「自画像」(1799年)テート・ブリテン所蔵。
19世紀のダミアン・ハーストだった!?
テート・ブリテンを舞台に、毎年秋から冬にかけて開催されるターナー賞(Turner Prize)展。英現代アート界において最も権威のある美術賞の一つといわれるターナー賞は、50歳以下の英国人もしくは英国在住の卓逸したアーティストに対して贈られる賞だが、同展に出品されるノミネート作品は、ダミアン・ハーストによるホルマリン漬けの牛の作品、トレーシー・エミンの避妊具やタバコ、日用品が散乱しただらしない自分のベッドなど、ショッキングな作品であることが多い(次頁のコラム参照)。なぜこのような過激な作品が選ばれる賞に、19世紀の風景画家ターナーの名が冠されているのだろうか。
ターナーが活躍したのは、英国の産業革命期。国外ではフランス革命などが起き、世界中が新しい時代に向かってうねりをあげて進んでいる時期だった。新しい技術や科学が次々に生まれ、親の世代には分からない思想や価値観が広まっていく、そんな時代の英国芸術、特に絵画の世界はどんな状況だったのか。
それまでの西洋絵画では、神話、聖書のエピソード、歴史上の大事件や偉人などをテーマとした歴史画が上位におかれ、「風景」は歴史画などの背景としての意味しか持っていなかった。ところが18世紀後半から19世紀になると、ヨーロッパ大陸へのグランド・ツアー(長期旅行)が定着し、また変化の激しい世の中の移り変わりを描き留めたいという要求もあったのか、風景をメインに描く人々が現れる。風景画というジャンルが英国で市民権を得るのはこの時代で、ターナーはその初期の一人である。
だがそれだけでなく、ターナーの画風の変化を見ると、まるで100年分の美術史の変遷を一人だけ数年で駆け抜けてしまったように思える。同時代の人々から「描きかけ?」「スキャンダラス」「訳がわからない」「石鹸水で描いたんじゃないか?」などと揶揄されたり、酷評されたりしたターナーの作品が当時いかに革新的だったかは、彼と同世代の風景画家ジョン・コンスタブル(1776~1837)の牧歌的な作品と比べてみると、一目瞭然だろう(11頁のコラム参照)。ターナーは、モネなどに代表されるフランス印象派を30年近く先取りしていたばかりでなく、作品によっては1960年代の米国の抽象表現主義作家、マーク・ロスコの作品を彷彿とさせるものすらある。毎年、作品のあまりの奇想天外さに物議をかもすターナー賞であるが、「新たな才能ある芸術家の作品を祝福する」「ビジュアル・アートの分野での新たな動きに注目する」ことに主眼がおかれた同賞が、ターナーの名を冠するのも不思議なことではく、むしろうまく名付けたといえるだろう。
しかしながら、ターナーも最初から「スキャンダラス」な作品を描いた訳ではない。ターナーがどのように後世に残るアーティストとなったかを、彼の生誕時まで時計の針を戻して見ていこう。
ちょっとだけ紹介! ターナー賞 過去の受賞・ノミネート作品 ■今年のターナー賞展は、テート・ブリテンにて9月30日~2015年1月4日まで開催予定。 |
1995年受賞 ダミアン・ハースト 「Mother and Child, Divided」 |
1999年ノミネート (受賞作家はスティーヴ・マックイーン) トレイシー・エミン 「My Bed」 |
2003年受賞 女装アーティスト グレイソン・ペリー Grayson Perry at the 2003 Turner Prize reception, 2003 Tate Britain |
3つの太陽が昇った日
米国ノースダコタ州で観察された幻日 © Gopherboy6956
1775年4月23日、ロンドンの劇場街コベント・ガーデンのメイデン・レーン(Maiden Lane)21番地で床屋を営む、働き者のウィリアム・ターナーのもとに息子が生まれた。子供はその曾祖父と祖父と父の名を全部足した、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner)と名付けられる。奇しくもこの日は文豪ウィリアム・シェークスピアの誕生日と同じであり、またイングランドを守護する聖ジョージの日でもあった。
