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化石ハンター メアリー・アニングの情熱[Mary Anning]

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2012年8月30日 No.743

取材・執筆/根本玲子・本誌編集部

化石ハンター
メアリー・アニングの情熱

世界に先駆け地質学研究が発展した
19世紀初頭のイングランドに
プロの女性「化石ハンター」がいた。
彼女の名前はメアリー・アニング。
今号では貧しい階層の出身ながら
時代の最先端をいく学者たちと渡り合い、
不屈の精神で化石発掘に人生を捧げた
ひとりの女性の偉業をふり返りたい。

 

プロの化石ハンターとして、化石発掘に全身全霊をかけたメアリー・アニング。採掘には、愛犬「トレイ」=肖像画内で、向かって右下にうずくまっているイヌ=を伴って出かけることが常だったという。しかし、採掘中に起こった地滑りによって、そのトレイを目の前で失うという悲しい事故を体験した。なお、メアリーは恋愛については多くを語らなかったが、夫や自分の子供の代わりに母親モリー、愛犬トレイ、そして他の子供たちや病人に愛情を注いでいたと伝えられている。


 

◆◆◆ 化石ハンター誕生 ◆◆◆


 



ジョセフとメアリーが見つけた、イクチオサウルスの頭部の化石=エヴェラード・ホーム(Everard Home)によるスケッチ(1814年)。
 冬の嵐が過ぎ去ったばかりの海岸。
もろく崩れやすい崖の断面から覗く巨大な眼窩、くちばしの様な細長い口にびっしり並んだ歯。かつて誰も見た事もない不思議な生き物の頭部が、少女と兄の目の前にあった。
4フィート(約1・219メートル)もある頭骨を慎重に岩場から掘り出した2人は、化石を土産物として販売する小さな店を営んでいた自宅へと、この不思議な『物体』を持ち帰る。ニュースを聞き及んだ村人たちが続々と店を訪れ、この奇怪な発見について喧々ごうごうの議論を始める。
実物はだれも見たことがないけれど、これが、人々がクロコダイルと呼ぶ生き物なのだろうか。少女は父がかつて語った様々な話を思い起こしながら、この生き物の正体について思いを巡らしたに違いない。そしてどこか近くに埋もれているはずのこの生物の残り部分を探し当ててみたいと熱望したはずだ。少女の小さな瞳の奥には、情熱という名の炎がすでに激しく燃え盛っていたのである。
ロンドンの観光名所のひとつ、サウス・ケンジントンにある自然史博物館の中でもひときわ高い人気を誇る化石ギャラリー内に展示された、ジュラ紀の首長竜「プレシオサウルス」。この化石の脇に、岩場にたたずむ婦人の小さな肖像画が添えてあるのをご存知だろうか。
彼女の手にはその服装には似つかわしくない1本のハンマーが握られている。
この絵のモデルこそ、2010年に王立学会が発表した「科学の歴史に最も影響を与えた英国人女性10人」の1人に選ばれたプロの化石ハンター、メアリー・アニング(Mary Anning 1799~1847)だ。
冒頭で触れたのは、彼女と兄が発見した化石で、2億年前もの昔に存在した、イルカのような姿をしていたというジュラ紀の魚竜「イクチオサウルス」の頭部である。
この後、残りの胴体部分の化石を見つけ出した彼女は、世界で初めてイクチオサウルスの完全な骨格標本を発見した人物となる。当時わずか12歳。食べていくために、地元で化石を掘り出し土産物として売っていた貧しい「化石屋」の娘が、どのような経緯で世界的な発見に至り、19世紀初頭に英国でも盛んになりつつあった古生物学の世界への道を拓いたのか。彼女の幼少期から順を追って探っていきたい。


 

◆◆◆ 雷に打たれた赤子 ◆◆◆


 

 中生代のジュラ紀に形成された地層が海へと突き出した、東デヴォンからドーセットまで続くドラマチックな海岸線は、ユネスコの世界自然遺産にも登録され、化石の宝庫であることから現在はジュラシック・コースト(Jurassic Coast)とも呼ばれる。
英仏海峡に面したライム・リージス(Lyme Regis)は、ジュラシック・コースト沿いにある、何の変哲もない小さな町だ。ここで、メアリーは1799年、家具職人リチャード・アニングの娘として誕生した。リチャードは妻のメアリー・ムーア(通称モリー)との間に10人の子供をもうけたが、流行病や火傷などの事故によってほとんどの子供たちが幼少時に他界し、成人まで生き残ったのはメアリーと兄のジョセフだけだった。
子供の生存率が低かったこの時代、アニング家の事情はさほど珍しくはなかったとはいうものの、夫妻は跡継ぎの長男のジョセフ、そして3歳年下のメアリーを、貧しいなりにも大切に育てていた。

1812年にジョセフとメアリーが発見した、イクチオサウルスの化石のスケッチ(1814年発表)。
 しかしある時、隣人女性が、生後15ヵ月だったメアリーを抱き木陰でほかの女性2人と馬術ショーを観戦していた際、思いがけない事故が起こる。雷がその木を直撃、メアリーを抱いていた女性を含む3人が死亡したのだ
赤子のメアリーも意識不明となるが、目撃者が大急ぎでメアリーを連れ帰り熱い風呂に入れたところ奇跡的に息を吹き返す。そして不思議なことに、それまで病気がちだったメアリーはその日以降、元気で活発な子供になったとされ、町の人々はメアリーが成長したのちも「雷事件」が彼女の好奇心や知性、エキセントリックと評される性格に影響を及ぼしたに違いないと噂しあっていたという。


◆◆◆ サイドビジネスの化石探し ◆◆◆

 

 父リチャードは、仕事の合間を縫って海岸に出ては化石を探して土産物として売り、家計の足しにしていた。当時のライム・リージスは富裕層が夏を過ごす海辺のリゾート地として栄えており、1792年にフランス革命戦争、ついでナポレオン戦争が起こってからは特に、国外で休暇を過ごすことをあきらめた人々が保養先にと押し寄せるようになっていた。
大博物時代を迎えていた英国では専門家でなくとも化石を所有することはファッションのひとつでもあり、地質学・古生物学の基礎が築かれつつあったこの時代、学者たちは研究の重要な手がかりとなる化石の発見に常に注目していた。しかし一般には、これらの化石は、聖書に描かれたノアの大洪水で死んだ生き物の名残だと考えられており、とぐろを巻いたアンモナイトの化石には「ヘビ石」、イカに似た生物ベレムナイトの化石には「悪魔の指」といった呼称がつけられていた。 また、「化石(fossil)」という名称はまだ確立されておらず、人々は不思議なもの、興味をそそるものという意味でこれらを「キュリオシティ(curiosity)」と呼んでいた。
 

 

化石って一体何?どうやってできる?
化石とは今から1万年以前の生物、あるいは足跡や巣穴、フンなど生物の生活していた様子が地層に埋没して自然状態で保存されたもの。そのまま形が残っているものだけでなく、化石燃料と呼ばれるようにプランクトンや草木が変質して原油になったものや、植物が石炭や鉱物に変化したものなども含まれる。


デ・ラ・ビーチ卿が、1830年にメアリーの発見した化石をもとにえがいた、「Duria Antiquior (a more ancient Dorset)」(直訳すると「太古のドーセット」)。
どうやって生物が化石に変化するのか。メアリーが発見したアンモナイトやイクチオサウルスなど、海の生物を例にして挙げてみよう。

①死骸が海の底に沈む 。

②土砂に埋もれ体の柔らかい部分は微生物に分解され骨や歯だけが残る。

③長い年月をかけて積もった土砂の圧力などにより、骨の成分が石の成分に置き換えられることで「石化」し、「体化石」となる。

ただし、こうして出来上がった化石がそのまま発見されることはない。地殻変動によって海や川の底が隆起して陸地となった後、地震などの働きで断層ができ、化石を含む地層がようやく表面に現れ、やがて化石が発見されるのだ。また地殻変動の過程で化石はばらばらになってしまう可能性が高く、恐竜など大きな生物の化石が丸ごと見つかることは非常にまれ。

また、生物そのものでなく足跡や巣穴、フンといった生物の活動の痕跡が岩石などに残された「生痕化石」は、生物自体の化石より地味な印象があるものの、その生き物の生活場所が水辺なのか陸なのか、食生活はどうだったかなど、「体化石」だけでは不明な要素を明らかにする重要な判断材料となっている。


地質時代の中で、中新世(ちゅうしんせい=約2,300万年前から約500万年前までの期間)と呼ばれる時代の昆虫のものと考えられる化石。ドミニク共和国で採掘された琥珀に含まれているのが見つかった。© Michael S. Engel
ちなみに地球が経てきた46億年の歴史の中で化石になった生物はほんの数パーセント、発見されるのもその中からまたほんのわずか。本当はもっと多様な生物がいたはずでも我々が知り得ることができるのは氷山の一角なのだ。









 

◆◆◆ 父から受けた実地教育 ◆◆◆


 


1826年まで、メアリー一家が住んでいた住宅のスケッチ(1842年に描かれたもの)。ライム・リージス博物館建設にあたり、1889年に取り壊された。右上にあるプラークは、同博物館の外壁にかけられている。
 アニング家は子供たちを毎日学校に通わせる余裕がなく、父リチャードは本業の傍らに子供たちを海辺に連れて行き化石探しを手伝わせ、商品として売るためのノウハウを教え込んだ。
化石売りはよい副収入になるものの、天候や潮の満ち引きに左右され、地滑りや転落事故と隣り合わせの危険な仕事。発掘に適しているのは嵐の多い冬期で、土砂崩れや大波により、新たな地層が露わになった岸壁を狙い、ハンマーとたがねを携え浜辺を歩く。
しかしせっかく大物を見つけても、掘り出しているうちに満潮となり、足場をなくして見失ったり、潮に流されてしまったりすることも多かった。加えて、沿岸部では密輸船なども行き交っており、トラブルに巻き込まれる可能性も十分あった。そうした危険の中でいかに化石を持ち帰るか―。子供たちが父親から学ぶことは山ほどあったのだ。
また、アニング家は英国国教会の信者ではなく、組合教会に属していた。当時、組合教会に属する人々は法的または職業的な差別を受けたり、周囲から偏見の目で見られることもあったというが、組合教会が貧しい人々への教育を重視していたことは幼いメアリーに幸いした。
もともとの聡明さもあって、メアリーは教会の日曜学校で読み書きを覚え、のちには独学で地質学や解剖学にも親しんでいく。もしメアリーが貧しい文盲の女性として成長していたら、学者たちと学術的な意見を交わしたり、国内外の博物館と渡り合ったりする姿は見られなかったであろうし、化石を採集するだけの一介の労働者として人知れず生涯を終えていたかもしれない。メアリーの運命は、すでに「化石ハンター」へと舵を切っていたのだ。


 

◆◆◆ 生涯の友人たちとの出会い ◆◆◆


 


ヘンリー・トマス・デ・ラ・ビーチ卿(Sir Henry Thomas De la Beche、1796~1855)。地質学者として活躍した。
 メアリーの化石、そして古生物学に対する情熱は父から、そしてライム・リージスにやってきた様々な人々との出会いによって形作られていった。中でも、メアリーがほんの幼女だった時分にこの地に引っ越してきたロンドンの裕福な法律家の娘たち、フィルポット3姉妹の存在は大きい。
兄がライム・リージスに屋敷を購入したのに伴いやって来た、メアリー、マーガレット、エリザベスのフィルポット3姉妹は、いずれも熱心な化石コレクターで、彼女らにとってこの地は宝箱のような場所であった。
幼かったメアリーは、自分より20歳も年上で身分も高い彼女らと化石を介して出会い、中でもエリザベスと親交を深め毎日のように化石探しに出掛けるようになる。また2人の友情はメアリーが成長するにつれ、高名な地質学者ウィリアム・バックランドをはじめとしたそうそうたる学者たち、そして彼らの妻たちとの交流につながっていった。その中にはバックランド夫人のメアリー・モーランド、またロデリック・マーチソンの妻シャーロットのように学者の妻であるだけでなく、自身もその分野に精通した女性たちが少なくなかった。
女性で、かつ身分の低いメアリーと、男性ばかりの「お偉方」学者サークルの間で、階層的に上の女性たちがクッション的役割を果たす。男社会の学会でスポットが当たりにくかったとはいえ、フィルポット3姉妹の属する女性グループが、後年、メアリーのキャリアの大きな助けとなったことは想像に難くない。
そしてもう1人、10代のメアリーの人生に大きな影響を与えることになった人物がいる。のちにロンドン地質学会の会長をつとめることになる、若き日のヘンリー・デ・ラ・ビーチ卿だ。裕福な軍人の家系に生まれたものの、地質学へと傾倒した彼は多感な思春期にメアリーと出会い、共に化石探しに夢中になり、生涯にわたって友人関係を保ち続ける。
メアリーの経済状態が悪化した際には、自らが描いた古代生物のスケッチを売るなどして彼女への援助を惜しまなかったのも彼であった。だが学問への情熱を介して生まれた友情とはいえ、まだまだ保守的だった時代に若い男女が連れ立っていれば様々な憶測を呼ぶのは致し方のないところで、2人の関係はたびたび人々の話題に上ることとなる。ほとんどは根も葉もない噂であったかもしれないが、生涯独身で通したメアリーと3歳年上のデ・ラ・ビーチ卿との間に淡い恋心があったとしても不思議ではない。真相は当事者のみぞ知る、というところだが、少なくともメアリーは、探求者にありがちな孤独なだけの人生を歩んだわけではなかったと言って良さそうだ。

 

メアリーと関わった同時代の学者たち

ジョルジュ・キュビエ(1769~1832)
Baron Georges Leopold Chretien Frederic Dagobert Cuvier
フランスの博物学者、解剖学者。地層の形成や時代によって異なる化石生物の存在は、天変地異によってその時代の全生物がほぼ死滅し、その後新たに創造されるという過程が繰り返されたためとする「天変地異説」を唱え、進化論と対立する立場をとった。

ウィリアム・バックランド(1784~1856)
William Buckland
イングランドの聖職者、地質学者、古生物学者。ヨークシャーのカークデール洞窟で発見された化石群の研究などで有名。メガロザウルス(斑竜・はんりゅう)の命名者。オックスフォード大の名物教授として知られた。1829年、学会でメアリーの功績を褒めたたえた。

チャールズ・ライエル(1797~1875)
Charles Lyell
スコットランド出身の地質学者、法律家。バックランドのもとで学ぶ。天変地異説と対立する、自然の法則は過去・現在を通じて不変とする「斉一説」を示した『地質学原理』を出版、チャールズ・ダーウィンの自然淘汰説に大きな影響を与えた。

アダム・セジウィック(1785~1873)
Adam Sedgwick
イングランドの地質学者で近代地質学の創始者の1人。地質年代の「デボン紀」「カンブリア紀」の名称を提案。『種の起原』を記したチャールズ・ダーウィンの恩師でもあり、ダーウィンとは文通を通し生涯にわたって友好的な関係を保つ。

ルイ・アガシー(1807~1873)
Jean Louis Rodolphe Agassiz
スイス出身、米ハーバード大学で活動した海洋学者、地質学者、古生物学者。氷河期の発見者として知られる。メアリーの生存中に彼女の名前にちなんで、魚の化石に「Acrodus anningiae」と命名した人物。

ロデリック・マーチソン(1792~1871)
Roderick Impey Murchison 
スコットランドの地質学者。軍人から地質学者へと転向、チャールズ・ライエルらとアルプス山脈の地質調査を行う。


◆◆◆ 半クラウン硬貨の希望 ◆◆◆


 


ライム・リージス近郊の岸壁。このような地滑りが起こると、化石が地表に姿を現すことがある。©Ballista
 幼いうちから他人の屋敷に使用人として奉公に出され辛い思いをする子供たちもいた中、仕事とはいえ父親と共に海辺に出掛けることのできたアニング家の子供たちは、宝探しでもするように化石探しを楽しんだ。つましい生活ながらも、幸せだったといえるかもしれない。しかしそんな日々は長くは続かなかった。
1810年の冬、結核を病んでいたにもかかわらず、体にむち打つようにいつもの海辺に出掛けた父リチャードは崖から転落、44歳の若さで命を落としてしまう。
働き手を失った家族に残されたのは多額の借金ばかり。メアリーはこのとき11歳、兄ジョセフもまだ手に職はなく一家の大黒柱になるには若過ぎた。そして教会の救済金に頼るまでに困窮した一家は、サイドビジネスだった化石屋に活路を見出そうとする。母モリーと子供たちは連日のように海辺へと向かい、化石を探しては自宅で販売するだけでなく、町の馬車発着所で売り歩き、細々と生計を立てることになる。
父を奪った海岸での作業は、幼い子供たちにとって肉体的にも精神的にも決して容易なものではなかったが、子供たちは化石店の切り盛りと家事に忙しい母を置いて、単独で採集にでかけることもしばしばだった。
そんなある日、海岸で掘り出したばかりのアンモナイトを手にしたメアリーを呼び止めた女性が、半クラウン硬貨(5シリング、60ペンスに相当)でそれを買い上げる。当時、半クラウンあれば一家の1週間相当の食料を手に入れることができた。

パリの自然史博物館に展示されている、メアリーが発見したプレシオサウルスの化石(© FunkMonk)。右側は、そのスケッチ。
  母親に硬貨を手渡したメアリーのつぶらな目は、一人前の稼ぎを手にした誇りと喜びに輝いていた。この出来事がメアリーに本格的に化石ハンターとして活躍するきっかけを与える。
化石を買った女性は地主の妻で、メアリーに雑用を頼み小遣いを与えるなどして、日頃からアニング家の様子を気遣っていたようだ。また知的好奇心が旺盛であるメアリーに対して、ただの化石拾いに終わるには惜しいと思っていたとも考えられる。メアリーに初めて地質学の本を与えたのもこの婦人であったという。
その後、独りでこつこつと地質学や解剖学を身につけていったメアリーは、自分の化石が最先端の科学に関わっていることを知り、さらなる情熱を傾けていく。メアリーにとって化石はすでに「食べていくため」だけの商品ではなくなっていた。
 

◆◆◆ 最初の大発見 ◆◆◆


 


採掘にいそしむメアリーの姿を描いたスケッチ。
 メアリーの運命を決定づける出来事が起こったのは、父の死の翌年となる1811年の冬(1810年の暮れという説もある)のことだった。
冒頭でご紹介したようにジョセフとメアリーは崖の中から1メートル余りにも達する、古代生物イクチオサウルスの頭骨化石を掘り出したのだった。この頭骨部分だけでも偉大な発見であったが、メアリーはその後も1年以上粘り強く残りの体部分を探し続け、地滑りで地層が露わになった崖の中ほど30フィート(約9・14メートル)の高さから、ついに残りの体部分(全長約5・2メートル)を発見し、兄と作業員の助けを借りみごと発掘に成功する。 イクチオサウルスの化石自体は、1699年にウェールズですでに発見されていたが、彼女が発見したのは世界初の全身化石であった。
思いがけない大物を掘り当てたメアリーの興奮はいかばかりのものだっただろうか。ニュースを知ったオックスフォード大学の地質学者・古生物学者のウィリアム・バックランドはさっそくアニング家へと調査に訪れる。化石の『体内』にはまるで昨日の出来事のようにこの生物が食べていた魚の残骸までもが残されていた。人々はこの謎の化石を南国に生息する「クロコダイル」のものであると信じていたが、この頭骨化石がクロコダイルと骨格的に大きく異なることに気付いていたメアリーは、その詳細をスケッチに書き記していた。

 


 

化石ザクザク!?
イングランド南部「ジュラシック海岸」は
地球のタイムカプセル
イングランド南部の、ドーセット州からデヴォン州東部まで延びる、95マイル(約153キロ)に及ぶ海岸線は、2億5千万年前から始まる三畳紀から、ジュラ紀、白亜紀へと続く中生代の地層が連続して見られる世界唯一の場所とされる。2001年にユネスコの世界自然遺産に指定されている。


この一帯では白亜紀(1.4億~6500万年前)に地面が大きく傾いたため、通常はなかなか見られないそれよりさらに昔の三畳紀(2.5億~2億年前)やジュラ紀(2億~1.4億年前)の地層が露わになっており、世界有数の化石の宝庫。数世紀に渡って地球科学の研究に貢献してきた。


















メアリーが暮らしたライム・リージズ付近の海岸線も三畳紀からジュラ紀にかけて形成されたライムストーン(石灰岩)と頁岩(けつがん)と呼ばれる2つの石が層になった「ブルー・ライアス(Blue Lias)」=写真下=と呼ばれる地層が海に向かってむき出しになっている。メアリーはこの浜辺でイクチオサウルスを始めとする貴重な化石を見つけ出したのだ。©Michael Maggs

現在でもアンモナイトの化石などはビーチで簡単に見つけることができ、持ち帰るのも自由とのこと。壮大な海岸線の眺めに加え美しい町や村が点在、宿泊施設も充実したこのエリア、現在もホリデー先として根強い人気を誇っている。


◆◆◆ 奪われた名誉 ◆◆◆


 


ウィリアム4世治世下の1833年、14歳だった王女ヴィクトリアはライム・リージスを訪問。馬車を出迎える人ごみの中には、当時34歳のメアリーの姿もあったに違いない。その後18歳の若さで英国君主となったヴィクトリア女王は、七つの海を支配し日の没せざる国と謳われた大英帝国の黄金時代を築いた。
 その後、この「クロコダイル」の化石はライム・リージス在住の地主、ヘンリー・ホスト・ヘンリーが23ポンドで買い上げ、その後ロンドンの著名な化石蒐集家であるウィリアム・バロックの手に渡る。
同氏の所有するロンドン、ピカデリーの邸宅で行われた博物展示会には、かのキャプテン・クックが世界各地から持ち帰った化石や、ナポレオンにまつわる品々、メキシコからやって来たエキゾチックな財宝などが展示されるが、過去に種の絶滅が存在したことを示し、それが聖書の創世記よりはるかに大昔に起こったことを示唆するメアリーの化石は、一大センセーションを巻き起こす。
そして様々な研究ののち、1817年にこの「クロコダイル」は博物学者チャールズ・コニグらによって、古代の海生爬虫類「イクチオサウルス」と命名される。しかしオークションにかけられたこのイクチオサウルスの目録にはバロックの名前が記されるばかりで、 幼いメアリーの名前は言及されることはなかった。「世界初のイクチオサウルス全骨格の発見者」という輝かしい称号は、不運にも奪われてしまったのだ。


 

◆◆◆ 「化石少女」からプロの「化石婦人」へ ◆◆◆


 


保養地ライム・リージスには『高慢と偏見』ほか数々の名作で知られる女流作家ジェーン・オースティンも滞在。メアリーの父親リチャードが、滞在中のオースティン一家の所持品の修理を請け負ったという記録が残されている。ライム・リージスの町はオースティン最晩年の作品『説きふせられて(Persuasion)』の舞台にもなっている。
  イクチオサウルスの発見で多少まとまった額の金を手に入れたものの、アニング家は相変わらずの貧乏暮らしだった。兄ジョセフは家具職人の修行に忙しくなっており、母モリーが化石販売業を取り仕切り、年若いメアリーが採集人の主として岩場での作業を行った。 当時、女性がこのような危険な仕事に就くことは珍しいだけでなく、「化石少女」とからかいの対象になることもあったが、メアリーは父から授けられた技術、そして緻密な観察力と化石への情熱を武器にプロの化石ハンターとして成長していく。また独学で地質学や解剖学の知識を深めていった彼女は、見つけた化石を観察して分類するだけでなく、スケッチと特徴を詳細に記したものを学者たちに送り、その学術的価値を売り込むなど『営業』にも精力的だった。 最初の大きな発見から10年近くの年月を経た1821年、彼女は新たなイクチオサウルスの化石、そして、ジュラ紀に生息した首長竜の一種、プレシオサウルスの骨格化石を世界で初めて発見するという再度の幸運に恵まれる。続いて1823年には、より完全な形で保存されたプレシオサウルス、1828年には新種の魚の化石や、ドイツ以外では初めてとなる翼竜ディモルフォドンの全身化石などを次々と発見。彼女の「化石ハンター」してのピークは20代にあったといえる。


 

◆◆◆ 「学者たちの援助とスキャンダル ◆◆◆


 


ロンドンの自然史博物館に展示されている、メアリーが発見したイクチオサウルスの化石。
 これらの発見によりメアリーは化石ハンターとしての名を確固たるものにする。
しかし、古生物や地質学について学者顔負けの知識をそなえていたにもかかわらず、下層階級の女性であったことや「生活のために」化石発掘に関わっていたことから、身分の高い学者たちから一段低い者として扱われがちだった。いつまでも楽にならない自分の生活にひきかえ、他人の堀った化石で論文を書き、名を成していく学者達を恨めしい想いで眺めたことも1度ならずあったことだろう。
その一方で、彼女の功績を高く評価し、助力を惜しまない人々も存在した。前述の旧友ヘンリー・デ・ラ・ビーチ卿はもちろんのこと、家賃を払うため家具を売りに出そうとしていたアニング家の窮状を見かねて、自身の化石をオークションにかけ、その売上金400ポンド(現在の2万6000ポンドに相当)を惜しげもなく贈与した長年の顧客、化石収集家トマス・ジェームズ・バーチなど、彼女をサポートする学者たちも少なくなかった。 
これらの援助によってメアリーは財政を立て直し、新しい化石店を構える。だがこういった援助は周りの人々の野次馬根性をかきたてるものでもあったようで、未婚のメアリーと年上の学者たちの『関係』が噂の対象になることもしばしばであった。


 

◆◆◆ 輝きを放ち続ける遺産◆◆◆


 


ライム・リージスのセント・マイケル墓地に兄ジョセフとともに眠る、メアリーの墓石。
  30代半ばを迎えたメアリーは、大きな発見に恵まれず、財政的にも再び苦しい状態に陥る。ここでも、温かい手をさしのべてくれたのは旧友だった。イクチオサウルスの発見以来、メアリーを高く評価していた学者の1人、ウィリアム・バックランドが政府と英国学術振興会に掛け合い、年間25ポンドの年金支払いを取り付けるため奔走してくれたのだった。
十分とはいえないものの定期収入ができたことで彼女の生活は一応の安定を見るのだが、彼女の体はこのころから病魔に蝕まれていく。乳がんだった。
メアリーは、この後も長年に渡り病気と闘いながら化石採集を続け、1847年3月、47歳の生涯を閉じる。
ロンドンの地質学会会長へと出世していた旧友デ・ラ・ビーチ卿は彼女の死を悼み、学会で彼女への追悼文を発表した。20世紀初頭まで女性の参加を許さず、性差と階級の壁が厚かった地質学会では異例のことであった。
メアリーの死から12年後、チャールズ・ダーウィンによるかの有名な『種の起源』が発表される。突然変異と自然淘汰による進化論を世に知らしめた本書は、チャールズ・ライエルやダーウィンの師であったケンブリッジ大のアダム・セジウィックなど、メアリーと交流し彼女の化石をもとに研究を進めた当時一流の地質学者らからインスピレーションを得たものであったという。
1冊の書物も残さなかった彼女だったが、地質学に古生物学そして進化論への道を拓いたメアリー。その当時の社会が要求する「女性らしい生き方」にはこだわらず、情熱のおもむくまま在野のフィールドワーカーとして生涯を全うした。メアリーにより英国の自然科学の発展にもたらされた功績は計り知れない。

 


 

メアリー・アニングについてさらに調べたいなら…

メアリーの見つけた化石に出会える!
自然史博物館


化石のほか、恐竜の骨なども多数展示されている、人気の自然史博物館。
ロンドンのサウス・ケンジントンにあるこの博物館には、メアリーが採掘した化石が集められている。グランドフロアの「Green Zone」内にある、「Fossil Marine Reptiles」には、メアリーの肖像画とともに、プレシオサウルス(「首長竜」=大型の海生爬虫類、恐竜ではないとのこと)の化石=写真下=などが展示されている。

 

©Nikki Odolphie

 

Natural History Museum
【住所】Cromwell Road,  London SW7 5BD
Tel: 020 7942 5000
【開館時間】
毎日 10:00-17:50(最終入場17:30)
12月24日~26日は閉館

 

www.nhm.ac.uk

 

メアリーゆかりの地に建つ地域博物館
ライム・リージス博物館

敷地の一部には、1826年までメアリーが家族とともに住んだ家の跡が含まれている。メアリーが採掘した化石の現物は、ロンドンの自然史博物館などに保管・展示されており、この博物館で通常見ることができるのは複製。

Lyme Regis Museum
【住所】Bridge Street, Lyme Regis,
Dorset DT7 3QA  Tel: 01297 443370
【開館時間】
イースター ~10月末 月~土    10:00-17:00
                 日       11:00-17:00
 11月~イースター      水~日    11:00-16:00 

 【入場料】3.95ポンド


www.lymeregismuseum.co.uk

 


スコットランド最愛の息子 詩人ロバート・バーンズ [Robert Burns]

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2012年11月29日

●Great Britons●取材・執筆/佐々木敦子、本誌編集部

 

スコットランド最愛の息子
詩人
ロバート・バーンズ
Robert Burns

酒を愛し女性を愛し、
そしてハギスにまで情熱的な詩を捧げた
18世紀スコットランドの国民詩人、
ロバート・バーンズ。
『スコットランドの息子』と呼ばれ、
今なお愛されるバーンズの詩の秘密と、
自由とロマンを追い求めたその短い生涯を探る。

 



ダンフリースの中心部にたたずむ、バーンズの像。
余談ながら、バーンズはイングランドに足を踏み入れることなく世を去った。
© ISeneca

実は別れの歌ではない『蛍の光』

 

 大晦日の夜、新年のカウント・ダウンが終わるやいなや、ペラペラの紙でできたカラフルな王冠をかぶった英国人たちが、体の前で交差させた腕を両隣りの人に差し出して握りあい、突如『蛍の光』を歌いだす―。そんな場面に立ち会った読者の人も多いことだろう。
ところが、メロディーは確かに私たち日本人に馴染み深い『蛍の光』なのだが、年越しパーティーの佳境で、つまり祝宴の席で歌われるような歌詞だったろうか? と疑問がわいたのは筆者だけではないはずだ。日本で『蛍の光』といえば、卒業式の定番、紛れもなく別れの曲である。しかも葬儀の際にBGMとして流れることがあるくらい、かなり深刻な歌詞ではないか。英国人たちは、過ぎて行った年を惜しむつもりで、この曲を歌っているのだろうか、と考えずにはいられなかった。
日本の『蛍の光』が、英語の歌詞をそのまま邦訳したものではないということは後日知った。アルコールの入った英国人たちが大晦日に怒鳴るがごとくに歌っていたのは、原題を『オールド・ラング・ザイン(Auld Lang Syne)』といい、彼らはなんと『友よ、古き昔のために、親愛をこめてこの一杯を飲み干そうではないか』と歌っていたのだ。
この曲はもともと古くからスコットランドに伝わる民謡で、作曲者は不明である。これに歌詞を付けたのが、ロバート・バーンズという人物だ。スコットランドでは国民詩人と言われるが、同じくスコットランド出身の正統派詩人・著述家のウォルター・スコットとは対極にあると言える。
バーンズは貧しい家庭に生まれ、勤勉というより、熱しやすい性格から文学の知識を吸収した、生まれながらの詩人である。惚れっぽく、関係をもった女性は数知れず。恋愛を詩作の原動力としていた向きもある。ジタバタと生き、あっけなく死んだ、そしてそれ故に今でも庶民に愛され続ける。そんなバーンズの37年の生涯を辿ってみよう。



「サー」の称号を与えられた、ウォルター・スコット
(Sir Walter Scott, 1771~1832)はスコットランドの誇る、
偉大なる詩人であり作家であった。エディンバラ出身。
弁護士の父の跡を継ぎ、いったんは弁護士になったが、25歳で著述活動を開始。
存命中に国内外で名声を得たほか、名士としても知られ、バーンズとは対照的な存在だったと言える。

この肖像画は、スコットランド国立ギャラリー所蔵、ヘンリー・レイバーンHenry Raeburn作(1822年)。

 


 

貧しくとも「子供の教育が先!」

 

 ロバート・バーンズ(Robert Burns)は、1759年1月25日、スコットランド南西部の海岸沿いエアシャーにある、アロウェイ(Alloway)という寒村の貧しい家に7人兄弟の長男として生まれた。バーンズの生まれた家は父親の手による粗末な土作りで、バーンズが生まれた数日後に起こった強風で半壊し、バーンズと産後間もない母親のアグネスは隣家にしばらく避難しなければならなかったというエピソードもある。
父親のウィリアムはスコットランド北東部アバディーンシャーの出身で、元はインヴェルジー城の庭師だった。だが、1745年に起きたジャコバイト蜂起(※)の余波で自らの人生も軌道修正せざるを得ず、不本意ながら故郷をあとにして アロウェイに移った経緯を持つ。
だが、この地で育苗業を始めるも、それだけでは生計が立てられず、裕福な家庭へ園丁としても出向くなどし、働き者ながらもなかなか運を掴めない気の毒な人物だったようだ。

※スコットランド出身のスチュワート王家復興を悲願とするジャコバイト派(亡命したジェームズ〈ラテン語でJacobus〉2世とその直系男子を支持するという意味)と、イングランド軍の戦い。これに勝利したイングランドは、スコットランドの氏族(クラン)制度を解体し、民族衣装であるキルトやタータンの着用を禁止した。

 そんな経緯から、ウィリアムは息子のロバートに対し勉学の機会を惜しまずに与えた。将来少しでも息子がいい暮らしが出来るように。それには知識や教養が不可欠だと、ウィリアムは考えたのだ。彼自身も極めて厳格なカルヴァン主義(プロテスタントの一派で、長老派教会派)で、神学や哲学を好む知性ある人物であり、一家は敬虔なクリスチャンとして質素な日々を送っていた。バーンズはこの父親に大きな恩恵を受けている。この時代、このような貧しい環境に生まれ育った者なら、少しでも暮らしの足しにと幼い頃から働かされ、知識や教養を身につけるなど夢物語だと、勉学の道を閉ざされるのが普通であろうからだ。
バーンズは6歳になり、近隣の小学校に入学するが、数ヵ月で教師が転勤となり、事実上学校が閉鎖されてしまう。教育熱心なバーンズの父親は近所の父兄と5人で、ジョン・マードック(John Murdoch)という18歳の青年を家庭教師として雇う。父兄たちはそれぞれ持ち回りでこの家庭教師を自宅に宿泊させ、わずかな給料で子供たちをスパルタ方式で教育してもらったという。
この頃父親は園丁から小作人に転じていたものの、相変わらず苦しい暮らしの中から、バーンズの教育費を捻出したのだった。一家はこの後も数度の引越を繰り返すが、どういう運命なのか、そのたびに貧しくなっていくようであった。にもかかわらず、「子供の教育が大事」という父親の信念が揺らぐことはなかった。
一方、バーンズの母親アグネスは、農家の主婦としての知識に長け、「落ち着いていて、陽気でエネルギッシュ」だったと言われる。字は書けないが、聖書はかろうじて読むことができた。また、バーンズによるとこの母親は「悪魔、幽霊、妖精、魔女などについての物語や歌については、スコットランド中を探しても、彼女以上に詳しい人物は見つからないだろう」というほどだった。陽気な歌声を聞かせる母親の遺伝子は、バーンズの楽観的な性格の中に見ることができる。バーンズは学問に対する真摯な態度を父親から、その明るい性格とリズムに関する感性を母親から譲り受けたと言えるだろう。

 



アロウェイにある、バーンズの生家「バーンズ・コテージ」。
博物館として公開されている。

 

Auld Lang Syne (1788)  『遥かな遠い昔』(蛍の光)

© Toby001
 バーンズの歌詞では、『旧友と幼い頃の思い出を語り合いながら酒を酌み交わす』内容を持つこのスコットランド民謡は、もとは作曲者もわからない古い曲で、歌詞もかろうじて数フレーズ残っているだけだった。現在知られているのは、古い歌詞にバーンズが新たに詩を加えたもの。
また、日本においては随分異なる歌詞が付けられている。『蛍の光』は1881年(明治14 年)、文部省が小学唱歌集を編纂する際に、国学者の稲垣千穎(いながき・ちかい:『ちょうちょ』の歌詞でも知られる)の歌詞を採用した。当時文部省は出典を記さず、すべて『文部省唱歌』としたため、この曲がスコットランド民謡であることを知らない人も多い。そして、『蛍の光』の歌詞は全部で4番まであるが、3番と4番は、その国家主義的内容から、現在では歌われることはない。以下がその歌詞である。3番「筑紫の極み、陸の奥、海山遠く、隔つとも、その真心は、隔て無く、一つに尽くせ、国の為」。4番「千島の奥も、沖繩も、八洲の内の、護りなり、至らん国に、いさおしく、努めよ我が背、つつがなく」というものだ。
この曲は日本と韓国では卒業式に、台湾、香港では葬儀の際に、フィリピンでは新年や卒業式に演奏され、モルディブでは1972年まで国歌の代わりになっていた。大晦日のカウントダウン直後に演奏するのは、英国を中心とした、英語圏の各国である。
原詞 
1
Should auld acquaintance be forgot,
and never brought to mind ?
Should auld acquaintance be forgot,
and auld lang syne ?

【大意】
旧友は忘れ去られるものなのか。
古き昔も心から消えいくものなのか。
CHORUS(以下、繰り返し)
For auld lang syne, my dear,
for auld lang syne,
we'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne.
【大意】
我が友よ、古き昔のために、
親愛をこめてこの杯を飲み干そうではないか。
2
And surely ye'll be your pint-stoup !
And surely I'll be mine !
And we'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne.
【大意】
我々は互いに杯を手にし、いまここに、
古き昔のため、親愛をこめてこの一杯を飲み干さんとしている。

CHORUS
3
We twa hae run about the braes,
and pou'd the gowans fine ;
But we've wander'd mony a weary fit,
sin' auld lang syne.
【大意】
我々二人は丘を駈け、可憐な雛菊を手折ったものだ。
しかし古き昔より時は移ろい、二人は距離を隔ててさすらって来た。

CHORUS
4
We twa hae paidl'd in the burn,
frae morning sun till dine ;
But seas between us braid hae roar'd
sin' auld lang syne.
【大意】
我々二人は日なが川辺に遊んだものだ。
しかし古き昔より二人を隔てた荒海は広かった。
CHORUS
5
And there's a hand my trusty fiere !
And gies a hand o' thine !
And we'll tak a right gude-willie waught,
for auld lang syne.
【大意】
今ここに、我が親友の手がある。
今ここに、我々は手をとる。
今我々は、友情の杯を飲み干すのだ。
古き昔のために。
CHORUS

 


 

詩作の原動力は恋心と憤り

 

 1773年、14歳になったロバート・バーンズは、農場の刈り取り作業で知り合ったネリー・キルパトリックという少女に恋心を抱く。その恋心からバーンズは初めての詩『おお、かつて僕は愛した』を作り上げる。この詩はネリーの好きだった旋律『私は未婚の男』にあわせて作られた歌詞で、バーンズはこのように民謡や流行歌に詩を付けることを好み、生涯を通し、多くの歌詞を残している。これはスコットランド民謡の保存にもまた、一役買ったといえる。
バーンズは後にこの詩についてこう語っている。「詩人になろうとか、なりたいなどとはまったく思わなかった。しかし恋心を知ってしまうと、詩や歌が私の心から自然と湧き出た」。バーンズにとって恋愛は詩を書く際の一番の刺激、そして創造の泉となった。本人がこれを自覚していたのかどうかは定かではないが、この後バーンズは、死ぬまで恋多き男性として生きることになる。
さらに、社会的格差に対する憤りも彼が詩を書く際の大きな原動力となった。これは、幼い頃に一緒に遊んでいた地主の子供たちが成長するにつれ彼を見下すようになったことや、自分の父親が過酷な労働と貧困に苦しみ衰えていく姿、容赦のない土地管理人の仕打ちなど身近な出来事に加え、当時のイングランドとスコットランドの関係もまた、スコットランド人にしてみれば不平等で不愉快なものであったからであるに違いない。多くのスコットランド人同様、バーンズも、成長するに連れてスコットランドへの強い愛国心を育んでいく。このことはバーンズにスコッツ語で詩を書き続けさせる動機ともなっていたのだ。
1766年から11年間一家が暮らしたマウント・オリファント(Mount Oliphant)の地は、極めて辛い状況を彼らにもたらしていた。彼らが借りた土地は土壌が痩せていて農業にはまったく向いていなかったのである。長男のバーンズは15歳にして大人と同様の農作業を、この不毛な地ですぐ下の弟ギルバートとともにこなしていた。
ただ、一時期、実務的な土地の測量術を学ぶため、家から16キロ程離れたカーコズワルド(Kirkoswald)の測量学校に通ったこともあったが、学校の隣にペギー・トムソンという美少女が住んでいたせいで、バーンズの言葉によれば「私の三角法はすっかりメチャクチャになった」。
しかも、現在は海に近いリゾート地として知られるこの地は、18世紀当時「密輸商人の浜」という悪評を取っており、船乗りや荒稼ぎした男たちが酒場で大暴れをするような町でもあった。バーンズは勉強を疎かにしただけでなくここで夜遊びを覚え、それが厳格な父親にバレた訳なのか、早々に家に呼び戻されている。だが、後に彼の代表作の一つともなる詩『タム・オ・シャンター』のモデルともなる人物や光景にも巡り会うなど、農家育ちの若いバーンズにとっては刺激的で貴重な体験だったようだ。

 

To A Haggis (1786) 『ハギスのために』

付き合わせにはニンジン、ターニップなどが添えられることが多いハギス。ニガテな人も少なくない…。© zoonabar
 初の詩集キルマーノック版を出版し、大成功を収めたバーンズは、エディンバラの社交界から招待される。この詩はその直後に書かれたもので、友人宅で出された郷土料理ハギスに感動したバーンズがその場で披露した詩。「つまらないものを食べてるヤツは、しなびた草のように弱々しいが、ハギスで育った田舎者は、歩くたびに地面が震える。敵の腕も頭も足も、スパリスパリと切りまくる」というような、ハギスを通してスコットランドや農夫を賛美する勇ましい詩だ。
スコットランドの伝統食とされるハギスは、茹でた羊の内臓(肝臓、心臓、腎臓、肺など)のミンチを、麦やタマネギ、ハーブと共に羊の胃袋に詰めて茹でるか蒸すかした料理で、スコッチ・ウィスキーを振りかけて食すのが正統派の食べ方。現在では羊の胃袋の代わりにビニールパック入りや缶詰などがあり、一般家庭で食べる場合はこちらが主流だ。パイなど固形物に包まれている訳ではないので、皿に分けた時の見た目が甚だ悪いことでも有名。
ハギスが大好物だったというバーンズにちなみ、彼の誕生日、1月25日になると、スコットランドでは毎年『バーンズ・ナイト』と呼ばれるハギス・パーティーが行われる。バグパイプの演奏とともに、3本の羽根の刺さったハギス(ハギスは、毛の長いカモノハシのような、3本足の動物であるという伝説が残っていることからくる)の皿が入場し、バーンズの『ハギスのために』や『タム・オ・シャンター』(左ページのコラム参照)が朗読される。そして儀式の後はウィスキーとハギスでパーティーが進んでいく。次回の1月25日には、ハギスを試してみてはいかが。

 

詩人としての自覚の芽生え

 

 1777年、農地の契約が切れたため、一家はエアシャーの北西にあるロッホリー(Lochlea)に引っ越す。ところが、バーンズの父親はまたも選択を誤ったらしい。以前より労働は苛酷さを増したにもかかわらず、今度の土地は酸性土壌だっため、収穫量が上がらないというひどい有様だった。
だがバーンズは、きつい農作業の後でダンス教室に通い(これは大いに父親の不評を買った)スマートな立ち振る舞いを学びつつ、女性たちとのやり取りを楽しんだ。また、男性のための独身者クラブを結成して討論会を開催したりと、決して働くだけの日々ではなかったのである。
母親譲りの陽気で人なつこいバーンズは、誰とでもすぐ仲良くなれるという才能に恵まれていた。彼はここで、当時の欧州で広まっていた友愛結社「フリーメイソン協会」にも入会している。会員であれば相互に助け合うというフリーメイソンは、困難を抱えた人間にとって非常にありがたい協会で、ウィーン支部に加入していたモーツァルト(1756年生まれで、バーンズの3歳上である)はフリーメイソン仲間に借金の無心をするなどしている。バーンズはここで、自分と同じ階級の人間だけではなく、上流階級に属する人々と知り合う機会を得たが、後にバーンズ初の詩集出版に尽力したのも、こうしたフリーメイソン仲間だったのである。
22歳になる頃、バーンズはアリソン・ベグビーという近所の屋敷で働く女性に夢中になり、『セスノックの岸辺に住む娘』、『かわいいペギー・アリソン』などの詩を書き、求婚するが断られてしまう。がっかりしたバーンズはこの後古い港町アーヴィン(Irvine)へ、一人で亜麻精製の技術を学びに出掛ける。1781年のことだ。先の見えない農場での労働にうんざりし打開策を考えていたとも、単なる失恋のショックだとも言われているが、比較的都会であるこの町で、バーンズはかなり羽目を外して遊び回ったらしい。
この町は彼に重要な転機をもたらした。リチャード・ブラウンという、女好きだが性格の良い、教養を備えた船乗りと友人になり、彼はバーンズの詩の良さを認め、詩人としての自覚を持つよう説いたのだ。また、ロバート・ファーガソン(Robert Fergusson)という詩人による、スコッツ語で書かれた詩集も手に入れた。その詩は平易な日常のスコットランドの言葉でつづられており、バーンズは目の覚めるような思いをした。こうして友人ブラウンの言葉とファーガソンの詩集は、若いバーンズの進む道を照らしたのだ。彼は自分の詩作を、単なるなぐさみで終らせるべきではないことに気づくのである。

 


 

ジャマイカ移住計画

 

 翌年バーンズがアーヴィンから戻ってみると、一家は地主を相手に面倒な裁判沙汰に巻き込まれていた。契約とは異なる農地の値上げが原因だった。数年にわたる裁判費用の捻出に苦しんだバーンズの父親は、経済不安と心労、そして長年の重労働が原因で、ついに1784年の2月に63歳で逝去してしまう。
長男であるバーンズは、家長として一家を養っていかなければならないことになる。だが、尊敬する厳格な父親の死は、彼を少なからず解放的にしたようで、彼の本格的な詩作はこれを機会に一気に開花する。そして女性関係もまたそれと比例するように、にぎやかになっていくのだった。
まず、病床に付いていた父親の世話にあたっていたエリザベス・ペイトンという少女を口説き、彼女はバーンズの子を生むことになる。母親はバーンズがエリザベスと結婚することを望んだが、反対があったうえ、バーンズ自身も結婚の意志はなかったようで、生まれた娘は結局バーンズの母親が育てることになる。これは醜聞となって広がり、教会でも問題となったが、バーンズはこのことから『あの娘は素敵な女の子』『詩人、愛娘の誕生を祝う、「お父さん」という敬称を詩人に与えた最初の機会に』『うるさい犬』の3本の詩を作り上げた。
一家は父親の死後、フリーメイソン仲間の地主の紹介でロッホリーの北西にあるモスギール(Mossgiel)に移り住み、そこで25歳のバーンズは将来の妻となるジーン・アーマー(Jean Armour)と出会う。彼女は石工の娘で、愛らしい快活な17歳の少女だった。1786年の春にジーンは妊娠し、これを知ったバーンズは困惑するものの、結婚の証文をジーンに与える。だがジーンの両親に大反対されてしまう。

  

▲モーホリンに建つ、若きジーン・アーマーの像。Rosser1954 ▲55歳当時のジーン・アーマーの肖像画。愛らしさは既にない…。

 

 一方で、バーンズにはもう一人の女性がいた。メアリー・キャンベル(Mary Campbell)である。彼女は大きな農場でメイドとして働いていたが、彼から『カリブに来るかい、ぼくのメアリー』という詩を送られている。バーンズはジーンの父親から告訴され、生まれてくる子供の養育費を迫られていたが、モスギールの農場経営は思わしくなかった。
行き詰まった彼は、全てを捨ててジャマイカに移住する計画を立てたのである。バーンズはメアリーと聖書を交換しているが、これは婚約を意味しており、メアリーと秘かにジャマイカへ渡ろうというつもりだった。しかし、メアリーも妊娠していることが分かり、彼女は実家へ将来を相談しにいく。そしてこれがバーンズとの永遠の別れになった。チフスが原因で、1786年10月に彼女は嬰児ともに他界してしまったのである。この事から、バーンズの中でメアリーは神聖化され、後に『ハイランドのメアリー』という名作が生まれた。
実家から戻るはずのメアリーを待つあいだ、バーンズはジャマイカ行きの旅費を工面するために自作の詩をまとめて出版する作業に入っていた。フリーメイソン仲間の協力も得て、やがてバーンズは1786年7月31日に、『詩集―主としてスコットランド方言による』をキルマーノック社から刊行する。1冊6シリングで初版は620部、印税は50ポンドだった。
バーンズは序文にこう記している。「これは、上流階級の優雅と怠惰の中で田舎の生活を見下して歌う詩人の作品ではない。…自分と自分の周囲の農夫仲間の中で感じたり見たりした心情や風習を自分の生まれた国の言葉で歌っているのだ」と。この詩集はすぐに大歓迎を受けた。エディンバラの貴族から、エアシャーの農夫の少年までが手にして夢中になる、大ベストセラーとなったのである。初版は1ヵ月で売り切れた。文学界も、「スコットランドが生んだ天才の顕著な見本」であると手放しで大絶賛した。こうしてバーンズはジャマイカではなく、スコットランドの首都エディンバラへ向かうことになる。

 



タムとメグが魔女を振り切ったとされる、オールド・ブリガドゥーン
(the auld Brig o'Doon=ドゥーンの古い橋)。
© James Denham

 


 

エディンバラの田舎詩人

 

 バーンズが必要とあらば『格調高い英語』を正確に話すことができたのは、教育熱心だった両親と家庭教師のおかげだが、それに加え、当意即妙の話術を操る、母親似のハンサムな好青年に成長していた彼は、瞬く間にエディンバラ社交界の寵児となった。バーンズは紹介状を持って多くの名士のもとを訪れたが、招かれたどの家やサロンでも歓迎され、人々はバーンズの飾り気のない男らしさや、自分をわきまえ、虚栄心のないところなどに好意を持ったという。当時は『自然に帰れ』と提唱するフランスの哲学者ジャン・ジャック・ルソーの思想がもてはやされており、人々はバーンズにルソーのいう『高貴な未開人』を見ていたのだともいわれる。
バーンズは2年に及ぶ滞在のあいだ、詩集の『エディンバラ版』を準備するほか、失われつつあるスコットランドの民謡や歌謡の保存に努めるジェームズ・ジョンソンと出会い、その歌謡集編纂への協力も約束している。
また、恋多きバーンズのエディンバラでの相手は、アグネス・ナンシー・マクルホーズ夫人(Agnes Nancy Maclehose)。彼女は評判の美貌と知性を併せ持つ女性で、バーンズの作品に興味を持ち、しかも夫とは別居中という身の上だった。ただし、バーンズは身分の違いや社交界の醜聞を恐れた夫人とプラトニックな関係を貫かざるを得ず、2人の間には大量の熱烈な手紙が残るばかリである。バーンズは『やさしいキス』という詩を彼女に送っている。欲求不満が募ったためか、バーンズは、マクルホーズ夫人宅の召使いの少女と関係を持ち子供を産ませたり、酒場の女性とつき合ったりと、ここでも同様のカサノヴァぶりを披露した。
エディンバラ版の詩集が出版されると、バーンズの評判はついに国境を越えた。ロンドンやダブリンで評判をとるばかりではない、海を渡り米国のフィラデルフィアやニューヨークでも好評をもって迎えられた。これで一気に長年の貧困から解放されたバーンズだが、浮かれた有名人にはならず、不思議な程冷静な判断をくだしている。エディンバラに2年滞在する間に、社交界の人々がすでに彼の存在に次第に飽き始めているのを感じ取り、やがて彼に向かって丁重にドアを閉めるであろうと考えたのである。もともとバーンズが欲しているのは詩作であり、自由を得ることであり、決して上流階級の仲間入りすることではなかった。
バーンズはエディンバラに来る前、農業をあきらめて収税官になることを考え(ジャマイカへ移住するとも言っていたはずだが)、エディンバラでは資格を獲得するための勉強もしている。人々がバーンズの詩を称賛しているまさにその頃である。このような現実的な感覚と、恋愛に熱中し詩作に励む感覚が、バーンズの中には違和感なく共存していたのだ。
1788年2月、バーンズは故郷の家族のもとへ向かう。稼いだ印税は、留守中に家族を守った弟のギルバートに半分以上渡した。そして、残った資産でエリスランド(Ellisland)に家を購入すると、ジーン・アーマーを迎えて初めて自分の所帯を持ったのである。
ジーンの親はかつてバーンズを告訴した過去があるにもかかわらず、彼が有名になると手のひらを返したような卑屈な態度で接した。だが、バーンズを想うジーンの気持ちに変わりがないうえ、収税官になるには妻帯が条件だったこともあり、結婚に関してバーンズに不満はなかった。

 



1840年当時のエリスランド農場の様子(作者不詳)。



▲現在のエリスランド農場。© Rosser1954 Roger Griffith

 


 

受け継がれる想い

 

 やがて一家は、1791年にエリスランドの北西にあるダンフリース(Dumfries)の町へ移る。ここは『スコットランドの南の女王』と言われる美しい町だが、町議会からバーンズを名誉市民にすると案内が来たのだ。彼の子供の学校教育費を無料にするという特典付きである。バーンズはこの地で『タム・オ・シャンター』『なんといっても人は人』をはじめとする多くの詩作をしながら、劇場建設に関わったり義勇軍に参加したりと、名誉市民としての務めも果たす。
そして、有能な沿岸収税官としての仕事もこなしていた。10代の頃バーンズが酒場で見かけたような、密輸業者の男たちを摘発する仕事である。彼はある時このような業者から4丁の拳銃を摘発し、これをフランスの革命軍に送ろうとしたことがある。自由を求めて戦う革命の思想に大いに共感したからだが、これで危うくバーンズは職を失うところであった。
また、こりないバーンズは、グローブ・タヴァーンというパブの女将の姪、アンナ・パークと関係を持ち子供をもうけている。バーンズは妻を含め5人の女性に子供を産ませているが、彼女が最後の相手であり、妻のジーンはその子を引き取っている。しかもジーンもこの時妊娠中であり、この1ヵ月後には出産しているのだ。バーンズはジーンに頭が上がらなかったと想像できる。
詩作と女性と家族生活、そして政治への興味。ようやく叶った人間らしい生活はまだまだ続くはずであった。しかし、バーンズを容赦なく人生の残酷な『いじめ』が襲う。1795年からバーンズを悩ませてきたリューマチ熱が、悪化し始めたのである。
10ヵ月ほど寝たり起きたりの生活をしたあと、医者の勧めで海辺に滞在する。この病は今の医学で言うと「リューマチ熱を伴った心内膜炎」ということになり、抗生物質で治療が可能だ。しかし、当時は違った。
帰宅後、バーンズはジーンの父親に向けて手紙を書いている。「アーマー夫人(ジーンの母)をどうかすぐにダンフリースへ寄越して下さい。妻の出産が目前に迫っているのです。私は今日海水浴から戻ってきました」。ところが、このわずか3日後である翌年7月21日に、バーンズは突然息を引き取る。37歳だった。25日には町の名誉市民であるバーンズのために、ダンフリースの国防義勇軍による盛大な葬儀が執り行われた。そしてちょうどこの日、バーンズの家ではジーンが第7子を出産したのである。それは、バーンズの詩が代々受け継がれていくことを示唆するような出来事であった。バーンズ本人はこの世にいなくとも、その心は、そしてその詩は永遠の命を得て、これからも愛されていくのである。

 



ダンフリースでバーンズが晩年を過ごした家。© Rosser1954

 

