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化石ハンター メアリー・アニングの情熱 [Mary Anning]

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2012年8月30日 No.743

取材・執筆/根本玲子・本誌編集部

化石ハンター
メアリー・アニングの情熱

世界に先駆け地質学研究が発展した
19世紀初頭のイングランドに
プロの女性「化石ハンター」がいた。
彼女の名前はメアリー・アニング。
今号では貧しい階層の出身ながら
時代の最先端をいく学者たちと渡り合い、
不屈の精神で化石発掘に人生を捧げた
ひとりの女性の偉業をふり返りたい。

 

プロの化石ハンターとして、化石発掘に全身全霊をかけたメアリー・アニング。採掘には、愛犬「トレイ」=肖像画内で、向かって右下にうずくまっているイヌ=を伴って出かけることが常だったという。しかし、採掘中に起こった地滑りによって、そのトレイを目の前で失うという悲しい事故を体験した。なお、メアリーは恋愛については多くを語らなかったが、夫や自分の子供の代わりに母親モリー、愛犬トレイ、そして他の子供たちや病人に愛情を注いでいたと伝えられている。


 

◆◆◆ 化石ハンター誕生 ◆◆◆


 



ジョセフとメアリーが見つけた、イクチオサウルスの頭部の化石=エヴェラード・ホーム(Everard Home)によるスケッチ(1814年)。
 冬の嵐が過ぎ去ったばかりの海岸。
もろく崩れやすい崖の断面から覗く巨大な眼窩、くちばしの様な細長い口にびっしり並んだ歯。かつて誰も見た事もない不思議な生き物の頭部が、少女と兄の目の前にあった。
4フィート(約1・219メートル)もある頭骨を慎重に岩場から掘り出した2人は、化石を土産物として販売する小さな店を営んでいた自宅へと、この不思議な『物体』を持ち帰る。ニュースを聞き及んだ村人たちが続々と店を訪れ、この奇怪な発見について喧々ごうごうの議論を始める。
実物はだれも見たことがないけれど、これが、人々がクロコダイルと呼ぶ生き物なのだろうか。少女は父がかつて語った様々な話を思い起こしながら、この生き物の正体について思いを巡らしたに違いない。そしてどこか近くに埋もれているはずのこの生物の残り部分を探し当ててみたいと熱望したはずだ。少女の小さな瞳の奥には、情熱という名の炎がすでに激しく燃え盛っていたのである。
ロンドンの観光名所のひとつ、サウス・ケンジントンにある自然史博物館の中でもひときわ高い人気を誇る化石ギャラリー内に展示された、ジュラ紀の首長竜「プレシオサウルス」。この化石の脇に、岩場にたたずむ婦人の小さな肖像画が添えてあるのをご存知だろうか。
彼女の手にはその服装には似つかわしくない1本のハンマーが握られている。
この絵のモデルこそ、2010年に王立学会が発表した「科学の歴史に最も影響を与えた英国人女性10人」の1人に選ばれたプロの化石ハンター、メアリー・アニング(Mary Anning 1799~1847)だ。
冒頭で触れたのは、彼女と兄が発見した化石で、2億年前もの昔に存在した、イルカのような姿をしていたというジュラ紀の魚竜「イクチオサウルス」の頭部である。
この後、残りの胴体部分の化石を見つけ出した彼女は、世界で初めてイクチオサウルスの完全な骨格標本を発見した人物となる。当時わずか12歳。食べていくために、地元で化石を掘り出し土産物として売っていた貧しい「化石屋」の娘が、どのような経緯で世界的な発見に至り、19世紀初頭に英国でも盛んになりつつあった古生物学の世界への道を拓いたのか。彼女の幼少期から順を追って探っていきたい。


 

◆◆◆ 雷に打たれた赤子 ◆◆◆


 

 中生代のジュラ紀に形成された地層が海へと突き出した、東デヴォンからドーセットまで続くドラマチックな海岸線は、ユネスコの世界自然遺産にも登録され、化石の宝庫であることから現在はジュラシック・コースト(Jurassic Coast)とも呼ばれる。
英仏海峡に面したライム・リージス(Lyme Regis)は、ジュラシック・コースト沿いにある、何の変哲もない小さな町だ。ここで、メアリーは1799年、家具職人リチャード・アニングの娘として誕生した。リチャードは妻のメアリー・ムーア(通称モリー)との間に10人の子供をもうけたが、流行病や火傷などの事故によってほとんどの子供たちが幼少時に他界し、成人まで生き残ったのはメアリーと兄のジョセフだけだった。
子供の生存率が低かったこの時代、アニング家の事情はさほど珍しくはなかったとはいうものの、夫妻は跡継ぎの長男のジョセフ、そして3歳年下のメアリーを、貧しいなりにも大切に育てていた。

1812年にジョセフとメアリーが発見した、イクチオサウルスの化石のスケッチ(1814年発表)。
 しかしある時、隣人女性が、生後15ヵ月だったメアリーを抱き木陰でほかの女性2人と馬術ショーを観戦していた際、思いがけない事故が起こる。雷がその木を直撃、メアリーを抱いていた女性を含む3人が死亡したのだ
赤子のメアリーも意識不明となるが、目撃者が大急ぎでメアリーを連れ帰り熱い風呂に入れたところ奇跡的に息を吹き返す。そして不思議なことに、それまで病気がちだったメアリーはその日以降、元気で活発な子供になったとされ、町の人々はメアリーが成長したのちも「雷事件」が彼女の好奇心や知性、エキセントリックと評される性格に影響を及ぼしたに違いないと噂しあっていたという。


◆◆◆ サイドビジネスの化石探し ◆◆◆

 

 父リチャードは、仕事の合間を縫って海岸に出ては化石を探して土産物として売り、家計の足しにしていた。当時のライム・リージスは富裕層が夏を過ごす海辺のリゾート地として栄えており、1792年にフランス革命戦争、ついでナポレオン戦争が起こってからは特に、国外で休暇を過ごすことをあきらめた人々が保養先にと押し寄せるようになっていた。
大博物時代を迎えていた英国では専門家でなくとも化石を所有することはファッションのひとつでもあり、地質学・古生物学の基礎が築かれつつあったこの時代、学者たちは研究の重要な手がかりとなる化石の発見に常に注目していた。しかし一般には、これらの化石は、聖書に描かれたノアの大洪水で死んだ生き物の名残だと考えられており、とぐろを巻いたアンモナイトの化石には「ヘビ石」、イカに似た生物ベレムナイトの化石には「悪魔の指」といった呼称がつけられていた。 また、「化石(fossil)」という名称はまだ確立されておらず、人々は不思議なもの、興味をそそるものという意味でこれらを「キュリオシティ(curiosity)」と呼んでいた。
 

 

化石って一体何?どうやってできる?
化石とは今から1万年以前の生物、あるいは足跡や巣穴、フンなど生物の生活していた様子が地層に埋没して自然状態で保存されたもの。そのまま形が残っているものだけでなく、化石燃料と呼ばれるようにプランクトンや草木が変質して原油になったものや、植物が石炭や鉱物に変化したものなども含まれる。


デ・ラ・ビーチ卿が、1830年にメアリーの発見した化石をもとにえがいた、「Duria Antiquior (a more ancient Dorset)」(直訳すると「太古のドーセット」)。
どうやって生物が化石に変化するのか。メアリーが発見したアンモナイトやイクチオサウルスなど、海の生物を例にして挙げてみよう。

①死骸が海の底に沈む 。

②土砂に埋もれ体の柔らかい部分は微生物に分解され骨や歯だけが残る。

③長い年月をかけて積もった土砂の圧力などにより、骨の成分が石の成分に置き換えられることで「石化」し、「体化石」となる。

ただし、こうして出来上がった化石がそのまま発見されることはない。地殻変動によって海や川の底が隆起して陸地となった後、地震などの働きで断層ができ、化石を含む地層がようやく表面に現れ、やがて化石が発見されるのだ。また地殻変動の過程で化石はばらばらになってしまう可能性が高く、恐竜など大きな生物の化石が丸ごと見つかることは非常にまれ。

また、生物そのものでなく足跡や巣穴、フンといった生物の活動の痕跡が岩石などに残された「生痕化石」は、生物自体の化石より地味な印象があるものの、その生き物の生活場所が水辺なのか陸なのか、食生活はどうだったかなど、「体化石」だけでは不明な要素を明らかにする重要な判断材料となっている。


地質時代の中で、中新世(ちゅうしんせい=約2,300万年前から約500万年前までの期間)と呼ばれる時代の昆虫のものと考えられる化石。ドミニク共和国で採掘された琥珀に含まれているのが見つかった。© Michael S. Engel
ちなみに地球が経てきた46億年の歴史の中で化石になった生物はほんの数パーセント、発見されるのもその中からまたほんのわずか。本当はもっと多様な生物がいたはずでも我々が知り得ることができるのは氷山の一角なのだ。









 

◆◆◆ 父から受けた実地教育 ◆◆◆


 


1826年まで、メアリー一家が住んでいた住宅のスケッチ(1842年に描かれたもの)。ライム・リージス博物館建設にあたり、1889年に取り壊された。右上にあるプラークは、同博物館の外壁にかけられている。
 アニング家は子供たちを毎日学校に通わせる余裕がなく、父リチャードは本業の傍らに子供たちを海辺に連れて行き化石探しを手伝わせ、商品として売るためのノウハウを教え込んだ。
化石売りはよい副収入になるものの、天候や潮の満ち引きに左右され、地滑りや転落事故と隣り合わせの危険な仕事。発掘に適しているのは嵐の多い冬期で、土砂崩れや大波により、新たな地層が露わになった岸壁を狙い、ハンマーとたがねを携え浜辺を歩く。
しかしせっかく大物を見つけても、掘り出しているうちに満潮となり、足場をなくして見失ったり、潮に流されてしまったりすることも多かった。加えて、沿岸部では密輸船なども行き交っており、トラブルに巻き込まれる可能性も十分あった。そうした危険の中でいかに化石を持ち帰るか―。子供たちが父親から学ぶことは山ほどあったのだ。
また、アニング家は英国国教会の信者ではなく、組合教会に属していた。当時、組合教会に属する人々は法的または職業的な差別を受けたり、周囲から偏見の目で見られることもあったというが、組合教会が貧しい人々への教育を重視していたことは幼いメアリーに幸いした。
もともとの聡明さもあって、メアリーは教会の日曜学校で読み書きを覚え、のちには独学で地質学や解剖学にも親しんでいく。もしメアリーが貧しい文盲の女性として成長していたら、学者たちと学術的な意見を交わしたり、国内外の博物館と渡り合ったりする姿は見られなかったであろうし、化石を採集するだけの一介の労働者として人知れず生涯を終えていたかもしれない。メアリーの運命は、すでに「化石ハンター」へと舵を切っていたのだ。


 

◆◆◆ 生涯の友人たちとの出会い ◆◆◆


 


ヘンリー・トマス・デ・ラ・ビーチ卿(Sir Henry Thomas De la Beche、1796~1855)。地質学者として活躍した。
 メアリーの化石、そして古生物学に対する情熱は父から、そしてライム・リージスにやってきた様々な人々との出会いによって形作られていった。中でも、メアリーがほんの幼女だった時分にこの地に引っ越してきたロンドンの裕福な法律家の娘たち、フィルポット3姉妹の存在は大きい。
兄がライム・リージスに屋敷を購入したのに伴いやって来た、メアリー、マーガレット、エリザベスのフィルポット3姉妹は、いずれも熱心な化石コレクターで、彼女らにとってこの地は宝箱のような場所であった。
幼かったメアリーは、自分より20歳も年上で身分も高い彼女らと化石を介して出会い、中でもエリザベスと親交を深め毎日のように化石探しに出掛けるようになる。また2人の友情はメアリーが成長するにつれ、高名な地質学者ウィリアム・バックランドをはじめとしたそうそうたる学者たち、そして彼らの妻たちとの交流につながっていった。その中にはバックランド夫人のメアリー・モーランド、またロデリック・マーチソンの妻シャーロットのように学者の妻であるだけでなく、自身もその分野に精通した女性たちが少なくなかった。
女性で、かつ身分の低いメアリーと、男性ばかりの「お偉方」学者サークルの間で、階層的に上の女性たちがクッション的役割を果たす。男社会の学会でスポットが当たりにくかったとはいえ、フィルポット3姉妹の属する女性グループが、後年、メアリーのキャリアの大きな助けとなったことは想像に難くない。
そしてもう1人、10代のメアリーの人生に大きな影響を与えることになった人物がいる。のちにロンドン地質学会の会長をつとめることになる、若き日のヘンリー・デ・ラ・ビーチ卿だ。裕福な軍人の家系に生まれたものの、地質学へと傾倒した彼は多感な思春期にメアリーと出会い、共に化石探しに夢中になり、生涯にわたって友人関係を保ち続ける。
メアリーの経済状態が悪化した際には、自らが描いた古代生物のスケッチを売るなどして彼女への援助を惜しまなかったのも彼であった。だが学問への情熱を介して生まれた友情とはいえ、まだまだ保守的だった時代に若い男女が連れ立っていれば様々な憶測を呼ぶのは致し方のないところで、2人の関係はたびたび人々の話題に上ることとなる。ほとんどは根も葉もない噂であったかもしれないが、生涯独身で通したメアリーと3歳年上のデ・ラ・ビーチ卿との間に淡い恋心があったとしても不思議ではない。真相は当事者のみぞ知る、というところだが、少なくともメアリーは、探求者にありがちな孤独なだけの人生を歩んだわけではなかったと言って良さそうだ。

 

メアリーと関わった同時代の学者たち

ジョルジュ・キュビエ(1769~1832)
Baron Georges Leopold Chretien Frederic Dagobert Cuvier
フランスの博物学者、解剖学者。地層の形成や時代によって異なる化石生物の存在は、天変地異によってその時代の全生物がほぼ死滅し、その後新たに創造されるという過程が繰り返されたためとする「天変地異説」を唱え、進化論と対立する立場をとった。

ウィリアム・バックランド(1784~1856)
William Buckland
イングランドの聖職者、地質学者、古生物学者。ヨークシャーのカークデール洞窟で発見された化石群の研究などで有名。メガロザウルス(斑竜・はんりゅう)の命名者。オックスフォード大の名物教授として知られた。1829年、学会でメアリーの功績を褒めたたえた。

チャールズ・ライエル(1797~1875)
Charles Lyell
スコットランド出身の地質学者、法律家。バックランドのもとで学ぶ。天変地異説と対立する、自然の法則は過去・現在を通じて不変とする「斉一説」を示した『地質学原理』を出版、チャールズ・ダーウィンの自然淘汰説に大きな影響を与えた。

アダム・セジウィック(1785~1873)
Adam Sedgwick
イングランドの地質学者で近代地質学の創始者の1人。地質年代の「デボン紀」「カンブリア紀」の名称を提案。『種の起原』を記したチャールズ・ダーウィンの恩師でもあり、ダーウィンとは文通を通し生涯にわたって友好的な関係を保つ。

ルイ・アガシー(1807~1873)
Jean Louis Rodolphe Agassiz
スイス出身、米ハーバード大学で活動した海洋学者、地質学者、古生物学者。氷河期の発見者として知られる。メアリーの生存中に彼女の名前にちなんで、魚の化石に「Acrodus anningiae」と命名した人物。

ロデリック・マーチソン(1792~1871)
Roderick Impey Murchison 
スコットランドの地質学者。軍人から地質学者へと転向、チャールズ・ライエルらとアルプス山脈の地質調査を行う。


◆◆◆ 半クラウン硬貨の希望 ◆◆◆


 


ライム・リージス近郊の岸壁。このような地滑りが起こると、化石が地表に姿を現すことがある。©Ballista
 幼いうちから他人の屋敷に使用人として奉公に出され辛い思いをする子供たちもいた中、仕事とはいえ父親と共に海辺に出掛けることのできたアニング家の子供たちは、宝探しでもするように化石探しを楽しんだ。つましい生活ながらも、幸せだったといえるかもしれない。しかしそんな日々は長くは続かなかった。
1810年の冬、結核を病んでいたにもかかわらず、体にむち打つようにいつもの海辺に出掛けた父リチャードは崖から転落、44歳の若さで命を落としてしまう。
働き手を失った家族に残されたのは多額の借金ばかり。メアリーはこのとき11歳、兄ジョセフもまだ手に職はなく一家の大黒柱になるには若過ぎた。そして教会の救済金に頼るまでに困窮した一家は、サイドビジネスだった化石屋に活路を見出そうとする。母モリーと子供たちは連日のように海辺へと向かい、化石を探しては自宅で販売するだけでなく、町の馬車発着所で売り歩き、細々と生計を立てることになる。
父を奪った海岸での作業は、幼い子供たちにとって肉体的にも精神的にも決して容易なものではなかったが、子供たちは化石店の切り盛りと家事に忙しい母を置いて、単独で採集にでかけることもしばしばだった。
そんなある日、海岸で掘り出したばかりのアンモナイトを手にしたメアリーを呼び止めた女性が、半クラウン硬貨(5シリング、60ペンスに相当)でそれを買い上げる。当時、半クラウンあれば一家の1週間相当の食料を手に入れることができた。

パリの自然史博物館に展示されている、メアリーが発見したプレシオサウルスの化石(© FunkMonk)。右側は、そのスケッチ。
  母親に硬貨を手渡したメアリーのつぶらな目は、一人前の稼ぎを手にした誇りと喜びに輝いていた。この出来事がメアリーに本格的に化石ハンターとして活躍するきっかけを与える。
化石を買った女性は地主の妻で、メアリーに雑用を頼み小遣いを与えるなどして、日頃からアニング家の様子を気遣っていたようだ。また知的好奇心が旺盛であるメアリーに対して、ただの化石拾いに終わるには惜しいと思っていたとも考えられる。メアリーに初めて地質学の本を与えたのもこの婦人であったという。
その後、独りでこつこつと地質学や解剖学を身につけていったメアリーは、自分の化石が最先端の科学に関わっていることを知り、さらなる情熱を傾けていく。メアリーにとって化石はすでに「食べていくため」だけの商品ではなくなっていた。
 

◆◆◆ 最初の大発見 ◆◆◆


 


採掘にいそしむメアリーの姿を描いたスケッチ。
 メアリーの運命を決定づける出来事が起こったのは、父の死の翌年となる1811年の冬(1810年の暮れという説もある)のことだった。
冒頭でご紹介したようにジョセフとメアリーは崖の中から1メートル余りにも達する、古代生物イクチオサウルスの頭骨化石を掘り出したのだった。この頭骨部分だけでも偉大な発見であったが、メアリーはその後も1年以上粘り強く残りの体部分を探し続け、地滑りで地層が露わになった崖の中ほど30フィート(約9・14メートル)の高さから、ついに残りの体部分(全長約5・2メートル)を発見し、兄と作業員の助けを借りみごと発掘に成功する。 イクチオサウルスの化石自体は、1699年にウェールズですでに発見されていたが、彼女が発見したのは世界初の全身化石であった。
思いがけない大物を掘り当てたメアリーの興奮はいかばかりのものだっただろうか。ニュースを知ったオックスフォード大学の地質学者・古生物学者のウィリアム・バックランドはさっそくアニング家へと調査に訪れる。化石の『体内』にはまるで昨日の出来事のようにこの生物が食べていた魚の残骸までもが残されていた。人々はこの謎の化石を南国に生息する「クロコダイル」のものであると信じていたが、この頭骨化石がクロコダイルと骨格的に大きく異なることに気付いていたメアリーは、その詳細をスケッチに書き記していた。

 


 

