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フレディ・マーキュリー 衣装で見る変身ヒストリー

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フレディ・マーキュリー 衣装で見る変身ヒストリー
ブリティッシュ・ロックバンド、クイーン。クイーンといえば、その音楽はもちろんのこと、奇抜なフレディの衣装(彼は笑われることも意識してやっていたらしい)やルックスの変化もかなり印象的だった。華麗なる貴公子から、ヒゲ・マッチョのおじさんにまで、艶やかに変身したフレディの衣装の変貌(ほんの一部)を追ってみよう。

Special Thanks to: Phil Symes, Richard Gray
●Great Britons●取材・執筆/内園 香奈枝・本誌編集部

【1】まるで、ベルばら、王子様 「シラサギ・ルック」

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Courtesy EMI Photo Archive
【1975年ごろ】白いたっぷりとしたドレープがついた華麗なひらひら衣装。1972年から大流行した「ベルサイユのばら」に出てきそうだ。黒マニキュア、長髪、長身、細身の白馬の王子様のようなルックスに、日本人女子は熱狂。クイーンはアイドルだったのだ。

【2】ボディラインくっきり 「バレエ・タイツ」

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By Neal Preston © Queen Productions Ltd
【1976年ごろ】体のラインがはっきりと分かるピッチリタイツ。銀、白、ダイヤ柄、黒と様々なバリエーションもとりそろえており、バレエ好きだった彼らしい衣装。見てはいけないものを見てしまったというべきか、官能的で美しいというべきか…。

【3】ゲイ路線へ? 「黒レザー」

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By Neal Preston © Queen Productions Ltd
【1979年ごろ】このころからマッチョ路線になるフレディ。黒のレザーの帽子、ピッタリとしたパンツがセクシーだ。まだ髭は生やしだしていなかったが、彼のゲイ嗜好が表れだした一着といえよう。

【4】登場! ヒゲ・マッチョ姿 「ランニング」

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By Neal Preston © Queen Productions Ltd
【1985年ごろ】ヒゲ、ランニングにマッチョなこの姿がフレディの定番イメージの人は多いだろう。エイズや死のことを気にせず、彼が自由に生きていた時代の姿ともいえるかもしれない。ただ、初期に王子様として彼を愛していた多くの女性たちには、このヒゲのおじさんと化したフレディはショックであった…。

【5】王者の貫禄 「黄ジャケット」

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By Denis O’Regan © Queen Productions Ltd
【1986年ごろ】ラスト・ツアーのこのジャケット姿は、すっかり大きなスタジアムの似合うライブ・バンドに成長した風格が現れている。この衣装に、天に向け片腕を上げた姿は、銅像などのポーズとしてもおなじみだ。

【6】厚いメイクで病気を隠した 「道化師」

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By Simon Fowler, © Queen Productions Ltd
【1991年ごろ】彼の晩年のプロモーション・ビデオ撮影での衣装。かなり病状が悪化しており、休み休み撮影していたそうだ。少しでも元気にみせるために、カツラを付け、彼が大好きなライザ・ミネリをイメージした厚いメイクをした。茶目っ気たっぷりに演じる姿は愛しく、しかし切なくもある。
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週刊ジャーニー No.572(2009年4月30日)掲載


世界でもっとも美しい遺書 ヴァージニア・ウルフ

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ヴァージニアが遺した遺書( © openculture.com)

■ 英国のモダニズム文学を代表する作家ヴァージニア・ウルフ。戦争、フェミニズム運動など変革の風が吹き荒れた20世紀初頭を生き、作家として評価を得るも自ら命を絶ってしまう。今回は、世界でもっとも美しい遺書を残したとされるヴァージニアの人生をたどることにしたい。

●Great Britons ●取材・執筆・写真/本誌編集部

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モンクス・ハウスにある執筆のための小屋。

第二次世界大戦真っ只中の1941年3月28日金曜。ナチス・ドイツによる激しい空襲によってロンドン市内は甚大な被害を受け、市民らが恐怖に包まれる中、抗うことのできない闇に飲み込まれた一人の女性がいた。
空襲によってロンドンの家を焼かれ、イースト・サセックスの別荘に疎開していた彼女は、コートを羽織り帽子をかぶって家を出ると、近くを流れるウーズ川のほとりで足を止めた。どのくらいの時間、水面を眺めていただろう。川岸にあった石を手に取り、それをポケットいっぱいに詰めると、川の流れに足を踏み入れた…。
ベストセラー作家ヴァージニア・ウルフ、59歳である。

男は学校で、女は家庭で

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母ジュリアに抱かれる2歳の頃のヴァージニア(1884年撮影)。

ヴァージニアは1882年1月25日、ロンドンのサウス・ケンジントンに生まれた。50歳を目前にした父レズリー・スティーブンは歴史家で編集者、35歳の母ジュリアはラファエル前派のモデルを務めた人物。ともに子供を連れての再婚で、さらに4人の子を授かり、ヴァージニアはその3番目だった。
英国では同年、「妻財産法」の制定により既婚女性の財産所有が認められるなど、女性の権利が拡大しつつあった。とはいえ、時は女子教育が軽んじられていたヴィクトリア朝時代。スティーブン一家の男の子らは学校に通い、女の子らは家庭で教養を身につけた。
だからといって、彼女が受けた教育が不十分だったかといえばそうではない。ヴァージニアと3歳上の姉ヴァネッサは母からラテン語と歴史を、父から数学を習った。「好きなだけ読みなさい」。当時にしてはリベラルな教育方針の父は、自分の図書室へのアクセスを娘に許し、ヴァージニアは貪るように本を読んだ。さらに文化に造詣の深い両親の元には、ヴィクトリア朝文学界を代表する作家トーマス・ハーディー、詩人アルフレッド・テニスンらが訪れた。知的な客人と出会う中で教養や社会に関する鋭い洞察力を磨いていった。

連続する家族の死

まさに未来の小説家にふさわしい環境で順風満帆な子供時代を送ったように思えるかもしれないが、現実は違った。文学に対する情熱を共有した父は自己中心的で気が短く、「暴君」のように振る舞うこともあった。献身的な母はそんな夫への対応に追われた。その結果、子供に注がれるはずの母の時間が奪われてしまう。知的な成長は促されていたヴァージニアだが、心の欲求においては満たされない思いを抱いていた。

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父70歳、ヴァージニア20歳のときの写真(1902年)。1904年2月に父が亡くなると、ヴァージニアの精神状態は悪化した。ヴァージニアは双極性障害(躁うつ病)だったとされ、遺伝的気質として受け継いだとみられている。このときは、国王が藪の中で猥褻なことを叫んだり、小鳥がギリシャ語で話したりといった支離滅裂な幻聴が聞こえたという。
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スティーブン一家が暮らした22 Hyde Park Gate。ヴァージニアはこの家で父が亡くなるまで過ごした。

また、異父兄ジョージとジェラルドの存在も彼女を混乱させた。ヴァージニアとヴァネッサは10歳近く離れた彼らから性的虐待を受けており、ヴァージニアに関しては6歳のときにはすでに虐待が始まっていたという。
13歳を迎えた1895年、突然の母の死によって未成熟だったヴァージニアの心にひびが入り始める。追い打ちをかけるように2年後には、母親代わりの異父姉ステラも早世する。妻を亡くして以降、失意のどん底に落ちた父は絶望と自己憐憫を子供たちに押し付けることもしばしばで、家庭内の雰囲気は、ヴァージニアの心の病を助長こそすれ、改善などしなかった。
そんな父が1904年2月にガンで死去すると、22歳を迎えていたヴァージニアの心はとうとう壊れてしまう。父を尊敬する反面、自分勝手に振る舞う姿に嫌悪感を抱くこともあったヴァージニアは、自分の感情を処理するすべを持たなかったのだろう。不眠、不安感、食欲減退…。かつてないほどの発作に襲われ、窓から飛び降り、自殺を試みたのだった。この時ばかりは自宅を離れ、本格的な治療を受けることとなった。
スティーブン一家の子供たちは、死のにおいがまとわりつく重苦しいケンジントンの家と決別。家を売ってブルームズベリーへと住まいを移した。回復しつつあったヴァージニアも年の暮れまでにはきょうだいの住む新居に移ることが適った。

紅茶ではなくコーヒーを

自由な雰囲気が漂うブルームズベリーでの生活は、すべてが新鮮だった。夕食後に紅茶ではなくコーヒーを飲むような、これまでの型にとらわれない生活の中で、ヴァージニアの創造性が開花していく。
2歳上の兄トビーはケンブリッジ大の友人を家に招き、夕食と会話を楽しむ会を定期的に催した。政治やアート、文学など、物静かだったヴァージニアも次第に会話に加わるようになり、優秀な学生らと対等に意見を交わした。このメンバーらが、のちに社会から一目置かれる文化人集団「ブルームズベリー・グループ」となっていく。

文化と芸術の開拓者集団 ブルームズベリー・グループ

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カジュアルな夜会が繰り返されるうちに形成された知的集団。ヴァージニア姉弟のほか、伝記作家リットン・ストレイチー、画家ロジャー・フライ、作家EMフォースター、美術家ダンカン・グラント、美術評論家クライヴ・ベル、経済学者ジョン・メイナード・ケインズなど錚々たるメンバーがいた。彼らは閉塞的なヴィクトリア朝時代の価値観に疑問を投げかけた。写真は、モンクス・ハウスで撮影されたもの。

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画家で、姉のヴァネッサ・ベル。子供の頃から支え合った姉妹の関係は大人になってからも続いた。ふたりは互いを動物のニックネームで呼び合うこともあり、ヴァネッサはヴァージニアを「Ape(サル)」と、ヴァージニアはヴァネッサを「Dolphin(イルカ)」と呼んだという。

刺激的な日々が続いていた1906年11月、兄トビーが腸チフスを患い急死してしまう。過去の傾向からすると、身内の死に直面し、ヴァージニアが精神を病んだことが容易に想像できる。ところが今回は激しい発作に襲われてはいない。その理由として、母、異父姉、父に対しては複雑な感情を抱いており(一方、トビーに対しては深い愛情を注いでいた)、彼らの死によって後ろめたい気持ちが芽生えたと考えられている。そこにヴァージニアの繊細な性格が浮かび上がる。
仲間の死という悲劇は、ブルームズベリー・グループのつながりを強くした。姉ヴァネッサが、メンバーのひとりクライヴ・ベルと結婚。以降も夜会は続けられ、のちに英国で活躍することになる知識人が参加した。その頃にヴァージニアのキャリアもスタートし、彼女の記事や書評が活字になった。

英国中が笑った⁉ 前代未聞の偽エチオピア皇帝事件

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1910年2月、英海軍が誇る戦艦「ドレッドノート」の将官のもとに電報が届いた。内容は、東アフリカに位置するエチオピアの皇族とその随員が視察に訪れるというもの。大慌てで準備が進められ、海軍は一行を大歓迎し、当時最先端技術を搭載したこの戦艦を案内するなどして視察が終了した。
ところが、この一連の出来事はすべてフェイク。ケンブリッジ大の学生だったヴェア・コールとその仲間らによるいたずらだったのだ。「偽の皇帝訪問」がメディアで報じられると、面目をつぶされた英海軍は激怒したが、英国民は大笑いしたという。
参加メンバーには、まだ作家として名が知られる前のヴァージニア=写真左端、弟エイドリアン、ブルームズベリー・グループのダンカン・グラントらが名を連ねた。

幸せな生活と執筆ストレス

1912年、30歳を迎えたヴァージニアは、グループで交流のあったレナード・ウルフと結婚する。2歳上のレナードは政府職員としてセイロン(現在のスリランカ)にいたが、休暇中のロンドンでヴァージニアとの結婚を決めると、職を辞し、ロンドンで執筆などの仕事を始めた。

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ヴァージニアとレナード、婚約時の写真=1912年7月23日。翌月、セント・パンクラス・タウンホールで結婚した。

新婚夫婦はシティの小さなフラットで幸せに暮らしていたが、翌年ヴァージニアは執筆中だった小説「船出」を書き上げるストレスに押し潰され、睡眠薬を過剰服用してしまう。レナードの迅速な対応で事なきを得たものの、彼女のうつ症状は2、3年ほど間、断続的に現れた。静かな環境を求めてふたりは郊外のリッチモンドに引っ越し、看護師らが住み込みで様子をみながら、タイピングや料理などシンプルな手作業で自分を取り戻していった。
ヴァージニアの神経が簡単にすり減ってしまうことを実感したレナードは、彼女の精神状態の変化を詳細に記録し、不必要のストレスを回避するために彼女の執筆時間を管理した。妻の健康を第一に考えるならば、レナードは執筆を止めさせることもできただろう。しかし、彼女の才能にほれ込んでいたレナードは、ヴァージニアが創造性を発揮できる環境を整えることに神経を注ぎ、揺るがない愛情で妻を支えた。結婚から20年が過ぎた頃のヴァージニアの日記には、「もしレナードがいなければ、私は何度、死について考えたことでしょう」とあり、彼の存在の大きさを知ることができる。

新時代の小説

1917年4月、ウルフ夫妻に転機が訪れる。外出先のショーウィンドウで小さな印刷機を発見したのだ。印刷に関心を抱いていたヴァージニアと、「ヴァージニアの健康に良いに違いない」と確信したレナードは、印刷機を購入。ふたりは独学で印刷技術を学んだ。彼の考え通り、印刷インクで手や服を汚しながら機械と格闘する作業は、執筆でストレス過剰になりがちだった彼女の心に安らぎをもたらした。
ふたりはすっかり印刷にのめり込み、出版社「ホガース・プレス」を設立。自分たちの本を印刷出版したほか、将来が期待された作家TSエリオットらの作品を世に送り出した。初めは趣味程度の規模だったが、4年後には大きな印刷機を導入し、書店へと販路を拡大させた。ふたりでの共同事業は、子供を持たなかった夫婦の絆を一層強固なものとした。さらに重要なことに、ヴァージニアは編集者や出版社に迎合することなく、自分の書きたいものを書く自由を手に入れたのだった。
ヴァージニアの精神状態が復活すると、再びロンドンに引っ越し、代表作となる「ダロウェイ夫人」「灯台へ」を出版。ヴァージニアは非凡な才能を発揮し、人間の複雑な意識の流れに忠実な新時代の作品に挑んでいった。
1928年の小説「オーランドー」が大ヒットを収め、「女性とフィクション」をテーマに行った講義をまとめたエッセイ「自分だけの部屋」がフェミニズム運動の高まりを受けて支持されると、ベストセラー作家として名を馳せたのだった。

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愛で結ばれた友人 ヴァージニア&ヴィータ

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若い頃に母親を亡くしたヴァージニアは、生涯において同性の友人に癒しを求めた。そのひとりが作家で園芸家のヴィータ・サックヴィル・ウェストだ。10歳下の若きヴィータと初めて会ったのは1922年のこと。作家として成功していたヴィータに、ホガース・プレスで出版することを依頼して以降、ふたりは親しくなる。ともに結婚していたものの、次第に惹かれ合い、短期間ながらも恋愛関係へと発展する。レナードは「ヴァージニアが幸せであるのなら」とふたりの関係に理解を示していたという。
1928年発行の「オーランドー」は、ヴィータをモデルにした半伝記的な物語で、ヴァージニアがヴィータに捧げた文学的ラブレターだともいわれている。

あなたのおかげで…

1939年、第二次世界大戦が勃発し、翌年ロンドン空襲で当時住んでいた家が被害を受けると、夫婦はイースト・サセックスの別荘「モンクス・ハウス」へ疎開。戦争に反対していたヴァージニアの心は激しく動揺した。新作「幕間」の仕上がりにも自信が持てず、画家で友人のロジャー・フライの伝記が不評だったことも重なり、過剰なストレスから幻聴が聞こえるようになる。耐えられなくなったヴァージニアは、わずかに残る「自分」に意識を集中させて遺書をしたためると、1941年3月28日、姿を消した。

最愛のあなた
自分がまたおかしくなっていくのがわかります。私たちはあのひどい時期をもう二度と乗り切ることはできないでしょう。それに今回は治りそうもありません。声が聞こえるようになり、集中できないのです。だから最善と思うことをします。あなたはこれ以上ないほどの幸せを私に与えてくれました。(略)もう闘うことはできません。私はあなたの人生を台無しにしています。私がいなければあなたは自分の仕事ができるし、きっとそうするでしょう。ほら、この文章さえきちんと書けない。読むこともできないの。言っておきたいことは、あなたのおかげで私の人生は幸せだったということ。あなたは私に対してとても忍耐強く、信じられないほどよくしてくれた。誰もがわかっていることです。もし誰かが私を救ってくれたのだとしたら、それは紛れもなくあなたでした。あなたの優しさを確信する以外、もう私には何も残っていません。これ以上あなたに甘えるわけにはいかない。私たち以上に幸せになれるふたりはきっと他にはいないでしょう。V

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サセックスを流れるウーズ川。ヴァージニアが消息を絶ってから3週間後、地元の子らが川岸で遺体を発見した。70年以上が過ぎた今、川は穏やかに流れていた。

消息を絶ってから3週間後、ヴァージニアはモンクス・ハウスの近くを流れるウーズ川岸で変わり果てた姿で発見された。遺体は火葬され、遺灰はレナードが愛情を注いだモンクス・ハウスの庭に埋められた。心の闇と闘う一方、変わりゆく社会の中で新時代の文学に挑戦したヴァージニア・ウルフ。夫の愛に抱かれるようにして、ようやく安らかな眠りについたのだった。

動画へGO!世界一美しい遺書 ヴァージニア・ウルフ

編集部制作のショートフィルム https://www.youtube.com/watch?v=LzdfveQwfH8

週刊ジャーニー No.1099(2019年8月15日)掲載

ハワード・カーター ツタンカーメン発掘に生涯をかけた男

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■1922年、世界中の専門家が実在を否定していたツタンカーメンの墓が、未盗掘で発見された。 その偉業を成し遂げたのは、無名の英国人考古学者、ハワード・カーター。
現在開催中の展覧会にあわせ、世紀の大発見に隠された男の苦難と悲哀をたどる。

● Great Britons ● 取材・執筆/本誌編集部

少年王の死

時をさかのぼること、約3300年前。

紀元前14世紀、エジプトの首都テーベ(現ルクソール)の町は、深い悲しみに包まれていた。まだ19歳であった国王、ツタンカーメンの早過ぎる死。先王が強行した宗教改革や遷都などによって国政が混乱していたこともあり、その突然ともいえる「不可解な死」は、事故死説、病死説、そして暗殺説など、様々な憶測もまた呼んでいた。

人々が寝静まった頃、松明の光を受けて輝く少年王の棺のそばには、王妃としての威厳を保つべく、今にも目から溢れ出そうになる涙を必死にこらえているアンケセナーメンの姿があった。豪奢な黄金の人型棺には緻密な装飾が施されており、アンケセナーメンはそれをゆっくりと目で追っていく。やがて、王の生前の面差しを写した頭部にたどりつくと、とうとう彼女の視界はぼやけ、大粒の涙が頬を伝ってこぼれ落ちていった。

2人は幼馴染で、異母姉弟であった(当時のエジプトでは近親婚は許されていた)。父王の死にともない、弱冠9歳でツタンカーメンが王に即位するのと同時に結婚。政略結婚であったが、複数の妾妃を持つのが当然であったこの時代に、ツタンカーメンはアンケセナーメン以外の女性をそばに置くことはなかった。権力闘争の渦巻く王宮にあって、年若き王が唯一心を許せた存在が、7歳上のこの王妃だったのである。

アンケセナーメンは、亡き夫のもとへとさらに一歩足を進め、手にしていた花をそっと捧げた。

「花はいつか枯れてしまうけれど、私の心は永遠に貴方のそばに…」

20年に満たない短い生涯を終え、永遠の眠りについたツタンカーメンへ向けて、彼女はそう静かに語りかけた。

絵の才能を買われた青年

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©MykReeve
ツタンカーメンのミイラの頭部に被せられていた、王の面影を刻んだ黄金のマスク。

時は流れ、1891年。エジプトのベニ・ハッサン。

ナイル河中流域にある岩窟墳墓の中で、一心不乱に壁画の模写をしていた少年は、一息つこうとスケッチブックを小脇に挟み、薄暗い墳墓から抜け出した。目の前に広がるのは、一面の砂漠と透き通るような青い空、照りつける太陽。そこに佇むかつての繁栄の面影を伝える壮大な遺跡の数々は、何度見ても少年の心を強く揺さぶる。この少年が、のちにツタンカーメンの墓を発見するハワード・カーターである。

カーターは、1874年にロンドンのサウス・ケンジントンで、9人兄姉の末っ子として生まれた。体が丈夫でなかったカーターは学校に通えなかったが、絵を描くことは得意であった。動物画家である父親から手ほどきを受け、次第に父親の助手として、わずかながらも収入を得るまでになっていく。

父親の顧客からの紹介で、エジプト考古学の第一人者フリンダーズ・ピートリー率いる発掘隊がエジプトから持ち帰った、出土品などの模写画を整理していたカーターのもとに、ある日運命の話が舞い込む。目に映るものを精密に描くことのできる才能を高く評価され、エジプト調査基金(現在の英国エジプト学会)の調査隊のスケッチ担当として、「エジプトに同行しないか」と誘われたのである。このときカーターは17歳、エジプトでの長い発掘生活の幕開けであった。

カーターは、この調査が終わっても英国へ戻らなかった。ピートリーや他の遺跡発掘隊に引き続き助手として参加し、やがて発掘作業にも加わるようになる。朝は誰よりも早く起きて現場に向かい、昼間は発掘の一からを実地で教わり、夜は古代エジプト史やヒエログリフ(象形文字)を独学で学ぶ日々を送った。

1899年、25歳になったカーターは、これまでの現場経験やピートリーらの推挙もあり、エジプト考古局のルクソール支部・首席査察官に就任。この若さでの首席査察官採用はきわめて例外的だったはずであり、カーターの優秀さがうかがえよう。

古代エジプト時代に「テーベ」と呼ばれていた古都ルクソールは、ナイル河で分断されており、その一帯には多くの遺跡が残されている。日が昇る方向であるナイル河東岸にはカルナック神殿やルクソール神殿など『生』を象徴する建造物が建ち並び、日が沈む方向である西岸には『死』を象徴する「王家の谷」などの墓所が広がる。カーターは査察業務の傍ら、米国の富豪セオドア・デイヴィスが発掘中の王家の谷で、遺跡発掘の現場監督としても采配をふるっていた。発掘への情熱をいかんなく注ぎ込むことのできる職を得て、カーターはやりがいと充実感を味わっていたに違いない。

ところが1903年、首都カイロ近郊のサッカラ支部へ異動が決まったことにより、順調に進んでいた人生は急変する。サッカラの遺跡入口にいた警備員と、入場料を払わずに入ろうしたフランス人観光客の間で起きた小競り合いに巻き込まれたのだ。カーターは仲裁に入るが、観光客たちは酔っ払っており、警備員と殴り合いに発展。事件を知ったフランス総領事は責任者であるカーターを非難し、公式な謝罪を要求した。しかし、彼は謝罪を拒んだため、考古局を解雇されてしまう。

失業したカーターはルクソールに戻り、観光ガイドをしたり、自身で描いた水彩画を観光客に売ったりしながら凌ぎ、発掘に携わるチャンスが巡ってくるのを待った。

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執念と財力、運命の出会い

1907年、遺跡発掘に投資している一人の英国人紳士が、カイロのエジプト考古局にやって来た。考古局長は「またか」とひっそりため息をついた。当時、発掘の真似事をしたがるヨーロッパの上流階級出身者は珍しくなかった。だが、そう簡単に遺跡が見つかるはずはなく、また作業中は発掘現場に立ち会わなくてはならないため、1~2年ほどで音をあげる。その結果、中途半端に放置される場所が増え、考古局長は頭を悩ませていた。ところが、「発掘放棄の話だろう」と覚悟を決めて会った紳士の態度は、これまでの投資者とは少し異なっていた。

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王墓発掘に莫大な資産をつぎ込んだ、第5代カナーヴォン伯爵ジョージ・ハーバート。

11世紀にさかのぼる家柄を誇るカナーヴォン伯爵家の第5代当主、ジョージ・ハーバートは子どもの頃から好奇心旺盛で、冒険にあふれた生活に憧れていた。乗馬やヨットを好み、爵位を継いでからは自動車に熱中。自らハンドルを握ってヨーロッパ中を旅した。しかし、数年前にドイツで起こした自動車事故により、毎年冬は英国を離れて療養するようになる。ギリシャやスペイン、南イタリアでの生活に飽きたカナーヴォン卿は、医者に勧められてエジプトで過ごすうちに、神秘的な遺跡群に魅了されて発掘投資を決めたのであった。

発掘開始から数ヵ月が経ち、ほとんど成果が出なかったにもかかわらず、カナーヴォン卿に諦める気配はなかった。どうすれば墓が見つかるのか真剣に相談を持ちかける、その並々ならぬ熱意は「ある男」を彷彿とさせた――。考古局長は、発掘には知識のあるプロの考古学者が必要であることを説き、無職であるものの、情熱だけは人一倍熱いカーターを推薦したのである。

事故? それとも暗殺?ツタンカーメン 死の真相

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即位後まもなくに着手し、長い時間をかけて造営する王墓。ツタンカーメンの墓は、あまりに小規模だったことから、王の死が「予想外の急逝」であったことがうかがえる。
2010年、エジプト考古学研究グループがツタンカーメンのミイラの検証を行った結果、ツタンカーメンは近親婚で生まれたことによる「先天的な疾患」を患っていたことが判明。背骨の変形、足指の欠損、臓器疾患の跡が確認された。ただ、こうした疾患による病死ではなく、おそらく死因は「大腿骨骨折による敗血症とマラリアの合併症」という。
かつては、後頭部に強い打撃を受けて命を落としたという暗殺・事故死説が有力視されていたが、X線写真に写っていた頭蓋骨内の骨片は、ミイラ作りの際に脳をかきだすために開けられた穴から落ちたものと、現在では結論づけられている。
大腿骨には縦にひびが入っており、太い大腿骨を縦に割るにはかなり強い力を要することから、疾走する2輪戦車等から落下したのではないかと考えられているが、それが不幸な事故であったのか、何者かによる暗殺未遂であったのかは、今や知る術はない。

忘れ去られた王

カーターとカナーヴォン卿は、すぐに意気投合したわけではなかった。カナーヴォン卿は名のある考古学者と組みたがり、考古局から解雇されたというカーターの履歴は不安材料でしかなかった。だが、自分を上回るほどの情熱と忍耐力に感服し、何より同じ目標を持っていたことが発掘を任せる決定打となった――2人は「王家の谷」での発掘を狙っていたのである。

古代エジプトにおいて、ミイラとして墓に埋葬されたのは、王族や貴族などの身分の高い者や裕福な者に限られていた。数々の豪華な副葬品が納められた墓は、常に墓泥棒による盗掘の危険に曝されており、新王国時代・第18王朝の王トトメス1世は、「自分の墓が暴かれないように」と険しい岩壁がそびえたつ地に岩窟墓の造営を考え出した。以後500年の間、歴代の王がそれにならって岩窟墓や地下墓を造ったため、その地は「王家の谷(Valley of the Kings)」と呼ばれるようになったのである。カナーヴォン卿は未盗掘の王墓を発見できる可能性があるとすれば、王家の谷しかないと考えていた。

しかし、カーターにはもっと具体的な目標があった。それはツタンカーメン王墓の発見である。ツタンカーメンは謎に包まれた「考古学者泣かせ」の王で、「歴代の王名リスト」にその名はないにもかかわらず、ツタンカーメン王の印章が刻まれた指輪などが、時々単独で見つかったりする。実在した王かすら確かではなく、実在したとしても在位の短い、歴史上あまり重要ではない王だと推測できた。それでも「忘れ去られた王」の墓を見つけることは、考古学者なら一度は夢見るロマンだ。多くが夢半ばで諦めていった中、カーターはツタンカーメン王墓は実在すると考え、それを発見するのは自分だと強く信じていた。そして、そのターゲットを王家の谷に絞っていたのだ。

王家の谷の発掘権は、引き続きセオドア・デイヴィスが握っていた。彼もツタンカーメンの墓を探し求める一人で、王家の谷から離れる様子はない。カーターたちは他の候補地を発掘しながら、時期をうかがっていた。

1914年、ついにデイヴィスが10年以上保持した王家の谷の発掘権を放棄。知らせを聞いたカーターは、英国にいるカナーヴォン卿に電報を打ち、発掘権を至急手に入れるよう訴えた。とはいえ、やはり好事魔多し。いよいよ念願の作業開始という時に第一次世界大戦が勃発し、発掘は一時中断となってしまった。

進まぬ発掘と許されぬ恋

第一次世界大戦が終結し、王家の谷で発掘作業が再開されてから3年が過ぎた1920年、何も発見できないことにカーターは焦りを感じていた。カナーヴォン卿もしびれを切らしはじめ、カーターは調査方法を一新する。考古局の資料と照らし合わせて、過去数十年にわたって王家の谷で発掘された全箇所を記した測量図を作成し、未着手の場所を徹底的に掘る作戦だ。ところが結局成果は上がらず、失望したカナーヴォン卿は翌年の発掘権を手放し、投資からも手を引くことを示唆してきた。慌てたカーターは再度測量図を作成し直し、今度は発掘の際に積み上げられた土砂で覆われ、作業が困難なために避けてきた箇所をしらみつぶしに調べる方法を提案して説得を試みるものの、カナーヴォン卿は難色を示した。土砂を取り除きながらの作業は、2倍の手間と時間がかかるからだ。しかし、最後にはカーターの勢いと必死さに折れ、翌年も発掘続行を許可した。

自分だけの指揮で結果を出さなければならない状況と、周囲から遮断された岩山の狭間での長期間にわたる仕事は、強靱な意志と忍耐力、強い信念がなければ続けられない。そんなカーターを支えたのは、ツタンカーメンに寄せる執念ともいえる思いと、ある女性――カナーヴォン卿の娘、イヴリンの存在だった。

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©Francisco Anzola
険しい岩壁が続く「王家の谷」。盗掘されないよう、ひそかに造られた岩窟墓や地下墓に王族は埋葬された。
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ツタンカーメン王墓の入り口に立つ(左から)カナーヴォン卿、娘のイヴリン、カーター。

カーターがイヴリンと初めて出会ったのは、王家の谷であった。第一次世界大戦の終戦により情勢が落ち着くと、カナーヴォン卿はエジプトに娘を伴って来たのである。父からずっと話に聞いていたエジプトを訪れるのは、イヴリンにとって長年の夢であった。イヴリンは上流階級の女性にありがちな気取ったところのない控えめな人柄で、考古学の造詣も深かったといわれており、カーターの発掘への思いを理解してくれる唯一の女性であったのかもしれない。当時40代半ばを迎えていたカーターと17歳のイヴリンは、親子ほどに年齢が離れていたが、瞬く間に心を通わせるようになったと伝えられている。イヴリンが英国に戻ってからも2人の手紙のやり取りは続き、毎冬の発掘シーズンには父に付き添ってエジプトに滞在するようになっていた。

最後のチャンス

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©RBETZ
王家の谷の発掘作業時にカーターが生活していた、ルクソールの高台にある「カーター・ハウス」。2010年に修復を終え、博物館として一般公開されている。

1921年、勝負の年が始まった。山のように堆積した土砂を取り除きながらの発掘は、通常通りに行っていたのではすぐに時間切れになってしまう。カーターは作業員の数を増やし、人海戦術で広範囲にわたってひたすら掘り進めていくことにする。膨大な量の土砂を休まずに動かし続けたが、実りのないままその年も終わってしまった。

翌1922年の夏、カナーヴォン卿はついに探索打ち切りを決め、王家の谷の発掘権を放棄する旨をカーターに手紙で伝えた。大戦により一時中断を余儀なくされたとはいえ、王家の谷を発掘し始めてから8年。遺跡発掘への投資を始めてからだと15年以上が経過している。カナーヴォン卿が「そろそろ潮時だ」と判断したとしても不思議ではない。たとえ盗掘されていたとしても、埋もれた遺跡の発見は学術的には大きな意義があるが、投資する者にとっては多大な犠牲を払うことになる。大戦前とは違って英国も物価が上がり、道楽というには発掘は強大な負担になっていた。

カーターは手紙を読み、部屋で呆然と立ち尽くした。本当に王家の谷は掘り尽くされてしまったのか。それともツタンカーメンの墓を探し当てるなど、自分には大それた夢だったのか。あるいはツタンカーメンは実在しなかったのか…? ぼんやりと測量図を眺めていると、ふとある場所に目がとまった。

「そうだ! ここはまだ手を付けていなかった!」

ラムセス6世の墓の壁画は保存状態が良いため、人気観光スポットの一つとなっている。その隣には墓を造る際に建てられた、作業員小屋の跡とされる遺構が残っており、王墓の上に作業小屋を建てるなどありえないとして、これまで見逃されてきた場所であった。しかしよく考えると、第18王朝の王とされるツタンカーメンと第20王朝のラムセス6世の治世は、少なくとも200年ほど離れている。埋葬場所がわからないように地中に造られた墓だ。200年の間に所在が忘れられ、その上に小屋を建ててしまった可能性もあるはず…。カーターの心に、一筋の希望の光が駆け抜けた。

カーターはすぐに英国に渡り、カナーヴォン卿のもとを訪れた。自分の蓄えをすべて放出しても構わない。もし何か発見できた場合は、自分はその遺跡に関するすべての権利を放棄し、カナーヴォン卿に一任する――。話し合いは三日三晩続き、カナーヴォン卿はその熱意に負け、「今回が最後」という条件で発掘権の延長を決断した。

封印された扉

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「ダウントン・アビー」のロケ地として知られる、ハイクレア城。現在もカナーヴォン伯爵一家が暮らしており、夏の一般公開時には地下階に再現されたツタンカーメン墓内部を探索できる。

11月5日、英南部ハンプシャーのハイクレア城。

私室でのんびりと新聞を読んでいたカナーヴォン卿のもとに、エジプトから一通の電報が届く。

「ついに谷で見事な発見。無傷の封印を持つすばらしい墓。元通りに封鎖して貴殿の到着を待つ。おめでとう」

カナーヴォン卿は、この短い電報の意味を把握するまでにしばらく時間がかかった。そして理解した途端、ソファから勢いよく立ち上がり、家族が集っている談話室へと駆け込んだ。「カーターがとうとうやったぞ!」。カナーヴォン卿は、イヴリンとともに急いでエジプトへ向かった。

最後の発掘権延長を申請した後、カーターはラムセス6世の墓の隣にある作業小屋の土台除去に着手した。土台をすべて取り除くと、そこから南に向かって掘り返し始める。そして「その日」は突然やってきた。

発掘開始から4日目の11月4日朝、カーターが現場に到着すると、作業員が誰も仕事をしていなかった。異常なほどの緊張感と静けさに包まれており、作業員の一人がカーターの姿を見るなり何か叫びながら駆け寄ってくる。

「見つかりました! 階段です!」

カーターはすぐに掘り進めるよう指示を出した。一段、また一段と下降階段が現れるたび、隠しきれない興奮で身体が震える。やがて12段目に辿り着いた時、盗掘された気配のない、封印されたままの漆喰扉の上部が姿を見せたのである。

11月24日、駆けつけたカナーヴォン卿とイヴリンが見守る中、調査を続けたカーターは、封じられた扉の下部にツタンカーメンのカルトゥーシュ(王の印章)が押されているのを発見した。これこそがツタンカーメンの墓だ…! カーターとカナーヴォン卿は思わず固く抱き合った。イヴリンは感激のあまり涙をこぼし、作業員たちは一斉に歓声を上げた。

2日後、扉を崩して墓室へと続く通路の瓦礫を片付けたカーターらは、封鎖された第2の扉につきあたった。中の様子を探るため、扉の一部に穴を開けて顔を寄せると、カビくさい臭いとともに熱気が流れ出てくる。3000年以上密閉されていた古代の空気だ。カーターは、はやる気持ちを抑え、ろうそくを持った右手をその穴に差し込み、内部を覗いた。

「最初は何も見えなかった。しかし目が慣れていくにつれ、室内の細部がゆっくりと浮かび上がってきた。数々の奇妙な動物、彫像、黄金。どこもかしこも黄金だった」

ツタンカーメンの王墓発見のニュースは瞬く間に広まり、世界中を驚愕させた。まだ発掘途中で見学ができないと知りつつも、世界各地から人々が王家の谷に押し寄せた。忘れられた王は、一夜にしてエジプト史上もっとも有名な王となったのである。

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漆喰の壁で封鎖されたツタンカーメンが眠る玄室の入り口は、王自身の姿に似せた、等身大の一対の番人像が守っていた(左)/玄室内の色鮮やかな壁画の様子。今年2月に、9年におよぶ修復作業が終了した(右)。

少年王の呪い

世紀の大発見から5ヵ月後、突如悲劇の幕が上がる。

第3・第4の扉も開け、黄金の玉座やベッドといった贅を尽くした副葬品の整理を終えた後、いよいよ王の棺が納められた巨大な黄金厨子の解体作業に取り組もうとするカーターのもとに、青天の霹靂ともいえる知らせが届く。それはカイロのホテルに滞在しているイヴリンからのもので、カナーヴォン卿が危篤だと告げていた。カーターは翌朝一番の船でカイロに向かうが、カナーヴォン卿と再び言葉を交わすことはできなかった。

1923年4月6日午前1時50分、カナーヴォン卿が56歳で死去。黄金のマスクやツタンカーメンのミイラと対面することなく、その遺体は英国へと帰っていった。死因はひげを剃っている際に、蚊に刺された箇所を誤ってカミソリで傷つけてしまったことにより菌血症を患い、肺炎を併発したためといわれている。

ところが、これが一連の不思議な事件の始まりとなった。カナーヴォン卿の急死後、発掘関係者が次々と不遇の死を遂げていったのである。カナーヴォン卿の弟と専任看護婦、カーターの秘書と助手、調査に協力した考古学者やエジプト学者…その数は20人以上。ほとんどが病死と診断されたが、当時のマスメディアはこの異常事態を「ツタンカーメンの呪い」と大きく報道した。

やがてカーターも受難に見舞われる。最初にそれをもたらしたのは、父の跡を継いで第6代カナーヴォン伯爵となった息子ヘンリーであった。ヘンリーは考古学に興味がなく、発掘投資は「浪費の極致」だと考えていたため、王家の谷の発掘権を今期限りで手放すと宣言したのである。発掘権が他者に移ると、ツタンカーメンの墓の調査権もその相手に渡ってしまう。カーターはヘンリーに連絡をとるが、話し合いの場さえ持つ気はないようだった。

行き詰ったカーターに、さらなる衝撃が訪れる。イヴリンが敏腕の実業家でもある準男爵と婚約したのだ。カーターとイヴリンの恋は、当然周囲に反対されていた。カーター自身もその身分差、年齢差を理解していたと思うが、ツタンカーメンの調査権を失おうとしている今、イヴリンまでもが奪われてしまうという残酷な事実に、どれだけ悲嘆に暮れたであろうか。その衝撃は計り知れないものがある。

しかし、状況はさらに一転する。イヴリンが慌ただしく結婚した後、ヘンリーが発掘権放棄を撤回したのだ。一体何がヘンリーの気持ちを変えさせたのか?――そこにはイヴリンの犠牲があった。ヘンリーは、イヴリンが身分に相応しい相手と結婚し、カーターと二度と会わないならば、発掘権を延長してもいいとイヴリンに持ちかけ、彼女はそれを了承したというのである。カーターがこの話を知っていたかどうかは、今となっては知ることはかなわない。

黄金よりも美しいもの

1924年2月12日。4重の黄金厨子の解体がようやく終了し、カーターが設計した滑車によって、石棺の重い蓋がゆっくりと持ち上げられていくのを、カーターと調査に協力している学者らは固唾を呑んで見守っていた。王はどのようにして姿を現すのだろうか? 一秒が一分に、一分が一時間にも感じられる。石棺の中に少しずつ光が注がれていくと、古びた布で覆われているのがわかった。カーターはそれを慎重に巻き取っていき、最後の布が取り除かれたとき、驚きのあまり呼吸をするのを忘れてしまうほどに眩い光景を目にした。若い王の姿をした、光り輝く黄金の人型棺が横たわっていたのである。

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ツタンカーメンの棺が納められた4重の黄金厨子の扉を開封し、内部をのぞきこむカーター(中央奥)と助手たち。

「死後も存在する崇高な雰囲気を感じた。深い畏敬の念に満ちた静寂が墓内を支配し、時が止まったように思われた」

静まり返る玄室内で黄金の棺を見つめるカーターの心を最初に占めたのは、おそらくカナーヴォン卿への思いだったのではないだろうか。意見が合わず、対立することも多々あったが、ともに歩んだ15年間を思い出し、この歴史的瞬間に彼が立ち会えなかったことが残念でならなかったに違いない。

白いアラレ石と黒曜石で飾られた人型棺の王の両眼はまっすぐに天井を見つめ、胸の前で交差された両手は王を表す王笏と殻竿をにぎっており、その若々しくも力強い王の威厳をまとった姿に、学者たちから感嘆の声がもれた。しかし、カーターは別のものに目を奪われていた。それは棺の上に置かれている「花」である。

「最も感動的だったのは、横たわった少年王の顔のあたりに、小さな花が置かれていたことだ。私はこの花を、夫に先立たれた少女の王妃が、夫に向けて捧げた最後の贈り物と考えたい。墓はいたるところが黄金で包まれていたが、どの輝きよりも、そのささやかな花ほど美しいものはなかった」

奇跡的にもほのかに色を留めていた花は、石棺の開封によって外気に触れた途端、ゆっくりと形を崩し始めた。思わずカーターが手を伸ばすと、まるで空気中に溶け込むかのようにパラパラと崩れ去っていった。3300年の間、孤独を癒すかのように王に寄り添い続けた花は、カーターの目の前で最後の輝きを放ち、過去へと帰っていったのだろう。カーターは、時代に翻弄されながらも強く生きようとした、若い夫婦の苦闘と悲哀、そして愛情をそこに見て、胸が熱くなったのだと思われる。墓には、死産だったと思われる2体の女児のミイラも丁寧に葬られていた。

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© Heritage Image Partnership Ltd / Alamy Stock Photo
ツタンカーメン夫妻の仲睦まじい様子が描かれた「黄金の小厨子」(下コラム参照)を運ぶ、現地作業員らとカーター(左端)。

永遠の眠りへ

1939年3月、ロンドン。

冷たい雨が降りしきる中、ロンドン南部パットニーの墓地では、カーターの葬儀が行われていた。かつての国民的英雄は人々の記憶のかなたに消え、最後の別れの挨拶をするために集まった人は、ほんの一握りだった。その中に、地面に横たわる質素な棺を見つめる準男爵夫人イヴリンの姿があった。牧師の祈りが終わると、イヴリンは棺の上にそっと花を置いた。イヴリンは結婚後、エジプトを一度も訪れていない。カーターとも会っていないが、手紙のやり取りだけは続けていた――王墓発見の瞬間を共有した同志として。

花が添えられた棺が土の中へと納められていくのを見つめながら、イヴリンはカーターから届いた一通の手紙を思い出していた。そこにはカーターが黄金の棺を目にした時の思いが綴られていたが、なかでも印象的だったのが、その人型棺に添えられていたという枯れた花の話だった。カーターの魂がこの地に留まることはきっとないだろう。すでに飛び立ち、遥か海を越え、王家の谷へと辿り着いているかもしれない…。

40年にわたるエジプト生活に終止符を打ち、1932年にカーターは英国に帰国するが、その後の人生は寂しいものであった。ツタンカーメン発掘という偉業を成し遂げながらも、高等教育を受けていなかったため、考古学者として高く評価されることはなかった。独身を通し、自宅で黙々と「ツタンカーメンの学術報告書」をまとめ上げる毎日を送り、結局その報告書の完成をみないまま、1939年3月2日、64歳で息を引き取った。

ツタンカーメン王墓の発見は、20世紀におけるエジプト考古学史上最大の発見である。墓内にあった遺物のほとんどは、カイロ考古学博物館で見ることができるが、訪れた人はその質量に驚くことだろう。出土品はミイラも含め、研究と保存のために博物館へ移されるが、カーターはツタンカーメンのミイラを移動することだけは断固拒否した。そして、カーターの願い通りにツタンカーメンは今も王家の谷で静かに眠っており、本来の王墓に納められている唯一の王だという。

学者たちの唱える「常識」に屈せず、ツタンカーメン王墓の存在を確信し、鋭い感性と緻密な観察力、情熱と忍耐を持って、エジプトの大地を掘り続けたカーター。ひたすら追い求めた夢が現実となった時、彼の心をもっとも大きく揺り動かしたのが、黄金でもミイラでもなく、枯れた花であったとは予想だにしていなかったに違いない。全調査を終えるまでツタンカーメンと2人きりで過ごした10年が、カーターにとって一番幸せな時間だったのかもしれない。

発掘からもうすぐ100年
ロンドンでツタンカーメン展 開催中!

