランドが10代で教師になり科学を教えたとしても、おかしくはなかったわけである。
さて、学校の評判に気を良くしたヒル一家は、2校目となる学校、ヘイゼルウッド・スクールを1819年に再びバーミンガム郊外に開校。23歳になっていたローランドは、同校の建築デザインも担当し、当時としては画期的な、英国初のガス灯を備えた学校になった(ガス灯の発明は1792年)。さらに、大ホールで全生徒が学ぶという過去200年にわたり英国で続いていたシステムを変え、少人数クラス制を取り入れた。図書室、図工室、科学実験室、舞台、体育館、プール、天文台まで設け、また、生徒による自主運営のシステムを作り、必須科目さえカバーすれば、あとは全部生徒が自分たちで物事を決定できるようにした。体罰などはもちろん禁止だ。厳しさと残酷さが混同され、体罰やいじめが蔓延し、伝統という名の因習でがんじがらめになったヴィクトリア朝時代よりも、さらに何十年か前に誕生した学校である。相当革新的であったことは想像に難くない。
この学校は主にローランド、マシュー、そして弟のアーサーによって運営され、ローランドは実質的な校長の任にあたる。3人は1822年に同校での経験を生かした学校改革案を盛り込んだ本を出版。この本はヘイゼルウッド・スクールを一夜にして有名にし、遠く南米やギリシャからも学生が訪れ始めた。本はスウェーデン語にも訳され、1830年にはヒル兄弟の思想に則った「Hillska Skolan」つまりヒル・スクールがストックホルムに開校されている。

ロンドンの地下を駆け抜けた郵便列車


地下を走った郵便列車。トンネルの直径は2~3メートル、車両幅は60センチほどと、当然ながら地下鉄よりも小さいサイズ。 © Royal Mail, courtesy of the British Postal Museum & Archive
 新しい郵便制度を軌道に乗せたローランド・ヒルは、60歳のとき、郵便本局と支局を地下で運ぶことを提案している。もともとのアイディアは30代のときに考えられたものだが、物事を改善するために尽力する彼の資質が生涯変わらなかったことを物語るエピソードだ。空気圧をエンジンとしたこの計画は、コスト面の問題から実現にはいたらなかった。しかしその後、地下を使う案は形を変え郵便史のなかに登場している。
1900年代に入り、ロンドンでは交通混雑と濃霧の影響から、主要郵便局と駅間の移送が大幅に遅れがちだった。それを解決すべく、地下に専用のトンネルと線路が設けられ、1927年12月にマウント・プレザント局とパディントン駅を結ぶ郵便列車(The Post Office Underground Railway、のちにMail Railと改称)が誕生した。開通から1ヵ月のうちに拡張され、西はパディントン駅から、東はホワイトチャペル・ロードの支局まで続く、およそ10.5キロが地下でつながった。現在多くの人でごった返すオックスフォード・ストリートの下を通過していたとされ、郵便物だけを乗せた列車が渋滞や混雑を気にせずスイスイと走ったであろう姿を想像すると、まるで物語の中の世界のようだ。この郵便専用の列車は、全盛期には1日に1200万もの郵便を運ぶほどの活躍を見せるが、残念なことに2003年に運営コスト上の事情から閉鎖を余儀なくされてしまった。

2020年完成を目指すアトラクション「郵便列車」の完成イメージ。
© Royal Mail, courtesy of the British Postal Museum & Archive
 ところが、現在この地下郵便列車を一般に公開する計画が進んでいる。完成すれば、来場者はおよそ1キロにわたる郵便列車の旅を楽しむことができるようになるという。完成予定は2020年。列車に乗るというよりは、遊園地のアトラクションに乗るような感覚が期待できそうで、今から待ち遠しい!
同時に、英国郵便の歴史や文化を、豊富な資料と体験型の展示で紹介する博物館が、ロンドンのクラークンウェル地区に建設されつつある。
開館は2016年だが、現在はマウント・プレザント局の裏手の資料室が、博物館分館として機能しており、エセックスの分館とともに、2016年オープンまでの博物館を支えている。どちらも館内見学ツアーを組んでいるほか、ライブラリーでのトーク・イベントなども随時開催されている。また、毎月1回ロンドン市内に点在する郵便ポストを含む、ロンドンの郵便の歴史について知るウォーキング・ツアーも開催されているので、興味のある方は詳細をサイトでご確認を。

BPMA Archive Search Room
Freeling House, Phoenix Place
London WC1X 0DL
The British Postal Museum Store
Unit 7 Imprimo Park, Debden Industrial Estate,
Lenthall Road, Loughton, Essex IG10 3UF
www.postalheritage.org.uk


四方八方にアイディアのタネを蒔く

 1827年、ヒル兄弟はとうとう首都ロンドンに進出し、3校目の学校を北ロンドン、トテナムのブルース・カッスル(Bruce Castle)に構える。ヘイゼルウッド・スクールのようなシステムは、伝統的習慣の根強い地方よりも、柔軟な都市でこそ、より広く受け入れられるのではないかと考えてのことだった。ヒル一家はロンドンに移住し、ここが一家の永住の地となる。
32歳になっていたローランドは校長に就任。幼なじみの女性、キャロライン・ピアソン(Caroline Pearson)とも結婚し、落ち着いた暮らしを始めた。
ところが、である。父親譲りの冒険好きの血が騒ぐのか、これまでずっとそうしてきたように、「ゼロから何かを始めてがむしゃらにやり遂げる」ことの楽しさを忘れられないのか、ローランドはここへ来て突然学校経営に対する興味を失ってしまうのだ。「社会を良くするために何かを遂行する」―その「何か」にまだ突き当たっていなかったとも言える。かねてより科学や機械、数学などを好んでいたローランドは、すでに軌道に乗っている学校の仕事をこなすかたわら、様々なアイディアを発表していく。
以下は主な彼の案だが、そのどれもが少々形を変え現在使われていることに、驚嘆の念を覚える。ローランド・ヒルは相当なアイディア・マンだったようだ。

■ 新聞専用の印刷機 ― 1枚1枚別々に刷らずに、ドラム上に長いロールで回転させて印刷すれば早いと政府に発案。しかし、値段の印を各ページに載せなければいけないからとして却下される。今思えば、これは輪転印刷機の一種だった
■ 郵便業務のスピードアップを計るため、馬車(Mail Coach)の中で仕分けや日付の押印などの郵便業務を行う
■ 数字を符号のように使ってメッセージを送る(モールス信号の元)
■ 馬や蒸気機関よりも早く郵便を届ける方法はないのか模索し、弾薬を使ったり、チューブ状のものに入れて空気圧で手紙を飛ばしたりを試みる(テレグラムの元)
■ 蒸気船のプロペラをスクリュー状にしてスピード・アップさせる
■ 道路を整備するための機械を考案する(舗装工事の原型)

 『発明オタク』とでもニックネームをつけられそうな彼のアイディアの数々をこうして見てみると、それぞれが「情報を早く届けるための手段」に関連していることがわかる。確かに、この時代は労働法、医療、学校など多くの重要な改革が施行された変革期だが、いかに重要な案件であろうとも、一般市民がその情報を知る手だては少なかった。
例えば、1832年にはバーミンガムの街頭に大勢の労働者が、政府改革案に関するニュースを知ろうと集まった。そこでは数日遅れのロンドンの新聞が、文字の読める者によって大声で読み上げられていた。このような状況を知っていたローランドは、どんな立派な改革や制度も市民に届きづらく、浸透はおろか、完全に蚊帳の外に置かれている現状を憂慮していた。後に触れるが、同時期にローランドは労働者層のための雑誌を創刊している。その目的が質の高い読み物を安く庶民に提供することにあったことからも、情報伝達の重要性、さらにはおざなりにされていた一般市民の「知る権利」「学ぶ権利」に対する問題意識の高さを知ることができるだろう。
ローランドはブルース・カッスルの校長の座を弟に譲ると、私財を使って輪転機を製作したり、弾薬で郵便を飛ばす実験をしたりと、実際的な開発に没頭する。その間、社会改革主義者ロバート・オーウェンの主催する農業共同体のマネジメントを任されたりもしているが、ほぼ10年間にわたり自らの発明案を発表しては挫折することを繰り返している。郵便のスピードアップに関してはことに熱心で、配達コーチ(馬車)の効率化のため、発明されたばかりのストップウォッチを使って配達時間を細かく計算するなど、様々な試みを実践したものの、常にあと一つ何かが足りない。印刷、スピード、低価格、どこに重点をおくべきか…。ローランドは悩む。だが、近代郵便制度の確立、そしてペニー切手の発明まで、もう1歩のところにきていた。

 



18~19世紀にかけ、郵便配達には馬車(Mail Coach)が用いられた。写真は1820年代に使われていたもの。© DanieVDM

 

郵便ポストの導入を実現! アンソニー・トロロープ
ポストは昔、緑色だった


ジャージー島に設置された郵便ポストのうちのひとつ。© Royal Mail, courtesy of the British Postal Museum & Archive
 連作小説『バーセットシャー物語』などを著したヴィクトリア朝の人気小説家、アンソニー・トロロープ(Anthony Trollope 1815~82)=写真=のもう一つの職業は郵政審議官。毎朝出勤前の2時間半を利用して、まるで日記のように規則的に小説を書いたため、類を見ない多作作家としても知られる。そのトロロープは、1851年に郵便サービス向上調査のためチャネル諸島へ出張した。英仏海峡に浮かびフランス本土に近いため、トロロープはこの地で「フランス人は郵便ポストというものを使っている」ことを知る。英国での試験運用を願い出た彼は、まずジャージー島に第1号を、翌年には英国本土のいくつかの都市に設置した。
ロンドンに登場したのは1855年のフリート・ストリートが最初だ。当時のポストは六角形でダーク・グリーン。ただしこの緑色はジャージー島になら似合ったかもしれないが、都市では「目立たない」「汚い色」などと散々な評判だったらしく、ロンドン・バスや電話ボックス同様、英国人の愛するあの赤色に変更された。
ちなみに、小説家という職業柄、人間観察力が鋭かったであろうアンソニー・トロロープは、ローランド・ヒルについての印象をこう語っている。「数字には異常に正確だし、事実関係の追求もすごいけれど、あんなに他人の気持ちがわからない人はいませんね」。正確にきちんと郵便を配達するため、ヒルは部下に非常に厳しかったといわれており、どうやらヒルとトロロープは相容れなかったようである。正確で迅速なことを愛するヒルがもし日本に住んだら、気持ちよく暮らせたかも?


より良き社会への飽くなき探究心

 1835年、ローランドはオーストラリアの植民地化に関する政府委員会に参加する。いささか唐突ともいえるこの仕事は、どうやら政界とのつながりを模索していたローランドがたまたま掴んだ、1本のロープであったらしい。これまで政府へ向けて何度も自分の改革案を発表し、それが黙殺されるのに嫌気がさしていた彼は、何とか政界に意見を通す方法はないものかと考えていたに違いない。一方で、実用的な知識を広めるべく活動していた出版団体の仕事に深く関わり、週刊誌「ペニー・マガジン」を創刊させる。これは、兄のマシューと友人の編集者と3人で散歩中に、「安っぽくて低級な読み物が多い中、労働者のためにもっとよい雑誌を提供できないか」と話した結果生まれたものだといわれている。
ローランドは早速、いかに安く印刷物を発行するか、その方法を考え始める。新聞の輪転機では失敗したが、今度こそという思いがあった。そのかいあって、1冊1ペニーという安価で1832年に創刊されたこの雑誌は、自然科学や時事を扱い、多い時は年間20万部を売り上げ、その後13年間にわたり発行される人気雑誌となった。
ふつうの人なら、革新的な学校の校長、あるいはオーストラリアの植民地化委員会の仕事、または人気雑誌の発行だけでも十分満足しそうなものだが、ローランドはそれでもまだ一生を賭けられると思える仕事に巡りあったという確証が得られていなかった。良いアイディアと思えば、何でも手当り次第に試すことをやめなかったのも、そのためだ。ただし、人生にムダなことは何もないのかもしれない。彼が試したすべてのことは、やがてペニー切手を生みだすために必要なステップとなっていたのだ。

 



ヒルが創刊に携わり、人気雑誌となった『The Penny Magazine』。

 

不当に高かった郵便代

 ちょうどこの頃、1833年に郵政大臣となったロバート・ウォラス(Robert Wallace)が郵政改革の重要性を説きはじめていた。これはまさにローランドが日頃から強い関心を抱いていたジャンルと重なり、彼は郵政問題に着手するようになるのだが、その前に、近代郵便制度成立以前の郵便事情について簡単に述べておきたい。
1635年にチャールズ1世によって一般を対象とした郵便制度が始められて以降、郵便サービスは国によって営まれていた。しかも財務省の管轄の下で運営され、1803~15年にかけて繰り広げられたナポレオン戦争で疲弊した国家財政を立て直すために郵便料金が引き上げられるなど、一層、庶民の手の届かないものになっていた。
また無料で配達される郵便物が膨大な量に上っていたことが問題視されていた。その理由として、国会議員や政府高官は無料で郵便を利用できたうえ、新聞の郵送も無料だったことがあげられている。この制度を利用して、議員に郵便物を頼む者や、古新聞の余白に手紙を書く者が後を絶たなかったようだ。
しかし、相手がだれであろうと、中身が新聞だろうと、郵便物を運ぶためには一定のコストがかかる事実に変わりはなく、その費用は有料郵便の収入によって賄わなければならない。そのため、普通郵便の料金はますます割高になる。こうなると、高額であるがゆえに郵便を利用しない者も増える。ちなみにその頃の料金は、重さではなく距離と手紙の枚数で料金が決まっていた。1通の郵便代は、例えばロンドンからアイルランドへ送ると1シリング5ペンスほど。これは日雇い労働者の1週間の稼ぎのほぼ5分の1に等しかった。
基本的に郵便物を受け取る側が支払う仕組みだったことから、高額郵便料金の支払いを拒否、つまりせっかく届けられた郵便物を受け取らない者も続出。拒否された手紙は差出人へ戻るので、郵便配達の労力とかかったコストは全くのムダというわけだ。
さらにまた、庶民の知恵というべきか、料金を支払うことなく目的を達成させる強者もいた。これは、差出人が受取人の住所を書く際に、本人同士にしかわからない小さなマークを記し、その印を見た受取人は、封を切って中身を読まずとも差出人が元気でやっていることを確認するというもの。この時代、工場や鉄道の建設ブームであり、そうした仕事のために故郷を離れて都市で暮らす労働者が大勢いた。携帯やEメールで当たり前のように遠く国外とでも連絡が取り合える現代とは違い、この頃の通信手段は手紙のみ。彼らは故郷の家族と連絡をとるべく、様々な工夫を重ねたのだ。
産業革命でこのような人口移動が起きていたことも、郵政改革の必要性が叫ばれる要因のひとつとなっていた。

 



郵便料金が手紙の枚数によって決められていた時代、枚数を少なく抑えるため、人々はクロス・ライティングという書き方を用いた。
写真のように、紙を縦(あるいは横)に置いて普通に書いた後、紙を回転させて、さらにメッセージを綴った。
© Royal Mail, courtesy of the British Postal Museum & Archive

 

1枚の切手に9億7000万円!
世界最高額を記録

 切手収集を趣味に持つ人は少なく、希少価値の高い切手は、かなりの高値をつけることもある。
今年6月、世界中の多くの収集家らの間で『渇望の品』とされてきた切手が、競売大手のサザビーズのニューヨークにて競売にかけられ、約950万ドル(約9億7000万円)で落札された。その切手とは、1856年当時、英国領であった南米ガイアナで作られた1セント切手(The British Guiana One Cent Magenta)。およそ2.5センチ×3.2センチの大きさで、英国から運ばれていた切手が不足したことから、発行されたもの。それまでの切手の最高額230万ドルを塗り替え、世界最高額を記録した。ちなみに、以前の所有者が1980年に落札したときには93万5000ドル。過去34年で、ゼロがひとつ増えたことになる。


念願の「ペニー・ブラック」ついに誕生!

 ローランド・ヒルは早くからこうした問題に気づいていた。一般郵便が高額すぎるのが第一の問題であり、国会議員や政府高官が無料で郵便を利用できるというシステムも悪しき旧弊以外の何物でもない。しかし、赤字に悩む政府が、労働者の懐に優しい改革などに着手するだろうか。
ヒルは1837年に郵政改革を説く有名なパンフレット「郵便制度改革:その重要性と実用性」(Post Office Reform: Its Importance and Practicability)を出版する。これまでの苦い経験から、政府に直訴するだけではなく、シティのビジネスマンから署名を集め、マスコミを最大限に活用するロビー活動を盛んに行った。
ヒルは言う。「誰もが互いに手紙を送れるようになること、それは、読み書きを学ぶために積極的になるということで、教育改革にも通じるはずだ。さらに、友人同士で、母親が子供に、妻が遠隔地にいる夫と連絡を保てるようになるので、国民の団結心を助けることにもなる。単に商業上の成功だけではなく、社会改革の重要な一助になるはずだ」。

 



ヒルの偉業を称え、肖像画入りの記念切手が何度か発行されている(写真は1995年版)。
右上には通常通りエリザベス女王の横顔のシルエットが記されている。
Rowland Hill Stamp Design © Royal Mail Group Ltd (1995)

 

 これには非常に多くの賛同者が集まった。
とうとう政府は1839年9月16日、前評判に押される形で、ヒルのパンフレットを基にした郵政改革法案を始動させる。同時に郵政に関するアドバイザーの地位を得たヒルの当初案は、重さ0・5オンスまでの一般郵便は、距離に関わらず一律4ペンスに。その代わり、女王を含む誰もが平等に料金を支払うこと。さらに、その料金は前払いにすること等だった。
この新しい郵便制度は同年の12月5日、ロンドンと一部の都市で初めて試行された。郵政大臣ロバート・ウォラスをはじめ、旧友などから、新しい制度を祝う祝辞の手紙をヒル自身も数多く受け取ったという。そして、全国的な制度開始は数ヵ月後の予定だったが、国民からの強い要望によりほぼ1ヵ月後の1840年1月10日、予定を前倒しして正式にスタートした。
またこの頃、ヒルは郵便の料金前払いを示す証拠はどのように表示すべきか、アイディアを公募していた。全国から2600あまりが寄せられたものの、どうやらヒル自身のアイディア、すなわち「裏に糊のついた指定の印紙を購入して、それを手紙に貼る」が最も簡単のようだった。デザインは、芸術的なドローイング風なものも考えたが、財務省所属の印紙局で働く兄に相談したところ、印刷費をなるべく安価に済ませるためにも、できるだけシンプルに、そして小さな紙にした方が良いとのことで、ヒルは流通している硬貨に似せて、即位したばかりの若きヴィクトリア女王の横顔を配した。当初の4ペンスが1ペニーに値下げされ、黒地に女王の横顔だけが印刷されたこの切手は、5月6日から利用が始まり、それはやがて「ペニー・ブラック」と呼ばれることになる。

 



ヒルにちなんで名づけられた通り「Rowland Hill Avenue」(教鞭をとったブルース・カッスルの近く)。
また、晩年を過ごしたハムステッドには「Rowland Hill Street」がある。

 

 ヒルの改革により英国の郵便利用者数は、すぐさま今までの2倍に増加した。1854年までには世界30ヵ国がヒルの郵便制度を取り入れ、日本でも明治維新後間もない1873年、英国式郵便制度を導入している。ついでながら英国の切手は現在も国名を印刷せず、エリザベス女王の小さな横顔のシルエットで代用しているが、これは当時の名残り。国名の入らない郵便切手は世界でも類を見ないが、これは切手を発明した国の強い自負の表れといえるだろう。
起業家、改革者として各方面で並々ならぬ才能を振るったヒルは、人々の記憶に残り、社会にとって有益となるような仕事に、ついに巡りあった。政権が代わったせいで一時郵政の仕事から離れることを余儀なくされたものの、後に郵政省次官(Secretary to the Postmaster General)として復帰し、1864年の引退まで郵政界で辣腕を振るう。
自説を信じ常にパワフルに物事を押し進めたため、同僚からの評判はいまひとつだったともいわれる。しかし数々の功績はそれを払拭するに余りあり、1860年にはヴィクトリア女王からナイトの称号も叙された。ローランド・ヒルは、1879年8月27日、ハムステッドの自宅で死去する。83歳だった。葬儀はウェストミンスター寺院で執り行われ、ヒルは寺院内のチャペルに埋葬される栄に浴した。数歩離れた位置には、幼い頃彼が尊敬し夢中になった、蒸気機関の発明者ジェームズ・ワットが眠っているという。



シティのキング・エドワード・ストリートにはヒルの像が建つ。
© Eluveitie

歴史を動かした英国の巨人 ウィンストン・チャーチル《前編》 [Winston Churchill]

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2015年07月30日 No.892

●Great Britons●取材・執筆/本誌編集部

 

歴史を動かした英国の巨人

 ウィンストン・チャーチル《前編》

 




歴史を動かした英国の巨人 ウィンストン・チャーチル《後編》 [Winston Churchill]

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2015年08月06日 No.893

●Great Britons●取材・執筆/本誌編集部

 

歴史を動かした英国の巨人

 ウィンストン・チャーチル《後編》

 




造園の魔術師 ケイパビリティ・ブラウン [Lancelot Capability Brown]

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英国の偉人の生涯をたどる 『Great Britons』

2009年10月29日 No.598 & 2016年6月30日 No.939

他のGreat Britonsを読む
造園の魔術師 ケイパビリティ・ブラウン

●Great Britons●取材・執筆/根本 玲子・本誌編集部

造園の魔術師

ケイパビリティ・ブラウン

英国の町並みを語る上で欠かせない、歴史ある建造物や庭園の数々。
古き善き時代の面影と大英帝国の威光を感じさせる邸宅や城が放つ魅力は、手入れの行き届いた壮麗な庭園によりさらに輝きを増す。こうした庭園は、各時代を代表する造園家たちによって造られ、建築や絵画と等しく英国の文化史を彩ってきた。今回は数多い造園家の中でもその名を広く知られ、英国の風景を一変させたといわれる人物で、生誕300年を迎えたケイパビリティ・ブラウンの生涯とその仕事ぶりを紹介しよう。
生誕300年イベント開催中
ケイパビリティ・ブラウンの生誕300年となる今年、ブラウンが手がけた英国に点在する各庭園では、ガイド付き散策ツアーやトークなど、記念イベントが予定されている。詳しくは「Capability Brown Festival 2016」のウェブサイト(www.capabilitybrown.org)にて。
Prior Park Landscape Garden, Somerset

有能な「セールスマン」だった?

「家」と「庭」好きで知られる英国人。一般人がプロの手を借りマイホームや庭を一新する、テレビの「お宅改装」番組や、持ち家の価値を上げるノウハウを伝授する番組は英国の娯楽番組の一ジャンルとしてすっかり定着している。
これらの番組でよく耳にする言葉が「It's got potential.(可能性・将来性がある)」。改装後の家は見違えるほど素晴らしくなる、という意味で使われているお馴染みのフレーズだ。古い家に手を加えて大切に住みこなし、後世へと引き継いでいくという、不動産好きの英国らしい精神の表われといえるだろう。
興味深いことに、二百五十年近くも前に同様のフレーズを使っていた人物がいる。十八世紀半ばにブレナム宮殿やチャツワース(十二ページ、十四ページの各コラム参照)といった英国きっての屋敷の庭園を設計した造園家、ランスロット・『ケイパビリティ』・ブラウン(Lancelot "Capability" Brown)である。日本ではあまり馴染みがないものの、英国では数多くの名庭園を手がけたことで広く知られる人物。生涯に手がけた庭園の数は百七十を超えるというから驚きだ。
彼の手がけた主要な庭園については後出のリスト(十四ページ)を参照していただくことにして、まずは本名の「ランスロット」よりも知られているニックネーム「ケイパビリティ(capability)」の由来から話を始めよう。この単語には「能力、才能」のほかにも「可能性、将来性」といった意味もあることはご存知だろう。造園の依頼を受けたブラウンは、貴族や地主階級の紳士が地方に所有するカントリー・ハウス、マナーハウスを訪れ、どんな庭でも開口一番、さらに素晴らしい庭にできる「ケイパビリティ(可能性、将来性)がある」と言うのが口癖で、ここからニックネームがつけられたとのことだ。
「貴公の庭園は今よりもっと素晴らしくなりますよ」
所領する庭園を流行のスタイルにできないものかと思案中の王侯貴族たちにとって、これは魅力的な言葉だったに違いない。これで『ツカミ』はOK。造園家としての腕もさることながら、ブラウンの営業センスはなかなかのものだったようだ。

菜園係から大プロジェクトの現場監督へ

ブラウンは一七一六年、イングランド最北部、スコットランドとの境界に近いイングランド北東部ノーサンバランド、カークハールに生まれる。
英国史に名を残す人物でありながらも、彼の生い立ちについてはあまり多くの記録が残っておらず、母親の出自については知られていないという有様。子供は六人おり、ブラウンは五番目だったという。父親のウィリアム・ブラウンは農業労働者であったという記録が残っているが、ブラウンがまだ幼かった頃に死去している。しかし家計を支えるため十二、十三歳で働きに出される子供が多かった時代に、一家の大黒柱である父親を失いながらも十六歳まで学校教育を受けていることから、ブラウン一家は経済的にほどほどに恵まれた環境にあったことが推察できるだろう。
学業を終えたブラウンは、地元の大地主であるウィリアム・ロレイン卿の屋敷に、屋敷の食料をまかなう菜園スタッフとして雇われ、見習いを務めながら園芸の基礎を学んでいく。
この頃すでに老年を迎え、政治の表舞台から引退していたロレイン卿は、先代から引き継いだ屋敷を当世風に改装するなど、その興味と情熱を「内」に注ぐようになり、さまざまな工事を計画。美観のため領地内の村を別の場所に丸ごと移動させたり、時代遅れになった花壇を取り壊したり、樹木数千本を新たに植え直すといった数年がかりの巨大プロジェクトに取りかかっていた。
ここに菜園係の若きブラウンが現場監督として投入されることになったのは驚くべきことである。初めての働き口で、しかも学校を出たばかりの若者に与えられる仕事にしてはあまりに大き過ぎるというほかない。しかし邸宅の敷地内にある広大な沼地を一新する工事を指揮することになった彼は、ここで見事な手腕を発揮する。
水はけの悪かった土地に勾配をつけ直し、ブナやオークなどの樹木を植え、風格を備えた素晴らしい景観を生み出したのだ。植物の知識についてはまだ学び始めたばかりだったとはいえ、ブラウンには生まれながらにして造園家に必要とされる美的センスや、三次元かつ広大なスケールの構想を頭に描き、そのアイディアを作業員や業者たちに的確に伝え、プロジェクトを進めていくという事業家的資質が備わっていたようだ。
工事の指揮を任されるようになったいきさつについては残念ながら知られていないが、彼が一介の庭師以上の器を持っていることが、すでに周りの知る所となっていたのであろう。またロレイン卿は自分の使用人であるブラウンを、知人の庭園に出張させて造園にあたらせている。これだけをとっても彼の才能が傑出していたことが十分うかがえる。 Blenheim Palace, Oxfordshire Stowe Landscape Garden,
Buckinghamshire Stowe Landscape Garden,
Buckinghamshire

「運」と「人脈」に恵まれたストウ屋敷時代

こうして造園家として幸運なスタートを切ったブラウンは、二十代のはじめにロレイン卿のもとを離れリチャード・グレンヴィル卿の屋敷に雇われるが、まもなく彼の義理の息子であるテンプル家のコバム卿(リチャード・テンプル子爵)の目にとまり、バッキンガムシャーにある英国有数のストウ屋敷へと移る。
当時、この屋敷の造園を指揮していたのは庭園史上の重要人物ウィリアム・ケント。広大な土地をキャンバスに「風景画を描くように」造園を行うと称された、当時の最先端をゆく「風景式庭園(landscape garden)」を生んだのが彼だった。ブラウンはここで晩年を迎えていたケントから様々な植物の知識や建築技術、土木工事といった大掛かりな技術までを学び、生来の才能に磨きをかけていく。
またケントの造園スタイルは、ブラウンの自然派志向に重なる部分があった。彼はこれ以上望むべくもない師を得たのである。こうしてケントの右腕的存在へと登りつめたブラウンは、彼の引退後は主任庭師として、ストウ庭園の造園作業を引き継いでいった。
屋敷の主人であるコバム卿は社交家で進取の精神に富み、屋敷に客人を招いてもてなす機会も多かったのもブラウンにとって幸いした。流行の最先端をいくストウ庭園に魅了された客人たちが、造園家ブラウンに注目しはじめたのだ。こうして彼はそこに居ながらにして未来のクライアントを獲得していく。また園芸業者など、ケントから引き継いだ人脈も後の彼の仕事に大いに味方した。
本人の才能もさることながら、格好の雇い主、優れた師匠、そして人脈などに恵まれ、何拍子も揃った環境で本格的にキャリアをスタートすることができたブラウンは強運の持ち主だったといえよう。実際、ストウ庭園での主任庭師時代にも、ブラウンはコバム卿の依頼を受けて他の貴族の庭園に出張し、より自分らしいスタイルを打ち出した庭園を作り上げている。
またこの時代、プライベートでも充実した日々を送ったようで、彼は地元の娘ブリジット・ワイエットを妻に迎え、四子のうちの最初の子供をもうけている。家族のために、とブラウンが一層仕事に精を出すようになったと考えても差し支えないだろう。

Stowe Landscape Garden,
Buckinghamshire

ブラウンの造り上げた庭園では、
ふいに息をのむような眺めが目の前にひらけることがあり、
劇的な効果に感嘆の声をあげたくなる(ペットワース・ハウス)。
© National Trust Images/Andrew Butler

いよいよロンドンに進出

長年の主人であったコバム卿が死去したことをきっかけに、一七五〇年代のはじめに、ブラウンは十年近くを過ごしたストウ屋敷を離れロンドンへと向かう。造園設計家として独立するためである。その頃、同業者が多く居を構えていたというハマースミスを居住場所に選び、ブラウンは本格的な営業活動を始めた。
当時、上流階級の紳士たちは郊外や地方の広大な屋敷に加えて、社交のためにロンドンにも住宅を構えているのが常であり、ブラウンの腕前はすでに人々の知るところとなっていた。
看板をあげてまもなく、顧客獲得には苦労しないどころか、方々から依頼が殺到し始めた。この時期から約十年はブラウンの黄金期ともいうべき時期で、彼は前述のブレナム宮殿やチャツワース、ペットワースなどに代表される名庭園を次々と作り出していく。「ケイパビリティ」というニックネームが生まれたのもこの頃だ。
ケントの元で建築技術も学んでいた彼は建築家としての依頼を受けることも多々あった。仕事はストウ屋敷のように十年がかりのプロジェクトもあれば、アドバイザーとして意見を提案するのみといった立場もあったというが、常に複数のプロジェクトを掛け持ちし、各地を飛び回る日々だった。彼自身が「ケイパビリティ」の名にふさわしい人物だったというわけだ。

庭園探訪①ブレナム宮殿

ブラウンの才能が存分にいかされた、
ブレナム宮殿の庭園
© Magnus Manske
オックスフォードシャー、ウッドストックにあるブレナム宮殿は、18世紀初頭に勃発したスペイン継承戦争で決定的な勝利をおさめた司令官、マールバラ公ジョン・チャーチルの功績を讃え、当時のアン女王が贈った大邸宅。彼の子孫にあたる、第二次世界大戦中の英国首相ウィンストン・チャーチルがこの宮殿の一室で生まれ、庭園で夫人にプロポーズをしたというロマンティックな逸話も知られている。また『オルランド』(1992)や『ハムレット』(1996)など歴史を扱った英国映画のロケ地としてもお馴染みだ。
ブラウンは1764年よりこの宮殿の造園に着工。英国バロック式建築の傑作とされる宮殿をとり巻く2100エーカー(約850ヘクタール)という広大な土地をキャンバスに、川をせき止めて人工湖を作り、装飾的すぎる彫像や花壇などを取り壊して緑の大海原を作り出すなどそれまでの庭を一新、思わずため息のもれる壮大な風景を描き出した。オックスフォードやコッツウォルズ、ストラットフォード・アポン・エイヴォンからもほど近いため、観光ルートに組み込みやすいのも嬉しい。1987年には世界遺産にも指定されている。

【住所】Blenheim Palace, Woodstock, Oxfordshire OX20 1PP
www.blenheimpalace.com/

ブレナム宮殿周辺の大改修後の様子(F.O. Morris作/1880年)

「水」と「樹木」の芸術家

彼の作り出した庭園は、建物から広がる、なだらかな起伏の広大な芝生地帯、茂み、木立、そして小川をせき止めて作られた湖水などが絶妙のバランスで配置され、周辺に広がる田園風景とすらも調和した一服の風景画のような美しさを備えていた。
もちろん「自然風景のような庭園」といっても、その景観を作り出すためには不要なものを取り払うほか、時には川の流れさえ変えるといった大掛かりな工事を要する。彼の得意とするのは沼、湖、小川、蛇行した湖、カスケード(階段式に連続した滝)といった水のデザインと、樹木を使った空間演出だった。
そして何よりも、庭を一見して何を削り、どこにポイントを作り、何を植えるべきかを見極める天賦の才がブラウンには与えられていた。
しかし、当時の主流であった幾何学的・装飾的な要素を極力排したブラウンの庭園には「退屈」「単調」「人間味がない」という批判もつきまとった。また「自然を模倣したに過ぎない」という声も多かった。この時代、多くの人々にとって、いまだ「自然」とは征服し支配するべきものであり、その優美さを愛で、讃え、そこから学ぶというものではなかったのである。
例えば彼と同時代を生きた著名建築家ウィリアム・チェインバースはブラウンを真っ向から否定し、詩人のリチャード・オーウェン・ケンブリッジにいたっては、「ブラウンより先に死んで、彼に『改善』されてしまう前の天国を見ておきたいものだ」と皮肉った。 時代の最先端をゆく者に対する風当たりの強さはいつの世にあっても避けられないものなのかもしれない。ただ、そのような批判や中傷をよそに、ウィリアム・ケントの作り出した「風景式庭園」はブラウンの手によって国中に広められ、ヨーロッパの庭園史は新たな一ページを開くことになったのである。

大学の一部というには美しすぎる、ケンブリッジのザ・バックス
(The Backs)

王室の庭まで任されたワーカホリック

超人的な仕事ぶりによって英国の庭園スタイルを一新したブラウンは、その功労を認められ一七六四年に王室所有の庭園の主任庭師に任命される。この背景には名門ノーサンバランド公爵家の所有するロンドンの邸宅サイオン・ハウスの庭園を一新した業績が、王室関係者の目にとまったことも大きかったという。
これを機にハマースミスからハンプトン・コートへと居を移したブラウンは、バッキンガム・ハウス(現在のバッキンガム宮殿)、セント・ジェームズ宮殿、リッチモンド公園、キュー・ガーデン、そしてハンプトン・コートといった王室所有の土地で造園を次々と手がけていく。
またこれらの傍ら、個人的にも多くの造園を引き受け、晩年までそのワーカホリックぶりは衰えることがなかった。現存する庭園の中には後世の王室庭師たちによって手が加えられてしまったものも多いが、彼が晩年まで主任庭師を務めたハンプトン・コートでは、ブラウンの設計によって植えられたブドウ棚が現在も美しく手入れされ、毎年豊かに実をつけているという。

庭園探訪② チャツワース

チャツワース 代々デヴォンシャー公爵家の住まいとなってきた、英国きってのマナーハウスのひとつ。『高慢と偏見(Pride and Prejudice)』の作者ジェーン・オースティン(1775-1817)は、本作に登場する白馬の王子様的存在「ダーシー氏」の邸宅にこの屋敷を想定したと言われており、この作品を映画化した2005年公開作品『プライドと偏見』でも、ダーシー氏の屋敷という設定でロケが行われている。
ケイパビリティ・ブラウンによる風景式庭園が取り入れられたのは、第4代デヴォンシャー公爵時代の1750年代から1760年代にかけて。水の階段ともいえるカスケード=写真右=は既に先人の手によって完成していたが、ブラウンはよりレベルの高い庭園を目指した。装飾性の強いパーテア(幾何学模様花壇)を取り払い、広大な芝生の丘陵に作り替えるなど大規模な工事が行われた。広大な敷地は様々なスタイルの庭園が組み合わされているが、19世紀に入り、第1回ロンドン万博で水晶宮を建設したことで知られる建築家兼造園家のジョセフ・パクストンによってさらに手を加えられている。英国屈指の名園とされるチャツワース、ピーク・ディストリクト観光の際にはぜひ訪れてみたいスポットだ。

【住所】 Chatsworth House, Chatsworth, Bakewell, Derbyshire DE45 1PP
www.chatsworth.org/

英国の風景を作りかえた「庭園の超人」

ブラウンは富と名声を得た後も生涯現役であり続けた。
彼の頭の中には常に様々なアイディアがあふれ、一息つく暇さえ惜しかったのかもしれない。しかしそんな彼にあまりに突然の死が訪れる。
一七八三年、自分の弟子であった建築家ヘンリー・ホランドと結婚した長女ブリジットのもとを訪れたブラウンは、その玄関先で階段から転げ落ち、帰らぬ人となってしまうのである。
当時の文化人であり、ブラウンの崇拝者でもあった作家ホレイス・ウォルポールはあまりに突然の出来事に、知人の貴婦人にあてた手紙の中で「ドリュアス(ギリシャ神話に登場する木の妖精)たちは喪に服さなくてはなりません。彼らの義理の父であり、自然という名の貴婦人の第二の夫が亡くなられたのです!」と記し、その死を悼んでいる。
ブラウンの亡骸は、彼が造園家として成功をおさめた後に購入したケンブリッジシャーの屋敷、フェンスタントン・マナーに近い聖ピーター&聖ポール教会に埋葬されたのだった。
「樹木と湖水、そしてそれを囲む広大な芝生地帯」が基調となったブラウンの庭園は、後世の造園家たちに多大な影響を及ぼした。時代と共に新しい流行が生まれ、そして廃れていった後も、その光景は英国人の郷愁を誘う眺めとして揺らぐことなく生き続けている。一冊の書物すら残さなかったにもかかわらず、彼が思い描いた景観は二百二十年以上経った現在でも愛され続けているのだ。

トレンタム(Trentham)のイタリア式庭園 © Kevin Rushton

ブラウンのお師匠さん!?
ウィリアム・ケント(1685-1748)

若き日のケイパビリティ・ブラウンが、その才能を見事に開花させる舞台となったのはバッキンガムシャーのストウ屋敷。これは当時この屋敷の主任庭師を務めていたウィリアム・ケント(William Kent)=写真=に負うところが大きい。
ケントは画家を目指しイタリアに滞在していたところを、芸術に深い造詣を持つバーリントン卿に見いだされて英国に帰国。同卿の保護を受けながら建築家、造園家、インテリア・デザイナーとして活躍した人物だ。「風景式庭園(landscape garden)」という、自然の風景を取り入れた英国独自の庭園様式を作り出したことで歴史にその名を刻むことになった。
ケントの念頭にあったのは、詩人のアレキサンダー・ポープがバーリントン卿に贈った「すべてにおいて、決して自然を忘れるな。すべてにおいて場の精霊に問いかけよ」という言葉だったという。
しかし彼は芸術家肌(文字は読めなかったという説あり)で凝り性、旅を嫌いロンドンの自宅や友人宅で過ごすのを好んだため、あまり多くの庭園を残さなかった。一方、彼のアシスタントとして働き始めたブラウンは旅を厭わない仕事人間で、ビジネスマンとしての手腕もあり、イングランド中に残した庭園は数知れず。このため「風景式」の造園家の中で最も知られる人物になってしまった。「風景式庭園」の生みの親、ケントは偉大過ぎる弟子を持ってしまったのかもしれない。

どちらがお好み?

きっちり人工美のイタリア&フランス式
VS
ゆったり自然派のイギリス式

どちらがお好み?きっちり人工美のイタリア&フランス式VSゆったり自然派のイギリス式

ヨーロッパの庭園史は、その起源を古代ローマ時代にまでさかのぼる。だが現在のような庭園の原型が広まったのは中世の戦乱時代が一段落したあたり。軍事上の理由から城を強固な壁で囲む必要がなくなり、美観を追求した庭園文化が一気に花咲くことになった頃からだ。 また食料や薬品など実用が目的とされていた園芸が、純粋な装飾を目的とするようになっていった時代でもある。
ルネサンス全盛期の16世紀はイスラム文化の影響を受けたイタリア式庭園が主流となった。丘陵部斜面にテラス状の区画を設け、軸線を中心にした左右対称のデザインや立体感を強調した作りが特徴だ。ツゲなどの植物で結び目模様を描き、その間に草花を植えるノット・ガーデン(knot garden)、樹木を刈り上げるトピアリー(topiary)など装飾的なスタイルが好まれた。また15世紀中頃~17世紀中頃まで続いた大航海時代には「プラント・ハンター」と呼ばれる人々が世界各地で手に入れた珍しい植物を持ち帰り、裕福な王侯貴族や大商人たちがこれらを競って手に入れ、コレクションに加えたという。
そして17世紀。絶対王政の栄華を誇ったベルサイユ宮殿=写真2点とも=に代表されるフランス式庭園は、平らで広大な土地に幾何学的なデザインを描くように植物を配置し、方々に彫刻が置かれ花が咲き誇るといった華やかな「人工美」がポイント。自然を征服・支配する人間の力を誇示するかのようなスタイルには権力者の力を示すという意味合いもあり、このスタイルはヨーロッパ各国で流行した。
ところが18世紀に入ると今度は一気に自然派志向へ。こうした動きは、英国貴族の間で古代ローマやルネサンスの遺産に触れる「イタリア文化遊学」が流行し、豊かな景観や絵画に感銘を受けた人々が自国でもその美しさを再現したいと望むようになったことが背景となっている。
この自然賛美の思想から誕生したのが「風景式庭園(landscape garden)」だ。塀など視覚の障害になるものを取り払い、遠くまで見渡すことのできる緑の広がりと、周りの自然と調和した緩やかな曲線を用いたスタイルは、それまでの整然と作り込んだ庭園とは対照的。同時期、これまでの主流であった人工美を批判し、不規則性を愛でる「ピクチャレスク」という新しい美の概念も誕生したことで、風景式庭園熱はさらに高まっていく。産業革命が始まりつつあった当時の英国で、ロンドンに生活の拠点を持つようになった貴族が地方に所有する屋敷を「自然回帰の場」としてとらえるようになったことも、風景式庭園が流行した要因の1つだ。
また、一般に「イングリッシュ・ガーデン」と称されるスタイルは、19世紀以降に急増した中流階級の人々の所有する田舎家風の「コテージ・ガーデン」を指すこともあり広義に解釈されることが多いが、これらの様式ももとをたどればウィリアム・ケントやケイパビリティ・ブラウンら「風景式」造園家の作り出した庭園が原型になっている。国や時代によってそのスタイルは様々だが、どの庭園もそれらが造られた時代の社会的背景を反映しているのが興味深い。

庭園探訪③ ハイクレア城

ハイクレア城 17世紀からカナーヴォン一家が所有し、現在は第8代伯爵夫妻が暮らす邸宅。ドラマ『ダウントン・アビー』のロケ地として注目を集めたことは記憶に新しい。ブラウンがハイクレア・パークに着手したのは1770年。壁や生垣など、敷地内にあった境界線を取り除き、耕地だった場所は芝地へ、綿密な計算のもとヒマラヤスギやナラの木を植樹して森林や湖を造り上げると、一帯がブラウンの『色』に染まった。パーク内を歩いてみると、なだらかな丘や、木々の配置によって、時にドラマチックに変化する景色を楽しむことができる。毎年期間限定で一般公開されるので、あらかじめウェブサイトなどで確認してお出かけを。

Highclere Castle
Highclere Park, Newbury RG20 9RN
www.highclerecastle.co.uk

ブラウンが携わった庭園

※編集部の独断により一部割愛

ロンドン及びその近郊
Addington Place, Croydon, Greater London
Ancaster House, Richmond, Surrey
Brentford, Ealing, London
Clandon Park, Surrey
Claremont, Surrey
Euston Hall, London
Hampton Court Palace, Surrey
Holland Park, London
Kew Gardens, London
Littlegrove, Barnet, Greater London
Moor Park, Rickmansworth, Hertfordshire
Mount Clare, London
North Cray Place, Bexley, Greater London
Paddenswick Manor, London
Peper Harow, Surrey
Peterborough House, Hammersmith, London
Syon House, London
West Hill, Putney, London
Whitehall, London
Wimbledon House, London
Wimbledon Park, London

英国各地
Alnwick Castle, Northumberland
Althorp, Northamptonshire
Appuldurcombe, Isle of Wight
Ashburnham Place, East Sussex
Aske Hall, North Yorkshire
Audley End, Essex
Aynhoe Park, Northamptonshire
Badminton House, Gloucestershire
Basildon, near Reading, Berkshire
Battle Abbey, East Sussex
Beechwood, Bedfordshire
Belvoir Castle, Leicestershire
Berrington Hall, Herefordshire
Blenheim Palace, Oxfordshire
Bowood House, Wiltshire
Brocklesby Park, Lincolnshire
Burghley House, Lincolnshire
Burton Park, West Sussex
Cadland, Hampshire
Cardiff Castle, South Glamorgan
Castle Ashby, Northamptonshire
Chalfont House, Buckinghamshire
Charlton, Wiltshire
Chatsworth, Derbyshire
Chilham Castle, Kent
Clumber Park, Nottinghamshire
Coombe Abbey, Coventry, Warwickshire
Croome Park, Worcestershire
Dodington Park, Gloucestershire
Fawley Court, Oxfordshire
Gatton Park, Surrey
Grimsthorpe Castle, Lincolnshire
Harewood House, Leeds, West Yorkshire
Highclere Castle, Newbury, Berkshire
The Hoo, Hertfordshire
Hornby Castle, North Yorkshire
Ickworth House, Suffolk
Ingress Abbey, Dartford, Kent
Kelston, Somerset
Kimberley, Norfolk
Kimbolton Castle, Cambridgeshire
King's Weston, Bristol
Kirtlington, Oxfordshire
Knowsley, Liverpool, Merseyside
Kyre Park, Herefordshire
Lacock Abbey, Wiltshire
Laleham Abbey, Surrey
Langley Park, Norfolk
Latimer, Buckinghamshire
Leeds Abbey, near Leeds Castle, Kent
Lleweni Hall, Clwyd
Longford Castle, Wiltshire
Luton Hoo, Bedfordshire
Madingley, Cambridgeshire
Maiden Earley, Berkshire
Mamhead, Devon
Melton Constable, Norfolk
Milton Abbey, Dorset
Moccas, Herefordshire
Navestock, Essex
Newnham Paddox, Warwickshire
Newton Park, Newton St Loe, Somerset
New Wardour Castle, Wiltshire
Nuneham Courtenay, Oxfordshire
Oakley, Shropshire
Packington Park, Warwickshire
Patshull, Staffordshire
Paultons, Hampshire
Petworth House, West Sussex
Pishiobury, Hertfordshire
Porter's Park, Hertfordshire
Prior Park, Bath, Somerset
Savernake Forest, Wiltshire
Scampston Hall, Yorkshire
Sheffield Park Garden, East Sussex
Sherborne Castle, Dorset
Stowe Landscape Garden, Buckinghamshire
Temple Newsam, Leeds, West Yorkshire
The Backs, Cambridge, Cambridgeshire
Thorndon Hall, Essex
Trentham Gardens, Staffordshire
Warwick Castle, Warwickshire
Wentworth Castle, South Yorkshire
Weston Park, Staffordshire
Whitley Beaumont, West Yorkshire
Widdicombe, Devon
Wilton House, Wiltshire
Wimpole Hall, Cambridgeshire
Woburn Abbey, Bedfordshire
Woodchester, Gloucestershire
Wootton Place Rectory, Oxfordshire
Wotton, Buckinghamshire
Wrest Park, Bedfordshire
Wrotham, Kent
Wycombe Abbey, Buckinghamshire
Wynnstay, Clwyd
Youngsbury, Hertfordshire