Tam o' Shanter: A Tale (1790) 『タム・オ・シャンター』

アロウェイ教会の廃墟。ここで、タムは魔女たちの宴を覗き見してしまう。


魔女たちの宴。右上の窓から、タムが顔をのぞかせているのが見える。
 バーンズ作品の中でも特に名高い物語形式の詩で、朗読すると10分を超える長さになる。『スコットランドの古物』の著作もあるフランシス・グルース大尉に、廃墟となっているアロウェイ教会にまつわる魔女物語を依頼され、作られた。1791年に『エディンバラ・マガジン』に掲載され、1793年にはバーンズの詩集エディンバラ版にも収められている。
シャンター村のタムが嵐の晩に町で楽しく酒を飲んだ後、愛馬メグにまたがり帰宅する際、廃墟のはずのアロウェイ教会に灯りが点っていた。そこでは悪魔や魔女が音楽に合わせて踊りまくっている最中で、中でも短い下着の若い魔女ナニーの踊りに興奮したタムは、ついうっかり「うまいぞ!」と声を上げてしまう。タムに気づいた悪魔たちは一転、恐ろしい形相でタムに向かってくる。
魔女は水の流れを越すことができないとされている。愛馬のメグを必死に走らせ、命からがらドゥーン川を渡ったタムだが、愛馬メグのシッポは魔女につかまれ、そのオシリからスッポリ抜けてしまっていた…。
以上のような物語が、スコッツ語とイングランド語を駆使し、スピード感溢れる描写で描かれ、絶妙なリズムと場面転換の妙は、詩人のウォルター・スコットに「シェークスピアを除いて、いかなる詩人も、このようにすばやく場面転換させながら、この上なく多様で変化に富んだ感情をかき立てる力を持たない」と絶賛されている。
なお、スコットランドの土産物店でよく売られている、タータンチェックのベレー帽はこの物語の主人公の名にちなみ、 タム・オ・シャンター帽と呼ばれている。そして、タムに我を忘れさせた魔女ナニーの「短い下着」はスコッツ語で「カティー・サーク」。現在グリニッジに展示されている帆船カティー・サークは、その船首に魔女が飾られ、彼女の手には今なおタムの愛馬メグのシッポがしっかり握られているのである。

 


 

ロバート・バーンズ ゆかりの地

1 アロウェイ Alloway

1759年に、バーンズが生まれたコテージがあり、現在は「ロバート・バーンズ生家博物館Robert Burns Birthplace Museum」となっている(同じ敷地内に、ギフトショップ+カフェを併設した、「タム・オ・シャンター・エクスピリアンスThe Tam O'Shanter Experience」もある)。さらに、地元の観光案内所である「ランド・オブ・バーンズ・センターLand o’ Burns Centre」があるほか、父親のウィリアムが眠るアロウェイ教会Alloway Kirk、1820年に建てられた、バーンズ・モニュメントBurns Monumentや、タムが魔女たちの姿を目撃した所とされるオールド・アロウェイ・カークAuld Alloway Kirk、タムが愛馬メグと命からがら渡った、ブリガドゥーン橋Brig o'Doonもある。
Robert Burns Birthplace Museum
www.burnsmuseum.org.uk
Land o’ Burns Centre
www.thesite.co.uk/placesdetail.asp?cboPlaces=8785

 



バーンズが亡くなったとされる部屋の様子を描いた版画

2 エアAyr

3 ターボルトン Tarbolton

4 アーヴィン Irvine

5 キルマーノック Kilmarnock

地域の発展に貢献するべく設立された「バーンズ・モニュメント・センターBurns Monument Centre」がある。
Burns Monument Centre
www.burnsmonumentcentre.co.uk

6 モーホリン Mauchline

かつてバーンズが住んだ家が「バーンズ・ハウス博物館The Burns House Museum」として公開されている。
The Burns House Museum
www.visitscotland.com/info/see-do/the-burns-house-museum-p256201

7 エリスランド Ellisland

バーンズが1788年から3年間、経営した「エリスランド・ファームEllisland Farm」は見学できるようになっている。
Ellisland Farm
www.ellislandfarm.co.uk

8 ダンフリース Dumfries

1796年にバーンズが息を引き取った「バーンズ・ハウスBurns House」が博物館として公開されているほか、ビジター・センターである、「ロバート・バーンズ・センターRobert Burns Centre」もある。
Burns House
Robert Burns Centre
www.dumfriesmuseum.demon.co.uk/brnscent.html



ダンフリースのセント・マイケルズ教会の墓地にある、バーンズの墓。© MSDMSD

 

参考資料
ロバート・バーンズ スコットランドの国民詩人 木村正俊/照山顕人 編 晶文社
Robert Burn's Scotland Rev.J.A. Carruth M.A
www.robertburns.org他

 

アイヌと共に生きた男 ニール・ゴードン・マンロー 《前編》 [Neil Gordon Munro]

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2013年5月30日 No.781

取材・執筆/佐々木敦子・本誌編集部

 

アイヌと共に生きた男

ニール・ゴードン・マンロー [前編]


20世紀前半、日本でアイヌ人たちの保護に人生を捧げた
一人のスコットランド人がいた。
彼の名はニール・ゴードン・マンロー。
考古学への興味から来日するが、
アイヌ先住民との不思議な縁が彼のその後の運命を決した。
「アイヌの皆の様に葬ってくれるね」と言い残し
北海道の地に没したマンローの生涯を辿りながら、
彼がこれまで正当に評価されることなく
日本の近代史に埋もれていた理由なども、
マンロー生誕150周年を機に探ってみたい。

© Fosco Maraini

 

参考文献:
『わがマンロー伝―ある英人医師・アイヌ研究家の生涯』桑原 千代子著・新宿書房刊、
『N.G.マンローと日本考古学』横浜市歴史博物館編纂ほか


 

2013年春、横浜市歴史博物館で、ある特別展が開かれた。タイトルは「N・G・マンローと日本考古学 ―横浜を掘った英国人学者」。スコットランド出身のニール・ゴードン・マンロー(Neil Gordon Munro)生誕150周年を記念して開催されたものである。
1942年に79歳で死去したマンローが初めて日本の地を踏んだのが28歳の時のこと。横浜で行った発掘調査で見つけた旧石器時代の人骨がきっかけで、
マンローは日本人のルーツ、そして期せずして日本の暗部に触れることになる。マンローにとって、そして日本人にとってアイヌはどう捉えられていたのか。前編では、マンローの横浜時代を中心に送る。


 

◆◆◆ 考古学に魅せられた青年医学生 ◆◆◆


 



マンローが医学を学んだ、エディンバラ大学医学部の旧校舎(1906年当時)
ニール・ゴードン・マンローは1863年6月16日、北海に面したスコットランドの都市ダンディー(Dundee)に、外科医の父ロバート、母マーガレット・ブリング・マンローの長男として生まれた。ちなみにマンローという苗字を持つ一族はスコットランドでは名家のひとつであり、その祖先は14世紀まで辿ることが可能だという。
父親のロバートは開業医で、その傍らで刑務所と救貧院の医師も兼任していた。マンローの下には後に彼のあとを追って日本の地を踏むロバート(父親と同名)を始め、5人の兄弟妹が誕生。だが、一般に同族意識や故郷への愛着が強いとされるスコットランド人には珍しく、マンローには家族や故郷に関する逸話があまり残っていない。しかも25歳でスコットランドを離れて以来、79歳で死去するまでにたった1度しか英国、欧州に戻っておらず、かなり淡白な性格だったとも思われる。
だがそんなマンローでも、一家の長男である以上は将来父親の医院を継ぐはずであり、親の期待もあったようだ。現に本人もそのつもりで1879年から1888年までエディンバラ大学の医学部に在籍している。ところが医学の勉強中に、マンローは考古学の魅力に取り憑かれてしまう。
当時はチャールズ・ダーウィンが『種の起源』を出版して20年が経過したところで、進化論に対する評価はようやく定着したばかり。この頃の欧州考古学界は、進化論の法則に基づいた人類の起源や進化の過程を確かめようと、原人発掘ブームに沸いていた。1866年に大森貝塚を発見したエドワード・S・モースを始め、ハインリッヒ・フォン・シーボルト(江戸末期に来日したシーボルトの次男。父親と区別するため、日本では『小シーボルト』とも呼ばれている)の日本での発掘調査などでも分かるように、考古学界の目は東洋へと向けられてもいたので、マンローがインドや東南アジアでの原人発掘を夢見たとしても不思議ではない。
また、ダーウィンが死去したのはマンローがエディンバラ大在学中の1882年であり、若きマンローがその著作に影響を受けた可能性も高い。
その昔、ダーウィンはマンロー同様エディンバラ大で医学を学ぶも、血を見るのが苦手で退学し、ビーグル号に乗って世界の海へ繰り出していった。そして各地で動植物を収集しながら、後に世界を揺るがすことになる進化論の基礎を導き出すに至るのだ。マンローが卒業後、インド航路客船医という一見奇妙なポストに就いたのは、ダーウィンという先例があったからと考えても、まるきり見当違いではないと思われる。


◆◆◆ 憧れの世界を目指して離英 ◆◆◆

 

病気で1年休学したものの、マンローは1888年に医学士と外科修士の学位をとり無事にエディンバラ大を卒業。そして当時大英帝国の植民地であったインドや香港を往復する貨客船の船医として働き始める。
マンローのこの進路選択について、父ロバートはどういう態度を見せたのか。記録はないようだが、諸手を挙げて賛成してくれたとは考えづらい。それどころか、いつ遭難するともしれぬ危険な仕事として大反対されたとしてもおかしくない。父ロバートはこの翌年に他界するが、この際に家族内で大きなしこりができたとすれば、この後、マンローが故郷と疎遠になったことも説明がつく。
さて、貨客船といっても大型客船ではなく、郵便物、そして軍用品などの貨物の運搬が主だったため、マンローの仕事は船員の怪我や客の船酔いの手当といった簡単なものばかりだった。
マンローは1ヵ月のうち1週間から10日を陸上で暮らしたが、その貴重な時間を現地での旧石器発掘調査などにあてたわけだ。鉛色の空をあおぎ見ることの多いスコットランドから一転、カラフルな未知の文化圏へ。マンローの驚きと歓びは大きかったに違いない。彼は英国の発掘隊たちが訪れた遺跡などを一人で精力的に回っている。
だが、当時インドの統治国だった英国は、発掘のために正式な届け出をすることもせず、出土したものはそのまま英国に持ち帰るといった、現代においては「略奪」と呼ばれる行為を繰り返していた。そして、希望に溢れたマンローがインドや香港で見たものは、 植民地を統治する英国人による現地の人々に対する人種差別、民族的偏見、およびインド国内のカースト制による激しい階級差別だったという。
マンローはそのことに心を痛め、後に妻であるチヨに当時の模様を語っている。海外では「英国」と一括りにされてしまうものの、マンローがスコットランド人だったことを思うと、彼はスコットランドやアイルランド、またケルト文化に対して行われたイングランドによる侵略行為や差別の歴史を重ねあわせていたのではないだろうか。また、原人の頭蓋骨を扱う考古学者的見地からすれば、「ある人種の民族的な優越性」などは存在しないというのがマンローの立場だった。やがてこの時の体験や思索は、後にマンローが北海道で見せるアイヌへの献身的態度につながっていく。

 

◆◆◆ 病床で聞いた原人発掘の報 ◆◆◆


 


オランダの解剖学者、人類学者、マリ・ウジェーヌ・フランソワ・トマ・デュボワ(Marie Eugne Franois Thomas Dubois、1858~1940)=写真下=が発掘した、『ジャワ原人』の頭蓋骨の一部と大たい骨=同左 © Peter Maas=は、世界に衝撃を与えた。
インドで細々とながら石器発掘を行っていたマンローだが、北国育ちの彼にとってこの国の猛暑とモンスーンはひどく体にこたえた。体調を崩した彼は1890年にはインドを離れ、香港と横浜を結ぶ定期船アンコナ号の船医になる。さらに翌1891(明治24)年5月12日、28歳目前のマンローは香港より一層気候の穏やかな横浜へ向かうため、汽船オセアニック号の客となる。療養が目的だったようで、マンローは到着後すぐに横浜の山手地区にある外国人専用のゼネラルホスピタルに入院した。
奇しくもその8月、33歳の軍医ウジェーヌ・デュボワが当時オランダ領だったインドネシアで原始人類の骨を発掘。それは「ジャワ原人(ピテカントロプス・エレクトゥス)」と名付けられ、東南アジアで人類が進化したとする学説に俄然信憑性が出てきた。
マンローがこのニュースに興奮したであろうことは間違いない。デュボワに「先を越された」とさえ思っただろう。やがて健康を取り戻したマンローは、医師として日本で暮らし始める。現在は英国同様島国の日本だが、大陸とつながっていた時に原人が渡っているはずである。それはいつの時代で、どんな原人なのか。それを自分が発見しようと決意したのだ。とはいっても、マンローはこの後50年の長きにわたって日本で暮らすことになると、その時想像していただろうか。答えは「ノー」である。運命の出会いは、まだそれが起こる兆しさえ見せてはいなかった。


 

◆◆◆ 駆け出しの発掘研究家 ◆◆◆


 


ドイツ帝国出身の医師、エルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Blz、1849~1913)は、『お雇い外国人』として日本の近代化に関わった。。
実はこの後数年のマンローの足取りははっきりと掴めていない。30歳でゼネラルホスピタルの院長に就任したという説がある一方で、横浜市内の病院を転々とした後、自らの診療所を開いたとする説もある。ただ確かなことは、優秀な外科医として腕を振るう傍ら、横浜を中心とした神奈川県各地の発掘を試みていたということだ。
また、文明開化を遂行し、欧米に追いつこうとする明治政府によって招待されていた「お雇い外国人」たちが当時はまだ日本に残留しており、マンローはこうした先輩たちと交流していた。中でもマンローが影響を受けたのは、東京大学で医学を教え、のちに宮内省侍医となったエルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Blz)であろう。
ベルツは、当時の日本が近代化を急ぐあまり、自国固有の文化を軽視するばかりか、恥ずべきものと考えてさえいることに危惧をいだいていた。そして「今の日本に必要なのは、まず日本文化の所産のすべての貴重なものを検討し、これを現在と将来の要求に、ゆっくりと慎重に適応させることなのだ」と憂える言葉を残している。
彼は考えを同じくする、小シーボルトと共に多くの美術品・工芸品を購入し保存に努めるほか、若いマンローとともに発掘にも参加。やがて、1905年に日本を去り、1913年に祖国ドイツで64歳で死去するが、日本にいるマンローに考古学研究費として3千円を贈るよう遺言を残している。

 

◆◆◆ 「満郎」になったマンロー ◆◆◆


 


マンローを北海道へと誘った、ジョン・バチェラー(John Batchelor、1854~1944)=写真中央
ここで、マンローのプライベートな側面について触れておこう。マンローは80年近い生涯の中で4人の妻を娶っているが、最初の妻とは1895(明治28)年に結婚した。19 歳のドイツ人アデル(Adele M.J.Retz)で、医薬品から雑貨、武器までを扱う横浜きっての貿易商「レッツ商会」の令嬢だった。彼らの暮らしは何一つ不自由のない恵まれた新婚生活であったに違いない。翌年にはマンローの父親と同名の長男ロバートが生まれている(1902年に死去)。
また、1898年には、1877年以来北海道でキリスト教の伝導に努めるイングランド人宣教師、ジョン・バチェラー(John Batchelor)の案内で初めて北海道に旅している。これが、マンローの後の生涯を大きく左右することになる。この時はマンロー自身も気づいてはいなかったものの、アイヌ人、アイヌ文化との運命の出会いだったといえるだろう。
バチェラーはアイヌにキリスト教に基づいた教育を施すための学校を創立したほか、アイヌ語の言語学的、民族的研究に多くの業績を残した人物である。彼は、アイヌ人はコーカソイドが日本に渡ったものだという、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(江戸末期に来日した『大シーボルト』)の唱えた「アイヌ白人説」を支持し、原ヨーロッパ人の子孫が現在の日本人によって不当な仕打ちを受けていると考えていた(次頁コラム参照)。
この説は極東の「高貴な野蛮人」というロマンチックなイメージで捉えられ、当時欧州の研究家たちの関心を誘っていたのである。バチェラーはマンローを誘うことで、共にこの説を証明しようとしたのだろう。マンローとバチェラーはやがて大論争の果てに袂を分かつに至るのだが、これについては後編で述べよう。
マンローの幸せな結婚生活はそう長くは続かなかった。医師としての仕事に従事する以外は、マンローは泥だらけになって発掘をするか調査レポートを書いているかのどちらかで、華やかな社交界での集まりに慣れていたアデルに構うことはなかった。
そればかりか、彼は高畠トクという女性と関係を持つに至るのである。時期的には長男を亡くした後とされるが、ある時、横浜で旧石器に関する講演を行ったマンローは、終了後、一人の日本人女性から日本語の読み方に関する誤りを指摘される。それが高畠トクだった。


釧路を訪問した際、宿泊先でくつろいだ表情を見せるマンローとチヨ夫人(写真:北海道大学提供)
マンローは英語で講演をしたのだが、彼女は旧士族の娘で英語も堪能な教養ある女性だった。感銘を受けたマンローはその場で彼女に通訳として働いてくれるよう頼む。そして1905(明治38)年にアデルと離婚。数ヵ月後にトクと再婚している。
こう書くとスムーズに話が進んだようにもみえるが、当時の日本で外国人同士が離婚するというのは余り例のないことであり、法律上の手続きは難航した。業を煮やしたマンローは荒技を使う。即ち、離婚前の妻共々日本に帰化したのである。満郎(まんろう)という漢字をあてて日本人となった夫妻は、無事に離婚することができたという。マンローが日本に帰化したのは、つまりは「いろいろ面倒だったから」ということになる。
 

マンローと4人の妻たち
マンローが故郷や家族に対して比較的距離を置いていて、淡白(冷淡?)な性格らしいことは本文でも触れた。その一方で4度も結婚している。ここではマンローが築いた4つの家庭から、マンローの姿を探ってみよう。

①アデル・マリー・ジョセフィン・レッツ(婚姻期間:1895~1905年)
ドイツ人。声楽とピアノの得意なレッツ商会の令嬢。マンローとの間にロバート、イアンの2人の男児をもうけるが、ロバートは幼くして病死。マンローは自著『Prehistoric Japan』を彼に捧げている。発掘に熱中し研究に湯水のごとくお金を使うマンローと、それを疎ましく思うアデルは夫婦喧嘩が絶えなかった。やがて秘書兼通訳である高畠トクが現れ、夫婦間の亀裂は決定的となる。マンローとトクとの関係に嫉妬したアデルは、トクも招待された実家のクリスマス・パーティーで、ピアノを叩き付けるようにヒステリックに演奏し、客の前でマンローから平手打ちを食らっている。

 


トク(32歳)とアヤメ(4歳)。離婚した頃の写真といわれている(『高畠とく先生思い出の記』より転載)
②高畠トク (婚姻期間:1905~09年)
久留米柳川藩江戸詰家老の次女。明治維新で零落し、自活の道を築くため横浜で女中奉公をしながら和漢の学識や英語力を身につけた。芙蓉の花にも似た気高い美しさを持っていたといわれる。マンローとの間にはアヤメ(アイリス)という女児を出産。しかし、博士号取得のために英国へ赴いたマンローは、戻ってくると手のひらを返したように冷たくなっていたという。離婚の際、武士の娘だからだろうか、トクはマンローに金銭を要求せず、黙ってアヤメを連れて立ち去った。アヤメは成人してからフランスに絵画留学することになり、トクがマンローにそのことを連絡すると「いいんじゃない?」という返事のみが返ってきたと伝えられている。アヤメは留学中に結核にかかり、28歳で死去する。

③アデル・ファヴルブラン
(婚姻期間:1914~24年/正式な離婚成立は1937年)

父はスイス人、母は日本人。父親の死去以降、ファヴルブラント家は傾き、妻の実家の財力をあてに無料診療ばかりしていたマンローは負債を抱える。貧乏とマンローの浮気の双方に悩んだアデルはヒステリー状態になり、「精神系疾患の治療で有名な精神科医フロイトに治療してもらえ」とマンローに無理矢理欧州へ送り出されてしまう。結婚祝いに父親から3000坪の敷地と豪邸をもらっていたアデルは、それを売り払い、マンローの負債も補ってウィーンへ去る。

④木村チヨ
(婚姻期間:1924~42年/正式な結婚は1937年)

香川県高松市のべっこう商の娘で、日赤看護婦養成所を首席で卒業した後、日露戦争に従軍し宝冠章勲八等を受ける。その後神戸の病院で婦長として働いているところをマンローにスカウトされる。アデルとの離婚が難航したため、チヨは長い間「妻」という肩書きの無いままマンローを支えた。軽井沢でも北海道でも無給だったという。マンローはチヨを「地上の天使」と呼び、全ての遺産をチヨに贈るという遺言状を残している。チヨはマンロー亡きあとも、軽井沢で婦長として長く働き、1974年に89歳で死去。


◆◆◆ 横浜で竪穴式住居を発掘 ◆◆◆


 


今年はマンロー生誕150周年にあたる。これを記念し、4月から5月末にかけて横浜市歴史博物館で行われた特別展のポスター。同展にあわせて発行されたカタログの内容の濃さも特筆に価する。マンローの業績を広く知らしめたい、という主催者側の情熱がそこかしこに感じられた。
トクという優秀な通訳を得た後、マンローの行動半径はいっきに拡大する。 バチェラーとの北海道旅行でアイヌの風俗や文化に触れたマンローは、アイヌに深い興味を抱き、彼らが用いる木工品の彫り文様と、縄文土器に施された模様の共通点に注目した。そしてアイヌこそ縄文人の子孫なのではないかと考える。
マンローはこの仮説を証明しようと、横浜根岸競馬場付近貝塚(1904年)、小田原の酒匂川・早川流域(1905年)、横浜三ツ沢貝塚(1905年)の3ヵ所を精力的に調査するが、三ツ沢貝塚発掘の際には「トレンチ(塹壕)方式」という地層に沿って掘り進む画期的な方法を採用した。
それまで日本で行われてきた発掘調査は、ここぞと思うところを掘ってみて、何も出なかったら別の場所を掘るという、宝探しにも似た行き当たりばったりな方法で、調査も日帰り程度が主流だった。しかしマンローは、7ヵ月という長い期間を費やし、何かが出ようが出まいが関係なく、一定の広い区域を層位区分ごとに均等に掘り進めるというやり方を採用した。
そしてこれによって日本初の縦穴住居跡を発掘したばかりではなく、土器、石器、そしてアイヌ人の特徴を有する原人5体の人骨を、ほぼ完全な姿で掘り出したのである。それまで日本列島には前期旧石器文化は存在しないと思われていたので、これは実は大きな発見であった。
マンローはこれらの結果をまとめ、『Prehistoric Japan』として自費出版する。そしてアイヌ縄文人説に一石を投じたのである。当時日本の学会でも「日本人起源論」については議論されており、概ね「コロポックル説」と「アイヌ説」とに分かれていた。コロポックルとはアイヌの神話の中に出てくる小人で、それによると「アイヌがこの土地に住み始める前から、この土地にはコロポックルという種族が住んでいた。彼らは背丈が低く、動きがすばやく、漁に巧みであった。又屋根をフキの葉で葺いた竪穴にすんでいた」という。
マンローはコロポックルはアイヌ伝説に過ぎず、実在はしないとしている。だがコロポックル説を唱えるのが日本人類学会の会長である坪井正五郎氏とその一派であったためなのか、マンローの三ツ沢貝塚での重要な発見そのものが、一介のアマチュアの慰みとして学会から黙殺されてしまう。『Prehistoric Japan』が英語で書かれたせいもあるのだろうか。評価したのはほんの一握りの人々に過ぎなかったようだ。
マンローの発見から44年後の1949年、群馬県岩宿遺跡から旧石器が発見されたことで、日本における前期旧石器文化の存在は、やっと認知されたという有り様である。
この頃のマンローは、書いた論文を定期的に英国へ送ったほか、発掘品の多くも整理してスコットランド博物館へ送っているが、それは単に英国が「アイヌ白人説」のためにマンローの研究に興味を持っていたからだけではなく、日本の学会における面倒な派閥システムのために、自分の研究が日の目を見ないことを怖れたからではないかと推測できる。
また、エディンバラ大学では医学士を取得し、日本での医療行為には何の問題もないマンローだが、なぜかこの頃博士号の学位の必要性を痛切に感じていたという。おそらくそれも、日本の学会で自分の論文や発見が取り上げられなかったことと関係があるのではないだろうか。「医学博士」という肩書きを重視する人々が学会の中に多くいたであろうことは想像に難くない。マンローは『日本人と癌』という博士論文を執筆すると、1908(明治41)年にエディンバラ大での口頭試験のために英国へ向かう。マンローにとって20年ぶりの、そして最後の英国行きであった。

 

明治政府のアイヌの扱い
1997年まで残った

「北海道旧土人保護法」

◆北海道は古くから「蝦夷」と呼ばれ、沖縄同様、日本国内の外国というような特殊な扱いを受けてきた。明治時代になると、政府による植民策がすすみ北海道への移住者が増加。開拓使や北海道庁は、先住していたアイヌの人たちに一部の地域で農業の奨励や教育・医療などの施策をおこなったが十分ではなく、生活に困窮する者たちが続出した。

◆このため、政府は明治32年に「北海道旧土人保護法」を制定(マンローが初めて北海道旅行をした翌年でもある)。これは、アイヌの人たちを日本国民に同化させることを目的に、土地を付与して農業を奨励することをはじめ、医療、生活扶助、教育などの保護対策を行うものとされた。

◆しかし実際には、アイヌの財産を収奪し、文化帝国主義的同化政策を推進するための法的根拠として用いられる。具体的には、アイヌの土地の没収/収入源である漁業・狩猟の禁止/アイヌ固有の習慣風習の禁止/日本語使用の義務/日本風氏名への改名による戸籍への編入―などがあげられる。

◆明治から第二次世界大戦敗戦前まで使用された国定教科書には、アイヌは「土人」と表され(行政用語では明治11年から「旧土人」)、差別は続いた。

◆戦後は、一転して国籍を持つ者、すなわち「国民」としてのみ把握され、現在もその民族的属性や、集団としての彼らへの配慮がなされているとは言い難い。ちなみに、この法律が廃止されたのは、なんと1997年(平成7年)のことであった。


◆◆◆ 「不器用で八方破れ」な性格 ◆◆◆


 


マンローは、国立スコットランド博物館=写真右=に、日本で発掘したおびただしい量の考古学資料を送った。横浜市歴史博物館で行われた特別展で発行された厚いカタログ=同上=では、それらが丁寧に紹介されており、感嘆するばかり。
 マンローは英国で試験を受け無事博士号を取得したほか、尊敬する先輩であったベルツと再会し旧交を温めた。その一方、エディンバラ博物館の美術民俗学部門を訪れ、正式な日本通信員に任命される。これによりマンローはその後6年に渡り、アイヌ民族学資料や2000点以上のコレクションをエディンバラに送り続けている。
半年後、父親の遺産(父親はマンローがまだ船医だった頃に死去している)の他に、マンローはあろうことか「ブロンドのフランス人女性」を連れて帰国。これが原因で高畠トクとは協議離婚し、彼女は2人の間に出来た娘アヤメを連れて家を出る。だが問題のフランス人女性は結局すぐ欧州へ送り返してしまい、マンローは優秀な通訳を失った状態でアイヌの調査を続けることになる。
40代後半になっていたマンローだが、自らの手で家庭を叩き壊した挙句、身の回りの世話をする小間使いと運転手を連れて、横浜市内で転々と住所を変えている。『わがマンロー伝』を著した桑原千代子氏の言葉を借りれば、この頃のマンローは「不器用な八方破れで、妥協知らずの突っ走り」だったというが、マンローはどんな精神状態で暮らしていたのだろう。帰化して日本国籍になってはいたものの、日本語はほとんど話せず、家族もいない。研究結果を発表するも学会からは無視される。そんなマンローがただ一つ握りしめていたのは、「自分の研究が正しく価値のあることだと信じる気持ち」だったのではないだろうか。
やがて、欧州で第一次世界大戦の勃発した1914年、51歳のマンローは、最初の妻の実家と並ぶ横浜きっての資産家であるスイス貿易商の娘で、名前も同じ、28歳のアデル・ファヴルブラント(Adele Favre‐ Brandt)と出会った。彼女の両親はマンローの年齢や過去の女性関係に不安を覚えたものの、二人は結婚。マンローはアデルの財産が目当てだったと考える人々もいるが、実際のところは分かっていない。
マンローはこの頃調査のためにしばしば北海道各地を訪れているが、次第に釧路や白老に住むアイヌたちと親交を深め、その独自の世界観に惹かれ始める。

軽井沢サナトリウムでポーズをとるマンロー(年代は不詳/写真:北海道大学提供)
折しも1915年は北海道で大飢饉が起きていた。マンローはアイヌの置かれている境遇に心を痛め、研究の合間に無料で彼らの診察を始める。結核が蔓延していたが、アイヌは薬草と祈祷しか治療法を持たなかったのである。
マンローは医師として活動しながらアイヌの儀式と風習を調査するようになり、徐々に北海道での滞在期間が長くなりはじめた。湿度が低くて夏も涼しいこの地に、故郷の面影を見いだしたということもあるかもしれない。北海道庁は時折コタン(アイヌの村や集落の意)に滞在するこの外国人医師に興味を持ち、マンローに向けてアイヌに関する5つの質問を発している。その一つ、「アイヌは高等なる宗教を理解し享益し得るか?」という質問に対し、マンローはスコットランド高地人の例を挙げて説明。「かつては政治と教育の不在によって哀れむべき状態にあったが、その後英国における第一流の学者を輩出したことに照らし合わせれば、ある種族と他の種族の間に教育の差はあっても、知能上の差はない」と断言しているのだ。すでに医師や研究者として以上の熱意が、ここにはこもっていると見受けられる。
マンローは横浜だけでなく、外国人の多い避暑地軽井沢の病院で忙しい夏の間だけ働いていたが、これに加え北海道でアイヌの人々の世話をするという、移動の多い忙しい日々を送り始める。
今やマンローの研究の比重は、石器や人骨といった考古学から生きた人間、すなわち人類学の分野へと移りつつあった。さらにもう一つ、軽井沢の病院にマンローの未来の、そして最後の妻となるチヨが婦長としてやって来るのである。

 

欧州のアイヌの扱い
ナチスも利用した「アイヌ・コーカソイド説」
ドイツの医師で博物学者のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866、日本では『大シーボルト』とも呼ばれる)によって、アイヌが周辺の他の言語系統と無縁で孤立していると言う見解が公にされてから、アイヌはコーカソイド、つまり原ヨーロッパ人もしくはヨーロッパ人に起源を有する民族ではないかと言う認識が1860年頃より広がった。

欧州各国は調査団や研究者を派遣したり、現地にいる欧州出身者に働きかけ、競合しながらアイヌの骨格標本をこぞって入手し始めた。1865年に起きた英国領事館員によるアイヌ墳墓盗掘事件なども、この流れで起きた事件である。アイヌとヨーロッパ人の頭蓋骨比較研究によって、その類似性はより説得性に富むようになった。英語はもちろん、ドイツやフランス語で書かれたアイヌ研究書が意外な程多く存在する理由はこのためである。

昭和初期、純血主義のナチス・ドイツはこのコーカソイド説を利用し、「アイヌは欧州から来たアーリア人の祖先である。ゆえに、日本人もアーリア人である」という、誰がどう考えても無理があるだろうと思われる論法で、日本と同盟を結んだ。

 

◆◆◆ 関東大震災発生! ◆◆◆


 


関東大震災が起こった翌日、東京から避難しようとする人々でごったがえす、日暮里駅。
 1923(大正12)年の夏は特に暑かった。
例年のように夏だけ軽井沢で働くマンローと共に、妻のアデルやファヴルブラント一家も避暑のために勢揃いしていた。ところが、心臓に持病のあった82歳の義父ジェームズが8月7日に大動脈破裂で倒れ、マンローの手当のかいもなく急逝。横浜に戻り葬儀を済ませた一家が再び軽井沢へ戻ったのは8月25日だった。
そのわずか6日後、9月1日午前11時58分。マンローはいまだかつて経験したことのない天変地異に遭遇する。
関東大震災であった。京浜地方のほとんどが灰燼に化すことになる大震災が襲った時、マンローは昼食のため家族の待つ自宅へ戻ろうとしていた。軽井沢の病院内で激しい上下動を体験したマンローは、何度も続く揺り返しの中で、懸命に横浜の病院に電話をかけるもつながらず、不安はつのるばかりだった。
夜になると東京方面の空は炎のせいか奇妙に明るいようだ。マンローは、ともかく行けるところまで行ってみようと、救護体制を整えて翌朝一番の信越線に乗り込んだ。
東京が近づくにつれ、被災して恐怖の一夜を過ごした人々の疲れた姿が増え始めた。ところがマンローの乗った汽車は日暮里(現東京都荒川区)止まりで、そこから先は不通である。だが横浜まではまだ遠い―。赤十字の炊き出しや地方へ避難する人々でごった返す日暮里駅に下車したマンローは、近くの農家から馬を買い取る。彼は幼い頃から馬に乗り馴れており、交通の便の悪い軽井沢でも、足代わりにしていたほどであった。
マンローは馬の背にまたがると、傷つきよろめきながら避難する群集をよけつつ、あちこちで白煙がたちのぼる中、横浜方面に向けて一路駆け出した。 
(後編に続く)

アイヌと共に生きた男 ニール・ゴードン・マンロー 《後編》 [Neil Gordon Munro]

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2013年6月6日 No.782

取材・執筆/佐々木敦子・本誌編集部

 

アイヌと共に生きた男

ニール・ゴードン・マンロー [後編]


20世紀前半、日本でアイヌ人たちの保護に人生を捧げた
一人のスコットランド人がいた。
彼の名はニール・ゴードン・マンロー。
考古学への興味から来日するが、
アイヌ先住民との不思議な縁が彼のその後の運命を決した。
「アイヌの皆の様に葬ってくれるね」と言い残し
北海道の地に没したマンローの生涯を辿りながら、
彼がこれまで正当に評価されることなく
日本の近代史に埋もれていた理由なども、
マンロー生誕150周年を機に探ってみたい。


 

参考文献:
『わがマンロー伝―ある英人医師・アイヌ研究家の生涯』桑原 千代子著・新宿書房刊、
『N.G.マンローと日本考古学』横浜市歴史博物館編纂ほか


 

【前編のあらすじ】
考古学への憧れが高じて来日。横浜で行った発掘調査で見つけた旧石器時代の人骨がきっかけで、図らずも日本人のルーツ、そして日本の暗部に触れることになったニール・ゴードン・マンロー(Neil Gordon Munro 1863~1942)。スコットランドのダンディー生まれながら日本に帰化したマンローは、関東大震災を始め、満州事変、日中戦争と激動の時代に巻き込まれていく。やがて太平洋戦争が勃発。敵国である英国からやってきたマンローが、当時「土人」とさえ呼ばれていたアイヌの人々や、その文化を守ることができるのか。後編では、マンローの北海道時代を中心に送る。


 

◆◆◆ 大震災で垣間見た地獄 ◆◆◆

 

1923年9月1日午前11時58分。関東一円を激しい揺れが襲った時、マンローは軽井沢にいた。横浜で医師として勤めるかたわら、夏場は外国人客でにぎわう軽井沢のサナトリウムで診療にあたっていたのである。 
関東大震災の翌朝、横浜へ向かおうとしたものの、汽車は日暮里駅どまり。マンローは馬を買い取り、みずから手綱を握って駆けた。ようやく横浜にたどりついた時にはすでに夜半になっていた。港近くの石油タンクが巨砲の炸裂するような爆発音とともに黒煙をあげて燃え上がっていたという。
マンローの病院も新居も、3人目の夫人であるアデルの実家も全て焼失。日本人だけではなく外国人居留地に住む数千人の西洋人も被災し、多数の死者が出た。マンローは新居に残していた研究メモや蔵書をことごとく失うが、多くの論文や発掘物を定期的に英国に送っていたのは不幸中の幸いだったといえる。マンローは焼失した英領事館の敷地内に大急ぎで作ったテント張りの医療施設で、怪我人の手当や防疫に奔走した。
190万人が被災し、10万人以上が死亡あるいは行方不明になったとされるこの関東大震災で、マンローは幸いにも自分の家族の誰をも失わずにすんだ。しかし、英国の領事夫妻は帰国中で難を逃れたが、領事代理は重傷、副領事は圧死という惨状だった。また、多くの避難民が横浜公園に逃れたものの、四方八方から火の手が襲い、人々は防波堤をのり越え海中へ避難したという。その数は数千人とも言われるが、風に乗った熱と煙りは沖へ向かい、救援の船が埠頭に近づくのを妨げた。怪我人の手当にあたるマンローの脳裏を、「地獄」という言葉が一度ならずよぎったのではなかろうか。
横浜の住居を失ったマンローは、これを機会に本格的に軽井沢に居を移すことにし、横浜の病院へは年末限りと辞表を提出する。32年にわたる長い横浜時代はこうして終わった。

 


 

◆◆◆ 『同胞』からの支援 ◆◆◆

 


軽井沢サナトリウムでのスタッフ集合写真。マンローは前列中央(写真:北海道大学提供)
横浜きっての資産家で大貿易商であるアデルの父親、ファヴルブラントからの援助で開設していた「軽井沢サナトリウム」は、主に結核患者の療養所として運営されていた。東京都内や横浜で被災し、家を失ったことにより軽井沢の別荘へ避難した西洋人は少なくなかったとはいえ、避暑地の病院を、1年を通してオープンし続けるのは効率的ではなかった。マンローは日本でいち早くレントゲンを導入した1人で、その他の最新機器導入にも積極的だっただけに、人口も減り、患者は近所の貧しい小作人や木こりたちのみになる(マンローはこうした患者には無料診療するのが常だった)冬季の軽井沢では、大幅な赤字を計上したのである。
しかも、関東大震災の直前に、富裕な義父が他界したこともあり、軽井沢で新生活をスタートさせた一家は瞬くうちに経済難に陥る。そんな中でのマンローの不倫は、妻のアデルを精神的に不安定にさせるには十分だった(『前編』9頁のコラム参照)。彼はサナトリウムの婦長、木村チヨと関係を持ち始めたのである。アデルは「軽井沢の冬は寂しすぎる」という言葉を残して、マンローの元を去る。ウィーンのフロイト博士の元で精神面の治療を受けるというのが名目だったが、実際には、マンローに欧州に送り返されてしまったといったほうが正確だろう。この後マンローとアデルが再び会うことはなかった。
一方でマンローは、患者だった詩人の土井晩翠、避暑客だった思想家の内村鑑三、そして来日講演の際に軽井沢を訪れた科学者のアインシュタインなどと交遊をもった。この頃結核を病んで療養滞在していた、『風立ちぬ』で知られる作家、堀辰雄とも顔見知りだったようだ。彼の『美しい村』に登場する「レエノルズ博士」は、マンローがモデルであると言われている。ただし、あまり良くは書かれておらず、マンローについて否定的な声もあったことを伺わせる。
また、1929(昭和4)年には来日中の社会人類学者で、ロンドン大学のC・G・セリーグマン教授が軽井沢を訪問。教授はマンローが日本亜細亜協会で行った講演に関する著作を読み、そのアイヌ研究を高く評価、研究を続けるよう激励している。ロックフェラー財団による研究助成金に申し込むことも勧め、教授自身が推薦者となった。マンローは、祖国からの来訪者である同教授の応援を得てどんなに嬉しかっただろうか。この教授の後押しこそ、マンローが北海道へ移住する大きなきっかけとなったのである。
セリーグマン教授はマンローに、起源や解釈の偏重から脱して正確な事実の記述を行うよう伝え、一般化を焦らずに小グループのアイヌの行動、言説、考えを優先してまとめるよう助言。これ以降、マンローは「熊送り」(右コラム参照)に代表されるようなアイヌならではの風習の記録に努める。今でいう人類学のフィールドワークというところだろう。

 

数奇な運命を辿った 「熊送り」の映像


マンローと二風谷アイヌの長老、
イソンノアシ氏=写真右。
© electricscotland
◆熊送りは狩猟にまつわる儀礼のひとつで、アイヌ語で「イオマンテ」と呼ばれる。動物(子グマであることが多い)を儀式に従って殺し、その魂が喜んで神々の世界に戻って行き、再び狩りの対象となって、仲間と共に肉体という形で戻ってくるよう、祭壇を設えてクマの頭部を祀り、酒や御馳走を捧げる。

◆マンローは1905年と30年にこの儀式を見学し、映像でくまなく記録した。ジョン・バチェラーが野蛮な風習と呼び、マンローとの考え方の違いを決定的にした問題の映像である。また、当時の警察からは検閲時にズタズタにカットされ、四分の一の短さになってしまったとも言われる。

◆オリジナル・フィルムはマンローの死後行方不明となっていたが、敗戦直後の長崎で米進駐軍用の土産物屋から出てきたのである。店先でこれを偶然発見した人物は、そこに映されている映像を見て、ただのフィルムではないと気付き、言語学者の金田一京助博士の元へ送った。やがて国立歴史民族博物館に安住の地を見いだしたのは1982(昭和57)年のことである。

◆一方、マンローはこのオリジナル映像から16mmプリントを何本か製作しており、そのうちの1本は英国に送られていた。ロンドンの王立人類学協会(Royal Anthropological Institute)に保管されており、『The Ainu Bear Ceremony』のタイトル、監督: N.G Munroとして、現在 27分のDVDで購入も可能になっている。

◆また、イオマンテの儀式は「生きたクマを殺す野蛮な行為」として1955年以来法律で禁じられていたが、2007年に「正当な理由で行われる限り」として禁止通達が撤廃された。マンローが生きていたら、さぞ喜んだことだろう。昔ながらの伝統や風習に対する評価は、その時々の時勢によって変化していくものなのだと、改めて思わずにはいられない。

 

◆◆◆ 「アイヌの聖地」への移住 ◆◆◆

 



1933年、東釧路貝塚で行われた調査の様子。ゴム長靴をはいたマンローの姿が中央に見える(写真:北海道大学提供)。
結婚こそしていないものの、アデルのいない今となっては実質的な妻である木村チヨ婦長を連れ、マンローは1931(昭和6)年、北海道へと移住する。彼はこの時すでに68歳になっていた。広い北海道にあって、日高山脈の麓にある二風谷(ニブタニ)を選んだのは、アイヌへのキリスト教布教に努めるバチェラー宣教師の勧めだったらしい。二風谷は沙流(サル)川に沿ってコタン(アイヌの集落)が点在し比較的人口が密集しており、和人(日本人)の数も少なく、昔から「アイヌの聖地」とも呼ばれていた。
マンローとチヨはこの地に永住する決意をかため、土地も購入、新居の建設に取りかかる。ロックフェラー研究助成金があるとはいえ、もう昔のように余裕のある暮らしをすることはできない。しかも満州事変が勃発し、日本は軍国主義の道を歩み始めていた。前途は多難に見えたが、それでも2人は夢と希望を持って進んだ。


1933年に完成した、二風谷の自宅の玄関前に立つマンローとチヨ夫人。2人のうれしそうな笑顔が印象的(写真:北海道大学提供)。
二風谷のアイヌたちは興味津々でマンローとチヨを迎え入れた。今まで多くの研究者たちがこの地を訪れ、自分たちを「研究」しては去って行ったが、この西洋人は何をする気なのか。
マンローは家が出来上がるまでの間にと、ある商店の倉庫を借り受けた。倉庫といっても藁葺き屋根の小さな木造建てで、それを改造し、診療所、書斎、自宅に分けた。そして時間をかけて、コタンの人々と信頼関係を築いていこうと決める。彼は横浜時代に研究がはかどらなかった時、自分が大学で正規に考古学を履修しなかったことを何度も悔やんだことがあるはずだ。しかし、この北の大地で、考古学者ではなく医者であることのメリットに改めて気づかされたのではないだろうか。
マンローはアイヌの人々に向け無料で診療を開始する。チヨが優秀な看護婦であることは大きな助けだった。バターや小麦粉、牛乳といった、マンローには欠かせないがコタンでは珍しい食材を使って料理をするのも彼女の役割で、チヨが作るビスケットは特にコタンの子供たちの間で大評判だったという。「マンロー・クッキー」と呼ばれたその菓子のために、子供たちは嫌な注射も我慢したと伝えられている。マンローは往診をこなし、農作業のアドバイスまでしていたとされ、「コタンの先生」としてアイヌの人々に受け入れられた様子がうかがえる。
しかし、マンローはここで「飲酒」という大きな障害につきあたる。当時アイヌの人々のあいだで、これは深刻な問題で、マンローは「過度の飲酒はしないように」と何度も住民たちに告げたものの、効き目はあまりなかった。
原因は日本政府による「旧土人法」にあった。同法はアイヌに狩猟と漁業を禁じていたが、元来アイヌは狩猟民族であり、農耕民族ではない。自分の土地を持つという感覚にすら乏しい彼らに、突然、種や苗を与えて、これからは農業一本で暮らすようにと命じた訳だ。それがどんなに乱暴な政策だったかは想像に難くない。家の前の川に鮭が泳いでいるのを見ながら餓死するアイヌ住民が現れた。結核も流行し、農業どころの話ではない。すっかり自信を失ったアイヌの人々が行き着いた逃避先が、アルコールだったのだ。また、アルコール依存症による労働力の低下が、さらに彼らの状況を悪化させるに至っていたのである。

 


 

◆◆◆ 2度目の研究資料喪失 ◆◆◆

 

二風谷に移り住んで間もない1932(昭和7)年12月の深夜、診療所兼自宅として使っていた商店の倉庫の薪ストーブ煙突付近から突然火の手が上がった。気づいたコタンの人々が手に手にバケツを持ち、雪の塊をすくって駆けつけたものの、藁葺き屋根の木造家屋はあっという間に火に包まれる。マンローとチヨは着の身着のまま、ガウン姿の裸足で飛び出し、やっとの思いで難を逃れた。
だが、関東大震災で多くを失った経験のあるマンローは、これまでに蓄積してきたアイヌの研究資料と蔵書を再び失うことに耐えられず、燃え盛る家の中へ戻ろうとする。皆に抱きとめられ、家に戻ることは叶わなかったが、ショックのあまり狭心症の発作を起こし、雪の上に倒れ込んでしまう。その間にも火は木造家屋を焼き、短時間のうちに全ては灰燼に帰した。

マンローの診療鞄と、横浜で仕立てられたスーツ(写真:北海道大学提供)
68歳という年齢ながらも、新たな気持ちで再出発したばかり。研究資料を再び失ってしまうとは―なぜこんな目に遭うのかと、マンローは自分の運を呪う。だが、運命の女神はその後も手加減することなく、彼を翻弄し続けるのである。
確固とした証拠がある訳ではないものの、火事の原因は放火ではないかとマンローとチヨは考えた。堀辰雄の『美しい村』の「レエノルズ博士」に関する記述が批判的であることからも推測できるように、2人は全ての人々から愛されていた訳ではなかったようだ。
特に、アイヌ相手に商売をする和人たちは、マンローがアイヌに飲酒しないよう戒めることを日頃から忌々しく思っていたという。しかも、「アイヌの世話をする西洋人」ということで、常に奇異の目で見られていた。この事件は新聞でも取り上げられたが、そこでは意外なことに、「放火」事件の原因にはジョン・バチェラーとの対立が関係しているのではないかと示唆されている。
考古学者でもある宣教師バチェラーとの対立とは、マンローが1930(昭和5)年から翌年にかけて撮影した「熊送り」の記録フィルムを北海道大学で上映したことに端を発する。バチェラーは「この様に残酷野蛮な行事の記録映画を公開するなどというのは、一民族の恥をさらすようなものである。マンローはなんと心ないやり方をしたものか」と批判した。
これに対し、マンローは「(バチェラーは)長年アイヌコタンを伝道に歩いているはずなのに、アイヌの精神面については全く理解しようとせず、一方的にキリスト教をおしつけ、沢山入信者を増やしたことを自慢するが、それは決してアイヌ民族の『心』を理解したことにはならない。アイヌにはアイヌの信仰する神がある」と烈火のごとく怒ったという。

マンローを北海道へと誘った、ジョン・バチェラー(John Batchelor、1854~1944)=写真中央=だったが、「熊送り」の記録をめぐって、マンローと対立してしまう。
新聞のゴシップ並の推測に従うならば、こうした意見の相違が高じて、バチェラーが、自分が改宗させた信者を扇動し、マンローの集めたアイヌの記録を焼失させた、ということになるだろうか。
しかし、いくら2人が対立していたといえ、アイヌを思う気持ちには変わりがないはずである。貴重なアイヌの記録を台無しにするようなことがあったとは信じ難い。とはいうものの、放火か失火かをも含め、今となっては真相は藪の中である。
さらに、この火事は和人との溝を深めるきっかけともなってしまった。マンローに倉庫を貸していた家主は、同じ敷地内にあった自分の倉庫を類焼で丸ごと失ったことが原因だった。倉庫には酒、味噌、醤油、菓子雑貨類の商品がギッシリ詰まっていて、商店を営む家主としては大損害である。だがこの火事を放火と信じるマンローは、家主に賠償金を払おうとはしなかった。この確執は醜聞となって広がり、「賠償金が払えないから放火だと触れ回って責任を逃れようとしている」と陰口を叩かれた。そして、腹の虫が収まらなかった家主のせいで、後年マンローたちは大変な苦労を強いられることになるのである。

 

脈々と受け継がれる、研究への思い
今回の前・後編の掲載にあたり、次の関係機関には多大なるご協力をいただいた。この場をお借りして厚く御礼申し上げます。また、マンローの思いがこうして受け継がれているのだと感じずにはいられなかった。

北海道大学 アイヌ・先住民研究センター www.cais.hokudai.ac.jp
◆2007年に北海道大学の共同教育研究施設として誕生。多文化が共存する社会において、とくにアイヌ・先住民に関する総合的・学際的研究に基づき、それらの互恵的共生に向けた提言を行うとともに、多様な文化の発展と地域社会の振興に寄与していくことを目的として設置された。

◆北海道大学アイヌ・先住民研究センターを中心とした研究グループによる「北方圏における人類生態史総合研究拠点」が、平成25年度日本学術振興会研究拠点形成事業「先端拠点形成型」に採択されたという。 国内の連携研究機関である東京大学総合研究博物館と琉球大学医学研究科と協力しつつ、海外の事業拠点機関であるアバディーン大学考古学部(連合王国)とアルバータ大学人類学部(カナダ)および連携機関であるオックスフォード大学東アジア考古学・芸術・文化センターと交流を重ねながら、北方圏における人類と環境との相関関係の歴史を解明するための領域横断型の研究拠点と若手研究者の育成を目指す。

沙流川歴史館 www.town.biratori.hokkaido.jp/biratori/nibutani/html/saru0N.htm
◆北海道沙流郡平取町字二風谷に設立された施設。北海道に人が住み始めたのは紀元前2万年ころの旧石器時代という。沙流川(さるがわ)流域でも、集落が形成されていた。沙流川歴史館では、そうした歴史を学ぶことができるよう、町内で出土した約一万年前からの考古資料を公開しているほか、平取町の母なる川、沙流川の今と昔に関する展示などを行っている。なお、同地域内には、平取町二風谷アイヌ文化博物館などもある。

 

◆◆◆ 「コタンの先生」が得たつかの間の幸せ ◆◆◆

 


1938年、フランスの考古学・人類学者、ルロワ・ガーデン=写真左端=を二風谷に迎えた、マンロー夫妻(写真:北海道大学提供)
マンローの災難を知った多くの人々から見舞金や品物が彼の元に送られた。日本亜細亜協会、軽井沢避暑団、外人宣教師団や英国人類学会が手を差しのべてくれたほか、セリーグマン教授はロックフェラー財団から再度研究費がおりるように取り計らってくれたという。このことは、失意の中にあったマンローとチヨを大きく勇気づけたに違いない。
ほどなく、建設中だった診療所兼自宅も出来上がった。外から見ると2階建て、中は3階建てという立派なもので、書斎は火には絶対強い石造り。出窓が多くどことなくスコットランドを彷彿とさせるデザインには、マンローの好みが反映されているという。のちに北海道大学付属北方文化研究所分室となる建物の完成である。
無料で診療を受けられて薬ももらえ、子供には手作りのおいしいお菓子やパンまで配られるとあって、子供たちの手にひかれるようにしてコタンの大人たちも診療所を訪れ始めた。やがて治療を受けにくるだけではなく、仕事が暇になると他愛のないおしゃべりに集まるようになり、二風谷のマンロー邸は、コタンの人々のサロンとでも呼べる場所となった。
男たちは熊や鹿を射止めた際の昔の手柄話に花を咲かせ、時にはヤイシヤマ(情歌)を歌って聞かせたり、マンローやチヨも巻き込んで一緒にウポポ(伝統的なダンス)を踊ったりした。
また、2人はアイヌの伝統的な結婚式や葬式にも招待され、その貴重な風習を自ら体験する機会を得た。長老たちの信頼も得たマンローは、彼らの先祖伝来の様々なしきたりや儀式、病気にかかった時の「まじない」、薬草の使い方、狩りのための毒矢の扱い、鮭漁の方法など、様々なことを教えてもらい、それら全てを丹念にノートに書き写した。第二次世界大戦終結後、マンローの遺稿集として出版された『Ainu Creed and Cult』は、こうした聞き書きが編集されたものだが、本にまとめられたのはマンローの書き残したものの十何分の一に過ぎず、日の目をみないままの重要記録がいまだに眠っているという。
このように自分を信頼してくれる優しいコタンの人々が、なぜ貧しく気の毒な暮らしに追いやられ、和人たちから蔑まれなければいけないのか、マンローは憤った。人々が自らの歴史と誇りに目覚め、結核をはじめとする様々な病気を追い出し、健康で元気に働けるコタンを築くにはどうしたらいいのか。マンローはあれこれ考えをめぐらせる。稲作が難しいなら果樹栽培はどうか。リンゴ、梨、イチゴ、葡萄の苗を軽井沢や新潟から取り寄せ、実際に自分たちの庭で何年も試した。土壌や肥料の研究まで手がけたという。
そればかりか、将来は乳牛や羊の飼育をコタンに広げたらどうかともマンローは考えた。ワイン造りや、牧畜による酪農経営。もしも野菜や酪農が根付いたら、今度は沙流川の水を引き入れて一大スケートリンクを作り都会人を誘致してもいい。新鮮な食材を供給する大きなサナトリウムを作るのもいいかもしれない――。マンローの夢は広がった。

 

今も北海道の四季をみつめる 旧マンロー邸


1940年頃のマンロー邸。同邸の前に立つ、マンローの姿が認められる(写真:北海道大学提供)。右上の写真は、現在のマンロー邸(写真:沙流川歴史館提供)
◆1933年に完成した、木造3階建のマンロー邸。現在は北海道大学所有で「北海道大学文学部二風谷研究室」と呼ばれている。登録有形文化財(建造物)。

◆「マンサード」というスタイルの屋根、妻面屋根裏部の出窓などが特徴の洋館で、白い外観がまわりの景観に映える。

◆住所は、北海道沙流郡平取町字二風谷54-1。


 

 


 

◆◆◆ ワタシハ、ニホンジンダ! ◆◆◆

 

不安定な精神状態に陥り、その治療のためにウィーンへと旅立った妻のアデルからは、年に数回便りがあった。だがマンローはどうにかして正式に離婚出来ないか、そればかり考えていたようだ。老齢を迎えた彼は、自分の死後、チヨに財産が残せるようにと心配したのだった。なんとか協議離婚という体裁を整えたマンローが、晴れて木村チヨと結婚したのは1937(昭和12)年6月30日のことだった。マンローは74歳。チヨとの生活もすでに13年が経過していた。

マンローが愛用した籐椅子と机
(写真:北海道大学提供)
チヨに残せる財産と言えば、助成金の半分を使って建てた診療所兼自宅、蔵書、自著からの印税などであろうが、一方で、ロックフェラーの研究助成金は、この結婚がなった1937年で終了することになっており、マンローはじりじりと生活経済の不安を感じるようになっていた。
マンローは、大事な自宅を売り払って札幌に引越し、借家住まいをしながら、コタンの人々からの聞き書きをまとめて出版することも選択肢に含めていた。考えが錯綜しているようにも思えるが、今までの研究成果を全部発表するには、5冊の著作を著すことになる計算だった。マンローにそれ程多くの時間が残されているだろうか。しかも金銭の余裕もない。マンローは焦っていた。