さらに、ターナーの誕生4日目に、空に3つの太陽が昇ったという逸話もある。これは「幻日」という非常に珍しい大気光学現象の一つで、太陽と同じ高度に、しかも太陽から離れた位置に光が現れる現象のこと。雲の中に六角板状の氷晶が生じ、風が弱い場合に限り、氷晶に反射した太陽光によって現れるというが、この日は太陽を挟んで左右対称に出現したと伝えられる。生まれたばかりのターナーがこれを見たはずはないが、成人した彼が太陽の光や大気の動きに興味を抱いてこれらを描いたことや、死の間際に「太陽は神だ(The Sun is God.)」とつぶやいたこと(これは後世によるでっちあげである可能性が高いと言われているが)などと照らし合わせてみると、ターナーの将来はもうすでにこの時に決まっていたのかもしれない。
とはいうものの、ターナー自身はこのような不思議な伝説や逸話に彩られるようなタイプのミステリアスな人物ではない。取り立てて善行を行なった訳でも、徳を積んだ訳でもない、非常に人間臭い、労働者階級の、そして卓越した才能を持った市井の画家であり、それゆえに、英国を代表するアーティストとして今もこの国で愛されているのだといえる。
ターナーの生まれ育ったコベント・ガーデンは現在同様、パブやレストラン、劇場、野菜市場、賭け屋などが混在する、ロンドンきっての繁華街であり、劇場へ向かう紳士淑女、夜の街に立つ売春婦、スリなど、多様な人間が入り乱れた場所だった。父親の経営する床屋にも様々な階級の客が訪れた。客あしらいがうまく商売熱心な父のウィリアムは、店の壁に少年のターナーが描いたドローイングを何枚かピンで留め、「うちのせがれは将来絵描きになるんですよ」と客に吹聴し、1枚1~3シリングと値段までつけて販売していたという。「いい買い物をして何シリング節約した、という時を除いて、父親に誉められたことは一度もない」というターナーだが、父親との関係は良好で、父親が死ぬまで一緒に暮らした。
ターナーの父親は小柄でずんぐりした体型で活力に溢れ、赤ら顔で鷲鼻だったというが、これは晩年のターナーの姿そのままでもある。ターナーがスケッチ旅行に出掛けると、大工の親方に間違えられることがしばしばだったという。青年期の姿(前頁)とは少し印象が異なるが、ターナーの自画像が極端に少ないのは、彼が自分の容姿を好んでいなかったからだとも伝えられている。
右図は1812年にターナーが描いた父ウィリアム(67歳)の横顔、
左図は銅版画家のチャールズ・ターナーが1841年に制作したターナー(66歳)の肖像。
経験豊富な「できる学生」
ターナーが絵に興味を持ったのは、おそらく寂しさをまぎらわすためだったと思われる。父親は忙しく、また精神を患っていた母親も息子の世話を十分にできなかったため、ターナーは10歳の頃に母方の実家に一時引き取られ、その後も親戚などの住まいを転々としなければならなかった。彼の人生に大きな影響を及ぼした母親についてはあらためて後述するが、温かな家庭とは縁遠い生活の中で、学校に行く道すがら壁に落書きしていたターナーは、やがて本格的に「絵描き」になることを考えはじめる。
さて、幼い息子が節約すると喜ぶような、堅実で現実的な父親が、我が子が画家になることに反対しなかったのは、現代では不思議に聞こえるかもしれない。だが、まだ写真技術が発明されていないこの時代において、画家は大工や床屋と同様、きちんと需要のある職業でもあった。そのため父親はターナーが美術に興味を持ったことを大いに喜び、当初から協力的だった。当時は現在のサマセット・ハウスにあったロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(王立芸術院)の教授が床屋に髪を切りにくれば、父親は決まって息子の話をし、壁に貼ったドローイングを示す。ターナーはそうした教授の一人をスポンサーに、1789年、弱冠14歳にしてロイヤル・アカデミーの付属学校に入学するのである。
しかしながら、これは幸運ではあったが驚くべきことではない。ターナーはこの歳までに、建築家のもとに弟子入りしてスケッチの仕事に携わると同時に、風景画家のもとでも修行を積んでいた。労働者階級の子弟に多い丁稚奉公による学習は、ターナーに英才教育ともいえる形で絵画の基礎力を身につけさせた。つまり付属学校に入学した時、すでに実地経験の豊富な『できる学生』であり、頭ひとつ抜きん出た存在となっていた訳である。
