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【前編より】
1925年、マーガレット・サッチャーは小さな田舎町で食料雑貨店を営む一家に生まれた。勤勉な父のもと、運命に導かれるようにして政治の世界に強い関心を抱き、24歳で国政に打って出るチャンスを手にするが落選。結婚、出産を経ても政治に対する思いは日ごとに募り、夫デニスの強力なサポートを得て、国会議員初当選を果たす。確固たる信念で政策を推し進める姿は党内でも支持を集めて党首となり、1979年の総選挙に勝利。英国史上初の女性首相となった。しかし彼女の前に立ちはだかるのは、人々の夢や希望をつぶしてしまうような英国の惨状だった――。
英国に立ち込める暗雲
テレビ画面の中で病院職員は平然とした様子でコメントしていた。
「賃上げ要求が通らなければ、患者が死んだとしてもしょうがない」
マーガレット・サッチャーが首相に就任する半年前の1978年末から79年初頭にかけて英国を激しく揺さぶった「不満の冬(Winter of Discontent)」。労働組合による一連のストライキによって、道路や下水道掃除などの公共サービスは機能せず、通りには回収されないゴミが積み上げられ、異臭を放つこともあった。医療関係者にまで及んだストの様子がテレビに映し出され、人々の心を暗くした。
この社会背景には、戦後に始まった「ゆりかごから墓場まで」をうたう手厚い福祉政策があった。労働党政権が中心となり、平等に福祉の行き届いた理想の社会を実現しようと躍起になった挙句の大盤振る舞い。主要産業が国有化されていたことも相まって、国民の勤労意欲は削がれ、国に依存する体質は人々を蝕んでいた。理想と現実はかけ離れ、サッチャー新政権発足時の財政は逼迫していた。歳出の肥大化、国際競争力の著しい低下、貿易収支の大幅な赤字。経済成長率はヨーロッパの中でも最低水準にあった。追い討ちをかけたのは、1973年の石油危機を受けた物価の上昇だ。失業率がじわじわと高まる中、さらなる石油危機が、首相就任と時を同じくして国を襲っていた。国内に立ち込める暗雲は黒く、しかも切れることが不可能と思えるほど厚かった。
大英帝国の落日、ヨーロッパの病人、英国病…。国外からも数々の言葉でさげすまれていた母国を立ち直らせるチャンスを手にした新首相マーガレット・サッチャーだったが、その前には取り組むべき課題が文字通り山積していた。
ロンドン中心部レスター・スクエアは、ストで回収されないゴミであふれ、
通称『フェスター(fester=腐る)・スクエア』と呼ばれた。
経済は手段、狙いは意識革命
「サッチャリズム」と呼ばれる一連の政策は、「金融の引き締め」による物価上昇の収束、「税制改革」「規制緩和」「一般大衆参加の資本主義の導入」による企業活動の自由化と推進、経済全般の活性化を図ったことが中心にあげられる。英国の威信を取り戻そうと、多くの経済政策に着手するのだが、サッチャーが主眼を置いたのは、ぬるま湯に浸かりきった国民の依存体質を改めさせるという意識改革だった。
彼女の脳裏には、いつも離れないひとつの言葉があった。それはオックスフォード大在学中に開催された選挙集会でのこと。ひとりの年配男性がこう指摘したのだ。
「私が自分のお金を少しばかり貯金したからというだけの理由で、『生活保護』はもらえなくなる。もし、このお金を全部使ってしまったら、もらえるのに」
これは政治家に突きつけられる福祉制度の大きな問題点だった。健康上の理由から国がサポートしなければならない人がいるのは確かだ。しかし一方で、十分働けるにもかかわらず福祉に依存する人々を野放しにしてはならない。努力し、向上しようという人が評価される社会でなければ国は発展しない。幼い頃から自助努力に徹する父の姿を見ながら勉学に励んできたサッチャーがそう感じるのは当然だろう。彼女の信念は、就任後すぐに行った税制改革に色濃く表れている。
当時の税の仕組みは、所得税率が高く、真面目に働く人々の税負担によって、福祉に依存する人々を支えているような状況だった。上昇志向のある人でさえ、「給料が税金に消えるなら、一生懸命働く意味などない」という考えに至るのは仕方のないこと。サッチャーはすぐさま所得税を減税し、勤労意欲を呼び起こすためのキャンペーンを展開する。1979年に33%だった基本所得税率は、1980年に30%に、翌年以降も段階的に引き下げられていく(1988年には25%となる)。