4度結婚したマンローには3人の子供があった(最初の子は幼少時に逝去)。マンローは、2番目の妻、高畠トクとの間に生まれたアヤメ(アイリス)=写真= を、ことのほかかわいがったが、1933年、アヤメは留学先のフランス・リヨンにて、28歳の若さで病死した(写真:北海道大学提供)。
ちょうどその頃、奇妙な噂が相次いで流れ始めた。マンローが「無資格で診療している」「アイヌを使って北海道の地図を作成している英国のスパイらしい」というような根も葉もない悪意あるものだった。
「無資格」に関しては、無料診療を行うマンローのもとに患者が流れてしまうことを恐れる近隣の和人の医者が流したもので、「英国のスパイ」に関する度重なる様々なデマは、火事で仲のこじれた、かつての家主によるものだった。
当時の日本は国家総動員法が発令されたばかり。これは国を挙げて国民の一人一人を戦争に駆り立てるための様々な規制を含んだ法律で、物資欠乏に備えることに加え、言論や思想に関する規制が日本中を包み始めた。「贅沢は敵だ」「外人見たらスパイと思え」といった標語も大々的に宣伝され、防諜の名のもとに密告制度がはやり始めた。
北海道とて例外ではなく、マンローの外国への定期郵便物も検閲を受けており、検閲どころか没収されたものもあったようだ。この状況は、マンローを打ちのめした。実際どこへ行くにも監視付きで、秘かに尾行されていたという。しかも二風谷のコタンでこそ尊敬を集めていたものの、一歩その外へでれば「ガイジン、スパイ」とはやし立てられ、石を投げられることもあった。ある時、軽井沢からの帰りに、マンローとチヨは憲兵に列車から引きずり下ろされ、殴る蹴るの暴行を受ける。マンローは下手な日本語を使うことを嫌い、普段英語で通して暮らしていたが、この時「ワタシハ、ニホンジンダ! とっくの昔に帰化して日本人! 国籍日本人!」と日本語で叫んだという。チヨが、「マンローは秩父宮さまのテニスのお相手をおつとめ申しあげたこともある、軽井沢の病院長です」と訴え、これを憲兵が東京へ連絡。事実が確かめられたことで、ようやく2人は釈放されたという。
当時このような目にあっていた外国人はマンローだけではなかった。幕末に来日、貿易商として活躍した長崎のグラバー氏の長男、富三郎氏は、官憲の圧迫などに堪えかねて自殺している。また、函館にある食料品店「カール・レイモン」に商品注文のため連絡したマンローは、店主がユダヤ系のために迫害され、他社に強制買収されたことを知る。1938(昭和13)年6月に日独伊防共協定が締結されて以来、遠い東洋の地にもヒトラーのユダヤ排斥政策の波がおしよせてきていたのである。

 


 

◆◆◆ コタンの人々に見守られて ◆◆◆

 



二風谷の自邸内で、書棚の前に立つマンロー(写真:北海道大学提供)
大柄で丈夫そうに見えていたものの、さすがにマンローの体にも衰えが目立ち始めていた。
コタンでの無料診療を続けるために、マンロー夫妻は毎年3ヵ月間だけ軽井沢を訪れ、裕福な患者の治療を続けることで1年分の生活費を稼いでいた。日中戦争が始まり、戦時態勢に入っていた日本で、列車で移動するだけでも大変だったことだろう。
1940(昭和15)年の夏は特に多忙で、友人に向けた手紙には「月50枚以上のレントゲン撮影、診療時間外の往診、今日も寝る前には虫垂炎の破裂で上海から担ぎ込まれた3歳の子の手当。78歳の男には限界です」とある。
翌年になると血尿が認められるようになり、マンローは腰の部分のしこりにも気が付いた。医師だけに、マンローはそれが何であるかすぐ分かったようだ。5月半ばに札幌にある北大の医学部で診察を受けると、果たして予想通り腎臓と前立腺の癌で、手術適期はすでに過ぎていた。
この検査結果が出た翌朝、マンローは市内に住む日本人の友に連絡をとった。その友人はマンローに「クロビール、ノミタイネ」と誘われたという。もう普通の店から黒ビールが姿を消して久しかったが、2人は遠くまで車を走らせ何とかビールの杯を傾けることができた。マンローはこの時自分の半生を振り返り、「研究に熱中するあまり妻子に冷たすぎた」と涙ぐんだという。

二風谷に眠る、マンロー夫妻の墓=右写真は改装前。下の写真は現在の墓碑
(写真:沙流川歴史館提供)
この頃、かつてマンローの論争相手だった宣教師バチェラーは同じく札幌で、帰国に向けての準備を急いでいた。彼は11月に65年間暮らした日本を離れ、カナダ経由で英国へ帰国する。12月8日の太平洋戦争開戦を前に、まさに間一髪のタイミングであった。
多くの日本在住欧米人がこの時期に先を争って祖国へ戻り、軽井沢の住民も櫛の歯が欠けるように減ってきた。マンローも英国へ戻るようアドバイスを受けたが、日本に帰化したうえ末期ガンも抱えているマンローにそれはできない相談だった。また、そのつもりもなかった。マンローは自分の体が動かなくなる最後の時まで、アイヌの人々の世話をすると決意していたのである。
マンローはチヨに向かって言った。 「私が死んだら、アイヌの皆と同じように葬って欲しい。泣くんじゃないよ、皆、土に帰るだけのこと。アイヌに文字はなかった。土饅頭に名前はいらないよ」
解け切らない雪が残る1942(昭和17)年4月11日、二風谷の自宅でマンローは息をひきとった。享年78。カムイ(神)に祈る大勢のコタンの人々と、チヨに見守られての穏やかな最期だったという。
もしマンローが10年早く来日していたら、明治政府のお雇い外国人として、優遇されていたかもしれず、逆に10年遅く来日していたら、戦後にアイヌ研究を華々しく発表できたかもしれない。「もしも」と言っても仕方のないことだが、彼の集めた大事なコレクションや映像、原稿が戦中戦後の混乱の中、散り散りになってしまったことを知るにつけ、マンローに与えられた運命の厳しさに胸を痛めずにはいられない。幸い、分散し、行方の分からなくなっていたマンローのコレクションは、近年になって少しずつコタンの地に戻されつつあるといい、それに従い、彼の業績にも改めて光が当たり始めた。マンローが、激動の時代に身体を張ってアイヌの人々を助け、多くの記録を残したことは、これからも確かに語り継がれねばならないであろう。

救世主か、破壊者か―。鉄の女 マーガレット・サッチャー《前編》 [Margaret Thatcher]

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2013年8月29日

●Great Britons ●取材・執筆/本誌編集部

 

救世主か、破壊者か―。
鉄の女 マーガレット・サッチャー
《前編》


大学卒業後の1950年頃、化学関連の会社で研 究員として働いていたマーガレット。© AP Photo

『鉄の女』と呼ばれた英元首相マーガレット・サッチャーが、今年の4月この世を去った。
テレビや新聞の追悼特集に触れ、政治家としてのその偉大さを改めて知らされた人も多いだろう。
一方で、彼女を忌み嫌う人々の姿に言葉を失った人もいるのではないだろうか。
英国初の女性首相として、沈没寸前だった英国を確固たる信念で救った彼女の生涯を、
今回と次回の2週に分けてたどることにしたい。

 

【参考文献】『サッチャー 私の半生 上・下』マーガレット・サッチャー著、石塚雅彦訳、日本経済新聞社刊/『サッチャリズム 世直しの経済学』三橋規宏著、 中央公論社刊/ 『Margaret Thatcher 1925-2013』The Daily Telegraph/『The Downing Street Years』Margaret Thatcher 他

 

英国の世論を分断

 

 2013年4月8日、ロンドン中心部のザ・リッツ。英国の数ある高級ホテルの中でも豪奢なことで知られるホテルだ。時計は午前11時を打っていた。第71代英国首相マーガレット・サッチャー(Margaret Thatcher)は、お気に入りのスイート・ルームで、ベッドにゆったりと腰を掛けていた。
1979年から1990年までの間、英国首相を務め、2002年より政治の表舞台から姿を消していたマーガレットは、度重なる脳卒中と認知症とに悩まされてきた。昨年末には膀胱にできた腫瘍を摘出する手術を受け、比較的簡単な手術は無事に成功したが、術後は自宅ではなく同ホテルに滞在していた。病身の彼女にとって、ロンドン・ベルグレイヴィアにある4階建ての家よりも、このスイート・ルームで暮らす方が好都合だったからだ。
10年前に夫デニス・サッチャー(Denis Thatcher)に先立たれ、双子の子供は海外に居住していたことから家族は近くにおらず、2人の介護者が交代で、24時間体制で付き添って過ごしていた。
健康状態が安定しないため訪問者は制限されていたが、首相就任10年の記念に贈られた銀食器や、彼女が11年半を過ごした首相官邸で撮影された写真が誇らしく飾られていたこの部屋には、友人らが訪れ、政治談議に花を咲かせた。時には得意の辛辣な冗談で訪問者を笑わせることもあった。過去の記憶があいまいではあったが、それでも彼女の目は未来に向けられていた。「私の父はよく口にしたわ。大切なのは過去に何を行ったかではなく、これから何を行うかということ」。
この日もいつものように静かに座り、読書にふけっていた。幼い頃から書物に触れては、そこに広がる未知なる領域に時が経つのを忘れて没頭し、多くを学んできた。文字を追いながら、様々に思いを巡らせていたに違いない。
ところが午前11時半をまわろうとしていたとき、マーガレットは脳卒中に見舞われ、不意に思考はさえぎられた。
「ミセス・サッチャー、ミセス・サッチャー」
「早く、お医者様を!!」
異変に気づいた友人らによってすぐに医師が呼ばれたものの、今回の発作は一瞬にして彼女を連れ去って行った。
英国を率いた元首相の訃報はその日のうちに各メディアによって伝えられた。デイヴィッド・キャメロン首相は、訪問先のスペイン・マドリッドから急遽帰国。「国を救った偉大な指導者」と讃え、その死を悼んだ。翌日には、17日にセント・ポール大聖堂で国葬級の葬儀を執り行うことが発表された。
葬儀には、エリザベス女王をはじめ、各国の政治家などおよそ2000人が参列。パレードが行われた通りには、沈痛な面持ちの市民が幾重にも重なるように列をなし、瀕死の状態にあった英国を救おうと闘い抜いたひとりの女性政治家への最後の別れを行った。
他方、英国各所では一部の市民らが高揚していた。「弱者を切り捨てた魔女が死んだ!」というシュプレヒコールをあげ、口が張り裂けた魔女を模した似顔絵が描かれたプラカードを掲げる老若男女、まるで凶悪犯の死を喜ぶかのように祝杯をあげる人々。
死を祝う歌として、映画『オズの魔法使い』の挿入歌『鐘を鳴らせ! 悪い魔女は死んだ(Ding Dong! The witch is dead)』が英国の音楽配信チャートで上位に踊りだした。税金を使って葬儀を挙げることに抗議の声が続出し、国民1人当たりの負担額はいくらになるかといった内容の記事が、新聞を賑わした。
「サッチャーは英国の救世主か、それとも破壊者か」
死してなおも世論を大きく分断するマーガレットが英国に何をもたらし、何を奪ったのか。そして彼女の心に残ったものとは。闘いの連続だったその生涯を振り返ってみたい。

 


 

小さな町の食料雑貨店の娘

 

 部屋に差し込む木漏れ日がやさしく揺れていた。下の階からは絶え間なく話し声が聞こえてくる。「今日はイチゴがおいしそうね。ひと山もらっていこうかしら。それから卵もお願い」。
この店の店主を務めるアルフレッド・ロバーツ(Alfred Roberts)の子供時代の夢は、教師になることだった。ところが家族には、彼に学業を続けさせるだけの経済的なゆとりがなく、13歳で学校を中退。家計を支えるためにパブリック・スクールの菓子売店で働くことになった。残念なことだったがそれは嘆いても仕方のないこと。夢をあきらめ、食品業界内で何度か転職した後、婦人服の仕立ての仕事に就いていたビアトリス・スティーブンソン(Beatrice Stephenson)と出会い、25歳で結婚。ふたりは借金をして、ロンドンから北へ160キロほど離れたイングランド東部リンカンシャーの田舎町グランサムに、小さな食料雑貨店を開いた。
マーガレット・ロバーツ(のちのマーガレット・サッチャー)は、この一家の次女として生まれた。今から88年前の1925年10月13日のことである。家族は交通量の多い十字路に面したこの店の2階に居を構えていた。家族や従業員がせわしく動き回る音、棚の埃をはたくリズム、買い物に訪れた人々のおしゃべりなど、物静かな赤ん坊だったマーガレットの耳に心地よく響いていたに違いない。
2年前に一家は2号店をオープンさせており、両親はいつも忙しく立ち働いていた。物心がつくころにはマーガレットも店に出て、商品を並べる手伝いをするようになる。真面目で仕事熱心な父の店が平凡な店ではないことは、幼いなりにもよくわかった。ピカピカに磨かれた陳列棚。果物やスパイスのフレッシュな香り。店は、最高の商品を提供しようとする父のこだわりと、丁寧なサービスで満たされていた。
地元の人々は、一家が店の2階に住んでいることを知っており、営業時間外でも、食材を切らした人がドアをノックすることもたびたびあった。一家の生活は常に商売とともにあったが、かといって、マーガレットが家族の仕事のために犠牲を強いられたかというと、そうではない。一家のために働くことは当然のことであったし、それについて家族の誰も愚痴をこぼさなかった。

 



「グランサム(Grantham)にあるマーガレットの生家=写真右。1階に父が経営する食料雑貨店、2階には住居があった。
外壁には生家であることを示すプレートが掲げられている=同上。© Thorvaldsson

 

大切なことは父から教わった

 

 両親ともに宗教心が強かった一家の生活は、キリスト教の教派のひとつ、メソジスト主義に従って営まれた。メソジスト(Methodist)とは、時間や規律を守って規則正しい生活方法(メソッドMethod)を重んじる教派だ。
日曜は朝から姉ミュリエルとともに日曜学校に参加し、その後、午前11時に一家そろって礼拝へ。午後になると子供たちはまた日曜学校に戻り、両親は日曜夕拝にも参加していた。
両親が実践する真面目な規則や、日曜日に家族で教会へ行かなければならない生活は、育ち盛りの普通の子供には退屈で、抵抗しようと試みたこともある。
あるとき、友達がダンスを始めたのをきっかけに、自分もダンスを習いたいと、父に話したマーガレット。すると父はこう答えた。
「友達がダンスをしているからお前も習うというのかい? よく聞きなさい。誰かがやっているからという理由で、自分も同じことをするのは間違っている。自分の意思で決めることが大切だよ」
友達と一緒にどこかへ出かけたいとき、映画を見に行きたいとき、父は教訓のように「他の人がやるからというだけの理由で、何かをやってはいけない」と口にした。それが本当に大切なことだと気づくまでにしばらく時間がかかったが、マーガレットの中には、厳格な父の教えがひとつひとつ植えつけられていった。

 

他の人がやるから
というだけの理由で、
何かをやってはいけない

 

政治への扉

 

 真面目で働き者、地元の人から厚い信頼を寄せられていた父は、町一番の読書家としても知られていた。子供の頃に進学することは叶わなかったが、歴史、政治さらに経済などの本を読み、独学で知識や考え方を身につけていた。一家が自営業であったおかげで、父と多くの時間を共有できたこともあり、勤勉な姿勢はマーガレットに受け継がれていく。図書館へ行き、自分と父が読む本を抱えきれないほどに借りてくることもしばしばあった。
10代前半には毎日のように「デイリー・テレグラフ」紙を読み、ときには「タイムズ」紙にも目を通した。1930年代に英国を襲った大恐慌は、グランサムの町には比較的軽い影響を与えただけで済んだものの、マーガレットに社会で起こっている出来事に関心を抱かせるのには十分すぎることであった。
第二次世界大戦が始まった1939年には14歳。戦争の背景も理解できるようになっていた。一家で囲む食卓は、戦争や政治について、父に質問を投げかける絶好の場所。父と重ねる議論に際限はなく、またどんな質問にも回答を導き出そうとしてくれる父との濃厚な時間が、マーガレットの心を政治の世界へと向かわせるのはそう難しいことではなかった。
また同じ頃、父が買ってきたラジオから流れてくる、当時の首相ウィンストン・チャーチルの演説に触れたことも印象深い思い出だ。聴き入るうちに、「英国国民にできないことはほとんどないのだ」という母国への誇りが心の中に生まれたのをよく覚えている。とはいっても、まさか自分がチャーチルと同じように国を率いる立場になろうとは夢にも思っておらず、政治家としての将来を意識するのはもう少し先の話である。

 


第二次世界大戦の英雄と言われる当時の首相ウィンストン・チャーチル。
マーガレットは、「国をなんとしても守り抜く」というゆるぎないリーダーシップに触れ、
母国への誇りを抱いていった。

 


 

本当にやりたいこと

 

 1943年10月、18歳を迎えようとしていた頃、オックスフォード大学のサマビル・カレッジに入学した。専攻したのは化学。この分野の資格を取ることで、将来、安定した生活が保証されると考えたからだ。
しかし入学後すぐ、学業の傍ら大学の保守党協会に入会したことにより、マーガレットは鉄が磁石に引き寄せられるかのように政治の世界へ引き込まれていく。
協会活動を通して、同じように政治に関心を抱く人々との出会いが始まった。ダイナミックに広がる交友関係は、小さな町で育った若者には刺激的で、すべてが輝いていた。雄弁術を学んでは仲間と昨今の政治問題について意見交換し、議論を重ねる。ときには選挙集会などの前座として演説を行った。聴衆からの批判的な質問に対し、その場で自分の中から答えを手繰り寄せ、意見を述べていく。そうしたやり取りの躍動感を味わうことは貴重な経験だった。
その頃、地元グランサムで尊敬する父に起きていた変化は、マーガレットにとっては運命としか言いようがない。「人々がより働きやすい世の中にしたい」という信念を胸に市会議員として政治に携わっていた父が、グランサム市長に選ばれたのだ。幼い頃に学業の道を閉ざされ、努力と勤勉の末にその座に就いた父と連れ立って、地方議会や裁判所などを訪れるうちに、政治への関心は異常なほどの高まりを見せる。学生生活最後の年には保守党協会の代表を務めるまでになっていた。
そして政治家としての人生を明確に意識させた瞬間がついに訪れた。
大学卒業を目前に控えたある日のことだ。ダンス・パーティーに訪れたマーガレット。終了後、泊まっていた家のキッチンで宿泊客らが集まって話をしているのを見て、自分もその輪に加わり、政治の話を始めた。
国のあり方や政策について、堂々とあふれんばかりの情熱で語るマーガレットの様子を目の当たりにした男の子がこう質問した。
「君が本当に望んでいるのは、国会議員になることだろう。そうじゃないのかい?」
するとマーガレットは無意識のうちに「そうよ、それが私の本当にやりたいことなの」と答えていたのだ。
これまで彼女自身が政治家になることを意識しなかったのは意外なことかもしれない。しかしこのとき、胸のうちに秘められ、ぼんやりとくすぶっていた野心を、手に取るようにはっきりと、そして初めて意識したのだった。

 

国会議員の候補者に

 

 1947年に化学の学位を修め、大学を卒業すると、イングランド東部エセックスにある化学関連の会社に就職。一方で政治家への道を模索するという日々が始まった。女性政治家の存在は珍しく、かつ取り立てて有力なコネクションがあるわけでもないマーガレットにとって、政治家になるという目標は、はるか遠い夢のように思われることもあった。そんなときは、いつも独学で市長になった父の姿を思い浮かべた。
2年が経とうとしていた頃、選挙への出馬の足がかりを手探りで求めていたマーガレットのもとに幸運が訪れる。大学時代からの友人の紹介で、イングランド南東部ケントのダートフォード選挙区から出馬できるチャンスを手にし、候補者に決定したのだ。24歳だったマーガレットは、最年少の女性立候補者ということで、国内外で大きな話題を呼んだ。1950年と51年の2度、同地区で選挙を戦ったが、結果はどちらも落選。しかし選挙期間中、運命の出会いが訪れた。

 


1950年と51年にダートフォード選挙区より出馬。選挙活動を行うマーガレット。
初の選挙活動は想像以上に彼女を疲労困憊させるものだった。© PA

 

人生最高の決断

 

 1949年2月、選挙集会後に開催された晩餐会でのこと。保守党支部の有力者に囲まれ、政治家の卵としてまだまだ未熟なマーガレットに熱い視線を送る人物がいた。10歳年上のビジネスマン、デニス・サッチャーだ。
デニスは政治に強い関心があったばかりか、家業は塗装・化学関連の会社。化学を専攻していたマーガレットとの共通の話題は豊富だった。ロマンチックなトピックとは言えないが、選挙区の集まりでときどき顔を合わせ、意見をかわすうちに、ふたりだけで会う機会も増えた。ソーホーにある小さなイタリアン・レストランや、ジャーミン・ストリートの「L'Ecu de France」など、お気に入りのレストランに出かけ、デートを重ねていく中で、デニスの知的さ、気さくでユーモアにあふれた性格は、マーガレットの心を徐々に捉えていく。そして、デニスがプロポーズをするに至ったことは、自然の流れだった。
「僕の妻になってくれないだろうか」
ところが、マーガレットの関心事は、一にも二にも政治。彼女の人生設計の中で、結婚というものはあまりピンとくるものではない。
「私は政治家になりたい。だから普通の奥さんのようになれない…」
「もちろんわかっているよ。そんな君だからこそ一緒にいたいんだ」
全力で選挙活動をサポートしてくれた彼の、自分を想うまっすぐな気持ち。答えを出すのに長い時間を必要とした。しかし考えれば考えるほどに答えはひとつしかないことが明確になっていく。マーガレット・ロバーツは、マーガレット・サッチャーとしてデニスとともに新たな人生を歩むことを決意。これは、彼女が人生において下した数々の決断のなかでも、最高のものとなる。
ふたりの間には子供が誕生した。しかも男女の双子。母親としての仕事で多忙を極めるが、父親譲りで向上心の強いマーガレットの学習意欲はとどまることを知らなかった。家事・育児の空いた時間を利用して、政治家として必要な素養のひとつ、『法律』の勉強に励むことを決めた。そして法廷弁護士(バリスター)資格を見事取得してのけたのだった。この時期に身につけた法的な物事の考え方、知識が、政治家としての大きな財産となったことは言うまでもない。

 


1951年12月にロンドン西部にあるウェスリーズ・チャペルで結婚式を挙げた。
マーガレット26歳、デニス36歳。© PA

 


政治への断ちがたい思い

 

 マーガレットが出産、育児、弁護士資格取得に励んだ1950年代は女性の地位に変化が訪れた時期だった。1952年には、エリザベス2世が即位し、新女王時代の幕開けとともに女性の活躍に広く関心が寄せられるようになっていく。マーガレットは選挙で破れはしていたものの、新聞に取り上げられることもあった。
政治の世界に戻りたいというマーガレットの気持ちは日に日に高まり、再び出馬を目指し、選挙区を探して奔走するのだった。
「2人の子供を抱えながら議員としての職務を果たせるのか?」
立候補者選考委員からの懐疑的な目が、マーガレットに降り注いだ。彼女自身もそういった質問は、候補者に向けられるべきふさわしいものだと理解していた。ただ、一部の批判のかげには、女性は政界に足を踏み入れるべきではないといった女性軽視の考え方があったことは、マーガレットを落胆させた。
しかし差別的な考えはくじけるに値しない。マーガレットには「私には政治に寄与できる何かがある」という自負があった。行うべきは、子を持つ母でも政治家としての職務をまっとうするのがいかに可能であるかを主張し、説得を重ねること。マーガレットには最強の味方がすぐ側にいたことも幸いした。夫デニスも妻の可能性を確信していたのだ。
こうして1959年、ロンドン北部のフィンチリー選挙区から出馬。3度目にして初の当選を果たし、ようやく政治家としての一歩を踏み出す。34歳のときのことだ。

 

政治家は誰でも
苦しい経験を
覚悟しなければならない。
それでつぶれてしまう
政治家もいるが、
かえって強くなる者もいる

 

ミルク泥棒

 

 昨年公開された映画『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』をご覧になられた方も多いだろう。メリル・ストリープ扮するマーガレット・サッチャーが牛乳を買いに行くシーンでストーリーは始まる。老いた彼女が、牛乳の価格が上がったことに不満を漏らすのだ。それは、マーガレットが地に足のついた主婦としての経済観念を胸に政策に取り組んだことを象徴しているが、一方で彼女の行った政策に対する皮肉のようでもある。
それは、のちに「サッチャーはミルク・スナッチャー(snatcher=泥棒)」と語呂のいい文句で揶揄される原因となった政策である。
1970年6月に行われた選挙で、保守党が労働党から政権を奪うと、エドワード・ヒース内閣のもと、マーガレットは教育相に任命されていた。議員生活11年目の大抜擢だ。教育費の削減を期待される一方で、現場からは教育の充実、強化を求められていた。
財務省が示した教育分野の経費削減案は、図書館利用、給食、牛乳配布の有料化など。幼い頃から図書館を訪れては本に親しみ、多くを学んできた自身の経験から、本を無料で貸し出すのは教育面できわめて重要なこと。図書館の有料化はどうにかして避けたい事項だった。
かたや、戦後に開始された児童への牛乳無料配布については検討の余地があるように感じられた。「個人が節約し、努力すれば、無駄は減らせる」。これは幼いときから受けてきた父の教えであり、今となってはマーガレットの信念でもある。かといって、すべてやめてしまっては、反発も多いだろうと考えた彼女は、無料配布を6歳以下に限定し、給食費を値上げする案を打ち出す。もちろん、健康上の理由から牛乳を必要としている児童であれば、7歳以上でも無料で受け取ることができるという条件も設けていた。
しかしマーガレットが国民に求めた『個人の節約』という理想が人々に受け入れられるのは、想像以上に困難だったようだ。「ミルク・スナッチャー」さらには「児童虐待」と非難を浴びることとなる。自らが愛するふたりの子供を育てる母親としての顔を持つ一方で、世間が描きだしたイメージは「子供たちの健康をないがしろにする非情な女性」。そんな心ない言葉に傷つかぬ母親がどこにいるだろか。マーガレットは深い悲しみにくれた。
教育相に就任してからの半年は、厳しい期間だった。自らが描く理想の社会と、やるべきことは断固やりぬくという彼女自身のスタイルを持っていたものの、日ごとに増すマスコミからの批判と、野党労働党からの執拗な攻撃に、マーガレットは憔悴していた。
弱った妻の様子に「そんなにつらいなら、辞めてもいいんだよ」とやさしく声をかけるデニス。夫の存在を支えに、「私にはまだ多くのやらなければならないことがある」と自分を奮い立たせたのだった。
「政治家は誰でも苦しい経験を覚悟しなければならない。それでつぶれてしまう政治家もいるが、かえって強くなる者もいる」。そう自分に言い聞かせ、信念をより強固なものにし、毅然とした態度で挑んでいった。そしてその言葉通り、攻撃や障害に遭うたびに、政治家としてひと回り、またひと回りとたくましく成長するのだった。

 


1959年に初当選を果たしたころのマーガレット。
1953年8月に生まれていた双子のマーク(右)、キャロル(左)は当時6歳。© PA

 


 

保守党のニューリーダー『鉄の女』誕生

 

 1973年10月に勃発した第四次中東戦争は、教育相だったマーガレットを思わぬ方向へと導いていく。
アラブ産油国による石油輸出の制限、価格の引き上げにより、世界中が石油危機に陥っていた。英国も例には漏れていない。物価が激しく上昇し、賃上げを求めたストライキが頻発する中で、保守党ヒース政権は力を失い、ついには労働党に政権を奪われる結果となった。当然、党首エドワード・ヒースのリーダーシップに対する不信感が党内に強まっていった。
そこで一部の議員の間で白羽の矢が立ったのが、まもなく議員生活15年を迎えようとしていたある女性だった。教育相という立場で自らの信念を貫く姿が党内で注目を集めていたマーガレットその人である。
とはいえマーガレットには戸惑いがあった。外相や内相などの重要ポストに就いたことのない自分にはまだ経験が足りないと認識していたからだ。最終的に出馬を決めて、デニスに伝えたときも、彼は「正気とは思えない。勝てる望みはないんだよ」と言ったほどである。保守党は野党に下ってはいたものの、2大政党のひとつであり、党首はいずれ首相になる可能性もある。容易でないのは百も承知だ。しかしそれでもなお、マーガレットの心を突き動かし、党首選挑戦の考えを固めさせたのは、保守党の将来はおろか、国の将来をヒースにはゆだねられないという、妥協できない救国の意志だった。
マーガレットの党首選への出馬宣言は、男社会である政界で、一部の人からは「まさかあの女が」と嘲笑を買った。マーガレットは「皆さん、そろそろ私のことをまじめに考え始めてもいいのではないですか」と皮肉を込めていったこともある。これがどのくらい効き目があったのかは不明だが、頑として自分の信念を貫くマーガレットの出馬は、次第に現実味を帯びていき、真剣に受け止められるようになっていった。
1975年2月、ヒース優勢が伝えられる中の投票日。予想を覆し、マーガレットがヒースを上回る票を獲得。しかし、その差は必要数に届かず、2度目の投票が行われることになった。ヒースは出馬を断念。新たに4人が名乗りをあげたが、圧倒的な差をつけて選ばれたのは、マーガレット・サッチャーだった。こうして党の運命が託されたのである。
マーガレットは西側の資本主義陣営と敵対していた旧ソ連との交友関係を深めようとしていた、労働党政権を痛烈に批判。彼女の勢いは旧ソ連にまで伝わり、現地メディアはお返しと言わんばかりにマーガレットを非難。新聞には『鉄の女』の見出しが躍った。
ミルク騒動を経験し、メディアからさんざん悪口をたたかれてきた鉄の女にとっては、痛くも痒くもない。それどころか、その響きが、ちょっとやそっとではへこたれない人間であるという印象を世間に与えたことは、むしろ喜ばしく、すっかり気に入ってしまった。そして自分のスピーチでも『鉄の女』を引用。そのふてぶてしさは、党内の同僚たちにとって頼もしい存在に映った。

 

 

首相になるのは私 秘密の卵ダイエット
  首相に就任する数週間前、マーガレット・サッチャーは、選挙とは別の闘いにも挑んでいた。それは2週間短期集中『卵ダイエット』。マーガレット・サッチャー財団が公開した資料により明らかになっているこのダイエット法は、卵、コーヒー、グレープフルーツを中心にした、食事コントロール・ダイエット。1週間で食べる卵の数はなんと28個。日本で10年ほど前に流行した『国立病院ダイエット』に似ており、体験済みの人もいるかもしれない。
注目される機会が増えることを念頭に実践したとされるが、自分が首相に選任されることへの強い自信もうかがえる。ダイエットのかいあって見事9キロの減量に成功。総選挙でも保守党を勝利に導き、すっきり晴れやかに官邸前で報道陣のフラッシュを嵐のごとく浴びることになった。

●1日のメニュー例
[朝食]グレープフルーツ、卵1~2個、ブラック・コーヒーまたはティー
[昼食]卵2個、グレープフルーツ
[夕食]卵2個、サラダ、トースト、グレープフルーツ、ブラック・コーヒー

 

 


 

内閣不信任案

 

 野党党首として過ごした4年間は、政権運営について熟考するよい期間となった。
当時の英国は、「英国病」「ヨーロッパの病人」と呼ばれるほどに衰退していた。戦後に始まった「ゆりかごから墓場まで」をうたう手厚い福祉政策により、人々の労働意欲は失われ、国に依存する体質は国民にしみついていた。1978年末から79年初めにかけて発生した、「不満の冬(Winter of Discontent)」と呼ばれる大規模ストにより、道路や下水道掃除などの公共サービスは機能せず、町には未回収のゴミが山積。あたりに異臭が立ちこめることもあった。
ストを行っていた各種労働組合は国民の権利をたてに力を増し、労働組合の支持で政権を握ったはずの労働党は、組合の存在により政権存続の危機を迎えようとしていた。もはや政府がコントロールできる域を越えている。このままでは国が立ち直れなくなる。マーガレットは内閣不信任案を突きつけ、1979年5月に総選挙が行われることが決まった。
マーガレットの選挙活動は、労働党ともこれまでの保守党とも違い、人々には新鮮だった。穏かな口調で、できるだけ難しい専門用語は使わず明快に。それでいて攻撃的かつ急進的に英国のあるべき姿を、そして自分の信念を繰り返し国民に訴えかけた。いつしか「信念の政治家」と呼ばれるようになっていた。
そうして人々が選んだのは、マーガレット・サッチャー率いる保守党。時代の流れを追い風に、英国初の女性首相がここに誕生したのである。
1979年5月4日。まもなく午後3時になろうとするころ、新首相はブルーの上品なスーツに身を包み、夫とともにバッキンガム宮殿へと赴き、エリザベス女王に謁見。その後、公用車に乗り込み、向かった先はダウンニング街10番地として知られる首相官邸だ。駆けつけた市民らの声援が響き、官邸前は熱気に包まれていた。女性首相として初めて10番地の住人になるマーガレットは、玄関前で右手を高く突き上げ、軽やかに振りながら、自信に満ちあふれた笑みで人々の視線に応えた。私なら必ず英国に栄光をもたらすことができる。沸き立つような興奮と、英国の未来を預かる者としての責任を強く意識したのだった。そしていよいよ今日から、英国を立て直す、本当の戦いが始まる――。(後編に続く)

 


1979年5月4日、初の女性首相として首相官邸に到着したマーガレット・サッチャー。© PA News

 

下院で起きた爆破事件


© PA News
 マーガレットが首相職へ向けて秒読み段階に入っていたとき、党首選で選挙運動の責任者として 勝利に多大な貢献を果たしたエアリー・ニーヴ=写真下=が殺害される事件が起きた。党内で北アイルランドを担当していたニーヴの車に、アイルランド民族解放軍 (IRAアイルランド共和軍の分派)によって爆弾が仕掛けられ、下院駐車場を出ようとした際に爆発したのだ。マーガレットに深い 悲しみと怒りをもたらした。


© bbc.co.uk

救世主か、破壊者か―。鉄の女 マーガレット・サッチャー《後編》 [Margaret Thatcher]

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2013年9月5日

●Great Britons ●取材・執筆/本誌編集部

 

救世主か、破壊者か―。
鉄の女 マーガレット・サッチャー
《後編》


© PA

『鉄の女』と呼ばれた英元首相マーガレット・サッチャーが
今春この世を去った。
英国病と嘆かれたこの国を、妥協を許さない救国の意志で率いて、
復活への道筋を示した。
逝去してもなお、賞賛と激しい憎悪を同時に受ける
稀有な女性の人生を前回に引き続き探ってみたい 。

 

【参考文献】『サッチャー 私の半生 上・下』マーガレット・サッチャー著、石塚雅彦訳、日本経済新聞社刊/『サッチャリズム 世直しの経済学』三橋規宏著、中央公論社刊/『Margaret Thatcher 1925-2013』The Daily Telegraph/『The Downing Street Years』Margaret Thatcher 他

 

【前編より】
1925年、マーガレット・サッチャーは小さな田舎町で食料雑貨店を営む一家に生まれた。勤勉な父のもと、運命に導かれるようにして政治の世界に強い関心を抱き、24歳で国政に打って出るチャンスを手にするが落選。結婚、出産を経ても政治に対する思いは日ごとに募り、夫デニスの強力なサポートを得て、国会議員初当選を果たす。確固たる信念で政策を推し進める姿は党内でも支持を集めて党首となり、1979年の総選挙に勝利。英国史上初の女性首相となった。しかし彼女の前に立ちはだかるのは、人々の夢や希望をつぶしてしまうような英国の惨状だった――。

 

英国に立ち込める暗雲

 

 テレビ画面の中で病院職員は平然とした様子でコメントしていた。
「賃上げ要求が通らなければ、患者が死んだとしてもしょうがない」
マーガレット・サッチャーが首相に就任する半年前の1978年末から79年初頭にかけて英国を激しく揺さぶった「不満の冬(Winter of Discontent)」。労働組合による一連のストライキによって、道路や下水道掃除などの公共サービスは機能せず、通りには回収されないゴミが積み上げられ、異臭を放つこともあった。医療関係者にまで及んだストの様子がテレビに映し出され、人々の心を暗くした。
この社会背景には、戦後に始まった「ゆりかごから墓場まで」をうたう手厚い福祉政策があった。労働党政権が中心となり、平等に福祉の行き届いた理想の社会を実現しようと躍起になった挙句の大盤振る舞い。主要産業が国有化されていたことも相まって、国民の勤労意欲は削がれ、国に依存する体質は人々を蝕んでいた。理想と現実はかけ離れ、サッチャー新政権発足時の財政は逼迫していた。歳出の肥大化、国際競争力の著しい低下、貿易収支の大幅な赤字。経済成長率はヨーロッパの中でも最低水準にあった。追い討ちをかけたのは、1973年の石油危機を受けた物価の上昇だ。失業率がじわじわと高まる中、さらなる石油危機が、首相就任と時を同じくして国を襲っていた。国内に立ち込める暗雲は黒く、しかも切れることが不可能と思えるほど厚かった。
大英帝国の落日、ヨーロッパの病人、英国病…。国外からも数々の言葉でさげすまれていた母国を立ち直らせるチャンスを手にした新首相マーガレット・サッチャーだったが、その前には取り組むべき課題が文字通り山積していた。

 



ロンドン中心部レスター・スクエアは、ストで回収されないゴミであふれ、
通称『フェスター(fester=腐る)・スクエア』と呼ばれた。

 

経済は手段、狙いは意識革命

 

 「サッチャリズム」と呼ばれる一連の政策は、「金融の引き締め」による物価上昇の収束、「税制改革」「規制緩和」「一般大衆参加の資本主義の導入」による企業活動の自由化と推進、経済全般の活性化を図ったことが中心にあげられる。英国の威信を取り戻そうと、多くの経済政策に着手するのだが、サッチャーが主眼を置いたのは、ぬるま湯に浸かりきった国民の依存体質を改めさせるという意識改革だった。
彼女の脳裏には、いつも離れないひとつの言葉があった。それはオックスフォード大在学中に開催された選挙集会でのこと。ひとりの年配男性がこう指摘したのだ。
「私が自分のお金を少しばかり貯金したからというだけの理由で、『生活保護』はもらえなくなる。もし、このお金を全部使ってしまったら、もらえるのに」
これは政治家に突きつけられる福祉制度の大きな問題点だった。健康上の理由から国がサポートしなければならない人がいるのは確かだ。しかし一方で、十分働けるにもかかわらず福祉に依存する人々を野放しにしてはならない。努力し、向上しようという人が評価される社会でなければ国は発展しない。幼い頃から自助努力に徹する父の姿を見ながら勉学に励んできたサッチャーがそう感じるのは当然だろう。彼女の信念は、就任後すぐに行った税制改革に色濃く表れている。
当時の税の仕組みは、所得税率が高く、真面目に働く人々の税負担によって、福祉に依存する人々を支えているような状況だった。上昇志向のある人でさえ、「給料が税金に消えるなら、一生懸命働く意味などない」という考えに至るのは仕方のないこと。サッチャーはすぐさま所得税を減税し、勤労意欲を呼び起こすためのキャンペーンを展開する。1979年に33%だった基本所得税率は、1980年に30%に、翌年以降も段階的に引き下げられていく(1988年には25%となる)。
このとき同時に、付加価値税を上げることも決定されている。一般税率8%、贅沢品税率12・5%のところを一律15%と増税。財政赤字を減らすため、収入の有無にかかわらず広く国民に税負担を強いる道を選んだのだ。
ところが、サッチャー政権は途端に支持率を落とすこととなる。付加価値税の引き上げが、所得の低い人には不利に、逆に富裕層を優遇する税制であるように受け止められたからだ。
メディアのみならず、党内からは中止を求める声が上がるが、どんなに不人気の政策であろうと自分の信念を曲げない強気のサッチャー。その姿勢は、極端な言い方をするならば「働かざる者、食うべからず」という冷酷な印象さえ与え、国民の中の反発感情を煽る結果となった。
また、異常なほどの高騰を見せていた物価は、金融財政の引き締めによって落ち着きを取り戻すきざしを見せていたものの、代わって深刻な不況を招く結果となったことも支持を落とした原因のひとつだ。政権発足後、2年連続で経済成長はマイナスを記録。大企業の人員削減、中小企業の倒産に伴い、職を追われた人も多く、1980年に160万人だった失業者は、翌年には250万人に急増。さらに1983年には300万人を超えるに至った。

 

「大きな政府」から「小さな政府」へ
 サッチャーが実施した政策のコンセプトは「小さな政府」、新自由主義とも呼ばれるものである。これは、政府の権限や役割を大きくし、経済活動を政府の管理の下に行う「大きな政府」に対して、経済の動向を市場にゆだね、役割を最小限にとどめた政府のこと。政府の役割を肥大化させる高福祉を抑制し、規制緩和や国有企業の民営化によって、民間企業が自由に活動できる場をつくり、それにより経済を活性化することを目指した。

 


© PA/photo by ROBERT DEAR


英国を揺るがした一大事件

 

 首相に就任して3年が過ぎようとしていたころ、失業率が示す数値は、紛れもない事実としてサッチャーの肩に重くのしかかっていた。解任までもささやかれる中の、1982年4月2日朝、英国中を揺るがす一大事件の報が英国民の耳に飛び込んできた。
「アルゼンチン、フォークランドに武力侵攻」。英国が南太平洋上で実効支配するフォークランド諸島の領有権を主張するアルゼンチンが、同諸島を取り戻そうと、突如部隊を派遣したのだ。
つい1週間前、国防省はひとつの軍事計画を提示していた。それは、アルゼンチンのフォークランド侵略を抑止する防衛計画。ところが、サッチャーは「アルゼンチンがまさかそんな愚かなことをするはずがない」と取り合わなかった。まさに青天の霹靂というべき事態が今、現実のものとして英国を襲ったのである。
サッチャーは間髪を入れずに軍隊の派遣を主張。党内には慎重論が多かったものの半ば強引にまとめ、武力行使に応戦する意向を示した。そして空母2隻を主力とする軍隊がフォークランドに向けて出動した。のちに「フォークランド紛争」と呼ばれる戦いである。
1ヵ月半が過ぎたころ、サッチャーのもとに一本の電話が入る。中立の立場にあった米国のロナルド・レーガン大統領からだった。
「アルゼンチンを武力で撃退する前に、話し合いの用意があることを示すべきではないだろうか。それが平和的解決の糸口だ」
するとサッチャーは、「アラスカが脅威にさらされたとき、同じことが言えますか?」と反論。その強い信念を誰に止められよう。「軍事力によって国境が書き換えられることがあってはならない」と、武力には屈しない姿勢で提案を跳ね返したのだ。
英国民にとって、はるか遠くに位置するこの諸島は、決してなじみのあるものではなかったが、日々伝えられる戦況に触れ、かつて大英帝国と称された誇りの、最後の断片をたぐり寄せるかのように、愛国心は高まりを見せていく。
そしてアルゼンチンのフォークランド上陸から約2ヵ月、アルゼンチンの降伏によってこの紛争に終止符が打たれた。
「Great Britain is great again.英国は再び偉大さを取り戻したのです」。この勝利は、フォークランド諸島を守り抜いたという事実以上のものを意味し、将来の見えない母国に不安を感じていた国民の心に大きな希望の光をともした。右肩下がりだった『冷血な女』の支持率は、祖国に自信を取り戻させた『英雄』として、急上昇するのだった。
翌年に行われた総選挙では、労働党に対し、前回の選挙を上回る圧倒的大差をつけて勝利。政権は2期目に突入し、サッチャーの世直し政策は勢いを増す。



良好な盟友関係を築いていたロナルド・レーガン米大統領と。
1984年、 米大統領別荘キャンプ・デーヴィッドにて。

 

夢を与えた大衆参加の資本主義

 

 首相就任直後から行われた国有企業の民営化も、引き続き実施されており、国民生活に大きな変化をもたらしていた。
新政権発足時に政府の管理下にあった企業の数は、放送や銀行などの公共性の高い企業のほかに、およそ50社。なかには、今では民営が当たり前と考えられるような、自動車メーカー「ロールスロイス」「ジャガー」なども含まれた。
国が運営する以上つぶれる心配はないといった安心感は、同時に就労者の意欲や向上心を低下させる。そう考えるサッチャーのもと、国有企業の民営化が次々と図られていった。
民間への移管は、政府の持ち株を一般大衆も対象に売却する形で行われた。つまり従業員も株を取得することが可能となり、業績が好転すれば配当金も受け取れるようになった結果、株主たる労働者の仕事に対する姿勢が変わったのは言うまでもない。
さらに政府が所有する資本の切り売りは、住宅分野にも適用された。低所得者に賃貸されていた公営住宅の大胆な払い下げが実施されたのだ。
階級社会の英国で、当時、家や株などの資本を持つということは、上流あるいは中流層の特権。そのため労働者層にとって、マイホームを持つということは、夢のまた夢と考えられていただけに、人生観に大きな変化を生じさせかねないほど革新的な政策だった。サッチャーは勤勉に励めば夢がつかめるということを示し、その夢は手頃な価格で手に入るよう配慮された。売却額は平均で相場の50%オフ。破格のものだった。
この政策を通し、一部の労働者層は、これまで手に届くはずなどないと思われた幸福をつかみ、財を手にする者も増えていった。サッチャーは、「労働者階級の革命家」とも称されるようになる。

 

Great Britain is
great again.
(英国は再び偉大さを取り戻したのです)

 



フォークランド紛争から帰港した空母「HMS Hermes」。
勝利を祝うため多くの市民がユニオン・ジャックを手にかけつけた。

 

労働組合との死闘

 

 労働組合が強大な力を有していたことも、英国経済と人々の勤労意欲にブレーキをかける原因のひとつだった。1970年代には毎年2000件以上のストライキが行われるような状況の中で、企業経営者の経営意欲は低下。好んで英国に投資する外国企業などあるはずもなく、サッチャー政権にとって労働組合の力を押さえ込むことは急務だった。
なかでも、やっかいな存在だったのは全国炭鉱労働組合(NUM: The aional Union of ineorkers)だ。石炭は国の重要なエネルギー資源であるため、彼らは政府の弱みを握っていたといっても過言ではない。当然、政府もしぶしぶ要求を呑まざるを得ない状況にあった。1973年にはストによるエネルギー不足のため、当時の政府が国民に「週3日労働」を宣言したこともあるほどだ。
そのNUMに、まるで宣戦布告をするかのようにサッチャーが打ち出した政策は、採算の取れなくなっていた鉱山20ヵ所を閉鎖し、合理化を図ることだった。もちろんNUMはだまっていない。1984年3月、無期限ストに突入した。政府にも劣らぬ権力を持っていたNUMは、サッチャー政権の打倒を目指し、政治闘争を激化させた。サッチャーにとって敗北はつまり、政権の終焉を意味し、結果次第では自身の進退も問われる状況となっていた。
当初は勢いのあったNUM。しかし、ストが長期化するにつれ、ストよりも雇用の確保という現実的な世論が強まり、次第に力を失っていく。これに対し、サッチャーは組合活動に規制を設けたほか、非常事態に備え、あらかじめエネルギー供給源を確保するなど、緻密な準備を行い、挑んでいく。最終的には政府の『作戦勝ち』で1年に及んだ闘いは幕を閉じた。
以降、労働組合によるストは減り、組合の攻勢の中で萎縮していた企業経営も活動意欲を見せ、健全さを取り戻していくこととなる。
一方、炭鉱の町では、「私の家族は、あの女に殺された」と、今も根に持つ人も少なくない。仕事を奪ったばかりか、町に暮らす若者の希望の芽を摘み取ったと嘆く人もいる。職を失い途方にくれる人々にとって、『鉄の女』がもたらした政策は非情かつ冷徹。弱者を踏み潰したと、恨みを募らせていった。サッチャーの毅然とした態度は、「そんなことなど構うものですか」という印象を与え、ますます嫌われていくようになる。
このように、サッチャーが求めた国民の意識改革は、すべての人を幸せにしたわけではなかった。見方によっては、弱者を支えた福祉制度を壊し、自由という名の競争社会で強者をより強くしたと捉えられ、さらなる格差につながったといわれている。またコミュニティの崩壊により、周りと協力し合った時代は過ぎ去り、代わって訪れたのは、自由競争社会の中で、自分さえ良ければいいという自己中心的な社会と指摘する人もいる。



産業の活性化を目指し、英国企業の売り込みや、外国企業の英国誘致を先頭に立って行ったサッチャー。
日本の自動車産業にも目をつけ、1986年9月に日産自動車が進出するに至った。
英国日産本社の開所式に訪れ、発展を祈った。© PA

 

割れるサッチャリズムへの評価
 サッチャーが行った「ビッグバン」と呼ばれる一連の金融自由化政策により、外国の資本が多く流入することになった英国。世界中から資金が集まり、なかでもロンドンは世界最大級の金融都市に発展したことで、サッチャーの政策は一定の評価を得てきた。しかし2007年に起きた世界金融危機は、英国金融業界にも深刻な影響を及ぼした。脆弱さが露呈し、サッチャリズムの重大な欠陥として表面化している。
また製造業から金融業などのサービス業へと重点がシフトしたため、国内の産業が空洞化する結果となった事実は長年指摘されていることである。


九死に一生を得た強運の持ち主

 

 英国でくすぶる火種は他にもあった。アイルランド統一を目指す、IRA(アイルランド共和軍)との確執だ。IRAは北アイルランドのみならずロンドン市内の公共交通機関や金融街などを狙い、テロを繰り返していた。NUMとの闘いが続く中の1984年10月、サッチャーの身にもその危険が襲いかかる。
開幕を控えた次期国会に向け、さらなる改革の促進に向け、弾みをつけるべく保守党の党大会がイングランド南部ブライトンで開催されようとしていた。自分の描くビジョンをより正確に力強く伝えたいと考えるサッチャーは、滞在していた壮麗なグランド・ホテルで、翌日のスピーチ原稿の確認に余念がなかった。作業も終わり、スピーチ・ライターらも自室に戻っていったときには、深夜2時半を回っていた。ようやく落ち着き、そろそろ就寝の準備に取り掛かろうとしていたところ、秘書が書類を確認してほしいと訪ねてきた。サッチャーは居間部分で対応し、書類に目を通して、自分の意見を述べた。秘書が書類を片付けようとしていたときだ。突然、衝撃をともなった激しい爆発音、続いて石造りの建物が崩れ落ちる轟音が響き渡り、居間には割れた窓ガラスの破片が飛び込んできた。
すぐにデニスが寝室から顔を出したおかげで、彼が無事であることはわかったが、浴室はひどいありようだった。
サッチャーのほか、閣僚、保守党員らが滞在していた同ホテルには、IRAによる爆弾が仕掛けられていたのだ。幸いサッチャーは無事だったものの、この爆破で5人の命が奪われ30人以上が重症を負うこととなった。
秘書に書類の確認を頼まれなければ危うく浴室で命を落としていた可能性もあったサッチャー。たったひとつの書類によって難を逃れた強運の持ち主は、すぐに官邸に戻る案が出されるものの、午前9時半より予定通り会議を行うことを決めた。多くは着の身着のまま避難しており、最寄りのマークス&スペンサーに朝8時の開店を依頼し、服の調達をしなければならないほどの状況だったが、テロをものともしない強硬な姿勢を見せつけたのだった。



IRAによって爆破されたブライトンのグランド・ホテル。© D4444n

 

強力なサポーター

 

 サッチャーが自らの信念のままにリーダーシップを発揮していく影には、10歳年上の夫デニスの存在がある。妻を温かく見守り、たゆむことなく支えたデニス。しかし、ふたりの関係は常に良好だったわけではない。1960年代、サッチャーが国会議員として仕事に没頭していくにつれ、デニスは孤独を感じていた。その頃、家族が経営する化学関連の会社で役員を務めていたデニスは、すれ違いの生活に神経を弱らせ、離婚まで考えていた時期もあった。心を癒すため、2ヵ月間英国を離れ、南アフリカを訪れたこともある。それは妻の元に戻るかどうかさえわからないという旅だった。しかし、何かがデニスを思いとどまらせ、ふたりは夫婦として再び歩み始める。
デニスが役員職から引退し、サッチャーが首相に就任して以降は、ふたりの関係は良好となっていった。危機を乗り越えた夫婦の絆は深く、政治家の夫として妻の活動を一番近くで支える、ますます力強い存在となる。
一家が大変なときは、その長が率先して事にあたることを、父の姿から学んでいたサッチャーは、一国を背負う者として寝る間も惜しんで仕事に励んでいた。深夜2時、3時までスピーチ原稿を確認していることも多く、平日の睡眠時間は4時間。親しい友人らと休暇旅行に出かけても、楽しいひと時を終え、友人らが寝室に引き上げると、サッチャーの仕事の時間が始まるといった具合だ。働きすぎのサッチャーに「眠った方がいい」と助言できたのは、夫デニスのみであった。

 

冷戦終結にむけて

 

 国内の経済活性化に取り組む一方、世界を舞台に外交面でもサッチャーはその力を遺憾なく発揮していく。
米大統領のロナルド・レーガンとは、互いの目指した政策が同じ方向を向いていたこともあり、良好な盟友関係を築いていた。後年、サッチャーが「自分の人生の中で2番目に大切な男性だった」と語り、『恋人関係』とも揶揄されるほどでもあった。
第二次世界大戦後から続いていた冷戦真っ只中にあった1970年代に、「(旧ソ連が示してきた)共産主義は大嫌いだ」と言い放ち、『鉄の女』のニックネームを与えられたサッチャー。のちにロシアの大統領となるゴルバチョフと出会うと、「彼となら一緒に仕事をしていくことができる」と評価している。
1987年に3期目に突入していたサッチャーは、両者との信頼関係を築くと、冷戦状態にあった米レーガン大統領と、旧ソ連ゴルバチョフの橋渡しに努め、冷戦終結に一役買ったともいわれている。
自分の推し進める政策と外交。何の後ろ盾もなかった彼女がここまでのし上がってきたのも、勤勉と努力の成果にほかならず、それによって彼女の自信が裏付けられた。そして、英国を新たな世界へと向かわせ、冷戦終焉に尽力、時代は大きく変わりつつあった。
しかしそのとき人々が求めたのはもはやサッチャーではなくなろうとしていた。

 

退陣までの3日間

 

 1990年11月、1期目からサッチャーを支えてきた閣僚ジェフリー・ハウが、欧州統合に懐疑的なサッチャーと彼女のリーダーシップのスタイルに反旗を翻す演説を行い、辞任したのだ。サッチャーが導入を決めた、国民1人につき税金を課す人頭税が市民からの強い反発を受けていたこともあり、ハウの演説を機に、党内での確執が表面化。党首選へ向けた動きが活発になる。
11月19日から開催された全欧安全保障協力会議で、ヨーロッパにおける冷戦終結が宣言されており、サッチャーは、党首選が行われた11月20日、同会議に出席するためパリに滞在していた。
英国では午後6時30分頃、投票結果が発表されていた。372票中、マーガレット・サッチャー204票、対立候補マイケル・ヘーゼルタイン152票。得票数ではサッチャーが勝っていたものの、その差が当選確定までに4票届かず、結論は2回目投票へと持ち越される。フランスの英国大使館前でインタビューに応じたサッチャーは、2回目の投票に立つ姿勢を見せるが、350キロ離れた英国国会議事堂の会議室に集まった議員たちの間には大混乱が巻き起こっていた。サッチャー派のメンバーも、今後の作戦を練り直す必要に迫られていた。
翌21日、ロンドンに戻ったサッチャーは、午後、官邸に着くとすぐにデニスのいる上の階へ向かった。冷静に状況を見極めていた彼は、ここで勇退を選ぶよう助言するのだった。それでも、自分を支持してくれる人がいる限り戦い抜くことを主張するサッチャー。しかし同僚たちと会って話すうちに、自分の辞任を望む人が数多くいる実情を悟っていく。
サッチャーは父が市会議員を辞したときのことを思い出していた。一時は市長を務めていたが、1952年に対立する政党によって上級議員の座を追われた父は、集まった支持者の前で誇り高くこう語った。
「私は名誉をもってこの議員服を脱ぐのです。私は倒れましたが、私の信念は倒れることはありません」
思い出すだけでも切ない、父に襲いかかった出来事が、今自分の身にも起こっている。
翌22日、ついに退陣を発表した。
首相官邸を去る日、男性政治家も顔負けの力強いリーダーシップで英国を率いてきた『鉄の女』は、長い在任期間を振り返り、声が震えるのをおさえるように口を開いた。
「みなさん、11年半のすばらしい日々を経て、去るときを迎えました。ここにやってきたときよりも、現在の英国の状態が格段に良くなっていることを、とても、とてもうれしく思っています」
彼女の側では11年半前と同じようにデニスが静かに寄り添っていた。
首相の座を追われるようにして官邸を去ることになったサッチャーの視界が涙でくもっていた。

 



首相官邸を去る日、官邸前で会見を行ったマーガレット・サッチャー。
20世紀では英国首相として最長の在任期間を誇った。
© PA/photo by SEAN DEMPSEY


寂しさか、達成感か

 

母にとって、
まず1番は国。
私たちは2番目なの

 

 2000年頃から認知症を患っていたことを、のちに娘キャロルが公にしている。繰り返し起こる脳卒中と、認知症に悩まされていたサッチャー。医師のアドバイスにより、2002年以降に公の場で話すことをやめた。そしてその翌年、政治家の夫として長きにわたって彼女を支え続けたデニスが88歳で他界。結婚生活は52年に及んだ。深い悲しみに包まれたサッチャーの症状は、悪化の一途を辿り、近年は、デニスが亡くなった事実を忘れることもあった。
昨年12月のクリスマス以降、ロンドン中心部のホテル「ザ・リッツ」で過ごしていた。1970年頃、尊敬してやまなかった父が最期のときを迎えようとしていた時期に、サッチャーは帰省している。親しい友人らが続々と父を訪ねてきたのを目の当たりにし、「自分も人生の終わりにはこのように多くの親友に恵まれていればいい」と思ったと自伝に記している。だが、政治家としての生涯は、その希望が叶うことをサッチャーに許さなかった。自分が死を迎えようとしている今、愛する夫に先立たれ、ふたりの子供の姿はそこにはなかった。娘キャロルが「母にとって、まず1番は国。私たちは2番目なの」と、母親の愛情を十分に受けることができなかった悲しみを告白している。サッチャー自身も晩年「私はいい母親ではなかった」という後悔の念をもらしていたという。
認知症を患ったサッチャーの心に最後にあったものは、寂しさか達成感か、それとも、愛する英国の輝かしい未来か。
サッチャーの行った政策によって、英国は大きく変化した。夢を与えられたと感謝する人もいる一方で、生活をつぶされたと嘆く声も根強い。
しかし、「英国病」とさげすまれ、瀕死の状態にあった母国を救うために奮闘し、強固な信念で国民を率いたひとりの女性政治家の名は、英国の歴史と人々の心に深く刻まれている。

 



セント・ポール大聖堂で行われた葬儀に参列するエリザベス女王。
女王が首相の葬儀に参列するのはきわめて稀で、ウィンストン・チャーチルの葬儀以来となった。
© PA/photo by PAUL EDWARDS

 



「サッチャーの葬儀が国葬級の規模で開催される一方、
街角では、死を喜ぶ一部の市民の姿が見られた。

 

サッチャーと ハンドバッグ
 『女性初』の英国首相としてフェミニズムの推進に貢献したと考えられてもおかしくはない。しかし実際は、「女性解放運動に対して義務はない」と述べているサッチャー。女性の権利を主張するよりは、むしろ女性であることを『武器』にしていた節も見られる。
封建的な男社会で力を発揮したが決して『男勝り』ではなかったことは、マーガレットの外見によく現れている。決してパンツ・スーツを着用せず、スタイリストを頻繁に官邸に呼んでおり、髪は常に綺麗に整えられていた(余談だが、スプレーでビシっと固められた髪型は、まるで『ヘルメット』のようで、彼女の信念のように『ぶれない』と冷やかされている)。夫デニスから贈られた真珠のネックレスを愛用。さらに女性らしさを表すかのように、いつもハンドバッグを手にし、それは彼女のシンボルとなっている。ちなみにオックスフォードの辞書にはマーガレット・サッチャーに由来するものとして、handbagの動詞の意味が記載されている。「handbag =〈動〉言葉で人やアイディアを情け容赦なく攻撃する」。

下町生まれの激情型 国民画家 ターナー [Turner]

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2014年5月29日

●Great Britons●取材・執筆/佐々木敦子、本誌編集部

 

下町生まれの激情型
国民画家 ターナー
Joseph Mallord William Turner



「ディエップの港」(1825年)テート・ブリテン所蔵。

「英国を代表する画家」というと、
まずその筆頭に名があがるターナー(1775~1851)。
しかし、「モヤモヤした風景画」を描く画家であるということ以外に、
私たちはターナーについてどの程度知っているだろうか。
床屋の息子としてコベント・ガーデンに生まれた生粋の下町っ子で、
身なりに構わず気取りとは無縁だったターナー。
寡黙でぶっきらぼうだが子供にやさしく、進取の気性にも富んでいたという、
この国民画家の知られざる素顔とその作品に迫ってみたい。

【参考資料】『Turner』Peter Ackroyd著、Vintage Books 、『Turner』 Barry Venning著、Phaidonほか

 



「自画像」(1799年)テート・ブリテン所蔵。

 

19世紀のダミアン・ハーストだった!?

