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Channel: 英国の偉人の生涯をたどる 『Great Britons』 - Onlineジャーニー
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庶民派の偉大なる文豪 チャールズ・ディケンズ

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庶民派の偉大なる文豪 チャールズ・ディケンズ [Charles Dickens]
大英帝国の黄金期といわれるヴィクトリア朝時代を生きたチャールズ・ディケンズ。
シェイクスピアには及ばないまでも、英国が世界に誇る文豪の一人として広くその名を知られる。
その作品の多くは貧しき人々を物語の主人公にすえたもので、慈愛精神や社会変革を強く訴え、現在においても英国人が「子供に読ませておきたい文学作品」の上位に文句なく選ばれる名作群として不動の地位を占めている。
今回は国民的作家として親しまれるディケンズの生涯をたどってみたい。

タイトル画像右下写真:『クリスマス・キャロル』の一場面
タイトル画像中写真:再現されたヴィクトリア時代のロンドン。下町独特の怪しい雰囲気が漂う。

● Great Britons ●取材・執筆/根本 玲子・本誌編集部

「お坊ちゃん」から「苦労人」への転落人生

「それはおよそ善き時代でもあれば、およそ悪しき時代でもあった。知恵の時代でもあるとともに、愚痴の時代でもあった。(中略)…前途は全て洋々たる希望にあふれているようでもあれば、また前途はいっさい暗黒、虚無とも見えた。 人々は真一文字に天国を指しているかのようでも有れば、 また一路その逆を歩んでいるかのようにも見えた…。」
(『二都物語』中野好夫訳/新潮文庫)

まるで現在我々の暮らす社会を思わせるような繁栄と危機の時代であったヴィクトリア朝の作家、チャールズ・ディケンズ。冒頭の『二都物語』のほか、『クリスマス・キャロル』『オリバー・ツイスト』『デイヴィッド・コパーフィールド』『大いなる遺産』など、数多くの名作を世に送り出し、英国の生んだ大文豪として国際的な名声を誇る。クライマックスまで、物語が『大どんでん返し』の連続という作品も少なくなく、エンターテインメントとして人々を存分に楽しませつつ、それでいて、巧みに盛り込んだ社会性の強いメッセージを嫌味なく読み手に伝える、卓越した技能の持ち主だったと断言できる。筆者が独断で選んだ、主要5作品のごく簡略なあらすじについては、下記のコラム『ディケンズの5つの名作 ほーら、読みたくなる!あらすじ簡略版』をご参照いただくとして、ディケンズが大文豪となるに至った『秘密』について、早速見てみることにしよう。

海軍事務員であった父親、ジョン・ディケンズの胸像。浪費癖が災いし、家計はいつも火の車だったという(ロンドン・チャールズ・ディケンズ博物館蔵)。
チャールズ・ジョン・ハッファム・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens 1812―1870)は、1812年2月7日、8人兄弟の2番目、長男としてイングランド南沿岸部ポーツマス郊外のランドポートで誕生。海軍の下級事務員である父親と、ロンドンにある楽器製作所の経営者の娘である母親の間に生まれた、特に裕福な訳でもないが使用人を雇う余裕はあるという、中流階級の家庭だった。
父親の転勤により2歳でロンドンへ。その後5歳で軍港の町ケント県チャタムへと引越したディケンズは、姉と共に学校にも通い、少々病弱ながら読書や歌の好きな少年として、一見不自由のなさそうな生活を送っていた。
だがディケンズが10歳にも満たないうちに、一家にある問題が持ち上がる。快活で社交好きの父親の見栄っ張りで浪費癖ありという一面が災いし、家計が次第に苦しくなっていったのだ。
父親が見栄で借りていた大きな屋敷を出て同じ町にある小さな家へと引越すことになったディケンズは、この家の屋根裏部屋で父親の蔵書を読み漁ったり、シェイクスピア演劇に関心を持ったりするなどし、教師である近所の牧師から、前途有望な少年として目をかけられていたという。
ディケンズが10歳になった年、一家は再び父親の転勤によりロンドンへと移る。しかし父親の浪費家ぶりは変わらず、また母親も夫に劣らず経済観念がなく、給料の前借りや友人への借金はいよいよかさんでいく。場末の安い下宿屋を転々とし、日々のパンを買う金にも困るようになった一家は、親戚の勧めもあり、12歳になったばかりのディケンズ少年をテムズ河畔ハンガーフォード・ステアーズ、現在のチャリング・クロス駅の近くにあった靴墨工場にとうとう働きに出すことにした。
現在のような児童労働保護法など存在せず、賃金の安さから子供が貴重な労働力とみなされ、働かされることが珍しくない時代だったが、これは幼いディケンズにとってひどく屈辱的な事件であった。貧しいとはいえ中流家庭の長男として生まれた彼は、自分は学校で学問をおさめ、将来出世するのだと思い込んでいたであろう。それが不甲斐ない親のために学校へもろくに通わせてもらえず、挙げ句の果てに労働者階級の子供たちと一緒に、朝から晩まで働かされる羽目になってしまったのだ。
この靴墨工場で子供たちに割り当てられた仕事は靴墨用の壷を洗い、新しいラベルを貼りつけるというもので、決して過酷な内容ではなかったというものの、ディケンズはみじめな境遇に身を落としたという思いを拭うことができなかった。しかも傷心の彼にさらに追い打ちをかけるような事件が起こる。父親ジョンが、膨れ上がった借金を返済することができずとうとう逮捕され、監獄に入れられてしまったのである。

