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近代郵便制度を確立した 熱血改革家 ローランド・ヒル [Rowland Hill]

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2014年7月31日

●Great Britons●取材・執筆/佐々木 敦子・本誌編集部

 

近代郵便制度を確立した
熱血改革家
ローランド・ヒル



Penny Black image courtesy of Royal Mail Group

産業革命の影響で電信や交通の手段が大きく変化した19世紀。
一般市民はなかなかその恩恵にあずかることができないでいた。
そうした時代に、最新技術をどのように市民の暮らしに
広めるか心を砕き、世界の郵便制度に大きな影響を与えた
ローランド・ヒルという人物がいる。
今回は、ヒルが特に心血を注いだ郵便改革を中心に、
彼の数々のアイディアを紹介。小さな1枚の切手から、
19世紀前半に英国民の置かれていた状況が
浮かび上がってくるかもしれない。

参考文献:『The Life & Work of Sir Rowland Hill』 Jean Farrugia著 National Postal Museum 1979 / 『Rowland Hill – Genius and Benefactor 1795-1879』Colin G. Hey著 Quiller Press London 1989 / 『Postal Reform & The Penny Black – A New Appreciation』Douglas N Muir著 National Postal Museum 1990 取材協力:The British Postal Museum & Archive

 

「社会改革家」と呼ばれる人々が 存在した時代

 1795年12月3日、イングランド中西部のウスターシャー。ローランド・ヒル(Rowland Hill)は、中産階級の一家に、8人兄弟の三男として生まれた。彼は、日々の食い扶持に困っていたとか、両親から虐待を受けていたとか、そういった不自由な暮らしとは縁のない幼少期を過ごすことになるのだが、日頃からいくつもの社会改革案を持っていた。こう聞くと、ヒルのように平凡に暮らす者が若い頃から社会改革に関心を抱き、没頭するのは少々とっぴなことに感じるかもしれない。
その疑問に対する答えの一つに、「時代の影響」がある。産業革命によって新しい技術や制度が次々に生まれ、社会が進歩すればするほど、それに取り残される人々も増えてきた。それは主に労働階級を中心とした一般国民なのだが、彼らは職を通じて産業革命に貢献しながらも、単なる労働力としてまるで道具のように扱われていた。
そうした事態に対処しようと立ち上がった人々が、この時代に多く現れる。英国では協同組合運動を指導した、ロバート・オーウェン(Robert Owen 1771~1858)が有名だが、彼らは現代では社会改革家(Social Reformer)として知られ、その目指す世界観はやがて「社会主義」と呼ばれることになる。つまりヒルは、社会主義の萌芽の時期に、多感な青年時代を過ごしたのだ。

 



産業革命期に活躍した社会改革主義者のロバート・オーウェン。

 

さらに、ヒルの場合は家族からの影響を多大に受けた。先に挙げた社会改革主義者ロバート・オーウェンと同世代のヒルの父親、トーマス・ライト・ヒルもまた、社会改革主義の熱烈な信奉者だった。一介の工場の主任に過ぎないものの、冒険心に富んでいて、因習を忌み、旧時代のシステムのすべてを嫌悪するような進歩的な人物だったようだ。
産業革命期にそのような価値観を持つ人が多く現れたのは時代の要請だったともいえる。ただしヒルの父親は1960年代のヒッピーにも似て、平等と平和と愛に満ちた社会を夢想するも、それを現実化する積極性を持たなかった。
一方で母親のサラは、働き者で地に足の着いた実践的なセンスに優れていたようで、彼女は自分が受けることのできなかった最高の教育を、息子たちに与えるつもりでいた。フワフワした空想家の夫は経済観念に乏しく、3代続いた家を手放すことになったものの、そんな夫を助けて一家を切り盛りしていた彼女は、やがて夫が給料の悪い工場に転勤になりしょげているのを見てこう言った。「そんな工場なんて辞めて、ご自分が本当にいいと思うような学校をお作りになったら? 息子たちはそこで学ばせましょう」。
すべてはそこから始まったのだった。