 

 テート・ブリテンを舞台に、毎年秋から冬にかけて開催されるターナー賞(Turner Prize)展。英現代アート界において最も権威のある美術賞の一つといわれるターナー賞は、50歳以下の英国人もしくは英国在住の卓逸したアーティストに対して贈られる賞だが、同展に出品されるノミネート作品は、ダミアン・ハーストによるホルマリン漬けの牛の作品、トレーシー・エミンの避妊具やタバコ、日用品が散乱しただらしない自分のベッドなど、ショッキングな作品であることが多い(次頁のコラム参照)。なぜこのような過激な作品が選ばれる賞に、19世紀の風景画家ターナーの名が冠されているのだろうか。
ターナーが活躍したのは、英国の産業革命期。国外ではフランス革命などが起き、世界中が新しい時代に向かってうねりをあげて進んでいる時期だった。新しい技術や科学が次々に生まれ、親の世代には分からない思想や価値観が広まっていく、そんな時代の英国芸術、特に絵画の世界はどんな状況だったのか。
それまでの西洋絵画では、神話、聖書のエピソード、歴史上の大事件や偉人などをテーマとした歴史画が上位におかれ、「風景」は歴史画などの背景としての意味しか持っていなかった。ところが18世紀後半から19世紀になると、ヨーロッパ大陸へのグランド・ツアー(長期旅行)が定着し、また変化の激しい世の中の移り変わりを描き留めたいという要求もあったのか、風景をメインに描く人々が現れる。風景画というジャンルが英国で市民権を得るのはこの時代で、ターナーはその初期の一人である。
だがそれだけでなく、ターナーの画風の変化を見ると、まるで100年分の美術史の変遷を一人だけ数年で駆け抜けてしまったように思える。同時代の人々から「描きかけ?」「スキャンダラス」「訳がわからない」「石鹸水で描いたんじゃないか?」などと揶揄されたり、酷評されたりしたターナーの作品が当時いかに革新的だったかは、彼と同世代の風景画家ジョン・コンスタブル(1776~1837)の牧歌的な作品と比べてみると、一目瞭然だろう(11頁のコラム参照)。ターナーは、モネなどに代表されるフランス印象派を30年近く先取りしていたばかりでなく、作品によっては1960年代の米国の抽象表現主義作家、マーク・ロスコの作品を彷彿とさせるものすらある。毎年、作品のあまりの奇想天外さに物議をかもすターナー賞であるが、「新たな才能ある芸術家の作品を祝福する」「ビジュアル・アートの分野での新たな動きに注目する」ことに主眼がおかれた同賞が、ターナーの名を冠するのも不思議なことではく、むしろうまく名付けたといえるだろう。
しかしながら、ターナーも最初から「スキャンダラス」な作品を描いた訳ではない。ターナーがどのように後世に残るアーティストとなったかを、彼の生誕時まで時計の針を戻して見ていこう。

 

ちょっとだけ紹介! ターナー賞 過去の受賞・ノミネート作品
■今年のターナー賞展は、テート・ブリテンにて9月30日~2015年1月4日まで開催予定。
1995年受賞
ダミアン・ハースト
「Mother and Child, Divided」
1999年ノミネート
(受賞作家はスティーヴ・マックイーン)
トレイシー・エミン
「My Bed」
2003年受賞
女装アーティスト
グレイソン・ペリー
Grayson Perry at the 2003 Turner Prize reception, 2003 Tate Britain

 


 

3つの太陽が昇った日

 



米国ノースダコタ州で観察された幻日 © Gopherboy6956

 1775年4月23日、ロンドンの劇場街コベント・ガーデンのメイデン・レーン(Maiden Lane)21番地で床屋を営む、働き者のウィリアム・ターナーのもとに息子が生まれた。子供はその曾祖父と祖父と父の名を全部足した、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner)と名付けられる。奇しくもこの日は文豪ウィリアム・シェークスピアの誕生日と同じであり、またイングランドを守護する聖ジョージの日でもあった。
さらに、ターナーの誕生4日目に、空に3つの太陽が昇ったという逸話もある。これは「幻日」という非常に珍しい大気光学現象の一つで、太陽と同じ高度に、しかも太陽から離れた位置に光が現れる現象のこと。雲の中に六角板状の氷晶が生じ、風が弱い場合に限り、氷晶に反射した太陽光によって現れるというが、この日は太陽を挟んで左右対称に出現したと伝えられる。生まれたばかりのターナーがこれを見たはずはないが、成人した彼が太陽の光や大気の動きに興味を抱いてこれらを描いたことや、死の間際に「太陽は神だ(The Sun is God.)」とつぶやいたこと(これは後世によるでっちあげである可能性が高いと言われているが)などと照らし合わせてみると、ターナーの将来はもうすでにこの時に決まっていたのかもしれない。
とはいうものの、ターナー自身はこのような不思議な伝説や逸話に彩られるようなタイプのミステリアスな人物ではない。取り立てて善行を行なった訳でも、徳を積んだ訳でもない、非常に人間臭い、労働者階級の、そして卓越した才能を持った市井の画家であり、それゆえに、英国を代表するアーティストとして今もこの国で愛されているのだといえる。
ターナーの生まれ育ったコベント・ガーデンは現在同様、パブやレストラン、劇場、野菜市場、賭け屋などが混在する、ロンドンきっての繁華街であり、劇場へ向かう紳士淑女、夜の街に立つ売春婦、スリなど、多様な人間が入り乱れた場所だった。父親の経営する床屋にも様々な階級の客が訪れた。客あしらいがうまく商売熱心な父のウィリアムは、店の壁に少年のターナーが描いたドローイングを何枚かピンで留め、「うちのせがれは将来絵描きになるんですよ」と客に吹聴し、1枚1~3シリングと値段までつけて販売していたという。「いい買い物をして何シリング節約した、という時を除いて、父親に誉められたことは一度もない」というターナーだが、父親との関係は良好で、父親が死ぬまで一緒に暮らした。
ターナーの父親は小柄でずんぐりした体型で活力に溢れ、赤ら顔で鷲鼻だったというが、これは晩年のターナーの姿そのままでもある。ターナーがスケッチ旅行に出掛けると、大工の親方に間違えられることがしばしばだったという。青年期の姿(前頁)とは少し印象が異なるが、ターナーの自画像が極端に少ないのは、彼が自分の容姿を好んでいなかったからだとも伝えられている。

 



右図は1812年にターナーが描いた父ウィリアム(67歳)の横顔、
左図は銅版画家のチャールズ・ターナーが1841年に制作したターナー(66歳)の肖像。

 

経験豊富な「できる学生」

 

 ターナーが絵に興味を持ったのは、おそらく寂しさをまぎらわすためだったと思われる。父親は忙しく、また精神を患っていた母親も息子の世話を十分にできなかったため、ターナーは10歳の頃に母方の実家に一時引き取られ、その後も親戚などの住まいを転々としなければならなかった。彼の人生に大きな影響を及ぼした母親についてはあらためて後述するが、温かな家庭とは縁遠い生活の中で、学校に行く道すがら壁に落書きしていたターナーは、やがて本格的に「絵描き」になることを考えはじめる。
さて、幼い息子が節約すると喜ぶような、堅実で現実的な父親が、我が子が画家になることに反対しなかったのは、現代では不思議に聞こえるかもしれない。だが、まだ写真技術が発明されていないこの時代において、画家は大工や床屋と同様、きちんと需要のある職業でもあった。そのため父親はターナーが美術に興味を持ったことを大いに喜び、当初から協力的だった。当時は現在のサマセット・ハウスにあったロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(王立芸術院)の教授が床屋に髪を切りにくれば、父親は決まって息子の話をし、壁に貼ったドローイングを示す。ターナーはそうした教授の一人をスポンサーに、1789年、弱冠14歳にしてロイヤル・アカデミーの付属学校に入学するのである。
しかしながら、これは幸運ではあったが驚くべきことではない。ターナーはこの歳までに、建築家のもとに弟子入りしてスケッチの仕事に携わると同時に、風景画家のもとでも修行を積んでいた。労働者階級の子弟に多い丁稚奉公による学習は、ターナーに英才教育ともいえる形で絵画の基礎力を身につけさせた。つまり付属学校に入学した時、すでに実地経験の豊富な『できる学生』であり、頭ひとつ抜きん出た存在となっていた訳である。

 

芝居の背景画で鍛えたセンス

 

 学校では歴史画の模写などを行っていたターナーだが、漠然と肖像画家になるのを夢見ていたという。貴族から依頼を受け、彼らの邸宅を出入りする肖像画家は画家の中でも花形であり、アーティストとして名を残せる可能性も高いジャンルだったからだろう。だが、肖像画家になるには、ターナーには決定的に欠けているものがあった。洗練された振る舞いや社交性である。下町育ちゆえの嗜好や短気な性格は、肖像画家には向かなかったのだ。もしもターナーが人好きのする、愛想の良い人物だったなら、貴族のパトロンの庇護を受ける「凡庸な肖像画家」として一生を終えていたかもしれず、人の一生は何が幸いするか分からない。
ターナーは付属学校に通いながら、オックスフォード・ストリートにある大衆劇場「パンテオン」で芝居の背景を描くアルバイトを始めた。メロドラマに相応しい、嵐で荒れる海や暴風雨の荒野の場面など、そこに描かれるドラマチックな風景は、その後のターナー自身の作品モチーフを彷彿とさせる。
ある時、この劇場が火事で炎に包まれているというニュースを聞いたターナーは、絵の具を持って駆けつけ、燃え続ける劇場をその場でスケッチした。その後10日間無断休学した彼は、やがて1点の水彩画を持って現れると、校内のエキシビションにそれを出品する。題は「パンテオン、火事の翌朝」。劇的で写実性に富み、しかも当世の出来事を描いた今までにない風景画だった。このあと彼が進む方向を指し示す作品といってよいであろう。ターナーは、自分が人物ではなく、火や水、風、岩といった自然や、廃墟のようなものに惹かれる傾向にあることに気づき始める。幸運なことに、この頃ちょうど水彩絵の具が大幅に改良され、発色も携帯性も現代のものに近くなってきており、風景のスケッチがより楽しめる時代が到来していた。そうした時代の流れは、彼の背を強く後押ししていく。

 



「パンテオン、火事の翌朝」(1792年)を水彩絵の具で描いたときのターナーは17歳。
同劇場でアルバイトをしていた。現在ここはマークス&スペンサーの
オックスフォード・ストリート・パンテオン店となっている。
テート・ブリテン所蔵。

 

 


 

若くして手に入れた名声

 

 卒業後のターナーは、絵の題材を探して英国各地を旅した。マーゲイト、ブリストル、ワイト島など海辺が多いのは、海の持つダイナミックさとパワフルな自然に惹かれたためだ。1796年の「海の猟師たち」はそんな旅先でのスケッチを元にした初めての油絵で、批評家からも好意を持って迎えられた。満月の晩に漁船で沖にくり出した漁師たちが荒波にもまれている様子は、理想化された自然とも、あるがままの自然を写実するのとも趣を異にする、人間の矮小さと自然の偉大さ対比させた、サブライム(Sublime崇高)と呼ばれるロマンチックな観念を持った新しいタイプの風景画だった。「彼は自然を崇拝するが、その創造者である神については忘れている」とも評されたが、ターナーにとっては自然自体が神だったのかもしれない。翌年発表した2点も好評で、「モーニング・ポスト」紙には「光の使い方はレンブラントにも匹敵する」とまで讃えられる。22歳にしてターナーは早くも名声を手にしたのだ。



ターナーが21歳のときに描いた「海の猟師たち」(1796年)。
テート・ブリテン所蔵。

 しかし一方で、スケッチ旅行費の捻出などに必死だったターナーは、雑誌のために銅版画を作成したり、貴族の絵画コレクションの模写を請け負ったりと、人と交わらず酒の席も断って働く毎日だった。不慣れな絵画教室さえ開いたが、ターナー自身の作品を模写しろというだけで、あとはかなり適当だったらしい。日々もくもくと絵の制作に没頭しているうえに、粗野でぶっきらぼうな物言いが災いし、「カネ好きでケチ」という評判が立つこともあったという。
1799年、24歳でターナーは念願のロイヤル・アカデミーの準会員に選出される(9頁の自画像はこの時のもの)。同メンバーに選ばれることは、その分野で高い評価を得ている職業芸術家である証。アカデミーが年1回主催する展覧会にも、作品を出品できた。1769年に始まった当時からこの展覧会は絶大な人気を誇り、芸術家としての認知度を上げるためには重要なイベントだった。ターナーは会員に昇格するために、なるべくアカデミーの好むような作品を描いたといわれる。初期の作品が具象的で、歴史画やフランスの画家クロード・ロランのような神話的風景画を下敷きにした作品が多いのは、このためである。ちなみに、この展覧会は現在も続くロイヤル・アカデミーの「サマー・エキシビション」の原型である。
3年後の1802年にアカデミーの会員となり、順調に出世街道を邁進していくが、やがて他のアカデミー会員から、ターナーの態度が悪いと次々に文句が出始める。「Pugnacious」――つまり「けんかっ早い」のだという。あらゆる階級の人々に門戸を開いていたとはいえ、アカデミー会員は貴族やそれに準ずる裕福な家庭の出身者が大半を占めていた。そんな中で、生まれも育ちも下町の、高尚とは言い難い言葉遣いのターナーが浮いてしまうのは当然と言えば当然。若くて態度が悪いうえに才能があるとなっては、ベテランのアカデミー会員にとってターナーの存在が面白いはずがない。展覧会ではターナーの作品をわざと見にくい場所に展示するなど、会員たちが陰湿な嫌がらせをすることさえあった。だがもちろん、タフなターナーは彼らに対して黙ってはいなかったのである。
ターナーは反発してアカデミーを脱退することもなく、かといって丸くなって皆に迎合する訳でもなく、独自の距離を保ちながら、32歳の若さでアカデミーの遠近法の教授という地位を得た。最終的にアカデミー副会長にまでのぼりつめ、40年あまりもアカデミーに居座ることになる。

 



「カルタゴを建設するディド」(1815年)。
古代都市カルタゴを建国した女王ディドを主題にした歴史的風景画。
クロード・ロランの影響を強く受けているが、やはり太陽の効果は欠かせないようだ。
ナショナル・ギャラリー所蔵。

 

ターナーにいじめられた!?  風景画家 コンスタブル

ターナーと同時期の風景画家で、同じくロイヤル・アカデミー会員だったコンスタブル=左下=のことを、ターナーは毛嫌いしていたらしい。「結婚している画家なんて嫌いだね。画家は制作に没頭するべきなんだ。結婚していると、すぐ家庭がどうとか言って、描けない理由を家族のせいにするからな!」――。これはコンスタブルへの当てつけで言われたものだという。
2人は同じ時期にアカデミー付属学校で学んだ。しかしコンスタブルの絵はなかなか認められず、ターナーが27歳でアカデミー会員になったのに対し、コンスタブルは43歳でやっと準会員に、会員に昇格したのは53歳の時であった。だが、裕福な家庭に生まれたコンスタブルは、絵が売れなくても生活に困ることはなく、愛する妻と子供たちに囲まれて幸福に暮らした。しかも故郷を愛し、のどかな田園風景を詩情豊かに描くという、ターナーを『イライラ』させる要素を山ほど持っていたのである。また、本人がハンサムなのも腹立たしかった。
ある時、2人が同じスタジオで隣り合わせで作品を仕上げていた時、湖の部分にバーミリオン(橙色)を使っているコンスタブルに近寄ったターナーは、じっとその画面を眺めた後、自分の絵に戻り、灰色の空の部分にコンスタブルのそれよりずっと赤くて目立つ円を描くと、一言も言わずスタジオから出て行ったという。ターナーは子供っぽい競争心を隠そうとせず、ことあるごとにコンスタブルに意地悪をした。それだけ気になるライバルだったのかもしれない。
コンスタブルは1837年に死去しセント・ポール大聖堂に記念碑が設置されたが、気の毒なことに、その14年後に彼の傍らにやってきたのはターナーであった…。



コンスタブル作「ワイブンホー・パーク」(1816年)

 


 

モンスター・マザーが残した影響

 

 ところで当時では珍しく、ターナーは生涯結婚しなかった。それは、病的なほど怒りっぽかった母親メアリーに原因があるとされている。
いったん怒り出すと制御不可能となり、父を大声で口汚く罵る母親に恐怖と嫌悪を感じ、ターナーは幼い頃、母親の「怒りの発作」が始まると両手で耳を押さえて駆け出し、近所の家に避難していた。それは週に3~4回にも及んだという。ターナーは母親については厳重に口を閉ざしているため詳細は分からないが(彼の妹が幼くして亡くなったことが、精神疾患を悪化させたという説もある)、最終的に彼女が精神病院で死去したことを考えると、かなり激烈な人物だったに違いない。このことはターナーの女性観に大きな影響を与えた。悩める父親の姿を見ていたため、結婚して、もし自分が父のような目にあったら…という思いが、女性に対し距離をとらせたのだった。
とはいっても、彼に女性の影がなかったわけではない。早世した友人(パンテオン劇場のピアノ弾き)の未亡人で10歳年上のサラ・ダンビーと関係を持ち、その4人の子供とターナーの父親も入れた7人で暮らすという、非常に「現代的」ともいえる構成の家庭を作り上げたりしている。結婚こそしなかったものの2人の娘を授かり、その関係はターナーが25歳の頃から10年以上続いた。ターナーの伝記を執筆したピーター・アクロイドは、「未亡人キラー」という名称をターナーに贈っており、これは彼の女性関係がサラだけに留まらなかったことを示唆している。そして、なぜことごとく相手が未亡人なのかといえば、その女性が「結婚しても狂気に陥らなかった」、つまりつきあっても「安心」だと分かっているからだ、とアクロイドは記している。
真偽のほどはさておき、ターナーは母親の血を引く自分が、いつか母の様に狂気の発作を起こすのではないか…とも考えていたらしい。ターナーの作品が抽象的になるにつれ、新聞の批評には「狂った男」という単語が踊るようになるが、ターナーはこれをひどく嫌い、マスコミに母親の病が暴かれるのを怖れたという。
母親が病院で息を引き取ると、ターナーはその呪縛から解き放たれたかのように、1804年、サラや子供たちと暮らしていたハーレー通り(Harley Street)の自宅近くに、ギャラリーをオープンする。このギャラリーはターナー自身の作品を展示した私営ショールームのようなもので、顧客が直にターナーのもとを訪れ、作品依頼や購入を行った。この時代の芸術家は往々にしてこのようなスタイルをとることが多かったといい、ターナーも晩年までエージェントを雇わず、すべて自分で交渉した。堅実な父親に鍛えられたせいなのか、ターナーは非常にビジネスに長けたな面をもち、金額を作品のサイズで換算(端数は切り捨て、と但し書き付きで)し、依頼を受けた場合は期日通りに作品を仕上げるなど、現代人が想像する「芸術家」のイメージを裏切り、職人に近い感覚を身に付けていたようだ。金銭の余裕ができるようになると、郊外に土地を購入したり少量の株を買ったりと、いざという時のための備えもきちんと整えていた。
また、妻に先立たれたターナーの父親は、コベント・ガーデンの店を畳んで、ギャラリーの留守番やキャンバス作り、顧客への書類作成などの雑用をしながら影でターナーを支えた。2人は客の前でも「ビリー・ボーイ」「オールド・ダッド」と呼び合っていたそうで、母親の愛情とは縁のなかったターナーだが、父との絆は強かったようだ。

 



ロイヤル・アカデミーの展覧会場にて、作品の仕上げをするターナー。
当時の画家たちは展覧会開催の前に、会場内で加筆や修正を行った。
ウィリアム・パロット作「Turner on Varnishing Day」(1846年)。

 

ターナーを崇拝!?  批評家 ジョン・ラスキン


ジョン・エヴァレット・ミレイ作「ジョン・ラスキン」(1853~54年)
 ヴィクトリア朝時代を代表する評論家ジョン・ラスキン(1819~1900)が初めてターナーに会ったのは1840年。ラスキンはまだ21歳、ターナーは65歳だった。詩人を目指していたラスキンだが、ターナーの作品との出会いがきっかけで美術評論家へと転身。抽象的な画風で狂人扱いされているターナーの擁護のために、たまらずペンをとったのがキャリアの始まりだった。ターナーの死後もその作品の価値を説き続けた、ターナーの熱烈な崇拝者である。ターナーはラスキンが自分の作品を深読みし過ぎだと考えたようだが、それでもラスキンの応援を嬉しく感じていたらしい。
ラスキンが日記に記したターナーの姿は、次のようなものだ。
「多くの人間が彼のことを無骨で下品で教養がないというのが信じられない。ちょっとエキセントリックで独特の行動もとるけれども、基本的に彼はイングランド的な紳士なのではないか。怒りっぽいが気立てがよくて、見かけ倒しのペテンを嫌う。ちょっと利己的だが理知に富んでいる。そして、めったに喜びの感情を表には出さないけれども、心に秘めた熱い想いがふとしたことから外に漏れることがある」。

 


 

色彩への目覚め

 

 ギャラリーを父親に任せ、ターナーは英国外へ足をのばしスケッチ旅行に出掛けることが増えていった。パリ経由でスイスを訪れ山脈や渓谷を描き、ベルギー・オランダではレンブラントをはじめとする名作にも触れる。しかし、真にターナーを変えたのはイタリアであった。
1819年、44歳で初めて訪れたイタリアの目がくらむほどに強い自然光に、ターナーは圧倒された。英国などの北方ヨーロッパにはない陽光の明るさと、そこから生まれる色彩の豊かさに息をのむ。特に「水の都」と言われるヴェネツィアに心惹かれ、この時の滞在は4週間にも満たなかったが、手がけたスケッチは400枚を超え、そのどれもが今までにない透明感ある光に溢れていた。以降、ターナーはたびたびヴェネツィアを訪れており、その後の画家としてのキャリアは、そこで目に焼き付けたイタリアの光を分解し、空気や大気の動きを色によって描きだす研究に捧げられたといっても過言ではない。その題材がナポレオン軍を描いた歴史画であれ、黄金色のリッチモンド・パークの風景画であれ、ターナーが描いたのは常に光と空気の関係性だった。以前から気に入リの主題だった海や港の光景は、洪水や雲気に形を変え、ついには「水蒸気」を表現するところにまで行き着くのである。
当時のロイヤル・アカデミーがサマセット・ハウスにあったことはすでに述べたが、敷地をロイヤル・ソサエティ(王立学会)と分け合っていた。王立学会は17世紀から続く英国最高の科学アカデミーで、産業革命時の英国における科学の行方はこの学会が牛耳っており、毎日のように刺激的な研究が発表され、議論が戦わされていた。光や空気を研究するターナーがこれを逃がすはずはない。最終学歴は小学校、さらに難読症でもあったターナーだが、それを補う人一倍の探究心を持ち合わせていた。雲の成り立ちに関する気象学者のレクチャーに出席したり、ニュートンの光学理論、ゲーテの色彩論にもとづき光を描いたりしている。まさに独学の人であった。
制作意欲は晩年になっても衰えることはなく、この先、ターナーが行き着く絵画は、ただ、まばゆいばかりの光の海、波と霧の渦でしかないように思えた。抽象画らしきものが生まれる半世紀も前のことであり、その概念もなかった時代に、ターナーは自分の色彩感覚を従来の絵画から完全に、自由に解き放ったのである。

 



「解体されるために最後の停泊地に曳かれてゆく戦艦テメレール号」(1838年)。
ナショナル・ギャラリー所蔵。

 



雨が降る中、蒸気機関車がテムズ河に架かる橋の上を疾走する様子を描いた
「雨、蒸気、スピード-グレート・ウェスタン鉄道」(1844年)。
ナショナル・ギャラリー所蔵。

 

光を描いた現代アートの先駆者

 

 1846年、老齢を迎えたターナーはアカデミーの副会長の座を辞す。そしてチェルシーのテムズ河沿いに居を構え、25歳年下の未亡人ソフィア・ブースと暮らしながらも作品制作を続ける。彼女は、ターナーの父親が1829年に死去し、彼が失意のどん底で苦しんでいた際に、そばで支えてくれた女性だった。ターナーは屋根を自分で改造して、そこに座ってスケッチができるようにした。視線の先は子供の頃から見慣れたテムズ河。近所の人々は、雨漏りのしそうな家に住み、いつも屋根のてっぺんに座っている奇妙な老人が画家のターナーであることなど知らない。彼は人々から「船長」とあだ名されていた。
健康も次第に衰えてきたが、相変わらず鋭いビジネス感覚を有するターナーは死後の作品の行方をすでに決めていた。作品を自分の子供のように考える彼は、自身の経験からか、「家族を離ればなれにしちゃだめだ。皆一緒じゃないと」と言い、すべて国に寄贈することにしていた。ただし、自分の作品専用の部屋を作ることが前提である。そうしてテート・ブリテンに収められたターナーの作品の数は油彩400点、水彩画は2万点に及ぶといわれる。
やがて体調を崩した1851年、ターナーは病床に絵の具を持ち込み、ドローイングするようになる。ある時医師が呼ばれ、診断の結果、残念ながら余命が残り少ないと告げられたターナーは、「ちょっと下に降りてシェリーを1杯やって、よく考えてからまた戻ってきてくれ」と医師に告げる。出直しを命じられた医師は言う通りにし、数分後、やはり同じ意見であると伝えた。「それじゃあ」とターナーは言う。「もうすぐ無に帰るわけだね」(I am soon to be a nonentity.)。その数日後である12月19日朝、ターナーは76歳の生涯を閉じる。鈍色の空が広がる日だったが、その死の1時間前、ターナーを天へ迎えるかのように雲の切れ目から太陽が顔をのぞかせ、彼が眠る室内をまばゆい光で満たしたという。
ターナーが光に向かって旅立った後、テート・ギャラリー(現テート・ブリテン)では一悶着が起きていた。ターナーの遺贈作品に完成か未完成か分からない作品が沢山あるというのだ。すばやく筆で線が引かれただけの作品を前に、館員たちは頭を悩ませた。未完成作品に額を付けて飾るのは如何なものか…。いや、もしかしたらこれはこういう作品なのではないか、と。同館では現在でも「未完成?」とクエスチョン・マークをつけられている作品を目にすることがある。彼は来たるべき現代アートの、紛れもない先駆者だったのだ。

 



「光と色彩(ゲーテの理論)」(1843年)は、
ノアの洪水を主題とする、正方形シリーズ作品のうちの1点。
テート・ブリテン所蔵。

 

ターナーをもっとよく知る!  展覧会&映画情報

 ■風景画のリバイバルなのか、現在またターナーに注目が集まっている。昨年秋には日本で大回顧展が開かれたのに加え、グリニッジの海洋博物館では好評のうちに「ターナーと海」展が幕を下ろしたばかリ。9月からは膨大なターナー・コレクションを所蔵するテート・ブリテンで、ターナー晩年の15年に描かれた作品を集めた 特別展「The EY Exhibition: Late Turner - Painting Set Free」が開催される。特に、当時の批評家から「とうとう本当に気がおかしくなった」と評された、正方形のシリーズ作品=図下=9点が初めて全作セットで展示される。9月10日~2015年1月25日まで。

■中年期以降のターナーその人にスポットを当てた伝記映画『Mr. Turner』も公開される。『秘密と嘘』『ヴェラ・ドレイク』などで知られる、カンヌやヴェネチア国際映画祭常連のベテラン監督マイク・リーが、構想に10年を掛けたという大作だ。ターナーを演じるのは同監督作品常連の個性派俳優ティモシー・スポール=写真上。本年度のカンヌ国際映画祭に出品され、英国の各メディアが5つ星評をつけ、さらにスポールが男優賞に選ばれるなど期待大。12月19日封切り予定。

 

近代郵便制度を確立した 熱血改革家 ローランド・ヒル

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2014年7月31日

●Great Britons●取材・執筆/佐々木 敦子・本誌編集部

 

近代郵便制度を確立した
熱血改革家
ローランド・ヒル



Penny Black image courtesy of Royal Mail Group

産業革命の影響で電信や交通の手段が大きく変化した19世紀。
一般市民はなかなかその恩恵にあずかることができないでいた。
そうした時代に、最新技術をどのように市民の暮らしに
広めるか心を砕き、世界の郵便制度に大きな影響を与えた
ローランド・ヒルという人物がいる。
今回は、ヒルが特に心血を注いだ郵便改革を中心に、
彼の数々のアイディアを紹介。小さな1枚の切手から、
19世紀前半に英国民の置かれていた状況が
浮かび上がってくるかもしれない。

参考文献:『The Life & Work of Sir Rowland Hill』 Jean Farrugia著 National Postal Museum 1979 / 『Rowland Hill – Genius and Benefactor 1795-1879』Colin G. Hey著 Quiller Press London 1989 / 『Postal Reform & The Penny Black – A New Appreciation』Douglas N Muir著 National Postal Museum 1990 取材協力:The British Postal Museum & Archive

 

「社会改革家」と呼ばれる人々が 存在した時代

 1795年12月3日、イングランド中西部のウスターシャー。ローランド・ヒル(Rowland Hill)は、中産階級の一家に、8人兄弟の三男として生まれた。彼は、日々の食い扶持に困っていたとか、両親から虐待を受けていたとか、そういった不自由な暮らしとは縁のない幼少期を過ごすことになるのだが、日頃からいくつもの社会改革案を持っていた。こう聞くと、ヒルのように平凡に暮らす者が若い頃から社会改革に関心を抱き、没頭するのは少々とっぴなことに感じるかもしれない。
その疑問に対する答えの一つに、「時代の影響」がある。産業革命によって新しい技術や制度が次々に生まれ、社会が進歩すればするほど、それに取り残される人々も増えてきた。それは主に労働階級を中心とした一般国民なのだが、彼らは職を通じて産業革命に貢献しながらも、単なる労働力としてまるで道具のように扱われていた。
そうした事態に対処しようと立ち上がった人々が、この時代に多く現れる。英国では協同組合運動を指導した、ロバート・オーウェン(Robert Owen 1771~1858)が有名だが、彼らは現代では社会改革家(Social Reformer)として知られ、その目指す世界観はやがて「社会主義」と呼ばれることになる。つまりヒルは、社会主義の萌芽の時期に、多感な青年時代を過ごしたのだ。

 



産業革命期に活躍した社会改革主義者のロバート・オーウェン。

 

さらに、ヒルの場合は家族からの影響を多大に受けた。先に挙げた社会改革主義者ロバート・オーウェンと同世代のヒルの父親、トーマス・ライト・ヒルもまた、社会改革主義の熱烈な信奉者だった。一介の工場の主任に過ぎないものの、冒険心に富んでいて、因習を忌み、旧時代のシステムのすべてを嫌悪するような進歩的な人物だったようだ。
産業革命期にそのような価値観を持つ人が多く現れたのは時代の要請だったともいえる。ただしヒルの父親は1960年代のヒッピーにも似て、平等と平和と愛に満ちた社会を夢想するも、それを現実化する積極性を持たなかった。
一方で母親のサラは、働き者で地に足の着いた実践的なセンスに優れていたようで、彼女は自分が受けることのできなかった最高の教育を、息子たちに与えるつもりでいた。フワフワした空想家の夫は経済観念に乏しく、3代続いた家を手放すことになったものの、そんな夫を助けて一家を切り盛りしていた彼女は、やがて夫が給料の悪い工場に転勤になりしょげているのを見てこう言った。「そんな工場なんて辞めて、ご自分が本当にいいと思うような学校をお作りになったら? 息子たちはそこで学ばせましょう」。
すべてはそこから始まったのだった。

ドリトル先生の郵便局


ドリトル先生の郵便局のなかで描かれた非常に希少なファンティポ切手。© Project Gutenberg Canada
 植物から動物まで、あらゆる生物の言葉を解する医師、ドリトル先生の活躍を描き、今も世界各国の子供たちに読み継がれるヴィクトリア朝時代の児童小説「ドリトル先生」。全13巻に及ぶシリーズでは、ある時はアフリカ、またある時は月を訪れたり、海底を探検したりと、ドリトル先生は様々な冒険を繰り広げるのだが、その中の4巻目が「郵便局」。
アフリカの架空の国、ファンティポ王国の君主ココは大の新し物好き。自転車を乗り回しゴルフを習うかなりの西洋カブレだが、ある時、謁見した西洋人から、英国で始まったという郵便制度の話を聞く。赤い箱を街角に置き、そこへ小さな紙を貼って投函すれば、世界中に手紙が届く、魔法のようなシステムだという。ココ王は早速、郵便局を開設。さらに王の肖像入り切手を外国のコレクターが欲しがることに着目し、珍しい切手を立て続けに発行して、莫大な外貨を稼いだ。しかし集配機能は完全に破綻し…。そこに呼ばれるのがドリトル先生で、先生はずさんな郵便制度の立て直しに尽力する。ツバメを使った世界最速郵便を導入し、動物の通信教育も始まって…。
本作が発表されたのは1923年。ローランド・ヒルの郵政改革発表から80年あまりが経過しているが、世界に郵便システムが広まる中で、上記の物語のような事件が実際起きていたとも限らない?

ドリトル先生の郵便局
作・絵:ヒュー・ロフティング   訳:井伏鱒二   岩波少年文庫
Dr. Dolittle's Post Office
by Hugh Lofting   Red Fox Publishing


夢のようにリベラルな学校

 義務教育のない時代、誰もが私営の教育施設を作ることができたが故の決断だが、こうしてヒル一家は知人を通じてバーミンガム郊外の廃校を買い上げ、校舎を増改築して自宅も構内に造り上げた。そして1803年、父親のトーマス・ライト・ヒル校長が自身の思想と夢をふんだんに盛り込んだ学校、ヒル・トップ・スクールが開校する。
多額の借金を抱えての出発だったとはいえ、今までにない自由な校風が評判を呼び、瞬く間に「新しい時代を象徴するモデル校」となる。理想主義者のヒル校長が掲げた校訓5ヵ条は、「ボランティア精神の重要性を説く」「生徒の自由な発想を重視し、興味を持つ方向へ導く」「道徳を身につけさせる」「知識を詰め込むだけではなく、自分でものを考える訓練をさせる」「協調と思いやりの精神を育てる」。
年若いローランドとその兄弟たちは、父親から学校と家庭の両方で社会主義の思想を叩き込まれる。つまり「社会を良くするために何かする」のは当たり前という教育を、幼い頃から徹底して受けてきたわけだ。彼らは先を競うように改革案を提出する。
やがてローランドは、社会貢献のための自身の道を探し試行錯誤を繰り返すことになるのだが、この時点では、父親と同じく教育者となることを考えていたようだ。現にローランドはまだ生徒のうちから同校で指導に携わり、12歳という年齢にして、生徒でもあり教師でもあるという不思議なポジションについた。彼は数学や科学の分野に秀でていた上に、物心ついた頃から父の思想をそのままそっくり吸収しており、評判がよく猫の手も借りたいほど忙しかった学校運営を手伝うことになったのは、自然のなり行きだった。

 



ヒル一家がトテナムに開校した学校の校舎となったブルース・カッスル。現在は美術館として利用されている。
館内ではローランド・ヒルの軌跡を紹介するほか、地元ハリンゲイ地区出身の歴史上の人物についての展示も行われている。
Bruce Castle Museum(Lordship Lane, N17 8NU / www.haringey.gov.uk/brucecastlemuseum)、入場無料。

 

ヒル一家にとって幸いなことに、長男のマシューとローランドは、父親の思想を継承しただけではなく、現実的な母親の血もしっかり受け継いでいた。ふたりは10代の若さで、いまだ返済しきれていない借金を返すため、学校外でも教鞭をとるほか、アルバイトにも精をだした。17歳になる頃にはローランドは一家の家計を預かり、とうとう20歳の時に借金の全額返済を達成する。彼がもともと緻密な計算を好む性格だったことがその秘訣といえそうだが、さらにローランドは、目の前の関心事に並々ならぬ情熱を注ぎ、仕事に明け暮れるといういわばワーカホリックの傾向があったことも見逃せない。そしてそれは生涯を通じて変わることはなく、彼の資質がヒル一家の経済を支えたのみならず、未来を大きく変えることにつながっていく。
ちなみに余談ながら、当時の首相はウィリアム・ピット。24歳の若さで首相の座についたことにも驚くが、それ以前は財務大臣も務めていた。ピットはなんと子供が5歳から働けるような過酷な労働法を制定している。このような時代にあっては、ローランドが10代で教師になり科学を教えたとしても、おかしくはなかったわけである。
さて、学校の評判に気を良くしたヒル一家は、2校目となる学校、ヘイゼルウッド・スクールを1819年に再びバーミンガム郊外に開校。23歳になっていたローランドは、同校の建築デザインも担当し、当時としては画期的な、英国初のガス灯を備えた学校になった(ガス灯の発明は1792年)。さらに、大ホールで全生徒が学ぶという過去200年にわたり英国で続いていたシステムを変え、少人数クラス制を取り入れた。図書室、図工室、科学実験室、舞台、体育館、プール、天文台まで設け、また、生徒による自主運営のシステムを作り、必須科目さえカバーすれば、あとは全部生徒が自分たちで物事を決定できるようにした。体罰などはもちろん禁止だ。厳しさと残酷さが混同され、体罰やいじめが蔓延し、伝統という名の因習でがんじがらめになったヴィクトリア朝時代よりも、さらに何十年か前に誕生した学校である。相当革新的であったことは想像に難くない。
この学校は主にローランド、マシュー、そして弟のアーサーによって運営され、ローランドは実質的な校長の任にあたる。3人は1822年に同校での経験を生かした学校改革案を盛り込んだ本を出版。この本はヘイゼルウッド・スクールを一夜にして有名にし、遠く南米やギリシャからも学生が訪れ始めた。本はスウェーデン語にも訳され、1830年にはヒル兄弟の思想に則った「Hillska Skolan」つまりヒル・スクールがストックホルムに開校されている。

ロンドンの地下を駆け抜けた郵便列車


地下を走った郵便列車。トンネルの直径は2~3メートル、車両幅は60センチほどと、当然ながら地下鉄よりも小さいサイズ。 © Royal Mail, courtesy of the British Postal Museum & Archive
 新しい郵便制度を軌道に乗せたローランド・ヒルは、60歳のとき、郵便本局と支局を地下で運ぶことを提案している。もともとのアイディアは30代のときに考えられたものだが、物事を改善するために尽力する彼の資質が生涯変わらなかったことを物語るエピソードだ。空気圧をエンジンとしたこの計画は、コスト面の問題から実現にはいたらなかった。しかしその後、地下を使う案は形を変え郵便史のなかに登場している。
1900年代に入り、ロンドンでは交通混雑と濃霧の影響から、主要郵便局と駅間の移送が大幅に遅れがちだった。それを解決すべく、地下に専用のトンネルと線路が設けられ、1927年12月にマウント・プレザント局とパディントン駅を結ぶ郵便列車(The Post Office Underground Railway、のちにMail Railと改称)が誕生した。開通から1ヵ月のうちに拡張され、西はパディントン駅から、東はホワイトチャペル・ロードの支局まで続く、およそ10.5キロが地下でつながった。現在多くの人でごった返すオックスフォード・ストリートの下を通過していたとされ、郵便物だけを乗せた列車が渋滞や混雑を気にせずスイスイと走ったであろう姿を想像すると、まるで物語の中の世界のようだ。この郵便専用の列車は、全盛期には1日に1200万もの郵便を運ぶほどの活躍を見せるが、残念なことに2003年に運営コスト上の事情から閉鎖を余儀なくされてしまった。

2020年完成を目指すアトラクション「郵便列車」の完成イメージ。
© Royal Mail, courtesy of the British Postal Museum & Archive
 ところが、現在この地下郵便列車を一般に公開する計画が進んでいる。完成すれば、来場者はおよそ1キロにわたる郵便列車の旅を楽しむことができるようになるという。完成予定は2020年。列車に乗るというよりは、遊園地のアトラクションに乗るような感覚が期待できそうで、今から待ち遠しい!
同時に、英国郵便の歴史や文化を、豊富な資料と体験型の展示で紹介する博物館が、ロンドンのクラークンウェル地区に建設されつつある。
開館は2016年だが、現在はマウント・プレザント局の裏手の資料室が、博物館分館として機能しており、エセックスの分館とともに、2016年オープンまでの博物館を支えている。どちらも館内見学ツアーを組んでいるほか、ライブラリーでのトーク・イベントなども随時開催されている。また、毎月1回ロンドン市内に点在する郵便ポストを含む、ロンドンの郵便の歴史について知るウォーキング・ツアーも開催されているので、興味のある方は詳細をサイトでご確認を。

BPMA Archive Search Room
Freeling House, Phoenix Place
London WC1X 0DL
The British Postal Museum Store
Unit 7 Imprimo Park, Debden Industrial Estate,
Lenthall Road, Loughton, Essex IG10 3UF
www.postalheritage.org.uk


四方八方にアイディアのタネを蒔く

 1827年、ヒル兄弟はとうとう首都ロンドンに進出し、3校目の学校を北ロンドン、トテナムのブルース・カッスル(Bruce Castle)に構える。ヘイゼルウッド・スクールのようなシステムは、伝統的習慣の根強い地方よりも、柔軟な都市でこそ、より広く受け入れられるのではないかと考えてのことだった。ヒル一家はロンドンに移住し、ここが一家の永住の地となる。
32歳になっていたローランドは校長に就任。幼なじみの女性、キャロライン・ピアソン(Caroline Pearson)とも結婚し、落ち着いた暮らしを始めた。
ところが、である。父親譲りの冒険好きの血が騒ぐのか、これまでずっとそうしてきたように、「ゼロから何かを始めてがむしゃらにやり遂げる」ことの楽しさを忘れられないのか、ローランドはここへ来て突然学校経営に対する興味を失ってしまうのだ。「社会を良くするために何かを遂行する」―その「何か」にまだ突き当たっていなかったとも言える。かねてより科学や機械、数学などを好んでいたローランドは、すでに軌道に乗っている学校の仕事をこなすかたわら、様々なアイディアを発表していく。
以下は主な彼の案だが、そのどれもが少々形を変え現在使われていることに、驚嘆の念を覚える。ローランド・ヒルは相当なアイディア・マンだったようだ。

■ 新聞専用の印刷機 ― 1枚1枚別々に刷らずに、ドラム上に長いロールで回転させて印刷すれば早いと政府に発案。しかし、値段の印を各ページに載せなければいけないからとして却下される。今思えば、これは輪転印刷機の一種だった
■ 郵便業務のスピードアップを計るため、馬車(Mail Coach)の中で仕分けや日付の押印などの郵便業務を行う
■ 数字を符号のように使ってメッセージを送る(モールス信号の元)
■ 馬や蒸気機関よりも早く郵便を届ける方法はないのか模索し、弾薬を使ったり、チューブ状のものに入れて空気圧で手紙を飛ばしたりを試みる(テレグラムの元)
■ 蒸気船のプロペラをスクリュー状にしてスピード・アップさせる
■ 道路を整備するための機械を考案する(舗装工事の原型)

 『発明オタク』とでもニックネームをつけられそうな彼のアイディアの数々をこうして見てみると、それぞれが「情報を早く届けるための手段」に関連していることがわかる。確かに、この時代は労働法、医療、学校など多くの重要な改革が施行された変革期だが、いかに重要な案件であろうとも、一般市民がその情報を知る手だては少なかった。
例えば、1832年にはバーミンガムの街頭に大勢の労働者が、政府改革案に関するニュースを知ろうと集まった。そこでは数日遅れのロンドンの新聞が、文字の読める者によって大声で読み上げられていた。このような状況を知っていたローランドは、どんな立派な改革や制度も市民に届きづらく、浸透はおろか、完全に蚊帳の外に置かれている現状を憂慮していた。後に触れるが、同時期にローランドは労働者層のための雑誌を創刊している。その目的が質の高い読み物を安く庶民に提供することにあったことからも、情報伝達の重要性、さらにはおざなりにされていた一般市民の「知る権利」「学ぶ権利」に対する問題意識の高さを知ることができるだろう。
ローランドはブルース・カッスルの校長の座を弟に譲ると、私財を使って輪転機を製作したり、弾薬で郵便を飛ばす実験をしたりと、実際的な開発に没頭する。その間、社会改革主義者ロバート・オーウェンの主催する農業共同体のマネジメントを任されたりもしているが、ほぼ10年間にわたり自らの発明案を発表しては挫折することを繰り返している。郵便のスピードアップに関してはことに熱心で、配達コーチ(馬車)の効率化のため、発明されたばかりのストップウォッチを使って配達時間を細かく計算するなど、様々な試みを実践したものの、常にあと一つ何かが足りない。印刷、スピード、低価格、どこに重点をおくべきか…。ローランドは悩む。だが、近代郵便制度の確立、そしてペニー切手の発明まで、もう1歩のところにきていた。

 



18~19世紀にかけ、郵便配達には馬車(Mail Coach)が用いられた。写真は1820年代に使われていたもの。© DanieVDM

 

郵便ポストの導入を実現! アンソニー・トロロープ
ポストは昔、緑色だった


ジャージー島に設置された郵便ポストのうちのひとつ。© Royal Mail, courtesy of the British Postal Museum & Archive
 連作小説『バーセットシャー物語』などを著したヴィクトリア朝の人気小説家、アンソニー・トロロープ(Anthony Trollope 1815~82)=写真=のもう一つの職業は郵政審議官。毎朝出勤前の2時間半を利用して、まるで日記のように規則的に小説を書いたため、類を見ない多作作家としても知られる。そのトロロープは、1851年に郵便サービス向上調査のためチャネル諸島へ出張した。英仏海峡に浮かびフランス本土に近いため、トロロープはこの地で「フランス人は郵便ポストというものを使っている」ことを知る。英国での試験運用を願い出た彼は、まずジャージー島に第1号を、翌年には英国本土のいくつかの都市に設置した。
ロンドンに登場したのは1855年のフリート・ストリートが最初だ。当時のポストは六角形でダーク・グリーン。ただしこの緑色はジャージー島になら似合ったかもしれないが、都市では「目立たない」「汚い色」などと散々な評判だったらしく、ロンドン・バスや電話ボックス同様、英国人の愛するあの赤色に変更された。
ちなみに、小説家という職業柄、人間観察力が鋭かったであろうアンソニー・トロロープは、ローランド・ヒルについての印象をこう語っている。「数字には異常に正確だし、事実関係の追求もすごいけれど、あんなに他人の気持ちがわからない人はいませんね」。正確にきちんと郵便を配達するため、ヒルは部下に非常に厳しかったといわれており、どうやらヒルとトロロープは相容れなかったようである。正確で迅速なことを愛するヒルがもし日本に住んだら、気持ちよく暮らせたかも?


より良き社会への飽くなき探究心

 1835年、ローランドはオーストラリアの植民地化に関する政府委員会に参加する。いささか唐突ともいえるこの仕事は、どうやら政界とのつながりを模索していたローランドがたまたま掴んだ、1本のロープであったらしい。これまで政府へ向けて何度も自分の改革案を発表し、それが黙殺されるのに嫌気がさしていた彼は、何とか政界に意見を通す方法はないものかと考えていたに違いない。一方で、実用的な知識を広めるべく活動していた出版団体の仕事に深く関わり、週刊誌「ペニー・マガジン」を創刊させる。これは、兄のマシューと友人の編集者と3人で散歩中に、「安っぽくて低級な読み物が多い中、労働者のためにもっとよい雑誌を提供できないか」と話した結果生まれたものだといわれている。
ローランドは早速、いかに安く印刷物を発行するか、その方法を考え始める。新聞の輪転機では失敗したが、今度こそという思いがあった。そのかいあって、1冊1ペニーという安価で1832年に創刊されたこの雑誌は、自然科学や時事を扱い、多い時は年間20万部を売り上げ、その後13年間にわたり発行される人気雑誌となった。
ふつうの人なら、革新的な学校の校長、あるいはオーストラリアの植民地化委員会の仕事、または人気雑誌の発行だけでも十分満足しそうなものだが、ローランドはそれでもまだ一生を賭けられると思える仕事に巡りあったという確証が得られていなかった。良いアイディアと思えば、何でも手当り次第に試すことをやめなかったのも、そのためだ。ただし、人生にムダなことは何もないのかもしれない。彼が試したすべてのことは、やがてペニー切手を生みだすために必要なステップとなっていたのだ。

 



ヒルが創刊に携わり、人気雑誌となった『The Penny Magazine』。

 

不当に高かった郵便代

 ちょうどこの頃、1833年に郵政大臣となったロバート・ウォラス(Robert Wallace)が郵政改革の重要性を説きはじめていた。これはまさにローランドが日頃から強い関心を抱いていたジャンルと重なり、彼は郵政問題に着手するようになるのだが、その前に、近代郵便制度成立以前の郵便事情について簡単に述べておきたい。
1635年にチャールズ1世によって一般を対象とした郵便制度が始められて以降、郵便サービスは国によって営まれていた。しかも財務省の管轄の下で運営され、1803~15年にかけて繰り広げられたナポレオン戦争で疲弊した国家財政を立て直すために郵便料金が引き上げられるなど、一層、庶民の手の届かないものになっていた。
また無料で配達される郵便物が膨大な量に上っていたことが問題視されていた。その理由として、国会議員や政府高官は無料で郵便を利用できたうえ、新聞の郵送も無料だったことがあげられている。この制度を利用して、議員に郵便物を頼む者や、古新聞の余白に手紙を書く者が後を絶たなかったようだ。
しかし、相手がだれであろうと、中身が新聞だろうと、郵便物を運ぶためには一定のコストがかかる事実に変わりはなく、その費用は有料郵便の収入によって賄わなければならない。そのため、普通郵便の料金はますます割高になる。こうなると、高額であるがゆえに郵便を利用しない者も増える。ちなみにその頃の料金は、重さではなく距離と手紙の枚数で料金が決まっていた。1通の郵便代は、例えばロンドンからアイルランドへ送ると1シリング5ペンスほど。これは日雇い労働者の1週間の稼ぎのほぼ5分の1に等しかった。
基本的に郵便物を受け取る側が支払う仕組みだったことから、高額郵便料金の支払いを拒否、つまりせっかく届けられた郵便物を受け取らない者も続出。拒否された手紙は差出人へ戻るので、郵便配達の労力とかかったコストは全くのムダというわけだ。
さらにまた、庶民の知恵というべきか、料金を支払うことなく目的を達成させる強者もいた。これは、差出人が受取人の住所を書く際に、本人同士にしかわからない小さなマークを記し、その印を見た受取人は、封を切って中身を読まずとも差出人が元気でやっていることを確認するというもの。この時代、工場や鉄道の建設ブームであり、そうした仕事のために故郷を離れて都市で暮らす労働者が大勢いた。携帯やEメールで当たり前のように遠く国外とでも連絡が取り合える現代とは違い、この頃の通信手段は手紙のみ。彼らは故郷の家族と連絡をとるべく、様々な工夫を重ねたのだ。
産業革命でこのような人口移動が起きていたことも、郵政改革の必要性が叫ばれる要因のひとつとなっていた。

 



郵便料金が手紙の枚数によって決められていた時代、枚数を少なく抑えるため、人々はクロス・ライティングという書き方を用いた。
写真のように、紙を縦(あるいは横)に置いて普通に書いた後、紙を回転させて、さらにメッセージを綴った。
© Royal Mail, courtesy of the British Postal Museum & Archive

 

1枚の切手に9億7000万円!
世界最高額を記録

 切手収集を趣味に持つ人は少なく、希少価値の高い切手は、かなりの高値をつけることもある。
今年6月、世界中の多くの収集家らの間で『渇望の品』とされてきた切手が、競売大手のサザビーズのニューヨークにて競売にかけられ、約950万ドル(約9億7000万円)で落札された。その切手とは、1856年当時、英国領であった南米ガイアナで作られた1セント切手(The British Guiana One Cent Magenta)。およそ2.5センチ×3.2センチの大きさで、英国から運ばれていた切手が不足したことから、発行されたもの。それまでの切手の最高額230万ドルを塗り替え、世界最高額を記録した。ちなみに、以前の所有者が1980年に落札したときには93万5000ドル。過去34年で、ゼロがひとつ増えたことになる。


念願の「ペニー・ブラック」ついに誕生!