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ツタンカーメン王墓の発見から、2022年でちょうど100年。遺品の大半が収められているエジプト・カイロ考古学博物館が現在、100周年にあわせて移転工事中のため、貴重な収蔵品の数々が世界を巡回している。初めてエジプト国外へ出たものも多く、3000年以上前の少年王の生活を身近に感じられる貴重な機会だ。
カーターらが墓から運び出している姿が写真に残されている「黄金の小厨子」(下写真・左)や、玄室を守っていた番人像のうちの一体(上見取り図の写真・左)などを、実際に目にすることができる。本展は日本へも巡回する予定。

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©Laboratoriorosso, Viterbo, Italy
Tutankhamun: Treasures of the Golden Pharaoh
2020年5月3日(日)まで
Saatchi Gallery
チケット: £24.50~
www.saatchigallery.com
www.tutankhamun-london.com

週刊ジャーニー No.1113(2019年11月21日)掲載

生誕130周年 謎の失踪劇を起こした ミステリーの女王アガサ・クリスティー 【前編】

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 生誕130周年 謎の失踪劇を起こした
 ミステリーの女王アガサ・クリスティー 【前編】
Photo by Angus McBean © The National Portrait Gallery, London

■ 英国生まれの名探偵といえば、まず思い浮かべるのはシャーロック・ホームズだろう。だが、ほかにも世界的に高い人気を誇る名探偵がいる。そのうちの一人、エルキュール・ポアロやミス・マープルを生み出したのが、アガサ・クリスティー。彼女の著書は100ヵ国語以上の言語に翻訳され、聖書とシェイクスピアに次いで読まれているという「世紀の大作家」だ。生誕130周年、ポアロ誕生から100年を迎え、映画の公開も迫っているアガサの人生を前後編に分けてたどる。

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/柳下加奈子・本誌編集部

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海辺のリゾート地、トーキー。デビュー作「スタイルズ荘の怪事件」を執筆したホテルは今も健在。© Laura H.

史上最高ベストセラー作家

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子供時代のアガサ。© Crakkerjakk

手がかりゼロの難事件が、絡まった糸をほどくようにその全容をあらわにしていき、やがて複数の登場人物が、誰しも何らかの殺意となりうる動機を持っていることに気づかされる――。

どんでん返しに次ぐ大どんでん返しで、最後の最後に容疑者を前にして明かされる謎解きに、胸のつかえが取れたような解放感を味わえるアガサ・クリスティーの小説。アガサは半世紀以上におよぶ執筆活動の中で、66の長編のほか、短編、戯曲、さらにメアリ・ウェストマコット名義によるロマンス小説を書き上げ、ギネスブックでも「史上最高のベストセラー作家」に認定されている。彼女の作品を読んだことがなくとも、孤島のホテルに集められた人々が次々と姿を消していく「そして誰もいなくなった(Ten Little Niggers)」、超豪華特急という動く密室の中で起こる殺人事件「オリエント急行の殺人 (Murder on the Orient Express)」など、ドラマや映画、舞台など、何らかの形で作品に触れたことのある人が多いはずだ。

断念した音楽家への道

アガサは実業家である米国人の父とアイルランド人の母の第3子として、1890年9月15日、イングランド南西部デボンの湾に囲まれた町トーキーにて(Torquay)誕生。トーキーは、ペイントン(Paignton)、ブリックサム(Brixham)と合わせてイングランドの「リヴィエラ」(フランスからイタリアにかけて広がる地中海沿岸地方のリゾート地)と呼ばれ、19世紀から高級保養地として発展してきた。アガサは、そこで裕福な家庭の娘として育った。

姉や兄と10歳ほど年齢が離れていた末っ子のアガサは、寄宿学校で学ぶ姉や英軍に入隊した兄と顔を合わせる機会は少なく、またトーキーに同年代の子供がほとんどいなかったため、ペットとともに「想像上の友人」と遊ぶことが多かった。母親は子供2人を育てた経験からか、「学校教育は脳や目をダメにする」と信じており(兄は寄宿学校を中退して英軍に入隊した)、アガサには学校へ通わせず、自宅で教育を受けさせた。

11歳の時に父親が病死。その翌年には姉が嫁ぎ、兄は海外駐留が決定、家族の距離はますます遠くなった。母親はアガサに物を書くことを薦め、この頃から詩や短編小説を書きはじめている。また、姉が大好きだったコナン・ドイルの著作「シャーロック・ホームズ」シリーズに熱中し、近所に住む作家のもとを度々訪れては、読書や執筆の指導を仰ぐようにもなった。

しかし、娘をオペラ歌手かピアニストにしたかった母親は、アガサが16歳になると、パリの教養学校に進学させる。期待に応えるため声楽を学び、 ピアノの練習に励んだものの、元来の内向的な性格により「舞台に立って人前で演奏する」ことに耐えかね、音楽家としての道は諦めざるを得なかった。

アガサが生んだ愛すべき名探偵ポアロ&ミス・マープル

エルキュール・ポアロ

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卵頭にツンとはねた八の字ヒゲがトレードマークのベルギー人探偵。身長は163センチほどで小柄。チリひとつでも気にするほど、身だしなみにうるさい。初登場はアガサの処女作「スタイルズ荘の怪事件」。最終作となる「カーテン」まで33の長編、54の短編に登場。ベルギー警察の有能な警察官だったが、第一次世界大戦中に英国に亡命。以後、ロンドンで私立探偵として難事件を解決している。

相棒/ヘイスティングス大尉
物語の語り手的役割で、素人的見地で読者の視点を代弁。「シャーロック・ホームズ」シリーズのワトソン博士のような存在。容疑者の言葉をすぐ鵜呑みにしたり、外見で判断(美人に弱い)したりしがちだが、捜査が煮詰まった時にふとを口にする言葉が、ポアロの推理に救いの手を差し伸べることが多い。

代表作
「アクロイド殺し 」「オリエント急行の殺人 」
「ABC殺人事件」「ナイルに死す」

ミス・マープル

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セント・メアリー・ミード村に暮らす、ガーデニングや編み物が趣味の英国人おばあちゃん探偵。ファーストネームはジェシー。「牧師館の殺人」から「スリーピング・マーダー」まで12の長編、20の短編に登場。アガサの祖母がモデルという説あり。青い目にバラ色の頬をもつ上品な老婦人。

相棒/なし

特徴
どんな物的証拠も見逃さず、論理と経験をもとに推理するポアロに対し、ミス・マープルは女性的勘と、一見ただの世間話ともとれる巧みな聞き込みなどをもとに推理。人の感情の揺れや仕草の変化を見逃さない、優れた人間観察力を持つ。ただ、警察にとって彼女の活躍は愉快なものではなく、煙たがられている。

代表作
「予告殺人」「パディントン発4時50分 」
「スリーピング・マーダー 」

「毒薬」との出会い

パリに渡ってから2年後、教養学校を卒業。結婚適齢期を迎えていたアガサは、故郷へ戻って「婚活」に励み、軍人のレジー・ルーシー少佐と婚約した。ところが、舞踏会で知り合ったアーチボルド・クリスティー大尉と恋に落ちてしまう。「運命の出会い」からわずか3ヵ月後、アーチー(アーチボルドのニックネーム)からプロポーズされた彼女は快諾し、レジーとの婚約を破棄。2年の婚約期間を経て1914年、第一次世界大戦が勃発して間もないクリスマス・イブに結婚した。アガサは24歳、アーチーは25歳だった。

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第一次世界大戦中、故郷トーキーの病院で看護師をしていた頃のアガサ。この経験が、殺人事件で頻繁に登場する「毒薬」の知識をもたらすことになった。© Maypm

新婚生活を楽しむ時間はほとんどなく、アーチーは出征。アガサはトーキーの赤十字病院で、無償の看護婦として勤めはじめる。知的で人目をひく赤毛のアガサは、医者や患者から人気があり、やがて薬剤師の助手として薬局勤務に昇進するが、ここでの経験が「毒薬の知識」という、ミステリー作家としてかけがえのない財産をアガサに与えることになった。

さらに、ひょんなことから始まった、姉との「簡単には結末が予測できない探偵小説が書けるかどうか」という競い合いが、アガサの作家としての才能を開花させることとなる。この挑発に奮起した彼女は、自宅を離れてホテルに3週間こもり、執筆に専念。トーキーに似た町を舞台に、病院で出会ったベルギーからの避難民をモデルにして、かの名探偵ポアロを創出、奇怪な殺人事件を完結させた。こうして、「ホームズとワトソン博士」に匹敵する「ポアロとその相棒ヘイスティングス」を生み出したわけだが、原稿を送った出版社から良い返事はなかなかもらえず、ようやく出版にこぎつけたのは7社目。これが彼女の記念すべきデビュー作「スタイルズ荘の怪事件(The Mysterious Affair At Styles)」(1920年)である。完成から4年の歳月が経っていた。

デビュー作が出版される前年の1919年には、一人娘のロザリンドを出産。その後も次々と新作を発表し、瞬く間に人気作家への階段をかけのぼったアガサは、「大英帝国博覧会」の広報チームの一員として、世界中をまわるまでになった。

だが、結婚、出産、作家としての成功――と順風満帆に見えた日々は長くは続かなかった。博覧会のための世界巡業には夫も同行していたが、この縁がもたらした「ある騒動」によって、アガサは小説を地で行くような「謎の失踪事件」を起こすのである――。 (次号へ続く)

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大英帝国博覧会の宣伝のため、世界をまわった広報チームメンバー。左からアガサの夫アーチー、博覧会主催者のアーネスト・ベルチャー、その秘書、アガサ。© Maypm

週刊ジャーニー No.1157(2020年10月1日)掲載

天然痘を制圧せよ 世界初のワクチン誕生物語 エドワード・ジェンナー 【前編】

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天然痘を制圧せよ 世界初のワクチン誕生物語 エドワード・ジェンナー 【前編】

■ かつて地球上には天然痘というウイルス性の感染症が存在し、紀元前から多くの人が命を奪われてきた。しかしその天然痘は人類史上初となるワクチンの開発により根絶された。人類が初めて開発に成功したワクチン。開発の礎を築いたのは今から200年ほど前、イングランドの片田舎で開業医をしていた一人の医師だった。

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/本誌編集部

奈良の大仏と天然痘

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電子顕微鏡が捉えた天然痘ウイルスの姿。

天然痘。英語ではスモールポックス(smallpox)と言う。ポックスとは疱瘡のことだ。突然の熱発と共に頭痛や四肢痛、小児では嘔吐や意識障害といった症状が現れ、2~3日後には体温が40度を突破する。その後一時的に熱が下がるが安心したのも束の間、やがて顔面や頭部を中心に全身に発疹が浮かび上がる。発疹は水疱、そして9日目あたりには膿を含んだ膿疱へと変化する。

重症化すると喉が焼かれたような激痛が走り、物を飲み込むのも困難になり呼吸障害を発して死に至る。幸運にも治癒に向かった場合は2~3週間程度で膿疱がかさぶたとなって脱落する。しかし皮膚に色素が沈着し、生涯醜い痘痕(あばた)となって残る。強毒性の場合、致死率は20~50%と言われ、誠に恐ろしい感染症だった。

天然痘は紀元前から死に至る恐ろしい疫病として人々に恐れられていた。古代エジプト王朝のラムセス5世も、そのミイラを研究したところ天然痘を患っていたことが分かった。

日本にも仏教の伝来と共に大陸から九州に持ち込まれたと言われ、それがやがて平城京にまで達して大流行し、政府要人の多くも天然痘の犠牲となった。聖武天皇は、人の容姿を激変させて死に至らせる謎の疫病と天候不順による飢饉などが生む社会不安や政治的混乱から脱却するため仏教の力に救いを求め、東大寺に巨大な仏像を造らせた。奈良の大仏だ。

15世紀末から始まった大航海時代、中南米に進出したスペイン人がアステカやインカといった帝国をほぼ壊滅させた。この時、スペイン人が現地に持ち込んだ疫病が大きな役割を果たした。数千年に渡って天然痘と共存してきたスペイン人と違い、ユーラシア大陸やアフリカ大陸とほぼ接触がなかった中南米のインディオや北米のインディアンは天然痘に対する耐性や免疫を全く持っていなかった。そのためスペイン人が持ち込んだ天然痘ウイルスにバタバタとやられ、帝国は崩壊した。

さらに18世紀、英国が北米の植民地経営を巡ってフランスと戦った際(フレンチ・インディアン戦争)、英軍はフランスと連携したインディアンのチェロキー族に親切を装って接近。天然痘ウイルスをすり込んだ毛布などを大量に与えた。死のギフトだった。たちまちウイルスに感染したチェロキー族は大混乱に陥り、戦力は著しく低下したと言われる。この戦争にフランスは敗れ、ルイジアナを英国に譲渡。これによって西部開拓への障害物は消えた。 さらにフランスと同盟していたスペインからもフロリダを取り上げ、アメリカに英語圏が拡大していく。英国側は認めていないが、この天然痘すり込み毛布の件が史実だとすると人類が初めて戦争で意図的に使用した「生物兵器」ということになる。

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天然痘に感染した人々。運よく生還しても顔や全身に多くの痘痕(あばた)が残った。

田園に広がる奇妙なうわさ

エドワード・ジェンナーは1749年、イングランド西部、ウェールズにも近いグロスターシャーのバークレーと言う田舎町で9人兄弟姉妹の8番目の子として生まれた。ジェンナーは敬虔な牧師家庭で育ったが、両親はジャンナーが5歳の時に亡くなった。そのためジェンナーは年長の兄弟たちに育てられた。ジェンナーが生まれた頃、ヨーロッパでは天然痘がほぼ定着しており英国も例外ではなく、多い年では5万人近くが天然痘で命を落としていた。

ジェンナーは幼少期に人痘接種を受けていた。天然痘に感染しながら生還したオスマン帝国駐在大使夫人が英国に持ち帰り、上流階級層に広めたものだった。これは天然痘患者の膿疱内の膿から体液を取り出し、健常者に接種させてあえてウイルスに感染させるもので一定の成果を上げていた。しかし2~3%程度の人が重症化し死亡する危険をはらむ不完全なものだった。

ジェンナーは14歳の時から7年に渡り、グロスターシャー南部、チッピング・ソドベリーという村の開業医ダニエル・ルドローの元で奉公人として働く機会を得、後に自らが開業医となるための知識と経験をここで習得した。この医院で働いている時、ジェンナーは迷信にも近い不思議なうわさ話を耳にした。

「乳しぼりをしている女は天然痘にかからない」

科学的根拠のない言い伝え程度の話だったが、これがジェンナーの脳裏に深く刻まれることとなる。

奉公を終え、21歳になったジェンナーは最先端医学を学ぶため、ロンドンに向かった。幸運なことに「近代外科学の開祖」と称される著名なスコットランド人の外科医にして解剖学者、ジョン・ハンターに弟子入りした。

ハンターは、研究熱心で技術も確かなうえ、詩や音楽の才も備える上品なジェンナーに惚れ込んだ。天然痘に関する議論が白熱すると「考え過ぎることなく、挑戦し続けなさい。辛抱強く、正確に」とジェンナーを鼓舞した。ハンターはジェンナーを王立協会会員にも推薦した。しかしジェンナーは1773年、多くの人に惜しまれながら故郷バークレーに戻り、開業医となった。

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© Nick from Bristol
世界最初のワクチン開発に成功した、グロスターシャー、バークレーにあるジェンナーの自宅兼診療所。現在はジェンナー博物館となり一般公開されている(残念ながらコロナウイルスのため2021年春まで休館)。

「ジキル博士とハイド氏」のモデル

外科医・解剖学者 ジョン・ハンター (John Hunter 1728~1793)

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グラスゴー出身のジョン・ハンターは20歳の頃、ロンドンで外科医、解剖学者として活躍していた10歳上の兄の元を訪れ、助手となることで医学を学んだ。ハンターは解剖を好んだが、当時は処刑された罪人の死体が出回るだけだったため希望者が殺到してなかなか入手できなかった。そのためハンターは死体盗賊人らに報酬を払って死体を集めて解剖を続けた。時には自らも盗賊人らに混じって死体を掘り出したというなかなかの奇人ぶりだった。ハンターはまた異常なまでの収集家として知られ、遺体から取り出した臓器や骨格標本から珍獣、はたまた植物まで、世界中から1万4000点もの標本を集めた。富裕層から高額な報酬を受け取っていたため収入は多かったが、そのほとんどを趣味に費やした。そのため亡くなった時に残ったのはこれらのコレクションと莫大な借金だけだったと言われる。その標本のほとんどは現在、ロンドンの王立外科医師会内ハンテリアン博物館に保管されている(2022年まで改装のため閉館中)。レスタースクエアにあったハンターの巨大な邸宅は表玄関では社交界の友人や患者が出入りする一方、裏口は解剖用の死体の搬入口とされていた。のちにこの話を耳にした作家、ロバート・ルイス・スティーブンソンは、ハンターをモデルに「ジキル博士とハイド氏」を書き上げたと言われている。

とんでもない実験

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© Japan Journals Ltd
ケンジントンガーデンズ内噴水脇に置かれたジェンナー像。人類を天然痘から救った偉大なドクターだが、視線を向ける人は少ない。

故郷に戻ったジェンナーは幼い頃、奉公先で何度も耳にした「乳しぼりの女は天然痘にかからない」という伝承が耳から離れずにいた。さらに牛がかかる「牛痘」に感染した人で、その後天然痘に感染した人がいないという、より具体的な話がジェンナーの耳に届いた。牛痘とは牛がかかるウイルス性の伝染病でヒトにも伝染した。ところが牛痘で牛は重症化するがヒトは比較的軽い症状で済み、快復後は天然痘に感染することもなかった。

「牛痘に感染することで得られる免疫が天然痘ウイルスへの免疫としても機能しているのではないか。だとすれば牛痘によってできた膿疱から体液を抽出し、健康な人に接種すれば人痘法より遥かに安全に免疫が獲得できるのではないか」。ジェンナーはそう推測した。それを実証するため、牛痘に罹患した患者の出現を待ち続けた。

1796年5月、ついに患者が現れた。サラ・ネルメスという乳しぼりを生業とする女性でブロッサムと名付けられた牝牛の乳房から牛痘に感染していた。人類初のワクチン完成に向けてジェンナーのとんでもない実験が始まろうとしていた。
(後編へ続く)

週刊ジャーニー No.1159(2020年10月15日)掲載

天然痘を制圧せよ 世界初のワクチン誕生物語 エドワード・ジェンナー 【後編】

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天然痘を制圧せよ 世界初のワクチン誕生物語 エドワード・ジェンナー 【後編】
8歳のジェームズ・フィップス少年に牛痘接種を施すジェンナー。

■1796年5月、エドワード・ジェンナー(Edward Jenner)は牛痘に感染したという若い搾乳婦、サラ・ネルメスと会った。なるほど彼女の両手や腕にはぷっくり膨らんだ複数の水疱が確認できた。典型的な牛痘感染者の症状だった。牛痘(cowpox)とは牛がかかる天然痘(smallpox)のことでヒトにも感染する。牝牛の乳房の辺りに水疱が現れ、それに触れた乳しぼりの女たちの間で感染する者が多かった。牛痘に感染すると牛は重症化するが、ヒトは腕に疱瘡ができ、多少発熱するものの軽症のうちに10日間ほどで完治した。さらに一度牛痘に感染した者は二度と牛痘に感染しなかった。それどころか牛痘に感染した者はその後、天然痘に感染しないという言い伝えがあった。ジェンナーは、牛痘に感染し快復する過程で獲得する免疫が天然痘に対しても免疫力を発揮するのではないかと仮説を立てていた。そしてついに、この仮説を実証する機会を得た。

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/本誌編集部

仮説は正しかった

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牝牛の乳房に現れた膿疱のスケッチ画。

ジェンナーはサラの膿疱内にある液体を採取した。そして5月14日、ジェームズ・フィップスという8歳の健康な男児の両腕に2本の引っかき傷を作り、そこに牛痘種痘を行った。ジェームズはジェンナー家の使用人であった貧しい庭師の息子だった。後に全人類を救うターニングポイントとなる重要な実験だったが、安全が100%担保されていない、仮説に基づく人体実験だった。今なら医療訴訟を起こされても何の不思議もない、ある意味とんでもない実験だ。しかしジェンナーは実行した。それが問題にならないほど社会が人道や人権に対して未成熟だったことが人類に幸いした。

種痘を受けたジェームズは7日目に腕の付け根部分に不快感を訴えた。さらにその2日後、頭痛と悪寒を訴え、食欲が減退した。牛痘感染者の典型的な症状だった。ところがその翌日、状況は一変しジェームズはほぼ快復した。

それから6週間後、ジェンナーは再びジェームズに種痘を行った。ただし今度接種したのは天然痘患者の膿疱から取り出した体液だった。

何日経ってもジェームズは天然痘を発症しなかった。その後、何度天然痘接種を繰り返してもジェームズは天然痘の症状を発しなかった。どうやら牛痘に感染することで獲得する免疫が天然痘に対しても効力を発揮するというジェンナーの仮説は正しいようだった。

これまで中東やヨーロッパで広く行われていた「人痘法」は天然痘に感染した患者の体液を健康な人に接種し、あえて天然痘を発症させて免疫を作るという乱暴な方法だった。効果はあったが2~3%の人が重症化し、死に至る危険なものだった。その上、生涯顔に醜い痘痕(あばた)を残す人が多かった。しかし、ジェンナーが辿り着いた種痘であれば重症化の危険性も痘痕も回避できた。ジェンナーはこの後も11歳になる息子ロバートを含む23人の子どもたちをグループに分けて考察を繰り返した。その結果、牛痘種痘を施した子は全員が天然痘に対する免疫を獲得している事実を確認できた。

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2000年、フィンランドの農村で牛痘に感染した4歳女児の腕に現れた疱瘡。

収まらない拒絶反応

1797年、ジェンナーはこの実験の結果をまとめ、王立協会に論文を送付し出版するよう依頼した。世界中で大勢の人の命が救われる大きな一歩となるはずだった。ところが王立協会はこの論文を無視し、そのままジェンナーに送り返した。理由は明らかになっていない。失意のジェンナーはさらなる実験の結果を追記した上で翌年『インクワイアリー(Inquiry:審理)』を自費出版した。『インクワイアリー』はたちまち医師や学者の間で話題となり議論が噴出した。

ジェンナーはさらに自説を実証するため単身ロンドンに向かった。そこでボランティアの募集を試みたが初めの3ヵ月間、自ら手を挙げる物好きは誰一人として現れなかった。それでも諦めなかった。ある日、ジェンナーの前に自分の患者に接種してみても良いと協力を申し出る医師が2人現れた。さらにジェンナーは『インクワイアリー』に興味を抱いた医師たちに対して牛痘種痘を指南して回った。しかしこの当時、人々の間では「牛の体液を体内に入れたら牛になる」といって種痘を拒絶する意見が圧倒的だった。これは幕末、種痘を日本でも広めようとした適塾の緒方洪庵も直面した分厚い壁だった。牛痘種痘法を扱う医師らへの執拗ないやがらせが続いた。さらに種痘のやり方を間違えた医師から「効果なし」といった報告が上がるなど、激しい向かい風に吹き飛ばされそうになる日々が続いた。しかしやがて「効果あり」という声が圧倒的となり、その声は英国全土へと拡大していった。

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「牛の体液なんか入れたらウシになる」と牛痘を拒否する人たちを描いた風刺画。

天然痘根絶へ

ジェンナーは苦労の末に辿り着いた種痘の特許を取得することは遂になかった。特許を取ってしまうと種痘が高価なものになり、より多くの人を救うという自身の理念と矛盾した。それどころかジェンナーは問い合わせがあれば世界中、誰が相手でも私費で指南書やサンプルを提供し続けた。

1802年、英議会はそんなジェンナーに対し1万ポンド、さらに5年後には2万ポンドの褒賞金を与えた。褒賞金を出すことで政府公認の印象を作り、種痘をいち早く国民に認めさせる狙いがあった。にもかかわらずその後も種痘を否定する声が止むことはなく、ジェンナーの元には批判や中傷の手紙が届き続けた。しかしそういった雑音を打ち消すかの勢いで種痘は世界に拡大していった。

ジェンナーは誰もが種痘の有効性を認める前の1823年1月26日、脳卒中のため死去した。享年73。ジェンナーの死から17年後の1840年、英議会は種痘以外を禁止。種痘が完全に人痘法に取って替わった。もはや種痘を非難する者は一人もいなかった。その後ジェンナーは「近代免疫学の父」と呼ばれ、その功績は今も世界中で高く評価されている。1980年、世界保健機構(WHO)は天然痘の根絶を宣言。天然痘は人類史上初、そして唯一根絶に成功した感染症となった。

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種痘の正当性が認められ、ジェンナーの前から逃げ出す反対派の医師たち。© Wellcome Images

ワクチンは牝牛への敬意

ジェンナーが到達した感染症に対する予防接種はワクチン(vaccine)と呼ばれるようになった。これはラテン語で牝牛を意味する「vacca」から来ている。ジェンナーが診療や研究にあたっていたバークレーの実家は現在、博物館となって一般に公開されている。その一角にはワクチン開発のために体液を提供した牝牛ブロッサムの角も展示されている。ジェンナーが最初に種痘を行ったジェームズ・フィップスはその後もジェンナー家に仕え、結婚後はジェンナーからコテージを生涯無償で提供され、住み続けた。没後、ジェンナーが眠るバークレーの聖メアリー教会墓地に埋葬された。

カッコウの托卵(たくらん)を発見したジェンナー

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自分より大きいカッコウの雛に餌を与えるオオヨシキリ。 © Per Harald Olsen

エドワード・ジェンナーが恩師ジョン・ハンター医師のもとを離れ、故郷のグロスターシャーに帰ったのは彼が外科や解剖学よりも自然科学により興味をいだいたためだった。探検家のジェームズ・クック(キャプテン・クック)=下の肖像画=が第1回目の航海を終えて帰国すると、彼が持ち帰った博物標本の整理をなみなみならぬ興味を持って手伝った。クックは好奇心旺盛な若きジェンナーを大変気に入り、2回目の航海に同行しないかと熱心に誘ったがジェンナーはこれを固辞した。

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故郷バークレーに戻って開業医となってからもジェンナーは地質学や人間の血液に関する研究に没頭した。さらにハンター医師からの提案でカッコウなどの生態を研究する中、カッコウがウグイスなど、他の鳥の巣に産卵して他人にわが子を育てさせる、いわゆる「托卵(たくらん)」の生態を発見し1788年、この研究結果をまとめて発表した。この功績が認められ、ジェンナーは王立協会のフェローに推薦された。しかし保守的なイングランドの博物学者たちの多くは「托卵」を「ひどいデタラメ」と一蹴し全く取り合わなかった。1921年、カッコウの生態を追っていたカメラマンが托卵の瞬間の撮影に成功。これによってジェンナーの説は完全に証明された。発表から133年、ジェンナーの死から98年が経っていた。また、一部の鳥が食料や繁殖、環境などの事情において長距離を移動する「渡り鳥」の性質を持つことを発見したのもジェンナーだった。

週刊ジャーニー No.1160(2020年10月22日)掲載

世界初の女性化石ハンター メアリー・アニング【後編】

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世界初の女性化石ハンター メアリー・アニング 【後編】

■〈前回あらすじ〉貧しい家具職人の娘として生まれたメアリーは、父や兄とともに近所の海岸へ出掛けては、化石を探して「土産物」として売り、家計の足しにしていた。ところが、父親が発掘中に崖から転落して死去。困窮した一家は、「化石屋」に活路を見出そうとするが…。後編では、19世紀初頭のイングランドに登場したプロの女性化石ハンター、メアリー・アニングの偉業と女性ゆえの苦悩を追う。

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/根本玲子・本誌編集部

12歳の少女の大発見

冬の嵐が過ぎ去ったばかりの海岸。

父親を事故で亡くしてから1年が経った、1811年の冬。

いつものように、兄ジョセフと嵐が過ぎ去ったばかりの海岸を訪れた12歳のメアリーは、前夜の激しい波によって削られた岸壁に、「不思議な物体」の一部が覗いているのを発見した。メアリーは「目」がよく、アンモナイトなどの化石を誰よりも多く見つけていたが、そんな彼女の勘が「これは大物だ」と告げていた。兄と2人で崖の中から慎重に掘り出したものは、1・2メートルにも達する頭骨だった。

「これが、人々がクロコダイルと呼ぶ生き物なのかな?」

メアリーは父がかつて語った様々な話を思い起こしながら、どこか近くに埋もれているはずのこの生物の残り部分を探し当てたい…という情熱に駆られた。彼女にとって、化石はすでに「食べていくため」だけの商品ではなくなっていた。

頭骨だけでも偉大な発見であったが、メアリーはその後、1年以上も粘り強く残りの部分を探し続けた。そして、地滑りで地層が露わになった崖の地上から約9メートルの位置から、ついに体部分を発見。これは全長5メートル以上におよび、兄と作業員の助けを借りながら、見事に発掘に成功した。

ニュースを知ったオックスフォード大学の学者が、すぐにアニング家へと調査に訪れた。化石の「体内」には、なんとこの生物が食べていた魚の残骸が残されていたという。

奪われた名誉

人々は、この謎の化石を南国に生息する「クロコダイル」と信じていた。クロコダイルの化石は、ライム・リージス在住の地主が買い上げ、その後、ロンドンの著名な化石蒐集家の手に渡る。彼の邸宅で行われた博物展示会には、かのキャプテン・クックが世界各地から持ち帰った化石や、ナポレオンにまつわる品々、メキシコからやって来たエキゾチック

そして様々な研究ののち、1817年、このクロコダイルは古代の魚竜「イクチオサウルス」と命名された。イクチオサウルスの化石自体は、1699年にウェールズですでに発見されていたが、メアリーが見つけたのは世界初の全身化石。この世紀の発見により、「イクチオサウルス」という正式名が誕生したのだ。

しかし、オークションにかけられたイクチオサウルスの目録には、所有する化石蒐集家の名前が記されただけで、幼いメアリーの名前が言及されることはなかった。「世界初のイクチオサウルス全骨格の発見者」という輝かしい称号は、不運にも奪われてしまった。

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海岸で採掘にいそしむメアリーの姿を描いたスケッチ。

「神の手」を誇った20代

イクチオサウルスの発見で、多少まとまった額の金を手に入れたものの、アニング家は相変わらずの貧乏暮らしだった。兄ジョセフは家具職人の修行に忙しく、母親が化石販売業を取り仕切り、年若いメアリーが採集人の主として岩場での作業を行った。

当時、女性がこのような危険な仕事に就くことは珍しいだけでなく、「化石少女」とからかいの対象になることもあった。だが、メアリーは父から授けられた技術、そして緻密な観察力と化石への情熱を武器に、プロの化石ハンターとして成長していく。また、独学で地質学や解剖学の知識を深めていった彼女は、見つけた化石を観察して分類するだけでなく、スケッチと特徴を詳細に記したものを学者たちに送り、その学術的価値を売り込むなど「営業」にも精力的だった。

最初の大きな発見から10年の年月を経た1821年、彼女は新たなイクチオサウルスの化石、そしてジュラ紀に生息した首長竜の一種「プレシオサウルス」(右頁の図)の骨格化石を世界で初めて発見するという再度の幸運に恵まれる。続いて1823年には、より完全な形で保存されたプレシオサウルス、1828年には新種の魚の化石、ドイツ以外では初めてとなる翼竜「ディモルフォドン」の全身化石などを次々と発見。「化石ハンター」としてのピークを迎えた。

イングランド南部 「ジュラシック・コースト」は地球のタイムカプセル

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イングランド南部の東デヴォンからドーセットまで延びる、95マイル(約153キロ)に及ぶ海岸線(左図参照)は、2億5000年前から始まる三畳紀から、ジュラ紀、白亜紀へと続く「中生代」の地層が見られる世界唯一の場所として、ユネスコの世界自然遺産に指定されている。

この一帯では、白亜紀(1.4億~6500万年前)に地面が大きく傾いたため、さらに昔の三畳紀やジュラ紀の地層が露わになっており、数世紀に渡って地球科学の研究に貢献してきた。

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メアリーが暮らしたライム・リージズ付近の海岸線も、三畳紀からジュラ紀にかけて形成されたライムストーン(石灰岩)と頁岩(けつがん)と呼ばれる2つの石が層になった「ブルー・ライアス(Blue Lias)」=写真下=と呼ばれる地層がむき出しになっている。メアリーは、この浜辺でイクチオサウルスを始めとする貴重な化石を見つけ出した。

現在でも、アンモナイトの化石などはビーチで簡単に見つけることができ、持ち帰りも自由だ。

認められた功績

30代半ばを迎えたメアリーは、大きな発見に恵まれず、このころから病魔に蝕まれていく。乳がんだった。その後も病気と闘いながら化石採集を続け、1847年3月、47歳の生涯を閉じる。

ロンドンの地質学会会長へと出世していたデ・ラ・ビーチ卿はメアリーの死を悼み、学会で彼女への追悼文を発表した。20世紀初頭まで女性の参加を許さず、性差と階級の壁が厚かった地質学会では異例のことであった。

メアリーの死から12年後、チャールズ・ダーウィンによる「種の起源」が発表される。突然変異と自然淘汰による進化論を世に知らしめた本書は、メアリーと交流し、彼女の化石をもとに研究を進めた当時一流の地質学者らからインスピレーションを得たものであったという。

1冊の書物も残さなかった彼女だったが、地質学に古生物学、そして進化論への道をも拓いたメアリー。19世紀初頭の社会が要求する「女性らしい生き方」にはこだわらず、情熱のおもむくまま在野のフィールドワーカーとして生涯を全うした。メアリーにより、英国の自然科学の発展にもたらされた功績は計り知れない。それは、2010年に王立学会が発表した「科学の歴史に最も影響を与えた英国人女性10人」の1人に選ばれていることからもわかるだろう。彼女が発見したジュラ紀の首長竜「プレシオサウルス」は現在、サウス・ケンジントンにある自然史博物館の化石ギャラリーに展示されているが、その全身化石の目の前に立てば、あまりの大きさに圧倒されるはずだ。

英語の早口言葉「She sells sea shells by the sea shore.(彼女は海岸で貝殻を売った)」のモデルとも言われるメアリーは、愛する故郷ライム・リージスの岸壁の上に建つ小さな教会で、今も海辺を見守るようにして眠りについている。

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▲ ライム・リージスの崖の上に建つ、聖マイケルズ教会。メアリーは、ここに埋葬されている。
© Ballista
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▲ 自然史博物館に展示されている、メアリーが発見したプレシオサウルス。見物客と比較すると、その巨大さがわかる。

週刊ジャーニー No.1164(2020年11月19日)掲載

一青年の重過ぎる生涯 エレファントマン 【前編】

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一青年の重過ぎる生涯 エレファントマン 【前編】

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/手島 功

「さあさあ、お集まりの皆さん、次はいよいよ本日のメインイベントだ。お客さんたちはラッキーだ。これほどの掘り出し物は滅多に見られるもんじゃない。象に祟(たた)られた母親が産んだのは、半分人間、半分象の姿をした恐ろしい赤ん坊だった。さあさあ、心の準備はよろしいですかな? 卒倒しないよう、気をしっかり持ってご覧になってくださいよ」。

興行主の口上が終わると薄暗い会場はたちまち水を打ったように静まり返った。誰もがカーテンが開く瞬間を、固唾を飲んで見守った。スルスルと上げられていくカーテン。ステージの暗闇に何やら潜む黒い塊。やがてその塊はゆっくりと立ち上がったかのようだった。次の瞬間、一条のライトが当てられ、塊の正体が人々の前にはっきりと浮かび上がった。

「キャアアアッ」

「おおおぉぉっ!」

甲高い悲鳴や唸るような低い声が反響し、その後も得体の知れないざわめきが会場を覆った。恐怖に手で顔を覆ったまま会場を後にする女性もいた。

「一体、これは何だ。人間なのか?」

およそ人が目にしたことのない生命体がそこに立っていた。

興行主はしたり顔で続けた。

「半分人間、半分象。人呼んでエレファントマンにございます」

不幸は束になって

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1862年8月5日、イングランド中部の街レスターに暮らすメリック夫妻のもとに1人の男児が誕生した。ジョゼフ(Joseph Carey Merrick)と名づけられた。父は綿織物工場付き乗り合い馬車の御者をするかたわら小間物を扱う副業をしていた。母親は日曜学校で教師を務めていた。

3歳になる頃、それまで普通の子として育っていたジョゼフの身体に小さな異変が生じた。唇が大きく膨れ上がり、前頭部に硬いしこりが出来た。それは日ごとに大きくなっていった。皮膚は象のようにザラザラになり、緩んで深い皺を刻んだ。ほどなくして右手と両脚の肥大化が始まり、後頭部も腫れあがった。日ごとに人間の姿から遠ざかっていく我が子を前に両親は「あの時の祟りに違いない」と考えるようになった。

ジョゼフを妊娠中、母はレスターにやってきた移動動物園のパレード見物に出かけた。珍しい動物を一目見ようと通りには大勢の人が集まっていた。やがて興奮した群衆が押し合い、人々が将棋倒しとなった。たまたま一番前で見物していた母は押された勢いで路上に転がり出た。運悪く一頭の巨象が目の前を通過中であり、母は興奮した象の下敷きになりそうになった。象使いが慌てて制したことで九死に一生を得たが、その時味わった恐怖はトラウマとなってその後も母を苦しめた。その当時、妊娠中に体験した恐怖は、お腹の子に何らかの悪影響を与えるといった迷信があった。