写真トップから:
Bowood House Kev / Palladian Bridge at Prior Park, Bath / Castle Ashby Orangery Kokai / Ickworth House / Squeezyboy / Highclere Gardens JB + UK_Planet / Wilton House Gardens Jan van der Crabben / Blenheim Palace's garden / Triumph Arch, Berrington Hall J Scott

日本を愛した喜劇王 チャップリン [Charles Spencer Chaplin KBE]

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英国の偉人の生涯をたどる 『Great Britons』

2016年11月3日 No.957

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日本を愛した喜劇王 チャップリン

●Great Britons●取材・執筆・写真/名取 由恵・本誌編集部

日本を愛した喜劇王

チャップリン

ハリウッド映画初期の俳優、脚本家、映画監督として活躍し、バスター・キートン、ハロルド・ロイドと共に「世界の三大喜劇王」として世界的な人気を集める、チャーリー・チャップリン。
山高帽にチョビひげ、きついコートにだぶだぶのズボン、大きな靴にステッキで、よたよたと歩く姿は、映画ファンのみならず、誰もが知っているキャラクターだろう。笑わせながらもほろりとさせる彼の作品は、今もなお、世界中の人々を魅了し続けている。
一方、私生活では大の親日家で、日本と深い関わりをもち、五・一五事件では危うく命を落としかけてもいる。
英国の偉大な人物を紹介する『グレート・ブリトンズ』、今回は喜劇王チャップリンの生涯を辿ってみよう。

参考文献:大野裕之『チャップリン暗殺 五・一五事件で誰よりも狙われた男』(メディアファクトリー刊)、DVD『チャーリー』、Charles Chaplin, MY AUTOBIOGRAPHY, 1964

貧しき子供時代

「喜劇とは何であろうか。映画とはいったい何なのであろう。ただ人を笑わせるだけが喜劇じゃないことは確かだ。わたしの思いを表現するなら、わたしという人間を培ってきた社会を表現しなければならない。スクリーンの中の出来事は現実の社会と関わっているのだ。少なくとも『チャーリー』はそうだ」
『放浪紳士チャーリー』を生みだし、世界の喜劇王として人気を集めた、チャーリー・チャップリンの本名は、チャールズ・スペンサー・チャップリン(Charles Spencer Chaplin KBE)。1889年4月16日にロンドンのウォルワースで生まれる。父親チャールズ・チャップリン、母親ハナ・ヒル(芸名リリー・ハーヴィー)は、ともにミュージック・ホール(音楽、芝居、喜劇などを披露する当時の娯楽施設)の舞台芸人だったが、一家の生活は大変に貧しく過酷なものだったという。両親はチャップリンが1歳のときに離婚。11年後、父親はアルコール依存症により死亡。母親は、女手ひとつでチャップリンと4歳年上の異父兄シドニーを育てるが、チャップリンが幼いとき、極貧生活と栄養失調が原因で精神に異常をきたし、精神病院に入ってしまう。その後、シドニーとチャップリンは、孤児院や貧民院を転々とさせられた。
「わたしは貧乏をいいものだとも、人間を向上させるものだとも考えたことはない。貧乏がわたしに教えたものは、なんでも物をひねくれて考えること、そしてまた、金持ちやいわゆる上流階級の美徳、長所に対するひどい買いかぶりという、ただそれだけだった」
貧しかった幼少時代がその後のチャップリンの人格形成に多大な影響を与えたことは確かだ。
両親の感性を受け継いだチャップリンは、早くから舞台に立ち、家計を支えてきた。初舞台は5歳。舞台で突然声が出なくなった母親に変わって、チャップリンが急遽ステージに登場し、歌を披露したという。10歳でエイト・ランカシャー・ラッズ劇団に入団したチャップリンはタップダンサーとして注目を集め、その後は劇団を転々としながら芸を磨いていき、1908年に兄の勧めでフレッド・カーノー劇団に入団。ここでパントマイムの技術を磨き、「酔っぱらい」の演技で人気を集め、一躍花形コメディアンに成長していく。

米国に上陸 ハリウッドのスーパースターへ

1912年、カーノー劇団が2度目の米国巡業を行った際にチャップリンは喜劇映画界の雄、マーク・セネットに見いだされる。セネットは喜劇専門の映画製作会社であるキーストン社の監督/プロデューサーだった人物。キーストン社には無声映画全盛期を代表する名だたる役者が所属し、大衆の人気を集めていた。キーストン社から提示されたチャップリンのギャラは平均的労働者の10倍の週給150ドル。当時、映画は舞台より低級とみられていたため、出演を希望する役者が少なく、映画会社は高いギャラを払って俳優を確保していたという。
チャップリンは『成功争ひ(原題: Making A Living)』(1914年)のペテン師役で映画デビュー。以後、1年間キーストン社に所属し、34本の短編映画に出演することになる。そして、2作目『ヴェニスの子供自動車競争(Kid Auto Raves At Venice)』(1914年)で、放浪者にして紳士である『放浪紳士チャーリー』というお馴染みのキャラクターがようやく登場する。
「つまり、小さな口髭は自分の虚栄心、不格好で窮屈な上着とダブダブのズボンは人間が持つ愚かしさと不器用さ、同時に物質的な貧しさにあっても品位を維持しようとする人間の必死のプライド。そして大きなドタ靴は貧困にあえいだ幼い頃の忘れえぬ思い出だ。それが僕に閃いた人間の個性なのだ」と、チャップリンは後に回想している。
当時は無声映画の時代であり、派手なアクションのドタバタ劇が人気を集めていた。キーストン喜劇も然り、即興で撮影されるということもあって、追いかけ回したり、喧嘩したりの連続が主流だった。そんな中でも、チャップリンは監督業を兼任するなど映画人として修行を積んでいく。やがてめきめきと実力をつけたチャップリンは、他の映画会社から次々と引き抜かれ、その度にギャラも上がっていった。2年目の1915年には週給1000ドルで移籍し、14本の短編で監督・主演を務めた。さらに3年目には週給1万ドルという破格の契約金で移籍、12本の映画を製作する。
1918年には、独立して自分の撮影所を設立。ファースト・ナショナル社(後にワーナー・ブラザーズと合併)と年棒175万5000ドルで契約を結び、名実ともにハリウッドのスーパースターとなる。自らの撮影所で自由に映画製作できるという環境が整い、映画作りにおいて主導権が握れるようになったおかげで、チャップリンは当初のドタバタ劇から、「喜劇は人を泣かせることもできる」という自分の信念にもとづく作品を創るようになる。こうして、社会的メッセージと人間の内面を、笑いと涙を織り交ぜながら描くというチャップリンの独自のスタイルが確立されていったのだった。
さらに、1919年には、その後アメリカの映画界で隆盛を極める配給会社、ユナイテッド・アーティスツを設立。チャップリンは、監督・プロデューサー・脚本・主演と、ひとりでいくつもの役割をこなし、無干渉で映画製作のできる環境を手に入れた。そして、『キッド(The Kid)』(1921年)=写真右、『黄金狂時代(The Gold Rush)』(1925年)、『サーカス(The Circus)』(1928年)、『街の灯(City Lights)』(1931年)など、大ヒット作を次々に製作し、またたく間に世界的な人気者になっていく。
チャップリンは、わずか数秒のシーンを納得のいくまで何百回と撮り直し、少しでも無駄な演技のシーンは大胆にカットするなど、業界随一の完璧主義者と呼ばれた。NGがでたフィルムはほとんど焼却していたほど、その完璧ぶりは徹底していたという。

少女趣味(ロリコン)で4度も結婚
~多彩な女性関係~

ロバート・ダウニー・Jr主演、リチャード・アッテンボロー監督の伝記映画『チャーリー(原題:Chaplin)』(1992年)でも描かれているように、チャップリンは4度の結婚で11人の子供をもうけるなど、女性関係は実に華やかだった。
初恋の人は踊り子のヘッティ・ケリー。彼女が15歳のときに出会い恋に落ちるが、彼女が若くして亡くなったため、チャップリンは一生ヘッティの面影を追い求めたといわれる。最初の妻は女優のミルドレット・ハリス=写真右。1918年に結婚し2年後に離婚。2番目の妻はリタ・グレイ。1924年に結婚し3年後に離婚。ふたりの間には長男チャールズJr、次男のシドニーが生まれている。3番目の妻とされるのは、ポーレット・ゴダード=同左下。女優としては彼女が最も有名で『モダン・タイムス』『独裁者』でも共演している。1936年に結婚し6年で離婚。しかし彼女とは結婚の法的証拠がなく、正式に結婚していなかったという説もある。そして4人目の妻は、ウーナ・オニール。ノーベル賞受賞の劇作家、ユージン・オニールの娘でもある。1943年に結婚、8人の子宝に恵まれる。
他にも数々の浮き名を流し、父権裁判を起こされたこともある。また、チャップリンが少女趣味(ロリコン)だったというのも、ハリウッドでは有名な話。ミルドレットが結婚したのは16歳で、リタも16歳のときに妊娠して結婚している。離婚後まもなくリタは慰謝料訴訟を起こし、夫婦の性生活を暴露するなど、チャップリンにはかなりの痛手だったという。一説によると、ナボコフの小説『ロリータ』は、チャップリンとリタの関係をヒントに書かれたという噂も。ウーナは17歳で結婚。当時チャップリンは54歳で、年の差はなんと37歳!8番目の子供が生まれたとき、チャップリンは73歳だった。

大の親日家

1927年に撮影されたチャップリンと高野虎市(右)
=高野の遺族、東嶋トミエ氏所有の写真。
チャップリンと日本の縁は深い。1916年秋、チャップリンは在米日本人の高野虎市を運転手として採用した。それまでのチャップリンは特に親日家だったというわけではなく、高野を選んだのは、単に人種についての偏見がなかったからといわれている。
高野は1885年広島県生まれ、裕福な庄屋の出だったが、15歳のとき親には「留学」と称し、自由を求めて渡米。以来、米国で生活していた。
運転手として働き始めた高野は、車の運転はもちろん、経理、秘書、護衛、看護師などさまざまな仕事をこなし、チャップリンの身の回りのことをすべて任されるようになった。高野は映画にも端役で出演したことがあり、長男にはチャップリンのミドルネームからスペンサーという名前がつけられた。一時はチャップリンの遺書のなかで遺産相続人のひとりに選ばれるほど、絶大なる信頼を得ていたという。高野の誠実な人柄や勤勉な仕事ぶりに感心したチャップリンは、使用人に次々と日本人を雇い、1926年頃には使用人すべてが日本人になっていた。チャップリンの2番目の夫人であるリタ・グレイは「まるで日本のなかで暮らしているよう」と表現していたと伝えられる。

「キムラ」と呼ばれて
ロンドンでも人気だった
滋賀県産のステッキと
同様のデザイン。
当時は年間200万本も
輸出されていたという。
1931年初め、チャップリンは突然世界旅行に出発することを決意。高野は1年半にわたり、チャップリンの世界旅行の全行程に同行した。そしてその世界旅行の途中、32年5月にチャップリンは遂に憧れの地、日本の土を踏むことになる。
その後、チャップリンは1936年3月と同年5月、そして戦後の61年6月と生涯で4度来日を果たしている。すっかり親日家となり、歌舞伎や相撲など日本の伝統文化を愛し、西陣織の羽織をガウンとして愛用、天ぷらを好んで食べ、天つゆまで自分で作るほど、日本に惚れ込んでいた。ちなみに、チャップリンが映画のなかで愛用した、かの有名なステッキは、しなりが強いのが特徴の滋賀県産の竹で作られていたもの。竹根鞭細工と呼ばれる木村熊次郎が考案した滋賀の特産品で、明治初期から海外に輸出され、かつてロンドンではステッキを「キムラ」と呼ぶほど好評を博したという。

日本では暗殺の的に

「五・一五事件」といえば、戦前の日本で起きたクーデター事件として、「二・二六事件」と共に歴史の授業でもお馴染みだが、その事件にチャップリンが関与していたという意外な事実がある。
1932(昭和7)年に起きた「五・一五事件」では、大日本帝国海軍の急進派である青年将校たちが首相官邸に乱入、護憲運動を進めた犬飼毅首相を暗殺。この事件により、政党政治は衰退、日本は軍部主導の体制になり、戦争へと向かっていくことになる。この「五・一五事件」が起こった当時、チャップリンは偶然にも日本を訪れていた。しかも、チャップリン自身が暗殺の標的になっていたというから驚きだ。
日本チャップリン協会発起人代表であり、チャップリン研究家の大野裕之氏の著書『チャップリン暗殺 五・一五事件で誰よりも狙われた男』には、当時の情勢とチャップリンの足跡が詳細に述べられている。それによると、事件の首謀者たちは、「外国文化の象徴」であるチャップリンを暗殺することにより、米国をはじめ世界中に衝撃を与え、さらに日米開戦にもちこみ、世界全体を改革することを目指していたという。チャップリンは国際的スターであり、資産家でもあり、世界的に重要な人物だったため、クーデター首謀者にとって、格好の暗殺の標的だったのだ。

ガンディー(前列右から2人目)とチャップリン(同3人目)
=1931年9月、ロンドンにて撮影。
世界旅行中、チャップリンは世界の著名人と会談を果たしている。英国では、ウィンストン・チャーチル首相やマハトマ・ガンディー、アインシュタインとも会談し、日本では、犬飼毅首相との面会及び首相官邸での歓迎パーティーが予定されていた。日本の不穏な空気を心配した高野虎市は、世界旅行中に一足早く日本を訪れ、犬飼毅首相の息子である犬飼健首相秘書官に相談。チャップリンと犬飼首相の会談は、チャップリンが親日家であることを強調することで日本の右翼勢力を懐柔し、チャップリンの身の安全を守ろうという高野と犬飼健氏が立てた作戦だったといわれる。
チャップリンはジャワ滞在中に熱病にかかり、日本到着予定が5月16日と遅れたために、一時は暗殺の標的から外されたが、結局船が快調に進み、14日朝に神戸に到着。首相との会談は事件当日の15日夜に首相官邸にて行われることに決定した。見事に首相官邸襲撃のタイミングに重なったことで、再びチャップリンの命は危険に晒されることになる。ところが、日頃から気まぐれなチャップリンが、当日になって突然相撲に行きたいと言い出したことから、首相との会談は延期。チャップリンは辛くも暗殺を逃れたのだった。チャップリンが直感的に危険を察知したかどうかは謎だが、予定どおり会談に出席していれば日本で暗殺されており、その後の日英関係にも大きく影を落としたに違いないと考えるとぞっとする。
また、14日に到着するなり東京に直行したチャップリンはまず二重橋を訪れ、皇居に一礼している。この一礼は当時の新聞に大々的に報道されたが、これも当時の時勢を配慮した高野が仕掛けたことで、チャップリンは後に「高野が『車から降りて皇居を拝んでください』というので、腑に落ちないまま礼をした」と自伝に記している。
事件後もチャップリンは、気丈に日本観光を続け、歌舞伎座と明治座で伝統芸能を鑑賞した。日本橋の「花長」ではエビの天ぷらを36尾も食べたという。5月17日、チャップリンは密かに首相官邸に行き、犬飼健氏と共に弾痕が残る現場を訪れた。また、帰国当日の6月2日にも斎藤実新首相と会見。再び暗殺の現場を訪れ、何度も「恐ろしい」と繰り返していたという。
その4年後の1936年3月、再び日本に訪れたチャップリンだが、同年2月26日には「二・二六事件」(*)が起きている。チャップリンは予定では2月末には日本にいるはずだったが、ハワイ滞在を延長したため、事件には巻き込まれなかった。しかし、この事件では、前回チャップリンを首相官邸に案内した斎藤実が殺されてしまう。
「五・一五事件」、「二・二六事件」という、日本の歴史を変えた事件の両方にチャップリンが関係していたとは、単なる偶然なのか、20世紀という時代が作り出した必然なのか。どちらにしても不思議な縁を感じる。

大野氏が発見した手紙。
秘書や知人らがチャップリン訪日の行動計画を
立てたことが明らかにされた。
上の記述では、「御到着の日」は「休養」だが、
他の箇所で宮城(皇居)に行く
よう求めている
=高野の遺族、東嶋トミエ氏所有のもの。
前述の大野氏の著書によると、チャップリンは初来日の際に記者会見で、世界情勢に関して質問を矢継ぎ早に受け、「それはわたしの職分ではない。各政治家の職分です」と答えると、ある記者から次のように声があがったという。
「君のユーモアによって、世界を救えばいいじゃないか!」(原文より抜粋)
すると会場内は笑いの渦となり、チャップリン自身も笑っていたという。ユーモアで世界を救う――この言葉が、チャップリンの心に響き、その後の彼を導いていったと思うのは、考え過ぎだろうか。世界旅行中に、ドイツやイタリアなどでファシズムが広がりつつあるのを目の当たりにし、自分が愛する日本でも軍国主義が始まろうとしているのを知ったチャップリン。この時期にチャップリンが世界で見聞したことが、後の彼の作品に多大な影響を与えたことは、間違いないだろう。
*1936年2月26―29日に、陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1500名近い兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」をスローガンに起こしたクーデター事件。これにより、斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監が暗殺された。

言葉より動きで伝える 政治への挑戦

チャップリンは、1932年6月に世界旅行から米国に戻るが、ハリウッドは無声映画からトーキーの時代へと移り変わっていた。1936年にチャップリンは自ら作曲の音楽をつけた『モダン・タイムス(Modern Times)』を製作するものの、トーキーではない作品に世間の評価は厳しかった。日本でも最初の来日後にチャップリンの評価は急落した。彼の映画はもはや時代遅れになってしまったのだ。
チャップリンの作品は無声映画がほとんどだが、トーキーを軽蔑していたのではなく、チャップリンの作り出したキャラクター=放浪者のイメージが声で崩れることを危惧したためといわれている。
「もし、わたしがトーキー映画を創っても、到底あのパントマイム芸術を超えることはできないだろう。『チャーリー』を殺すことは僕にはできない」
言葉よりも動きの方が正しく理解される、と信じていたチャップリンだからこそ、あくまで無声にこだわっていたということだろう。
『モダン・タイムス』では、過酷な状況で生きる貧者や労働者を描き、人間の機械化に反対したが、この頃から彼は米国の急進的な左右両派からの批判を浴びるようになった。極貧の少年時代を送った影響で、チャップリンは政治問題に大変な関心を持っていた。そのうえで、ファシズムの勃興と暗殺の標的として狙われた日本での体験は、チャップリンにあるアイディアを抱かせる。1938年、満を持して、戦争・ファシズムを批判する、チャップリン初のトーキー映画『独裁者(The Great Dictator)』の製作を発表するのだ。
当初、チャップリンはナポレオン皇帝を主人公にした悲喜劇を作ろうと思っていたようだが、それをボツにして『独裁者』の製作を決意した。1939年、ヒトラー率いるナチスドイツがポーランドに侵入し、第二次世界大戦が勃発した直後に撮影を開始。1940年10月に米国で公開されたが、当然のことながら戦前の日本では公開されず、日本では1960年になって初めて公開されたという。
映画の終盤にある演説は、もともと台本にはなく、当初はドイツ兵士とユダヤ人が一緒にダンスをするというラストだったとされている。しかし、独裁者に対する怒りを表現するために台本を書き換え、6分もの長さの大演説となった。製作当時、米国ではナチスドイツを反共主義の国として肯定的な見方をする向きも多く、不況を克服した政治家としてヒトラーを英雄扱いする傾向にあったといわれ、『独裁者』の演説シーンは賛否両論を呼んだ。
また、当時はチャップリンがユダヤ人という説がまことしやかに流れたというが、チャップリンは実際にはユダヤ人ではなく、アイルランド人とロマ(ジプシー)の血を引く。異父兄のシドニーがユダヤ系のクオーターと主張していることが関係しているといわれていたが、当のチャップリンは「ユダヤ人と思われて光栄だ」などと語っていたという。ちなみに、チャップリンとヒトラーは同い年で、誕生日もわずか4日違い。ヒトラーにも一時期ユダヤ人説が流れたこともあわせて、ふたりにはさまざまな共通点があるが、その理想はまったく異なる方向にあったといえよう。

チャップリンの先見の明が光る
『独裁者(The Great Dictator)』

おそらく、チャップリンの作品のなかで最も有名なのが、この『独裁者』だろう。チャップリンが監督・製作・脚本・主演を務め、ヒトラーとナチズムを風刺した作品で、チャップリンが最初に製作したトーキー映画として知られる。
本文で述べたように製作当時はヒトラーの人気も高く、人々はなぜチャップリンがヒトラーを風刺するのか不思議がったが、後に彼の先見の明が証明されることになった。
ストーリーは、架空の国トメニアの陸軍二等兵である床屋の店主チャーリーが主人公。独裁者のヒンケルが圧政を行うこの国で、ユダヤ人のチャーリーは迫害を受けながらも隣国に脱出。しかし、ヒンケルと容姿がそっくりだったことから、チャーリーはヒンケルに間違えられ、再びトメニアに連行されるが、ヒューマニズムと民主主義を訴える演説を行い=写真上、民衆から大喝采を受けるという内容だ。
戦争を憎み、平和の尊さを伝える本作は、商業的に最も成功したチャップリン作品となっている。

その他の主な作品

『ライムライト Limelight』では、
老いた喜劇俳優の悲哀を演じた。
1914年の第1作『成功争ひ(原題:Making a Living)』から1967年の『伯爵夫人(A Countess from Hong Kong)』(監督のみで出演はなし)まで、チャップリンは40余りの作品を手がけている。初期は短編映画が中心で、中期以降は中編や長編が多くなる。そのなかでも有名なのは、ファースト・ナショナル時代の『キッド(The Kid)』(1921年)、ユナイテッド・アーティスツ時代の『黄金狂時代(The Gold Rush)』(1925年)、『街の灯(City Lights)』(1931年)、『モダン・タイムス(Modern Times)』(1936年)、『独裁者(The Great Dictator) 』(1940年)、『ライムライト(Limelight)』(1952年)など。

 

笑うために闘ったチャーリー

第二次世界大戦後、1947年に『殺人狂時代(Monsieur Verdoux)』を製作した頃から、チャップリンに対する米国での風当たりがさらに厳しくなっていく。反戦色の強い作品や、左寄りの発言は、東側に対する冷戦が始まった米国では「容共的」として非難されることもあり、マッカーシズムと呼ばれる米国での赤狩りが吹き荒れた50年代には、上院政府活動委員会常設調査小委員会から、何度となく召還命令を受けている。
1952年、チャップリンは『ライムライト(Limelight)』のプレミア公演のため、ロンドンに出航するが、その直後に米政府から事実上の国外追放処分が出され、米国の地に戻ることは許されなかった。こうして、チャップリンは、40年間にわたって活動を続けた米国、そしてハリウッドと決別することになる。
チャップリンの右腕として活躍していた高野虎市は、それに先立つこと18年前の1934年に秘書役を辞任している。当時は恋人で、後にチャップリンの3番目の妻となる女優のポーレット・ゴダードと衝突したのが原因とされている。その後、高野はチャップリンから莫大な退職金とユナイテッド・アーティスツ日本支店の職を与えられるが、日本の暮らしに馴染まなかった高野は再び米国に戻り、第二次世界大戦中には、スパイ容疑でFBIに逮捕され、開戦後に強制収容所に送られた。息子のスペンサーは、父親の立場が良くなるようにと、志願兵となり日本軍と戦ったという。高野は戦後も事業に失敗するなど苦労をしたようだが、晩年は故郷の広島で静かに過ごし、86歳で逝去した。18年間を共に過ごしたチャップリンと高野が会うことは、二度となかった。

72歳の誕生日を迎えた
チャップリン=1961年撮影。
© Comet Photo AG (Zürich)
スイスに住み始めたチャップリンは、映画出演こそ少なくなったものの、世界各地で名士としての尊敬を受ける。また、50年近くを経て改めて、過去の作品が評価され、70年代初めには世界的にチャップリン・ブームが起こった。
1972年、米国映画界が事実上の謝罪を意味するアカデミー賞特別名誉賞をチャップリンに与えたことで、チャップリンは20年ぶりに米国の地を踏むことができた。授賞式の会場では招待客全員がチャップリンの作曲した楽曲「スマイル」を歌って功績を讃えたという。また、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムで長年消去されていたチャップリンの星印もこれを機に復活。さらに、政治的問題や女性問題で叙勲が遅れたものの、1975年には、母国英国のエリザベス女王からナイトの称号を贈られている。  チャップリンは、1977年クリスマスの朝に、スイスのヴェヴェイにある自宅で逝去した。就寝中に息を引き取るという安らかな最期だったという。享年88。
20世紀の怒濤の時代を生きぬき、金持ちや貧乏人、資本主義やプロレタリア、ファシズムなど、世界のすべてを笑い飛ばした喜劇王。世界中の人々から愛される作品を目指すため、誰かに不快感を与えるようなギャグを排除し、自分が納得するまで何度も作品を作り直した完璧主義者。日本を愛し、日本の文化を尊敬した親日家。戦争を憎み、平和を愛した理想高きヒューマニスト。さまざまな顔をもつチャップリンが作り上げた映像とメッセージは、時代を超え、世代を超えて、私たちに強く訴えかけ、今も私たちに愛され続ける。チャップリンはそのユーモアによって、数多くの人々の心を救った。そして、これからも救い続けていくことであろう。
「人生には、死よりも苦しいことがある。それは、生き続けることだ」
―チャーリー・チャップリン

『クリミアの天使』と呼ばれた、改革の鬼 フローレンス・ナイチンゲール [Florence Nightingale]

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英国の偉人の生涯をたどる 『Great Britons』

2017年3月30日 No.977

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『クリミアの天使』と呼ばれた、改革の鬼フローレンス・ナイチンゲール

●Great Britons●取材・執筆/本誌編集部

『クリミアの天使』と呼ばれた、改革の鬼

フローレンス・ナイチンゲール

フローレンス・ナイチンゲール――。
この名を聞いたことがないという人は少ないだろう。
しかし、彼女が看護婦だったということ以外は存外知られていない。
英国出身のナイチンゲールは、19世紀中期に勃発したクリミア戦争に看護婦として従軍し、英国軍の死亡率を劇的に下げた人物だ。
「看護婦」という響きから、母性的で優しげな女性をイメージしがちだが、実際には、可憐な存在では決してなく、女性の社会進出などありえなかった時代に男性からも一目置かれ、恐れられる存在であったという。
今号ではナイチンゲールの生い立ちや苦悩、そして人物像に触れながら、彼女が残した特筆すべき功績の数々をご紹介したい。

※本特集は2008年5月29日に掲載したものを再編集してお届けしています。

運命のクリミア戦争

「彼女は救いの天使だ。誇張するわけではないが、彼女の細身の身体がそっと病院の廊下を通る時、病人たちが彼女の姿を目にすれば、どの顔も穏やかになっていく。軍医が皆寝静まり、傷病兵たちを暗闇と静寂が包んでいる頃、彼女はランプを持って一人で看回りをしていた――」(タイムズ基金 コミッショナー ジョン・C・マクドナルド)
フローレンス・ナイチンゲールが『看護婦』として英国中にその名を知られ、後世まで語り継がれるきっかけとなった出来事は、「クリミア戦争」(1854年3月~56年3月)だ。そもそもクリミア戦争とは、ロシアがヨーロッパ、地中海方面への勢力拡大の足がかりのために、トルコに宗教的正当性を振りかざし、仕掛けていった戦争として知られる。英国が参加したのは、開戦間もない頃、トルコ艦隊がロシア軍にすんなりと打ち破られてしまったためで、ロシアの地中海進出をなんとか阻みたい英国は、フランス、イタリアと組んでトルコの後ろ盾となり、ヨーロッパ四国同盟を作ってロシアを攻撃していく。
ロシア軍220万、同盟軍100万人を動員する大規模な国際戦争に発展するが、この戦争は史上稀に見る「愚かな戦争」としても知られる。というのも、2年余り経っても決着がつかず、両陣営ともに不手際が続発したからだ。ロシア軍13万人、同盟軍7万人という甚大な数の死者を出しただけで、どちらが戦勝国か分からない混沌とした状況に、人々の虚脱感が残るだけだったという。英国では膨大な戦費の捻出により、ついには内政が破綻してしまう事態を引き起こすまでになっていた。

ナイチンゲールの支援者でもあった
シドニー・ハーバート
(Sidney Herbert, 1st Baron Herbert of Lea,
PC、1810~61/1847年、Francis Grant作)。
「傷病兵が苦しみもだえても医療品は不足し、手術する外科医もいなければ看護婦もいない。傷口を手当てするガーゼすらなく、包帯する布さえないありさまだ。寒さと疫病に苦しみながら、毎日多くの兵士が命を落としている。我々にはなぜ慈善婦人会がないのか? 優しい心を持ち、献身的な英国人女性はたくさんいるはずなのに」(1854年10月12日付、タイムズ紙)
実は、クリミア戦争は新聞記者が従軍し、ジャーナリストの観点から戦況を伝え、翌日の新聞に掲載するという今日的な報道体制が初めて確立された戦争であった。
そのため、英国陸軍の医療体制のずさんさがすぐさま英国民の知るところとなる。このタイムズ紙の報道なくしては、のちにナイチンゲールが「国民的英雄」として広く知れ渡ることはなかったと言っても過言ではないだろう。
「あの人しかいない…」
英国陸軍の野戦病院の悲惨な状況を深刻に受け止めた当時の国防相シドニー・ハーバートは、すでに看護のエキスパートとして頭角を現しはじめていたナイチンゲールに従軍を依頼。ナイチンゲールはそれを二つ返事で快諾し、看護婦として、現在のイスタンブール対岸にあった英国軍後方基地のスクタリ野戦病院へと赴く。
ナイチンゲールがこの野戦病院で過ごした約2年間が、彼女の名声を決定づける最重要なポイントであったことは紛れもない事実だが、クリミア戦争終結後も40年余りに渡り、作家として、看護の権威として、そして改革の鬼として、精力的な活動を続けたことはあまり注目されていないように思われる。また、ナイチンゲールは生涯独身を貫き通したことから、「結婚が女性の最大の幸せ」という、当時の一般的価値観に反した生き方をした女性である点も忘れてはならない事実だ。
まずはナイチンゲールが、看護への道へ突き進むまでの半生を追っていきたい。

才色兼備のスーパーお嬢様

ナイチンゲールは19歳の時、
ヴィクトリア女王に拝謁している。
社交界デビューを果たし、
美しく裕福だったナイチンゲールは、
周りの男性たちからの人気が高かった。
c Florence Nightingale Museum
1820年5月20日、フローレンス・ナイチンゲールは富豪であるジェントリー(*1)階級の両親の元、二人姉妹の次女としてイタリア・フィレンツェ(英語ではフローレンス)で生まれる。父、ウィリアムは学問に秀で、ケンブリッジ大学を卒業し、政治活動や娘たちへの教育に熱心な人物。一方の母、フランシスは社交好きな美しい女性であった。国民の3パーセントの上流階級に属する富豪のお嬢様として、何不自由のない環境で成長する。一家は大陸旅行と称し、1~2年という時間をかけ、英国の屋敷から持ち運んだ一家専用馬車でヨーロッパを周遊。旅先では観劇、オペラ、景勝地めぐり、舞踏会などを楽しむセレブリティ生活を送っていた。
幼い頃は学校へは通わず、姉妹揃って父から在宅教育を受ける。歴史や哲学、語学さらに音楽まで様々な学問を習うが、その中でもナイチンゲールがもっとも興味を示したのが数学であったという。両親との旅行中にも旅行距離と時間を記録に取るほど、数字にのめり込んでいった。
ナイチンゲール家の人々は当時の上流階級らしく、季節によって屋敷の住み替えをしている。夏の家とされるダービシャーのリーハーストと、冬の家、ハンプシャーのエンブリーを行き来し、時にはロンドンへ赴き、当時メイフェアにあった高級ホテル、バーリントン・ホテルで過ごしたり、英国王室の避暑地としてヴィクトリア女王も訪れていた英国南部の島、ワイト島の別荘で過ごしたりしていたという。
そのような中、恵まれた生活が許された階級の人々であったからこそ、とも言えることだが、ヴィクトリア朝時代の貴婦人には、貧しい人を訪ね、食物や薬を与える習慣があった。
幼いナイチンゲールも母に連れられて、リーハーストの屋敷近くの村へ出かけていく。そこでナイチンゲールは、ある時一人の女性の死に遭遇し、「病院」の存在を初めて知ることとなった。というのは、当時の上流階級の家庭では、医師による往診が当たり前で、たとえ病気になろうとも、みずから医師のいるもとへ足を運ぶことなどありえなかったのである。
しかし「病院」とはいえ当時は汚く不潔で、排泄物などの悪臭が漂うのが普通であった。
若いナイチンゲールは、自分が住む経済的に満ち足りた世界と、掃き溜めのようなその状況の格差に疑問を抱いていく。裕福な家に生まれながらも、貧民層の人々の生活に強く感じ入ったという事実から、彼女は人一倍広い視野と感受性を持つ女性であったことは容易に想像がつく。こうして、かけ離れた二つの現実を掛け持ちすることになった、10代のナイチンゲールの苦悩の日々が始まる。

ナイチンゲールの育った屋敷

① ハンプシャーのエンブリー・パーク(冬の家)

② ダービシャーのリーハースト(夏の家)

リーハーストの家は父、ウィリアムによる設計で一家のおもな住まいであったが、ナイチンゲール家にとっては屋敷というには小さすぎ、加えて「寒すぎる」との妻フランシスの不満から、ナイチンゲールが5歳の時にエンブリー・パークの屋敷=写真=を購入する。 エンブリー・パークは1946年から現在まで学校として利用されており、リーハーストは1874年のウィリアムの死後、親戚の手に渡り、戦後には老人向けケアハウスとなるが、現在は売りに出されており、所有者不在となっている。

異性は二の次

きっかけは、ナイチンゲールが20歳になった時に訪れた。
彼女は、興味をもっとも抱いた学問である数学を極め、「世間に出て活躍したい」と家族に相談する。19世紀の封建的なヴィクトリア朝時代の英国では、たとえ上流階級出身であっても女性の社会的地位はまだ低く、学問を身につけ一般社会で活躍したい、などという娘の告白は、両親にとって天地を揺るがすほどの衝撃的な「事件」であったに違いない。
ナイチンゲールの一番の理解者であった父、ウィリアムですら当惑するばかりだった。しかし、ついには、ナイチンゲールの長期に渡る執拗な懇願に根負けし、両親は個人講師をつけて数学を学ぶことを許可する。とはいえ、ナイチンゲールを完全には理解することのできない家族との間にはしこりが残り、このことから彼女は家族との間に葛藤を抱えていく。

旧10ポンド紙幣に用いられていた、
ナイチンゲールの肖像画。
c Florence Nightingale Museum
ちょうどこの頃、英国は飢饉と不況に襲われており、ナイチンゲールは幼い頃、母に連れられて行ったように、屋敷近くの村を訪問し、病人を見舞っていた。この経験を通じ病人看護に取り組みたいという思いを確固たるものとしたナイチンゲールは、ついに家族にその熱意を告白する。
だがそれは、家族にとって耐え難い衝撃的な出来事に他ならなかった。というのも、当時、看護婦という職業は、下層階級の無教養な人々が就く仕事だと考えられており、娼婦、アルコール中毒者などがたずさわっているのが実情であった。そのため、上流階級の淑女が就くような仕事では決してなかったのだ。世間体を重視する上流階級の一家にあっては、娘が看護婦になるという事実は、隠し通したい恥ずかしいことであっただろう。結局この時は諦めるしかなかったという。
家族の強い反対にあうことは分かりきっていたにもかかわらず、ナイチンゲールはなぜ、かたくなに自分の意思を貫こうとしたのか――。そこには、ナイチンゲールが人生で計4回聞いたという神の声があったとされている。
ナイチンゲール自身の日記によると、彼女は寝室で、茨の冠をかぶったキリストが光輝く姿で現れ、「我に仕えよ!(To My Service)」という神の啓示を受けたという。17歳で最初にこの声を聞いた時は「仕える(service)」が何を意味するのか理解できなかったが、前述のような貧困層のひどい暮らしぶりを見つめ続けた結果、24歳の時ようやくその答えを見つけだすことができたとされる。
良家のお嬢様という生い立ちはもとより、才色兼備で、さらには教養に裏付けられた機知に富んだ会話術を身につけていた20代のナイチンゲールは、社交界では当然人気者であった。近づいてくる男性も多く、何度かプロポーズも受けている。
その中でも国会議員にして慈善活動家の富豪、R・M・ミルズとの関係は特別であったようだ。貧しい人を看護したいという気持ちを理解した上でナイチンゲールを愛し、6年間に渡って求婚しつづけた。しかし29歳の時、「結婚して夫に忠誠を尽くすことになれば、神の意思をまっとうする機会を奪われてしまう」との理由から、彼女は生涯独身を貫く決心を固め、最終的には彼の熱烈な求婚に対し、「ノー」の答えを出す。これは、R・M・ミルズを、娘を『更生』させる最後の頼みの綱と信じていた母フランシスを失望の淵へ突き落とすことでもあった。

立ちはだかる男たちの「壁」

「私は30歳、キリストが責務を果たしはじめた年齢。今はもう子供っぽいこと、無駄なことはしない、愛も結婚もいらない。神よ、ただ自分の意思に付き従わせてください」(1850年、日記)
31歳の時、諦めともとれる家族の同意を得て、ドイツの病院付学園施設カイゼルスベルト学園に滞在し、3ヵ月間看護婦としての専門的訓練を積む。英国に戻った後も独学で病院管理や衛生学を学び、33歳でロンドンのハーレイ・ストリートにある慈善病院に就職し、監督者となった。
一方で自分の行動が家族や親戚を不幸にしているという良心の呵責を感じずにはいられなかったが、それでも自分の意思を貫き通して生きたいと強く思うナイチンゲールは、人知れず思い悩み、打ち明けられない気持ちを吐き出すかのようにメモを連ねていく。34歳でナイチンゲールが書き上げた自伝的小説『カサンドラ』(未出版)の中では、神からの啓示を実行するために結婚を断ったこと、看護の道へ進むことに反対する母との確執から神経衰弱に陥ったこと、そして自殺願望があったことまでが赤裸々に綴られている。
『カサンドラ』の執筆から間もない1854年3月、クリミア戦争勃発。
前述のとおり、国防相シドニー・ハーバートからの従軍依頼を受け、開戦から8ヵ月後の10月末、ナイチンゲールは職業看護師14名とシスター24名を引き連れ、戦地に赴いた。
荒れ狂う海原を越え、ようやくたどり着いたスクタリの地で、冷たい風が吹きすさぶ中、ナイチンゲールが目にしたものは、汚物まみれの病室と、満足な手当ても施されないまま、ゴキブリ、シラミ、ネズミなどがうごめき走り回るむき出しの固い床に寝かされた傷病兵たちの姿であった。彼らの多くは痩せこけ、痛みに半狂乱となるか、その場で弱々しく頭をうなだれていた。その環境の劣悪さから、多くの者がチフスやコレラを罹っていた。その上、必需品である薬や食料が不足し、死者の数だけが増え続けていた。驚くべきことに、病院での死亡率は戦地でのそれに対して7倍の高さであったとも伝えられている。
このような状況下で、ナイチンゲールは「救いの女神、来たり」という具合に現地で迎えられたわけではなかった。伝統的に英国陸軍には、「戦場は男の世界」という概念があり、陸軍の軍医局の幹部たちは、ナイチンゲールら看護婦たちを、ろくに役に立たない邪魔者として蔑み、冷遇した。
ナイチンゲールの最大の敵は、不足する物資でも不潔な環境でもなく、陸軍の「男性社会の壁」であったのだ。このためナイチンゲールら看護団は、当初、傷病兵の手当てをすることを許されず、破れたシャツを縫ったり病床を整えたりといった、ごく簡単な作業を行いながら、もどかしい日々を過ごさざるを得なかった。

スクタリ病院の真実
~ 誤解が生んだ統計学への傾倒 ~

ナイチンゲールがスクタリにたどり着いた翌年の1855年2月には負傷兵の死亡率は約42%にまで跳ね上がっていた。しかし、物資補給体制を整えたり、職員や病室を増やしたりといったナイチンゲールの寄与もあり、4月に14.5%、5月に5%となり、同年冬にはなんと2%にまで激減した。
戦時中、ナイチンゲールは兵士の死亡原因は、極度の栄養失調や、兵士が疲弊し手遅れになって病院に送られて来るためだと信じていた。このため、軍司令部の無能さや非情さ、物資補給を滞らせる政府や軍当局、病院管理者を激しく批判した。
戦後になって、このことを実証する目的で、統計学者のウィリアム・ファーとともに手がけた調査で、ナイチンゲールは、2万5,000人の兵士のうちの1万8,000人を死なせたおもな原因が、戦傷や兵士の過労によるものよりも、病院の過密と不衛生な状況によるものであったという、当初の推測とは異なる結論を得て、みずからも愕然とした。数字上では、死亡率は劇的な減少を遂げたものの、看護の監督者として、病院の衛生管理事項の注意を怠ったために、助かったかもしれない負傷兵を死に追いやった、という罪の意識にさいなまれたナイチンゲールはあまりの衝撃に虚脱状態に陥るほどだった。
このことからナイチンゲールは、「死亡率の要因」という真実をできるだけ多くの人々に知らせることで、再び同じ過ちが繰返されるのを防ごうと決意。ナイチンゲールが生涯に渡り、統計学と衛生統計へ情熱を注いだのはそのためだった。

クリミアに天使現る

「勇気と高い志を持った女性たちに対する冷遇はやがて、懇親的な働きから感謝の気持ちへと、自己犠牲をいとわない働きぶりは畏敬の念へと変化していった」(1855年、野戦病院の医師)
ナイチンゲールたちに転機が訪れたのは、その2週間後の1854年11月5日。ロシア軍が本格攻撃を仕かけてきたのだ。その数ざっと5万人。対する英国軍はわずかに8000人…。
たった6時間のこの『インカーマンの激戦』で、英国軍はあっという間に2500もの負傷兵を出した。スクタリ病院は次々と担ぎ込まれる負傷兵たちであふれ返り、土埃と負傷兵のうめき、汗、そして血で覆われた地獄へと一変した。
すでに憔悴しきっていた軍医たちが、何千という負傷兵に処置を施すのは無理であった。そしてこの緊急事態が軍医局のプライドをつき崩し、ついに、ナイチンゲールたちが実務に従事する許可がおりる。ナイチンゲール一行は迅速な対応と見事な働きぶりを見せつけ、その実力を証明した。
ナイチンゲールは、ある時は患者に包帯を巻くために8時間もひざまずき通し、兵士が負傷した足をノコギリで切断されている際には、その絶叫と切断音の只中に身を置いて、患者のそばを離れなかったという。夜はランプを手に持ち、何百、何千という患者を見回ったというエピソードはあまりに有名だ。

クリミア戦争時の
1856年3月9日に
ナイチンゲールが書いた手紙。
c Florence Nightingale Museum
ナイチンゲールの献身的な働きは、これだけにとどまらなかった。
彼女はこの悲惨な状況を国に報告し、患者の傷の手当てをする人材の不足、包帯や薬などもろくに補給されていない現状を訴えた。当時国防相を務めていたシドニー・ハーバートは、ナイチンゲールとは慈善事業を通じて旧知の仲であったことから、彼女の戦地レポートを深刻に受け止め、支持した。
ハーバートの後ろ盾もあり、ナイチンゲールはすさんだ野戦病院の抜本的改善を推し進めていった。
重傷兵のための特別食を用意したり、今でいうナースコールを取り入れて昼夜を問わず患者の元に駆けつけることができるようにしたりした。現在においては当たり前のシステムだが、当時としては画期的なアイディアであった。
すでに負傷兵たちの間では「天使」となっていたナイチンゲールであったが、彼女の取り組みはまだまだ続く。軍病院改善のため、ついには個人財産を投げ打ち、リネン類や包帯、防寒具などの日用品の買い付けから、200人の職員増員、病院施設の拡張・改築まで、まさに徹底的な改革に乗り出した。ナイチンゲールがつぎ込んだ財産はざっと約7000ポンド。これは現在の35万ポンドにも相当する。
いわゆる「看護」の領域を超えた渾身の活動により、死者の数はみるみるうちに激減(11項コラム参照)。ナイチンゲールの、革命とも呼べるこの大規模な改革は、英国の新聞で大々的に報じられ、ナイチンゲールは一躍時の人となっていく。さらに、ナイチンゲールを支持する多くの英国一般市民から寄付が集まり、その総額は5万ポンドにも膨れ上がったという。

天使から一転、改革の鬼へ

入院患者の生活環境としての病院の構造について
種々の提案をし、設計図を残している。その設計は、
現代においても病院設計の専門家が参考にするほどの
優れた見識を示しているという。
1856年3月30日、パリで平和条約が締結され、翌月29日、クリミア戦争終結。
7月、最後の患者の退院を見届けたナイチンゲールは、ロンドンへの帰路についた。英国国内ではすでに国民的英雄として祭り上げられていたが、過剰に注目されるのを嫌い、「スミス」という偽名を使って人知れず帰国している。休む間を惜しんで、ナイチンゲールは幼少時に家族が別宅として利用していたバーリントン・ホテルの一室を自室兼事務所とし、クリミア戦争の英国兵の死亡原因の統計をまとめる作業に没頭する。この分析で、負傷兵の死亡の最大要因は、病院の「衛生環境の劣悪さ」であることを突き止める。
第二の人生ともいうべきナイチンゲールの改革人生がスタートした瞬間だった。
まずは、統計資料などを用いて、英国陸軍の衛生状態や病院管理に関する、800ページに及ぶ調査書(*2)を書き上げた。そしてスクタリで目の当たりにした病院の悲惨な状況を参考に、陸軍病院全組織の改革を提唱し、病院のみならず兵舎の設備の改善にも取り組む。
下水道、調理設備の完備、換気や暖房、照明器具の設置なども徹底した。陸軍管理官たちの管理規定も改め、個人の健康管理を考えるという、現代では当然だが、当時としては画期的な発想で規定を作った。