芝居の背景画で鍛えたセンス
学校では歴史画の模写などを行っていたターナーだが、漠然と肖像画家になるのを夢見ていたという。貴族から依頼を受け、彼らの邸宅を出入りする肖像画家は画家の中でも花形であり、アーティストとして名を残せる可能性も高いジャンルだったからだろう。だが、肖像画家になるには、ターナーには決定的に欠けているものがあった。洗練された振る舞いや社交性である。下町育ちゆえの嗜好や短気な性格は、肖像画家には向かなかったのだ。もしもターナーが人好きのする、愛想の良い人物だったなら、貴族のパトロンの庇護を受ける「凡庸な肖像画家」として一生を終えていたかもしれず、人の一生は何が幸いするか分からない。
ターナーは付属学校に通いながら、オックスフォード・ストリートにある大衆劇場「パンテオン」で芝居の背景を描くアルバイトを始めた。メロドラマに相応しい、嵐で荒れる海や暴風雨の荒野の場面など、そこに描かれるドラマチックな風景は、その後のターナー自身の作品モチーフを彷彿とさせる。
ある時、この劇場が火事で炎に包まれているというニュースを聞いたターナーは、絵の具を持って駆けつけ、燃え続ける劇場をその場でスケッチした。その後10日間無断休学した彼は、やがて1点の水彩画を持って現れると、校内のエキシビションにそれを出品する。題は「パンテオン、火事の翌朝」。劇的で写実性に富み、しかも当世の出来事を描いた今までにない風景画だった。このあと彼が進む方向を指し示す作品といってよいであろう。ターナーは、自分が人物ではなく、火や水、風、岩といった自然や、廃墟のようなものに惹かれる傾向にあることに気づき始める。幸運なことに、この頃ちょうど水彩絵の具が大幅に改良され、発色も携帯性も現代のものに近くなってきており、風景のスケッチがより楽しめる時代が到来していた。そうした時代の流れは、彼の背を強く後押ししていく。
「パンテオン、火事の翌朝」(1792年)を水彩絵の具で描いたときのターナーは17歳。
同劇場でアルバイトをしていた。現在ここはマークス&スペンサーの
オックスフォード・ストリート・パンテオン店となっている。
テート・ブリテン所蔵。
若くして手に入れた名声
卒業後のターナーは、絵の題材を探して英国各地を旅した。マーゲイト、ブリストル、ワイト島など海辺が多いのは、海の持つダイナミックさとパワフルな自然に惹かれたためだ。1796年の「海の猟師たち」はそんな旅先でのスケッチを元にした初めての油絵で、批評家からも好意を持って迎えられた。満月の晩に漁船で沖にくり出した漁師たちが荒波にもまれている様子は、理想化された自然とも、あるがままの自然を写実するのとも趣を異にする、人間の矮小さと自然の偉大さ対比させた、サブライム(Sublime崇高)と呼ばれるロマンチックな観念を持った新しいタイプの風景画だった。「彼は自然を崇拝するが、その創造者である神については忘れている」とも評されたが、ターナーにとっては自然自体が神だったのかもしれない。翌年発表した2点も好評で、「モーニング・ポスト」紙には「光の使い方はレンブラントにも匹敵する」とまで讃えられる。22歳にしてターナーは早くも名声を手にしたのだ。
ターナーが21歳のときに描いた「海の猟師たち」(1796年)。
テート・ブリテン所蔵。
しかし一方で、スケッチ旅行費の捻出などに必死だったターナーは、雑誌のために銅版画を作成したり、貴族の絵画コレクションの模写を請け負ったりと、人と交わらず酒の席も断って働く毎日だった。不慣れな絵画教室さえ開いたが、ターナー自身の作品を模写しろというだけで、あとはかなり適当だったらしい。日々もくもくと絵の制作に没頭しているうえに、粗野でぶっきらぼうな物言いが災いし、「カネ好きでケチ」という評判が立つこともあったという。
1799年、24歳でターナーは念願のロイヤル・アカデミーの準会員に選出される(9頁の自画像はこの時のもの)。同メンバーに選ばれることは、その分野で高い評価を得ている職業芸術家である証。アカデミーが年1回主催する展覧会にも、作品を出品できた。1769年に始まった当時からこの展覧会は絶大な人気を誇り、芸術家としての認知度を上げるためには重要なイベントだった。ターナーは会員に昇格するために、なるべくアカデミーの好むような作品を描いたといわれる。初期の作品が具象的で、歴史画やフランスの画家クロード・ロランのような神話的風景画を下敷きにした作品が多いのは、このためである。ちなみに、この展覧会は現在も続くロイヤル・アカデミーの「サマー・エキシビション」の原型である。