「象が憑りついているのだ」。

それでも母は象のような姿に変貌していく息子を精一杯可愛がった。不幸は重ねてやって来る。ジョゼフは小学生の時に転倒し左臀部を強打した。その後関節炎を併発して脊柱が湾曲した。歩行困難となり生涯杖が手放せなくなった。さらに11歳の時、優しかった母が気管支肺炎のため36歳の若さで死んだ。父親はジョゼフと妹を連れて転居した。翌年、入居したアパートの大家だった子持ちの未亡人と再婚した。

絶望の救貧院へ

12歳で学校を卒業したジョゼフの日々は暗澹たるものとなった。父親はジョゼフの妹だけを可愛がり、継母は連れ子にのみ愛情を注いだ。居場所がないジョゼフは何度か家出を試みたが、その都度父親に連れ戻された。ジョゼフは工場で葉巻を巻く仕事を得た。その間も腫物は肥大化を続けた。3年後、遂に繊細な仕事をすることが困難となり離職を余儀なくされた。収入がなくなったジョゼフを継母は毎日口汚く罵り、冷笑した。ジョゼフは次第に継母を避けるようになり、一人、レスターの街を彷徨うようになった。

父親はジョゼフのために行商人の免許を取得し、小間物の行商をさせた。しかしその容姿に街の人は戦慄した。。怯えた主婦らが玄関の扉を開けることはなかった。腫物で大きく変形したジョゼフの口から発せられる言葉が相手に伝わることもなかった。ある日、売り上げがないまま帰宅したジョゼフを父親は激しく殴りつけた。耐えきれずジョゼフは家を飛び出した。その後、二度と家に戻ることはなかった。

ジョゼフはレスター市内で路上生活を始めた。甥の窮状を見かねた理容師の叔父チャールズ・メリックがジョゼフを自宅に連れて帰り、一緒に生活した。叔父の家から行商の仕事を続けたが、街頭に立つジョゼフの姿に人々はパニックとなった。行商の免許は更新されなかった。17歳の時だった。

貧しい叔父も経済的に追い込まれ、ジョゼフはレスター救貧院に収容された。救貧院には1000人を超える生活困窮者や社会生活不適合者が収容されていた。1年後、ジョゼフは救貧院を自主的に出て仕事を探したがうまくいかず、再び救貧院に戻った。そして4年の歳月が流れた。その間にも身体の変異は進み、口の腫物が巨大化。話すことも食べることも困難になっていた。そこで救貧院は手術を施し、腫物の大部分を切除した。しかし、病状の悪化を食い止めることはできなかった。

悲しき選択

ジョゼフはもはや普通の仕事に就くことは不可能と悟った。であればいっそのこと、この特異な身体を武器に金を稼ぐことはできないか。救貧院では粗末ながら衣食住は保証されていた。「貧困者の監獄」とまで言われた救貧院ではその容姿のため周囲から壮絶な仕打ちを受けた。出るも地獄、残るも地獄。それでもジョゼフはここを出ると決めた。後年、ジョゼフが救貧院での体験を人に話すことはなかった。

ジョゼフはレスターで見世物小屋を経営していたコメディアンのサム・トーに手紙を書いた。早速救貧院を訪れたトーはジョゼフと面会するなり「これは金になる」と踏んだ。すぐに仲間と見世物ツアーの計画を立てた。1884年8月、ジョゼフは救貧院から連れ出された。22歳になっていた。

興行師のジョージ・ヒッチコックはジョゼフから母親が妊娠期間中に体験した出来事を聞き、ジョゼフをエレファントマンと名付けた。「半分人間、半分象」の宣伝文句と共にレスターやノッティンガムなど、ミッドランド地方を巡業した。興行は成功とは程遠いものだった。ヒッチコックは東ロンドンのホワイトチャペルで結合双生児や小人症など、異形の人々を集めた、当時ロンドン最大の見世物小屋だった「ペニー・ガフ(The penny gaff)」を営むトム・ノーマンに手紙を書いた。その年の冬、ジョゼフはヒッチコックに連れられてロンドンに行き、身柄をノーマンに預けられた。

ジョゼフと面会したノーマンはその容姿に衝撃を受けた。あまりに恐ろしい姿のため客が嫌悪し、興行は失敗するのではないかとさえ思った。そこでジョゼフを小屋の裏にあるスペースに置いて知り合いに試験公開した。その結果に満足したノーマンはエレファントマンの一般公開を決め、宣伝を始めた。ジョゼフの生い立ちが大袈裟に書かれたパンフレットも印刷した。ノーマンは店の外に出て呼び込みを始めた。そして会場が一杯になると「さあさあ、お集まりの皆さん、次はいよいよ本日のメインイベントだ」と冒頭のように口上を述べてからジョゼフを公開した。

エレファントマンの興行はそこそこの成績を収めた。パンフレットも売れた。ジョゼフは給料を受け取った。そして夢見た。

「いつの日か、お金を貯めて自分だけの家を買うんだ」

運命の出会い

見世物小屋の真向かいにロンドン病院(現ロイヤル・ロンドン病院)があった。見世物小屋にはそこで勤務する医療関係者なども訪れていた。その中に1人の若い研修医、レジナルド・タケットがいた。タケットはエレファントマンのことを外科医、フレデリック・トリーヴス(Frederick Treves)に耳打ちした。トリーヴスは医者として興味を示した。後日、興行主に金を渡し、ショーが始まる前にジョゼフと会わせてくれるよう依頼した。面会当日、真向かいのロンドン病院を出たトリーヴスはホワイトチャペルロードを横切り、「ペニー・ガフ」を訪れ、薄暗い裏庭へと案内された。

ジョゼフの運命が大転換する出会いがすぐそこに迫っていた。

 

後編につづく

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エレファントマンが公開されていた「ペニー・ガフ」は座席数1000を超えるロンドン最大の見世物小屋だった。現在はサリーを売る店舗になっている。(写真中央)
©Japan Journals

週刊ジャーニー No.1165(2020年11月26日)掲載


一青年の重過ぎる生涯 エレファントマン 【後編】

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一青年の重過ぎる生涯 エレファントマン 【後編】

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/手島 功

前編を読んでいない方はオンライン・ジャーニーでご覧ください。

トリーヴス医師にとってエレファントマン(ジョゼフ・メリックJoseph Merrick)との出会いは衝撃的なものだった。外科医としてこれまで事故や火災、刃傷沙汰で傷ついた患者や遺体とさんざん向き合ってきた。しかし目の前にいる生き物は、トリーヴスの知識ではおよそ説明できるものではなかった。わずか15分ほどの面会を終え、ロンドン病院に戻った。

後日、診察をしたいので一度、ジョゼフを病院に連れて来るよう見世物小屋のノーマンに伝えた。数日後、ジョゼフは顔をスッポリと覆うフードが着いた特殊な帽子を被り、ブカブカの黒いコートを着てやってきた。トリーヴスは出来る限り冷静にジョゼフに話しかけた。しかし突然慣れない場所に引き出されたジョゼフは狼狽し、すっかり怯えてトリーヴスの質問に答えることはなかった。そのためジョゼフが言葉を理解しないのではと思い込んだトリーヴスは、知的障害もあるようだと思うようになった。

トリーヴスはジョゼフの全身をくまなく観察した。皮膚には随所で乳頭状の腫瘍が現れ、頭部、そして胴体部分では皮下組織が増大した上に弛緩して垂れ下がっていた。頭部の周囲は92センチに及んだ。右手が極端に肥大化する一方、左手や性器には異常が認められなかった。一方でトリーヴスはジョゼフが全身から発する強烈な悪臭に悩まされた。臭いのもとは露出した皮下組織にあるようだった。このような診察が何度か繰り返される中、トリーヴスはジョゼフの全身を撮影した。別れ際、トリーヴスは診察券を1枚、ジョゼフのコートのポケットに忍ばせた。

さらに後日、トリーヴスはこの奇病に関する情報が得られるかもしれないと思い、ジョゼフを病理学界に連れて行き、大勢の医師の前で公開した。しかし医師たちの好奇の視線がジョゼフに突き刺さるだけだった。次に診察の誘いがあった時、ジョゼフは興行主のノーマンに「市場の牛のように裸にされて舐めるように見られるのはもう嫌だ」と抵抗した。ノーマンはそれ以降、無理強いすることはなかった。

棄てられて

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外科医フレデリック・トリーヴス(Frederick Treves 1853~1923)。1902年、当時は危険と言われた虫垂炎手術を戴冠直前のエドワード7世に施し成功させたことで準男爵の称号が与えられた。

数日後、見世物小屋「ペニー・ガフ」は突然、警察によって閉鎖された。当時英国では見世物小屋は公序良俗に反するものとして問題視され始めていた。稼ぎの場を失ったジョゼフはレスター時代の興行主サム・ロジャーの元に戻り、再び地方巡業の旅に出た。しかし、見世物小屋を有害視する風潮は地方にも及び、国内での興行は困難になった。ロジャーらは大陸に目をつけ、ベルギーに渡った。しかしここでも同様の機運が高まっており、興行はさほどうまくいかなかった。

そんな中、ブリュッセル滞在中にマネージャーの男がジョゼフの全財産を持って失踪した。身寄りのない異国の街にジョゼフはたった一人、無一文で棄てられた。わずかな所持品を質入れして資金を得、鉄道でオステンドに向かった。そこからフェリーでドーバーに渡ろうと試みたが船会社から乗船を拒否された。仕方なくアントワープからフェリーに乗り、エセックスのハリッジに到着。そこから汽車に乗ってリバプールストリート駅に辿り着いた。頭からすっぽりとフードを被り、強烈な異臭を放つジョゼフはいやが上にも人目を引いた。心ない者がフードをはぎ取り、ジョゼフの顔が露わとなった。駅構内に悲鳴が響き渡り、辺りは騒然となった。騒ぎを聞きつけて警官が駆けつけた。

ジョゼフは救貧院時代にいじめにあった時のように身体を丸め、カタカタと小刻みに震えるだけで何も話さなかった。しびれを切らした警官の一人がジョゼフのコートのポケットをまさぐった。小さな紙片が出てきた。トリーヴスが忍ばせた診察券だった。警官はトリーヴスに連絡をした。すぐに馬車が差し向けられ、ジョゼフはロンドン病院へと運ばれた。到着するとそこにはトリーヴスが待っていた。ジョゼフの目から安堵の涙がとめどなくこぼれ落ちた。

トリーヴスはロンドン病院内にあった屋根裏部屋にジョゼフを収容した。しばらくは内緒で面倒を見ることにした。改めて診察すると初めて会った2年前よりジョゼフの腫物は遥かに悪化していた。さらに心臓も弱っていることが分かった。トリーヴスの懸命な介護が始まった。

やがてジョゼフの存在が病院内で知られるようになり、医師たちの間で問題視されるようになった。他の医師たちはジョゼフが治癒可能な患者か否かをトリーヴスに問い質した。トリーヴスは正直に病名の特定すらできず、治療法もないことを告げた。同時にジョゼフの病状は悪化を続けているため、何とか病院にとどめて治療にあたりたいと主張した。医師たちの反応は冷ややかだった。ベッドの数は限られている。治癒が見込めない上に治療費の支払い能力がない患者を留めることは病院にとって大きな負担となる。他の患者が動揺するため大部屋を使うこともできず、ジョゼフのための個室と専属の看護師が必要となる。医師たちの言い分には一理も二理もあった。ジョゼフ追放の機運が高まった。

突破口

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ジョゼフが使用していたフード付きの帽子。The Royal London Hospital Museum所蔵。

医師たちから厳しい追及を受けたトリーヴスだったが、医師会会長のフランシス・カー・ゴムがジョゼフに同情的だったことが幸いした。カー・ゴムは他の病院や施設でジョゼフを受け入れられないか、ほうぼう手を尽くして聞いたが全て拒絶された。そこでカー・ゴムはジョゼフの生い立ちから病気のこと、救貧院や見世物小屋でのこと、そしてジョゼフをこれ以上院内に留めることが困難であることをしたため、タイムズ紙に寄稿した。医学専門誌「英メディカル・ジャーナル」もジョゼフの特集を組んでこれを後押しした。効果は絶大だった。中にはジョゼフを地方の灯台に収容しろ、といった心無い投書もあったが、富裕層から寄付が続々と届き始めた。たちまちジョゼフを生涯、面倒みられるだけの資金が集まった。反対派の医師たちも沈黙した。トリーヴスはロンドン病院地下にあった2部屋をつないでジョゼフの部屋とした。家具類も搬入され、ジョゼフの「安住の地」が完成した。鏡だけは持ち込まれることはなかった。

トリーヴスは頻繁にジョゼフの部屋を訪れて会話をするようになった。トリーヴスへの警戒心を完全に解いたわけではなかったが、一人の人間として扱われている安心感を覚えた。生まれて初めて長い言葉のキャッチボールを楽しんだ。ある日、トリーヴスはジョゼフが聖書の中の一節をそらんじているのを耳にした。知的障害があると思い込んでいただけに驚きだった。さらにジョゼフが非常に繊細で、豊かな感性の持ち主であることを知った。トリーヴスとジョゼフの間には友情にも似た信頼関係が芽生え始めていた。

トリーヴスはジョゼフが眠る際、横になると頭部の重みで窒息するため、膝を抱えるようにして座り、その膝の上に頭をちょこんと載せて眠っていることを知った。ジョゼフはいつも「普通の人のように、ベッドに横になって眠ってみたい」と言って笑った。

突然の別れ

ジョゼフは一日のほとんどを読書や聖堂などの模型作りをして過ごした。トリーヴスはジョゼフが少しずつ「普通の生活」に触れられるよう気を配った。ある日、自宅にジョゼフを招待し、妻を紹介した。妻と握手を交わしたジョゼフは母親の手のぬくもりを思い出し、その場に泣き崩れた。

その年のクリスマス、トリーヴスはジョゼフを観劇に連れ出した。コベントガーデンにあるドゥルリーレーン劇場でパントマイム劇を堪能した。さらには鉄道に乗り、ノーサンプトンのコテージで数日を過ごすなど、ジョゼフはトリーヴスの計らいでこれまで経験したことのない人間らしい豊かな時を過ごした。それはまるでこれまでの人生があまりにも過酷だったため、神様が大急ぎで帳尻を合わせているかのようだった。

1890年4月11日午後3時、ジョゼフは自室で冷たくなっているところを発見された。普通の人のように、ベッドに横になって眠るように死んでいた。検視の結果、頸椎の脱臼による窒息死と診断された。27歳。ジョゼフの過酷な人生は唐突に幕を閉じた。

ジョゼフを苦しめた疾患は当時、神経線維腫症の一種であるレックリングハウゼン病が疑われた。しかし最近の研究では遺伝的疾患の一つ、プロテウス症候群とする説が有力となっている。

ジョゼフは自分の身体のことを気に病む一方で、正常だった左手を何よりも誇っていた。彼がしたためた手紙にはいつも最後に19世紀初めに活動した牧師で賛美歌作者だったアイザック・ウォッツの詩が引用されていたという。

「私の身体は他人と違う。それに不満を言うことは神を責めること。ただ、もう一度私を創ることが叶うなら、その時は誰もが喜ぶ身体になりたい」。

■本紙編集部が制作した動画『エレファントマン  その壮絶過ぎる生涯』も併せてご覧ください。 https://www.youtube.com/watch?v=o4yT1lkYNw8&feature=emb_logo

週刊ジャーニー No.1165(2020年12月3日)掲載

「フランダースの犬」の作者 ウィーダ 知られざる数奇な人生

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「フランダースの犬」の作者 ウィーダ 知られざる数奇な人生

■ 涙なくしては見られないテレビアニメと言えば「フランダースの犬」。少年ネロと愛犬パトラッシュが悲しい最期を迎えるこの物語は、ベルギーの港湾都市アントワープが舞台だが、実は原作にあたる小説を書いたのは、19世紀に人気を博した英国人作家ウィーダ。今号ではロンドンの窮屈な社会から逃れ、フィレンツェで奔放に暮らした彼女の生涯と、「フランダースの犬」誕生の舞台裏を追う。

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/本誌編集部

1908(明治41)年、春。

「ニューヨークから小包が届いています」。少年向け児童雑誌の発行人で、内外出版協会を立ち上げた山縣悌三郎(やまがた・ていざぶろう)は、耳に入った秘書の声に書き物をしていた手を止めた。小包の差出人は「本田増次郎」。本田は外交官でありながら文筆家としても活躍しており、「女の一生」「路傍の石」で知られる作家、山本有三の義父でもある。当時はニューヨークで結核の療養中であった。

小包の封を開けると、手紙とニューヨーク・タイムズ紙の切り抜き、そして一冊の洋書が出てきた。手紙には、こう綴られていた。

「ウィーダという作家が、貧困の中、イタリアで死去しました。英国政府から給付された年金の大部分を、犬猫の食料に費やしていたとのこと。同封した本は、彼女の傑作のひとつです。ぜひ日本の若者に紹介してほしい」

ウィーダの死亡告知が載せられた新聞の切り抜きを一読した山縣は、早速同封された本を手に取った。そして同年秋、その翻訳本が店頭に並ぶ。この本こそが、ウィーダが1872年に発表した「フランダースの犬(A Dog of Flanders)」である。

贅沢三昧のロンドン生活

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週刊誌「パンチ」に掲載されたウィーダ。退廃的で陰気な雰囲気が漂う。

ウィーダは1839年、イングランド東部サフォークの小さな町バリー・セント・エドマンズで、フランス人の父と英国人の母のもとに生まれた。本名はマリア・ルイーズ・ド・ラ・ラメー。幼い頃に「ルイーズ」と上手く発音できず、「ウィーダ」と名乗っていたのが、後にペンネームになっている。読書好きで幼少時から多くの本に囲まれて生活し、とくに父親が語る陰謀うずまく冒険譚や宮廷を舞台にした恋愛物語を聞くのが、何よりの楽しみだった。そんな夢見がちなウィーダの唯一の友達は「犬」。彼女を守るかのように、いつも一匹の犬が傍らに侍っていた。

24歳で文壇デビューを飾ったウィーダは、貴族社会の恋愛模様を情熱的にえがく「新進のロマンス小説家」として一躍人気者となる。1867年にはロンドンの高級ホテル「ランガム・ホテル」に移り住み、これまでの寂しい田舎暮らしを払拭するかのように、夜ごと華やかなパーティーをわたり歩いた。執筆作業はホテルの部屋のカーテンを閉めてキャンドルを灯し、バラに囲まれたベッドの中で行うなど、自分が生み出す世界そのままの優雅な生活を堪能した。

しかし、強い光が当たれば必ず影もできる。大げさな感情表現や、ときにシニカルともいえる社会批判を含ませた文章を酷評する評論家も多く、「陰気な顔」「ナイフのようにキーキーと尖った声」といった辛辣な言葉で揶揄(やゆ)されることもあった。

想い人を追ってイタリアへ

30代に入り、ウィーダは遅まきながら熱烈な恋に落ちる。相手はロンドンで知り合ったイタリア人オペラ歌手。母が止めるのも聞かず、帰国した彼を追って単身でイタリアへ渡航。毎日のようにラブレターを送ったり、オペラ公演のステージ上に花を投げ込んだりと必死にアピールするものの、結局この恋は実らずに終わってしまった。

情熱に身を任せて追いかけてきたウィーダにとって、失恋はかなり堪えた。胸にあいた風穴を埋めるかのごとく、生活はより派手になっていく。ロンドンには戻らずフィレンツェに居を定め、大きな邸宅を手に入れて数々の美術品を収集。華美に着飾っては自邸でパーティーを開いた。また、愛犬家であったウィーダは、ロンドンを離れる際にも数匹の犬を伴ってきていた。常に彼らを連れて歩き、与える食事もビーフ・ステーキやフォアグラ、ケーキなど、高級なものばかり。その常軌を逸した溺愛ぶりは誰もが知るところだった。

酷使される犬たち

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「フランダースの犬」刊行当時のウィーダ。© National Portrait Gallery, London

1871年、イタリアを舞台にした恋愛小説を次々と発表し、作家として確固たる地位を築く一方で、ウィーダは作風に悩み始めていた。

「そろそろ新しい分野に挑戦したい」

だが、これといって良い案が浮かばない。そこで気分転換を兼ねて、ベルギー旅行を計画する。当時のベルギーはフランスとプロイセンによる普仏戦争が終結し、ようやく落ち着きを取り戻したところであった。そして、この決断は彼女に転機をもたらした。

ちょうどアントワープを訪れたときだった。ウィーダの目に、信じられない光景が飛び込んできた。息を切らしながら、ぬかるんだ道で荷車を引かされている犬の姿だ。荷車に犬を繋ぎとめている皮紐はその身体に食い込んでおり、歩みが遅くなれば鞭打たれる。道の端では、痩せ衰えた犬がピクリとも動かず倒れ伏していた。

ベルギーは中立国として普仏戦争に参戦していなかったが、隣国同士が争っていれば被害を受けるのは必然。当時のアントワープも例にもれず、とくに郊外では市民は苦しい生活を強いられていた。馬を所持する余裕があるはずもなく、人々は「貧乏人の馬」と呼ばれる犬に荷車を引かせていたのである。犬を家族同然に愛し、イタリア動物愛護協会の設立に尽力するほどの動物愛護家であるウィーダにとって、あまりにも胸が痛む情景だった。

「この現状を世界に知らせなければ!」

ホテルに戻ったウィーダは、すぐに机に向かった。今回のアントワープ訪問は、憧れていた画家ルーベンスの祭壇画を見ることが目的だった。しかし、酷使される犬や貧しい村の様子を見て、一気に物語が頭の中を駆け巡った。恋愛小説が多い彼女の作品の中では異色の「フランダースの犬」が刊行されるのは、その翌年のことである。

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19世紀に描かれた絵画「ブリュッセルのミルク売り」。馬は高級であるため、農家の荷車を引くのは犬だった。

「誰も信じられない」

40歳を目前に控えたウィーダは、再び激しい恋に身を焦がした。ところが、その恋も長くは続かない。恋人であった男性は、なんとウィーダの友人とも恋愛関係にあったことが発覚したのだ。ウィーダには、心の底から信頼しあえる友人がほとんどいなかった。人気作家として敬われ、豊潤な資産を手にしていたが、それゆえに周囲は多くの欺瞞(ぎまん)や不実に満ちており、贅を尽くした生活を見せつけることで己を守ってもいた。そうした中で、唯一ともいえる親友の裏切りは、ウィーダを絶望の谷に突き落とした。

「もう誰も信じられない…」。満たされない愛情は、人間を裏切らない犬へとますます注がれていく。多いときには、30匹近くの犬や猫に囲まれて暮らすこともあった。

50代に入ると、浪費や動物救済のための裁判費用によって、財産が底をつき始める。元来金銭に無頓着な性格であったが、執筆作業が滞って収入が激減したことも一因だった。だが、どんなに困窮しようとも犬に高級な食事を与え続けた。服飾品や家財を売り払うのはもちろん、英国政府から支給される年金も彼らの食費にあてた。やがて家賃滞納で屋敷を追い出され、長きにわたる放浪生活を余儀なくされる。

ネロのような最期

1907年冬、1人のやせ細った老婆が、イタリア・トスカーナ地方の海辺にある町ヴィアレッジョの安アパートに運び込まれた。駅前の馬車の中で寝泊まりするホームレス女性であったが、厳しい寒さで肺炎を患い、さらに栄養失調で左目を失明。少しでも暖をとろうと、犬たちと寄り添って眠る姿を見かねた人々が、善意で家を提供したのである。しかし病状は回復せず、翌年1月25日、老婆ことウィーダは69年の生涯を閉じた。彼女の側には数匹の犬たちが付き添い、まるで「フランダースの犬」の最後の場面を重ね合わせたかのようだった。

ウィーダ死去のニュースは、その数奇な生涯とともに英国や米国で大々的に取り上げられた。ニューヨーク・タイムズ紙の記事を読んだ本田増次郎は、すぐに「フランダースの犬」を購入し、懇意にしていた日本の出版社へ送ったのである。爆発的なベストセラーとはならなかったが、その後、他の出版社も翻訳本を発行。そして1975年、欧米の児童文学を紹介するアニメシリーズ「世界名作劇場」で放映されたことにより、その名は日本中に広まった。ウィーダが紡いだ物語は、今も日本人の心の中で生き続けている。

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「死ぬ前に一度は見たい」とネロが願った、ルーベンスの「キリストの降架」。聖母大聖堂内にルーベンスの絵は4点納められており、「聖母被昇天」「キリストの昇架」「キリストの降架」「藁の上のキリスト」を見ることができる。
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© Mattana
アントワープの聖母大聖堂。

涙があふれてとまらない「フランダースの犬」あらすじ

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▲アニメシリーズ「世界名作劇場」のネロ(右)とパトラッシュ(左)、後ろにいるのは友達のアロア。

19世紀、アントワープ近郊の小さな村ホーボーケン。両親を亡くし祖父とともに暮らす10歳の少年ネロは、重い荷車を引く労働犬として酷使されたあげく、土手に捨てられていた犬パトラッシュを助けた。祖父とネロは村の農家から預かったミルクを毎朝アントワープへ運んで売る仕事で細々と生計を立てており、パトラッシュは自ら進んでミルク缶がのせられた荷車を引き始める。

絵を描くことが好きなネロは画家ルーベンスに憧れ、いつかアントワープの聖母大聖堂にあるルーベンスの絵を見たいと切望する。当時、その祭壇画はカーテンで隠されており、お金を払わないと見ることができなかった。

やがて祖父が亡くなり、ネロは村の風車に放火した疑いで仕事をなくしてしまう。住まいも失い、最後の望みをかけた絵のコンクールにも落選。絶望し吹きすさぶ雪の中を茫然と歩き続け、クリスマスのミサが終わった大聖堂に入って行く。そこで目にしたのは、カーテンが開けられたルーベンスの絵であった。

「とうとう僕は見たんだ…。マリア様、ありがとうございます。これだけで僕はもう何もいりません」

必死に後を追いかけてきたパトラッシュがネロのもとへ駆け寄り、ともに崩れるように身体を横たえる。ネロはパトラッシュを抱きしめた後、そっとささやいた。「パトラッシュ、疲れたろう。僕も疲れたんだ。何だかとっても眠いんだ、パトラッシュ…」。翌朝、絵の前で凍死している彼らが発見されたのであった。

週刊ジャーニー No.1168(2020年12月17日)掲載

530年ぶり 世紀の発見!駐車場でよみがえった王 リチャード3世 【前編】

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530年ぶり
世紀の発見!駐車場でよみがえった王 リチャード3世 前編

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/本誌編集部

■ シェイクスピアの戯曲「リチャード3世」の中で、醜い姿をした狡猾で冷酷な人物として登場するリチャード3世。近親者を次々と手にかけて王位を簒奪(さんだつ)した「惨忍な暴君」というイメージが定着しているが、一方で軍事的才能に恵まれた「勇敢な王」だったとも言われている。今号では、戦いに明けくれた彼の激動の生涯と、その遺骨発掘をめぐる運命的な物語を追う。

眠りから覚めた「暴君」

2012年9月5日、イングランド中部の都市レスター。

立ち入り禁止となった市営駐車場の土壌を、作業員や考古学者らが細心の注意を払いながら黙々と掘り返していた。この駐車場は、13~16世紀にかけて修道院「グレイフライヤーズ」が建っていたとみられている場所だ。

この修道院は『稀代の暴君』として知られるリチャード3世とのつながりを、古くから指摘されてきた。遺骨はそこに埋葬され、かの王はそのまま地中に眠っているとも、ヘンリー8世の時代に修道院が閉鎖・破壊された際に掘り起こされ、川に投げ捨てられたとも言われていたが、5世紀以上にわたり、真相をつきとめた者はいなかった。

そして長年にわたる調査の結果、「修道院跡地でいまだに眠り続けているに違いない」と強く信じる、ある女性歴史家の働きかけによって、2009年、ついにリチャード3世の遺骨を探すための一大発掘プロジェクト「Looking for Richard(LFR)」が動き出したのだった。この日は、発掘作業がスタートしてから12日目。すでに建物の土台や床に敷き詰められていたタイル、数体の遺骨を見つけていた。

作業をはじめて数時間ほど経ったころのこと。修道院内でもっとも神聖な場所であり、祭壇や聖歌隊席が並ぶ内陣跡を手作業で掘り進めていた作業員が、人骨らしきものを発見。現れたのは、戦闘で受けたと思われる傷だらけの頭がい骨だった。修道院などに埋葬される場合、遺体は布に包まれるか、棺に納められるのが一般的であるにもかかわらず、布や棺があった形跡がない。そして何よりも埋葬地が内陣ということは、この遺骨がかなり高貴な身分の人物であることを示している。

「これはもしかして!?」

現場は騒然となった。現場責任者や発掘プロジェクトの担当者らを大急ぎで呼び寄せ、関係者が固唾をのんで見守る中、全身を覆った土を慎重に取り除いていく。やがて姿を現したのは、両手を縛られ、背骨がS字型に大きく曲がった人物の遺骨。リチャード3世の身体的特徴と合致するものだった。

いわくつきの王のものと思われる遺骨発見のニュースは瞬く間に広がり、世界を驚愕させた。在位はわずか2年であったにもかかわらず、シェイクスピアの戯曲によって、残忍冷酷、醜悪不遜、奸智陰険など、最大級の汚名を被せて語られてきたリチャード3世。戦場で命を散らせた最後の王でもある彼は、果たしてそれほどまでに極悪人だったのであろうか?

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兄への強い忠誠

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リチャードが生まれたフォザリンゲイ城跡。後にスコットランド女王メアリー・ステュワートが幽閉・処刑された場所でもある。現在は建物の一部だった石や砦跡の丘のみ残っている。

リチャード3世ことリチャード・プランタジネットは、エドワード3世の曾孫であるヨーク公夫妻の8男として、1452年にノーサンプトンシャーのフォザリンゲイ城で産声をあげた。夫妻は13人の子どもに恵まれたものの、うち6人は早逝。リチャードはその12番目で、実質上の末っ子だった。逆子でかなりの難産であったため、出産の際にリチャードは脊椎に強い後湾症(側湾症の一種)を患うことになった。

リチャードが誕生した時世は、曾祖父エドワード3世がフランスに反旗を翻したことによってはじまった英仏百年戦争の終盤であった。イングランド軍の劣勢が続き、1453年についに敗退。イングランド国内では、当時の国王ヘンリー6世への不満が噴出し、リチャードの父ヨーク公が立ち上がった。ヨーク家が白薔薇を、ランカスター家(ヘンリー6世)が赤薔薇の記章をつけていたことから「薔薇戦争」と呼ばれ、王位をめぐる壮絶な権力争いが繰り広げられることとなる。リチャードの父と次兄は戦死するが、長兄エドワードと母方の従兄弟ウォリック伯爵が勝利をおさめ、1461年、長兄はエドワード4世として即位。リチャードには、弱冠8歳でありながらグロスター公爵位が授与された。

19歳で王となったエドワード4世にとって、年齢の離れた末弟は唯一ともいえる「気を許せる存在」だったのだろう。常にリチャードを気にかけ、11歳になるころには軍事会議に参加させるようになる。リチャードは兄に忠誠を誓い、めきめきと頭角を現していった。

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リチャードの長兄エドワード4世(右)と、年齢の離れた従兄弟のウォリック伯(左)。野心家のウォリック伯は別名「キングメーカー」と呼ばれた。

エドワード4世の王位は安泰なものではなかった。ランカスター派の残党に目を光らせなくてはならず、また政治の実権はウォリック伯が握っていた。その鬱憤を晴らすかのように多くの女性と浮名を流し、やがて遠征先で出会った年上の未亡人と秘密裏に結婚してしまう。あろうことか、敵対するランカスター一族の女性だった。

当然ながら、ウォリック伯はこれに激怒した。フランス王女との婚姻話を進めていた彼は面目を失い、さらに王妃の一族が次々と要職に就き、宮廷内の勢力図が塗り替えられようとしていたのである。1469年、ウォリック伯は自身の娘とエドワード4世のもう一人の弟にあたるジョージを結婚させ、彼と手を組んで反乱軍として決起。エドワード4世を王位から追い落とし、ヘンリー6世を復位させた。

ただウォリック伯はこのとき、大きなミスをひとつ犯した。リチャードを己の陣営に引き込むことができなかったのである。目覚しい能力で軍司令官として国王軍の一端を任されていた16歳のリチャードは、長兄と反撃の準備を整える。そして1471年、エドワード4世は王位に返り咲き、ウォリック伯は戦死。幽閉されたヘンリー6世も、ロンドン塔内で殺害された。

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裏切りには裏切りを

エドワード4世の治世が長く続いていたら、歴史は変わっていたかもしれない。だが、まわりはじめた運命の輪を止める術はなかった。

1483年、ヨークシャーのミドラム城で妻子と過ごしていたリチャードのもとに、エドワード4世の急死の報が届く。まさに「寝耳に水」の出来事であった。リチャードはエドワード4世が復位した翌年に、ウォリック伯の末娘アン(リチャードの兄であるジョージの妻の妹。ジョージは処刑、妻は病死している)と結婚し、息子を授かっていた。終始忠実であったリチャードの信用は厚く、ウォリック伯が残した広大なイングランド北部の領地を相続。強大な権力を手にしたが、スコットランドとの国境線をしっかりと護り、領地を公平に治め、領民の評判もよかった。

40歳という若さでの王の死は肺炎が直接の死因だったものの、実は長年にわたる不摂生な生活でかなりの肥満体になっており、派手な女性関係によって多数の病も患っていた。王位は12歳になるエドワード4世の長男(エドワード5世)が継ぐことになったが、それに際し、同王は遺言を残していた。その内容とは「息子が戴冠するまでの国王代理、ならびに成人するまでの後見人(護国卿)としてリチャードを指名する」というもの。エドワード4世の弟に対する深い信頼がうかがえる。ところが、これを不服としたのが実権を握っていた王妃の親族である。一族から後見人をたてたうえで、王の死がリチャードに伝わる前に葬儀を終わらせ、エドワード5世の戴冠式を行おうとしたのだ。

しかしながら、その計画はリチャードの知るところとなった。

「これまで必死に尽くしてきた私を裏切るのか!」

激しい怒りで手を震わせながら手紙を握りしめたリチャードは、ひとつの大きな決断を下す。王を支える右腕になろうと研鑽を積み、奪われた王位を取り戻そうと共に戦った日々――兄の遺志を無にすることは気がとがめるが、これ以上、王妃の一族に好き勝手させるわけにはいかない。

「私が王になる…!!」

リチャードの行動は早かった。

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ロンドン塔に幽閉されたエドワード4世の息子で、リチャードの甥にあたる、エドワード5世兄弟。幽閉中に殺害されたと伝えられている。

まずは王妃を油断させるために、エドワード5世に忠誠を誓う旨を記した文書を送った。そして兄王の追悼ミサをヨークで行い、喪に服すふりをしながらじっと機を待つ。やがてエドワード5世が滞在中のウェールズからロンドンへ向かったことを知ると、リチャードもヨークを発った。ノーサンプトンでの合流に成功したリチャードは、同行していたエドワード5世の側近たちを捕縛した後、エドワードの護衛として堂々とロンドンに進み、10歳の次男ともどもロンドン塔に幽閉した。身の危険を感じた王妃は、中立を保っていたウェストミンスター寺院へ逃げ込んでいる。

議会承認のもと、リチャードはエドワード4世が「重婚」していたことを明かし(事実関係は解明されていない)、王妃との婚姻無効を宣言、子どもたちはエドワード4世の庶子であるとして王位継承権の剥奪と自身の即位を表明した。新国王「リチャード3世」の誕生である。30歳の初夏のことだった。

しかし、少年王を廃して短期間のうちに力技で就いた玉座が、平穏無事であろうはずがない。壮絶な最期を遂げるまでのカウントダウンが、始まった瞬間でもあった。

 

後編につづく

週刊ジャーニー No.1176(2021年2月18日)掲載

530年ぶり 世紀の発見!駐車場でよみがえった王 リチャード3世 【後編】

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530年ぶり
世紀の発見!駐車場でよみがえった王 リチャード3世 後編
© Carl Vivian, University of Leicester

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/本誌編集部

■〈 前回までのあらすじ〉兄王の右腕となるべく尽くしてきたリチャードだったが、亡き王の遺言を無視し、自身を排除しようとする王妃の裏切りに激怒。甥にあたる少年王を廃して、短期間のうちに力技で玉座に就いたものの、その強引な手法は大きな反発を呼び…。今号では「冷酷非情な暴君」とされたリチャード3世の凄惨な最期と、その遺骨発掘をめぐる運命的な物語を追う。

不安定な王位と相次ぐ死

わずか12歳のエドワード5世を「庶子」と公表して王位継承権を抹消させ、かわりに国王となったリチャード3世が最初に取り組んだことは、要職に就いている前王妃一族の一掃だった。

しかし、根回しのない突然の強引な即位や人事の一新に対し、「王位簒奪」「絶対君主」と捉える者も少なくなく、リチャードが王位を継ぐことに異を唱えていた反リチャード派はもとより、支持者のなかにも密約を交わして寝返る者が出てきてしまう。当時のイングランドの勢力は、主に3ヵ所に分散されていた。第1の地は政治の中心であり、国王のいるロンドン。第2の地は皇太子のいるウェールズ。第3の地は国境を守り、軍事の要であるヨーク。第3の地を引き継ぎ、名実ともに勇将として認められていたリチャードが、政権と軍事権の両方を手中に収めたことに、有力貴族たちは脅威を感じはじめたのだ。反乱の噂が絶えず、常に政情は不安定であった。

その機を逃さず、リチャード打倒に立ち上がった人物がいた。傍系ながらランカスター家の血を引くヘンリー・テューダー(のちのヘンリー7世)である。ヘンリーの母はエドワード3世の血筋の出身であったが、庶子の家系であったため、王位継承権を認められていなかった。それゆえに、エドワード4世が復位したときにも粛清の対象にならず、ヘンリーはフランスで亡命生活を送っていたのである。

さらに負は連鎖していく。1484年、生まれながらに病弱であったリチャードの息子が10歳で早逝。息子の後を追うかのように、妻も結核で死去してしまった。立ち込める暗雲を吹き飛ばすべく、リチャードは決意する。

「ヨーク家とランカスター家の因縁の戦いに、決着をつけよう」

家族の死が相次ぐ中、イングランドへの上陸を目論んで幾度も攻撃をしかけてくるヘンリーに、リチャードは苛立ちを隠せなくなっていたのだ。

1485年6月、リチャードはノッティンガムに滞在し、軍装備の拡充・製造に取りかかる。これまでヘンリーの上陸を阻んできたが、あえて降着を許し、戦場で壊滅しようと考えたのである。

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ヘンリー・テューダー(右)とリチャード3世(左)。ヘンリーは、ヘンリー8世の父にあたる。

鬼神の壮絶な最期

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運命の8月がやってくる。

ヘンリーがウェールズに降り立ったことが伝えられると、リチャードは北部から援軍を呼び寄せ、南部からの援軍はレスターで合流するよう指示する。20日の夕方、リチャード軍はレスターに集結。翌21日の朝、ヘンリーがアザーストーンに到達したとの報を受け、決戦の地へと進軍を開始する。22日朝、ついに両軍はレスターから西へ20キロほど離れたボスワース平原で向き合った。掲げられた無数の軍旗が大きくたなびき、甲冑の触れ合う音と馬のいななき以外、物音はしない。恐ろしいほどの緊張感が辺りを包んでいた。

バン! バーン!