ベストセラー作家ナイチンゲール

晩年は、闘病生活のかたわら、
ベッドの上で執筆活動はつづけていたが、
1901年81歳の時には失明し、
その10年後この世を去った。
c Florence Nightingale Museum
看護と衛生の大切さを広く一般に伝承することにも力を注ぎ、1860年に出版した『看護覚え書(Notes on Nursing)』は、看護婦の教本としてのみならず、各家庭の衛生管理を担う主婦たちのバイブルとされ、ベストセラーとなった。
同じ年、クリミア戦争中に創設された「ナイチンゲール基金」に集まった5万ポンドで、ロンドンの聖トマス病院内にナイチンゲール看護学校が設立され、ナイチンゲールは指導者として後継者の育成に努めるようになる。
生徒数は当初10人に過ぎなかったが、これを境に英国各地に同様の看護婦養成学校が作られるようになり、現在に近い看護婦養成体制が整えられる礎となった。そして、それまで雑用係同様に扱われていた看護婦という職業が、高い教養を要する専門職として世間に認知されていくようになる。
しかし、40代を迎えたナイチンゲールは、陸軍という男性社会の中で発言を続けてきた極度のストレスに加え、ナイチンゲールを支え続けたシドニー・ハーバートの過労死、クリミア戦争の時にともに活動した親族内での唯一の理解者であった叔母、メイとの突然の別れなどにより、食事を受け付けなくなるほど心身ともに消耗してしまう。
そして、度重なる試練と不幸の末、ついに大きな発作を起こし、死の淵をさまよう。その後の10年間は病床に伏した。
ところが、このような状況の中ですら、仕事への情熱は消えることがなかった。ナイチンゲールはクリミア戦争時に出会い、さらにナイチンゲールの主治医となったジョン・サザランド医師との筆談によって、仕事を進めていく。
50代になり、ようやく体調も安定してきたナイチンゲールは、ナイチンゲール看護学校の卒業生を自宅に招き、リーダーになれそうな女性を選び出して積極的に支援したりもした。
52歳の時、自力で生活することが困難になった両親を訪問し、介護することを決意。理解しあえなかった過去の、失われた時を取り戻すべく家族との絆を深めていくナイチンゲールであったが、1874年には父のウィリアムを、80年には母フランシスを亡くし、ナイチンゲールは徐々に心の支えを失っていった。そして90年には、関節炎で病に臥していた姉のパーセノープも病死。これが決定打となりナイチンゲールの活動意欲は徐々に削ぎ落とされていく。

長く濃い人生の最期

ハンプシャー州、ロムジーの近くにある
イーストウィロー教会内の墓。
墓石にはナイチンゲールの遺志により、
イニシャルで「F. N. Born 1820. Died 1910.」
(F.N. 1820年生 1910年没)とだけ記された。
姉の死後も70歳半ばまで仕事を続けたナイチンゲールではあったが、76歳の時には二度とベッドを離れられなくなるまで衰弱し、81歳では失明。しばしば昏睡状態に陥ることもあったという。それまでは拒絶していた家政婦や秘書も雇い入れた。
生涯独身を貫き通し、家族を亡くして孤独の身となったナイチンゲールであったが、晩年のナイチンゲール宅は、甥や姪、看護学校の生徒や卒業生が出入りし、賑やかで幸福に包まれていたという。
何千何万という傷ついた英兵たちを支え、戦後も改革にまい進したナイチンゲールを世間も忘れるはずはなかった。1907年には、87歳にしてエドワード7世より女性初のメリット勲章(*3)が授与された。
1910年8月13日、ハイドパークに隣接する自宅でナイチンゲールは静かに息を引き取った。享年90。彼女の死を伝えるニュースは英国内のみならず世界中を駆け、当時の新聞は「ナイチンゲールの死はヴィクトリア女王の死と並ぶほど甚大な損失であり、国葬に値する」と書きたてた。
しかし、彼女は華美で盛大な葬儀を望む多くの人々の声を拒んだ。彼女の遺志どおり、葬儀はごく小規模に執り行われ、ナイチンゲールの棺は両親の眠る墓のそばに、たった6人の陸軍曹の手によりしめやかに埋葬された。その様子を、みすぼらしい身なりの庶民たちが、遠巻きに見守っていたという。

Florence Nightingale Museum
(St Thomas' Hospital内)

St Thomas' Hospital
2 Lambeth Palace Road, London SE1 7EW
Tel: 020-7188-4400
www.florence-nightingale.co.uk
【入場料】 大人£7.50 子供£3.80
【最寄駅】 Waterloo, Westminster


[写真左]テムズ河を挟んで国会議事堂の正面に立つ聖トマス病院の一部。病院の正面入り口に向かって左奥の一角。なお、博物館内には、ナイチンゲールの著書をはじめ、バッジやノートなど、オリジナルロゴ入りのグッズを購入できるショップもあり。


【ジャーニー編集部がロンドンの街をぶらりとレポート】 ナイチンゲール博物館に行ってみた
【ジャーニー編集部がロンドンの街をぶらりとレポート】 ヴィクトリア朝時代の薬局を改装! ナイチンゲールゆかりのカフェ

用語解説
*1 ジェントリー:下級地主層の総称。男爵の下に位置し、貴族には含まれないが、貴族との間に称号以外の特権的差異はない。両者ともに「地主貴族層」に位置づけられる。
*2 英題:Notes on matters affecting the health, efficiency, and hospital administration of the British Army, founded chiefly on the experience of the late war. [1858]
*3 メリット勲章:英国国王、もしくは女王から、軍事、科学、芸術、文学、文化の振興に功績のあった人物に贈られる。現存する勲章の中で最も名誉なものであると言われている。ナイチンゲールは女性として史上初の受賞者となった。

全英オープンを中止に追い込んだ男 トム・モリス・ジュニア

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全英オープンを中止に追い込んだ男

トム・モリス・ジュニア

1860年秋、第1回となるゴルフの全英オープンが、スコットランドのプレストウィックにて開催された。開始以来、毎年行われているはずの全英オープンではあるが、やむを得ない理由で過去12回、中止となった。それは2度の世界大戦によるものだ。しかしそれが原因で大会が中止されたのは全部で11回である。実は全英オープンには、戦争とは全く異なる理由によって中止された、もう1つの空白が存在する。黎明期の全英オープンを中止に追い込んだ若者の、太く短い生涯を追う。

●Great Britons●取材/本誌編集部 ※本特集は2011年6月30日号の週刊ジャーニーに掲載したものを再編集してお届けしています。

全英オープン史を語る上で避けて通ることができない人物に、トミー・モリスという若者がいる。彼は1851年、スコットランドのセント・アンドリュースに生まれた。父親のトム・モリスは「近代ゴルフの父」と称され、セント・アンドリュースのプロ兼グリーンキーパーを務めた人で、近代ゴルフの体系化に大いに寄与した人である。また、自身も全英オープンを4度制するほどの腕前であり、晩年はミュアフィールドやロイヤル・ドーノック等、数々の名門コースを設計した人としても知られる。

トミーにはわずか4歳で早逝した兄がいた。その兄もまたトム・モリスといい、両親は彼をウィー・トム(小さなトム)と呼んで溺愛した。その時、弟となるトミーはまだ母親のお腹の中にいたが、ウィー・トムは弟とすれ違うようにしてこの世を去ってしまう。長男を失った悲しみと新しい命を授かった喜びのはざまで、両親は新しい命に再びトムという名を与えた。両親や周りの人々は、新しく生まれたトムを、父親や兄と区別するためトミーと呼んだ(父親と明確に区別するためトミーを、トム・モリス・ジュニア、またはヤングトムと表現する資料も多いが、本文内では父トム・モリスが呼んでいたように「トミー」で統一する)。

トムは生粋のセント・アンドリュースの人で14歳の時に、プロゴルファー第1号と言われるボール作りの巨匠、アラン・ロバートソンの元に奉公に入った。

ロバートソン家が代々、独占的に作り続けていたのはフェザーボールという代物で、これは丸く削ったつげの木製のボールに取って代わって17世紀初頭に登場したと言われている。フェザーボールとは、ひょうたん型に切った牛皮に帽子にいっぱい入るほどの羽毛を濡らしてギュウギュウに詰め、牛皮を縫い合わせて乾燥させたものだ。ボールの大きさは現在のものとあまり変わらず、上級者が渾身の力でひっぱたけば200ヤードも飛んだと言われる。

ただ、原材料が高価な上、製造するのに大変な手間がかかり、熟練の職人でも1日3個程度しか作れず、名人でも4個がやっとだったという。そのため、ボールは自ずと高価となり、フェザーボール1個が当時の手作りクラブ1本の代金に相当したというから、庶民にはなかなか手の届かない高級品であった。

ロバートソンは、当代きってのボール職人であったのみならず、ゴルファーとしても腕前は超一級で、今も多数残るマッチプレーの試合記録を見ても遂に1度たりとも敗北したという結果が見当たらない。そのため「不敗の名手」とも呼ばれている。ロバートソンはキャディとしても働くかたわら、クラブの会員に依頼されては謝礼を受け取って彼らにゴルフの指南をし始めた最初の人物と言われ、また、懸賞金のかかったマッチプレーにも多数参加していた。そのため、ゴルフ史研究家たちは、彼をもってプロゴルファー第1号としている。

「プロゴルファー第1号」と、その弟子であり、後に「近代ゴルフの父」と呼ばれることになるこの2人に、ある日修復不可能な深い傷が刻まれることとなる。

悪い知らせはいつも南から 

1850年ごろにセント・アンドリュースで撮影された写真に納まる、トム・モリス(左から2人目)とアラン・ロバートソン(右から3人目)。

英国の東インド会社が進出を果たしていたマレー半島から、ガッタパーチャという天然ゴムの一種が本国イングランドを経由してスコットランドにも運ばれてきた。この頃に敷設が始まった海底ケーブルの絶縁体として使われた素材で、さらに虫歯の詰め物としても随分と重宝がられたという。

この樹液を丸めて固めると案外、フェザーボールの代用となることが分かった。それどころかフェザーボールと較べて製造がはるかに簡単で、しかも安価に作ることができ、また例え変形しても型に入れて圧縮、冷却するだけで何度でも再利用できるため、ガッタパーチャボール(通称ガッティ)は、あっという間に人々の間に浸透していった。

230年もの間、フェザーボールの製造と販売を一手に引き受けてきたロバートソン家にとって、ガッティの登場はまさに先祖代々続いてきた家業をおびやかす脅威以外の何者でもない。ロバートソンは「悪い知らせはいつだって南(つまりイングランド)から来る」と憤慨し、弟子に申し付けて手当たり次第にガッティを買い漁らせ、これらを焼却する日々に追われた。

しかし、日頃から高価に過ぎるフェザーボールに疑問を抱いていた弟子のトムは、師匠の意向に反してガッティに将来性を見出し、師匠には内緒でガッティの性能を試していた。それはフェザーボールより若干飛距離が落ちるものの、とにかく原価が安い上に羽毛や牛皮と違って供給も安定的で、価格もフェザーボールの4分の1に抑えることが可能となる代物だった(ボールに打ち損じの際に傷がつくことで、ボールがさらに飛ぶようになることも分かり、飛距離の問題も解決されることになる。今で言うディンプルという意図的につけた凹みの起源だ。ただし、この当時はまだその原理が分かっていない)。

トムは意を決して師匠に、この際フェザーボールを捨ててガッティ製造業へと軌道修正すべきではないかと進言する。しかしこれにロバートソンは激怒し、2人の間は修復不能なまでに決裂した。結局、ロバートソンの元を飛び出したトムは、妻ナンシーとまだ乳飲み子であったトミーの2人を連れ、スコットランド西海岸にあるプレストウィック・ゴルフクラブへと向かった。そこでプロゴルファー兼グリーンキーパーの職を得、1864年に再びセント・アンドリュースの町に戻るまでの約13年間、モリス一家はプレストウィックで過ごすこととなる。

全英オープンのつまずき

1859年、アラン・ロバートソンが亡くなった。フェザーボール作りの職人は、羽毛の細かな粉塵を毎日のように吸い込むため、早死にする者が多かった。享年44。

「不敗の名手」が世を去った。ロバートソン亡きあと、この世の中で最強のゴルファーは一体誰か。

それまでアマチュアの間だけで行われていた競技会だったが、遂にそれがプロの世界でも始まろうとしていた。全英オープン(正確には「ジ・オープン」)。それは、世界最強プロの座を争うプロのための競技会であった。

1860年、プレストウィック・ゴルフクラブの提唱により遂に第1回目となる全英オープンが開催された。会場はもちろんプレストウィックである。

しかし、蓋を開けてみれば、参加者はわずかに6名。まだ鉄道が網の目のように走っていない時代、人々の主な移動手段は徒歩か、せいぜい馬車である。これでは例え行き先がわずか数十キロ先であったとしても、そこそこの小旅行となってしまう。まだまだ遠距離を気軽に往来できる時代ではなかった。1860年とは、日本では大老、井伊直弼が桜田門外で暗殺された年にあたる。鉄道発祥の地とはいえ、さすがに英国でもこの時はまだ、交通事情が今ほどに整っていたわけではなかった。

さらに主催者を落胆させることがあった。参加者たちのスコアが、アマチュアのチャンピオンとさほど大差のないものだったのである。こんなことであればいっそのこと、プロもアマも関係なく、腕に覚えがある者になら誰でも参加を許し、世界一のゴルファーの座を競わせるものとしよう、という意見でまとまった。そして宣言は成された。

「今後永久に、チャレンジベルトを全世界に対して公開(オープン)する」。

第1回目となった1860年の大会は、声をかけたゴルフクラブのプロたちだけによるものであった。そして1861年の2回目以降は、今の全英オープンの理念に通じる「全世界のゴルファーに公開した」大会となって再出発を果たした。

1864年、パースで開催されたトーナメントに参加した、13歳のトミー(最後列左端)と父のトム(トミーが肩に手を乗せている人物)。

始まってから数年の間、目論んだほどには参加者は増えず、まだまだ足元も頼りない全英オープンであったが、1868年、第9回目となった全英オープンで異変が起こる。この年の全英オープンを制したのは17歳に成長していたトム・モリスの子、トミーだった。まだ表情にあどけなさすら残る少年であったが、当時のスコットランドを代表するプロたちを抑えての堂々の優勝であった。この時に打ち立てられた最年少記録は今もって塗り替えられていない。

トミーの活躍ぶりに周囲の大人たちは大いに驚かされたが、驚くのはむしろ早過ぎた。トミーは翌年、さらにはその翌年の大会も制し、大会史上まだ誰も成し遂げたことのなかった3連覇を、いともあっさりと達成してしまったのである。

初優勝の折には、その表情に幼ささえ湛えていた少年も、この時すでに19歳。体つきもがっしりとした立派な大人の男性へと成長し、もはや誰もが認めざるを得ないスーパーチャンピオンとなっていた。

1870年、3年連続で全英オープンを制し、チャレンジベルトを永遠に我がものとした時のトミー・モリス

トミーが3年連続で手にした優勝の証とは「チャレンジベルト」と呼ばれる、いわゆるチャンピオンベルトであった。これは、プロを集めてナンバーワンを競うという全英オープンの開催を提唱したプレストウィック・ゴルフクラブが出資して作らせたもので、上等なモロッコ皮に豪華な銀飾りを施した、高価で立派なベルトだった。

それまで、アマチュアの競技会においてはクラレットジャグ(ボルドーの赤ワインを入れるジョッキ)型の銀製トロフィーが贈られる慣わしとなっていた。歴史上初めてとなるプロの大会が、アマチュアと同じクラレットジャグを競い合うということに若干の抵抗があったのかもしれない。いずれにしても全英オープンの勝者にはベルトを贈ることが決定された。

当時12ホールしかなかったプレストウィック・ゴルフクラブを1日で3ラウンド、つまり36ホールをプレーして最も少ない打数(ストローク)を競う、という極めて単純な決め事だけで始まった全英オープンであったが、実はそれとは別に、もう1つだけルールが存在した。それは「この大会を3年連続で制した者に限り、このチャレンジベルトを永久に自己の所有としてよし」とするものであった。

かくしてトミーは、大会の規定どおり、この世界にひとつしかない立派なチャレンジベルトを永久に彼の所有物とした。

問題はその後である。

主催者側は新しいベルトの用意をしていなかった。予算がなかったのである。人々は金策に走り回った。しかし翌年の大会までにベルトは間に合わず、1871年の全英オープンはやむなく中止に追い込まれてしまった。

主催者たちが出した結論とは、全英オープンの単独主催をあきらめ、セント・アンドリュースとマッセルバラの両クラブを巻き込んで予算を確保することであった。その見返りとして今後の全英オープンはこの3つのコースで順繰りに開催することを提案した。さらにチャレンジベルトは廃止とし、代わりに銀製のクラレットジャグを優勝杯と定めた。クラレットジャグは毎年、チャンピオンの氏名を刻み込んだ上で主催者が保管し、優勝者には賞金とともにメダルを授与することも決定した。

1872年。装いも新たに全英オープンが再開された。1年の歴史的空白を経てこれを制したのはまたしてもトミーであった。唯一無二のチャンピオンベルトを永遠のものとしたのもトミーなら、毎年7月の第3日曜日の夕刻、その年のチャンピオンに与えられる、あのクラレットジャグを最初に手にしたのもトミーであった。参加者の少ない黎明期とはいえ、空前絶後の4年連続制覇をやってのけたトミー。真新しいクラレットジャグを高々と持ち上げるトミーの雄姿を、誰もがため息交じりに見つめていた。一体これからどれだけこのクラレットジャグにトミーの名が刻み込まれていくことになるのであろうか…。トミーはまだ21歳の若者なのである。

 

トム・モリス・シニア

(1821年~1908年)通称:オールド・トム

全英オープンを4度制したゴルフの名手であり、グリーンキーパー、クラブメーカー、ボールメーカー、インストラクター、コースデザイナーでもあった。最後に全英オープンを制した時は46歳であり、これは今も最年長記録として破られていない。2009年、ターンベリーで開催された全英オープン。当時59歳のトム・ワトソンが初日から快進撃を続け、遂にトム・モリスの最年長記録が塗り替えられるかと大きな話題となったが、プレーオフでスチュアート・シンクに敗れ、記録更新はならなかった。
晩年はミュアフィールドやロイヤル・ドーノック、ウエストワード・ホーなど数々の名門コースのデザインを手がけ、ゴルフの世界に巨大な足跡を残した。1908年没。享年86。

メグとの出会い 

新しい朝を迎えたセント・アンドリュースのオールドコース。このゴルフコースがいつここにできたのか、誰も知らない。

翌年の1873年、全英オープンは遂にプレストウィックを離れ、初めてセント・アンドリュース(オールドコース)で行われた。さすがのトミーも5連覇の夢は叶わず、さらにその翌年の1874年の大会でも、5度目の優勝はお預けとなった。

しかしこの年、トミーは優勝杯よりも嬉しい財産を得た。伴侶である。お相手はマーガレット・ドリネンという9つ年上の女性であった。メグ(マーガレットの愛称)はウィットバーンというウエスト・ロージアン地方の小さな町の出身であった。ウィットバーン。19世紀に良質の石炭と鉄鉱石の鉱脈が発見され、大英帝国の成長を地下資源で支えた町として知られる。従って当時の人たちはこの地名を聞いただけでその娘が、恐ろしく不衛生で貧しい鉱山労働者の家の出であると容易に理解できた。

事実、メグは2ベッドのフラットに家族10人がひしめきあって暮らす貧しい家の出身であった。長身で人目を引く美人だったという。その上聡明で性格も明るく、レース編みを得意としていた。彼女は25歳の時、エジンバラでも名の通った弁護士宅での住み込み女中の仕事を見つけ、黒く煙る故郷を後にした。当時の女中という仕事は炊事、洗濯、掃除に始まり、暖炉に薪をくべ、風呂に水を運び、家中の真鍮を磨き、と夜明けと共に休むことなく働き倒し、自分の部屋に戻って息をつけるのは夜の10時半ごろで、週7日の休みなき過酷な労働だった。それでも鉱山の仕事に比べれば、ここでの生活は清潔で明るい上に食事も充実し、彼女にとってはまさにパラダイスであった。

ある日、雇い主である弁護士が、メグにセント・アンドリュースに行けないかと打診した。かの地に暮らす弁護士の母親が、働き者で信頼のできるメイドを探していたためで、弁護士は迷うことなくメグを母親に推薦したのである。敬愛する主人の願いを断るわけにもいかず、1872年、メグは小さな鞄一つを抱え、セント・アンドリュースへと向かった。

そしてトミーとメグはセント・アンドリュースの町で出会い、いつしか惹かれあうようになった。

父親のトムは当初、メグを快く思っていなかった。トムはプレストウィック時代、何とか家計をやりくりしトミーを貴族や裕福な者らの子息が通う私立のアカデミーに通わせた。ここでトミーには教養だけでなく、上流階級の世界との接点を身につけさせたつもりであった。ところがトミーが見つけてきた相手は、ウィットバーンの出身だといい、さらにトミーより9つも年が上だという。

そのトムを諌め、メグを優しく迎え入れようとしたのは母親のナンシーであった。ナンシーもまたトムとの結婚前は女中をしていた人であり、トムより5つ年上の姉さん女房だった。ナンシーにしてみれば、メグを否定することは、過去の自分を否定することにもなったのであろう。

ただ、メグにはもうひとつ、あまり知られたくない過去があった。ウィットバーン時代に、当時の鉱山の主任を務めていた男との間に女の子をもうけていた。2人の間はロマンチックな関係ではなく、むしろメグの意志に反した出来事であったらしい。出産から1ヵ月の後、女児は病気でこの世を去った。彼女が故郷を捨て、エジンバラに移った本当の理由はその辺りにあるようだ。

メグの告白を聞いたトミーは、あまり気にする風でもなく、過去を全てひっくるめてメグを受け入れた。

かくして2人は神の前で結ばれ、メグはマーガレット・モリスとなった。  たちまちセント・アンドリュースの小さな町は、貧民窟からやってきた女中上がりの姉さん女房に関するゴシップで溢れることとなる。

しかし、トミーの毅然とした態度とメグの聡明でいながら控えめで明るい性格はやがて人々の心を溶かし、彼女自身も次第に町に受け入れられていった。

そしてその翌年、メグはトミーの子を宿した。

妻を娶り、そしてやがて父親になる。トミーの闘争心に再び火がついた。2年間遠ざかっていた全英オープン王者の座を奪還すべく、より一層練習に精を出す日々が始まった。

一通の電報

トミーとトム、珍しく2人で写った1枚

1875年9月4日。

フォース湾を挟んでセント・アンドリュースの対岸にある、ノースベリック・ゴルフクラブにて、トムとトミーのモリス親子対、彼らの宿命のライバルとも言える、ウィリー・パークとその甥っ子のマンゴ・パークの2人による、フォーサム(各チームがそれぞれ1つのボールを交互にプレーして競う競技形態)競技が行われた。試合には25ポンドという当時としては高額な賞金がかけられ、当代人気の2家族・4人の取り組みということで、近隣の大観衆を集めての熱戦となった。

トミーはこの試合への参加に気乗りしていなかった。というのも、新妻であるメグのお腹が9ヵ月に満たぬというのに破裂せんばかりに大きくなっていたのである。陽気なメグにも背中を押されたトミーは、助産婦をそばにつけ、不承不承会場へと赴いた。

汽車を何度も乗り継いでほぼ1日がかりで辿り着いたノースベリック。ここでの因縁の対決は予想通りの大接戦となり、試合はいよいよ終盤へと差しかかっていた。

その時、観衆を掻き分けながら進んでくる1人の少年がいた。その手には1通の電報が握り締められていた。

観衆にもみくちゃにされながらも彼は尋ねた。

「トム・モリスさんはどちらです?」

周囲は答えた。

「2人いるぞ。ほら、あそこの親子だ。だがボウズ、ちょっと待ちな。今、いいところなんだ。邪魔するもんじゃないぞ」

少年は困惑した。彼が手にした電報の表には「緊急」と打たれているのである。少年は隙をついて観衆の前に飛び出し、父親のトムに電報をそっと渡した。

トムは、その電報をトミーに見せないようにそっと開いた。

「難産。至急、帰られたし」

トムは戸惑った。白熱した試合は残りわずかに2ホールであり、あと30分もすれば終わる。しかも次の汽車に乗るにしてもまだ数時間も先のことなのである。トムは電報をそっとポケットにしまった。

結局試合はモリス親子の勝利となった。

試合が決着し、大観衆の雄たけびのような大歓声がよくやく収まったころ、トムはトミーに囁いた。「帰ろう。メグがよくない」。

しかし汽車だとセント・アンドリュース到着は翌日の午後になってしまう。どうしたものかと思案しているところへ、ノースベリックの会員の一人が「海路、フォース湾を横切り、直接セント・アンドリュースに行くのが1番早かろう」と提案し、自らのヨットと使用人を提供した。

洋上、凍りついたような表情で1点を見つめ続けるトミーに、トムはかける言葉すら見出せない。2人の間には冷たい海風だけが流れていた。

ヨットが無事、セント・アンドリュースの湾に入ったのは日付が変わってまもなくのことであった。そこにトムの弟であり、トミーの伯父にあたるジョージがボートを漕いでやってきた。彼は悲痛な表情でトムに耳打ちをした。トムはそっと目を閉じ、ひとつ大きく息を吸い込んだ。そして何かを決心したかのように小さくうなずくと、青ざめるトミーに静かに告げた。

「トミー。メグは天に召された。赤ん坊もだ。残念だ」

その瞬間、トミーは大きく目を見開き、全身を細かく奮わせた。そして長い長い沈黙の後たったひと言「嘘だ…」と、うめくように呟き、その場に崩れ落ちた。

トミーの慟哭は激しく続いた。トムはその間黙って湾内をぐるぐると回遊させ続け、2時間後にトミーがある程度、落ち着いたのを見計らってボートを岸へと着けた。

家に辿り着き、そっと寝室のドアを開けた。そこには妹のリジーと末弟のジャック、そして医師や助産婦らに囲まれ、既に永遠の眠りについたメグの姿があった。そしてその横には、生きて両親に抱かれることすら叶わなかった小さな命が真っ白な布に巻かれて置かれていた。男の子だった。

子宮破裂による失血死だったという。4時間に亘って大量失血が続き、その中でメグも赤ん坊も力尽きた。

貧しい鉱山の町に生まれ、幼い頃から親の手伝いで坑道に入っては毎日、爪の中まで真っ黒になりながらも明るく生き、いつしか聡明で美しい女性へと成長したメグ。エジンバラやセント・アンドリュースでは夜明けから深夜まで休むことなく働き続けた。やがて心優しきトミーと出会い、結ばれ、愛する人の子を宿した。幼い頃から夢に見てきたあたたかな家庭は、まさに目の前にあった。その、ささやかな幸せを掴もうと手を伸ばした瞬間、突然何もかもが終わってしまった。まるでシャボン玉がパチンとはじけて消えるように。

結婚からわずか10ヵ月目のことであった。

彗星の運命 

セント・アンドリュースの町に、北海から冷たい秋風が吹き込み始める9月の中頃、メグと赤ん坊の葬儀が盛大に執り行われ、ゴルフの聖地は深い悲しみに覆われた。通常の葬儀代が3ポンド程度だった時代にあって、メグたちの葬儀には50ポンドが費やされたという。

2人の棺は、セント・アンドリュース大聖堂跡の横にある、小さな墓地の一角に埋葬された。

プレストウィックで行われたその年の全英オープンに、当然ながらトミーの姿はなかった。

メグの死から1ヵ月。トミーの心はいまだ、出口があるとも思えない漆黒の闇の中をさまよっていた。周囲の人々はトミーが再びその瞳に精気を取り戻し、天空に向かって急上昇するツバメのような、強烈なショットの復活を願っていた。

10月の半ば、友人らは遂にトミーをゴルフ場に引っ張り出すことに成功した。しかしもう、そこにはかつての溌剌としたトミーの姿はなかった。彼の心は、教会墓地に眠る妻と息子のそばにあるかのようであった。

わずか17歳で全英オープンで優勝し、その後1年の空白を経てこの大会を4度連続で制覇したトミー・モリス。まさに彗星のごとく現れた天才児であった。しかし突然現れ、突然去っていくのが彗星の運命である。その意味で、トミーは本物の彗星であった。

1875年のクリスマス・イヴ。トミーは友人らに誘われ、クリスマス・イヴを祝い、夜11時ごろに帰宅した。病が悪化し寝たきりになっていた母ナンシーであったが、この時まだ起きていてトミーは母の寝室でひとことふたこと言葉を交わした。続いて父親にも挨拶をしてから自室へ入り、そのままそっと眠りについた。

この夜、セント・アンドリュースに月はなく、大きな闇がモリス家を包みこんでいた。

12月25日、クリスマスの朝。トムはいつものように早起きし、妻と2人の息子と共に軽い朝食を済ませた。

いつもなら早起きのトミーが起きてこないことを心配したトムが、トミーの寝室のドアをノックしながら「もう10時だ。そろそろ起きて朝食にしないか」と声をかけた。しかし返事はなかった。悪い予感と共にトムは寝室のドアをそっと開けた。

「ああ、何と言うことだ…」。トムはベッドの傍らで呆然と立ち尽くした。

トミーは既に冷たくなっていた。永遠の眠りであった。しかしその表情は、メグが召されてから誰にも見せることがなかった、穏やかで幸せそうな表情であったという。

墓地の壁に掲げられたトミーのモニュメント。ゴルフの聖地、セント・アンドリュースならではの風景だ。

午前11時、駆けつけた医師によりトミーの死亡が確認された。死因は肺の内出血だったという。24歳と8ヵ月。短くも太い人生であった。

死の数日前、凍てつく寒空の下、6日間にわたる過酷なマラソンゴルフを続けたことが直接の原因ではないかとされている。特にコースに雪が舞い降りた日は、誰もがやめるよう説得したにも関わらず、なぜかこの時のトミーは頑なにこれを拒み、プレーを続けたという。

トミーはその時に肺炎を患い、それがもとで死んだ。しかし町の人々は「トミーは愛するものを失った悲しみで心臓が張り裂けたのだ」と囁きあった。

哀れなトム。彼はわずか4ヵ月にも満たない間に、義理の娘と孫の葬儀を出し、今度は息子の葬儀のために奔走しなければならなかった。

トミーの葬儀は12月30日に執り行われた。トムは借金までして当時としては破格の100ポンドを費やし、壮大な葬儀を執り行った。息子を偉大なるチャンピオンとして送りたかったのである。この日、トミーを見送る人たちでセント・アンドリュースの家の半分以上が空になったとされる。

トミーは、メグと赤ん坊の真横に並んで埋葬された。

トミーの死から3年後、スコットランドとイングランドの名だたる60のゴルフクラブから寄せられた基金を元に、大理石製の立派な記念碑が作られ、トミーの墓のそばに掲げられた。そこには、バルモラル帽を被り、ツイードのジャケットを着たトミーが、今まさにボールを打たんとする颯爽とした姿が刻まれている。そしてさらにセント・アンドリュース大学のタロック教授による碑文がそこに添えられた。

「チャンピオンベルトを続けて得ること3度。これを保持するも1人とてうらやむ者なし。その善良なる性質はゴルフでの偉業に勝るとも劣らず。多数の友人と全てのゴルファー、ここに深い哀悼の意を表す」。

いつ訪れても、この記念碑の前には誰が添えたか、真新しい花が飾られている。記念碑は丁寧に磨きがかけられているらしく、今もトミーが残した大記録と共に、変わらぬ輝きを放ち続けている。

トミーのゴルフ

トミーのゴルフの腕前がどの程度であったか、映像が存在しない以上、数字や証言に頼る以外ないが、1869年、彼がまだ18歳の時、セント・アンドリュースのオールドコースにて77という前人未到の最小スコアを達成している。当時のオールドコースは既に全長6500ヤードほどもあり、コースの整備状況は今と比較にならないほど粗悪だった時代である。さらにガッティボールと木製クラブで叩き出した77は、まさに驚異的な数字であった。
少年期のトミーは学業優秀であったが、次第にゴルフにのめりこむようになっていった。10歳のころのトミーはA地点からB地点に行くためには一本のまっすぐな道筋しかないと思い込んでいるかのようだった。父親のトムはトミーにA地点からB地点に駒を進めるには、無数のルートがあり、さらに戦略的にあえてC地点を経由させるという様々な選択肢があることを教え込んだ。それ以降、トミーは各ホールごと常に1ダースほどの攻略ルートを頭に描きながらプレーするようになったという。
トミーは身長173センチと、決して大柄とは言えないが、幅の広い肩から生まれるショットは強烈で、フルスイングをするたびに被っていた帽子が飛んでいくほどであった。また素振りの際のワッグル(小さな素振りのようなもので、クラブヘッドを左右に小さく動かすこと)だけで木製のクラブを根元からへし折ってしまうほどに腕っぷしも強かった。アプローチショットではボールを右足の前に置き、オープンに構えてダウンブローに打ち込むやり方で当時としては極めて斬新なスタイルで、強烈なバックスピンがかけられたアプローチは正確無比を誇ったという。

■参考文献
『Tommy's Honor』Kevin Cook / 『The Life of Tom Morris』W.W. Tulloch / 『Tom Morris of St Andrews』David Malcolm and Peter E. Crabtree / 摂津茂和著『ゴルフ史話』(ベースボールマガジン社)

週刊ジャーニー No.999(2017年8月31日)掲載

恋愛エキスパート作家 ジェーン・オースティン [ Jane Austen ]

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恋愛エキスパート作家 ジェーン・オースティン
『高慢と偏見』や『分別と多感』など、その著作が恋愛バイブルとまで呼ばれることもあるジェーン・オースティン。
しかし、これらの作品には実は女性の意識変革への強い思いがこめられていたとも感じられる。
女性にとって裕福な男性との結婚が至上命令だった18世紀から19世紀にかけての英国に生きたこの女流作家の素顔に迫りたい。

●Great Britons●取材・執筆/山口 由香里・本誌編集部

漱石が絶賛した文才

「ジェーン・オースティンは写実の泰斗1※なり。平凡にして活躍せる文学を草して技神に入るの点において、優に鬚眉2※の大家を凌ぐ」
(『文学論』夏目漱石)
1※たいと:大家
2※しゅび:髭と眉が揃っているの意で男子のこと

ロンドンで留学生活を送った明治の文豪、夏目漱石。この漱石に最大級の賛辞を送られたジェーン・オースティン(Jane Austen 1775―1817)が活躍したのは、漱石がロンドンを訪れた時期からさかのぼること約百年の十九世紀前半だった。そのまた約百年後の今、本はもちろん、それを原作とした映画やドラマでも、世界中の人に最も親しまれている英作家の一人となっていることは周知のとおりだ。
オースティン原作のドラマや映画をご覧になっていない方でも、メガ・ヒットとなった『ブリジット・ジョーンズの日記』はご存知だろう。米女優のレニー・ゼルウィガーが、それぞれに魅力的な硬派のダーシーと軟派なダニエルの間で揺れる、主人公のブリジットをユーモラスに演じたものだが、この映画のダーシーはその名前の示す通り『高慢と偏見』のダーシーが元になったもの。
この役に扮しているのは、BBCドラマ『高慢と偏見』でもダーシー役を演じ、世の多くの女性たちのハートを射止め話題となった英俳優コリン・ファース(オースティンの生涯とその主要作品をDVDで楽しみたい!のDVD欄参照)だ。この『ブリジット…』には、他にも『高慢と偏見』の設定や台詞があちらこちらで使われている。
『高慢と偏見』のパロディのような『ブリジット…』は現代のラブコメだが、恋と結婚に悩み、誤解やすれ違いを繰り返しながらも、最後には「ミスター・ライト(Mr Right)」と結ばれる女性の話ということでは、他の主要作品と同様といえる。
ジェーン・オースティンの作品は、今も多くの女性を虜にしてやまず、恋愛小説の大家といって間違いないだろう。ただ、オースティンを評価しない人々がいるのも確かで、その理由は、彼女の作品を恋愛小説としかとらえていないからのようだ。しかし、本当に「ただの」恋愛小説なのだろうか。
心理描写の走りともされるオースティン作品は、まさに「平凡にして活躍せる文学」。決して品のないものには落とさずに、日常生活の中での男女間の微妙かつ複雑、そして時には緊張をともなう関係を描く巧みさはそれまでの作家にはなかったもの。現代的な小説の形を初めて作りあげた作家と言われる所以だ。
また、女性の役割が今とは比べものにならないほど断固として決められていた時代にあって、オースティン作品のヒロインたちがしばしば見せる強さに、後世の女性運動家たちが試みることになる意識改革の「あけぼの」とも呼べるものを感じるといってはいい過ぎだろうか。
この点についてさらに述べる前に、日常にドラマを見出す鋭いオースティンの目を培った、その実人生をまずは見てみることにしよう。

結婚は生涯の幸福をかけた一大事

ジェーン・オースティンが使ったとされている、小さなライティング・テーブルと木のイス=写真提供:チョートンのJane Austen's House Museum
ジェーン・オースティンはハンプシャーのスティーヴントンに、牧師の家の娘として1775年12月16日に誕生した。アメリカ独立戦争が起こった年で、まもなくフランス革命、そして英仏戦争、国内では産業革命が始まるという激動の時代だった。
だが、表立ったことをするのは男性に限られた時代でもあり、海軍でナポレオン軍と戦った兄たちと違い、ジェーン本人は生涯、あまり変わることのない生活を続けた。
ジェーンは八人きょうだいの七番目、二女だった。仲の良い家族で、八人きょうだいの中にあって、女の子は二人ということもあり、二つ違いの姉カサンドラとは特に結びつきが強かった。
内気な子供であったとも伝えられているが、年頃になったジェーンはダンスの名手として踊りの機会を楽しみにするようになる。当時のダンス会場は娯楽の場であると同時に、若い男女が異性と出会う、お見合い会場のような役割も果たしていた。と言っても、相手の踊る姿にポーっとするような甘いものではなかったようだ。
その頃の女性にとって唯一のキャリアとなるのが結婚。文字通り永久就職で、家柄や経済力は結婚相手を探す際に切実な基準となるものだった。
それには、当時の法律や家督相続制度も関わっている。

ジェーンの姉、カサンドラ(Cassandra 1773~1845)の横顔のシルエット。
後の産業革命により変わっていくものの、その時代の財産といえば主として土地のことだった。土地を子らに分け与えれば、相続される土地はどんどん小さくなり、その家の力も衰えていくのは目に見えている。
そのために採られたのが、長子相続権と限定相続だ。長子相続権とは一家の土地全部を長男が相続するもの。その長男も土地から上がってくる収益がもらえるだけで、土地そのものを売却したりできないようにしているのが限定相続だ。これにより、先祖代々の土地が受け継がれ、その家も、その土地で働く人々も安泰というわけだ。ただし、浪費壁のある長男が借金を重ね、土地を含む家ごと手放さねばならなくなったというようなケースもしばしば見られた。
また、例えば『高慢と偏見』で、主人公には男兄弟がいなかったため、ゆくゆくはベネット家を甥のコリンズが相続することになっていたように、娘ばかりという家の場合は、近親の男子が家督を相続した。
さらに資産運用は男性、女性は家を守るものという前提で法も定められており、結婚すると同時に妻の財産は夫のものとされ、妻が結婚後に働いても、その所得も夫のものとされていた。それが改正されるのは、1882年の既婚女性財産法制定からで、ジェーンの生まれた年から百年余りも後のことだ。
どの作品の中でも結婚が大きく取り上げられているのは、その時代に生きた女性たちにとって結婚は避けては通れぬ、まさに死活問題だったからに他ならない。ヒロインたちが最終的に到達する「幸せな結婚」を、誰よりも望んでいたのはジェーン本人だったかもしれない。

物語はいつもハッピー・エンドで

オースティンの主要6小説

『高慢と偏見』を世界の10大小説の1つに挙げた、近代の人気・英作家サマセット・モーム(Somerset Maugham 1874-1965)は、元気な時に最新の注意を払って読まなければ益が得られないような名作とは違って、オースティンの小説はどんなに元気のない時に読んでも必ず魅了されるとして、次のように評している。
「たいしたことが起こるわけでもないのに、ページを繰らずにはいられない」

Sense and Sensibility(1811年)
『分別と多感』『知性と感性』

◆父親が亡くなり、先妻の息子が家を継ぐため、母と娘たちは家を出なくてはならなくなってしまう…。思慮深い姉エリノアと、気持ちのまま行動する次女マリアンの恋の行方をつづる物語。
◆出版前に大幅に書き直したとも伝えられるが、オースティンがこの作品の元となる『エリノアとマリアン』を書いたのが弱冠20歳の時! なお、右の写真にあるように、出版時は作者名が「By a lady」としか記されていなかった。

Pride and Prejudice(1813年)
『高慢と偏見』『自負と偏見』

◆5人姉妹を抱えるベネット家の近所に、資産家でしかもハンサムなビングリー、ビングリーよりさらに裕福だという友人ダーシーがやってくる。ベネット家の長女ジェーンとビングリーは惹かれあうが、ダーシーによってそれが引き裂かれたと次女エリザベスは思いこんでしまい…。エリザベスとダーシーの恋愛模様を軸にした物語。
◆この作品の元となった『ファースト・インプレッション』も、オースティンがミスター・ダーシーのモデルともされるトム・レフロイと出会った20歳の折に書かれている。早熟の天才かも。

Mansfield Park(1814年)
『マンスフィールド・パーク』

◆貧しい家の娘ファニー・プライスは、金持ちのもとに嫁いだ叔母に引き取られ、蔑まれながら育つ。内気で臆病なファニーだったが、それでも意思を貫こうと健気に生きる姿をえがく物語。
◆いったん出版された後、新たに書き直しが行われ再出版された作品。

Emma(1815年)
『エマ』

◆エマは恋のキューピッド役きどり。人の恋心を見抜くのが得意と思っているのだが…。周囲の人々をふりまわすだけでなく、自分の恋には実は不器用というエマを主人公に展開される物語。
◆『高慢と偏見』のエリザベスについて、誰もが好きになるような主人公と述べたオースティンが、このエマについては、「私以外は誰も好きにならないような主人公」と評している。そういう主人公でも読者を引き付けられるようになったという自信の表れか?

Northanger Abbey(1818年)
『ノーサンガー僧院』『ノーサンガー寺院』

◆キャサリンは、当時流行のゴシック小説を読んでは空想にふけるような女の子。そのキャサリンが密かに憧れるヘンリーに招待されていった彼の実家は、ゴシック小説そのままのおどろおどろしい雰囲気が漂う屋敷だった…。想像力豊かな18歳という設定のキャサリンの魅力があふれる物語。
◆この作品の中で、ジェーンはベースボール(野球)という言葉を登場させている。少なくとも活字としてその言葉を使った初の人物とされている。

Persuasion(1818年)
『説得』『説きふせられて』

◆27歳になるアンの前に、周囲の説得により若き日に1度は別れたウェントワース大佐が再び現れる。経済的にも豊かになり、立派になったウェントワースに、自分はもう盛りを過ぎた年増の女性(27歳は当時もう行き遅れと見られた!)だと思いながらも、アンの心は大きく揺れる…。アンが真の幸せをつかむまでをえがいた物語。
◆晩年近くに書かれたこの作品に、通り過ぎた恋を取り戻す主人公を登場させているのが興味深い。この作品も出版後、書き直されている。元のバージョンより、修正バージョンのほうが数段良くなったと評価されている。

二十歳のほろ苦い出会い

ジェーンの「初恋の人」とする説もある、トム・レフロイこと、トーマス・ラングロワ・レフロイ(Thomas Langois Lefroy 1776~1869)。映画『Becoming Jane』の中では、女性にもてるタイプのチャーミングな若者として描かれている。アイルランド最高裁判所長官の地位にまでのぼりつめ、キャリア的には大きな成功を収めたといえる。ジェーンとは違って長寿で、93歳まで生きた。
二十歳の冬、ジェーンはトム・レフロイとして知られるトーマス・ラングロワ・レフロイに出会う。
彼は、ジェーンの友人であるアン・レフロイ夫人の甥だった。アイルランド一の大学、トリニティ・カレッジを優秀な成績で終え、ロンドンで学業を続けていたトムが、マダム・レフロイとして知られるアンを訪れた際のことだ。トムの誕生日もジェーンのすぐ後の一月八日だから、こちらも二十歳という頃。
1795年12月から翌年1月にかけての一ヵ月程の滞在だった。
いとこのエリザは、カサンドラとジェーンの姉妹を「数十人のハートを射止めるに違いない完璧な美人達」と述べているし、今も残るトムの肖像画からは、そのハンサムぶりがうかがえる。才気あふれる若く美しい二人の間に恋が芽生えても不思議ではない。
婚約者のもとを訪れ不在だったカサンドラに宛てた手紙で、ジェーンはトムについて「すごく紳士的、ハンサムで感じのよい若者」と好意的に言及。ただ、当時の「すすんだ」小説であった『トム・ジョーンズ(Tom Jones)』をジェーンに貸したトムが、小説の主人公のトム・ジョーンズを真似て白いコートを着ていることに関しては、茶化す調子で報告している。ちなみに、歌手のトム・ジョーンズはこの小説から芸名をもらっている。
だが、トムがロンドンに戻る頃に書かれた手紙は、「(カサンドラが)この手紙を読む頃には、もう終わっているでしょう。そんな悲しいことを書いていると涙が流れる」と、お茶目な調子から一転、恋する乙女の心情がつづられている。
この時期の手紙で残されているのはその二通だけで、ほかは焼却されている。その二通からは、この恋がジェーンにとっては短く淡い初恋のようなものだったように思われる。後にアイルランドの最高裁判所長官になったトムも、ジェーンとのことは、少年らしい恋だったというように語っているという。

小説『高慢と偏見』の中の挿絵。ベネット家の居間の様子。娘5人と、ベネット夫人(右端)の姿が見える。=イラスト:Hugh Thomson
だが、別の推測をする人もいる。今も残るジェーンからカサンドラへの手紙の次のものは、その年の夏、ロンドンのコーク・ストリートからのものだ。コーク・ストリートは、ロンドンで勉学中のトムが身を寄せていた彼の叔父の家があった通り。当時、その通りに宿屋があったという記録もないことから、トムの所にジェーンが滞在したのではというのが、ジェーンとトムの恋物語をえがいた映画『ビカミング・ジェーン』(下記参照)の作者ジョン・スペンスの説だ。
二人の仲がどの程度のものだったのか、今となっては定かではないが、後に『高慢と偏見』として出版される『ファースト・インプレッション』をジェーンが書き始めたのが、トムとの一冬を楽しんだ後の1796年の秋。主人公エリザベスにはジェーン自身が投影されていると分析されており、そのお相手のダーシーは、トムをモデルにしたのではないかとも言われている。
実際のトムのほうは、翌九七年の春に学友の妹と婚約。同年にマダム・レフロイを訪ねたものの、ジェーンに会いに来ることもなかった。 結婚相手の家柄や経済力が重要なのは、女性に限ったことではなかった。十二人兄弟の長男で、姉妹や弟たちの面倒を見ることを期待されていたトムは、名の通った家の娘と結婚する必要があったようだ。

オースティンの生涯とその主要作品をDVDで楽しみたい!