ドリトル先生の郵便局


ドリトル先生の郵便局のなかで描かれた非常に希少なファンティポ切手。© Project Gutenberg Canada
 植物から動物まで、あらゆる生物の言葉を解する医師、ドリトル先生の活躍を描き、今も世界各国の子供たちに読み継がれるヴィクトリア朝時代の児童小説「ドリトル先生」。全13巻に及ぶシリーズでは、ある時はアフリカ、またある時は月を訪れたり、海底を探検したりと、ドリトル先生は様々な冒険を繰り広げるのだが、その中の4巻目が「郵便局」。
アフリカの架空の国、ファンティポ王国の君主ココは大の新し物好き。自転車を乗り回しゴルフを習うかなりの西洋カブレだが、ある時、謁見した西洋人から、英国で始まったという郵便制度の話を聞く。赤い箱を街角に置き、そこへ小さな紙を貼って投函すれば、世界中に手紙が届く、魔法のようなシステムだという。ココ王は早速、郵便局を開設。さらに王の肖像入り切手を外国のコレクターが欲しがることに着目し、珍しい切手を立て続けに発行して、莫大な外貨を稼いだ。しかし集配機能は完全に破綻し…。そこに呼ばれるのがドリトル先生で、先生はずさんな郵便制度の立て直しに尽力する。ツバメを使った世界最速郵便を導入し、動物の通信教育も始まって…。
本作が発表されたのは1923年。ローランド・ヒルの郵政改革発表から80年あまりが経過しているが、世界に郵便システムが広まる中で、上記の物語のような事件が実際起きていたとも限らない?

ドリトル先生の郵便局
作・絵:ヒュー・ロフティング   訳:井伏鱒二   岩波少年文庫
Dr. Dolittle's Post Office
by Hugh Lofting   Red Fox Publishing


夢のようにリベラルな学校

 義務教育のない時代、誰もが私営の教育施設を作ることができたが故の決断だが、こうしてヒル一家は知人を通じてバーミンガム郊外の廃校を買い上げ、校舎を増改築して自宅も構内に造り上げた。そして1803年、父親のトーマス・ライト・ヒル校長が自身の思想と夢をふんだんに盛り込んだ学校、ヒル・トップ・スクールが開校する。
多額の借金を抱えての出発だったとはいえ、今までにない自由な校風が評判を呼び、瞬く間に「新しい時代を象徴するモデル校」となる。理想主義者のヒル校長が掲げた校訓5ヵ条は、「ボランティア精神の重要性を説く」「生徒の自由な発想を重視し、興味を持つ方向へ導く」「道徳を身につけさせる」「知識を詰め込むだけではなく、自分でものを考える訓練をさせる」「協調と思いやりの精神を育てる」。
年若いローランドとその兄弟たちは、父親から学校と家庭の両方で社会主義の思想を叩き込まれる。つまり「社会を良くするために何かする」のは当たり前という教育を、幼い頃から徹底して受けてきたわけだ。彼らは先を競うように改革案を提出する。
やがてローランドは、社会貢献のための自身の道を探し試行錯誤を繰り返すことになるのだが、この時点では、父親と同じく教育者となることを考えていたようだ。現にローランドはまだ生徒のうちから同校で指導に携わり、12歳という年齢にして、生徒でもあり教師でもあるという不思議なポジションについた。彼は数学や科学の分野に秀でていた上に、物心ついた頃から父の思想をそのままそっくり吸収しており、評判がよく猫の手も借りたいほど忙しかった学校運営を手伝うことになったのは、自然のなり行きだった。

 



ヒル一家がトテナムに開校した学校の校舎となったブルース・カッスル。現在は美術館として利用されている。
館内ではローランド・ヒルの軌跡を紹介するほか、地元ハリンゲイ地区出身の歴史上の人物についての展示も行われている。
Bruce Castle Museum(Lordship Lane, N17 8NU / www.haringey.gov.uk/brucecastlemuseum)、入場無料。

 