リチャードの軍から敵陣に放たれた銃声を合図に、戦いの火ぶたは切って落とされた。

リチャードは勝利を確信していた。戦闘準備は万全であったし、兵力も圧倒的に有利(リチャード軍1万人、ヘンリー軍5000人)であるうえ、歴戦を戦い抜いてきた経験と自信があったからだ。一方、ヘンリーには軍事経験がなかった。軍の全権を握っていたのはオックスフォード伯で、彼さえ仕留めれば戦いはすぐに終結するように思われた。

リチャードは中央に本軍、右翼にノーフォーク公軍、左翼にノーサンバランド伯軍という布陣を敷いていた。オックスフォード伯はまず右翼に狙いを定め、ノーフォーク公を討ち取る。リチャードはすぐさま左翼に指令を飛ばすが、ノーサンバランド伯は軍隊をその場にとどめたまま動かない。

「裏切りだ!」

リチャードは叫んだ。この背信によって本軍は中央に取り残され、オックスフォード伯軍に囲まれてしまう。絶体絶命の危機に陥ったリチャードの目に、前方からスタンリー卿の援軍(6000人)が到着するのが映った。

「よし! これで挟み撃ちにできる!」

ところが希望を抱いたのもつかの間、なんとスタンリー卿も行進をやめて止まってしまう。

「裏切りだ! おまえもか!」

リチャードは怒りで目の前が真っ赤になった。打開策はないかと周囲に目を走らせると、主戦場から離れた場所で少人数の騎士たちに守られているヘンリーの姿を捉える。「奴を討つしか方法はない」。リチャードは側近に合図を出すと、愛馬の脇腹を力いっぱい蹴り上げて一気に駆け出した。

「ついてこれる者は来い!」

リチャードを先頭にした少数隊は敵兵を凪ぎ倒しながら、一直線にヘンリーへと向かっていく。みるみるうちに距離を詰めていく様は、鬼神さながらだった。しかし、あと一歩というところで邪魔が入る。中立を保っていたスタンリー卿の軍が、リチャードを包囲したのである。リチャードは馬から引きずり下ろされ、襲いかかる数多の剣や斧の前に倒れた。享年32、在位期間はわずか2年だった。

遺体は丸裸にされた後、両手首を縛られた状態で馬にのせられてレスターに運ばれ、衆目にさらされた。ヘンリーがロンドンへ凱旋すると、葬儀はもちろんのこと、身体を清められることさえもなく、グレイフライヤーズ修道院の内陣に簡易的に掘られた穴に放り込まれる。こうして約30年におよぶ薔薇戦争は幕を閉じた。

創作された「極悪人」

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駐車場に書かれた「R」の文字。ブルドーザーでここから掘り返された。同所は現在、リチャード3世ビジターセンターになっている。
© Carl Vivian, University of Leicester

「歴史は勝者によって書かれる」という言葉があるように、リチャードの評判が悪いほどヘンリーにとって都合がよかったため、「テューダー朝の敵」としてリチャードは「悪役」に仕立て上げられた。そうして生み出されたのが、腕は萎え、足を引きずり、背中に大きなコブを背負った「醜悪な姿」を持ち、ヘンリー6世や2人の実兄、幼い甥たち、側近などを次々と殺害して王位を奪った「極悪人」である。とくにシェイクスピアによって、その人物像は後世に広く伝わった。

リチャードが見直されはじめたのは、18世紀以降のこと。彼の名誉回復を目指す「リカーディアン(Ricardian)」と呼ばれる歴史家や歴史愛好家たちが登場。そのうちの一人が、リチャードの遺骨発掘プロジェクトを立ち上げた女性、フィリッパ・ラングリーである。

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2015年、厳かに進んだリチャード3世の葬列。レスター大学を出発、ボスワースを経由して、レスター大聖堂へと向かった

リチャードの墓の探索はこれまでも試みられてきたものの、手がかりを掴めたことはなかった。ラングリー氏は当時の地理を徹底的に検証し、現在は駐車場となっている旧小学校の裏地が、リチャードが埋葬されたというグレイフライヤーズ修道院の跡地ではないかと推測。レスター大学考古学部の協力を得て、発掘作業がスタートした。2012年8月25日、リチャードが埋葬された日から、ちょうど527年を迎えた日であった。

この遺骨発見には、運命的なエピソードがある。ラングリー氏が駐車場を初めて訪れたときのこと。ふと地面にペンキで書かれた「R」の文字が目に飛び込んできた。その瞬間、まるで天啓を得たかのように「リチャード3世はこの下に眠っている!」と確信したという。彼女の強い申し出で「R」のあった付近から掘り起こされ、見事に遺骨を探し当てた。ちなみに、この「R」は「Reserved Parking(専用駐車区間)」を意味するものだが、それにしては書かれた位置がおかしく、かつて専用駐車区間を設けていた記録もないという。

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レスター大聖堂の内陣に据えられたリチャード3世の墓。

発見された遺骨は、リチャードの姉の家系の子孫とのDNA鑑定が行われた結果、リチャードと断定され、「せむし」とされた体形は誇張ではなかったことが証明された(手や足は健康だった)。ただ当時の上着は生地が厚くボリュームがあったため、背骨の湾曲はそれほど目立たなかったとされている。

また彼の頭がい骨に残された戦傷は、逃げることを拒み、「栄光か死か」の二者択一の突撃をかけた壮絶な最期をうかがわせるものだった。頭部には少なくとも8ヵ所の大きな損傷がみられ、長剣で数回にわたり切りつけられた後、左頬から突き刺された長槍が頭がい骨を貫通、後頭部に矛槍が直撃し、これが致命傷になった。さらに、地に伏したリチャードの頭頂部に短剣が突き立てられ、甲冑を剥ぎ取られた後に背と腰を長剣で刺されている。怨恨深かったように思われるが、中世の戦場ではこうした虐殺は珍しくなかったようだ。

よみがえったリチャードは、グレイフレイヤーズ修道院の向かいに建つ、レスター大聖堂にあらためて埋葬された。その石棺には、生前にリチャードが使っていた銘が古ラテン語で刻まれている。「Loyaulte Me Lie(ロワイヨテ・ム・リ)」、その意味は「忠誠がわれを縛る」。兄への忠心と周囲の裏切りに翻弄された生涯であった。

週刊ジャーニー No.1177(2021年2月25日)掲載

東日本大震災発生から10年日本地震学の父 ジョン・ミルン 前編

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東日本大震災発生から10年日本地震学の父 ジョン・ミルン 前編
© Carisbrooke Castle Museum

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/北川 香・本誌編集部

■2011年3月11日、東日本を襲った地震と大津波の 想像を絶する破壊力に、世界中の人々が言葉を失った。 日本人にとって地震は珍しいものではないが、 この『地震大国』で「地震学」が 確立されたのはそう昔のことではない。 しかも、その礎を築いたのはある英国人だった――。 今回は、ジョン・ミルン博士の 多大な功績を前後編でご紹介したい。

1876年3月8日、25歳の若き英国人科学者が明治政府の招聘で日本にやって来た。政府の役人に迎えられ、案内された日本家屋で眠りにつこうとした時、彼を突然襲ったのは「ぐらぐらっ」という不気味な揺れ。床にへたり込み、しばらくは口もきくこともできなかった。この英国人こそが、「日本地震学の父」にして「西欧地震学の祖」と言われるジョン・ミルンだ。

やがて正気を取り戻した時、ミルンの頭の中に様々な疑問が浮かんできた。あの不思議な現象は何なのか? あれだけの揺れがどこから来るのか? なぜ日本に起こって、英国には起こらないのか? 持ち前の探究心が刺激されたミルンは、この不思議な「揺れ」に大いに興味を覚えたのだった――。

ミステリアスな極東の地へ

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ミルンの日本滞在中に起きた地震で、被害を受けた村の様子。1876~95年撮影。
© Carisbrooke Castle Museum

ジョン・ミルンは1850年、スコットランド人の両親のもと、リヴァプールで生まれ、ランカシャーのロッチデールにて育った。子供の頃から『知りたがり屋』で、いつも周りの大人を質問攻めにしていた少年だった。

やがて一家はロンドンに移り、17歳になったミルンはロンドン大学キングス・カレッジの応用科学部に入学。数学、機械学、地質学、鉱山学等を学び、さらに王立鉱山学専門大学に進んで地質学と鉱山学を極めた。積極的に実地調査を行い、ランカシャーやコーンウォール、中央ヨーロッパ各地の鉱山を回った。そして23歳になる頃には、地質学と鉱山学の分野で頭角を現すようになった。

学位と現場経験の両方を持ち合わせたミルンは、就職にも困らなかった。1873年、サイラス・フィールド社に鉱山技師として雇われ、ニューファンドランド島(現在はカナダの一部)で石炭と鉱物資源の発掘調査に取り組んだ。そして島の岩石の種類や構造を論文にまとめ、地理学会誌に発表。氷河にも興味を持ち、氷と岩石の相互作用についての調査も行っている。その後も有望な若手地質学者・鉱山学者として引っ張りだこだった。

1875年、ミルンのもとに意外な雇い主からの仕事が舞い込んだ。日本政府が新設した工部大学校の地質学・鉱山学教授職への招聘で、近代化を目指す明治政府のいわゆる「お雇い外国人」政策の一環だった。ミルンは極東のミステリアスな島国・日本で働けることを喜び、すぐに承諾した。

日本までの旅路は容易ではなかった。船酔いをするミルンは船旅を嫌い、周囲の猛反対を押し切って、ヨーロッパ、ロシア、シベリア、モンゴルそして中国へと至る陸路を選択。しかしミルンにとってこの旅程は、足を踏み入れたことのない地域で地質学の研究を深めることができる最高のチャンスだった。壮大な旅は全行程に11ヵ月を要した。

貪欲に火山を調査

工部大学校の環境は、ミルンにとって非常に働きやすいものだった。学長はスコットランド人でグラスゴー大学出身の技師だったし、同僚には英国ですでに顔なじみであった教授もいた。外国人教員のスケジュールはびっしり詰まっていたが、若いミルン教授は活力に満ち、高い評判を築いていった。豊富な知識と内容の濃い授業で学生を魅了し、研究活動にも余念がなく、教材が不十分だと自ら教科書をつくった。特に結晶学の教科書は非常に専門性の高いもので、後に英国で書籍として出版されている。また、時間の許す限り実地調査に出掛け、日本社会の歴史、火山と地震についての知識を深めていった。

1876年に伊豆大島の三原山が噴火した時には、自らの身の危険を心配するよりも研究を優先し、「貴重な研究材料を逃すまい」と現地へ急行。噴火が収まって間もない噴火口に近づき、直径1キロ、高さ100メートルという円形競技場のような噴火口を見下ろしながら、注意深く調べて回った。この調査により、ミルンは火山の生成過程に関する知識を深め、同時にこのような噴火が地震の原因となるのではと仮説を立てている。

この後もミルンは浅間山、千島列島、富士山を含め、日本中の50の火山に登って観測を実施した。そして総合的な研究の結果、「火山活動は地震の原因ではない」という結論に達している。

運命の女性との出会い

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ミルンによって撮影されたと思われる、妻のトネ。
© Carisbrooke Castle Museum

1878年、日本に来てから2年目のある日、ミルンに運命の出会いが訪れる。大学校の休暇を利用した探検旅行で函館にやって来たミルンは、ハンプシャー出身の自然学者トーマス・ブラキストンと知り合い意気投合。ブラキストンは日本の鳥類学の基礎をつくった人で、ミルンと同じく学者としての名声を求めるよりも、謎を解き知識を深めることに集中するタイプの学者だった。このブラキストンがミルンに紹介した日本人女性が、堀川トネである。

トネは1860年、函館山の願乗寺(今の西本願寺別院)の住職・堀川乗経の娘として生まれた。日本はその頃、桜田門外の変で井伊大老の暗殺が起き、幕府は力を失い始めていたが、函館は貿易港として栄え、外国人居留者も多かった。ブラキストンもその一人で堀川家の近所に住んでおり、長いつきあいがあったのだ。

トネは当時の女性としては珍しく、「女性の身でも男性同様に夢を抱いて生きたい」と志す先進的な人物だった。外国や英語に強い興味を持っていたトネは、ブラキストンの勧めで、東京にできたばかりの開拓使仮学校女学校で英語を学んでいた。上流階級の子女が集う中、身分差から辛い思いをしながらも必死に勉強に身を投じていたが、幼い頃から患う脳の病気(詳しい病名は不明)が悪化し、夢半ばで函館へ帰郷。最愛の父も突然亡くなり、心身共に疲れ切っていた彼女が父の墓参りに行った墓地で出会ったのが、ブラキストンに同行していたミルンだった。

2人は3年におよぶ東京と函館の遠距離恋愛の末、1881年に結婚。トネは日本の文献の英訳や歴史の調査など、ミルンの研究に助力した。

ミルンによって生き返った女 堀川トネ

英語を学ぶために、難関の試験を突破して開拓史仮学校女学校へ進んだものの、幼少期から患っていた病気が悪化し、志半ばに退学せざるを得なくなったトネを待っていたのは、函館での「針のむしろ」のような生活だった。
学業の挫折に加え、病気持ちの女性に対する周りからの冷たい目…。呉服屋の息子から縁談が舞い込むも、「洋服を着せたらさぞ似合うだろう」というのが見初めた理由であったと聞いたトネは、「女性は着せかえ人形じゃない。私は飾り物じゃない。女を自分の所有物とみなすような人は好きになれない」と縁談を断った。そんな「先進的」なトネは「やはり脳の病だ」と誹謗中傷される毎日だった。

そんな中での最大の理解者であった父の急死。人生のどん底にいたトネは、函館の墓地でミルンと出会い、瞬く間に恋に落ちた。遠距離ゆえに1年に2度ほどしか会えなかったが、頻繁なラブレターのやりとりが2人の気持ちを近付けた。
3度目に会った時にトネは、ミルンに一生治らない病を持っていることを告白。それに対しミルンは「あなたが受けた屈辱と悲哀の経験をもとに、より広い視野で大きく物事を見ることが本当の勉強だ。私は地震と火山の研究に夢中だ。あなたも英語の勉強がしたいと言っていたね。2人でそんな生活を共にしよう」とプロポーズした。翌年函館に来るはずのミルンを待ちきれず、トネは単身東京に向かい、霊南坂教会で挙式。ミルン30歳、トネ20歳だった。婚姻届は後に渡英が決まってから出されたが、その時にトネは英国での永住を覚悟し、函館に永遠の別れを告げている。自分の意志で外国人との恋愛・結婚を貫くトネには、病に悩む姿はもう見られず、強く逞しい女性となっていた。

トネは34歳の時に、ミルンと共に渡英。ミルンの研究生活を支えながら、各地からの訪問者の接待に忙しい毎日を過ごした。ミルンの没後も6年間、1人で英国に留まったが、体調を崩し1920年にミルンの遺髪を携えて函館に帰郷。晩年はいつも「私はミルンによって生き返ることができた女です」と語っていたという。

「地震学」の設立へ

世界的に神話や迷信で地震の原因を説明していた時代だったが、工部大学校に新たに着任したジェームズ・ユーイングとトーマス・グレイも地殻運動に強い関心を寄せ、ミルンと3人で研究に没頭するようになる。

ミルンは地震研究を2つのアプローチから行った。ひとつは正確なデータをできるだけ多く集めること。そのツールとして、地震の頻度、大きさ、波動の幅と方角、時刻を記録することができる「計測器」を開発しなければならなかった。そしてもうひとつのアプローチは、組織だった研究機関を立ち上げることだった。地質学、鉱山学の専門家としての経験から、新しい科学を学問分野として設立するには、専門家集団が情報交換し共同研究できる場が必須であることを痛感していたのだ。

ミルンが「地震学者」へ完全に移行したのは1880年、マグニチュード五・五の横浜地震直後のことである。「激しい揺れのために部屋の中を歩くこともできなかった」と後にミルンが話しているように大地震だったが、部屋に実験的に設置していた2つの「水平振子の計測器」が、大まかな震度や発生方角等を測定していたのだ。より広範囲の地震のデータをとり、それを分析すれば、地震のメカニズムを解明できるとミルンは確信した。

最初の全国調査は人海戦術だった。各地の役所に、その地域で年間平均何度地震が起こるか、これまで起こった地震についての詳細な記述を用意するように依頼した。各地から多数の回答があり、日本では平均1日に3~4回の揺れがあることがわかった。さらに、ミルンは葉書調査を考案。東京周辺の町や村に依頼し、週単位で揺れの記録を葉書に書き留め返信してもらったのだ。この結果、揺れのほとんどが東または北東海岸線から派生しており、西または南西海岸線からのものがほぼないことが判明。この葉書調査はその後、東京から約700キロ北部の地域まで拡張して続けられた。

振子地震計の誕生

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ミルン(右)とジェームズ・ユーイング。1900~13年頃撮影。
© Carisbrooke Castle Museum

実験や葉書調査と並行して、専門家集団の形成も進められた。ミルン、ユーイング、グレイが中心になって「日本地震学会」を設立。1880年には地震学会第1回大会が開催され、ミルンは地震学の現段階での功績と今後の課題を論じている。そして、開発した「振子地震計」15個を武蔵野平原の電報局内に置いて観測を行うことも発表した。

このグレイとミルンが共同開発した地震計は「グレイ・ミルン式地震計」と呼ばれた。当時の地震計がどのように機能したかというと、地球が震動を起こす度に精密なガラスの針が作動し、回転ドラムに巻かれた、黒煙で色付けされた感度の高い紙に線を描いていく。これが震動を表し、波動が極端であればあるほど、大きな地震ということになった。グレイ・ミルン式地震計は解像度と正確性を高めるために何度も改善が施される。1883年に地震測定に有効な三成分の地震波の同時記録に成功したことから、地震学会が東京気象台での公式地震計として採用した。学会でのミルンの最後の論文によると、グレイ・ミルン式地震計により、1885~93年までの間に8331の地震が記録されている。

地震学会が1892年に解散するまでの12年間に、ミルンは日本の地震学の土台を築いた。ちなみに「地震」という言葉も、この頃に初めて使われるようになっている。こうして3年契約の雇われ外国人として来日したはずのミルンは、気が付けば9回目の春を東京で迎えていた。    (後編へ続く)

週刊ジャーニー No.1178(2021年3月4日)掲載

生誕130周年 謎の失踪劇を起こした ミステリーの女王アガサ・クリスティー 【後編】

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生誕130周年 謎の失踪劇を起こした ミステリーの女王アガサ・クリスティー 【後編】
Photo by Angus McBean © The National Portrait Gallery, London

■〈前編のあらすじ〉 結婚、出産、作家デビュー、そして小説の大ヒット――。順風満帆に見えた日々は、長くは続かなかった。結婚から12年目の夏、夫が起こした「ある騒動」によって、悲しみのどん底に突き落とされたアガサは、驚くべき行動に出る…。生誕130周年、そして名探偵ポアロ誕生から100年を迎え、新たな映画の公開も迫る彼女の後半生をたどる。

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/柳下加奈子・本誌編集部

謎の失踪――空白の11日間

「悲劇」がアガサを襲ったのは1926年のこと。6冊目の著書「アクロイド殺し(The Murder of Roger Ackroyd)」を出版し、そのトリックが「フェアかアンフェアか」で様々な論争を巻き起こすという、ミステリー作家として願ってもない成功を収めた矢先のことだった。

1926年4月、病に臥していたアガサの母親が死去。幼くして父親を亡くし、母親と多くの時間を過ごしきたアガサにとって、その喪失は大きく、悲しみに暮れるアガサはフランス南西部で4ヵ月ほど療養生活を送る。そして8月、英国へ戻った彼女が夫・アーチーと久々に顔を合わせると、彼の口から想像だにしなかった言葉が飛び出した。

「離婚してくれないか?」

アーチーは、アガサに帯同して世界巡業を行った際に知り合った「大英帝国博覧会」の主催者、アーネスト・ベルチャーの友人である10歳下の女性、ナンシー・ニールとの不倫を打ち明けたのだ。アガサは離婚を拒否した。時間が経てば、夫の気持ちも落ち着くだろう…そう信じて過ごしたが、同年12月、アーチーは「クリスマス前後の1週間は友人たちと過ごすことにする」と宣言。アガサの同伴も拒絶したのである。あまりのショックに耐えかねた彼女は、その日の深夜、娘を置いて行方をくらましてしまう。

当時、アガサ一家はバークシャーで暮らしていた。「ドライブに出る」と言って出かけた彼女の車が、サリーの車道脇で乗り捨てられているのを発見。車内には、有効期限の切れた運転免許証と洋服が残されていた。人気作家の失踪は瞬く間に表沙汰になり、これに飛びついた新聞社は、夫に疑惑の目を向け、報奨金付で情報提供を促すなど大騒ぎとなった。

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失踪していたアガサが発見されたことを報道する、当時の新聞記事。

それから11日後、アガサはヨークシャーのハロゲートにあるホテルに、夫の不倫相手の苗字を使い「ミセス・ニール」の名で宿泊しているところを保護される。事件の後、数人の医者により「記憶喪失」と診断されたアガサは、このスキャンダルの詳細を語ることはなかった。自身の著書さながらの謎に包まれた失踪劇は「解離性記憶障害説」「夫をこらしめるための計画説」など多くの憶測を呼び、皮肉にも彼女の名をより世間に轟かせる結果となった。

この事件以降、彼女はマスコミを敬遠するようになり、往年の名女優グレタ・ガルボのマスコミ嫌いを文字って「ミステリー界のガルボ」と呼ばれるようになる。家族や親しい友人に囲まれた、穏やかで静かな生活に強く固執するようになった。

遺跡発掘現場での出会い

1928年、アガサとアーチーの調停離婚が成立。その1週間後、アーチーは不倫相手のナンシーと再婚している。しかし、アガサは離婚した後も前夫の名字「クリスティー」を使用し、執筆活動を続けた。そんなアガサの人生が新たな局面を迎えるのは、それほど先のことではなかった。

アガサは英国をしばらく離れようと、長距離夜行列車「オリエント急行」に乗って、トルコとイラクへ旅行に出かけた。そしてイラクでは遺跡発掘作業に参加し、知り合った英国人考古学者夫妻と意気投合。1930年に再びイラクを訪れて、発掘現場へ向かった。そこで運命の出会いを果たしたのが、14歳下の英国人考古学者マックス・マローワン。年齢も育った環境も異なる2人だったが、あっという間に惹かれあい、7ヵ月後に結婚した。アガサは40歳、マックスは26歳だった。以後、アガサは夫の中東での発掘作業にはタイプライター持参で同行し、「メソポタミヤの殺人 (Murder in Mesopotamia)」や「ナイルに死す」など、異国情緒あふれる作品を次々と生み出している。

やがて第二次世界大戦が勃発。アガサは再びロンドンの病院で薬剤師として働きはじめるが、先行きの見えない混沌とした情勢の中で、彼女は自分に万が一のことがあった場合を考えて、名探偵ポアロの最終作となる「カーテン(Curtain)」、同じく名探偵ミス・マープルの完結編「スリーピング・マーダー (Sleeping Murder)」を書き上げる。そして、2作とも「彼女の死後に出版する」という契約を出版社と交わし、著作権をそれぞれ夫と娘に遺した。この原稿は、爆撃で失われるのを避けるためにニューヨークで保管されたが、結局、出版社に急かされて「カーテン」はアガサが亡くなる前の1975年に刊行されている。

ポアロ誕生から 100年 映画「ナイル殺人事件」、12月に公開!

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英俳優・監督のケネス・ブラナーが、映画「オリエント急行殺人事件」(2017年)に続きメガホンをとった、名探偵ポアロ・シリーズの第2弾。新型コロナウイルス蔓延の影響で上映が延期され続けていたが、ついに12月18日に公開が決定した(10月6日現在、公開延期の可能性あり)。

容疑者は乗客全員――愛の数だけ秘密がある。

アガサ自身が「旅行物のミステリーで史上最高傑作」と称した「ナイルに死す(映画の邦題はナイル殺人事件)」の舞台は、エジプトのナイル河を行く豪華客船。ギザの3大ピラミッドやアブシンベル大神殿など、エジプトの名所をバックにした映像美とともに、密室殺人、予想もつかないトリック、複雑な人間ドラマが繰り広げられる。

ポアロ役は前回に続きケネス・ブラナーが務めるほか、ガル・ギャドット、アーミー・ハマー、アネット・ベニングら豪華キャストが出演。
映画予告編は こちらから

色褪せないミステリー

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1964年、74歳のアガサ。© Joop van Bilsen / Anefo

1971年にその功績を称えられ、大英帝国勲章(デイムの称号)を授かったアガサ。翌年に心臓病を患い、ベッドでの安静を言い渡されたが、オックスフォードシャーにあるテムズ河沿いの町、ウォリングフォードで執筆を続行。滅多に公に姿を見せることはなく、彼女の晩年の作品は、クリスマス・シーズンに合わせて出版されるようになっていたため、アガサ・ファンにとってクリスマスはかけがえのないものとなっていた。だが、それも1976年に終止符が打たれる。

同年1月12日、ウォリングフォードにて永眠。近郊の教会に埋葬された。

85歳で亡くなるまで精力的に活動し、ミステリー界に革新の波を次々と起こしたアガサ。1952年の初演の後、ロンドンでの最長公演記録を持つ舞台「マウストラップ」(短編小説「Three Blind Mice」を戯曲化したもの)や、過去幾度も映像化されている「そして誰もいなくなった」など、アガサの小説は様々な役者や監督により、舞台、映画、ドラマ化され、死後40年以上経った今でも輝きを失うことなく愛されている。遺産や痴情のもつれなど、小説の背景はドロドロしたものであることが多いが、そこには彼女が愛したものがたくさん詰まっている。生まれ故郷のトーキーを中心としたデボンの風情、パリの学校で学んだ音楽、世界各地を旅して目にしたもの、夫の仕事を支え育んだ考古学への興味など、一見、まったく関連性のないものばかりだが、彼女の著した小説のごとく巧に繋がり、物語を彩るエッセンスとなっている。

新型コロナウイルスの蔓延により、毎年恒例の様々なイベントが中止となっている2020年。今年の秋は、自宅でゆっくりとアガサ・クリスティーを読破してみてはいかがだろうか。

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アガサが1934~41年までの7年間、再婚した夫と暮らした家。引越し好きだった彼女は数多くの転居先の中でも、とくにこの家を気に入り、「オリエント急行殺人事件」「ナイルに死す」はここで生まれた。同所にはブループラークが飾られている。
58 Sheffield Terrace, London W8 7NA

週刊ジャーニー No.1158(2020年10月8日)掲載

東日本大震災発生から10年日本地震学の父 ジョン・ミルン 後編

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東日本大震災発生から10年日本地震学の父 ジョン・ミルン 後編
シャイド・ヒル・ハウスの庭で、日本人訪問客らと撮影した1枚。最後列右端がミルン、中央の椅子に座る女性が妻のトネ、その隣が助手の広田忍。 © Carisbrooke Castle Museum

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/北川 香・本誌編集部

■〈 前回のあらすじ〉地質学・鉱山学者としての経歴により、 「お雇い外国人」のひとりとして、英国から来日したジョン・ミルン。 初めて体験した「地震」に興味を持ち、研究の末に「地震計」を開発。 地震大国の日本で、外国人ながら「地震学」を確立するが…。 今号では、ミルンの多大な功績・後編をご紹介する。

ワイト島から世界へ

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1895年2月、不運な出来事がミルンを襲った。東京の自宅と地震観測所が原因不明の火事で焼け落ち、開発した地震計や収集した文献を含む、それまでの研究成果のすべてを失ってしまったのだ。これはミルンに大きな打撃を与え、「潮時だ」と感じた彼は、大学を辞めて故郷の英国へ戻ることを決意。大学側も9年にわたるミルンの勤務に謝辞を示し、快く辞表願を受け入れた。同年6月の帰国直前には、地震学の礎を築いたミルンの功績を讃え、明治天皇からの招待を受けて謁見も果たしている。

7月、ミルンは妻のトネと共に渡英。トネにとっては、初めての外国生活のスタートであった。ミルンは気候が比較的穏やかで暮らしやすいワイト島に住むことを選び、「英国高等科学研究所(British Association of Advanced Science)」の認可を得て、島の中心部にある町シャイド(Shide)の「シャイド・ヒル・ハウス」を地震観測所として研究を続けることになった。

ミルンは、日本で開発した水平振子地震計をシャイド・ヒル・ハウスと3キロ程離れたカリスブルック城の2ヵ所に設置し、連日記録をとった。とはいうものの、ワイト島だけでは世界中の地震を観測することは当然ながら不可能だ。ミルンは以前から地球規模の地震観測網の必要性を痛感しており、少なくとも20の観測所を世界各地に設置し、相互に協力体制を敷き、共同で研究活動を行いたいと考えていたのである。この大掛かりな構想は、ミルン個人の力だけでは到底実現不可能であった。そのため、ミルンは英王立協会を説得して、まず英国に7つの観測所を設けることに成功。その後、ロシアに3つ、カナダに2つ、米国の東海岸に3つと徐々に建設先を増やしていった。ミルンが地震学の第一人者として、世界的に認められ高く評価されていたことがうかがえる。

1900年には莫大な資金援助が得られたお陰でシャイド地震観測所の設備も整い、本格的な観測を始めることができた。

心強い日本人助手

ワイト島でのミルンは、人がほとんど感じることのない地殻変動の研究、つまり微小地震(地震とは無関係の小さな地動)と遠地地震(遠くで起こった地震が原因で起こる地動)の研究に没頭した。英国内と世界各地における地震観測所の新設計画も順調に進み、日本では東京帝国大学構内に拠点が設けられた。また、南極点到達を目指していたスコット探検隊(1910~12)にも働きかけて、地震計を南極に置いて来てくれるように依頼したりもしている。

このように世界中で測定されたデータは、すべてシャイドに送られて分析された。データは膨大な量にのぼり、とてもミルンひとりではさばき切れない。そんな彼を支えたのが、日本から遥々同行してきてくれた助手の広田忍だ。英国高等科学研究所内に新しく設けられた「地震学調査委員会」の主事の役目までもミルンが果たすことができたのは、広田助手のサポートあってのこと。妻のトネも身近に日本語を心置きなく話せる人物がいることは心強く、ミルン夫妻は心から彼に感謝していた。研究以外のわずかな余暇の時間もミルンと広田助手は一緒に過ごし、ゴルフやクローケーのほか、共通の趣味であった写真を撮影するため、カメラ片手にしばしば出掛けたという。

ミルンは地震学調査委員会や「シャイド地震機関誌」の紙面上で、地震学の分野に国際的な学術交流が必要であることを強く訴え続け、この後20年間、シャイド地震観測所は世界の地震学の中枢となる(1919年にオックスフォードに移転)。

また、ミルンは数々の論文をまとめて本として出版している。「地震とその他の地球の運動」を1886年に、「地震学」を1898年に刊行。これらの著書は、地震学の貴重な教科書として長い間活用された。

謙虚な愛妻家、逝く

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ミルンとトネ

シャイドでの地震観測に二人三脚で取り組んできた広田助手が、体調不全から1912年12月に日本へ帰国。その後、間もなく亡くなった。すると、ミルンも後を追うかのように体調を崩し始める。タンパク尿、むくみ、高血圧を伴う腎臓の病気として知られる「ブライト病」を患い、絶えず頭痛に苦しめられた。

翌1913年7月半ばにはベッドから起き上がれなくなり、同月末に昏睡状態に陥った末、トネに見守られながら62歳で息を引き取った。葬儀はワイト島最大の町ニューポートのセント・ポール教会で執り行われ、地震学の研究者のほか、世界中から多くの人々が弔意を表すために足を運んだ。日本からは、九条男爵が大正天皇の代役として参列。井上大使は弔意で「英国と世界の科学界にとって、そしてその名前が決して忘れられることのない日本にとって大きな喪失です」と深く追悼している。ミルンは葬儀後、そのまま同教会に埋葬された。

ミルンの死は、学術界に「ショック・ウェーブ」を巻き起こした。英国高等科学研究所や国際地震学協会がミルンの功績を振り返って敬意を表し、偉大な科学者の他界を惜しんだ。そして研究者としてだけではなく、人間的にも多くの人々から慕われていたことが、日本滞在時代からの同僚かつ友人であった学者、ジョン・ペリーの言葉からもわかる。

「ミルンの才能は、自分の研究にあらゆる人を惹きつけることができたことだ。一方で、ミルンは謙虚だった。地震学以外の分野にも興味を示し、他の研究から学ぼうとした。そしてミルンは最高の友人だった。日本でもシャイドでもいつも時間を作ってくれ、大切にもてなしてくれた」

ミルンはまた、妻思いの良き夫でもあった。夫妻は子供に恵まれなかったため、トネをひとり異国の地に残して逝くことを強く懸念し、彼女が経済的にも社会的にも困らないようにと、生前にあらゆる配慮を行っていた。夫亡き後もトネはシャイドでの生活をしばらく続けたが、やがて体調を崩してしまう。言葉の壁もあり、故郷・函館への恋しさも募っていったトネは、日本の親族からの説得もあって、ついに帰国を決意。第一次世界大戦が終わり、情勢が落ち着いた1920年、25年ぶりに二度と踏むことがないと思っていた日本の地に再び降り立ち、愛する函館へ戻った。

5年後の1925年1月、トネは函館の自宅で死去。64歳だった。ミルンと出会った「思い出の場所」である函館墓地の父が眠る墓の隣に、英国から大切に持ち帰った夫の遺髪とともにトネは埋葬された。

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ミルンが眠るニューポートのセント・ポール教会(右)/函館山のふもとにある外国人墓地に立つ、トネの父、ミルンとトネの墓碑=青井元子氏提供 © Carisbrooke Castle Museum(左)。

今も燃えるミルンの情熱

「地震学の父」ミルンの業績は、日英の各団体から称賛された。火災が原因で英国に戻った直後の1895年、ミルンは明治天皇から異例の勲三等旭日章と年千円の恩給が授与されている。さらに、英国王立協会からは誰もが望むロイヤル・メダルを、オックスフォード大学からは名誉学位を、そして東京帝国大学からも名誉教授の称号が与えられている。これらは数々の受章のうちのごく一部だ。

工部大学校での教え子や日本地震学会の同僚の中には、ミルンに強く影響を受け、その後の日本の地震研究に大きく寄与した者の枚挙にいとまがない。たとえば、初の日本人地震学教授となった関谷清景は、開成学校(現・東京大学)の地震研究所でミルンの指導を受け、地震計の完成にも協力している。関谷の後継者の大森房吉は、ミルンと共に、1891年に発生した濃尾地震の余震についての研究を行った。この濃尾地震が人々に与えたショックは大きく、大森らが中心になり、帝国議会に地震の専門研究機関の設置を申請。18年間にわたる地道な活動を経て、1929年に現在の形の「日本地震学会」が創立されている。大森はミルンの地震計の改良も行い、1898年に世界初の連続記録が可能な、より精密に振動を探知する「大森式地震計」を開発し、その後に続く国内での地震計開発の基盤を築いた。

ミルンが日本で地震学を確立してから130年近くが経ったが、彼が後世に残したものは、ひと口にまとめることができないほど大きい。科学と地震学における実質的な研究成果は言うまでもないが、さらに広い視野で将来を見据えた共同研究、日英連携、国際協力の基盤を築くために彼が注いだ情熱は世界中に広がり、火山の大噴火を招くマグマのように今も強いエネルギーを発し続けている。

週刊ジャーニー No.1179(2021年3月11日)掲載


神に挑んだ男 チャールズ・ダーウィン 前編

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神に挑んだ男 チャールズ・ダーウィン 前編

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/根岸玲子・本誌編集部

万物は神の手によって創られた――。

聖書が語るアダムとイブの誕生の伝承が当然のように信じられていた19世紀に、「人間はかつて猿であった」と常識を根底からくつがえす「進化論」を提唱したダーウィン。彼が世界へ与えた衝撃は計り知れないものだった…。今回は、この勇気ある偉大な自然科学者について、前・後編に分けてお届けする。

動物や自然にしか 興味を持てない劣等生

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少年時代のダーウィン。

チャールズ・ダーウィンは1809年、イングランド西部シュロップシャーの街シュルーズベリーで、6人兄弟の5番目として誕生した。父は裕福な医師で事業家、母はイングランド最大の陶芸メーカー「ウェッジウッド社」の創始者ジョサイア・ウェッジウッドの孫娘、そして父方の祖父は高名な博物学者という非常に恵まれた一家の御曹司であった。

ところが、エリートの家系に生まれたにもかかわらず、ダーウィンは決して出来のよい優等生タイプではなかった。学校での勉強にはまったく興味を持てず、暇を見つけては寄宿学校を抜け出し、実家に戻って飼い犬と戯れたり、野山を駆けまわって昆虫採集や珍しい植物を探したり、そうして手に入れた「獲物」の標本作りに没頭したりした。

息子に医業を継がせたかった父親は業を煮やして、エディンバラ大学の医学部へダーウィンを無理やり放り込むが、なんと当時行われていた麻酔なしの手術や血を見ることに耐えられず、勝手に大学を中退。フラフラと実家に戻ってきた息子に怒り心頭の父が放った言葉は「医学がだめなら神学を修めて聖職者になれ」であった。

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ダーウィンの恩師、植物学者のジョン・ヘンズロー教授。

そこでダーウィンは、ふと考えた。

「田舎で聖職者として生活しながら、余暇を動植物や昆虫など博物学の研究にあてればいいのでは?」

ものすごくよいアイディアに感じた彼は、「快く」ケンブリッジ大学神学部へ入学。そして、ここで彼の人生を大きく変えることになる植物学者、ジョン・ヘンズロー教授と出会うことになる。自然科学のあらゆる知識に通じていたヘンズロー教授に心酔したダーウィンは、標本集めの助手を自ら買って出るなど彼のそばに常にはりつき、大学内では「ヘンズローと歩く男」と呼ばれる程だった。

艦長とのおしゃべり要員?