●生涯をたどるなら…

Becoming Jane(2007年/映画)

この映画のようなロマンスが、ジェーンとトム・レフロイの間にあったという『証拠』は残っていない。だが、なかったという証拠もないのがミソ。歴史のあいまいな部分をロマンチックに仕立てた一作。アイドル女優から躍進著しいアン・ハサウェイのジェーン・オースティン、あっという間にアンジェリーナ・ジョリーと共演するまでになったジェームズ・マカヴォイのトム・レフロイと、若手成長株2人の共演も楽しめる。

Miss Austen Regrets(2008年/BBCドラマ)

脚本を書いたグウィネス・ヒューズが、真の脚本家はジェーン自身と評するほど、ジェーン本人が書いた手紙など史実をふんだんに盛り込んで作られたドラマ。実像に近いジェーンと思ってよさそうだ。正統派美人で地に足の着いた姉カサンドラ役にグレタ・スカッキ、個性派美人で時に辛らつな意見も言う妹ジェーン役にオリヴィア・ウィリアムズというのはなかなかの配役かも。

●主要作品を観るなら…

人気の高い『Pride and Prejudice』など、古くはローレンス・オリビエ出演のものから最近のキーラ・ナイトレイ主演のものまで、数え切れないほどあるが、ここでは、手に入りやすい最近のものから、比較的原作に忠実+楽しめる、お勧め作品をご紹介。

Sense and Sensibility(1995年/映画)

出演しただけでなく脚本も書いているエマ・トンプソンはこの作品でアカデミー脚本賞を受賞。作品自体もゴールデン・グローブ賞を受賞した秀作。監督は『ブロークバック・マウンテン』のアン・リー、出演もケイト・ウィンスレット、アラン・リックマン、ヒュー・グラントと主役級の英国ビッグ・スターがズラリと揃った豪華競演となっている。

Pride and Prejudice(1995年/BBCドラマ)

原作の起伏を6話連続ドラマにうまくまとめてある。エリザベス役のジェニファー・イーリー、ダーシー役のコリン・ファース始め、それぞれの俳優が役柄のイメージを生き生きと見せており、評価のきわめて高い作品。池に飛び込み、濡れたシャツ姿を見せるコリン・ファースの姿も話題をさらい、高視聴率獲得の一因とも揶揄された。さてはBBC、最初から女性層を狙った?

Emma(1996年/映画)

周りの人達の恋の世話焼きに奔走し、肝心の自分の恋は見当違いになってしまうエマを、可愛らしい女性としてグウィネス・パルトロウが演じている。この作品を見て、英国人だと思った人もいたというほど、アクセントごとエマになりきっているグウィネスのほか、アラン・カミング、ユアン・マクレガー、トニ・コレットもいい味を出している。

Mansfield Park / Northanger Abbey / Persuasion (2007年/ITVドラマ)

ITVのジェーン・オースティン・シーズンとして放映された3作品。『ドクター・フー』でお馴染のビリー・パイパーがファニー役の『Mansfield Park』、原作同様軽いタッチで仕上がっている『Northanger Abbey』もそれぞれに楽しめるが、出来のいいのは締めを飾った『Persuasion』だろう。コリン・ファースの池シーンが『Pride and Prejudice』の「突出シーン」とするなら、『Persuasion』のそれはサリー・ホーキンスがバースの街をひたすら走るシーン。『ハッピー・ゴー・ラッキー』でベルリン映画祭女優賞も受賞した演技派のサリー、耐える女という感じでアンを演じているだけに、最後の疾走シーンが爽快。

耐えがたきは愛のない結婚

バースで毎年行われる、ジェーン・オースティン・フェスティバルの模様=写真提供:バースのJane Austen Centre
父がスティーヴントンの牧師の職を長兄に譲り退職したのを機に、1801年にオースティン家はバースへと移り住む。
引っ越してすぐ、一家はイングランド西部のデヴォンにあるスィドマス(Sidmouth)という海辺の街に旅行したが、ジェーンはその地で、ある青年と恋に落ちる。
所用で一度その地を離れなければならなかった、その青年の帰りを待ちわびるジェーンに届いたのは、青年が亡くなったという突然の知らせだった。青年は牧師だったとも伝えられるが、名前などは残されていない。その数年前にはカサンドラが婚約者を熱病で亡くしていたことから、姉妹はより一層深く結びついた。
ジェーンがプロポーズを受けることになるのは、その翌年だ。
二十六歳になっていたジェーンにとって、六歳年下の裕福な家の息子であるハリス・ビッグ=ウィザーは申し分の無い相手だった。当時の二十六歳といえば若さの終わり、中年の始まりと考えられるような年齢だ。ジェーンも、今後、これだけの好条件の相手が現れるとは考えがたいと思ったのか、一度はプロポーズを受諾。ところが、その翌日には断ってしまう。
なぜ、ジェーンは心変わりしたのか。
ジェーンの作中、主人公の家庭のおおかた、またジェーン自身も属していたのはジェントリーという新興階級(地主階級)だった。貴族よりは下ながら、支配階級に含まれるジェントリーは土地と使用人を有するものの、年収も千ポンド(現在の三万~五万ポンド相当)から一万ポンド(現在の三十万~五十万ポンド相当)と経済的には幅が広く、生活が苦しいジェントリーも少なくなかった。
オースティン家もそれほど豊かではなかったようだが、ジェーンは経済的な安定のためだけの結婚を良しとしなかったのだろう。
BBCのドラマ『ミス・オースティン・リグレッツ』(上記「オースティンの生涯とその主要作品をDVDで楽しみたい!」のDVD欄参照)の中で、プロポーズをむざむざ断ったことに対し、後年、ジェーンが母親から批判されるシーンがあった。母親は言う。「お金で幸せは買えないかもしれない。でも、『safe』(安定した暮らし)を得ることはできる」と。このドラマの中でのジェーンは敢えて反論しなかったが、彼女はある手紙の中でこうつづっている。
「Any thing is to be preferred or endured rather than marrying without affection.」(愛のない結婚にくらべれば、どんなことにも耐えられる)
ジェーンの作中のヒロインたちは、この信条を貫き、苦しみや悲しみに挫けることなく行動し、やがて夢を叶える―というのがお決まりのパターンだ。ジェーンは、恋愛小説という形をとりながら、世の女性たちを励まし、希望を与え続けた思想家と呼んでも良いのではないだろうか。彼女の密やかな闘志が、行間にこめられているように思えてならない。

初めて手にした原稿料

バースにいる間には、さらに不幸な出来事が相次いだ。
ジェーンの友人マダム・レフロイが落馬で亡くなり、1805年に父ジョージまで亡くなってしまう。一家の主を失ってしまったジェーンは、母、姉とともに、五兄フランクとその若い妻のもとをはじめ、縁者の家を転々とするようになる。不安定な生活が続いた。
しかし、悪いことばかりではなかった。この間に四兄ヘンリーの助力もあり、ジェーンは初めて出版社と契約を結ぶ。後に『ノーサンガー僧院』として出版される『スーザン』という物語を十ポンド(現在の約370ポンド相当)でロンドンの出版社クロスビーに売ったのだ。当時としても安いその価格はジェーンが新人作家という以外に、女性作家だったせいもあると見られている。それでも、自分の書いたものが出版社に売れたことは、大いにジェーンを元気付けた。
とはいえ、数ヵ月たっても数年たっても本は出版されず、ついにジェーンが、活字になった『ノーサンガー僧院』を見ることはなかった。

匿名で出したデビュー作が大ヒット

裕福な家の養子となっていた三兄エドワードが、1809年にチョートンの別宅をジェーンたちに提供。その家がとても気に入ったジェーンは、母、姉とともに、そこでしばらく幸福な日々を送った。
その頃には結婚していた兄弟たちの子供は総勢二十人を超えるほどになっていたが、その姪や甥にとって、ジェーンはまたとない良い叔母であった。幼い子らとは庭で遊び、長じてはロンドン見物に連れて行った。
やがて記念すべき1811年を迎える。
ヘンリーが出版業者トーマス・イガートンと交渉し、ジェーン初の本となる『分別と多感』が出版されたのである。ただ、本は良く売れたが、本に作者としてジェーンの名前はなく、「バイ・ア・レディ」として出版された。
牧師の娘であるジェーンは、どんな評価を下されるかもわからない本、しかも恋愛ものに実名を出すわけにはいかなかったようだ。初版本だけでジェーンの収益は百四十ポンド(現在の約五千ポンド相当)になったが、姪や甥でさえ、ジェーンが人気作家となったことは知らされなかった。
ある日、ジェーンと姪の一人アナが出かけた移動図書館で、アナが『分別と多感』を手に取った。当時、まだ高価だった本は、そういった図書館にお金を払って、借りて読むことも広く行われていた。普段、ジェーンが話す物語を喜んで聞く姪や甥の中の一人であったにもかかわらず、ジェーンが書いた本とは知らないアナは「こんな題名の本は、しょうもないに決まってるわ」と、ページを開くこともせずに戻したという逸話も伝えられている。
1813年には、イガートンがジェーン二冊目の本となる『高慢と偏見』を出版。その年の内に増刷されるほどの人気で、最もよく読まれた英文学の一つと呼ばれるに至る。
これは、前述のようにもとは『ファースト・インプレッション』という題名で書かれていたものだ。トム・レフロイと出会ってまもなく書かれたというだけでなく、トムがアイルランド出身で、ダーシーはアイルランドで有名な一族の苗字だったことなどから、ダーシーのモデルはトムであろうと言われている。
この本はジェーンにとって思い入れの強いものであったようだ。本がロンドンから届くのを待ちかねていたジェーンは、手にした本を、まるで自分の子供のようだと書いている。
だが、この時にはもう、ジェーンにはあまりに早い最期が間近に迫っていた。

プリンスのお気に入り作家

父王が正気を失った後、リージェント(摂政)として長い間、国王の座がまわってくるのを待ったジョージ4世。派手好みで浪費壁があることでも知られ、リージェント・ストリートの建設なども命じた。
翌年にイガートンは『マンスフィールド・パーク』を出版。これは発売6ヵ月で売り切れ、ジェーンは着実に作家としての地歩を固めていった。
そのまた翌年の1815年、静かに暮らすジェーンの日常から、かけ離れたことが起こる。
ジェーンは匿名で本を出版していたが、彼女の作品のファンで、それぞれの居城に本をセットで用意しているというプリンス・リージェントから、ロンドンの邸宅への招待状が届けられたのだった。放蕩息子として知られ、結婚後も、婚前から囲っていた愛人との関係を続け、王妃をないがしろにしていたこのプリンス・リージェント(後のジョージ四世)を、ジェーンは実は嫌っていたという。
当時、法制上、経済的には夫に頼るしかなかった妻だが、婚姻でも不平等な扱いを受けていた。夫は妻の不貞で離婚の申し立てができるが、妻は夫の不貞だけでは離婚申し立てもできなかったのだ。
しかし、嫌いだといっても、後の国王からの招待を断るわけにはいかない。ジェーンは、プリンス・リージェントのロンドンの邸宅へ出かけていった。実際にプリンス・リージェントに謁見こそしなかったが、王室の図書館員の勧めで、次の作品『エマ』はプリンス・リージェントにささげられることになった。その頃の作家としては、誇るべき栄に浴したのである。
この『エマ』以降、イガートンではなく、ロンドンでよく知られた出版業者ジョン・マレーが、作品の刊行を手掛けるようになる。『エマ』は売れたが、すぐ後にマレーが出した改訂版の『マンスフィールド・パーク』は売れ行きが悪く、『エマ』の収益が相殺されてしまった。さらにこの頃、ヘンリーが興した銀行が倒産。負債を抱えたヘンリーはじめ、その銀行に投資、預金などしていた兄弟たちも大金を失い、ジェーンと姉、母を支えることが難しくなってしまったのである。

たった一人で起こした革命

ジェーンが息を引き取った、ウィンチェスターのCollege Streetにある個人宅。中は見学できないが、プラーク(標識)=写真右=が掲げられている。
プリンスへの作品献上、ヘンリーの破産とさまざまな出来事がめまぐるしく起こる中、ジェーンの体に暗い影が忍び寄っていた。彼女の身体を病が蝕み始めていたのだ。現在でいう副腎不全、またはリンパ系の病気だったのではとも言われるジェーンの病状は、激しい痛みをともなうものだった。
最初は痛みをおして、執筆を続けていたジェーンだったが、じきに歩くことも困難になり、最後はヘンリーとカサンドラに連れられてウィンチェスターで療養、そこで息を引き取った。最初の本が出版されてから、わずか六年後の1817年7月18日のことだった。
当時の未婚女性の例にならい、カサンドラ一人が棺を見送るひっそりとした葬儀が行われた。ヘンリーの手配で、ウィンチェスター大聖堂に埋葬されたが、墓碑銘にさえ作家としての功績は記されていない。後世に残る大作家であったにもかかわらず、誰それの娘、誰それの妻としてしか生きることが認められない、その時代の大多数の女性たちとさして変わらない生涯を送ったということになるのだろう。
アイルランドで要職に就き、幸せな家庭も築いていたトム・レフロイが、ジェーンの死を聞きつけ、ロンドンに駆けつけたことも伝えられている。
十ポンドで売られ出版されないままだった『スーザン』が、ジェーンの存命中にヘンリーによって買い戻されていたが、マレーがそれを『ノーサンガー僧院』として出版したのは、ジェーンの死後となってしまった。また、最後の完成作となる『説得』も、セットで出版された。
その中の著者についての説明で、ヘンリーは初めて著者の素性を明かした。死後に、ようやく作家としてジェーン・オースティンの名が認められるようになったのだ。
自分の気持ちに正直に生きて、最後にはミスター・ライトとハッピー・エンドを迎える主人公を描き続けたジェーン。結果的に生涯独身を通すこととなったジェーン自身、それがいかに難しいことであるか、身にしみて知っていたはずだ。それでも、真っ直ぐにがんばる女性主人公達を、ハッピー・エンドで祝福したジェーンの声援は現代の女性たちにまで、しっかり届いているようだ。
2004年、英国のラジオ番組「ウーマンズ・アワー」である投票が行われた。「あなたの心に語りかけ、自分自身に対する認識を変えた、または、女性であることを喜ばしく感じさせた小説」を選ぶもので、一万四千人に上る投票が寄せられた中、一番多く票を集めたのは『高慢と偏見』だった。
激動の時代の中、ジェーンはたった一人で女性の革命を起こしていたのかもしれない。その思いは今も活字の中に、あるいはドラマや映画といった映像に形を変えて色あせることなく輝きを放っている。

ジェーン・オースティン 縁の地を訪ねて

●チョートン

Jane Austen's House Museum  ジェーン・オースティンの家博物館

Chawton, Alton, Hampshire GU34 1SD
Tel: 01420 83262
www.jane-austens-house-museum.org.uk

ジェーンはここで作品のほとんどを書き上げた。遺品などが展示されているほか、ジェーンがここに住み始めてから200年を数える、2009年7月に向け、新しい見どころを追加する計画が進められている。なお、バースの「ジェーン・オースティン・センター」とは、どちらが「ジェーンの家」としてふさわしいか、ちょっとしたライバル関係にあることが報じられている。

Chawton House Library チョートン・ハウス図書館

Chawton, Alton, Hampshire GU34 1SJ
Tel: 01420 541010
chawtonhouse.org

ジェーンらにチョートンの別宅を提供した三兄エドワードが住んでいた屋敷。今は図書館となっており、1600年から1830年までの英国の女性作家の資料なども展示。図書館部分以外もガイドツアー(要予約)で見学可能。

●バース

The Jane Austen Centre ジェーン・オースティン・センター

40 Gay Street, Queen Square, Bath BA1 2NT
Tel: 01225 443000
www.janeausten.co.uk

バースでのジェーンの家や、『Northanger Abbey』『Persuasion』に登場する場所などを巡るツアーも主催。2008年中は英国のアカデミー賞BAFTAやエミー賞などの受賞歴もある衣装デザイナー、アンドレア・ギャラーが担当したBBCドラマ『ミス・オースティン・リグレッツ』の衣装も展示されている。

●ウィンチェスター大聖堂

Winchester Cathedral ウィンチェスター大聖堂

1 The Close, Winchester, Hampshire SO23 9LS
Tel: 01962 857200
www.winchester-cathedral.org.uk

北身廊にジェーンが埋葬されている。7世紀からの歴史ある大聖堂にはビジター・センターも併設されており、冬季はアイス・リンクがオープンするほか、クリスマス・マーケットも開かれる。

●スティーヴントン

St Nicholas Church 聖ニコラス教会

Steventon, Basingstoke Hampshire RG25 3BE
ジェーンが25歳まで暮らした牧師館が(教会に隣接)、当時とほぼ変らず残っている。父ジョージの後を継いで牧師となった長兄ジェームズと妻の墓もある。ロンドンで興した銀行が倒産後、牧師となっていた四兄ヘンリーも、長兄が亡くなった後を継ぎ、甥のウィリアムにその職を譲るまで、この地にとどまった。

●ロンドン

Henry's flats 兄ヘンリーの住まい

23 Hans Place, London SW1X 0JY
10 Henrietta Street, London WC2E 8PS

四兄ヘンリーがロンドンで銀行家となっていたことから、ジェーン、また他の兄弟たちもよくヘンリーのもとを訪れた。ジェーンは主に観光と出版社との打ち合わせに上京していたという。ヘンリーの銀行があったヘンリエッタ・ストリート、病に倒れたヘンリーの看病にジェーンが長期で滞在したハンズ・プレースにはジェーンの名前入りのプレートがかかっている=写真。

The British Library 大英図書館

96 Euston Road, London NW1 2DB
Tel: 0870 444 1500
www.bl.uk

大英図書館にはジェーンが使っていた机とカサンドラに宛てた手紙、初期のノートが展示されている。

週刊ジャーニー No.547(2008年10月30日)掲載

クリスマスの贈り物のヒントに!プリンセス・ダイアナが愛したものたち

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クリスマスの贈り物のヒントにどうぞ プリンセス・ダイアナが愛したものたち {ブランド・品・店} [Princess Diana]

■写真すぐ上:クリスチャン・ディオールの香水「ディオリッシモ」■右側のメイン写真:1986年に日本を公式訪問した際のダイアナ妃©産経

パリでの悲劇的な事故死から20年の月日が流れても、なお人々の心を捉えて離さない故ダイアナ元妃の魅力。
今年は没後20年という節目にあわせ、様々な形で同妃の生涯を振り返る試みがなされた。
バッキンガム宮殿の夏の一般公開では彼女の書斎を再現、身近に置いていた品々が展示され、生前の住まいであったケンジントン宮殿では妃の華麗なるファッションの軌跡を追ったエキシビションが催されている。
また、命日月の8月にはウィリアム王子とハリー王子が亡き母の思い出を語るドキュメンタリー番組も放映され、大きな話題を呼んだ。
死してなお、いや、年若く逝ったがゆえに、ダイアナという女性に対して多くの人が今も強い感情を抱いていることを見せつけた1年だったといえる。
師走を間近に控えた今回では、そのダイアナ妃が愛したブランド、装飾品、ロンドン市内のゆかりの店やレストランなどをご紹介したい。
クリスマスの贈り物、あるいは年末年始の食事の場所を決める際のヒントにしてはいかがだろうか。(文中敬称略)

■写真左上:カフェ・ダイアナ■写真左下:ケンジントン宮殿■写真中央:ケンジントン宮殿内で開催中の「Diana: Her Fashion Story」の展示■写真右:国際的ブランドに成長したジミー・チュー© Clotee Pridgen

●Great Britons●取材・執筆/ホートン秋穂・本誌編集部

ファッション

身に着けた、あらゆるものが世界中から注目された「ファッション・アイコン」、ダイアナ。
彼女が愛したものをすべて挙げるのは不可能ながら、紙面の許す限り取り上げてみたい。

ジミー・チュウ
Jimmy Choo
現在、世界中のセレブに愛される靴ブランド、ジミー・チュウ=写真©Mark Seymour=の名を有名にしたのがダイアナと言っても過言ではないだろう。マレーシア出身の華僑で、父の志を継いで靴職人になるべく、ロンドンに留学したジミー。エレガンスと機能性・心地よさを同時に実現した靴づくりをモットーに、ロンドン東部ハックニーの工房で靴職人として製作に励む彼の噂をきき、ダイアナはケンジントン宮殿でジミーに会う機会を設け、すぐさま6足の靴をオーダーしたといわれている。
多くの若手英国デザイナーの洋服やファッション・アイテムを積極的に着用し、応援していたダイアナだが、とりわけジミー・チュウの靴はお気に入りだった。彼の靴に対する哲学、全てをハンドメイドで丁寧にこなす職人技術、そして、ラグジュアリーさと心地よさが同居した彼の靴の魅力を高く評価していた。
当初は高い身長を気にしてかシンプルでフラットなパンプスを好んでオーダーしていたダイアナだが、チャールズ皇太子との別居、離婚を経験する90年代半ばになると、自らに自信をもち自立した女性に変身。それに伴って靴も変化し、ジミーが得意とした10センチヒールの靴やクロスストラップのセクシーなデザインの靴も履くようになったという。
2001年にジミー・チュウのブランドを売却、現在はオートクチュール専門の靴職人となったジミー。2002年には英国ファッション界への功績が称えられ「大英帝国勲章」を受勲。ちなみに、ダイアナの最後のオーダーとなった、シャンパンカラーを用いたグログラン織のフラットパンプスは残念ながら注文主の手元に届くことはなかった。
トッズ
Tod's
自然体でカジュアルでありながらも、シックかつエレガントなスタイルが印象的だったダイアナ。イタリアの靴・バッグブランド、トッズのモカシンもお気に入りのひとつだった。地雷撲滅キャンペーンの一環として、アンゴラ゙を訪れた際に「ゴンミーニ(Gonmini)」=写真右=を着用し、注目を集めた。

バッグ

クリスチャン・ディオール
Christian Dior
1995年、当時のシラク仏大統領夫人から贈られたのが、ディオールの「レディ・ディオール」=写真右。ダイアナはとても気に入り、その後パリの「ディオール」本店まで直接出向き、色違いで何色も購入。以来、公務やプライベートでも愛用することで、世界的にブレイクすることとなった。

ジュエリー

バトラー&ウィルソン
Butler & Wilson
遊び心あふれるモチーフのジュエリーを展開する英国のアクセサリーブランド。蛇のブローチ=写真の右側©Telegraph=や三日月の大振りのイヤリングなど、大胆なデザインもさることながら、100ポンド以下の手頃な価格帯のアクセサリーを公務で着用し、人々を驚かせた。
真珠
pearls

ダイアナは様々なスタイルの真珠のアクセサリーを身に着けた。写真は1995年撮影。
数ある宝石の中でももっともダイアナが愛したのが真珠だろう。「人魚が恋人を想って流した涙が、波にはじけて宝石となった」という伝説で知られる真珠。古来より、無垢で清らかなイメージと、その気品ある輝きから、世界中の人々に愛され親しまれてきた。
ダイアナの実家であるスペンサー家の女性にとって真珠は特別な存在で、18歳の誕生日には2人の姉と同様、小粒で可憐なパールの3連チョーカーが贈られたという。その後も生涯を通じて様々な真珠のアクセサリーをフォーマル、カジュアルとシーンを問わず着用。

洋服

デヴィッド&エリザベス・エマニュエル
David & Elizabeth Emanuel
フェミニンなボウタイ付きブラウスから、リボンタイのような可憐なデザインまで、様々なリボンをあしらったデザインが特徴。結婚当初のダイアナのイメージといえる良家の子女を彷彿させる、ノーブルスタイルを完成させた。
世紀のロイヤル・ウェディングといわれた結婚式のドレスも彼らの手によってデザインされた。
後に創業者のデヴィッドとエリザベスは離婚し、パートナーシップを解消。現在、ブランドはエリザベス・エマニュエルとして存続。
キャサリン・ウォーカー
Catherine Walker

ケンジントン宮殿の展示より。右端が「エルビス・ドレス」。©HRP, photo Richard Lea-Hair
ダイアナのドレスを語るうえで、デザイナーのキャサリン・ウォーカーは決して外せない存在だ。1977年に夫とともにブランドを立ち上げたキャサリンのモダンで洗練されたデザインは、すぐさまダイアナを虜にした。以後、2人3脚でスタイルを作り上げ、その関係は、ダイアナが亡くなるまで続いた。
スタンドカラーが個性的で小さなパールが一面に装飾された純白の「エルビス・ドレス」とダイアナによって名づけられたドレスや、デコルテラインを大胆に開けたセンセーショナルなドレスなど、ダイアナの魅力を最大限に引き出すファッションを生み出した。
ジャンニ・ヴェルサーチ
Gianni Versace

ジャンニ・ヴェルサーチと妹のドナテラ(1995年撮影)。©Mies me
90年代以降の離婚後は英国以外のハイブランドにも積極的にトライしたダイアナ。その中でもイタリア・ブランドのヴェルサーチとは縁が深く、デザイナーのジャンニ・ヴェルサーチとは友人としても親交が深かったといわれている。露出が多くセクシーなドレスが特徴的。ヴェルサーチは舞台やオペラ、バレエの衣装デザインも担当し、 クリエイティブな才能を発揮している。
ジャクリーン・ケネディのファッションを思い出させるピンクの上品なスーツや、胸元が大きく開いたドレスなどダイアナのスレンダーな体型の美しさを際立たせる服を提供した。
ダイアナが亡くなるわずか1ヵ月半前にマイアミで射殺されるという悲劇的な最期を遂げ、ダイアナも葬儀に列席した。

香水

クリスチャン・ディオール
Christian Dior
独身時代に愛した香水は「ディオリッシモ(Diorissimo)」/クリスチャン・ディオール。品のあるスズランの香りが、幼稚園に勤務していたというダイアナの優しく母性に満ちた人柄にマッチ。「ダイアナの控えめな姿勢に惹かれた」というチャールズ皇太子も、スズランの香りをまとった優美で可憐な若きダイアナに魅了されたに違いない。
ウビガン
Houbigant
結婚式当日はジャスミンやローズ、サンダルウッドなどからなる、上品かつ華やかな香りで知られるウビガンの「ケルク・フレール(Quelques Fleurs)」=写真右=を身にまとったという。しかし、うっかり香水のしずくをウェディングドレスにこぼしてしまい、パニックに陥ったというダイアナ。しみのついた部分を持ち上げるようにつまめば大丈夫、ブーケで隠すこともできるから、というアドバイスで事なきを得たとされる。
エルメス
Hermès
後に愛用した香水ではエルメスの「24フォブール(24 Faubourg)」=写真右=が挙げられる。こちらは太陽のようにおおらかな個性を表した香水とされ、強い官能的なイランイランの芳香と柑橘系の爽やかな香りが見事に融合。王室の呪縛から解き放たれ自立した女性として恋愛を謳歌する一方、人道活動に熱心に取り組み、凛とした女性たらんとした後年のダイアナにふさわしい香りだったといえよう。

スキンケア

ザ・ボディショップ
The Body Shop
ディオールやクリニークなどの高価な化粧品を使用する一方で、庶民的なボディショップの商品も愛用していたといわれる(ケンジントン・ハイストリート店を利用)。
特に同ブランドの動物実験をしない方針や、環境保護、人権擁護への取り組みに賛同。社会的な企業理念をもつ化粧品会社であると評価していた。1986年に本社が新しくオープンした際はオープニングセレモニーでリボンカットの役目を務めた。
お気に入りだった商品は、苺のボディシャンプーとボディジェル(Strawberry Body Shampoo and Body Gel)、エルダーフラワーのローションと目元のジェル(Elderflower Water, Elderflower Under Eye Gel)、ビタミンE配合のナイトクリーム(Rich Night Cream with Vitamin E)、カモミールのシャンプー(Chamomile Shampoo)、バナナのコンディショナー(Banana Conditioner)、ペパーミントのフットローション(Peppermint Foot Lotion)などだったという。

ケンジントン宮殿の展示はみごたえあり!

ファッションで振り返る プリンセスの生涯

●ダイアナが生前、住まいとしていたケンジントン宮殿で、「Diana: Her Fashion Story」と銘打ったエキシビションが開催されている。ダイアナが公務、あるいはプライベートで着るために作ったおびただしい数のドレス、スーツの中から選りすぐりの25着を展示。服装に見られる変化を通して、その生涯を見つめるという試みだ。
●1985年、米国公式訪問の折、ホワイトハウスの晩餐会で着用、俳優のジョン・トラボルタと踊ったことで世界的に有名になった、ヴィクター・エデルステインのデザインによるミッドナイト・ブルーのドレスなどが並ぶ。また、1986年、日本への公式訪問時に着用した、美しい桜色のドレスも飾られている。
●宮殿への入場チケットにこの展示の見学料も含まれる。オンライン(当日券より割安)で「完売」となっていても、当日券が若干は用意されているという。
●宮殿の見学と、この展示とで1時間ほどはみておきたい。

Kensington Palace

【住所】 Kensington Gardens, London W8 4PX
【開館時間】毎日 10:00 ~16:00(最終入場15:00)
12月24~26日は休館
※展示の最終日はまだ未定
【入場料】 大人£17(オンラインで£15.50)
子ども(16歳未満)無料
※少なくとも2018年2月末まではこの価格
www.hrp.org.uk/kensington-palace/

フード

精神的に不安定となり摂食障害に苦しんだというダイアナだが、皮肉なことに、彼女が訪れるレストランは即座に「セレブ御用達」とみなされ、人気を呼んだ。
彼女が好んだ食事や、しばしば足を運んだレストランなどをピックアップする。

レストラン

サン・ロレンツォ
San Lorenzo
22 Beauchamp Place, London SW3 1NH
www.sanlorenzolondon.co.uk

ナイツブリッジにある高級老舗イタリア料理店。ランチの場所としてよく訪れていたとされている。明るい陽射しが差し込む開放的な雰囲気の中、友達とのランチ会や息子たちとの休日ランチを楽しんでいたのかもしれない。
シーフードパスタとフレッシュなマンゴーを好んでオーダーしていたという。また1992年にチャールズ皇太子と破局したダイアナが、同じく常連客だったエリック・クラプトンと同店で頻繁に顔を合わせたことをきっかけにロマンスを楽しんでいたという逸話も残っている。
ダ・マリオ
Da Mario
15 Gloucester Road, London SW7 4PP
www.damario.co.uk
※コヴェント・ガーデンに同じ名前のイタリア料理店があるので注意。

ケンジントン宮殿に程近いカジュアルなピザレストラン。ウィリアム王子とハリー王子を連れてランチによく訪れていたという。壁にはダイアナが描かれた大きな油絵や、彼女の直筆が添えられた写真も額に入れて飾られている。
4種類のチーズとハート型のアーティチョークを象ったピザでダイアナにちなんで「ピザ・ダイアナ」と名づけられたピザがメニューにあると述べている記事もあったが、筆者が訪れた時は残念ながらメニューにはなかった。
もちもちしたピザ生地に新鮮な具材がたっぷりのピザが大変美味。近所に住む家族連れや老夫婦など地元の人で賑わうアットホームな店内だ。
また、同店は映画『ブリジット・ジョーンズの日記』で主役を演じたレニー・ゼルウィガーが近くにアパートを借りていたこともあり、週5日以上通いつめてピザを食べ、役作りのために増量に励んだ店としても知られる。
ル・エスカルゴ
L'Escargot
48 Greek St, London W1D 4EF
www.lescargot.co.uk

ソーホーにある高級老舗フランス料理店。劇場街に近いことから観劇を楽しむ人々で賑わう店だが、90年代にダイアナがディナーによく訪れたことでも知られている。個室を使うことも多かったようだが、メインフロアのテーブル席で食事することもあり、たたきマグロとレンティル豆がお気に入りの品だったという。
ローンストン・プレイス
Launceston Place
1A Launceston Place, London W8 5RL
www.launcestonplace-restaurant.co.uk

1986年創業のケンジントンにあるシックな内装のモダン・ヨーロピアン料理店。数々の受賞歴を誇り、繊細でスタイリッシュなメニューと充実したワインリストが自慢の店。90年代、ダイアナもお忍びでよく訪れていたといわれている。
瀟洒な邸宅が並ぶ閑静な住宅街にある、隠れ家的なレストラン。現在は白とグレーを基調にしたシックな内装。プライバシーが保てるような設計になっているので、人目を気にせずくつろいだ時間を過ごしていたのだろうと想像できる。
近年は気鋭の若手シェフが腕をふるう。日本人女性でもデザートまでしっかり食べることのできる量のハイレベルなセットランチはお値打ち!
マクドナルド(ケンジントン・ハイストリート支店)
McDonald's
108/110 Kensington High St, London W8 4SG
www.mcdonalds.com

ダイアナ自身のお気に入りというよりは、ウィリアム王子とハリー王子になるべく普通の子供と同じ体験をさせたい、という思いから2人が大好きなビッグマックとフライドポテトを食べに連れて出かけたといわれている。
元王室専属シェフのダレン・マクグレイディ(Darren McGrady)氏が、出かけようとするダイアナに「バーガーならすぐに作って差し上げますよ」と申し出た際、ダイアナは笑って「いいえ、息子たちはおまけでおもちゃがついてくるハッピーミールの方がいいみたいなのよ」と答えたというエピソードも残っている。
また、列に他の人と同じように並んでいるダイアナ親子を見つけ、店長が慌てて、一番前に案内しようとすると、「しーっ」と指を口に当て、他の人と同じように順番を待つことを望んだという逸話もあり、ダイアナの教育方針が感じられるエピソードといえよう。
カフェ・ダイアナ
Café Diana
5 Wellington Terrace, London W2 4LW
www.cafediana.co.uk

ダイアナの熱烈なファンという、オーナーのアブドゥル・ダウド氏Abdul Daoud。

正確には、ダイアナをこよなく愛するオーナーによるカフェ。ダイアナの大ファンであるオーナーが彼女にちなんで名づけ、1989年にノッティングヒルにオープン。壁一面にダイアナの写真や記事がところ狭しと飾られている。
本人もオープン後まもなくして来店。それ以来、2人の王子を連れて朝食に訪れることもあったという。王子たちがボリュームたっぷりのイングリッシュ・ブレックファスト(現在の価格は£8.50)を頼むのとは対照的に、ダイアナはカプチーノとクロワッサンが定番のオーダーだったとされている。
オープンした年にオーナーが意を決して、ダイアナに店に飾る写真を寄贈してくれないか、と頼んだところ、快諾。サイン入りのモノクロの写真=写真左=を持参したという。亡くなる1ヵ月前もカプチーノを飲みに同店を訪れた。

ダイエット

低炭水化物&高たんぱく質ダイエットにもいち早く取り組む?
今ではセレブの間の常識となっている、低炭水化物&高たんぱく質ダイエット。ダイアナはこれを20年以上前から実践していたという!専属シェフによると、ジムに行く日は朝食にトーストにベイクトビーンズをのせたものをチョイス。もちろんトーストには、精製していない全粒粉のパンを指定。またおやつには、ヨーグルトや雑穀で作ったバー、フルーツを食べていたとされるダイアナ。お気に入りは新鮮なライチだったという。
また牛肉などの赤身肉はゲストを招いた特別な席でしか口にせず、普段は白身魚や鶏肉をなるべく油を用いない調理法で食べることを好んだといわれている。
ただ、自身のストイックな食生活がピザやバーガー、バナナフランなどカロリーたっぷりのコンフォート・フードが好きな息子たちから食事の楽しみを奪うことがないよう、一緒に食事するときは同じものを食べたり、別のメニューでも同じようなものを食べているかのように見せたりする工夫をしていたという。

お気に入りのメニュー

意外な家庭料理が大好物だった!?
先述の元王室専属シェフ、マクグレイディ氏によると、ダイアナのお気に入りメニューはなんとピーマンのライス詰め。
シェフが彼女のために作っていたレシピを大公開!

【材料】
ピーマン(中/上部をカットして中をくりぬいておく)………4個
オリーブオイル………1/4カップ
玉ねぎ(粗みじん切り)………1/2カップ
マッシュルーム(スライス)………1カップ
ズッキーニ(角切り)………1カップ
オレガノ(乾燥タイプ)………小さじ1/2
トマト(粗みじん切り)………2個分
ごはん(固めに炊き、冷ましておく)………1カップ
水………1/2カップ
チキン、もしくは野菜のブイヨンのキューブ………1/2個
ベーコン(カリカリに焼いて刻む)………4枚分
バジル(刻んでおく)………大さじ1
モッツァレラチーズ(角切り)………約100g
パルメザンチーズ(パウダー)………大さじ2
塩、こしょう………適量
【作り方】
オーブンを170℃に予熱する。
オーブンシートの上にピーマンを置き、オリーブオイルをふりかける。オーブンで25分ほど焼き、柔らかくなったらオーブンから出して冷ましておく。
ピーマン内部に入っていたオリーブオイルをフライパンに移す。そこに玉ねぎ、マッシュルーム、ズッキーニ、オレガノを入れる。塩、こしょうを加え、やわらかくなるまで強火で炒める。
③にトマト、ごはん、水、ブイヨンキューブを入れ、5分加熱する。塩、こしょうで味を調える。
④にベーコン、バジル、モッツァレラチーズを混ぜ合わせ、ピーマンに詰める。
⑤の上にパルメザンチーズをかけ、オーブンで15分ほど焼く。
チーズが溶け、中まで温かくなったら完成。

エンターテインメント etc.

バレエやロック音楽が好きだったというダイアナ。
自ら運転して出かけ、エクササイズに励むなど、活動的な女性でもあった彼女がしばしば足を運んだ場所をご紹介しよう。
イングリッシュ・ナショナル・バレエ団とロイヤル・オペラハウス
English National Ballet/Royal Opera House

イングリッシュ・ナショナル・バレエ団の『白鳥の湖』。写真中央はリード・プリンシパル、高橋絵里奈©Scillystuff
バレリーナになることが子供のころからの夢だったというダイアナ。しかし背が高くなりすぎて夢を断念したとされている。王室メンバーになってからはロイヤル・バレエ団やスコティッシュ・バレエ団と並び英国の4大バレエ団の一つと称される、イングリッシュ・ナショナル・バレエ団の熱心なパトロンになり、離婚が発表された日もロイヤル・アルバートホールで同バレエ団の公演「白鳥の湖」の観劇に出かけた。大好きなバレエが彼女の心の支えだったことは間違いない。
また、ロイヤル・オペラハウスもお気に入りの場所だった。秘密裏にダンスの猛特訓を重ね、1985年のチャールズ皇太子の誕生日のサプライズプレゼントとして舞台に登場、元ロイヤル・バレエ団のダンサー、ウェイン・スリープ(Wayne Sleep)とダンスを披露してチャールズ皇太子をはじめ観客を驚かせた逸話も残っている。
ロニー・スコッツ
Ronnie Scott’s

©Tom Morris
ソーホーにある有名なジャズクラブ。お忍びでパキスタン人医師ハスナット・カーン氏とデートした場所とされている。黒いカツラをかぶり、変装して訪問したという。離婚後、最後の真剣な恋の相手だったとされるカーン医師。友人の見舞いで訪れた病院での偶然の出会いがなれそめ。ダイアナの猛アタックの末に付き合うことになったと言われている。
ジャズには全く興味も知識もなかったダイアナだったが、カーン医師は大のジャズ好き。恋人の趣味に合わせるダイアナの乙女な姿がうかがえる。
ザ・ハーバー・クラブ・チェルシー
The Harbour Club, Chelsea
会員制の高級フィットネスクラブ。現在ではフルハムとケンジントン、ノッティングヒルに支店をもつが、ダイアナはフルハムに近いチェルシー店に通っていた。以前に通っていたジムでは天井に隠しカメラが仕掛けられ、ワークアウト中の様子を盗撮されたのが原因でこのジムに乗り換えたとされている。
同ジムではマシーントレーニングの他、テニスも楽しめ、また鍼や指圧、アロマセラピーなど各種トリートメントが充実している。近年ではウィリアム王子と結婚したキャサリン妃が結婚前に妹のピッパやウィリアム王子とワークアウトに励んでいたことでも知られている。

王室に革命をもたらしたダイアナ

掟破りのプリンセス

服従宣言をしなかった最初のプリンセス

結婚式ではあらかじめ決められた「誓いの言葉」を唱える伝統が英王室にはあったが、ダイアナはこれを拒否。「夫に従う」と声に出して言う伝統には従わなかった。ちなみにウィリアム王子とキャサリン妃の結婚式でもこれに倣い、服従宣言は行われなかったという。

サファイアの婚約指輪はカタログショッピング

現在はキャサリン妃の左手の薬指に輝くサファイアの婚約指輪。これは、かつてチャールズ皇太子がダイアナに贈ったものだが、なんとダイアナはロンドンの老舗宝石商「ガラード(Garrard)」のカタログから選んだという。つまり、他の人も同じものが購入可能ということになる。 それまでは王室の婚約指輪はカスタムメイドが通例で、異例のことだった。母親の婚約指輪と似ていたから選んだという説もあるが、もともとサファイアの指輪を希望していて、純粋にそのデザインが気に入ったからというシンプルな理由で選んだとする説のほうが有力。14個のダイアがあしらわれた中央のサファイアは12カラット、台座はホワイトゴールドで当時の価格で2万8000ポンド(約420万円)だったといわれている。

母乳育児と公教育を選択

カンヌを訪れたダイアナ(1987年撮影)©Georges Biard
それまでは乳母が育児を行い、学校教育もある一定の年齢までは家庭教師を招いて行うという王室の慣習を破り、ダイアナは母乳育児を実施。ウィリアム王子は王室メンバーで初めて一般のプレスクールに通うこととなった。こうした新しい教育方針はウィリアム王子とキャサリン妃にも受け継がれ、ジョージ王子は史上初めて、男女共学の学校に通う王室メンバーとなった。

「息子たちには普通の暮らしを経験させる」というポリシーを貫く

マクドナルドにとどまらず、エイズ患者診療所、ホームレス保護施設など、王室メンバーの子供がいかない場所にも2人の王子を積極的に連れて行った。「母は僕たちにありのままの現実を見せたかったのです」とウィリアム王子はABCニュースの取材(2012年)でコメント。「母には感謝してもしきれません。様々な方法で現実社会を見せてくれましたし、自分がいかに恵まれているかを知ることができました」と振り返っている。

相手の目線に合わせ、相手に寄り添う態度を実践

王室メンバーがチャリティ団体を支援するのは普通のこと。しかしダイアナはアンゴラで地雷撤去活動に参加したり、HIV感染者と握手したり、エイズで親を亡くした子供たちを訪問したりするなど、それまで英王室が取り組んだことのなかった慈善活動に従事したことでも知られている。子供たちと話すとき、ダイアナはいつもしゃがんで彼らと同じ目線になるよう心掛けていたという。「王室メンバーでこのように振る舞ったのはダイアナ妃が最初でしょう」と『マジェスティー・マガジン』の編集者であるイングリッド・スワード(Ingrid Seward)氏は語っている。

王室ファッションに新旋風

6点の肖像写真は、「Diana: Her Fashion Story」より。
華麗なファッションの数々で人々を虜にしたダイアナ。それまでは考えられなかったような、タブーを打ち破るものも少なくなかった。まず1つめは手袋をしないで公務に出席。直接、手の温もりを感じる握手をしたいと手袋をせずに人々と握手した最初の女性王室メンバーとなった。さらに、小児病院など子供がいる施設を訪れる際は「帽子をかぶっていると子供を抱きしめることができないから」と帽子を避けたほか、しわになりにくい素材や明るいやさしい色の洋服を選び、訪問する相手の心を和ませる工夫も怠らなかったといわれている。
2つめは黒い色の洋服を喪服以外で着用すること。これも王室の慣例にはなかったことだった。またイブニングパーティーにパンツルックで登場し、写真を撮られたのもダイアナが初めて。冒険心と遊び心を大切にしていたダイアナの性格をここにもみることができる。そしてストッキングをはかずに素足にパンプスで公務に登場、場合によっては裸足にもなってみせた。常に自然体であろうとし、「ピープルズ・プリンセス」にふさわしい女性と誰もが認めたことも素直にうなずける。

週刊ジャーニー No.1012(2017年11月30日)掲載

東西の融合をめざした美の旅人 バーナード・リーチ [Barnard Leach] ―前編―

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2010年7月22日 No.635

取材・執筆/佐々木敦子・本誌編集部

東西の融合をめざした美の旅人
バーナード・リーチ(前編)

明治末期の東京を訪れ、陶芸の魅力に取り憑かれた英国人、バーナード・リーチ(1887 - 1979)。大正時代には白樺派とも交わり、柳宗悦による民芸運動の発展にも大きく貢献した。日本では「親日派」「日本の陶芸を西洋に広めた人物」として語られることの多いリーチだが、故郷英国に戻った彼が、そこで目指したものは何だったのか。自己の確立に悩んでいた若者リーチが、数十年の旅路の果てに辿り着いたイングランド南西端の町セント・アイヴズ。自らの製陶所「リーチ・ポタリー」を開き、やがて独自の思想を生みだすに至る、バーナード・リーチの生涯を辿ってみたい。

参考文献:『Bernard Leach Life & Work』 Emmanuel Cooper著(Yale University Press)、『バーナード・リーチの生涯と芸術 「東と西の結婚」のヴィジョン』鈴木禎宏著(ミネルヴァ書房)、『浜田庄司  窯にまかせて』濱田庄司著(日本図書センター)、『バーナード・リーチ展 Bernard Leach - Potter and Artist』 (1997年展覧会カタログ)Special Thanks to: Leach Pottery, Tate St Ives
 

 

 「To Leach or not to Leach」―― スタジオ・ポタリーの父と呼ばれ、それまでの英国における陶芸の意識を大きく変えたバーナード・リーチ。だが英国には、東洋の陶芸から強烈な影響を受けているリーチの姿勢や作品に対し、拒否反応を示す陶芸家も少なくなかったという。しかし、冒頭の「リーチか、否か」というフレーズは、英国の陶芸家にとってリーチがどれほど大きな存在であるかを示しているともいえよう。
日本から戻ったリーチがイングランド南西部コーンウォールのセント・アイヴズに窯を開いて、2010年でちょうど90年を迎えた。社会の中における工芸の位置や、陶芸家のあるべき姿勢を常に考えていたリーチ。東西の文化の自然な融合を目指したリーチが蒔いた種は、21世紀の今も、確実に育っているのではないだろうか。
バーナード・ハウェル・リーチ(Bernard Howell Leach)は、ヴィクトリア女王の即位五十周年に沸く大英帝国下の香港で、1887年の1月5日に生まれた。当時の英国は世界各地に植民地を所持し、リーチ家の人々の多くは政府関係者、あるいは法律家として、東アジアの植民地各地で活躍していた。リーチの父親アンドリューもオックスフォード大学を卒業した後、香港で弁護士として働いていたが、妻がリーチを出産直後に死亡。そのため幼いリーチは、日本で英語教師をしていた母方の祖父母に預けられることになる。4歳まで京都の祖父母のもとで育ったリーチは、その頃の日本を「桶の中で泳ぐ大きな魚、桜の花、タクアンの味…」という五感に密着した断片で記憶している。やがて父親のアンドリューが再婚。リーチは父と新しい母親に合流して再び香港で暮らし始める。父の再婚相手はリーチの亡き母の従妹にあたるが、リーチはこの継母に馴染むことができず、2人のギクシャクした関係は彼が成長してからも続く。代わりに幼いリーチが慕ったのは、アイルランド人と中国人のハーフの乳母だったという。リーチは生涯を通じ、顔を見ることのなかった実母の面影を追い続け、これは成人してからのリーチの私生活にも大きな影響を与えることになる。
やがて父親アンドリューの仕事の関係で、一家は香港からシンガポールへと移る。幼い時期に香港―日本―香港―シンガポールと、めまぐるしく引越を繰り返したリーチだが、初めて英国の地に降り立った時、リーチは10歳になっていた。
 

◆◆◆ 「中国人」と呼ばれた少年時代 ◆◆◆

 