ヒル一家にとって幸いなことに、長男のマシューとローランドは、父親の思想を継承しただけではなく、現実的な母親の血もしっかり受け継いでいた。ふたりは10代の若さで、いまだ返済しきれていない借金を返すため、学校外でも教鞭をとるほか、アルバイトにも精をだした。17歳になる頃にはローランドは一家の家計を預かり、とうとう20歳の時に借金の全額返済を達成する。彼がもともと緻密な計算を好む性格だったことがその秘訣といえそうだが、さらにローランドは、目の前の関心事に並々ならぬ情熱を注ぎ、仕事に明け暮れるといういわばワーカホリックの傾向があったことも見逃せない。そしてそれは生涯を通じて変わることはなく、彼の資質がヒル一家の経済を支えたのみならず、未来を大きく変えることにつながっていく。
ちなみに余談ながら、当時の首相はウィリアム・ピット。24歳の若さで首相の座についたことにも驚くが、それ以前は財務大臣も務めていた。ピットはなんと子供が5歳から働けるような過酷な労働法を制定している。このような時代にあっては、ローランドが10代で教師になり科学を教えたとしても、おかしくはなかったわけである。
さて、学校の評判に気を良くしたヒル一家は、2校目となる学校、ヘイゼルウッド・スクールを1819年に再びバーミンガム郊外に開校。23歳になっていたローランドは、同校の建築デザインも担当し、当時としては画期的な、英国初のガス灯を備えた学校になった(ガス灯の発明は1792年)。さらに、大ホールで全生徒が学ぶという過去200年にわたり英国で続いていたシステムを変え、少人数クラス制を取り入れた。図書室、図工室、科学実験室、舞台、体育館、プール、天文台まで設け、また、生徒による自主運営のシステムを作り、必須科目さえカバーすれば、あとは全部生徒が自分たちで物事を決定できるようにした。体罰などはもちろん禁止だ。厳しさと残酷さが混同され、体罰やいじめが蔓延し、伝統という名の因習でがんじがらめになったヴィクトリア朝時代よりも、さらに何十年か前に誕生した学校である。相当革新的であったことは想像に難くない。
この学校は主にローランド、マシュー、そして弟のアーサーによって運営され、ローランドは実質的な校長の任にあたる。3人は1822年に同校での経験を生かした学校改革案を盛り込んだ本を出版。この本はヘイゼルウッド・スクールを一夜にして有名にし、遠く南米やギリシャからも学生が訪れ始めた。本はスウェーデン語にも訳され、1830年にはヒル兄弟の思想に則った「Hillska Skolan」つまりヒル・スクールがストックホルムに開校されている。

ロンドンの地下を駆け抜けた郵便列車


地下を走った郵便列車。トンネルの直径は2~3メートル、車両幅は60センチほどと、当然ながら地下鉄よりも小さいサイズ。 © Royal Mail, courtesy of the British Postal Museum & Archive
 新しい郵便制度を軌道に乗せたローランド・ヒルは、60歳のとき、郵便本局と支局を地下で運ぶことを提案している。もともとのアイディアは30代のときに考えられたものだが、物事を改善するために尽力する彼の資質が生涯変わらなかったことを物語るエピソードだ。空気圧をエンジンとしたこの計画は、コスト面の問題から実現にはいたらなかった。しかしその後、地下を使う案は形を変え郵便史のなかに登場している。
1900年代に入り、ロンドンでは交通混雑と濃霧の影響から、主要郵便局と駅間の移送が大幅に遅れがちだった。それを解決すべく、地下に専用のトンネルと線路が設けられ、1927年12月にマウント・プレザント局とパディントン駅を結ぶ郵便列車(The Post Office Underground Railway、のちにMail Railと改称)が誕生した。開通から1ヵ月のうちに拡張され、西はパディントン駅から、東はホワイトチャペル・ロードの支局まで続く、およそ10.5キロが地下でつながった。現在多くの人でごった返すオックスフォード・ストリートの下を通過していたとされ、郵便物だけを乗せた列車が渋滞や混雑を気にせずスイスイと走ったであろう姿を想像すると、まるで物語の中の世界のようだ。この郵便専用の列車は、全盛期には1日に1200万もの郵便を運ぶほどの活躍を見せるが、残念なことに2003年に運営コスト上の事情から閉鎖を余儀なくされてしまった。

2020年完成を目指すアトラクション「郵便列車」の完成イメージ。
© Royal Mail, courtesy of the British Postal Museum & Archive
 ところが、現在この地下郵便列車を一般に公開する計画が進んでいる。完成すれば、来場者はおよそ1キロにわたる郵便列車の旅を楽しむことができるようになるという。完成予定は2020年。列車に乗るというよりは、遊園地のアトラクションに乗るような感覚が期待できそうで、今から待ち遠しい!
同時に、英国郵便の歴史や文化を、豊富な資料と体験型の展示で紹介する博物館が、ロンドンのクラークンウェル地区に建設されつつある。
開館は2016年だが、現在はマウント・プレザント局の裏手の資料室が、博物館分館として機能しており、エセックスの分館とともに、2016年オープンまでの博物館を支えている。どちらも館内見学ツアーを組んでいるほか、ライブラリーでのトーク・イベントなども随時開催されている。また、毎月1回ロンドン市内に点在する郵便ポストを含む、ロンドンの郵便の歴史について知るウォーキング・ツアーも開催されているので、興味のある方は詳細をサイトでご確認を。

