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英国の世論を分断
2013年4月8日、ロンドン中心部のザ・リッツ。英国の数ある高級ホテルの中でも豪奢なことで知られるホテルだ。時計は午前11時を打っていた。第71代英国首相マーガレット・サッチャー(Margaret Thatcher)は、お気に入りのスイート・ルームで、ベッドにゆったりと腰を掛けていた。
1979年から1990年までの間、英国首相を務め、2002年より政治の表舞台から姿を消していたマーガレットは、度重なる脳卒中と認知症とに悩まされてきた。昨年末には膀胱にできた腫瘍を摘出する手術を受け、比較的簡単な手術は無事に成功したが、術後は自宅ではなく同ホテルに滞在していた。病身の彼女にとって、ロンドン・ベルグレイヴィアにある4階建ての家よりも、このスイート・ルームで暮らす方が好都合だったからだ。
10年前に夫デニス・サッチャー(Denis Thatcher)に先立たれ、双子の子供は海外に居住していたことから家族は近くにおらず、2人の介護者が交代で、24時間体制で付き添って過ごしていた。
健康状態が安定しないため訪問者は制限されていたが、首相就任10年の記念に贈られた銀食器や、彼女が11年半を過ごした首相官邸で撮影された写真が誇らしく飾られていたこの部屋には、友人らが訪れ、政治談議に花を咲かせた。時には得意の辛辣な冗談で訪問者を笑わせることもあった。過去の記憶があいまいではあったが、それでも彼女の目は未来に向けられていた。「私の父はよく口にしたわ。大切なのは過去に何を行ったかではなく、これから何を行うかということ」。
この日もいつものように静かに座り、読書にふけっていた。幼い頃から書物に触れては、そこに広がる未知なる領域に時が経つのを忘れて没頭し、多くを学んできた。文字を追いながら、様々に思いを巡らせていたに違いない。
ところが午前11時半をまわろうとしていたとき、マーガレットは脳卒中に見舞われ、不意に思考はさえぎられた。
「ミセス・サッチャー、ミセス・サッチャー」
「早く、お医者様を!!」
異変に気づいた友人らによってすぐに医師が呼ばれたものの、今回の発作は一瞬にして彼女を連れ去って行った。
英国を率いた元首相の訃報はその日のうちに各メディアによって伝えられた。デイヴィッド・キャメロン首相は、訪問先のスペイン・マドリッドから急遽帰国。「国を救った偉大な指導者」と讃え、その死を悼んだ。翌日には、17日にセント・ポール大聖堂で国葬級の葬儀を執り行うことが発表された。
葬儀には、エリザベス女王をはじめ、各国の政治家などおよそ2000人が参列。パレードが行われた通りには、沈痛な面持ちの市民が幾重にも重なるように列をなし、瀕死の状態にあった英国を救おうと闘い抜いたひとりの女性政治家への最後の別れを行った。
他方、英国各所では一部の市民らが高揚していた。「弱者を切り捨てた魔女が死んだ!」というシュプレヒコールをあげ、口が張り裂けた魔女を模した似顔絵が描かれたプラカードを掲げる老若男女、まるで凶悪犯の死を喜ぶかのように祝杯をあげる人々。
死を祝う歌として、映画『オズの魔法使い』の挿入歌『鐘を鳴らせ! 悪い魔女は死んだ(Ding Dong! The witch is dead)』が英国の音楽配信チャートで上位に踊りだした。税金を使って葬儀を挙げることに抗議の声が続出し、国民1人当たりの負担額はいくらになるかといった内容の記事が、新聞を賑わした。
「サッチャーは英国の救世主か、それとも破壊者か」
死してなおも世論を大きく分断するマーガレットが英国に何をもたらし、何を奪ったのか。そして彼女の心に残ったものとは。闘いの連続だったその生涯を振り返ってみたい。
小さな町の食料雑貨店の娘
部屋に差し込む木漏れ日がやさしく揺れていた。下の階からは絶え間なく話し声が聞こえてくる。「今日はイチゴがおいしそうね。ひと山もらっていこうかしら。それから卵もお願い」。
この店の店主を務めるアルフレッド・ロバーツ(Alfred Roberts)の子供時代の夢は、教師になることだった。ところが家族には、彼に学業を続けさせるだけの経済的なゆとりがなく、13歳で学校を中退。家計を支えるためにパブリック・スクールの菓子売店で働くことになった。残念なことだったがそれは嘆いても仕方のないこと。夢をあきらめ、食品業界内で何度か転職した後、婦人服の仕立ての仕事に就いていたビアトリス・スティーブンソン(Beatrice Stephenson)と出会い、25歳で結婚。ふたりは借金をして、ロンドンから北へ160キロほど離れたイングランド東部リンカンシャーの田舎町グランサムに、小さな食料雑貨店を開いた。
