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■ 英国のモダニズム文学を代表する作家ヴァージニア・ウルフ。戦争、フェミニズム運動など変革の風が吹き荒れた20世紀初頭を生き、作家として評価を得るも自ら命を絶ってしまう。今回は、世界でもっとも美しい遺書を残したとされるヴァージニアの人生をたどることにしたい。
●Great Britons ●取材・執筆・写真/本誌編集部
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第二次世界大戦真っ只中の1941年3月28日金曜。ナチス・ドイツによる激しい空襲によってロンドン市内は甚大な被害を受け、市民らが恐怖に包まれる中、抗うことのできない闇に飲み込まれた一人の女性がいた。
空襲によってロンドンの家を焼かれ、イースト・サセックスの別荘に疎開していた彼女は、コートを羽織り帽子をかぶって家を出ると、近くを流れるウーズ川のほとりで足を止めた。どのくらいの時間、水面を眺めていただろう。川岸にあった石を手に取り、それをポケットいっぱいに詰めると、川の流れに足を踏み入れた…。
ベストセラー作家ヴァージニア・ウルフ、59歳である。
男は学校で、女は家庭で
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ヴァージニアは1882年1月25日、ロンドンのサウス・ケンジントンに生まれた。50歳を目前にした父レズリー・スティーブンは歴史家で編集者、35歳の母ジュリアはラファエル前派のモデルを務めた人物。ともに子供を連れての再婚で、さらに4人の子を授かり、ヴァージニアはその3番目だった。
英国では同年、「妻財産法」の制定により既婚女性の財産所有が認められるなど、女性の権利が拡大しつつあった。とはいえ、時は女子教育が軽んじられていたヴィクトリア朝時代。スティーブン一家の男の子らは学校に通い、女の子らは家庭で教養を身につけた。
だからといって、彼女が受けた教育が不十分だったかといえばそうではない。ヴァージニアと3歳上の姉ヴァネッサは母からラテン語と歴史を、父から数学を習った。「好きなだけ読みなさい」。当時にしてはリベラルな教育方針の父は、自分の図書室へのアクセスを娘に許し、ヴァージニアは貪るように本を読んだ。さらに文化に造詣の深い両親の元には、ヴィクトリア朝文学界を代表する作家トーマス・ハーディー、詩人アルフレッド・テニスンらが訪れた。知的な客人と出会う中で教養や社会に関する鋭い洞察力を磨いていった。
連続する家族の死
まさに未来の小説家にふさわしい環境で順風満帆な子供時代を送ったように思えるかもしれないが、現実は違った。文学に対する情熱を共有した父は自己中心的で気が短く、「暴君」のように振る舞うこともあった。献身的な母はそんな夫への対応に追われた。その結果、子供に注がれるはずの母の時間が奪われてしまう。知的な成長は促されていたヴァージニアだが、心の欲求においては満たされない思いを抱いていた。
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また、異父兄ジョージとジェラルドの存在も彼女を混乱させた。ヴァージニアとヴァネッサは10歳近く離れた彼らから性的虐待を受けており、ヴァージニアに関しては6歳のときにはすでに虐待が始まっていたという。
13歳を迎えた1895年、突然の母の死によって未成熟だったヴァージニアの心にひびが入り始める。追い打ちをかけるように2年後には、母親代わりの異父姉ステラも早世する。妻を亡くして以降、失意のどん底に落ちた父は絶望と自己憐憫を子供たちに押し付けることもしばしばで、家庭内の雰囲気は、ヴァージニアの心の病を助長こそすれ、改善などしなかった。
そんな父が1904年2月にガンで死去すると、22歳を迎えていたヴァージニアの心はとうとう壊れてしまう。父を尊敬する反面、自分勝手に振る舞う姿に嫌悪感を抱くこともあったヴァージニアは、自分の感情を処理するすべを持たなかったのだろう。不眠、不安感、食欲減退…。かつてないほどの発作に襲われ、窓から飛び降り、自殺を試みたのだった。この時ばかりは自宅を離れ、本格的な治療を受けることとなった。
スティーブン一家の子供たちは、死のにおいがまとわりつく重苦しいケンジントンの家と決別。家を売ってブルームズベリーへと住まいを移した。回復しつつあったヴァージニアも年の暮れまでにはきょうだいの住む新居に移ることが適った。
紅茶ではなくコーヒーを
自由な雰囲気が漂うブルームズベリーでの生活は、すべてが新鮮だった。夕食後に紅茶ではなくコーヒーを飲むような、これまでの型にとらわれない生活の中で、ヴァージニアの創造性が開花していく。