BPMA Archive Search Room
Freeling House, Phoenix Place
London WC1X 0DL
The British Postal Museum Store
Unit 7 Imprimo Park, Debden Industrial Estate,
Lenthall Road, Loughton, Essex IG10 3UF
www.postalheritage.org.uk


四方八方にアイディアのタネを蒔く

 1827年、ヒル兄弟はとうとう首都ロンドンに進出し、3校目の学校を北ロンドン、トテナムのブルース・カッスル(Bruce Castle)に構える。ヘイゼルウッド・スクールのようなシステムは、伝統的習慣の根強い地方よりも、柔軟な都市でこそ、より広く受け入れられるのではないかと考えてのことだった。ヒル一家はロンドンに移住し、ここが一家の永住の地となる。
32歳になっていたローランドは校長に就任。幼なじみの女性、キャロライン・ピアソン(Caroline Pearson)とも結婚し、落ち着いた暮らしを始めた。
ところが、である。父親譲りの冒険好きの血が騒ぐのか、これまでずっとそうしてきたように、「ゼロから何かを始めてがむしゃらにやり遂げる」ことの楽しさを忘れられないのか、ローランドはここへ来て突然学校経営に対する興味を失ってしまうのだ。「社会を良くするために何かを遂行する」―その「何か」にまだ突き当たっていなかったとも言える。かねてより科学や機械、数学などを好んでいたローランドは、すでに軌道に乗っている学校の仕事をこなすかたわら、様々なアイディアを発表していく。
以下は主な彼の案だが、そのどれもが少々形を変え現在使われていることに、驚嘆の念を覚える。ローランド・ヒルは相当なアイディア・マンだったようだ。

■ 新聞専用の印刷機 ― 1枚1枚別々に刷らずに、ドラム上に長いロールで回転させて印刷すれば早いと政府に発案。しかし、値段の印を各ページに載せなければいけないからとして却下される。今思えば、これは輪転印刷機の一種だった
■ 郵便業務のスピードアップを計るため、馬車(Mail Coach)の中で仕分けや日付の押印などの郵便業務を行う
■ 数字を符号のように使ってメッセージを送る(モールス信号の元)
■ 馬や蒸気機関よりも早く郵便を届ける方法はないのか模索し、弾薬を使ったり、チューブ状のものに入れて空気圧で手紙を飛ばしたりを試みる(テレグラムの元)
■ 蒸気船のプロペラをスクリュー状にしてスピード・アップさせる
■ 道路を整備するための機械を考案する(舗装工事の原型)

 『発明オタク』とでもニックネームをつけられそうな彼のアイディアの数々をこうして見てみると、それぞれが「情報を早く届けるための手段」に関連していることがわかる。確かに、この時代は労働法、医療、学校など多くの重要な改革が施行された変革期だが、いかに重要な案件であろうとも、一般市民がその情報を知る手だては少なかった。
例えば、1832年にはバーミンガムの街頭に大勢の労働者が、政府改革案に関するニュースを知ろうと集まった。そこでは数日遅れのロンドンの新聞が、文字の読める者によって大声で読み上げられていた。このような状況を知っていたローランドは、どんな立派な改革や制度も市民に届きづらく、浸透はおろか、完全に蚊帳の外に置かれている現状を憂慮していた。後に触れるが、同時期にローランドは労働者層のための雑誌を創刊している。その目的が質の高い読み物を安く庶民に提供することにあったことからも、情報伝達の重要性、さらにはおざなりにされていた一般市民の「知る権利」「学ぶ権利」に対する問題意識の高さを知ることができるだろう。
ローランドはブルース・カッスルの校長の座を弟に譲ると、私財を使って輪転機を製作したり、弾薬で郵便を飛ばす実験をしたりと、実際的な開発に没頭する。その間、社会改革主義者ロバート・オーウェンの主催する農業共同体のマネジメントを任されたりもしているが、ほぼ10年間にわたり自らの発明案を発表しては挫折することを繰り返している。郵便のスピードアップに関してはことに熱心で、配達コーチ(馬車)の効率化のため、発明されたばかりのストップウォッチを使って配達時間を細かく計算するなど、様々な試みを実践したものの、常にあと一つ何かが足りない。印刷、スピード、低価格、どこに重点をおくべきか…。ローランドは悩む。だが、近代郵便制度の確立、そしてペニー切手の発明まで、もう1歩のところにきていた。