マーガレット・ロバーツ(のちのマーガレット・サッチャー)は、この一家の次女として生まれた。今から88年前の1925年10月13日のことである。家族は交通量の多い十字路に面したこの店の2階に居を構えていた。家族や従業員がせわしく動き回る音、棚の埃をはたくリズム、買い物に訪れた人々のおしゃべりなど、物静かな赤ん坊だったマーガレットの耳に心地よく響いていたに違いない。
2年前に一家は2号店をオープンさせており、両親はいつも忙しく立ち働いていた。物心がつくころにはマーガレットも店に出て、商品を並べる手伝いをするようになる。真面目で仕事熱心な父の店が平凡な店ではないことは、幼いなりにもよくわかった。ピカピカに磨かれた陳列棚。果物やスパイスのフレッシュな香り。店は、最高の商品を提供しようとする父のこだわりと、丁寧なサービスで満たされていた。
地元の人々は、一家が店の2階に住んでいることを知っており、営業時間外でも、食材を切らした人がドアをノックすることもたびたびあった。一家の生活は常に商売とともにあったが、かといって、マーガレットが家族の仕事のために犠牲を強いられたかというと、そうではない。一家のために働くことは当然のことであったし、それについて家族の誰も愚痴をこぼさなかった。
「グランサム(Grantham)にあるマーガレットの生家=写真右。1階に父が経営する食料雑貨店、2階には住居があった。
外壁には生家であることを示すプレートが掲げられている=同上。© Thorvaldsson
大切なことは父から教わった
両親ともに宗教心が強かった一家の生活は、キリスト教の教派のひとつ、メソジスト主義に従って営まれた。メソジスト(Methodist)とは、時間や規律を守って規則正しい生活方法(メソッドMethod)を重んじる教派だ。
日曜は朝から姉ミュリエルとともに日曜学校に参加し、その後、午前11時に一家そろって礼拝へ。午後になると子供たちはまた日曜学校に戻り、両親は日曜夕拝にも参加していた。
両親が実践する真面目な規則や、日曜日に家族で教会へ行かなければならない生活は、育ち盛りの普通の子供には退屈で、抵抗しようと試みたこともある。
あるとき、友達がダンスを始めたのをきっかけに、自分もダンスを習いたいと、父に話したマーガレット。すると父はこう答えた。
「友達がダンスをしているからお前も習うというのかい? よく聞きなさい。誰かがやっているからという理由で、自分も同じことをするのは間違っている。自分の意思で決めることが大切だよ」
友達と一緒にどこかへ出かけたいとき、映画を見に行きたいとき、父は教訓のように「他の人がやるからというだけの理由で、何かをやってはいけない」と口にした。それが本当に大切なことだと気づくまでにしばらく時間がかかったが、マーガレットの中には、厳格な父の教えがひとつひとつ植えつけられていった。
他の人がやるから というだけの理由で、 何かをやってはいけない |
政治への扉
真面目で働き者、地元の人から厚い信頼を寄せられていた父は、町一番の読書家としても知られていた。子供の頃に進学することは叶わなかったが、歴史、政治さらに経済などの本を読み、独学で知識や考え方を身につけていた。一家が自営業であったおかげで、父と多くの時間を共有できたこともあり、勤勉な姿勢はマーガレットに受け継がれていく。図書館へ行き、自分と父が読む本を抱えきれないほどに借りてくることもしばしばあった。
10代前半には毎日のように「デイリー・テレグラフ」紙を読み、ときには「タイムズ」紙にも目を通した。1930年代に英国を襲った大恐慌は、グランサムの町には比較的軽い影響を与えただけで済んだものの、マーガレットに社会で起こっている出来事に関心を抱かせるのには十分すぎることであった。
第二次世界大戦が始まった1939年には14歳。戦争の背景も理解できるようになっていた。一家で囲む食卓は、戦争や政治について、父に質問を投げかける絶好の場所。父と重ねる議論に際限はなく、またどんな質問にも回答を導き出そうとしてくれる父との濃厚な時間が、マーガレットの心を政治の世界へと向かわせるのはそう難しいことではなかった。