3年後の1802年にアカデミーの会員となり、順調に出世街道を邁進していくが、やがて他のアカデミー会員から、ターナーの態度が悪いと次々に文句が出始める。「Pugnacious」――つまり「けんかっ早い」のだという。あらゆる階級の人々に門戸を開いていたとはいえ、アカデミー会員は貴族やそれに準ずる裕福な家庭の出身者が大半を占めていた。そんな中で、生まれも育ちも下町の、高尚とは言い難い言葉遣いのターナーが浮いてしまうのは当然と言えば当然。若くて態度が悪いうえに才能があるとなっては、ベテランのアカデミー会員にとってターナーの存在が面白いはずがない。展覧会ではターナーの作品をわざと見にくい場所に展示するなど、会員たちが陰湿な嫌がらせをすることさえあった。だがもちろん、タフなターナーは彼らに対して黙ってはいなかったのである。
ターナーは反発してアカデミーを脱退することもなく、かといって丸くなって皆に迎合する訳でもなく、独自の距離を保ちながら、32歳の若さでアカデミーの遠近法の教授という地位を得た。最終的にアカデミー副会長にまでのぼりつめ、40年あまりもアカデミーに居座ることになる。
「カルタゴを建設するディド」(1815年)。
古代都市カルタゴを建国した女王ディドを主題にした歴史的風景画。
クロード・ロランの影響を強く受けているが、やはり太陽の効果は欠かせないようだ。
ナショナル・ギャラリー所蔵。
ターナーにいじめられた!? 風景画家 コンスタブル |
ターナーと同時期の風景画家で、同じくロイヤル・アカデミー会員だったコンスタブル=左下=のことを、ターナーは毛嫌いしていたらしい。「結婚している画家なんて嫌いだね。画家は制作に没頭するべきなんだ。結婚していると、すぐ家庭がどうとか言って、描けない理由を家族のせいにするからな!」――。これはコンスタブルへの当てつけで言われたものだという。
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モンスター・マザーが残した影響
ところで当時では珍しく、ターナーは生涯結婚しなかった。それは、病的なほど怒りっぽかった母親メアリーに原因があるとされている。
いったん怒り出すと制御不可能となり、父を大声で口汚く罵る母親に恐怖と嫌悪を感じ、ターナーは幼い頃、母親の「怒りの発作」が始まると両手で耳を押さえて駆け出し、近所の家に避難していた。それは週に3~4回にも及んだという。ターナーは母親については厳重に口を閉ざしているため詳細は分からないが(彼の妹が幼くして亡くなったことが、精神疾患を悪化させたという説もある)、最終的に彼女が精神病院で死去したことを考えると、かなり激烈な人物だったに違いない。このことはターナーの女性観に大きな影響を与えた。悩める父親の姿を見ていたため、結婚して、もし自分が父のような目にあったら…という思いが、女性に対し距離をとらせたのだった。
とはいっても、彼に女性の影がなかったわけではない。早世した友人(パンテオン劇場のピアノ弾き)の未亡人で10歳年上のサラ・ダンビーと関係を持ち、その4人の子供とターナーの父親も入れた7人で暮らすという、非常に「現代的」ともいえる構成の家庭を作り上げたりしている。結婚こそしなかったものの2人の娘を授かり、その関係はターナーが25歳の頃から10年以上続いた。ターナーの伝記を執筆したピーター・アクロイドは、「未亡人キラー」という名称をターナーに贈っており、これは彼の女性関係がサラだけに留まらなかったことを示唆している。そして、なぜことごとく相手が未亡人なのかといえば、その女性が「結婚しても狂気に陥らなかった」、つまりつきあっても「安心」だと分かっているからだ、とアクロイドは記している。
真偽のほどはさておき、ターナーは母親の血を引く自分が、いつか母の様に狂気の発作を起こすのではないか…とも考えていたらしい。ターナーの作品が抽象的になるにつれ、新聞の批評には「狂った男」という単語が踊るようになるが、ターナーはこれをひどく嫌い、マスコミに母親の病が暴かれるのを怖れたという。