 



18~19世紀にかけ、郵便配達には馬車(Mail Coach)が用いられた。写真は1820年代に使われていたもの。© DanieVDM

 

郵便ポストの導入を実現! アンソニー・トロロープ
ポストは昔、緑色だった


ジャージー島に設置された郵便ポストのうちのひとつ。© Royal Mail, courtesy of the British Postal Museum & Archive
 連作小説『バーセットシャー物語』などを著したヴィクトリア朝の人気小説家、アンソニー・トロロープ(Anthony Trollope 1815~82)=写真=のもう一つの職業は郵政審議官。毎朝出勤前の2時間半を利用して、まるで日記のように規則的に小説を書いたため、類を見ない多作作家としても知られる。そのトロロープは、1851年に郵便サービス向上調査のためチャネル諸島へ出張した。英仏海峡に浮かびフランス本土に近いため、トロロープはこの地で「フランス人は郵便ポストというものを使っている」ことを知る。英国での試験運用を願い出た彼は、まずジャージー島に第1号を、翌年には英国本土のいくつかの都市に設置した。
ロンドンに登場したのは1855年のフリート・ストリートが最初だ。当時のポストは六角形でダーク・グリーン。ただしこの緑色はジャージー島になら似合ったかもしれないが、都市では「目立たない」「汚い色」などと散々な評判だったらしく、ロンドン・バスや電話ボックス同様、英国人の愛するあの赤色に変更された。
ちなみに、小説家という職業柄、人間観察力が鋭かったであろうアンソニー・トロロープは、ローランド・ヒルについての印象をこう語っている。「数字には異常に正確だし、事実関係の追求もすごいけれど、あんなに他人の気持ちがわからない人はいませんね」。正確にきちんと郵便を配達するため、ヒルは部下に非常に厳しかったといわれており、どうやらヒルとトロロープは相容れなかったようである。正確で迅速なことを愛するヒルがもし日本に住んだら、気持ちよく暮らせたかも?


より良き社会への飽くなき探究心

 1835年、ローランドはオーストラリアの植民地化に関する政府委員会に参加する。いささか唐突ともいえるこの仕事は、どうやら政界とのつながりを模索していたローランドがたまたま掴んだ、1本のロープであったらしい。これまで政府へ向けて何度も自分の改革案を発表し、それが黙殺されるのに嫌気がさしていた彼は、何とか政界に意見を通す方法はないものかと考えていたに違いない。一方で、実用的な知識を広めるべく活動していた出版団体の仕事に深く関わり、週刊誌「ペニー・マガジン」を創刊させる。これは、兄のマシューと友人の編集者と3人で散歩中に、「安っぽくて低級な読み物が多い中、労働者のためにもっとよい雑誌を提供できないか」と話した結果生まれたものだといわれている。
ローランドは早速、いかに安く印刷物を発行するか、その方法を考え始める。新聞の輪転機では失敗したが、今度こそという思いがあった。そのかいあって、1冊1ペニーという安価で1832年に創刊されたこの雑誌は、自然科学や時事を扱い、多い時は年間20万部を売り上げ、その後13年間にわたり発行される人気雑誌となった。
ふつうの人なら、革新的な学校の校長、あるいはオーストラリアの植民地化委員会の仕事、または人気雑誌の発行だけでも十分満足しそうなものだが、ローランドはそれでもまだ一生を賭けられると思える仕事に巡りあったという確証が得られていなかった。良いアイディアと思えば、何でも手当り次第に試すことをやめなかったのも、そのためだ。ただし、人生にムダなことは何もないのかもしれない。彼が試したすべてのことは、やがてペニー切手を生みだすために必要なステップとなっていたのだ。

 



ヒルが創刊に携わり、人気雑誌となった『The Penny Magazine』。

 