また同じ頃、父が買ってきたラジオから流れてくる、当時の首相ウィンストン・チャーチルの演説に触れたことも印象深い思い出だ。聴き入るうちに、「英国国民にできないことはほとんどないのだ」という母国への誇りが心の中に生まれたのをよく覚えている。とはいっても、まさか自分がチャーチルと同じように国を率いる立場になろうとは夢にも思っておらず、政治家としての将来を意識するのはもう少し先の話である。
第二次世界大戦の英雄と言われる当時の首相ウィンストン・チャーチル。
マーガレットは、「国をなんとしても守り抜く」というゆるぎないリーダーシップに触れ、
母国への誇りを抱いていった。
本当にやりたいこと
1943年10月、18歳を迎えようとしていた頃、オックスフォード大学のサマビル・カレッジに入学した。専攻したのは化学。この分野の資格を取ることで、将来、安定した生活が保証されると考えたからだ。
しかし入学後すぐ、学業の傍ら大学の保守党協会に入会したことにより、マーガレットは鉄が磁石に引き寄せられるかのように政治の世界へ引き込まれていく。
協会活動を通して、同じように政治に関心を抱く人々との出会いが始まった。ダイナミックに広がる交友関係は、小さな町で育った若者には刺激的で、すべてが輝いていた。雄弁術を学んでは仲間と昨今の政治問題について意見交換し、議論を重ねる。ときには選挙集会などの前座として演説を行った。聴衆からの批判的な質問に対し、その場で自分の中から答えを手繰り寄せ、意見を述べていく。そうしたやり取りの躍動感を味わうことは貴重な経験だった。
その頃、地元グランサムで尊敬する父に起きていた変化は、マーガレットにとっては運命としか言いようがない。「人々がより働きやすい世の中にしたい」という信念を胸に市会議員として政治に携わっていた父が、グランサム市長に選ばれたのだ。幼い頃に学業の道を閉ざされ、努力と勤勉の末にその座に就いた父と連れ立って、地方議会や裁判所などを訪れるうちに、政治への関心は異常なほどの高まりを見せる。学生生活最後の年には保守党協会の代表を務めるまでになっていた。
そして政治家としての人生を明確に意識させた瞬間がついに訪れた。
大学卒業を目前に控えたある日のことだ。ダンス・パーティーに訪れたマーガレット。終了後、泊まっていた家のキッチンで宿泊客らが集まって話をしているのを見て、自分もその輪に加わり、政治の話を始めた。
国のあり方や政策について、堂々とあふれんばかりの情熱で語るマーガレットの様子を目の当たりにした男の子がこう質問した。
「君が本当に望んでいるのは、国会議員になることだろう。そうじゃないのかい?」
するとマーガレットは無意識のうちに「そうよ、それが私の本当にやりたいことなの」と答えていたのだ。
これまで彼女自身が政治家になることを意識しなかったのは意外なことかもしれない。しかしこのとき、胸のうちに秘められ、ぼんやりとくすぶっていた野心を、手に取るようにはっきりと、そして初めて意識したのだった。
国会議員の候補者に
1947年に化学の学位を修め、大学を卒業すると、イングランド東部エセックスにある化学関連の会社に就職。一方で政治家への道を模索するという日々が始まった。女性政治家の存在は珍しく、かつ取り立てて有力なコネクションがあるわけでもないマーガレットにとって、政治家になるという目標は、はるか遠い夢のように思われることもあった。そんなときは、いつも独学で市長になった父の姿を思い浮かべた。
2年が経とうとしていた頃、選挙への出馬の足がかりを手探りで求めていたマーガレットのもとに幸運が訪れる。大学時代からの友人の紹介で、イングランド南東部ケントのダートフォード選挙区から出馬できるチャンスを手にし、候補者に決定したのだ。24歳だったマーガレットは、最年少の女性立候補者ということで、国内外で大きな話題を呼んだ。1950年と51年の2度、同地区で選挙を戦ったが、結果はどちらも落選。しかし選挙期間中、運命の出会いが訪れた。
1950年と51年にダートフォード選挙区より出馬。選挙活動を行うマーガレット。
初の選挙活動は想像以上に彼女を疲労困憊させるものだった。© PA
人生最高の決断
1949年2月、選挙集会後に開催された晩餐会でのこと。保守党支部の有力者に囲まれ、政治家の卵としてまだまだ未熟なマーガレットに熱い視線を送る人物がいた。10歳年上のビジネスマン、デニス・サッチャーだ。