 ローランド・ヒルは早くからこうした問題に気づいていた。一般郵便が高額すぎるのが第一の問題であり、国会議員や政府高官が無料で郵便を利用できるというシステムも悪しき旧弊以外の何物でもない。しかし、赤字に悩む政府が、労働者の懐に優しい改革などに着手するだろうか。
ヒルは1837年に郵政改革を説く有名なパンフレット「郵便制度改革:その重要性と実用性」(Post Office Reform: Its Importance and Practicability)を出版する。これまでの苦い経験から、政府に直訴するだけではなく、シティのビジネスマンから署名を集め、マスコミを最大限に活用するロビー活動を盛んに行った。
ヒルは言う。「誰もが互いに手紙を送れるようになること、それは、読み書きを学ぶために積極的になるということで、教育改革にも通じるはずだ。さらに、友人同士で、母親が子供に、妻が遠隔地にいる夫と連絡を保てるようになるので、国民の団結心を助けることにもなる。単に商業上の成功だけではなく、社会改革の重要な一助になるはずだ」。

 



ヒルの偉業を称え、肖像画入りの記念切手が何度か発行されている(写真は1995年版)。
右上には通常通りエリザベス女王の横顔のシルエットが記されている。
Rowland Hill Stamp Design © Royal Mail Group Ltd (1995)

 

 これには非常に多くの賛同者が集まった。
とうとう政府は1839年9月16日、前評判に押される形で、ヒルのパンフレットを基にした郵政改革法案を始動させる。同時に郵政に関するアドバイザーの地位を得たヒルの当初案は、重さ0・5オンスまでの一般郵便は、距離に関わらず一律4ペンスに。その代わり、女王を含む誰もが平等に料金を支払うこと。さらに、その料金は前払いにすること等だった。
この新しい郵便制度は同年の12月5日、ロンドンと一部の都市で初めて試行された。郵政大臣ロバート・ウォラスをはじめ、旧友などから、新しい制度を祝う祝辞の手紙をヒル自身も数多く受け取ったという。そして、全国的な制度開始は数ヵ月後の予定だったが、国民からの強い要望によりほぼ1ヵ月後の1840年1月10日、予定を前倒しして正式にスタートした。
またこの頃、ヒルは郵便の料金前払いを示す証拠はどのように表示すべきか、アイディアを公募していた。全国から2600あまりが寄せられたものの、どうやらヒル自身のアイディア、すなわち「裏に糊のついた指定の印紙を購入して、それを手紙に貼る」が最も簡単のようだった。デザインは、芸術的なドローイング風なものも考えたが、財務省所属の印紙局で働く兄に相談したところ、印刷費をなるべく安価に済ませるためにも、できるだけシンプルに、そして小さな紙にした方が良いとのことで、ヒルは流通している硬貨に似せて、即位したばかりの若きヴィクトリア女王の横顔を配した。当初の4ペンスが1ペニーに値下げされ、黒地に女王の横顔だけが印刷されたこの切手は、5月6日から利用が始まり、それはやがて「ペニー・ブラック」と呼ばれることになる。

 



ヒルにちなんで名づけられた通り「Rowland Hill Avenue」(教鞭をとったブルース・カッスルの近く)。
また、晩年を過ごしたハムステッドには「Rowland Hill Street」がある。

 

 ヒルの改革により英国の郵便利用者数は、すぐさま今までの2倍に増加した。1854年までには世界30ヵ国がヒルの郵便制度を取り入れ、日本でも明治維新後間もない1873年、英国式郵便制度を導入している。ついでながら英国の切手は現在も国名を印刷せず、エリザベス女王の小さな横顔のシルエットで代用しているが、これは当時の名残り。国名の入らない郵便切手は世界でも類を見ないが、これは切手を発明した国の強い自負の表れといえるだろう。
起業家、改革者として各方面で並々ならぬ才能を振るったヒルは、人々の記憶に残り、社会にとって有益となるような仕事に、ついに巡りあった。政権が代わったせいで一時郵政の仕事から離れることを余儀なくされたものの、後に郵政省次官(Secretary to the Postmaster General)として復帰し、1864年の引退まで郵政界で辣腕を振るう。
自説を信じ常にパワフルに物事を押し進めたため、同僚からの評判はいまひとつだったともいわれる。しかし数々の功績はそれを払拭するに余りあり、1860年にはヴィクトリア女王からナイトの称号も叙された。ローランド・ヒルは、1879年8月27日、ハムステッドの自宅で死去する。83歳だった。葬儀はウェストミンスター寺院で執り行われ、ヒルは寺院内のチャペルに埋葬される栄に浴した。数歩離れた位置には、幼い頃彼が尊敬し夢中になった、蒸気機関の発明者ジェームズ・ワットが眠っているという。



シティのキング・エドワード・ストリートにはヒルの像が建つ。
© Eluveitie


歴史を動かした英国の巨人 ウィンストン・チャーチル《前編》

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2015年07月30日 No.892

●Great Britons●取材・執筆/本誌編集部

 

歴史を動かした英国の巨人

 ウィンストン・チャーチル《前編》

 




歴史を動かした英国の巨人 ウィンストン・チャーチル《後編》

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2015年08月06日 No.893

●Great Britons●取材・執筆/本誌編集部

 

歴史を動かした英国の巨人

 ウィンストン・チャーチル《後編》

 




アイヌと共に生きた男 ニール・ゴードン・マンロー 《前編》 [Neil Gordon Munro]

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2013年5月30日 No.781

取材・執筆/佐々木敦子・本誌編集部

 

アイヌと共に生きた男

ニール・ゴードン・マンロー [前編]


20世紀前半、日本でアイヌ人たちの保護に人生を捧げた
一人のスコットランド人がいた。
彼の名はニール・ゴードン・マンロー。
考古学への興味から来日するが、
アイヌ先住民との不思議な縁が彼のその後の運命を決した。
「アイヌの皆の様に葬ってくれるね」と言い残し
北海道の地に没したマンローの生涯を辿りながら、
彼がこれまで正当に評価されることなく
日本の近代史に埋もれていた理由なども、
マンロー生誕150周年を機に探ってみたい。

© Fosco Maraini

 

参考文献:
『わがマンロー伝―ある英人医師・アイヌ研究家の生涯』桑原 千代子著・新宿書房刊、
『N.G.マンローと日本考古学』横浜市歴史博物館編纂ほか


 

2013年春、横浜市歴史博物館で、ある特別展が開かれた。タイトルは「N・G・マンローと日本考古学 ―横浜を掘った英国人学者」。スコットランド出身のニール・ゴードン・マンロー(Neil Gordon Munro)生誕150周年を記念して開催されたものである。
1942年に79歳で死去したマンローが初めて日本の地を踏んだのが28歳の時のこと。横浜で行った発掘調査で見つけた旧石器時代の人骨がきっかけで、
マンローは日本人のルーツ、そして期せずして日本の暗部に触れることになる。マンローにとって、そして日本人にとってアイヌはどう捉えられていたのか。前編では、マンローの横浜時代を中心に送る。


 

◆◆◆ 考古学に魅せられた青年医学生 ◆◆◆


 



マンローが医学を学んだ、エディンバラ大学医学部の旧校舎(1906年当時)
ニール・ゴードン・マンローは1863年6月16日、北海に面したスコットランドの都市ダンディー(Dundee)に、外科医の父ロバート、母マーガレット・ブリング・マンローの長男として生まれた。ちなみにマンローという苗字を持つ一族はスコットランドでは名家のひとつであり、その祖先は14世紀まで辿ることが可能だという。
父親のロバートは開業医で、その傍らで刑務所と救貧院の医師も兼任していた。マンローの下には後に彼のあとを追って日本の地を踏むロバート(父親と同名)を始め、5人の兄弟妹が誕生。だが、一般に同族意識や故郷への愛着が強いとされるスコットランド人には珍しく、マンローには家族や故郷に関する逸話があまり残っていない。しかも25歳でスコットランドを離れて以来、79歳で死去するまでにたった1度しか英国、欧州に戻っておらず、かなり淡白な性格だったとも思われる。
だがそんなマンローでも、一家の長男である以上は将来父親の医院を継ぐはずであり、親の期待もあったようだ。現に本人もそのつもりで1879年から1888年までエディンバラ大学の医学部に在籍している。ところが医学の勉強中に、マンローは考古学の魅力に取り憑かれてしまう。
当時はチャールズ・ダーウィンが『種の起源』を出版して20年が経過したところで、進化論に対する評価はようやく定着したばかり。この頃の欧州考古学界は、進化論の法則に基づいた人類の起源や進化の過程を確かめようと、原人発掘ブームに沸いていた。1866年に大森貝塚を発見したエドワード・S・モースを始め、ハインリッヒ・フォン・シーボルト(江戸末期に来日したシーボルトの次男。父親と区別するため、日本では『小シーボルト』とも呼ばれている)の日本での発掘調査などでも分かるように、考古学界の目は東洋へと向けられてもいたので、マンローがインドや東南アジアでの原人発掘を夢見たとしても不思議ではない。
また、ダーウィンが死去したのはマンローがエディンバラ大在学中の1882年であり、若きマンローがその著作に影響を受けた可能性も高い。
その昔、ダーウィンはマンロー同様エディンバラ大で医学を学ぶも、血を見るのが苦手で退学し、ビーグル号に乗って世界の海へ繰り出していった。そして各地で動植物を収集しながら、後に世界を揺るがすことになる進化論の基礎を導き出すに至るのだ。マンローが卒業後、インド航路客船医という一見奇妙なポストに就いたのは、ダーウィンという先例があったからと考えても、まるきり見当違いではないと思われる。


◆◆◆ 憧れの世界を目指して離英 ◆◆◆

 

病気で1年休学したものの、マンローは1888年に医学士と外科修士の学位をとり無事にエディンバラ大を卒業。そして当時大英帝国の植民地であったインドや香港を往復する貨客船の船医として働き始める。
マンローのこの進路選択について、父ロバートはどういう態度を見せたのか。記録はないようだが、諸手を挙げて賛成してくれたとは考えづらい。それどころか、いつ遭難するともしれぬ危険な仕事として大反対されたとしてもおかしくない。父ロバートはこの翌年に他界するが、この際に家族内で大きなしこりができたとすれば、この後、マンローが故郷と疎遠になったことも説明がつく。
さて、貨客船といっても大型客船ではなく、郵便物、そして軍用品などの貨物の運搬が主だったため、マンローの仕事は船員の怪我や客の船酔いの手当といった簡単なものばかりだった。
マンローは1ヵ月のうち1週間から10日を陸上で暮らしたが、その貴重な時間を現地での旧石器発掘調査などにあてたわけだ。鉛色の空をあおぎ見ることの多いスコットランドから一転、カラフルな未知の文化圏へ。マンローの驚きと歓びは大きかったに違いない。彼は英国の発掘隊たちが訪れた遺跡などを一人で精力的に回っている。
だが、当時インドの統治国だった英国は、発掘のために正式な届け出をすることもせず、出土したものはそのまま英国に持ち帰るといった、現代においては「略奪」と呼ばれる行為を繰り返していた。そして、希望に溢れたマンローがインドや香港で見たものは、 植民地を統治する英国人による現地の人々に対する人種差別、民族的偏見、およびインド国内のカースト制による激しい階級差別だったという。
マンローはそのことに心を痛め、後に妻であるチヨに当時の模様を語っている。海外では「英国」と一括りにされてしまうものの、マンローがスコットランド人だったことを思うと、彼はスコットランドやアイルランド、またケルト文化に対して行われたイングランドによる侵略行為や差別の歴史を重ねあわせていたのではないだろうか。また、原人の頭蓋骨を扱う考古学者的見地からすれば、「ある人種の民族的な優越性」などは存在しないというのがマンローの立場だった。やがてこの時の体験や思索は、後にマンローが北海道で見せるアイヌへの献身的態度につながっていく。

 

◆◆◆ 病床で聞いた原人発掘の報 ◆◆◆


 


オランダの解剖学者、人類学者、マリ・ウジェーヌ・フランソワ・トマ・デュボワ(Marie Eugne Franois Thomas Dubois、1858~1940)=写真下=が発掘した、『ジャワ原人』の頭蓋骨の一部と大たい骨=同左 © Peter Maas=は、世界に衝撃を与えた。
インドで細々とながら石器発掘を行っていたマンローだが、北国育ちの彼にとってこの国の猛暑とモンスーンはひどく体にこたえた。体調を崩した彼は1890年にはインドを離れ、香港と横浜を結ぶ定期船アンコナ号の船医になる。さらに翌1891(明治24)年5月12日、28歳目前のマンローは香港より一層気候の穏やかな横浜へ向かうため、汽船オセアニック号の客となる。療養が目的だったようで、マンローは到着後すぐに横浜の山手地区にある外国人専用のゼネラルホスピタルに入院した。
奇しくもその8月、33歳の軍医ウジェーヌ・デュボワが当時オランダ領だったインドネシアで原始人類の骨を発掘。それは「ジャワ原人(ピテカントロプス・エレクトゥス)」と名付けられ、東南アジアで人類が進化したとする学説に俄然信憑性が出てきた。
マンローがこのニュースに興奮したであろうことは間違いない。デュボワに「先を越された」とさえ思っただろう。やがて健康を取り戻したマンローは、医師として日本で暮らし始める。現在は英国同様島国の日本だが、大陸とつながっていた時に原人が渡っているはずである。それはいつの時代で、どんな原人なのか。それを自分が発見しようと決意したのだ。とはいっても、マンローはこの後50年の長きにわたって日本で暮らすことになると、その時想像していただろうか。答えは「ノー」である。運命の出会いは、まだそれが起こる兆しさえ見せてはいなかった。


 

◆◆◆ 駆け出しの発掘研究家 ◆◆◆


 


ドイツ帝国出身の医師、エルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Blz、1849~1913)は、『お雇い外国人』として日本の近代化に関わった。。
実はこの後数年のマンローの足取りははっきりと掴めていない。30歳でゼネラルホスピタルの院長に就任したという説がある一方で、横浜市内の病院を転々とした後、自らの診療所を開いたとする説もある。ただ確かなことは、優秀な外科医として腕を振るう傍ら、横浜を中心とした神奈川県各地の発掘を試みていたということだ。
また、文明開化を遂行し、欧米に追いつこうとする明治政府によって招待されていた「お雇い外国人」たちが当時はまだ日本に残留しており、マンローはこうした先輩たちと交流していた。中でもマンローが影響を受けたのは、東京大学で医学を教え、のちに宮内省侍医となったエルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Blz)であろう。
ベルツは、当時の日本が近代化を急ぐあまり、自国固有の文化を軽視するばかりか、恥ずべきものと考えてさえいることに危惧をいだいていた。そして「今の日本に必要なのは、まず日本文化の所産のすべての貴重なものを検討し、これを現在と将来の要求に、ゆっくりと慎重に適応させることなのだ」と憂える言葉を残している。
彼は考えを同じくする、小シーボルトと共に多くの美術品・工芸品を購入し保存に努めるほか、若いマンローとともに発掘にも参加。やがて、1905年に日本を去り、1913年に祖国ドイツで64歳で死去するが、日本にいるマンローに考古学研究費として3千円を贈るよう遺言を残している。

 

◆◆◆ 「満郎」になったマンロー ◆◆◆


 


マンローを北海道へと誘った、ジョン・バチェラー(John Batchelor、1854~1944)=写真中央
ここで、マンローのプライベートな側面について触れておこう。マンローは80年近い生涯の中で4人の妻を娶っているが、最初の妻とは1895(明治28)年に結婚した。19 歳のドイツ人アデル(Adele M.J.Retz)で、医薬品から雑貨、武器までを扱う横浜きっての貿易商「レッツ商会」の令嬢だった。彼らの暮らしは何一つ不自由のない恵まれた新婚生活であったに違いない。翌年にはマンローの父親と同名の長男ロバートが生まれている(1902年に死去)。
また、1898年には、1877年以来北海道でキリスト教の伝導に努めるイングランド人宣教師、ジョン・バチェラー(John Batchelor)の案内で初めて北海道に旅している。これが、マンローの後の生涯を大きく左右することになる。この時はマンロー自身も気づいてはいなかったものの、アイヌ人、アイヌ文化との運命の出会いだったといえるだろう。
バチェラーはアイヌにキリスト教に基づいた教育を施すための学校を創立したほか、アイヌ語の言語学的、民族的研究に多くの業績を残した人物である。彼は、アイヌ人はコーカソイドが日本に渡ったものだという、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(江戸末期に来日した『大シーボルト』)の唱えた「アイヌ白人説」を支持し、原ヨーロッパ人の子孫が現在の日本人によって不当な仕打ちを受けていると考えていた(次頁コラム参照)。
この説は極東の「高貴な野蛮人」というロマンチックなイメージで捉えられ、当時欧州の研究家たちの関心を誘っていたのである。バチェラーはマンローを誘うことで、共にこの説を証明しようとしたのだろう。マンローとバチェラーはやがて大論争の果てに袂を分かつに至るのだが、これについては後編で述べよう。
マンローの幸せな結婚生活はそう長くは続かなかった。医師としての仕事に従事する以外は、マンローは泥だらけになって発掘をするか調査レポートを書いているかのどちらかで、華やかな社交界での集まりに慣れていたアデルに構うことはなかった。
そればかりか、彼は高畠トクという女性と関係を持つに至るのである。時期的には長男を亡くした後とされるが、ある時、横浜で旧石器に関する講演を行ったマンローは、終了後、一人の日本人女性から日本語の読み方に関する誤りを指摘される。それが高畠トクだった。


釧路を訪問した際、宿泊先でくつろいだ表情を見せるマンローとチヨ夫人(写真:北海道大学提供)
マンローは英語で講演をしたのだが、彼女は旧士族の娘で英語も堪能な教養ある女性だった。感銘を受けたマンローはその場で彼女に通訳として働いてくれるよう頼む。そして1905(明治38)年にアデルと離婚。数ヵ月後にトクと再婚している。
こう書くとスムーズに話が進んだようにもみえるが、当時の日本で外国人同士が離婚するというのは余り例のないことであり、法律上の手続きは難航した。業を煮やしたマンローは荒技を使う。即ち、離婚前の妻共々日本に帰化したのである。満郎(まんろう)という漢字をあてて日本人となった夫妻は、無事に離婚することができたという。マンローが日本に帰化したのは、つまりは「いろいろ面倒だったから」ということになる。
 

マンローと4人の妻たち
マンローが故郷や家族に対して比較的距離を置いていて、淡白(冷淡?)な性格らしいことは本文でも触れた。その一方で4度も結婚している。ここではマンローが築いた4つの家庭から、マンローの姿を探ってみよう。

①アデル・マリー・ジョセフィン・レッツ(婚姻期間:1895~1905年)
ドイツ人。声楽とピアノの得意なレッツ商会の令嬢。マンローとの間にロバート、イアンの2人の男児をもうけるが、ロバートは幼くして病死。マンローは自著『Prehistoric Japan』を彼に捧げている。発掘に熱中し研究に湯水のごとくお金を使うマンローと、それを疎ましく思うアデルは夫婦喧嘩が絶えなかった。やがて秘書兼通訳である高畠トクが現れ、夫婦間の亀裂は決定的となる。マンローとトクとの関係に嫉妬したアデルは、トクも招待された実家のクリスマス・パーティーで、ピアノを叩き付けるようにヒステリックに演奏し、客の前でマンローから平手打ちを食らっている。

 


トク(32歳)とアヤメ(4歳)。離婚した頃の写真といわれている(『高畠とく先生思い出の記』より転載)
②高畠トク (婚姻期間:1905~09年)
久留米柳川藩江戸詰家老の次女。明治維新で零落し、自活の道を築くため横浜で女中奉公をしながら和漢の学識や英語力を身につけた。芙蓉の花にも似た気高い美しさを持っていたといわれる。マンローとの間にはアヤメ(アイリス)という女児を出産。しかし、博士号取得のために英国へ赴いたマンローは、戻ってくると手のひらを返したように冷たくなっていたという。離婚の際、武士の娘だからだろうか、トクはマンローに金銭を要求せず、黙ってアヤメを連れて立ち去った。アヤメは成人してからフランスに絵画留学することになり、トクがマンローにそのことを連絡すると「いいんじゃない?」という返事のみが返ってきたと伝えられている。アヤメは留学中に結核にかかり、28歳で死去する。

③アデル・ファヴルブラン
(婚姻期間:1914~24年/正式な離婚成立は1937年)

父はスイス人、母は日本人。父親の死去以降、ファヴルブラント家は傾き、妻の実家の財力をあてに無料診療ばかりしていたマンローは負債を抱える。貧乏とマンローの浮気の双方に悩んだアデルはヒステリー状態になり、「精神系疾患の治療で有名な精神科医フロイトに治療してもらえ」とマンローに無理矢理欧州へ送り出されてしまう。結婚祝いに父親から3000坪の敷地と豪邸をもらっていたアデルは、それを売り払い、マンローの負債も補ってウィーンへ去る。

④木村チヨ
(婚姻期間:1924~42年/正式な結婚は1937年)

香川県高松市のべっこう商の娘で、日赤看護婦養成所を首席で卒業した後、日露戦争に従軍し宝冠章勲八等を受ける。その後神戸の病院で婦長として働いているところをマンローにスカウトされる。アデルとの離婚が難航したため、チヨは長い間「妻」という肩書きの無いままマンローを支えた。軽井沢でも北海道でも無給だったという。マンローはチヨを「地上の天使」と呼び、全ての遺産をチヨに贈るという遺言状を残している。チヨはマンロー亡きあとも、軽井沢で婦長として長く働き、1974年に89歳で死去。


◆◆◆ 横浜で竪穴式住居を発掘 ◆◆◆


 


今年はマンロー生誕150周年にあたる。これを記念し、4月から5月末にかけて横浜市歴史博物館で行われた特別展のポスター。同展にあわせて発行されたカタログの内容の濃さも特筆に価する。マンローの業績を広く知らしめたい、という主催者側の情熱がそこかしこに感じられた。
トクという優秀な通訳を得た後、マンローの行動半径はいっきに拡大する。 バチェラーとの北海道旅行でアイヌの風俗や文化に触れたマンローは、アイヌに深い興味を抱き、彼らが用いる木工品の彫り文様と、縄文土器に施された模様の共通点に注目した。そしてアイヌこそ縄文人の子孫なのではないかと考える。
マンローはこの仮説を証明しようと、横浜根岸競馬場付近貝塚(1904年)、小田原の酒匂川・早川流域(1905年)、横浜三ツ沢貝塚(1905年)の3ヵ所を精力的に調査するが、三ツ沢貝塚発掘の際には「トレンチ(塹壕)方式」という地層に沿って掘り進む画期的な方法を採用した。
それまで日本で行われてきた発掘調査は、ここぞと思うところを掘ってみて、何も出なかったら別の場所を掘るという、宝探しにも似た行き当たりばったりな方法で、調査も日帰り程度が主流だった。しかしマンローは、7ヵ月という長い期間を費やし、何かが出ようが出まいが関係なく、一定の広い区域を層位区分ごとに均等に掘り進めるというやり方を採用した。
そしてこれによって日本初の縦穴住居跡を発掘したばかりではなく、土器、石器、そしてアイヌ人の特徴を有する原人5体の人骨を、ほぼ完全な姿で掘り出したのである。それまで日本列島には前期旧石器文化は存在しないと思われていたので、これは実は大きな発見であった。
マンローはこれらの結果をまとめ、『Prehistoric Japan』として自費出版する。そしてアイヌ縄文人説に一石を投じたのである。当時日本の学会でも「日本人起源論」については議論されており、概ね「コロポックル説」と「アイヌ説」とに分かれていた。コロポックルとはアイヌの神話の中に出てくる小人で、それによると「アイヌがこの土地に住み始める前から、この土地にはコロポックルという種族が住んでいた。彼らは背丈が低く、動きがすばやく、漁に巧みであった。又屋根をフキの葉で葺いた竪穴にすんでいた」という。
マンローはコロポックルはアイヌ伝説に過ぎず、実在はしないとしている。だがコロポックル説を唱えるのが日本人類学会の会長である坪井正五郎氏とその一派であったためなのか、マンローの三ツ沢貝塚での重要な発見そのものが、一介のアマチュアの慰みとして学会から黙殺されてしまう。『Prehistoric Japan』が英語で書かれたせいもあるのだろうか。評価したのはほんの一握りの人々に過ぎなかったようだ。
マンローの発見から44年後の1949年、群馬県岩宿遺跡から旧石器が発見されたことで、日本における前期旧石器文化の存在は、やっと認知されたという有り様である。
この頃のマンローは、書いた論文を定期的に英国へ送ったほか、発掘品の多くも整理してスコットランド博物館へ送っているが、それは単に英国が「アイヌ白人説」のためにマンローの研究に興味を持っていたからだけではなく、日本の学会における面倒な派閥システムのために、自分の研究が日の目を見ないことを怖れたからではないかと推測できる。
また、エディンバラ大学では医学士を取得し、日本での医療行為には何の問題もないマンローだが、なぜかこの頃博士号の学位の必要性を痛切に感じていたという。おそらくそれも、日本の学会で自分の論文や発見が取り上げられなかったことと関係があるのではないだろうか。「医学博士」という肩書きを重視する人々が学会の中に多くいたであろうことは想像に難くない。マンローは『日本人と癌』という博士論文を執筆すると、1908(明治41)年にエディンバラ大での口頭試験のために英国へ向かう。マンローにとって20年ぶりの、そして最後の英国行きであった。

 

明治政府のアイヌの扱い
1997年まで残った

「北海道旧土人保護法」

◆北海道は古くから「蝦夷」と呼ばれ、沖縄同様、日本国内の外国というような特殊な扱いを受けてきた。明治時代になると、政府による植民策がすすみ北海道への移住者が増加。開拓使や北海道庁は、先住していたアイヌの人たちに一部の地域で農業の奨励や教育・医療などの施策をおこなったが十分ではなく、生活に困窮する者たちが続出した。

◆このため、政府は明治32年に「北海道旧土人保護法」を制定(マンローが初めて北海道旅行をした翌年でもある)。これは、アイヌの人たちを日本国民に同化させることを目的に、土地を付与して農業を奨励することをはじめ、医療、生活扶助、教育などの保護対策を行うものとされた。

◆しかし実際には、アイヌの財産を収奪し、文化帝国主義的同化政策を推進するための法的根拠として用いられる。具体的には、アイヌの土地の没収/収入源である漁業・狩猟の禁止/アイヌ固有の習慣風習の禁止/日本語使用の義務/日本風氏名への改名による戸籍への編入―などがあげられる。

◆明治から第二次世界大戦敗戦前まで使用された国定教科書には、アイヌは「土人」と表され(行政用語では明治11年から「旧土人」)、差別は続いた。

◆戦後は、一転して国籍を持つ者、すなわち「国民」としてのみ把握され、現在もその民族的属性や、集団としての彼らへの配慮がなされているとは言い難い。ちなみに、この法律が廃止されたのは、なんと1997年(平成7年)のことであった。


◆◆◆ 「不器用で八方破れ」な性格 ◆◆◆


 


マンローは、国立スコットランド博物館=写真右=に、日本で発掘したおびただしい量の考古学資料を送った。横浜市歴史博物館で行われた特別展で発行された厚いカタログ=同上=では、それらが丁寧に紹介されており、感嘆するばかり。
 マンローは英国で試験を受け無事博士号を取得したほか、尊敬する先輩であったベルツと再会し旧交を温めた。その一方、エディンバラ博物館の美術民俗学部門を訪れ、正式な日本通信員に任命される。これによりマンローはその後6年に渡り、アイヌ民族学資料や2000点以上のコレクションをエディンバラに送り続けている。
半年後、父親の遺産(父親はマンローがまだ船医だった頃に死去している)の他に、マンローはあろうことか「ブロンドのフランス人女性」を連れて帰国。これが原因で高畠トクとは協議離婚し、彼女は2人の間に出来た娘アヤメを連れて家を出る。だが問題のフランス人女性は結局すぐ欧州へ送り返してしまい、マンローは優秀な通訳を失った状態でアイヌの調査を続けることになる。
40代後半になっていたマンローだが、自らの手で家庭を叩き壊した挙句、身の回りの世話をする小間使いと運転手を連れて、横浜市内で転々と住所を変えている。『わがマンロー伝』を著した桑原千代子氏の言葉を借りれば、この頃のマンローは「不器用な八方破れで、妥協知らずの突っ走り」だったというが、マンローはどんな精神状態で暮らしていたのだろう。帰化して日本国籍になってはいたものの、日本語はほとんど話せず、家族もいない。研究結果を発表するも学会からは無視される。そんなマンローがただ一つ握りしめていたのは、「自分の研究が正しく価値のあることだと信じる気持ち」だったのではないだろうか。
やがて、欧州で第一次世界大戦の勃発した1914年、51歳のマンローは、最初の妻の実家と並ぶ横浜きっての資産家であるスイス貿易商の娘で、名前も同じ、28歳のアデル・ファヴルブラント(Adele Favre‐ Brandt)と出会った。彼女の両親はマンローの年齢や過去の女性関係に不安を覚えたものの、二人は結婚。マンローはアデルの財産が目当てだったと考える人々もいるが、実際のところは分かっていない。
マンローはこの頃調査のためにしばしば北海道各地を訪れているが、次第に釧路や白老に住むアイヌたちと親交を深め、その独自の世界観に惹かれ始める。

軽井沢サナトリウムでポーズをとるマンロー(年代は不詳/写真:北海道大学提供)
折しも1915年は北海道で大飢饉が起きていた。マンローはアイヌの置かれている境遇に心を痛め、研究の合間に無料で彼らの診察を始める。結核が蔓延していたが、アイヌは薬草と祈祷しか治療法を持たなかったのである。
マンローは医師として活動しながらアイヌの儀式と風習を調査するようになり、徐々に北海道での滞在期間が長くなりはじめた。湿度が低くて夏も涼しいこの地に、故郷の面影を見いだしたということもあるかもしれない。北海道庁は時折コタン(アイヌの村や集落の意)に滞在するこの外国人医師に興味を持ち、マンローに向けてアイヌに関する5つの質問を発している。その一つ、「アイヌは高等なる宗教を理解し享益し得るか?」という質問に対し、マンローはスコットランド高地人の例を挙げて説明。「かつては政治と教育の不在によって哀れむべき状態にあったが、その後英国における第一流の学者を輩出したことに照らし合わせれば、ある種族と他の種族の間に教育の差はあっても、知能上の差はない」と断言しているのだ。すでに医師や研究者として以上の熱意が、ここにはこもっていると見受けられる。
マンローは横浜だけでなく、外国人の多い避暑地軽井沢の病院で忙しい夏の間だけ働いていたが、これに加え北海道でアイヌの人々の世話をするという、移動の多い忙しい日々を送り始める。
今やマンローの研究の比重は、石器や人骨といった考古学から生きた人間、すなわち人類学の分野へと移りつつあった。さらにもう一つ、軽井沢の病院にマンローの未来の、そして最後の妻となるチヨが婦長としてやって来るのである。

 

欧州のアイヌの扱い
ナチスも利用した「アイヌ・コーカソイド説」
ドイツの医師で博物学者のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866、日本では『大シーボルト』とも呼ばれる)によって、アイヌが周辺の他の言語系統と無縁で孤立していると言う見解が公にされてから、アイヌはコーカソイド、つまり原ヨーロッパ人もしくはヨーロッパ人に起源を有する民族ではないかと言う認識が1860年頃より広がった。

欧州各国は調査団や研究者を派遣したり、現地にいる欧州出身者に働きかけ、競合しながらアイヌの骨格標本をこぞって入手し始めた。1865年に起きた英国領事館員によるアイヌ墳墓盗掘事件なども、この流れで起きた事件である。アイヌとヨーロッパ人の頭蓋骨比較研究によって、その類似性はより説得性に富むようになった。英語はもちろん、ドイツやフランス語で書かれたアイヌ研究書が意外な程多く存在する理由はこのためである。

昭和初期、純血主義のナチス・ドイツはこのコーカソイド説を利用し、「アイヌは欧州から来たアーリア人の祖先である。ゆえに、日本人もアーリア人である」という、誰がどう考えても無理があるだろうと思われる論法で、日本と同盟を結んだ。

 

◆◆◆ 関東大震災発生! ◆◆◆


 


関東大震災が起こった翌日、東京から避難しようとする人々でごったがえす、日暮里駅。
 1923(大正12)年の夏は特に暑かった。
例年のように夏だけ軽井沢で働くマンローと共に、妻のアデルやファヴルブラント一家も避暑のために勢揃いしていた。ところが、心臓に持病のあった82歳の義父ジェームズが8月7日に大動脈破裂で倒れ、マンローの手当のかいもなく急逝。横浜に戻り葬儀を済ませた一家が再び軽井沢へ戻ったのは8月25日だった。
そのわずか6日後、9月1日午前11時58分。マンローはいまだかつて経験したことのない天変地異に遭遇する。
関東大震災であった。京浜地方のほとんどが灰燼に化すことになる大震災が襲った時、マンローは昼食のため家族の待つ自宅へ戻ろうとしていた。軽井沢の病院内で激しい上下動を体験したマンローは、何度も続く揺り返しの中で、懸命に横浜の病院に電話をかけるもつながらず、不安はつのるばかりだった。
夜になると東京方面の空は炎のせいか奇妙に明るいようだ。マンローは、ともかく行けるところまで行ってみようと、救護体制を整えて翌朝一番の信越線に乗り込んだ。
東京が近づくにつれ、被災して恐怖の一夜を過ごした人々の疲れた姿が増え始めた。ところがマンローの乗った汽車は日暮里(現東京都荒川区)止まりで、そこから先は不通である。だが横浜まではまだ遠い―。赤十字の炊き出しや地方へ避難する人々でごった返す日暮里駅に下車したマンローは、近くの農家から馬を買い取る。彼は幼い頃から馬に乗り馴れており、交通の便の悪い軽井沢でも、足代わりにしていたほどであった。
マンローは馬の背にまたがると、傷つきよろめきながら避難する群集をよけつつ、あちこちで白煙がたちのぼる中、横浜方面に向けて一路駆け出した。 
(後編に続く)

アイヌと共に生きた男 ニール・ゴードン・マンロー 《後編》 [Neil Gordon Munro]

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2013年6月6日 No.782

取材・執筆/佐々木敦子・本誌編集部

 

アイヌと共に生きた男

ニール・ゴードン・マンロー [後編]


20世紀前半、日本でアイヌ人たちの保護に人生を捧げた
一人のスコットランド人がいた。
彼の名はニール・ゴードン・マンロー。
考古学への興味から来日するが、
アイヌ先住民との不思議な縁が彼のその後の運命を決した。
「アイヌの皆の様に葬ってくれるね」と言い残し
北海道の地に没したマンローの生涯を辿りながら、
彼がこれまで正当に評価されることなく
日本の近代史に埋もれていた理由なども、
マンロー生誕150周年を機に探ってみたい。


 

参考文献:
『わがマンロー伝―ある英人医師・アイヌ研究家の生涯』桑原 千代子著・新宿書房刊、
『N.G.マンローと日本考古学』横浜市歴史博物館編纂ほか


 

【前編のあらすじ】
考古学への憧れが高じて来日。横浜で行った発掘調査で見つけた旧石器時代の人骨がきっかけで、図らずも日本人のルーツ、そして日本の暗部に触れることになったニール・ゴードン・マンロー(Neil Gordon Munro 1863~1942)。スコットランドのダンディー生まれながら日本に帰化したマンローは、関東大震災を始め、満州事変、日中戦争と激動の時代に巻き込まれていく。やがて太平洋戦争が勃発。敵国である英国からやってきたマンローが、当時「土人」とさえ呼ばれていたアイヌの人々や、その文化を守ることができるのか。後編では、マンローの北海道時代を中心に送る。


 

◆◆◆ 大震災で垣間見た地獄 ◆◆◆

 

1923年9月1日午前11時58分。関東一円を激しい揺れが襲った時、マンローは軽井沢にいた。横浜で医師として勤めるかたわら、夏場は外国人客でにぎわう軽井沢のサナトリウムで診療にあたっていたのである。 
関東大震災の翌朝、横浜へ向かおうとしたものの、汽車は日暮里駅どまり。マンローは馬を買い取り、みずから手綱を握って駆けた。ようやく横浜にたどりついた時にはすでに夜半になっていた。港近くの石油タンクが巨砲の炸裂するような爆発音とともに黒煙をあげて燃え上がっていたという。
マンローの病院も新居も、3人目の夫人であるアデルの実家も全て焼失。日本人だけではなく外国人居留地に住む数千人の西洋人も被災し、多数の死者が出た。マンローは新居に残していた研究メモや蔵書をことごとく失うが、多くの論文や発掘物を定期的に英国に送っていたのは不幸中の幸いだったといえる。マンローは焼失した英領事館の敷地内に大急ぎで作ったテント張りの医療施設で、怪我人の手当や防疫に奔走した。
190万人が被災し、10万人以上が死亡あるいは行方不明になったとされるこの関東大震災で、マンローは幸いにも自分の家族の誰をも失わずにすんだ。しかし、英国の領事夫妻は帰国中で難を逃れたが、領事代理は重傷、副領事は圧死という惨状だった。また、多くの避難民が横浜公園に逃れたものの、四方八方から火の手が襲い、人々は防波堤をのり越え海中へ避難したという。その数は数千人とも言われるが、風に乗った熱と煙りは沖へ向かい、救援の船が埠頭に近づくのを妨げた。怪我人の手当にあたるマンローの脳裏を、「地獄」という言葉が一度ならずよぎったのではなかろうか。
横浜の住居を失ったマンローは、これを機会に本格的に軽井沢に居を移すことにし、横浜の病院へは年末限りと辞表を提出する。32年にわたる長い横浜時代はこうして終わった。

 


 

◆◆◆ 『同胞』からの支援 ◆◆◆

 


軽井沢サナトリウムでのスタッフ集合写真。マンローは前列中央(写真:北海道大学提供)
横浜きっての資産家で大貿易商であるアデルの父親、ファヴルブラントからの援助で開設していた「軽井沢サナトリウム」は、主に結核患者の療養所として運営されていた。東京都内や横浜で被災し、家を失ったことにより軽井沢の別荘へ避難した西洋人は少なくなかったとはいえ、避暑地の病院を、1年を通してオープンし続けるのは効率的ではなかった。マンローは日本でいち早くレントゲンを導入した1人で、その他の最新機器導入にも積極的だっただけに、人口も減り、患者は近所の貧しい小作人や木こりたちのみになる(マンローはこうした患者には無料診療するのが常だった)冬季の軽井沢では、大幅な赤字を計上したのである。
しかも、関東大震災の直前に、富裕な義父が他界したこともあり、軽井沢で新生活をスタートさせた一家は瞬くうちに経済難に陥る。そんな中でのマンローの不倫は、妻のアデルを精神的に不安定にさせるには十分だった(『前編』9頁のコラム参照)。彼はサナトリウムの婦長、木村チヨと関係を持ち始めたのである。アデルは「軽井沢の冬は寂しすぎる」という言葉を残して、マンローの元を去る。ウィーンのフロイト博士の元で精神面の治療を受けるというのが名目だったが、実際には、マンローに欧州に送り返されてしまったといったほうが正確だろう。この後マンローとアデルが再び会うことはなかった。
一方でマンローは、患者だった詩人の土井晩翠、避暑客だった思想家の内村鑑三、そして来日講演の際に軽井沢を訪れた科学者のアインシュタインなどと交遊をもった。この頃結核を病んで療養滞在していた、『風立ちぬ』で知られる作家、堀辰雄とも顔見知りだったようだ。彼の『美しい村』に登場する「レエノルズ博士」は、マンローがモデルであると言われている。ただし、あまり良くは書かれておらず、マンローについて否定的な声もあったことを伺わせる。
また、1929(昭和4)年には来日中の社会人類学者で、ロンドン大学のC・G・セリーグマン教授が軽井沢を訪問。教授はマンローが日本亜細亜協会で行った講演に関する著作を読み、そのアイヌ研究を高く評価、研究を続けるよう激励している。ロックフェラー財団による研究助成金に申し込むことも勧め、教授自身が推薦者となった。マンローは、祖国からの来訪者である同教授の応援を得てどんなに嬉しかっただろうか。この教授の後押しこそ、マンローが北海道へ移住する大きなきっかけとなったのである。
セリーグマン教授はマンローに、起源や解釈の偏重から脱して正確な事実の記述を行うよう伝え、一般化を焦らずに小グループのアイヌの行動、言説、考えを優先してまとめるよう助言。これ以降、マンローは「熊送り」(右コラム参照)に代表されるようなアイヌならではの風習の記録に努める。今でいう人類学のフィールドワークというところだろう。

 

数奇な運命を辿った 「熊送り」の映像


マンローと二風谷アイヌの長老、
イソンノアシ氏=写真右。
© electricscotland
◆熊送りは狩猟にまつわる儀礼のひとつで、アイヌ語で「イオマンテ」と呼ばれる。動物(子グマであることが多い)を儀式に従って殺し、その魂が喜んで神々の世界に戻って行き、再び狩りの対象となって、仲間と共に肉体という形で戻ってくるよう、祭壇を設えてクマの頭部を祀り、酒や御馳走を捧げる。

◆マンローは1905年と30年にこの儀式を見学し、映像でくまなく記録した。ジョン・バチェラーが野蛮な風習と呼び、マンローとの考え方の違いを決定的にした問題の映像である。また、当時の警察からは検閲時にズタズタにカットされ、四分の一の短さになってしまったとも言われる。

◆オリジナル・フィルムはマンローの死後行方不明となっていたが、敗戦直後の長崎で米進駐軍用の土産物屋から出てきたのである。店先でこれを偶然発見した人物は、そこに映されている映像を見て、ただのフィルムではないと気付き、言語学者の金田一京助博士の元へ送った。やがて国立歴史民族博物館に安住の地を見いだしたのは1982(昭和57)年のことである。

◆一方、マンローはこのオリジナル映像から16mmプリントを何本か製作しており、そのうちの1本は英国に送られていた。ロンドンの王立人類学協会(Royal Anthropological Institute)に保管されており、『The Ainu Bear Ceremony』のタイトル、監督: N.G Munroとして、現在 27分のDVDで購入も可能になっている。

◆また、イオマンテの儀式は「生きたクマを殺す野蛮な行為」として1955年以来法律で禁じられていたが、2007年に「正当な理由で行われる限り」として禁止通達が撤廃された。マンローが生きていたら、さぞ喜んだことだろう。昔ながらの伝統や風習に対する評価は、その時々の時勢によって変化していくものなのだと、改めて思わずにはいられない。

 

◆◆◆ 「アイヌの聖地」への移住 ◆◆◆

 



1933年、東釧路貝塚で行われた調査の様子。ゴム長靴をはいたマンローの姿が中央に見える(写真:北海道大学提供)。
結婚こそしていないものの、アデルのいない今となっては実質的な妻である木村チヨ婦長を連れ、マンローは1931(昭和6)年、北海道へと移住する。彼はこの時すでに68歳になっていた。広い北海道にあって、日高山脈の麓にある二風谷(ニブタニ)を選んだのは、アイヌへのキリスト教布教に努めるバチェラー宣教師の勧めだったらしい。二風谷は沙流(サル)川に沿ってコタン(アイヌの集落)が点在し比較的人口が密集しており、和人(日本人)の数も少なく、昔から「アイヌの聖地」とも呼ばれていた。
マンローとチヨはこの地に永住する決意をかため、土地も購入、新居の建設に取りかかる。ロックフェラー研究助成金があるとはいえ、もう昔のように余裕のある暮らしをすることはできない。しかも満州事変が勃発し、日本は軍国主義の道を歩み始めていた。前途は多難に見えたが、それでも2人は夢と希望を持って進んだ。


1933年に完成した、二風谷の自宅の玄関前に立つマンローとチヨ夫人。2人のうれしそうな笑顔が印象的(写真:北海道大学提供)。
二風谷のアイヌたちは興味津々でマンローとチヨを迎え入れた。今まで多くの研究者たちがこの地を訪れ、自分たちを「研究」しては去って行ったが、この西洋人は何をする気なのか。
マンローは家が出来上がるまでの間にと、ある商店の倉庫を借り受けた。倉庫といっても藁葺き屋根の小さな木造建てで、それを改造し、診療所、書斎、自宅に分けた。そして時間をかけて、コタンの人々と信頼関係を築いていこうと決める。彼は横浜時代に研究がはかどらなかった時、自分が大学で正規に考古学を履修しなかったことを何度も悔やんだことがあるはずだ。しかし、この北の大地で、考古学者ではなく医者であることのメリットに改めて気づかされたのではないだろうか。
マンローはアイヌの人々に向け無料で診療を開始する。チヨが優秀な看護婦であることは大きな助けだった。バターや小麦粉、牛乳といった、マンローには欠かせないがコタンでは珍しい食材を使って料理をするのも彼女の役割で、チヨが作るビスケットは特にコタンの子供たちの間で大評判だったという。「マンロー・クッキー」と呼ばれたその菓子のために、子供たちは嫌な注射も我慢したと伝えられている。マンローは往診をこなし、農作業のアドバイスまでしていたとされ、「コタンの先生」としてアイヌの人々に受け入れられた様子がうかがえる。
しかし、マンローはここで「飲酒」という大きな障害につきあたる。当時アイヌの人々のあいだで、これは深刻な問題で、マンローは「過度の飲酒はしないように」と何度も住民たちに告げたものの、効き目はあまりなかった。
原因は日本政府による「旧土人法」にあった。同法はアイヌに狩猟と漁業を禁じていたが、元来アイヌは狩猟民族であり、農耕民族ではない。自分の土地を持つという感覚にすら乏しい彼らに、突然、種や苗を与えて、これからは農業一本で暮らすようにと命じた訳だ。それがどんなに乱暴な政策だったかは想像に難くない。家の前の川に鮭が泳いでいるのを見ながら餓死するアイヌ住民が現れた。結核も流行し、農業どころの話ではない。すっかり自信を失ったアイヌの人々が行き着いた逃避先が、アルコールだったのだ。また、アルコール依存症による労働力の低下が、さらに彼らの状況を悪化させるに至っていたのである。

 


 

◆◆◆ 2度目の研究資料喪失 ◆◆◆

 

二風谷に移り住んで間もない1932(昭和7)年12月の深夜、診療所兼自宅として使っていた商店の倉庫の薪ストーブ煙突付近から突然火の手が上がった。気づいたコタンの人々が手に手にバケツを持ち、雪の塊をすくって駆けつけたものの、藁葺き屋根の木造家屋はあっという間に火に包まれる。マンローとチヨは着の身着のまま、ガウン姿の裸足で飛び出し、やっとの思いで難を逃れた。
だが、関東大震災で多くを失った経験のあるマンローは、これまでに蓄積してきたアイヌの研究資料と蔵書を再び失うことに耐えられず、燃え盛る家の中へ戻ろうとする。皆に抱きとめられ、家に戻ることは叶わなかったが、ショックのあまり狭心症の発作を起こし、雪の上に倒れ込んでしまう。その間にも火は木造家屋を焼き、短時間のうちに全ては灰燼に帰した。

マンローの診療鞄と、横浜で仕立てられたスーツ(写真:北海道大学提供)
68歳という年齢ながらも、新たな気持ちで再出発したばかり。研究資料を再び失ってしまうとは―なぜこんな目に遭うのかと、マンローは自分の運を呪う。だが、運命の女神はその後も手加減することなく、彼を翻弄し続けるのである。
確固とした証拠がある訳ではないものの、火事の原因は放火ではないかとマンローとチヨは考えた。堀辰雄の『美しい村』の「レエノルズ博士」に関する記述が批判的であることからも推測できるように、2人は全ての人々から愛されていた訳ではなかったようだ。
特に、アイヌ相手に商売をする和人たちは、マンローがアイヌに飲酒しないよう戒めることを日頃から忌々しく思っていたという。しかも、「アイヌの世話をする西洋人」ということで、常に奇異の目で見られていた。この事件は新聞でも取り上げられたが、そこでは意外なことに、「放火」事件の原因にはジョン・バチェラーとの対立が関係しているのではないかと示唆されている。
考古学者でもある宣教師バチェラーとの対立とは、マンローが1930(昭和5)年から翌年にかけて撮影した「熊送り」の記録フィルムを北海道大学で上映したことに端を発する。バチェラーは「この様に残酷野蛮な行事の記録映画を公開するなどというのは、一民族の恥をさらすようなものである。マンローはなんと心ないやり方をしたものか」と批判した。
これに対し、マンローは「(バチェラーは)長年アイヌコタンを伝道に歩いているはずなのに、アイヌの精神面については全く理解しようとせず、一方的にキリスト教をおしつけ、沢山入信者を増やしたことを自慢するが、それは決してアイヌ民族の『心』を理解したことにはならない。アイヌにはアイヌの信仰する神がある」と烈火のごとく怒ったという。

マンローを北海道へと誘った、ジョン・バチェラー(John Batchelor、1854~1944)=写真中央=だったが、「熊送り」の記録をめぐって、マンローと対立してしまう。
新聞のゴシップ並の推測に従うならば、こうした意見の相違が高じて、バチェラーが、自分が改宗させた信者を扇動し、マンローの集めたアイヌの記録を焼失させた、ということになるだろうか。
しかし、いくら2人が対立していたといえ、アイヌを思う気持ちには変わりがないはずである。貴重なアイヌの記録を台無しにするようなことがあったとは信じ難い。とはいうものの、放火か失火かをも含め、今となっては真相は藪の中である。
さらに、この火事は和人との溝を深めるきっかけともなってしまった。マンローに倉庫を貸していた家主は、同じ敷地内にあった自分の倉庫を類焼で丸ごと失ったことが原因だった。倉庫には酒、味噌、醤油、菓子雑貨類の商品がギッシリ詰まっていて、商店を営む家主としては大損害である。だがこの火事を放火と信じるマンローは、家主に賠償金を払おうとはしなかった。この確執は醜聞となって広がり、「賠償金が払えないから放火だと触れ回って責任を逃れようとしている」と陰口を叩かれた。そして、腹の虫が収まらなかった家主のせいで、後年マンローたちは大変な苦労を強いられることになるのである。

 

脈々と受け継がれる、研究への思い
今回の前・後編の掲載にあたり、次の関係機関には多大なるご協力をいただいた。この場をお借りして厚く御礼申し上げます。また、マンローの思いがこうして受け継がれているのだと感じずにはいられなかった。

北海道大学 アイヌ・先住民研究センター www.cais.hokudai.ac.jp
◆2007年に北海道大学の共同教育研究施設として誕生。多文化が共存する社会において、とくにアイヌ・先住民に関する総合的・学際的研究に基づき、それらの互恵的共生に向けた提言を行うとともに、多様な文化の発展と地域社会の振興に寄与していくことを目的として設置された。

◆北海道大学アイヌ・先住民研究センターを中心とした研究グループによる「北方圏における人類生態史総合研究拠点」が、平成25年度日本学術振興会研究拠点形成事業「先端拠点形成型」に採択されたという。 国内の連携研究機関である東京大学総合研究博物館と琉球大学医学研究科と協力しつつ、海外の事業拠点機関であるアバディーン大学考古学部(連合王国)とアルバータ大学人類学部(カナダ)および連携機関であるオックスフォード大学東アジア考古学・芸術・文化センターと交流を重ねながら、北方圏における人類と環境との相関関係の歴史を解明するための領域横断型の研究拠点と若手研究者の育成を目指す。

沙流川歴史館 www.town.biratori.hokkaido.jp/biratori/nibutani/html/saru0N.htm
◆北海道沙流郡平取町字二風谷に設立された施設。北海道に人が住み始めたのは紀元前2万年ころの旧石器時代という。沙流川(さるがわ)流域でも、集落が形成されていた。沙流川歴史館では、そうした歴史を学ぶことができるよう、町内で出土した約一万年前からの考古資料を公開しているほか、平取町の母なる川、沙流川の今と昔に関する展示などを行っている。なお、同地域内には、平取町二風谷アイヌ文化博物館などもある。

 

◆◆◆ 「コタンの先生」が得たつかの間の幸せ ◆◆◆

 


1938年、フランスの考古学・人類学者、ルロワ・ガーデン=写真左端=を二風谷に迎えた、マンロー夫妻(写真:北海道大学提供)
マンローの災難を知った多くの人々から見舞金や品物が彼の元に送られた。日本亜細亜協会、軽井沢避暑団、外人宣教師団や英国人類学会が手を差しのべてくれたほか、セリーグマン教授はロックフェラー財団から再度研究費がおりるように取り計らってくれたという。このことは、失意の中にあったマンローとチヨを大きく勇気づけたに違いない。
ほどなく、建設中だった診療所兼自宅も出来上がった。外から見ると2階建て、中は3階建てという立派なもので、書斎は火には絶対強い石造り。出窓が多くどことなくスコットランドを彷彿とさせるデザインには、マンローの好みが反映されているという。のちに北海道大学付属北方文化研究所分室となる建物の完成である。
無料で診療を受けられて薬ももらえ、子供には手作りのおいしいお菓子やパンまで配られるとあって、子供たちの手にひかれるようにしてコタンの大人たちも診療所を訪れ始めた。やがて治療を受けにくるだけではなく、仕事が暇になると他愛のないおしゃべりに集まるようになり、二風谷のマンロー邸は、コタンの人々のサロンとでも呼べる場所となった。
男たちは熊や鹿を射止めた際の昔の手柄話に花を咲かせ、時にはヤイシヤマ(情歌)を歌って聞かせたり、マンローやチヨも巻き込んで一緒にウポポ(伝統的なダンス)を踊ったりした。
また、2人はアイヌの伝統的な結婚式や葬式にも招待され、その貴重な風習を自ら体験する機会を得た。長老たちの信頼も得たマンローは、彼らの先祖伝来の様々なしきたりや儀式、病気にかかった時の「まじない」、薬草の使い方、狩りのための毒矢の扱い、鮭漁の方法など、様々なことを教えてもらい、それら全てを丹念にノートに書き写した。第二次世界大戦終結後、マンローの遺稿集として出版された『Ainu Creed and Cult』は、こうした聞き書きが編集されたものだが、本にまとめられたのはマンローの書き残したものの十何分の一に過ぎず、日の目をみないままの重要記録がいまだに眠っているという。
このように自分を信頼してくれる優しいコタンの人々が、なぜ貧しく気の毒な暮らしに追いやられ、和人たちから蔑まれなければいけないのか、マンローは憤った。人々が自らの歴史と誇りに目覚め、結核をはじめとする様々な病気を追い出し、健康で元気に働けるコタンを築くにはどうしたらいいのか。マンローはあれこれ考えをめぐらせる。稲作が難しいなら果樹栽培はどうか。リンゴ、梨、イチゴ、葡萄の苗を軽井沢や新潟から取り寄せ、実際に自分たちの庭で何年も試した。土壌や肥料の研究まで手がけたという。
そればかりか、将来は乳牛や羊の飼育をコタンに広げたらどうかともマンローは考えた。ワイン造りや、牧畜による酪農経営。もしも野菜や酪農が根付いたら、今度は沙流川の水を引き入れて一大スケートリンクを作り都会人を誘致してもいい。新鮮な食材を供給する大きなサナトリウムを作るのもいいかもしれない――。マンローの夢は広がった。

 

今も北海道の四季をみつめる 旧マンロー邸


1940年頃のマンロー邸。同邸の前に立つ、マンローの姿が認められる(写真:北海道大学提供)。右上の写真は、現在のマンロー邸(写真:沙流川歴史館提供)
◆1933年に完成した、木造3階建のマンロー邸。現在は北海道大学所有で「北海道大学文学部二風谷研究室」と呼ばれている。登録有形文化財(建造物)。

◆「マンサード」というスタイルの屋根、妻面屋根裏部の出窓などが特徴の洋館で、白い外観がまわりの景観に映える。

◆住所は、北海道沙流郡平取町字二風谷54-1。


 

 


 

◆◆◆ ワタシハ、ニホンジンダ! ◆◆◆

 

不安定な精神状態に陥り、その治療のためにウィーンへと旅立った妻のアデルからは、年に数回便りがあった。だがマンローはどうにかして正式に離婚出来ないか、そればかり考えていたようだ。老齢を迎えた彼は、自分の死後、チヨに財産が残せるようにと心配したのだった。なんとか協議離婚という体裁を整えたマンローが、晴れて木村チヨと結婚したのは1937(昭和12)年6月30日のことだった。マンローは74歳。チヨとの生活もすでに13年が経過していた。

マンローが愛用した籐椅子と机
(写真:北海道大学提供)
チヨに残せる財産と言えば、助成金の半分を使って建てた診療所兼自宅、蔵書、自著からの印税などであろうが、一方で、ロックフェラーの研究助成金は、この結婚がなった1937年で終了することになっており、マンローはじりじりと生活経済の不安を感じるようになっていた。
マンローは、大事な自宅を売り払って札幌に引越し、借家住まいをしながら、コタンの人々からの聞き書きをまとめて出版することも選択肢に含めていた。考えが錯綜しているようにも思えるが、今までの研究成果を全部発表するには、5冊の著作を著すことになる計算だった。マンローにそれ程多くの時間が残されているだろうか。しかも金銭の余裕もない。マンローは焦っていた。