化石ザクザク!?
イングランド南部「ジュラシック海岸」は
地球のタイムカプセル
イングランド南部の、ドーセット州からデヴォン州東部まで延びる、95マイル(約153キロ)に及ぶ海岸線は、2億5千万年前から始まる三畳紀から、ジュラ紀、白亜紀へと続く中生代の地層が連続して見られる世界唯一の場所とされる。2001年にユネスコの世界自然遺産に指定されている。


この一帯では白亜紀(1.4億~6500万年前)に地面が大きく傾いたため、通常はなかなか見られないそれよりさらに昔の三畳紀(2.5億~2億年前)やジュラ紀(2億~1.4億年前)の地層が露わになっており、世界有数の化石の宝庫。数世紀に渡って地球科学の研究に貢献してきた。


















メアリーが暮らしたライム・リージズ付近の海岸線も三畳紀からジュラ紀にかけて形成されたライムストーン(石灰岩)と頁岩(けつがん)と呼ばれる2つの石が層になった「ブルー・ライアス(Blue Lias)」=写真下=と呼ばれる地層が海に向かってむき出しになっている。メアリーはこの浜辺でイクチオサウルスを始めとする貴重な化石を見つけ出したのだ。©Michael Maggs

現在でもアンモナイトの化石などはビーチで簡単に見つけることができ、持ち帰るのも自由とのこと。壮大な海岸線の眺めに加え美しい町や村が点在、宿泊施設も充実したこのエリア、現在もホリデー先として根強い人気を誇っている。


◆◆◆ 奪われた名誉 ◆◆◆


 


ウィリアム4世治世下の1833年、14歳だった王女ヴィクトリアはライム・リージスを訪問。馬車を出迎える人ごみの中には、当時34歳のメアリーの姿もあったに違いない。その後18歳の若さで英国君主となったヴィクトリア女王は、七つの海を支配し日の没せざる国と謳われた大英帝国の黄金時代を築いた。
 その後、この「クロコダイル」の化石はライム・リージス在住の地主、ヘンリー・ホスト・ヘンリーが23ポンドで買い上げ、その後ロンドンの著名な化石蒐集家であるウィリアム・バロックの手に渡る。
同氏の所有するロンドン、ピカデリーの邸宅で行われた博物展示会には、かのキャプテン・クックが世界各地から持ち帰った化石や、ナポレオンにまつわる品々、メキシコからやって来たエキゾチックな財宝などが展示されるが、過去に種の絶滅が存在したことを示し、それが聖書の創世記よりはるかに大昔に起こったことを示唆するメアリーの化石は、一大センセーションを巻き起こす。
そして様々な研究ののち、1817年にこの「クロコダイル」は博物学者チャールズ・コニグらによって、古代の海生爬虫類「イクチオサウルス」と命名される。しかしオークションにかけられたこのイクチオサウルスの目録にはバロックの名前が記されるばかりで、 幼いメアリーの名前は言及されることはなかった。「世界初のイクチオサウルス全骨格の発見者」という輝かしい称号は、不運にも奪われてしまったのだ。


 

◆◆◆ 「化石少女」からプロの「化石婦人」へ ◆◆◆


 


保養地ライム・リージスには『高慢と偏見』ほか数々の名作で知られる女流作家ジェーン・オースティンも滞在。メアリーの父親リチャードが、滞在中のオースティン一家の所持品の修理を請け負ったという記録が残されている。ライム・リージスの町はオースティン最晩年の作品『説きふせられて(Persuasion)』の舞台にもなっている。
  イクチオサウルスの発見で多少まとまった額の金を手に入れたものの、アニング家は相変わらずの貧乏暮らしだった。兄ジョセフは家具職人の修行に忙しくなっており、母モリーが化石販売業を取り仕切り、年若いメアリーが採集人の主として岩場での作業を行った。 当時、女性がこのような危険な仕事に就くことは珍しいだけでなく、「化石少女」とからかいの対象になることもあったが、メアリーは父から授けられた技術、そして緻密な観察力と化石への情熱を武器にプロの化石ハンターとして成長していく。また独学で地質学や解剖学の知識を深めていった彼女は、見つけた化石を観察して分類するだけでなく、スケッチと特徴を詳細に記したものを学者たちに送り、その学術的価値を売り込むなど『営業』にも精力的だった。 最初の大きな発見から10年近くの年月を経た1821年、彼女は新たなイクチオサウルスの化石、そして、ジュラ紀に生息した首長竜の一種、プレシオサウルスの骨格化石を世界で初めて発見するという再度の幸運に恵まれる。続いて1823年には、より完全な形で保存されたプレシオサウルス、1828年には新種の魚の化石や、ドイツ以外では初めてとなる翼竜ディモルフォドンの全身化石などを次々と発見。彼女の「化石ハンター」してのピークは20代にあったといえる。


 

◆◆◆ 「学者たちの援助とスキャンダル ◆◆◆


 


ロンドンの自然史博物館に展示されている、メアリーが発見したイクチオサウルスの化石。
 これらの発見によりメアリーは化石ハンターとしての名を確固たるものにする。
しかし、古生物や地質学について学者顔負けの知識をそなえていたにもかかわらず、下層階級の女性であったことや「生活のために」化石発掘に関わっていたことから、身分の高い学者たちから一段低い者として扱われがちだった。いつまでも楽にならない自分の生活にひきかえ、他人の堀った化石で論文を書き、名を成していく学者達を恨めしい想いで眺めたことも1度ならずあったことだろう。
その一方で、彼女の功績を高く評価し、助力を惜しまない人々も存在した。前述の旧友ヘンリー・デ・ラ・ビーチ卿はもちろんのこと、家賃を払うため家具を売りに出そうとしていたアニング家の窮状を見かねて、自身の化石をオークションにかけ、その売上金400ポンド(現在の2万6000ポンドに相当)を惜しげもなく贈与した長年の顧客、化石収集家トマス・ジェームズ・バーチなど、彼女をサポートする学者たちも少なくなかった。 
これらの援助によってメアリーは財政を立て直し、新しい化石店を構える。だがこういった援助は周りの人々の野次馬根性をかきたてるものでもあったようで、未婚のメアリーと年上の学者たちの『関係』が噂の対象になることもしばしばであった。


 

◆◆◆ 輝きを放ち続ける遺産◆◆◆


 


ライム・リージスのセント・マイケル墓地に兄ジョセフとともに眠る、メアリーの墓石。
  30代半ばを迎えたメアリーは、大きな発見に恵まれず、財政的にも再び苦しい状態に陥る。ここでも、温かい手をさしのべてくれたのは旧友だった。イクチオサウルスの発見以来、メアリーを高く評価していた学者の1人、ウィリアム・バックランドが政府と英国学術振興会に掛け合い、年間25ポンドの年金支払いを取り付けるため奔走してくれたのだった。
十分とはいえないものの定期収入ができたことで彼女の生活は一応の安定を見るのだが、彼女の体はこのころから病魔に蝕まれていく。乳がんだった。
メアリーは、この後も長年に渡り病気と闘いながら化石採集を続け、1847年3月、47歳の生涯を閉じる。
ロンドンの地質学会会長へと出世していた旧友デ・ラ・ビーチ卿は彼女の死を悼み、学会で彼女への追悼文を発表した。20世紀初頭まで女性の参加を許さず、性差と階級の壁が厚かった地質学会では異例のことであった。
メアリーの死から12年後、チャールズ・ダーウィンによるかの有名な『種の起源』が発表される。突然変異と自然淘汰による進化論を世に知らしめた本書は、チャールズ・ライエルやダーウィンの師であったケンブリッジ大のアダム・セジウィックなど、メアリーと交流し彼女の化石をもとに研究を進めた当時一流の地質学者らからインスピレーションを得たものであったという。
1冊の書物も残さなかった彼女だったが、地質学に古生物学そして進化論への道を拓いたメアリー。その当時の社会が要求する「女性らしい生き方」にはこだわらず、情熱のおもむくまま在野のフィールドワーカーとして生涯を全うした。メアリーにより英国の自然科学の発展にもたらされた功績は計り知れない。

 


 

メアリー・アニングについてさらに調べたいなら…

メアリーの見つけた化石に出会える!
自然史博物館


化石のほか、恐竜の骨なども多数展示されている、人気の自然史博物館。
ロンドンのサウス・ケンジントンにあるこの博物館には、メアリーが採掘した化石が集められている。グランドフロアの「Green Zone」内にある、「Fossil Marine Reptiles」には、メアリーの肖像画とともに、プレシオサウルス(「首長竜」=大型の海生爬虫類、恐竜ではないとのこと)の化石=写真下=などが展示されている。

 

©Nikki Odolphie

 

Natural History Museum
【住所】Cromwell Road,  London SW7 5BD
Tel: 020 7942 5000
【開館時間】
毎日 10:00-17:50(最終入場17:30)
12月24日~26日は閉館

 

www.nhm.ac.uk

 

メアリーゆかりの地に建つ地域博物館
ライム・リージス博物館

敷地の一部には、1826年までメアリーが家族とともに住んだ家の跡が含まれている。メアリーが採掘した化石の現物は、ロンドンの自然史博物館などに保管・展示されており、この博物館で通常見ることができるのは複製。

Lyme Regis Museum
【住所】Bridge Street, Lyme Regis,
Dorset DT7 3QA  Tel: 01297 443370
【開館時間】
イースター ~10月末 月~土    10:00-17:00
                 日       11:00-17:00
 11月~イースター      水~日    11:00-16:00 

 【入場料】3.95ポンド


www.lymeregismuseum.co.uk


スコットランド最愛の息子 詩人ロバート・バーンズ [Robert Burns]

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2012年11月29日

●Great Britons●取材・執筆/佐々木敦子、本誌編集部

 

スコットランド最愛の息子
詩人
ロバート・バーンズ
Robert Burns

酒を愛し女性を愛し、
そしてハギスにまで情熱的な詩を捧げた
18世紀スコットランドの国民詩人、
ロバート・バーンズ。
『スコットランドの息子』と呼ばれ、
今なお愛されるバーンズの詩の秘密と、
自由とロマンを追い求めたその短い生涯を探る。

 



ダンフリースの中心部にたたずむ、バーンズの像。
余談ながら、バーンズはイングランドに足を踏み入れることなく世を去った。
© ISeneca

実は別れの歌ではない『蛍の光』

 

 大晦日の夜、新年のカウント・ダウンが終わるやいなや、ペラペラの紙でできたカラフルな王冠をかぶった英国人たちが、体の前で交差させた腕を両隣りの人に差し出して握りあい、突如『蛍の光』を歌いだす―。そんな場面に立ち会った読者の人も多いことだろう。
ところが、メロディーは確かに私たち日本人に馴染み深い『蛍の光』なのだが、年越しパーティーの佳境で、つまり祝宴の席で歌われるような歌詞だったろうか? と疑問がわいたのは筆者だけではないはずだ。日本で『蛍の光』といえば、卒業式の定番、紛れもなく別れの曲である。しかも葬儀の際にBGMとして流れることがあるくらい、かなり深刻な歌詞ではないか。英国人たちは、過ぎて行った年を惜しむつもりで、この曲を歌っているのだろうか、と考えずにはいられなかった。
日本の『蛍の光』が、英語の歌詞をそのまま邦訳したものではないということは後日知った。アルコールの入った英国人たちが大晦日に怒鳴るがごとくに歌っていたのは、原題を『オールド・ラング・ザイン(Auld Lang Syne)』といい、彼らはなんと『友よ、古き昔のために、親愛をこめてこの一杯を飲み干そうではないか』と歌っていたのだ。
この曲はもともと古くからスコットランドに伝わる民謡で、作曲者は不明である。これに歌詞を付けたのが、ロバート・バーンズという人物だ。スコットランドでは国民詩人と言われるが、同じくスコットランド出身の正統派詩人・著述家のウォルター・スコットとは対極にあると言える。
バーンズは貧しい家庭に生まれ、勤勉というより、熱しやすい性格から文学の知識を吸収した、生まれながらの詩人である。惚れっぽく、関係をもった女性は数知れず。恋愛を詩作の原動力としていた向きもある。ジタバタと生き、あっけなく死んだ、そしてそれ故に今でも庶民に愛され続ける。そんなバーンズの37年の生涯を辿ってみよう。



「サー」の称号を与えられた、ウォルター・スコット
(Sir Walter Scott, 1771~1832)はスコットランドの誇る、
偉大なる詩人であり作家であった。エディンバラ出身。
弁護士の父の跡を継ぎ、いったんは弁護士になったが、25歳で著述活動を開始。
存命中に国内外で名声を得たほか、名士としても知られ、バーンズとは対照的な存在だったと言える。

この肖像画は、スコットランド国立ギャラリー所蔵、ヘンリー・レイバーンHenry Raeburn作(1822年)。

 


 

貧しくとも「子供の教育が先!」

 

 ロバート・バーンズ(Robert Burns)は、1759年1月25日、スコットランド南西部の海岸沿いエアシャーにある、アロウェイ(Alloway)という寒村の貧しい家に7人兄弟の長男として生まれた。バーンズの生まれた家は父親の手による粗末な土作りで、バーンズが生まれた数日後に起こった強風で半壊し、バーンズと産後間もない母親のアグネスは隣家にしばらく避難しなければならなかったというエピソードもある。
父親のウィリアムはスコットランド北東部アバディーンシャーの出身で、元はインヴェルジー城の庭師だった。だが、1745年に起きたジャコバイト蜂起(※)の余波で自らの人生も軌道修正せざるを得ず、不本意ながら故郷をあとにして アロウェイに移った経緯を持つ。
だが、この地で育苗業を始めるも、それだけでは生計が立てられず、裕福な家庭へ園丁としても出向くなどし、働き者ながらもなかなか運を掴めない気の毒な人物だったようだ。

※スコットランド出身のスチュワート王家復興を悲願とするジャコバイト派(亡命したジェームズ〈ラテン語でJacobus〉2世とその直系男子を支持するという意味)と、イングランド軍の戦い。これに勝利したイングランドは、スコットランドの氏族(クラン)制度を解体し、民族衣装であるキルトやタータンの着用を禁止した。

 そんな経緯から、ウィリアムは息子のロバートに対し勉学の機会を惜しまずに与えた。将来少しでも息子がいい暮らしが出来るように。それには知識や教養が不可欠だと、ウィリアムは考えたのだ。彼自身も極めて厳格なカルヴァン主義(プロテスタントの一派で、長老派教会派)で、神学や哲学を好む知性ある人物であり、一家は敬虔なクリスチャンとして質素な日々を送っていた。バーンズはこの父親に大きな恩恵を受けている。この時代、このような貧しい環境に生まれ育った者なら、少しでも暮らしの足しにと幼い頃から働かされ、知識や教養を身につけるなど夢物語だと、勉学の道を閉ざされるのが普通であろうからだ。
バーンズは6歳になり、近隣の小学校に入学するが、数ヵ月で教師が転勤となり、事実上学校が閉鎖されてしまう。教育熱心なバーンズの父親は近所の父兄と5人で、ジョン・マードック(John Murdoch)という18歳の青年を家庭教師として雇う。父兄たちはそれぞれ持ち回りでこの家庭教師を自宅に宿泊させ、わずかな給料で子供たちをスパルタ方式で教育してもらったという。
この頃父親は園丁から小作人に転じていたものの、相変わらず苦しい暮らしの中から、バーンズの教育費を捻出したのだった。一家はこの後も数度の引越を繰り返すが、どういう運命なのか、そのたびに貧しくなっていくようであった。にもかかわらず、「子供の教育が大事」という父親の信念が揺らぐことはなかった。
一方、バーンズの母親アグネスは、農家の主婦としての知識に長け、「落ち着いていて、陽気でエネルギッシュ」だったと言われる。字は書けないが、聖書はかろうじて読むことができた。また、バーンズによるとこの母親は「悪魔、幽霊、妖精、魔女などについての物語や歌については、スコットランド中を探しても、彼女以上に詳しい人物は見つからないだろう」というほどだった。陽気な歌声を聞かせる母親の遺伝子は、バーンズの楽観的な性格の中に見ることができる。バーンズは学問に対する真摯な態度を父親から、その明るい性格とリズムに関する感性を母親から譲り受けたと言えるだろう。

 



アロウェイにある、バーンズの生家「バーンズ・コテージ」。
博物館として公開されている。

 

Auld Lang Syne (1788)  『遥かな遠い昔』(蛍の光)

© Toby001
 バーンズの歌詞では、『旧友と幼い頃の思い出を語り合いながら酒を酌み交わす』内容を持つこのスコットランド民謡は、もとは作曲者もわからない古い曲で、歌詞もかろうじて数フレーズ残っているだけだった。現在知られているのは、古い歌詞にバーンズが新たに詩を加えたもの。
また、日本においては随分異なる歌詞が付けられている。『蛍の光』は1881年(明治14 年)、文部省が小学唱歌集を編纂する際に、国学者の稲垣千穎(いながき・ちかい:『ちょうちょ』の歌詞でも知られる)の歌詞を採用した。当時文部省は出典を記さず、すべて『文部省唱歌』としたため、この曲がスコットランド民謡であることを知らない人も多い。そして、『蛍の光』の歌詞は全部で4番まであるが、3番と4番は、その国家主義的内容から、現在では歌われることはない。以下がその歌詞である。3番「筑紫の極み、陸の奥、海山遠く、隔つとも、その真心は、隔て無く、一つに尽くせ、国の為」。4番「千島の奥も、沖繩も、八洲の内の、護りなり、至らん国に、いさおしく、努めよ我が背、つつがなく」というものだ。
この曲は日本と韓国では卒業式に、台湾、香港では葬儀の際に、フィリピンでは新年や卒業式に演奏され、モルディブでは1972年まで国歌の代わりになっていた。大晦日のカウントダウン直後に演奏するのは、英国を中心とした、英語圏の各国である。
原詞 
1
Should auld acquaintance be forgot,
and never brought to mind ?
Should auld acquaintance be forgot,
and auld lang syne ?

