古代エジプトにおいて、ミイラとして墓に埋葬されたのは、王族や貴族などの身分の高い者や裕福な者に限られていた。数々の豪華な副葬品が納められた墓は、常に墓泥棒による盗掘の危険に曝されており、新王国時代・第18王朝の王トトメス1世は、「自分の墓が暴かれないように」と険しい岩壁がそびえたつ地に岩窟墓の造営を考え出した。以後500年の間、歴代の王がそれにならって岩窟墓や地下墓を造ったため、その地は「王家の谷(Valley of the Kings)」と呼ばれるようになったのである。カナーヴォン卿は未盗掘の王墓を発見できる可能性があるとすれば、王家の谷しかないと考えていた。
どんでん返しに次ぐ大どんでん返しで、最後の最後に容疑者を前にして明かされる謎解きに、胸のつかえが取れたような解放感を味わえるアガサ・クリスティーの小説。アガサは半世紀以上におよぶ執筆活動の中で、66の長編のほか、短編、戯曲、さらにメアリ・ウェストマコット名義によるロマンス小説を書き上げ、ギネスブックでも「史上最高のベストセラー作家」に認定されている。彼女の作品を読んだことがなくとも、孤島のホテルに集められた人々が次々と姿を消していく「そして誰もいなくなった(Ten Little Niggers)」、超豪華特急という動く密室の中で起こる殺人事件「オリエント急行の殺人 (Murder on the Orient Express)」など、ドラマや映画、舞台など、何らかの形で作品に触れたことのある人が多いはずだ。
さらに、ひょんなことから始まった、姉との「簡単には結末が予測できない探偵小説が書けるかどうか」という競い合いが、アガサの作家としての才能を開花させることとなる。この挑発に奮起した彼女は、自宅を離れてホテルに3週間こもり、執筆に専念。トーキーに似た町を舞台に、病院で出会ったベルギーからの避難民をモデルにして、かの名探偵ポアロを創出、奇怪な殺人事件を完結させた。こうして、「ホームズとワトソン博士」に匹敵する「ポアロとその相棒ヘイスティングス」を生み出したわけだが、原稿を送った出版社から良い返事はなかなかもらえず、ようやく出版にこぎつけたのは7社目。これが彼女の記念すべきデビュー作「スタイルズ荘の怪事件(The Mysterious Affair At Styles)」(1920年)である。完成から4年の歳月が経っていた。
そして長年にわたる調査の結果、「修道院跡地でいまだに眠り続けているに違いない」と強く信じる、ある女性歴史家の働きかけによって、2009年、ついにリチャード3世の遺骨を探すための一大発掘プロジェクト「Looking for Richard(LFR)」が動き出したのだった。この日は、発掘作業がスタートしてから12日目。すでに建物の土台や床に敷き詰められていたタイル、数体の遺骨を見つけていた。
よみがえったリチャードは、グレイフレイヤーズ修道院の向かいに建つ、レスター大聖堂にあらためて埋葬された。その石棺には、生前にリチャードが使っていた銘が古ラテン語で刻まれている。「Loyaulte Me Lie(ロワイヨテ・ム・リ)」、その意味は「忠誠がわれを縛る」。兄への忠心と周囲の裏切りに翻弄された生涯であった。
アガサは英国をしばらく離れようと、長距離夜行列車「オリエント急行」に乗って、トルコとイラクへ旅行に出かけた。そしてイラクでは遺跡発掘作業に参加し、知り合った英国人考古学者夫妻と意気投合。1930年に再びイラクを訪れて、発掘現場へ向かった。そこで運命の出会いを果たしたのが、14歳下の英国人考古学者マックス・マローワン。年齢も育った環境も異なる2人だったが、あっという間に惹かれあい、7ヵ月後に結婚した。アガサは40歳、マックスは26歳だった。以後、アガサは夫の中東での発掘作業にはタイプライター持参で同行し、「メソポタミヤの殺人 (Murder in Mesopotamia)」や「ナイルに死す」など、異国情緒あふれる作品を次々と生み出している。
7月、ミルンは妻のトネと共に渡英。トネにとっては、初めての外国生活のスタートであった。ミルンは気候が比較的穏やかで暮らしやすいワイト島に住むことを選び、「英国高等科学研究所(British Association of Advanced Science)」の認可を得て、島の中心部にある町シャイド(Shide)の「シャイド・ヒル・ハウス」を地震観測所として研究を続けることになった。
しかしながら、ダーウィンが同様の説を長年持ち続けてきたことを知っていた2人は、「ウォレスとの共同作業」を提案し、ダーウィンを説得。こうして1858年、共著という形で三部構成による論文が学会で発表される。これを機に翌年「種の起源(On the Origin of Species)」をダーウィンは上梓したが、懸念通りに大きな物議を醸すことになる。
父親の遺言通り、リーチはロンドンのシティにある香港上海銀行(The Hong Kong and Shanghai Bank)に就職、毎晩11時まで働く日々が続く。慣れない仕事に加え、反対されるミュリエルへの想いや中退した美術学校への未練など、あきらめきれないことばかり。精神的にどんどん追い詰められ、我慢の限界に達したリーチは結局1年で銀行を辞職してしまった。
アルフレッド・ジョセフ・ヒッチコック(Alfred Joseph Hitchcock)は、1901年に幕を閉じることになるヴィクトリア朝の最後期にあたる、1899年8月13日にロンドンのイーストエンド、レイトンストーンの青果商の次男坊として誕生する。当時は産業革命による景気の拡大が既にピークを越え、英国経済は次第に陰りを見せ始めていた。失業者が増加し社会主義も台頭する中、街頭では労働者たちによるデモが絶えず、また『切り裂きジャック』として知られるホワイトチャペルでの連続殺人事件も、まだ人々の記憶に新しい時代であった。