このとき同時に、付加価値税を上げることも決定されている。一般税率8%、贅沢品税率12・5%のところを一律15%と増税。財政赤字を減らすため、収入の有無にかかわらず広く国民に税負担を強いる道を選んだのだ。
ところが、サッチャー政権は途端に支持率を落とすこととなる。付加価値税の引き上げが、所得の低い人には不利に、逆に富裕層を優遇する税制であるように受け止められたからだ。
メディアのみならず、党内からは中止を求める声が上がるが、どんなに不人気の政策であろうと自分の信念を曲げない強気のサッチャー。その姿勢は、極端な言い方をするならば「働かざる者、食うべからず」という冷酷な印象さえ与え、国民の中の反発感情を煽る結果となった。
また、異常なほどの高騰を見せていた物価は、金融財政の引き締めによって落ち着きを取り戻すきざしを見せていたものの、代わって深刻な不況を招く結果となったことも支持を落とした原因のひとつだ。政権発足後、2年連続で経済成長はマイナスを記録。大企業の人員削減、中小企業の倒産に伴い、職を追われた人も多く、1980年に160万人だった失業者は、翌年には250万人に急増。さらに1983年には300万人を超えるに至った。
「大きな政府」から「小さな政府」へ |
サッチャーが実施した政策のコンセプトは「小さな政府」、新自由主義とも呼ばれるものである。これは、政府の権限や役割を大きくし、経済活動を政府の管理の下に行う「大きな政府」に対して、経済の動向を市場にゆだね、役割を最小限にとどめた政府のこと。政府の役割を肥大化させる高福祉を抑制し、規制緩和や国有企業の民営化によって、民間企業が自由に活動できる場をつくり、それにより経済を活性化することを目指した。 |
© PA/photo by ROBERT DEAR
英国を揺るがした一大事件
首相に就任して3年が過ぎようとしていたころ、失業率が示す数値は、紛れもない事実としてサッチャーの肩に重くのしかかっていた。解任までもささやかれる中の、1982年4月2日朝、英国中を揺るがす一大事件の報が英国民の耳に飛び込んできた。
「アルゼンチン、フォークランドに武力侵攻」。英国が南太平洋上で実効支配するフォークランド諸島の領有権を主張するアルゼンチンが、同諸島を取り戻そうと、突如部隊を派遣したのだ。
つい1週間前、国防省はひとつの軍事計画を提示していた。それは、アルゼンチンのフォークランド侵略を抑止する防衛計画。ところが、サッチャーは「アルゼンチンがまさかそんな愚かなことをするはずがない」と取り合わなかった。まさに青天の霹靂というべき事態が今、現実のものとして英国を襲ったのである。
サッチャーは間髪を入れずに軍隊の派遣を主張。党内には慎重論が多かったものの半ば強引にまとめ、武力行使に応戦する意向を示した。そして空母2隻を主力とする軍隊がフォークランドに向けて出動した。のちに「フォークランド紛争」と呼ばれる戦いである。
1ヵ月半が過ぎたころ、サッチャーのもとに一本の電話が入る。中立の立場にあった米国のロナルド・レーガン大統領からだった。
「アルゼンチンを武力で撃退する前に、話し合いの用意があることを示すべきではないだろうか。それが平和的解決の糸口だ」
するとサッチャーは、「アラスカが脅威にさらされたとき、同じことが言えますか?」と反論。その強い信念を誰に止められよう。「軍事力によって国境が書き換えられることがあってはならない」と、武力には屈しない姿勢で提案を跳ね返したのだ。
英国民にとって、はるか遠くに位置するこの諸島は、決してなじみのあるものではなかったが、日々伝えられる戦況に触れ、かつて大英帝国と称された誇りの、最後の断片をたぐり寄せるかのように、愛国心は高まりを見せていく。
そしてアルゼンチンのフォークランド上陸から約2ヵ月、アルゼンチンの降伏によってこの紛争に終止符が打たれた。
「Great Britain is great again.英国は再び偉大さを取り戻したのです」。この勝利は、フォークランド諸島を守り抜いたという事実以上のものを意味し、将来の見えない母国に不安を感じていた国民の心に大きな希望の光をともした。右肩下がりだった『冷血な女』の支持率は、祖国に自信を取り戻させた『英雄』として、急上昇するのだった。