大富豪誕生の『秘密』

『オリバー・ツイスト』ほか彼が初期の代表作を書き上げたというグレイズ・イン法学院近くの住居は、現在、「ロンドン・チャールズ・ディケンズ博物館」として一般公開されている(コラム『ディケンズゆかりの観光スポット』参照)。
親が入れられたマーシャルシー債務者監獄は、監獄といっても殺人者や強盗などの犯罪者が入れられる恐ろしげなものとは異なり、規則は厳しいが、家族ぐるみで生活できる公営住宅のような施設だった。収監者本人以外であれば、門限はあるものの自由に出入りもできたため、一家は数ヵ月に渡り家族ぐるみでここで暮らすことになった。
しかし、児童労働者に身を落とした上、借金を踏み倒した犯罪者の息子になるという、二重の屈辱を味わうことになったディケンズ少年だけは監獄の住人となることをよしとせず、近くに安下宿を借り、そこから仕事場に通うことを選ぶ。家賃のかからない監獄の一室で皆が暮らす中、家族のために生活費を稼いでいる彼が、わざわざ自室を別に借りたという行動の影には、他人に自分の惨めな境遇を知られたくない、という強い自尊心が働いていたのだろう。
幸か不幸か、この事件の数ヵ月後に父方の祖母が亡くなり、その遺産で借金を返済することができた父親は、出獄後1ヵ月ほどしてディケンズに仕事を辞めさせることにし、彼はウェリントン・ハウス・アカデミーという私立小学校へ通うことを許された。ただ、夫がまた借金で首がまわらなくなるかも知れないという懸念からか、当初母親は息子を働かせ続けようとし、自分の気持ちを理解してくれない母親に、ディケンズ少年の心はひどく傷ついたという。

若き日のディケンズは繊細な美少年といった面持ち。なお、ディケンズは生前、派手な葬式や記念碑を辞退し、私人としてロチェスターに埋葬されることを望んでいたが、結局、国家の偉人として、ウェストミンスターに葬られた。
こうした一連の騒動、そして彼が覗いたロンドンの庶民社会は、ディケンズの慈善精神や、皮肉っぽさをたたえた生き生きとした人間描写といった作風を形づくる要因となっている。「人間万事塞翁が馬」という故事さながら、大文豪ディケンズは、子供時代の貧乏暮らしと、幼くして大人の苦労を味わうことになった経験なくしては誕生し得なかったのだ。
ようやく学業に復帰し、アカデミーを卒業した15歳の頃、ディケンズはある法律事務所で助手の仕事に携わるようになる。しかしこの仕事にあまり興味が持てず、そのころ海軍を退職して新聞の議会通信員となっていた父親にならいジャーナリストを目指して速記法を学び、16歳で民法博士会(ドクターズ・コモンズ)の速記者として働き始める。
十代後半のディケンズは政治ジャーナリストになるべく修業を積む一方、裕福な銀行家の娘との叶わぬ初恋を経験したり、仕事の後に大英博物館付属の図書室に通い独学で文学を勉強したり、演劇好きが高じて俳優を夢見ては挫折したりと、若者らしい青春時代を送ったようだ。