大学を卒業した1831年の夏のこと。ダーウィンのもとに、ヘンズロー教授から一通の手紙が届く。そこには、英海軍の測量船ビーグル号の艦長が博物学者を探しており、ダーウィンを助手として推薦したいと記されていた。未知の世界への切符を手にしたダーウィンは自身の幸運に感謝したが、実はこの話には「裏」があった。

ビーグル号の艦長、ロバート・フィッツロイは公爵家の血筋を引く名家の出身だった。当時の海軍における規則のひとつに、「艦長は航海中に指揮下にある船員と個人的な接触をしてはならない」という禁止事項があった。業務以外の話を船員と一切してはならず、食事ももちろん一人でとらねばならない。場合によっては数年間にも及ぶ長期航海において、精神的苦痛がどれほどのものになるのか想像がつかなかった。実際にビーグル号の先代艦長は航海中に精神に異常をきたし、ピストル自殺を図っている。その後任となったフィッツロイは、正規の船員ではない人物で、かつ「自分の階級にふさわしい」話し相手を必要としていたのだ。

ビーグル号に与えられた任務は、南米大陸沿岸の測量調査。しかしながら、フィッツロイは博物学の専門家に現地で調査を行わせ、その分野でも功績をあげようと野心を燃やしていた。医者が博物学者を兼ねることが多かったため、船医のロバート・マコーミックに標本採集などの作業を指示。その助手という名目で自身の話し相手を探していたところ、ヘンズロー教授がダーウィンを推薦してきた――というのが、実際の採用理由であった。

脱落する者、昇格する者

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ビーグル号の艦長ロバート・フィッツロイ(左)と、航海を終えて博物学者の道を進み始めたダーウィン(右)。

暮れも押し迫った1831年12月、ビーグル号はプリマスを出航。途中、伝染病の危険を避けるため、ダーウィンが憧れていた夢の地、カナリア諸島テネリフェ島への上陸は断念しなければならなかったものの、約2ヵ月後、一行は無事に南米大陸の東沿岸部、ブラジルのバイアに到着した。ここをスタート地点にして、ビーグル号は本格的な海岸線の測量を開始する。

ダーウィンは私費を投じて船員から希望者を募り、独自の探検隊を結成。彼らとともに内陸調査へと向かい、新種の鳥類や昆虫、化石を次々に採集して成果をあげた。裕福な御曹司だからこそできる「技」である。

一方、ビーグル号の公式の博物学者であったマコーミックはというと、船での医療職務が多忙を極めたというのも理由のひとつだったが、経済的に恵まれていたダーウィンとは異なり、フィッツロイの期待する博物学者としての働きの面ではかなり分が悪かった。しかも、代々船医の家系ではあるものの市民階級出身の彼は、フィッツロイやダーウィンとまったく馬が合わない。結局、一行がリオデジャネイロに到着した際、マコーミックは下船してしまう。こうして助手という名の「客人」として航海に参加したダーウィンは、非公式ながらマコーミックのポジションを任されることになり、さらに精力的に調査に乗り出していった。

当時の西欧人にとって「野蛮な未開地」であった南米も、ダーウィンにとってはまさに宝の山。寄港する先々でその記録を詳細につづり、山のように集めた標本を英国のヘンズロー教授へせっせと送った。なかでもアルゼンチンで発掘した「メガテリウム」と名付けられた古代の巨大なナマケモノの化石は、ロンドンの知識人らを大いに驚嘆させている。

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南米フエゴ諸島に到着したビーグル号。

ガラパゴスで感じた違和感

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南米での調査は4年近くにも及んだ。そしていよいよ、後に英国の自然科学界を激震させることになる新説のヒントをダーウィンに与えた、ガラパゴス諸島へとビーグル号は向かう。

同諸島に到着したのは、1835年9月のこと。ここには珍しいイグアナやゾウガメ、様々な鳥類が数多く生息しており、ダーウィンは島を転々としながら夢中で標本採集に取り組んだ。そうする中で、彼はガラパゴスの生物がこれまで滞在していた南米のものに酷似している点に気がつく。

ここまでの航海でも、実は不思議に思っていたことがあった。訪れる土地ごとに目にする生物は異なっていたが、その差異は微妙といえるものも少なくなかった。「もしかして、ひとつの動植物が生きる環境にあわせて、それぞれ少しずつ形状を変えているのでは…?」。南米大陸から離れているにもかかわらず、ガラパゴス諸島の生物の多くがまるで南米起源としか思えないほどによく似ている。また、イグアナやゾウガメなどは、各島に変種がいることもわかった。

聖書で語られる創世記(天地創造)によると、神の手により天と地が誕生し、海が生まれ、太陽と月が輝き、様々な生命が創り出された。それ以来、大地も生物もすべて「不変のもの」であるはず――。でも何かがおかしい…。そのときはそれ以上深く考えることなく終わってしまったが、数年後にこの「疑問」が再び湧き上がってきたとき、ダーウィンはついに神に挑むことになる。

若き博物学者の誕生

ビーグル号の測量任務は、ほぼ当初の予定通りに終了し、一行はタヒチ、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカのケープタウンなどに寄港したのち、1836年10月、英国のファルマス港に帰着。出発から早5年、ダーウィンにとって出会うものすべてが新鮮で、新たな発見の日々だった。

長旅を終えたダーウィンは古巣のケンブリッジ大学を訪れ、調査活動をサポートしてくれたヘンズロー教授と喜びの再会を果たした。また、ここで自然科学の第一線で活躍する学者たちを紹介されている。彼が旅先から送り続けた膨大な標本群は、研究者たちの注目の的となっており、ダーウィンは博物学界のちょっとした有名人になっていたのだ。

その後、ロンドンでしばらく過ごすことにし、ビーグル号航海での活動をつづった本を出版。さらに、動物学および地質学の分野で様々な講演も行った。5年前、田舎でのんびりと博物学を研究したいという「打算」で聖職者になろうとしていたダーウィンは、旅を経て才気あふれる若き博物学者へと成長していた。           (後編へ続く)

週刊ジャーニー No.1228(2021年2月24日)掲載

神に挑んだ男 チャールズ・ダーウィン 後編

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神に挑んだ男 チャールズ・ダーウィン 後編

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/根本玲子・本誌編集部

前回のあらすじ〉万物は神の手によって創られた――。

聖書にあるアダムとイブの誕生の伝承が当然のように信じられていた19世紀に、「人間はかつて猿であった」と常識を根底からくつがえす「進化論」を提唱したダーウィン。彼が世界へ与えた衝撃は計り知れないものだった…。勇気ある偉大な自然科学者の生涯、後編をお届けする。

結婚のメリットとデメリット徹底研究

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左から、ダーウィンの妻エマ、ダーウィン、夭逝した愛娘アン。

約5年におよぶ南米大陸沿岸の測量調査を終え、将来を期待される若き博物学者へと成長したダーウィンだったが、当然ながら慣れない長旅にはトラブルがつきもの。実は英国を発って3年が過ぎた頃、南米で熱病に冒されている。一時は生死が危ぶまれるほどの状態にまで陥ったものの、1ヵ月間の療養の末、どうにか旅に復帰。しかしながら、おそらくこの時に何らかの慢性疾患にかかったのか、ダーウィンは亡くなるまで常に体調不良に悩まされ続けることになる。このほかにも、標本として採集したオオサシガメを媒介にシャーガス病と呼ばれる感染症にかかったという説、あるいは長期航海によるストレスなどの神経性疾患とする説もあるが、存命中に病名が判明することはなかった。

もともと動植物や昆虫を愛し、田舎での長閑な生活を好んでいた彼にとって、人口増加と貧困化の進む当時のロンドンは心休まる場所ではなかった。公演活動がひと段落すると、療養のために故郷のシュルーズベリーへ戻った。だが天才も、寂しさと孤独には弱かったのだろう。病に悩まされながらの静かな独身生活はつらく、温かい家庭に焦がれるようになったダーウィンは、再会した幼なじみの従姉弟、エマ・ウェッジウッドとの結婚を意識しはじめる。

しかし、根っからの几帳面な研究者気質が災いし、家庭生活に時間をとられ、研究に支障が出ることが心配で、なかなか一歩を踏み出せない。結局、結婚がもたらすメリットとデメリットをこっそりリストにしてじっくり検討することにした。一方、1歳上のエマは「明らかに彼は私に好意を持っている」はずなのに、ちっとも求婚してこないことにヤキモキ。ダーウィン家もウェッジウッド家も彼の決断をハラハラしながら見守っていたが、最終的に彼女にプロポーズ。後にエマへ宛てた手紙に「あなたは私を人間らしくしてくれる。沈黙と孤独の中で様々な事実を積み重ね、理論を構築するのよりも大きな幸せがあることをいつも教えてくれる」としたためている。

2人は1839年に結婚、ロンドンに新居を構えた。

オラウータンを観察

さて、ダーウィンは航海中に、各地の環境にあわせるように動植物が少しずつその形を変えている点、ガラパゴス諸島の生物の多くが南米起源としか思えないほど互いによく似ている点に着目していた。また、ガラパゴス諸島にいるゾウガメやイグアナは、島それぞれに変種が存在していることを知り、環境と生物の形態の関係に強い関心を寄せた。

加えて、地質学者チャールズ・ライエルの「地質学原理」を読み、アンデス山脈で地質調査にもあたったことで、これまで「不変のもの」と思われていた大地が、聖書の「創世記」以上の長い時間をかけて形成されてきたという現実を実感。「生物にもこれが当てはまるのでは?」との疑念を抱いた。

他の研究者たちと協力しながら航海で採取した標本の整理・分類を行う中で、神が生み出したときから人間は人間であったという「種の不変性」に対する疑問はどんどん膨らんでいく。そしてロンドン動物園にやってきたオランウータンを観察した際に、人間との多くの類似点に注目し、ついに思い至ってしまう――もしかしたら我々は共通の祖先を持つのではないか? と。

彼の考察ノートに、共通の祖先が変異によって枝分かれし、別の種へと発展していく様子を図で示した「生命の樹(Tree of Life)」が描かれる。現在我々の知る「進化(evolution)」論の根本原理が具現化された瞬間だった。1837年、ダーウィンが28歳のときのことである。

「犯罪の自白」と愛娘の死

体調不良がさらに悪化したため、1842年にロンドンの喧噪から離れてケントのダウン村にある「ダウンハウス」へ移り住む。腹痛や心臓の痛みなどにより一日数時間しか仕事ができない状態に陥っていたが、研究の合間に庭を歩いては思索に耽った。多くの手紙を介して学者たちと意見を交わしつつ、自説を裏付けるための膨大なデータを揃えていった。

しかし、自説が具体的になればなるほど、ダーウィンの苦悩も深まっていった。この理論はキリスト教を基盤にした当時の社会秩序を根本から揺るがすものになる。妻のエマは敬虔なキリスト教徒であり、自分の説を一般に公表することで夫婦間に大きな溝を生むこと、そして安定した生活を望む親族や友人たちをとんでもない騒動に巻き込む可能性があった。

初めてこの進歩的な構想を思い切って告白した相手は、親しくしていた植物学者のジョセフ・フッカーだったが、ダーウィンはこのときの心境を「殺人を告白するようなものだった」と記している。だが、彼が献身的な看護と神に深く祈りを捧げたにもかかわらず、最愛の娘アンがわずか10歳で世を去ると、「死は自然現象だ。どれほど祈っても結果はかわらない」と強く確信。自説をこのまま埋もれさせてしまう訳にはいかないと感じるようになった。

ダーウィンが愛した家 ダウンハウス

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体調を崩し研究に没頭できる場所を求めたダーウィンが、33歳のときに妻と移り住み、約40年暮らしたケントのダウン村にある自邸。「種の起源」はこの家で執筆された。ダーウィンは1882年4月、敷地内にある小道「Sandwalk」を散歩中に狭心症で倒れ、妻と子どもたちに看取られながら、73歳で息を引き取った。現在、同所は記念館として一般公開されており、ダーウィンが自ら設計した温室も見学できる。

Down House
Luxted Road, Downe, Kent BR6 7JT
月・火曜休館 £16
https://www.english-heritage.org.uk/visit/places/home-of-charles-darwin-down-house/

「ヒトはサルだった」への猛反発

ダーウィンが自説の発表を決意したのは、若き博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレスから届いた一通の手紙がきっかけだった。それは「自分の新説を発表したい」と相談する内容であったが、同封されていた未発表の論文には、ウォレスがアマゾンやマレー諸島で調査活動を続けるうちに到達した「進化」に関する理論が記されていたのだ。

ダーウィンは心底驚いた。それは彼が温めてきた学説とほぼ同様であり、自分の理論が別の学者によって先に発表される可能性を今更ながら気付いたのである。大いに焦り動揺したものの、自分を信じて学説を公表してくれたウォレスのためにも、彼の論文は発表されるべきと考え、植物学者のフッカーと地質学者のライエルに協力を持ちかけた。

しかしながら、ダーウィンが同様の説を長年持ち続けてきたことを知っていた2人は、「ウォレスとの共同作業」を提案し、ダーウィンを説得。こうして1858年、共著という形で三部構成による論文が学会で発表される。これを機に翌年「種の起源(On the Origin of Species)」をダーウィンは上梓したが、懸念通りに大きな物議を醸すことになる。

とくに問題視されたのは、彼の学説の要である「自然淘汰説」だ。これは厳しい生存競争の中で生物の種の中に突然変異を持つものが生まれ、環境に有利な特徴を持ったものが生き残り、弱いものは淘汰されていく際に「種の分化(=進化)」が発生するというもの。さらに、種の分化は長い時間の中で偶然生まれ、生息環境によって枝分かれしていくため、生物はより優れたものへと変化しているのではない、とする考え方であった。この世に存在する生物はすべて神によって創り出されたとする聖書の記述を否定するだけでなく、人間は他の生物とは異なる優れた存在という考えを根底から覆すものだったのだ。

なかでも、「人類は猿から進化した」(正確には猿と共通の祖先から進化した)については、多くの人々が拒絶反応を起こした。新聞各紙はダーウィンを猿に見立てた風刺画を掲載し、進化論擁護派も「これだけは倫理的に受け入れ難い」と反対する学者が多く、自宅には批判文書が山のように届けられた。

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「人類は猿から進化した」とする説は受け入れがたく、ダーウィンを風刺したイラストの数々が欧州全土の新聞や雑誌の紙面をにぎわせた。

今なお続く、教会との戦い

大論争を巻き起こしながらも、「種の起源」は数日で完売のベストセラーとなる。初版発行の翌年には、オックスフォード大学においてダーウィン支持派とオックスフォード司教ほかの反対派による大討論会が行われ、科学と宗教の対立を大きく浮き彫りにした。この後もダーウィンは10年以上かけて、「種の起原」の改訂を加えながら自説を掘り下げていった。

地動説を唱えたがゆえに二度の有罪判決を受けたガリレオは、350年以上を経た1992年、「裁判は誤りだった」としてローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が正式に謝罪している。これに対し、ダーウィンの進化論がカトリック教会、あるいは英国国教会から「認められる」日がくるかどうかは不明であり、神との戦いは結末をみていない。進化論をめぐる壮大なドラマは、今なお続いている。

週刊ジャーニー No.1229(2021年3月3日)掲載

心優しい才人? それともロリコン?不思議の国の住人 ルイス・キャロル 後編

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●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/田中晴子・本誌編集部

■ 『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』といった児童文学の名作を生み出し、英国が誇る作家として現在も世界中の子どもたちを魅了するルイス・キャロル。写真家や数学者としての顔も持つなど、彼の生涯はいまだに謎に包まれている部分が多く、各時代や伝記作家によって描かれるイメージは大きく異なる。心優しい宗教家、頭の切れる無口な才人、またはポルノまがいの写真を撮る小児偏愛者…。
前編>に続き、数々のレッテルを貼られたルイスの素顔に迫る。

こだわり抜いた自費出版

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ジョージ・マクドナルドの肖像写真

テムズ河でのボート下りを楽しんでいた夏の日に、ルイスが即興で語った、懐中時計を手に大急ぎで走り去っていく白ウサギの物語。自分と同じ名前の主人公が登場する冒険譚をとりわけ気に入った10歳のアリスが、物語の続きを知りたいと「お願い」したのがきっかけとなって執筆された『地下の国のアリス』は、ルイス自身が丁寧にイラストを描き加え、アリスに手渡されたことで完成を見た。それですべては終わるはずであった。ところが、ルイスの知人で彼が「師匠」とあおぐ詩人で聖職者のジョージ・マクドナルド(日本でも『リリス』などの妖精文学で知られる)から絶賛され、書籍化を強く勧められたことにより、事態は別の展開を迎える。ルイスはマクドナルドのアドバイスを受けて、この手書きの物語を一冊の正式な本として出版することを決断した。

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ルイス・キャロル(中央)とジョージ・マクドナルドの一家

ルイスは文章に手を入れ、さらにプロのイラストレーター探しに乗り出す。児童書において挿絵がどれほど重要かを理解していた彼は、イラストレーターの採用に妥協するつもりはなかった。やがてその熱意に打たれた人気風刺雑誌『パンチ』の編集者を介して、売れっ子イラストレーターとして活躍するジョン・テニエルを紹介される。テニエルは観察眼が鋭く、また動物の生態に関する知識も豊富に持ち合わせていたため、ウサギをはじめ、芋虫やヤマネ、ウミガメやドードー鳥などの動物がぞろぞろ出て来るキャロルの物語には適任であった。

ただ残念ながら、2人の仲はあまり良好なものにはならなかった。自分のイメージにこだわるルイスは、しばしばテニエルのイラストに文句をつけ、出版にこぎ着ける頃にはかなり険悪なものになっていた。実は、本の出版費用は、イラスト代も含め全てルイス自身が負担することになっていたので、何に対しても彼は妥協することがなく、2人は終始ぶつかり合うはめに陥ったのである。

そうした困難を乗り越えた1865年11月、書名を『不思議の国のアリス』と改めて無事刊行された。人気イラストレーターが挿絵を描いていることもあって評判となり、好評を持って迎えられた。

蜜月の終わりと深まる謎

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7歳の頃のアリス。リデル家の子どもたちは整った容貌をしていたが、なかでもアリスは「目力」が強かった。

さて、ケンブリッジ大学内のルイスの自室を頻繁に訪れるほど仲が良かったルイスとリデル家の子どもたちだが、手書きの「地下の国のアリス」が完成する時期を境に亀裂が入り、その深く大きなひび割れは二度と埋まることはなかった。

1863年6月頃まで彼らの関係は良好で、6月にはいつものようにピクニックへ一緒に出かけているし、ルイスの日記にもそのときの楽しげな様子が書き残されている。しかし、その次のページはどうしたことかカミソリで乱雑に切り取られ、次にリデル姉妹に関する記述が出てくるのは半年後。しかも、街で姉妹とその母親に偶然出会ったルイスが「私は彼らに対し超然としていた」と書き記しているだけである。半年前のピクニックで、一体何が起きたのか…? 肝心の日記が切り取られているため、詳細はわからない。これはルイスの死後に日記を整理した親族(彼の義妹)が、「一家のために公にしたくない事実があったため、切り取って削除した」と言われているが、真相は闇の中だ。

だが、この失われたページはドラマティックな憶測を人々に促し、ルイスが「幼いアリスに交際を申し込んで断られた」説や「長女のロリーナに結婚を申し込んで断られた」説などがささやかれた。この頃の次女アリスは11歳、長女ロリーナは14歳、一方ルイスは31歳である。現在の常識にしてみれば少々考えづらい話だが、ヴィクトリア朝時代の英国の法律では、なんと14歳からの結婚が認められていた。そのことから、もっとも可能性が高いと考えられる理由は、婚期の近づいた娘たちが独身のルイスと親密に会い続けることで「あらぬ噂」を立てられ、結婚のチャンスを逃すことを恐れた母親が、「これ以上、子どもたちと会わないでくれ」とルイスに告げた結果、ひと悶着あった――という説である。

でもそれにしては、果たしてページを切り取る必要があったのか…と、疑問が残るところだ。いずれにせよ、こうしてルイスとアリスの友情は突如終わりを迎えたのだった。

長男としての重責

そんな中、1868年にルイスの父親が急死。晩年はリポン大聖堂大執事という「高教会派」の重鎮となっていた父親の死は、ルイスにひどいショックをもたらした。父を尊敬し、彼の足跡を辿っていたルイスは後に、父親の死は「生涯最大の損失」であったと書いている。

長男のルイスはドジソン家の跡取りであるため、父の亡き後、家族を養う義務があった。当時36歳のルイスを筆頭に、11人きょうだいの誰も結婚しておらず、また自活しているのはルイスのみ。彼の銀行口座は、家族や親戚関係への送金のために、たびたび赤字を記録した。しかしながら一方で、多くのチャリティ団体への定期的な寄付や送金も絶対に欠かさなかった。

やがて1872年、アリスの冒険を描いた続編『鏡の国のアリス』を刊行。ガイ・フォークス・デーの前日、暖炉の上に掛けられた鏡を通り抜けて、またもや不思議な世界へ迷い込んだアリスの冒険を描き、ハンプティ・ダンプティなどの新たなキャラクターが登場する本作は、前作『不思議の国のアリス』に続く大ヒットとなった。

「ロリコン」伝説の誕生

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晩年のルイスとアリス。ルイスは風邪をこじらせ、独身のまま65歳にて死去した。右の写真は、亡くなる2年前に撮影された80歳のアリス。クライスト・チャーチに入学したヴィクトリア女王の息子レオポルト王子と親しくするなど浮名を流し、28歳で裕福な地主の息子と結婚した。

40代に入ると、ルイスは自ら「老人」と名乗り、人付き合いを控えるようになった。180センチの細身の姿に白髪のまじったダーク・ヘアのルイスは、実年齢より若く見えるくらいだったが、精神的に老成してしまった彼は、一人で歩く長い散歩を好んだ。その距離にして、毎日30キロ以上。冬でも決してコートを着ずに、やがてそれが原因で命を落とすことになる。あれほど好きだった写真も、ある時期からパタリと撮影をやめてしまい、もともと細かい性格がさらに気難しくなる。大学構内の彼の部屋に供される「3時のお茶」の湯加減や、昼食のタイミングに対するクレームの手紙が現存し、そこには子どもたち相手に自作の奇怪なストーリーを語る、チャーミングな青年の面影はなかった。

著作に没頭するほか、オカルトやホメオパシー(身体の自然治癒力を引き出す自然療法)の研究にも熱心に取り組み、50歳を前に数学教授の座からも退任。そして「教授社交室主任」という一種の世話係へ転じ、残りの人生を執筆活動一本にしぼっている。

一方、数学者としての彼は、当時起きていた論理学に関する変化にも深い興味を抱いていた。それは、言葉の代わりに数学の演算規則をあてはめ、概念や観念を記号変換することで合理的に理解しようという思想だった。自身の最も重要な著作と位置づけている数学書『記号論理学』も執筆し、その第2巻を書き進める中で風邪をこじらせ、気管支炎を併発。1898年1月14日、愛する妹たちに囲まれて死去する。66歳になる2週間前だった。

作家ルイス・キャロルの伝説は、彼の死後に生まれたといってもよい。生前も人気作家として知られていたが、彼の人物像を謎めいたイメージに変えたのは20世紀に入り、ナボコフが『ロリータ』を著し、フロイトが『性理論』を唱え始めてからだ。ルイスは20世紀前半のジャーナリストたちから「小児愛者」のレッテルを貼られ、フロイトの思想に基づいて『不思議の国のアリス』が解読された。「彼はロリータ・コンプレックスだった」というわけである。

ただ、ルイスはリデル姉妹の写真だけでなく、ほかにも多くの子どもたちの写真、さらには水彩画などを描き残しているのも事実である。

実はルイスの妹の一人が「幼い少女たちと親しくするのは、世間の噂になるのではないか」と心配の手紙を送っている。それに対するルイスの返事は、次のようなものだった。

「人の目を気にしてばかりいると、人生は何もできないまま終っちゃうよ」

これは彼の毛嫌いした、偽善的なヴィクトリア朝の風潮に対する批判でもある。女性の脚を連想させるからと、椅子の脚までが「わいせつ」とカバーをかけられ、それが転じて「足」という単語さえタブーになった時代。その一方で、ほんの10歳の子どもが売春婦として街角に立っていた。もし彼を「ロリコン」と呼ぶならば、ヴィクトリア朝時代の英国もまた同様の、あるいはさらに重症な『患者』としての呼び名を与えられなければ不公平だろう。

世界に一冊しかないルイス自身による挿絵のついた『地下の国のアリス』は、1926年に夫を亡くした74歳のアリスによって売却されている。そしてサザビーズのオークションで当時の史上最高額で落札された後、大英図書館に寄贈され、現在も同館に展示されている。

「黙っておれ!」と 女王が言いました。
「いやよ!」とアリスが言いました。
「あなたたちなんて、ただのトランプじゃないの!」

(『不思議の国のアリス』高橋康也/高橋迪訳から)

週刊ジャーニー No.1239(2022年5月12日)掲載

世界初の女性化石ハンター メアリー・アニング【前編】

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世界初の女性化石ハンター メアリー・アニング 【前編】

■ 世界に先駆けて、地質学研究が発展した19世紀初頭のイングランドに、プロの「女性化石ハンター」がいた。彼女の名前は、メアリー・アニング。今回は、貧しい階層の出身ながら、時代の最先端をいく学者たちと渡り合い、不屈の精神で化石発掘に人生を捧げたひとりの女性の生涯を、前後編で振り返る。

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/根本玲子・本誌編集部

12歳の少女の偉業

冬の嵐が過ぎ去ったばかりの海岸。

もろく崩れやすい崖の断面から覗く巨大な眼窩(がんか)、くちばしのような細長い口、そこにびっしりと並んだ歯――。かつて誰も見た事ない不思議な生き物の頭部が、少女とその兄の目の前にあった。4フィート(約1・2メートル)もある頭骨を慎重に岩場から掘り出した2人は、化石を「土産物」として販売する小さな店を営んでいた自宅へと、この不思議な「物体」を抱えて持ち帰った。

このとき発見したのは、2億年前もの昔に存在した、イルカのような姿をしていたというジュラ紀の魚竜「イクチオサウルス」の頭部(上図)。この後、残りの胴体部分の化石を見つけ出したメアリーは、世界で初めてイクチオサウルスの完全な骨格標本を発見した人物となる。

食べていくために地元で化石を掘り出し、土産物として売っていた貧しい「化石屋」の若干12歳の娘が、どのような経緯で世界的な発見に至り、やがてプロの化石ハンターとして古生物学の世界への道を拓いていったのだろうか。彼女の幼少期から、順を追って探っていきたい。

雷に打たれた赤子

中生代のジュラ紀に形成された地層が海へと突き出した、東デヴォンからドーセットまで続くドラマチックな海岸線は、ユネスコの世界自然遺産にも登録され、化石の宝庫であることから、現在はジュラシック・コースト(Jurassic Coast)とも呼ばれる。

英仏海峡に面したライム・リージスは、ジュラシック・コースト沿いにある、何の変哲もない小さな町。ここで、メアリーは1799年、家具職人の娘として誕生した。父親は妻との間に10人の子供をもうけたが、流行病や火傷などの事故によって多くが幼少時に他界し、成人まで生き残ったのはメアリーと兄のジョセフだけだった。

ある日、隣人女性が生後15ヵ月だったメアリーを抱き、木陰でほかの女性2人と馬術ショーを観戦していた際、思いがけない事故が起こる。雷がその木を直撃、メアリーを抱いていた女性を含む3人が死亡したのだ。

赤子のメアリーも意識不明となるが、目撃者が大急ぎでメアリーを連れ帰り、熱い風呂に入れたところ、奇跡的に息を吹き返す。そして不思議なことに、それまで病気がちだったメアリーは、その日以降、元気で活発な子供になった。町の人々は、この「雷事件」が彼女の好奇心や知性、エキセントリックと評される性格に影響を及ぼしたに違いないと、のちに噂したという。

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1826年まで、アニング家が住んでいた住宅のスケッチ。ライム・リージス博物館建設にあたり、1889年に取り壊された。右上にあるプラークは、同博物館の外壁に飾られている。

副業で化石探し

父親は仕事の合間を縫って海岸に出ては、化石を探して「土産物」として売り、家計の足しにしていた。当時のライム・リージスは富裕層が夏を過ごす「海辺のリゾート地」として栄えており、フランスで革命やナポレオン戦争が起こってからは特に、国外で休暇を過ごすことをあきらめた人々が押し寄せるようになっていた。

専門家でなくとも化石を所有することがファッションのひとつとされ、地質学・古生物学の基礎が築かれつつあったこの時代、富裕層や学者たちは化石の発見に常に注目していた。しかし一般には、これらの化石は、聖書に描かれた「ノアの大洪水」で死んだ生き物の名残だと考えられており、とぐろを巻いたアンモナイトの化石には「ヘビ石」、イカに似た生物ベレムナイトの化石には「悪魔の指」といった呼称がつけられていた。

また、「化石(fossil)」という名称もまだ確立されておらず、人々は不思議なもの、興味をそそるものという意味で「キュリオシティ(curiosity)」と呼んでいた。

アニング家は子供を毎日学校に通わせる余裕がなく、父親は本業の傍らに子供たちを海辺に連れて行き、化石探しを手伝わせ、商品として売るためのノウハウを教え込んだ。

化石売りはよい副収入になるものの、天候や潮の満ち引きに左右され、地滑りや転落事故と隣り合わせの危険な仕事。発掘に適しているのは嵐の多い冬期で、土砂崩れや大波により、新たな地層が露わになった岸壁を狙い、ハンマーとたがねを携え浜辺を歩く。そうしてせっかく「大物」を見つけても、掘り出しているうちに満潮となり、足場をなくして見失ったり、潮に流されてしまったりすることも多かった。加えて、沿岸部では密輸船も行き交っており、トラブルに巻き込まれる可能性も十分あった。そうした危険の中で、いかに化石を持ち帰るか――。子供たちが父親から学ぶことは山ほどあった。

メアリーは教会の日曜学校で読み書きを覚え、もともとの聡明さもあって、のちには独学で地質学や解剖学にも親しんでいくようになる。

リゾート地ゆえの出会い

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東デヴォンからドーセットまで続く「化石の宝庫」の海岸線、ジュラシック・コースト。地滑りなどが起こると、化石が地表に姿を現すことがある。現在も浜辺で化石堀り体験ができる。
© Kevin Walsh

メアリーの化石や古生物学に対する情熱は、父とライム・リージスにやってきた様々な人々との出会いによって形作られていった。中でも、この地に引っ越してきたロンドンの裕福な法律家の娘たち、フィルポット3姉妹の存在は大きい。

兄がライム・リージスに屋敷を購入したのに伴いやって来た、メアリー、マーガレット、エリザベスの3姉妹は、いずれも熱心な化石コレクターで、彼女らにとってこの地は宝箱のような場所であった。幼かったメアリーは、自分より20歳も年上で身分も高い彼女たちと化石を介して出会い、末娘エリザベスと毎日のように化石探しに出掛けるようになる。2人の友情はメアリーが成長するにつれ、高名な地質学者や彼らの妻たちとの交流につながっていった。

そしてもうひとり、10代のメアリーの人生に大きな影響を与えることになった人物がいる。のちにロンドン地質学会の会長を務めることになる、若き日のヘンリー・デ・ラ・ビーチ卿だ。裕福な軍人の家系に生まれたものの、地質学へと傾倒した彼は、多感な思春期にライム・リージスでメアリーと出会った。ともに化石探しに夢中になり、生涯にわたって2人は友人関係を保ち続けた。メアリーの経済状態が悪化した際には、自らが描いた古代生物のスケッチを売るなどして、援助を惜しまなかったのも彼であった。

半クラウン硬貨の希望

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メアリーが発見した、約2億~1億7500万年前のジュラ紀に、ヨーロッパに生息していた魚竜イクチオサウルス。眼が大きく直径は20センチ、全長の最大推定は9~12メートルにおよぶ。
© Dmitry Bogdanov

1810年の冬、結核を病んでいたにもかかわらず、体にむち打つようにいつもの海辺に出掛けたメアリーの父は崖から転落、命を落としてしまう。

働き手を失った家族に残されたのは、多額の借金ばかり。メアリーはこのとき11歳、兄ジョセフもまだ手に職はなく、一家の大黒柱になるには若過ぎた。教会の救済金に頼るまでに困窮した一家は、サイドビジネスだった化石屋に活路を見出そうとする。母と子供たちは連日のように海辺へと向かい、化石を探しては自宅で販売するだけでなく、町の馬車発着所でも売り歩き、細々と生計を立てていた。

そんなある日、海岸で掘り出したばかりのアンモナイトを手にしたメアリーを、ある女性が呼び止めた。彼女は半クラウン硬貨でそれを買い上げる。当時、半クラウンあれば一家の1週間の食料を手に入れることができた。

母親に硬貨を手渡したメアリーのつぶらな目は、一人前の稼ぎを手にした誇りと喜びに輝いていた。この出来事により、メアリーはプロの化石ハンターを目指すことを考え始める。化石を買った女性は地主の妻で、メアリーに雑用を頼み小遣いを与えるなど、日頃からアニング家の様子を気遣っていた。また知的好奇心が旺盛であるメアリーに対して、「ただの化石拾いに終わるには惜しい」とも思っていた。メアリーはこの婦人によって、初めて地質学の本を手にすることになった。

そして、父の死の翌年となる1811年の冬、彼女の運命を決定づける出来事が起こる。

いつものように、兄と嵐が過ぎ去ったばかりの海岸を訪れると、激しい波によって一部崩れた岸壁の断面に、「頭部のようなもの」が覗いているのを目にしたのだ――。この発見をきっかけに、メアリーの運命は大きく動き出していく。

週刊ジャーニー No.1163(2020年11月12日)掲載

東西の融合をめざした陶芸家 バーナード・リーチ 前編

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Special Thanks to: Leach Pottery, Tate St Ives.

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/田中晴子・本誌編集部

■ 明治末期の東京を訪れ、陶芸の魅力に取り憑かれた英国人、バーナード・リーチ。白樺派とも交わり、柳宗悦による民芸運動の発展にも大きく貢献、日本では「親日派」「日本の陶芸を西洋に広めた人物」として語られることが多い。幼少期をアジアで過ごし自己の確立に悩んだ彼が、数十年の旅路の果てに辿り着いた独自の思想と、その生涯を前・後編で追ってみたい。

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東西の文化が融合した作風が特徴的なバーナード・リーチの作品群。© The estate of Bernard Leach/Tate St Ives

桜、たくあん…朧げな日本の記憶

「To Leach or not to Leach」

スタジオ・ポタリー(Studio Pottery/製陶所)の父と呼ばれ、それまでの英国における陶芸の意識を大きく変えたバーナード・リーチ。だが20世紀前半の英国では、東洋の陶芸から強烈な影響を受けているリーチの姿勢や作品に対し、拒否反応を示す陶芸家も少なくなかった。しかし、流行した冒頭の「リーチか、否か」というフレーズは、英国の陶芸家にとってリーチがどれほど大きな存在であるかを示しているとも言える。

リーチはヴィクトリア女王の即位50周年に沸く大英帝国下の香港で、1887年1月5日に生まれた。当時の英国は世界各地に植民地を所持し、リーチ家の人々の多くは政府関係者、あるいは法律家として、東アジアの植民地各地で活躍していた。父親もオックスフォード大学を卒業した後、香港で弁護士として働いていたものの、妻がリーチを出産した直後に死去。そのため彼は、日本で英語教師をしていた母方の祖父母に預けられることになる。4歳まで京都の祖父母のもとで育てられたが、その頃の日本を「桶の中で泳ぐ大きな魚、桜の花、たくあんの味…」という「五感」に密着した断片で記憶していることを後に語っている。

やがて父親が再婚。リーチは再び香港で暮らし始めた。父の再婚相手はリーチの亡き母の従妹にあたったが、リーチはこの継母に馴染むことができず、代わりにアイルランド人と中国人の血を引く乳母を慕った。彼は生涯を通じて実母の面影を追い続け、これは成人してからの私生活にも多大な影響を与えることになる。

少し経つと、父親の仕事の関係で一家はシンガポールへと転居。香港~日本~香港~シンガポールとめまぐるしく引越しを繰り返し、やがて両親から離れて初めてひとりで英国の地に降り立った時は10歳になっていた。

「中国人」と呼ばれた少年時代

幼いリーチが両親から離れて単身渡英したのは、「本国で高等教育を受けさせたい」という父親の意向があったためだ。ウィンザーにあるイエズス会の寄宿学校に入学するが、ここでのリーチのあだ名は「Chink」。日本人でいう「Jap」に等しい中国人へのの蔑称である。これはリーチが東洋で暮らしてきたことからついたあだ名であったが、アジア生活が長いリーチと、アジアの異文化など何も知らずにヴィクトリア朝末期の繁栄の中に育つ生徒たちの間に、どんな不協和音が流れたかは想像するに難くない。ひとりっこで引っ込み思案、しかも夢想家でもあったリーチは、イジメの格好のターゲットにされてしまった。うんざりした彼にできることは、それこそ夢想による現実逃避くらいだっただろう。

芸術家を目指したリーチは16歳の史上最年少で、ロンドンのスレード美術学校へ入学。ところが、父親の発病により、わずか1年で道は閉ざされることになる。ガンを宣告された父がひとり息子の将来を心配し、美術学校を辞めて銀行に勤めるよう命じたのだ。リーチはまだ17歳。自分の意志を通すには若すぎた。彼は父親の言いつけを守り、スレードを中退した。

翌年、大きな影響力を持っていた父親が死去。しばらく継母と共にボーンマスで生活したが、どうにも我慢がならなかったようで、「銀行員になるための試験勉強に集中するため」と称し、マンチェスターに住む亡母の妹宅に身を寄せた。そして、彼はここで1人の女性と出会うことになる――叔母夫妻の愛娘で4歳上のミュリエルである。だが、従姉弟という近親関係にあたるため、2人の関係は周囲に反対された。

父親の遺言通り、リーチはロンドンのシティにある香港上海銀行(The Hong Kong and Shanghai Bank)に就職、毎晩11時まで働く日々が続く。慣れない仕事に加え、反対されるミュリエルへの想いや中退した美術学校への未練など、あきらめきれないことばかり。精神的にどんどん追い詰められ、我慢の限界に達したリーチは結局1年で銀行を辞職してしまった。

日本との再会と出発

当時、彼が好んで読んでいた小説の中に、「怪談」で知られる小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの著作があった。ハーンは放浪の末、日本に帰化し「小泉八雲」となったアイルランド出身の作家である。古きよき日本の姿が理想化された形で書かれた彼の著書は、リーチの日本に対する興味をいたく刺激した。リーチは「私の他国人に対する同情、すなわち非ヨーロッパ人、黒人、褐色人、あるいは黄色人種に対する私の同情がたかぶり出した。そして東洋に対する私の好奇心が育って来た。そこで私は日本の現状を知ろうとしたのだ」とハーンから受けた影響について語っている。「他国人に対する同情」と彼は言うが、英国において彼は常に疎外感を覚え、他国人の目で西洋を眺めていたのではないだろうか。実際に友人も南アフリカ人やオーストラリア人など、外国人ばかりだった。

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ロンドンに留学していた高村光太郎。

銀行勤めで貯めた資金で、リーチはロンドン美術学校に通い始める。そこは留学生も多く受け入れており、その中には後に詩集「智恵子抄」で知られることになる、4歳上の高村光太郎の姿があった。きっかけは高村からであった。教室でひとり静かにハーンを読んでいたリーチに、高村が興味を持って声をかけたのだ。この高村光太郎との出会いにより、リーチの日本への想いはますます強くなっていった。

21歳の成人を迎え、父親の遺産の管理が自らの手で行えるようになると、即座にミュリエルへ求婚。さらに銅版画(エッチング)の印刷機も購入した。美術学校で学んだ銅版画の技術を日本で教えながら、ミュリエルと結婚生活を送ろうと考えたのだ。落ち着いたらミュリエルを呼び寄せることを約束し、リーチは高村からの紹介状6通を手に、ドイツ船で日本へ向かう。1909年3月のことだった。

白樺派との出会いと交流

高村が書いた紹介状のあて先の中には、彼の父親である彫刻家の高村光雲、その友人の岩村透がいた。2人とも東京美術学校(現・東京芸大)の教授である。日本語を全く解さないリーチのために、岩村は教え子を紹介。その教え子の協力を得ながら、まずは上野桜木町にある寛永寺の貸地に、西洋風でもあり和風でもある一軒家を新築し、英国からミュリエルを招き寄せた。

次にリーチが着手したのは、この自宅兼スタジオで銅版画を教えること。生徒募集のため、宣伝を兼ねた3日間のデモンストレーションを開催すると、数人の見学者が訪れる。それは名前をあげれば、柳宗悦、児島喜久雄、里見弴、武者小路実篤、志賀直哉などの、翌年には「白樺派」(※)を起こすことになる蒼々たるメンバーであった。

これ以後、リーチと白樺派のメンバーは互いに学び合い、思想の上でも双方共に多くの刺激を受けていくことになる。特にリーチと2歳下の柳宗悦の関係は生涯続き、日本民藝館(目黒区駒場)の設立にも携わるなど、リーチの思想形成や作品制作に重要な役割を果たしている。

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リーチと柳宗悦。© Leach Archive

結局、銅版画クラスはリーチが白樺派から日本文化を学ぶ時間にとって代わられた形で自然消滅。しかし当時の日本は物価も安く、父親の豊富な遺産もあったリーチは、近くの学校で英語を教えたり、美術誌にエッセイを寄稿したりして十分に生活でき、あくせく働く必要はなかったようだ。

一方、妻との関係は彼が芸術にのめり込む分だけ、希薄になっていった。しかも家族愛を知らず、10歳で寮暮らしを始めていた彼は家庭生活、とりわけ夫婦生活がどういうものかよくわかっておらず、異国の地で夫にほとんど置き去りにされたミュリエルは、キリスト教の布教のために日本を訪れている西洋人グループと時間を共にするしかなかった。それは子どもが生まれてからも変わらず、ミュリエルは夫の女性問題にも頭を悩ませることになる。

※白樺派とは、1910年創刊の文学誌「白樺」を中心にして活躍した作家、美術家たちのことで、人道主義・理想主義・個人主義など自由な思想を掲げ大正時代の文壇に大きな勢力を誇った。

陶芸で変化した東西の価値観

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1936年に開館した、リーチの作品が多く収蔵されている日本民藝館。© Kamemaru 2000

そんなリーチに、再び転機が訪れる。訪れた茶会の席で、初めて「楽焼き」を体験したのだ。

楽焼きとは低温で焼く、素人も参加できる素朴な焼き物の一種だ。リーチは自分の絵が皿に焼き付けられるのを見て、強い興味を覚える。そして友人を介して紹介された6代目・尾形乾山のもとに入門し、毎日のように工房へ通った。1年後には自宅に陶芸用の窯を築くまでになり、さらに1年後には7代目・尾形乾山の伝書をもらい、免許皆伝とまでなっている。

陶芸を学ぶことは、茶の湯や禅など、より深く日本文化を知ることに繋がり、また中国や韓国の文化に触れることでもあった。リーチは陶芸を通し、さらに広い視野で東洋を、そして美術の世界を見つめていく。それまでは「西洋に対する東洋」という対比で物事を見てきたが、やがて二者の融合――「西洋と東洋の融合」ひいては「西と東の架け橋」となる存在になりたいと考えた。そのためにはもっと東洋を知る必要がある…。彼の目は次の目的地、中国へ向けられていた。

週刊ジャーニー No.1232(2022年3月24日)掲載

東西の融合をめざした陶芸家 バーナード・リーチ 後編

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Special Thanks to: Leach Pottery, Tate St Ives.