不当に高かった郵便代

 ちょうどこの頃、1833年に郵政大臣となったロバート・ウォラス(Robert Wallace)が郵政改革の重要性を説きはじめていた。これはまさにローランドが日頃から強い関心を抱いていたジャンルと重なり、彼は郵政問題に着手するようになるのだが、その前に、近代郵便制度成立以前の郵便事情について簡単に述べておきたい。
1635年にチャールズ1世によって一般を対象とした郵便制度が始められて以降、郵便サービスは国によって営まれていた。しかも財務省の管轄の下で運営され、1803~15年にかけて繰り広げられたナポレオン戦争で疲弊した国家財政を立て直すために郵便料金が引き上げられるなど、一層、庶民の手の届かないものになっていた。
また無料で配達される郵便物が膨大な量に上っていたことが問題視されていた。その理由として、国会議員や政府高官は無料で郵便を利用できたうえ、新聞の郵送も無料だったことがあげられている。この制度を利用して、議員に郵便物を頼む者や、古新聞の余白に手紙を書く者が後を絶たなかったようだ。
しかし、相手がだれであろうと、中身が新聞だろうと、郵便物を運ぶためには一定のコストがかかる事実に変わりはなく、その費用は有料郵便の収入によって賄わなければならない。そのため、普通郵便の料金はますます割高になる。こうなると、高額であるがゆえに郵便を利用しない者も増える。ちなみにその頃の料金は、重さではなく距離と手紙の枚数で料金が決まっていた。1通の郵便代は、例えばロンドンからアイルランドへ送ると1シリング5ペンスほど。これは日雇い労働者の1週間の稼ぎのほぼ5分の1に等しかった。
基本的に郵便物を受け取る側が支払う仕組みだったことから、高額郵便料金の支払いを拒否、つまりせっかく届けられた郵便物を受け取らない者も続出。拒否された手紙は差出人へ戻るので、郵便配達の労力とかかったコストは全くのムダというわけだ。
さらにまた、庶民の知恵というべきか、料金を支払うことなく目的を達成させる強者もいた。これは、差出人が受取人の住所を書く際に、本人同士にしかわからない小さなマークを記し、その印を見た受取人は、封を切って中身を読まずとも差出人が元気でやっていることを確認するというもの。この時代、工場や鉄道の建設ブームであり、そうした仕事のために故郷を離れて都市で暮らす労働者が大勢いた。携帯やEメールで当たり前のように遠く国外とでも連絡が取り合える現代とは違い、この頃の通信手段は手紙のみ。彼らは故郷の家族と連絡をとるべく、様々な工夫を重ねたのだ。
産業革命でこのような人口移動が起きていたことも、郵政改革の必要性が叫ばれる要因のひとつとなっていた。

 



郵便料金が手紙の枚数によって決められていた時代、枚数を少なく抑えるため、人々はクロス・ライティングという書き方を用いた。
写真のように、紙を縦(あるいは横)に置いて普通に書いた後、紙を回転させて、さらにメッセージを綴った。
© Royal Mail, courtesy of the British Postal Museum & Archive

 

1枚の切手に9億7000万円!
世界最高額を記録

 切手収集を趣味に持つ人は少なく、希少価値の高い切手は、かなりの高値をつけることもある。
今年6月、世界中の多くの収集家らの間で『渇望の品』とされてきた切手が、競売大手のサザビーズのニューヨークにて競売にかけられ、約950万ドル(約9億7000万円)で落札された。その切手とは、1856年当時、英国領であった南米ガイアナで作られた1セント切手(The British Guiana One Cent Magenta)。およそ2.5センチ×3.2センチの大きさで、英国から運ばれていた切手が不足したことから、発行されたもの。それまでの切手の最高額230万ドルを塗り替え、世界最高額を記録した。ちなみに、以前の所有者が1980年に落札したときには93万5000ドル。過去34年で、ゼロがひとつ増えたことになる。


念願の「ペニー・ブラック」ついに誕生!