 1987年、リーチが10歳で両親から離れ、ひとり英国に向かったのは、本国で高等教育を受けさせたいという父親の意向があったためだ。彼はウィンザーにあるイエズス会の寄宿学校ボーモント・ジェジュイット・カレッジに入学するが、ここでのリーチのあだ名は「Chink」。日本人でいう「Jap」に等しい中国人の蔑称である。これは、リーチが東洋で暮らしてきたことからついたあだ名であったが、海外暮らしが長いリーチと、海外の異文化のことなど何も知らずに、ヴィクトリア朝末期の大英帝国の繁栄の中に育つ生徒たちの間に、どんな不協和音が流れたかは想像するに難くない。さらに、1人っ子で引っ込み思案、しかも夢想家というキャラクターのリーチは、「Chink」というあだ名の「虐められっ子」だったようだ。
父親のアンドリューがこの学校を選んだのは、リーチに海軍のキャリアを期待してのことだったが、息子の状態を知った継母は、シンガポールから息子に宛てて「将来のことを考えてよく勉強なさい。父上の期待に応えるように。父上の顔に泥を塗るような真似だけはしないで」、さらに「もっと社交的に。もっと積極的に。そしてあまり夢想ばかりしないこと」と書き送っている。家からのプレッシャーと、学校でのイジメ。うんざりしたリーチにできることは、それこそ夢想による現実逃避くらいではなかっただろうか。

日本の工房で作業をするリーチ=写真右。1920年撮影。©Leach Archive
 学校でのリーチの得意科目は美術、クリケット。そして意外にも、演説法を学ぶディベート・クラブにも参加していた。愛読書は当時ヨーロッパで大きな人気を誇っていた美術/社会評論家ジョン・ラスキンの著書。ラスキンはラファエロ前派やウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動にも影響を与え、中世のゴシック建築を賛美した人物で、芸術に関しては「自然をありのままに再現すべきだ」という考えを持っていた。その後のリーチの方向を思えば、当時のラスキンの思想はティーンエイジャーのリーチに大きな影響を及ぼしたと考えてもよいだろう。
1903年、卒業間近のリーチのもとに、両親がシンガポールからやって来る。美術とクリケットが得意科目だという我が子の将来を案じた父親だが、リーチが16歳という「大学創設以来」の最年少で、ロンドンのスレード美術学校(The Slade School of Art)に入学するということで、彼の才能に一縷の望みをたくすことにする。リーチはここで多くのアーティストを育てた教師、ヘンリー・トンクスに師事し、厳しいデッサンの勉強を始める。そして南アフリカ出身のクラスメートと共に、ハムステッドで下宿をしながらの学生生活は、リーチに新たな自信と希望をもたらしていく。 ところが順調に見えた日々は、父親の発病によりわずか1年で閉ざされることになる。ガンを宣告されたアンドリューが1人息子の将来を心配し、美術学校を辞めて銀行に勤めるよう言ってきたのだ。リーチはまだ17歳。自分の意志を通すには若すぎた。彼は父親の言いつけを守り、スレードを去る。まるで運命があの手この手を使い、リーチが将来「バーナード・リーチ」となるべき下準備を進めているかのようでもある。
翌年、大きな影響力を持っていた父親アンドリューが死去。しばらく継母と共にボーンマスで生活したリーチだが、どうにも我慢がならなかったようで、銀行員になるための試験勉強と称し、一時的にマンチェスターに住む亡母の妹宅に身を寄せる。そして彼はここで1人の女性と出会うことになる。叔母夫妻の1人娘ミュリエル(Edith Muriel Hoyle)で、リーチは4歳年上のこの従姉と恋に落ちる。近親関係にあるため2人の結婚は反対されるが、リーチは決してあきらめなかった。 

 


◆◆◆ 日本との再会 ◆◆◆


 

  1906年、父親の遺言通りリーチはロンドンで銀行勤めを始める。シティの香港上海銀行(The Hong Kong and Shanghai Bank)で、毎晩11時まで働く日々だったという。当時、リーチは19歳。慣れない仕事に加えて、従妹ミュリエルへの想いや中退した美術学校のことなど、あきらめきれないことばかりである。芸術家の多いチェルシー地区に下宿して美術のサークルに顔を出したり、ロバート・ルイス・スティーヴンソンやウォルター・ホイットマンの異国情緒あふれる作品を読み、どこか遠くの世界に思いを馳せるなど気晴らしはしてみるものの、リーチは精神的にどんどん追い詰められて行く。リーチ自身の言葉を借りると「まったく最悪の1年」だったようだ。そのうえ、父親の遺産はリーチが21歳に達するまで大嫌いな継母の管理下に置かれていた。だが我慢の限界に達したリーチはついに銀行を辞職し、北ウェールズへ向けた放浪の旅に出てしまう。
当時リーチが好んで読んでいた異国趣味的な小説の中に小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの著作があった。ハーンは放浪の末、日本に帰化し「小泉八雲」となったアイルランド出身の作家である。古きよき日本の姿が理想化された形で書かれた同書は、リーチの日本に対する興味をいたく刺激する。リーチは「私の他国人に対する同情、即ち非ヨーロッパ人、黒人、褐色人、或は黄色人種に対する私の同情が昴り出した。そして東洋に対する私の好奇心が育って来た。そこで私は日本の現状を知ろうとした…」とラフカディオ・ハーンから受けた影響について語っている。

《左》柳宗悦の民藝についての東洋的考察をまとめた 「The Unknown Craftsman」(1972)《右》陶工のバイブルと称される「A Potter's Book」(1972)
 「他国人に対する同情」とリーチは言うが、英国において彼は常に疎外感を感じ、他国人の目で西洋を眺めていたのではなかっただろうか。10歳まで東アジアで育ち、学校では「中国人」と呼ばれていたリーチ。自国にいながら常に居心地の悪い思いをしていた彼は、友人も南アフリカ人や、オーストラリア人など、外国人ばかりだった。 それに加え、当時の美術界にはジャポニズムの流行が押し寄せており、日本は一種の芸術的理想郷のような場所に考えられてもいた。4歳まで京都で育ったリーチが日本に対して特別な感情を抱いたとしても、不思議はないだろう。
銀行を辞めて放浪から戻ったリーチは、ロンドン美術学校(London School of Art)に通い始める。ここは2人の画家が主催する私立のアトリエのようなもので、留学生も学んでいた。その中に、のちに詩集『智恵子抄』で知られることになる、高村光太郎の姿があった。高村は教室でハーンを読んでいたリーチに声をかける。人生の中でそう幾つもない、重要な出会いの1つであろう。高村光太郎との出会いがきっかけで、リーチの日本への想いは、がぜん現実味を帯び始める。
同時に、リーチが21歳の成人を迎えたこともあり、遺産の管理が自らの手で行われるようになる。リーチが最初にしたことは、従姉ミュリエルへの求婚と、銅版画(エッチング)の印刷機の購入だった。彼は銅版画の技術を日本で教えながら、ミュリエルと結婚生活を送ろうと考えたのである。そしてリーチは全くその通り実行に移した。
リーチが再度プロポーズしたことで、ミュリエルの親も彼の真剣さを受け止め、最終的に2人の結婚を承諾。リーチが高村光太郎からの紹介状六通を手に、ドイツ船で日本へ向かったのは1909年、3月のことだった。
 

 

◆◇リーチの思想と宗教観
  バーナード・リーチは「英国でイエズス会系学校に通ううちに、カトリックへの興味どころか、キリスト教自体への興味も信仰心も失った」と後年述べているが、リーチはその長い生涯を通し、実にさまざまな宗教・哲学に興味を持ち、影響を受けている。
20代の時、英国の幻想的な詩人で画家であるウィリアム・ブレイク(1757-1827)に傾倒したが、ブレイクはその作品「天国と地獄の結婚」の中で、天国と地獄、精神と肉体、理性と感情、善と悪というあらゆる対立項目とされるものが、結局は表裏一体の関係であり、分離して存在することはありえないという立場をとっている。これは「二元的一元論」という、当時の西洋では珍しい立場であり、それゆえにブレイクはヨーロッパではまだまだ異端者扱いを受けていた。だがリーチが東洋と西洋の融合を目指すうえで、ブレイクの思想が大きな影響を与えたことは間違いない。リーチがその著『Potter's Book』の中に「東と西の結婚」という項目を設けていることからもわかる。
ちなみに、リーチは若き柳宗悦にウィリアム・ブレイクの作品を紹介した。感銘を受けた柳はブレイク研究に没頭。1914年には「ヰリアム・ブレーク」を著し、リーチに捧げている。また、ブレイクの思想はのちの日本民藝館設立の構想母体となったともいえる。
柳宗悦が「ヰリアム・ブレーク」を発表したのと同じ頃、リーチはアルフレッド・ウエストハープ(Alfred Westharp)という、中国で暮らすユダヤ系ドイツ人の考えに同調する。ウエストハープはイタリアの教育思想家マリア・モンテッソーリの思想と、孟子や孔子などの中国思想に傾倒している、謎の多い人物であった。中国へ渡ったリーチは「中庸」を読み、ウエストハープと議論を戦わせたという。
「中庸」の「中」とは、物事を判断する上でどちらにも偏らず、かつ単なる中間でもない。中庸は儒教の倫理学的な側面における行為の基準をなす、最高概念であるとされる。詳しい資料はないが、リーチはここでも「2つのものの間」という考えに支配されていたと思われる。
中国でリーチが行き詰まり、迷走している様子を知った柳宗悦は、「東西のあいだに橋をかけるよりも、東西間の隔たりという観念自体を取り払ってはどうなのか」とし、「きみが禅を知らずに日本を去ったのは残念だ」と手紙を送っている。リーチは高村光太郎の影響でロンドン時代から禅に興味を持っていたが、本格的に学ぶのは日本を去り英国へ戻ってからである。
そんなリーチが最終的に辿り着いた信仰としての宗教は、バハイ教であった。バハイ教とは19世紀半ばにイランでバハーウッラーによって創始された一神教で、「バハーイー」「バハウラ」などとも呼ばれる。「人類の平和と統一」を目標とし、男女平等や偏見の除去、教育の普及を始めとした教義をもつ。また、宗教の根源はひとつであるという考えから、他の宗教を否定しないのもバハイの特徴のひとつだ。
1940年頃、リーチにバハイ教を紹介したのは英ダーティントンに住む米国人画家、マーク・トビーだといわれている。リーチは、バハイの教えを制作に置ける態度にも転用し、やがて「自力と他力」というアイデアを生みだすに至る。リーチの宗教に対する態度は、常に作品制作と密接な関係を持っていたわけだ。


◆◆◆ 白樺派との出会い ◆◆◆

 


柳宗悦とリーチ。1935年東京にて撮影。©Leach  Archive

*白樺派―1910年に創刊された同人誌「白樺」を中心にして起こった文芸文学者・美術家の集団をいう。自然主義に代わり、人道主義・個人主義・理想主義などを唱え、大正期の文壇の中心的な存在となった一派のこと。

 高村光太郎が書いた紹介状のあて先の中には、彼の父親である彫刻家の高村光雲、その友人の岩村透がいた。2人とも東京美術学校(現・東京芸大)の教授である。日本語を全く解さないリーチのために、岩村は教え子の1人を紹介し、身の回りの世話をさせることにする。リーチは日暮里に暮らしながら、上野桜木町にある寛永寺の貸し地に、西洋風でもあり和風でもある1軒家を新築し、英国からミュリエルを招き寄せる。リーチはここで銅版画を教える積もりであった。生徒募集のため、宣伝を兼ねた3日間のデモンストレーションを行ったリーチのもとに、数人の見学者が訪れる。それは名前をあげれば、柳宗悦、児島喜久雄、里見弴、武者小路実篤、志賀直哉などの、翌年には白樺派(*)を起こすことになる蒼々たるメンバーであった。これ以後リーチと白樺派のメンバーは互いに学び合い、思想の上でも双方共に多くの刺激を受けていくことになる。特にリーチと柳宗悦の関係は生涯続き、リーチの思想形成にも重要な役割を果たす。
結局、銅版画クラスはリーチが白樺派から日本文化を学ぶ時間にとって代わられた形で、自然消滅した。だが当時の日本は物価も安く、父親の遺産もあったリーチは、ミュリエルと共に近くの学校で英語を教えたり、前述の岩村透の関係する美術誌にエッセイを寄稿したりするなどして、必要以上にあくせく働く必要はなかったようだ。
リーチにとって、この時期はひたすら学びの時であった。日本文化についてばかりではない。ロダンやヴァン・ゴッホの作品を、西洋と変わらぬリアルタイムで鑑賞し、イプセンやウィリアム・ブレイクについて仲間と議論を戦わせるという体験もしている。柳宗悦によれば、ゴッホ並びに後期印象派の作品を全く知らなかったリーチは、ゴッホの作品を観て興奮し、帰り道に「英国は眠っている!」と電信柱を何度も殴っていたという。こうして、リーチはラフカディオ・ハーンの描くエキゾチックな過去の日本のイメージを次第に払拭しながら、「西洋美術」対「非西洋美術」という杓子定規な概念から離れてアートをとらえる視点を獲得しつつあった。

Bernard Leach Tile 1925 ©Tate St Ives
 一方、妻のミュリエルとの関係はリーチが芸術にのめり込む分だけ、希薄になっていた。しかも、10歳で寮暮らしを始めた彼は家庭生活、とりわけ夫婦生活がどういうものかよくわかっておらず、リーチにほとんど置き去りにされたミュリエルは、キリスト教の布教のために日本を訪れているグループと時間を共にしていたらしい。
1911年、白樺派との関係は良好だが、銅版画や絵画など、自身の作品の方向性に行き詰まりを感じていたリーチは、ミュリエルから妊娠を知らされる。これは彼に新たな責任が付加されることも意味した。父親になることに歓びながらも、一家の大黒柱となることに重圧を感じた。
しかし、その後この結婚生活が破綻するなどとは思いも寄らなかったのであろう。この時まだミュリエルは、夫との将来を信じており、英国にいる両親にもそのように書き送っている。
そんなリーチに、再び転機が訪れる。建築家の友人、富本憲吉と共に訪れた茶会の席で、初めて楽焼きを体験したのだ。楽焼きとは低温で焼く、素人にも参加できる素朴な焼き物の一種である。リーチは自分の絵が皿に焼き付けられるのを見て非常に興味を覚え、陶芸についてもっと学びたいと考える。友人を介し
Bernard Leach Ceramic 1925 ©Tate St Ives
て紹介されたのは、6代目乾山こと浦野繁吉で、リーチは彼に入門するとほぼ毎日工房に通う。1年後には自宅に窯を築くまでになり、更に一年後には7代目乾山の伝書をもらい免許皆伝となった。また、陶芸を学ぶことは、茶の湯や禅を始め、さらに深く日本文化を知ることであり、中国や韓国の文化に触れることだともいえる。リーチはこうして陶芸を通し、さらに広い視野で東洋を、そして美術の世界を見つめ始めていた。それまでは西洋に対する東洋、純粋美術に対する工芸など、AとBを対比させる二元論で物事を考えてきたリーチだが、陶芸の世界に触れたことで、これまでのような対比だけではなく、二者の融合の可能性を考えるようになっていく。
これは今後のリーチの生涯の軸ともなる問題でもあった。彼はこの問題を深く考えるうちに、次第に陶芸を離れ哲学の世界に傾倒して行く。こうして26歳のリーチが「手を動かしてこそ思想が生きる」のだということに気づくまで、まだもう1つの段階を経る必要があったのだ。
(次週へつづく)
 

 

東西の融合をめざした美の旅人 バーナード・リーチ [Barnard Leach] ―後編―

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2010年7月29日 No.636

取材・執筆/佐々木敦子・本誌編集部

東西の融合をめざした美の旅人
バーナード・リーチ(後編)

明治末期の東京を訪れ、陶芸の魅力に取り憑かれた英国人、バーナード・リーチ(1887 - 1979)。日本で「親日派」「日本の陶芸を西洋に広めた人物」として語られることの多いリーチは、故郷英国に戻り、東西文化の融合を目指した。数十年の『自分探し』の旅路の果てに辿り着いたイングランド南西端の町セント・アイヴズ。自らの製陶所「リーチ・ポタリー」を開き、やがて独自の思想を生みだすに至る、バーナード・リーチの生涯を前編に続きご紹介したい。

参考文献:『Bernard Leach Life & Work』 Emmanuel Cooper著(Yale University Press)、『バーナード・リーチの生涯と芸術 「東と西の結婚」のヴィジョン』鈴木禎宏著(ミネルヴァ書房)、『浜田庄司  窯にまかせて』濱田庄司著(日本図書センター)、『バーナード・リーチ展 Bernard Leach - Potter and Artist』 (1997年展覧会カタログ)Special Thanks to: Leach Pottery, Tate St Ives
 

 

  「銅版画を教えながら、愛する妻と日本で暮らす」という、大胆だが単純な希望を胸に来日し、やがて「東と西の架け橋」となることを目指すという、大きな問題に取り組むことになったバーナード・リーチ。それが最終的にどんな形を取ることになるのか依然分からないまま、リーチは探究心に突き動かされて自分探しの旅を続ける。乱暴な言い方をすれば、陶芸やポタリーはリーチの思索のための手がかりの1つに過ぎなかったとさえいえるのかもしれない。だがそれは、必要不可欠な要素であったことは間違いないだろう。後編では、陶芸家バーナード・リーチの誕生とその軌跡を追ってみよう。
 

◆◆◆ 陶芸家リーチの誕生◆◆◆

 


 1914年頃からリーチは中国へ渡る準備を開始するが、それは東洋と西洋の融合という問題を考えるうちに出てきたアイデアであった。リーチは雑誌の投稿文をきっかけに、アルフレッド・ウエストハープ(Alfred Westharp)という、中国で暮らす怪しげなユダヤ系ドイツ人の思想家を知る。ウエストハープの思想が自分の考えに近いと感じたリーチは、幾度か文通した後、精神的な指導者を求めて中国へ渡ることにしたのだ。日本語をやっと覚えたかというところに、次は中国語の世界である。しかも妻と幼い子供を連れての移住であった。だが結果は惨憺たるものだったらしい。日本のように西洋にかぶれる以前の、「純粋な東洋」である中国において、西洋のいい部分を接ぎ木しようという、いわば啓蒙者としての中国行きでもあったようだが、ウエストハープとの思想的不和によって、リーチ一家は日本へ戻る。
 
《左》濱田庄司作「鉄絵角皿」©Phil Rogers《右》バーナード・リーチ作「Flat-sided Bottle」1957年 ©Tate
この影には柳宗悦の力があった。彼は「きみにはもう指導者はいらないのではないか。僕はウエストハープの思想よりも、きみの陶芸の方が素晴らしいと思う」と告げ、千葉県我孫子市にある自分の敷地内に、窯を作ったらどうかと誘う。英国へ戻ることも考えていたリーチだが、英国はおりしも第一次世界大戦の渦中にあった。リーチは家族のことを考え日本を選ぶ。リーチの我孫子時代の幕開けである。
 当時の我孫子は何もない田舎の町であったが、ここに突然リーチや白樺派の人々が現れ、一種の芸術家のコロニーのような集落が形成された。中国では全く陶芸制作を行わなかったリーチだが、本場で質のよい白磁や青磁を見たことは、大きなプラスとなっていた。リーチはここで1920年まで、腰を据えて生地や釉薬などの研究にいそしみ、更に柳宗悦らと、禅について語り合う日々を送る。また、河井寛次郎と共に京都で釉薬の研究を行っていた若き濱田庄司との出会いも重要だ。当時20代だった濱田はリーチの陶芸作品をすでに知っており、東京で展覧会を開いたリーチのもとを訪れるが、2人の間に熱心な会話が交わされたという。濱田は釉薬の配合に関して、リーチが英語で話せる唯一の人物でもあった。彼はのちに人間国宝になる陶芸家だが、リーチが20年に英国へ戻り、セント・アイヴズに開窯する際、濱田がリーチの助手として同行し、その後関東大震災をきっかけに日本への帰国を決意するまで、その地で4年を過ごすことになる。   

 


◆◆◆ リーチ・ポタリーの設立◆◆◆


 


リーチ・ポタリーにて。工房の職人とともに撮影された写真。前列中央=濱田、濱田から向かって左=リーチ、濱田から向かって右二人目=ジャネット。 ©Leach Archive
   バーナード・リーチが濱田庄司と共にセント・アイヴズにやってきたのは1920年9月、リーチが33の秋であった。コーンウォール独特の美しさを持つこの港町は、昔から多くの観光客やアーティストたちを惹き付け、バーバラ・ヘップワースや、ベン・ニコルソンといった20世紀のアーティストたちも制作を行っている。しかし、リーチたちがやって来た20年当時のセント・アイヴズは、石と海に囲まれた荒涼とした港町であり、この地方の自然を愛する地方画家が、ターナーを真似て筆を握っているような、まだまだマイナーな地域であった。だがここでは活動的な老婦人が、セント・アイヴズ手工芸ギルド(The St Ives Handicraft Guild)という組織を主催しており、彼女はこの組合に陶芸家を加えたいと考えていた。知人を介してそれを知ったリーチは会員に応募し、ギルドからの出資金で製陶所を制作する。リーチは「東西の融合」や「中国の形、朝鮮の線、日本の色」を制作理念に、産業革命によって押し進められた「悪しき機械化の波に対抗しよう」というのがポタリーの運営方針となった。
 初めて英国を訪れた26歳の濱田は、口数も少なく手のかからない優秀な助手だったようで、1人で町を散策し港を歩き回り、現地の英国人にも受け入れられていた様子がうかがえる。港近くに住む漁師上がりの老人などは、毎週日曜日に決まって鯛を持って濱田の仕事場を訪れ、椅子に腰掛けて楽しそうに彼の仕事ぶりを眺めていたという。また、実直な人柄の濱田は当時幼かったリーチの子供たちにも好かれており、リーチ一家のスナップ写真の中には、2人の子供たちに挟まれ、手を握られている濱田の姿が残っている。濱田庄司は、明治時代に政府からヨーロッパに派遣された多くのエリート日本人たちとは違う、ユニークな魅力を持っていたのではないだろうか。東京育ちの濱田にとってもコーンウォールの自然と、そこに住まう朴訥とした人々は大きな印象を残したようで、やがて日本に帰国した彼が、栃木県の片田舎である益子に窯を開くのは、益子焼に興味を抱いていたのはもちろんのこと、英国の田舎町セント・アイヴズでの暮らしが印象深かったためだという。

リーチ・ポタリーにて、暖炉の前で語るリーチ=左から2番目。1947年撮影。©Leach Archive
 当初の「リーチ・ポタリー」ではリーチと濱田を含む4人のスタッフによる、試行錯誤の状態が続いた。リーチは山の斜面などを利用して作られる日本式の登り釜を採用したが、ヨーロッパとは違うスタイルの窯で制作すること自体、温度調節も含め大変な苦労であった。さらに、粘土の違い、釉薬の違い、灰の違いなど、日本とコーンウォールの地質や材料の違いも、一つ一つ吟味しなければならない。彼らは他所で手に入る質のいい土ではなく、その土地の材料を使うことを重んじたため、その苦労もひと塩であった。しかし、自分の思想を1から体現し、新たな物を生みだして行く喜びはどれほどだったであろうか。「指導者」を求めて彷徨っていたリーチが自らの足で立ち、闘い始めた時期だといえよう。今までの内面の試行錯誤を経て、実践的に解決していく時が来たのである。
 当時の英国では、絵画や彫刻などの純粋芸術(Fine Art)と応用芸術(Applied Art)には区別が設けられており、純粋芸術がアーティストの仕事だとすれば、応用芸術は職人による労働と、下に見なされていた。リーチはここに「artist-craftsman」という新たな自己規定を持ち込む。芸術家の個性に重きを置きながら工芸に携わる、というスタンスである。さらに、工房でも工場でもなく「スタジオ」という、作家の個性を重視した陶磁器を生産する場所としてポタリーを捉えた。このような従来の枠組みから逸脱したアプローチは、その後英国で活動する作家たちのあり方に大きな影響を及ぼしていくことになる。
 さらにリーチと濱田は、当時は過去の遺物として忘れ去られていた17世紀の英国の伝統的陶芸、スリップウェアの制作にも着手する。スリップウェアは生乾きのまだ柔らかい皿や鉢などに化粧土をかける、昔ながらの素朴な厚手の陶器である。彼らは偶然に自分たちの窯の近くで、大昔のスリップウェアの破片を発見し、その健康的な伸び伸びした美しさに魅せられ、自分たちもこの技法を使い、英国の伝統陶芸に新しい息吹を吹き込もうと考えたのだった。
 しかしポタリーの経営状態は総じて不安定で、リーチはロンドンや日本でしばしば展覧会を開き、愛好家や収集家に作品を売るほか、町の人々や観光客相手に楽焼教室を開いてしのいでいたという。2度にわたって起こった破産の危機は、妻ミュリエルが父親から相続した遺産で切り抜けたり、支援者からの資金援助で持ち直したりと、苦労も絶えなかった。また、関東大震災が起こり濱田庄司が日本に帰国したため、ポタリーの作品の質にばらつきが出るなど、技術的な面でも苦労を強いられた。
 1930年代から1950年代のリーチは、ポタリーを離れる時間が増え、その間の管理は成人したリーチの長男、デヴィッドがあたった。日本で人気の高いリーチが、講演や展覧会によりポタリー存続の資金を得ようと考えたことに加え、女性問題によるリーチの罪悪感も、リーチをポタリーから遠ざけた。彼の母親がリーチを産んですぐ死んだことは前編で述べたが、そのためリーチは母性愛を欲していた。ミュリエルと結婚したことで、彼女はリーチの中で「母親」となってしまい、その結果ほかの女性を求めるというサイクルに陥った。これは日本に滞在していた時からの、ミュリエルとリーチの問題でもあった。これまでに何人かの女性がリーチの前に現れたが、ポタリーで学ぶ学生で、秘書としても働くローリー・クックス(Laurie Cooks)とのただならぬ関係を知ったミュリエルは、初めて離婚を意識する。ミュリエルは良き妻で母親だが、ローリーは陶芸についても詳しい、いわばリーチの同志であった。一度はやり直すことを考えたリーチも、結局このローリーと共に家族のもとを去り、1936年にはデヴォンシャーでダーティントン・ポタリー(Dartington Pottery)を立ち上げ、ミュリエルと離婚が成立した44年にローリーと結婚する。
 この時期は、濱田庄司によれば「(リーチが)まるで巡礼の様に」毎年日本へ通う、忙しい時代でもあった。のちに陶芸家のバイブルと言われるに至る『A Potter's Book』の出版や、柳宗悦らの日本民藝館創立への参加、そしてロンドンにおける幾つかの個展開催など、リーチのキャリアに置いては重要な時期であったにも関わらず、私生活に関して見るとまるで流浪の民である。幼い頃から各国を点々としたリーチは、晩年に至るまで、定住の地を見つけることはなかった。東西の架け橋を目指したリーチにとって、このような暮らしはあるいは自然だったのかもしれない。
 リーチは長男デヴィッドの要請で、1940年末にセント・アイヴズに戻る。これは第二次世界大戦で戦局が悪化したのと、デヴィッドの兵役などが理由であった。セント・アイヴズはドイツ軍の爆撃を受け、リーチ・ポタリーも被害をこうむる。しかし、ほかの製陶所が次々に閉鎖する中、リーチのポタリーは細々とではあったが持ちこたえた。戦時下のため展覧会向けの作品の需要はないが、一般家庭向けの食器の需要があったのだ。ポタリーでは安くて質のよい、スタンダード・ウェアの制作に力を入れる。日本で柳宗悦が提唱する「用の美」、すなわち日常使いの雑器にシンプルで質の高いものを使うという、民芸運動の波に同調した形だ。やがて戦争が終わると、戦争中に工場生産の白い簡素な食器しか手に入れることのできなかった人々が、リーチ・ポタリーの暖かい色使いや、手作りの風合いに魅せられ、ロンドンの大型デパートなどは、生産量の追いつかない在庫を得ようと張り合ったという。戦前には考えられなかった好景気がポタリーに訪れた。この売り上げに助けられたリーチ・ポタリーは、兵役を終えた長男デヴィッドを共同経営者に迎え、財政安定化へと向かう。 

 


◆◆◆ 晩年のリーチ◆◆◆

 


柳宗悦とリーチ。1935年東京にて撮影。©Leach  Archive*白樺派―1910年に創刊された同人誌「白樺」を中心にして起こった文芸文学者・美術家の集団をいう。自然主義に代わり、人道主義・個人主義・理想主義などを唱え、大正期の文壇の中心的な存在となった一派のこと。

  戦後リーチ・ポタリーが軌道に乗ると、リーチは再び海外で展覧会を開くようになる。米国や日本をまわり、2年以上の長期にわたりポタリーを留守にしたこともあった。その間の経営や制作は、長男のデヴィッドや次男のマイケル、献身的な弟子であるウィリアム・マーシャル(William Marshall)などによって手堅く行われており、常に10人以上のスタッフが働いていた。以下、1950年以降のリーチの行動をしばらく時系列にそって追ってみよう。リーチの奔走ぶりが伝わって来る。
1950年(63歳)3月―米国に4ヵ月旅行、ワシントンの現代美術協会による巡回展を行う。4月―米国陶磁協会から「ビンズ賞」を受賞。
1951年(64歳)世界中の陶磁器からリーチが選んだ名品図録ともいえる、『A Potter's Portfolio』を刊行。
1952年(65歳)ロンドンのボザール・ギャラリーで濱田庄司と二人展。7月―ダーティントン・ホールで国際工芸会議を開く。柳宗悦、濱田庄司も参加。10月―柳、濱田と米国へ渡る。
1953年(66歳)2月―米国を経て来日。上野松坂屋で個展。翌年まで日本に滞在する。5月―布志名と湯町で制作。7月―益子の濱田窯で制作。8月―柳、濱田、河井寛次郎と信州に滞在し、琳派の研究を開始。10月―九谷で制作。 11月―大阪で河井、濱田と三人展を開催。
1954年(67歳)2月―柳と房州に滞在。4月―河井、濱田と小鹿田を訪れ制作。神戸で河井、濱田と三人展、東京で富本憲吉を加えて四人展を開催。夏は松本に滞在する。9月―三越で「滞日作品展」を開催 11月―英国帰国途中に、イスラエルの「バハイ教世界センター」を訪問。
1955年(68歳)4月―大阪で「現代民芸展」。6月―神戸で「リーチ監製家具陳列即売会」開催。さらに『A Potter's Book』が『陶工の本』として邦訳出版される。7月―ミュリエルが膀胱ガンで死去。
1956年(69歳)ローリーと離婚、ジャネット・ダーネルと結婚。

 

 最終的にリーチがセント・アイヴズに帰り着いたのは1956年だが、それと同時に将来ポタリーを継ぐと思われていたデヴィッドが独立を宣言する。リーチの留守中ポタリーを守ってきたデヴィッドだが、彼自身1人の陶芸作家であった。今や巨大な存在である父親の助手として、再び自我を殺してリーチの下で働くのは辛かったと思われる。
 加えて、リーチは米国から新しいパートナーを連れ帰っていた。3人目の妻、ジャネットであった。リーチは米国滞在中の1952年に熱心なリーチ・ファンの陶芸家ジャネットに出会い、日本滞在にも同伴した。リーチはジャネットが単なる自分の崇拝者ではなく、時に歯に衣着せぬ物言いで発破をかけるといった、彼女の強さに惹かれたようである。ジャネットは今や高齢の域に達した69歳のリーチに替わり、実質的にポタリーの運営にあたるようになる。彼女が製陶所を取り仕切るようになって以降、ポタリーでは従弟の制度がなくなり、美大やほかの工房で基本訓練を受けた陶芸家たちが雇われるようになった。
 リーチはスタッフの作るスタンダード・ウェアと個人の作品双方を監修していたが、自分の死後を考えた彼は、自分のデザインしたスタンダード・ウェアの寸法や重量、素描を記し、彼らに配布している。自分が確立してきたことを「伝統」としていかに保存するかに心をくだいたといえる。彼自身、若き時代に6代乾山から伝書を授かった。リーチはかわりに『A Potter's Book』という、今では陶芸家のバイブルといわれる著作と、スタンダード・ウェアのレシピを残したのだった。
 その後もリーチは精力的に活動を続ける。毎年日本を訪れて作陶し、英国ではポタリーでの指導に携わるというスタイルを保ち続け、最後の来日は1974年。リーチは89歳になっていた。1961年には畏友である柳宗悦を亡くしたが、柳の論文の英訳『The Unknown Craftsman』を72年に出版し、長年の友情と柳のキャリアを讃えた。リーチの名声はじわじわと高まりを見せ、77年にはヴィクトリア・アンド・アルバート・ミュージアムで大回顧展が開催されるまでになる。英国政府から大英帝国勲章のCBEやコンパニオンズ・オブ・オナー勲章などを受けることとなった。ポタリーには世界各国の陶芸家や学生が、リーチの魅力に惹かれやってきていた。リーチは視力が弱って引退する最晩年まで、ポタリーでの指導にあたったという。
 1978年に濱田庄司の死の知らせがリーチのもとに届き、彼は陶工・濱田庄司についての回顧録の口述筆記を開始する。だが、翌年リーチは肺炎にかかり、6週間の闘病生活の後、1979年5月6日、セント・アイヴズの病院で死去。92歳であった。死の数日前、リーチは、夢で楽しく濱田と会話したと妻のジャネットに告げている。葬儀はリーチの遺言通り、彼の信仰するバハイの教えに基づいて行われた。墓石には「BERNARD LEACH POTTER」と刻まれているという。彼の墓はセント・アイヴズ郊外のロングストーン墓地(Longstone Cemetery)という共同墓地にあるが、これはリーチがキリスト教徒ではないため、教会の墓地に墓を作れなかったためともいわれている。
 東西の文化の融合を陶芸によって完成させようとしたリーチだが、それは自分の中にある東洋と西洋の融合でもあったのではないだろうか。幼児期から複数の国、複数の家庭、複数の文化に身を置いた彼は、絶えず自分を1つに保とうともがいた。数多くの宗教に興味をもったのも、これが原因だろう。リーチは「陶芸家」としてだけでは括れない魅力を持った人物だが、もし彼が今の世の中に生きていたら、リーチの苦悩も、目指すところも、もっと一般に理解されていたのではないだろうか。西洋、とりわけ英国におけるリーチの評価は未だ一定していないといってもよく、彼の思想が理解されているとはいい難い部分も多い。だが異文化の混在する現在の英国の姿や、陶芸やクラフト界の活性ぶりをみると、バーナード・リーチ再評価の時代がいよいよやってきたのではないかと思わずにはいられない。
 リーチは1973年に、それまで書き溜めた詩を1冊の本にして出版しているが、長い序文の中にこう記している。


もちろん詩の分野では、私は自信がなく、しろうとであるが、陶工や図案工としても実はそうである。だが大切な点は、自分や自分の短所以上にずっと重要な何かについて、人に与えるべきメッセージを持っているか否かではないのか。もし私の生涯の仕事のどれかの中にある真実によって、その橋の建設にただ一箇の煉瓦でも貢献できたら、私は満足である。

 


 

Leach Pottery in St Ives 


©Leach Archive
 西洋初の日本式登り窯として1920年にスタートしたリーチ・ポタリーは、リーチの死後、リーチの3度目の夫人ジャネット・リーチにより引き継がれるが、彼女が亡くなると、売却され、解体の危機にさらされた。
 2005年、陶芸の歴史上、重要な意味を持つこの工房を救おうと、「リーチポタリー再建運動委員会」が発足。英国政府より認可を受けた公的慈善団体として募金活動が始まり、06年にはポタリーの敷地および登り窯が買い戻された。
日本側でも、柳宗悦や濱田庄司がかつて館長をつとめた日本民藝館が中心となって、募金活動がスタート。資金はリーチ・ポタリーの再建および日英文化交流奨学基金の運営のために充てられた。
 こうして保存・拡張工事を経て、晴れて2008年、新リーチ・ポタリーが完成。3月6日の竣工式ではバーナード・リーチの孫、ジョン・リーチさんと、濱田庄司の孫、濱田友緒さんによるテープカットが行われた。

セント・アイヴズにあるテート美術館の分館
 現在のリーチ・ポタリーは、リーチの足跡をたどるミュージアムや、若い陶芸家を育てるワークショップ、ギャラリー、ショップなどを備えた国際的な「陶芸センター」として機能している。
 現在、陶工は米テネシー出身のキャット・リバシー、英サマーセット出身のエラ・フィリップス、そして歴代のリーチ・ポタリー陶工として初めての日本人女性である遠藤みどりの各氏、計3名だ。
 リーチ・ポタリーのあるセント・アイヴズは、風光明媚な海辺のリゾート地であるが、古くから芸術家コロニーが形成され、美術学校ができるなど、芸術村としても名高い。リーチ・ポタリーができたことで、そのアート色は強まり、現在では「バーバラ・ヘップワース美術館・彫刻庭園」、テートの分館「テート・セント・アイヴズ」のほか、多数のギャラリーやアート雑貨店など、アートを楽しむアトラクションに満ちている。
 コーンウォールの名所、セント・マイケルズ・マウント、ランズ・エンド、ミナック・シアターなどと絡めて、ぜひアートの街、セント・アイヴズを堪能していただきたい。
The Leach Pottery

1970年代に撮影されたと思われるリーチ・ポタリー外観©Leach Archive
月曜―土曜 午前10時―午後5時(冬は4時半まで)。
 午前11時―午後4時。
入館料  大人 4.50ポンド 子供 無料。
Higher Stennack, St Ives TR26 2HE。
Tel. 01736 799703。
www.leachpottery.com

 


ロンドン復興に生涯を捧げた、超人クリストファー・レン(Sir Christopher Wren)

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2010年9月30日 No.645

取材・執筆/根本玲子・本誌編集部

ロンドン復興に生涯を捧げた
超人クリストファー・レン

ロンドン大火後の街を復興するという壮大な都市計画に携わり、
シティの麗しきランドマーク聖ポール大聖堂を完成させたクリストファー・レンChristopher Wren。
建築一筋の人生と思いきや、天文学者、数学者としても活躍したのち
建築家として天才的な才能を発揮するという華麗なキャリアの持ち主だった。
今回は英国が誇るこの偉大な建築家の生涯を辿ってみたい。

 

 英国王家の教会堂ウエストミンスター・アビーと並び称される聖ポール大聖堂。英国国教会の代表的な司教座聖堂として様々な国家的式典が行われるほか、ネルソン提督やチャーチル首相、ナイチンゲールなど英国要人が眠っていることでも知られる。
 チャールズ皇太子と故ダイアナ元妃が挙式したり、最近ではエリザベス女王の80歳の誕生日を祝う式典が催されたりしていることから、その名前に馴染みがある人が多いのではないだろうか。 
 優雅で壮大なドームが印象的なこの大聖堂については、グリニッジ展望台やリッチモンド・パークなど、市内の主要な規定ポイントからこの大聖堂が常に見えるよう、それらのポイントと大聖堂を結ぶ線上には高い建物を建てることを禁ずる「ビューイング・コリドー」という建築規制が設けられているという。
 この麗しい大聖堂を完成させたのが17世紀の建築家クリストファー・レン(1632―1723年)である。
 レンは1632年、イングランド、ウィルトシャーで王党派(イギリスの内乱期において議会派に対抗し、国王を支持した貴族たちによる派閥)の聖職者の家庭に生まれた。オックスフォード大出身の聖職者である父クリストファー・レン(同名)には、前年に長男が誕生し、父親と同じくクリストファーと名付けられたが生後まもなく死亡。翌年誕生したレンは待望の息子であった。父親はウィンザー主席司祭で高学歴のエリート、母親のメアリーはウィルトシャーの大地主の1人娘で父の遺産を相続しており、経済的に恵まれた境遇にあったレンだが、母メアリーは2歳年下の妹エリザベスを出産した後しばらくしてこの世を去り、レンは姉スーザンを母親代わりにして育つ。レンは小柄で病弱だったが絵の才能に恵まれ、同じく聖職者だった父方の従兄弟と仲が良く、兄弟のような関係だった。チャールズ1世の息子、つまり皇太子も遊び仲間だったという。

◆◆◆ 科学への扉 ◆◆◆

 体が丈夫でなかったこともあり、レンは父親と個人教授による教育を受けたのち、9歳でロンドンのウエストミンスター・スクールに進学する。この頃すでに科学の世界に魅せられ、ラテン語で父親に手紙を書くといった神童ぶりを見せていたという。
 レンの1族は王党派で、王室の恩恵を厚く受けていたことから、1642年に清教徒革命が勃発すると、叔父のマシュー・レンは議会派によって捕らえられ、ロンドン塔に投獄されてしまう。このためレンの父親は疎開を決心し、家族を引き連れブリストルへと移る。レンが01歳になった頃、スーザンが音楽理論家で数学者のウィリアム・ホールダーと結婚したことをきっかけに、一家は彼女の嫁ぎ先オックスフォードシャーへと居を移す。レンの義理の兄となったホールダーはレンの数学教授的な役割を果たし、彼の学術的、知的成長に強い影響を及ぼしたとされる。彼に天文学への扉を開いたのもホールダーだった。
 卒業するとレンは、そのまま大学へは進学せず、その後数年を科学の広い知識を身につけることに費やす。大学進学を断念したのは体調が思わしくなかったという説もあるが、この間、解剖学者チャールズ・スカバーグ(Charles Scarburgh)のもとへ赴き助手を務め解剖学についても学ぶ。なかなか優秀な助手ぶりだったのだろう、スカバーグの助手を終えた後のレンは数学者ウィリアム・オートレッド(William Oughtred)のもとで、彼の研究結果をラテン語に翻訳するという仕事に推薦されている。こうして、オックスフォード大学ウォダム・カレッジに進学したのは3年後のことだった。

 


◆◆◆ 非凡な科学者としての活躍 ◆◆◆

 大学卒業後のレンは研究員に選出され、様々な研究に専念しはじめた。この時代のレンは人間の脳のスケッチを行うかと思えば、一頭の犬から別の犬への輸血を行う装置を発明してその実演を行い、月観測に没頭しては、地磁気の研究に勤しむといった具合。天文学をはじめとし、数学、解剖学といったジャンルにこだわらず、アイデアとインスピレーションの赴くまま突っ走った青年時代だった。
 彼の評判は瞬く間に知れ渡っていったらしく、1657年、レンは25歳の若さでロンドン大学グレシャム・カレッジに天文学教授として招かれる。
 また、オックスフォード時代から物理学や科学について討論を行っていた科学者仲間とも交流を続け、彼らがロンドンでレンの講義に参席することもあった。この討論グループはのちに現在も続く王立協会(ロイヤル・ソサエティ)に発展していく。
 こうしてますます学者としての名声を高めたレンは1661年、再び母校オックスフォード大に戻る。今度も30歳に満たぬ歳で、天文学教授の職を得たのである。 

 

気鋭の学者たちが集った科学の梁山泊
ロイヤル・ソサエティ
 現存する最も古い科学学会である「ロイヤル・ソサエティ」は正式名称を「The Royal Society of London for the Improvement of Natural Knowledge/自然についての知識を推進するためのロンドン王立協会」という。これはレンをはじめ、物理学者のロバート・フックや数学者のジョン・ウォリスなどオックスフォードの自然哲学および実験哲学に興味を持つ学者たちがお互いの家や大学を行き来し、それぞれの専門知識やアイデアを交換しては議論をたたかわせ切磋琢磨していた集まりが原型となっている。
 約12名の科学者たちで構成され、「インビジブル・カレッジ(見えない大学)」と呼ばれていたこの討論会は 1660年には週に一度の公式ミーティングを開始し、62年にはチャールズ2世の特許状によって王立組織に、現在では会員1400名を擁する一大組織に発展した。そうそうたる顔ぶれの創立メンバーの中でも、オックスフォードからロンドンへと移り、グレシャム・カレッジで天文学教授をつとめたクリストファー・レンの業績と人脈が、組織の成立に大きく貢献したのは間違いないだろう。ちなみにこのグレシャム・カレッジ時代、望遠鏡の仕組みを学び改良を行っていたレンは土星の観測を行い、土星の輪についての理論を固めつつあったが、オランダの天文学者クリスティアーン・ホイエンスに実証論文で先を越されるという悔しい思いもしている。また創立メンバーの一員であっただけでなく、1680~82年までは3代目会長も務めた。
 ちなみに1982年に米アリゾナ州のローウェル天文台でエドワード・ボールが発見した小惑星レン(3062 Wren)、そして水星にあるクレーターのレンは、彼の功績をたたえて命名されたという。

 

◆◆◆ 建築家レンの誕生 ◆◆◆

 科学、数学、天文学の分野で学者としての地位を得たレンの興味が建築へと向かい始めたのはいつごろだったのだろうか。
 レンの生きた時代には、現在我々がイメージするような「建築家」という確固とした専門職はまだ存在していなかった。当時、建築は数学の応用としてとらえられ、高等教育を受けた人間が建築に手を出すというのはそれほど「畑違い」なことではなかった。レンも数学や幾何学を応用し、広場の設計や都市計画のあり方について独自の研究をすすめていた最中だった。しかし、机上の理論を実践に移すチャンスがなければ、実際の建築家としての能力を試すことはできない。そして、このチャンスは意外に早くやってきた。
 1661年、当時ポルトガルからイングランドに割譲されたばかりの北アフリカの港、タンジールの防衛強化工事について依頼を受けたのだ。しかしレンは、健康上の理由でこれを断ることになる。
 だが2年後には、レンが建築へと傾倒していく重要な転換期が訪れる。1663年、彼は当時バロック建築の最先端を行っていたローマに渡り、当時の彫刻と建築の巨匠ジャン・ロレンツォ・ベルニーニに会い、古代ローマ時代に建てられたマルケッルス劇場の調査を行うのだ。
 そして同年、イーリー司教だった叔父より、ケンブリッジのペンブルック・カレッジのチャペル設計の依頼を受ける。これが、レンの建築家としての第1号の仕事となった。
 続いて彼は、オックスフォードのシェルドニアン劇場の設計にも着手。この建物は前述のマルケッルス劇場の影響を大きく受けたデザインとなった。また1665年には、パリに長期滞在し、バロック建築について研究を深め、ここを拠点にフランドルやオランダにも足を運ぶ。これには単なる学問以上の目的があった。当時レンのもとには、1大プロジェクトが舞い込んでいたからである。

 

◆◆◆ 大災害とともに訪れたチャンス ◆◆◆

 1660年に王政が復古すると、国王チャールズ2世は老朽化の進んでいたロンドンの「シティ」のランドマーク、聖ポール大聖堂を蘇らせるため、本格的な修復計画に乗り出した。62年には建物の状態を調査するため勅定委員会が設立され、レンは修復計画の準備を行うよう要請を受ける。彼はこのために前述の建築の研究を行っていたのである。設計プランは66年8月末に認可されるが、作業に取りかかる間もなく9月2日未明にロンドン大火が発生。4日間に渡る猛火でシティの3分の2が焼け野原と化し、大聖堂は修復どころか取り壊しを余儀なくされるほどの壊滅的ダメージを受けてしまう。
 鎮火後まもなく国王とロンドン市長により、識者、権力者6人からなる再建委員会が結成される。レンはもちろんその1員となった。
 大火という災害によって、レンの仕事は単なる「建物の修復」から「都市再建」という巨大なプロジェクトに膨れ上がる。思わぬ形ではあったが、これまでは思い描くだけだった都市計画を実現させる絶好のチャンスが到来したのである。火災発生後0日と経たないうちに、レンは国王に壮大な再建プランを提出する。これはイタリアの都市をモデルに、主要となるモニュメントやピアザと呼ばれる広場から、街路が放射状に伸びる、バロック様式の「光」の構造を取り入れたものだった。
 しかし生憎なことに、この巨大プロジェクトは国王と枢密院によって承認されたものの、生活を優先して再建を急ぎたいシティ住民の反対を招き、地主と所有権をめぐり紛争が起こるなどしたため、結局採用されずに終わってしまう。もし、レンの構想が実現されていたとしたら、今日のロンドンはパリやローマのような華やかで「大陸的」な顔をもっていたかも知れない。