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/田中晴子・本誌編集部

■〈 前回のあらすじ〉明治末期の東京を訪れ、陶芸の魅力に取り憑かれた英国人、バーナード・リーチ。日本では「親日派」「日本の陶芸を西洋に広めた人物」として語られることの多いリーチだが、幼少期をアジアで過ごし自己の確立に悩んだ彼が、数十年の「自分探し」の旅路の果てにたどり着いたのは、陶芸家として東西文化を融合させた独自の作品を生み出し、「東と西の架け橋」となることだった――。

今号では、リーチの生涯を前編に続きご紹介したい。

中国での挫折、陶芸家の誕生

「銅版画を教えながら、愛する妻と懐かしい日本で暮らす」という大胆だが単純な希望を胸に1909年に来日し、5年の歳月を経て「東と西の架け橋」となることを目指し始めたバーナード・リーチ。それが最終的にどんな形を取ることになるのか依然わからないままだったものの、飽くなき探究心に突き動かされて、次の自分探しの旅路の地、そして最初の東西架け橋の地として中国を選んだ。

雑誌の投稿文をきっかけに、中国で暮らす怪しげなユダヤ系ドイツ人の思想家、アルフレッド・ウエストハープを知ったリーチは、彼の思想が自分の考えに近いと感じ、つてをたどって文通を開始。間もなく妻と幼い子どもを連れて中国へ渡った。

だが、その結果は惨憺たるものだった。日本のように西洋にかぶれる以前の「純粋な東洋」である中国において、東洋をさらに深く学ぶのと同時に、西洋のいい部分を同国へ接ぎ木しようという、いわば「啓蒙者」としての中国行きであったが、その壁は想像以上に厚かった。最終的にはウエストハープとの思想的不和により、リーチ一家は日本へ戻った。

がっくりと落ち込んで帰国したリーチに、柳宗悦はこう声をかけた。

「きみにはもう指導者はいらないのではないか。僕はウエストハープの思想よりも、きみの陶芸の方が素晴らしいと思うよ」

そして千葉県我孫子(あびこ)市にある柳所有の敷地内に、窯をつくったらどうかと誘ったのだ。英国へ戻ることも考えていたリーチだが、英国はおりしも第一次世界大戦の渦中にあった。リーチは家族の安全を考えて日本にいることを選び、本格的に陶芸家の道を歩むことにした。

当時の我孫子は何もない田舎町であったが、ここに突然リーチや白樺派の人々が現れ、一種の芸術家コロニーのような集落が形成される。中国で質のよい白磁や青磁を見たことは大きなプラスとなり、ここで5年にわたり腰を据えて、陶芸の生地や釉薬などの研究にいそしむ日々を送っている。

また、若き陶芸家の濱田庄司との出会いもリーチの世界を広げた。当時20代前半だった濱田はリーチの陶芸作品をすでに知っており、東京で展覧会を開いたリーチのもとを訪ねたのである。とくに濱田は釉薬の配合に関して、リーチが英語で話せる唯一の人物でもあった。濱田はのちに陶芸家として人間国宝に指定されるほどの巨匠に成長するが、リーチが英国へ戻り、コンウォールのセント・アイヴズに開窯する際には、濱田は助手として同行することになる。

リーチ・ポタリーの設立

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コンウォールの港町セント・アイヴズ。現在はリゾート地として知られ、観光客や芸術家が多く訪れる。

10年以上におよぶ日本生活にピリオドを打ち、リーチが濱田とセント・アイヴズにやって来たのは1920年9月、33歳の初秋のこと。

コンウォール独特の美しさを持つこの港町は、当時はまだ石と海に囲まれた荒涼とした町だった。しかし、ここでは活動的な老婦人が「セント・アイヴズ手工芸ギルド」という組織を主催しており、彼女はこの組合に陶芸家を加えたいと考えていた。それを知ったリーチは会員に応募し、ギルドからの出資金で製陶所「リーチ・ポタリー」を建造したのである。「東西の融合」「中国の形、朝鮮の線、日本の色」を制作理念に、産業革命によって押し進められた「悪しき機械化の波に対抗しよう」というのが、リーチ・ポタリーの運営方針だった。

初めて英国を訪れた26歳の濱田は、口数も少なく手のかからない優秀な助手で、1人で町を散策し港を歩き回り、現地の英国人にも受け入れられていたようだ。港近くに住む漁師上がりの老人などは、毎週日曜日に決まって鯛を持って濱田の仕事場を訪れ、椅子に腰掛けて楽しそうに彼の仕事ぶりを眺めていたという。また、実直な人柄の濱田は幼かったリーチの子どもたちにも好かれており、リーチ一家のスナップ写真の中には、2人の子どもたちに挟まれ、手を握られている濱田の姿が残されている。

東京育ちの濱田にとってもコンウォールの自然と、そこに住まう朴訥とした人々は大きな好印象を残し、やがて日本に帰国した彼が、栃木県の片田舎である益子に窯を開くのは、益子焼に興味を抱いていたのはもちろんのこと、セント・アイヴズでの暮らしが印象深かったためである。濱田は関東大震災の発生をきっかけに帰国を決意するまで、セント・アイヴズで4年を過ごしている。

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リーチ・ポタリーの暖炉の前で、陶芸制作について指導するリーチ(中央)。 © Leach Archive

さて、当初のリーチ・ポタリーでは、リーチと濱田を含む4人のスタッフによる、試行錯誤の状態が続いた。リーチは山の斜面などを利用して作られる日本式の登り釜を英国で初めて採用したが、ヨーロッパとは違うスタイルの窯で制作すること自体、温度調節も含め大変な苦労だった。さらに、粘土の違い、釉薬の違い、灰の違いなど、日本とコンウォールの地質や材料の違いもひとつひとつ吟味しなければならない。彼らは他所で手に入る質のいい土ではなく、その土地の材料を使うことを重んじたことから、その苦労もひと塩であった。

こうした様々なこだわりゆえにポタリーの経営状態は総じて不安定で、リーチはロンドンや日本でしばしば展覧会を開いたり、愛好家や収集家に作品を売ったり、町の人々や観光客相手に楽焼教室を開いたりして日々の生活をしのいだ。2度にわたって工房破産の危機も迎えたが、妻ミュリエルが父親から相続した遺産などでなんとか切り抜けている。

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リーチ・ポタリーで、工房の職人とともに撮影。濱田庄司(前列中央)、リーチ(濱田から向かって左隣)、リーチの3人目の妻ジャネット(右端から2人目)。
© Leach Archive

繰り返す離婚

1930~50年代のリーチは、ポタリーを離れる時間が増え、その間の管理は成人したリーチの長男、デヴィッドがあたった。日本で人気の高いリーチが、講演会や展覧会を日本で頻繁に開いてポタリー存続の資金を得ようと考えたことに加え、数々の女性問題による罪悪感が、リーチをポタリーから遠ざけたのである。

実母の顔を知らないリーチは、生涯を通して母性愛を欲していた。常に自分を受け止め支えてくれた妻ミュリエルには母親のような愛情を求め、その結果、異性愛はほかの女性で満たすというサイクルに陥ってしまったのだ。この問題は日本に滞在していた時からたびたび浮上していたが、リーチ・ポタリーで学ぶ学生で、秘書としても働くローリーとただならぬ関係になった彼は、「良き妻で母親」のミュリエルではなく、陶芸について深く語り合える同志のローリーを選ぶ。リーチは家族のもとを去り、24年間連れ添ったミュリエルと離婚。1944年にローリーと再婚している。

第二次世界大戦下ではセント・アイヴズはドイツ軍の爆撃を受け、リーチ・ポタリーも被害を受けた。ところが、ほかの製陶所が次々に閉鎖する中、リーチのポタリーは細々とではあったが持ちこたえている。戦時下のため展覧会向けの作品の需要はなかったものの、一般家庭向けの食器の需要があったからだ。そのため、安くて質のよいスタンダード・ウェアの制作に力を入れた。

やがて戦争が終わると、戦争中に工場生産された白い簡素な食器しか手に入れることのできなかった人々が、リーチ・ポタリーの暖かい色使いや手作りの風合いに魅せられ、人気が殺到。ロンドンの各大型デパートは、生産量の追いつかない商品の在庫を得ようと張り合った。

「自分」を見つけられたのか?

戦後、リーチは再び海外で展覧会を開くようになる。米国や日本をまわり、2年以上の長期にわたってポタリーを留守にしたこともあった。また、リーチは訪れた米国で新しいパートナーとの出会いも果たしている。相手は熱心なリーチ・ファンの陶芸家ジャネットで、彼女が単なる自分の崇拝者ではなく、時に歯に衣着せぬ物言いで発破をかける「母親のような強さ」を持つ面に惹かれたようである。リーチはローリーと離婚し、ジャネットと3度目の婚姻を結んだ。

今や高齢の域に達した69歳のリーチに替わり、ポタリーの運営はジャネットがあたった。彼女が取り仕切るようになって以降、ポタリーでは従弟の制度がなくなり、美大やほかの工房で基本訓練を受けた陶芸家たちが雇われるようになる。

リーチは視力が弱って引退する最晩年まで、ポタリーでの指導にあたっていたが、1979年5月6日、肺炎にかかってセント・アイヴズの病院で死去。92歳であった。盟友・濱田庄司は前年に亡くなっており、死の数日前、リーチは「夢で楽しく濱田と会話した」とジャネットに告げている。

東西文化の融合を陶芸によって完成させようとしたリーチだが、それは自分の中にある東洋と西洋の融合でもあった。幼児期から複数の国、複数の家庭、複数の文化に身をおいた彼は、絶えず自分をひとつに保とうと、もがいていたのではないだろうか。

数々の作品が生まれた リーチ・ポタリー

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西洋初の日本式登り窯として1920年に開業したリーチ・ポタリーは、リーチの死後、3人目の妻ジャネットに引き継がれたが、彼女が亡くなると売却され、解体の危機にさらされた。 工房を救おうと、「リーチ・ポタリー再建運動委員会」が発足して募金活動が始まり、また日本でも柳宗悦や濱田庄司が館長をつとめた日本民藝館が中心となって、募金活動がスタート。晴れて2008年、新リーチ・ポタリーが完成した。

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現在は、リーチの足跡をたどるミュージアムや若い陶芸家を育てるワークショップ、ギャラリー、ショップを備えた国際的な「陶芸センター」となっている。

The Leach Pottery
Higher Stennack, St Ives, Cornwall, TR26 2HE
www.leachpottery.com

週刊ジャーニー No.1233(2022年3月31日)掲載

心優しい才人? それともロリコン?不思議の国の住人 ルイス・キャロル  前編

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●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/田中晴子・本誌編集部

■『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』といった児童文学の名作を生み出し、英国が誇る作家として現在も世界中の子どもたちを魅了するルイス・キャロル。写真家や数学者としての顔も持つなど、彼の生涯はいまだに多くの謎に包まれ、各時代や伝記作家によって描かれるイメージも大きく異なる。心優しい宗教家、頭の切れる無口な才人、またはポルノまがいの写真を撮る小児偏愛者…。生誕190年を迎えた今、数々のレッテルを貼られたルイスの素顔に迫ってみたい。

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1963年、のちに「不思議の国のアリス」と改名して出版する冒険譚「地下の国のアリス」の執筆を終えた頃のルイス・キャロル、30歳。

貧しい大家族の長男

英米では、聖書とシェイクスピア作品に次いで読まれている『不思議の国のアリス』。白ウサギの後を追ってウサギの穴に飛び込み、奇妙な世界に入り込んだ少女アリスの大冒険を描いた物語は、30歳の数学者ルイス・キャロルが「10歳の友人」アリス・リデルにせがまれ、ボート遊びの際に語ったものを文章化して出版した作品だ。

ルイス・キャロルことチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンは1832年、ヴィクトリア女王の即位を5年後に控え、英国が世界にその国力を示し始めた輝かしい時期に、イングランド北西部チェシャーの小さな村デアーズベリーで生まれた。11人きょうだいの3番目、そしてドジソン家の待望の長男だった。一家の大半は代々聖職者か軍仕官という、当時の上層中産階級の代表的職業に従事していたが、ルイスの父親もその例に漏れず、オックスフォード大学で数学と古典に親しんだ後、この地の教区で牧師を務めていた。

一家の暮らす牧師館のある辺りは「陸の孤島」とも呼べるほどの辺境の地で、父親がその高学歴には見合わない質素なキャリアを選んだため、大所帯のドジソン一家もまた、慎ましい暮らしを強いられた。自ら野菜を育てる半自給生活を営み、子どもたちの着る服はドジソン夫人の手作り。だが、ここで多くのきょうだいと共に過ごした静かで質素な生活をルイスは終生懐かしく思い返しており、彼にとっては幸せな日々だったようだ。子どもたちは父親の元で敬虔なクリスチャンとして育てられ、ルイスの数学に対する興味もこの時に培われている。

やがて父親の栄転により、ヨークシャーに転居。ルイスは英国で最も古い歴史を誇る私立寄宿学校のひとつ、ウォリックシャーのラグビー・スクールに入学する。しかし、荒々しい校風を持つ同校での3年間は、もの静かで心優しいルイスにとってきわめて苦痛なものとなった。低学年の生徒に対するイジメや嫌がらせといったお決まりの寄宿学校の慣習に苦しみ、野蛮で乱暴な男子生徒たちを忌み嫌い、自分が高学年になってからは「幼い生徒たちを守る」と保護監督者の役割に率先して徹した。その「守護神」ぶりは、彼が卒業した後も、しばらく生徒たちの間で語り継がれていたほどだった。

その後、父親の母校であるオックスフォード大学のクライスト・チャーチ校に進学。しかし、当時のクライスト・チャーチは優秀な学生が学ぶ場である一方、裕福な貴族の息子たちが当主となる前の数年を費やす、娯楽場のような場所でもあった。ギャンブルやキツネ狩りを楽しみ、勉学には全く興味を示さない享楽的な人物の集まりが幅を利かせており、ルイスは彼らのような学生たちとは距離を置き、静かに勉学に身を投じる毎日を送った。

欲した母親の愛情

順風満帆な人生を歩んでいるように思えるルイスだが、実はどれほど欲しても手に入らないものがあった――それは「母親の愛情」である。大家族の「できる」長男の宿命といえるのかもしれない。

ルイスの母は、彼が大学へ入学したわずか2日後、47歳の若さで病死。髄膜炎か脳梗塞と思われる脳の疾患が原因だった。母親に関しての彼の記述は少なく、2人の絆はかなり希薄だった。だが、決してルイスが母親を嫌いだったというわけではなく、むしろ幼い頃から母の愛情に飢え、常に彼女の関心を買おうとしていた。ところが、子どもの多いドジソン家では、おとなしい長男の存在は地味なもの。面倒見のよいルイスはきょうだい間では絶大な人気を誇っていたものの、母親にしてみれば、数多い子どもの中で「手のかからない子」と関心は薄かった。また、ルイスは吃音症(言葉が円滑に話せない発話障害)を患っていたが、彼を含めきょうだい全員が何らかの言語障害を抱えており、自閉症めいた症状を持つ妹もいたことから、母親がルイスに目をかけることはほとんどなかった。

距離を埋めることができなかった母親を永遠に失い、満たされることがない空虚な心を埋めてくれたのは、母親の弟にあたり、法廷弁護士としてロンドンで暮らしていた叔父だった。彼は鷹揚なキャラクターで、新しいものが大好き。発明されたばかりの望遠鏡や顕微鏡といった光学機器に多大な興味を持ち、その情熱はルイスにも伝播していった。後にルイスは叔父から写真の技術を学び、写真家としても名を馳せるようになる。

運命の少女との出会い

やがてルイスは大学の数学の試験で「第1級」を獲得し、特別研究生の地位を得る。この地位を得た者は生涯クライスト・チャーチに留まり、年俸をもらいながら自由な研究をすることを保証されることから、ルイスにとってはまたとないチャンスの到来であった。かつて、彼の父親もこの資格を得たことがあったが、父親はほかの有資格者同様、数年でこの身分を放棄。というのも、特別研究生であり続けるには、聖職の資格を取らなければならないだけでなく、「独身」でいることも条件のひとつだったからだ。しかし、ルイスはこの身分を手放すことなく、学士号の取得後に正式な数学教授への昇進試験にも合格。彼の授業は学生には不評で、あまりの退屈さゆえに学生たちが「キャロル・ボイコット運動」を起こしたほどだったものの、それにもめげずに教壇に立ち続け、数学の参考書『行列式初歩』も刊行した。

そして運命の出会いがやってくる。

学寮長(クライスト・チャーチの最高運営責任者)が老齢のため死去すると、名門ウェストミンスター・カレッジで校長を務めていた古典文献学者ヘンリー・ジョージ・リデルが新たに赴任してきた。若くカリスマ的な魅力に溢れるリデルは、次々に保守的な校内システムの改革を行っていく。新人教師のルイスも改革に伴う議論にスタッフの一員として参加したが、ルイスに大きな影響を与えたのは、この校内改革ではなかった。リデルがオックスフォードへの赴任に際して伴ってきた、妻と4人の子どもたち――長男ハリーと、長女ロリーナ、次女アリス、三女イーディスの3姉妹だ。とくに次女のアリスは『不思議の国のアリス』誕生のきっかけとなり、ルイスの人生を大きく変える存在となる。

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ルイスが撮影したリデル3姉妹。向かって右から次女アリス、長女ロリーナ、三女イーディス。

アリスのわがままと名作の誕生

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物乞い風のボロボロのドレスを身にまとい、裸足で施しを求めるポーズをするアリス。ルイスが撮影したもの。

ルイスとアリスが初めて顔を合わせたのは、ルイス23歳、アリスはわずか3歳のときのこと。叔父から写真技術をマスターしたルイスは、自らもカメラを購入し、被写体を探していたところだった。そのお眼鏡に叶ったのが、リデルの幼い子どもたちだ。でも最初からアリスが特別だったわけではない。ルイスがまず称えたのは長男ハリーの美しさで「今まで会った中で一番ハンサムな少年だ」と感嘆し、家族に撮影許可をもらっている。こうしてルイスとリデル一家との密な交遊が始まった。

リデル家の子どもたちは、すぐにクライスト・チャーチ内のルイスの自室を訪れるようになった。そこには子どもが大喜びしそうなオモチャや複雑な機械がところ狭しと並んでおり、薄暗くてまるで秘密の隠れ家のようだった。彼らはルイスが集めた撮影用の子ども服、例えば物乞い風のボロボロのドレス、ジプシー風の衣装、当時流行していたオリエンタルな小物などを自由に選び出し、ルイスの求めに応じてポーズをとった。

天気の良い日ですら屋外で1枚の写真を撮るのに45秒もかかる時代に、子どもたちをひとつのポーズのままでじっとさせておくのは、本来なら至難の技。しかしながら、すでに数学者としての顔以外に作家としても数冊の短編小説を発表していたルイスは、幼い子どもに対する持ち前のサービス精神で、奇妙で愉快な物語を即興で語るなど、彼らに退屈を感じさせず、リラックスして撮影に臨ませることに成功。アリスも後年にインタビューで「彼の部屋の大きなソファに座って、皆で彼のお話を聞くのは本当に楽しかった。写真撮影も全然苦にならなかったし、お部屋へ行くのが楽しみでした」と語っている。

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中華風の衣装をまとった長女のロリーナ(左)とアリス(右)。

『不思議の国のアリス』の物語が生まれたのは、彼らが出会ってから約7年後の1862年7月4日、ピクニック先でのことだ。この日は歌のうまいルイスの大学の同僚も参加し、子どもたちと共にテムズ河でのボート下りを楽しんでいた。夏の日射しが水面に反射する、後にルイスが「金色の午後」と形容した日のことである。舟の上でいつものようにアリスに話をせがまれたルイスは、懐中時計を手に大急ぎで走ってくる白ウサギの場面を語り始める。ボートを漕いでいた同僚男性が振り返り、「今即興で作った話なのか?」とたずねると、ルイスはこう答えた。

「そうなんだ。まず女の子をウサギの穴に落としてみたんだが、その後どうするかな…」

自分と同じ名前の主人公が登場する話をとりわけ気に入ったアリスは、物語の先を知りたがり、「私のために文字にして書いて!」と何度もせがんだ。アリスのこの「お願い」がきっかけとなり、ルイスは翌日から物語を書き始める。当初『地下の国のアリス』と名付けられた手書きの本は、7ヵ月後の1863年2月10日に完成。さらにルイス自身がイラストを丁寧に描き入れ、1864年11月26日に「クリスマス・プレゼントとして、夏の日の思い出に」とアリスに手渡された。

おそらくこのときがルイスにとって最も輝いていた時間だったのではないだろうか。ルイスとアリス、そしてリドル家との関係は、以降跡形もなく立ち消えることとなる――。

週刊ジャーニー No.1238(2022年5月5日)掲載


映画を知りすぎていた男 アルフレッド・ヒッチコック

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映画を知りすぎていた男 アルフレッド ヒッチコック [Alfred Hitchcock]
■『知りすぎていた男』や『サイコ』をはじめとする数々の名作を生み出した、英国出身の映画監督アルフレッド・ヒッチコック。生涯に制作した作品は53作にものぼり、悪夢を紡ぎ出す手腕は現在も他の追従を許さない。今回は、観客を怖がらせることに心血を注いだ「サスペンスの巨匠」のサクセス・ストーリーをお届けする。

●参考文献『It's Only a Movie - Alfred Hitchcock A Personal Biography』Charlotte Chandler著、『定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー』山田宏一・蓮實重彦訳

●Great Britons●取材・執筆/田中晴子・本誌編集部

主題なんか、どうでもいい。演技なんか、どうでもいい。大事なことは、映画のさまざまなディテールが、映像が、音楽が、純粋に技術的な要素のすべてが、観客に悲鳴をあげさせるに至ったということだ。大衆のエモーションを生みだすために映画技術を駆使することこそ、わたしたちの最大の歓びだ。(中略)観客をほんとうに感動させるのは、メッセージなんかではない。俳優たちの名演技でもない。原作小説のおもしろさでもない。観客の心をうつのは、純粋に映画そのものなのだ。(―定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー 訳:山田宏一・蓮實重彦)

1960年作『サイコ』の大ヒットに満足したヒッチコックは、フランスの映画監督フランソワ・トリュフォーとの対談で上記のように語っている。役作りに悩む俳優から助言を求められると、「たかが映画じゃないか」という言葉をしばしば口にしたという。ありふれた日常に潜む恐怖や、幸せと隣り合わせに存在する悪など、白日のもとに襲い来る恐怖に心引かれたというヒッチコックは、後年インタビューで「人間は本当に恐ろしいものからは目を背けるものだ。映画はしょせん映画だよ。一番怖いのは現実なんだ」とも語っている。冒頭の作品を始め、『鳥』『北北西に進路を取れ』『裏窓』『めまい』など、エンターテインメント色の強い作品をハリウッドで数えきれない程制作しながらも、常に冷めたシビアな視点を維持していたように思われる、ヒッチコック監督の秘密を探っていこう。

アルフレッド・ジョセフ・ヒッチコック(Alfred Joseph Hitchcock)は、1901年に幕を閉じることになるヴィクトリア朝の最後期にあたる、1899年8月13日にロンドンのイーストエンド、レイトンストーンの青果商の次男坊として誕生する。当時は産業革命による景気の拡大が既にピークを越え、英国経済は次第に陰りを見せ始めていた。失業者が増加し社会主義も台頭する中、街頭では労働者たちによるデモが絶えず、また『切り裂きジャック』として知られるホワイトチャペルでの連続殺人事件も、まだ人々の記憶に新しい時代であった。

そんな状況にあって、アルフレッド・ヒッチコックの生家である青果商店は、父親のウィリアムによって手堅く営まれており、一家は裕福とまではいえないまでも、比較的余裕のある暮らしを送っていた。末っ子でもあったアルフレッドは、年の離れた兄姉が家業を手伝う中、地図や列車の時刻表を眺めて空想旅行を楽しんだり、窓からの眺めをスケッチしたりと、一人でおとなしく遊ぶ夢見がちな少年だったという。

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© Spudgun67
ヒッチコックの生家跡は現在、ガソリンスタンドになっている(517 High Road, Leytonstone, London E11 3EE)。向かいの建物は、映画「鳥」をイメージした壁画で飾られている。

プロテスタントの多いイングランドには珍しく、敬虔なカトリック教徒だった一家は、近所の人々から「ちょっと変わった家」と見なされていたようである。毎週日曜日にきちんと正装し家族揃って教会へ出かけたが、特に熱心な母親のエマが教会へ行かなかったのはただの一度だけ、それはアルフレッドを出産した日曜日のみだったという。父のウィリアムは堅実かつ厳格な人物で、過度に道徳を重んじるヴィクトリア朝の時代にありがちな価値観の持ち主だったようだ。ある時、彼が幼いアルフレッドに施した「ちょっとした教育」が、その後のアルフレッドの人生に影響を及ぼすトラウマを植え付けることになる。

警官嫌い

アルフレッド・ヒッチコックが4、5歳の時のこと、父親の言いつけで知り合いの警察署長に手紙を持って行くお使いに出された。警察署長はその場で父親からの手紙を読むや否や、いきなりアルフレッドを留置所に閉じ込めてしまったという。5分後には釈放されたものの、恐怖におののくアルフレッドにはそれが数時間にも感じられた。釈放後「悪い子にはこうするんだ」(This is what we do to naughty boys.)と署長に言われたが、彼は悪いことをした覚えもなく、ただひたすら恐ろしがるばかり。成人した後ですら、背後で閉まる重い鍵の音や、暗くて長い刑務所の廊下の様子などをありありと思い浮かべることが出来たという。父親ウィリアムの思惑は予想以上の効果をもたらし、ヒッチコックはこれが原因で警官に恐怖を抱くようになり、子供心に「警察にお世話になる様なことは絶対避ける」と誓った。やがて成長するに従い、それが権力への漠然とした恐怖感や嫌悪へと転化していくわけだが、『間違えられた男』(1956) や『北北西に進路を取れ』(1959) をはじめ、ヒッチコック作品に「身に覚えのない罪で追われる主人公」が繰り返し登場するのは、幼い頃に起きたこの事件の影響だという。

やがてアルフレッドはロンドン北東部トテナムにある、聖イグナチウス・カレッジというイエズス会の寄宿学校に通い始める。ヒッチコックと同級生だったヒュー・グレイ教授は後に当時のヒッチコックの姿を回想し、「休み時間に校庭へ出ても、他の子供たちとけっして遊ぼうとしない丸顔の太った少年」と表現している。スポーツが苦手で、自分の体型にコンプレックスを抱いていたアルフレッドは、仲間の少年たちが校庭で無邪気に走り回るのを離れたところから観察したり、読書に没頭して一人で時間を過ごすような、孤独で無口な少年だったようだ。ヒッチコックはこの時代の愛読書にエドガー・アラン・ポーやコナン・ドイル、そしてディケンズの著作を挙げている。

当時のイエズス会の寄宿学校は体罰の厳しいことで知られ、若いヒッチコックの通う聖イグナチウス・カレッジもその例外ではなかった。教師たちはクジラの骨で出来たムチを持っており、言いつけを守らない生徒を、罪の重さに応じて規定の回数ビシビシ打ったという。ヒッチコックはフランソワ・トリュフォーとのインタビューに答えて、何かムチで打たれる様な悪いことをしたのではないかという恐怖心が常にあり、体罰が恐ろしくていつもビクビクしていたと当時を振り返っている。

さらに、悪とは何か、善とは何かを考えるきっかけにもなったとして、カレッジで学んだことがいかに映画作りに役立っているかを、皮肉まじりに語っている。また体罰そのものよりも、エンマ帳に彼の名前がメモされ、放課後改めて呼び出しを受けるまでの「猶予時間」こそが、体罰それ自体よりも恐ろしかったと強調しており、これはまさにヒッチコックが観客をジワジワと怖がらせるために用いた、彼の映画手法と同じであるともいえる。

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「鳥」の宣伝写真で、おどけた表情を見せるヒッチコック。

1914年、第一次世界大戦勃発の年に、父親のウィリアムが心臓麻痺のため52歳で急死。ヒッチコックは15歳になったばかりだった。兄が家業を継ぐことになり、アルフレッドも聖イグナチウス・カレッジを去り、手に職をつけるための訓練校である海洋技術専門学校に入学。そこで技師になるために必要な電気工学などを学んだ後、W・T・ヘンリー電信会社に勤め始める。当初ヒッチコックの担当は海底ケーブルの電力測定だったが、単調な仕事に飽き足らなくなった彼は、同社の広告デザイン部門へ押し掛けて、難なくグラフィック・デザイナーとしての仕事を得てしまう。そこで広告やチラシのデザインを始めたヒッチコックは社内報の編集も手伝い、時には自分で書いた短編小説も掲載した。その中の一作である『Gas』は、パリに出かけた英国人女性がギャングに誘拐され、セーヌに投げ込まれる話だが、最後にはそれが全て、その女性が歯医者の診察台の上で空想した事だったという、いかにもヒッチコックらしい話のオチがついている。

こうして彼の社会人生活が始まったわけだが、仕事の後は同僚たちとパブへ行くわけでもなく、ロンドン大学のイブニング・コースでドローイングを習っていた。そして休日には一人でアメリカ映画を観に行き、映画産業の業界誌を眺める毎日だったという。

映画との関わり

幼い頃から人付き合いが悪く、一人で過ごす時間の多かったヒッチコックだが、芝居好きだった両親の影響もあり、16歳頃から映画や演劇に興味を持ち始めた。好きな映画はチャップリンやD・W・グリフィス作品。当時人気のあったバスター・キートン、ダグラス・フェアバンクスの出演作も観たという。また、F・W・ムルナウやフリッツ・ラングといったドイツの巨匠が作りあげる奇妙な世界にも心惹かれていた。映画雑誌も多く購読したが、それはよくあるファン雑誌ではなく、制作に関する技術雑誌や業界誌ばかりだったとされている。「監督になるつもりは全くなかった」と語るヒッチコックだが、何らかの形で映画の世界に関わりたいという気持は常にあったようだ。

1919年、そんな彼にいよいよ転機が訪れる。いつものように読んでいた業界誌に、フェイマス・プレイヤーズ・ラスキー(Famous Players-Lasky:のちのパラマウント社)という米映画会社のロンドン支社設置のニュースが載っていた。イズリントンに撮影所を建設中で、製作予定作品のラインナップも発表されている。ヒッチコックは早速自分なりに字幕デザインのサンプルを作り上げると、映画支社に駆けつけた。そして自分の作ったデザインを見せると、「映画を撮影する際に必要になるだろうから置いて行きます。ご自由にお使いください」と言ったという。生来の性格に似合わぬ強気の行動には驚かされるが、ヒッチコック自身「若くて物を知らないからできた事だ」と回想している。

このおかげでフェイマス・プレイヤーズ・ラスキー社の字幕制作班に配属されることになったヒッチコックは、そこで数多くのアメリカ人脚本家たちと知り合い、シナリオの書き方を学んでいくことになる。

サイレント映画では、俳優は口を動かしているだけで、セリフはそのあとに字幕で出る。つまりテキスト次第で登場人物にどんなことも言わせることができるため、字幕テキスト上で脚本が書き直されることも度々あったという。わずか3年後、フェイマス・プレイヤーズ・ラスキーのロンドン支社は業績不振により閉鎖されるが、その間にヒッチコックは映画作りの過程を内側から観る幸運に恵まれ、字幕制作はむろん、脚本や美術なども手掛け、助監督的な仕事すらこなすようになっていた。ヒッチコックの未完の処女作『第十三番』はこの頃作られたコメディだが、ヒッチコックの言葉を借りれば「ハリウッドでチャップリンと仕事をしたことがあるというだけで、皆に天才扱いされていた女性」―アニタ・ロスの脚本によるお粗末な作品だったようで、ヒッチコック自身はこの作品を処女作と呼ばれることを嫌っている。幸か不幸かフェイマス・プレイヤーズ・ラスキー社がロンドン支社を閉鎖したため撮影も中止になり、この作品は「世に出ないで済んだ」のである。

凝り性だったヒッチコック
驚きのエピソード

下宿人/ The Lodger: A Story of the London Fog (1926年)

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【あらすじ】2階に住む下宿人が殺人犯である可能性が濃厚になり、それに気づいた娘と恋人が小声で話し合っていると、頭上で下宿人が神経質に歩き回る足音が聞こえてきて…。

この時代はまだサイレント映画。ヒッチコックは大きな透明のガラス板を天井にはめ込み、その上を歩き回る下宿人を下から撮影することで足音を表現した。観客は2階の床の上を歩く殺人者を、まるで自分の頭に思い描いたかのように見ることができる。


断崖/ Suspicion(1941年)

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【あらすじ】浪費家でウソつきの男性と結婚してしまったヒロイン。彼女は夫が殺人者で、いつか自分も殺されるのではないかと思い始める。ある日、夫が妻に飲ませるため、毒入りのミルクを持って階段を上がってきて…。

このシーンでヒッチコックは、観客の眼がミルクの入ったコップだけに注がれるように、ミルクの中に豆電球を入れている。おかげでミルクの白さが輝く印象的なシーンが出来上がった。


ロープ/ Rope
(1948年)

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【あらすじ】ニューヨークの高層マンションの一室で、ある日の夕方から夜までの1時間45分の間に起きた殺人事件を、進行時間そのままに映画に置き換えた。カメラは切れ目なくワンカットで事件を追っていく…。

マンションの外景は、遠近感を出すためにマンションのセットより3倍大きくつくり、透明なワイヤーで雲も浮かべた。さらにスタッフたちがこの雲を少しずつ移動させ、時間の経過を表現した。


北北西に進路を取れ/ North by Northwest(1959年)

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【あらすじ】米情報部が敵のスパイを欺くために作り上げた「架空の人物」に間違えられた男性が、スパイたちから命を狙われ…。

主人公が駆け込んだ国連本部の建物は、内外とも全てセット。国連内での撮影は禁止されていたため、隠しカメラで資料になる写真をこっそり撮影し、本物と一分も違いがないように作り上げた。これはヒッチコックが常にこだわる点で、どの作品も実際の場所で撮影できない場合は、本物そのままのセットを作り上げて再現した。


鳥/ The Birds(1961年)

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【あらすじ】屋根裏部屋に向かったヒロインが、突然鳥の群れに襲われ…。

機械仕掛けの精巧な鳥や調教された鳥を使うことも考えたヒッチコックだが、結局はヒモで足を結わえた本物の鳥を大量に使った。そのため、ヒロイン役のメラニー・ダニエルズは実際に鳥たちに襲われ、顔などに深い傷を負った。これが原因で、彼女とヒッチコックの関係は不和になったと言われる。なお、鳥の不気味な鳴き声や羽ばたきの効果音は、作曲家のバーナード・ハーマンが電子音を使い編集した。

監督としての出発/伴侶との出会い

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「山鷲」の宣伝写真に映るヒッチコック(カメラの右手前で指を差す人物)。その後ろにいる女性は、のちに妻となるアルマ・レヴィル。

1922年にフェイマス・プレイヤーズ・ラスキー社が撤退した後、英国の映画会社であるゲインズボロ・ピクチャーズ(Gainsborough Pictures)が撮影所を買い取り、ヒッチコックを始めとする多くのスタッフが、そのまま撮影所に残ることになる。ヒッチコックはここで助監督として5本の作品を撮っているが、そのうちの『女対女』(1922)を作るにあたり、アルマ・レヴィルという女性をフィルムの編集に抜擢する。後にヒッチコックの妻となる彼女は、これ以降57年にわたり常にヒッチコックを影で支えるかけがえのないパートナー、そして彼の作品のよき理解者として存在していくことになる。

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1926年、ケンジントンにあるローマ・カトリック教会「Brompton Oratory」で挙式した2人。

1925年、26歳のヒッチコックは初の監督作品『快楽の園』に着手する。オリヴァー・サンデスの原作を基にしたメロドラマ色の強いサスペンス物で、英独合作としてミュンヘンで撮影された。第一次世界大戦後の当時はヨーロッパ映画界の好況期にあたるが、なかでもドイツは映画製作会社ウーファ(UFA: Universum Film AG)に牽引され、『カリガリ博士』(1920) 『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922) 『メトロポリス』(1927) といった数々の実験的で過激な名作を生み出し、ドイツ表現主義映画の隆盛期にあった。ヒッチコックはそこで英国映画にない最先端の技術や、斬新なカメラワークを貧欲に吸収していく。もっとも影響を受けた監督はF・W・ムルナウで、『吸血鬼ノスフェラトゥ』や『最後の人』(1924)などの斬新な演出で知られるこのサイレント期の巨匠から、「言葉に頼らず映像だけで映画を作ること」を学んだという。のちのインタビューでも「映像は映るものではなくて、つくるものだ」、つまり見えるものを単に映すのではなく、頭の中で厳密にイメージした映像を再現することが、結果的に映画のリアリズムに達する方法だと語っている。ヒッチコックの映画作りにおいて最も重要な点のひとつであろう。現にヒッチコックは全ての絵コンテを撮影開始までに完成させ、一度決まった構図は俳優の位置を含め1センチ足りとも動かさなかった。コンテをカメラマンに渡し、現場ではカメラを覗かなかったヒッチコックにとって、俳優の余計な動きや演技などは、煩わしいだけであった。

監督3作目にあたる『下宿人』(1926)は、写実を排し象徴や比喩をふんだんに用いるドイツ表現主義的手法と、ヒッチコックのストーリー作りが見事に融合した、「ヒッチコックらしさ」のあふれた最初の作品といえる。自分の作品中にこっそりカメオ出演することで知られるヒッチコックだが、この『下宿人』において初めてスクリーン上にその姿を見せている。本作のヒットで一躍有望な若手英国監督として認められた彼は、その後も矢継ぎ早に作品を発表していく。1928年には一人娘であるパトリシアも誕生し、ヒッチコックは公私ともに充実した日々を送る。

ハリウッドの英国人として

ヒッチコックが家族と共にハリウッドに移ったのは1939年。米国プロデューサーからの製作依頼がきっかけだった。ロンドンでは米国映画会社に勤めたこともあり、何より米国映画を偏愛していたヒッチコックにしては、このハリウッド行きは遅いようにも思える。映画監督フランソワ・トリュフォーは、ヒッチコックを「ハリウッドで映画を撮るために生まれてきた様な人間」といい、それにも関わらずヒッチコックが英国にしばらく留まっていたのは「こちらからノコノコ出かけて行くのではなく、ハリウッドから招かれるまで待っていた」とし、ヒッチコックの自尊心の強さが理由だろうと推測している。

この頃すでにヒッチコックは英国でもっとも才能ある監督の一人に数えられており、俳優より小道具に気を配るという評判や、「俳優は家畜だ」という毒舌でも知られ、ひねりのあるユーモアを持つ少々エキセントリックな人物という風評を得ていた。さらに、幼い頃から太り気味だったヒッチコックだが、肥満に関する問題は成人してからも続いていた。若い時から美食を好んだ彼は、撮影合間の昼食もフルコース並みだったという。お気に入りのメニューはステーキ、ポテト、サラダで、毎日好んで同じものを食べた。昼食に招かれた俳優たちは、その量の多さに驚いている。

また、ヒッチコックと言えば黒のスーツに黒のネクタイが定番だが、自宅のワードローブには何十着もの仕立ての良い黒いスーツが並び、どれもほとんど同じデザインだったとされる。まだ冷房装置もない時代、ライトの照りつけるスタジオで、背広も脱がずネクタイさえ緩めないヒッチコックの姿は、米国においてはかなり異質なものに映ったであろう。これは青果商の父親がいつもきちんとした服装で働いていたという、ヒッチコックの思い出に繋がっている。「レタスに敬意を表していたわけではなく、自分の仕事に誇りをもっていたから」ネクタイを緩めなかったのだとして、自分のスーツ姿にも同じ意味合いがあるとしている。

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米国進出第1作目となった『レベッカ』の撮影風景。ローレンス・オリヴィエ=写真右、ジョーン・フォンテイン=同中央=と。 ©ABC/Disney/Buena Vista

米国での第1作は、英国の女流作家ダフネ・デュ・モーリアの小説を映画化した『レベッカ』(1940)。ヒッチコックはハリウッド進出当初、プロデューサーから英国がらみの作品ばかりを依頼されている。だが米国人の考える「英国」のイメージを忠実になぞらなければいけないことや、ロンドンの街中で男性がふつうに使う言い回しが、米国では「ホモセクシャル的」として、即座に書き直しを命じられてしまうなど、ヒッチコックは英米の違いにかなり頭を痛めたようだ。さらに、当時のハリウッドではミステリーやサスペンスなどのジャンルは「B級映画」と考えられていたため、ヒッチコックが出演依頼をした有名俳優たちの多くが、その依頼を断って来るという悲劇にも見舞われた。

ヒッチコックがハリウッドに移って間もなく、第二次世界大戦が勃発。1940年にはドイツ軍による英国本土爆撃が激化し、戦火は次第にヨーロッパ全土へと広がっていく。連合国に危機が迫っている時期に、一人ハリウッドで安穏としているべきではないと考えたヒッチコックは、1944年にロンドンへ飛び、フランスの対独レジスタンス運動を称賛する2本の短編作品を作り上げる。さらに翌年のドイツ降伏の際には、英国情報省(Ministry of Information)の依頼で、終戦直後のユダヤ人強制収容所の記録映画製作にも協力している。収容所を訪れたヒッチコックは、想像を遥かに超えた惨状に非常なショックを受けるが、いかなる状況であろうと目を背けずに記録しようと決意する。

だが出来上がった記録フィルムを観た英国政府は、その作品があまりにも残酷に描かれていることに驚き、これをお蔵入りにしてしまう。フィルムは、収容所で骨と皮ばかりになり、目の落ち窪んだユダヤ人たちの死体のアップと共に、赤い頬をして健康的な、収容所近隣に住む小太りの一般ドイツ市民を映し出しており、そこにヒッチコック自身のユーモアを交えた辛辣なナレーションがかぶさるショッキングな出来映えで、有刺鉄線に隔てられた2つの世界の違いをあますことなく捉えている。

英国政府は「敗戦から立ち直り、これから新たに国を建て直そうとしているドイツ国民に、このような物を見せるのはモラルに反する」というのを理由に上映を禁止。ヒッチコックは落胆し、冒頭の名言、「どんなに怖くても映画はしょせん映画だよ。一番怖いのは現実なんだ」を吐いた。ちなみに本作品にタイトルはなく、単に整理番号『F3080』、通称『Memory of the Camps』と呼ばれ、この作品が初めて日の目を見るのは、約40年後の1980年代後半、英国のテレビ・ドキュメンタリー番組『A Painful Reminder』としてであった。この時も、ショックを受けた視聴者からの非難がテレビ局に殺到したという。

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写真左:『裏窓』のセットにてジェームズ・スチュアート=左=とグレース・ケリー=同中央=と。©Universal Studios
写真右:『めまい』のセットにてキム・ノヴァクと。©Universal Studios

愛妻家だったヒッチコック

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写真前列の左からヒッチコック、孫のメアリー・アルマ、妻のアルマ、後列の左から一人娘のパトリシア、孫のテリー、娘婿のジョセフ。

自作のヒロインにクールなブロンド女性を起用することが多かったヒッチコック監督。だが彼の「ブロンド好み」は作品中のことに過ぎず、実生活において彼が生涯を通じて愛した唯一の女性は、妻のアルマ・レヴィルだった。彼女は小柄で赤毛の可愛らしい英国人女性で、巨体のヒッチコックと彼に寄り添う小さなアルマのおしどり夫婦ぶりは、映画界では有名だったという。ヒッチコックは仕事上で大切な決断をする際に「うちへ帰ってマダムに相談するよ」としばしば言ったそうで、アルマに対する彼の信頼の程が伺われる。

20歳のヒッチコックが字幕制作係としてフェイマス・プレイヤーズ・ラスキー社に入社した時、アルマはすでにスクリプト担当のベテランだった。それまで女性とつき合った経験もなく奥手だったヒッチコックは、明るく皆の人気者だったアルマになかなか声をかけることが出来ずにいたという。最初の出会いから実に3年後、ヒッチコックがアルマに仕事依頼の電話をかけたのがきっかけで、それ以降、彼女は常にヒッチコックを影で支える重要なパートナーになる。2人は1926年の12月に結婚するが、プロポーズはドイツでの撮影が終了し英国へ向かう船上で、アルマはヒッチコックの助監督として同行していた。あいにく折からの悪天候で船の揺れがひどく、激しい吐き気に悩まされていた彼女は、ヒッチコックの申し出に、口を覆ったままうなずいたという。