 ローランド・ヒルは早くからこうした問題に気づいていた。一般郵便が高額すぎるのが第一の問題であり、国会議員や政府高官が無料で郵便を利用できるというシステムも悪しき旧弊以外の何物でもない。しかし、赤字に悩む政府が、労働者の懐に優しい改革などに着手するだろうか。
ヒルは1837年に郵政改革を説く有名なパンフレット「郵便制度改革:その重要性と実用性」(Post Office Reform: Its Importance and Practicability)を出版する。これまでの苦い経験から、政府に直訴するだけではなく、シティのビジネスマンから署名を集め、マスコミを最大限に活用するロビー活動を盛んに行った。
ヒルは言う。「誰もが互いに手紙を送れるようになること、それは、読み書きを学ぶために積極的になるということで、教育改革にも通じるはずだ。さらに、友人同士で、母親が子供に、妻が遠隔地にいる夫と連絡を保てるようになるので、国民の団結心を助けることにもなる。単に商業上の成功だけではなく、社会改革の重要な一助になるはずだ」。

 



ヒルの偉業を称え、肖像画入りの記念切手が何度か発行されている(写真は1995年版)。
右上には通常通りエリザベス女王の横顔のシルエットが記されている。
Rowland Hill Stamp Design © Royal Mail Group Ltd (1995)

 

 これには非常に多くの賛同者が集まった。
とうとう政府は1839年9月16日、前評判に押される形で、ヒルのパンフレットを基にした郵政改革法案を始動させる。同時に郵政に関するアドバイザーの地位を得たヒルの当初案は、重さ0・5オンスまでの一般郵便は、距離に関わらず一律4ペンスに。その代わり、女王を含む誰もが平等に料金を支払うこと。さらに、その料金は前払いにすること等だった。
この新しい郵便制度は同年の12月5日、ロンドンと一部の都市で初めて試行された。郵政大臣ロバート・ウォラスをはじめ、旧友などから、新しい制度を祝う祝辞の手紙をヒル自身も数多く受け取ったという。そして、全国的な制度開始は数ヵ月後の予定だったが、国民からの強い要望によりほぼ1ヵ月後の1840年1月10日、予定を前倒しして正式にスタートした。
またこの頃、ヒルは郵便の料金前払いを示す証拠はどのように表示すべきか、アイディアを公募していた。全国から2600あまりが寄せられたものの、どうやらヒル自身のアイディア、すなわち「裏に糊のついた指定の印紙を購入して、それを手紙に貼る」が最も簡単のようだった。デザインは、芸術的なドローイング風なものも考えたが、財務省所属の印紙局で働く兄に相談したところ、印刷費をなるべく安価に済ませるためにも、できるだけシンプルに、そして小さな紙にした方が良いとのことで、ヒルは流通している硬貨に似せて、即位したばかりの若きヴィクトリア女王の横顔を配した。当初の4ペンスが1ペニーに値下げされ、黒地に女王の横顔だけが印刷されたこの切手は、5月6日から利用が始まり、それはやがて「ペニー・ブラック」と呼ばれることになる。

 



ヒルにちなんで名づけられた通り「Rowland Hill Avenue」(教鞭をとったブルース・カッスルの近く)。
また、晩年を過ごしたハムステッドには「Rowland Hill Street」がある。

 

 ヒルの改革により英国の郵便利用者数は、すぐさま今までの2倍に増加した。1854年までには世界30ヵ国がヒルの郵便制度を取り入れ、日本でも明治維新後間もない1873年、英国式郵便制度を導入している。ついでながら英国の切手は現在も国名を印刷せず、エリザベス女王の小さな横顔のシルエットで代用しているが、これは当時の名残り。国名の入らない郵便切手は世界でも類を見ないが、これは切手を発明した国の強い自負の表れといえるだろう。
起業家、改革者として各方面で並々ならぬ才能を振るったヒルは、人々の記憶に残り、社会にとって有益となるような仕事に、ついに巡りあった。政権が代わったせいで一時郵政の仕事から離れることを余儀なくされたものの、後に郵政省次官(Secretary to the Postmaster General)として復帰し、1864年の引退まで郵政界で辣腕を振るう。
自説を信じ常にパワフルに物事を押し進めたため、同僚からの評判はいまひとつだったともいわれる。しかし数々の功績はそれを払拭するに余りあり、1860年にはヴィクトリア女王からナイトの称号も叙された。ローランド・ヒルは、1879年8月27日、ハムステッドの自宅で死去する。83歳だった。葬儀はウェストミンスター寺院で執り行われ、ヒルは寺院内のチャペルに埋葬される栄に浴した。数歩離れた位置には、幼い頃彼が尊敬し夢中になった、蒸気機関の発明者ジェームズ・ワットが眠っているという。



シティのキング・エドワード・ストリートにはヒルの像が建つ。
© Eluveitie


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