ディケンズの5つの名作
ほーら、読みたくなる!あらすじ簡略版

Oliver Twist
『オリバー・ツイスト』(1837-39年)

救貧院で育った孤児の少年オリバーは、仲間の代表として配給の粥のお替わりを要求したことで反抗的とみなされ、葬儀屋のもとへ厄介払いされる。だがそこでもトラブルを起こし、ロンドンへと逃げ出した彼は、小悪党フェイギン率いる少年スリ団の仲間に加えられる。その後ある騒動で出会った紳士に引き取られ、つかの間の平穏を得たオリバーだったが、再びフェイギンの一味に連れ戻されるなど、クライマックスに向かって物語はジェットコースター並みに二転三転。やがてオリバーの出生の秘密が明らかになる…。ディケンズ初期の代表作。

A Christmas Carol
『クリスマス・キャロル』(1843年)

冷酷無慈悲で知られる強欲な商人スクルージがクリスマス前夜、3人の精霊に連れられて過去・現在・未来の世界を垣間見る。やがて夜が明け、人間愛に目覚めた彼は、自分には未来をよりよいものに変えていく力がまだ残っていることに気付く…。ちなみに、英語で「守銭奴」という意味を持つ単語「scrooge」は、このスクルージ老人が由来になっているとか。

David Copperfield
『デイヴィッド・コパーフィールド』(1849-50)

ディケンズが「自著の中で一番のお気に入り」と語っている作品。誕生前に父親を失った主人公デイヴィッドは、冷酷な母の再婚相手のため辛い幼少時代を送る。母の死をきっかけに学校を辞めさせられ商店の小僧として働きに出された彼は、意を決して逃げ出し、大伯母を頼ってロンドンへと旅立つ…。

A Tale of Two Cities
『二都物語』(1859年)

貴族の地位を捨て渡英したフランス人青年ダーニーと、酒浸りの放蕩生活を送る弁護士カートンの2人は、 無実の罪により投獄生活を送った医師の娘ルーシーに恋をする。彼女はやがてダーニーと結婚するが、その頃フランス革命が勃発。国に戻ったダーニーは革命派の陰謀によって捕らえられ、死刑を宣告されてしまう…。世紀末を背景に 歴史に翻弄された悲劇的な恋の顛末をえがく、ディケンズ後期の長編。

Great Expectations
『大いなる遺産』(1860-61)

孤児として貧しい生活を送っていた主人公が、謎の人物の好意により莫大な財産を相続することになり、紳士教育を受けるためロンドンへと向かうが…。階級社会への鋭い視線や人物描写の巧みさなどからディケンズの最高傑作といわれることも多い。何度も映画化されている。

新活字時代の波に乗ってデビュー

念願かなって新聞の政治記者となり多忙な日々を送っていた21歳の頃、ついにディケンズにもチャンスが巡ってくる。仕事の傍ら書き上げて投稿した短編作品が、月刊誌『マンスリー・マガジン』に採用されたのだった。初めての創作が活字になったことに感激した彼は、これ以降「ボズ」というペンネームを使ってあちこちの雑誌に短編小説やエッセイ等を発表。投稿作をまとめた初の短編集『ボズのスケッチ集』は、その優れた観察眼が認められ、ディケンズは一躍、新進作家として注目を浴びる。
ディケンズが作家としてデビューしたヴィクトリア朝前期においては、文学は未だ大衆のものではなく、書籍は贅沢品として一部の裕福な階級の手にしか届かないものだった。しかも、当時小説は低俗とみなされ、その読者人口も多くはなかったという。しかし18世紀後半から始まった産業革命により経済が飛躍的に発展し、大英帝国が絶頂期を迎える中、出版界は印刷技術の向上などにより劇的な変貌を遂げ、それに合わせるように国民の活字文化もまた変わっていく。こうした時代の流れが、大文豪ディケンズの誕生を可能にした、もうひとつの『秘密』だったと言えるだろう。
小説は三巻本で出版され、その値段は労働者の週給にも相当するほどだった当時、あまり裕福ではない大衆層をターゲットに新しい事業を立ち上げようとしていた出版社チャップマン・アンド・ホールが、新人作家ボズことディケンズ青年に白羽の矢を立てた。そして1836年、彼の初の長編作品となる小説と挿絵によって構成された小冊子が、大衆に手の届く月刊分冊形式で発売の運びとなる。ディケンズが24歳の時のことだった。
この『ピクウィック・クラブ(ピクウィック・ペイパーズ)』は、当初売れ行きは思わしくなかったが、第4冊目の物語に登場した愉快なロンドンっ子「サム・ウェラー」が人気を呼び、その後は驚異的なベストセラーを記録。ディケンズは人気作家としての名声を確立していった。