母親が病院で息を引き取ると、ターナーはその呪縛から解き放たれたかのように、1804年、サラや子供たちと暮らしていたハーレー通り(Harley Street)の自宅近くに、ギャラリーをオープンする。このギャラリーはターナー自身の作品を展示した私営ショールームのようなもので、顧客が直にターナーのもとを訪れ、作品依頼や購入を行った。この時代の芸術家は往々にしてこのようなスタイルをとることが多かったといい、ターナーも晩年までエージェントを雇わず、すべて自分で交渉した。堅実な父親に鍛えられたせいなのか、ターナーは非常にビジネスに長けたな面をもち、金額を作品のサイズで換算(端数は切り捨て、と但し書き付きで)し、依頼を受けた場合は期日通りに作品を仕上げるなど、現代人が想像する「芸術家」のイメージを裏切り、職人に近い感覚を身に付けていたようだ。金銭の余裕ができるようになると、郊外に土地を購入したり少量の株を買ったりと、いざという時のための備えもきちんと整えていた。
また、妻に先立たれたターナーの父親は、コベント・ガーデンの店を畳んで、ギャラリーの留守番やキャンバス作り、顧客への書類作成などの雑用をしながら影でターナーを支えた。2人は客の前でも「ビリー・ボーイ」「オールド・ダッド」と呼び合っていたそうで、母親の愛情とは縁のなかったターナーだが、父との絆は強かったようだ。
ロイヤル・アカデミーの展覧会場にて、作品の仕上げをするターナー。
当時の画家たちは展覧会開催の前に、会場内で加筆や修正を行った。
ウィリアム・パロット作「Turner on Varnishing Day」(1846年)。
ターナーを崇拝!? 批評家 ジョン・ラスキン |
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色彩への目覚め
ギャラリーを父親に任せ、ターナーは英国外へ足をのばしスケッチ旅行に出掛けることが増えていった。パリ経由でスイスを訪れ山脈や渓谷を描き、ベルギー・オランダではレンブラントをはじめとする名作にも触れる。しかし、真にターナーを変えたのはイタリアであった。
1819年、44歳で初めて訪れたイタリアの目がくらむほどに強い自然光に、ターナーは圧倒された。英国などの北方ヨーロッパにはない陽光の明るさと、そこから生まれる色彩の豊かさに息をのむ。特に「水の都」と言われるヴェネツィアに心惹かれ、この時の滞在は4週間にも満たなかったが、手がけたスケッチは400枚を超え、そのどれもが今までにない透明感ある光に溢れていた。以降、ターナーはたびたびヴェネツィアを訪れており、その後の画家としてのキャリアは、そこで目に焼き付けたイタリアの光を分解し、空気や大気の動きを色によって描きだす研究に捧げられたといっても過言ではない。その題材がナポレオン軍を描いた歴史画であれ、黄金色のリッチモンド・パークの風景画であれ、ターナーが描いたのは常に光と空気の関係性だった。以前から気に入リの主題だった海や港の光景は、洪水や雲気に形を変え、ついには「水蒸気」を表現するところにまで行き着くのである。
当時のロイヤル・アカデミーがサマセット・ハウスにあったことはすでに述べたが、敷地をロイヤル・ソサエティ(王立学会)と分け合っていた。王立学会は17世紀から続く英国最高の科学アカデミーで、産業革命時の英国における科学の行方はこの学会が牛耳っており、毎日のように刺激的な研究が発表され、議論が戦わされていた。光や空気を研究するターナーがこれを逃がすはずはない。最終学歴は小学校、さらに難読症でもあったターナーだが、それを補う人一倍の探究心を持ち合わせていた。雲の成り立ちに関する気象学者のレクチャーに出席したり、ニュートンの光学理論、ゲーテの色彩論にもとづき光を描いたりしている。まさに独学の人であった。
制作意欲は晩年になっても衰えることはなく、この先、ターナーが行き着く絵画は、ただ、まばゆいばかりの光の海、波と霧の渦でしかないように思えた。抽象画らしきものが生まれる半世紀も前のことであり、その概念もなかった時代に、ターナーは自分の色彩感覚を従来の絵画から完全に、自由に解き放ったのである。