アルフレッド・ヒッチコックが4、5歳の時のこと、父親の言いつけで知り合いの警察署長に手紙を持って行くお使いに出された。警察署長はその場で父親からの手紙を読むや否や、いきなりアルフレッドを留置所に閉じ込めてしまったという。5分後には釈放されたものの、恐怖におののくアルフレッドにはそれが数時間にも感じられた。釈放後「悪い子にはこうするんだ」(This is what we do to naughty boys.)と署長に言われたが、彼は悪いことをした覚えもなく、ただひたすら恐ろしがるばかり。成人した後ですら、背後で閉まる重い鍵の音や、暗くて長い刑務所の廊下の様子などをありありと思い浮かべることが出来たという。父親ウィリアムの思惑は予想以上の効果をもたらし、ヒッチコックはこれが原因で警官に恐怖を抱くようになり、子供心に「警察にお世話になる様なことは絶対避ける」と誓った。やがて成長するに従い、それが権力への漠然とした恐怖感や嫌悪へと転化していくわけだが、『間違えられた男』(1956) や『北北西に進路を取れ』(1959) をはじめ、ヒッチコック作品に「身に覚えのない罪で追われる主人公」が繰り返し登場するのは、幼い頃に起きたこの事件の影響だという。
ヒッチコックがハリウッドに移って間もなく、第二次世界大戦が勃発。1940年にはドイツ軍による英国本土爆撃が激化し、戦火は次第にヨーロッパ全土へと広がっていく。連合国に危機が迫っている時期に、一人ハリウッドで安穏としているべきではないと考えたヒッチコックは、1944年にロンドンへ飛び、フランスの対独レジスタンス運動を称賛する2本の短編作品を作り上げる。さらに翌年のドイツ降伏の際には、英国情報省(Ministry of Information)の依頼で、終戦直後のユダヤ人強制収容所の記録映画製作にも協力している。収容所を訪れたヒッチコックは、想像を遥かに超えた惨状に非常なショックを受けるが、いかなる状況であろうと目を背けずに記録しようと決意する。
英国政府は「敗戦から立ち直り、これから新たに国を建て直そうとしているドイツ国民に、このような物を見せるのはモラルに反する」というのを理由に上映を禁止。ヒッチコックは落胆し、冒頭の名言、「どんなに怖くても映画はしょせん映画だよ。一番怖いのは現実なんだ」を吐いた。ちなみに本作品にタイトルはなく、単に整理番号『F3080』、通称『Memory of the Camps』と呼ばれ、この作品が初めて日の目を見るのは、約40年後の1980年代後半、英国のテレビ・ドキュメンタリー番組『A Painful Reminder』としてであった。この時も、ショックを受けた視聴者からの非難がテレビ局に殺到したという。
撮影のない時、ヒッチコックはアルマと一緒に過ごす時間を何よりも楽しみにしており、ほとんど外出もしなかった。インタビューでも、夕食後二人で一緒にソファに座り、黙って別々の物を読む静かな楽しみについて言及している。ヒッチコックはタイムズ紙を、アルマは小説を好んだが、それが次の作品のアイデアに繋がる場合もあったといわれる。1979年にヒッチコックが米国映画協会(American Film Institute)から功労賞を贈られた際、ヒッチコックは「この場を借りて、特に4人の協力者の名前を挙げてお礼をいいたい。—編集者、脚本家、我が娘パットの母親、そして素晴らしい料理を作る家庭人。—この4人とはいずれも我妻アルマ・レヴィルのことです。彼女なしでは、今の私も存在しないのです」とスピーチしている。
1955年以降は彼の最も創作活動の盛んな時期であり、『知りすぎた男』『めまい』『北北西に進路をとれ』『サイコ』『鳥』などを矢継ぎ早に発表する。さらにテレビという新しい映像媒体にも興味を向け、米テレビ・シリーズ『ヒッチコック劇場』(原題 : Alfred Hitchcock Presents)を総監修する。これは1962年まで放映された毎回完結の短編サスペンスドラマ・シリーズだが、どのエピソードにもユーモアやどんでん返しの妙味が効いた人気番組となった。葬送行進曲で始まるこの番組は、ヒッチコック自身も数エピソードを監督する他、自ら司会役を買って出て、番組内の冒頭と終わりに軽妙なユーモアを交えた解説を行い、一躍お茶の間に顔を知られることになる。このシリーズは日本を含む海外でも放映され(日本では朝倉一雄がヒッチコックの声を担当)、当時は新人であったロバート・アルトマン、アーサー・ヒラー、シドニー・ポロックといった現在米映画界で活躍する有名監督たちの作品も見ることができる。
Hunterian Museum Royal College of Surgeons of England 38–43 Lincolns Inn Fields London WC2A 3PE https://hunterianmuseum.org ● 火ー土 10:00~17:00 ● 入館料は原則として無料(特別イベントは有料)だが、事前予約推奨。
■その3年後、カールトン・ハウスの改築で大きな借金を抱えたジョージは、ブライトンでしばらく隠遁生活を強いられる。ここで、最愛の女性であるフィッツハーバート夫人(Mrs Maria Fitzherbert)とひそかに結婚するも、美貌で知られた同夫人(既婚者)は、離婚が許されないカトリック教徒だったため、この婚姻は違法だった。後に有力貴族の娘と政略結婚させられ、一人娘をもうけたが、すぐに別居したジョージは、この不誠実さでも国民の不評をかうことになる。