撮影のない時、ヒッチコックはアルマと一緒に過ごす時間を何よりも楽しみにしており、ほとんど外出もしなかった。インタビューでも、夕食後二人で一緒にソファに座り、黙って別々の物を読む静かな楽しみについて言及している。ヒッチコックはタイムズ紙を、アルマは小説を好んだが、それが次の作品のアイデアに繋がる場合もあったといわれる。1979年にヒッチコックが米国映画協会(American Film Institute)から功労賞を贈られた際、ヒッチコックは「この場を借りて、特に4人の協力者の名前を挙げてお礼をいいたい。—編集者、脚本家、我が娘パットの母親、そして素晴らしい料理を作る家庭人。—この4人とはいずれも我妻アルマ・レヴィルのことです。彼女なしでは、今の私も存在しないのです」とスピーチしている。

ヒッチコックは晩年、肥満が原因の病に悩まされるが、彼と同年齢のアルマも看護師に付き添われる毎日であった。アルマに先立たれ自分だけが取り残されてしまうのではないかという恐怖心は、ヒッチコックを酒びたりにし、プロダクション事務所から泥酔状態のところを担がれて帰宅することも度々あったという。「絶対に妻より先に死にたい。彼女なしでは生きて行けないから」と言われていたアルマは、夫の言いつけを守る様にヒッチコックの死を見届け、そのわずか2年後に死去する。

お茶の間の人気者に

『白い恐怖』(1946)以降、デヴィッド・O・セルズニックを始めとする、口うるさい辣腕米国プロデューサーとの契約が切れたヒッチコックは、自らのプロダクションを立ち上げ、以後全ての自作のプロデュースに携わる。これによりヒッチコックは水を得た魚のようにヒット作を放ち始める。

1955年以降は彼の最も創作活動の盛んな時期であり、『知りすぎた男』『めまい』『北北西に進路をとれ』『サイコ』『鳥』などを矢継ぎ早に発表する。さらにテレビという新しい映像媒体にも興味を向け、米テレビ・シリーズ『ヒッチコック劇場』(原題 : Alfred Hitchcock Presents)を総監修する。これは1962年まで放映された毎回完結の短編サスペンスドラマ・シリーズだが、どのエピソードにもユーモアやどんでん返しの妙味が効いた人気番組となった。葬送行進曲で始まるこの番組は、ヒッチコック自身も数エピソードを監督する他、自ら司会役を買って出て、番組内の冒頭と終わりに軽妙なユーモアを交えた解説を行い、一躍お茶の間に顔を知られることになる。このシリーズは日本を含む海外でも放映され(日本では朝倉一雄がヒッチコックの声を担当)、当時は新人であったロバート・アルトマン、アーサー・ヒラー、シドニー・ポロックといった現在米映画界で活躍する有名監督たちの作品も見ることができる。

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写真左:『鳥』のセットにて ©Universal Studios
写真右:『ヒッチコック劇場』でおどけた司会役をこなすヒッチコック ©Universal Studios

1960年代に入ると、「ウーマンリブ」と呼ばれる女性解放運動が米国に吹き荒れる。ちょうど同じ頃、ヒッチコック作品のヒロインたちが皆「ブロンド美人」ばかりであるという批判が噴出した。確かにヒッチコックは好んでブロンドの女性を起用しており、中でもグレース・ケリーは大のお気に入りだった。ヒッチコックによれば、彼が都会的なソフィスティケートされた金髪美人ばかりを使う理由は、「内面に炎のように燃える情熱を秘めながら、表面は冷ややかに慎ましやかに装っている女性」の方が驚きや発見があり、サスペンスに向いているからとのことで、マリリン・モンローやブリジッド・バルドーのような開けっぴろげな性的魅力を持つ女性には驚きがない、と説明している。ヒッチコックが俳優を小道具のように扱うといわれる所以だろう。ベトナム戦争やヒッピー・ムーブメントが起こる中、ヒッチコック作品の登場人物たちは、ヒッチコックの黒いスーツ姿と同様に、次第に「時代遅れ」の様相を示し始めていた。

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結婚後、ヒッチコックが妻や娘と暮らした家(写真中央/153 Cromwell Road, London SW5 0TQ)。1939年に一家でハリウッドへ移るまで13年間住んだ。

1960年代後半、長年ヒッチコックの手足となって働いてきたスタッフの死が相次ぐようになる。ヒッチコックの気性もクセも心得ていた彼らの死は、妥協をしないヒッチコックには大きな痛手であった。さらに、肥満が原因で次第に歩行に困難を感じ始めてもいて、『ファミリー・プロット』(1976)の撮影中に心臓発作を起こした彼は、歩くことができずに車の中から指示を出していたという。

次作『みじかい夜』のシナリオを前にスタッフと話し合うヒッチコックは、腎臓病と関節炎も併発しており、もはや自分が思うように映画を撮れない体であることに絶望していた。1979年5月、ヒッチコックは自ら「アルフレッド・ヒッチコック・プロダクション」の事務所を閉じてしまう。もう映画を撮ることができないということは、ヒッチコックには死を意味していた。『たかが映画じゃないか』といったサスペンスの巨匠にとって、映画は彼のすべてだったともいえる。翌年の4月29日、アルフレッド・ヒッチコックはビヴァリー・ヒルズの自宅で眠ったまま息を引き取る。80歳であった。死の半年前にナイトの称号を受けていたため、5月8日に故郷のロンドン、ウェストミンスター寺院で国葬扱いの礼拝が行われる。だが生前の希望通り遺体は米国で火葬にされ、遺灰は太平洋に散布された。2年後には妻のアルマの遺灰も、同じ場所で散布されたという。

東ロンドン・レイトンストーン生まれのアルフレッド・ヒッチコック卿の人生は、チャンスと才能と生涯の伴侶に恵まれ、好きなことだけをやり通した幸福な一生だったといえる。

ヒッチコックが『サイコ』を制作するまでの葛藤を描いたスティーヴン・レベロのノンフィクション小説『アルフレッド・ヒッチコック&ザ・メイキング・オブ・サイコ』をもとに、現在ヒッチコックその人を描いた映画が製作中だ。ヒッチコック役はアンソニー・ホプキンス、妻のアルマをヘレン・ミレンが演じるという。また、『鳥』をジョージ・クルーニーとナオミ・ワッツでリメイクする企画も進行中とのことだ。世の中に怖がりたい観客がいる限り、ヒッチコックの名は忘れ去られることはなさそうだ。


週刊ジャーニー No.1280(2023年3月2日)掲載

銃殺された戦場のナース イーデス・カヴェル

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●サバイバー●取材・執筆/手島 功

■第一次世界大戦初期、ドイツ軍によって占領されたブリュッセルの病院で、懸命に看護にあたる英国人看護婦長がいた。ジュネーブ条約と赤十字の理念の下、運ばれて来る負傷者は敵味方分け隔てなく献身的に看護した。しかし後に彼女はドイツ軍によって逮捕され、軍法会議にかけられた末、銃殺刑に処された。献身を貫いた彼女の身に一体何が起こったのか。英国でも日々忘れ去られつつある戦場のヒロインの実像に迫る。

誰かの役に立ちたい

本編の主人公、名前をイーデス・ルイーザ・カヴェル(Edith Louisa Cavell)という。イーデスは1865年12月4日、ノーフォーク県都ノリッチに近いスウォーデストン村に、4人きょうだいの長女として生まれた。英国国教会の牧師だった父親や家庭教師から在宅教育を受けながら厳しく育てられた。

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イーデスの父が勤務したスウォーデストンの聖メアリー・ヴァージン教会。

イーデスはフランス語と絵画に才能を発揮した。ヴィクトリア時代の習わしとして両親は子どもたちに地域社会への奉仕と貢献を促したが、16歳の時、父親の書斎でタバコを吸っているところを見咎められた。父親は在宅教育に限界を感じ、イーデスを全寮制の女学校に預けた。

21歳になったイーデスは自宅に戻った。ロマンスがあって良い年齢になっていたが、過疎の村から女学校の寮に入れられたイーデスに男性と出会う機会はなかった。父親はイーデスに家庭教師(governess)として働きに出るよう命じた。この頃、イングランドには2万5000人ほどの家庭教師がいたとされる。家庭教師と言っても実際には見知らぬ家庭に住み込み、食住とわずかな賃金を受けながら子どもたちの世話をしたり家事を手伝うなど、日本で言うお手伝いさんのような存在だった。25歳までに結婚相手が見つかれば御の字。それを超えると陰で「行き遅れ」と言われた。

25歳の時、イーデスはブリュッセル市内の富裕層宅で家庭教師の職を得た。期待を胸に訪れたブリュッセル。生まれて初めて体験する大都会での生活。彼女は4人の子どもたちに英語を教える傍ら、自らはフランス語を磨いた。しかし、29歳の時、イーデスは倒れた父の面倒を見るために帰国した。妹2人は看護婦になっていた。献身的に父の看護をする中でイーデスは人のために尽くすことの高潔さを知った。

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40歳頃のフローレンス・ナイチンゲール (Florence Nightingale, 1820~1910)。

「傷つき、不幸せな人の助けになりたい。何かの役に立ちたい。人のために何かをしたい」という衝動が彼女を突き動かした。この頃、看護婦という職業はイングランドにあってもその地位が確立されていなかった。看護とは本来、家の誰かがするもので、他人の身の回りの世話をする者はアルコール中毒患者や娼婦、老婆、そして他にすることがない人間がするものと認識されていた。その古い認識を変えようとナイチンゲールがロンドンで奔走している最中だった。しかしノーフォークの田舎にまでその影響が及ぶのはまだ先のことだった。田舎では病院自体が稀な存在だった。

三十路の転機

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旧ロンドン病院に飾られたイーデス・カヴェルのブループラーク。

1895年12月4日、イーデスは30歳の誕生日を迎えた。父親も回復したある日、ロンドン病院(London Hospital=現ロイヤル・ロンドン病院)が看護婦アシスタントを募集していることを知り履歴書を送付した。しばらくして採用の通知が届いた。イーデスは偶然にもナイチンゲールが看護婦を志した時と同じ30歳でナース見習いとなった。

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イーデスが見習い看護婦として学んだ旧ロンドン病院。現在は改装され、タウンホールになっている。

半年ほど勤務した後、イーデスは看護婦という仕事に生涯を捧げようと心に決め、正式な訓練を受けた。ロンドン病院は東ロンドン、ホワイトチャペルで病床700を備える大病院だった。もともとは篤志家たちがファンドを募って始めた病院だった。ホワイトチャペルには職を求めてロンドンに移って来たアイルランド人労働者の他、迫害を逃れて東欧から渡ってきたユダヤ人難民などが劣悪な環境の中で肩を寄せ合って暮らしていた。

イーデスが働き始める7年前には病院の目と鼻の先で世界初の劇場型連続娼婦殺人事件「ジャック・ザ・リッパー(切り裂きジャック)」が起こり、遺体のいくつかが同病院に運び込まれた。犯人と思われる人物から病院宛てに「内臓を焼いて食べた。美味かった」と書かれた挑発的な手紙が届くなどしてロンドン病院は一躍注目の的となった。

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イーデスが働き始める数年前までエレファントマンことジョゼフ・メリック氏がロンドン病院内の一室で暮らしていた。

また、ほぼ同じ頃、のちに「エレファントマン」として映画化されたジョゼフ・メリックが病院内の一室をあてがわれ1890年に27歳で息を引き取るまでこの病院内で暮らしていた。

まともな労働基準法がない時代、看護婦の仕事は過酷だった。朝6時起床、6時半から朝食をとると7時から12時間の勤務。休憩は昼食時の30分のみだった。夜勤の場合は午後9時から翌朝8時まで。年2週間与えられる休暇だけが生身の人間に戻れる至福の時だった。その後、イーデスは私設看護婦として独立。患者宅を訪問したり、依頼があれば病院副寮長を務めるなど忙しい日々を送っていた。

運命のブリュッセル行

1907年、イーデスはブリュッセルに新設される見習い看護婦養成校の看護婦長に推薦された。養成校は英国式の近代的な看護婦育成法を広めることを目的としており、職務に熱心でフランス語に堪能な指導者が求められていた。42歳になっていたイーデスに白羽の矢が立った。

学校は同年10月1日に開校したが初年度の入校者はわずか4名だった。イーデスは清廉を意味するエーデルワイス(西洋ウスユキソウ)を学校のシンボルと定め、ユニフォームにもエーデルワイスの刺繍を施した。教育方針は規律や規則に厳格なヴィクトリア時代そのものの教育を反映させたものだった。身だしなみは特にそうで、若い生徒たちがナースキャップを斜めに被るなど、お洒落をしたがると「ちゃんと被りなさい」と𠮟りつけて直させた。朝7時の朝食時には真っ先にダイニングテーブルに着いた。手元に懐中時計を置き、遅れた者を厳しく叱責した。

ナイチンゲールの教本通り、学校内の衛生状態向上に神経をとがらせ、まるで嫌味な姑のように部屋中をチェックし、少しでも指にホコリが付くと拭き掃除のやり直しを命じた。イーデスは時に冷酷な人物として生徒たちの目に映ったが、時折見せる笑顔はたちまち人の心を溶解させた。教師としての仕事を終えるとイーデスは総務と会計の仕事に没頭した。

開校からわずか1年後、ブリュッセルでは早くも近代的看護の重要性が理解され始め、英国式養成法が評価されるようになった。英国式は近代看護のモデルとなった。開校から2年後、23人が入校してきた。生徒たちはオランダやドイツ、ロシアやベルギーなど出身もまちまちだったが、最新の英国式看護法を学んで自国の看護技術に寄与しようとする真剣で実直な若い女性たちだった。

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イーデスと共に写真に収まるジャック(右)とドン。

指導に厳しいイーデスだったが、学校に物乞いが来ると食べ物とわずかばかりの現金を分け与えた。また、年の瀬には子どもたちのためにクリスマスパーティーを必ず開いた。イーデスには社会的弱者への献身と言う、牧師であった父の生き様が脊髄にまで沁み込んでいた。また、飲食に対して極めてストイックで自己否定的。さらに禁欲的で神との対話を重視した。一方、イーデスは学校敷地内に迷い込んできた2匹の犬を保護して可愛がった。ジャックとドンと名付けた。野良犬だったため警戒心が強く、人に向かってよく吠えたが不思議とイーデスにだけ懐いた。

わずか4人の生徒から始まった養成校だったが6年後には300人を超える看護師を育て上げた。養成校は予想以上のスピードで軌道に乗った。何もかもが順調に見え、イーデスも神から与えられた使命を果たせているのかもしれないと密かに胸をなで下ろした。しかしこの頃、ヨーロッパには第一次世界大戦の暗い影がひたひたと迫っていた。

不吉な電報

1914年8月1日、ノーフォークに里帰りしていたイーデスの元に1通の電報が届いた。「ドイツ軍のベルギー侵攻が迫っている」という内容だった。未亡人となっていた老母は「危険だから行かないで欲しい」とすがり、イーデスを困らせた。

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イーデスが育ったスウォーデストン村の実家。

翌朝、身支度を終えたイーデスは病床の母に「戦争は身体だけでなく人の心にも傷を負わせます。学校で戦傷者の看護経験があるのはボーア戦争を体験した私しかおりません。私が育てた大切な生徒たちが不安な思いで私の帰りを待っているのです。彼らを見捨てることはできません。必ず、生きて帰ります。約束致します。その日までお母さまもどうかお元気で」。そう言い残して実家を飛び出したイーデスはブリュッセル行きのフェリーに飛び乗った。イーデスは翌年、母親との約束を破ることになる。

イーデスが実家を出たその日、ドイツ軍はパリに軍を進めるため、中立国だったベルギーに「我が軍を無抵抗で通過させよ。明朝7時までに返答がなければ敵と見做し、力ずくで通過する」と通達していた。8月3日朝、ベルギー政府はドイツ軍の恫喝を無視し、戦闘の準備を急いだ。今まさにドイツ軍のベルギー侵攻が始まろうとしていた。そんな緊迫した状況の中、イーデスは看護学校に戻った。イーデスの戦争が今まさに始まろうとしていた。イーデス・カヴェル、銃殺まであと14ヵ月。

(中編に続く)

※本稿では時代背景を鑑み、看護師をあえて看護婦と表現しています。

参考資料: Diana Souhami著「Edith Cavell」、Nick Miller著「Edith Cavell: A Forgotten Heroine」他。

週刊ジャーニー No.1296(2023年6月22日)掲載

銃殺された戦場のナース イーデス・カヴェル 中編

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銃殺された戦場のナース イーデス・カヴェル 中編
ブリュッセルの看護婦養成校で生徒たちと写真に収まるイーデス・カヴェル(中央:濃い色の制服を着た女性ふたりのうち、向かって右側)。

●サバイバー●取材・執筆/手島 功

■ドイツ軍はフランス侵攻にあたり、既に要塞化されていたフランスとの国境線を避け、中立国ベルギーを通過する方針を固めた。1914年8月3日午後、ドイツ軍はベルギーに「我が軍を無抵抗で通過させよ。明朝午前7時までに回答なき場合は敵と見做す」と通達。ベルギー側はこれを無視。ドイツ軍はベルギー侵攻を決めた。看護婦長イーデス・カヴェルの戦争が始まる。

前編はこちら

占領下のブリュッセル

1914年8月4日午前9時、ドイツ軍はベルギー軍への侵攻を開始した。ベルギー中立の保障という立場にあったイギリスは即日、ドイツに宣戦布告した。故郷ノーフォークから前日に戻ったばかりのイーデスはドイツ人看護婦見習い生たちを伴ってブリュッセル北駅へと急いだ。そこから中立国オランダのアムステルダム行き最終列車が出る。別れ際、イーデスは困惑し涙を流すドイツ人生徒たちを抱きしめ「どこにいようと、看護婦として与えられた職務を全うしなさい」と檄を飛ばし笑顔で見送った。

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看護婦養成校の庭で犬と写るイーデス・カヴェル。

イーデスの横に幼いドイツ人の娘が立っていた。マリエという名のメイドだった。ドイツに誰一人、身寄りのないマリエはそばを離れたくないとイーデスに泣いてすがった。イーデスはマリエを手元に置くことにした。イングランド出身の見習いたちの何人かもブリュッセルに残ると言い出した。イーデスは帰国を説得しながらも心の底では彼女たちに感謝していた。

ブリュッセルに残った看護婦たちは負傷者を受け入れるベッドを整える作業に没頭した。養成校の屋根に赤十字の旗が翻った。養成校や近隣の病院はことごとく赤十字社の管理下に入った。何とか受け入れ態勢を整えたものの、大量の負傷兵が運ばれて来た場合、どうやって彼らを食べさせていけばいいのか。学校には大人数の食事を賄えるキッチンがない。そもそも戦争となれば、食材自体どうやって調達すればいいのか。イーデスは途方に暮れた。

ドイツ軍とベルギー軍はリエージュ(Liège)という国境付近の街で対峙していた。守るベルギー軍の兵力は3万7000。一方のドイツ軍は10万7000。ベルギー軍は英仏からの援軍を待ちながら善戦した。しかしドイツ軍の火力は圧倒的で、開戦から2週間経った8月17日、リエージュの防衛線は崩壊。ベルギー軍は後退を余儀なくされた。ベルギーはたちまちドイツ軍に占領された。

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ブリュッセルに到着したドイツ軍。

3日後、ドイツ軍はブリュッセルに到達した。学校前をドイツ軍兵士たちが軍靴を鳴らして行進した。その様子を窓から見ていたイーデスは怯える見習い看護婦たちを教室に集めて言った。「ジュネーブ条約、ならびに赤十字社の理念の元、敵であれ、味方であれ、分け隔てなく看護いたしましょう」。

「えっ、敵兵もですか!?」若い看護婦たちは動揺を隠せなかった。イーデスは表情を変えることなく言葉を繋いだ。「誰もが誰かの父であり、夫であり、息子なのです。看護婦はいさかいの表舞台に出るべきではありません。言葉を慎み、患者に不必要に介入しないよう努め、プロとして職務に専念致しましょう」と告げた。

養成校や近隣の病院は次々に運ばれて来る傷病兵たちでたちまち大混乱となった。イーデスたちの日常は一転した。ドイツ軍は抵抗を続けるベルギー兵やパルチザンを捕らえて殺害した。生け捕りにした負傷者はドイツ本国の病院に、無傷の者は強制収容所に送った。

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ドイツ軍の攻撃で破壊され尽くしたベルギー、フランドルの町。

危険なミッション

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レジスタンス活動に身を投じたベルギー貴族、クロイ王女マリー。

1914年12月のある日、イーデスに1通の極秘文書が届いた。クロイ王女マリーというベルギー人貴族からだった。フランスとの国境に近いクロイ王女の居城周辺もドイツ軍によって占領されていた。ドイツ軍は国境や港湾を封鎖してベルギーを孤立状態にしていた。フランス国境近くにいた英ミドルセックス連隊やフランス軍の兵士らは逃げ遅れ、散り散りになって森の中や農家の納屋などに潜んでいた。ドイツ軍は彼らを見つけ次第射殺した。

クロイ王女は何とか彼らを国外に脱出させる方法はないかと思案していた。いくつかのルートが検討されたが最終的にイーデスの養成校経由で中立国オランダに脱出させるのが最も成功の可能性が高いと結論付けた。クロイ王女は手紙で英仏兵士らが置かれた状況とレジスタンスとの連携による脱出の方法をこと細かに説明し、イーデスの協力を仰いだ。

極めて危険なミッションだった。逃亡の手伝いをしていたことが発覚すれば処罰は相当厳しいものとなる。イーデスは迷った。しかし「弱者を救済したい」という強い意志が彼女の背中を押した。戦傷者の看護をしながら、戦場に閉じ込められた友軍兵士たちを国外に脱出させるという危険なミッションが秘密裏に動き始めた。

12月29日、1回目の作戦が実行に移された。一般人に紛れ込んだ一人の兵士が夜陰に紛れて養成校の扉を叩いた。合言葉は「ミスター・ヨーク(Mr Yorc)」。イーデスらは地下の小部屋に男を匿った。そして彼をオランダまで送り届けるレジスタンスからの連絡を待った。決行の夜が来るとイーデスは兵士にわずかばかりの現金を与え、無事を祈って夜陰に送り出した。この作業を数日に一度の割合で繰り返した。

英兵にはノーフォークの母の住所を教えた。無事、英国まで逃げ帰った兵士はイーデスの母親に礼を述べる手紙を書いた。母親は無邪気に「〇〇さんが着きましたよ」とイーデスに手紙を書いた。イーデスは蒼ざめた。母の手紙にはそれ以外、不審なことは書かれていなかったが、手紙はドイツ軍によって検閲されているに違いなかった。それ以降、イーデスは匿った兵士に自宅住所を教えるのを止めた。

カジュアル・スパイと秘密警察

1915年も6月頃になると、訪ねて来る兵士の数も目に見えて増えた。しかしこの頃、イーデスは自分たちの行動が監視されていることに気づいていた。ブリュッセルではカジュアル・スパイと呼ばれる密告屋が市民の中に放たれていた。彼らは戦争が始まる前は商人や庭師、肉屋や囚人だった国籍もまちまちな人たちで男女問わず6000人が密偵として活動していた。トラムに乗っては周囲の会話に耳をそばだて、集会に加わっては議論に加わるなどした。不審な動きがあるとすぐにドイツ軍に報告した。

1年だけで60万人のベルギー人が検挙され、罰金を科されたり牢にぶち込まれたり、銃殺されるなどした。イーデスは外出すると決まって尾行して来る影があることに気づいていた。これまでオランダに脱出させた兵士の数はおよそ200。「これ以上は危険だ」という意見が出始めた。しかしイーデスは「捕まったらどのみち罰せられるでしょう。だったら出来るだけ多くの人を救って罰せられましょう」と言って意に介さなかった。周囲は沈黙せざるを得なかった。しかしこの時、彼らの行動はドイツ軍にほぼ筒抜けになっていた。

 

7月31日、別動隊の拠点に憲兵たちが雪崩れ込み、レジスタンスが一斉に逮捕された。追手がイーデスの前に姿を現すのはもはや時間の問題だった。8月5日午後、養成校に秘密警察がやって来た。イーデスはスパイ容疑で逮捕された。その後、クロイ王女をはじめ脱出の手助けをした総勢十数名が一斉に逮捕された。

過酷過ぎる判決

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イーデスが収容されたセント・ジャイルズ刑務所の独房。

イーデスはセント・ジャイルズ刑務所の独房に収監された。独房は縦4メートル×横2・5メートル、高さは2・75メートル。身長160センチのイーデスには十分過ぎる広さだった。

逮捕から3日後の8月8日、イーデスはブリュッセル市内の警察署に連行され1回目の取り調べを受けた。小さな個室には3人の男が待っていた。秘密警察がドイツ語で質問した内容をピンクホフという軍曹がフランス語に訳してイーデスに伝えた。イーデスがフランス語で回答するとピンクホフがドイツ語に訳して上官に伝えた。10日後、2度目の取り調べが行われたが1回目と全く同じ顔触れだった。イーデスには彼女を擁護する第三者をつけることも許されなかった。さらにたった一人の通訳の力量と人間性次第で話した内容の印象がガラリと変わるという、真に公平性に欠けた取り調べだった。ピンクホフはイーデスに良い印象を抱いていなかった。

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イーデスが独房から同僚に宛てて書いた手紙。

独房の中でイーデスは養成校の総務や経理の仕事を続けた。それが終わると聖書を読み、祈り、母親や友人宛に手紙を書くなど、穏やかな日々を過ごした。逮捕から3週間ほど経った頃、イーデス逮捕のニュースは英国にも伝わった。軍は外務省に掛け合い、ドイツ軍に早期釈放を要求した。また、駐英米国大使にも協力を仰ぎ、圧力をかけるよう要請した。

10月7日、イーデスらの裁判が始まった。法廷に臨むにあたりイーデスは白いブラウスに濃紺のジャケットとスカートをかちっとまとい、その上にグレーのストールを羽織った。

クロイ王女や同僚たちはイーデスに「裁判官や傍聴人の同情を得られるかもしれない」と看護婦のユニフォームを着て出廷するよう懇願した。イーデスは首を横に振って言った。「私は看護婦という職業を代表して法廷に立つのではありません。あくまでも私個人として臨むのです」。

イーデスは自分がユニフォームを着ることで看護婦と言う職業自体に偏見を持たれることを危惧した。イーデスの後、何人もの同僚や教え子たちの公判が控えている。彼らが不利になることだけは避けたかった。

裁判は3日間に及んだ。最終日となった10月9日、判決が言い渡された。

法廷はスパイ行為ならびにドイツに対する反逆行為を主導したとしてイーデスら5人に銃殺刑を言い渡した。法廷内に悲鳴が轟いた。他の十数名も最高15年の強制労働など大方の予想を遥かに超えた厳しい判決だった。クロイ王女は首謀者の一人だったがドイツ貴族との血縁から10年の強制労働と忖度された。

死刑判決の知らせを受けた英軍部は国際社会に呼びかけ、赦免の圧力をかけ始めた。イーデス・カヴェル銃殺の時が迫っていた。

(後編に続く)

※本稿では時代背景を鑑み、看護師をあえて看護婦と表現しています。

参考資料: Diana Souhami著「Edith Cavell」、Nick Miller著「Edith Cavell: A Forgotten Heroine」他。

週刊ジャーニー No.1297(2023年6月29日)掲載

銃殺された戦場のナース イーデス・カヴェル 後編

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銃殺された戦場のナース イーデス・カヴェル 後編

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/手島 功

■第一次世界大戦下のブリュッセル。病院で負傷兵の看護にあたっていたイーデス・カヴェル(Edith Cavell)らだったが、同時にレジスタンスから接触を受け、ベルギー内に取り残された英仏軍兵士を中立国オランダに脱出させる危険なミッションを手伝っていた。しかしついにドイツ秘密警察に逮捕され、軍法会議にかけられた末、イーデスに死刑判決が下った。

前編はこちら
中編はこちら

2人の牧師

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ユニフォームをまとったイーデス。

死刑判決を受けた翌日、イーデスは遺書をしたためた。1通は母親にこれまでの感謝と別れを告げるもの。もう1通は見習い看護婦たちに宛てたものだった。それは「親愛なる皆さん。悲しいことですがお別れを言わなければなりません」から始まった。そして厳しい指導に堪えて立派な看護婦に成長した生徒たちを称える言葉の数々を紡いだ。最後に「もし私のことを恨んでいる人がいたとしたら、どうか私を許して下さい。私は時に厳し過ぎたかもしれません。ですが誰も不公平に扱ったことはありません。私はあなたたち全員を心より愛していました。今まで本当にありがとう。あなたたちのことが大好きな看護婦長 イーデス・カヴェル 1915年10月10日」と締めくくられていた。

翌10月11日。ドイツ人牧師ポール・ル・シュールは憂鬱な足取りで刑務所内廊下を歩いていた。今からイーデスに死刑執行の日時を伝えなくてはならない。フランス語ができる自分を呪った。

独房の前に着くと看守が開錠するのを待った。ドアが開いた。イーデスは背筋をピンと伸ばして立っていた。牧師は軽く会釈し「入ってもよろしいでしょうか」と尋ねた。イーデスは静かに頷いた。牧師が自己紹介を終えると、イーデスは穏やかな口調で尋ねた。

「私にはあとどれくらい時間が残されているのでしょうか」。

真っすぐに牧師を見詰めるイーデス。牧師は少したじろぎながら答えた。

「残念ながら、明日の朝までです」。

イーデスの頬はたちまちピンク色に染まった。瞳は走馬灯を見ているかのように細かく動揺した。牧師が祈りを捧げても良いかと尋ねるとイーデスは申し訳なさそうな表情で首を横に振った。そこで牧師はブリュッセルにアイルランド人の英国国教会牧師がいることを告げ、彼の聖餐(せいさん)を受けたいかと尋ねた。途端にイーデスの瞳に生気がみなぎり、感謝と共にその申し出を受け入れた。

牧師はイーデスに別れを告げるとアイルランド人牧師宅へと急いだ。アイルランド人牧師はスターリング・ガハンと言った。ガハンは留守にしていた。ドイツ人牧師は「英国人女性に死が迫っている」と書いたメモをドアに挟んでその場を去った。その頃、アメリカやスペインのブリュッセル駐在公使らは「彼女は看護婦としてドイツ兵の看護もしていた立派な人物。死刑は過酷過ぎる」とドイツ政府に宛てて刑の見直しをするよう除名嘆願の手紙を書き続けていた。

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イーデスらが収監されたセント・ジャイルズ刑務所。

最後の晩餐

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処刑前夜、イーデスのもとを訪れたガハン牧師(Reverend H. Stirling Gahan)。

ガハン牧師が帰宅したのは午後6時半頃だった。メモを見て驚き、聖杯や聖瓶など聖餐の支度をしてから刑務所に向かった。到着したのは午後9時半を過ぎていた。刑務所のゲートで来訪を告げると看守の一人が「素晴らしい女性です」と言いながらイーデスの真似をして背筋をピンと伸ばした。

独房に案内されるとイーデスが穏やかな表情でガハン牧師を迎え入れた。イーデスは木製の椅子を牧師に薦めた。どちらからともなく静かな会話が始まった。牧師は今も多くの人が助命のために動いているので希望を捨てないようにと告げた。しかしイーデスは裁判の結果を批判することなく喜んで祖国のために命を捧げるつもりだと答えた。そして「ここの方々はどなたも親切な方ばかりでした」と収監されてから過ごした独房での穏やかな10週間に感謝した。

続けて「死は怖くないのです。これまでさんざん人の死を見てきましたから。死は珍しいことでも恐れることでもありません。ただ、何とも忙しく、難しい人生でした」と言って微笑んだ。次の瞬間、イーデスは一転して表情を引き締め、自らに言い聞かせるようにして言った。「神と来世を前にして一言だけ言わせて下さい。私は分かったのです。愛国心だけでは不十分です。私は誰も憎んだり恨んだりしてはならないのです」。ガハン牧師は圧倒された。それは隣人同士が殺し合う、愚かな戦争に対する痛烈な批判だった。ドイツ人を含む多様な国々から来た献身的な女性たち数百人を一人前の看護婦に育て上げて来たイーデスだからこそ、辿り着いた心境だった。

長い沈黙を破ったのはガハン牧師だった。「私たちはあなたのことを理想の女性、そして偉大な殉教者として記憶し続けるでしょう」。イーデスは首を横に振りながら答えた。「そのようなお考えはお止めください。私は職務を全うしようと努めた一人の看護婦にすぎません。それで十分です」。

2人はベッドに腰かけ、椅子の上に置いた聖杯を傾け、ウエハースを口に入れた。最後の晩餐だった。その後2人は祈りを捧げた。最後に牧師が「主よ、私のそばに」と繰り返した。イーデスは牧師の手に自分の手を重ね「主よ、私のそばに」と続けた。

1時間ほどが経った。ガハン牧師は静かに立ち上がり「そろそろ行きます。あなたもお休みになった方がいい」と告げた。イーデスは「そうですね。明日は5時起きですので」と乾いた冗談を返した。去り際、2人は固い握手を交わした。イーデスは微笑みを浮かべて言った。「また、お会いしましょう」。ガハン牧師は一瞬言葉を失い「ええ、きっと」と答えるのがやっとだった。イーデスは閉まるドアの向こう側にゆっくりと消えた。

ガハン牧師を見送ったイーデスは妹のように可愛がっていた同僚のエリザベス・ウィルキンスに最後の遺書をしたためた。借入金の返済や小切手の処理、帳簿への記入など経理上の引継ぎの他、養成校の玄関ホール用に柱時計を買うよう依頼するなど、死の直前まで遣り残しがないよう細心の注意を払った。それが終わるとこれまでの献身に対して最大級の賛辞と礼を述べ、養成校の未来をエリザベスに託した。

そして「皆さんのことが大好きでした。怖くなどありません。幸せなのです。さようなら。E・カヴェル 1915年10月11日 」と締めくくった。生真面目なイーデスの生きざまを象徴するかのようなラストメッセージだった。

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イーデス(中央)と写るエリザベス・ウィルキンス(Elizabeth Wilkins/後方左端)。

凛として

10月12日、イーデスは朝5時に起床して洗顔を済ませるとベッドを綺麗に片づけた。持ち物を整理すると櫛で髪を綺麗にといた。そして裁判の時と同じ白いブラウスに濃紺のジャケットをかちっと着こなし、グレーのショールを羽織って静かにその時を待った。

午前6時、独房のドアがノックされた。イーデスは外で待っていた車に乗り込んだ。車は夜明け前のブリュッセルの街をひた走り、郊外にある射撃場に到着した。そこにはイーデスを追い詰めた検察や刑務所所長らの他、兵士や憲兵などおよそ250名が待機していた。銃弾を受け止めるために土が盛られたスロープの前に白い柱が立てられ、その横には黄色い棺桶が置かれていた。

午前7時、イーデスはル・シュール牧師と共に白い柱に向かって歩みを進めた。前日降った雨のせいで地面が少しぬかるんでいた。歩きながら牧師は神の恵みを説いた。イーデスが口を開いた。「私の心は晴れやかです。神と祖国のためにこの命を捧げます」。

柱の前まで来るとイーデスはゆっくりと振り返った。そして周囲がはっとするほど凛とした姿で立った。後ろから目隠しをしようとした兵士はイーデスの頬を伝う大粒の涙に気がついた。16人の銃殺隊が2列になって銃を構えていた。

士官の号令と共に銃が一斉に火を噴いた。イーデスはその場に崩れ落ちた。心臓と眉間を撃ち抜かれていた。医師が駆け寄りその場で死亡が宣告された。イーデスの遺体は棺桶に入れられ、墓標もないまま埋葬された。魂のナース、イーデス・カヴェル。49年の忙しく、難しい人生の幕が下りた。

利用された死

イーデス処刑を知らせるニュースが英国を駆け巡ったのは処刑から6日経った10月18日のことだった。タイムズ、デイリー・メール、エクスプレスなど各紙が一斉に英国人女性の非業の死を伝え、ドイツ軍の残虐性を書き立てた。同21日、トラファルガー広場近くのセント・マーティンズ教会で盛大な追悼ミサが催され、多くの市民が弔問に訪れた。

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ドイツ軍の残虐性を強調し、国威発揚を図るイーデス処刑のイラスト。

イーデスは隣人同士の愚かな戦争を嘆き、誰も恨むべきではないと言葉を残して逝った。しかしイーデスの死はたちまち軍部によって国威発揚のプロパガンダに利用された。「英国の若き兵士たちを救ったヒロインの死を無駄にすることなかれ。男子よ、銃を取って戦え」と煽り、若者たちの自発的入隊を促した。

アメリカでも参戦の機運が高まった。イーデス・カヴェル戦争記念委員会が結成された。ケンジントンガーデンのピーターパン像作者として知られる彫刻家ジョージ・フランプトンはカッラーラ大理石とグレーのコーンウォール御影石を使ったイーデスの像を無償で彫り始めた。イーデスは遺志に反して英国のヒロインに祭り上げられていった。

静かな帰郷

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ノリッチ大聖堂脇に佇むイーデスの墓標

1918年11月、第一次世界大戦終結。翌1919年5月13日、鉛製の棺桶に移し替えられたイーデスの亡骸が英海軍戦艦ロウェナに載せられてドーバーに向かった。ドーバーでは教会の鐘が3時間に渡って鳴り響いた。

同14日早朝、ドーバーから列車でロンドンのヴィクトリア駅へ。そこからウエストミンスター寺院へは砲車に載せられた。イーデスの葬儀は民間人には極めて異例な国葬で行われた。その後、ノリッチ大聖堂に移され、そこでも荘厳な追悼式が執り行われた。イーデスは生まれ故郷であるノリッチ近郊のスウォーデストン村で眠る父の墓の横に埋葬されることを望んでいたが、世論がそれを許さず、大聖堂の南側に埋葬された。


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セント・マーティンズ・プレイスに建てられたイーデス・カヴェルの像。

1920年3月、トラファルガー広場に近いセント・マーティンズ・プレイスにジョージ・フランプトン作のイーデス・カヴェル記念碑が建てられた。


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世界的なシャンソン歌手となったエディット・ピアフ(Édith Piaf/1915-1963)。

イーデスが処刑された日から約2ヵ月後、パリで1人の女児が誕生した。献身の英国人看護婦の姿に感銘を受けた両親は女児をイーデスと名付けた。イーデスはフランス語でエディットと発音した。女児はのちに「バラ色の人生」や「愛の賛歌」など数々の名曲を歌った世界的シャンソン歌手、エディット・ピアフとなった。  (了)

※本稿では時代背景を鑑み、看護師をあえて看護婦と表現しています。

参考資料: Diana Souhami著「Edith Cavell」、Nick Miller著「Edith Cavell: A Forgotten Heroine」他。

本紙編集部が制作したユーチューブ動画

「英国ぶら歩き」シリーズNo81「銃殺された信念のナース イーデス・カヴェル」も併せてご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=LixQac9-wYQ

週刊ジャーニー No.1298(2023年7月6日)掲載

天然痘を制圧せよ ワクチン誕生物語 エドワード・ジェンナー 前編

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天然痘を制圧せよ ワクチン誕生物語 エドワード・ジェンナー 前編

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/手島 功

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電子顕微鏡が捉えた天然痘ウイルスの姿。

■ かつて地球上には天然痘というウイルス性の感染症が存在し、紀元前から多くの人が命を奪われてきた。しかしその天然痘は人類史上初となるワクチンの開発により根絶された。人類が初めて開発に成功したワクチン。開発の礎を築いたのは今から200年ほど前、イングランドの片田舎で開業医をしていた一人の医師だった。

奈良の大仏と天然痘

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天然痘に感染した人々。運よく生還しても顔や全身に多くの痘痕(あばた)が残った。

天然痘。英語ではスモールポックス(smallpox)と言う。ポックスとは疱瘡のことだ。突然の熱発と共に頭痛や四肢痛、小児では嘔吐や意識障害といった症状が現れ、2~3日後には体温が40度を突破する。その後一時的に熱が下がるが安心したのも束の間、やがて顔面や頭部を中心に全身に発疹が浮かび上がる。発疹は水疱、そして9日目あたりには膿を含んだ膿疱へと変化する。

重症化すると喉が焼かれたような激痛が走り、物を飲み込むのも困難になり呼吸障害を発して死に至る。幸運にも治癒に向かった場合は2~3週間程度で膿疱がかさぶたとなって脱落する。しかし皮膚に色素が沈着し、生涯醜い痘痕(あばた)となって残る。強毒性の場合、致死率は20~50%と言われ、誠に恐ろしい感染症だった。

天然痘は紀元前から死に至る恐ろしい疫病として人々に恐れられていた。古代エジプト王朝のラムセス5世も、そのミイラを研究したところ天然痘を患っていたことが分かった。

日本にも仏教の伝来と共に大陸から九州に持ち込まれたと言われ、それがやがて平城京にまで達して大流行し、政府要人の多くも天然痘の犠牲となった。聖武(しょうむ)天皇は、人の容姿を激変させて死に至らせる謎の疫病と天候不順による飢饉などが生む社会不安や政治的混乱から脱却するため、仏教の力に救いを求め、東大寺に巨大な仏像を造らせた。奈良の大仏だ。

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▲聖󠄁武天皇(701~756年)。 在位は724~749年で、娘・阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位し、みずからは太上天皇となった。737年(天平9年)に天然痘の大流行が起こり、東大寺大仏の造立を決意。同大仏の開眼法要は752年5月30日に行われた。
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東大寺盧舎那仏像 © Mafue
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天然痘の被害を伝えるアステカの絵=1585年。