2歳上の兄トビーはケンブリッジ大の友人を家に招き、夕食と会話を楽しむ会を定期的に催した。政治やアート、文学など、物静かだったヴァージニアも次第に会話に加わるようになり、優秀な学生らと対等に意見を交わした。このメンバーらが、のちに社会から一目置かれる文化人集団「ブルームズベリー・グループ」となっていく。
文化と芸術の開拓者集団 ブルームズベリー・グループ
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カジュアルな夜会が繰り返されるうちに形成された知的集団。ヴァージニア姉弟のほか、伝記作家リットン・ストレイチー、画家ロジャー・フライ、作家EMフォースター、美術家ダンカン・グラント、美術評論家クライヴ・ベル、経済学者ジョン・メイナード・ケインズなど錚々たるメンバーがいた。彼らは閉塞的なヴィクトリア朝時代の価値観に疑問を投げかけた。写真は、モンクス・ハウスで撮影されたもの。
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刺激的な日々が続いていた1906年11月、兄トビーが腸チフスを患い急死してしまう。過去の傾向からすると、身内の死に直面し、ヴァージニアが精神を病んだことが容易に想像できる。ところが今回は激しい発作に襲われてはいない。その理由として、母、異父姉、父に対しては複雑な感情を抱いており(一方、トビーに対しては深い愛情を注いでいた)、彼らの死によって後ろめたい気持ちが芽生えたと考えられている。そこにヴァージニアの繊細な性格が浮かび上がる。
仲間の死という悲劇は、ブルームズベリー・グループのつながりを強くした。姉ヴァネッサが、メンバーのひとりクライヴ・ベルと結婚。以降も夜会は続けられ、のちに英国で活躍することになる知識人が参加した。その頃にヴァージニアのキャリアもスタートし、彼女の記事や書評が活字になった。
英国中が笑った⁉ 前代未聞の偽エチオピア皇帝事件
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1910年2月、英海軍が誇る戦艦「ドレッドノート」の将官のもとに電報が届いた。内容は、東アフリカに位置するエチオピアの皇族とその随員が視察に訪れるというもの。大慌てで準備が進められ、海軍は一行を大歓迎し、当時最先端技術を搭載したこの戦艦を案内するなどして視察が終了した。
ところが、この一連の出来事はすべてフェイク。ケンブリッジ大の学生だったヴェア・コールとその仲間らによるいたずらだったのだ。「偽の皇帝訪問」がメディアで報じられると、面目をつぶされた英海軍は激怒したが、英国民は大笑いしたという。
参加メンバーには、まだ作家として名が知られる前のヴァージニア=写真左端、弟エイドリアン、ブルームズベリー・グループのダンカン・グラントらが名を連ねた。
幸せな生活と執筆ストレス
1912年、30歳を迎えたヴァージニアは、グループで交流のあったレナード・ウルフと結婚する。2歳上のレナードは政府職員としてセイロン(現在のスリランカ)にいたが、休暇中のロンドンでヴァージニアとの結婚を決めると、職を辞し、ロンドンで執筆などの仕事を始めた。
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新婚夫婦はシティの小さなフラットで幸せに暮らしていたが、翌年ヴァージニアは執筆中だった小説「船出」を書き上げるストレスに押し潰され、睡眠薬を過剰服用してしまう。レナードの迅速な対応で事なきを得たものの、彼女のうつ症状は2、3年ほど間、断続的に現れた。静かな環境を求めてふたりは郊外のリッチモンドに引っ越し、看護師らが住み込みで様子をみながら、タイピングや料理などシンプルな手作業で自分を取り戻していった。
ヴァージニアの神経が簡単にすり減ってしまうことを実感したレナードは、彼女の精神状態の変化を詳細に記録し、不必要のストレスを回避するために彼女の執筆時間を管理した。妻の健康を第一に考えるならば、レナードは執筆を止めさせることもできただろう。しかし、彼女の才能にほれ込んでいたレナードは、ヴァージニアが創造性を発揮できる環境を整えることに神経を注ぎ、揺るがない愛情で妻を支えた。結婚から20年が過ぎた頃のヴァージニアの日記には、「もしレナードがいなければ、私は何度、死について考えたことでしょう」とあり、彼の存在の大きさを知ることができる。
新時代の小説
1917年4月、ウルフ夫妻に転機が訪れる。外出先のショーウィンドウで小さな印刷機を発見したのだ。印刷に関心を抱いていたヴァージニアと、「ヴァージニアの健康に良いに違いない」と確信したレナードは、印刷機を購入。ふたりは独学で印刷技術を学んだ。彼の考え通り、印刷インクで手や服を汚しながら機械と格闘する作業は、執筆でストレス過剰になりがちだった彼女の心に安らぎをもたらした。