ディケンズ夫人となったキャサリン・ホガース(1846年頃)。夫婦の不和とその後の破局は、ディケンズの死後まで伏せられていたという。封建的なヴィクトリア時代らしい話だ。
またこの前年から、新創刊の夕刊新聞『イヴニング・クロニクル』に短編を寄稿していたディケンズに、私生活でも大きな変化が訪れる。同紙の編集長の長女であるキャサリン・ホガースとの結婚である。だが2人は10人もの子供に恵まれながらも、のちに性格不一致のため別居生活を送るなどその関係はあまり幸せなものではなかったようだ。
加えて結婚当初、ディケンズは妻よりもその妹であるメアリーに、より深い愛情を抱いていたといい、彼女が17歳で急死した際には哀しみのあまり一時執筆活動ができなくなってしまったほどだったとされている。日本の文豪、夏目漱石は夫人が悪妻だったことで有名だが、結婚生活に何らかの問題があったほうが創作活動にはプラスになるのかもしれない。

チャールズ・ディケンズ年表

1812 2月7日、ポーツマス郊外ランドポートに生まれる
1814 ロンドンに転居
1817
(5歳)
チャタムに転居、隣町のロチェスターで幸せな少年時代を送る
1821-22 家計が悪化。チャタムで学期を終えた後、再びロンドンに転居した一家に加わるが、ロンドンでは学校に通えなかった
1824
(12歳)
テムズ河畔の靴墨工場に働きに出される。その直後に父親が借金返済不能に陥り逮捕、投獄される。父親の借金返済後、学業に復帰
1827
(15歳)
アカデミー卒業後、法律事務所に勤めながら新聞記者を目指す。翌年、法廷速記者となる
1833 雑誌に短編作品を投稿、採用される
1836
(24歳)
『ボズのスケッチ集 (Sketches by Boz)』出版。『ピクウィック・クラブ (The Pickwick Papers)』発表。キャサリン・ホガースと結婚
1837
(25歳)
月刊誌『ベントリーズ・ミセラニー (Bentley’s Miscellany)』の編集長に就任、『オリバー・ツイスト』連載開始
1838 『ニコラス・ニックルビー (Nicholas Nickleby)』発表
1840 『骨董屋 (The Old Curiosity Shop)』発表
1841 『バーナビー・ラッジ (Barnaby Rudge)』発表
1842
(30歳)
米国にて長期旅行。帰国後に旅行記『アメリカ覚え書 (American Notes for General Circulation)』発表
1843
(31歳)
『マーティン・チャズルウィット (Martin Chuzzlewit)』発表
年の暮れ、『クリスマス・キャロル 』発表
1846 スイスに滞在、『ドンビー父子 (Dombey and Son)』発表
1849 『デイヴィッド・コパーフィールド』発表
1852 『荒涼館 (Bleak House)』発表
1855 『リトル・ドリット (Little Dorrit)』発表
1856 ギャッズ・ヒルに邸宅を購入
1858 妻キャサリンと破局
1859 『二都物語』発表
1860 『大いなる遺産』発表
1861 この年から精力的に公開朗読興行を行う
1864 『互いの友 (Our Mutual Friend)』発表
1865 健康悪化。休養旅行の帰りに列車事故に遭遇
1867 公開朗読巡業のため再び米国を訪れる
1870
(58歳)
執筆活動復帰を宣言。3月、ヴィクトリア女王に単独謁見。
4月より『エドウィン・ドルードの謎』を分冊発表するものの、完成を待たず6月8日に倒れ翌日9日に死去、同14日、ウェストミンスター寺院に葬られる