「解体されるために最後の停泊地に曳かれてゆく戦艦テメレール号」(1838年)。
ナショナル・ギャラリー所蔵。
雨が降る中、蒸気機関車がテムズ河に架かる橋の上を疾走する様子を描いた
「雨、蒸気、スピード-グレート・ウェスタン鉄道」(1844年)。
ナショナル・ギャラリー所蔵。
光を描いた現代アートの先駆者
1846年、老齢を迎えたターナーはアカデミーの副会長の座を辞す。そしてチェルシーのテムズ河沿いに居を構え、25歳年下の未亡人ソフィア・ブースと暮らしながらも作品制作を続ける。彼女は、ターナーの父親が1829年に死去し、彼が失意のどん底で苦しんでいた際に、そばで支えてくれた女性だった。ターナーは屋根を自分で改造して、そこに座ってスケッチができるようにした。視線の先は子供の頃から見慣れたテムズ河。近所の人々は、雨漏りのしそうな家に住み、いつも屋根のてっぺんに座っている奇妙な老人が画家のターナーであることなど知らない。彼は人々から「船長」とあだ名されていた。
健康も次第に衰えてきたが、相変わらず鋭いビジネス感覚を有するターナーは死後の作品の行方をすでに決めていた。作品を自分の子供のように考える彼は、自身の経験からか、「家族を離ればなれにしちゃだめだ。皆一緒じゃないと」と言い、すべて国に寄贈することにしていた。ただし、自分の作品専用の部屋を作ることが前提である。そうしてテート・ブリテンに収められたターナーの作品の数は油彩400点、水彩画は2万点に及ぶといわれる。
やがて体調を崩した1851年、ターナーは病床に絵の具を持ち込み、ドローイングするようになる。ある時医師が呼ばれ、診断の結果、残念ながら余命が残り少ないと告げられたターナーは、「ちょっと下に降りてシェリーを1杯やって、よく考えてからまた戻ってきてくれ」と医師に告げる。出直しを命じられた医師は言う通りにし、数分後、やはり同じ意見であると伝えた。「それじゃあ」とターナーは言う。「もうすぐ無に帰るわけだね」(I am soon to be a nonentity.)。その数日後である12月19日朝、ターナーは76歳の生涯を閉じる。鈍色の空が広がる日だったが、その死の1時間前、ターナーを天へ迎えるかのように雲の切れ目から太陽が顔をのぞかせ、彼が眠る室内をまばゆい光で満たしたという。
ターナーが光に向かって旅立った後、テート・ギャラリー(現テート・ブリテン)では一悶着が起きていた。ターナーの遺贈作品に完成か未完成か分からない作品が沢山あるというのだ。すばやく筆で線が引かれただけの作品を前に、館員たちは頭を悩ませた。未完成作品に額を付けて飾るのは如何なものか…。いや、もしかしたらこれはこういう作品なのではないか、と。同館では現在でも「未完成?」とクエスチョン・マークをつけられている作品を目にすることがある。彼は来たるべき現代アートの、紛れもない先駆者だったのだ。
「光と色彩(ゲーテの理論)」(1843年)は、
ノアの洪水を主題とする、正方形シリーズ作品のうちの1点。
テート・ブリテン所蔵。
ターナーをもっとよく知る! 展覧会&映画情報 |
■風景画のリバイバルなのか、現在またターナーに注目が集まっている。昨年秋には日本で大回顧展が開かれたのに加え、グリニッジの海洋博物館では好評のうちに「ターナーと海」展が幕を下ろしたばかリ。9月からは膨大なターナー・コレクションを所蔵するテート・ブリテンで、ターナー晩年の15年に描かれた作品を集めた 特別展「The EY Exhibition: Late Turner - Painting Set Free」が開催される。特に、当時の批評家から「とうとう本当に気がおかしくなった」と評された、正方形のシリーズ作品=図下=9点が初めて全作セットで展示される。9月10日~2015年1月25日まで。 ■中年期以降のターナーその人にスポットを当てた伝記映画『Mr. Turner』も公開される。『秘密と嘘』『ヴェラ・ドレイク』などで知られる、カンヌやヴェネチア国際映画祭常連のベテラン監督マイク・リーが、構想に10年を掛けたという大作だ。ターナーを演じるのは同監督作品常連の個性派俳優ティモシー・スポール=写真上。本年度のカンヌ国際映画祭に出品され、英国の各メディアが5つ星評をつけ、さらにスポールが男優賞に選ばれるなど期待大。12月19日封切り予定。 |