【大意】
旧友は忘れ去られるものなのか。
古き昔も心から消えいくものなのか。
CHORUS(以下、繰り返し)
For auld lang syne, my dear,
for auld lang syne,
we'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne.
【大意】
我が友よ、古き昔のために、
親愛をこめてこの杯を飲み干そうではないか。
2
And surely ye'll be your pint-stoup !
And surely I'll be mine !
And we'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne.
【大意】
我々は互いに杯を手にし、いまここに、
古き昔のため、親愛をこめてこの一杯を飲み干さんとしている。

CHORUS
3
We twa hae run about the braes,
and pou'd the gowans fine ;
But we've wander'd mony a weary fit,
sin' auld lang syne.
【大意】
我々二人は丘を駈け、可憐な雛菊を手折ったものだ。
しかし古き昔より時は移ろい、二人は距離を隔ててさすらって来た。

CHORUS
4
We twa hae paidl'd in the burn,
frae morning sun till dine ;
But seas between us braid hae roar'd
sin' auld lang syne.
【大意】
我々二人は日なが川辺に遊んだものだ。
しかし古き昔より二人を隔てた荒海は広かった。
CHORUS
5
And there's a hand my trusty fiere !
And gies a hand o' thine !
And we'll tak a right gude-willie waught,
for auld lang syne.
【大意】
今ここに、我が親友の手がある。
今ここに、我々は手をとる。
今我々は、友情の杯を飲み干すのだ。
古き昔のために。
CHORUS

 


 

詩作の原動力は恋心と憤り

 

 1773年、14歳になったロバート・バーンズは、農場の刈り取り作業で知り合ったネリー・キルパトリックという少女に恋心を抱く。その恋心からバーンズは初めての詩『おお、かつて僕は愛した』を作り上げる。この詩はネリーの好きだった旋律『私は未婚の男』にあわせて作られた歌詞で、バーンズはこのように民謡や流行歌に詩を付けることを好み、生涯を通し、多くの歌詞を残している。これはスコットランド民謡の保存にもまた、一役買ったといえる。
バーンズは後にこの詩についてこう語っている。「詩人になろうとか、なりたいなどとはまったく思わなかった。しかし恋心を知ってしまうと、詩や歌が私の心から自然と湧き出た」。バーンズにとって恋愛は詩を書く際の一番の刺激、そして創造の泉となった。本人がこれを自覚していたのかどうかは定かではないが、この後バーンズは、死ぬまで恋多き男性として生きることになる。
さらに、社会的格差に対する憤りも彼が詩を書く際の大きな原動力となった。これは、幼い頃に一緒に遊んでいた地主の子供たちが成長するにつれ彼を見下すようになったことや、自分の父親が過酷な労働と貧困に苦しみ衰えていく姿、容赦のない土地管理人の仕打ちなど身近な出来事に加え、当時のイングランドとスコットランドの関係もまた、スコットランド人にしてみれば不平等で不愉快なものであったからであるに違いない。多くのスコットランド人同様、バーンズも、成長するに連れてスコットランドへの強い愛国心を育んでいく。このことはバーンズにスコッツ語で詩を書き続けさせる動機ともなっていたのだ。
1766年から11年間一家が暮らしたマウント・オリファント(Mount Oliphant)の地は、極めて辛い状況を彼らにもたらしていた。彼らが借りた土地は土壌が痩せていて農業にはまったく向いていなかったのである。長男のバーンズは15歳にして大人と同様の農作業を、この不毛な地ですぐ下の弟ギルバートとともにこなしていた。
ただ、一時期、実務的な土地の測量術を学ぶため、家から16キロ程離れたカーコズワルド(Kirkoswald)の測量学校に通ったこともあったが、学校の隣にペギー・トムソンという美少女が住んでいたせいで、バーンズの言葉によれば「私の三角法はすっかりメチャクチャになった」。
しかも、現在は海に近いリゾート地として知られるこの地は、18世紀当時「密輸商人の浜」という悪評を取っており、船乗りや荒稼ぎした男たちが酒場で大暴れをするような町でもあった。バーンズは勉強を疎かにしただけでなくここで夜遊びを覚え、それが厳格な父親にバレた訳なのか、早々に家に呼び戻されている。だが、後に彼の代表作の一つともなる詩『タム・オ・シャンター』のモデルともなる人物や光景にも巡り会うなど、農家育ちの若いバーンズにとっては刺激的で貴重な体験だったようだ。

 

To A Haggis (1786) 『ハギスのために』

付き合わせにはニンジン、ターニップなどが添えられることが多いハギス。ニガテな人も少なくない…。© zoonabar
 初の詩集キルマーノック版を出版し、大成功を収めたバーンズは、エディンバラの社交界から招待される。この詩はその直後に書かれたもので、友人宅で出された郷土料理ハギスに感動したバーンズがその場で披露した詩。「つまらないものを食べてるヤツは、しなびた草のように弱々しいが、ハギスで育った田舎者は、歩くたびに地面が震える。敵の腕も頭も足も、スパリスパリと切りまくる」というような、ハギスを通してスコットランドや農夫を賛美する勇ましい詩だ。
スコットランドの伝統食とされるハギスは、茹でた羊の内臓(肝臓、心臓、腎臓、肺など)のミンチを、麦やタマネギ、ハーブと共に羊の胃袋に詰めて茹でるか蒸すかした料理で、スコッチ・ウィスキーを振りかけて食すのが正統派の食べ方。現在では羊の胃袋の代わりにビニールパック入りや缶詰などがあり、一般家庭で食べる場合はこちらが主流だ。パイなど固形物に包まれている訳ではないので、皿に分けた時の見た目が甚だ悪いことでも有名。
ハギスが大好物だったというバーンズにちなみ、彼の誕生日、1月25日になると、スコットランドでは毎年『バーンズ・ナイト』と呼ばれるハギス・パーティーが行われる。バグパイプの演奏とともに、3本の羽根の刺さったハギス(ハギスは、毛の長いカモノハシのような、3本足の動物であるという伝説が残っていることからくる)の皿が入場し、バーンズの『ハギスのために』や『タム・オ・シャンター』(左ページのコラム参照)が朗読される。そして儀式の後はウィスキーとハギスでパーティーが進んでいく。次回の1月25日には、ハギスを試してみてはいかが。

 

詩人としての自覚の芽生え

 

 1777年、農地の契約が切れたため、一家はエアシャーの北西にあるロッホリー(Lochlea)に引っ越す。ところが、バーンズの父親はまたも選択を誤ったらしい。以前より労働は苛酷さを増したにもかかわらず、今度の土地は酸性土壌だっため、収穫量が上がらないというひどい有様だった。
だがバーンズは、きつい農作業の後でダンス教室に通い(これは大いに父親の不評を買った)スマートな立ち振る舞いを学びつつ、女性たちとのやり取りを楽しんだ。また、男性のための独身者クラブを結成して討論会を開催したりと、決して働くだけの日々ではなかったのである。
母親譲りの陽気で人なつこいバーンズは、誰とでもすぐ仲良くなれるという才能に恵まれていた。彼はここで、当時の欧州で広まっていた友愛結社「フリーメイソン協会」にも入会している。会員であれば相互に助け合うというフリーメイソンは、困難を抱えた人間にとって非常にありがたい協会で、ウィーン支部に加入していたモーツァルト(1756年生まれで、バーンズの3歳上である)はフリーメイソン仲間に借金の無心をするなどしている。バーンズはここで、自分と同じ階級の人間だけではなく、上流階級に属する人々と知り合う機会を得たが、後にバーンズ初の詩集出版に尽力したのも、こうしたフリーメイソン仲間だったのである。
22歳になる頃、バーンズはアリソン・ベグビーという近所の屋敷で働く女性に夢中になり、『セスノックの岸辺に住む娘』、『かわいいペギー・アリソン』などの詩を書き、求婚するが断られてしまう。がっかりしたバーンズはこの後古い港町アーヴィン(Irvine)へ、一人で亜麻精製の技術を学びに出掛ける。1781年のことだ。先の見えない農場での労働にうんざりし打開策を考えていたとも、単なる失恋のショックだとも言われているが、比較的都会であるこの町で、バーンズはかなり羽目を外して遊び回ったらしい。
この町は彼に重要な転機をもたらした。リチャード・ブラウンという、女好きだが性格の良い、教養を備えた船乗りと友人になり、彼はバーンズの詩の良さを認め、詩人としての自覚を持つよう説いたのだ。また、ロバート・ファーガソン(Robert Fergusson)という詩人による、スコッツ語で書かれた詩集も手に入れた。その詩は平易な日常のスコットランドの言葉でつづられており、バーンズは目の覚めるような思いをした。こうして友人ブラウンの言葉とファーガソンの詩集は、若いバーンズの進む道を照らしたのだ。彼は自分の詩作を、単なるなぐさみで終らせるべきではないことに気づくのである。

 


 

ジャマイカ移住計画

 

 翌年バーンズがアーヴィンから戻ってみると、一家は地主を相手に面倒な裁判沙汰に巻き込まれていた。契約とは異なる農地の値上げが原因だった。数年にわたる裁判費用の捻出に苦しんだバーンズの父親は、経済不安と心労、そして長年の重労働が原因で、ついに1784年の2月に63歳で逝去してしまう。
長男であるバーンズは、家長として一家を養っていかなければならないことになる。だが、尊敬する厳格な父親の死は、彼を少なからず解放的にしたようで、彼の本格的な詩作はこれを機会に一気に開花する。そして女性関係もまたそれと比例するように、にぎやかになっていくのだった。
まず、病床に付いていた父親の世話にあたっていたエリザベス・ペイトンという少女を口説き、彼女はバーンズの子を生むことになる。母親はバーンズがエリザベスと結婚することを望んだが、反対があったうえ、バーンズ自身も結婚の意志はなかったようで、生まれた娘は結局バーンズの母親が育てることになる。これは醜聞となって広がり、教会でも問題となったが、バーンズはこのことから『あの娘は素敵な女の子』『詩人、愛娘の誕生を祝う、「お父さん」という敬称を詩人に与えた最初の機会に』『うるさい犬』の3本の詩を作り上げた。
一家は父親の死後、フリーメイソン仲間の地主の紹介でロッホリーの北西にあるモスギール(Mossgiel)に移り住み、そこで25歳のバーンズは将来の妻となるジーン・アーマー(Jean Armour)と出会う。彼女は石工の娘で、愛らしい快活な17歳の少女だった。1786年の春にジーンは妊娠し、これを知ったバーンズは困惑するものの、結婚の証文をジーンに与える。だがジーンの両親に大反対されてしまう。

  

▲モーホリンに建つ、若きジーン・アーマーの像。Rosser1954 ▲55歳当時のジーン・アーマーの肖像画。愛らしさは既にない…。

 

 一方で、バーンズにはもう一人の女性がいた。メアリー・キャンベル(Mary Campbell)である。彼女は大きな農場でメイドとして働いていたが、彼から『カリブに来るかい、ぼくのメアリー』という詩を送られている。バーンズはジーンの父親から告訴され、生まれてくる子供の養育費を迫られていたが、モスギールの農場経営は思わしくなかった。
行き詰まった彼は、全てを捨ててジャマイカに移住する計画を立てたのである。バーンズはメアリーと聖書を交換しているが、これは婚約を意味しており、メアリーと秘かにジャマイカへ渡ろうというつもりだった。しかし、メアリーも妊娠していることが分かり、彼女は実家へ将来を相談しにいく。そしてこれがバーンズとの永遠の別れになった。チフスが原因で、1786年10月に彼女は嬰児ともに他界してしまったのである。この事から、バーンズの中でメアリーは神聖化され、後に『ハイランドのメアリー』という名作が生まれた。
実家から戻るはずのメアリーを待つあいだ、バーンズはジャマイカ行きの旅費を工面するために自作の詩をまとめて出版する作業に入っていた。フリーメイソン仲間の協力も得て、やがてバーンズは1786年7月31日に、『詩集―主としてスコットランド方言による』をキルマーノック社から刊行する。1冊6シリングで初版は620部、印税は50ポンドだった。
バーンズは序文にこう記している。「これは、上流階級の優雅と怠惰の中で田舎の生活を見下して歌う詩人の作品ではない。…自分と自分の周囲の農夫仲間の中で感じたり見たりした心情や風習を自分の生まれた国の言葉で歌っているのだ」と。この詩集はすぐに大歓迎を受けた。エディンバラの貴族から、エアシャーの農夫の少年までが手にして夢中になる、大ベストセラーとなったのである。初版は1ヵ月で売り切れた。文学界も、「スコットランドが生んだ天才の顕著な見本」であると手放しで大絶賛した。こうしてバーンズはジャマイカではなく、スコットランドの首都エディンバラへ向かうことになる。

 



タムとメグが魔女を振り切ったとされる、オールド・ブリガドゥーン
(the auld Brig o'Doon=ドゥーンの古い橋)。
© James Denham

 


 

エディンバラの田舎詩人

 

 バーンズが必要とあらば『格調高い英語』を正確に話すことができたのは、教育熱心だった両親と家庭教師のおかげだが、それに加え、当意即妙の話術を操る、母親似のハンサムな好青年に成長していた彼は、瞬く間にエディンバラ社交界の寵児となった。バーンズは紹介状を持って多くの名士のもとを訪れたが、招かれたどの家やサロンでも歓迎され、人々はバーンズの飾り気のない男らしさや、自分をわきまえ、虚栄心のないところなどに好意を持ったという。当時は『自然に帰れ』と提唱するフランスの哲学者ジャン・ジャック・ルソーの思想がもてはやされており、人々はバーンズにルソーのいう『高貴な未開人』を見ていたのだともいわれる。
バーンズは2年に及ぶ滞在のあいだ、詩集の『エディンバラ版』を準備するほか、失われつつあるスコットランドの民謡や歌謡の保存に努めるジェームズ・ジョンソンと出会い、その歌謡集編纂への協力も約束している。
また、恋多きバーンズのエディンバラでの相手は、アグネス・ナンシー・マクルホーズ夫人(Agnes Nancy Maclehose)。彼女は評判の美貌と知性を併せ持つ女性で、バーンズの作品に興味を持ち、しかも夫とは別居中という身の上だった。ただし、バーンズは身分の違いや社交界の醜聞を恐れた夫人とプラトニックな関係を貫かざるを得ず、2人の間には大量の熱烈な手紙が残るばかリである。バーンズは『やさしいキス』という詩を彼女に送っている。欲求不満が募ったためか、バーンズは、マクルホーズ夫人宅の召使いの少女と関係を持ち子供を産ませたり、酒場の女性とつき合ったりと、ここでも同様のカサノヴァぶりを披露した。
エディンバラ版の詩集が出版されると、バーンズの評判はついに国境を越えた。ロンドンやダブリンで評判をとるばかりではない、海を渡り米国のフィラデルフィアやニューヨークでも好評をもって迎えられた。これで一気に長年の貧困から解放されたバーンズだが、浮かれた有名人にはならず、不思議な程冷静な判断をくだしている。エディンバラに2年滞在する間に、社交界の人々がすでに彼の存在に次第に飽き始めているのを感じ取り、やがて彼に向かって丁重にドアを閉めるであろうと考えたのである。もともとバーンズが欲しているのは詩作であり、自由を得ることであり、決して上流階級の仲間入りすることではなかった。
バーンズはエディンバラに来る前、農業をあきらめて収税官になることを考え(ジャマイカへ移住するとも言っていたはずだが)、エディンバラでは資格を獲得するための勉強もしている。人々がバーンズの詩を称賛しているまさにその頃である。このような現実的な感覚と、恋愛に熱中し詩作に励む感覚が、バーンズの中には違和感なく共存していたのだ。
1788年2月、バーンズは故郷の家族のもとへ向かう。稼いだ印税は、留守中に家族を守った弟のギルバートに半分以上渡した。そして、残った資産でエリスランド(Ellisland)に家を購入すると、ジーン・アーマーを迎えて初めて自分の所帯を持ったのである。
ジーンの親はかつてバーンズを告訴した過去があるにもかかわらず、彼が有名になると手のひらを返したような卑屈な態度で接した。だが、バーンズを想うジーンの気持ちに変わりがないうえ、収税官になるには妻帯が条件だったこともあり、結婚に関してバーンズに不満はなかった。

 



1840年当時のエリスランド農場の様子(作者不詳)。



▲現在のエリスランド農場。© Rosser1954 Roger Griffith

 


 

受け継がれる想い

 

 やがて一家は、1791年にエリスランドの北西にあるダンフリース(Dumfries)の町へ移る。ここは『スコットランドの南の女王』と言われる美しい町だが、町議会からバーンズを名誉市民にすると案内が来たのだ。彼の子供の学校教育費を無料にするという特典付きである。バーンズはこの地で『タム・オ・シャンター』『なんといっても人は人』をはじめとする多くの詩作をしながら、劇場建設に関わったり義勇軍に参加したりと、名誉市民としての務めも果たす。
そして、有能な沿岸収税官としての仕事もこなしていた。10代の頃バーンズが酒場で見かけたような、密輸業者の男たちを摘発する仕事である。彼はある時このような業者から4丁の拳銃を摘発し、これをフランスの革命軍に送ろうとしたことがある。自由を求めて戦う革命の思想に大いに共感したからだが、これで危うくバーンズは職を失うところであった。
また、こりないバーンズは、グローブ・タヴァーンというパブの女将の姪、アンナ・パークと関係を持ち子供をもうけている。バーンズは妻を含め5人の女性に子供を産ませているが、彼女が最後の相手であり、妻のジーンはその子を引き取っている。しかもジーンもこの時妊娠中であり、この1ヵ月後には出産しているのだ。バーンズはジーンに頭が上がらなかったと想像できる。
詩作と女性と家族生活、そして政治への興味。ようやく叶った人間らしい生活はまだまだ続くはずであった。しかし、バーンズを容赦なく人生の残酷な『いじめ』が襲う。1795年からバーンズを悩ませてきたリューマチ熱が、悪化し始めたのである。
10ヵ月ほど寝たり起きたりの生活をしたあと、医者の勧めで海辺に滞在する。この病は今の医学で言うと「リューマチ熱を伴った心内膜炎」ということになり、抗生物質で治療が可能だ。しかし、当時は違った。
帰宅後、バーンズはジーンの父親に向けて手紙を書いている。「アーマー夫人(ジーンの母)をどうかすぐにダンフリースへ寄越して下さい。妻の出産が目前に迫っているのです。私は今日海水浴から戻ってきました」。ところが、このわずか3日後である翌年7月21日に、バーンズは突然息を引き取る。37歳だった。25日には町の名誉市民であるバーンズのために、ダンフリースの国防義勇軍による盛大な葬儀が執り行われた。そしてちょうどこの日、バーンズの家ではジーンが第7子を出産したのである。それは、バーンズの詩が代々受け継がれていくことを示唆するような出来事であった。バーンズ本人はこの世にいなくとも、その心は、そしてその詩は永遠の命を得て、これからも愛されていくのである。

 



ダンフリースでバーンズが晩年を過ごした家。© Rosser1954

 

Tam o' Shanter: A Tale (1790) 『タム・オ・シャンター』

アロウェイ教会の廃墟。ここで、タムは魔女たちの宴を覗き見してしまう。


魔女たちの宴。右上の窓から、タムが顔をのぞかせているのが見える。
 バーンズ作品の中でも特に名高い物語形式の詩で、朗読すると10分を超える長さになる。『スコットランドの古物』の著作もあるフランシス・グルース大尉に、廃墟となっているアロウェイ教会にまつわる魔女物語を依頼され、作られた。1791年に『エディンバラ・マガジン』に掲載され、1793年にはバーンズの詩集エディンバラ版にも収められている。
シャンター村のタムが嵐の晩に町で楽しく酒を飲んだ後、愛馬メグにまたがり帰宅する際、廃墟のはずのアロウェイ教会に灯りが点っていた。そこでは悪魔や魔女が音楽に合わせて踊りまくっている最中で、中でも短い下着の若い魔女ナニーの踊りに興奮したタムは、ついうっかり「うまいぞ!」と声を上げてしまう。タムに気づいた悪魔たちは一転、恐ろしい形相でタムに向かってくる。
魔女は水の流れを越すことができないとされている。愛馬のメグを必死に走らせ、命からがらドゥーン川を渡ったタムだが、愛馬メグのシッポは魔女につかまれ、そのオシリからスッポリ抜けてしまっていた…。
以上のような物語が、スコッツ語とイングランド語を駆使し、スピード感溢れる描写で描かれ、絶妙なリズムと場面転換の妙は、詩人のウォルター・スコットに「シェークスピアを除いて、いかなる詩人も、このようにすばやく場面転換させながら、この上なく多様で変化に富んだ感情をかき立てる力を持たない」と絶賛されている。
なお、スコットランドの土産物店でよく売られている、タータンチェックのベレー帽はこの物語の主人公の名にちなみ、 タム・オ・シャンター帽と呼ばれている。そして、タムに我を忘れさせた魔女ナニーの「短い下着」はスコッツ語で「カティー・サーク」。現在グリニッジに展示されている帆船カティー・サークは、その船首に魔女が飾られ、彼女の手には今なおタムの愛馬メグのシッポがしっかり握られているのである。

 


 