4度結婚したマンローには3人の子供があった(最初の子は幼少時に逝去)。マンローは、2番目の妻、高畠トクとの間に生まれたアヤメ(アイリス)=写真= を、ことのほかかわいがったが、1933年、アヤメは留学先のフランス・リヨンにて、28歳の若さで病死した(写真:北海道大学提供)。
ちょうどその頃、奇妙な噂が相次いで流れ始めた。マンローが「無資格で診療している」「アイヌを使って北海道の地図を作成している英国のスパイらしい」というような根も葉もない悪意あるものだった。
「無資格」に関しては、無料診療を行うマンローのもとに患者が流れてしまうことを恐れる近隣の和人の医者が流したもので、「英国のスパイ」に関する度重なる様々なデマは、火事で仲のこじれた、かつての家主によるものだった。
当時の日本は国家総動員法が発令されたばかり。これは国を挙げて国民の一人一人を戦争に駆り立てるための様々な規制を含んだ法律で、物資欠乏に備えることに加え、言論や思想に関する規制が日本中を包み始めた。「贅沢は敵だ」「外人見たらスパイと思え」といった標語も大々的に宣伝され、防諜の名のもとに密告制度がはやり始めた。
北海道とて例外ではなく、マンローの外国への定期郵便物も検閲を受けており、検閲どころか没収されたものもあったようだ。この状況は、マンローを打ちのめした。実際どこへ行くにも監視付きで、秘かに尾行されていたという。しかも二風谷のコタンでこそ尊敬を集めていたものの、一歩その外へでれば「ガイジン、スパイ」とはやし立てられ、石を投げられることもあった。ある時、軽井沢からの帰りに、マンローとチヨは憲兵に列車から引きずり下ろされ、殴る蹴るの暴行を受ける。マンローは下手な日本語を使うことを嫌い、普段英語で通して暮らしていたが、この時「ワタシハ、ニホンジンダ! とっくの昔に帰化して日本人! 国籍日本人!」と日本語で叫んだという。チヨが、「マンローは秩父宮さまのテニスのお相手をおつとめ申しあげたこともある、軽井沢の病院長です」と訴え、これを憲兵が東京へ連絡。事実が確かめられたことで、ようやく2人は釈放されたという。
当時このような目にあっていた外国人はマンローだけではなかった。幕末に来日、貿易商として活躍した長崎のグラバー氏の長男、富三郎氏は、官憲の圧迫などに堪えかねて自殺している。また、函館にある食料品店「カール・レイモン」に商品注文のため連絡したマンローは、店主がユダヤ系のために迫害され、他社に強制買収されたことを知る。1938(昭和13)年6月に日独伊防共協定が締結されて以来、遠い東洋の地にもヒトラーのユダヤ排斥政策の波がおしよせてきていたのである。

 


 

◆◆◆ コタンの人々に見守られて ◆◆◆

 



二風谷の自邸内で、書棚の前に立つマンロー(写真:北海道大学提供)
大柄で丈夫そうに見えていたものの、さすがにマンローの体にも衰えが目立ち始めていた。
コタンでの無料診療を続けるために、マンロー夫妻は毎年3ヵ月間だけ軽井沢を訪れ、裕福な患者の治療を続けることで1年分の生活費を稼いでいた。日中戦争が始まり、戦時態勢に入っていた日本で、列車で移動するだけでも大変だったことだろう。
1940(昭和15)年の夏は特に多忙で、友人に向けた手紙には「月50枚以上のレントゲン撮影、診療時間外の往診、今日も寝る前には虫垂炎の破裂で上海から担ぎ込まれた3歳の子の手当。78歳の男には限界です」とある。
翌年になると血尿が認められるようになり、マンローは腰の部分のしこりにも気が付いた。医師だけに、マンローはそれが何であるかすぐ分かったようだ。5月半ばに札幌にある北大の医学部で診察を受けると、果たして予想通り腎臓と前立腺の癌で、手術適期はすでに過ぎていた。
この検査結果が出た翌朝、マンローは市内に住む日本人の友に連絡をとった。その友人はマンローに「クロビール、ノミタイネ」と誘われたという。もう普通の店から黒ビールが姿を消して久しかったが、2人は遠くまで車を走らせ何とかビールの杯を傾けることができた。マンローはこの時自分の半生を振り返り、「研究に熱中するあまり妻子に冷たすぎた」と涙ぐんだという。

二風谷に眠る、マンロー夫妻の墓=右写真は改装前。下の写真は現在の墓碑
(写真:沙流川歴史館提供)
この頃、かつてマンローの論争相手だった宣教師バチェラーは同じく札幌で、帰国に向けての準備を急いでいた。彼は11月に65年間暮らした日本を離れ、カナダ経由で英国へ帰国する。12月8日の太平洋戦争開戦を前に、まさに間一髪のタイミングであった。
多くの日本在住欧米人がこの時期に先を争って祖国へ戻り、軽井沢の住民も櫛の歯が欠けるように減ってきた。マンローも英国へ戻るようアドバイスを受けたが、日本に帰化したうえ末期ガンも抱えているマンローにそれはできない相談だった。また、そのつもりもなかった。マンローは自分の体が動かなくなる最後の時まで、アイヌの人々の世話をすると決意していたのである。
マンローはチヨに向かって言った。 「私が死んだら、アイヌの皆と同じように葬って欲しい。泣くんじゃないよ、皆、土に帰るだけのこと。アイヌに文字はなかった。土饅頭に名前はいらないよ」
解け切らない雪が残る1942(昭和17)年4月11日、二風谷の自宅でマンローは息をひきとった。享年78。カムイ(神)に祈る大勢のコタンの人々と、チヨに見守られての穏やかな最期だったという。
もしマンローが10年早く来日していたら、明治政府のお雇い外国人として、優遇されていたかもしれず、逆に10年遅く来日していたら、戦後にアイヌ研究を華々しく発表できたかもしれない。「もしも」と言っても仕方のないことだが、彼の集めた大事なコレクションや映像、原稿が戦中戦後の混乱の中、散り散りになってしまったことを知るにつけ、マンローに与えられた運命の厳しさに胸を痛めずにはいられない。幸い、分散し、行方の分からなくなっていたマンローのコレクションは、近年になって少しずつコタンの地に戻されつつあるといい、それに従い、彼の業績にも改めて光が当たり始めた。マンローが、激動の時代に身体を張ってアイヌの人々を助け、多くの記録を残したことは、これからも確かに語り継がれねばならないであろう。

救世主か、破壊者か―。鉄の女 マーガレット・サッチャー《前編》 [Margaret Thatcher]

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2013年8月29日

●Great Britons ●取材・執筆/本誌編集部

 

救世主か、破壊者か―。
鉄の女 マーガレット・サッチャー
《前編》


大学卒業後の1950年頃、化学関連の会社で研 究員として働いていたマーガレット。© AP Photo

『鉄の女』と呼ばれた英元首相マーガレット・サッチャーが、今年の4月この世を去った。
テレビや新聞の追悼特集に触れ、政治家としてのその偉大さを改めて知らされた人も多いだろう。
一方で、彼女を忌み嫌う人々の姿に言葉を失った人もいるのではないだろうか。
英国初の女性首相として、沈没寸前だった英国を確固たる信念で救った彼女の生涯を、
今回と次回の2週に分けてたどることにしたい。

 

【参考文献】『サッチャー 私の半生 上・下』マーガレット・サッチャー著、石塚雅彦訳、日本経済新聞社刊/『サッチャリズム 世直しの経済学』三橋規宏著、 中央公論社刊/ 『Margaret Thatcher 1925-2013』The Daily Telegraph/『The Downing Street Years』Margaret Thatcher 他

 

英国の世論を分断

 

 2013年4月8日、ロンドン中心部のザ・リッツ。英国の数ある高級ホテルの中でも豪奢なことで知られるホテルだ。時計は午前11時を打っていた。第71代英国首相マーガレット・サッチャー(Margaret Thatcher)は、お気に入りのスイート・ルームで、ベッドにゆったりと腰を掛けていた。
1979年から1990年までの間、英国首相を務め、2002年より政治の表舞台から姿を消していたマーガレットは、度重なる脳卒中と認知症とに悩まされてきた。昨年末には膀胱にできた腫瘍を摘出する手術を受け、比較的簡単な手術は無事に成功したが、術後は自宅ではなく同ホテルに滞在していた。病身の彼女にとって、ロンドン・ベルグレイヴィアにある4階建ての家よりも、このスイート・ルームで暮らす方が好都合だったからだ。
10年前に夫デニス・サッチャー(Denis Thatcher)に先立たれ、双子の子供は海外に居住していたことから家族は近くにおらず、2人の介護者が交代で、24時間体制で付き添って過ごしていた。
健康状態が安定しないため訪問者は制限されていたが、首相就任10年の記念に贈られた銀食器や、彼女が11年半を過ごした首相官邸で撮影された写真が誇らしく飾られていたこの部屋には、友人らが訪れ、政治談議に花を咲かせた。時には得意の辛辣な冗談で訪問者を笑わせることもあった。過去の記憶があいまいではあったが、それでも彼女の目は未来に向けられていた。「私の父はよく口にしたわ。大切なのは過去に何を行ったかではなく、これから何を行うかということ」。
この日もいつものように静かに座り、読書にふけっていた。幼い頃から書物に触れては、そこに広がる未知なる領域に時が経つのを忘れて没頭し、多くを学んできた。文字を追いながら、様々に思いを巡らせていたに違いない。
ところが午前11時半をまわろうとしていたとき、マーガレットは脳卒中に見舞われ、不意に思考はさえぎられた。
「ミセス・サッチャー、ミセス・サッチャー」
「早く、お医者様を!!」
異変に気づいた友人らによってすぐに医師が呼ばれたものの、今回の発作は一瞬にして彼女を連れ去って行った。
英国を率いた元首相の訃報はその日のうちに各メディアによって伝えられた。デイヴィッド・キャメロン首相は、訪問先のスペイン・マドリッドから急遽帰国。「国を救った偉大な指導者」と讃え、その死を悼んだ。翌日には、17日にセント・ポール大聖堂で国葬級の葬儀を執り行うことが発表された。
葬儀には、エリザベス女王をはじめ、各国の政治家などおよそ2000人が参列。パレードが行われた通りには、沈痛な面持ちの市民が幾重にも重なるように列をなし、瀕死の状態にあった英国を救おうと闘い抜いたひとりの女性政治家への最後の別れを行った。
他方、英国各所では一部の市民らが高揚していた。「弱者を切り捨てた魔女が死んだ!」というシュプレヒコールをあげ、口が張り裂けた魔女を模した似顔絵が描かれたプラカードを掲げる老若男女、まるで凶悪犯の死を喜ぶかのように祝杯をあげる人々。
死を祝う歌として、映画『オズの魔法使い』の挿入歌『鐘を鳴らせ! 悪い魔女は死んだ(Ding Dong! The witch is dead)』が英国の音楽配信チャートで上位に踊りだした。税金を使って葬儀を挙げることに抗議の声が続出し、国民1人当たりの負担額はいくらになるかといった内容の記事が、新聞を賑わした。
「サッチャーは英国の救世主か、それとも破壊者か」
死してなおも世論を大きく分断するマーガレットが英国に何をもたらし、何を奪ったのか。そして彼女の心に残ったものとは。闘いの連続だったその生涯を振り返ってみたい。

 


 

小さな町の食料雑貨店の娘

 

 部屋に差し込む木漏れ日がやさしく揺れていた。下の階からは絶え間なく話し声が聞こえてくる。「今日はイチゴがおいしそうね。ひと山もらっていこうかしら。それから卵もお願い」。
この店の店主を務めるアルフレッド・ロバーツ(Alfred Roberts)の子供時代の夢は、教師になることだった。ところが家族には、彼に学業を続けさせるだけの経済的なゆとりがなく、13歳で学校を中退。家計を支えるためにパブリック・スクールの菓子売店で働くことになった。残念なことだったがそれは嘆いても仕方のないこと。夢をあきらめ、食品業界内で何度か転職した後、婦人服の仕立ての仕事に就いていたビアトリス・スティーブンソン(Beatrice Stephenson)と出会い、25歳で結婚。ふたりは借金をして、ロンドンから北へ160キロほど離れたイングランド東部リンカンシャーの田舎町グランサムに、小さな食料雑貨店を開いた。
マーガレット・ロバーツ(のちのマーガレット・サッチャー)は、この一家の次女として生まれた。今から88年前の1925年10月13日のことである。家族は交通量の多い十字路に面したこの店の2階に居を構えていた。家族や従業員がせわしく動き回る音、棚の埃をはたくリズム、買い物に訪れた人々のおしゃべりなど、物静かな赤ん坊だったマーガレットの耳に心地よく響いていたに違いない。
2年前に一家は2号店をオープンさせており、両親はいつも忙しく立ち働いていた。物心がつくころにはマーガレットも店に出て、商品を並べる手伝いをするようになる。真面目で仕事熱心な父の店が平凡な店ではないことは、幼いなりにもよくわかった。ピカピカに磨かれた陳列棚。果物やスパイスのフレッシュな香り。店は、最高の商品を提供しようとする父のこだわりと、丁寧なサービスで満たされていた。
地元の人々は、一家が店の2階に住んでいることを知っており、営業時間外でも、食材を切らした人がドアをノックすることもたびたびあった。一家の生活は常に商売とともにあったが、かといって、マーガレットが家族の仕事のために犠牲を強いられたかというと、そうではない。一家のために働くことは当然のことであったし、それについて家族の誰も愚痴をこぼさなかった。

 



「グランサム(Grantham)にあるマーガレットの生家=写真右。1階に父が経営する食料雑貨店、2階には住居があった。
外壁には生家であることを示すプレートが掲げられている=同上。© Thorvaldsson

 

大切なことは父から教わった

 

 両親ともに宗教心が強かった一家の生活は、キリスト教の教派のひとつ、メソジスト主義に従って営まれた。メソジスト(Methodist)とは、時間や規律を守って規則正しい生活方法(メソッドMethod)を重んじる教派だ。
日曜は朝から姉ミュリエルとともに日曜学校に参加し、その後、午前11時に一家そろって礼拝へ。午後になると子供たちはまた日曜学校に戻り、両親は日曜夕拝にも参加していた。
両親が実践する真面目な規則や、日曜日に家族で教会へ行かなければならない生活は、育ち盛りの普通の子供には退屈で、抵抗しようと試みたこともある。
あるとき、友達がダンスを始めたのをきっかけに、自分もダンスを習いたいと、父に話したマーガレット。すると父はこう答えた。
「友達がダンスをしているからお前も習うというのかい? よく聞きなさい。誰かがやっているからという理由で、自分も同じことをするのは間違っている。自分の意思で決めることが大切だよ」
友達と一緒にどこかへ出かけたいとき、映画を見に行きたいとき、父は教訓のように「他の人がやるからというだけの理由で、何かをやってはいけない」と口にした。それが本当に大切なことだと気づくまでにしばらく時間がかかったが、マーガレットの中には、厳格な父の教えがひとつひとつ植えつけられていった。

 

他の人がやるから
というだけの理由で、
何かをやってはいけない

 

政治への扉

 

 真面目で働き者、地元の人から厚い信頼を寄せられていた父は、町一番の読書家としても知られていた。子供の頃に進学することは叶わなかったが、歴史、政治さらに経済などの本を読み、独学で知識や考え方を身につけていた。一家が自営業であったおかげで、父と多くの時間を共有できたこともあり、勤勉な姿勢はマーガレットに受け継がれていく。図書館へ行き、自分と父が読む本を抱えきれないほどに借りてくることもしばしばあった。
10代前半には毎日のように「デイリー・テレグラフ」紙を読み、ときには「タイムズ」紙にも目を通した。1930年代に英国を襲った大恐慌は、グランサムの町には比較的軽い影響を与えただけで済んだものの、マーガレットに社会で起こっている出来事に関心を抱かせるのには十分すぎることであった。
第二次世界大戦が始まった1939年には14歳。戦争の背景も理解できるようになっていた。一家で囲む食卓は、戦争や政治について、父に質問を投げかける絶好の場所。父と重ねる議論に際限はなく、またどんな質問にも回答を導き出そうとしてくれる父との濃厚な時間が、マーガレットの心を政治の世界へと向かわせるのはそう難しいことではなかった。
また同じ頃、父が買ってきたラジオから流れてくる、当時の首相ウィンストン・チャーチルの演説に触れたことも印象深い思い出だ。聴き入るうちに、「英国国民にできないことはほとんどないのだ」という母国への誇りが心の中に生まれたのをよく覚えている。とはいっても、まさか自分がチャーチルと同じように国を率いる立場になろうとは夢にも思っておらず、政治家としての将来を意識するのはもう少し先の話である。

 


第二次世界大戦の英雄と言われる当時の首相ウィンストン・チャーチル。
マーガレットは、「国をなんとしても守り抜く」というゆるぎないリーダーシップに触れ、
母国への誇りを抱いていった。

 


 

本当にやりたいこと

 

 1943年10月、18歳を迎えようとしていた頃、オックスフォード大学のサマビル・カレッジに入学した。専攻したのは化学。この分野の資格を取ることで、将来、安定した生活が保証されると考えたからだ。
しかし入学後すぐ、学業の傍ら大学の保守党協会に入会したことにより、マーガレットは鉄が磁石に引き寄せられるかのように政治の世界へ引き込まれていく。
協会活動を通して、同じように政治に関心を抱く人々との出会いが始まった。ダイナミックに広がる交友関係は、小さな町で育った若者には刺激的で、すべてが輝いていた。雄弁術を学んでは仲間と昨今の政治問題について意見交換し、議論を重ねる。ときには選挙集会などの前座として演説を行った。聴衆からの批判的な質問に対し、その場で自分の中から答えを手繰り寄せ、意見を述べていく。そうしたやり取りの躍動感を味わうことは貴重な経験だった。
その頃、地元グランサムで尊敬する父に起きていた変化は、マーガレットにとっては運命としか言いようがない。「人々がより働きやすい世の中にしたい」という信念を胸に市会議員として政治に携わっていた父が、グランサム市長に選ばれたのだ。幼い頃に学業の道を閉ざされ、努力と勤勉の末にその座に就いた父と連れ立って、地方議会や裁判所などを訪れるうちに、政治への関心は異常なほどの高まりを見せる。学生生活最後の年には保守党協会の代表を務めるまでになっていた。
そして政治家としての人生を明確に意識させた瞬間がついに訪れた。
大学卒業を目前に控えたある日のことだ。ダンス・パーティーに訪れたマーガレット。終了後、泊まっていた家のキッチンで宿泊客らが集まって話をしているのを見て、自分もその輪に加わり、政治の話を始めた。
国のあり方や政策について、堂々とあふれんばかりの情熱で語るマーガレットの様子を目の当たりにした男の子がこう質問した。
「君が本当に望んでいるのは、国会議員になることだろう。そうじゃないのかい?」
するとマーガレットは無意識のうちに「そうよ、それが私の本当にやりたいことなの」と答えていたのだ。
これまで彼女自身が政治家になることを意識しなかったのは意外なことかもしれない。しかしこのとき、胸のうちに秘められ、ぼんやりとくすぶっていた野心を、手に取るようにはっきりと、そして初めて意識したのだった。

 

国会議員の候補者に

 

 1947年に化学の学位を修め、大学を卒業すると、イングランド東部エセックスにある化学関連の会社に就職。一方で政治家への道を模索するという日々が始まった。女性政治家の存在は珍しく、かつ取り立てて有力なコネクションがあるわけでもないマーガレットにとって、政治家になるという目標は、はるか遠い夢のように思われることもあった。そんなときは、いつも独学で市長になった父の姿を思い浮かべた。
2年が経とうとしていた頃、選挙への出馬の足がかりを手探りで求めていたマーガレットのもとに幸運が訪れる。大学時代からの友人の紹介で、イングランド南東部ケントのダートフォード選挙区から出馬できるチャンスを手にし、候補者に決定したのだ。24歳だったマーガレットは、最年少の女性立候補者ということで、国内外で大きな話題を呼んだ。1950年と51年の2度、同地区で選挙を戦ったが、結果はどちらも落選。しかし選挙期間中、運命の出会いが訪れた。

 


1950年と51年にダートフォード選挙区より出馬。選挙活動を行うマーガレット。
初の選挙活動は想像以上に彼女を疲労困憊させるものだった。© PA

 

人生最高の決断

 

 1949年2月、選挙集会後に開催された晩餐会でのこと。保守党支部の有力者に囲まれ、政治家の卵としてまだまだ未熟なマーガレットに熱い視線を送る人物がいた。10歳年上のビジネスマン、デニス・サッチャーだ。
デニスは政治に強い関心があったばかりか、家業は塗装・化学関連の会社。化学を専攻していたマーガレットとの共通の話題は豊富だった。ロマンチックなトピックとは言えないが、選挙区の集まりでときどき顔を合わせ、意見をかわすうちに、ふたりだけで会う機会も増えた。ソーホーにある小さなイタリアン・レストランや、ジャーミン・ストリートの「L'Ecu de France」など、お気に入りのレストランに出かけ、デートを重ねていく中で、デニスの知的さ、気さくでユーモアにあふれた性格は、マーガレットの心を徐々に捉えていく。そして、デニスがプロポーズをするに至ったことは、自然の流れだった。
「僕の妻になってくれないだろうか」
ところが、マーガレットの関心事は、一にも二にも政治。彼女の人生設計の中で、結婚というものはあまりピンとくるものではない。
「私は政治家になりたい。だから普通の奥さんのようになれない…」
「もちろんわかっているよ。そんな君だからこそ一緒にいたいんだ」
全力で選挙活動をサポートしてくれた彼の、自分を想うまっすぐな気持ち。答えを出すのに長い時間を必要とした。しかし考えれば考えるほどに答えはひとつしかないことが明確になっていく。マーガレット・ロバーツは、マーガレット・サッチャーとしてデニスとともに新たな人生を歩むことを決意。これは、彼女が人生において下した数々の決断のなかでも、最高のものとなる。
ふたりの間には子供が誕生した。しかも男女の双子。母親としての仕事で多忙を極めるが、父親譲りで向上心の強いマーガレットの学習意欲はとどまることを知らなかった。家事・育児の空いた時間を利用して、政治家として必要な素養のひとつ、『法律』の勉強に励むことを決めた。そして法廷弁護士(バリスター)資格を見事取得してのけたのだった。この時期に身につけた法的な物事の考え方、知識が、政治家としての大きな財産となったことは言うまでもない。

 


1951年12月にロンドン西部にあるウェスリーズ・チャペルで結婚式を挙げた。
マーガレット26歳、デニス36歳。© PA

 


政治への断ちがたい思い

 

 マーガレットが出産、育児、弁護士資格取得に励んだ1950年代は女性の地位に変化が訪れた時期だった。1952年には、エリザベス2世が即位し、新女王時代の幕開けとともに女性の活躍に広く関心が寄せられるようになっていく。マーガレットは選挙で破れはしていたものの、新聞に取り上げられることもあった。
政治の世界に戻りたいというマーガレットの気持ちは日に日に高まり、再び出馬を目指し、選挙区を探して奔走するのだった。
「2人の子供を抱えながら議員としての職務を果たせるのか?」
立候補者選考委員からの懐疑的な目が、マーガレットに降り注いだ。彼女自身もそういった質問は、候補者に向けられるべきふさわしいものだと理解していた。ただ、一部の批判のかげには、女性は政界に足を踏み入れるべきではないといった女性軽視の考え方があったことは、マーガレットを落胆させた。
しかし差別的な考えはくじけるに値しない。マーガレットには「私には政治に寄与できる何かがある」という自負があった。行うべきは、子を持つ母でも政治家としての職務をまっとうするのがいかに可能であるかを主張し、説得を重ねること。マーガレットには最強の味方がすぐ側にいたことも幸いした。夫デニスも妻の可能性を確信していたのだ。
こうして1959年、ロンドン北部のフィンチリー選挙区から出馬。3度目にして初の当選を果たし、ようやく政治家としての一歩を踏み出す。34歳のときのことだ。

 

政治家は誰でも
苦しい経験を
覚悟しなければならない。
それでつぶれてしまう
政治家もいるが、
かえって強くなる者もいる

 

ミルク泥棒

 

 昨年公開された映画『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』をご覧になられた方も多いだろう。メリル・ストリープ扮するマーガレット・サッチャーが牛乳を買いに行くシーンでストーリーは始まる。老いた彼女が、牛乳の価格が上がったことに不満を漏らすのだ。それは、マーガレットが地に足のついた主婦としての経済観念を胸に政策に取り組んだことを象徴しているが、一方で彼女の行った政策に対する皮肉のようでもある。
それは、のちに「サッチャーはミルク・スナッチャー(snatcher=泥棒)」と語呂のいい文句で揶揄される原因となった政策である。
1970年6月に行われた選挙で、保守党が労働党から政権を奪うと、エドワード・ヒース内閣のもと、マーガレットは教育相に任命されていた。議員生活11年目の大抜擢だ。教育費の削減を期待される一方で、現場からは教育の充実、強化を求められていた。
財務省が示した教育分野の経費削減案は、図書館利用、給食、牛乳配布の有料化など。幼い頃から図書館を訪れては本に親しみ、多くを学んできた自身の経験から、本を無料で貸し出すのは教育面できわめて重要なこと。図書館の有料化はどうにかして避けたい事項だった。
かたや、戦後に開始された児童への牛乳無料配布については検討の余地があるように感じられた。「個人が節約し、努力すれば、無駄は減らせる」。これは幼いときから受けてきた父の教えであり、今となってはマーガレットの信念でもある。かといって、すべてやめてしまっては、反発も多いだろうと考えた彼女は、無料配布を6歳以下に限定し、給食費を値上げする案を打ち出す。もちろん、健康上の理由から牛乳を必要としている児童であれば、7歳以上でも無料で受け取ることができるという条件も設けていた。
しかしマーガレットが国民に求めた『個人の節約』という理想が人々に受け入れられるのは、想像以上に困難だったようだ。「ミルク・スナッチャー」さらには「児童虐待」と非難を浴びることとなる。自らが愛するふたりの子供を育てる母親としての顔を持つ一方で、世間が描きだしたイメージは「子供たちの健康をないがしろにする非情な女性」。そんな心ない言葉に傷つかぬ母親がどこにいるだろか。マーガレットは深い悲しみにくれた。
教育相に就任してからの半年は、厳しい期間だった。自らが描く理想の社会と、やるべきことは断固やりぬくという彼女自身のスタイルを持っていたものの、日ごとに増すマスコミからの批判と、野党労働党からの執拗な攻撃に、マーガレットは憔悴していた。
弱った妻の様子に「そんなにつらいなら、辞めてもいいんだよ」とやさしく声をかけるデニス。夫の存在を支えに、「私にはまだ多くのやらなければならないことがある」と自分を奮い立たせたのだった。
「政治家は誰でも苦しい経験を覚悟しなければならない。それでつぶれてしまう政治家もいるが、かえって強くなる者もいる」。そう自分に言い聞かせ、信念をより強固なものにし、毅然とした態度で挑んでいった。そしてその言葉通り、攻撃や障害に遭うたびに、政治家としてひと回り、またひと回りとたくましく成長するのだった。

 


1959年に初当選を果たしたころのマーガレット。
1953年8月に生まれていた双子のマーク(右)、キャロル(左)は当時6歳。© PA

 


 

保守党のニューリーダー『鉄の女』誕生

 

 1973年10月に勃発した第四次中東戦争は、教育相だったマーガレットを思わぬ方向へと導いていく。
アラブ産油国による石油輸出の制限、価格の引き上げにより、世界中が石油危機に陥っていた。英国も例には漏れていない。物価が激しく上昇し、賃上げを求めたストライキが頻発する中で、保守党ヒース政権は力を失い、ついには労働党に政権を奪われる結果となった。当然、党首エドワード・ヒースのリーダーシップに対する不信感が党内に強まっていった。
そこで一部の議員の間で白羽の矢が立ったのが、まもなく議員生活15年を迎えようとしていたある女性だった。教育相という立場で自らの信念を貫く姿が党内で注目を集めていたマーガレットその人である。
とはいえマーガレットには戸惑いがあった。外相や内相などの重要ポストに就いたことのない自分にはまだ経験が足りないと認識していたからだ。最終的に出馬を決めて、デニスに伝えたときも、彼は「正気とは思えない。勝てる望みはないんだよ」と言ったほどである。保守党は野党に下ってはいたものの、2大政党のひとつであり、党首はいずれ首相になる可能性もある。容易でないのは百も承知だ。しかしそれでもなお、マーガレットの心を突き動かし、党首選挑戦の考えを固めさせたのは、保守党の将来はおろか、国の将来をヒースにはゆだねられないという、妥協できない救国の意志だった。
マーガレットの党首選への出馬宣言は、男社会である政界で、一部の人からは「まさかあの女が」と嘲笑を買った。マーガレットは「皆さん、そろそろ私のことをまじめに考え始めてもいいのではないですか」と皮肉を込めていったこともある。これがどのくらい効き目があったのかは不明だが、頑として自分の信念を貫くマーガレットの出馬は、次第に現実味を帯びていき、真剣に受け止められるようになっていった。
1975年2月、ヒース優勢が伝えられる中の投票日。予想を覆し、マーガレットがヒースを上回る票を獲得。しかし、その差は必要数に届かず、2度目の投票が行われることになった。ヒースは出馬を断念。新たに4人が名乗りをあげたが、圧倒的な差をつけて選ばれたのは、マーガレット・サッチャーだった。こうして党の運命が託されたのである。
マーガレットは西側の資本主義陣営と敵対していた旧ソ連との交友関係を深めようとしていた、労働党政権を痛烈に批判。彼女の勢いは旧ソ連にまで伝わり、現地メディアはお返しと言わんばかりにマーガレットを非難。新聞には『鉄の女』の見出しが躍った。
ミルク騒動を経験し、メディアからさんざん悪口をたたかれてきた鉄の女にとっては、痛くも痒くもない。それどころか、その響きが、ちょっとやそっとではへこたれない人間であるという印象を世間に与えたことは、むしろ喜ばしく、すっかり気に入ってしまった。そして自分のスピーチでも『鉄の女』を引用。そのふてぶてしさは、党内の同僚たちにとって頼もしい存在に映った。

 

 

首相になるのは私 秘密の卵ダイエット
  首相に就任する数週間前、マーガレット・サッチャーは、選挙とは別の闘いにも挑んでいた。それは2週間短期集中『卵ダイエット』。マーガレット・サッチャー財団が公開した資料により明らかになっているこのダイエット法は、卵、コーヒー、グレープフルーツを中心にした、食事コントロール・ダイエット。1週間で食べる卵の数はなんと28個。日本で10年ほど前に流行した『国立病院ダイエット』に似ており、体験済みの人もいるかもしれない。
注目される機会が増えることを念頭に実践したとされるが、自分が首相に選任されることへの強い自信もうかがえる。ダイエットのかいあって見事9キロの減量に成功。総選挙でも保守党を勝利に導き、すっきり晴れやかに官邸前で報道陣のフラッシュを嵐のごとく浴びることになった。

●1日のメニュー例
[朝食]グレープフルーツ、卵1~2個、ブラック・コーヒーまたはティー
[昼食]卵2個、グレープフルーツ
[夕食]卵2個、サラダ、トースト、グレープフルーツ、ブラック・コーヒー

 

 


 

内閣不信任案

 

 野党党首として過ごした4年間は、政権運営について熟考するよい期間となった。
当時の英国は、「英国病」「ヨーロッパの病人」と呼ばれるほどに衰退していた。戦後に始まった「ゆりかごから墓場まで」をうたう手厚い福祉政策により、人々の労働意欲は失われ、国に依存する体質は国民にしみついていた。1978年末から79年初めにかけて発生した、「不満の冬(Winter of Discontent)」と呼ばれる大規模ストにより、道路や下水道掃除などの公共サービスは機能せず、町には未回収のゴミが山積。あたりに異臭が立ちこめることもあった。
ストを行っていた各種労働組合は国民の権利をたてに力を増し、労働組合の支持で政権を握ったはずの労働党は、組合の存在により政権存続の危機を迎えようとしていた。もはや政府がコントロールできる域を越えている。このままでは国が立ち直れなくなる。マーガレットは内閣不信任案を突きつけ、1979年5月に総選挙が行われることが決まった。
マーガレットの選挙活動は、労働党ともこれまでの保守党とも違い、人々には新鮮だった。穏かな口調で、できるだけ難しい専門用語は使わず明快に。それでいて攻撃的かつ急進的に英国のあるべき姿を、そして自分の信念を繰り返し国民に訴えかけた。いつしか「信念の政治家」と呼ばれるようになっていた。
そうして人々が選んだのは、マーガレット・サッチャー率いる保守党。時代の流れを追い風に、英国初の女性首相がここに誕生したのである。
1979年5月4日。まもなく午後3時になろうとするころ、新首相はブルーの上品なスーツに身を包み、夫とともにバッキンガム宮殿へと赴き、エリザベス女王に謁見。その後、公用車に乗り込み、向かった先はダウンニング街10番地として知られる首相官邸だ。駆けつけた市民らの声援が響き、官邸前は熱気に包まれていた。女性首相として初めて10番地の住人になるマーガレットは、玄関前で右手を高く突き上げ、軽やかに振りながら、自信に満ちあふれた笑みで人々の視線に応えた。私なら必ず英国に栄光をもたらすことができる。沸き立つような興奮と、英国の未来を預かる者としての責任を強く意識したのだった。そしていよいよ今日から、英国を立て直す、本当の戦いが始まる――。(後編に続く)

 


1979年5月4日、初の女性首相として首相官邸に到着したマーガレット・サッチャー。© PA News

 

下院で起きた爆破事件


© PA News
 マーガレットが首相職へ向けて秒読み段階に入っていたとき、党首選で選挙運動の責任者として 勝利に多大な貢献を果たしたエアリー・ニーヴ=写真下=が殺害される事件が起きた。党内で北アイルランドを担当していたニーヴの車に、アイルランド民族解放軍 (IRAアイルランド共和軍の分派)によって爆弾が仕掛けられ、下院駐車場を出ようとした際に爆発したのだ。マーガレットに深い 悲しみと怒りをもたらした。


© bbc.co.uk

救世主か、破壊者か―。鉄の女 マーガレット・サッチャー《後編》 [Margaret Thatcher]

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2013年9月5日

●Great Britons ●取材・執筆/本誌編集部

 

救世主か、破壊者か―。
鉄の女 マーガレット・サッチャー
《後編》


© PA

『鉄の女』と呼ばれた英元首相マーガレット・サッチャーが
今春この世を去った。
英国病と嘆かれたこの国を、妥協を許さない救国の意志で率いて、
復活への道筋を示した。
逝去してもなお、賞賛と激しい憎悪を同時に受ける
稀有な女性の人生を前回に引き続き探ってみたい 。

 

【参考文献】『サッチャー 私の半生 上・下』マーガレット・サッチャー著、石塚雅彦訳、日本経済新聞社刊/『サッチャリズム 世直しの経済学』三橋規宏著、中央公論社刊/『Margaret Thatcher 1925-2013』The Daily Telegraph/『The Downing Street Years』Margaret Thatcher 他

 

【前編より】
1925年、マーガレット・サッチャーは小さな田舎町で食料雑貨店を営む一家に生まれた。勤勉な父のもと、運命に導かれるようにして政治の世界に強い関心を抱き、24歳で国政に打って出るチャンスを手にするが落選。結婚、出産を経ても政治に対する思いは日ごとに募り、夫デニスの強力なサポートを得て、国会議員初当選を果たす。確固たる信念で政策を推し進める姿は党内でも支持を集めて党首となり、1979年の総選挙に勝利。英国史上初の女性首相となった。しかし彼女の前に立ちはだかるのは、人々の夢や希望をつぶしてしまうような英国の惨状だった――。

 

英国に立ち込める暗雲

 

 テレビ画面の中で病院職員は平然とした様子でコメントしていた。
「賃上げ要求が通らなければ、患者が死んだとしてもしょうがない」
マーガレット・サッチャーが首相に就任する半年前の1978年末から79年初頭にかけて英国を激しく揺さぶった「不満の冬(Winter of Discontent)」。労働組合による一連のストライキによって、道路や下水道掃除などの公共サービスは機能せず、通りには回収されないゴミが積み上げられ、異臭を放つこともあった。医療関係者にまで及んだストの様子がテレビに映し出され、人々の心を暗くした。
この社会背景には、戦後に始まった「ゆりかごから墓場まで」をうたう手厚い福祉政策があった。労働党政権が中心となり、平等に福祉の行き届いた理想の社会を実現しようと躍起になった挙句の大盤振る舞い。主要産業が国有化されていたことも相まって、国民の勤労意欲は削がれ、国に依存する体質は人々を蝕んでいた。理想と現実はかけ離れ、サッチャー新政権発足時の財政は逼迫していた。歳出の肥大化、国際競争力の著しい低下、貿易収支の大幅な赤字。経済成長率はヨーロッパの中でも最低水準にあった。追い討ちをかけたのは、1973年の石油危機を受けた物価の上昇だ。失業率がじわじわと高まる中、さらなる石油危機が、首相就任と時を同じくして国を襲っていた。国内に立ち込める暗雲は黒く、しかも切れることが不可能と思えるほど厚かった。
大英帝国の落日、ヨーロッパの病人、英国病…。国外からも数々の言葉でさげすまれていた母国を立ち直らせるチャンスを手にした新首相マーガレット・サッチャーだったが、その前には取り組むべき課題が文字通り山積していた。

 



ロンドン中心部レスター・スクエアは、ストで回収されないゴミであふれ、
通称『フェスター(fester=腐る)・スクエア』と呼ばれた。

 

経済は手段、狙いは意識革命

 

 「サッチャリズム」と呼ばれる一連の政策は、「金融の引き締め」による物価上昇の収束、「税制改革」「規制緩和」「一般大衆参加の資本主義の導入」による企業活動の自由化と推進、経済全般の活性化を図ったことが中心にあげられる。英国の威信を取り戻そうと、多くの経済政策に着手するのだが、サッチャーが主眼を置いたのは、ぬるま湯に浸かりきった国民の依存体質を改めさせるという意識改革だった。
彼女の脳裏には、いつも離れないひとつの言葉があった。それはオックスフォード大在学中に開催された選挙集会でのこと。ひとりの年配男性がこう指摘したのだ。
「私が自分のお金を少しばかり貯金したからというだけの理由で、『生活保護』はもらえなくなる。もし、このお金を全部使ってしまったら、もらえるのに」
これは政治家に突きつけられる福祉制度の大きな問題点だった。健康上の理由から国がサポートしなければならない人がいるのは確かだ。しかし一方で、十分働けるにもかかわらず福祉に依存する人々を野放しにしてはならない。努力し、向上しようという人が評価される社会でなければ国は発展しない。幼い頃から自助努力に徹する父の姿を見ながら勉学に励んできたサッチャーがそう感じるのは当然だろう。彼女の信念は、就任後すぐに行った税制改革に色濃く表れている。
当時の税の仕組みは、所得税率が高く、真面目に働く人々の税負担によって、福祉に依存する人々を支えているような状況だった。上昇志向のある人でさえ、「給料が税金に消えるなら、一生懸命働く意味などない」という考えに至るのは仕方のないこと。サッチャーはすぐさま所得税を減税し、勤労意欲を呼び起こすためのキャンペーンを展開する。1979年に33%だった基本所得税率は、1980年に30%に、翌年以降も段階的に引き下げられていく(1988年には25%となる)。
このとき同時に、付加価値税を上げることも決定されている。一般税率8%、贅沢品税率12・5%のところを一律15%と増税。財政赤字を減らすため、収入の有無にかかわらず広く国民に税負担を強いる道を選んだのだ。
ところが、サッチャー政権は途端に支持率を落とすこととなる。付加価値税の引き上げが、所得の低い人には不利に、逆に富裕層を優遇する税制であるように受け止められたからだ。
メディアのみならず、党内からは中止を求める声が上がるが、どんなに不人気の政策であろうと自分の信念を曲げない強気のサッチャー。その姿勢は、極端な言い方をするならば「働かざる者、食うべからず」という冷酷な印象さえ与え、国民の中の反発感情を煽る結果となった。
また、異常なほどの高騰を見せていた物価は、金融財政の引き締めによって落ち着きを取り戻すきざしを見せていたものの、代わって深刻な不況を招く結果となったことも支持を落とした原因のひとつだ。政権発足後、2年連続で経済成長はマイナスを記録。大企業の人員削減、中小企業の倒産に伴い、職を追われた人も多く、1980年に160万人だった失業者は、翌年には250万人に急増。さらに1983年には300万人を超えるに至った。

 

「大きな政府」から「小さな政府」へ
 サッチャーが実施した政策のコンセプトは「小さな政府」、新自由主義とも呼ばれるものである。これは、政府の権限や役割を大きくし、経済活動を政府の管理の下に行う「大きな政府」に対して、経済の動向を市場にゆだね、役割を最小限にとどめた政府のこと。政府の役割を肥大化させる高福祉を抑制し、規制緩和や国有企業の民営化によって、民間企業が自由に活動できる場をつくり、それにより経済を活性化することを目指した。

 


© PA/photo by ROBERT DEAR


英国を揺るがした一大事件

 

 首相に就任して3年が過ぎようとしていたころ、失業率が示す数値は、紛れもない事実としてサッチャーの肩に重くのしかかっていた。解任までもささやかれる中の、1982年4月2日朝、英国中を揺るがす一大事件の報が英国民の耳に飛び込んできた。
「アルゼンチン、フォークランドに武力侵攻」。英国が南太平洋上で実効支配するフォークランド諸島の領有権を主張するアルゼンチンが、同諸島を取り戻そうと、突如部隊を派遣したのだ。
つい1週間前、国防省はひとつの軍事計画を提示していた。それは、アルゼンチンのフォークランド侵略を抑止する防衛計画。ところが、サッチャーは「アルゼンチンがまさかそんな愚かなことをするはずがない」と取り合わなかった。まさに青天の霹靂というべき事態が今、現実のものとして英国を襲ったのである。
サッチャーは間髪を入れずに軍隊の派遣を主張。党内には慎重論が多かったものの半ば強引にまとめ、武力行使に応戦する意向を示した。そして空母2隻を主力とする軍隊がフォークランドに向けて出動した。のちに「フォークランド紛争」と呼ばれる戦いである。
1ヵ月半が過ぎたころ、サッチャーのもとに一本の電話が入る。中立の立場にあった米国のロナルド・レーガン大統領からだった。
「アルゼンチンを武力で撃退する前に、話し合いの用意があることを示すべきではないだろうか。それが平和的解決の糸口だ」
するとサッチャーは、「アラスカが脅威にさらされたとき、同じことが言えますか?」と反論。その強い信念を誰に止められよう。「軍事力によって国境が書き換えられることがあってはならない」と、武力には屈しない姿勢で提案を跳ね返したのだ。
英国民にとって、はるか遠くに位置するこの諸島は、決してなじみのあるものではなかったが、日々伝えられる戦況に触れ、かつて大英帝国と称された誇りの、最後の断片をたぐり寄せるかのように、愛国心は高まりを見せていく。
そしてアルゼンチンのフォークランド上陸から約2ヵ月、アルゼンチンの降伏によってこの紛争に終止符が打たれた。
「Great Britain is great again.英国は再び偉大さを取り戻したのです」。この勝利は、フォークランド諸島を守り抜いたという事実以上のものを意味し、将来の見えない母国に不安を感じていた国民の心に大きな希望の光をともした。右肩下がりだった『冷血な女』の支持率は、祖国に自信を取り戻させた『英雄』として、急上昇するのだった。
翌年に行われた総選挙では、労働党に対し、前回の選挙を上回る圧倒的大差をつけて勝利。政権は2期目に突入し、サッチャーの世直し政策は勢いを増す。



良好な盟友関係を築いていたロナルド・レーガン米大統領と。
1984年、 米大統領別荘キャンプ・デーヴィッドにて。

 

夢を与えた大衆参加の資本主義

 

 首相就任直後から行われた国有企業の民営化も、引き続き実施されており、国民生活に大きな変化をもたらしていた。
新政権発足時に政府の管理下にあった企業の数は、放送や銀行などの公共性の高い企業のほかに、およそ50社。なかには、今では民営が当たり前と考えられるような、自動車メーカー「ロールスロイス」「ジャガー」なども含まれた。
国が運営する以上つぶれる心配はないといった安心感は、同時に就労者の意欲や向上心を低下させる。そう考えるサッチャーのもと、国有企業の民営化が次々と図られていった。
民間への移管は、政府の持ち株を一般大衆も対象に売却する形で行われた。つまり従業員も株を取得することが可能となり、業績が好転すれば配当金も受け取れるようになった結果、株主たる労働者の仕事に対する姿勢が変わったのは言うまでもない。
さらに政府が所有する資本の切り売りは、住宅分野にも適用された。低所得者に賃貸されていた公営住宅の大胆な払い下げが実施されたのだ。
階級社会の英国で、当時、家や株などの資本を持つということは、上流あるいは中流層の特権。そのため労働者層にとって、マイホームを持つということは、夢のまた夢と考えられていただけに、人生観に大きな変化を生じさせかねないほど革新的な政策だった。サッチャーは勤勉に励めば夢がつかめるということを示し、その夢は手頃な価格で手に入るよう配慮された。売却額は平均で相場の50%オフ。破格のものだった。
この政策を通し、一部の労働者層は、これまで手に届くはずなどないと思われた幸福をつかみ、財を手にする者も増えていった。サッチャーは、「労働者階級の革命家」とも称されるようになる。

 

Great Britain is
great again.
(英国は再び偉大さを取り戻したのです)

 



フォークランド紛争から帰港した空母「HMS Hermes」。
勝利を祝うため多くの市民がユニオン・ジャックを手にかけつけた。

 

労働組合との死闘

 

 労働組合が強大な力を有していたことも、英国経済と人々の勤労意欲にブレーキをかける原因のひとつだった。1970年代には毎年2000件以上のストライキが行われるような状況の中で、企業経営者の経営意欲は低下。好んで英国に投資する外国企業などあるはずもなく、サッチャー政権にとって労働組合の力を押さえ込むことは急務だった。
なかでも、やっかいな存在だったのは全国炭鉱労働組合(NUM: The aional Union of ineorkers)だ。石炭は国の重要なエネルギー資源であるため、彼らは政府の弱みを握っていたといっても過言ではない。当然、政府もしぶしぶ要求を呑まざるを得ない状況にあった。1973年にはストによるエネルギー不足のため、当時の政府が国民に「週3日労働」を宣言したこともあるほどだ。
そのNUMに、まるで宣戦布告をするかのようにサッチャーが打ち出した政策は、採算の取れなくなっていた鉱山20ヵ所を閉鎖し、合理化を図ることだった。もちろんNUMはだまっていない。1984年3月、無期限ストに突入した。政府にも劣らぬ権力を持っていたNUMは、サッチャー政権の打倒を目指し、政治闘争を激化させた。サッチャーにとって敗北はつまり、政権の終焉を意味し、結果次第では自身の進退も問われる状況となっていた。
当初は勢いのあったNUM。しかし、ストが長期化するにつれ、ストよりも雇用の確保という現実的な世論が強まり、次第に力を失っていく。これに対し、サッチャーは組合活動に規制を設けたほか、非常事態に備え、あらかじめエネルギー供給源を確保するなど、緻密な準備を行い、挑んでいく。最終的には政府の『作戦勝ち』で1年に及んだ闘いは幕を閉じた。
以降、労働組合によるストは減り、組合の攻勢の中で萎縮していた企業経営も活動意欲を見せ、健全さを取り戻していくこととなる。
一方、炭鉱の町では、「私の家族は、あの女に殺された」と、今も根に持つ人も少なくない。仕事を奪ったばかりか、町に暮らす若者の希望の芽を摘み取ったと嘆く人もいる。職を失い途方にくれる人々にとって、『鉄の女』がもたらした政策は非情かつ冷徹。弱者を踏み潰したと、恨みを募らせていった。サッチャーの毅然とした態度は、「そんなことなど構うものですか」という印象を与え、ますます嫌われていくようになる。
このように、サッチャーが求めた国民の意識改革は、すべての人を幸せにしたわけではなかった。見方によっては、弱者を支えた福祉制度を壊し、自由という名の競争社会で強者をより強くしたと捉えられ、さらなる格差につながったといわれている。またコミュニティの崩壊により、周りと協力し合った時代は過ぎ去り、代わって訪れたのは、自由競争社会の中で、自分さえ良ければいいという自己中心的な社会と指摘する人もいる。



産業の活性化を目指し、英国企業の売り込みや、外国企業の英国誘致を先頭に立って行ったサッチャー。
日本の自動車産業にも目をつけ、1986年9月に日産自動車が進出するに至った。
英国日産本社の開所式に訪れ、発展を祈った。© PA

 

割れるサッチャリズムへの評価
 サッチャーが行った「ビッグバン」と呼ばれる一連の金融自由化政策により、外国の資本が多く流入することになった英国。世界中から資金が集まり、なかでもロンドンは世界最大級の金融都市に発展したことで、サッチャーの政策は一定の評価を得てきた。しかし2007年に起きた世界金融危機は、英国金融業界にも深刻な影響を及ぼした。脆弱さが露呈し、サッチャリズムの重大な欠陥として表面化している。
また製造業から金融業などのサービス業へと重点がシフトしたため、国内の産業が空洞化する結果となった事実は長年指摘されていることである。


九死に一生を得た強運の持ち主

 

 英国でくすぶる火種は他にもあった。アイルランド統一を目指す、IRA(アイルランド共和軍)との確執だ。IRAは北アイルランドのみならずロンドン市内の公共交通機関や金融街などを狙い、テロを繰り返していた。NUMとの闘いが続く中の1984年10月、サッチャーの身にもその危険が襲いかかる。
開幕を控えた次期国会に向け、さらなる改革の促進に向け、弾みをつけるべく保守党の党大会がイングランド南部ブライトンで開催されようとしていた。自分の描くビジョンをより正確に力強く伝えたいと考えるサッチャーは、滞在していた壮麗なグランド・ホテルで、翌日のスピーチ原稿の確認に余念がなかった。作業も終わり、スピーチ・ライターらも自室に戻っていったときには、深夜2時半を回っていた。ようやく落ち着き、そろそろ就寝の準備に取り掛かろうとしていたところ、秘書が書類を確認してほしいと訪ねてきた。サッチャーは居間部分で対応し、書類に目を通して、自分の意見を述べた。秘書が書類を片付けようとしていたときだ。突然、衝撃をともなった激しい爆発音、続いて石造りの建物が崩れ落ちる轟音が響き渡り、居間には割れた窓ガラスの破片が飛び込んできた。
すぐにデニスが寝室から顔を出したおかげで、彼が無事であることはわかったが、浴室はひどいありようだった。
サッチャーのほか、閣僚、保守党員らが滞在していた同ホテルには、IRAによる爆弾が仕掛けられていたのだ。幸いサッチャーは無事だったものの、この爆破で5人の命が奪われ30人以上が重症を負うこととなった。
秘書に書類の確認を頼まれなければ危うく浴室で命を落としていた可能性もあったサッチャー。たったひとつの書類によって難を逃れた強運の持ち主は、すぐに官邸に戻る案が出されるものの、午前9時半より予定通り会議を行うことを決めた。多くは着の身着のまま避難しており、最寄りのマークス&スペンサーに朝8時の開店を依頼し、服の調達をしなければならないほどの状況だったが、テロをものともしない強硬な姿勢を見せつけたのだった。



IRAによって爆破されたブライトンのグランド・ホテル。© D4444n

 

強力なサポーター

 

 サッチャーが自らの信念のままにリーダーシップを発揮していく影には、10歳年上の夫デニスの存在がある。妻を温かく見守り、たゆむことなく支えたデニス。しかし、ふたりの関係は常に良好だったわけではない。1960年代、サッチャーが国会議員として仕事に没頭していくにつれ、デニスは孤独を感じていた。その頃、家族が経営する化学関連の会社で役員を務めていたデニスは、すれ違いの生活に神経を弱らせ、離婚まで考えていた時期もあった。心を癒すため、2ヵ月間英国を離れ、南アフリカを訪れたこともある。それは妻の元に戻るかどうかさえわからないという旅だった。しかし、何かがデニスを思いとどまらせ、ふたりは夫婦として再び歩み始める。
デニスが役員職から引退し、サッチャーが首相に就任して以降は、ふたりの関係は良好となっていった。危機を乗り越えた夫婦の絆は深く、政治家の夫として妻の活動を一番近くで支える、ますます力強い存在となる。
一家が大変なときは、その長が率先して事にあたることを、父の姿から学んでいたサッチャーは、一国を背負う者として寝る間も惜しんで仕事に励んでいた。深夜2時、3時までスピーチ原稿を確認していることも多く、平日の睡眠時間は4時間。親しい友人らと休暇旅行に出かけても、楽しいひと時を終え、友人らが寝室に引き上げると、サッチャーの仕事の時間が始まるといった具合だ。働きすぎのサッチャーに「眠った方がいい」と助言できたのは、夫デニスのみであった。

 

冷戦終結にむけて

 

 国内の経済活性化に取り組む一方、世界を舞台に外交面でもサッチャーはその力を遺憾なく発揮していく。
米大統領のロナルド・レーガンとは、互いの目指した政策が同じ方向を向いていたこともあり、良好な盟友関係を築いていた。後年、サッチャーが「自分の人生の中で2番目に大切な男性だった」と語り、『恋人関係』とも揶揄されるほどでもあった。
第二次世界大戦後から続いていた冷戦真っ只中にあった1970年代に、「(旧ソ連が示してきた)共産主義は大嫌いだ」と言い放ち、『鉄の女』のニックネームを与えられたサッチャー。のちにロシアの大統領となるゴルバチョフと出会うと、「彼となら一緒に仕事をしていくことができる」と評価している。
1987年に3期目に突入していたサッチャーは、両者との信頼関係を築くと、冷戦状態にあった米レーガン大統領と、旧ソ連ゴルバチョフの橋渡しに努め、冷戦終結に一役買ったともいわれている。
自分の推し進める政策と外交。何の後ろ盾もなかった彼女がここまでのし上がってきたのも、勤勉と努力の成果にほかならず、それによって彼女の自信が裏付けられた。そして、英国を新たな世界へと向かわせ、冷戦終焉に尽力、時代は大きく変わりつつあった。
しかしそのとき人々が求めたのはもはやサッチャーではなくなろうとしていた。

 

退陣までの3日間

 

 1990年11月、1期目からサッチャーを支えてきた閣僚ジェフリー・ハウが、欧州統合に懐疑的なサッチャーと彼女のリーダーシップのスタイルに反旗を翻す演説を行い、辞任したのだ。サッチャーが導入を決めた、国民1人につき税金を課す人頭税が市民からの強い反発を受けていたこともあり、ハウの演説を機に、党内での確執が表面化。党首選へ向けた動きが活発になる。
11月19日から開催された全欧安全保障協力会議で、ヨーロッパにおける冷戦終結が宣言されており、サッチャーは、党首選が行われた11月20日、同会議に出席するためパリに滞在していた。
英国では午後6時30分頃、投票結果が発表されていた。372票中、マーガレット・サッチャー204票、対立候補マイケル・ヘーゼルタイン152票。得票数ではサッチャーが勝っていたものの、その差が当選確定までに4票届かず、結論は2回目投票へと持ち越される。フランスの英国大使館前でインタビューに応じたサッチャーは、2回目の投票に立つ姿勢を見せるが、350キロ離れた英国国会議事堂の会議室に集まった議員たちの間には大混乱が巻き起こっていた。サッチャー派のメンバーも、今後の作戦を練り直す必要に迫られていた。
翌21日、ロンドンに戻ったサッチャーは、午後、官邸に着くとすぐにデニスのいる上の階へ向かった。冷静に状況を見極めていた彼は、ここで勇退を選ぶよう助言するのだった。それでも、自分を支持してくれる人がいる限り戦い抜くことを主張するサッチャー。しかし同僚たちと会って話すうちに、自分の辞任を望む人が数多くいる実情を悟っていく。
サッチャーは父が市会議員を辞したときのことを思い出していた。一時は市長を務めていたが、1952年に対立する政党によって上級議員の座を追われた父は、集まった支持者の前で誇り高くこう語った。
「私は名誉をもってこの議員服を脱ぐのです。私は倒れましたが、私の信念は倒れることはありません」
思い出すだけでも切ない、父に襲いかかった出来事が、今自分の身にも起こっている。
翌22日、ついに退陣を発表した。
首相官邸を去る日、男性政治家も顔負けの力強いリーダーシップで英国を率いてきた『鉄の女』は、長い在任期間を振り返り、声が震えるのをおさえるように口を開いた。
「みなさん、11年半のすばらしい日々を経て、去るときを迎えました。ここにやってきたときよりも、現在の英国の状態が格段に良くなっていることを、とても、とてもうれしく思っています」
彼女の側では11年半前と同じようにデニスが静かに寄り添っていた。
首相の座を追われるようにして官邸を去ることになったサッチャーの視界が涙でくもっていた。

 



首相官邸を去る日、官邸前で会見を行ったマーガレット・サッチャー。
20世紀では英国首相として最長の在任期間を誇った。
© PA/photo by SEAN DEMPSEY


寂しさか、達成感か

 

母にとって、
まず1番は国。
私たちは2番目なの

 

 2000年頃から認知症を患っていたことを、のちに娘キャロルが公にしている。繰り返し起こる脳卒中と、認知症に悩まされていたサッチャー。医師のアドバイスにより、2002年以降に公の場で話すことをやめた。そしてその翌年、政治家の夫として長きにわたって彼女を支え続けたデニスが88歳で他界。結婚生活は52年に及んだ。深い悲しみに包まれたサッチャーの症状は、悪化の一途を辿り、近年は、デニスが亡くなった事実を忘れることもあった。
昨年12月のクリスマス以降、ロンドン中心部のホテル「ザ・リッツ」で過ごしていた。1970年頃、尊敬してやまなかった父が最期のときを迎えようとしていた時期に、サッチャーは帰省している。親しい友人らが続々と父を訪ねてきたのを目の当たりにし、「自分も人生の終わりにはこのように多くの親友に恵まれていればいい」と思ったと自伝に記している。だが、政治家としての生涯は、その希望が叶うことをサッチャーに許さなかった。自分が死を迎えようとしている今、愛する夫に先立たれ、ふたりの子供の姿はそこにはなかった。娘キャロルが「母にとって、まず1番は国。私たちは2番目なの」と、母親の愛情を十分に受けることができなかった悲しみを告白している。サッチャー自身も晩年「私はいい母親ではなかった」という後悔の念をもらしていたという。
認知症を患ったサッチャーの心に最後にあったものは、寂しさか達成感か、それとも、愛する英国の輝かしい未来か。
サッチャーの行った政策によって、英国は大きく変化した。夢を与えられたと感謝する人もいる一方で、生活をつぶされたと嘆く声も根強い。
しかし、「英国病」とさげすまれ、瀕死の状態にあった母国を救うために奮闘し、強固な信念で国民を率いたひとりの女性政治家の名は、英国の歴史と人々の心に深く刻まれている。

 



セント・ポール大聖堂で行われた葬儀に参列するエリザベス女王。
女王が首相の葬儀に参列するのはきわめて稀で、ウィンストン・チャーチルの葬儀以来となった。
© PA/photo by PAUL EDWARDS

 



「サッチャーの葬儀が国葬級の規模で開催される一方、
街角では、死を喜ぶ一部の市民の姿が見られた。

 

サッチャーと ハンドバッグ
 『女性初』の英国首相としてフェミニズムの推進に貢献したと考えられてもおかしくはない。しかし実際は、「女性解放運動に対して義務はない」と述べているサッチャー。女性の権利を主張するよりは、むしろ女性であることを『武器』にしていた節も見られる。
封建的な男社会で力を発揮したが決して『男勝り』ではなかったことは、マーガレットの外見によく現れている。決してパンツ・スーツを着用せず、スタイリストを頻繁に官邸に呼んでおり、髪は常に綺麗に整えられていた(余談だが、スプレーでビシっと固められた髪型は、まるで『ヘルメット』のようで、彼女の信念のように『ぶれない』と冷やかされている)。夫デニスから贈られた真珠のネックレスを愛用。さらに女性らしさを表すかのように、いつもハンドバッグを手にし、それは彼女のシンボルとなっている。ちなみにオックスフォードの辞書にはマーガレット・サッチャーに由来するものとして、handbagの動詞の意味が記載されている。「handbag =〈動〉言葉で人やアイディアを情け容赦なく攻撃する」。

下町生まれの激情型 国民画家 ターナー [Turner]

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2014年5月29日

●Great Britons●取材・執筆/佐々木敦子、本誌編集部

 

下町生まれの激情型
国民画家 ターナー
Joseph Mallord William Turner



「ディエップの港」(1825年)テート・ブリテン所蔵。

「英国を代表する画家」というと、
まずその筆頭に名があがるターナー(1775~1851)。
しかし、「モヤモヤした風景画」を描く画家であるということ以外に、
私たちはターナーについてどの程度知っているだろうか。
床屋の息子としてコベント・ガーデンに生まれた生粋の下町っ子で、
身なりに構わず気取りとは無縁だったターナー。
寡黙でぶっきらぼうだが子供にやさしく、進取の気性にも富んでいたという、
この国民画家の知られざる素顔とその作品に迫ってみたい。

【参考資料】『Turner』Peter Ackroyd著、Vintage Books 、『Turner』 Barry Venning著、Phaidonほか

 



「自画像」(1799年)テート・ブリテン所蔵。

 

19世紀のダミアン・ハーストだった!?