翌年に行われた総選挙では、労働党に対し、前回の選挙を上回る圧倒的大差をつけて勝利。政権は2期目に突入し、サッチャーの世直し政策は勢いを増す。
良好な盟友関係を築いていたロナルド・レーガン米大統領と。
1984年、 米大統領別荘キャンプ・デーヴィッドにて。
夢を与えた大衆参加の資本主義
首相就任直後から行われた国有企業の民営化も、引き続き実施されており、国民生活に大きな変化をもたらしていた。
新政権発足時に政府の管理下にあった企業の数は、放送や銀行などの公共性の高い企業のほかに、およそ50社。なかには、今では民営が当たり前と考えられるような、自動車メーカー「ロールスロイス」「ジャガー」なども含まれた。
国が運営する以上つぶれる心配はないといった安心感は、同時に就労者の意欲や向上心を低下させる。そう考えるサッチャーのもと、国有企業の民営化が次々と図られていった。
民間への移管は、政府の持ち株を一般大衆も対象に売却する形で行われた。つまり従業員も株を取得することが可能となり、業績が好転すれば配当金も受け取れるようになった結果、株主たる労働者の仕事に対する姿勢が変わったのは言うまでもない。
さらに政府が所有する資本の切り売りは、住宅分野にも適用された。低所得者に賃貸されていた公営住宅の大胆な払い下げが実施されたのだ。
階級社会の英国で、当時、家や株などの資本を持つということは、上流あるいは中流層の特権。そのため労働者層にとって、マイホームを持つということは、夢のまた夢と考えられていただけに、人生観に大きな変化を生じさせかねないほど革新的な政策だった。サッチャーは勤勉に励めば夢がつかめるということを示し、その夢は手頃な価格で手に入るよう配慮された。売却額は平均で相場の50%オフ。破格のものだった。
この政策を通し、一部の労働者層は、これまで手に届くはずなどないと思われた幸福をつかみ、財を手にする者も増えていった。サッチャーは、「労働者階級の革命家」とも称されるようになる。
Great Britain is great again. (英国は再び偉大さを取り戻したのです) |
フォークランド紛争から帰港した空母「HMS Hermes」。
勝利を祝うため多くの市民がユニオン・ジャックを手にかけつけた。
労働組合との死闘
労働組合が強大な力を有していたことも、英国経済と人々の勤労意欲にブレーキをかける原因のひとつだった。1970年代には毎年2000件以上のストライキが行われるような状況の中で、企業経営者の経営意欲は低下。好んで英国に投資する外国企業などあるはずもなく、サッチャー政権にとって労働組合の力を押さえ込むことは急務だった。
なかでも、やっかいな存在だったのは全国炭鉱労働組合(NUM: The aional Union of ineorkers)だ。石炭は国の重要なエネルギー資源であるため、彼らは政府の弱みを握っていたといっても過言ではない。当然、政府もしぶしぶ要求を呑まざるを得ない状況にあった。1973年にはストによるエネルギー不足のため、当時の政府が国民に「週3日労働」を宣言したこともあるほどだ。
そのNUMに、まるで宣戦布告をするかのようにサッチャーが打ち出した政策は、採算の取れなくなっていた鉱山20ヵ所を閉鎖し、合理化を図ることだった。もちろんNUMはだまっていない。1984年3月、無期限ストに突入した。政府にも劣らぬ権力を持っていたNUMは、サッチャー政権の打倒を目指し、政治闘争を激化させた。サッチャーにとって敗北はつまり、政権の終焉を意味し、結果次第では自身の進退も問われる状況となっていた。
当初は勢いのあったNUM。しかし、ストが長期化するにつれ、ストよりも雇用の確保という現実的な世論が強まり、次第に力を失っていく。これに対し、サッチャーは組合活動に規制を設けたほか、非常事態に備え、あらかじめエネルギー供給源を確保するなど、緻密な準備を行い、挑んでいく。最終的には政府の『作戦勝ち』で1年に及んだ闘いは幕を閉じた。
以降、労働組合によるストは減り、組合の攻勢の中で萎縮していた企業経営も活動意欲を見せ、健全さを取り戻していくこととなる。