ロバート・バーンズ ゆかりの地

1 アロウェイ Alloway

1759年に、バーンズが生まれたコテージがあり、現在は「ロバート・バーンズ生家博物館Robert Burns Birthplace Museum」となっている(同じ敷地内に、ギフトショップ+カフェを併設した、「タム・オ・シャンター・エクスピリアンスThe Tam O'Shanter Experience」もある)。さらに、地元の観光案内所である「ランド・オブ・バーンズ・センターLand o’ Burns Centre」があるほか、父親のウィリアムが眠るアロウェイ教会Alloway Kirk、1820年に建てられた、バーンズ・モニュメントBurns Monumentや、タムが魔女たちの姿を目撃した所とされるオールド・アロウェイ・カークAuld Alloway Kirk、タムが愛馬メグと命からがら渡った、ブリガドゥーン橋Brig o'Doonもある。
Robert Burns Birthplace Museum
www.burnsmuseum.org.uk
Land o’ Burns Centre
www.thesite.co.uk/placesdetail.asp?cboPlaces=8785

 



バーンズが亡くなったとされる部屋の様子を描いた版画

2 エアAyr

3 ターボルトン Tarbolton

4 アーヴィン Irvine

5 キルマーノック Kilmarnock

地域の発展に貢献するべく設立された「バーンズ・モニュメント・センターBurns Monument Centre」がある。
Burns Monument Centre
www.burnsmonumentcentre.co.uk

6 モーホリン Mauchline

かつてバーンズが住んだ家が「バーンズ・ハウス博物館The Burns House Museum」として公開されている。
The Burns House Museum
www.visitscotland.com/info/see-do/the-burns-house-museum-p256201

7 エリスランド Ellisland

バーンズが1788年から3年間、経営した「エリスランド・ファームEllisland Farm」は見学できるようになっている。
Ellisland Farm
www.ellislandfarm.co.uk

8 ダンフリース Dumfries

1796年にバーンズが息を引き取った「バーンズ・ハウスBurns House」が博物館として公開されているほか、ビジター・センターである、「ロバート・バーンズ・センターRobert Burns Centre」もある。
Burns House
Robert Burns Centre
www.dumfriesmuseum.demon.co.uk/brnscent.html



ダンフリースのセント・マイケルズ教会の墓地にある、バーンズの墓。© MSDMSD

 

参考資料
ロバート・バーンズ スコットランドの国民詩人 木村正俊/照山顕人 編 晶文社
Robert Burn's Scotland Rev.J.A. Carruth M.A
www.robertburns.org他

 

アイヌと共に生きた男 ニール・ゴードン・マンロー 《前編》 [Neil Gordon Munro]

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2013年5月30日 No.781

取材・執筆/佐々木敦子・本誌編集部

 

アイヌと共に生きた男

ニール・ゴードン・マンロー [前編]


20世紀前半、日本でアイヌ人たちの保護に人生を捧げた
一人のスコットランド人がいた。
彼の名はニール・ゴードン・マンロー。
考古学への興味から来日するが、
アイヌ先住民との不思議な縁が彼のその後の運命を決した。
「アイヌの皆の様に葬ってくれるね」と言い残し
北海道の地に没したマンローの生涯を辿りながら、
彼がこれまで正当に評価されることなく
日本の近代史に埋もれていた理由なども、
マンロー生誕150周年を機に探ってみたい。

© Fosco Maraini

 

参考文献:
『わがマンロー伝―ある英人医師・アイヌ研究家の生涯』桑原 千代子著・新宿書房刊、
『N.G.マンローと日本考古学』横浜市歴史博物館編纂ほか


 

2013年春、横浜市歴史博物館で、ある特別展が開かれた。タイトルは「N・G・マンローと日本考古学 ―横浜を掘った英国人学者」。スコットランド出身のニール・ゴードン・マンロー(Neil Gordon Munro)生誕150周年を記念して開催されたものである。
1942年に79歳で死去したマンローが初めて日本の地を踏んだのが28歳の時のこと。横浜で行った発掘調査で見つけた旧石器時代の人骨がきっかけで、
マンローは日本人のルーツ、そして期せずして日本の暗部に触れることになる。マンローにとって、そして日本人にとってアイヌはどう捉えられていたのか。前編では、マンローの横浜時代を中心に送る。


 

◆◆◆ 考古学に魅せられた青年医学生 ◆◆◆


 



マンローが医学を学んだ、エディンバラ大学医学部の旧校舎(1906年当時)
ニール・ゴードン・マンローは1863年6月16日、北海に面したスコットランドの都市ダンディー(Dundee)に、外科医の父ロバート、母マーガレット・ブリング・マンローの長男として生まれた。ちなみにマンローという苗字を持つ一族はスコットランドでは名家のひとつであり、その祖先は14世紀まで辿ることが可能だという。
父親のロバートは開業医で、その傍らで刑務所と救貧院の医師も兼任していた。マンローの下には後に彼のあとを追って日本の地を踏むロバート(父親と同名)を始め、5人の兄弟妹が誕生。だが、一般に同族意識や故郷への愛着が強いとされるスコットランド人には珍しく、マンローには家族や故郷に関する逸話があまり残っていない。しかも25歳でスコットランドを離れて以来、79歳で死去するまでにたった1度しか英国、欧州に戻っておらず、かなり淡白な性格だったとも思われる。
だがそんなマンローでも、一家の長男である以上は将来父親の医院を継ぐはずであり、親の期待もあったようだ。現に本人もそのつもりで1879年から1888年までエディンバラ大学の医学部に在籍している。ところが医学の勉強中に、マンローは考古学の魅力に取り憑かれてしまう。
当時はチャールズ・ダーウィンが『種の起源』を出版して20年が経過したところで、進化論に対する評価はようやく定着したばかり。この頃の欧州考古学界は、進化論の法則に基づいた人類の起源や進化の過程を確かめようと、原人発掘ブームに沸いていた。1866年に大森貝塚を発見したエドワード・S・モースを始め、ハインリッヒ・フォン・シーボルト(江戸末期に来日したシーボルトの次男。父親と区別するため、日本では『小シーボルト』とも呼ばれている)の日本での発掘調査などでも分かるように、考古学界の目は東洋へと向けられてもいたので、マンローがインドや東南アジアでの原人発掘を夢見たとしても不思議ではない。
また、ダーウィンが死去したのはマンローがエディンバラ大在学中の1882年であり、若きマンローがその著作に影響を受けた可能性も高い。
その昔、ダーウィンはマンロー同様エディンバラ大で医学を学ぶも、血を見るのが苦手で退学し、ビーグル号に乗って世界の海へ繰り出していった。そして各地で動植物を収集しながら、後に世界を揺るがすことになる進化論の基礎を導き出すに至るのだ。マンローが卒業後、インド航路客船医という一見奇妙なポストに就いたのは、ダーウィンという先例があったからと考えても、まるきり見当違いではないと思われる。


◆◆◆ 憧れの世界を目指して離英 ◆◆◆

 

病気で1年休学したものの、マンローは1888年に医学士と外科修士の学位をとり無事にエディンバラ大を卒業。そして当時大英帝国の植民地であったインドや香港を往復する貨客船の船医として働き始める。
マンローのこの進路選択について、父ロバートはどういう態度を見せたのか。記録はないようだが、諸手を挙げて賛成してくれたとは考えづらい。それどころか、いつ遭難するともしれぬ危険な仕事として大反対されたとしてもおかしくない。父ロバートはこの翌年に他界するが、この際に家族内で大きなしこりができたとすれば、この後、マンローが故郷と疎遠になったことも説明がつく。
さて、貨客船といっても大型客船ではなく、郵便物、そして軍用品などの貨物の運搬が主だったため、マンローの仕事は船員の怪我や客の船酔いの手当といった簡単なものばかりだった。
マンローは1ヵ月のうち1週間から10日を陸上で暮らしたが、その貴重な時間を現地での旧石器発掘調査などにあてたわけだ。鉛色の空をあおぎ見ることの多いスコットランドから一転、カラフルな未知の文化圏へ。マンローの驚きと歓びは大きかったに違いない。彼は英国の発掘隊たちが訪れた遺跡などを一人で精力的に回っている。
だが、当時インドの統治国だった英国は、発掘のために正式な届け出をすることもせず、出土したものはそのまま英国に持ち帰るといった、現代においては「略奪」と呼ばれる行為を繰り返していた。そして、希望に溢れたマンローがインドや香港で見たものは、 植民地を統治する英国人による現地の人々に対する人種差別、民族的偏見、およびインド国内のカースト制による激しい階級差別だったという。
マンローはそのことに心を痛め、後に妻であるチヨに当時の模様を語っている。海外では「英国」と一括りにされてしまうものの、マンローがスコットランド人だったことを思うと、彼はスコットランドやアイルランド、またケルト文化に対して行われたイングランドによる侵略行為や差別の歴史を重ねあわせていたのではないだろうか。また、原人の頭蓋骨を扱う考古学者的見地からすれば、「ある人種の民族的な優越性」などは存在しないというのがマンローの立場だった。やがてこの時の体験や思索は、後にマンローが北海道で見せるアイヌへの献身的態度につながっていく。

 

◆◆◆ 病床で聞いた原人発掘の報 ◆◆◆


 


オランダの解剖学者、人類学者、マリ・ウジェーヌ・フランソワ・トマ・デュボワ(Marie Eugne Franois Thomas Dubois、1858~1940)=写真下=が発掘した、『ジャワ原人』の頭蓋骨の一部と大たい骨=同左 © Peter Maas=は、世界に衝撃を与えた。
インドで細々とながら石器発掘を行っていたマンローだが、北国育ちの彼にとってこの国の猛暑とモンスーンはひどく体にこたえた。体調を崩した彼は1890年にはインドを離れ、香港と横浜を結ぶ定期船アンコナ号の船医になる。さらに翌1891(明治24)年5月12日、28歳目前のマンローは香港より一層気候の穏やかな横浜へ向かうため、汽船オセアニック号の客となる。療養が目的だったようで、マンローは到着後すぐに横浜の山手地区にある外国人専用のゼネラルホスピタルに入院した。
奇しくもその8月、33歳の軍医ウジェーヌ・デュボワが当時オランダ領だったインドネシアで原始人類の骨を発掘。それは「ジャワ原人(ピテカントロプス・エレクトゥス)」と名付けられ、東南アジアで人類が進化したとする学説に俄然信憑性が出てきた。
マンローがこのニュースに興奮したであろうことは間違いない。デュボワに「先を越された」とさえ思っただろう。やがて健康を取り戻したマンローは、医師として日本で暮らし始める。現在は英国同様島国の日本だが、大陸とつながっていた時に原人が渡っているはずである。それはいつの時代で、どんな原人なのか。それを自分が発見しようと決意したのだ。とはいっても、マンローはこの後50年の長きにわたって日本で暮らすことになると、その時想像していただろうか。答えは「ノー」である。運命の出会いは、まだそれが起こる兆しさえ見せてはいなかった。


 

◆◆◆ 駆け出しの発掘研究家 ◆◆◆


 


ドイツ帝国出身の医師、エルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Blz、1849~1913)は、『お雇い外国人』として日本の近代化に関わった。。
実はこの後数年のマンローの足取りははっきりと掴めていない。30歳でゼネラルホスピタルの院長に就任したという説がある一方で、横浜市内の病院を転々とした後、自らの診療所を開いたとする説もある。ただ確かなことは、優秀な外科医として腕を振るう傍ら、横浜を中心とした神奈川県各地の発掘を試みていたということだ。
また、文明開化を遂行し、欧米に追いつこうとする明治政府によって招待されていた「お雇い外国人」たちが当時はまだ日本に残留しており、マンローはこうした先輩たちと交流していた。中でもマンローが影響を受けたのは、東京大学で医学を教え、のちに宮内省侍医となったエルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Blz)であろう。
ベルツは、当時の日本が近代化を急ぐあまり、自国固有の文化を軽視するばかりか、恥ずべきものと考えてさえいることに危惧をいだいていた。そして「今の日本に必要なのは、まず日本文化の所産のすべての貴重なものを検討し、これを現在と将来の要求に、ゆっくりと慎重に適応させることなのだ」と憂える言葉を残している。
彼は考えを同じくする、小シーボルトと共に多くの美術品・工芸品を購入し保存に努めるほか、若いマンローとともに発掘にも参加。やがて、1905年に日本を去り、1913年に祖国ドイツで64歳で死去するが、日本にいるマンローに考古学研究費として3千円を贈るよう遺言を残している。

 

◆◆◆ 「満郎」になったマンロー ◆◆◆


 


マンローを北海道へと誘った、ジョン・バチェラー(John Batchelor、1854~1944)=写真中央
ここで、マンローのプライベートな側面について触れておこう。マンローは80年近い生涯の中で4人の妻を娶っているが、最初の妻とは1895(明治28)年に結婚した。19 歳のドイツ人アデル(Adele M.J.Retz)で、医薬品から雑貨、武器までを扱う横浜きっての貿易商「レッツ商会」の令嬢だった。彼らの暮らしは何一つ不自由のない恵まれた新婚生活であったに違いない。翌年にはマンローの父親と同名の長男ロバートが生まれている(1902年に死去)。
また、1898年には、1877年以来北海道でキリスト教の伝導に努めるイングランド人宣教師、ジョン・バチェラー(John Batchelor)の案内で初めて北海道に旅している。これが、マンローの後の生涯を大きく左右することになる。この時はマンロー自身も気づいてはいなかったものの、アイヌ人、アイヌ文化との運命の出会いだったといえるだろう。
バチェラーはアイヌにキリスト教に基づいた教育を施すための学校を創立したほか、アイヌ語の言語学的、民族的研究に多くの業績を残した人物である。彼は、アイヌ人はコーカソイドが日本に渡ったものだという、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(江戸末期に来日した『大シーボルト』)の唱えた「アイヌ白人説」を支持し、原ヨーロッパ人の子孫が現在の日本人によって不当な仕打ちを受けていると考えていた(次頁コラム参照)。
この説は極東の「高貴な野蛮人」というロマンチックなイメージで捉えられ、当時欧州の研究家たちの関心を誘っていたのである。バチェラーはマンローを誘うことで、共にこの説を証明しようとしたのだろう。マンローとバチェラーはやがて大論争の果てに袂を分かつに至るのだが、これについては後編で述べよう。
マンローの幸せな結婚生活はそう長くは続かなかった。医師としての仕事に従事する以外は、マンローは泥だらけになって発掘をするか調査レポートを書いているかのどちらかで、華やかな社交界での集まりに慣れていたアデルに構うことはなかった。
そればかりか、彼は高畠トクという女性と関係を持つに至るのである。時期的には長男を亡くした後とされるが、ある時、横浜で旧石器に関する講演を行ったマンローは、終了後、一人の日本人女性から日本語の読み方に関する誤りを指摘される。それが高畠トクだった。


釧路を訪問した際、宿泊先でくつろいだ表情を見せるマンローとチヨ夫人(写真:北海道大学提供)
マンローは英語で講演をしたのだが、彼女は旧士族の娘で英語も堪能な教養ある女性だった。感銘を受けたマンローはその場で彼女に通訳として働いてくれるよう頼む。そして1905(明治38)年にアデルと離婚。数ヵ月後にトクと再婚している。
こう書くとスムーズに話が進んだようにもみえるが、当時の日本で外国人同士が離婚するというのは余り例のないことであり、法律上の手続きは難航した。業を煮やしたマンローは荒技を使う。即ち、離婚前の妻共々日本に帰化したのである。満郎(まんろう)という漢字をあてて日本人となった夫妻は、無事に離婚することができたという。マンローが日本に帰化したのは、つまりは「いろいろ面倒だったから」ということになる。
 

マンローと4人の妻たち
マンローが故郷や家族に対して比較的距離を置いていて、淡白(冷淡?)な性格らしいことは本文でも触れた。その一方で4度も結婚している。ここではマンローが築いた4つの家庭から、マンローの姿を探ってみよう。

①アデル・マリー・ジョセフィン・レッツ(婚姻期間:1895~1905年)
ドイツ人。声楽とピアノの得意なレッツ商会の令嬢。マンローとの間にロバート、イアンの2人の男児をもうけるが、ロバートは幼くして病死。マンローは自著『Prehistoric Japan』を彼に捧げている。発掘に熱中し研究に湯水のごとくお金を使うマンローと、それを疎ましく思うアデルは夫婦喧嘩が絶えなかった。やがて秘書兼通訳である高畠トクが現れ、夫婦間の亀裂は決定的となる。マンローとトクとの関係に嫉妬したアデルは、トクも招待された実家のクリスマス・パーティーで、ピアノを叩き付けるようにヒステリックに演奏し、客の前でマンローから平手打ちを食らっている。

 


トク(32歳)とアヤメ(4歳)。離婚した頃の写真といわれている(『高畠とく先生思い出の記』より転載)
②高畠トク (婚姻期間:1905~09年)
久留米柳川藩江戸詰家老の次女。明治維新で零落し、自活の道を築くため横浜で女中奉公をしながら和漢の学識や英語力を身につけた。芙蓉の花にも似た気高い美しさを持っていたといわれる。マンローとの間にはアヤメ(アイリス)という女児を出産。しかし、博士号取得のために英国へ赴いたマンローは、戻ってくると手のひらを返したように冷たくなっていたという。離婚の際、武士の娘だからだろうか、トクはマンローに金銭を要求せず、黙ってアヤメを連れて立ち去った。アヤメは成人してからフランスに絵画留学することになり、トクがマンローにそのことを連絡すると「いいんじゃない?」という返事のみが返ってきたと伝えられている。アヤメは留学中に結核にかかり、28歳で死去する。

③アデル・ファヴルブラン
(婚姻期間:1914~24年/正式な離婚成立は1937年)

父はスイス人、母は日本人。父親の死去以降、ファヴルブラント家は傾き、妻の実家の財力をあてに無料診療ばかりしていたマンローは負債を抱える。貧乏とマンローの浮気の双方に悩んだアデルはヒステリー状態になり、「精神系疾患の治療で有名な精神科医フロイトに治療してもらえ」とマンローに無理矢理欧州へ送り出されてしまう。結婚祝いに父親から3000坪の敷地と豪邸をもらっていたアデルは、それを売り払い、マンローの負債も補ってウィーンへ去る。

④木村チヨ
(婚姻期間:1924~42年/正式な結婚は1937年)

香川県高松市のべっこう商の娘で、日赤看護婦養成所を首席で卒業した後、日露戦争に従軍し宝冠章勲八等を受ける。その後神戸の病院で婦長として働いているところをマンローにスカウトされる。アデルとの離婚が難航したため、チヨは長い間「妻」という肩書きの無いままマンローを支えた。軽井沢でも北海道でも無給だったという。マンローはチヨを「地上の天使」と呼び、全ての遺産をチヨに贈るという遺言状を残している。チヨはマンロー亡きあとも、軽井沢で婦長として長く働き、1974年に89歳で死去。


◆◆◆ 横浜で竪穴式住居を発掘 ◆◆◆


 