 

 テート・ブリテンを舞台に、毎年秋から冬にかけて開催されるターナー賞(Turner Prize)展。英現代アート界において最も権威のある美術賞の一つといわれるターナー賞は、50歳以下の英国人もしくは英国在住の卓逸したアーティストに対して贈られる賞だが、同展に出品されるノミネート作品は、ダミアン・ハーストによるホルマリン漬けの牛の作品、トレーシー・エミンの避妊具やタバコ、日用品が散乱しただらしない自分のベッドなど、ショッキングな作品であることが多い(次頁のコラム参照)。なぜこのような過激な作品が選ばれる賞に、19世紀の風景画家ターナーの名が冠されているのだろうか。
ターナーが活躍したのは、英国の産業革命期。国外ではフランス革命などが起き、世界中が新しい時代に向かってうねりをあげて進んでいる時期だった。新しい技術や科学が次々に生まれ、親の世代には分からない思想や価値観が広まっていく、そんな時代の英国芸術、特に絵画の世界はどんな状況だったのか。
それまでの西洋絵画では、神話、聖書のエピソード、歴史上の大事件や偉人などをテーマとした歴史画が上位におかれ、「風景」は歴史画などの背景としての意味しか持っていなかった。ところが18世紀後半から19世紀になると、ヨーロッパ大陸へのグランド・ツアー(長期旅行)が定着し、また変化の激しい世の中の移り変わりを描き留めたいという要求もあったのか、風景をメインに描く人々が現れる。風景画というジャンルが英国で市民権を得るのはこの時代で、ターナーはその初期の一人である。
だがそれだけでなく、ターナーの画風の変化を見ると、まるで100年分の美術史の変遷を一人だけ数年で駆け抜けてしまったように思える。同時代の人々から「描きかけ?」「スキャンダラス」「訳がわからない」「石鹸水で描いたんじゃないか?」などと揶揄されたり、酷評されたりしたターナーの作品が当時いかに革新的だったかは、彼と同世代の風景画家ジョン・コンスタブル(1776~1837)の牧歌的な作品と比べてみると、一目瞭然だろう(11頁のコラム参照)。ターナーは、モネなどに代表されるフランス印象派を30年近く先取りしていたばかりでなく、作品によっては1960年代の米国の抽象表現主義作家、マーク・ロスコの作品を彷彿とさせるものすらある。毎年、作品のあまりの奇想天外さに物議をかもすターナー賞であるが、「新たな才能ある芸術家の作品を祝福する」「ビジュアル・アートの分野での新たな動きに注目する」ことに主眼がおかれた同賞が、ターナーの名を冠するのも不思議なことではく、むしろうまく名付けたといえるだろう。
しかしながら、ターナーも最初から「スキャンダラス」な作品を描いた訳ではない。ターナーがどのように後世に残るアーティストとなったかを、彼の生誕時まで時計の針を戻して見ていこう。

 

ちょっとだけ紹介! ターナー賞 過去の受賞・ノミネート作品
■今年のターナー賞展は、テート・ブリテンにて9月30日~2015年1月4日まで開催予定。
1995年受賞
ダミアン・ハースト
「Mother and Child, Divided」
1999年ノミネート
(受賞作家はスティーヴ・マックイーン)
トレイシー・エミン
「My Bed」
2003年受賞
女装アーティスト
グレイソン・ペリー
Grayson Perry at the 2003 Turner Prize reception, 2003 Tate Britain

 


 

3つの太陽が昇った日

 



米国ノースダコタ州で観察された幻日 © Gopherboy6956

 1775年4月23日、ロンドンの劇場街コベント・ガーデンのメイデン・レーン(Maiden Lane)21番地で床屋を営む、働き者のウィリアム・ターナーのもとに息子が生まれた。子供はその曾祖父と祖父と父の名を全部足した、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner)と名付けられる。奇しくもこの日は文豪ウィリアム・シェークスピアの誕生日と同じであり、またイングランドを守護する聖ジョージの日でもあった。
さらに、ターナーの誕生4日目に、空に3つの太陽が昇ったという逸話もある。これは「幻日」という非常に珍しい大気光学現象の一つで、太陽と同じ高度に、しかも太陽から離れた位置に光が現れる現象のこと。雲の中に六角板状の氷晶が生じ、風が弱い場合に限り、氷晶に反射した太陽光によって現れるというが、この日は太陽を挟んで左右対称に出現したと伝えられる。生まれたばかりのターナーがこれを見たはずはないが、成人した彼が太陽の光や大気の動きに興味を抱いてこれらを描いたことや、死の間際に「太陽は神だ(The Sun is God.)」とつぶやいたこと(これは後世によるでっちあげである可能性が高いと言われているが)などと照らし合わせてみると、ターナーの将来はもうすでにこの時に決まっていたのかもしれない。
とはいうものの、ターナー自身はこのような不思議な伝説や逸話に彩られるようなタイプのミステリアスな人物ではない。取り立てて善行を行なった訳でも、徳を積んだ訳でもない、非常に人間臭い、労働者階級の、そして卓越した才能を持った市井の画家であり、それゆえに、英国を代表するアーティストとして今もこの国で愛されているのだといえる。
ターナーの生まれ育ったコベント・ガーデンは現在同様、パブやレストラン、劇場、野菜市場、賭け屋などが混在する、ロンドンきっての繁華街であり、劇場へ向かう紳士淑女、夜の街に立つ売春婦、スリなど、多様な人間が入り乱れた場所だった。父親の経営する床屋にも様々な階級の客が訪れた。客あしらいがうまく商売熱心な父のウィリアムは、店の壁に少年のターナーが描いたドローイングを何枚かピンで留め、「うちのせがれは将来絵描きになるんですよ」と客に吹聴し、1枚1~3シリングと値段までつけて販売していたという。「いい買い物をして何シリング節約した、という時を除いて、父親に誉められたことは一度もない」というターナーだが、父親との関係は良好で、父親が死ぬまで一緒に暮らした。
ターナーの父親は小柄でずんぐりした体型で活力に溢れ、赤ら顔で鷲鼻だったというが、これは晩年のターナーの姿そのままでもある。ターナーがスケッチ旅行に出掛けると、大工の親方に間違えられることがしばしばだったという。青年期の姿(前頁)とは少し印象が異なるが、ターナーの自画像が極端に少ないのは、彼が自分の容姿を好んでいなかったからだとも伝えられている。

 



右図は1812年にターナーが描いた父ウィリアム(67歳)の横顔、
左図は銅版画家のチャールズ・ターナーが1841年に制作したターナー(66歳)の肖像。

 

経験豊富な「できる学生」

 

 ターナーが絵に興味を持ったのは、おそらく寂しさをまぎらわすためだったと思われる。父親は忙しく、また精神を患っていた母親も息子の世話を十分にできなかったため、ターナーは10歳の頃に母方の実家に一時引き取られ、その後も親戚などの住まいを転々としなければならなかった。彼の人生に大きな影響を及ぼした母親についてはあらためて後述するが、温かな家庭とは縁遠い生活の中で、学校に行く道すがら壁に落書きしていたターナーは、やがて本格的に「絵描き」になることを考えはじめる。
さて、幼い息子が節約すると喜ぶような、堅実で現実的な父親が、我が子が画家になることに反対しなかったのは、現代では不思議に聞こえるかもしれない。だが、まだ写真技術が発明されていないこの時代において、画家は大工や床屋と同様、きちんと需要のある職業でもあった。そのため父親はターナーが美術に興味を持ったことを大いに喜び、当初から協力的だった。当時は現在のサマセット・ハウスにあったロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(王立芸術院)の教授が床屋に髪を切りにくれば、父親は決まって息子の話をし、壁に貼ったドローイングを示す。ターナーはそうした教授の一人をスポンサーに、1789年、弱冠14歳にしてロイヤル・アカデミーの付属学校に入学するのである。
しかしながら、これは幸運ではあったが驚くべきことではない。ターナーはこの歳までに、建築家のもとに弟子入りしてスケッチの仕事に携わると同時に、風景画家のもとでも修行を積んでいた。労働者階級の子弟に多い丁稚奉公による学習は、ターナーに英才教育ともいえる形で絵画の基礎力を身につけさせた。つまり付属学校に入学した時、すでに実地経験の豊富な『できる学生』であり、頭ひとつ抜きん出た存在となっていた訳である。

 

芝居の背景画で鍛えたセンス

 

 学校では歴史画の模写などを行っていたターナーだが、漠然と肖像画家になるのを夢見ていたという。貴族から依頼を受け、彼らの邸宅を出入りする肖像画家は画家の中でも花形であり、アーティストとして名を残せる可能性も高いジャンルだったからだろう。だが、肖像画家になるには、ターナーには決定的に欠けているものがあった。洗練された振る舞いや社交性である。下町育ちゆえの嗜好や短気な性格は、肖像画家には向かなかったのだ。もしもターナーが人好きのする、愛想の良い人物だったなら、貴族のパトロンの庇護を受ける「凡庸な肖像画家」として一生を終えていたかもしれず、人の一生は何が幸いするか分からない。
ターナーは付属学校に通いながら、オックスフォード・ストリートにある大衆劇場「パンテオン」で芝居の背景を描くアルバイトを始めた。メロドラマに相応しい、嵐で荒れる海や暴風雨の荒野の場面など、そこに描かれるドラマチックな風景は、その後のターナー自身の作品モチーフを彷彿とさせる。
ある時、この劇場が火事で炎に包まれているというニュースを聞いたターナーは、絵の具を持って駆けつけ、燃え続ける劇場をその場でスケッチした。その後10日間無断休学した彼は、やがて1点の水彩画を持って現れると、校内のエキシビションにそれを出品する。題は「パンテオン、火事の翌朝」。劇的で写実性に富み、しかも当世の出来事を描いた今までにない風景画だった。このあと彼が進む方向を指し示す作品といってよいであろう。ターナーは、自分が人物ではなく、火や水、風、岩といった自然や、廃墟のようなものに惹かれる傾向にあることに気づき始める。幸運なことに、この頃ちょうど水彩絵の具が大幅に改良され、発色も携帯性も現代のものに近くなってきており、風景のスケッチがより楽しめる時代が到来していた。そうした時代の流れは、彼の背を強く後押ししていく。

 



「パンテオン、火事の翌朝」(1792年)を水彩絵の具で描いたときのターナーは17歳。
同劇場でアルバイトをしていた。現在ここはマークス&スペンサーの
オックスフォード・ストリート・パンテオン店となっている。
テート・ブリテン所蔵。

 

 


 

若くして手に入れた名声

 

 卒業後のターナーは、絵の題材を探して英国各地を旅した。マーゲイト、ブリストル、ワイト島など海辺が多いのは、海の持つダイナミックさとパワフルな自然に惹かれたためだ。1796年の「海の猟師たち」はそんな旅先でのスケッチを元にした初めての油絵で、批評家からも好意を持って迎えられた。満月の晩に漁船で沖にくり出した漁師たちが荒波にもまれている様子は、理想化された自然とも、あるがままの自然を写実するのとも趣を異にする、人間の矮小さと自然の偉大さ対比させた、サブライム(Sublime崇高)と呼ばれるロマンチックな観念を持った新しいタイプの風景画だった。「彼は自然を崇拝するが、その創造者である神については忘れている」とも評されたが、ターナーにとっては自然自体が神だったのかもしれない。翌年発表した2点も好評で、「モーニング・ポスト」紙には「光の使い方はレンブラントにも匹敵する」とまで讃えられる。22歳にしてターナーは早くも名声を手にしたのだ。



ターナーが21歳のときに描いた「海の猟師たち」(1796年)。
テート・ブリテン所蔵。

 しかし一方で、スケッチ旅行費の捻出などに必死だったターナーは、雑誌のために銅版画を作成したり、貴族の絵画コレクションの模写を請け負ったりと、人と交わらず酒の席も断って働く毎日だった。不慣れな絵画教室さえ開いたが、ターナー自身の作品を模写しろというだけで、あとはかなり適当だったらしい。日々もくもくと絵の制作に没頭しているうえに、粗野でぶっきらぼうな物言いが災いし、「カネ好きでケチ」という評判が立つこともあったという。
1799年、24歳でターナーは念願のロイヤル・アカデミーの準会員に選出される(9頁の自画像はこの時のもの)。同メンバーに選ばれることは、その分野で高い評価を得ている職業芸術家である証。アカデミーが年1回主催する展覧会にも、作品を出品できた。1769年に始まった当時からこの展覧会は絶大な人気を誇り、芸術家としての認知度を上げるためには重要なイベントだった。ターナーは会員に昇格するために、なるべくアカデミーの好むような作品を描いたといわれる。初期の作品が具象的で、歴史画やフランスの画家クロード・ロランのような神話的風景画を下敷きにした作品が多いのは、このためである。ちなみに、この展覧会は現在も続くロイヤル・アカデミーの「サマー・エキシビション」の原型である。
3年後の1802年にアカデミーの会員となり、順調に出世街道を邁進していくが、やがて他のアカデミー会員から、ターナーの態度が悪いと次々に文句が出始める。「Pugnacious」――つまり「けんかっ早い」のだという。あらゆる階級の人々に門戸を開いていたとはいえ、アカデミー会員は貴族やそれに準ずる裕福な家庭の出身者が大半を占めていた。そんな中で、生まれも育ちも下町の、高尚とは言い難い言葉遣いのターナーが浮いてしまうのは当然と言えば当然。若くて態度が悪いうえに才能があるとなっては、ベテランのアカデミー会員にとってターナーの存在が面白いはずがない。展覧会ではターナーの作品をわざと見にくい場所に展示するなど、会員たちが陰湿な嫌がらせをすることさえあった。だがもちろん、タフなターナーは彼らに対して黙ってはいなかったのである。
ターナーは反発してアカデミーを脱退することもなく、かといって丸くなって皆に迎合する訳でもなく、独自の距離を保ちながら、32歳の若さでアカデミーの遠近法の教授という地位を得た。最終的にアカデミー副会長にまでのぼりつめ、40年あまりもアカデミーに居座ることになる。

 



「カルタゴを建設するディド」(1815年)。
古代都市カルタゴを建国した女王ディドを主題にした歴史的風景画。
クロード・ロランの影響を強く受けているが、やはり太陽の効果は欠かせないようだ。
ナショナル・ギャラリー所蔵。

 

ターナーにいじめられた!?  風景画家 コンスタブル

ターナーと同時期の風景画家で、同じくロイヤル・アカデミー会員だったコンスタブル=左下=のことを、ターナーは毛嫌いしていたらしい。「結婚している画家なんて嫌いだね。画家は制作に没頭するべきなんだ。結婚していると、すぐ家庭がどうとか言って、描けない理由を家族のせいにするからな!」――。これはコンスタブルへの当てつけで言われたものだという。
2人は同じ時期にアカデミー付属学校で学んだ。しかしコンスタブルの絵はなかなか認められず、ターナーが27歳でアカデミー会員になったのに対し、コンスタブルは43歳でやっと準会員に、会員に昇格したのは53歳の時であった。だが、裕福な家庭に生まれたコンスタブルは、絵が売れなくても生活に困ることはなく、愛する妻と子供たちに囲まれて幸福に暮らした。しかも故郷を愛し、のどかな田園風景を詩情豊かに描くという、ターナーを『イライラ』させる要素を山ほど持っていたのである。また、本人がハンサムなのも腹立たしかった。
ある時、2人が同じスタジオで隣り合わせで作品を仕上げていた時、湖の部分にバーミリオン(橙色)を使っているコンスタブルに近寄ったターナーは、じっとその画面を眺めた後、自分の絵に戻り、灰色の空の部分にコンスタブルのそれよりずっと赤くて目立つ円を描くと、一言も言わずスタジオから出て行ったという。ターナーは子供っぽい競争心を隠そうとせず、ことあるごとにコンスタブルに意地悪をした。それだけ気になるライバルだったのかもしれない。
コンスタブルは1837年に死去しセント・ポール大聖堂に記念碑が設置されたが、気の毒なことに、その14年後に彼の傍らにやってきたのはターナーであった…。



コンスタブル作「ワイブンホー・パーク」(1816年)

 


 

モンスター・マザーが残した影響

 

 ところで当時では珍しく、ターナーは生涯結婚しなかった。それは、病的なほど怒りっぽかった母親メアリーに原因があるとされている。
いったん怒り出すと制御不可能となり、父を大声で口汚く罵る母親に恐怖と嫌悪を感じ、ターナーは幼い頃、母親の「怒りの発作」が始まると両手で耳を押さえて駆け出し、近所の家に避難していた。それは週に3~4回にも及んだという。ターナーは母親については厳重に口を閉ざしているため詳細は分からないが(彼の妹が幼くして亡くなったことが、精神疾患を悪化させたという説もある)、最終的に彼女が精神病院で死去したことを考えると、かなり激烈な人物だったに違いない。このことはターナーの女性観に大きな影響を与えた。悩める父親の姿を見ていたため、結婚して、もし自分が父のような目にあったら…という思いが、女性に対し距離をとらせたのだった。
とはいっても、彼に女性の影がなかったわけではない。早世した友人(パンテオン劇場のピアノ弾き)の未亡人で10歳年上のサラ・ダンビーと関係を持ち、その4人の子供とターナーの父親も入れた7人で暮らすという、非常に「現代的」ともいえる構成の家庭を作り上げたりしている。結婚こそしなかったものの2人の娘を授かり、その関係はターナーが25歳の頃から10年以上続いた。ターナーの伝記を執筆したピーター・アクロイドは、「未亡人キラー」という名称をターナーに贈っており、これは彼の女性関係がサラだけに留まらなかったことを示唆している。そして、なぜことごとく相手が未亡人なのかといえば、その女性が「結婚しても狂気に陥らなかった」、つまりつきあっても「安心」だと分かっているからだ、とアクロイドは記している。
真偽のほどはさておき、ターナーは母親の血を引く自分が、いつか母の様に狂気の発作を起こすのではないか…とも考えていたらしい。ターナーの作品が抽象的になるにつれ、新聞の批評には「狂った男」という単語が踊るようになるが、ターナーはこれをひどく嫌い、マスコミに母親の病が暴かれるのを怖れたという。
母親が病院で息を引き取ると、ターナーはその呪縛から解き放たれたかのように、1804年、サラや子供たちと暮らしていたハーレー通り(Harley Street)の自宅近くに、ギャラリーをオープンする。このギャラリーはターナー自身の作品を展示した私営ショールームのようなもので、顧客が直にターナーのもとを訪れ、作品依頼や購入を行った。この時代の芸術家は往々にしてこのようなスタイルをとることが多かったといい、ターナーも晩年までエージェントを雇わず、すべて自分で交渉した。堅実な父親に鍛えられたせいなのか、ターナーは非常にビジネスに長けたな面をもち、金額を作品のサイズで換算(端数は切り捨て、と但し書き付きで)し、依頼を受けた場合は期日通りに作品を仕上げるなど、現代人が想像する「芸術家」のイメージを裏切り、職人に近い感覚を身に付けていたようだ。金銭の余裕ができるようになると、郊外に土地を購入したり少量の株を買ったりと、いざという時のための備えもきちんと整えていた。
また、妻に先立たれたターナーの父親は、コベント・ガーデンの店を畳んで、ギャラリーの留守番やキャンバス作り、顧客への書類作成などの雑用をしながら影でターナーを支えた。2人は客の前でも「ビリー・ボーイ」「オールド・ダッド」と呼び合っていたそうで、母親の愛情とは縁のなかったターナーだが、父との絆は強かったようだ。

 



ロイヤル・アカデミーの展覧会場にて、作品の仕上げをするターナー。
当時の画家たちは展覧会開催の前に、会場内で加筆や修正を行った。
ウィリアム・パロット作「Turner on Varnishing Day」(1846年)。

 

ターナーを崇拝!?  批評家 ジョン・ラスキン


ジョン・エヴァレット・ミレイ作「ジョン・ラスキン」(1853~54年)
 ヴィクトリア朝時代を代表する評論家ジョン・ラスキン(1819~1900)が初めてターナーに会ったのは1840年。ラスキンはまだ21歳、ターナーは65歳だった。詩人を目指していたラスキンだが、ターナーの作品との出会いがきっかけで美術評論家へと転身。抽象的な画風で狂人扱いされているターナーの擁護のために、たまらずペンをとったのがキャリアの始まりだった。ターナーの死後もその作品の価値を説き続けた、ターナーの熱烈な崇拝者である。ターナーはラスキンが自分の作品を深読みし過ぎだと考えたようだが、それでもラスキンの応援を嬉しく感じていたらしい。
ラスキンが日記に記したターナーの姿は、次のようなものだ。
「多くの人間が彼のことを無骨で下品で教養がないというのが信じられない。ちょっとエキセントリックで独特の行動もとるけれども、基本的に彼はイングランド的な紳士なのではないか。怒りっぽいが気立てがよくて、見かけ倒しのペテンを嫌う。ちょっと利己的だが理知に富んでいる。そして、めったに喜びの感情を表には出さないけれども、心に秘めた熱い想いがふとしたことから外に漏れることがある」。

 


 

色彩への目覚め

 

 ギャラリーを父親に任せ、ターナーは英国外へ足をのばしスケッチ旅行に出掛けることが増えていった。パリ経由でスイスを訪れ山脈や渓谷を描き、ベルギー・オランダではレンブラントをはじめとする名作にも触れる。しかし、真にターナーを変えたのはイタリアであった。
1819年、44歳で初めて訪れたイタリアの目がくらむほどに強い自然光に、ターナーは圧倒された。英国などの北方ヨーロッパにはない陽光の明るさと、そこから生まれる色彩の豊かさに息をのむ。特に「水の都」と言われるヴェネツィアに心惹かれ、この時の滞在は4週間にも満たなかったが、手がけたスケッチは400枚を超え、そのどれもが今までにない透明感ある光に溢れていた。以降、ターナーはたびたびヴェネツィアを訪れており、その後の画家としてのキャリアは、そこで目に焼き付けたイタリアの光を分解し、空気や大気の動きを色によって描きだす研究に捧げられたといっても過言ではない。その題材がナポレオン軍を描いた歴史画であれ、黄金色のリッチモンド・パークの風景画であれ、ターナーが描いたのは常に光と空気の関係性だった。以前から気に入リの主題だった海や港の光景は、洪水や雲気に形を変え、ついには「水蒸気」を表現するところにまで行き着くのである。
当時のロイヤル・アカデミーがサマセット・ハウスにあったことはすでに述べたが、敷地をロイヤル・ソサエティ(王立学会)と分け合っていた。王立学会は17世紀から続く英国最高の科学アカデミーで、産業革命時の英国における科学の行方はこの学会が牛耳っており、毎日のように刺激的な研究が発表され、議論が戦わされていた。光や空気を研究するターナーがこれを逃がすはずはない。最終学歴は小学校、さらに難読症でもあったターナーだが、それを補う人一倍の探究心を持ち合わせていた。雲の成り立ちに関する気象学者のレクチャーに出席したり、ニュートンの光学理論、ゲーテの色彩論にもとづき光を描いたりしている。まさに独学の人であった。
制作意欲は晩年になっても衰えることはなく、この先、ターナーが行き着く絵画は、ただ、まばゆいばかりの光の海、波と霧の渦でしかないように思えた。抽象画らしきものが生まれる半世紀も前のことであり、その概念もなかった時代に、ターナーは自分の色彩感覚を従来の絵画から完全に、自由に解き放ったのである。

 



「解体されるために最後の停泊地に曳かれてゆく戦艦テメレール号」(1838年)。
ナショナル・ギャラリー所蔵。

 



雨が降る中、蒸気機関車がテムズ河に架かる橋の上を疾走する様子を描いた
「雨、蒸気、スピード-グレート・ウェスタン鉄道」(1844年)。
ナショナル・ギャラリー所蔵。

 

光を描いた現代アートの先駆者

 

 1846年、老齢を迎えたターナーはアカデミーの副会長の座を辞す。そしてチェルシーのテムズ河沿いに居を構え、25歳年下の未亡人ソフィア・ブースと暮らしながらも作品制作を続ける。彼女は、ターナーの父親が1829年に死去し、彼が失意のどん底で苦しんでいた際に、そばで支えてくれた女性だった。ターナーは屋根を自分で改造して、そこに座ってスケッチができるようにした。視線の先は子供の頃から見慣れたテムズ河。近所の人々は、雨漏りのしそうな家に住み、いつも屋根のてっぺんに座っている奇妙な老人が画家のターナーであることなど知らない。彼は人々から「船長」とあだ名されていた。
健康も次第に衰えてきたが、相変わらず鋭いビジネス感覚を有するターナーは死後の作品の行方をすでに決めていた。作品を自分の子供のように考える彼は、自身の経験からか、「家族を離ればなれにしちゃだめだ。皆一緒じゃないと」と言い、すべて国に寄贈することにしていた。ただし、自分の作品専用の部屋を作ることが前提である。そうしてテート・ブリテンに収められたターナーの作品の数は油彩400点、水彩画は2万点に及ぶといわれる。
やがて体調を崩した1851年、ターナーは病床に絵の具を持ち込み、ドローイングするようになる。ある時医師が呼ばれ、診断の結果、残念ながら余命が残り少ないと告げられたターナーは、「ちょっと下に降りてシェリーを1杯やって、よく考えてからまた戻ってきてくれ」と医師に告げる。出直しを命じられた医師は言う通りにし、数分後、やはり同じ意見であると伝えた。「それじゃあ」とターナーは言う。「もうすぐ無に帰るわけだね」(I am soon to be a nonentity.)。その数日後である12月19日朝、ターナーは76歳の生涯を閉じる。鈍色の空が広がる日だったが、その死の1時間前、ターナーを天へ迎えるかのように雲の切れ目から太陽が顔をのぞかせ、彼が眠る室内をまばゆい光で満たしたという。
ターナーが光に向かって旅立った後、テート・ギャラリー(現テート・ブリテン)では一悶着が起きていた。ターナーの遺贈作品に完成か未完成か分からない作品が沢山あるというのだ。すばやく筆で線が引かれただけの作品を前に、館員たちは頭を悩ませた。未完成作品に額を付けて飾るのは如何なものか…。いや、もしかしたらこれはこういう作品なのではないか、と。同館では現在でも「未完成?」とクエスチョン・マークをつけられている作品を目にすることがある。彼は来たるべき現代アートの、紛れもない先駆者だったのだ。

 



「光と色彩(ゲーテの理論)」(1843年)は、
ノアの洪水を主題とする、正方形シリーズ作品のうちの1点。
テート・ブリテン所蔵。

 

ターナーをもっとよく知る!  展覧会&映画情報

 ■風景画のリバイバルなのか、現在またターナーに注目が集まっている。昨年秋には日本で大回顧展が開かれたのに加え、グリニッジの海洋博物館では好評のうちに「ターナーと海」展が幕を下ろしたばかリ。9月からは膨大なターナー・コレクションを所蔵するテート・ブリテンで、ターナー晩年の15年に描かれた作品を集めた 特別展「The EY Exhibition: Late Turner - Painting Set Free」が開催される。特に、当時の批評家から「とうとう本当に気がおかしくなった」と評された、正方形のシリーズ作品=図下=9点が初めて全作セットで展示される。9月10日~2015年1月25日まで。

■中年期以降のターナーその人にスポットを当てた伝記映画『Mr. Turner』も公開される。『秘密と嘘』『ヴェラ・ドレイク』などで知られる、カンヌやヴェネチア国際映画祭常連のベテラン監督マイク・リーが、構想に10年を掛けたという大作だ。ターナーを演じるのは同監督作品常連の個性派俳優ティモシー・スポール=写真上。本年度のカンヌ国際映画祭に出品され、英国の各メディアが5つ星評をつけ、さらにスポールが男優賞に選ばれるなど期待大。12月19日封切り予定。

 


近代郵便制度を確立した 熱血改革家 ローランド・ヒル [Rowland Hill]

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2014年7月31日

●Great Britons●取材・執筆/佐々木 敦子・本誌編集部

 

近代郵便制度を確立した
熱血改革家
ローランド・ヒル



Penny Black image courtesy of Royal Mail Group

産業革命の影響で電信や交通の手段が大きく変化した19世紀。
一般市民はなかなかその恩恵にあずかることができないでいた。
そうした時代に、最新技術をどのように市民の暮らしに
広めるか心を砕き、世界の郵便制度に大きな影響を与えた
ローランド・ヒルという人物がいる。
今回は、ヒルが特に心血を注いだ郵便改革を中心に、
彼の数々のアイディアを紹介。小さな1枚の切手から、
19世紀前半に英国民の置かれていた状況が
浮かび上がってくるかもしれない。

参考文献:『The Life & Work of Sir Rowland Hill』 Jean Farrugia著 National Postal Museum 1979 / 『Rowland Hill – Genius and Benefactor 1795-1879』Colin G. Hey著 Quiller Press London 1989 / 『Postal Reform & The Penny Black – A New Appreciation』Douglas N Muir著 National Postal Museum 1990 取材協力:The British Postal Museum & Archive

 

「社会改革家」と呼ばれる人々が 存在した時代

 1795年12月3日、イングランド中西部のウスターシャー。ローランド・ヒル(Rowland Hill)は、中産階級の一家に、8人兄弟の三男として生まれた。彼は、日々の食い扶持に困っていたとか、両親から虐待を受けていたとか、そういった不自由な暮らしとは縁のない幼少期を過ごすことになるのだが、日頃からいくつもの社会改革案を持っていた。こう聞くと、ヒルのように平凡に暮らす者が若い頃から社会改革に関心を抱き、没頭するのは少々とっぴなことに感じるかもしれない。
その疑問に対する答えの一つに、「時代の影響」がある。産業革命によって新しい技術や制度が次々に生まれ、社会が進歩すればするほど、それに取り残される人々も増えてきた。それは主に労働階級を中心とした一般国民なのだが、彼らは職を通じて産業革命に貢献しながらも、単なる労働力としてまるで道具のように扱われていた。
そうした事態に対処しようと立ち上がった人々が、この時代に多く現れる。英国では協同組合運動を指導した、ロバート・オーウェン(Robert Owen 1771~1858)が有名だが、彼らは現代では社会改革家(Social Reformer)として知られ、その目指す世界観はやがて「社会主義」と呼ばれることになる。つまりヒルは、社会主義の萌芽の時期に、多感な青年時代を過ごしたのだ。

 



産業革命期に活躍した社会改革主義者のロバート・オーウェン。

 

さらに、ヒルの場合は家族からの影響を多大に受けた。先に挙げた社会改革主義者ロバート・オーウェンと同世代のヒルの父親、トーマス・ライト・ヒルもまた、社会改革主義の熱烈な信奉者だった。一介の工場の主任に過ぎないものの、冒険心に富んでいて、因習を忌み、旧時代のシステムのすべてを嫌悪するような進歩的な人物だったようだ。
産業革命期にそのような価値観を持つ人が多く現れたのは時代の要請だったともいえる。ただしヒルの父親は1960年代のヒッピーにも似て、平等と平和と愛に満ちた社会を夢想するも、それを現実化する積極性を持たなかった。
一方で母親のサラは、働き者で地に足の着いた実践的なセンスに優れていたようで、彼女は自分が受けることのできなかった最高の教育を、息子たちに与えるつもりでいた。フワフワした空想家の夫は経済観念に乏しく、3代続いた家を手放すことになったものの、そんな夫を助けて一家を切り盛りしていた彼女は、やがて夫が給料の悪い工場に転勤になりしょげているのを見てこう言った。「そんな工場なんて辞めて、ご自分が本当にいいと思うような学校をお作りになったら? 息子たちはそこで学ばせましょう」。
すべてはそこから始まったのだった。

ドリトル先生の郵便局


ドリトル先生の郵便局のなかで描かれた非常に希少なファンティポ切手。© Project Gutenberg Canada
 植物から動物まで、あらゆる生物の言葉を解する医師、ドリトル先生の活躍を描き、今も世界各国の子供たちに読み継がれるヴィクトリア朝時代の児童小説「ドリトル先生」。全13巻に及ぶシリーズでは、ある時はアフリカ、またある時は月を訪れたり、海底を探検したりと、ドリトル先生は様々な冒険を繰り広げるのだが、その中の4巻目が「郵便局」。
アフリカの架空の国、ファンティポ王国の君主ココは大の新し物好き。自転車を乗り回しゴルフを習うかなりの西洋カブレだが、ある時、謁見した西洋人から、英国で始まったという郵便制度の話を聞く。赤い箱を街角に置き、そこへ小さな紙を貼って投函すれば、世界中に手紙が届く、魔法のようなシステムだという。ココ王は早速、郵便局を開設。さらに王の肖像入り切手を外国のコレクターが欲しがることに着目し、珍しい切手を立て続けに発行して、莫大な外貨を稼いだ。しかし集配機能は完全に破綻し…。そこに呼ばれるのがドリトル先生で、先生はずさんな郵便制度の立て直しに尽力する。ツバメを使った世界最速郵便を導入し、動物の通信教育も始まって…。
本作が発表されたのは1923年。ローランド・ヒルの郵政改革発表から80年あまりが経過しているが、世界に郵便システムが広まる中で、上記の物語のような事件が実際起きていたとも限らない?

ドリトル先生の郵便局
作・絵:ヒュー・ロフティング   訳:井伏鱒二   岩波少年文庫
Dr. Dolittle's Post Office
by Hugh Lofting   Red Fox Publishing


夢のようにリベラルな学校

 義務教育のない時代、誰もが私営の教育施設を作ることができたが故の決断だが、こうしてヒル一家は知人を通じてバーミンガム郊外の廃校を買い上げ、校舎を増改築して自宅も構内に造り上げた。そして1803年、父親のトーマス・ライト・ヒル校長が自身の思想と夢をふんだんに盛り込んだ学校、ヒル・トップ・スクールが開校する。
多額の借金を抱えての出発だったとはいえ、今までにない自由な校風が評判を呼び、瞬く間に「新しい時代を象徴するモデル校」となる。理想主義者のヒル校長が掲げた校訓5ヵ条は、「ボランティア精神の重要性を説く」「生徒の自由な発想を重視し、興味を持つ方向へ導く」「道徳を身につけさせる」「知識を詰め込むだけではなく、自分でものを考える訓練をさせる」「協調と思いやりの精神を育てる」。
年若いローランドとその兄弟たちは、父親から学校と家庭の両方で社会主義の思想を叩き込まれる。つまり「社会を良くするために何かする」のは当たり前という教育を、幼い頃から徹底して受けてきたわけだ。彼らは先を競うように改革案を提出する。
やがてローランドは、社会貢献のための自身の道を探し試行錯誤を繰り返すことになるのだが、この時点では、父親と同じく教育者となることを考えていたようだ。現にローランドはまだ生徒のうちから同校で指導に携わり、12歳という年齢にして、生徒でもあり教師でもあるという不思議なポジションについた。彼は数学や科学の分野に秀でていた上に、物心ついた頃から父の思想をそのままそっくり吸収しており、評判がよく猫の手も借りたいほど忙しかった学校運営を手伝うことになったのは、自然のなり行きだった。

 



ヒル一家がトテナムに開校した学校の校舎となったブルース・カッスル。現在は美術館として利用されている。
館内ではローランド・ヒルの軌跡を紹介するほか、地元ハリンゲイ地区出身の歴史上の人物についての展示も行われている。
Bruce Castle Museum(Lordship Lane, N17 8NU / www.haringey.gov.uk/brucecastlemuseum)、入場無料。

 

ヒル一家にとって幸いなことに、長男のマシューとローランドは、父親の思想を継承しただけではなく、現実的な母親の血もしっかり受け継いでいた。ふたりは10代の若さで、いまだ返済しきれていない借金を返すため、学校外でも教鞭をとるほか、アルバイトにも精をだした。17歳になる頃にはローランドは一家の家計を預かり、とうとう20歳の時に借金の全額返済を達成する。彼がもともと緻密な計算を好む性格だったことがその秘訣といえそうだが、さらにローランドは、目の前の関心事に並々ならぬ情熱を注ぎ、仕事に明け暮れるといういわばワーカホリックの傾向があったことも見逃せない。そしてそれは生涯を通じて変わることはなく、彼の資質がヒル一家の経済を支えたのみならず、未来を大きく変えることにつながっていく。
ちなみに余談ながら、当時の首相はウィリアム・ピット。24歳の若さで首相の座についたことにも驚くが、それ以前は財務大臣も務めていた。ピットはなんと子供が5歳から働けるような過酷な労働法を制定している。このような時代にあっては、ローランドが10代で教師になり科学を教えたとしても、おかしくはなかったわけである。
さて、学校の評判に気を良くしたヒル一家は、2校目となる学校、ヘイゼルウッド・スクールを1819年に再びバーミンガム郊外に開校。23歳になっていたローランドは、同校の建築デザインも担当し、当時としては画期的な、英国初のガス灯を備えた学校になった(ガス灯の発明は1792年)。さらに、大ホールで全生徒が学ぶという過去200年にわたり英国で続いていたシステムを変え、少人数クラス制を取り入れた。図書室、図工室、科学実験室、舞台、体育館、プール、天文台まで設け、また、生徒による自主運営のシステムを作り、必須科目さえカバーすれば、あとは全部生徒が自分たちで物事を決定できるようにした。体罰などはもちろん禁止だ。厳しさと残酷さが混同され、体罰やいじめが蔓延し、伝統という名の因習でがんじがらめになったヴィクトリア朝時代よりも、さらに何十年か前に誕生した学校である。相当革新的であったことは想像に難くない。
この学校は主にローランド、マシュー、そして弟のアーサーによって運営され、ローランドは実質的な校長の任にあたる。3人は1822年に同校での経験を生かした学校改革案を盛り込んだ本を出版。この本はヘイゼルウッド・スクールを一夜にして有名にし、遠く南米やギリシャからも学生が訪れ始めた。本はスウェーデン語にも訳され、1830年にはヒル兄弟の思想に則った「Hillska Skolan」つまりヒル・スクールがストックホルムに開校されている。

ロンドンの地下を駆け抜けた郵便列車


地下を走った郵便列車。トンネルの直径は2~3メートル、車両幅は60センチほどと、当然ながら地下鉄よりも小さいサイズ。 © Royal Mail, courtesy of the British Postal Museum & Archive
 新しい郵便制度を軌道に乗せたローランド・ヒルは、60歳のとき、郵便本局と支局を地下で運ぶことを提案している。もともとのアイディアは30代のときに考えられたものだが、物事を改善するために尽力する彼の資質が生涯変わらなかったことを物語るエピソードだ。空気圧をエンジンとしたこの計画は、コスト面の問題から実現にはいたらなかった。しかしその後、地下を使う案は形を変え郵便史のなかに登場している。
1900年代に入り、ロンドンでは交通混雑と濃霧の影響から、主要郵便局と駅間の移送が大幅に遅れがちだった。それを解決すべく、地下に専用のトンネルと線路が設けられ、1927年12月にマウント・プレザント局とパディントン駅を結ぶ郵便列車(The Post Office Underground Railway、のちにMail Railと改称)が誕生した。開通から1ヵ月のうちに拡張され、西はパディントン駅から、東はホワイトチャペル・ロードの支局まで続く、およそ10.5キロが地下でつながった。現在多くの人でごった返すオックスフォード・ストリートの下を通過していたとされ、郵便物だけを乗せた列車が渋滞や混雑を気にせずスイスイと走ったであろう姿を想像すると、まるで物語の中の世界のようだ。この郵便専用の列車は、全盛期には1日に1200万もの郵便を運ぶほどの活躍を見せるが、残念なことに2003年に運営コスト上の事情から閉鎖を余儀なくされてしまった。

2020年完成を目指すアトラクション「郵便列車」の完成イメージ。
© Royal Mail, courtesy of the British Postal Museum & Archive
 ところが、現在この地下郵便列車を一般に公開する計画が進んでいる。完成すれば、来場者はおよそ1キロにわたる郵便列車の旅を楽しむことができるようになるという。完成予定は2020年。列車に乗るというよりは、遊園地のアトラクションに乗るような感覚が期待できそうで、今から待ち遠しい!
同時に、英国郵便の歴史や文化を、豊富な資料と体験型の展示で紹介する博物館が、ロンドンのクラークンウェル地区に建設されつつある。
開館は2016年だが、現在はマウント・プレザント局の裏手の資料室が、博物館分館として機能しており、エセックスの分館とともに、2016年オープンまでの博物館を支えている。どちらも館内見学ツアーを組んでいるほか、ライブラリーでのトーク・イベントなども随時開催されている。また、毎月1回ロンドン市内に点在する郵便ポストを含む、ロンドンの郵便の歴史について知るウォーキング・ツアーも開催されているので、興味のある方は詳細をサイトでご確認を。

BPMA Archive Search Room
Freeling House, Phoenix Place
London WC1X 0DL
The British Postal Museum Store
Unit 7 Imprimo Park, Debden Industrial Estate,
Lenthall Road, Loughton, Essex IG10 3UF
www.postalheritage.org.uk


四方八方にアイディアのタネを蒔く

 1827年、ヒル兄弟はとうとう首都ロンドンに進出し、3校目の学校を北ロンドン、トテナムのブルース・カッスル(Bruce Castle)に構える。ヘイゼルウッド・スクールのようなシステムは、伝統的習慣の根強い地方よりも、柔軟な都市でこそ、より広く受け入れられるのではないかと考えてのことだった。ヒル一家はロンドンに移住し、ここが一家の永住の地となる。
32歳になっていたローランドは校長に就任。幼なじみの女性、キャロライン・ピアソン(Caroline Pearson)とも結婚し、落ち着いた暮らしを始めた。
ところが、である。父親譲りの冒険好きの血が騒ぐのか、これまでずっとそうしてきたように、「ゼロから何かを始めてがむしゃらにやり遂げる」ことの楽しさを忘れられないのか、ローランドはここへ来て突然学校経営に対する興味を失ってしまうのだ。「社会を良くするために何かを遂行する」―その「何か」にまだ突き当たっていなかったとも言える。かねてより科学や機械、数学などを好んでいたローランドは、すでに軌道に乗っている学校の仕事をこなすかたわら、様々なアイディアを発表していく。
以下は主な彼の案だが、そのどれもが少々形を変え現在使われていることに、驚嘆の念を覚える。ローランド・ヒルは相当なアイディア・マンだったようだ。

■ 新聞専用の印刷機 ― 1枚1枚別々に刷らずに、ドラム上に長いロールで回転させて印刷すれば早いと政府に発案。しかし、値段の印を各ページに載せなければいけないからとして却下される。今思えば、これは輪転印刷機の一種だった
■ 郵便業務のスピードアップを計るため、馬車(Mail Coach)の中で仕分けや日付の押印などの郵便業務を行う
■ 数字を符号のように使ってメッセージを送る(モールス信号の元)
■ 馬や蒸気機関よりも早く郵便を届ける方法はないのか模索し、弾薬を使ったり、チューブ状のものに入れて空気圧で手紙を飛ばしたりを試みる(テレグラムの元)
■ 蒸気船のプロペラをスクリュー状にしてスピード・アップさせる
■ 道路を整備するための機械を考案する(舗装工事の原型)

 『発明オタク』とでもニックネームをつけられそうな彼のアイディアの数々をこうして見てみると、それぞれが「情報を早く届けるための手段」に関連していることがわかる。確かに、この時代は労働法、医療、学校など多くの重要な改革が施行された変革期だが、いかに重要な案件であろうとも、一般市民がその情報を知る手だては少なかった。
例えば、1832年にはバーミンガムの街頭に大勢の労働者が、政府改革案に関するニュースを知ろうと集まった。そこでは数日遅れのロンドンの新聞が、文字の読める者によって大声で読み上げられていた。このような状況を知っていたローランドは、どんな立派な改革や制度も市民に届きづらく、浸透はおろか、完全に蚊帳の外に置かれている現状を憂慮していた。後に触れるが、同時期にローランドは労働者層のための雑誌を創刊している。その目的が質の高い読み物を安く庶民に提供することにあったことからも、情報伝達の重要性、さらにはおざなりにされていた一般市民の「知る権利」「学ぶ権利」に対する問題意識の高さを知ることができるだろう。
ローランドはブルース・カッスルの校長の座を弟に譲ると、私財を使って輪転機を製作したり、弾薬で郵便を飛ばす実験をしたりと、実際的な開発に没頭する。その間、社会改革主義者ロバート・オーウェンの主催する農業共同体のマネジメントを任されたりもしているが、ほぼ10年間にわたり自らの発明案を発表しては挫折することを繰り返している。郵便のスピードアップに関してはことに熱心で、配達コーチ(馬車)の効率化のため、発明されたばかりのストップウォッチを使って配達時間を細かく計算するなど、様々な試みを実践したものの、常にあと一つ何かが足りない。印刷、スピード、低価格、どこに重点をおくべきか…。ローランドは悩む。だが、近代郵便制度の確立、そしてペニー切手の発明まで、もう1歩のところにきていた。

 



18~19世紀にかけ、郵便配達には馬車(Mail Coach)が用いられた。写真は1820年代に使われていたもの。© DanieVDM

 

郵便ポストの導入を実現! アンソニー・トロロープ
ポストは昔、緑色だった


ジャージー島に設置された郵便ポストのうちのひとつ。© Royal Mail, courtesy of the British Postal Museum & Archive
 連作小説『バーセットシャー物語』などを著したヴィクトリア朝の人気小説家、アンソニー・トロロープ(Anthony Trollope 1815~82)=写真=のもう一つの職業は郵政審議官。毎朝出勤前の2時間半を利用して、まるで日記のように規則的に小説を書いたため、類を見ない多作作家としても知られる。そのトロロープは、1851年に郵便サービス向上調査のためチャネル諸島へ出張した。英仏海峡に浮かびフランス本土に近いため、トロロープはこの地で「フランス人は郵便ポストというものを使っている」ことを知る。英国での試験運用を願い出た彼は、まずジャージー島に第1号を、翌年には英国本土のいくつかの都市に設置した。
ロンドンに登場したのは1855年のフリート・ストリートが最初だ。当時のポストは六角形でダーク・グリーン。ただしこの緑色はジャージー島になら似合ったかもしれないが、都市では「目立たない」「汚い色」などと散々な評判だったらしく、ロンドン・バスや電話ボックス同様、英国人の愛するあの赤色に変更された。
ちなみに、小説家という職業柄、人間観察力が鋭かったであろうアンソニー・トロロープは、ローランド・ヒルについての印象をこう語っている。「数字には異常に正確だし、事実関係の追求もすごいけれど、あんなに他人の気持ちがわからない人はいませんね」。正確にきちんと郵便を配達するため、ヒルは部下に非常に厳しかったといわれており、どうやらヒルとトロロープは相容れなかったようである。正確で迅速なことを愛するヒルがもし日本に住んだら、気持ちよく暮らせたかも?


より良き社会への飽くなき探究心

 1835年、ローランドはオーストラリアの植民地化に関する政府委員会に参加する。いささか唐突ともいえるこの仕事は、どうやら政界とのつながりを模索していたローランドがたまたま掴んだ、1本のロープであったらしい。これまで政府へ向けて何度も自分の改革案を発表し、それが黙殺されるのに嫌気がさしていた彼は、何とか政界に意見を通す方法はないものかと考えていたに違いない。一方で、実用的な知識を広めるべく活動していた出版団体の仕事に深く関わり、週刊誌「ペニー・マガジン」を創刊させる。これは、兄のマシューと友人の編集者と3人で散歩中に、「安っぽくて低級な読み物が多い中、労働者のためにもっとよい雑誌を提供できないか」と話した結果生まれたものだといわれている。
ローランドは早速、いかに安く印刷物を発行するか、その方法を考え始める。新聞の輪転機では失敗したが、今度こそという思いがあった。そのかいあって、1冊1ペニーという安価で1832年に創刊されたこの雑誌は、自然科学や時事を扱い、多い時は年間20万部を売り上げ、その後13年間にわたり発行される人気雑誌となった。
ふつうの人なら、革新的な学校の校長、あるいはオーストラリアの植民地化委員会の仕事、または人気雑誌の発行だけでも十分満足しそうなものだが、ローランドはそれでもまだ一生を賭けられると思える仕事に巡りあったという確証が得られていなかった。良いアイディアと思えば、何でも手当り次第に試すことをやめなかったのも、そのためだ。ただし、人生にムダなことは何もないのかもしれない。彼が試したすべてのことは、やがてペニー切手を生みだすために必要なステップとなっていたのだ。

 



ヒルが創刊に携わり、人気雑誌となった『The Penny Magazine』。

 

不当に高かった郵便代

 ちょうどこの頃、1833年に郵政大臣となったロバート・ウォラス(Robert Wallace)が郵政改革の重要性を説きはじめていた。これはまさにローランドが日頃から強い関心を抱いていたジャンルと重なり、彼は郵政問題に着手するようになるのだが、その前に、近代郵便制度成立以前の郵便事情について簡単に述べておきたい。
1635年にチャールズ1世によって一般を対象とした郵便制度が始められて以降、郵便サービスは国によって営まれていた。しかも財務省の管轄の下で運営され、1803~15年にかけて繰り広げられたナポレオン戦争で疲弊した国家財政を立て直すために郵便料金が引き上げられるなど、一層、庶民の手の届かないものになっていた。
また無料で配達される郵便物が膨大な量に上っていたことが問題視されていた。その理由として、国会議員や政府高官は無料で郵便を利用できたうえ、新聞の郵送も無料だったことがあげられている。この制度を利用して、議員に郵便物を頼む者や、古新聞の余白に手紙を書く者が後を絶たなかったようだ。
しかし、相手がだれであろうと、中身が新聞だろうと、郵便物を運ぶためには一定のコストがかかる事実に変わりはなく、その費用は有料郵便の収入によって賄わなければならない。そのため、普通郵便の料金はますます割高になる。こうなると、高額であるがゆえに郵便を利用しない者も増える。ちなみにその頃の料金は、重さではなく距離と手紙の枚数で料金が決まっていた。1通の郵便代は、例えばロンドンからアイルランドへ送ると1シリング5ペンスほど。これは日雇い労働者の1週間の稼ぎのほぼ5分の1に等しかった。
基本的に郵便物を受け取る側が支払う仕組みだったことから、高額郵便料金の支払いを拒否、つまりせっかく届けられた郵便物を受け取らない者も続出。拒否された手紙は差出人へ戻るので、郵便配達の労力とかかったコストは全くのムダというわけだ。
さらにまた、庶民の知恵というべきか、料金を支払うことなく目的を達成させる強者もいた。これは、差出人が受取人の住所を書く際に、本人同士にしかわからない小さなマークを記し、その印を見た受取人は、封を切って中身を読まずとも差出人が元気でやっていることを確認するというもの。この時代、工場や鉄道の建設ブームであり、そうした仕事のために故郷を離れて都市で暮らす労働者が大勢いた。携帯やEメールで当たり前のように遠く国外とでも連絡が取り合える現代とは違い、この頃の通信手段は手紙のみ。彼らは故郷の家族と連絡をとるべく、様々な工夫を重ねたのだ。
産業革命でこのような人口移動が起きていたことも、郵政改革の必要性が叫ばれる要因のひとつとなっていた。

 



郵便料金が手紙の枚数によって決められていた時代、枚数を少なく抑えるため、人々はクロス・ライティングという書き方を用いた。
写真のように、紙を縦(あるいは横)に置いて普通に書いた後、紙を回転させて、さらにメッセージを綴った。
© Royal Mail, courtesy of the British Postal Museum & Archive

 

1枚の切手に9億7000万円!
世界最高額を記録

 切手収集を趣味に持つ人は少なく、希少価値の高い切手は、かなりの高値をつけることもある。
今年6月、世界中の多くの収集家らの間で『渇望の品』とされてきた切手が、競売大手のサザビーズのニューヨークにて競売にかけられ、約950万ドル(約9億7000万円)で落札された。その切手とは、1856年当時、英国領であった南米ガイアナで作られた1セント切手(The British Guiana One Cent Magenta)。およそ2.5センチ×3.2センチの大きさで、英国から運ばれていた切手が不足したことから、発行されたもの。それまでの切手の最高額230万ドルを塗り替え、世界最高額を記録した。ちなみに、以前の所有者が1980年に落札したときには93万5000ドル。過去34年で、ゼロがひとつ増えたことになる。


念願の「ペニー・ブラック」ついに誕生!