ふたりはすっかり印刷にのめり込み、出版社「ホガース・プレス」を設立。自分たちの本を印刷出版したほか、将来が期待された作家TSエリオットらの作品を世に送り出した。初めは趣味程度の規模だったが、4年後には大きな印刷機を導入し、書店へと販路を拡大させた。ふたりでの共同事業は、子供を持たなかった夫婦の絆を一層強固なものとした。さらに重要なことに、ヴァージニアは編集者や出版社に迎合することなく、自分の書きたいものを書く自由を手に入れたのだった。
ヴァージニアの精神状態が復活すると、再びロンドンに引っ越し、代表作となる「ダロウェイ夫人」「灯台へ」を出版。ヴァージニアは非凡な才能を発揮し、人間の複雑な意識の流れに忠実な新時代の作品に挑んでいった。
1928年の小説「オーランドー」が大ヒットを収め、「女性とフィクション」をテーマに行った講義をまとめたエッセイ「自分だけの部屋」がフェミニズム運動の高まりを受けて支持されると、ベストセラー作家として名を馳せたのだった。
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愛で結ばれた友人 ヴァージニア&ヴィータ
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若い頃に母親を亡くしたヴァージニアは、生涯において同性の友人に癒しを求めた。そのひとりが作家で園芸家のヴィータ・サックヴィル・ウェストだ。10歳下の若きヴィータと初めて会ったのは1922年のこと。作家として成功していたヴィータに、ホガース・プレスで出版することを依頼して以降、ふたりは親しくなる。ともに結婚していたものの、次第に惹かれ合い、短期間ながらも恋愛関係へと発展する。レナードは「ヴァージニアが幸せであるのなら」とふたりの関係に理解を示していたという。
1928年発行の「オーランドー」は、ヴィータをモデルにした半伝記的な物語で、ヴァージニアがヴィータに捧げた文学的ラブレターだともいわれている。
あなたのおかげで…
1939年、第二次世界大戦が勃発し、翌年ロンドン空襲で当時住んでいた家が被害を受けると、夫婦はイースト・サセックスの別荘「モンクス・ハウス」へ疎開。戦争に反対していたヴァージニアの心は激しく動揺した。新作「幕間」の仕上がりにも自信が持てず、画家で友人のロジャー・フライの伝記が不評だったことも重なり、過剰なストレスから幻聴が聞こえるようになる。耐えられなくなったヴァージニアは、わずかに残る「自分」に意識を集中させて遺書をしたためると、1941年3月28日、姿を消した。
最愛のあなた
自分がまたおかしくなっていくのがわかります。私たちはあのひどい時期をもう二度と乗り切ることはできないでしょう。それに今回は治りそうもありません。声が聞こえるようになり、集中できないのです。だから最善と思うことをします。あなたはこれ以上ないほどの幸せを私に与えてくれました。(略)もう闘うことはできません。私はあなたの人生を台無しにしています。私がいなければあなたは自分の仕事ができるし、きっとそうするでしょう。ほら、この文章さえきちんと書けない。読むこともできないの。言っておきたいことは、あなたのおかげで私の人生は幸せだったということ。あなたは私に対してとても忍耐強く、信じられないほどよくしてくれた。誰もがわかっていることです。もし誰かが私を救ってくれたのだとしたら、それは紛れもなくあなたでした。あなたの優しさを確信する以外、もう私には何も残っていません。これ以上あなたに甘えるわけにはいかない。私たち以上に幸せになれるふたりはきっと他にはいないでしょう。V
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消息を絶ってから3週間後、ヴァージニアはモンクス・ハウスの近くを流れるウーズ川岸で変わり果てた姿で発見された。遺体は火葬され、遺灰はレナードが愛情を注いだモンクス・ハウスの庭に埋められた。心の闇と闘う一方、変わりゆく社会の中で新時代の文学に挑戦したヴァージニア・ウルフ。夫の愛に抱かれるようにして、ようやく安らかな眠りについたのだった。
動画へGO!世界一美しい遺書 ヴァージニア・ウルフ
編集部制作のショートフィルム https://www.youtube.com/watch?v=LzdfveQwfH8
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週刊ジャーニー No.1099(2019年8月15日)掲載