一方、炭鉱の町では、「私の家族は、あの女に殺された」と、今も根に持つ人も少なくない。仕事を奪ったばかりか、町に暮らす若者の希望の芽を摘み取ったと嘆く人もいる。職を失い途方にくれる人々にとって、『鉄の女』がもたらした政策は非情かつ冷徹。弱者を踏み潰したと、恨みを募らせていった。サッチャーの毅然とした態度は、「そんなことなど構うものですか」という印象を与え、ますます嫌われていくようになる。
このように、サッチャーが求めた国民の意識改革は、すべての人を幸せにしたわけではなかった。見方によっては、弱者を支えた福祉制度を壊し、自由という名の競争社会で強者をより強くしたと捉えられ、さらなる格差につながったといわれている。またコミュニティの崩壊により、周りと協力し合った時代は過ぎ去り、代わって訪れたのは、自由競争社会の中で、自分さえ良ければいいという自己中心的な社会と指摘する人もいる。
産業の活性化を目指し、英国企業の売り込みや、外国企業の英国誘致を先頭に立って行ったサッチャー。
日本の自動車産業にも目をつけ、1986年9月に日産自動車が進出するに至った。
英国日産本社の開所式に訪れ、発展を祈った。© PA
割れるサッチャリズムへの評価 |
サッチャーが行った「ビッグバン」と呼ばれる一連の金融自由化政策により、外国の資本が多く流入することになった英国。世界中から資金が集まり、なかでもロンドンは世界最大級の金融都市に発展したことで、サッチャーの政策は一定の評価を得てきた。しかし2007年に起きた世界金融危機は、英国金融業界にも深刻な影響を及ぼした。脆弱さが露呈し、サッチャリズムの重大な欠陥として表面化している。 また製造業から金融業などのサービス業へと重点がシフトしたため、国内の産業が空洞化する結果となった事実は長年指摘されていることである。 |
九死に一生を得た強運の持ち主
英国でくすぶる火種は他にもあった。アイルランド統一を目指す、IRA(アイルランド共和軍)との確執だ。IRAは北アイルランドのみならずロンドン市内の公共交通機関や金融街などを狙い、テロを繰り返していた。NUMとの闘いが続く中の1984年10月、サッチャーの身にもその危険が襲いかかる。
開幕を控えた次期国会に向け、さらなる改革の促進に向け、弾みをつけるべく保守党の党大会がイングランド南部ブライトンで開催されようとしていた。自分の描くビジョンをより正確に力強く伝えたいと考えるサッチャーは、滞在していた壮麗なグランド・ホテルで、翌日のスピーチ原稿の確認に余念がなかった。作業も終わり、スピーチ・ライターらも自室に戻っていったときには、深夜2時半を回っていた。ようやく落ち着き、そろそろ就寝の準備に取り掛かろうとしていたところ、秘書が書類を確認してほしいと訪ねてきた。サッチャーは居間部分で対応し、書類に目を通して、自分の意見を述べた。秘書が書類を片付けようとしていたときだ。突然、衝撃をともなった激しい爆発音、続いて石造りの建物が崩れ落ちる轟音が響き渡り、居間には割れた窓ガラスの破片が飛び込んできた。
すぐにデニスが寝室から顔を出したおかげで、彼が無事であることはわかったが、浴室はひどいありようだった。
サッチャーのほか、閣僚、保守党員らが滞在していた同ホテルには、IRAによる爆弾が仕掛けられていたのだ。幸いサッチャーは無事だったものの、この爆破で5人の命が奪われ30人以上が重症を負うこととなった。
秘書に書類の確認を頼まれなければ危うく浴室で命を落としていた可能性もあったサッチャー。たったひとつの書類によって難を逃れた強運の持ち主は、すぐに官邸に戻る案が出されるものの、午前9時半より予定通り会議を行うことを決めた。多くは着の身着のまま避難しており、最寄りのマークス&スペンサーに朝8時の開店を依頼し、服の調達をしなければならないほどの状況だったが、テロをものともしない強硬な姿勢を見せつけたのだった。
IRAによって爆破されたブライトンのグランド・ホテル。© D4444n
強力なサポーター