15世紀末から始まった大航海時代、中南米に進出したスペイン人がアステカやインカといった帝国をほぼ壊滅させた。この時、スペイン人が現地に持ち込んだ疫病が大きな役割を果たした。数千年に渡って天然痘と共存してきたスペイン人と違い、ユーラシア大陸やアフリカ大陸とほぼ接触がなかった中南米のインディオや北米のインディアンは天然痘に対する耐性や免疫を全く持っていなかった。そのためスペイン人が持ち込んだ天然痘ウイルスにバタバタとやられ、帝国は崩壊した。

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天然痘の予防接種を呼びかけるポスター。

さらに18世紀、英国が北米の植民地経営を巡ってフランスと戦った際(フレンチ・インディアン戦争)、英軍はフランスと連携したインディアンのチェロキー族に親切を装って接近。天然痘ウイルスをすり込んだ毛布などを大量に与えた。死のギフトだった。たちまちウイルスに感染したチェロキー族は大混乱に陥り、戦力は著しく低下したと言われる。この戦争にフランスは敗れ、ルイジアナを英国に譲渡。これによって西部開拓への障害物は消えた。 さらにフランスと同盟していたスペインからもフロリダを取り上げ、アメリカに英語圏が拡大していく。英国側は認めていないが、この天然痘すり込み毛布の件が史実だとすると、人類が初めて戦争で意図的に使用した「生物兵器」ということになる。

田園に広がる奇妙なうわさ

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ケンジントンガーデンズ内の噴水脇に置かれたジェンナー像。人類を天然痘から救った偉大なドクターだが、視線を向ける人は少ない。© Japan Journals Ltd

エドワード・ジェンナーは1749年、イングランド西部、ウェールズにも近いグロスターシャーのバークレーと言う田舎町で9人兄弟姉妹の8番目の子として生まれた。ジェンナーは敬虔な牧師家庭で育ったが、両親はジェンナーが5歳の時に亡くなった。そのためジェンナーは年長の兄弟たちに育てられた。ジェンナーが生まれた頃、ヨーロッパでは天然痘がほぼ定着しており英国も例外ではなく、多い年では5万人近くが天然痘で命を落としていた。

ジェンナーは幼少期に人痘接種を受けていた。天然痘に感染しながら生還したオスマン帝国駐在大使夫人が英国に持ち帰り、上流階級層に広めたものだった。これは天然痘患者の膿疱内の膿から体液を取り出し、健常者に接種させてあえてウイルスに感染させるもので一定の成果を上げていた。しかし2~3%程度の人が重症化し死亡する危険をはらむ不完全なものだった。

ジェンナーは14歳の時から7年に渡り、グロスターシャー南部、チッピング・ソドベリーという村の開業医ダニエル・ルドローのもとで奉公人として働く機会を得、後に自らが開業医となるための知識と経験をここで習得した。この医院で働いている時、ジェンナーは迷信にも近い不思議なうわさ話を耳にした。

「乳しぼりをしている女は天然痘にかからない」

科学的根拠のない言い伝え程度の話だったが、これがジェンナーの脳裏に深く刻まれることとなる。

奉公を終え、21歳になったジェンナーは最先端医学を学ぶため、ロンドンに向かった。幸運なことに「近代外科学の開祖」と称される著名なスコットランド人の外科医にして解剖学者、ジョン・ハンターに弟子入りした。

ハンターは、研究熱心で技術も確かなうえ、詩や音楽の才も備える上品なジェンナーに惚れ込んだ。天然痘に関する議論が白熱すると「考え過ぎることなく、挑戦し続けなさい。辛抱強く、正確に」とジェンナーを鼓舞した。ハンターはジェンナーを王立協会会員にも推薦した。しかしジェンナーは1773年、多くの人に惜しまれながら故郷バークレーに戻り、開業医となった。


とんでもない実験

故郷に戻ったジェンナーは、奉公先で何度も耳にした「乳しぼりの女は天然痘にかからない」という伝承が耳から離れずにいた。さらに牛がかかる「牛痘」に感染した人で、その後天然痘に感染した人がいないという、より具体的な話がジェンナーの耳に届いた。牛痘とは牛がかかるウイルス性の伝染病でヒトにも伝染した。ところが牛痘で牛は重症化するがヒトは比較的軽い症状で済み、快復後は天然痘に感染することもなかった。

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牛痘に感染したブロッサムの肖像画

「牛痘に感染することで得られる免疫が天然痘ウイルスへの免疫としても機能しているのではないか。だとすれば牛痘によってできた膿疱から体液を抽出し、健康な人に接種すれば人痘法より遥かに安全に免疫が獲得できるのではないか」。ジェンナーはそう推測した。それを実証するため、牛痘に罹患した患者の出現を待ち続けた。

1796年5月、ついに患者が現れた。サラ・ネルメスという乳しぼりを生業とする女性で、ブロッサムと名付けられた牝牛の乳房から牛痘に感染していた。人類初のワクチン完成に向けてジェンナーのとんでもない実験が始まろうとしていた。

(次号に続く)

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ジェンナー博物館内に再現された診察室。
© Japan Journals Ltd
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© Japan Journals Ltd

Dr Jenner’s House
Church Lane, Berkeley, Gloucestershire GL13 9BN
Tel: 01453 810631
https://jennermuseum.com
※開館期間・時間、入館料は事前予告なく変更される可能性あり。

【開館期間】 2024年は4月1日~9月末日
月-水・日 11:00~15:00
【入館料】 大人 9ポンド
子ども(5~16歳)6ポンド
5歳未満無料
【アクセス】 ロンドン中心部から車で行く場合はM4またはA40経由で約130マイル、2時間半ほど。あるいは、電車でダーズリーDursley駅かブリストルBristol駅まで行き、バス62番(Dursley~Berkeley~Bristol)を利用する方法もある。

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世界最初のワクチン開発に成功した、グロスターシャー、バークレーにあるジェンナーの自宅兼診療所。現在はジェンナー博物館として一般公開されている
© Japan Journals Ltd
「ジキル博士とハイド氏」のモデル
外科医・解剖学者 ジョン・ハンター(John Hunter 1728~1793)
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■グラスゴー出身のジョン・ハンターは20歳の頃、ロンドンで外科医、解剖学者として活躍していた10歳上の兄のもとを訪れ、助手となることで医学を学んだ。ハンターは解剖を好んだが、当時は処刑された罪人の死体が出回るだけだったため希望者が殺到してなかなか入手できなかった。そのためハンターは死体盗賊人らに報酬を払って死体を集めて解剖を続けた。時には自らも盗賊人らに混じって死体を掘り出したというなかなかの奇人ぶりだった。

■ハンターはまた異常なまでの収集家として知られ、遺体から取り出した臓器や骨格標本から珍獣、はたまた植物まで、世界中から1万4000点もの標本を集めた。富裕層から高額な報酬を受け取っていたことから収入は多かったが、そのほとんどを趣味に費やした。そのため亡くなった時に残ったのは、これらのコレクションと莫大な借金だけだったと言われる。

■その標本のほとんどは現在、ロンドンの王立外科医師会内ハンテリアン博物館に保管されている。レスタースクエアにあったハンターの巨大な邸宅は表玄関では社交界の友人や患者が出入りする一方、裏口は解剖用の死体の搬入口とされていた。のちにこの話を耳にした作家、ロバート・ルイス・スティーブンソンは、ハンターをモデルに「ジキル博士とハイド氏」を書き上げたと言われている。


Hunterian Museum
Royal College of Surgeons of England
38–43 Lincolns Inn Fields
London WC2A 3PE
https://hunterianmuseum.org
● 火ー土 10:00~17:00
● 入館料は原則として無料(特別イベントは有料)だが、事前予約推奨。

週刊ジャーニー No.1329(2024年2月15日)掲載

天然痘を制圧せよ ワクチン誕生物語 エドワード・ジェンナー 後編

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天然痘を制圧せよ ワクチン誕生物語 エドワード・ジェンナー 後編
ジェームズ・フィップス(当時8歳)に世界初となる種痘を接種するジェンナー(1910年ごろに画家アーネスト・ボードErnest Board が制作した絵画より)。

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/手島 功

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牝牛の乳房に現れた膿疱のスケッチ画。

■1796年5月、エドワード・ジェンナー(Edward Jenner)は牛痘に感染したという若い搾乳婦、サラ・ネルメスと会った。なるほど彼女の両手や腕にはぷっくり膨らんだ複数の水疱が確認できた。典型的な牛痘感染者の症状だった。牛痘(cowpox)とは牛がかかる天然痘(smallpox)のことでヒトにも感染する。牝牛の乳房の辺りに水疱が現れ、それに触れた乳しぼりの女たちの間で感染する者が多かった。牛痘に感染すると牛は重症化するが、ヒトは腕に疱瘡ができ、多少発熱するものの軽症のうちに10日間ほどで完治した。一度牛痘に感染した者は二度と牛痘に感染しなかった。それどころか牛痘に感染した者はその後、天然痘に感染しないという言い伝えがあった。ジェンナーは、牛痘に感染し快復する過程で獲得する免疫が天然痘に対しても免疫力を発揮するのではないかと仮説を立てていた。そしてついに、この仮説を実証する機会を得た。

前編はこちら

仮説は正しかった

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2000年、フィンランドの農村で牛痘に感染した4歳女児の腕に現れた疱瘡。

ジェンナーはサラの膿疱内にある液体を採取した。そして5月14日、ジェームズ・フィップスという8歳の健康な男児の両腕に2本の引っかき傷を作り、そこに牛痘種痘を行った。ジェームズはジェンナー家の使用人であった貧しい庭師の息子だった。後に全人類を救うターニングポイントとなる重要な実験だったが、安全が100%担保されていない、仮説に基づく人体実験だった。今なら医療訴訟を起こされても何の不思議もない、ある意味とんでもない実験だ。しかしジェンナーは実行した。それが問題にならないほど社会が人道や人権に対して未成熟だったことが人類に幸いした。

種痘を受けたジェームズは7日目に腕の付け根部分に不快感を訴えた。さらにその2日後、頭痛と悪寒を訴え、食欲が減退した。牛痘感染者の典型的な症状だった。ところがその翌日、状況は一変しジェームズはほぼ快復した。

それから6週間後、ジェンナーは再びジェームズに種痘を行った。ただし今度接種したのは天然痘患者の膿疱から取り出した体液だった。
何日経ってもジェームズは天然痘を発症しなかった。その後、何度天然痘接種を繰り返してもジェームズは天然痘の症状を発しなかった。どうやら牛痘に感染することで獲得する免疫が天然痘に対しても効力を発揮するというジェンナーの仮説は正しいようだった。

これまで中東やヨーロッパで広く行われていた「人痘法」は天然痘に感染した患者の体液を健康な人に接種し、あえて天然痘を発症させて免疫を作るという乱暴な方法だった。効果はあったが2~3%の人が重症化し、死に至る危険なものだった。その上、生涯顔に醜い痘痕(あばた)を残す人が多かった。しかし、ジェンナーが辿り着いた種痘であれば重症化の危険性も痘痕も回避できた。

ジェンナーは、この後も息子ロバートを含む23人の子どもたちをグループに分けて考察を繰り返した。その結果、牛痘種痘を施した子は全員が天然痘に対する免疫を獲得している事実を確認できた。

収まらない拒絶反応

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ジェンナー博物館に保管されている『インクワイアリー』。

1797年、ジェンナーはこの実験の結果をまとめ、王立協会に論文を送付し出版するよう依頼した。世界中で大勢の人の命が救われる大きな一歩となるはずだった。ところが王立協会はこの論文を無視し、そのままジェンナーに送り返した。理由は明らかになっていない。失意のジェンナーはさらなる実験の結果を追記した上で翌年『インクワイアリー(Inquiry:審理)』を自費出版した。『インクワイアリー』はたちまち医師や学者の間で話題となり議論が噴出した。

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「牛の体液なんか入れたらウシになる」と牛痘を拒否する人たちを描いた、当時の風刺画。

ジェンナーはさらに自説を実証するため単身ロンドンに向かった。そこでボランティアの募集を試みたが初めの3ヵ月間、自ら手を挙げる物好きは誰一人として現れなかった。それでも諦めなかった。ある日、ジェンナーの前に自分の患者に接種してみても良いと協力を申し出る医師が2人現れた。さらにジェンナーは『インクワイアリー』に興味を抱いた医師たちに対して牛痘種痘を指南して回った。しかしこの当時、人々の間では「牛の体液を体内に入れたら牛になる」といって種痘を拒絶する意見が圧倒的だった。これは幕末、種痘を日本でも広めようとした適塾の緒方洪庵も直面した分厚い壁だった。牛痘種痘法を扱う医師らへの執拗ないやがらせが続いた。さらに種痘のやり方を間違えた医師から「効果なし」といった報告が上がるなど、激しい向かい風に吹き飛ばされそうになる日々が続いた。しかしやがて「効果あり」という声が圧倒的となり、その声は英国全土へと拡大していった。

天然痘根絶へ

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頼ってやって来る人々に、ジェンナーは庭の片隅のこの小屋で種痘を無償で打ち続けた。

ジェンナーは苦労の末に辿り着いた種痘の特許を取得することは遂になかった。特許を取ってしまうと種痘が高価なものになり、より多くの人を救うという自身の理念と矛盾した。それどころかジェンナーは問い合わせがあれば世界中、誰が相手でも私費で指南書やサンプルを提供し続けた。

1802年、英議会はそんなジェンナーに対し1万ポンド、さらに5年後には2万ポンドの褒賞金を与えた。褒賞金を出すことで政府公認の印象を作り、種痘をいち早く国民に認めさせる狙いがあった。にもかかわらずその後も種痘を否定する声が止むことはなく、ジェンナーの元には批判や中傷の手紙が届き続けた。しかしそういった雑音を打ち消すかのような勢いで種痘は世界に拡大していった。

ジェンナーは誰もが種痘の有効性を認める前の1823年1月26日、脳卒中のため死去した。享年73。ジェンナーの死から17年後の1840年、英議会は種痘以外を禁止。種痘が完全に人痘法に取って替わった。もはや種痘を非難する者は一人もいなかった。その後ジェンナーは「近代免疫学の父」と呼ばれ、その功績は今も世界中で高く評価されている。1980年、世界保健機構(WHO)は天然痘の根絶を宣言。天然痘は人類史上初、そして唯一根絶に成功した感染症となった。

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ジェンナーは診療所のそばにある聖メアリー教会の内陣に埋葬された。
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18世紀に描かれたジェンナーの肖像画(ジョン・ラファエル・スミスJohn Raphael Smith画)。

ワクチンは牝牛への敬意

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ワクチン接種第一号となったジェームズが亡くなる日まで暮らしたコテージ(右側)。

ジェンナーが到達した感染症に対する予防接種はワクチン(vaccine)と呼ばれるようになった。これはラテン語で牝牛を意味する「vacca」から来ている。ジェンナーが診療や研究にあたっていたバークレーの実家は現在、博物館となって一般に公開されている。その一角にはワクチン開発のために体液を提供した牝牛ブロッサムの角も展示されている。

ジェンナーが最初に種痘を行ったジェームズ・フィップスはその後もジェンナー家に仕え、結婚後はジェンナーからコテージを生涯無償で提供され、住み続けた。没後、ジェンナーが眠るバークレーの聖メアリー教会墓地に埋葬された。(了)

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ジェンナーが埋葬された聖メアリー教会。ジェームズもまた同教会内の墓地に眠っている。

Dr Jenner’s House
※情報はすべて2024年2月19日現在のもの。

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ワクチンの祖となったブロッサムの角。

Church Lane, Berkeley, Gloucestershire GL13 9BN
Tel: 01453 810631
https://jennermuseum.com

【開館期間】 2024年は4月1日~9月末日
月-水・日 11:00~15:00
【入館料】
大人 9ポンド
子ども(5~16歳)6ポンド
5歳未満無料
【アクセス】
ロンドン中心部から車で行く場合はM4またはA40経由で約130マイル、2時間半ほど。ブリストルとグロスターの間のA38からすぐ。M5のジャンクション13と14の間。
電車の場合、最寄りの鉄道駅はCam & Dursley駅。ロンドン・パディントン駅から、およびグロスター駅とブリストル・パークウェイ駅から接続している。Cam Dursley駅からバークレーへの直通バスはなく、徒歩10分ほどで62番の路線バスに乗り継ぐか、またはタクシーを利用。ただし駅にはタクシー乗り場がないので事前予約が望ましい。

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世界最初のワクチン開発に成功した、グロスターシャー、バークレーにあるジェンナーの自宅兼診療所。現在はジェンナー博物館として一般公開されている。

カッコウの托卵(たくらん)を発見したジェンナー

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■エドワード・ジェンナーが恩師ジョン・ハンター医師のもとを離れ、故郷のグロスターシャーに帰ったのは彼が外科や解剖学よりも自然科学により興味をいだいたためだった。探検家のジェームズ・クック(キャプテン・クック)=肖像画=が第1回目の航海を終えて帰国すると、彼が持ち帰った博物標本の整理をなみなみならぬ興味を持って手伝った。クックは好奇心旺盛な若きジェンナーを大変気に入り、2回目の航海に同行しないかと熱心に誘ったがジェンナーはこれを固辞した。

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自分より大きいカッコウの雛に餌を与えるオオヨシキリ。© Per Harald Olsen

■故郷バークレーに戻って開業医となってからもジェンナーは地質学や人間の血液に関する研究に没頭した。さらにハンター医師からの提案でカッコウなどの生態を研究する中、カッコウがウグイスなど、他の鳥の巣に産卵して他人にわが子を育てさせる、いわゆる「托卵(たくらん)」の生態を発見し1788年、この研究結果をまとめて発表した。この功績が認められ、ジェンナーは王立協会のフェローに推薦された。しかし保守的なイングランドの博物学者たちの多くは「托卵」を「ひどいデタラメ」と一蹴し全く取り合わなかった。

■1921年、カッコウの生態を追っていたカメラマンが托卵の瞬間の撮影に成功。これによってジェンナーの説は完全に証明された。発表から133年、ジェンナーの死から98年が経っていた。また、一部の鳥が食料や繁殖、環境などの事情において長距離を移動する「渡り鳥」の性質を持つことを発見したのもジェンナーだった。

【英国ぶら歩き】
天然痘を制圧せよ エドワード・ジェンナーの闘い

本誌編集部が制作したユーチュ―ブ動画「ワクチン誕生物語」も併せてご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=-Hp692m9DZs

週刊ジャーニー No.1330(2024年2月22日)掲載

うぬぼれ屋か天才か 19世紀の大建築家 ジョン・ナッシュ 前編

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19世紀の大建築家 ジョン・ナッシュ 前編
空から望むリージェンツ・パークとリージェント・ストリート©The Crown Estate
この傑作を生みだしたジョン・ナッシュの像はリージェント・ストリートの北端、オール・ソウルズ教会に設えられている。

ロンドンにある目抜き通りのなかでも、独特の華麗な曲線美でひときわ目立つリージェント・ストリート。
リージェンツ・パークを北に頂き、南は、バッキンガム宮殿へと西に向かって走るザ・マルにぶつかると同時に、トラファルガー広場を経由してチャリング・クロスへと至る道につながる壮大な構想の中心として造られた通りだ。
このプロジェクトを実現させたのは、浪費癖で知られたジョージ4世と、その寵愛を受けた建築家ジョン・ナッシュというふたりの人物。
今回は、このジョン・ナッシュに焦点をあててみることにしたい。

●Great Britons●取材・執筆/本誌編集部

英国王室の「長寿」のヒミツ

ノルマンディー公ウィリアムが、「征服王」ことウィリアム1世として即位して以来、千年近く続く現英国王室は欧州内で屈指の「長寿ぶり」を誇る。同王室の歴史のうち、約800年は国王と議会(当初は諸侯たちの集まり)の『綱引き』の歴史といっていいだろう。諸侯とはこの場合、国王から土地、すなわち財産を与えられた地主貴族を指す。贅沢をしよう、あるいは他国と戦争をしようともくろむ国王に対抗し、それを抑えることに全力を尽くすのが諸侯たち、というのが一般的な図式だった。

諸侯が一致団結したことが議会政治の始まりと考えられ、英国では1215年、諸侯たちが国王を相手に、「マグナカルタ(大憲章)」に署名させたことが大きなはずみとなった。やがて議会発足へと発展し、1258年には、英国史上で初めて「パーラメント(Parliament=議会)」という言葉が用いられたという。

土地を与える立場にある国王(統治者)を相手に、土地を与えられた諸侯(被治者)が、自分たちの身と財産を守るため、国王に「法に従うよう」要求し、「失地王」ジョン(※)にそれを認めさせた「マグナカルタ」の成立は、王室サイドから見るときわめて屈辱的なことだったが、長い目で眺めてみると幸いなことだったといえるのではなかろうか。このおかげで英国王室は今日まで生き残ることができたといっても過言ではないからだ。

暴走を抑制された歴代英国王は、フランス革命を招いたブルボン王朝のように湯水のごとく国庫を浪費することを許されなかったがゆえに、根絶やしにされるほど憎まれることもなかったというわけだ。

※ジョン王…無能と称されることの多い同王(在位1199―1216年)は、北西部フランスにあったイングランド王室領を全て失ったことから、「失地王」ジョン(John the Lackland)と呼ばれる。

大プロジェクト好きの反逆児

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「太陽王」ルイ14世(在位1643~1715年)。

繰り返しになるが、英国王と議会は対立の関係にあることが多かった。
ヘンリー8世(在位1509~47年)のように絶対王権をほぼ確立し、専制政治を行った国王もいたものの、フランスのルイ14世などとくらべると、派手さでは見劣りする。ヘンリー8世の時代には、英国の財政がそこまで豊かではなく、建築技術もまだまだ発展途上だったためともいえるが、英国ではヴェルサイユ宮殿をしのぐ王宮はついに造られなかった。豪華絢爛たる王宮で贅沢三昧の生活を送ることを夢見た英国王は、おそらく何人もいたことだろうが、議会による反対の壁は常に厚かった。

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パリ郊外の狩猟場だったヴェルサイユには、当初、小館があるだけだった。ルイ14世はこの地に壮大な宮殿を建造。大工事は1661年から始まり、完成に20年を要した。絵画は1668年当時の様子を描いたもの(ピエール・パテル作)。

ただ、いつの世にも「反逆児」はいる。英国でも、議会によるブレーキに対抗しつつ、壮大な都市計画と大型建築物の建造を次々に進めた国王がいた。
ジョージ4世である。

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ジョージ4世。この肖像画ではうまく隠してあるが、美食家としても知られた同王は、超肥満体だったという。(Reproduced by courtesy of the National Portrait Gallery)

チャールズ1世の処刑により、いったん共和制になったものの、約10年後の1660年には王政復古が成った英国で、後期スチュワート朝の最後の統治者となったアン女王は、11歳で亡くなったひとり息子以外、子宝に恵まれなかった。同女王の逝去をうけ、ドイツ生まれのハノーヴァー選帝侯がジョージ1世として即位。ハノーヴァー朝時代が幕をあける。1714年のことだ。

ジョージ1世は、スチュワート朝の初代国王ジェームズ1世のひ孫にあたる。そのまたひ孫がジョージ3世で、ジョージ4世はその長男。ドイツ系らしく生真面目な性格だった父、ジョージ3世とは対照的に、4世は手に負えないほどの放蕩息子だった。

在位60年という立派な記録を持つジョージ3世だが、英国がアメリカとの独立戦争に敗北し合衆国の誕生を許した後、1788年ごろから精神障害をわずらうようになり、最後の10年余りは、国務を執り行うことが全くできなかった。

父王や側近からことあるごとにガミガミと小言をいわれ、父王が正気を失ったあとも、摂政皇太子(Prince Regent)として国王の仕事を代行しつつも約10年間、国王になれず、鬱屈した日々を長く送ったこの人物が、晴れて国王になれたのは58歳になってからのことだった。

1762年8月12日に生まれ、1830年6月26日に67歳で亡くなったジョージ4世の正式な在位期間はわずか10年。摂政皇太子時代を入れても20年ほどだが、この間にリージェント・ストリートとリージェンツ・パーク、カールトン・ハウス・テラス、シアター・ロイヤル・ヘイマーケット、オール・ソウルズ教会、カンバーランド・テラスにロイヤル・ミューズが完成。トラファルガー広場のもとが築かれ、バッキンガム・ハウス(現バッキンガム宮殿)の国家を挙げての大増改築も始まった。

ジョージ4世はそれまでためこんできた、不満や焦りをはじめとする負のパワーを爆発させるかのように、大プロジェクトにのめりこむ。そして、それらにことごとく関わったのが、今特集の主役、ジョン・ナッシュだった。

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ウォータールー・プレイスからの眺め。ジョージ4世の邸宅、カールトン・ハウスがここに面して建っていた。ここからロウアー・リージェント・ストリートが、正面の「カウンティ・ファイヤー・オフィス(County Fire Office)」に向かって伸びる。

「ニュー・ストリート」建設計画

ジョン・ナッシュは1752年、ロンドンの下町、ランベスの水車大工の息子として生まれた。ナッシュは父親と同じ職に就くことを嫌い、建築家、ロバート・テイラー卿のもとに弟子入りする。しかし、徒弟生活のような「耐える」暮らしには向いていなかったらしく、まもなく師のもとを離れ、独自の商売を開始。レンガ造りの外壁に化粧しっくいを施すことにより、石造りのように見せ、手ごろな価格でまがい物の立派さを演出するというアイディアのビジネスだったが、成功には至らなかった。この最初のビジネスに、ナッシュの見栄っ張りの性格が既に表れていたといえそうだ。

ほどなくしてナッシュは隠居暮らしをするのに十分な金額の遺産を贈られ、ウェールズに引退する。ところが幸か不幸か投資に失敗。建築家として再び働き始めざるを得なくなってしまう。ナッシュが、もし遺産を賢く運用し、そのままウェールズに引っ込んでいたら、今のリージェント・ストリートはなかったかもしれない。

1792年、40歳で建築業界に復帰。まもなくロンドンへと戻ってきたナッシュを、ジョージ4世(当時はまだ摂政皇太子にもなっていなかった)がなぜそこまで重用するようになったのか、実はあまり知られていないとされている。一説によると、ナッシュとは大きく年の離れた若妻が、ジョージの愛人だったといい、なかなか説得力があるが、真偽のほどは不明。ただ、理由はどうあれ、ナッシュが与えられたチャンスを見事にいかしたことは確かだろう。

ジョージは摂政皇太子になった1811年、ナッシュを含む3人の建築家に、「メリルボン・パーク」周辺の再開発計画案を提出するよう依頼した。この「メリルボン・パーク」は、やがてリージェンツ・パークに名前を変えることになるのだが、厚い粘土質に覆われて常にじめじめしており、当時は牧草などが生える農地としてしか使われていなかった。

王室所有のこの広い農地と、自分の公邸であるカールトン・ハウスをつなぐ道路の建設をジョージは決断。その半世紀ほど前から、粗野で田舎くさいイメージの強いロンドンを、ウィーン、ローマ、パリのように洗練された都市にするためにも、ロンドンの再開発が必要だという声が高まっていたこともあり、議会でも、ジョージの野心について反対を唱える者は賛成者の数を下回った。

もっとも独創的、かつ収益性が高いとしてジョン・ナッシュの案が採用され、1813年に「ニュー・ストリート」法が採択された。この「ニュー・ストリート」こそ、後のリージェント・ストリートである。通り沿いの建物からの家賃収入に大幅アップが見込めることから、王室にとっては一石二鳥ともいえる案が実現に向けて動きだした。

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5年の歳月をかけて1832年に完成した、カールトン・ハウス・テラス(Carlton House Terrace)。名首相のひとりといわれる、グラッドストーン(William E Gladstone)は1856年にはこの4番地に、1857年から75年にかけては11番地に住んだ。

浪費王とはったり建築家の夢

うぬぼれ屋、派手好みなど、ジョン・ナッシュについての人々の評価は必ずしも好意的なものではなかったというが、ジョージ4世の完全なるバックアップのもと、ナッシュは自分の図面をもとに実際の形にする作業にとりかかった。カールトン・ハウス(現ウォータールー・プレイス)からロウアー・リージェント・ストリートをあがりピカデリー・サーカスへ。このすぐ北で湾曲するリージェント・ストリートからオックスフォード・サーカスを経て、やや広めのポートランド・プレイスを通り、パーク・クレセント、さらにはリージェンツ・パークに至るという大通りの建設作業が始まった。

しかしナッシュの案は、建設にともなって次々と修正されていった。また、大通り沿いにナッシュがデザインしたタウンハウスの人気も芳しくなかった。ナッシュお得意の化粧しっくいを施して石造りのように見せた建物は安っぽく見え、増改築をむりやり繰り返した建物はバランスがくずれ美しいとはいえなかったのだ。加えて、細かい部屋に分かれた古臭い造りの建物はファッショナブルな商品を展開しようとする小売業者たちの間では不評で、その後、多くの建物が建て替えられることになる。

さらに、大通り沿いの建物をすべてナッシュがデザインした訳ではなく、当時の建築業界の大物たち複数がデザインに携わっており、それらをまとめるのもナッシュの仕事だった。この点についてはナッシュは合格したといえ、まとめ役としての任を果たし、南北に走るこの大通り沿いの建物にある種の統一感を持たせることに成功した。

ロンドンを華麗に変えた、税金のムダ遣い

リージェント・ストリートのハイライトといえるのは、ピカデリー・サーカスのすぐ北にある「クワドラント(Quadrant)」と呼ばれる湾曲部分。このデザインはナッシュの原案に忠実に従ったものとされている。ナッシュが国王に取り入ってこの一大プロジェクトを任されたというのが事実としても、実力がなければやり遂げることはできなかったという点を証明するに足る、華麗さをたたえている。

また、リージェント・ストリートがロンドンにおける目抜き通りとして特筆されるべきは、観光都市としてのロンドンに大きな付加価値を与えた事実についてだろう。

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ショッピング通りとしてだけでなく、圧倒的なエレガントさをもって、それ自体が観光名所となっているリージェント・ストリート=写真=は、紛れもなく英国の財産といえる。

リージェント・ストリート建設には多額の税金が使われ、非難の的になった時期もあったが、後世になってふりかえれば、観光収入として国民に還元されている。税金によって国宝が造られたとも考えられる。そして、ジョージ4世とジョン・ナッシュという「黄金コンビ」の存在なくしては、それは可能とはなりえなかった。

当時は悪評も多く聞かれたこの黄金コンビの作品群を、次号でご紹介するが、その数の多さに驚かれる読者も少なくないだろう。ジョン・ナッシュとジョージ4世の姿を思い浮かべながら探索されることをお薦めしたい。 (後編に続く)

英国にいることを忘れそう!? ジョージ4世の別荘 ブライトンのロイヤル・パビリオン
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©Qmin

■英国の名優、ナイジェル・ホーソーン主演の映画『英国万歳!(The Madness of King George)』(1994)で、狂気の王として描かれていたのがジョージ3世で、二枚目俳優ルパート・エヴェレットが演じていたダメ息子が後のジョージ4世だ。

■生真面目な父王ジョージ3世の、息の詰まるような宮廷から皇太子ジョージがブライトンに初めて逃がれてきたのは、1783年のこと。芝居好き、ギャンブル好きというおじのカンバーランド公爵に連れられてきたジョージは、当時、リゾート地として人気を博すようになっていたブライトンを大いに気に入った。首筋の腺病に海水が効くと医者にいわれたこともあり、ジョージはブライトンで堂々と湯治(水治)生活を楽しむことができたのだった。

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オリエンタル色タップリの「ミュージック・ルーム」。
©Royal Pavilion, Libraries and Museums, Brighton & Hove

■その3年後、カールトン・ハウスの改築で大きな借金を抱えたジョージは、ブライトンでしばらく隠遁生活を強いられる。ここで、最愛の女性であるフィッツハーバート夫人(Mrs Maria Fitzherbert)とひそかに結婚するも、美貌で知られた同夫人(既婚者)は、離婚が許されないカトリック教徒だったため、この婚姻は違法だった。後に有力貴族の娘と政略結婚させられ、一人娘をもうけたが、すぐに別居したジョージは、この不誠実さでも国民の不評をかうことになる。

■しかし、国民に嫌われることを恐れるような皇太子ではなく、お気に入りの建築家、ジョン・ナッシュを呼び、ここに別荘を建てさせることにした。その結果、できあがったのが、外観はインド様式、中は東洋趣味で豪華絢爛というロイヤル・パビリオンだ。好き嫌いは別として、インパクトの強い建物であることは確か。一見に値する!

週刊ジャーニー No.1337(2024年4月11日)掲載


うぬぼれ屋か天才か 19世紀の大建築家 ジョン・ナッシュ 後編

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19世紀の大建築家 ジョン・ナッシュ 後編
優美な曲線を描くリージェント・ストリートと、その生みの親であるジョン・ナッシュの肖像画©English Heritage。

一流店でのショッピングが楽しめる通りとしてだけでなく華麗な曲線美と立ち並ぶ建造物の美しさでも 人を惹きつけてやまないリージェント・ストリート。
この通りを造り上げたのは浪費癖で知られたジョージ4世と、その寵愛を受けた建築家ジョン・ナッシュというふたりの人物。
先週号に続き、このジョン・ナッシュに焦点をあてるとともにこのふたりが関わったロンドン内の名所の数々をご紹介することにしたい。

●Great Britons●取材・執筆/本誌編集部

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在位期間は1820~30年と短かったジョージ4世(1762~1830)。

■ジョージ4世のバックアップを受けて、ある時は予算の使いすぎについて弁明するため議会に召喚され、ある時はメディアに手ひどくこきおろされながらも大プロジェクトを推し進めたジョン・ナッシュ(John Nash)。ジョージ4世が逝去したことにより後ろ盾を失い、一線から退いた。ワイト島で隠居生活を送り、83歳でこの世を去ったが、まだ摂政皇太子にもなっていなかったジョージ4世にとりたてられるようになってからの約40年、働きに働いた。ロンドンではリージェント・ストリートを中心に、「え、これも?」「あれも?」といいたくなるほど、多くの通りや建造物を手がけている。そのごく一部をご紹介する。

予算が大幅にオーバーしたバッキンガム宮殿

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初代バッキンガム兼ノルマンディ公爵の依頼により、1702年から約3年かけて建てられたバッキンガム・ハウスを、1761年にジョージ3世が購入。以来、王室所有となった。後のジョージ4世の下の弟妹たちは、みなここで生まれている。

1820年、ようやく国王となったジョージ4世は即位して間もなく、それまで住みなれたカールトン・ハウスはイングランド王の邸宅としては手狭すぎるとし、バッキンガム・ハウスに大増改築をほどこし宮殿とすることを発表した。

建築家として任命されたのは、ジョージ4世お気に入りのジョン・ナッシュ。議会は、33万ポンド(現在の約4000万ポンド=約77億円にあたる)の予算を用意し、このプロジェクトが始まった。だが、建設案が議会で可決されてから、ほぼ現在のような形へと整えるのに12年ほどかかったリージェント・ストリート以上に膨大な時間がかかることになる。ジョージ4世はこの宮殿の完成を見ることなく、残念がりながらこの世を去った。また、同王が逝去した1830年、ナッシュはこのバッキンガム宮殿プロジェクトから解任された。

ナッシュの工事は遅れがちだったうえ、修正に修正がかさねられ、費用は雪だるま式にふくれあがり、最終的に70万ポンド(現在の約8500万ポンド=約163億円にあたる)に達した。しかも、これはマーブル・アーチ(11ページ参照)の建造費用を除いての金額だったという。
リージェント・ストリートのために議会が可決したのが60万ポンドというから、この宮殿の大増改築費がいかに莫大なものであったか、そしてそれが議会や世論の批判の的となったかは容易に想像できる。

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▲ジョージ4世が亡くなる前年の1829年に描かれた風刺画(William Heath作/©The Fotomas Index UK)。英国を擬人化した時に用いられる人物、ジョン・ブル(右)がナッシュ(左)に向かってくどくどと詰問している様子。ナッシュの足元に建つのがバッキンガム宮殿だ。今とはかなり形が異なっていることがわかる。建物の後部に見える卵型のドームは大不評をかい、議会がナッシュを召還、「あのエッグカップは何か」と説明させたほど。この「エッグカップ」は後に取り除かれた。

男子の世継ぎなく逝去したジョージ4世のあとを継いで即位した、弟のウィリアム4世もここで暮らすことなく他界。1837年にジョージ4世の姪、ヴィクトリア女王が即位。宮殿として本来の役割を果たすようになるのは、同女王の即位後、数年たってからのこと。同女王はこの宮殿がことのほか気に入り、ここでの生活は「とても幸せ」と、日記の中で述べている。

その後も歴代国王により、様々に手が加えられ、600の部屋数を誇り、屋内プールまである大邸宅となったバッキンガム宮殿。今日では、夏季に限り、一部の部屋が一般公開されているほか、年間を通して多くの観光客が写真撮影に訪れる一大観光スポットとなっている。

高級居住区つきリージェンツ・パーク

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インナー・サークルへのゲート。

もともと「メリルボン・パーク」と呼ばれていたこの場所は、狩り好きのヘンリー8世が買い上げて以来、王室領となった。かのエリザベス1世も1582年にここで鹿狩りを楽しんだという記録が残っている。

鹿を囲い込むと同時に、密猟を防ぐ目的で、長い間、柵が張り巡らされていたが、1811年からナッシュを責任者として行われた再開発では、公園の緑をいかした「ガーデン・シティ」をリージェント・ストリートの北に作り上げることが目標に掲げられた。

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1789年当時の「メリルボン・パーク」。©The Crown Estate

公園内にヴィラ、周囲にはテラス・ハウス、クレセント(半円の通り)を配し、人々(高い家賃を支払えるのは上流階級クラス出身者のみだったが)を住まわせる一方、公園内に運河を引き、湖を造るという計画で、一応の完成をみるまでに7年を要した。

また、1828年にはロンドン動物園が開園。1847年には公園の大部分が一般に開放されたのだった。



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リージェンツ・パーク Regent's Park
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ロンドンっ子の憩いの場となっているリージェンツ・パーク。スポーツ・エリアとしても充実しており、予約すればラグビー、クリケット、サッカー、ソフトボールなどを楽しむこともできる。また、インナー・サークルの内側にある、「クイーン・メアリーズ・ガーデン」はバラで有名=写真右上。このガーデン内の池には、日本式とうろう=写真左上=のしつらえられた小さな「島」がある。

オール・ソウルズ教会 All Soul's Church
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1822年に着工、2年後に完成したこの教会は、リージェント・ストリートとその北のポートランド・プレイスとの境界を示す位置にある。ギリシャ風の柱列が配された円型の外観、中央にそそりたつ尖塔などユニークなデザインで目を引くが、当時は酷評されたという。第2次世界大戦で爆撃による被害を受けたものの、1957年には復興がかなった。ナッシュの胸像が入り口近くに設置されている。

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ロンドンの下町、ランベスの水車大工の子として生まれたジョン・ナッシュ(1752~1835)。リージェント・ストリートをはじめとする大プロジェクトに湯水のように税金を使った結果、議会から嫌われ、ナイトの称号を与えられることなく隠居先のワイト島でひっそりと息をひきとった。右側の写真は、オール・ソウルズ教会にあるナッシュの胸像からの眺め。リージェント・ストリートを望むことができる。

マーブル・アーチ Marble Arch
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ローマのコンスタンティヌス門を参考に造られた。当初はバッキンガム宮殿の正面にすえられるはずだったが、同宮殿のさらなる増築に伴い(同アーチの完成後、狭すぎて王室の馬車が通れないことが判明したため移されたというのは通説)、1851年にハイド・パークの北西隅に移された。1908年、現在のようにラウンドアバウトの中心にくるよう変更が加えられた。

シアター・ロイヤル・ヘイマーケット Theatre Royal Haymarket
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1820年にナッシュが建て替えた劇場だが、もともと1720年に建てられたもので、1766年に時のヨーク公(ジョージ3世の弟)から「ロイヤル」を名乗ることを許可された。


トラファルガー広場 Trafalgar Square
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英国がナポレオン戦争で勝利をおさめたのは、1815年(ジョージ3世の晩年)。トラファルガーの海戦でネルソン提督が勝ってから、さらに10年を要した。


ウォータールー・プレイス Waterloo Place
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ジョージ4世が即位するまで住んでいたカールトン・ハウス(取り壊され、現存せず)の正面玄関は、このウォータールー・プレイスに面していた。現在は、英国などがトルコでロシアと戦ったクリミア戦争の追悼記念碑が建てられている。ちなみに、写真の左端に見える像は、「白衣の天使」ナイチンゲールのもの。

セント・ジェームズ・パーク St James's Park
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バッキンガム宮殿の東に広がる公園。ジェームズ1世の時代から、正式に王室所属として扱われるようになった。ジョージ4世の命をうけ、ナッシュは大幅に手を加えた。


バッキンガム宮殿 Buckingham Palace
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詳細は記事上部、本文をご参照ください


9ロイヤル・ミューズ The Royal Mews
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1825年に完成。「ミューズ」の名前の通り、もともとは「馬や」で、現在も王室所有の馬車などがここで保管・管理されている。隣の「クイーンズ・ギャラリー」(女王所有の美術品を展示)とともに、中を見学することができる(有料)。

週刊ジャーニー No.1338(2024年4月18日)掲載