今年はマンロー生誕150周年にあたる。これを記念し、4月から5月末にかけて横浜市歴史博物館で行われた特別展のポスター。同展にあわせて発行されたカタログの内容の濃さも特筆に価する。マンローの業績を広く知らしめたい、という主催者側の情熱がそこかしこに感じられた。
トクという優秀な通訳を得た後、マンローの行動半径はいっきに拡大する。 バチェラーとの北海道旅行でアイヌの風俗や文化に触れたマンローは、アイヌに深い興味を抱き、彼らが用いる木工品の彫り文様と、縄文土器に施された模様の共通点に注目した。そしてアイヌこそ縄文人の子孫なのではないかと考える。
マンローはこの仮説を証明しようと、横浜根岸競馬場付近貝塚(1904年)、小田原の酒匂川・早川流域(1905年)、横浜三ツ沢貝塚(1905年)の3ヵ所を精力的に調査するが、三ツ沢貝塚発掘の際には「トレンチ(塹壕)方式」という地層に沿って掘り進む画期的な方法を採用した。
それまで日本で行われてきた発掘調査は、ここぞと思うところを掘ってみて、何も出なかったら別の場所を掘るという、宝探しにも似た行き当たりばったりな方法で、調査も日帰り程度が主流だった。しかしマンローは、7ヵ月という長い期間を費やし、何かが出ようが出まいが関係なく、一定の広い区域を層位区分ごとに均等に掘り進めるというやり方を採用した。
そしてこれによって日本初の縦穴住居跡を発掘したばかりではなく、土器、石器、そしてアイヌ人の特徴を有する原人5体の人骨を、ほぼ完全な姿で掘り出したのである。それまで日本列島には前期旧石器文化は存在しないと思われていたので、これは実は大きな発見であった。
マンローはこれらの結果をまとめ、『Prehistoric Japan』として自費出版する。そしてアイヌ縄文人説に一石を投じたのである。当時日本の学会でも「日本人起源論」については議論されており、概ね「コロポックル説」と「アイヌ説」とに分かれていた。コロポックルとはアイヌの神話の中に出てくる小人で、それによると「アイヌがこの土地に住み始める前から、この土地にはコロポックルという種族が住んでいた。彼らは背丈が低く、動きがすばやく、漁に巧みであった。又屋根をフキの葉で葺いた竪穴にすんでいた」という。
マンローはコロポックルはアイヌ伝説に過ぎず、実在はしないとしている。だがコロポックル説を唱えるのが日本人類学会の会長である坪井正五郎氏とその一派であったためなのか、マンローの三ツ沢貝塚での重要な発見そのものが、一介のアマチュアの慰みとして学会から黙殺されてしまう。『Prehistoric Japan』が英語で書かれたせいもあるのだろうか。評価したのはほんの一握りの人々に過ぎなかったようだ。
マンローの発見から44年後の1949年、群馬県岩宿遺跡から旧石器が発見されたことで、日本における前期旧石器文化の存在は、やっと認知されたという有り様である。
この頃のマンローは、書いた論文を定期的に英国へ送ったほか、発掘品の多くも整理してスコットランド博物館へ送っているが、それは単に英国が「アイヌ白人説」のためにマンローの研究に興味を持っていたからだけではなく、日本の学会における面倒な派閥システムのために、自分の研究が日の目を見ないことを怖れたからではないかと推測できる。
また、エディンバラ大学では医学士を取得し、日本での医療行為には何の問題もないマンローだが、なぜかこの頃博士号の学位の必要性を痛切に感じていたという。おそらくそれも、日本の学会で自分の論文や発見が取り上げられなかったことと関係があるのではないだろうか。「医学博士」という肩書きを重視する人々が学会の中に多くいたであろうことは想像に難くない。マンローは『日本人と癌』という博士論文を執筆すると、1908(明治41)年にエディンバラ大での口頭試験のために英国へ向かう。マンローにとって20年ぶりの、そして最後の英国行きであった。

 

明治政府のアイヌの扱い
1997年まで残った

「北海道旧土人保護法」

◆北海道は古くから「蝦夷」と呼ばれ、沖縄同様、日本国内の外国というような特殊な扱いを受けてきた。明治時代になると、政府による植民策がすすみ北海道への移住者が増加。開拓使や北海道庁は、先住していたアイヌの人たちに一部の地域で農業の奨励や教育・医療などの施策をおこなったが十分ではなく、生活に困窮する者たちが続出した。

◆このため、政府は明治32年に「北海道旧土人保護法」を制定(マンローが初めて北海道旅行をした翌年でもある)。これは、アイヌの人たちを日本国民に同化させることを目的に、土地を付与して農業を奨励することをはじめ、医療、生活扶助、教育などの保護対策を行うものとされた。

◆しかし実際には、アイヌの財産を収奪し、文化帝国主義的同化政策を推進するための法的根拠として用いられる。具体的には、アイヌの土地の没収/収入源である漁業・狩猟の禁止/アイヌ固有の習慣風習の禁止/日本語使用の義務/日本風氏名への改名による戸籍への編入―などがあげられる。

◆明治から第二次世界大戦敗戦前まで使用された国定教科書には、アイヌは「土人」と表され(行政用語では明治11年から「旧土人」)、差別は続いた。

◆戦後は、一転して国籍を持つ者、すなわち「国民」としてのみ把握され、現在もその民族的属性や、集団としての彼らへの配慮がなされているとは言い難い。ちなみに、この法律が廃止されたのは、なんと1997年(平成7年)のことであった。


◆◆◆ 「不器用で八方破れ」な性格 ◆◆◆


 


マンローは、国立スコットランド博物館=写真右=に、日本で発掘したおびただしい量の考古学資料を送った。横浜市歴史博物館で行われた特別展で発行された厚いカタログ=同上=では、それらが丁寧に紹介されており、感嘆するばかり。
 マンローは英国で試験を受け無事博士号を取得したほか、尊敬する先輩であったベルツと再会し旧交を温めた。その一方、エディンバラ博物館の美術民俗学部門を訪れ、正式な日本通信員に任命される。これによりマンローはその後6年に渡り、アイヌ民族学資料や2000点以上のコレクションをエディンバラに送り続けている。
半年後、父親の遺産(父親はマンローがまだ船医だった頃に死去している)の他に、マンローはあろうことか「ブロンドのフランス人女性」を連れて帰国。これが原因で高畠トクとは協議離婚し、彼女は2人の間に出来た娘アヤメを連れて家を出る。だが問題のフランス人女性は結局すぐ欧州へ送り返してしまい、マンローは優秀な通訳を失った状態でアイヌの調査を続けることになる。
40代後半になっていたマンローだが、自らの手で家庭を叩き壊した挙句、身の回りの世話をする小間使いと運転手を連れて、横浜市内で転々と住所を変えている。『わがマンロー伝』を著した桑原千代子氏の言葉を借りれば、この頃のマンローは「不器用な八方破れで、妥協知らずの突っ走り」だったというが、マンローはどんな精神状態で暮らしていたのだろう。帰化して日本国籍になってはいたものの、日本語はほとんど話せず、家族もいない。研究結果を発表するも学会からは無視される。そんなマンローがただ一つ握りしめていたのは、「自分の研究が正しく価値のあることだと信じる気持ち」だったのではないだろうか。
やがて、欧州で第一次世界大戦の勃発した1914年、51歳のマンローは、最初の妻の実家と並ぶ横浜きっての資産家であるスイス貿易商の娘で、名前も同じ、28歳のアデル・ファヴルブラント(Adele Favre‐ Brandt)と出会った。彼女の両親はマンローの年齢や過去の女性関係に不安を覚えたものの、二人は結婚。マンローはアデルの財産が目当てだったと考える人々もいるが、実際のところは分かっていない。
マンローはこの頃調査のためにしばしば北海道各地を訪れているが、次第に釧路や白老に住むアイヌたちと親交を深め、その独自の世界観に惹かれ始める。

軽井沢サナトリウムでポーズをとるマンロー(年代は不詳/写真:北海道大学提供)
折しも1915年は北海道で大飢饉が起きていた。マンローはアイヌの置かれている境遇に心を痛め、研究の合間に無料で彼らの診察を始める。結核が蔓延していたが、アイヌは薬草と祈祷しか治療法を持たなかったのである。
マンローは医師として活動しながらアイヌの儀式と風習を調査するようになり、徐々に北海道での滞在期間が長くなりはじめた。湿度が低くて夏も涼しいこの地に、故郷の面影を見いだしたということもあるかもしれない。北海道庁は時折コタン(アイヌの村や集落の意)に滞在するこの外国人医師に興味を持ち、マンローに向けてアイヌに関する5つの質問を発している。その一つ、「アイヌは高等なる宗教を理解し享益し得るか?」という質問に対し、マンローはスコットランド高地人の例を挙げて説明。「かつては政治と教育の不在によって哀れむべき状態にあったが、その後英国における第一流の学者を輩出したことに照らし合わせれば、ある種族と他の種族の間に教育の差はあっても、知能上の差はない」と断言しているのだ。すでに医師や研究者として以上の熱意が、ここにはこもっていると見受けられる。
マンローは横浜だけでなく、外国人の多い避暑地軽井沢の病院で忙しい夏の間だけ働いていたが、これに加え北海道でアイヌの人々の世話をするという、移動の多い忙しい日々を送り始める。
今やマンローの研究の比重は、石器や人骨といった考古学から生きた人間、すなわち人類学の分野へと移りつつあった。さらにもう一つ、軽井沢の病院にマンローの未来の、そして最後の妻となるチヨが婦長としてやって来るのである。

 

欧州のアイヌの扱い
ナチスも利用した「アイヌ・コーカソイド説」
ドイツの医師で博物学者のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866、日本では『大シーボルト』とも呼ばれる)によって、アイヌが周辺の他の言語系統と無縁で孤立していると言う見解が公にされてから、アイヌはコーカソイド、つまり原ヨーロッパ人もしくはヨーロッパ人に起源を有する民族ではないかと言う認識が1860年頃より広がった。

欧州各国は調査団や研究者を派遣したり、現地にいる欧州出身者に働きかけ、競合しながらアイヌの骨格標本をこぞって入手し始めた。1865年に起きた英国領事館員によるアイヌ墳墓盗掘事件なども、この流れで起きた事件である。アイヌとヨーロッパ人の頭蓋骨比較研究によって、その類似性はより説得性に富むようになった。英語はもちろん、ドイツやフランス語で書かれたアイヌ研究書が意外な程多く存在する理由はこのためである。

昭和初期、純血主義のナチス・ドイツはこのコーカソイド説を利用し、「アイヌは欧州から来たアーリア人の祖先である。ゆえに、日本人もアーリア人である」という、誰がどう考えても無理があるだろうと思われる論法で、日本と同盟を結んだ。

 

◆◆◆ 関東大震災発生! ◆◆◆


 


関東大震災が起こった翌日、東京から避難しようとする人々でごったがえす、日暮里駅。
 1923(大正12)年の夏は特に暑かった。
例年のように夏だけ軽井沢で働くマンローと共に、妻のアデルやファヴルブラント一家も避暑のために勢揃いしていた。ところが、心臓に持病のあった82歳の義父ジェームズが8月7日に大動脈破裂で倒れ、マンローの手当のかいもなく急逝。横浜に戻り葬儀を済ませた一家が再び軽井沢へ戻ったのは8月25日だった。
そのわずか6日後、9月1日午前11時58分。マンローはいまだかつて経験したことのない天変地異に遭遇する。
関東大震災であった。京浜地方のほとんどが灰燼に化すことになる大震災が襲った時、マンローは昼食のため家族の待つ自宅へ戻ろうとしていた。軽井沢の病院内で激しい上下動を体験したマンローは、何度も続く揺り返しの中で、懸命に横浜の病院に電話をかけるもつながらず、不安はつのるばかりだった。
夜になると東京方面の空は炎のせいか奇妙に明るいようだ。マンローは、ともかく行けるところまで行ってみようと、救護体制を整えて翌朝一番の信越線に乗り込んだ。
東京が近づくにつれ、被災して恐怖の一夜を過ごした人々の疲れた姿が増え始めた。ところがマンローの乗った汽車は日暮里(現東京都荒川区)止まりで、そこから先は不通である。だが横浜まではまだ遠い―。赤十字の炊き出しや地方へ避難する人々でごった返す日暮里駅に下車したマンローは、近くの農家から馬を買い取る。彼は幼い頃から馬に乗り馴れており、交通の便の悪い軽井沢でも、足代わりにしていたほどであった。
マンローは馬の背にまたがると、傷つきよろめきながら避難する群集をよけつつ、あちこちで白煙がたちのぼる中、横浜方面に向けて一路駆け出した。 
(後編に続く)

アイヌと共に生きた男 ニール・ゴードン・マンロー 《後編》 [Neil Gordon Munro]

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2013年6月6日 No.782

取材・執筆/佐々木敦子・本誌編集部

 

アイヌと共に生きた男

ニール・ゴードン・マンロー [後編]


20世紀前半、日本でアイヌ人たちの保護に人生を捧げた
一人のスコットランド人がいた。
彼の名はニール・ゴードン・マンロー。
考古学への興味から来日するが、
アイヌ先住民との不思議な縁が彼のその後の運命を決した。
「アイヌの皆の様に葬ってくれるね」と言い残し
北海道の地に没したマンローの生涯を辿りながら、
彼がこれまで正当に評価されることなく
日本の近代史に埋もれていた理由なども、
マンロー生誕150周年を機に探ってみたい。


 

参考文献:
『わがマンロー伝―ある英人医師・アイヌ研究家の生涯』桑原 千代子著・新宿書房刊、
『N.G.マンローと日本考古学』横浜市歴史博物館編纂ほか


 

【前編のあらすじ】
考古学への憧れが高じて来日。横浜で行った発掘調査で見つけた旧石器時代の人骨がきっかけで、図らずも日本人のルーツ、そして日本の暗部に触れることになったニール・ゴードン・マンロー(Neil Gordon Munro 1863~1942)。スコットランドのダンディー生まれながら日本に帰化したマンローは、関東大震災を始め、満州事変、日中戦争と激動の時代に巻き込まれていく。やがて太平洋戦争が勃発。敵国である英国からやってきたマンローが、当時「土人」とさえ呼ばれていたアイヌの人々や、その文化を守ることができるのか。後編では、マンローの北海道時代を中心に送る。


 

◆◆◆ 大震災で垣間見た地獄 ◆◆◆

 

1923年9月1日午前11時58分。関東一円を激しい揺れが襲った時、マンローは軽井沢にいた。横浜で医師として勤めるかたわら、夏場は外国人客でにぎわう軽井沢のサナトリウムで診療にあたっていたのである。 
関東大震災の翌朝、横浜へ向かおうとしたものの、汽車は日暮里駅どまり。マンローは馬を買い取り、みずから手綱を握って駆けた。ようやく横浜にたどりついた時にはすでに夜半になっていた。港近くの石油タンクが巨砲の炸裂するような爆発音とともに黒煙をあげて燃え上がっていたという。
マンローの病院も新居も、3人目の夫人であるアデルの実家も全て焼失。日本人だけではなく外国人居留地に住む数千人の西洋人も被災し、多数の死者が出た。マンローは新居に残していた研究メモや蔵書をことごとく失うが、多くの論文や発掘物を定期的に英国に送っていたのは不幸中の幸いだったといえる。マンローは焼失した英領事館の敷地内に大急ぎで作ったテント張りの医療施設で、怪我人の手当や防疫に奔走した。
190万人が被災し、10万人以上が死亡あるいは行方不明になったとされるこの関東大震災で、マンローは幸いにも自分の家族の誰をも失わずにすんだ。しかし、英国の領事夫妻は帰国中で難を逃れたが、領事代理は重傷、副領事は圧死という惨状だった。また、多くの避難民が横浜公園に逃れたものの、四方八方から火の手が襲い、人々は防波堤をのり越え海中へ避難したという。その数は数千人とも言われるが、風に乗った熱と煙りは沖へ向かい、救援の船が埠頭に近づくのを妨げた。怪我人の手当にあたるマンローの脳裏を、「地獄」という言葉が一度ならずよぎったのではなかろうか。
横浜の住居を失ったマンローは、これを機会に本格的に軽井沢に居を移すことにし、横浜の病院へは年末限りと辞表を提出する。32年にわたる長い横浜時代はこうして終わった。

 


 

◆◆◆ 『同胞』からの支援 ◆◆◆

 


軽井沢サナトリウムでのスタッフ集合写真。マンローは前列中央(写真:北海道大学提供)
横浜きっての資産家で大貿易商であるアデルの父親、ファヴルブラントからの援助で開設していた「軽井沢サナトリウム」は、主に結核患者の療養所として運営されていた。東京都内や横浜で被災し、家を失ったことにより軽井沢の別荘へ避難した西洋人は少なくなかったとはいえ、避暑地の病院を、1年を通してオープンし続けるのは効率的ではなかった。マンローは日本でいち早くレントゲンを導入した1人で、その他の最新機器導入にも積極的だっただけに、人口も減り、患者は近所の貧しい小作人や木こりたちのみになる(マンローはこうした患者には無料診療するのが常だった)冬季の軽井沢では、大幅な赤字を計上したのである。
しかも、関東大震災の直前に、富裕な義父が他界したこともあり、軽井沢で新生活をスタートさせた一家は瞬くうちに経済難に陥る。そんな中でのマンローの不倫は、妻のアデルを精神的に不安定にさせるには十分だった(『前編』9頁のコラム参照)。彼はサナトリウムの婦長、木村チヨと関係を持ち始めたのである。アデルは「軽井沢の冬は寂しすぎる」という言葉を残して、マンローの元を去る。ウィーンのフロイト博士の元で精神面の治療を受けるというのが名目だったが、実際には、マンローに欧州に送り返されてしまったといったほうが正確だろう。この後マンローとアデルが再び会うことはなかった。
一方でマンローは、患者だった詩人の土井晩翠、避暑客だった思想家の内村鑑三、そして来日講演の際に軽井沢を訪れた科学者のアインシュタインなどと交遊をもった。この頃結核を病んで療養滞在していた、『風立ちぬ』で知られる作家、堀辰雄とも顔見知りだったようだ。彼の『美しい村』に登場する「レエノルズ博士」は、マンローがモデルであると言われている。ただし、あまり良くは書かれておらず、マンローについて否定的な声もあったことを伺わせる。
また、1929(昭和4)年には来日中の社会人類学者で、ロンドン大学のC・G・セリーグマン教授が軽井沢を訪問。教授はマンローが日本亜細亜協会で行った講演に関する著作を読み、そのアイヌ研究を高く評価、研究を続けるよう激励している。ロックフェラー財団による研究助成金に申し込むことも勧め、教授自身が推薦者となった。マンローは、祖国からの来訪者である同教授の応援を得てどんなに嬉しかっただろうか。この教授の後押しこそ、マンローが北海道へ移住する大きなきっかけとなったのである。
セリーグマン教授はマンローに、起源や解釈の偏重から脱して正確な事実の記述を行うよう伝え、一般化を焦らずに小グループのアイヌの行動、言説、考えを優先してまとめるよう助言。これ以降、マンローは「熊送り」(右コラム参照)に代表されるようなアイヌならではの風習の記録に努める。今でいう人類学のフィールドワークというところだろう。

 

数奇な運命を辿った 「熊送り」の映像


マンローと二風谷アイヌの長老、
イソンノアシ氏=写真右。
© electricscotland
◆熊送りは狩猟にまつわる儀礼のひとつで、アイヌ語で「イオマンテ」と呼ばれる。動物(子グマであることが多い)を儀式に従って殺し、その魂が喜んで神々の世界に戻って行き、再び狩りの対象となって、仲間と共に肉体という形で戻ってくるよう、祭壇を設えてクマの頭部を祀り、酒や御馳走を捧げる。

◆マンローは1905年と30年にこの儀式を見学し、映像でくまなく記録した。ジョン・バチェラーが野蛮な風習と呼び、マンローとの考え方の違いを決定的にした問題の映像である。また、当時の警察からは検閲時にズタズタにカットされ、四分の一の短さになってしまったとも言われる。