 


◆◆◆ 夢のドーム実現 ◆◆◆


第1案、第2案と却下された後、
最終的に落ち着いた大聖堂の設計案
 夢のシティ復興プランは諦めざるを得なかったものの、レンは災害の再発を防ぐ都市づくりのため、法制備に着手する。まず、火事調停裁判所を設けて家主と借家人の利害調停を行うようにし、建築規制などを盛り込んだ「再建法」をスピード成立させた。
 これには、シティに持ち込まれる石炭に課税し公共施設の再建に充てる/新築される建物はすべてレンガもしくは石造りにし建築認可を義務付ける/防火のため主要な通りの幅に規制を設ける/建物の階数を規制する、といった内容が盛り込まれていた。テムズ河沿いに集中していた煙害や悪臭をもたらす工場群を、市壁の外に移転させることにしたのも彼だった。これらは現代にも通用する立派な再建策であり、ここでもレンは学問のジャンルを超えた「天才」ぶりを発揮している。
 レンの采配によりシティは急速な復興を遂げ、今日に続く大都市ロンドンの中核が形作られていった。火事が日常茶飯事だったという街は「防災都市」として生まれ変わり、その後大火災が発生することはなく、猖獗を極めた疫病ペストすら街から姿を消していった。
 しかしその1方で、彼が大火前から携わっていた聖ポール大聖堂の再建は思ったように運ばず、ろくな準備も始められないまま5年近い歳月が経過していた。
 これは、国王をはじめ聖堂参事会や聖職者たちからの要望や期待が大きく、設計案が決定するまでに二転三転したことによる。レンは聖堂内に広がりのある空間を作るためには大きなドームは必須と考えていたが、長い尖塔やラテン0字型といった伝統にとらわれる聖堂参事会や聖職者たちからは悉く反対に合う。時間と労力が必要以上にかかり、レンの苛立ちは頂点に達していた。

レンが最後までこだわり続けた大型ドーム。しかし、ドーム内にモザイクを施したいというレンの意向は打ち砕かれ、代わりにジェームズ・ソーンヒルによる天井画が描かれている。
 結局、第1案、第2案を却下されたレンは、3度目の設計案として誰もが納得するようなデザインを取り入れた図を提出して着工許可を得、建設が進むにつれ、囲いを立てて現場を見られないようにし、そのままの設計を提出していたら賛同が得られなかったであろう理想の大型ドームを完成させてしまうという「荒技」に出る。
 現在でも世界有数の規模を誇る、高さ111・3メートルのドームは、レンの思い描いていた「光の都市」の中核となる建物であった。巨大プロジェクトを目の前に何度も挫折を味わった中で、これだけは何としても作り上げたいという思いがどれだけ強かったことか。
 聖ポール大聖堂には、他のレンの建築物には見られない建築家としての意地と誇りが秘められているのである。

 

◆◆◆ 愛する者を次々に失った壮年期 ◆◆◆

 ロンドン再建委員会での仕事を機に、1669年、王室建築総監に任命された307歳のレンは、建築家としての名声を得たおかげもあったのだろうか、長年オックスフォードシャーで交友を深めていたコッグヒル卿の娘フェイスと結婚する。
 子供時代からの知り合いで、レンの4つ年下だったというフェイスがどのような人物であったのかについては残念ながらほとんど記録が残されていないが、夫婦仲は円満だったようで、プレゼントの腕時計と共に妻宛に送ったレンの熱烈なラブレターが残されている。
 だが、2人の結婚生活はたった6年で終焉を向かえる。2人の間には長男ギルバートが誕生するが、病弱のため1歳半にならないうちに死亡。次に誕生した息子は父親の名を引き継ぎクリストファーと名付けられたものの、同じ年にフェイスが天然痘にかかり死亡してしまうのである。子を亡くし妻を亡くすという、父親の若き日をなぞるような悲運の連続に、レンはさぞかし落胆したことだろう。
 それでも、愛妻の死から約1年半後という比較的早い時期に、レンはフィッツウィリアム卿の娘ジェーンと再婚する。妻を亡くした孤独感には、さすがの天才も耐えがたかったと見える。加えて、1人息子のクリストファーに母親を与えてやりたいという気持ちも強かったのだろう。
 しかしこの結婚生活はさらに短命に終わった。2年後、ジェーンも2人の子供を産んだ後、結核でこの世を去るのである。彼はその後、独身を貫くことになった。

 


◆◆◆ 天才的建築家として活躍 ◆◆◆

 私生活では不幸続きであったレンだが、この時期から晩年までの建築家としての活躍には目覚ましいものがある。まるで悲しみを追い払うために必死に仕事に打ち込んでいたかのようにも思える。
 聖ポール大聖堂の建設が進められる間にも、大火で焼け落ちた50を超える教区教会の再建に取りかかり、ロンドン大火とその後の復興を記念した「ロンドン大火記念塔」、「ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ図書館」、「ハンプトン・コート」、そして若き日の天文学者としての素養と建築家としての才能の結晶ともいえる「グリニッジ天文台」など、数えきれないほどの建物の設計を手がけ、英国を代表する建築家としていよいよその地位を不動のものとする。イタリアやフランスでの研究をもとに、劇的な建築空間を演出する「バロック建築」を英国に最初に取り入れたのも彼だった。
 もともと数学や天文学、幾何学を専門とする科学者であったレンは、数字や平面を立体的に捉え思考することに人一倍長けていた。また彼のバロック的空間構成には、数学的思考をベースにした彼自身の美的解釈が反映され、これまでにない独創性や大胆な試みが用いられた。彼の建築における天才的センスは、科学者としての素質に裏打ちされたものだったのである。

 

◆◆◆ ロンドン詣でが趣味となった晩年 ◆◆◆


息子クリストファーによる言葉が刻まれたレンの墓碑。大聖堂の地下納骨堂にて見ることができる。
 1710年、レンの最高傑作となる聖ポール大聖堂が完成する。着工許可から約35年、彼は76歳になっていた。父親の名を引き継いだ長男クリストファーも建築家となるべく教育を受け、成長してからは父とともに大聖堂の建設に関わっており、完成時には彼が最後の石材を頂に置いたという。数々の難題を乗り越え、理想の聖堂を作り上げたレンの感慨、誇らしさはひとしおだったであろう。
 レンは1718年、血気盛んな建築家ウィリアム・ベンソンに高齢を理由に王立の建築監督の座を明け渡すよう迫られ引退することになるが、引退後もハンプトン・コート地区にある自宅から定期的に大聖堂を訪れては、その美しい姿を眺めるのを晩年の楽しみの1つにしていたという。
 1723年2月、91歳になっていたレンはいつも通りロンドン詣でをした帰りにひどい風邪を引き、数日間床についたまま自宅で息を引き取る。使用人が彼を起こそうとした所、すでに冷たくなったいたのを発見したとされている。
 3月5日、レンはのちに偉人達が葬られることになる大寺院地下の納骨堂に葬られることになった。彼の最高傑作はまた彼の墓標ともなったのである。
 若き日には科学の発展に貢献し、その後の生涯を建築を通してロンドン復興に捧げた超人クリストファー・レン。
 彼の墓碑には息子クリストファーによる「我がためではなく、人々の幸福の為に生きた。レンの記念碑を探している者は周りを見よ」という言葉がラテン語で刻まれている。
 父親に育てられ、その仕事ぶりを間近で眺めてきた息子の心からの賞賛の言葉であったろう。

 

ニュートンの「世紀の理論」誕生裏話
 万有引力の法則を発見した天才科学者アイザック・ニュートン=右=(1643~1727)。他人をおおっぴらに賞賛することはほとんどなかったという彼だが、万有引力の法則と運動方程式について述べたかの大著「自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)」の中でレンのことを最も優れた数学者の1人であると記している。ちなみに、ニュートンがこの大著を仕上げる前にはこんな話があったとか。 1684年1月のある日、当時学者や作家たちの社交場のような機能を果たしていたコーヒー・ハウスのひとつに、建築家として働き盛りのクリストファー・レン、そして彼の助手を務めたこともある物理学者のロバート・フック=下右、ハレー彗星で知られるエドモンド・ハレー=下左=が集い、惑星の軌道に保つ力の向きと強さについて討論していた。
 このとき最初に「これは太陽に引っ張られる力で、強さは太陽からの距離の2乗に反比例(逆2乗の法則)すると思う。しかしその証明ができなかった」と発言したのがレン。これに対してフックは「逆2乗の法則からすべての天体の運動の法則が証明される」と自信満々の発言をしたものの、実際にはその証明を提示しなかった。
 フックが本当に証明できるのか疑問に思ったハレーは、その後ケンブリッジに赴きニュートンに同様の質問をぶつけてみたところ、はるか昔に万有引力の法則(=逆2乗の法則)に気付いていた彼は「惑星の軌道の形は楕円だ」と即答。事の重要性に驚いたフックはニュートンにまとまった書物を記すよう説得し、彼はハレーの様々な質問に計算や証明を続けながら大著「プリンキピア」の構想を練っていった。しかし同著が発表されると、ニュートンをライバル視していたロバート・フックは「この内容は自分が以前ニュートンに文通で知らせたものだ」と怒り出し大論争に発展する。俗世離れしているように思える学問の世界も、実社会に劣らず人間臭さに満ち満ちているという見本である。レンはこのエピソードの中では脇役といった感じだが、建築家として第一線を行く彼が天文学への興味を失わないばかりか、世紀の科学者ニュートンに劣らない次元の研究に勤しんでいたということがうかがえ興味深い。


 

 

ロンドン大火記念塔
Monument 【ロンドン】

クリストファー・レンとロバート・フックによる設計により1677年完成。高さは、ロンドン大火の火元であるプディング・レーンまでの距離と同じ61メール。

トリニティ・カレッジ図書館
The Wren Library 【ケンブリッジ】

1676年から1684年建設。英国に5館存在する納本図書館(流通された全ての出版物を義務的に納本される権利を有する図書館)のひとつ。

 

ハンプトン・コート東面
Hampton Court Palace 【ロンドン郊外】

1689年から1694年にかけ、ウィリアム3世とメアリー2世の時代に建て替えられた東面。噴水のある中庭「ファウンテン・コート」もレンによるデザイン。

セント・ジェームズ教会
St James's Church 【ロンドン】

ロンドン大火では被害を避けられたものの、1940年に激しい爆撃を受け、その後修復された。

 

シェルドニアン劇場
Sheldonian Theatre 【オックスフォード】

1668年設立。建築家としてスタートを切ったばかりのレンの作品。トラス屋根を採用するなど、既に彼の敏腕ぶりが表れている。

大クライスト・チャーチのトム・タワー
Tom Tower 【オックスフォード】

中にグレート・トムと呼ばれる大鐘が設置されており、午後9時5分になると101回鳴る。その昔、カレッジの門限が21時5分だったためだとか。101という数は、カレッジ創設時の学生数といわれている。

 

グリニッジ天文台
Royal Greenwich Observatory 【ロンドン】

イングランドが新大陸との貿易で富を築くため、航海を安全に行うことが第一優先だった時代、天体観測データを必要としていた時の国王チャールズ2世は、天文学者でもあったレンにこの観測所の設計を依頼。しかし当時は国家歳入が慢性的に不足しており、チャールズ2世は古い建物を売却して得た500ポンドを建設費用としてレンに渡す。彼は廃材を利用するなどして最終的には20ポンドの予算オーバーでこの天文台を作り上げたとされている。

旧王立海軍学校
Old Royal Naval College 【ロンドン】

1694年負傷した船乗り達を収容する「グリニッジ・ホスピタル」として設立された。1869年に病院が閉鎖されると海軍学校として使用された。現在、建物の一部が一般公開されている。もともとチューダー朝にヘンリー8世などが生まれたプラセンティア宮殿があった場所。

 

 

不思議の国の住人 ルイス・キャロル [Lewis Carroll]

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2011年3月31日 No.670

●Great Britons●取材・執筆/佐々木 敦子・本誌編集部

不思議の国の住人
ルイス・キャロル

『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』といった児童文学の名作を生み出し、英国が誇る作家として現在も世界中の子供たちを魅了するルイス・キャロル。写真家や数学者としての顔も持ち、その憂いを含んだ肖像写真は「ヴィクトリア朝のダンディ」という印象を与える。だが、実はキャロルの生涯はいまだに謎に包まれていることが多く、時代や伝記作家によって、描かれる彼のイメージは大きく異なる。心優しい宗教家、頭の切れる無口な才人、またはポルノまがいの写真を撮る小児偏愛者。数々のレッテルを貼られたルイス・キャロルの素顔に迫ってみたい。

 

 

参考文献  ●「The Mystery of Lewis Carroll」 by Jenny Woolf /2010 Haus Books London

●「不思議の国のアリスの誕生」 ステファニー・ラヴェット・ストッフル著・笠井勝子監修/創元社
●「ヴィクトリア朝のアリスたち」ルイスキャロル写真集 高橋康也/新書館

 

  1865年の出版以来、日本語はもちろんスワヒリ語や、ドイツ語の一方言といわれるイディッシュ語など、現在までに計65もの言語に翻訳され、英米では聖書とシェイクスピア作品に次いで読まれているという『不思議の国のアリス』。白ウサギの後を追ってウサギの穴に飛び込み、奇妙な世界に入り込んだ少女アリスの大冒険を描いた、このおなじみの物語は、31歳の数学者キャロルが、当時「9歳の友人」、アリス・リデルにせがまれ、ボート遊びの際に語ったものを後に文章化して出版した作品といわれる。夏の明るい日射しの中、ボート上で子供たちと楽しげに語らう青年ルイス・キャロルの罪のない姿は、伝記の中で語られる定番であるが、物語のモデルとなったとされる「9歳の友人」アリスとの関係を含め、『不思議の国のアリス』誕生のストーリーを改めて探ってみよう。
ルイス・キャロルことチャールズ・ラトウィッジ・ドジソン(Charles Lutwidge Dodgeson)は、1832年1月27日、ヴィクトリア女王即位を5年後に控え、英国が世界にその国力を示し始めた輝かしい時期に、イングランド北西部チェシャーのデアーズベリー(Daresbury)という、人口わずか150人の小さな村に生まれた。ドジソン家の大半は代々聖職者か軍仕官という、当時の上層中産階級の代表的職業に従事しているが、ルイスの父親チャールズ・ドジソンもその例に漏れず、オックスフォード大学で数学と古典に親しんだ後、この地の教区で牧師を務めていた。 子沢山のドジソン一家において、キャロルは11人きょうだいの3番目の子供にあたり、またドジソン家の長男として生まれている。
当時のデアーズベリー、特に一家の暮らす牧師館のある辺りは陸の孤島とも呼べるほどの辺境の地で、父親がその高学歴には見合わない質素なキャリアを選んだため、大所帯のドジソン一家もまた、つましい暮らしを強いられた。彼らは自ら野菜を育てる半自給生活を営み、子供たちの着る服はドジソン夫人の手作り。一家のもとを訪れたある人はそれを見て、「カーテンの生地を利用したのか、子供たちは布の袋に入ってるみたいだった」と振り返っている。 だが、ここで多くのきょうだいと共に過ごす静かな生活は、終生キャロルが懐かしく思い出す幸せな日々だったようだ。勉強は父親から学ぶホーム・スクール方式で、子供たちは皆敬虔なクリスチャンとして育てられた。キャロルの数学に対する興味も、この時培われたといえる。1843年、父親のチャールズ・ドジソンはヨークシャー、クロフト(Croft)のセント・ピーターズ教会への栄転が決まるが、それまでルイスはこのデアーズベリーで、まわりは肉親ばかりといういわば「無菌状態」の世界に暮らした。
父親の栄転先であるクロフトはデアーズベリーより遥かに大きな教区で、一家の暮らしも次第に楽になっていく。11歳になっていたキャロルは、相変わらず父親の元で数学や古典の勉強に励みながらも、人形劇や芝居、手品、物語の朗読など、様々な遊びを考案しては、弟や妹たちを楽しませていたという。この頃の経験が、キャロルが成長してから幼い子供たちと友人になる上で大いに役に立ったのではないだろうか。

 


 

 

 

写真の発明と流行
 世界で最初の写真は1827年、フランスの発明家ジョセフ・ニセフォール・ニエプスによって撮影されたが、これは明るい日光の下で8時間もの露出を必要としたという。だが1839年に鉄板写真といわれるダゲレオ・タイプの写真が発明されたことで、時間は大幅に短縮され、肖像写真の流行が起こる。19世紀後半の作家や音楽家の肖像写真などはほとんどこのタイプだといってよい。さらに複製写真の作れるカロ・タイプ、ガラス板を使ったネガのコロジオン法など次々と新しい技術が生みだされ、それと共に写真技術は一般にも広まっていく。
ルイス・キャロルが使用したのも、1850年代に主流となったこのコロジオン法の写真技術だった。色あせの少ない印画紙も開発され、以前より格段に繊細な空気や光なども表現できるこの技術は、風景写真や報道写真に適し、クリミア戦争の様子や植民地化した異国の風景などが驚きを持って人々に迎えられた。当時開国したばかりの日本もこの技術で撮影されている。この頃から自らカメラを購入する裕福なアマチュア写真家が登場する。ヴィクトリア女王とアルバート公も夢中になり、ウィンザー城に暗室を作らせた程だという。さらに、英国写真協会が設立され、第1回の展覧会が開催されたのは1853年だった。若いキャロルはまさに、新しい文化が生まれるところに立ち会った世代といえよう。キャロルがカメラを購入したのは1856年3月18日。前述の展覧会を見て刺激を受けた彼は、ロンドンで撮影機材一式を揃えている。
当時英国の美術界を牽引していたのはラファエロ前派だが、同時期の写真にも大きな影響を与えている。ガブリエル・ロセッティの描く憂いを含んだ女性の肖像を始め、理想の女性像や、移ろいやすい美を描いた彼らの作品は、露出時間の長さのために限られていた、当時の写真の構図にもヒントを与えた。キャロル自身、ガブリエル・ロセッティのお気に入りのモデルであるヘレーネ・バイヤーを撮影しているが、手すりに寄り物思いに耽る姿は、ラファエロ前派の作品を彷彿とさせる。

 

◆◆◆ 家族と離れて ◆◆◆

 


キャロルが撮影したリデル姉妹。右端がアリス。1859年撮影
  12歳になったキャロルは、クロフトから15キロ程離れた、規模は小さいが評判のよい私立の寄宿学校リッチモンド・グラマー・スクール(Richmond Grammar School)に入学する。住み慣れた家を離れ、リッチモンド校の校長宅に下宿した彼は、そこで2年間、総じて楽しい生活を送ったようだ。校長は若いルイス・キャロルに大変感心し、彼の父親に向けて「非常に優れた才能の持ち主である」こと、そしてルイスが「重要な問題には妥協しないが、小さな誤りには寛大である」と手紙を送っている。喜んだ父親がいつまでもその手紙を大事に保管しておいたことはいうまでもない。
その2年後、キャロルは英国で最も古い歴史を誇る私立寄宿学校のひとつ、ウォーリックシャーのラグビー・スクール(Rugby School)に入学。だが荒々しい校風を持つ同校での3年間は、もの静かで心優しいキャロルにとってはきわめて苦痛だった。寄宿舎での低学年の生徒へ向けたイジメや嫌がらせといったお決まりの慣習に苦しみ、野蛮な男子生徒たちを忌み嫌ったキャロルは、自分が高学年になってからは、幼い生徒たちを守るという保護監督者の役割に徹したという。沢山の弟や妹たちを持つ長男の彼には、それはおそらく自然な行為だったのだろう。キャロルがラグビー校を卒業した後も、彼の守護神ぶりはしばらく生徒たちの間で語り継がれていたという。
成績は優秀ながら、ここでの日々にうんざりしていたキャロルは、クロフトに住む家族に向けてたびたび長い手紙を送っている。だがそれは現状を嘆いたものではなく、自分の毎日を面白おかしく綴ったもので、読んで楽しいエンターテインメント色の強いものであった。また同時に、彼の妹や弟たちにも参加を要請した「家族雑誌」も発行する。それは身近なニュースや挿絵、そしてウィットに富んだ詩などで構成された、後の「ルイス・キャロル」の萌芽がみられるような内容だった。
1850年、キャロルは父親の母校であるオックスフォード大学のクライスト・チャーチに入学。当時のクライスト・チャーチは優秀な学生が学ぶ場である一方、裕福な貴族の息子たちが当主となる前の数年を費やす、娯楽場のような場所でもあった。彼らはギャンブルやキツネ狩りを楽しみ、勉学には全く興味を示さない享楽的な人種であり、キャロルのような学生たちとは一線を画していたといえる。
そして、キャロルの大学入学のわずか2日後、母親のフランシスが47歳の若さで病死する。髄膜炎か脳梗塞と思われる脳の疾患が原因であった。母親に関しての彼の記述は少なく、ルイス・キャロルと母親の絆はかなり希薄だったと思われる。それは決して母親に愛情がなかったり、キャロルが母親嫌いだったという証拠ではない。むしろキャロルは幼い頃から母親の愛情に飢え、常に彼女の関心を買おうとした。寄宿舎に暮らしながら家族に向けて長い手紙を書いていたのも、母親のことが頭にあったからだとさえいわれる。
だが、子供の多いドジソン家では、長男としてのキャロルの存在は地味なものであった。きょうだいたちの間では絶大な人気を誇るキャロルだが、母親にしてみれば、数多い子供の中の手のかからない一人として、溺愛の対象にはなり得なかったようである。さらに、ドジソン家の子供たちは吃音症のキャロルを含め全員が何らかの言語障害を持っており、彼の妹の中には自閉症めいた症状を持つ者もいた。そのため母親は彼らの世話に忙しく、現に幼い頃、キャロルの身の回りの世話をしていたのは、2番目の姉だったという。
このことは、『不思議の国のアリス』で、最終的に夢から覚めたアリスが「姉の膝の上」で目を覚ましたこと、さらに『不思議の国のアリス』、あるいはキャロルの最後の作品『シルヴィーとブルーノ』でも、成人した女性は「トランプの女王」や「皇后」など、いずれも規則に縛られた愚かな権力者として登場することなどから、母親の不在は彼の作品にも少なからず影響しているように思われる。

  


 

◆◆◆ アリスとの出会い ◆◆◆

 


キャロルが撮影した7歳のアリス・リデル。1860年撮影
  母親との関係は希薄だったが、キャロルにはお気に入りの叔父がいた。名をスケフィントン・ラトウィッジ(Skeffington Lutwidge)という。彼は母親フランシスの弟にあたり、法廷弁護士としてロンドンに暮らしていた。彼は鷹揚なキャラクターで、新しもの好き。当時発明されたばかりの望遠鏡や顕微鏡といった光学機器に多大な興味を持ち、彼の情熱はキャロルにも伝わった。やがて彼はこの叔父から写真の技術を学ぶことになる。
1852年、20歳のキャロルはまだ学部生だったが、数学の試験で「第1級」を獲得し、特別研究生の地位を得る。この地位を得た者は生涯クライスト・チャーチに留まり、年俸をもらいながら自由な研究をすることを保証されることから、キャロルにとってはまたとないチャンスの到来であった。かつて、彼の父親であるチャールズ・ドジソンもこの資格を得たことがあったが、彼はほかの有資格者同様、数年でこの身分を放棄した。というのも、特別研究生であり続けるには、聖職の資格を取らなければならないうえに、独身でいることも条件のひとつだったからだ。しかし、ルイス・キャロルはこの身分を放棄することなく、生涯クライスト・チャーチに留まり続けることになる。
1854年に学士号を取得した彼は、正式な数学教授になる試験にも合格し、本格的にクライスト・チャーチに腰を落ち着ける。この時ルイス・キャロルはまだ23歳だった。翌年、保守的で知られる学寮長(クライスト・チャーチの最高運営責任者)が老齢のため死去。新たに赴任してきたのは名門ウェストミンスター・カレッジで校長を務めていた44歳のヘンリー・ジョージ・リデル(Henry George Liddell )であった。若くカリスマ的な魅力に溢れるリデルは、次々に校内システムの改革を行う。キャロルも改革に伴う議論にスタッフの一員として参加したという。だが、キャロルに最も大きな影響を与えたのは校内改革ではなかった。リデルは妻と4人の子供たち―長男のハリー、そしてロリーナ、アリス、イーディスの3姉妹―を伴いオックスフォードに赴任してきたが、この次女のアリス・リデルこそ、やがて『不思議の国のアリス』誕生のきっかけとなり、キャロルの人生を大きく変える存在となるのである。
この頃キャロルの新し物好きの叔父は、持ち前の好奇心で新しい写真技術をマスターしていた。忠実な聞き手であるキャロルに、早速その技術を披露したのはいうまでもない。当時の写真はまだ発明されてから日も浅く、撮影や現像に大変な労力と時間が費やされていた時代である。だが元来細かい作業を厭わない性格のうえ、叔父の影響を受けたキャロルは、自らもカメラを購入。被写体は、かねてから考えていたリデルの幼い子供たちであった。
キャロルは当初長男ハリーの美しさに驚き、「今まで会った中で一番ハンサムな少年だ」として家族に撮影許可を貰った。最新機器である「カメラ」の被写体になるということは、子供たちばかりではなく、家族全員にとっても新鮮な出来事であったに違いない。親としても、我が子の幼い肖像を手元に残せる貴重な機会だったはずである。こうしてキャロルとリデル一家との交遊が始まった。

 


 

◆◆◆ 『不思議の国のアリス』の誕生 ◆◆◆

 


キャロル(右から3人目)とジョージ・マクドナルドの家族。1862年撮影
  リデル家の子供たちは、しばしばクライスト・チャーチ内のルイス・キャロルの自室を訪れている。そこには子供が大喜びしそうなオモチャや複雑な機械がところ狭しと並んでおり、薄暗くてまるで秘密の隠れ家のようだったという。子供たちはルイスが集めた撮影用の子供服、例えば物乞い風のボロボロのドレスや、ジプシー風の衣装、当時流行だったオリエンタルな小物などを自由に選び出し、キャロルの求めに応じてポーズをとった。天気の良い日ですら、屋外で1枚の写真を撮るのに45秒もかかる時代に、子供たちを一つのポーズのままでじっとさせておくのは、本来なら至難の技である。
だが、キャロルの子供に対する持ち前のサービス精神と、彼が即興で語る奇妙で愉快な物語に、彼らは退屈を感じず、リラックスして撮影に臨んだ。その結果、写真に残る子供たちの表情は当時としては意外な程に自然である。成長したアリス・リデルも、1932年にジャーナリストのインタビューに答えて、「ドジソンさん(ルイスの本名)の部屋の大きなソファに座って、皆でお話を聞くのは本当に楽しかった。写真も全然苦にならなかったし、お部屋へ行くのが楽しみでした」と語っている。
『不思議の国のアリス』の物語が生まれたのは1862年の7月4日、この頃子供たちが「ドジソンさん」と頻繁に行っていたピクニック先でのことだった。この日は、キャロルの大学の同僚で、歌のうまいロビンソン・ダックワース(Robinson Duckworth)も参加し、子供たちと共にテムズ川でのボート下りを楽しんだ。夏の日射しが水面に反射する、後にキャロルが「金色の午後」と形容した日であった。
舟の上でいつものようにアリスにお話をせがまれたキャロルは、懐中時計を手に大急ぎで走ってくるウサギの場面を語り始める。ボートを漕いでいたダックワースが振り返り、今即興で作った話なのかたずねると、キャロルは「そうなんだ。まず女の子をウサギの穴に落としてみたんだが、その後どうするか、続きは考えてなかったんだよ」。キャロルはよく即興で物語を作って彼らに話を聴かせていたが、自分と同じ名前の主人公が登場するその日のお話をとりわけ気に入ったアリスは、「私のために文字にして書いて」と頼んだという。
アリスのこの「お願い」がきっかけとなり、キャロルは翌日から物語を書き始めた。当初『地下の国のアリス』と名付けられたこの手書きの本は1863年2月10日に完成し、キャロル自身がイラストを付け、1864年11月26日にアリスに手渡された。
当時キャロルの知人で、彼が「師匠」とあおぐ詩人で聖職者のジョージ・マクドナルド(日本でも『リリス』などの妖精文学で知られる)からの勧めもあり、キャロルはこの手書きの本を正式に出版することを考え始める。マクドナルドの6歳になる息子も「この本は6万部くらい刷ったらいいね!」と大絶賛し、キャロルを勇気づけたという。
正式な出版を前にキャロルは文章に手を入れ、更にプロのイラストレーターを探した。子供の本にあって挿絵がどれ程重要か、キャロルは理解していたのだろう。1864年、人気風刺雑誌『パンチ』の編集者であるトム・テイラーの紹介で、キャロルはその雑誌の売れっ子イラストレーターとして活躍するジョン・テニエル(John Tenniel)と契約を結ぶ。テニエルは観察眼が鋭く、また動物の生態に関する知識も豊富に持ち合わせており、ウサギを始め、芋虫やヤマネ、ウミガメやドードー鳥などの動物がぞろぞろ出て来るキャロルの物語には適任だった。
キャロルとテニエルの間で交わされたはずの、当時の記録はほとんど現存しない。しかし、自分のイメージにこだわるキャロルは、しばしばテニエルのイラストに文句をつけ、出版にこぎ着けるまでに2人の仲はかなり険悪なものになっていたといわれる。本の出版費用はイラスト代も含め全てキャロル自身が負担することになっていたので、彼は出版社のマクミラン社に対しても妥協することはなかったのである。。


1898年発行版の『不思議の国のアリス』
1865年、『不思議の国のアリス』と改題されてオリジナルの二倍の長さに書き改められた物語がついに出版される。部数は2000冊。キャロルは早速友人や家族に配ってまわる。ところが、イラスト担当のテニエルから「待った」の声がかかる。出来上がりを見たテニエルは、挿絵の印刷が気に入らないというのだ。残された初版本を見ると、インクの盛り過ぎで字が裏面に透け、挿絵部分に重なっている。それが理由なのかはっきりとしたことは分からないままだが、キャロルは初版をすべて回収し、文字組みから全部やり直すことになった。その時のキャロルの日記には「今度の初版の2000部が全部売れたとしても200ポンドの損害。第2版の2000部が売れれば、300ポンドの費用で500ポンドが入るからそれで収支は合う。もっと売れたら利益が出るが、そんなことは無理だろう―」と憂鬱な文章が並んでいる。
それから3ヵ月後の1865年11月、名作『不思議の国のアリス』は無事出版され、好評を持って迎えられた。人気イラストレーターであるテニエルが挿絵を描いていることもあり、1867年までに1万部を売り上げ、1872年には3万5千部に達した。収支が合えばいいが、と気を揉んだルイス・キャロル自身もさぞ驚いたことだろう。
テニエルに差し止められた初版本の2000部は、1950部が未製本で紙の束のままだった、キャロルはこれを米国の出版社に売却。友人や家族に配った製本済みの50冊に関しては、キャロルは新しい版が出来た時に返却してもらっており、それはそのままロンドンなどの子供病院に寄付された。これらが後に大変な価値をもつことになったのは想像に難くない。一方、世界に一冊しかないキャロル自身による挿絵のついた手書きの『地下の国のアリス』は、1926年に夫を亡くした74歳のアリスによって売却された。そしてサザビーズのオークションで当時の史上最高額である1万5400ポンドで、米国のディーラーのもとへ渡る。だが、1948年には大英図書館に寄贈され、現在も同図書館に展示されている。

 

キャロルの宗教観 キャロルが11歳まで、牧師の父親から家庭内で教育を受けたことは本文でも述べた。子供の時に習った教え、それは抽象的な教義ではなく、日常の出来事に絡めた「悪いことをすると地獄に堕ちる」「神様はどんな時も、いつも私たちを見て下さっている」というような、幼い子供にもわかりやすいもの、または、聖書の読み聴かせであっただろう。キャロルの宗教観はここから出立しており、またここから発展することはなかったといわれる。オックスフォード大で特別研究生の地位を得たキャロルだが、実は生涯「聖職」の地位に就くことはなかった。これは彼の中で、「信仰心」と「論理的に考える」ことがどうしても一致せず、生徒に向かって教えを説くことが不可能だったからだという。当時はダーウィンが『種の起原』を発表したばかりであり、人間は神によって作られたという聖書の前提が大きく揺らいでいた。神の存在は疑わないが、ダーウィンの説に深い興味を抱くキャロルが、当時この2つを繋ぐラインを見つけられずにいたとしても無理はない。そんな風に迷うルイスは、自分には教える資格がないと考えていたようである。
自分が聖職に就き、他の人々に教えるなど神への冒涜だとして、ルイスは聖職義務の免除を学校側に訴える。本来なら聖職に就かない学生は研究生の特権的地位を失うはずだが、彼の悲鳴に近い度重なる嘆願は学長に聞き入られた。
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植民地主義や産業革命による貧富の差の拡大など、ヴィクトリア時代の英国は、成長期の社会に見られる弱者切り捨ての風潮が蔓延していた。その一方で、この時代の道徳観念は極端な程に厳しく、しばしば偽善的な様相を示したことでも知られる。ラグビー・スクール時代のひどいイジメや、オックスフォード大で遊ぶ傲慢な貴族の姿、そして植民地に対する英国の態度など、キャロルは権力を振りかざす者に対する嫌悪感を常に抱いていた。貧困状態にある女性や子供の保護、犯罪人の更生などに携わるチャリティ団体などに定期的な寄付を行い、その数は30を超えていたという。
また、キャロルは『鏡の国のアリス』の中で、7歳6ヵ月だというアリスに向かって、ハンプティ・ダンプティに「7歳でやめておけばよかったのに」と言わせている。キャロルにとっては、大人になることは「罪を犯す者になること」だったのではないだろうか。

 

 


 

◆◆◆ 「金色の午後」の終わり ◆◆◆

 

 1863年の6月頃まで、リデル家の3人姉妹とキャロルの関係は良好で、6月にもいつものようにピクニックに出かけ、キャロルの日記にもその時の楽しげな様子が記されている。しかし、その次のページはカミソリで切り取られ、次に姉妹に関する記述が出てくるのは半年後。しかも、街で偶然リデル姉妹とその母親に出会ったキャロルは「私は彼らに対し超然としていた」と記している。半年前のピクニックで何が起きたのか。肝心の日記が切り取られているため、詳細はわからない。これはキャロルの死後に日記を整理した親族(彼の義妹)が、一家のために公にしたくない事実があったため削除したと言われている。
だが、切り取られたページのためにドラマティックな憶測がなされ、キャロルが「アリスに交際を申し込んで断られた」説や「長女のロリーナに結婚を申し込んで断られた」説が囁かれている。この頃アリスは11歳、ロリーナは14歳である。現在の常識にしてみればあり得ない話だが、ヴィクトリア期の英国の法律では、14歳からの結婚が認められていた。おそらく真相は、婚期の近づいた娘たちがキャロルと会い続けることであらぬ噂を立てられ、結婚のチャンスを逃すことを恐れた母親が、これ以上子供たちと会わないでくれとキャロルに告げた、といったものではなかったかと考えられる。真実は往々にして想像よりも地味である。だがいずれにせよ、真相の程は分かっていない。こうしてキャロルとリデル姉妹との友情は終わりを迎えた。
この頃のキャロルは創作意欲旺盛な時期だったといえる。『不思議の国のアリス』の出版で、ラファエロ前派の画家ダンテ・ガブリエル・ロセッティ、ウィリアム・ホルマン・ハント、ジョン・エヴァレット・ミレイなど同時期のアーティストたちとも交わり、多くの影響を受けた。
授業があまりにも退屈で、学生の間からキャロル・ボイコット運動が出た程と伝えられるが、大学では教授として講義を続け、キャロルは数学の参考書『行列式初歩』を出版するほか、舞台の脚本を書くことにも興味を示した。これは彼が子役時代からファンだったという女優、エレン・テリーと知り合ったこととも関係があるだろう。彼女はキャロルの数少ない「成人した女性」の友人であった。彼は、テリーの大人になっても損なわれなかった純真な子供のような性格を愛したという。
そんな中、1868年にキャロルの父親、チャールズ・ドジソンが急死する。晩年はリポン大聖堂大執事という「高教会派」の重鎮となっていた父親の死は、キャロルにはひどいショックであった。父親を尊敬し、彼の足跡を辿っていたキャロルは後に、父親の死は「生涯最大の損失」であったと書いている。
さらに、長男であるキャロルはドジソン一家の跡取りであるため、父の亡き後家族を養う義務があった。当時36歳のキャロルを筆頭に十一人きょうだいのドジソン家は誰も結婚しておらず、また自活しているのはキャロルだけであった。当時彼が持っていたバークレイズ・バンクの口座は、家族や親戚関係のためにたびたび赤字を記録した。その上、彼は多くのチャリティ団体にも定期的な送金を行っていたという。
やがて1872年にアリスの冒険を描いた続編『鏡の国のアリス』が出版される。キャロルは本作の執筆に数年を費やした。ガイ・フォークスの前日、暖炉の上に掛けられた鏡を通り抜けて、またもや不思議な世界へ迷い込んだアリスを描き、ハンプティ・ダンプティなどの新たなキャラクターの登場する本作は、前作『不思議の国のアリス』に続く大ヒットとなった。
ヴィクトリア女王が人気作家となったキャロルに「あなたの著書を送って欲しい」と依頼したところ、本名であるチャールズ・ドジソン名義の数学本『行列式初歩』を受け取って驚いたという逸話も残っているが、真偽の程は定かではない。

 

◆◆◆ ロリコン伝説の誕生 ◆◆◆

 

 40代になったキャロルは自ら「老人」と名乗り、以前のように演劇鑑賞に出かけたり友人と議論を戦わせたりすることが少なくなった。180センチの細身の姿に白髪のまじったダーク・ヘアのキャロルは、年齢より若く見えるくらいだが、精神的に老成してしまった彼は、一人で歩く長い散歩を好んだ。距離にして毎日30キロ以上。冬でも決してコートを着ない彼は、やがてそれが原因で命をとられることになる。あれほど好きだった写真も、ある時期からパタリと撮影をやめてしまい、もともと細かい性格が更に気難しくなる。大学構内の彼の部屋に供される「3時のお茶」の湯加減や、昼食のタイミングなどに対するクレームの手紙が現存し、そこには子供相手に自作のナンセンスなストーリーを語る、チャーミングな青年の面影はない。

キャロル自身による肖像写真。1875年5月撮影
Courtesy of the National Museum of Photography, Film and Television, Bradford
 彼は著作に没頭するほか、オカルトやホメオパシー(体の自然治癒力を引き出す自然療法)の研究にも熱心に取り組み始める。やがて50歳を前に数学講師のポストも退き、「教授社交室主任」という一種の世話係へ転じた彼は、今後の人生を執筆活動一本に搾ろうと決意する。当時のヴィクトリア朝の平均寿命は40歳程度であり、キャロルが「今のうちに成さなければ」という心境になったとしても、不思議ではない。
ユークリッド幾何学に関する『ユークリッドと現代の好敵手たち』、詩集『ファンタズマゴリア』、キャロルの得意とする言葉遊びの本『タブレット』や『枕頭問題集』、そして長編としては最後の作品となる『シルヴィーとブルーノ』の執筆など、キャロルは精力的に著作活動を行う。『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』をもとにしたオペレッタの芝居の企画もあり、劇作家ヘンリー・サヴィル・クラーク(Henry Savile Clarke)の協力によって1886年にはロンドンのプリンス・オブ・ウェールズ劇場で初演された。このオペレッタはその後約40年間にわたり、クリスマス・シーズンになると公開される馴染みの演目となる。
一方、数学者としての彼は、当時起きていた論理学に関する変化にも深い興味を抱いていた。それは、言葉の代わりに数学の演算規則をあてはめ、概念や観念を記号変換することで合理的に理解しようという思想だった。1896年『記号論理学』を著したキャロルは、これを自分の最も重要な作品と位置づけている。
だが、引き続き第2巻の執筆に取りかかった彼は、家族の住むギルフォード(Guildford)で風邪をこじらせ、気管支炎を併発。かねてから喘息気味ではあったものの、医師の勧めで運動器具を購入するなど健康に気遣っており、この年齢にしてはなかなか健康である、とのお墨付きも貰っていたキャロルだが、ペニシリンなどの抗生物質のないこの時代、肺炎は結核を上回る程の死亡率を持つ死に至る病だった。180センチの身長で体重65キロというやせ形のキャロルの体力では、この病に絶えることができなかったのだろう。
1898年1月14日、ルイス・キャロルは彼の愛する妹たちに囲まれて死去する。66歳になる2週間前だった。
実はチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンこと、作家ルイス・キャロルの伝説は、彼の死後に生まれたといってもよい。生前も人気作家として活躍はしたが、彼の人物像を謎めいたイメージに変えたのは、20世紀に入り、ナボコフが『ロリータ』を著し、フロイトが『性理論』を唱え始めてからだった。ルイス・キャロルは20世紀前半のジャーナリストたちから「小児愛者」のレッテルを貼られ、フロイトの思想に基づいて『不思議の国のアリス』が解読された。「彼はロリータ・コンプレックスだった」というわけである。
もしルイス・キャロルが生きていてこれを知ったら、どんな反応を示すかは分からない。だが、以下のような言葉が残っている。
キャロルの晩年である1893年に、妹のメアリーがキャロルに向かい「少女たちと親しくするのは、世間の噂になるのではないか」と心配の手紙を送ったことがある。それに対するキャロルの返事は次のようなものだった。「人の目を気にしてばかりいると、人生は何もできないまま終っちゃうよ」。これは彼の毛嫌いした、偽善的なヴィクトリア朝の風潮に対する批判でもあるだろう。
女性の脚を連想させるからと、椅子の脚までが「わいせつ」とカバーをかけられ、それが転じて「足」という単語さえタブーになったというこの時代。その一方ではほんの10歳の子供が売春婦として街角に立っていた時代。それがルイス・キャロルの生きたヴィクトリア時代だった。もし彼をロリコンと呼ぶならば、ヴィクトリア時代の英国もまた同様の、あるいはさらに重症な『患者』としての呼び名を与えられなければ不公平ではないだろうか。

 「黙っておれ!」と 女王が言いました。
「いやよ!」とアリスが言いました。
「あなたたちなんて、ただのトランプじゃないの!」
(『不思議の国のアリス』
高橋康也/高橋迪訳から)

 

 

未踏の地を追い求めた男 キャプテン・クック [Captain Cook]

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2011年9月29日

●取材・執筆/佐々木 敦子・本誌編集部

 

未踏の地を追い求めた男
キャプテン・クック
Captain Cook

ヨークシャーの港町でロンドンへ石炭を運ぶ船を眺めては、
彼方への憧れを膨らませていた少年時代のジェームズ・クック。
「遠くへ行ってみたい」という想いは彼を航海士にし、
やがてはキャプテン・クックとして知られる名船長へ成長させる。
ハワイの発見を始め、彼が海洋冒険家として成し遂げた、
文字通り世界の地図を塗り替えた経緯を紹介する。

 

 2011年に最終飛行を終えたNASAのスペースシャトルと、月面着陸のために作られたアポロ15号は、いずれも「エンデバー(Endeavor)」号と名付けられている。これはクックの第1回南太平洋探検の時に使われた帆船の名前にちなんでいる。エンデバー号が1768年にロンドンのドックランズから船出した時、南半球には「北半球にあるのと同等の、大きな大陸があるのではないか」と考えられていた。そんな時代にあっての海洋探検は、スペースシャトルによる宇宙探索にも等しい期待や危険を伴っていたのではないだろうか。
 新しい土地の発見とその植民地化をめぐり、欧州がしのぎを削っていた時代に生まれあわせた、ジェームズ・クックという一人の男性の波瀾万丈の生涯を辿ってみよう。

 キャプテン・クックことジェームズ・クック(James Cook)は、1728年10月27日、ヨークシャー北部のマートン(Marton)という小さな村に生まれた。当時の英国はイングランドとスコットランドが連合したばかりで、「グレートブリテン王国」が誕生してから20年。次第に「英国」としての国力を高めつつある、上昇の機運に富んだ時期にあった。この時代に多くの優秀なスコットランド人がイングランドへ移住したが、父親のジェームズ・シニアもまたスコットランドの辺境出身で、よりよい暮らしを求めてイングランドにやってきた一人だった。
 彼はマートンではハンサムで性格のいい働き者の小作人として知られ、妻のグレイスとの間に5人の子供をもうける。後のキャプテン・クックとなる次男のジェームズは、8歳から兄と共に農場仕事を手伝い始め、勤勉な親子の姿は村でも有名だったといわれる。  特に利発で明朗闊達なジェームズ少年に感心した領主は、彼を学校にやろうと申し出、ジェームズは農場で働きながら初等教育を修めるチャンスを得る。そして17歳になったところで、両親の勧めもあり町へ奉公へ出ることになる。単なる「勤勉な肉体労働者」以上の人間になるように、というのが彼らの願いであった。
 しかしジェームズが家族と別れて向かったのは、ステイテス(Staithes)というヨークシャー北部の漁村にある雑貨店だった。ここで商売に関してのノウハウを学ぶというのが、ジェームズの父親と店主との間で交わされた約束だったらしい。
 幼い頃から農場で働いていたジェームズは、17歳にしては非常に背が高く、父親譲りの彫りの深い顔立ちをした逞しい青年に成長していた。当時を知る人々によれば、ジェームズの生涯を通して変わらない「自分を信じ、断固とした決断をする」という独立独歩の姿勢は、この頃すでに現れていたという。そんな彼にとって、雑貨店での丁稚奉公は何とも単調な日々だったようだ。よく働くので雇い主にも顧客にも好かれたが、物足りない気持ちを抑えることは出来なかった。
 ジェームズは暇さえあれば港に向かい、漁船やロンドンへ石炭を運ぶ商業船などを眺めていたという。仕事帰りにパブへ行き、そこで漁師たちの交わす様々な話に耳を傾けるうちに、次第に彼は海や見知らぬ土地に対する憧れを募らせていく。

 


 ある時、ジェームズは雑貨店で客の支払った代金の中に、サウス・シー・シリングといわれるジョージ1世のシリング硬貨を見つける。これは新大陸のスペイン領との貿易を目的に設立された、英国の南海会社(サウス・シー・カンパニー)の記念硬貨で、表面にSSCと記されていた。光り輝くその硬貨に魅せられたジェームズは、こっそりレジからサウス・シー・シリングを抜き取ると、代わりに自分のポケットから普通の1シリング硬貨を入れておく。だが彼は、店主に呼ばれ、泥棒の疑いを掛けられてしまう。慌ててことの経緯を説明したおかげで疑いは晴れたものの、ジェームズはこれを機会に店を辞めようと決意。雑貨店に奉公に来て1年半が経過していた。「それで、これからどうするつもりだね?」と店主に聞かれたジェームズは、迷わず「海に出たいのです」と答えていた。

 