デニスは政治に強い関心があったばかりか、家業は塗装・化学関連の会社。化学を専攻していたマーガレットとの共通の話題は豊富だった。ロマンチックなトピックとは言えないが、選挙区の集まりでときどき顔を合わせ、意見をかわすうちに、ふたりだけで会う機会も増えた。ソーホーにある小さなイタリアン・レストランや、ジャーミン・ストリートの「L'Ecu de France」など、お気に入りのレストランに出かけ、デートを重ねていく中で、デニスの知的さ、気さくでユーモアにあふれた性格は、マーガレットの心を徐々に捉えていく。そして、デニスがプロポーズをするに至ったことは、自然の流れだった。
「僕の妻になってくれないだろうか」
ところが、マーガレットの関心事は、一にも二にも政治。彼女の人生設計の中で、結婚というものはあまりピンとくるものではない。
「私は政治家になりたい。だから普通の奥さんのようになれない…」
「もちろんわかっているよ。そんな君だからこそ一緒にいたいんだ」
全力で選挙活動をサポートしてくれた彼の、自分を想うまっすぐな気持ち。答えを出すのに長い時間を必要とした。しかし考えれば考えるほどに答えはひとつしかないことが明確になっていく。マーガレット・ロバーツは、マーガレット・サッチャーとしてデニスとともに新たな人生を歩むことを決意。これは、彼女が人生において下した数々の決断のなかでも、最高のものとなる。
ふたりの間には子供が誕生した。しかも男女の双子。母親としての仕事で多忙を極めるが、父親譲りで向上心の強いマーガレットの学習意欲はとどまることを知らなかった。家事・育児の空いた時間を利用して、政治家として必要な素養のひとつ、『法律』の勉強に励むことを決めた。そして法廷弁護士(バリスター)資格を見事取得してのけたのだった。この時期に身につけた法的な物事の考え方、知識が、政治家としての大きな財産となったことは言うまでもない。
1951年12月にロンドン西部にあるウェスリーズ・チャペルで結婚式を挙げた。
マーガレット26歳、デニス36歳。© PA
政治への断ちがたい思い
マーガレットが出産、育児、弁護士資格取得に励んだ1950年代は女性の地位に変化が訪れた時期だった。1952年には、エリザベス2世が即位し、新女王時代の幕開けとともに女性の活躍に広く関心が寄せられるようになっていく。マーガレットは選挙で破れはしていたものの、新聞に取り上げられることもあった。
政治の世界に戻りたいというマーガレットの気持ちは日に日に高まり、再び出馬を目指し、選挙区を探して奔走するのだった。
「2人の子供を抱えながら議員としての職務を果たせるのか?」
立候補者選考委員からの懐疑的な目が、マーガレットに降り注いだ。彼女自身もそういった質問は、候補者に向けられるべきふさわしいものだと理解していた。ただ、一部の批判のかげには、女性は政界に足を踏み入れるべきではないといった女性軽視の考え方があったことは、マーガレットを落胆させた。
しかし差別的な考えはくじけるに値しない。マーガレットには「私には政治に寄与できる何かがある」という自負があった。行うべきは、子を持つ母でも政治家としての職務をまっとうするのがいかに可能であるかを主張し、説得を重ねること。マーガレットには最強の味方がすぐ側にいたことも幸いした。夫デニスも妻の可能性を確信していたのだ。
こうして1959年、ロンドン北部のフィンチリー選挙区から出馬。3度目にして初の当選を果たし、ようやく政治家としての一歩を踏み出す。34歳のときのことだ。
政治家は誰でも 苦しい経験を 覚悟しなければならない。 それでつぶれてしまう 政治家もいるが、 かえって強くなる者もいる |
ミルク泥棒
昨年公開された映画『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』をご覧になられた方も多いだろう。メリル・ストリープ扮するマーガレット・サッチャーが牛乳を買いに行くシーンでストーリーは始まる。老いた彼女が、牛乳の価格が上がったことに不満を漏らすのだ。それは、マーガレットが地に足のついた主婦としての経済観念を胸に政策に取り組んだことを象徴しているが、一方で彼女の行った政策に対する皮肉のようでもある。