◆オリジナル・フィルムはマンローの死後行方不明となっていたが、敗戦直後の長崎で米進駐軍用の土産物屋から出てきたのである。店先でこれを偶然発見した人物は、そこに映されている映像を見て、ただのフィルムではないと気付き、言語学者の金田一京助博士の元へ送った。やがて国立歴史民族博物館に安住の地を見いだしたのは1982(昭和57)年のことである。

◆一方、マンローはこのオリジナル映像から16mmプリントを何本か製作しており、そのうちの1本は英国に送られていた。ロンドンの王立人類学協会(Royal Anthropological Institute)に保管されており、『The Ainu Bear Ceremony』のタイトル、監督: N.G Munroとして、現在 27分のDVDで購入も可能になっている。

◆また、イオマンテの儀式は「生きたクマを殺す野蛮な行為」として1955年以来法律で禁じられていたが、2007年に「正当な理由で行われる限り」として禁止通達が撤廃された。マンローが生きていたら、さぞ喜んだことだろう。昔ながらの伝統や風習に対する評価は、その時々の時勢によって変化していくものなのだと、改めて思わずにはいられない。

 

◆◆◆ 「アイヌの聖地」への移住 ◆◆◆

 



1933年、東釧路貝塚で行われた調査の様子。ゴム長靴をはいたマンローの姿が中央に見える(写真:北海道大学提供)。
結婚こそしていないものの、アデルのいない今となっては実質的な妻である木村チヨ婦長を連れ、マンローは1931(昭和6)年、北海道へと移住する。彼はこの時すでに68歳になっていた。広い北海道にあって、日高山脈の麓にある二風谷(ニブタニ)を選んだのは、アイヌへのキリスト教布教に努めるバチェラー宣教師の勧めだったらしい。二風谷は沙流(サル)川に沿ってコタン(アイヌの集落)が点在し比較的人口が密集しており、和人(日本人)の数も少なく、昔から「アイヌの聖地」とも呼ばれていた。
マンローとチヨはこの地に永住する決意をかため、土地も購入、新居の建設に取りかかる。ロックフェラー研究助成金があるとはいえ、もう昔のように余裕のある暮らしをすることはできない。しかも満州事変が勃発し、日本は軍国主義の道を歩み始めていた。前途は多難に見えたが、それでも2人は夢と希望を持って進んだ。


1933年に完成した、二風谷の自宅の玄関前に立つマンローとチヨ夫人。2人のうれしそうな笑顔が印象的(写真:北海道大学提供)。
二風谷のアイヌたちは興味津々でマンローとチヨを迎え入れた。今まで多くの研究者たちがこの地を訪れ、自分たちを「研究」しては去って行ったが、この西洋人は何をする気なのか。
マンローは家が出来上がるまでの間にと、ある商店の倉庫を借り受けた。倉庫といっても藁葺き屋根の小さな木造建てで、それを改造し、診療所、書斎、自宅に分けた。そして時間をかけて、コタンの人々と信頼関係を築いていこうと決める。彼は横浜時代に研究がはかどらなかった時、自分が大学で正規に考古学を履修しなかったことを何度も悔やんだことがあるはずだ。しかし、この北の大地で、考古学者ではなく医者であることのメリットに改めて気づかされたのではないだろうか。
マンローはアイヌの人々に向け無料で診療を開始する。チヨが優秀な看護婦であることは大きな助けだった。バターや小麦粉、牛乳といった、マンローには欠かせないがコタンでは珍しい食材を使って料理をするのも彼女の役割で、チヨが作るビスケットは特にコタンの子供たちの間で大評判だったという。「マンロー・クッキー」と呼ばれたその菓子のために、子供たちは嫌な注射も我慢したと伝えられている。マンローは往診をこなし、農作業のアドバイスまでしていたとされ、「コタンの先生」としてアイヌの人々に受け入れられた様子がうかがえる。
しかし、マンローはここで「飲酒」という大きな障害につきあたる。当時アイヌの人々のあいだで、これは深刻な問題で、マンローは「過度の飲酒はしないように」と何度も住民たちに告げたものの、効き目はあまりなかった。
原因は日本政府による「旧土人法」にあった。同法はアイヌに狩猟と漁業を禁じていたが、元来アイヌは狩猟民族であり、農耕民族ではない。自分の土地を持つという感覚にすら乏しい彼らに、突然、種や苗を与えて、これからは農業一本で暮らすようにと命じた訳だ。それがどんなに乱暴な政策だったかは想像に難くない。家の前の川に鮭が泳いでいるのを見ながら餓死するアイヌ住民が現れた。結核も流行し、農業どころの話ではない。すっかり自信を失ったアイヌの人々が行き着いた逃避先が、アルコールだったのだ。また、アルコール依存症による労働力の低下が、さらに彼らの状況を悪化させるに至っていたのである。

 


 

◆◆◆ 2度目の研究資料喪失 ◆◆◆

 

二風谷に移り住んで間もない1932(昭和7)年12月の深夜、診療所兼自宅として使っていた商店の倉庫の薪ストーブ煙突付近から突然火の手が上がった。気づいたコタンの人々が手に手にバケツを持ち、雪の塊をすくって駆けつけたものの、藁葺き屋根の木造家屋はあっという間に火に包まれる。マンローとチヨは着の身着のまま、ガウン姿の裸足で飛び出し、やっとの思いで難を逃れた。
だが、関東大震災で多くを失った経験のあるマンローは、これまでに蓄積してきたアイヌの研究資料と蔵書を再び失うことに耐えられず、燃え盛る家の中へ戻ろうとする。皆に抱きとめられ、家に戻ることは叶わなかったが、ショックのあまり狭心症の発作を起こし、雪の上に倒れ込んでしまう。その間にも火は木造家屋を焼き、短時間のうちに全ては灰燼に帰した。

マンローの診療鞄と、横浜で仕立てられたスーツ(写真:北海道大学提供)
68歳という年齢ながらも、新たな気持ちで再出発したばかり。研究資料を再び失ってしまうとは―なぜこんな目に遭うのかと、マンローは自分の運を呪う。だが、運命の女神はその後も手加減することなく、彼を翻弄し続けるのである。
確固とした証拠がある訳ではないものの、火事の原因は放火ではないかとマンローとチヨは考えた。堀辰雄の『美しい村』の「レエノルズ博士」に関する記述が批判的であることからも推測できるように、2人は全ての人々から愛されていた訳ではなかったようだ。
特に、アイヌ相手に商売をする和人たちは、マンローがアイヌに飲酒しないよう戒めることを日頃から忌々しく思っていたという。しかも、「アイヌの世話をする西洋人」ということで、常に奇異の目で見られていた。この事件は新聞でも取り上げられたが、そこでは意外なことに、「放火」事件の原因にはジョン・バチェラーとの対立が関係しているのではないかと示唆されている。
考古学者でもある宣教師バチェラーとの対立とは、マンローが1930(昭和5)年から翌年にかけて撮影した「熊送り」の記録フィルムを北海道大学で上映したことに端を発する。バチェラーは「この様に残酷野蛮な行事の記録映画を公開するなどというのは、一民族の恥をさらすようなものである。マンローはなんと心ないやり方をしたものか」と批判した。
これに対し、マンローは「(バチェラーは)長年アイヌコタンを伝道に歩いているはずなのに、アイヌの精神面については全く理解しようとせず、一方的にキリスト教をおしつけ、沢山入信者を増やしたことを自慢するが、それは決してアイヌ民族の『心』を理解したことにはならない。アイヌにはアイヌの信仰する神がある」と烈火のごとく怒ったという。

マンローを北海道へと誘った、ジョン・バチェラー(John Batchelor、1854~1944)=写真中央=だったが、「熊送り」の記録をめぐって、マンローと対立してしまう。
新聞のゴシップ並の推測に従うならば、こうした意見の相違が高じて、バチェラーが、自分が改宗させた信者を扇動し、マンローの集めたアイヌの記録を焼失させた、ということになるだろうか。
しかし、いくら2人が対立していたといえ、アイヌを思う気持ちには変わりがないはずである。貴重なアイヌの記録を台無しにするようなことがあったとは信じ難い。とはいうものの、放火か失火かをも含め、今となっては真相は藪の中である。
さらに、この火事は和人との溝を深めるきっかけともなってしまった。マンローに倉庫を貸していた家主は、同じ敷地内にあった自分の倉庫を類焼で丸ごと失ったことが原因だった。倉庫には酒、味噌、醤油、菓子雑貨類の商品がギッシリ詰まっていて、商店を営む家主としては大損害である。だがこの火事を放火と信じるマンローは、家主に賠償金を払おうとはしなかった。この確執は醜聞となって広がり、「賠償金が払えないから放火だと触れ回って責任を逃れようとしている」と陰口を叩かれた。そして、腹の虫が収まらなかった家主のせいで、後年マンローたちは大変な苦労を強いられることになるのである。

 

脈々と受け継がれる、研究への思い
今回の前・後編の掲載にあたり、次の関係機関には多大なるご協力をいただいた。この場をお借りして厚く御礼申し上げます。また、マンローの思いがこうして受け継がれているのだと感じずにはいられなかった。

北海道大学 アイヌ・先住民研究センター www.cais.hokudai.ac.jp
◆2007年に北海道大学の共同教育研究施設として誕生。多文化が共存する社会において、とくにアイヌ・先住民に関する総合的・学際的研究に基づき、それらの互恵的共生に向けた提言を行うとともに、多様な文化の発展と地域社会の振興に寄与していくことを目的として設置された。

◆北海道大学アイヌ・先住民研究センターを中心とした研究グループによる「北方圏における人類生態史総合研究拠点」が、平成25年度日本学術振興会研究拠点形成事業「先端拠点形成型」に採択されたという。 国内の連携研究機関である東京大学総合研究博物館と琉球大学医学研究科と協力しつつ、海外の事業拠点機関であるアバディーン大学考古学部(連合王国)とアルバータ大学人類学部(カナダ)および連携機関であるオックスフォード大学東アジア考古学・芸術・文化センターと交流を重ねながら、北方圏における人類と環境との相関関係の歴史を解明するための領域横断型の研究拠点と若手研究者の育成を目指す。

沙流川歴史館 www.town.biratori.hokkaido.jp/biratori/nibutani/html/saru0N.htm
◆北海道沙流郡平取町字二風谷に設立された施設。北海道に人が住み始めたのは紀元前2万年ころの旧石器時代という。沙流川(さるがわ)流域でも、集落が形成されていた。沙流川歴史館では、そうした歴史を学ぶことができるよう、町内で出土した約一万年前からの考古資料を公開しているほか、平取町の母なる川、沙流川の今と昔に関する展示などを行っている。なお、同地域内には、平取町二風谷アイヌ文化博物館などもある。

 

◆◆◆ 「コタンの先生」が得たつかの間の幸せ ◆◆◆

 


1938年、フランスの考古学・人類学者、ルロワ・ガーデン=写真左端=を二風谷に迎えた、マンロー夫妻(写真:北海道大学提供)
マンローの災難を知った多くの人々から見舞金や品物が彼の元に送られた。日本亜細亜協会、軽井沢避暑団、外人宣教師団や英国人類学会が手を差しのべてくれたほか、セリーグマン教授はロックフェラー財団から再度研究費がおりるように取り計らってくれたという。このことは、失意の中にあったマンローとチヨを大きく勇気づけたに違いない。
ほどなく、建設中だった診療所兼自宅も出来上がった。外から見ると2階建て、中は3階建てという立派なもので、書斎は火には絶対強い石造り。出窓が多くどことなくスコットランドを彷彿とさせるデザインには、マンローの好みが反映されているという。のちに北海道大学付属北方文化研究所分室となる建物の完成である。
無料で診療を受けられて薬ももらえ、子供には手作りのおいしいお菓子やパンまで配られるとあって、子供たちの手にひかれるようにしてコタンの大人たちも診療所を訪れ始めた。やがて治療を受けにくるだけではなく、仕事が暇になると他愛のないおしゃべりに集まるようになり、二風谷のマンロー邸は、コタンの人々のサロンとでも呼べる場所となった。
男たちは熊や鹿を射止めた際の昔の手柄話に花を咲かせ、時にはヤイシヤマ(情歌)を歌って聞かせたり、マンローやチヨも巻き込んで一緒にウポポ(伝統的なダンス)を踊ったりした。
また、2人はアイヌの伝統的な結婚式や葬式にも招待され、その貴重な風習を自ら体験する機会を得た。長老たちの信頼も得たマンローは、彼らの先祖伝来の様々なしきたりや儀式、病気にかかった時の「まじない」、薬草の使い方、狩りのための毒矢の扱い、鮭漁の方法など、様々なことを教えてもらい、それら全てを丹念にノートに書き写した。第二次世界大戦終結後、マンローの遺稿集として出版された『Ainu Creed and Cult』は、こうした聞き書きが編集されたものだが、本にまとめられたのはマンローの書き残したものの十何分の一に過ぎず、日の目をみないままの重要記録がいまだに眠っているという。
このように自分を信頼してくれる優しいコタンの人々が、なぜ貧しく気の毒な暮らしに追いやられ、和人たちから蔑まれなければいけないのか、マンローは憤った。人々が自らの歴史と誇りに目覚め、結核をはじめとする様々な病気を追い出し、健康で元気に働けるコタンを築くにはどうしたらいいのか。マンローはあれこれ考えをめぐらせる。稲作が難しいなら果樹栽培はどうか。リンゴ、梨、イチゴ、葡萄の苗を軽井沢や新潟から取り寄せ、実際に自分たちの庭で何年も試した。土壌や肥料の研究まで手がけたという。
そればかりか、将来は乳牛や羊の飼育をコタンに広げたらどうかともマンローは考えた。ワイン造りや、牧畜による酪農経営。もしも野菜や酪農が根付いたら、今度は沙流川の水を引き入れて一大スケートリンクを作り都会人を誘致してもいい。新鮮な食材を供給する大きなサナトリウムを作るのもいいかもしれない――。マンローの夢は広がった。

 

今も北海道の四季をみつめる 旧マンロー邸


1940年頃のマンロー邸。同邸の前に立つ、マンローの姿が認められる(写真:北海道大学提供)。右上の写真は、現在のマンロー邸(写真:沙流川歴史館提供)
◆1933年に完成した、木造3階建のマンロー邸。現在は北海道大学所有で「北海道大学文学部二風谷研究室」と呼ばれている。登録有形文化財(建造物)。

◆「マンサード」というスタイルの屋根、妻面屋根裏部の出窓などが特徴の洋館で、白い外観がまわりの景観に映える。

◆住所は、北海道沙流郡平取町字二風谷54-1。


 

 


 

◆◆◆ ワタシハ、ニホンジンダ! ◆◆◆

 

不安定な精神状態に陥り、その治療のためにウィーンへと旅立った妻のアデルからは、年に数回便りがあった。だがマンローはどうにかして正式に離婚出来ないか、そればかり考えていたようだ。老齢を迎えた彼は、自分の死後、チヨに財産が残せるようにと心配したのだった。なんとか協議離婚という体裁を整えたマンローが、晴れて木村チヨと結婚したのは1937(昭和12)年6月30日のことだった。マンローは74歳。チヨとの生活もすでに13年が経過していた。

マンローが愛用した籐椅子と机
(写真:北海道大学提供)
チヨに残せる財産と言えば、助成金の半分を使って建てた診療所兼自宅、蔵書、自著からの印税などであろうが、一方で、ロックフェラーの研究助成金は、この結婚がなった1937年で終了することになっており、マンローはじりじりと生活経済の不安を感じるようになっていた。
マンローは、大事な自宅を売り払って札幌に引越し、借家住まいをしながら、コタンの人々からの聞き書きをまとめて出版することも選択肢に含めていた。考えが錯綜しているようにも思えるが、今までの研究成果を全部発表するには、5冊の著作を著すことになる計算だった。マンローにそれ程多くの時間が残されているだろうか。しかも金銭の余裕もない。マンローは焦っていた。


4度結婚したマンローには3人の子供があった(最初の子は幼少時に逝去)。マンローは、2番目の妻、高畠トクとの間に生まれたアヤメ(アイリス)=写真= を、ことのほかかわいがったが、1933年、アヤメは留学先のフランス・リヨンにて、28歳の若さで病死した(写真:北海道大学提供)。
ちょうどその頃、奇妙な噂が相次いで流れ始めた。マンローが「無資格で診療している」「アイヌを使って北海道の地図を作成している英国のスパイらしい」というような根も葉もない悪意あるものだった。
「無資格」に関しては、無料診療を行うマンローのもとに患者が流れてしまうことを恐れる近隣の和人の医者が流したもので、「英国のスパイ」に関する度重なる様々なデマは、火事で仲のこじれた、かつての家主によるものだった。
当時の日本は国家総動員法が発令されたばかり。これは国を挙げて国民の一人一人を戦争に駆り立てるための様々な規制を含んだ法律で、物資欠乏に備えることに加え、言論や思想に関する規制が日本中を包み始めた。「贅沢は敵だ」「外人見たらスパイと思え」といった標語も大々的に宣伝され、防諜の名のもとに密告制度がはやり始めた。
北海道とて例外ではなく、マンローの外国への定期郵便物も検閲を受けており、検閲どころか没収されたものもあったようだ。この状況は、マンローを打ちのめした。実際どこへ行くにも監視付きで、秘かに尾行されていたという。しかも二風谷のコタンでこそ尊敬を集めていたものの、一歩その外へでれば「ガイジン、スパイ」とはやし立てられ、石を投げられることもあった。ある時、軽井沢からの帰りに、マンローとチヨは憲兵に列車から引きずり下ろされ、殴る蹴るの暴行を受ける。マンローは下手な日本語を使うことを嫌い、普段英語で通して暮らしていたが、この時「ワタシハ、ニホンジンダ! とっくの昔に帰化して日本人! 国籍日本人!」と日本語で叫んだという。チヨが、「マンローは秩父宮さまのテニスのお相手をおつとめ申しあげたこともある、軽井沢の病院長です」と訴え、これを憲兵が東京へ連絡。事実が確かめられたことで、ようやく2人は釈放されたという。
当時このような目にあっていた外国人はマンローだけではなかった。幕末に来日、貿易商として活躍した長崎のグラバー氏の長男、富三郎氏は、官憲の圧迫などに堪えかねて自殺している。また、函館にある食料品店「カール・レイモン」に商品注文のため連絡したマンローは、店主がユダヤ系のために迫害され、他社に強制買収されたことを知る。1938(昭和13)年6月に日独伊防共協定が締結されて以来、遠い東洋の地にもヒトラーのユダヤ排斥政策の波がおしよせてきていたのである。

 


 

◆◆◆ コタンの人々に見守られて ◆◆◆

 



二風谷の自邸内で、書棚の前に立つマンロー(写真:北海道大学提供)
大柄で丈夫そうに見えていたものの、さすがにマンローの体にも衰えが目立ち始めていた。
コタンでの無料診療を続けるために、マンロー夫妻は毎年3ヵ月間だけ軽井沢を訪れ、裕福な患者の治療を続けることで1年分の生活費を稼いでいた。日中戦争が始まり、戦時態勢に入っていた日本で、列車で移動するだけでも大変だったことだろう。
1940(昭和15)年の夏は特に多忙で、友人に向けた手紙には「月50枚以上のレントゲン撮影、診療時間外の往診、今日も寝る前には虫垂炎の破裂で上海から担ぎ込まれた3歳の子の手当。78歳の男には限界です」とある。
翌年になると血尿が認められるようになり、マンローは腰の部分のしこりにも気が付いた。医師だけに、マンローはそれが何であるかすぐ分かったようだ。5月半ばに札幌にある北大の医学部で診察を受けると、果たして予想通り腎臓と前立腺の癌で、手術適期はすでに過ぎていた。
この検査結果が出た翌朝、マンローは市内に住む日本人の友に連絡をとった。その友人はマンローに「クロビール、ノミタイネ」と誘われたという。もう普通の店から黒ビールが姿を消して久しかったが、2人は遠くまで車を走らせ何とかビールの杯を傾けることができた。マンローはこの時自分の半生を振り返り、「研究に熱中するあまり妻子に冷たすぎた」と涙ぐんだという。