海への第一歩

 親切な雑貨店の店主は早速彼を近隣の港町ウィトビー(Whitby)の船主ウォーカー(Walker)に紹介する。ウォーカー家は当地の有力な船主で、商家でもあった。こうしてジェームズは晴れて「海の男」としての第一歩を踏み出す。18歳の時のことである。
 彼は雇い主のウォーカー宅に寝起きしながら、測量法や天文学、数学や航海術などの船乗りになるために必要な事柄を教える地元の学校へ通った。ウォーカー家の年老いた女中は熱心なジェームズをかわいがり、彼が夜遅くまで勉強できるよう、椅子と机、キャンドルなどを率先して用意したという逸話も残っている。
 1747年2月、ジェームズはキャット(Cat)と呼ばれる小型船の見習い(apprentice)として、初めての1ヵ月半に渡る船上暮らしを体験する。ロンドンへ石炭を運ぶこの船には10人の見習いが乗船していたが、ジェームズは中でも最も未経験な1人だった。更に翌年は大型の石炭貿易船である「スリー・ブラザーズ号」で1年半海上の人となる。ミドルズバラ、ダブリン、リヴァプール、そしてフランダース(現在のベルギー)などを訪れたが、この体験は最初の本格的な航海として、ジェームズに深い印象を残したという。

 


1923年にオーストラリアの航海長、
フランシス・ジョセフ・ベイルドンFrancis Joseph Bayldonによって
描かれたエンデバー号

 

 1750年、3年間の見習い期間を終了した彼は、晴れて「水兵」(seaman)と認められ、2本のマストを持ち、バルト海を中心に活動する貿易船「フレンドシップ号」で働き始める。ジェームズはこの後1752年に「航海士」(mate)となるための昇進テストを受け、優秀な成績で合格。「フレンドシップ号」の航海士として3年を過ごす。ジェームズは27歳に達し、そろそろ自分がベテランの域に達しつつあると感じ始めていた。仕事の合間に読むオランダ人やポルトガル人の書いた海洋旅行記などから、まだ見ぬ東洋や米国への憧れも芽生えていたが、彼は地中海にすら行ったことがないのだった。
 そんな時期に、雇い主のウォーカーが、ジェームズにフレンドシップ号を与えようと持ちかける。これは航海士にとっては独立のチャンスであり、大きな幸運だといえる。ジェームズがいかに雇い主の信頼を受けていたかがわかるだろう。
 ところが、ウォーカーはひどく落胆させられることになる。ジェームズはその申し出を断り、「海軍に入隊して、世界を見たいと思います」と答えたのである。もし海軍に入れば、船長どころかせっかく獲得した航海士のランクですらない、水兵からやり直しだというのに。ウォーカーは驚きあきれつつも、入隊のための紹介状を書いてやったのだった。 
 ジェームズにとって、フレンドシップ号がバルト海との往復である限り、その立場が船長だろうと航海士だろうと、大きな違いはなかったのだ。世界を見るためなら海軍でも海賊でも構わなかったのではないかとさえ言えよう。ともあれ、ジェームズには幸いなことに、当時の英国海軍は7年戦争に備え軍備を強化中であり、大々的に志願兵を募集していた。彼は両親のもとを訪れ暇乞いをすると、ロンドンのワッピングを目指す。そこには英国海軍のHMSイーグル号が停泊していた。1755年6月17日、ジェームズ(以下クック)は「熟練水兵」(able seaman)として入隊する。

 


海軍での活躍と新たな才能

 イーグル号の艦長ジョセフ・ハマー(Joseph Hamar)は憂鬱な気分だった。前回の対フランス戦で多くの乗組員を失ったばかりで、満足に人員を集められないまま再び出動命令を受けていたのだ。「人数不足なだけではない。ブリストルから来た25人は水兵ですらない。こんな状態で出航する船は他にないだろう」と嘆く手紙が残っている。そんな中で経験も情熱も備えたジェームズ・クックがどんなに光って見えたことか。彼は乗船後1ヵ月もしないうちに、一等航海士(master mate)の地位に就く。
 イーグル号の任務は英仏海峡周辺の警備だったが、クックは2度の大きな対仏戦に遭遇している。2度目の戦いでは多くの味方を失い、「マストはボロボロ」という厳しい状態だったが、フランス船を拿捕し、チームは御賞金を受け取る活躍をみせた。この戦いはクックにとっては昇進のためのテストでもあったが、彼の勇気と能力が十分に発揮され、最高レベルの成績で士官待遇の航海長(master)へと昇進。1759年には29歳で大型船「HMSペンブローク」号(HMS Pembroke)を任されるに至る。ちなみに航海長とは「複雑極まる帆船の操船、海図の管理の責任を持ち、艦長らの正規海軍士官を戦闘に専念させるための職」であった。正規の指揮権は有さないものの、艦内での待遇や俸給は海尉と同等であり、航海長の方が艦長より年長で、海上勤務年数が長いことが珍しくなかったという。
 ペンブローク号は彼がウィトビーで見習いだった頃、まさに夢見ていたような大型船でもあった。クックはこの船で念願だった大西洋横断を果たし、カナダへと向かう。
 この間、クックは同乗の測量家サミュエル・ホランド(Samuel Holland)から本格的な測量を学ぶチャンスを得る。もともと数学を得意とした彼は、すっかり測量の魅力にはまってしまい、ホランドの助手として測量に同行するほか、艦長の許しを得て自分だけでケベックのセントローレンス(St Lawrence)川河口、ガスペ(Gaspe)湾の綿密な測量も行い、優れた海図を制作した。戦時中の敵地での測量である。昼間でなく夜半にフランス軍の警備の目をぬって行う、命がけの仕事であった。
 一方この頃、時の英首相ウィリアム・ピット(William Pitt)はフランスが北部新大陸(現カナダ)をあきらめるよう、様々な形で重圧をかけていた。1759年、ケベックをめぐる戦いには著名な英将軍ジェームズ・ウルフ(James Wolfe)が参加。クックの作成した先の海図を利用したウルフは、川対岸の岬に築いた砲台から徹底的なケベック市街砲撃を行い、フランス軍を驚愕させた。クックの作成した綿密な海図が、ウルフ将軍のケベック奇襲上陸作戦を成功に導いたのだった。ケベックでの勝利は翌年、英軍のモントリオール上陸をもたらし、北米に置けるフランスの支配は実質的に終わりを告げる。その点から見ても、この勝利は英軍にとっての歴史的な出来事であった。
 今回の測量による貢献でクックは一躍、英国海軍本部と、王立協会(Royal Society)から注目を受けることとなる。
 引き続き1762年まで北米で任務を続け、英国帰還の機会が訪れた時、クックは33歳になっていた。英国へ戻った彼は、まず結婚相手を探し始める。ハンサムで有能な航海長だけに相手探しに困った形跡がない。彼はポーツマス港からロンドンに到着したおり、水兵の町として知られるシャドウェル(Shadwell)で、当時20歳のエリザベスと出会う。1年のほとんどを海上で暮らすクックに、どれ程ロマンティックな恋愛の観念があったのかは分からないが、2人は同年12月21日に出会いから約1ヵ月というスピードで結婚。そして東ロンドンのマイル・エンド(Mile End)に所帯を持つが、その3ヵ月後には早くもクックに測量士としての出発命令が下る。彼はそれからの5年をカナダ東部の島、ニューファンドランド(Newfoundland)島海域の測量に費やしたのだった。
 クックのこの測量によって、ニューファンドランド島海域の正確な海図が初めて作成された。彼は従来の船乗りとは異なり、最新の科学的測量を実行したと言われている。従来はコンパスで方位を確かめながら沿岸を進み目測していただけだったのが、クックは四分儀と経緯儀、測鎖を使って、三角測量と天体観測を行ったのだ。船で移動しながらボートで上陸を繰り返し、船を頂点の1つに利用して三角鎖を作り測量するという根気のいる仕事を繰り返した結果、クックの作成した海図は、現代のこの地域の海図と比べても、ほとんど遜色のない見事な出来だという。こうした科学的業績が評価され、彼は王立協会の会員にも選ばれた。
 ニューファンドランド島海域測量の奮闘を終えた時、「これまでの誰よりも遠くへ、それどころか、人間が行ける果てまで私は行きたい」とクックは記した。そしてその願いに応えるかのように、次の大きな冒険が待ち受けていたのである。

 

クックの海上健康管理法

1793年以前に描かれたとされるクックの肖像画。アラスカやハワイの風景を描いた作品で知られる英画家ジョン・ウェバー作。
 長期の船旅では新鮮な野菜や果物が不足することから、船員の間に壊血病(かいけつびょう)が蔓延した。これは皮膚や歯肉からの出血、骨折や骨の変形などに始まって、肺に水が溜まり、最後は高熱を伴い死に至る病とされる。16世紀から18世紀の大航海時代は、この病気の原因が分からなかったため、船員の間では海賊よりも恐れられたという。
 当時の壊血病予防法はガーリックやマスタード、トナカイの血や生魚など、ほとんど呪術的といってもよい様相を示していた。そんな中、英海軍の傷病委員会は食事環境が比較的良好な高級船員の発症者が少ないことに着目し、新鮮な野菜や果物を摂ることによってこの病気の予防が出来ることを突き止めた。その先例として、クックは航海中出来るだけ新鮮な柑橘類をとるよう命令を受ける。それが功を奏し、第1回南洋航海では、ただ1人の船員も壊血病で死者が出なかった。これは当時の航海では奇跡的な成果であった。
 航海中は新鮮な柑橘類の入手が困難なことから、海軍は抗壊血病の薬にと、麦汁やポータブルのスープ、濃縮オレンジジュース、ザワークラウト(酢漬けのキャベツ)などをクックに支給した。クックはこれらを食べるように部下に促したが、当時の船員は新しい習慣に頑強に抵抗し、最初は誰もザワークラウトを食べなかったという。そこでクックは、ザワークラウトは自分と士官に供させ、残りは希望者だけに分けることにした。そして上官らがザワークラウトを有り難そうに食する姿を見せると、1週間も経たない間に、自分たちにも食べさせろという声が船内に高まったという。これだけに限らず、クックは食事を残す者に対して厳しい処罰を与えた。
 しかしながら長期航海における壊血病の根絶はその後もなかなか進まず、ビタミンCと壊血病の関係がはっきり明らかになったのは、1932年のことであった。

 


最初の南太平洋冒険(1768~1771)

 王立協会は、クックを「金星の日面通過」の観測を目的に南太平洋へ派遣することにした。金星の日面通過とは、金星が地球と太陽のちょうど間に入る天文現象で、19世紀まではこれが太陽系の大きさを測定するためのほぼ唯一の手段だった。そのため国際的なプロジェクトとして欧州各国で観測隊が結成された。クックは18世紀に起きた2回目の日面通過にあたる、1769年の現象観測のため、英国からタヒチに送り込まれたわけである。ちなみに、20世紀は0回、21世紀は2004年が通過の年にあたり、次回はその8年後、すなわち来年2012年である。
 1768年、38歳のクックは、公式の指揮権を有する正規の海軍士官である海尉(Commanding Lieutenant)に任じられ、HMSエンデバー号(HMS Endeavour)の指揮官となった。もともと、エンデバー号はウィトビーで建造された石炭運搬船で、小型ではあるが暗礁の多い海洋や多島海を長期間航海するにはうってつけの性能を備えていた。
 エンデバー号には、様々な人物が調査員として乗り込んだ。熱帯の珍しい植物の採集のために、貴族で植物学者のジョセフ・バンクス(Joseph Banks)、カメラのない時代であったことから、詳細な記録を素描する画家にシドニー・パーキンソン(Sydney Parkinson)、金星の観測のため、天文学者のチャールズ・グリーン(Charles Green)などが選ばれた。さらに、黒人の召使いやペットの犬までが持ち込まれた。
 8月初旬に乗員94人で英国を出帆したエンデバー号は、南米大陸南端のホーン岬を東から西に周航し、太平洋を横断して西へ進み、天体観測の目的地であるタヒチには翌年4月13日に到着した。クックはタヒチに到着する前に、現地の住民と友好的にすること、彼らの生活習慣を尊重し人間的に扱うこと、そして勝手に船内の機材を物々交換に使用しないことなどを船員たちに言い渡した。これは命令であり、背いた場合は罰則が科せられた。異文化や人権尊重の立場からというより、自分たちの命を守るためであったと思われる。食料の調達や日面通過の観測を安全に行うには、現地のタヒチ人の協力が不可欠だからだ。彼らとのやり取りはほとんど身振り手振りで行われた。双方がおっかなびっくりの状態で、小競り合いなどはあったものの、タヒチ人は総じて好意的に接してくれたようだ。
 6月3日の金星の日面通過はクックを含む3人が同時に観測したが、それぞれ別に行った観測は誤差の範囲を越えていた。観測器具の解像度が未だ足りなかったのである。
 天体観測が終了するとすぐに、クックは航海の後半についての英海軍からの秘密指令を開封した。それは、南半球にあるという、北半球の大陸と同サイズの土地、伝説の南方大陸テラ・アウストラリス(Terra Australis) を探索せよ、という指令であった。金星観測を理由にすれば、英国にとってこの航海は、ライバルの欧州諸国を出し抜いて南方大陸を発見し、伝説の富を手に入れる絶好の機会となる、と王立協会は考えたのである。

 


ジェームズ・クックによるニューファンドランド島地図。1775年。
現代の測量技術によって描かれたものとほぼ同じで精度が高い。

 

 南太平洋の地理に詳しいタヒチの青年、トゥパイア(Tupia)の助力を得て、1769年10月6日、クックはヨーロッパ人として史上2番目にニュージーランドに到達。海岸線のほぼ完全な地図を作製し、ニュージーランドが南方大陸の一部ではないことを確認する。また、ニュージーランドの北島と南島を分ける海峡も発見し、これは現在クック海峡と呼ばれている。一行はこの後さらに北西へ向かい、オーストラリアの東海岸に西洋人として初めてたどり着いた。だが海岸線を北上し西にまわったことで、オーストラリアはニューギニアと繋がっていないことが判明、「巨大な南方大陸」も存在しないように思われた。ただし、この航海はジョセフ・バンクスを筆頭にした3人の博物学者たちにとっては、ほかで類を見ない貴重な動植物を採集する素晴らしい機会でもあった。
 調査も終盤に掛かった頃、エンデバー号の船底が浅瀬で珊瑚礁に衝突するという事故が起こる。おりしも大暴風雨の最中で、船には大量の海水が流れ込んだ。上下左右にキリキリ舞いする船内で、クックとチームは50トン近い積荷を海中に投出し、藁や布を使って応急処置を施す。誰もが「もうダメかもしれない」と感じた数日だったが、幸い嵐が治まり、エンデバー号は危機を絶え抜いたのだった。
 また、長い船旅につきもののビタミン不足から来る壊血病は、当時は死に至る病として恐れられていた。クックの知恵によって一人の船員もこの病にかかることなく航海の前半を終え、これは当時としては画期的な快挙であった(11頁のコラム参照)。だが、帰国途中に船の修繕のために寄ったジャカルタで、船員たちがマラリアと赤痢に感染。多くの死者がでてしまう。その中にはタヒチ人のトゥパイア、バンクスの助手を務めたスペーリング、植物画家のシドニー・パーキンソンなどがいた。出発からここまでの27ヵ月の航海ではわずか8名だった死者は、ジャカルタ滞在中の10週間で31名に達してしまったのだった。クックはひどく心を痛め、彼らに対し船長としての責任を果たせなかったことを悔やんだ。
 それでも一行は1771年6月12日イングランドの南部のダウンズ(Downs)に帰着。3年に渡る大冒険は終了する。帰国すると直ぐ航海日誌が出版されクックは科学界で時の人となった。だがバンクスの発表した動植物の調査報告はよりセンセーショナルな驚きをもって迎えられた。彼はほとんど自分一人で航海したように振る舞い、幾つかの土地の発見も自分のものだと吹聴。また、オーストラリアが英国の植民地に適していると発言し、このアイデアはすぐに政府に受け入れられることとなる。これにショックを受けたクックは、ロンドンの喧噪を離れ、妻と故郷ヨークシャーへ向かう。父親や親戚一同に妻を初めて紹介するほか、自分を育てたウィトビーの船主、ウォーカーの元も訪れしばし旧交を温めたという。クックはロンドンの社交界に馴染むことは出来そうになかった。

 


2回目の航海(1772~1755)

 先の航海で多大な功績を残したクックは、海尉から海尉艦長(Commander)へと昇進。帰国の1年後に再び海上の人となる。今回の船は「レゾルーション号」(HMS Resolution)、使命は南方大陸の発見と、正確な緯度や経度を測定できるという新しいマリン・クロノメーターの試用だった。王立協会は前回の捜査結果にもかかわらず、オーストラリアの先に南方大陸があるのではないかと、しつこく考えていたのだ。だが、この想像はまったく間違ってもいなかった。
 クックはオーストラリアのさらに南を行き、1773年1月17日に西洋人として初めて南極圏に突入。あと1歩で南極大陸を発見するところだった。だが帆船での南極圏航行は困難を極めた。船内の食用家畜が次々に死亡し、その結果として船員たちの間に壊血病が流行り始めた。クックはこれ以上の南下は不可能とみて、引き返すことにする。「南方大陸は人類が居住可能な緯度には存在しない」というのが結論であった。クックはレゾルーション号のほかにアドベンチャー号を従えていたが、この船はたびたびレゾルーション号とはぐれたうえ、ニュージーランドのマオリ族に捕らえられて、10人の船員が殺害・解体されマオリ族に食されてしまったという。クックは後に、遺体の残骸が入ったバスケットを見ることになる。

 


ドイツの新古典主義画家、ヨーハン・ゾファニJohann Zoffanyによって
描かれた「ジェームズ・クックの死」。1795年。未完成。

 

 また、ニュージーランドに関して、クックは航海日誌にこんなことも記している。「この国の女性は他の南海の小島の女性たちより貞淑だった。だが、西洋人との接触のせいで彼らは堕落してしまった。男性たちは貿易のために率先して自分の妻や娘を差し出すのだ。この国に西洋人は何をもたらしたのか。文化ではなく、梅毒や低級なモラルではないか」。フロンティアの開拓者として悩む、クックの真摯な人柄が垣間みられる言葉だろう。
 帰路にタヒチで水や食料を補給したレゾルーション号とアドベンチャー号は、ここでオマイ(Omai)というタヒチ人の青年をガイドに雇い、1774年にトンガ、イースター島、ニューカレドニア、バヌアツに上陸した後、南米大陸南端を回り南ジョージア島と南サンドウィッチ諸島を発見した。オマイはこの後アドベンチャー号に残り、船員とともに英国へ渡り、ロンドンの社交界でセレブリティ扱いを受けることになる。
 クックは帰国後に直ちに勅任艦長(Post Captain)に昇進。同時に海軍を休職して、グリニッジの海軍病院の院長に任命された。壊血病の予防に貢献したとして、王立協会からメダルを受け取り、特別会員に推挙もされた。だがクックはまだ48歳。海から離れた暮らしも、メダルをぶらさげてグリニッジに落ち着く自分も想像できないのだった。そんなおり、サンドウィッチ伯から、3回目の航海を勧める知らせを受け取る。出発は思ったよりも早く、前回の旅から1年も経っていない。実はクックは疲れ果てており、常に海水に脚をさらす生活でリューマチも発症していた。
 だが、この機会を逃すともう2度と冒険に出られないのではないかという恐れから、航海記を書き上げた直後に、彼の最後の航海となる第3回航海に出る。船の整備時、背の高いクックがドックランズを歩く姿は地元ではお馴染みの光景だったが、今回は港に行く時間もなかった。前回の旅の記録を記し終えていなかった上、次の航路を決めるため毎日地図と格闘していたのだ。クックのチェックなしで整備されたレゾルーション号は、後にひどい結果となる。だが、1776年6月25日、準備不足のまま、何かに追い立てられるようにしてクックは再びレゾルーション号で出発した。僚船は「ディスカバリー号」、チャールズ・クラーク(Charles Clark)の指揮である。

妻エリザベスの生涯
 海洋探検家を夫に持ったエリザベス・クックは、ほとんどいつも地球の裏側にいる夫の留守を守りながら、どんな思いで暮らしていたのだろうか。現代ならインターネットや携帯電話などで連絡が取れようが、キャプテン・クックの活躍した18世紀には、手紙という手段さえままならなかったはずである。20歳で結婚し、クックがハワイで落命した時エリザベスは38歳。彼女が実際にクックと一緒に過ごした時間は、すべて合わせても4年に満たなかった。
 彼女は3人の息子を女手一つで育て上げる(6人の子を出産するが、3人は生まれてすぐ死去)。彼らはクックの血を受け継いだ優秀な人物に育ちつつあった。だが、海軍に入隊した次男のナサニエルは、クックの死のわずか9ヵ月後にジャマイカで遭難。16歳だった。海軍の海尉艦長(Commander)となった長男のジェームズは、1794年に31歳で海上事故により死去。そしてその数ヵ月前にはケンブリッジ大学の学生だった三男のヒューも猩紅熱で病死している。
 愛する夫ばかりか、その忘れ形見である大事な息子たちも次々と亡くしたエリザベスの悲しみは計り知れない。エリザベスは、彼らの命日には終日聖書を読んで過ごした。彼女を知る人によると「常に黒いサテンのドレスを着て、指にはクックの遺髪の入った指輪をして」いたという。
 エリザベス・クックはその後、英国に鉄道が敷かれ、蒸気汽船が英米の大西洋間を行き来する産業革命期も体験し、やがてヴィクトリア女王の戴冠式を目前に、南ロンドン・クラパムの自宅で息を引き取る。93歳だった。夫のクックと死別してから56年、常に彼との思い出と共に生きたという。

 


最後の冒険(1776~1780)

 今回は、アジアへの最短航路と考えられていた「北西航路」の発見を目的としていた。これは欧州から北西に向かい、北米の北側をまわってアジアに至るルートで、未だに仮説に留まっており、これまで多くの探検家が挑んで来た。つまり北極海をまわって大西洋と太平洋のつなぎ目を見つけようというのである。1745年に英国はこの航路の発見者に賞金を出す法律を成立させ、1775年の法案延長時に、賞金が2万ポンドにまで跳ね上がっていた。この賞金を得ようと考えた英国海軍は、クックに白羽の矢を立てたのだった。
 クックらはオマイをタヒチに返した後に、北へと進路を取り、1778年1月にはハワイ諸島を訪れた最初のヨーロッパ人になる。クック一行はカウアイ島(Kauai)南西部に上陸し、時の海軍大臣でクックの探検航海の重要な擁護者でもあったサンドウィッチ伯の名前をとり、ハワイを「サンドウィッチ諸島」と命名した。
 ハワイはこの時ちょうど農耕神のロノ(Lono)を讃えるマカヒキ祭(Makahiki)の最中だった。古来からロノ神は海から現れるという言い伝えがあり、白い帆を掲げた巨大な船は、彼らにとってはまさにロノ神の乗り物に見えたのだった。こうしてクックらは恭しく現地の人々から迎えられた。特に艦長であるクックの姿は神として認知され、人々はクックの足下に跪いたという。
 また、後のカメハメハ一世として知られるハワイのカリスマ王は、クックの訪問時はまだ25歳の若者だった。198センチの身長を持つ威風堂々としたカメハメハの姿に感銘を受けたクックは、「若くて荒々しい戦士」と日誌にその印象を残している。

 


ロンドンの
グリニッジにある
クックの銅像

イングランド北部の
港町ウィトビーでは、
10代のクックが見習い船員として
働いていた船主の住宅が
「キャプテン・クック博物館」=写真=
として公開されている。


 結局、ハワイを拠点にしながら行った北西航路の探索は、ベーリング海峡の氷山と流水に行く手を阻まれ、どうしてもその先に進むのは不可能で、これはクックを落胆させた。だが、実はこのエリアは氷圧に耐えられる船の出現する20世紀まで、誰も突破できない場所であり、クックには何の落ち度もない。
 一方で、この北洋航海でクックはカリフォルニアからベーリング海峡までの海図を製作し、今ではクック湾として知られているアラスカのエリアを発見。西方からロシア人が、南方からスペイン人が行っていた太平洋の北限探査の空隙を、クックはたった1回の調査でさっさと埋めてしまった。 1779年に北西航路の探索からハワイに戻ったクック一行は、ケアラケクア湾(Kealakekua)で船を整備し、英国へ向かおうとする。クックを神とあがめた住人たちや、常に協力的だった王も見送りに現れ、感動的な別れが繰り広げられた。ところが出発したばかりのレゾルーション号のマストが、おりからの強風で半分に折れてしまう事件が起こる。そればかりか古傷である船底の穴も開き、航海不能の事態に陥る。やむなくケアラケクア湾に戻った一行だが、そこでは意外な変化が起こっていた。
 事故で戻ったクックは、神ではないのではないか。神は事故になど遭遇するわけがない、というのが住人たちの考えであった。クックが王の詰問に答えている最中、一発の銃声が鳴り響く。それは僚船「ディスカバリー号」からで、船長クラークの銃だった。彼は大勢でやって来た住民たちが、船の備品に手を付けたことに気を揉み、威嚇の積もりで空砲を撃ったのだった。しかし、これまで友好的だった船員による威嚇は、住民たちを怒らせるに十分だった。クック一行はあっという間に住民たちと敵対関係に陥る。
 緊張の高まる2月14日、船から盗まれた大工道具のカッターが原因で、浜辺に集まった群衆と小ぜり合いが起きてしまう。船の修理に必要な道具類は何としても失うわけにはいかなかった。塵一つに至るまですべて返還しろ、というクックの態度に住民たちは怒り、また、住人の一人がクックらの捜索隊に殺されたという噂に動揺した結果、ヤリと投石でクックらを攻撃し始める。クックらも住民に向けて発砲するが、騒ぎの中、退却を余儀なくされた。しかし背中を向けゆっくり歩き始めたクックは追って来た住民に後ろから石で頭を殴られ、岩上での大格闘になる。やがて彼は後から追いついた住民たちに次々に組み付かれ、波打ち際に転倒したところを刺し殺された。
 この戦いでクックとほかの4人の船員、17人の住民が死亡した。奇妙なことに、クックの遺体は住民たちに持ち去られてしまう。
 次の日、クックに代わり指揮をとり、船の修理を急ぐクラークのもとに、一人の住民が現れた。手にしていたのは解体されたクックの体の一部だった。きれいな布に包まれていたという。彼は3晩にわたりやって来ては、クックの頭蓋骨、腰の骨、塩漬けにされた右手などを残していった。彼らは宗教の儀式に則って、クックの遺体を食べたのだった。神とされ崇拝されたクックの肉を体内に採り入れることで、自分たちもその力を得ることができる、というのが彼らの考えだったようだ。
 2月22日、クラークたちはクックの骨を正式な海軍の作法で水葬にし、クックの死の知らせは、半年掛かって英国に届けられた。やがて1780年10月4日、レゾルーション号の一行は英国に帰還する。
 クックの死を目撃した船員たちは、クックがなぜ最後の瞬間に逃げずに、また振り向きもせずにゆっくり歩いていたのか気にかかっていた。それはあたかも、戦う気持ちを全くもたない人のようだったという。これは様々な憶測を呼んだ。更に、クックの体調がひどく悪化していたとされる事実も浮上した。前回の旅の後半からクックはひどい腹痛に悩まされ、時には立っていることすら不可能な状態になったという。また彼が時折見せる別人のような姿、やる気や記憶力の減退、激しい気分の上下など、これは今ではすべて腸下部に起きる感染症の症状であることがわかっている。長年にわたり腸の壁がゆっくり浸食される病気だが、もしもクックの体調を知っていたら、サンドウィッチ伯は彼に最後の冒険を依頼しなかっただろう。クックは出発した時、自分がもう英国には戻れないのではないかと考えていたと思われる。
 一度はグリニッジ海軍病院の院長の役職を引き受けたクック。だが「こんな小さな世界で生きていけるものなのか、ちょっと心配です」と知人に手紙を書いている。
 「誰よりも遠くへ行きたい」という少年時代からの願いが叶ってしまったあと、自分には「さらにもっとその先へ」という道しか残されていないことに、クックは気づいたのであろう。だとすれば、クックの最期はまさに彼の望んだ、限界を定めぬ冒険家として理想的なものだったとはいえないだろうか。氷山から南国まで、誰よりも多く、驚くような地球の姿に触れたジェームズ・クック。なんと幸運な一生だったことだろう。

 

クックの通った3航路

は第1回航海(1768 - 1771年)
は第2回航海(1772 - 1775年)
は第3回航海(1776 - 1780年)

 

参考資料
"Captain James Cook" by Richard Hough, Coronet Books
"The Voyage of Captain Cook" by Anthony Cornish, Conway

早すぎた美の殉教者 オスカー・ワイルド [Oscar Wilde]

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2012年3月29日

●取材・執筆/佐々木 敦子・本誌編集部

 

早すぎた美の殉教者
オスカー・ワイルド
Oscar Wilde

ヴィクトリア朝の英国で、「才気溢れる世紀末のダンディ」として活躍し、
スキャンダラスな人生を歩んだオスカー・ワイルド。
今号の『Great Britons』では「番外編」として
アイルランド出身のワイルドを取り上げ、その短くも華やかな一生を辿る。

 

キス・マークの絶えぬ墓

 オスカー・ワイルドの死から111年が経過した2011年12月、パリ東部のペール・ラシェーズ墓地には、記念式典のため多くの人々が集まった。そこには、ワイルドの原作を映画化した『理想の夫』に出演した英俳優のルパート・エヴェレットなどと並び、ワイルドの孫で作家のマーリン・ホランド(Merlin Holland)氏の姿もあった。彼らは新たに修復されたワイルドの墓のお披露目式に立ち会ったのだ。
パリで客死したワイルドのために1914年に出来上がったこの墓は、当時の現代彫刻家ジェイコブ・エプスタインによってデザインされ、以来ワイルド・ファンの巡礼地となっている。


最初はパリ郊外の貧相な墓地に葬られたワイルドだったが、
1909年にペール・ラシェーズ墓地(Pre Lachaise Cemetery)に改めて埋葬された。

 1990年代、ワイルドの死後100年に向けて、映画、特別エキシビションなど様々な記念企画が実現したおかげでワイルド・ブームが再燃した。誰かが墓石にキスすることを思いついたらしく、それに倣う女性が続出。墓石の天使の像がファンの残した赤いキス・マークで覆われる事態となった。この墓は、多くの有名人が眠るペール・ラシェーズ墓地の中でもひときわ目立つものの一つだが、長年の間に口紅の油が石に染み込んで損傷が進んだため、これらのキス・マークを徹底的に洗い落として修復する作業が必要になったのだという。
墓石が傷む程のキスを受けた人気作家オスカー・ワイルド。果たして彼は生前にも同様の扱いを受けていたのだろうか? その生涯を追ってみよう。

 


 

女の子のドレスを着て育った優しい少年

 オスカー・ワイルドことオスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルズ・ワイルド(Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde)は、1854年10月16日、アイルランドの首都ダブリンの裕福な上流家庭に生まれた。
オスカーの父親は後にサーの称号を得たウィリアム・ワイルド。ヴィクトリア女王の専属医も務めたアイルランド有数の耳目外科医である。考古学や民間伝承の本なども執筆し、アイルランドでは名士として知られる人物だった。一方、妻のジェーンは作家としても活躍するリベラルで快活な女性で、エスペランザというペンネームでも活動。アイルランド愛国者として政治活動にも積極的に参加し、パーティーの花形だったという。当時としては「とんでいる」女性だったといって良いだろう。
彼らにはオスカーのほかに2人の子供がいる。オスカーの2歳年上のウィリアム、そして4歳年下のアイソラ(Isola)である。アイソラはオスカーが13歳の時に病死しているが、彼は封筒に入れた妹の遺髪を、終生、大切に持ち続けたという。
運動好きの長男ウィリアムとは違い、幼い頃は母親によって女の子のドレスを着せられていたという夢見がちで優しい少年オスカーは、9歳まで両親の元で教育を受け、その後は北アイルランドのファーマナ州(Fermanagh)エニスキレン(Enniskillen)にある名門校ポートラ・ロイヤル・スクール(Portora Royal School)へ進学した。夏の休暇は家族と共に田舎や別荘で過ごすという、恵まれた少年時代であった。
ワイルドは終生、アイルランド出身であることに誇りを持っていたといわれ、イングランドでは、彼なりのやりかたで「反体制」の姿勢を貫こうとしたが、彼にとって、アイルランドがそれだけ特別な場所だったのは幸せな思い出のおかげ、ひいては両親のおかげだったと考えて良さそうだ。


ダブリンにあるメリオン・スクエア(Merrion Square)の北西の角に設置されているワイルドの像。
道をはさんだ向かい側には、ワイルドがかつて住んだ家があり、一般公開されている。

 1871年、17 歳になったオスカー・ワイルドは兄のウィリアムの後を追って、「アイルランドのイートン校」と言われる名門パブリック・スクール、トリニティ・カレッジに入学。頭脳明晰であるばかりでなく、好奇心旺盛な17歳にとって、心躍るできごとであったはずだ。彼はここでマハフィ教授(J.P. Mahaffey)の指導によって古代ギリシャ・ローマ文明に対する興味を開眼させる。これが同性愛嗜好に結びついたのかどうかは想像の域を出ないが、すべては後の創作活動にいかされたであろうことは間違いない。そして古典で優秀な成績を修めた学生に贈られる、バークレー・ゴールド・メダルを受賞している。
また、ポートラ・ロイヤル・スクールで萌芽した彼のおしゃべり好きは、トリニティ・カレッジで学んだ討論術で更なる発展を見せる。人生にドラマを求め知的な会話を愛する、母親ジェーンの性格がワイルドに色濃く『遺伝』していたのだ。また、この頃人気の絶頂にあったチャールズ・ディケンズの著作が「大嫌いだ」とも語っており、ワイルドの耽美主義への傾倒は、すでに現れていたといえる。経験主義者で道徳家のディケンズは、若いワイルドに「俗物」と見なされたわけだ。
1874年、奨学金を得て、オックスフォード大学のモードリン・カレッジに入学。いよいよ、英国に足を踏み入れたのである。しかし、特権階級である貴族の子弟ばかりが通うオックスフォード大学で、ワイルドはカルチャーショックを受ける。ダブリン名士の息子とはいえ、この超エリート校に漂う貴族的雰囲気には圧倒されたようだ。だが、ワイルドは自分のアイルランド・アクセントをすぐさま矯正すると、持ち前の警句やウィットに満ちた話術で次第に頭角を現していく。ワイルドは美しいか、美しくないかということについて、すでに確固たる判断基準を持っていたと考えられるが、アイルランド訛りは美しくないもののグループに入れられてしまったのだろう。
私たちがイメージする、ロマンチックな古典的ファッションに身を包んだ長髪のワイルドというのはこの頃に培われたが、当時としてもかなり奇抜なものであったようだ。しかし、ワイルドにとって、自分の判断こそが最も重要。自分に似合っている、美しく見える―それだけで十分だった。

 

大学停学中にロンドン社交界へ

 この頃、ワイルドの人生を大きく変えるできごとが起こる。父親ウィリアムの死だ。それを境にワイルド家は斜陽に傾き始める。
だが、母親のジェーンは別荘などを売却して年間200ポンドの仕送りを続けた。ワイルドはそれを惜しげもなく使い、そのうえ借金もしていたと伝えられる。当時の物価は、独身の若い紳士が暮らすロンドン市内のフラット賃貸料が年間20~40ポンド、労働者階級の最低年間給与が50ポンドといったところである。200ポンドはかなりの額だったといえるものの、彼には足りなかった。だが、ワイルドは単に贅沢をして喜ぶというケチな精神から散財していたわけではない。ワイルドにとって、極上のものに、できるだけ囲まれていたいという思いは美に対する感性を磨くことに通じていたのだ。
ワイルドの金銭感覚は母親や叔母から受け継がれ、その嗜好はトリニティ・カレッジのマハフィ教授の影響を大いに受けて形成されたといえる。教授は美酒や葉巻、そして骨董品を愛する人物で、若いワイルドは彼から多くを学んだ。また、教授の著作の手伝いをするまでにお気に入りとなっていたワイルドは、オックスフォード在学中に友人たちとローマへ旅する際、このマハフィ教授も誘っている。


オックスフォード大学時代のワイルド。

 当時の英国では、裕福な大学生が卒業旅行と称してイタリアやフランスへ出掛ける習慣があった。これは「グランド・ツアー」と呼ばれ、18世紀に始まったものである。数ヵ月から数年にも及ぶ滞在で、貴族の子弟たちはフランスで優雅なマナーを学び、イタリアでは古代ローマやルネサンス文化の遺産に触れるというのがお決まりのパターンだった。現代の学生旅行とは比べようもない、特権階級にのみ許された召使い付きの優雅な旅である。規模は縮小されたものの、19 世紀にもグランド・ツアーは依然として行われており、大学生たちは「ハクをつける」ため欧州へと向かった。
ワイルドもこの分に漏れず3年生の春休みである1877年にマハフィ教授らと共に欧州大陸に赴く。ローマだけではなくギリシャがその訪問先で、この旅はワイルドに強いインパクトを与えた。イタリアで触れたカトリック文化のレベルの高さに感服したからか、あるいは当時、裕福な若者の間で流行していたからか、この旅行はプロテスタントからカトリックへの改宗を考えるきっかけともなったといわれている。ワイルドはギリシャのコルフからオックスフォード大学の学寮長へ向け、新学期の始まりに10日程遅れるという手紙を投函。学寮長はこれを読み大いに不快に思うとともに、ワイルドがそのままカトリックに改宗するのではないかと気を揉んだようだ。英国国教会(プロテスタント)を「国教」と定めるイングランドにおいて、当時、カトリック教徒への差別はまだ公然と行われていた。 
結局、欧州旅行のため新学期の始まりに2週間以上遅れたワイルドは、不遜な態度から教授の心証を悪くして半年間の停学と、奨学金の停止処分を受けてしまう。だが、ワイルドはここぞとばかりにロンドンの社交界へ顔を出し始め、その特異なファッションと人を逸らさぬ会話術であっという間に人気を獲得する。ワイルドはまだ何もしていない大学生のうちから英国社交界の有名人になってしまったのである。

 


 

文化人としてアメリカへ

 1878年に大学を主席で卒業し、ロンドンに住まいを移したワイルドだが、この頃にはすでにロンドン社交界での人気が高まり、自宅で開くサロンには有力な政治家や王室のメンバーまでが訪れるようになっていた。81年に上演されたギルバート&サリヴァンの耽美主義を風刺したオペレッタ 『ペイシェンス』には、ワイルドをモデルにした人物まで登場している。
ニューヨークで『ペイシェンス』が非常に成功したことから、興行主はワイルドを米国に送りこんで講演旅行をさせるアイディアを思いつく。ワイルドは特定の職業に就いておらず、時々雑誌や新聞に寄稿したりする暮らしを続けていた。このためその人気とは裏腹に、ますます金銭的余裕がなくなってきていたのだった。このチャンスに背を向けるはずはなく、81年12月、27歳のワイルドは「アリゾナ号」でリヴァプールから海路、ニューヨークへと向かう。
当時の米国は富裕層が増えたものの、文化的にはまだ未熟な若い国であり、欧州文化への憧れが強かった。そのため、当時はチャールズ・ディケンズを始めとする欧州の人気作家が、自作を読み聞かせたり、講演をする目的で米国を訪問した。彼らは米国に欧州の文化を紹介することで、高い報酬を得ていたのである。
ワイルドはこの時、到着したニューヨークの税関で「私の才能以外に申告するものはない」と言ったとされているが、真偽の程は定かではない。彼は「英国のルネサンス」等の主題で、西部開拓地を含む米国各地を過密スケジュールでまわる。
欧州文化に憧れる米国の観客たちを喜ばせるため、ワイルドは長い髪をなびかせ、衣装も耽美主義的な華美なものにして壇上に上がった。そして口を開けばオックスフォード大学で鍛えたクイーンズ・イングリッシュによる警句が飛び出すというわけで、ワイルドの米講演ツアーは各地で大好評をもって迎えられた。ファン・レターが殺到し、まるでアイドル・スターのような扱いを受けたという。やがて、戯曲作家としても名声を手に入れるワイルドだが、観客が何を欲しているか、どうすれば「受ける」かということを本能的に察知する稀有な才能に恵まれていたのだ。
ワイルドは米国人の子供じみた素朴な反応を面白がっていたようである。開拓の進む西部の銀鉱山を訪れ、鉱夫たちを相手に講演も行っている。米国滞在は当初3ヵ月の予定だったが、講演が好評を博したため延長となり、結局ワイルドは1年近くも米国に滞在した。各地での講演数は70回に上ったといわれる。ロンドンに戻ったワイルドを迎えた母親のジェーンは、彼が随分成長したことに驚いたと伝えられている。
米国から戻ったワイルドはその足でパリへ向かう。パリでの講演を試みたワイルドだが、当時デカダン(退廃的な芸術至上主義)の本場で世紀末文化の中心地であったパリは、米国と違いワイルドを無邪気に迎えてはくれなかった。だが、この時ワイルドは文豪ビクトル・ユゴーやゾラ、人気画家のドガなどと親交を結び、爛熟したパリの文化を改めて吸収する。そして1ヵ月の滞在で米国で稼いだ講演費をすべて使い果たし、ロンドンへ戻る。

 

つかのまの家庭人生活

 1883年、29歳のワイルドは11月にアイルランド名士の娘であるコンスタンス・メアリー・ロイドと婚約。彼女とワイルドが初めて会ったのは、ワイルドが金策に悩んで米国行きを考えていた頃だが、コンスタンスの家族は当初、2人の交際に反対していた。ワイルドの生活態度に懸念を抱き、難色を示していた家族を押し切ったのは、コンスタンスの熱意だった。コンスタンスはおとなしいが聡明な女性で、ダンテの『神曲』を原語のイタリア語で読むようなインテリであり、ワイルドの大ファンでもあった。この時、彼女の中に根付いたワイルドへの崇拝の念は、その後、様々な困難に見舞われても衰えることはなかった。それは、はからずも、ワイルドが同性愛の罪で投獄された際に証明されることになる。


ワイルドの妻コンスタンスと、1885年生まれの長男シリル(Cyril)。
1886年には次男ヴィヴィアン(Vyvyan)も誕生した。

 1884年、5月に結婚。当時のワイルドは講演で各地を走り回ってはいたものの、文壇に地位を確立しているわけではなく、単なる耽美主義者、ダンディとして有名な人物であり、1200ポンドもの借金を抱える身であった。一方でコンスタンスは年収が250ポンドあり、祖父が死んだ場合はそれに加え、年900ポンドが与えられるはずだった。2人はチェルシーのタイト・ストリート16番地(現在の34番地)に新居を構える。装飾美術にうるさいワイルドのため、コンスタンスは改装費に5000ポンドもの大金を用意している。当初から、コンスタンスがワイルドに尽くすという関係だったと見ていいだろう。


ワイルド一家が1884年に移り住んだチェルシーのタウンハウス。
住所は「16 Tite Street」(現在は34番地)。

 1885年には長男のシリルが生まれ、翌年には次男のヴィヴィアンが誕生。ワイルドの生活は家庭人として変化する。もっと家にいなければという意識が、講演で飛び回る日々から執筆生活へと向かわせたのだ。その結果、『幸福な王子』『カンタヴィルの幽霊』『秘密のないスフィンクス』『アーサー・サヴィル卿の犯罪』といった小説を雑誌に連載をするほか、87年には『婦人世界』という女性誌の編集長も務め始める。週3日、1日1時間程度オフィスに顔を出すだけといういい加減なものではあったが、ワイルドの進言で雑誌の内容は向上し、売り上げも伸びたという。
仕事も家庭もようやく軌道に乗り始めていたが、妻のコンスタンスが2人目の子供を妊娠した頃から、ワイルドは彼女の体型の変化に幻滅するようになっていた。「少年のように細くて優雅だった体が、醜く鈍重になってしまった」と友人に漏らしている。古代ギリシャ文明を愛するワイルドの理想は、若くて鞭の様にしなやかな少年であり、脂肪の多い女性は、ワイルドの美的感覚とは合わなかったのだ。
そんな折、ワイルドはパーティーでカナダから来たケンブリッジ大学の学生、ロバート・ロス(Robert Ross)に出会う。彼の祖父はカナダ首相、父親は駐英大使という家柄で、ワイルドの大ファンを公言していた。さらに、彼は同性愛者でもあった。しかも、18歳の時、自分がゲイであることを母親にカミング・アウトするような、進取の気性を持った若者だったのだ。

ワイルドの妻 コンスタンス
キャンダルの多いオスカー・ワイルドを夫に持ち、常に彼を支えたコンスタンス・メアリー・ワイルド(Constance Mary Wilde、1859~1898)は、ワイルドの才能を信じてさまざまな不安と戦う日々を送った。その美貌はパーティーでも注目の的であり、当時の新聞に彼女の着ていたドレスの詳細が載る程であったが、彼女自身はもの静かで控えめな人物であったようだ。
に対する繊細なセンスをワイルドと共有しており、それは意外な方向で発揮された。ワイルドが2年間『婦人世界』の編集長を務めたことは本文で後述するが、その際ワイルドは妻のコンスタンスに執筆を依頼している。彼女は「今世紀の子供服」というタイトルで、子供服は実用的で着心地がよいものであるべきだ、という良い文章を寄せている。それがきっかけとなり、コンスタンスは「合理服協会」の主催者のひとりに祭り上げられる。これは、いかなる流行であろうと体を変形させたり動きを妨げたりする服やデザインに抗議する集団で、ヴィクトリア朝後期に現れた女性解放運動の一種であった。コルセットで締め付けられたり、極端なハイヒールから解放されなければならない、というのが主張である。ワイルドもたった1人の男性会員として、この会のメンバーに名を連ねたという。
う一つコンスタンスが情熱を燃やしたのが政治。当時女性に参政権はなかったが、女性議員を当選させるため、婦人自由党同盟のサンドハースト男爵夫人と共に奮闘した。ワイルドに対するコンスタンスの我慢強い性格や賢妻ぶりばかりが強調され、こうした活動面はあまり知られていないのは残念なことである。

 


 

運命を狂わす出会い

 ワイルドはこのロバート・ロスによって自分の嗜好を期せずして『発見』することになる。年上の男性が若い男性に経験や知恵を授け、引き換えに若い男性は太陽のように輝くばかりの美しさを提供するという、「古代ギリシャ文明に存在した男性同士の真に崇高な愛のスタイル」だとワイルドは言う。


「ロビー」ことロバート・ロス(1869~1918)

 しかし、奇しくもこの前年、英国では同性愛者を今まで以上に厳しく罰する法律が施行されたばかリだった。富国強兵と帝国主義の道をまっしぐらに進む英国にとって、子孫繁栄を阻害する不毛な同性愛は無用どころか、この世の悪、罰するに値するものだったのである。これに挑むように、ワイルドは「芸術はすべて無用なものである」という逆説的な言葉を残している。
彼がもし、素直に世間の道徳観念に従うような人物であれば、悲劇的な道を歩むことは避けられただろうが、そもそも、ワイルドの作品の数々も生まれることはなかった。運命という言葉で片付けるべきではないかもしれないが、オスカー・ワイルドの才知は、反社会的な環境の中でこそ輝く運命にあったのである。
やがて、ワイルドの思想を散りばめた『ドリアン・グレイの肖像』が1890年に発表されるが、この本はこの時代の価値観である物質主義や富国論、偽善的なモラルなどに真っ向から挑戦していた。「非道徳」で「堕落の頂点に達した」小説だと大きな非難を呼ぶが、ワイルドは「世間が非道徳と呼ぶ本とは、それが社会の恥辱を暴いたからだ」「道徳的な本とか不道徳な本とか言うものは存在しない。よく書けた本かヘタクソな本か、それだけだ」と批判に答えている。
『ドリアン・グレイの肖像』によってワイルドは芸術至上主義者として、ヴィクトリア社会に反旗をひるがえしたのだ。多くの芸術家たちがこの本に感銘と刺激を受け称賛し、ワイルドは遂に「ダンディな服装の社交家」から、革新的な作家へと脱皮したのだった。