ワンマン編集長 兼 作家のアメリカ訪問

米国とディケンズの縁は意外に深い。これは米国フィラデルフィアにある、ディケンズの唯一のブロンズ像。
初の長編小説で成功を収めたディケンズは新聞記者を辞め、作家としての道を歩み始めるとともに、記者経験を見込まれ新月刊誌『ベントリーズ・ミセラニー』の初代編集長に任命される。彼はここで編集作業にいそしむとともに、初期の代表作となる『オリバー・ツイスト』や『ニコラス・ニックルビー』を連載。また、自らのスケッチをもとに軽喜劇の舞台を上演するなど精力的な創作活動をスタートしたのだった。
3年後、出版社主ベントリーとの契約上の不和が生じ、編集長の座を退いてからも雑誌編集への情熱は止み難く、28歳の年には自らが執筆、編集を務めたワンマン週刊誌『ハンフリー親方の時計(The Master Humphrey's Clock)』を発行し、そこでも自作を連載、英国と米国で多数の読者を得る。これがきっかけとなり1842年、ディケンズは夫人を伴ってリバプール港からボストンに向けて発ち、長期の米国旅行を行うことになった。
彼は行く先々で大歓迎を受けたものの、南北戦争前夜の米国での経験は、ディケンズにとって楽しいものばかりではなかった。まず、自作が海賊版として出回っていることに困惑した彼が国際著作権について協定の必要を訴えたものの受け入れられず落胆。また、各地で精力的に訪れた刑務所や精神病院、養護学校等の施設の粗末さに驚き、奴隷制の横行に心を痛めた。このため、旅行後に出版された紀行文には、米国への批判的な思いが率直に綴られ、多くの米国人読者の反感を買う結果を招いた。ただ、この訪米により親交の深まった、ワシントン・アーヴィング(著作『スリーピー・ホローの伝説』ほか)といった米国人作家たちとの関係は、その後も長く続くこととなった。
なお、25年後の1867年、公開朗読巡業のため再び訪米を果たした際には、ディケンズは商業的に成功を収めたこともあり、米国社会の四半世紀の進歩を素直に認めて以前の印象を修正し、米国民もまた改めて好意をもって彼を迎えたという。

実体験はネタの宝庫!

作家として大成したのち、ディケンズが幼少時代の出来事を綴った回想文の中には、両親の不甲斐なさに失望した幼い日の思いをユーモアを交えて振り返った一節が登場する。また、一家の貧乏生活の元凶となった浪費家の父親は、自伝的要素が強いという『デイヴィッド・コパーフィールド』に出てくる能天気な貧乏人ミコーバー氏のモデルに、お高くとまった母親エリザベスは『ニコラス・ニックルビー』に登場する主人公の母親などのモデルになっているといわれ、小説の中にも2人の影は見え隠れしている。
さらにこの回想文にはもう1人、ある人物が登場する。靴墨工場で働いていた当時、体調を崩し腹痛に苦しむディケンズに気付いたいじめっ子の少年が、彼を親切に介抱してくれた上、仕事後家まで送ってやろうと言い出したのだ。善意はありがたいが、家族の秘密を絶対に知られたくなかったディケンズは、少年と共に家族の暮らす監獄のあるテムズ南岸まで歩いた後、苦し紛れに見知らぬ家のドアの前で立ち止まり、ごていねいにもその家のドアをノックして自分の家だと思わせてから別れたというのである。この少年の名前は、小説『オリバー・ツイスト』内で、少年スリ団を率いる悪党の名前と同じボブ(ロバート)・フェイギン。親切にしてもらったことより、いじめられた思い出のほうが強かったらしい。