サッチャーが自らの信念のままにリーダーシップを発揮していく影には、10歳年上の夫デニスの存在がある。妻を温かく見守り、たゆむことなく支えたデニス。しかし、ふたりの関係は常に良好だったわけではない。1960年代、サッチャーが国会議員として仕事に没頭していくにつれ、デニスは孤独を感じていた。その頃、家族が経営する化学関連の会社で役員を務めていたデニスは、すれ違いの生活に神経を弱らせ、離婚まで考えていた時期もあった。心を癒すため、2ヵ月間英国を離れ、南アフリカを訪れたこともある。それは妻の元に戻るかどうかさえわからないという旅だった。しかし、何かがデニスを思いとどまらせ、ふたりは夫婦として再び歩み始める。
デニスが役員職から引退し、サッチャーが首相に就任して以降は、ふたりの関係は良好となっていった。危機を乗り越えた夫婦の絆は深く、政治家の夫として妻の活動を一番近くで支える、ますます力強い存在となる。
一家が大変なときは、その長が率先して事にあたることを、父の姿から学んでいたサッチャーは、一国を背負う者として寝る間も惜しんで仕事に励んでいた。深夜2時、3時までスピーチ原稿を確認していることも多く、平日の睡眠時間は4時間。親しい友人らと休暇旅行に出かけても、楽しいひと時を終え、友人らが寝室に引き上げると、サッチャーの仕事の時間が始まるといった具合だ。働きすぎのサッチャーに「眠った方がいい」と助言できたのは、夫デニスのみであった。
冷戦終結にむけて
国内の経済活性化に取り組む一方、世界を舞台に外交面でもサッチャーはその力を遺憾なく発揮していく。
米大統領のロナルド・レーガンとは、互いの目指した政策が同じ方向を向いていたこともあり、良好な盟友関係を築いていた。後年、サッチャーが「自分の人生の中で2番目に大切な男性だった」と語り、『恋人関係』とも揶揄されるほどでもあった。
第二次世界大戦後から続いていた冷戦真っ只中にあった1970年代に、「(旧ソ連が示してきた)共産主義は大嫌いだ」と言い放ち、『鉄の女』のニックネームを与えられたサッチャー。のちにロシアの大統領となるゴルバチョフと出会うと、「彼となら一緒に仕事をしていくことができる」と評価している。
1987年に3期目に突入していたサッチャーは、両者との信頼関係を築くと、冷戦状態にあった米レーガン大統領と、旧ソ連ゴルバチョフの橋渡しに努め、冷戦終結に一役買ったともいわれている。
自分の推し進める政策と外交。何の後ろ盾もなかった彼女がここまでのし上がってきたのも、勤勉と努力の成果にほかならず、それによって彼女の自信が裏付けられた。そして、英国を新たな世界へと向かわせ、冷戦終焉に尽力、時代は大きく変わりつつあった。
しかしそのとき人々が求めたのはもはやサッチャーではなくなろうとしていた。
退陣までの3日間
1990年11月、1期目からサッチャーを支えてきた閣僚ジェフリー・ハウが、欧州統合に懐疑的なサッチャーと彼女のリーダーシップのスタイルに反旗を翻す演説を行い、辞任したのだ。サッチャーが導入を決めた、国民1人につき税金を課す人頭税が市民からの強い反発を受けていたこともあり、ハウの演説を機に、党内での確執が表面化。党首選へ向けた動きが活発になる。
11月19日から開催された全欧安全保障協力会議で、ヨーロッパにおける冷戦終結が宣言されており、サッチャーは、党首選が行われた11月20日、同会議に出席するためパリに滞在していた。
英国では午後6時30分頃、投票結果が発表されていた。372票中、マーガレット・サッチャー204票、対立候補マイケル・ヘーゼルタイン152票。得票数ではサッチャーが勝っていたものの、その差が当選確定までに4票届かず、結論は2回目投票へと持ち越される。フランスの英国大使館前でインタビューに応じたサッチャーは、2回目の投票に立つ姿勢を見せるが、350キロ離れた英国国会議事堂の会議室に集まった議員たちの間には大混乱が巻き起こっていた。サッチャー派のメンバーも、今後の作戦を練り直す必要に迫られていた。
翌21日、ロンドンに戻ったサッチャーは、午後、官邸に着くとすぐにデニスのいる上の階へ向かった。冷静に状況を見極めていた彼は、ここで勇退を選ぶよう助言するのだった。それでも、自分を支持してくれる人がいる限り戦い抜くことを主張するサッチャー。しかし同僚たちと会って話すうちに、自分の辞任を望む人が数多くいる実情を悟っていく。