ワイルド(左)とボウジー(1893年撮影)。
スティーヴン・フライ主演の映画『ワイルド』では、このボウジーを当時25歳、
美しかりし頃のジュード・ロウ(髪のはえぎわも後退していない)が演じている。

 だが、この成功によってワイルドは一人の青年と出会うことになる。ワイルドが後に身を滅ぼす原因となった、「ボウジー」ことアルフレッド・ダグラス卿(Lord Alfred Bruce Douglas)の出現である。クイーンズベリー侯爵の次男という22歳のボウジーはオックスフォード在学中の学生で、友人から勧められて『ドリアン・グレイの肖像』を読む。大いに気に入った彼はタイト・ストリートのワイルドの自宅を訪れた。ボウジーは小柄でブロンドの美しい青年だった。おそらくワイルドが美の理想とした姿そのものであったのだろう。更に、甘やかされて無軌道で生意気という、美しい者にのみ許される非常にやっかいな性質も持ち合わせていた。ワイルドはあっという間にボウジーの虜になってしまう。ワイルドは37歳になっていた。

 

「英国」相手の法廷対決

 ワイルドと自分の息子が関係を持つことに我慢ならなかったクイーンズベリー侯爵は、ワイルドと会うことを続けるなら勘当し、金銭的援助を打ち切るとボウジーに申し渡すと同時に、ワイルドに何度も嫌がらせを試みている。このクイーンズベリー侯爵というのは、貴族でありながらかなり粗野な人物で、偏執狂的な性格を持ち併せていた。家庭内では、暴君的存在で、ボウジーとの親子仲もよくなかった。
侯爵は、ワイルドの戯曲『真面目が肝心』の初演当日、劇場に野菜クズを投げ込もうとしたり、拳闘家を連れてワイルドの家に乗り込んだり、ワイルドの通うクラブに「男色家を気取るワイルドへ」という名刺を置いて帰ったりという、かなり低俗な行動をとっている。それに対し、ワイルドは侯爵を名誉毀損で訴えるのだが、これは自発的な行為ではなく、これを機に父親に仕返しをしようと考えたボウジーのアイディアだったとする説もある。しかし、この裁判は『ウィンダミア卿夫人の扇』『サロメ』『何でもない女』『理想の夫』と矢継ぎ早に作品を発表し、制作の上で絶頂期にあったワイルドの運命を大きく変えてしまうことになる。


アルフレッド・ダグラス卿(1870~1945)。
ボウジーと呼ばれるようになったのは、彼を溺愛した母親が、
「坊や」を意味するボイジー(Boysie)を縮めた
ボウジー(Bosie)という愛称をつけたことに始まる。

 クイーンズベリー侯爵への裁判が行われ、侯爵には無罪の判決が下る。怒りのおさまらぬ侯爵から、今度は逆にワイルドが男色罪(正しくは複数の青年といかがわしい行為をした猥褻罪)で訴えられてしまう。侯爵は国会議員であった甥の力を利用して、入念な政界工作を施したのだった。しかも私立探偵を雇い、ワイルドと関係した青年たちを集め不利な証言をさせようと待ち構えていたとも言われている。ワイルドが様々な階級の青年たちを知るに至ったのはボウジーの誘いによるものであるが、ボウジー自身は裁判中フランスへ逃れていた。
ワイルドは嘘をつく気も逃げるつもりもなかった。おそらく自分の弁舌の才能に自信を持っていたのだろう。だが、同性愛に対する嫌悪、頑固な階級制度、ヴィクトリア朝の道徳観、つまり「英国」はワイルドを許すつもりは到底なかった。この点をワイルドは過小評価しすぎていたとしか思えない。
下層階級の若者を豪華なレストランに連れて行き、食事を振る舞ったり銀のシガレット・ケースを与えたりするのは、「異常なこと」であるとワイルドはしつこく追求される。
そして、1895年4月4日、公判の2日目に、ワイルドはついに敵の術にはまってしまう。ある一人の少年との関係について「キスをしたのですか?」とダイレクトな質問を受けたワイルドは「まさか。彼は地味な青年で、随分と醜かったんです。気の毒になるくらいでした」と答えてしまったのである。ワイルドがボロを出すことを虎視眈々とねらっていた原告側がこれを見逃すはずはなかった。「醜いからキスをしなかったということですか」という鋭い質問が重ねて発せられた。これは「醜くなければキスをしていた」、つまりワイルドが自ら男色の嗜好があることを認める発言につながる。ワイルドは、次第に追い詰められて行く。また、当時の法律では被告の証言は証拠として採用されなかったため、ワイルドは文字通り孤立無援の状態で法廷に立っていたわけである。
ワイルドの弁護士は国外逃亡を薦めたが、彼は頑としてそれに従おうとしなかった。4月6日、ロンドンのカドガン・ホテルの滞在中に逮捕され、5月25日に有罪判決を受ける。懲役2年、重労働の刑であった。
この結果にクイーンズベリー侯爵は大喜びし、仲間たちと大々的な祝賀パーティーを開いた。かたや、ワイルドの書物は書店から姿を消し、芝居も上演中止となった。ダンディと言われたワイルドが、丸刈りにされ囚人服を着せられると知り喜ぶ人々もいた。
ワイルドはホロウェイ、ペントンヴィル、ワンズワースとロンドン市内の刑務所を点々と廻されたあと、ロンドン郊外、レディングの獄舎に送られる。ここは囚人に特に過酷なことで知られた刑務所で、ワイルドは「C・3・3」という囚人番号で呼ばれることになった。1日6時間「トレッド・ミル」という足踏み式の水車をまわし、郵便配達用の袋も縫わされたとされている。面会に訪れた妻のコンスタンスは、衰弱して傷だらけのワイルドの姿にショックを受ける。多くの友人から離婚を勧められていた彼女だが、ワイルドを見捨てることなど出来ないと考え、出所後も彼を金銭的にサポートすることを約束したのだった。

デカダンスと反プロテスタント主義
「食事も十分出来ない状況下で生きる者に清貧を説くのは酷であり、侮辱だ」。これはワイルドが当時ヴィクトリア朝の英国で美徳とされていたプロテスタントの「清く貧しく美しく」という教えに対して述べた言葉である。贅沢を愛するワイルドがプロテスタント思想を否定するのは、ごく至当なことともいえるが、これを単なるデカダンス趣味と片付けるべきではないようである。当時の英国の状況を簡単に振り返ってみよう。
州は1873年~1896年の間、世界初の同時恐慌(The Long Depression)に見舞われていた。中でも英国は最も激しい打撃をこうむった国の一つといわれており、英国の巨大産業が他の欧州国に対して保っていた優位も失っている。こうした中で真っ先に影響を受けるのは立場の弱い労働者階級であり、貧困層だろう。この時代のプロテスタントの思想は資本主義と深く結びつき、グロテスクな様相を示していた。「低賃金にもめげない忠実な労働を神は深く喜び給う」というのである。支配層は、自分たちはいかにして富を増やすか思案しながら、その一方で労働者たちに勤勉と清貧を説いていたわけだ。産業革命後の労働者は効率よく製品を量産するためのロボットであり、個人の能力を発展させるようなものはすべて「悪い」として潰された。こんな時代にあって「神はいつもおまえを見ている」という言葉は、もはや宗教ではなく脅しであろう。
19世紀末の退廃的なデカダンス文化やダンディズムは、このような風潮に反して現れた、反プロテスタント主義、反全体主義の文化といって良いだろう。「健康的で質素でよく働く」まるでロボットか家畜のような人間が求められる中、不健康でアンニュイなライフ・スタイルが反抗の象徴、一つのポーズだったのである。ワイルドは個人主義の必要性を、その著作「社会主義下における人間の魂」の中で説いており、イエス・キリストは最大の個人主義者だったとも記している。ワイルドが抵抗したのは、ねじ曲げられた当時の道徳観であって、宗教そのものではなかったのだ。後に発表される童話「幸福な王子」は、信仰心なしには書けない作品である。 ワイルドを始めとした世紀末の芸術家たちは、退廃的な背徳者である点ばかり強調されがちだが、当時の時代背景を考えることなしには、彼らの立場を正しく捉えることは難しいだろう。

 


 

旅路の果て

 1897年5月19日、ワイルドはようやく出所した。
出会って以来ずっと友人関係を続けていたロバート・ロスは、ワイルドを同性愛の道へ引き入れたことを深く後悔しており、事件以後は献身的な働きを続けていた。彼はワイルドが劇作家としてパリで再起を図れるよう、当地での暮らしのための準備を整えていたのである。
「セバスチャン・メルモス」という変名を使ったワイルドは、こうしてフランスへ向かう。妻を始め、ワイルドの支援者からの仕送りによる亡命生活の始まりである。ところが、ワイルドはまたも過ちを犯してしまう。獄中では非常な怒りを感じていたはずのボウジーに、手紙を出してしまうのだ。この頃もボウジーは相変わらずの放蕩生活を続けており、金に困るとワイルドからの手紙を売って暮らすような有様だった。ワイルドの手紙に答えたボウジーはフランス北部のルーアンを訪れ、2人は再会する。たった1日の逢瀬だったが、ワイルドの再生への決意は完全に崩壊してしまう。


トラファルガー広場そばのアデレイド・ストリート(Adelaide Street)にある
『A Conversation with Oscar Wilde』と名づけられたオブジェ。

 この再会後ワイルドがボウジーへ宛てた「いとしい私だけの子へ」で始まる手紙には、「美しい芸術作品を創りたいという私の願望は、あなたと一緒でなければ果たせないことに気づきました」とある。この後ワイルドとボウジーはナポリへ遊びに行ってしまい、それを知ったコンスタンスは、さすがに仕送りを停止する。
ナポリで放蕩の限りを尽くしていたワイルドとボウジーは、すぐにすべての金を使い果たす。だが、ボウジーにとって貧乏なワイルドなど、何の魅力も感じられない、ただの中年男に過ぎなかった。2人の関係にも少々飽きてきた彼は、ワイルドの前から姿を消す。
傷心のワイルドが一文無しの状態でパリに辿り着くと、そこで待っていたのは妻コンスタンスの死の知らせであった。脊髄の病を患っていた彼女は、ジェノバでの手術のかいもなく、ワイルドの今後について心を痛めながら死去したのだった。
コンスタンスが病気で苦しんでいたことすら知らなかったワイルドは、自分を責めに責めた。彼女の墓を訪れた後ロバート・ロスに手紙を書いている。「どのように後悔しても、もうどうしようもないという気持ちでいっぱいだ」。墓にはワイルドの名字はなく、「コンスタンス・メアリー、弁護士ホレス・ロイドの娘」とだけ刻まれていた。
ワイルドの精魂は尽き果て、もう創造のための集中力さえ見つけられそうになかった。彼は強力なアブサン酒と友人からの支援に頼った日々を送る。ズボンには穴があき、滞在先のホテルは料金未払いで追い出された。更に健康も悪化し、激しい耳の痛みなどに悩まされ始める。
1900年9月、パリの街は万博で賑わっていた。エッフェル塔が完成し、地下鉄も開通。新しい時代の幕開けである。そんな中ワイルドの体調は悪化し、「アルザス・ホテル」の一室で寝込んでいた。「イングランド人は私が死んでも異議を唱えないだろうね」と、同性愛主義の友人、レジナルド・ターナーに述べている。ターナーは、一時的に所用で不在にしていたロスの代わりに看病につとめていたのだった。


1889年撮影のワイルド。

 10月に部屋で耳の手術を受けるが、経過が思わしくなく、11月に入って意識が混濁し始める。27日、突然「マンスター号では僕に食事を出してくれるかな?」とうわ言を口走る。マンスター号とはウェールズのホリーヘッドからアイルランドへ向かう定期船のことで、ワイルドの心はこの時すでに故郷アイルランドへ向かっていたと想像できる。英国でキャリアの絶頂を迎え、人生を棒にふるほど愛したボウジーと出会ったのも英国だったが、ワイルドが最後に欲したのは故郷での静かな日々だったのかもしれない。
29日、若い頃からの念願どおりカトリックに改宗し、その翌日である1900年11月30日午後1時50分、オスカー・ワイルドは大脳髄膜炎で息を引き取る。46歳だった。枕元にはロス、ターナー、そして宿の親切な主人の姿しかなかった。
かつて「芸術生活とは長い自殺行為である」と語り、「人生は芸術を模倣する」と書いたワイルド。芸術至上主義を謳った彼は、自ら破滅の美学を生きてみせることで、その人生を芸術作品として後世に残したのである。

ワイルドの華麗なる世界
◆◆ 童話 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ワイルドといえば、耽美主義的、皮肉とウィットに富んだ大人向けの作品ばかりを思い浮かべる人が多いだろうが、優れた児童文学を残している。代表作は『幸福な王子』と『わがままな巨人』で、ともにワイルドの子供向け短編集『The Happy Prince and Other Stories』(1888年刊)に収録されている。挿絵は当時の人気挿絵画家ウォルター・クレインとジャコブ・フッドによる。
『幸福な王子』The Happy Prince
ワイルド34歳の時の作品。自己犠牲により他人の幸福を願う人物が主人公。ある町の中心部に、金箔の王子の像が建っていた。その王子の両目は青いサファイア、腰の剣の装飾には真っ赤なルビーがはめ込まれ、美しい王子の姿は町の人々の誇りだった。ある時寝床を探すツバメが王子の足下で寝ようとすると、上から大粒の涙が降ってきた。それは、この場所から見える不幸な人々の姿に涙する王子のもので、彼は自分の体に付いている宝石を不幸な人々に与えるようにとツバメに頼む…。ワイルドの童話の中で最も有名な作品。
『わがままな巨人』The Selfish Giant
キリストと思われる人物も登場する、宗教色の強い作品。近所の子供たちを自分の庭で遊ばせないわがままな大男に、鳥や花そして春という季節すらも愛想を尽かし、彼の庭には冷たい風や雪しかやって来ないようになる。幼い2人の息子シリルとヴィヴィアンのために書かれ、ワイルド自身によって子供たちに読み聞かされたという。
◆◆ 小説 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ワイルドはその生涯に幾つもの戯曲を書いているが、長編小説は『ドリアン・グレイの肖像』が唯一のもの。
『ドリアン・グレイの肖像』(1890年)The Picture of Dorian Gray
年齢を重ねても美貌が衰えない美しい男性ドリアン。彼は享楽的な暮らしに明け暮れるが、代わりに醜く変化していくのは、彼の肖像画だった…。発表当時、主人公のドリアン・グレイとワイルド自身の相似点を挙げる批評家もおり、後の裁判で本作が「証拠」として使われることになる。主人公の名前グレイは、当時関係のあった青年ジョン・グレイから、ドリアンは古代ギリシャの部族の名から取られている。左は、1945年の映画版をリメイクした作品(2009年)のDVD。
◆◆ 主な戯曲 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
テレビも映画もなかった当時にあって、舞台はエンターテインメントとしてきわめて重要な地位を占めていた。特に、当時のイングランドでは上流階級が楽しむ娯楽とされており、戯曲で成功するには、こうした上流階級の観客の支持を得る必要があった。下に挙げたもののほかに、『つまらぬ女』(A Woman of No Importance/1893年)、   『理想の夫』(An ideal Husband/1895年)=写真はその映画版(1999年)のDVD、『真面目が肝心』(The Importance of Being Earnest)(1895年)などがある。
『ウィンダミア卿夫人の扇』(1892年)Lady Windermere's Fan
ワイルドの劇作家としての名声を一躍広めた作品で、4作目の戯曲。これまでワイルドは新訳聖書など古典的な題材を選んでいたが、この作品で初めて現代社会を舞台にした。1本の美しい扇を中心に展開する、謎めいた女性と若く貞淑な妻の対決という有閑階級の恋愛模様をスリリングに描いた風刺劇で、驚きの結末が用意されている。本作は大ヒットし、ワイルドは初公演にして7000ポンドという多額の興行成績を収めたという。ちなみに2004年には『理想の女』のタイトルで、スカーレット・ヨハンソン、ヘレン・ハント主演で映画化されている=写真。
『サロメ』(1892年)
ワイルドがフランス語で書いた、新約聖書を基にした戯曲。洗礼者ヨハネの首を欲しがったヘロデ王の娘サロメについては、これまでもたびたび芸術上の題材になっていたが、ワイルドは切り落とされたヨカナーンの首にサロメが口付けするシーンを加え、これが物議をかもした。1892年に公演を予定されていたが国内公演禁止を通達され、怒ったワイルドはフランス国籍に変えることも考えたと言われている。結局、1893年にフランス語版の戯曲が発表され、英語版は翌年1894年にボウジーの翻訳で出版された(ただし間違いが多く、ワイルドが随分手直しをしている)。世紀末の画家オーブリー・ビアズリーが妖艶な挿絵を提供している=右のイラスト。

 

参考資料
『Brief Lives: Oscar Wilde』by Richard Canning Hesperus Press Ltd
『オスカー・ワイルドの生涯』山田勝・著/NHKブックス
『オスカー・ワイルドの妻 コンスタンス・メアリー・ワイルドの生涯』アン・クラーク・アモール著、角田信恵・訳/彩流社 ほか

 

ツタンカーメン発掘に生涯をかけた男 ハワード・カーター [Howard Carter]

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2012年5月31日

●取材・執筆/本誌編集部

 

ツタンカーメン発掘に生涯をかけた男
ハワード・カーター
Howard Carter

 

1922年、世界中の専門家が実在を否定していた
ツタンカーメン王墓が、未盗掘で発見された。
その偉業を成し遂げたのは無名の英国人考古学者ハワード・カーター。
今号では、輝かしい世紀の大発見に隠されたカーターの苦難と悲哀を辿る。

 

 

 時をさかのぼること約3300年前、紀元前14世紀。
 エジプトの首都テーベ(現ルクソール)の町は、深い悲しみに包まれていた。まだ10代後半であったツタンカーメン王の早過ぎる死。先王が強行した宗教改革や遷都などによって国政が混乱していたこともあり、その突然ともいえる不可解な死は、事故死説、病死説、そして暗殺説など、様々な憶測もまた呼んでいた。
 人々が寝静まった頃、松明の光を受けて輝く少年王の棺のそばには、王妃としての威厳を保つべく、今にも目から溢れ出そうになる涙を必死にこらえているアンケセナーメンの姿があった。豪奢な黄金の人型棺には緻密な装飾が施されており、アンケセナーメンはそれをゆっくりと目で追っていく。やがて、王の生前の面差しを写した頭部にたどりつくと、とうとう彼女の視界はぼやけ、大粒の涙が頬を伝ってこぼれ落ちていった。
 2人は幼馴染であった。父王の死にともない、弱冠9歳でツタンカーメンが王に即位するのと同時に結婚。もちろん政略結婚であったが、複数の妾妃を持つのが当然であったこの時代に、ツタンカーメンはアンケセナーメン以外の女性をそばに置くことはなかった。権力闘争の渦巻く王宮にあって、年若き王が唯一心を許せる存在が、2歳年上のこの王妃だったのである。
 アンケセナーメンは亡き夫のもとへとさらに一歩足を進め、手にしていた花束をそっと棺の上に捧げた。
 「花はいつか枯れてしまうけれど、私の心は永遠に貴方のそばに」
 20年に満たない短い生涯を終え、永遠の眠りについたツタンカーメンに向けて、彼女はそう静かに語りかけた。

 


 

 

絵の才能を買われた修行時代

 時は流れ、1891年。エジプトのベニ・ハッサン。
 ナイル河中流域にある岩窟墳墓の中で、一心不乱に壁画の模写をしていた少年は、一息つこうとスケッチブックを小脇に挟み、薄暗い墳墓から抜け出した。目の前に広がるのは、一面の砂漠と透き通るような青い空、照りつける太陽。そこに佇むかつての繁栄の面影を伝える壮大な遺跡の数々は、何度見ても少年の心を強く揺さぶる。この少年が、のちにツタンカーメンの墓を発見するハワード・カーター(Howard Carter 1874~1939)である。
 カーターは、1874年にロンドンのサウス・ケンジントンで、9人兄姉の末っ子として生まれる。体が丈夫でなかったカーターは学校に通えなかったが、絵を描くことは得意であった。動物画家である父親から手ほどきを受け、次第に父親の助手としてわずかながらも収入を得るまでになっていく。
 父親の顧客からの紹介で、エジプト考古学の第一人者フリンダーズ・ピートリー率いる発掘隊がエジプトから持ち帰った、出土品などの模写画を整理していたカーターのもとに、ある日運命の話が舞い込む。目に映るものを精密に描くことのできる才能を高く評価され、エジプト調査基金(現在の英国エジプト学会)の調査隊のスケッチ担当として、エジプトに同行しないかと誘われたのである。このときカーターは17歳、エジプトでの長い発掘生活の幕開けであった。
 カーターは、この調査が終わっても英国へ戻らなかった。ピートリーやスイス人考古学者エドワール・ナヴィーユの発掘隊に引き続き助手として参加し、やがて発掘作業にも加わるようになる。朝は誰よりも早く起きて現場に向かい、昼間は発掘の一からを実地で教わり、夜は古代エジプト史やヒエログリフ(象形文字)を独学で学ぶ日々を送った。
 1899年、25歳になったカーターは、これまでの現場経験やピートリーらの推挙もあり、エジプト考古局のルクソール支部・首席査察官に就任。この若さでの首席査察官採用はきわめて例外的だったはずであり、カーターの優秀さがうかがえよう。
 古代エジプト時代にテーベと呼ばれていたルクソールはナイル河で分断されており、その一帯には多くの遺跡が残されている。日が昇る方向であるナイル河東岸にはカルナック神殿やルクソール神殿など「生」を象徴する建造物が建ち、日が沈む方向である西岸には「死」を象徴する王家の谷などの墓所が広がる。カーターは査察業務の傍ら、アメリカの富豪セオドア・デイヴィスが発掘中の王家の谷で、遺跡発掘の現場監督としても采配をふるっていた。発掘への情熱をいかんなく注ぎ込むことのできる職を得て、カーターがやりがいと充実感を味わっていたであろうことは想像に難くない。
 ところが1903年、首都カイロ近郊のサッカラ支部へ異動が決まったことにより、順調に進んでいた人生は急変する。赴任したサッカラのセラピウム(聖なる牡牛の地下回廊)入口にいた警備員と、入場料を払わずに入ろうしたフランス人観光客の間で起きた小競り合いに巻き込まれたのだ。カーターは仲裁に入るが、観光客たちは酔っ払っており、警備員と殴り合いにまで発展。この事件を知ったフランス総領事は責任者であるカーターを非難し、公式な謝罪を要求した。しかしその謝罪を拒んだため、考古局を解雇されてしまう。
 失業したカーターはルクソールに戻り、デイヴィスに発掘監督として再び雇ってもらえないかと頼むが、考古局という後ろ盾をなくした代償は大きく、話さえ聞いてもらえず、引き下がるしかなかった。仕方なく観光ガイドをしたり、自身で描いた水彩画を観光客に売ったりしながら凌ぎ、発掘のチャンスが巡ってくるのを待った。



1924年、49歳のハワード・カーター。

 

「執念」と「財力」―運命の出会い

 1907年、遺跡発掘に投資している一人の英国人紳士が、カイロのエジプト考古局にやって来た。考古局長は「またか」とひっそりため息をついた。当時、発掘の真似事をしたがるヨーロッパの上流階級出身者は珍しくなかった。しかし、そう簡単に遺跡が見つかるはずがなく、また作業中は発掘現場に立ち会わなくてはならないため、1~2年ほどで音をあげる。その結果、中途半端に放置される場所が増え、考古局長は頭を悩ませていた。ところが、「発掘放棄の話だろう」と覚悟を決めて会った紳士の態度は、これまでの投資者とは少し異なっていた。
 11世紀にさかのぼる家柄を誇るカナーヴォン伯爵家の第5代当主、ジョージ・エドワード・スタンホープ・モリニュー・ハーバート(George Edward Stanhope Molyneux Herbert, 5th Earl of Carnarvon 1866~1923)は子供の頃から好奇心旺盛で、冒険にあふれた生活に憧れていた。乗馬やヨットを好み、爵位を継いでからは自動車に熱中。自らハンドルを握ってヨーロッパ中を旅した。しかし、数年前にドイツで起こした自動車事故により、毎年冬は英国を離れて療養するようになる。ギリシャやスペイン、南イタリアでの生活に飽きたカナーヴォン卿は、医者に勧められてエジプトで過ごすうちに、神秘的な遺跡群に魅了されて発掘投資を決めたのであった。
 発掘開始から数ヵ月が経ち、ほとんど成果が出なかったにもかかわらず、カナーヴォン卿に諦める気配はなかった。どうすれば墓が見つかるのか真剣に相談を持ちかける、その並々ならぬ熱意は、ある男を彷彿とさせたに違いない。考古局長は発掘には知識のあるプロの考古学者が必要であることを説き、無職であるものの、発掘への情熱だけは人一倍熱いカーターを推薦したのである。



好奇心旺盛だった英国の名門貴族、第5代カナーヴォン伯爵。

 

 


 

忘れられた王と王家の谷

 カーターとカナーヴォン卿は、すぐに意気投合したわけではなかった。カナーヴォン卿は名のある考古学者と組みたがったし、考古局から解雇されたというカーターの履歴も不安材料であった。だが、自分を上回るほどの情熱と忍耐力に感服し、何より同じ目標を持っていたことが発掘を任せる決定打となった――2人は王家の谷での発掘を狙っていたのである。
 古代エジプトにおいて、ミイラとして墓に埋葬されたのは、王族や貴族などの身分の高い者や裕福な者に限られていた。数々の豪華な副葬品が納められた墓は、常に墓泥棒による盗掘の危険に曝されており、新王国時代・第18王朝の王トトメス1世は、自分の墓が暴かれないようにと険しい岩壁がそびえたつ地に岩窟墓の造営を考え出した。以後500年の間、歴代の王がそれにならって岩窟墓や地下墓を造ったため、その地は「王家の谷」と呼ばれるようになったという。カナーヴォン卿は未盗掘の王墓を発見できる可能性があるとすれば、それは王家の谷しかないと考えていた。
 しかし、カーターにはもっと具体的な目標があった。それはツタンカーメン王墓の発見である。ツタンカーメンは謎に包まれた「考古学者泣かせ」の王で、「歴代の王名リスト」にその名はないにもかかわらず、ツタンカーメン王の印章が刻まれた指輪などが、時々単独で見つかったりする。実在した王かすら確かではなく、実在したとしても在位の短い、歴史上大して重要ではない王だと推測できた。それでも「忘れ去られた王」の墓を見つけることは、考古学者なら一度は夢見るロマンといえる。多くが夢半ばで諦めていった中、カーターはツタンカーメン王墓は実在すると考え、発掘生活を送るうちに、それを発見するのは自分だと強く信じるようになったのではないだろうか。そして、そのターゲットを王家の谷に絞っていたのだ。
 王家の谷の発掘権は、引き続きセオドア・デイヴィスが握っていた。彼もツタンカーメンの墓を探し求める一人で、王家の谷から離れる様子はない。カーターたちは他の候補地を発掘しながら、時期をうかがっていた。
 1914年、ついにデイヴィスが王家の谷からはこれ以上何も発見されないと結論を出し、10年以上保持した発掘権を放棄する。知らせを聞いたカーターは、英国にいるカナーヴォン卿に電報を打ち、王家の谷の発掘権を至急手に入れるよう訴え、聞き入れられた。とはいえ、やはり好事魔多し。いよいよ念願の作業開始という時に第一次世界大戦が勃発し、発掘は一時中断となってしまう。





ルクソールのナイル河西岸に広がる王家の谷。
古代エジプト新王国時代の王の墓が集中している。© Nowic

 

進まぬ発掘と許されぬ恋

 第一次世界大戦が終結し、王家の谷で発掘作業が再開されてから3年が過ぎた1920年、何も発見できないことにカーターは焦りを感じていた。カナーヴォン卿もしびれを切らし始めており、カーターは調査方法を一新する。考古局の資料と照らし合わせて、過去数十年にわたって王家の谷で発掘された全箇所を記した測量図を作成し、未着手の場所を徹底的に掘る作戦だ。カナーヴォン卿は期待に胸を膨らませたが、結局成果は上がらなかった。失望したカナーヴォン卿は翌年の発掘権を手放し、投資からも手を引くことを示唆する。慌てたカーターは再度測量図を作成し直し、今度は発掘の際に積み上げられた土砂で覆われ、作業が困難なために避けてきた箇所をしらみつぶしに調べる方法を提案して説得を試みるが、カナーヴォン卿は難色を示したという。土砂を取り除きながらの作業は、2倍の手間と時間がかかるからだ。しかし、最後にはカーターの勢いと必死さに折れ、翌年も発掘続行を許可した。
 自分だけの指揮で結果を出さなければならない状況と、周囲から遮断された岩山の狭間での長期間にわたる仕事は、強靱な意志と忍耐力、強い信念がなければ続けられないだろう。そんなカーターを支えたのは、ツタンカーメンに寄せる執念ともいえる思いと、ある女性――カナーヴォン卿の娘イヴリンの存在だったと思われる。
 カーターがイヴリンと初めて出会ったのは、王家の谷であった。第一次世界大戦の終戦により情勢が落ち着くと、カナーヴォン卿はエジプトに娘を伴って来たのである。父からずっと話に聞いていたエジプトを訪れるのは、イヴリンにとって長年の夢であった。イヴリンは上流階級の女性にありがちな気取ったところのない控えめな人柄で、考古学の造詣も深かったといわれており、カーターの発掘への思いを理解してくれる唯一の女性であったのかもしれない。当時40代半ばを迎えていたカーターと17歳のイヴリンは、親子ほどに年齢が離れていたが、瞬く間に心を通わせるようになったとされる。イヴリンが英国に戻ってからも2人の手紙のやり取りは続き、毎年冬の発掘シーズンには父に付き添ってエジプトに滞在するようになっていた。



写真右からカナーヴォン卿、カーター、
カナーヴォン卿の娘イヴリン、カーターの助手。

 

 


 

最後のチャンス

 1921年、勝負の年が始まった。山のように堆積した土砂を取り除きながらの発掘は、通常通りに行っていたのではすぐに時間切れになってしまう。カーターは作業員の数を増やし、人海戦術で広範囲にわたってひたすら掘り進めていくことにする。膨大な量の土砂を休まずに動かし続けたが、実りのないままその年も終わってしまった。
 1922年の夏、カナーヴォン卿はついに探索打ち切りを決め、王家の谷の発掘権を放棄する旨をカーターに手紙で伝える。大戦により一時中断を余儀なくされたとはいえ、王家の谷を発掘し始めてから8年。遺跡発掘への投資を始めてからだと15年以上が経過している。カナーヴォン卿がそろそろ潮時だと判断したとしても不思議ではない。たとえ盗掘されていたとしても、埋もれた遺跡の発見は学術的には大きな意義があるが、投資する者にとっては多大な犠牲を払うことになる。大戦前とは違って英国も物価が上がり、道楽というには発掘は強大な負担になっていたであろうことは、容易に推測できよう。
 カーターは手紙を読み、部屋で呆然と立ち尽くした。本当に王家の谷は掘り尽くされてしまったのか。それともツタンカーメンの墓を探し当てるなど、自分には大それた夢だったのか。あるいはツタンカーメンは実在しなかったのか? ぼんやりと測量図を眺めていると、ふとある場所に目がとまった。
 「そうだ! ここはまだ手を付けていなかった!」
 ラムセス6世の墓の壁画は保存状態が良いため、人気観光スポットの一つである。その隣には墓を造る際に建てられた、作業員小屋の跡とされる遺構が残っており、王の墓の上に作業小屋を建てるなどありえないとして、これまで見逃されてきた場所であった。しかしよく考えると、第18王朝の王とされるツタンカーメンと第20王朝のラムセス6世の治世は、少なくとも200年ほど離れている。埋葬場所がわからないように地中に造られた墓だ。200年の間に所在が忘れられ、その上に小屋を建ててしまった可能性もあるはず…。カーターの心に、一筋の希望の光が駆け抜けた。
 カーターはすぐに英国に渡り、カナーヴォン卿のもとを訪れた。カナーヴォン卿が発掘資金を提供してくれないならば、自分の蓄えをすべて放出しても構わないとカーターは告げる。そしてもし何か発見できた場合は、自分はその遺跡に関するすべての権利を放棄し、カナーヴォン卿に一任することも約束した。話し合いは三日三晩続き、カナーヴォン卿はその熱意に負け、今回が最後という条件で発掘権の延長を決断した。

 

12段の階段と封印された扉

 11月7日、英南部バークシャーのハイクレア城。
 私室でのんびりと新聞を読んでいたカナーヴォン卿のもとに、エジプトから一通の電報が届く。
 「ついに谷で見事な発見。無傷の封印を持つすばらしい墓。元通りに封鎖して貴殿の到着を待つ。おめでとう」
 カナーヴォン卿は、この短い電報の意味を把握するまでにしばらく時間がかかった。そして理解した途端、ソファから勢いよく立ち上がり、家族が集っている談話室へと駆け込んだ。「カーターがとうとうやったぞ!」。カナーヴォン卿は、イヴリンとともに急いでエジプトへ向かった。
 最後の発掘権延長を申請した後、カーターはラムセス6世の墓の隣にある作業小屋の土台除去に着手した。「これが人生最後の発掘となるだろう。できることはすべてやり尽くした。後悔はしない」。おそらくカーターはこう覚悟を決めていたのではないだろうか。土台をすべて取り除くと、そこから南に向かって掘り返し始める。そして「その日」は突然やってきた。
 発掘開始から4日目の11月4日朝、カーターが現場に到着すると、作業員が誰も仕事をしていなかった。異常なほどの緊張感と静けさに包まれており、作業員の一人がカーターの姿を見るなり何か叫びながら駆け寄ってくる。
 「見つかりました! 階段です!」
 カーターはすぐに掘り進めるよう指示を出した。一段、また一段と下降階段が現れるたび、隠しきれない興奮で体が震える。そして12段目に辿り着いたとき、封印されたままの漆喰扉の上部が姿を見せたのである。
 11月24日、駆けつけたカナーヴォン卿とイヴリンが見守る中、調査を続けたカーターは、封じられた扉の下部にツタンカーメンのカルトゥーシュ(王の印章)が押されているのを発見した。これこそがツタンカーメンの墓だ…! カーターとカナーヴォン卿は思わず固く抱き合った。イヴリンは感激のあまり涙をこぼし、作業員たちは一斉に歓声を上げた。
 2日後、扉を崩して墓室へと続く通路の瓦礫を片付けたカーターらは、封鎖された第二の扉につきあたった。中の様子を探るため、扉の一部に穴を開けて顔を寄せると、カビくさい臭いとともに熱気が流れ出てくる。3000年以上密閉されていた古代の空気だ。カーターは、はやる気持ちを抑え、ろうそくを持った右手をその穴に差し込み、中を覗いた。
 「最初は何も見えなかった。しかし目が慣れていくにつれ、室内の細部がゆっくりと浮かび上がってきた。数々の奇妙な動物、彫像、黄金。どこもかしこも黄金だった」
 ツタンカーメンの王墓発見のニュースは瞬く間に広まり、世界中を驚愕させた。まだ発掘途中で見学ができないと知りつつも、世界各地から人々が王家の谷に押し寄せたという。忘れられた王は、一夜にしてエジプト史上最も有名な王となったのである。



黄金の厨子の扉を開き、内部をのぞきこむ
カーター(中央奥)とその助手たち。

 

 


 

少年王の呪い

 世紀の大発見から5ヵ月後、突如悲劇の幕が上がる。
 贅を尽くした副葬品の整理を終え、玄室(埋葬室)にある王の石棺が納められた巨大な4重の黄金厨子の解体作業に取り組むカーターのもとに、青天の霹靂ともいえる知らせが届く。それはカイロのホテルに滞在しているイヴリンからのもので、カナーヴォン卿が危篤だと告げていた。カーターは翌朝一番の船でカイロに向かうが、カナーヴォン卿と再び言葉を交わすことはできなかった。
 1923年4月6日午前1時50分、カナーヴォン卿が56歳で死去。黄金のマスクやツタンカーメンのミイラと対面することなく、その遺体は英国へと帰っていった。死因はひげを剃っている際に、蚊に刺された箇所を誤ってカミソリで傷つけてしまったことより菌血症を患い、肺炎を併発したためといわれている。
 ところが、これが一連の不思議な事件の始まりとなった。カナーヴォン卿の急死後、発掘関係者が次々と不遇の死を遂げていったのである。カナーヴォン卿の弟、専任看護婦、カーターの秘書と助手、調査に協力した考古学者やエジプト学者…その数は20人以上。ほとんどが病死と診断されたが、当時のマスメディアはこの異常事態を「ツタンカーメンの呪い」と大きく報道した。
 やがてカーターも受難に見舞われる。最初にそれをもたらしたのは、父の跡を継いで第6代カナーヴォン伯爵となった息子ヘンリーであった。ヘンリーは考古学に興味がなく、発掘投資は浪費の極致だと考えていたため、王家の谷の発掘権を今期限りで手放すと宣言したのである。発掘権が他者に移ると、ツタンカーメンの墓の調査権もその相手に渡ってしまう。カーターはヘンリーに連絡をとるが、話し合いの場さえ持つ気はないようだった。
 行き詰ったカーターに、さらなる衝撃が訪れる。イヴリンが敏腕の実業家でもある準男爵と婚約したのだ。カーターとイヴリンの恋は、当然周囲に反対されていた。カーター自身もその身分差、年齢差を理解していたと思うが、ツタンカーメンの調査権を失おうとしている今、イヴリンまでもが奪われてしまうという残酷な事実に、どれだけ悲嘆に暮れたであろうか。その衝撃は計り知れないものがある。
 しかし、状況はさらに一転する。イヴリンが慌ただしく結婚した後、ヘンリーが発掘権放棄を撤回したのだ。一体何がヘンリーの気持ちを変えさせたのか?――そこにはイヴリンの犠牲があった。ヘンリーは、イヴリンが身分に相応しい相手と結婚し、カーターと二度と会わないならば、発掘権を延長してもいいとイヴリンに持ちかけ、彼女はそれを了承したというのである。カーターがこの話を知っていたかどうかは、今となっては知ることはかなわない。



ツタンカーメンのミイラが今も眠る玄室。
壁画が完全に乾く前に埋葬されたため、壁には暗褐色の染みが多く見られる。 © Hajor


ツタンカーメン王墓の平面図

 

黄金よりも美しいもの

 1924年2月12日。厨子の解体がようやく終了し、カーターが設計した滑車によって、石棺の重い蓋がゆっくりと持ち上げられていくのを、カーターと調査に協力している学者らは固唾を呑んで見守っていた。王はどのようにして姿を現すのだろうか? 一秒が一分に、一分が一時間にも感じられる。石棺の中に少しずつ光が注がれていくと、古びた布で覆われているのがわかった。カーターはそれを慎重に巻き取っていき、最後の布が取り除かれたとき、驚きのあまり呼吸をするのを忘れてしまうほどに眩い光景を目にした。若い王の姿をした、光り輝く黄金の人型棺が横たわっていたのである。
 「死後も存在する崇高な雰囲気を感じた。深い畏敬の念に満ちた静寂が墓内を支配し、時が止まったように思われた」
 静まり返る玄室内で黄金の棺を見つめるカーターの心を最初に占めたのは、おそらくカナーヴォン卿への思いだったのではないだろうか。意見が合わず、対立することも多々あったが、ともに歩んだ15年間を思い出し、この歴史的瞬間に彼が立ち会えなかったことが残念でならなかったに違いない。
 白いアラレ石と黒曜石で飾られた人型棺の王の両眼はまっすぐに天井を見つめ、胸の前で交差された両手は王を表す王笏と殻竿をにぎっており、その若々しくも力強い王の威厳をまとった姿に、学者たちから感嘆の声がもれた。しかし、カーターは別のものに目を奪われていた。それは棺の上にそっと置かれている「小さな花束」である。
 「最も感動的だったのは、横たわった少年王の顔のあたりに、小さな花束が置かれていたことだ。私はこの花束を、夫に先立たれた少女の王妃が、夫に向けて捧げた最後の贈り物と考えたい。墓はいたるところが黄金で包まれていたが、どの輝きよりも、そのささやかな花ほど美しいものはなかった」
 奇跡的にもほのかに色を留めていたその花束は、石棺の開封によって外気に触れた途端、崩れ始めた。思わずカーターが手を伸ばすと、まるで空気中に溶け込むかのようにパラパラと崩れ去っていった。3300年のあいだ、孤独を癒すかのように王に寄り添い続けた花は、カーターの目の前で最後の輝きを放ち、過去へと帰っていったのだろう。カーターは、時代に翻弄されながらも強く生きようとした、若い夫婦の苦闘と悲哀、そして愛情をそこに見て、胸が熱くなったのだと思われる。3000年前の「古代人」も今の「現代人」も何ら変わりないことに気付いたのだ。墓には、死産だったと思われる2体の胎児のミイラも丁寧に葬られていたという。



ツタンカーメンの黄金棺の内部を慎重に精査するカーター。

 

暗殺? 事故?ツタンカーメン 死の真相

王墓に納められていた、幼少期のツタンカーメンの像
 2010年、エジプト考古学研究グループがCTスキャン撮影をはじめとするDNAや放射線調査によってツタンカーメンのミイラの検証を行なった結果、ツタンカーメンは近親結婚で生まれたことによる、先天的な疾患を患っていた可能性が高いことが判明した。背骨の変形や足の指の欠損、臓器疾患の跡が確認され、おそらく死因は大腿骨骨折による敗血症とマラリアの合併症であったというのが、最新説として発表されている。
 かつては、後頭部に強い打撃を受けて命を落としたという説が最も有力視されていたが、X線写真に写っていた頭蓋骨の中にあった骨片は、ミイラ作りの際に脳をかきだすために開けられた穴から落ちたものと結論づけられ、頭部打撃による暗殺説は現在では否定されている。
 少なくともツタンカーメンの直接的な死因が病死であることはほぼ間違いないとされているが、大腿骨には縦にひびが入っており、太い大腿骨を縦に割るにはかなり強い力を要することから、戦車等から落下したのではないかと推測されている。それが不幸な事故であったのか、何者かによる暗殺未遂であったのかは、今や知る術はない。

 

 


 

永遠の眠りへ

 1939年3月、ロンドン。
 冷たい雨が降りしきる中、ロンドン南部パットニーの墓地では、カーターの葬儀が行われていた。かつての国民的英雄は人々の記憶のかなたに消え、最後の別れの挨拶をするために集まった人は、ほんの一握りだった。その中に、地面に横たわる質素な棺を見つめる準男爵夫人イヴリンの姿があった。牧師の祈りが終わると、イヴリンは棺の上にそっと花を置いた。イヴリンは結婚後、エジプトを一度も訪れていない。カーターとも会っていないが、手紙のやり取りだけは続けていた――王墓発見の瞬間を共有した同志として。
 花が添えられた棺が土の中へと納められていくのを見つめながら、イヴリンはカーターから届いた一通の手紙を思い出していた。そこにはカーターが黄金の棺を目にした時の思いが綴られていたが、なかでも印象的だったのが、その人型棺に添えられていたという枯れた花束の話だった。カーターの魂がこの地に留まることはきっとないだろう。すでに飛び立ち、遥か海を越え、王家の谷へと辿り着いているかもしれない…。
 40年にわたるエジプト生活に終止符を打ち、1932年にカーターは英国に帰国するが、その後の人生は寂しいものであった。ツタンカーメン発掘という偉業を成し遂げながらも、高等教育を受けていなかったため、考古学者として高く評価されることはなかった。独身を通し、自宅で黙々と「ツタンカーメンの学術報告書」をまとめ上げる毎日を送り、結局その報告書の完成をみないまま、1939年3月2日、64歳で息を引き取った。
 ツタンカーメン王墓の発見は、20世紀におけるエジプト考古学史上最大の発見である。墓内にあった遺物のほとんどは、カイロ考古学博物館で見ることができるが、訪れた人はその質量に驚くことだろう。出土品はミイラも含め、研究と保存のために博物館へ移されるが、カーターはツタンカーメンのミイラを移動することだけは断固拒否したとされる。そして、カーターの願い通りにツタンカーメンは今も王家の谷で静かに眠っており、本来の王墓に納められている唯一の王だという。
 学者たちの唱える「常識」に屈せず、ツタンカーメン王墓の存在を確信し、鋭い感性と緻密な観察力、情熱と忍耐を持って、エジプトの大地を掘り続けたカーター。ひたすら追い求めた夢が現実となった時、彼の心を最も大きく揺り動かしたのが、黄金でもミイラでもなく、枯れた花束であったとは予想だにしていなかったに違いない。全調査を終えるまでツタンカーメンと2人きりで過ごした10年が、カーターにとって一番幸せな時間だったのかもしれない。

 

考古学者の憧れの家 カーターハウス in ルクソール

© Kameraad Pjotr
 王家の谷の発掘作業時に、カーターが実際に生活していたルクソールの高台にある家が、博物館として一般公開されている。2010年に修復を終えた館内では、書斎、暗室、寝室、キッチンなどが当時のままに復元されており、カナーヴォン卿や発掘作業員たちと写っている貴重な写真のほか、カーターが描いたツタンカーメンの棺のスケッチや直筆の手紙、使用した発掘道具なども展示されている。
ルクソールを訪れる際には、ツタンカーメンへの夢と情熱がぎっしりと詰まった「カーターハウス」へも、ぜひ足を運んでみよう。詳細はエジプト大使館 エジプト学・観光局(www.egypt.or.jp/)等にお問い合わせを。

 

47年ぶりの来日 ツタンカーメン展が大盛況!


大阪会場で開催された内覧会の様子(写真提供:産経新聞社)
 日本美術展史上最多の入場者数を記録し、日本を熱狂の渦に巻き込んだ「黄金のマスク」が来日してから約半世紀。ツタンカーメンの大型展覧会「ツタンカーメン展 ~黄金の秘宝と少年王の真実~」が、現在日本で開催されており、連日多くの観客が来場している。
 今回の展覧会では黄金のカノポス容器(ツタンカーメンの内臓が保管されていた器)、ツタンカーメンのミイラが身にまとっていた黄金の襟飾りや短剣など、ツタンカーメン王墓や王家の谷から発見された貴重な宝物122点を公開。
 大阪会場(7月16日まで、大阪天保山特設ギャラリー)では、開催してから2ヵ月で入場者数が60万人を突破。開館時間も延長され、不動のツタンカーメン人気を証明している。8月からは会場を東京に移して開催される予定。夏に一時帰国される方は、ツタンカーメンにまつわるミステリーを堪能してみては?

 開催日程:8月4日~12月9日
 会場:    東京、上野の森美術館
 
www.fujitv.co.jp/events/kingtut/top.html

 

参考資料
■『ツタンカーメン発掘記 上・下』ハワード・カーター著、酒井傳六/熊田亨・訳、ちくま学芸文庫
■『少年王ツタンカーメンの謎 考古学史上最大の発掘物語』P・ファンデンベルク著、坂本明美・訳、アリアドネ企画 ほか
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