 ローランド・ヒルは早くからこうした問題に気づいていた。一般郵便が高額すぎるのが第一の問題であり、国会議員や政府高官が無料で郵便を利用できるというシステムも悪しき旧弊以外の何物でもない。しかし、赤字に悩む政府が、労働者の懐に優しい改革などに着手するだろうか。
ヒルは1837年に郵政改革を説く有名なパンフレット「郵便制度改革:その重要性と実用性」(Post Office Reform: Its Importance and Practicability)を出版する。これまでの苦い経験から、政府に直訴するだけではなく、シティのビジネスマンから署名を集め、マスコミを最大限に活用するロビー活動を盛んに行った。
ヒルは言う。「誰もが互いに手紙を送れるようになること、それは、読み書きを学ぶために積極的になるということで、教育改革にも通じるはずだ。さらに、友人同士で、母親が子供に、妻が遠隔地にいる夫と連絡を保てるようになるので、国民の団結心を助けることにもなる。単に商業上の成功だけではなく、社会改革の重要な一助になるはずだ」。

 



ヒルの偉業を称え、肖像画入りの記念切手が何度か発行されている(写真は1995年版)。
右上には通常通りエリザベス女王の横顔のシルエットが記されている。
Rowland Hill Stamp Design © Royal Mail Group Ltd (1995)

 

 これには非常に多くの賛同者が集まった。
とうとう政府は1839年9月16日、前評判に押される形で、ヒルのパンフレットを基にした郵政改革法案を始動させる。同時に郵政に関するアドバイザーの地位を得たヒルの当初案は、重さ0・5オンスまでの一般郵便は、距離に関わらず一律4ペンスに。その代わり、女王を含む誰もが平等に料金を支払うこと。さらに、その料金は前払いにすること等だった。
この新しい郵便制度は同年の12月5日、ロンドンと一部の都市で初めて試行された。郵政大臣ロバート・ウォラスをはじめ、旧友などから、新しい制度を祝う祝辞の手紙をヒル自身も数多く受け取ったという。そして、全国的な制度開始は数ヵ月後の予定だったが、国民からの強い要望によりほぼ1ヵ月後の1840年1月10日、予定を前倒しして正式にスタートした。
またこの頃、ヒルは郵便の料金前払いを示す証拠はどのように表示すべきか、アイディアを公募していた。全国から2600あまりが寄せられたものの、どうやらヒル自身のアイディア、すなわち「裏に糊のついた指定の印紙を購入して、それを手紙に貼る」が最も簡単のようだった。デザインは、芸術的なドローイング風なものも考えたが、財務省所属の印紙局で働く兄に相談したところ、印刷費をなるべく安価に済ませるためにも、できるだけシンプルに、そして小さな紙にした方が良いとのことで、ヒルは流通している硬貨に似せて、即位したばかりの若きヴィクトリア女王の横顔を配した。当初の4ペンスが1ペニーに値下げされ、黒地に女王の横顔だけが印刷されたこの切手は、5月6日から利用が始まり、それはやがて「ペニー・ブラック」と呼ばれることになる。

 



ヒルにちなんで名づけられた通り「Rowland Hill Avenue」(教鞭をとったブルース・カッスルの近く)。
また、晩年を過ごしたハムステッドには「Rowland Hill Street」がある。

 

 ヒルの改革により英国の郵便利用者数は、すぐさま今までの2倍に増加した。1854年までには世界30ヵ国がヒルの郵便制度を取り入れ、日本でも明治維新後間もない1873年、英国式郵便制度を導入している。ついでながら英国の切手は現在も国名を印刷せず、エリザベス女王の小さな横顔のシルエットで代用しているが、これは当時の名残り。国名の入らない郵便切手は世界でも類を見ないが、これは切手を発明した国の強い自負の表れといえるだろう。
起業家、改革者として各方面で並々ならぬ才能を振るったヒルは、人々の記憶に残り、社会にとって有益となるような仕事に、ついに巡りあった。政権が代わったせいで一時郵政の仕事から離れることを余儀なくされたものの、後に郵政省次官(Secretary to the Postmaster General)として復帰し、1864年の引退まで郵政界で辣腕を振るう。
自説を信じ常にパワフルに物事を押し進めたため、同僚からの評判はいまひとつだったともいわれる。しかし数々の功績はそれを払拭するに余りあり、1860年にはヴィクトリア女王からナイトの称号も叙された。ローランド・ヒルは、1879年8月27日、ハムステッドの自宅で死去する。83歳だった。葬儀はウェストミンスター寺院で執り行われ、ヒルは寺院内のチャペルに埋葬される栄に浴した。数歩離れた位置には、幼い頃彼が尊敬し夢中になった、蒸気機関の発明者ジェームズ・ワットが眠っているという。



シティのキング・エドワード・ストリートにはヒルの像が建つ。
© Eluveitie

歴史を動かした英国の巨人 ウィンストン・チャーチル《前編》 [Winston Churchill]

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2015年07月30日 No.892

●Great Britons●取材・執筆/本誌編集部

 

歴史を動かした英国の巨人

 ウィンストン・チャーチル《前編》

 




歴史を動かした英国の巨人 ウィンストン・チャーチル《後編》 [Winston Churchill]

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2015年08月06日 No.893

●Great Britons●取材・執筆/本誌編集部

 

歴史を動かした英国の巨人

 ウィンストン・チャーチル《後編》

 




造園の魔術師 ケイパビリティ・ブラウン [Lancelot Capability Brown]

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2009年10月29日 No.598 & 2016年6月30日 No.939

●Great Britons●取材・執筆/根本 玲子・本誌編集部

造園の魔術師 ケイパビリティ・ブラウン

造園の魔術師
ケイパビリティ・ブラウン

英国の町並みを語る上で欠かせない、歴史ある建造物や庭園の数々。
古き善き時代の面影と大英帝国の威光を感じさせる邸宅や城が放つ魅力は、手入れの行き届いた壮麗な庭園によりさらに輝きを増す。こうした庭園は、各時代を代表する造園家たちによって造られ、建築や絵画と等しく英国の文化史を彩ってきた。今回は数多い造園家の中でもその名を広く知られ、英国の風景を一変させたといわれる人物で、生誕300年を迎えたケイパビリティ・ブラウンの生涯とその仕事ぶりを紹介しよう。

生誕300年イベント開催中
ケイパビリティ・ブラウンの生誕300年となる今年、ブラウンが手がけた英国に点在する各庭園では、ガイド付き散策ツアーやトークなど、記念イベントが予定されている。詳しくは「Capability Brown Festival 2016」のウェブサイト(www.capabilitybrown.org)にて。
Prior Park Landscape Garden, Somerset

有能な「セールスマン」だった?

 「家」と「庭」好きで知られる英国人。一般人がプロの手を借りマイホームや庭を一新する、テレビの「お宅改装」番組や、持ち家の価値を上げるノウハウを伝授する番組は英国の娯楽番組の一ジャンルとしてすっかり定着している。
 これらの番組でよく耳にする言葉が「It's got potential.(可能性・将来性がある)」。改装後の家は見違えるほど素晴らしくなる、という意味で使われているお馴染みのフレーズだ。古い家に手を加えて大切に住みこなし、後世へと引き継いでいくという、不動産好きの英国らしい精神の表われといえるだろう。
 興味深いことに、二百五十年近くも前に同様のフレーズを使っていた人物がいる。十八世紀半ばにブレナム宮殿やチャツワース(十二ページ、十四ページの各コラム参照)といった英国きっての屋敷の庭園を設計した造園家、ランスロット・『ケイパビリティ』・ブラウン(Lancelot "Capability" Brown)である。日本ではあまり馴染みがないものの、英国では数多くの名庭園を手がけたことで広く知られる人物。生涯に手がけた庭園の数は百七十を超えるというから驚きだ。
 彼の手がけた主要な庭園については後出のリスト(十四ページ)を参照していただくことにして、まずは本名の「ランスロット」よりも知られているニックネーム「ケイパビリティ(capability)」の由来から話を始めよう。この単語には「能力、才能」のほかにも「可能性、将来性」といった意味もあることはご存知だろう。造園の依頼を受けたブラウンは、貴族や地主階級の紳士が地方に所有するカントリー・ハウス、マナーハウスを訪れ、どんな庭でも開口一番、さらに素晴らしい庭にできる「ケイパビリティ(可能性、将来性)がある」と言うのが口癖で、ここからニックネームがつけられたとのことだ。
 「貴公の庭園は今よりもっと素晴らしくなりますよ」
 所領する庭園を流行のスタイルにできないものかと思案中の王侯貴族たちにとって、これは魅力的な言葉だったに違いない。これで『ツカミ』はOK。造園家としての腕もさることながら、ブラウンの営業センスはなかなかのものだったようだ。

菜園係から大プロジェクトの現場監督へ

 ブラウンは一七一六年、イングランド最北部、スコットランドとの境界に近いイングランド北東部ノーサンバランド、カークハールに生まれる。
 英国史に名を残す人物でありながらも、彼の生い立ちについてはあまり多くの記録が残っておらず、母親の出自については知られていないという有様。子供は六人おり、ブラウンは五番目だったという。父親のウィリアム・ブラウンは農業労働者であったという記録が残っているが、ブラウンがまだ幼かった頃に死去している。しかし家計を支えるため十二、十三歳で働きに出される子供が多かった時代に、一家の大黒柱である父親を失いながらも十六歳まで学校教育を受けていることから、ブラウン一家は経済的にほどほどに恵まれた環境にあったことが推察できるだろう。
 学業を終えたブラウンは、地元の大地主であるウィリアム・ロレイン卿の屋敷に、屋敷の食料をまかなう菜園スタッフとして雇われ、見習いを務めながら園芸の基礎を学んでいく。
 この頃すでに老年を迎え、政治の表舞台から引退していたロレイン卿は、先代から引き継いだ屋敷を当世風に改装するなど、その興味と情熱を「内」に注ぐようになり、さまざまな工事を計画。美観のため領地内の村を別の場所に丸ごと移動させたり、時代遅れになった花壇を取り壊したり、樹木数千本を新たに植え直すといった数年がかりの巨大プロジェクトに取りかかっていた。
 ここに菜園係の若きブラウンが現場監督として投入されることになったのは驚くべきことである。初めての働き口で、しかも学校を出たばかりの若者に与えられる仕事にしてはあまりに大き過ぎるというほかない。しかし邸宅の敷地内にある広大な沼地を一新する工事を指揮することになった彼は、ここで見事な手腕を発揮する。
 水はけの悪かった土地に勾配をつけ直し、ブナやオークなどの樹木を植え、風格を備えた素晴らしい景観を生み出したのだ。植物の知識についてはまだ学び始めたばかりだったとはいえ、ブラウンには生まれながらにして造園家に必要とされる美的センスや、三次元かつ広大なスケールの構想を頭に描き、そのアイディアを作業員や業者たちに的確に伝え、プロジェクトを進めていくという事業家的資質が備わっていたようだ。
 工事の指揮を任されるようになったいきさつについては残念ながら知られていないが、彼が一介の庭師以上の器を持っていることが、すでに周りの知る所となっていたのであろう。またロレイン卿は自分の使用人であるブラウンを、知人の庭園に出張させて造園にあたらせている。これだけをとっても彼の才能が傑出していたことが十分うかがえる。

Blenheim Palace, Oxfordshire Stowe Landscape Garden,
Buckinghamshire Stowe Landscape Garden,
Buckinghamshire

「運」と「人脈」に恵まれたストウ屋敷時代

 こうして造園家として幸運なスタートを切ったブラウンは、二十代のはじめにロレイン卿のもとを離れリチャード・グレンヴィル卿の屋敷に雇われるが、まもなく彼の義理の息子であるテンプル家のコバム卿(リチャード・テンプル子爵)の目にとまり、バッキンガムシャーにある英国有数のストウ屋敷へと移る。
 当時、この屋敷の造園を指揮していたのは庭園史上の重要人物ウィリアム・ケント。広大な土地をキャンバスに「風景画を描くように」造園を行うと称された、当時の最先端をゆく「風景式庭園(landscape garden)」を生んだのが彼だった。ブラウンはここで晩年を迎えていたケントから様々な植物の知識や建築技術、土木工事といった大掛かりな技術までを学び、生来の才能に磨きをかけていく。
 またケントの造園スタイルは、ブラウンの自然派志向に重なる部分があった。彼はこれ以上望むべくもない師を得たのである。こうしてケントの右腕的存在へと登りつめたブラウンは、彼の引退後は主任庭師として、ストウ庭園の造園作業を引き継いでいった。
 屋敷の主人であるコバム卿は社交家で進取の精神に富み、屋敷に客人を招いてもてなす機会も多かったのもブラウンにとって幸いした。流行の最先端をいくストウ庭園に魅了された客人たちが、造園家ブラウンに注目しはじめたのだ。こうして彼はそこに居ながらにして未来のクライアントを獲得していく。また園芸業者など、ケントから引き継いだ人脈も後の彼の仕事に大いに味方した。
 本人の才能もさることながら、格好の雇い主、優れた師匠、そして人脈などに恵まれ、何拍子も揃った環境で本格的にキャリアをスタートすることができたブラウンは強運の持ち主だったといえよう。実際、ストウ庭園での主任庭師時代にも、ブラウンはコバム卿の依頼を受けて他の貴族の庭園に出張し、より自分らしいスタイルを打ち出した庭園を作り上げている。
 またこの時代、プライベートでも充実した日々を送ったようで、彼は地元の娘ブリジット・ワイエットを妻に迎え、四子のうちの最初の子供をもうけている。家族のために、とブラウンが一層仕事に精を出すようになったと考えても差し支えないだろう。

Stowe Landscape Garden,
Buckinghamshire
ブラウンの造り上げた庭園では、ふいに息をのむような眺めが目の前にひらけることがあり、劇的な効果に感嘆の声をあげたくなる(ペットワース・ハウス)。© National Trust Images/Andrew Butler

いよいよロンドンに進出

 長年の主人であったコバム卿が死去したことをきっかけに、一七五〇年代のはじめに、ブラウンは十年近くを過ごしたストウ屋敷を離れロンドンへと向かう。造園設計家として独立するためである。その頃、同業者が多く居を構えていたというハマースミスを居住場所に選び、ブラウンは本格的な営業活動を始めた。
 当時、上流階級の紳士たちは郊外や地方の広大な屋敷に加えて、社交のためにロンドンにも住宅を構えているのが常であり、ブラウンの腕前はすでに人々の知るところとなっていた。
 看板をあげてまもなく、顧客獲得には苦労しないどころか、方々から依頼が殺到し始めた。この時期から約十年はブラウンの黄金期ともいうべき時期で、彼は前述のブレナム宮殿やチャツワース、ペットワースなどに代表される名庭園を次々と作り出していく。「ケイパビリティ」というニックネームが生まれたのもこの頃だ。
 ケントの元で建築技術も学んでいた彼は建築家としての依頼を受けることも多々あった。仕事はストウ屋敷のように十年がかりのプロジェクトもあれば、アドバイザーとして意見を提案するのみといった立場もあったというが、常に複数のプロジェクトを掛け持ちし、各地を飛び回る日々だった。彼自身が「ケイパビリティ」の名にふさわしい人物だったというわけだ。

 

庭園探訪①ブレナム宮殿

ブラウンの才能が存分にいかされた、ブレナム宮殿の庭園 © Magnus Manske
 オックスフォードシャー、ウッドストックにあるブレナム宮殿は、18世紀初頭に勃発したスペイン継承戦争で決定的な勝利をおさめた司令官、マールバラ公ジョン・チャーチルの功績を讃え、当時のアン女王が贈った大邸宅。彼の子孫にあたる、第二次世界大戦中の英国首相ウィンストン・チャーチルがこの宮殿の一室で生まれ、庭園で夫人にプロポーズをしたというロマンティックな逸話も知られている。また『オルランド』(1992)や『ハムレット』(1996)など歴史を扱った英国映画のロケ地としてもお馴染みだ。
 ブラウンは1764年よりこの宮殿の造園に着工。英国バロック式建築の傑作とされる宮殿をとり巻く2100エーカー(約850ヘクタール)という広大な土地をキャンバスに、川をせき止めて人工湖を作り、装飾的すぎる彫像や花壇などを取り壊して緑の大海原を作り出すなどそれまでの庭を一新、思わずため息のもれる壮大な風景を描き出した。オックスフォードやコッツウォルズ、ストラットフォード・アポン・エイヴォンからもほど近いため、観光ルートに組み込みやすいのも嬉しい。1987年には世界遺産にも指定されている。
【住所】Blenheim Palace, Woodstock, Oxfordshire OX20 1PP
www.blenheimpalace.com/


ブレナム宮殿周辺の大改修後の様子(F.O. Morris作/1880年)


「水」と「樹木」の芸術家

 彼の作り出した庭園は、建物から広がる、なだらかな起伏の広大な芝生地帯、茂み、木立、そして小川をせき止めて作られた湖水などが絶妙のバランスで配置され、周辺に広がる田園風景とすらも調和した一服の風景画のような美しさを備えていた。
 もちろん「自然風景のような庭園」といっても、その景観を作り出すためには不要なものを取り払うほか、時には川の流れさえ変えるといった大掛かりな工事を要する。彼の得意とするのは沼、湖、小川、蛇行した湖、カスケード(階段式に連続した滝)といった水のデザインと、樹木を使った空間演出だった。
 そして何よりも、庭を一見して何を削り、どこにポイントを作り、何を植えるべきかを見極める天賦の才がブラウンには与えられていた。
 しかし、当時の主流であった幾何学的・装飾的な要素を極力排したブラウンの庭園には「退屈」「単調」「人間味がない」という批判もつきまとった。また「自然を模倣したに過ぎない」という声も多かった。この時代、多くの人々にとって、いまだ「自然」とは征服し支配するべきものであり、その優美さを愛で、讃え、そこから学ぶというものではなかったのである。
 例えば彼と同時代を生きた著名建築家ウィリアム・チェインバースはブラウンを真っ向から否定し、詩人のリチャード・オーウェン・ケンブリッジにいたっては、「ブラウンより先に死んで、彼に『改善』されてしまう前の天国を見ておきたいものだ」と皮肉った。 時代の最先端をゆく者に対する風当たりの強さはいつの世にあっても避けられないものなのかもしれない。ただ、そのような批判や中傷をよそに、ウィリアム・ケントの作り出した「風景式庭園」はブラウンの手によって国中に広められ、ヨーロッパの庭園史は新たな一ページを開くことになったのである。


大学の一部というには美しすぎる、ケンブリッジのザ・バックス(The Backs)

 

王室の庭まで任されたワーカホリック

 超人的な仕事ぶりによって英国の庭園スタイルを一新したブラウンは、その功労を認められ一七六四年に王室所有の庭園の主任庭師に任命される。この背景には名門ノーサンバランド公爵家の所有するロンドンの邸宅サイオン・ハウスの庭園を一新した業績が、王室関係者の目にとまったことも大きかったという。
 これを機にハマースミスからハンプトン・コートへと居を移したブラウンは、バッキンガム・ハウス(現在のバッキンガム宮殿)、セント・ジェームズ宮殿、リッチモンド公園、キュー・ガーデン、そしてハンプトン・コートといった王室所有の土地で造園を次々と手がけていく。
 またこれらの傍ら、個人的にも多くの造園を引き受け、晩年までそのワーカホリックぶりは衰えることがなかった。現存する庭園の中には後世の王室庭師たちによって手が加えられてしまったものも多いが、彼が晩年まで主任庭師を務めたハンプトン・コートでは、ブラウンの設計によって植えられたブドウ棚が現在も美しく手入れされ、毎年豊かに実をつけているという。

 

庭園探訪② チャツワース
チャツワース

 代々デヴォンシャー公爵家の住まいとなってきた、英国きってのマナーハウスのひとつ。『高慢と偏見(Pride and Prejudice)』の作者ジェーン・オースティン(1775-1817)は、本作に登場する白馬の王子様的存在「ダーシー氏」の邸宅にこの屋敷を想定したと言われており、この作品を映画化した2005年公開作品『プライドと偏見』でも、ダーシー氏の屋敷という設定でロケが行われている。
 ケイパビリティ・ブラウンによる風景式庭園が取り入れられたのは、第4代デヴォンシャー公爵時代の1750年代から1760年代にかけて。水の階段ともいえるカスケード=写真右=は既に先人の手によって完成していたが、ブラウンはよりレベルの高い庭園を目指した。装飾性の強いパーテア(幾何学模様花壇)を取り払い、広大な芝生の丘陵に作り替えるなど大規模な工事が行われた。広大な敷地は様々なスタイルの庭園が組み合わされているが、19世紀に入り、第1回ロンドン万博で水晶宮を建設したことで知られる建築家兼造園家のジョセフ・パクストンによってさらに手を加えられている。英国屈指の名園とされるチャツワース、ピーク・ディストリクト観光の際にはぜひ訪れてみたいスポットだ。

【住所】 Chatsworth House, Chatsworth, Bakewell, Derbyshire DE45 1PP
www.chatsworth.org/


英国の風景を作りかえた「庭園の超人」

 ブラウンは富と名声を得た後も生涯現役であり続けた。
 彼の頭の中には常に様々なアイディアがあふれ、一息つく暇さえ惜しかったのかもしれない。しかしそんな彼にあまりに突然の死が訪れる。
 一七八三年、自分の弟子であった建築家ヘンリー・ホランドと結婚した長女ブリジットのもとを訪れたブラウンは、その玄関先で階段から転げ落ち、帰らぬ人となってしまうのである。
 当時の文化人であり、ブラウンの崇拝者でもあった作家ホレイス・ウォルポールはあまりに突然の出来事に、知人の貴婦人にあてた手紙の中で「ドリュアス(ギリシャ神話に登場する木の妖精)たちは喪に服さなくてはなりません。彼らの義理の父であり、自然という名の貴婦人の第二の夫が亡くなられたのです!」と記し、その死を悼んでいる。
 ブラウンの亡骸は、彼が造園家として成功をおさめた後に購入したケンブリッジシャーの屋敷、フェンスタントン・マナーに近い聖ピーター&聖ポール教会に埋葬されたのだった。
 「樹木と湖水、そしてそれを囲む広大な芝生地帯」が基調となったブラウンの庭園は、後世の造園家たちに多大な影響を及ぼした。時代と共に新しい流行が生まれ、そして廃れていった後も、その光景は英国人の郷愁を誘う眺めとして揺らぐことなく生き続けている。一冊の書物すら残さなかったにもかかわらず、彼が思い描いた景観は二百二十年以上経った現在でも愛され続けているのだ。


トレンタム(Trentham)のイタリア式庭園 © Kevin Rushton

ブラウンのお師匠さん!?
ウィリアム・ケント
(1685-1748)
 若き日のケイパビリティ・ブラウンが、その才能を見事に開花させる舞台となったのはバッキンガムシャーのストウ屋敷。これは当時この屋敷の主任庭師を務めていたウィリアム・ケント(William Kent)=写真=に負うところが大きい。
 ケントは画家を目指しイタリアに滞在していたところを、芸術に深い造詣を持つバーリントン卿に見いだされて英国に帰国。同卿の保護を受けながら建築家、造園家、インテリア・デザイナーとして活躍した人物だ。「風景式庭園(landscape garden)」という、自然の風景を取り入れた英国独自の庭園様式を作り出したことで歴史にその名を刻むことになった。
 ケントの念頭にあったのは、詩人のアレキサンダー・ポープがバーリントン卿に贈った「すべてにおいて、決して自然を忘れるな。すべてにおいて場の精霊に問いかけよ」という言葉だったという。
 しかし彼は芸術家肌(文字は読めなかったという説あり)で凝り性、旅を嫌いロンドンの自宅や友人宅で過ごすのを好んだため、あまり多くの庭園を残さなかった。一方、彼のアシスタントとして働き始めたブラウンは旅を厭わない仕事人間で、ビジネスマンとしての手腕もあり、イングランド中に残した庭園は数知れず。このため「風景式」の造園家の中で最も知られる人物になってしまった。「風景式庭園」の生みの親、ケントは偉大過ぎる弟子を持ってしまったのかもしれない。

どちらがお好み?
きっちり人工美のイタリア&フランス式
VS
ゆったり自然派のイギリス式
どちらがお好み?きっちり人工美のイタリア&フランス式VSゆったり自然派のイギリス式
 ヨーロッパの庭園史は、その起源を古代ローマ時代にまでさかのぼる。だが現在のような庭園の原型が広まったのは中世の戦乱時代が一段落したあたり。軍事上の理由から城を強固な壁で囲む必要がなくなり、美観を追求した庭園文化が一気に花咲くことになった頃からだ。 また食料や薬品など実用が目的とされていた園芸が、純粋な装飾を目的とするようになっていった時代でもある。
 ルネサンス全盛期の16世紀はイスラム文化の影響を受けたイタリア式庭園が主流となった。丘陵部斜面にテラス状の区画を設け、軸線を中心にした左右対称のデザインや立体感を強調した作りが特徴だ。ツゲなどの植物で結び目模様を描き、その間に草花を植えるノット・ガーデン(knot garden)、樹木を刈り上げるトピアリー(topiary)など装飾的なスタイルが好まれた。また15世紀中頃~17世紀中頃まで続いた大航海時代には「プラント・ハンター」と呼ばれる人々が世界各地で手に入れた珍しい植物を持ち帰り、裕福な王侯貴族や大商人たちがこれらを競って手に入れ、コレクションに加えたという。
 そして17世紀。絶対王政の栄華を誇ったベルサイユ宮殿=写真2点とも=に代表されるフランス式庭園は、平らで広大な土地に幾何学的なデザインを描くように植物を配置し、方々に彫刻が置かれ花が咲き誇るといった華やかな「人工美」がポイント。自然を征服・支配する人間の力を誇示するかのようなスタイルには権力者の力を示すという意味合いもあり、このスタイルはヨーロッパ各国で流行した。
 ところが18世紀に入ると今度は一気に自然派志向へ。こうした動きは、英国貴族の間で古代ローマやルネサンスの遺産に触れる「イタリア文化遊学」が流行し、豊かな景観や絵画に感銘を受けた人々が自国でもその美しさを再現したいと望むようになったことが背景となっている。
 この自然賛美の思想から誕生したのが「風景式庭園(landscape garden)」だ。塀など視覚の障害になるものを取り払い、遠くまで見渡すことのできる緑の広がりと、周りの自然と調和した緩やかな曲線を用いたスタイルは、それまでの整然と作り込んだ庭園とは対照的。同時期、これまでの主流であった人工美を批判し、不規則性を愛でる「ピクチャレスク」という新しい美の概念も誕生したことで、風景式庭園熱はさらに高まっていく。産業革命が始まりつつあった当時の英国で、ロンドンに生活の拠点を持つようになった貴族が地方に所有する屋敷を「自然回帰の場」としてとらえるようになったことも、風景式庭園が流行した要因の1つだ。
 また、一般に「イングリッシュ・ガーデン」と称されるスタイルは、19世紀以降に急増した中流階級の人々の所有する田舎家風の「コテージ・ガーデン」を指すこともあり広義に解釈されることが多いが、これらの様式ももとをたどればウィリアム・ケントやケイパビリティ・ブラウンら「風景式」造園家の作り出した庭園が原型になっている。国や時代によってそのスタイルは様々だが、どの庭園もそれらが造られた時代の社会的背景を反映しているのが興味深い。

 

庭園探訪③ ハイクレア城
ハイクレア城

 17世紀からカナーヴォン一家が所有し、現在は第8代伯爵夫妻が暮らす邸宅。ドラマ『ダウントン・アビー』のロケ地として注目を集めたことは記憶に新しい。ブラウンがハイクレア・パークに着手したのは1770年。壁や生垣など、敷地内にあった境界線を取り除き、耕地だった場所は芝地へ、綿密な計算のもとヒマラヤスギやナラの木を植樹して森林や湖を造り上げると、一帯がブラウンの『色』に染まった。パーク内を歩いてみると、なだらかな丘や、木々の配置によって、時にドラマチックに変化する景色を楽しむことができる。毎年期間限定で一般公開されるので、あらかじめウェブサイトなどで確認してお出かけを。

Highclere Castle
Highclere Park, Newbury RG20 9RN
www.highclerecastle.co.uk


ブラウンが携わった庭園

※編集部の独断により一部割愛

ロンドン及びその近郊
Addington Place, Croydon, Greater London
Ancaster House, Richmond, Surrey
Brentford, Ealing, London
Clandon Park, Surrey
Claremont, Surrey
Euston Hall, London
Hampton Court Palace, Surrey
Holland Park, London
Kew Gardens, London
Littlegrove, Barnet, Greater London
Moor Park, Rickmansworth, Hertfordshire
Mount Clare, London
North Cray Place, Bexley, Greater London
Paddenswick Manor, London
Peper Harow, Surrey
Peterborough House, Hammersmith, London
Syon House, London
West Hill, Putney, London
Whitehall, London
Wimbledon House, London
Wimbledon Park, London

英国各地
Alnwick Castle, Northumberland
Althorp, Northamptonshire
Appuldurcombe, Isle of Wight
Ashburnham Place, East Sussex
Aske Hall, North Yorkshire
Audley End, Essex
Aynhoe Park, Northamptonshire
Badminton House, Gloucestershire
Basildon, near Reading, Berkshire
Battle Abbey, East Sussex
Beechwood, Bedfordshire
Belvoir Castle, Leicestershire
Berrington Hall, Herefordshire
Blenheim Palace, Oxfordshire
Bowood House, Wiltshire
Brocklesby Park, Lincolnshire
Burghley House, Lincolnshire
Burton Park, West Sussex
Cadland, Hampshire
Cardiff Castle, South Glamorgan
Castle Ashby, Northamptonshire
Chalfont House, Buckinghamshire
Charlton, Wiltshire
Chatsworth, Derbyshire
Chilham Castle, Kent
Clumber Park, Nottinghamshire
Coombe Abbey, Coventry, Warwickshire
Croome Park, Worcestershire
Dodington Park, Gloucestershire
Fawley Court, Oxfordshire
Gatton Park, Surrey
Grimsthorpe Castle, Lincolnshire
Harewood House, Leeds, West Yorkshire
Highclere Castle, Newbury, Berkshire
The Hoo, Hertfordshire
Hornby Castle, North Yorkshire
Ickworth House, Suffolk
Ingress Abbey, Dartford, Kent
Kelston, Somerset
Kimberley, Norfolk
Kimbolton Castle, Cambridgeshire
King's Weston, Bristol
Kirtlington, Oxfordshire
Knowsley, Liverpool, Merseyside
Kyre Park, Herefordshire
Lacock Abbey, Wiltshire
Laleham Abbey, Surrey
Langley Park, Norfolk
Latimer, Buckinghamshire
Leeds Abbey, near Leeds Castle, Kent
Lleweni Hall, Clwyd
Longford Castle, Wiltshire
Luton Hoo, Bedfordshire
Madingley, Cambridgeshire
Maiden Earley, Berkshire
Mamhead, Devon
Melton Constable, Norfolk
Milton Abbey, Dorset
Moccas, Herefordshire
Navestock, Essex
Newnham Paddox, Warwickshire
Newton Park, Newton St Loe, Somerset
New Wardour Castle, Wiltshire
Nuneham Courtenay, Oxfordshire
Oakley, Shropshire
Packington Park, Warwickshire
Patshull, Staffordshire
Paultons, Hampshire
Petworth House, West Sussex
Pishiobury, Hertfordshire
Porter's Park, Hertfordshire
Prior Park, Bath, Somerset
Savernake Forest, Wiltshire
Scampston Hall, Yorkshire
Sheffield Park Garden, East Sussex
Sherborne Castle, Dorset
Stowe Landscape Garden, Buckinghamshire
Temple Newsam, Leeds, West Yorkshire
The Backs, Cambridge, Cambridgeshire
Thorndon Hall, Essex
Trentham Gardens, Staffordshire
Warwick Castle, Warwickshire
Wentworth Castle, South Yorkshire
Weston Park, Staffordshire
Whitley Beaumont, West Yorkshire
Widdicombe, Devon
Wilton House, Wiltshire
Wimpole Hall, Cambridgeshire
Woburn Abbey, Bedfordshire
Woodchester, Gloucestershire
Wootton Place Rectory, Oxfordshire
Wotton, Buckinghamshire
Wrest Park, Bedfordshire
Wrotham, Kent
Wycombe Abbey, Buckinghamshire
Wynnstay, Clwyd
Youngsbury, Hertfordshire

写真トップから:
Bowood House Kev / Palladian Bridge at Prior Park, Bath / Castle Ashby Orangery Kokai / Ickworth House / Squeezyboy / Highclere Gardens JB + UK_Planet / Wilton House Gardens Jan van der Crabben / Blenheim Palace's garden / Triumph Arch, Berrington Hall J Scott

日本を愛した喜劇王 チャップリン [Charles Spencer Chaplin KBE]

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英国の偉人の生涯をたどる 『Great Britons』

2016年11月3日 No.957

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日本を愛した喜劇王 チャップリン

●Great Britons●取材・執筆・写真/名取 由恵・本誌編集部

日本を愛した喜劇王

チャップリン

ハリウッド映画初期の俳優、脚本家、映画監督として活躍し、バスター・キートン、ハロルド・ロイドと共に「世界の三大喜劇王」として世界的な人気を集める、チャーリー・チャップリン。
山高帽にチョビひげ、きついコートにだぶだぶのズボン、大きな靴にステッキで、よたよたと歩く姿は、映画ファンのみならず、誰もが知っているキャラクターだろう。笑わせながらもほろりとさせる彼の作品は、今もなお、世界中の人々を魅了し続けている。
一方、私生活では大の親日家で、日本と深い関わりをもち、五・一五事件では危うく命を落としかけてもいる。
英国の偉大な人物を紹介する『グレート・ブリトンズ』、今回は喜劇王チャップリンの生涯を辿ってみよう。

参考文献:大野裕之『チャップリン暗殺 五・一五事件で誰よりも狙われた男』(メディアファクトリー刊)、DVD『チャーリー』、Charles Chaplin, MY AUTOBIOGRAPHY, 1964

貧しき子供時代

「喜劇とは何であろうか。映画とはいったい何なのであろう。ただ人を笑わせるだけが喜劇じゃないことは確かだ。わたしの思いを表現するなら、わたしという人間を培ってきた社会を表現しなければならない。スクリーンの中の出来事は現実の社会と関わっているのだ。少なくとも『チャーリー』はそうだ」
『放浪紳士チャーリー』を生みだし、世界の喜劇王として人気を集めた、チャーリー・チャップリンの本名は、チャールズ・スペンサー・チャップリン(Charles Spencer Chaplin KBE)。1889年4月16日にロンドンのウォルワースで生まれる。父親チャールズ・チャップリン、母親ハナ・ヒル(芸名リリー・ハーヴィー)は、ともにミュージック・ホール(音楽、芝居、喜劇などを披露する当時の娯楽施設)の舞台芸人だったが、一家の生活は大変に貧しく過酷なものだったという。両親はチャップリンが1歳のときに離婚。11年後、父親はアルコール依存症により死亡。母親は、女手ひとつでチャップリンと4歳年上の異父兄シドニーを育てるが、チャップリンが幼いとき、極貧生活と栄養失調が原因で精神に異常をきたし、精神病院に入ってしまう。その後、シドニーとチャップリンは、孤児院や貧民院を転々とさせられた。
「わたしは貧乏をいいものだとも、人間を向上させるものだとも考えたことはない。貧乏がわたしに教えたものは、なんでも物をひねくれて考えること、そしてまた、金持ちやいわゆる上流階級の美徳、長所に対するひどい買いかぶりという、ただそれだけだった」
貧しかった幼少時代がその後のチャップリンの人格形成に多大な影響を与えたことは確かだ。
両親の感性を受け継いだチャップリンは、早くから舞台に立ち、家計を支えてきた。初舞台は5歳。舞台で突然声が出なくなった母親に変わって、チャップリンが急遽ステージに登場し、歌を披露したという。10歳でエイト・ランカシャー・ラッズ劇団に入団したチャップリンはタップダンサーとして注目を集め、その後は劇団を転々としながら芸を磨いていき、1908年に兄の勧めでフレッド・カーノー劇団に入団。ここでパントマイムの技術を磨き、「酔っぱらい」の演技で人気を集め、一躍花形コメディアンに成長していく。

米国に上陸 ハリウッドのスーパースターへ

1912年、カーノー劇団が2度目の米国巡業を行った際にチャップリンは喜劇映画界の雄、マーク・セネットに見いだされる。セネットは喜劇専門の映画製作会社であるキーストン社の監督/プロデューサーだった人物。キーストン社には無声映画全盛期を代表する名だたる役者が所属し、大衆の人気を集めていた。キーストン社から提示されたチャップリンのギャラは平均的労働者の10倍の週給150ドル。当時、映画は舞台より低級とみられていたため、出演を希望する役者が少なく、映画会社は高いギャラを払って俳優を確保していたという。
チャップリンは『成功争ひ(原題: Making A Living)』(1914年)のペテン師役で映画デビュー。以後、1年間キーストン社に所属し、34本の短編映画に出演することになる。そして、2作目『ヴェニスの子供自動車競争(Kid Auto Raves At Venice)』(1914年)で、放浪者にして紳士である『放浪紳士チャーリー』というお馴染みのキャラクターがようやく登場する。
「つまり、小さな口髭は自分の虚栄心、不格好で窮屈な上着とダブダブのズボンは人間が持つ愚かしさと不器用さ、同時に物質的な貧しさにあっても品位を維持しようとする人間の必死のプライド。そして大きなドタ靴は貧困にあえいだ幼い頃の忘れえぬ思い出だ。それが僕に閃いた人間の個性なのだ」と、チャップリンは後に回想している。
当時は無声映画の時代であり、派手なアクションのドタバタ劇が人気を集めていた。キーストン喜劇も然り、即興で撮影されるということもあって、追いかけ回したり、喧嘩したりの連続が主流だった。そんな中でも、チャップリンは監督業を兼任するなど映画人として修行を積んでいく。やがてめきめきと実力をつけたチャップリンは、他の映画会社から次々と引き抜かれ、その度にギャラも上がっていった。2年目の1915年には週給1000ドルで移籍し、14本の短編で監督・主演を務めた。さらに3年目には週給1万ドルという破格の契約金で移籍、12本の映画を製作する。
1918年には、独立して自分の撮影所を設立。ファースト・ナショナル社(後にワーナー・ブラザーズと合併)と年棒175万5000ドルで契約を結び、名実ともにハリウッドのスーパースターとなる。自らの撮影所で自由に映画製作できるという環境が整い、映画作りにおいて主導権が握れるようになったおかげで、チャップリンは当初のドタバタ劇から、「喜劇は人を泣かせることもできる」という自分の信念にもとづく作品を創るようになる。こうして、社会的メッセージと人間の内面を、笑いと涙を織り交ぜながら描くというチャップリンの独自のスタイルが確立されていったのだった。
さらに、1919年には、その後アメリカの映画界で隆盛を極める配給会社、ユナイテッド・アーティスツを設立。チャップリンは、監督・プロデューサー・脚本・主演と、ひとりでいくつもの役割をこなし、無干渉で映画製作のできる環境を手に入れた。そして、『キッド(The Kid)』(1921年)=写真右、『黄金狂時代(The Gold Rush)』(1925年)、『サーカス(The Circus)』(1928年)、『街の灯(City Lights)』(1931年)など、大ヒット作を次々に製作し、またたく間に世界的な人気者になっていく。
チャップリンは、わずか数秒のシーンを納得のいくまで何百回と撮り直し、少しでも無駄な演技のシーンは大胆にカットするなど、業界随一の完璧主義者と呼ばれた。NGがでたフィルムはほとんど焼却していたほど、その完璧ぶりは徹底していたという。

少女趣味(ロリコン)で4度も結婚
~多彩な女性関係~

ロバート・ダウニー・Jr主演、リチャード・アッテンボロー監督の伝記映画『チャーリー(原題:Chaplin)』(1992年)でも描かれているように、チャップリンは4度の結婚で11人の子供をもうけるなど、女性関係は実に華やかだった。
初恋の人は踊り子のヘッティ・ケリー。彼女が15歳のときに出会い恋に落ちるが、彼女が若くして亡くなったため、チャップリンは一生ヘッティの面影を追い求めたといわれる。最初の妻は女優のミルドレット・ハリス=写真右。1918年に結婚し2年後に離婚。2番目の妻はリタ・グレイ。1924年に結婚し3年後に離婚。ふたりの間には長男チャールズJr、次男のシドニーが生まれている。3番目の妻とされるのは、ポーレット・ゴダード=同左下。女優としては彼女が最も有名で『モダン・タイムス』『独裁者』でも共演している。1936年に結婚し6年で離婚。しかし彼女とは結婚の法的証拠がなく、正式に結婚していなかったという説もある。そして4人目の妻は、ウーナ・オニール。ノーベル賞受賞の劇作家、ユージン・オニールの娘でもある。1943年に結婚、8人の子宝に恵まれる。
他にも数々の浮き名を流し、父権裁判を起こされたこともある。また、チャップリンが少女趣味(ロリコン)だったというのも、ハリウッドでは有名な話。ミルドレットが結婚したのは16歳で、リタも16歳のときに妊娠して結婚している。離婚後まもなくリタは慰謝料訴訟を起こし、夫婦の性生活を暴露するなど、チャップリンにはかなりの痛手だったという。一説によると、ナボコフの小説『ロリータ』は、チャップリンとリタの関係をヒントに書かれたという噂も。ウーナは17歳で結婚。当時チャップリンは54歳で、年の差はなんと37歳!8番目の子供が生まれたとき、チャップリンは73歳だった。

大の親日家

1927年に撮影されたチャップリンと高野虎市(右)
=高野の遺族、東嶋トミエ氏所有の写真。
チャップリンと日本の縁は深い。1916年秋、チャップリンは在米日本人の高野虎市を運転手として採用した。それまでのチャップリンは特に親日家だったというわけではなく、高野を選んだのは、単に人種についての偏見がなかったからといわれている。
高野は1885年広島県生まれ、裕福な庄屋の出だったが、15歳のとき親には「留学」と称し、自由を求めて渡米。以来、米国で生活していた。
運転手として働き始めた高野は、車の運転はもちろん、経理、秘書、護衛、看護師などさまざまな仕事をこなし、チャップリンの身の回りのことをすべて任されるようになった。高野は映画にも端役で出演したことがあり、長男にはチャップリンのミドルネームからスペンサーという名前がつけられた。一時はチャップリンの遺書のなかで遺産相続人のひとりに選ばれるほど、絶大なる信頼を得ていたという。高野の誠実な人柄や勤勉な仕事ぶりに感心したチャップリンは、使用人に次々と日本人を雇い、1926年頃には使用人すべてが日本人になっていた。チャップリンの2番目の夫人であるリタ・グレイは「まるで日本のなかで暮らしているよう」と表現していたと伝えられる。

「キムラ」と呼ばれて
ロンドンでも人気だった
滋賀県産のステッキと
同様のデザイン。
当時は年間200万本も
輸出されていたという。
1931年初め、チャップリンは突然世界旅行に出発することを決意。高野は1年半にわたり、チャップリンの世界旅行の全行程に同行した。そしてその世界旅行の途中、32年5月にチャップリンは遂に憧れの地、日本の土を踏むことになる。
その後、チャップリンは1936年3月と同年5月、そして戦後の61年6月と生涯で4度来日を果たしている。すっかり親日家となり、歌舞伎や相撲など日本の伝統文化を愛し、西陣織の羽織をガウンとして愛用、天ぷらを好んで食べ、天つゆまで自分で作るほど、日本に惚れ込んでいた。ちなみに、チャップリンが映画のなかで愛用した、かの有名なステッキは、しなりが強いのが特徴の滋賀県産の竹で作られていたもの。竹根鞭細工と呼ばれる木村熊次郎が考案した滋賀の特産品で、明治初期から海外に輸出され、かつてロンドンではステッキを「キムラ」と呼ぶほど好評を博したという。

日本では暗殺の的に

「五・一五事件」といえば、戦前の日本で起きたクーデター事件として、「二・二六事件」と共に歴史の授業でもお馴染みだが、その事件にチャップリンが関与していたという意外な事実がある。
1932(昭和7)年に起きた「五・一五事件」では、大日本帝国海軍の急進派である青年将校たちが首相官邸に乱入、護憲運動を進めた犬飼毅首相を暗殺。この事件により、政党政治は衰退、日本は軍部主導の体制になり、戦争へと向かっていくことになる。この「五・一五事件」が起こった当時、チャップリンは偶然にも日本を訪れていた。しかも、チャップリン自身が暗殺の標的になっていたというから驚きだ。
日本チャップリン協会発起人代表であり、チャップリン研究家の大野裕之氏の著書『チャップリン暗殺 五・一五事件で誰よりも狙われた男』には、当時の情勢とチャップリンの足跡が詳細に述べられている。それによると、事件の首謀者たちは、「外国文化の象徴」であるチャップリンを暗殺することにより、米国をはじめ世界中に衝撃を与え、さらに日米開戦にもちこみ、世界全体を改革することを目指していたという。チャップリンは国際的スターであり、資産家でもあり、世界的に重要な人物だったため、クーデター首謀者にとって、格好の暗殺の標的だったのだ。

ガンディー(前列右から2人目)とチャップリン(同3人目)
=1931年9月、ロンドンにて撮影。
世界旅行中、チャップリンは世界の著名人と会談を果たしている。英国では、ウィンストン・チャーチル首相やマハトマ・ガンディー、アインシュタインとも会談し、日本では、犬飼毅首相との面会及び首相官邸での歓迎パーティーが予定されていた。日本の不穏な空気を心配した高野虎市は、世界旅行中に一足早く日本を訪れ、犬飼毅首相の息子である犬飼健首相秘書官に相談。チャップリンと犬飼首相の会談は、チャップリンが親日家であることを強調することで日本の右翼勢力を懐柔し、チャップリンの身の安全を守ろうという高野と犬飼健氏が立てた作戦だったといわれる。
チャップリンはジャワ滞在中に熱病にかかり、日本到着予定が5月16日と遅れたために、一時は暗殺の標的から外されたが、結局船が快調に進み、14日朝に神戸に到着。首相との会談は事件当日の15日夜に首相官邸にて行われることに決定した。見事に首相官邸襲撃のタイミングに重なったことで、再びチャップリンの命は危険に晒されることになる。ところが、日頃から気まぐれなチャップリンが、当日になって突然相撲に行きたいと言い出したことから、首相との会談は延期。チャップリンは辛くも暗殺を逃れたのだった。チャップリンが直感的に危険を察知したかどうかは謎だが、予定どおり会談に出席していれば日本で暗殺されており、その後の日英関係にも大きく影を落としたに違いないと考えるとぞっとする。
また、14日に到着するなり東京に直行したチャップリンはまず二重橋を訪れ、皇居に一礼している。この一礼は当時の新聞に大々的に報道されたが、これも当時の時勢を配慮した高野が仕掛けたことで、チャップリンは後に「高野が『車から降りて皇居を拝んでください』というので、腑に落ちないまま礼をした」と自伝に記している。
事件後もチャップリンは、気丈に日本観光を続け、歌舞伎座と明治座で伝統芸能を鑑賞した。日本橋の「花長」ではエビの天ぷらを36尾も食べたという。5月17日、チャップリンは密かに首相官邸に行き、犬飼健氏と共に弾痕が残る現場を訪れた。また、帰国当日の6月2日にも斎藤実新首相と会見。再び暗殺の現場を訪れ、何度も「恐ろしい」と繰り返していたという。
その4年後の1936年3月、再び日本に訪れたチャップリンだが、同年2月26日には「二・二六事件」(*)が起きている。チャップリンは予定では2月末には日本にいるはずだったが、ハワイ滞在を延長したため、事件には巻き込まれなかった。しかし、この事件では、前回チャップリンを首相官邸に案内した斎藤実が殺されてしまう。
「五・一五事件」、「二・二六事件」という、日本の歴史を変えた事件の両方にチャップリンが関係していたとは、単なる偶然なのか、20世紀という時代が作り出した必然なのか。どちらにしても不思議な縁を感じる。

大野氏が発見した手紙。
秘書や知人らがチャップリン訪日の行動計画を
立てたことが明らかにされた。
上の記述では、「御到着の日」は「休養」だが、
他の箇所で宮城(皇居)に行く
よう求めている
=高野の遺族、東嶋トミエ氏所有のもの。
前述の大野氏の著書によると、チャップリンは初来日の際に記者会見で、世界情勢に関して質問を矢継ぎ早に受け、「それはわたしの職分ではない。各政治家の職分です」と答えると、ある記者から次のように声があがったという。
「君のユーモアによって、世界を救えばいいじゃないか!」(原文より抜粋)
すると会場内は笑いの渦となり、チャップリン自身も笑っていたという。ユーモアで世界を救う――この言葉が、チャップリンの心に響き、その後の彼を導いていったと思うのは、考え過ぎだろうか。世界旅行中に、ドイツやイタリアなどでファシズムが広がりつつあるのを目の当たりにし、自分が愛する日本でも軍国主義が始まろうとしているのを知ったチャップリン。この時期にチャップリンが世界で見聞したことが、後の彼の作品に多大な影響を与えたことは、間違いないだろう。
*1936年2月26―29日に、陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1500名近い兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」をスローガンに起こしたクーデター事件。これにより、斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監が暗殺された。

言葉より動きで伝える 政治への挑戦

チャップリンは、1932年6月に世界旅行から米国に戻るが、ハリウッドは無声映画からトーキーの時代へと移り変わっていた。1936年にチャップリンは自ら作曲の音楽をつけた『モダン・タイムス(Modern Times)』を製作するものの、トーキーではない作品に世間の評価は厳しかった。日本でも最初の来日後にチャップリンの評価は急落した。彼の映画はもはや時代遅れになってしまったのだ。
チャップリンの作品は無声映画がほとんどだが、トーキーを軽蔑していたのではなく、チャップリンの作り出したキャラクター=放浪者のイメージが声で崩れることを危惧したためといわれている。
「もし、わたしがトーキー映画を創っても、到底あのパントマイム芸術を超えることはできないだろう。『チャーリー』を殺すことは僕にはできない」
言葉よりも動きの方が正しく理解される、と信じていたチャップリンだからこそ、あくまで無声にこだわっていたということだろう。
『モダン・タイムス』では、過酷な状況で生きる貧者や労働者を描き、人間の機械化に反対したが、この頃から彼は米国の急進的な左右両派からの批判を浴びるようになった。極貧の少年時代を送った影響で、チャップリンは政治問題に大変な関心を持っていた。そのうえで、ファシズムの勃興と暗殺の標的として狙われた日本での体験は、チャップリンにあるアイディアを抱かせる。1938年、満を持して、戦争・ファシズムを批判する、チャップリン初のトーキー映画『独裁者(The Great Dictator)』の製作を発表するのだ。
当初、チャップリンはナポレオン皇帝を主人公にした悲喜劇を作ろうと思っていたようだが、それをボツにして『独裁者』の製作を決意した。1939年、ヒトラー率いるナチスドイツがポーランドに侵入し、第二次世界大戦が勃発した直後に撮影を開始。1940年10月に米国で公開されたが、当然のことながら戦前の日本では公開されず、日本では1960年になって初めて公開されたという。
映画の終盤にある演説は、もともと台本にはなく、当初はドイツ兵士とユダヤ人が一緒にダンスをするというラストだったとされている。しかし、独裁者に対する怒りを表現するために台本を書き換え、6分もの長さの大演説となった。製作当時、米国ではナチスドイツを反共主義の国として肯定的な見方をする向きも多く、不況を克服した政治家としてヒトラーを英雄扱いする傾向にあったといわれ、『独裁者』の演説シーンは賛否両論を呼んだ。
また、当時はチャップリンがユダヤ人という説がまことしやかに流れたというが、チャップリンは実際にはユダヤ人ではなく、アイルランド人とロマ(ジプシー)の血を引く。異父兄のシドニーがユダヤ系のクオーターと主張していることが関係しているといわれていたが、当のチャップリンは「ユダヤ人と思われて光栄だ」などと語っていたという。ちなみに、チャップリンとヒトラーは同い年で、誕生日もわずか4日違い。ヒトラーにも一時期ユダヤ人説が流れたこともあわせて、ふたりにはさまざまな共通点があるが、その理想はまったく異なる方向にあったといえよう。

チャップリンの先見の明が光る
『独裁者(The Great Dictator)』

おそらく、チャップリンの作品のなかで最も有名なのが、この『独裁者』だろう。チャップリンが監督・製作・脚本・主演を務め、ヒトラーとナチズムを風刺した作品で、チャップリンが最初に製作したトーキー映画として知られる。
本文で述べたように製作当時はヒトラーの人気も高く、人々はなぜチャップリンがヒトラーを風刺するのか不思議がったが、後に彼の先見の明が証明されることになった。
ストーリーは、架空の国トメニアの陸軍二等兵である床屋の店主チャーリーが主人公。独裁者のヒンケルが圧政を行うこの国で、ユダヤ人のチャーリーは迫害を受けながらも隣国に脱出。しかし、ヒンケルと容姿がそっくりだったことから、チャーリーはヒンケルに間違えられ、再びトメニアに連行されるが、ヒューマニズムと民主主義を訴える演説を行い=写真上、民衆から大喝采を受けるという内容だ。
戦争を憎み、平和の尊さを伝える本作は、商業的に最も成功したチャップリン作品となっている。

その他の主な作品

『ライムライト Limelight』では、
老いた喜劇俳優の悲哀を演じた。
1914年の第1作『成功争ひ(原題:Making a Living)』から1967年の『伯爵夫人(A Countess from Hong Kong)』(監督のみで出演はなし)まで、チャップリンは40余りの作品を手がけている。初期は短編映画が中心で、中期以降は中編や長編が多くなる。そのなかでも有名なのは、ファースト・ナショナル時代の『キッド(The Kid)』(1921年)、ユナイテッド・アーティスツ時代の『黄金狂時代(The Gold Rush)』(1925年)、『街の灯(City Lights)』(1931年)、『モダン・タイムス(Modern Times)』(1936年)、『独裁者(The Great Dictator) 』(1940年)、『ライムライト(Limelight)』(1952年)など。

 

笑うために闘ったチャーリー

第二次世界大戦後、1947年に『殺人狂時代(Monsieur Verdoux)』を製作した頃から、チャップリンに対する米国での風当たりがさらに厳しくなっていく。反戦色の強い作品や、左寄りの発言は、東側に対する冷戦が始まった米国では「容共的」として非難されることもあり、マッカーシズムと呼ばれる米国での赤狩りが吹き荒れた50年代には、上院政府活動委員会常設調査小委員会から、何度となく召還命令を受けている。
1952年、チャップリンは『ライムライト(Limelight)』のプレミア公演のため、ロンドンに出航するが、その直後に米政府から事実上の国外追放処分が出され、米国の地に戻ることは許されなかった。こうして、チャップリンは、40年間にわたって活動を続けた米国、そしてハリウッドと決別することになる。
チャップリンの右腕として活躍していた高野虎市は、それに先立つこと18年前の1934年に秘書役を辞任している。当時は恋人で、後にチャップリンの3番目の妻となる女優のポーレット・ゴダードと衝突したのが原因とされている。その後、高野はチャップリンから莫大な退職金とユナイテッド・アーティスツ日本支店の職を与えられるが、日本の暮らしに馴染まなかった高野は再び米国に戻り、第二次世界大戦中には、スパイ容疑でFBIに逮捕され、開戦後に強制収容所に送られた。息子のスペンサーは、父親の立場が良くなるようにと、志願兵となり日本軍と戦ったという。高野は戦後も事業に失敗するなど苦労をしたようだが、晩年は故郷の広島で静かに過ごし、86歳で逝去した。18年間を共に過ごしたチャップリンと高野が会うことは、二度となかった。

72歳の誕生日を迎えた
チャップリン=1961年撮影。
© Comet Photo AG (Zürich)
スイスに住み始めたチャップリンは、映画出演こそ少なくなったものの、世界各地で名士としての尊敬を受ける。また、50年近くを経て改めて、過去の作品が評価され、70年代初めには世界的にチャップリン・ブームが起こった。
1972年、米国映画界が事実上の謝罪を意味するアカデミー賞特別名誉賞をチャップリンに与えたことで、チャップリンは20年ぶりに米国の地を踏むことができた。授賞式の会場では招待客全員がチャップリンの作曲した楽曲「スマイル」を歌って功績を讃えたという。また、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムで長年消去されていたチャップリンの星印もこれを機に復活。さらに、政治的問題や女性問題で叙勲が遅れたものの、1975年には、母国英国のエリザベス女王からナイトの称号を贈られている。  チャップリンは、1977年クリスマスの朝に、スイスのヴェヴェイにある自宅で逝去した。就寝中に息を引き取るという安らかな最期だったという。享年88。
20世紀の怒濤の時代を生きぬき、金持ちや貧乏人、資本主義やプロレタリア、ファシズムなど、世界のすべてを笑い飛ばした喜劇王。世界中の人々から愛される作品を目指すため、誰かに不快感を与えるようなギャグを排除し、自分が納得するまで何度も作品を作り直した完璧主義者。日本を愛し、日本の文化を尊敬した親日家。戦争を憎み、平和を愛した理想高きヒューマニスト。さまざまな顔をもつチャップリンが作り上げた映像とメッセージは、時代を超え、世代を超えて、私たちに強く訴えかけ、今も私たちに愛され続ける。チャップリンはそのユーモアによって、数多くの人々の心を救った。そして、これからも救い続けていくことであろう。
「人生には、死よりも苦しいことがある。それは、生き続けることだ」
―チャーリー・チャップリン
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