サッチャーは父が市会議員を辞したときのことを思い出していた。一時は市長を務めていたが、1952年に対立する政党によって上級議員の座を追われた父は、集まった支持者の前で誇り高くこう語った。
「私は名誉をもってこの議員服を脱ぐのです。私は倒れましたが、私の信念は倒れることはありません」
思い出すだけでも切ない、父に襲いかかった出来事が、今自分の身にも起こっている。
翌22日、ついに退陣を発表した。
首相官邸を去る日、男性政治家も顔負けの力強いリーダーシップで英国を率いてきた『鉄の女』は、長い在任期間を振り返り、声が震えるのをおさえるように口を開いた。
「みなさん、11年半のすばらしい日々を経て、去るときを迎えました。ここにやってきたときよりも、現在の英国の状態が格段に良くなっていることを、とても、とてもうれしく思っています」
彼女の側では11年半前と同じようにデニスが静かに寄り添っていた。
首相の座を追われるようにして官邸を去ることになったサッチャーの視界が涙でくもっていた。
首相官邸を去る日、官邸前で会見を行ったマーガレット・サッチャー。
20世紀では英国首相として最長の在任期間を誇った。
© PA/photo by SEAN DEMPSEY
寂しさか、達成感か
母にとって、 まず1番は国。 私たちは2番目なの |
2000年頃から認知症を患っていたことを、のちに娘キャロルが公にしている。繰り返し起こる脳卒中と、認知症に悩まされていたサッチャー。医師のアドバイスにより、2002年以降に公の場で話すことをやめた。そしてその翌年、政治家の夫として長きにわたって彼女を支え続けたデニスが88歳で他界。結婚生活は52年に及んだ。深い悲しみに包まれたサッチャーの症状は、悪化の一途を辿り、近年は、デニスが亡くなった事実を忘れることもあった。
昨年12月のクリスマス以降、ロンドン中心部のホテル「ザ・リッツ」で過ごしていた。1970年頃、尊敬してやまなかった父が最期のときを迎えようとしていた時期に、サッチャーは帰省している。親しい友人らが続々と父を訪ねてきたのを目の当たりにし、「自分も人生の終わりにはこのように多くの親友に恵まれていればいい」と思ったと自伝に記している。だが、政治家としての生涯は、その希望が叶うことをサッチャーに許さなかった。自分が死を迎えようとしている今、愛する夫に先立たれ、ふたりの子供の姿はそこにはなかった。娘キャロルが「母にとって、まず1番は国。私たちは2番目なの」と、母親の愛情を十分に受けることができなかった悲しみを告白している。サッチャー自身も晩年「私はいい母親ではなかった」という後悔の念をもらしていたという。
認知症を患ったサッチャーの心に最後にあったものは、寂しさか達成感か、それとも、愛する英国の輝かしい未来か。
サッチャーの行った政策によって、英国は大きく変化した。夢を与えられたと感謝する人もいる一方で、生活をつぶされたと嘆く声も根強い。
しかし、「英国病」とさげすまれ、瀕死の状態にあった母国を救うために奮闘し、強固な信念で国民を率いたひとりの女性政治家の名は、英国の歴史と人々の心に深く刻まれている。
セント・ポール大聖堂で行われた葬儀に参列するエリザベス女王。
女王が首相の葬儀に参列するのはきわめて稀で、ウィンストン・チャーチルの葬儀以来となった。
© PA/photo by PAUL EDWARDS
「サッチャーの葬儀が国葬級の規模で開催される一方、
街角では、死を喜ぶ一部の市民の姿が見られた。
サッチャーと ハンドバッグ |
![]() 封建的な男社会で力を発揮したが決して『男勝り』ではなかったことは、マーガレットの外見によく現れている。決してパンツ・スーツを着用せず、スタイリストを頻繁に官邸に呼んでおり、髪は常に綺麗に整えられていた(余談だが、スプレーでビシっと固められた髪型は、まるで『ヘルメット』のようで、彼女の信念のように『ぶれない』と冷やかされている)。夫デニスから贈られた真珠のネックレスを愛用。さらに女性らしさを表すかのように、いつもハンドバッグを手にし、それは彼女のシンボルとなっている。ちなみにオックスフォードの辞書にはマーガレット・サッチャーに由来するものとして、handbagの動詞の意味が記載されている。「handbag =〈動〉言葉で人やアイディアを情け容赦なく攻撃する」。 |