スランプ期に生まれた名作

ポーツマスにあるディケンズの生家では朗読会も随時開催されている(写真右)。また、彼がこの上で息を引き取ったという寝椅子も展示(同左)。
米国旅行の翌年の1843年ごろから、ディケンズは作家として初のスランプ期に突入する。新しく連載を始めた長編小説はこれまでのような人気を得ることができず売れ行きは低迷し、大家族を養わねばならなかった彼は経済的にも苦境に立たされたのだった。
しかし、幸運の女神はディケンズのもとを去りはしなかった。
この年の暮れ、彼はかねてから関心を抱いていた社会改善や、慈善の精神を訴えた中編小説『クリスマス・キャロル』を自費出版する。人間愛を強く押し出した作品を、クリスマス・シーズンに発売して収入増をはかろうというビジネス的目算もあったこの小説は、大いに売れた。装丁に凝り過ぎたため予想ほどの儲けは出なかったが、これ以降、彼は毎年クリスマスになると『クリスマスの本』を発表するようになる。ディケンズはなかなかの商売上手でもあったようだ。
ただ、ディケンズが再び長編作品に取りかかるまでには数年の空白が生まれることになった。この間、彼は家族とイタリアに滞在したり、常々挑戦したいと考えていたと思われる素人劇団を結成、演出と役者の一人二役を受け持ったりした。さらに、自作朗読が友人らの好評を博したことに気を良くして、たびたび朗読会を開くようになるなど精力的に動いた。たとえスランプ期であろうとじっとしていられない、エネルギッシュな一面をディケンズは持っていたと見える。
この空白期間を乗り越えた30代後半から40代後半にかけての十数年間の彼は、自伝色の濃い『デイヴィッド・コパーフィールド』、ヴィクトリア朝社会の腐敗をえがいた『荒涼館(Bleak House)』、債務者監獄に対する風刺をえがいた『リトル・ドリット(Little Dorrit)』ほか多くの長編作品をコンスタントに発表。作家として円熟期を迎え、名声を高めていく。
その間もこれまで何度か手掛けては挫折していた雑誌編集への情熱は止まず、新しく立ち上げた雑誌『家庭の言葉』では、経営から編集・執筆作業や出版まで一人でこなしていた。ここでは新人作家に発表の場を提供しながらも、投稿された原稿に勝手に手を加えてしまうといったワンマンぶりも依然健在だったと伝えられている。

図々しかった、『人魚姫』の作者

44歳になって、ディケンズはチャタムでの貧しい幼少時に憧れたというギャッズ・ヒルの大邸宅を買い取り、翌年には以前より交流のあったデンマークの童話作家、ハンス・クリスチャン・アンデルセン=写真=を招待している。
ところが彼の好意に甘え過ぎたアンデルセンはずるずると5週間も長居し、とうとうディケンズ一家に厄介者扱いされてしまう。彼がようやく出立した後、ディケンズは彼の滞在した部屋のドアに「アンデルセンはこの部屋にあまりにも長く滞在しすぎた」という抗議の旨を記した札を貼ったという。

国家の偉人となった「出たがり」文豪

ロンドンを離れ、幼少時代の思い出の地、チャタムのギャッズ・ヒルに居をかまえた1858年頃、演劇活動を通して知り合った若手女優エレン・ターナンと愛人関係にあったディケンズは、もともとそりの合わなかった妻と、ついに破局を迎え、2人は別居に至る。
妻と子供たちを養った上、愛人エレンの生活を保証していかねばならなくなった彼は、以前から児童養護院などを会場に行っていた慈善朗読会に加えて、収入を得る手段として有料の公開朗読会を開始する。のちに彼の伝記作家となる親友のジョン・フォースターをはじめとする友人たちは、文豪としての名声を得た彼が役者のように巡業することに強く反対したものの、ディケンズはおかまいなしに各地を訪問し始める。
これには創作よりも手っ取り早く収入が手に入るという理由もあったが、舞台に立ち、聴衆からの拍手喝采を浴びるという体験が、芝居好きの彼にとって大きな魅力となっていたことも事実だろう。
実際に朗読ツアーは各地で大きな成功を収め、彼は身動きができないほどの聴衆に囲まれることもあったという。だがこの精力的な巡業公演は、彼から創作時間を奪い、旅の疲労はじわじわと健康を蝕んでいくことにもなった。
1865年、体調不良のためフランスで休暇を取ったディケンズを悲劇が襲った。その帰路、愛人エレンと一緒に乗っていた列車がロンドン南東のステープルハーストで鉄橋から転落するという事故に遭遇したのだ。2人の乗っていた車両は辛うじて難を逃れたものの、事故の精神的ショックは大きく、彼はその後PTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされることになる。
心的ストレスから創作活動に手がつかなくなってしまったうえに、朗読活動に力を傾け過ぎた彼は急激に健康を害し、まもなく主治医から朗読を禁じられるまで衰弱してしまう。
1870年、朗読旅行を取りやめ、本来の作家活動に立ち戻ったディケンズであったが、月刊分冊で発表を始めた長編小説『エドウィン・ドルードの謎(The Mystery of Edwin Drood)』の完成を待たずして、6月、ギャッズ・ヒルの自宅で倒れ、意識の戻らないまま、翌日の午後、息を引き取った。脳溢血が原因であったと言われる。58年の生涯だった。
「故人は貧しき者、苦しめる者、そして虐げられた者への共感者であった」と墓碑銘に刻まれたディケンズは、今もなお「英国の良心」として人々に愛され、各界の錚々たる著名人と共に、ウェストミンスター寺院の「詩人のコーナー」に眠っている。