二風谷に眠る、マンロー夫妻の墓=右写真は改装前。下の写真は現在の墓碑
(写真:沙流川歴史館提供)
この頃、かつてマンローの論争相手だった宣教師バチェラーは同じく札幌で、帰国に向けての準備を急いでいた。彼は11月に65年間暮らした日本を離れ、カナダ経由で英国へ帰国する。12月8日の太平洋戦争開戦を前に、まさに間一髪のタイミングであった。
多くの日本在住欧米人がこの時期に先を争って祖国へ戻り、軽井沢の住民も櫛の歯が欠けるように減ってきた。マンローも英国へ戻るようアドバイスを受けたが、日本に帰化したうえ末期ガンも抱えているマンローにそれはできない相談だった。また、そのつもりもなかった。マンローは自分の体が動かなくなる最後の時まで、アイヌの人々の世話をすると決意していたのである。
マンローはチヨに向かって言った。 「私が死んだら、アイヌの皆と同じように葬って欲しい。泣くんじゃないよ、皆、土に帰るだけのこと。アイヌに文字はなかった。土饅頭に名前はいらないよ」
解け切らない雪が残る1942(昭和17)年4月11日、二風谷の自宅でマンローは息をひきとった。享年78。カムイ(神)に祈る大勢のコタンの人々と、チヨに見守られての穏やかな最期だったという。
もしマンローが10年早く来日していたら、明治政府のお雇い外国人として、優遇されていたかもしれず、逆に10年遅く来日していたら、戦後にアイヌ研究を華々しく発表できたかもしれない。「もしも」と言っても仕方のないことだが、彼の集めた大事なコレクションや映像、原稿が戦中戦後の混乱の中、散り散りになってしまったことを知るにつけ、マンローに与えられた運命の厳しさに胸を痛めずにはいられない。幸い、分散し、行方の分からなくなっていたマンローのコレクションは、近年になって少しずつコタンの地に戻されつつあるといい、それに従い、彼の業績にも改めて光が当たり始めた。マンローが、激動の時代に身体を張ってアイヌの人々を助け、多くの記録を残したことは、これからも確かに語り継がれねばならないであろう。

救世主か、破壊者か―。鉄の女 マーガレット・サッチャー《前編》 [Margaret Thatcher]

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2013年8月29日

●Great Britons ●取材・執筆/本誌編集部

 

救世主か、破壊者か―。
鉄の女 マーガレット・サッチャー
《前編》


大学卒業後の1950年頃、化学関連の会社で研 究員として働いていたマーガレット。© AP Photo

『鉄の女』と呼ばれた英元首相マーガレット・サッチャーが、今年の4月この世を去った。
テレビや新聞の追悼特集に触れ、政治家としてのその偉大さを改めて知らされた人も多いだろう。
一方で、彼女を忌み嫌う人々の姿に言葉を失った人もいるのではないだろうか。
英国初の女性首相として、沈没寸前だった英国を確固たる信念で救った彼女の生涯を、
今回と次回の2週に分けてたどることにしたい。

 

【参考文献】『サッチャー 私の半生 上・下』マーガレット・サッチャー著、石塚雅彦訳、日本経済新聞社刊/『サッチャリズム 世直しの経済学』三橋規宏著、 中央公論社刊/ 『Margaret Thatcher 1925-2013』The Daily Telegraph/『The Downing Street Years』Margaret Thatcher 他

 

英国の世論を分断

 

 2013年4月8日、ロンドン中心部のザ・リッツ。英国の数ある高級ホテルの中でも豪奢なことで知られるホテルだ。時計は午前11時を打っていた。第71代英国首相マーガレット・サッチャー(Margaret Thatcher)は、お気に入りのスイート・ルームで、ベッドにゆったりと腰を掛けていた。
1979年から1990年までの間、英国首相を務め、2002年より政治の表舞台から姿を消していたマーガレットは、度重なる脳卒中と認知症とに悩まされてきた。昨年末には膀胱にできた腫瘍を摘出する手術を受け、比較的簡単な手術は無事に成功したが、術後は自宅ではなく同ホテルに滞在していた。病身の彼女にとって、ロンドン・ベルグレイヴィアにある4階建ての家よりも、このスイート・ルームで暮らす方が好都合だったからだ。
10年前に夫デニス・サッチャー(Denis Thatcher)に先立たれ、双子の子供は海外に居住していたことから家族は近くにおらず、2人の介護者が交代で、24時間体制で付き添って過ごしていた。
健康状態が安定しないため訪問者は制限されていたが、首相就任10年の記念に贈られた銀食器や、彼女が11年半を過ごした首相官邸で撮影された写真が誇らしく飾られていたこの部屋には、友人らが訪れ、政治談議に花を咲かせた。時には得意の辛辣な冗談で訪問者を笑わせることもあった。過去の記憶があいまいではあったが、それでも彼女の目は未来に向けられていた。「私の父はよく口にしたわ。大切なのは過去に何を行ったかではなく、これから何を行うかということ」。
この日もいつものように静かに座り、読書にふけっていた。幼い頃から書物に触れては、そこに広がる未知なる領域に時が経つのを忘れて没頭し、多くを学んできた。文字を追いながら、様々に思いを巡らせていたに違いない。
ところが午前11時半をまわろうとしていたとき、マーガレットは脳卒中に見舞われ、不意に思考はさえぎられた。
「ミセス・サッチャー、ミセス・サッチャー」
「早く、お医者様を!!」
異変に気づいた友人らによってすぐに医師が呼ばれたものの、今回の発作は一瞬にして彼女を連れ去って行った。
英国を率いた元首相の訃報はその日のうちに各メディアによって伝えられた。デイヴィッド・キャメロン首相は、訪問先のスペイン・マドリッドから急遽帰国。「国を救った偉大な指導者」と讃え、その死を悼んだ。翌日には、17日にセント・ポール大聖堂で国葬級の葬儀を執り行うことが発表された。
葬儀には、エリザベス女王をはじめ、各国の政治家などおよそ2000人が参列。パレードが行われた通りには、沈痛な面持ちの市民が幾重にも重なるように列をなし、瀕死の状態にあった英国を救おうと闘い抜いたひとりの女性政治家への最後の別れを行った。
他方、英国各所では一部の市民らが高揚していた。「弱者を切り捨てた魔女が死んだ!」というシュプレヒコールをあげ、口が張り裂けた魔女を模した似顔絵が描かれたプラカードを掲げる老若男女、まるで凶悪犯の死を喜ぶかのように祝杯をあげる人々。
死を祝う歌として、映画『オズの魔法使い』の挿入歌『鐘を鳴らせ! 悪い魔女は死んだ(Ding Dong! The witch is dead)』が英国の音楽配信チャートで上位に踊りだした。税金を使って葬儀を挙げることに抗議の声が続出し、国民1人当たりの負担額はいくらになるかといった内容の記事が、新聞を賑わした。
「サッチャーは英国の救世主か、それとも破壊者か」
死してなおも世論を大きく分断するマーガレットが英国に何をもたらし、何を奪ったのか。そして彼女の心に残ったものとは。闘いの連続だったその生涯を振り返ってみたい。

 


 

小さな町の食料雑貨店の娘

 

 部屋に差し込む木漏れ日がやさしく揺れていた。下の階からは絶え間なく話し声が聞こえてくる。「今日はイチゴがおいしそうね。ひと山もらっていこうかしら。それから卵もお願い」。
この店の店主を務めるアルフレッド・ロバーツ(Alfred Roberts)の子供時代の夢は、教師になることだった。ところが家族には、彼に学業を続けさせるだけの経済的なゆとりがなく、13歳で学校を中退。家計を支えるためにパブリック・スクールの菓子売店で働くことになった。残念なことだったがそれは嘆いても仕方のないこと。夢をあきらめ、食品業界内で何度か転職した後、婦人服の仕立ての仕事に就いていたビアトリス・スティーブンソン(Beatrice Stephenson)と出会い、25歳で結婚。ふたりは借金をして、ロンドンから北へ160キロほど離れたイングランド東部リンカンシャーの田舎町グランサムに、小さな食料雑貨店を開いた。
マーガレット・ロバーツ(のちのマーガレット・サッチャー)は、この一家の次女として生まれた。今から88年前の1925年10月13日のことである。家族は交通量の多い十字路に面したこの店の2階に居を構えていた。家族や従業員がせわしく動き回る音、棚の埃をはたくリズム、買い物に訪れた人々のおしゃべりなど、物静かな赤ん坊だったマーガレットの耳に心地よく響いていたに違いない。
2年前に一家は2号店をオープンさせており、両親はいつも忙しく立ち働いていた。物心がつくころにはマーガレットも店に出て、商品を並べる手伝いをするようになる。真面目で仕事熱心な父の店が平凡な店ではないことは、幼いなりにもよくわかった。ピカピカに磨かれた陳列棚。果物やスパイスのフレッシュな香り。店は、最高の商品を提供しようとする父のこだわりと、丁寧なサービスで満たされていた。
地元の人々は、一家が店の2階に住んでいることを知っており、営業時間外でも、食材を切らした人がドアをノックすることもたびたびあった。一家の生活は常に商売とともにあったが、かといって、マーガレットが家族の仕事のために犠牲を強いられたかというと、そうではない。一家のために働くことは当然のことであったし、それについて家族の誰も愚痴をこぼさなかった。

 



「グランサム(Grantham)にあるマーガレットの生家=写真右。1階に父が経営する食料雑貨店、2階には住居があった。
外壁には生家であることを示すプレートが掲げられている=同上。© Thorvaldsson

 

大切なことは父から教わった

 

 両親ともに宗教心が強かった一家の生活は、キリスト教の教派のひとつ、メソジスト主義に従って営まれた。メソジスト(Methodist)とは、時間や規律を守って規則正しい生活方法(メソッドMethod)を重んじる教派だ。
日曜は朝から姉ミュリエルとともに日曜学校に参加し、その後、午前11時に一家そろって礼拝へ。午後になると子供たちはまた日曜学校に戻り、両親は日曜夕拝にも参加していた。
両親が実践する真面目な規則や、日曜日に家族で教会へ行かなければならない生活は、育ち盛りの普通の子供には退屈で、抵抗しようと試みたこともある。
あるとき、友達がダンスを始めたのをきっかけに、自分もダンスを習いたいと、父に話したマーガレット。すると父はこう答えた。
「友達がダンスをしているからお前も習うというのかい? よく聞きなさい。誰かがやっているからという理由で、自分も同じことをするのは間違っている。自分の意思で決めることが大切だよ」
友達と一緒にどこかへ出かけたいとき、映画を見に行きたいとき、父は教訓のように「他の人がやるからというだけの理由で、何かをやってはいけない」と口にした。それが本当に大切なことだと気づくまでにしばらく時間がかかったが、マーガレットの中には、厳格な父の教えがひとつひとつ植えつけられていった。

 

他の人がやるから
というだけの理由で、
何かをやってはいけない

 

政治への扉

 

 真面目で働き者、地元の人から厚い信頼を寄せられていた父は、町一番の読書家としても知られていた。子供の頃に進学することは叶わなかったが、歴史、政治さらに経済などの本を読み、独学で知識や考え方を身につけていた。一家が自営業であったおかげで、父と多くの時間を共有できたこともあり、勤勉な姿勢はマーガレットに受け継がれていく。図書館へ行き、自分と父が読む本を抱えきれないほどに借りてくることもしばしばあった。
10代前半には毎日のように「デイリー・テレグラフ」紙を読み、ときには「タイムズ」紙にも目を通した。1930年代に英国を襲った大恐慌は、グランサムの町には比較的軽い影響を与えただけで済んだものの、マーガレットに社会で起こっている出来事に関心を抱かせるのには十分すぎることであった。
第二次世界大戦が始まった1939年には14歳。戦争の背景も理解できるようになっていた。一家で囲む食卓は、戦争や政治について、父に質問を投げかける絶好の場所。父と重ねる議論に際限はなく、またどんな質問にも回答を導き出そうとしてくれる父との濃厚な時間が、マーガレットの心を政治の世界へと向かわせるのはそう難しいことではなかった。
また同じ頃、父が買ってきたラジオから流れてくる、当時の首相ウィンストン・チャーチルの演説に触れたことも印象深い思い出だ。聴き入るうちに、「英国国民にできないことはほとんどないのだ」という母国への誇りが心の中に生まれたのをよく覚えている。とはいっても、まさか自分がチャーチルと同じように国を率いる立場になろうとは夢にも思っておらず、政治家としての将来を意識するのはもう少し先の話である。

 


第二次世界大戦の英雄と言われる当時の首相ウィンストン・チャーチル。
マーガレットは、「国をなんとしても守り抜く」というゆるぎないリーダーシップに触れ、
母国への誇りを抱いていった。

 


 

本当にやりたいこと

 

 1943年10月、18歳を迎えようとしていた頃、オックスフォード大学のサマビル・カレッジに入学した。専攻したのは化学。この分野の資格を取ることで、将来、安定した生活が保証されると考えたからだ。
しかし入学後すぐ、学業の傍ら大学の保守党協会に入会したことにより、マーガレットは鉄が磁石に引き寄せられるかのように政治の世界へ引き込まれていく。
協会活動を通して、同じように政治に関心を抱く人々との出会いが始まった。ダイナミックに広がる交友関係は、小さな町で育った若者には刺激的で、すべてが輝いていた。雄弁術を学んでは仲間と昨今の政治問題について意見交換し、議論を重ねる。ときには選挙集会などの前座として演説を行った。聴衆からの批判的な質問に対し、その場で自分の中から答えを手繰り寄せ、意見を述べていく。そうしたやり取りの躍動感を味わうことは貴重な経験だった。
その頃、地元グランサムで尊敬する父に起きていた変化は、マーガレットにとっては運命としか言いようがない。「人々がより働きやすい世の中にしたい」という信念を胸に市会議員として政治に携わっていた父が、グランサム市長に選ばれたのだ。幼い頃に学業の道を閉ざされ、努力と勤勉の末にその座に就いた父と連れ立って、地方議会や裁判所などを訪れるうちに、政治への関心は異常なほどの高まりを見せる。学生生活最後の年には保守党協会の代表を務めるまでになっていた。
そして政治家としての人生を明確に意識させた瞬間がついに訪れた。
大学卒業を目前に控えたある日のことだ。ダンス・パーティーに訪れたマーガレット。終了後、泊まっていた家のキッチンで宿泊客らが集まって話をしているのを見て、自分もその輪に加わり、政治の話を始めた。
国のあり方や政策について、堂々とあふれんばかりの情熱で語るマーガレットの様子を目の当たりにした男の子がこう質問した。
「君が本当に望んでいるのは、国会議員になることだろう。そうじゃないのかい?」
するとマーガレットは無意識のうちに「そうよ、それが私の本当にやりたいことなの」と答えていたのだ。
これまで彼女自身が政治家になることを意識しなかったのは意外なことかもしれない。しかしこのとき、胸のうちに秘められ、ぼんやりとくすぶっていた野心を、手に取るようにはっきりと、そして初めて意識したのだった。

 

国会議員の候補者に

 

 1947年に化学の学位を修め、大学を卒業すると、イングランド東部エセックスにある化学関連の会社に就職。一方で政治家への道を模索するという日々が始まった。女性政治家の存在は珍しく、かつ取り立てて有力なコネクションがあるわけでもないマーガレットにとって、政治家になるという目標は、はるか遠い夢のように思われることもあった。そんなときは、いつも独学で市長になった父の姿を思い浮かべた。
2年が経とうとしていた頃、選挙への出馬の足がかりを手探りで求めていたマーガレットのもとに幸運が訪れる。大学時代からの友人の紹介で、イングランド南東部ケントのダートフォード選挙区から出馬できるチャンスを手にし、候補者に決定したのだ。24歳だったマーガレットは、最年少の女性立候補者ということで、国内外で大きな話題を呼んだ。1950年と51年の2度、同地区で選挙を戦ったが、結果はどちらも落選。しかし選挙期間中、運命の出会いが訪れた。

 


1950年と51年にダートフォード選挙区より出馬。選挙活動を行うマーガレット。
初の選挙活動は想像以上に彼女を疲労困憊させるものだった。© PA

 

人生最高の決断

 

 1949年2月、選挙集会後に開催された晩餐会でのこと。保守党支部の有力者に囲まれ、政治家の卵としてまだまだ未熟なマーガレットに熱い視線を送る人物がいた。10歳年上のビジネスマン、デニス・サッチャーだ。
デニスは政治に強い関心があったばかりか、家業は塗装・化学関連の会社。化学を専攻していたマーガレットとの共通の話題は豊富だった。ロマンチックなトピックとは言えないが、選挙区の集まりでときどき顔を合わせ、意見をかわすうちに、ふたりだけで会う機会も増えた。ソーホーにある小さなイタリアン・レストランや、ジャーミン・ストリートの「L'Ecu de France」など、お気に入りのレストランに出かけ、デートを重ねていく中で、デニスの知的さ、気さくでユーモアにあふれた性格は、マーガレットの心を徐々に捉えていく。そして、デニスがプロポーズをするに至ったことは、自然の流れだった。
「僕の妻になってくれないだろうか」
ところが、マーガレットの関心事は、一にも二にも政治。彼女の人生設計の中で、結婚というものはあまりピンとくるものではない。
「私は政治家になりたい。だから普通の奥さんのようになれない…」
「もちろんわかっているよ。そんな君だからこそ一緒にいたいんだ」
全力で選挙活動をサポートしてくれた彼の、自分を想うまっすぐな気持ち。答えを出すのに長い時間を必要とした。しかし考えれば考えるほどに答えはひとつしかないことが明確になっていく。マーガレット・ロバーツは、マーガレット・サッチャーとしてデニスとともに新たな人生を歩むことを決意。これは、彼女が人生において下した数々の決断のなかでも、最高のものとなる。
ふたりの間には子供が誕生した。しかも男女の双子。母親としての仕事で多忙を極めるが、父親譲りで向上心の強いマーガレットの学習意欲はとどまることを知らなかった。家事・育児の空いた時間を利用して、政治家として必要な素養のひとつ、『法律』の勉強に励むことを決めた。そして法廷弁護士(バリスター)資格を見事取得してのけたのだった。この時期に身につけた法的な物事の考え方、知識が、政治家としての大きな財産となったことは言うまでもない。

 


1951年12月にロンドン西部にあるウェスリーズ・チャペルで結婚式を挙げた。
マーガレット26歳、デニス36歳。© PA

 


政治への断ちがたい思い

 

 マーガレットが出産、育児、弁護士資格取得に励んだ1950年代は女性の地位に変化が訪れた時期だった。1952年には、エリザベス2世が即位し、新女王時代の幕開けとともに女性の活躍に広く関心が寄せられるようになっていく。マーガレットは選挙で破れはしていたものの、新聞に取り上げられることもあった。
政治の世界に戻りたいというマーガレットの気持ちは日に日に高まり、再び出馬を目指し、選挙区を探して奔走するのだった。
「2人の子供を抱えながら議員としての職務を果たせるのか?」
立候補者選考委員からの懐疑的な目が、マーガレットに降り注いだ。彼女自身もそういった質問は、候補者に向けられるべきふさわしいものだと理解していた。ただ、一部の批判のかげには、女性は政界に足を踏み入れるべきではないといった女性軽視の考え方があったことは、マーガレットを落胆させた。
しかし差別的な考えはくじけるに値しない。マーガレットには「私には政治に寄与できる何かがある」という自負があった。行うべきは、子を持つ母でも政治家としての職務をまっとうするのがいかに可能であるかを主張し、説得を重ねること。マーガレットには最強の味方がすぐ側にいたことも幸いした。夫デニスも妻の可能性を確信していたのだ。
こうして1959年、ロンドン北部のフィンチリー選挙区から出馬。3度目にして初の当選を果たし、ようやく政治家としての一歩を踏み出す。34歳のときのことだ。