それは、のちに「サッチャーはミルク・スナッチャー(snatcher=泥棒)」と語呂のいい文句で揶揄される原因となった政策である。
1970年6月に行われた選挙で、保守党が労働党から政権を奪うと、エドワード・ヒース内閣のもと、マーガレットは教育相に任命されていた。議員生活11年目の大抜擢だ。教育費の削減を期待される一方で、現場からは教育の充実、強化を求められていた。
財務省が示した教育分野の経費削減案は、図書館利用、給食、牛乳配布の有料化など。幼い頃から図書館を訪れては本に親しみ、多くを学んできた自身の経験から、本を無料で貸し出すのは教育面できわめて重要なこと。図書館の有料化はどうにかして避けたい事項だった。
かたや、戦後に開始された児童への牛乳無料配布については検討の余地があるように感じられた。「個人が節約し、努力すれば、無駄は減らせる」。これは幼いときから受けてきた父の教えであり、今となってはマーガレットの信念でもある。かといって、すべてやめてしまっては、反発も多いだろうと考えた彼女は、無料配布を6歳以下に限定し、給食費を値上げする案を打ち出す。もちろん、健康上の理由から牛乳を必要としている児童であれば、7歳以上でも無料で受け取ることができるという条件も設けていた。
しかしマーガレットが国民に求めた『個人の節約』という理想が人々に受け入れられるのは、想像以上に困難だったようだ。「ミルク・スナッチャー」さらには「児童虐待」と非難を浴びることとなる。自らが愛するふたりの子供を育てる母親としての顔を持つ一方で、世間が描きだしたイメージは「子供たちの健康をないがしろにする非情な女性」。そんな心ない言葉に傷つかぬ母親がどこにいるだろか。マーガレットは深い悲しみにくれた。
教育相に就任してからの半年は、厳しい期間だった。自らが描く理想の社会と、やるべきことは断固やりぬくという彼女自身のスタイルを持っていたものの、日ごとに増すマスコミからの批判と、野党労働党からの執拗な攻撃に、マーガレットは憔悴していた。
弱った妻の様子に「そんなにつらいなら、辞めてもいいんだよ」とやさしく声をかけるデニス。夫の存在を支えに、「私にはまだ多くのやらなければならないことがある」と自分を奮い立たせたのだった。
「政治家は誰でも苦しい経験を覚悟しなければならない。それでつぶれてしまう政治家もいるが、かえって強くなる者もいる」。そう自分に言い聞かせ、信念をより強固なものにし、毅然とした態度で挑んでいった。そしてその言葉通り、攻撃や障害に遭うたびに、政治家としてひと回り、またひと回りとたくましく成長するのだった。
1959年に初当選を果たしたころのマーガレット。
1953年8月に生まれていた双子のマーク(右)、キャロル(左)は当時6歳。© PA
保守党のニューリーダー『鉄の女』誕生
1973年10月に勃発した第四次中東戦争は、教育相だったマーガレットを思わぬ方向へと導いていく。
アラブ産油国による石油輸出の制限、価格の引き上げにより、世界中が石油危機に陥っていた。英国も例には漏れていない。物価が激しく上昇し、賃上げを求めたストライキが頻発する中で、保守党ヒース政権は力を失い、ついには労働党に政権を奪われる結果となった。当然、党首エドワード・ヒースのリーダーシップに対する不信感が党内に強まっていった。
そこで一部の議員の間で白羽の矢が立ったのが、まもなく議員生活15年を迎えようとしていたある女性だった。教育相という立場で自らの信念を貫く姿が党内で注目を集めていたマーガレットその人である。
とはいえマーガレットには戸惑いがあった。外相や内相などの重要ポストに就いたことのない自分にはまだ経験が足りないと認識していたからだ。最終的に出馬を決めて、デニスに伝えたときも、彼は「正気とは思えない。勝てる望みはないんだよ」と言ったほどである。保守党は野党に下ってはいたものの、2大政党のひとつであり、党首はいずれ首相になる可能性もある。容易でないのは百も承知だ。しかしそれでもなお、マーガレットの心を突き動かし、党首選挑戦の考えを固めさせたのは、保守党の将来はおろか、国の将来をヒースにはゆだねられないという、妥協できない救国の意志だった。
マーガレットの党首選への出馬宣言は、男社会である政界で、一部の人からは「まさかあの女が」と嘲笑を買った。マーガレットは「皆さん、そろそろ私のことをまじめに考え始めてもいいのではないですか」と皮肉を込めていったこともある。これがどのくらい効き目があったのかは不明だが、頑として自分の信念を貫くマーガレットの出馬は、次第に現実味を帯びていき、真剣に受け止められるようになっていった。