もっと知りたーい!ディケンズゆかりの観光スポット

※情報はすべて2008年1月20日現在のもの

The Charles Dickens Museum London
ロンドン・チャールズ・ディケンズ博物館

ディケンズが暮らした住居の中で、ロンドンに唯一現存する建物を博物館として公開。当時使われていた家具や貴重な出版物、直筆原稿などを展示している。
48 Doughty Street, London WC1N 2LX
Tel: 020-7405-2127
www.dickensmuseum.com

ロンドンに現存するディケンズゆかりのパブ

The Grapes
グレープス

幼き日のディケンズは、このパブのテーブルの上に立って歌い、利用客たちを楽しませていたとか。
76 Narrow St, London E14 8BP
Tel: 020-7987-4396
最寄駅: DLR Westferry

Ye Olde Cheshire Cheese
イ・オールド・チェシャー・チーズ

ディケンズも常連だった、往年の文学者が集った歴史あるパブ。
145 Fleet St, London EC4A 2BU
Tel: 020-7353-6170
最寄駅: Blackfriars

The Trafalgar Tavern
ザ・トラファルガー・タヴァーン

文豪となったディケンズが、好んで訪れたというタバーン(居酒屋)。同時代の作家、ウィリアム・サッカレーもお気に入りだったという。
Park Row, Greenwich, London SE10 9NW
Tel: 020-8858-2437
最寄駅: DLR Cutty Sark、地下鉄Maze Hill 

Dickens Discovery Room
ディケンズ・ディスカバリー・ルーム

ロンドンから南東方向へ車で約1時間のところにある街、ロチェスターには、04年まで「チャールズ・ディケンズ・センター」が置かれていた。このセンター閉館後、ロチェスターのギルドホール内に設けられたのがこの展示ルーム。なお、彼が幼少時代と晩年を過ごしたここロチェスターでは、毎年6月に「ディケンズ・フェスティバル」を開催。街の通りを舞台に音楽やダンス、演劇の祭典が繰り広げられる。
Rochester Guildhall Museum, High Street, Rochester, Kent ME1 1PY
Tel: 01634-332-900 www.medway.gov.uk

Charles Dickens Birthplace Museum
チャールズ・ディケンズの生家

ディケンズが誕生した住居を博物館として公開。食堂や彼の生まれた部屋など、当時の内装を再現している。ちなみにディケンズの誕生日は2月7日で、冬季もこの日だけはオープン。
393 Old Commercial Road, Portsmouth, Hampshire PO1 4QL
Tel: 023-9282-7261
www.charlesdickensbirthplace.co.uk

The Dickens House Museum
ディケンズ・ハウス・ミュージアム

『デイヴィッド・コパーフィールド』の登場人物、ベッツィのモデルになった婦人が暮らしていたという住居に、ディケンズゆかりの品々や当時の衣装を展示した博物館。
2 Victoria Parade, Broadstairs, Kent CT10 1QS
Tel: 01843-861232
www.visitthanet.co.uk

週刊ジャーニー No.508(2008年1月31日)掲載


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