1975年2月、ヒース優勢が伝えられる中の投票日。予想を覆し、マーガレットがヒースを上回る票を獲得。しかし、その差は必要数に届かず、2度目の投票が行われることになった。ヒースは出馬を断念。新たに4人が名乗りをあげたが、圧倒的な差をつけて選ばれたのは、マーガレット・サッチャーだった。こうして党の運命が託されたのである。
マーガレットは西側の資本主義陣営と敵対していた旧ソ連との交友関係を深めようとしていた、労働党政権を痛烈に批判。彼女の勢いは旧ソ連にまで伝わり、現地メディアはお返しと言わんばかりにマーガレットを非難。新聞には『鉄の女』の見出しが躍った。
ミルク騒動を経験し、メディアからさんざん悪口をたたかれてきた鉄の女にとっては、痛くも痒くもない。それどころか、その響きが、ちょっとやそっとではへこたれない人間であるという印象を世間に与えたことは、むしろ喜ばしく、すっかり気に入ってしまった。そして自分のスピーチでも『鉄の女』を引用。そのふてぶてしさは、党内の同僚たちにとって頼もしい存在に映った。
首相になるのは私 秘密の卵ダイエット |
![]() 注目される機会が増えることを念頭に実践したとされるが、自分が首相に選任されることへの強い自信もうかがえる。ダイエットのかいあって見事9キロの減量に成功。総選挙でも保守党を勝利に導き、すっきり晴れやかに官邸前で報道陣のフラッシュを嵐のごとく浴びることになった。 ●1日のメニュー例 [朝食]グレープフルーツ、卵1~2個、ブラック・コーヒーまたはティー [昼食]卵2個、グレープフルーツ [夕食]卵2個、サラダ、トースト、グレープフルーツ、ブラック・コーヒー |
内閣不信任案
野党党首として過ごした4年間は、政権運営について熟考するよい期間となった。
当時の英国は、「英国病」「ヨーロッパの病人」と呼ばれるほどに衰退していた。戦後に始まった「ゆりかごから墓場まで」をうたう手厚い福祉政策により、人々の労働意欲は失われ、国に依存する体質は国民にしみついていた。1978年末から79年初めにかけて発生した、「不満の冬(Winter of Discontent)」と呼ばれる大規模ストにより、道路や下水道掃除などの公共サービスは機能せず、町には未回収のゴミが山積。あたりに異臭が立ちこめることもあった。
ストを行っていた各種労働組合は国民の権利をたてに力を増し、労働組合の支持で政権を握ったはずの労働党は、組合の存在により政権存続の危機を迎えようとしていた。もはや政府がコントロールできる域を越えている。このままでは国が立ち直れなくなる。マーガレットは内閣不信任案を突きつけ、1979年5月に総選挙が行われることが決まった。
マーガレットの選挙活動は、労働党ともこれまでの保守党とも違い、人々には新鮮だった。穏かな口調で、できるだけ難しい専門用語は使わず明快に。それでいて攻撃的かつ急進的に英国のあるべき姿を、そして自分の信念を繰り返し国民に訴えかけた。いつしか「信念の政治家」と呼ばれるようになっていた。
そうして人々が選んだのは、マーガレット・サッチャー率いる保守党。時代の流れを追い風に、英国初の女性首相がここに誕生したのである。
1979年5月4日。まもなく午後3時になろうとするころ、新首相はブルーの上品なスーツに身を包み、夫とともにバッキンガム宮殿へと赴き、エリザベス女王に謁見。その後、公用車に乗り込み、向かった先はダウンニング街10番地として知られる首相官邸だ。駆けつけた市民らの声援が響き、官邸前は熱気に包まれていた。女性首相として初めて10番地の住人になるマーガレットは、玄関前で右手を高く突き上げ、軽やかに振りながら、自信に満ちあふれた笑みで人々の視線に応えた。私なら必ず英国に栄光をもたらすことができる。沸き立つような興奮と、英国の未来を預かる者としての責任を強く意識したのだった。そしていよいよ今日から、英国を立て直す、本当の戦いが始まる――。(後編に続く)
1979年5月4日、初の女性首相として首相官邸に到着したマーガレット・サッチャー。© PA News
下院で起きた爆破事件 |
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