 

政治家は誰でも
苦しい経験を
覚悟しなければならない。
それでつぶれてしまう
政治家もいるが、
かえって強くなる者もいる

 

ミルク泥棒

 

 昨年公開された映画『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』をご覧になられた方も多いだろう。メリル・ストリープ扮するマーガレット・サッチャーが牛乳を買いに行くシーンでストーリーは始まる。老いた彼女が、牛乳の価格が上がったことに不満を漏らすのだ。それは、マーガレットが地に足のついた主婦としての経済観念を胸に政策に取り組んだことを象徴しているが、一方で彼女の行った政策に対する皮肉のようでもある。
それは、のちに「サッチャーはミルク・スナッチャー(snatcher=泥棒)」と語呂のいい文句で揶揄される原因となった政策である。
1970年6月に行われた選挙で、保守党が労働党から政権を奪うと、エドワード・ヒース内閣のもと、マーガレットは教育相に任命されていた。議員生活11年目の大抜擢だ。教育費の削減を期待される一方で、現場からは教育の充実、強化を求められていた。
財務省が示した教育分野の経費削減案は、図書館利用、給食、牛乳配布の有料化など。幼い頃から図書館を訪れては本に親しみ、多くを学んできた自身の経験から、本を無料で貸し出すのは教育面できわめて重要なこと。図書館の有料化はどうにかして避けたい事項だった。
かたや、戦後に開始された児童への牛乳無料配布については検討の余地があるように感じられた。「個人が節約し、努力すれば、無駄は減らせる」。これは幼いときから受けてきた父の教えであり、今となってはマーガレットの信念でもある。かといって、すべてやめてしまっては、反発も多いだろうと考えた彼女は、無料配布を6歳以下に限定し、給食費を値上げする案を打ち出す。もちろん、健康上の理由から牛乳を必要としている児童であれば、7歳以上でも無料で受け取ることができるという条件も設けていた。
しかしマーガレットが国民に求めた『個人の節約』という理想が人々に受け入れられるのは、想像以上に困難だったようだ。「ミルク・スナッチャー」さらには「児童虐待」と非難を浴びることとなる。自らが愛するふたりの子供を育てる母親としての顔を持つ一方で、世間が描きだしたイメージは「子供たちの健康をないがしろにする非情な女性」。そんな心ない言葉に傷つかぬ母親がどこにいるだろか。マーガレットは深い悲しみにくれた。
教育相に就任してからの半年は、厳しい期間だった。自らが描く理想の社会と、やるべきことは断固やりぬくという彼女自身のスタイルを持っていたものの、日ごとに増すマスコミからの批判と、野党労働党からの執拗な攻撃に、マーガレットは憔悴していた。
弱った妻の様子に「そんなにつらいなら、辞めてもいいんだよ」とやさしく声をかけるデニス。夫の存在を支えに、「私にはまだ多くのやらなければならないことがある」と自分を奮い立たせたのだった。
「政治家は誰でも苦しい経験を覚悟しなければならない。それでつぶれてしまう政治家もいるが、かえって強くなる者もいる」。そう自分に言い聞かせ、信念をより強固なものにし、毅然とした態度で挑んでいった。そしてその言葉通り、攻撃や障害に遭うたびに、政治家としてひと回り、またひと回りとたくましく成長するのだった。

 


1959年に初当選を果たしたころのマーガレット。
1953年8月に生まれていた双子のマーク(右)、キャロル(左)は当時6歳。© PA

 


 

保守党のニューリーダー『鉄の女』誕生

 

 1973年10月に勃発した第四次中東戦争は、教育相だったマーガレットを思わぬ方向へと導いていく。
アラブ産油国による石油輸出の制限、価格の引き上げにより、世界中が石油危機に陥っていた。英国も例には漏れていない。物価が激しく上昇し、賃上げを求めたストライキが頻発する中で、保守党ヒース政権は力を失い、ついには労働党に政権を奪われる結果となった。当然、党首エドワード・ヒースのリーダーシップに対する不信感が党内に強まっていった。
そこで一部の議員の間で白羽の矢が立ったのが、まもなく議員生活15年を迎えようとしていたある女性だった。教育相という立場で自らの信念を貫く姿が党内で注目を集めていたマーガレットその人である。
とはいえマーガレットには戸惑いがあった。外相や内相などの重要ポストに就いたことのない自分にはまだ経験が足りないと認識していたからだ。最終的に出馬を決めて、デニスに伝えたときも、彼は「正気とは思えない。勝てる望みはないんだよ」と言ったほどである。保守党は野党に下ってはいたものの、2大政党のひとつであり、党首はいずれ首相になる可能性もある。容易でないのは百も承知だ。しかしそれでもなお、マーガレットの心を突き動かし、党首選挑戦の考えを固めさせたのは、保守党の将来はおろか、国の将来をヒースにはゆだねられないという、妥協できない救国の意志だった。
マーガレットの党首選への出馬宣言は、男社会である政界で、一部の人からは「まさかあの女が」と嘲笑を買った。マーガレットは「皆さん、そろそろ私のことをまじめに考え始めてもいいのではないですか」と皮肉を込めていったこともある。これがどのくらい効き目があったのかは不明だが、頑として自分の信念を貫くマーガレットの出馬は、次第に現実味を帯びていき、真剣に受け止められるようになっていった。
1975年2月、ヒース優勢が伝えられる中の投票日。予想を覆し、マーガレットがヒースを上回る票を獲得。しかし、その差は必要数に届かず、2度目の投票が行われることになった。ヒースは出馬を断念。新たに4人が名乗りをあげたが、圧倒的な差をつけて選ばれたのは、マーガレット・サッチャーだった。こうして党の運命が託されたのである。
マーガレットは西側の資本主義陣営と敵対していた旧ソ連との交友関係を深めようとしていた、労働党政権を痛烈に批判。彼女の勢いは旧ソ連にまで伝わり、現地メディアはお返しと言わんばかりにマーガレットを非難。新聞には『鉄の女』の見出しが躍った。
ミルク騒動を経験し、メディアからさんざん悪口をたたかれてきた鉄の女にとっては、痛くも痒くもない。それどころか、その響きが、ちょっとやそっとではへこたれない人間であるという印象を世間に与えたことは、むしろ喜ばしく、すっかり気に入ってしまった。そして自分のスピーチでも『鉄の女』を引用。そのふてぶてしさは、党内の同僚たちにとって頼もしい存在に映った。

 

 

首相になるのは私 秘密の卵ダイエット
  首相に就任する数週間前、マーガレット・サッチャーは、選挙とは別の闘いにも挑んでいた。それは2週間短期集中『卵ダイエット』。マーガレット・サッチャー財団が公開した資料により明らかになっているこのダイエット法は、卵、コーヒー、グレープフルーツを中心にした、食事コントロール・ダイエット。1週間で食べる卵の数はなんと28個。日本で10年ほど前に流行した『国立病院ダイエット』に似ており、体験済みの人もいるかもしれない。
注目される機会が増えることを念頭に実践したとされるが、自分が首相に選任されることへの強い自信もうかがえる。ダイエットのかいあって見事9キロの減量に成功。総選挙でも保守党を勝利に導き、すっきり晴れやかに官邸前で報道陣のフラッシュを嵐のごとく浴びることになった。

●1日のメニュー例
[朝食]グレープフルーツ、卵1~2個、ブラック・コーヒーまたはティー
[昼食]卵2個、グレープフルーツ
[夕食]卵2個、サラダ、トースト、グレープフルーツ、ブラック・コーヒー

 

 


 

内閣不信任案

 

 野党党首として過ごした4年間は、政権運営について熟考するよい期間となった。
当時の英国は、「英国病」「ヨーロッパの病人」と呼ばれるほどに衰退していた。戦後に始まった「ゆりかごから墓場まで」をうたう手厚い福祉政策により、人々の労働意欲は失われ、国に依存する体質は国民にしみついていた。1978年末から79年初めにかけて発生した、「不満の冬(Winter of Discontent)」と呼ばれる大規模ストにより、道路や下水道掃除などの公共サービスは機能せず、町には未回収のゴミが山積。あたりに異臭が立ちこめることもあった。
ストを行っていた各種労働組合は国民の権利をたてに力を増し、労働組合の支持で政権を握ったはずの労働党は、組合の存在により政権存続の危機を迎えようとしていた。もはや政府がコントロールできる域を越えている。このままでは国が立ち直れなくなる。マーガレットは内閣不信任案を突きつけ、1979年5月に総選挙が行われることが決まった。
マーガレットの選挙活動は、労働党ともこれまでの保守党とも違い、人々には新鮮だった。穏かな口調で、できるだけ難しい専門用語は使わず明快に。それでいて攻撃的かつ急進的に英国のあるべき姿を、そして自分の信念を繰り返し国民に訴えかけた。いつしか「信念の政治家」と呼ばれるようになっていた。
そうして人々が選んだのは、マーガレット・サッチャー率いる保守党。時代の流れを追い風に、英国初の女性首相がここに誕生したのである。
1979年5月4日。まもなく午後3時になろうとするころ、新首相はブルーの上品なスーツに身を包み、夫とともにバッキンガム宮殿へと赴き、エリザベス女王に謁見。その後、公用車に乗り込み、向かった先はダウンニング街10番地として知られる首相官邸だ。駆けつけた市民らの声援が響き、官邸前は熱気に包まれていた。女性首相として初めて10番地の住人になるマーガレットは、玄関前で右手を高く突き上げ、軽やかに振りながら、自信に満ちあふれた笑みで人々の視線に応えた。私なら必ず英国に栄光をもたらすことができる。沸き立つような興奮と、英国の未来を預かる者としての責任を強く意識したのだった。そしていよいよ今日から、英国を立て直す、本当の戦いが始まる――。(後編に続く)

 


1979年5月4日、初の女性首相として首相官邸に到着したマーガレット・サッチャー。© PA News

 

下院で起きた爆破事件


© PA News
 マーガレットが首相職へ向けて秒読み段階に入っていたとき、党首選で選挙運動の責任者として 勝利に多大な貢献を果たしたエアリー・ニーヴ=写真下=が殺害される事件が起きた。党内で北アイルランドを担当していたニーヴの車に、アイルランド民族解放軍 (IRAアイルランド共和軍の分派)によって爆弾が仕掛けられ、下院駐車場を出ようとした際に爆発したのだ。マーガレットに深い 悲しみと怒りをもたらした。


© bbc.co.uk

救世主か、破壊者か―。鉄の女 マーガレット・サッチャー《後編》 [Margaret Thatcher]

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2013年9月5日

●Great Britons ●取材・執筆/本誌編集部

 

救世主か、破壊者か―。
鉄の女 マーガレット・サッチャー
《後編》


© PA

『鉄の女』と呼ばれた英元首相マーガレット・サッチャーが
今春この世を去った。
英国病と嘆かれたこの国を、妥協を許さない救国の意志で率いて、
復活への道筋を示した。
逝去してもなお、賞賛と激しい憎悪を同時に受ける
稀有な女性の人生を前回に引き続き探ってみたい 。

 

【参考文献】『サッチャー 私の半生 上・下』マーガレット・サッチャー著、石塚雅彦訳、日本経済新聞社刊/『サッチャリズム 世直しの経済学』三橋規宏著、中央公論社刊/『Margaret Thatcher 1925-2013』The Daily Telegraph/『The Downing Street Years』Margaret Thatcher 他

 

【前編より】
1925年、マーガレット・サッチャーは小さな田舎町で食料雑貨店を営む一家に生まれた。勤勉な父のもと、運命に導かれるようにして政治の世界に強い関心を抱き、24歳で国政に打って出るチャンスを手にするが落選。結婚、出産を経ても政治に対する思いは日ごとに募り、夫デニスの強力なサポートを得て、国会議員初当選を果たす。確固たる信念で政策を推し進める姿は党内でも支持を集めて党首となり、1979年の総選挙に勝利。英国史上初の女性首相となった。しかし彼女の前に立ちはだかるのは、人々の夢や希望をつぶしてしまうような英国の惨状だった――。

 

英国に立ち込める暗雲

 

 テレビ画面の中で病院職員は平然とした様子でコメントしていた。
「賃上げ要求が通らなければ、患者が死んだとしてもしょうがない」
マーガレット・サッチャーが首相に就任する半年前の1978年末から79年初頭にかけて英国を激しく揺さぶった「不満の冬(Winter of Discontent)」。労働組合による一連のストライキによって、道路や下水道掃除などの公共サービスは機能せず、通りには回収されないゴミが積み上げられ、異臭を放つこともあった。医療関係者にまで及んだストの様子がテレビに映し出され、人々の心を暗くした。
この社会背景には、戦後に始まった「ゆりかごから墓場まで」をうたう手厚い福祉政策があった。労働党政権が中心となり、平等に福祉の行き届いた理想の社会を実現しようと躍起になった挙句の大盤振る舞い。主要産業が国有化されていたことも相まって、国民の勤労意欲は削がれ、国に依存する体質は人々を蝕んでいた。理想と現実はかけ離れ、サッチャー新政権発足時の財政は逼迫していた。歳出の肥大化、国際競争力の著しい低下、貿易収支の大幅な赤字。経済成長率はヨーロッパの中でも最低水準にあった。追い討ちをかけたのは、1973年の石油危機を受けた物価の上昇だ。失業率がじわじわと高まる中、さらなる石油危機が、首相就任と時を同じくして国を襲っていた。国内に立ち込める暗雲は黒く、しかも切れることが不可能と思えるほど厚かった。
大英帝国の落日、ヨーロッパの病人、英国病…。国外からも数々の言葉でさげすまれていた母国を立ち直らせるチャンスを手にした新首相マーガレット・サッチャーだったが、その前には取り組むべき課題が文字通り山積していた。

 



ロンドン中心部レスター・スクエアは、ストで回収されないゴミであふれ、
通称『フェスター(fester=腐る)・スクエア』と呼ばれた。

 

経済は手段、狙いは意識革命

 

 「サッチャリズム」と呼ばれる一連の政策は、「金融の引き締め」による物価上昇の収束、「税制改革」「規制緩和」「一般大衆参加の資本主義の導入」による企業活動の自由化と推進、経済全般の活性化を図ったことが中心にあげられる。英国の威信を取り戻そうと、多くの経済政策に着手するのだが、サッチャーが主眼を置いたのは、ぬるま湯に浸かりきった国民の依存体質を改めさせるという意識改革だった。
彼女の脳裏には、いつも離れないひとつの言葉があった。それはオックスフォード大在学中に開催された選挙集会でのこと。ひとりの年配男性がこう指摘したのだ。
「私が自分のお金を少しばかり貯金したからというだけの理由で、『生活保護』はもらえなくなる。もし、このお金を全部使ってしまったら、もらえるのに」
これは政治家に突きつけられる福祉制度の大きな問題点だった。健康上の理由から国がサポートしなければならない人がいるのは確かだ。しかし一方で、十分働けるにもかかわらず福祉に依存する人々を野放しにしてはならない。努力し、向上しようという人が評価される社会でなければ国は発展しない。幼い頃から自助努力に徹する父の姿を見ながら勉学に励んできたサッチャーがそう感じるのは当然だろう。彼女の信念は、就任後すぐに行った税制改革に色濃く表れている。
当時の税の仕組みは、所得税率が高く、真面目に働く人々の税負担によって、福祉に依存する人々を支えているような状況だった。上昇志向のある人でさえ、「給料が税金に消えるなら、一生懸命働く意味などない」という考えに至るのは仕方のないこと。サッチャーはすぐさま所得税を減税し、勤労意欲を呼び起こすためのキャンペーンを展開する。1979年に33%だった基本所得税率は、1980年に30%に、翌年以降も段階的に引き下げられていく(1988年には25%となる)。
このとき同時に、付加価値税を上げることも決定されている。一般税率8%、贅沢品税率12・5%のところを一律15%と増税。財政赤字を減らすため、収入の有無にかかわらず広く国民に税負担を強いる道を選んだのだ。
ところが、サッチャー政権は途端に支持率を落とすこととなる。付加価値税の引き上げが、所得の低い人には不利に、逆に富裕層を優遇する税制であるように受け止められたからだ。
メディアのみならず、党内からは中止を求める声が上がるが、どんなに不人気の政策であろうと自分の信念を曲げない強気のサッチャー。その姿勢は、極端な言い方をするならば「働かざる者、食うべからず」という冷酷な印象さえ与え、国民の中の反発感情を煽る結果となった。
また、異常なほどの高騰を見せていた物価は、金融財政の引き締めによって落ち着きを取り戻すきざしを見せていたものの、代わって深刻な不況を招く結果となったことも支持を落とした原因のひとつだ。政権発足後、2年連続で経済成長はマイナスを記録。大企業の人員削減、中小企業の倒産に伴い、職を追われた人も多く、1980年に160万人だった失業者は、翌年には250万人に急増。さらに1983年には300万人を超えるに至った。

 

「大きな政府」から「小さな政府」へ
 サッチャーが実施した政策のコンセプトは「小さな政府」、新自由主義とも呼ばれるものである。これは、政府の権限や役割を大きくし、経済活動を政府の管理の下に行う「大きな政府」に対して、経済の動向を市場にゆだね、役割を最小限にとどめた政府のこと。政府の役割を肥大化させる高福祉を抑制し、規制緩和や国有企業の民営化によって、民間企業が自由に活動できる場をつくり、それにより経済を活性化することを目指した。

 


© PA/photo by ROBERT DEAR

 


 

英国を揺るがした一大事件

 

 首相に就任して3年が過ぎようとしていたころ、失業率が示す数値は、紛れもない事実としてサッチャーの肩に重くのしかかっていた。解任までもささやかれる中の、1982年4月2日朝、英国中を揺るがす一大事件の報が英国民の耳に飛び込んできた。
「アルゼンチン、フォークランドに武力侵攻」。英国が南太平洋上で実効支配するフォークランド諸島の領有権を主張するアルゼンチンが、同諸島を取り戻そうと、突如部隊を派遣したのだ。
つい1週間前、国防省はひとつの軍事計画を提示していた。それは、アルゼンチンのフォークランド侵略を抑止する防衛計画。ところが、サッチャーは「アルゼンチンがまさかそんな愚かなことをするはずがない」と取り合わなかった。まさに青天の霹靂というべき事態が今、現実のものとして英国を襲ったのである。
サッチャーは間髪を入れずに軍隊の派遣を主張。党内には慎重論が多かったものの半ば強引にまとめ、武力行使に応戦する意向を示した。そして空母2隻を主力とする軍隊がフォークランドに向けて出動した。のちに「フォークランド紛争」と呼ばれる戦いである。
1ヵ月半が過ぎたころ、サッチャーのもとに一本の電話が入る。中立の立場にあった米国のロナルド・レーガン大統領からだった。
「アルゼンチンを武力で撃退する前に、話し合いの用意があることを示すべきではないだろうか。それが平和的解決の糸口だ」
するとサッチャーは、「アラスカが脅威にさらされたとき、同じことが言えますか?」と反論。その強い信念を誰に止められよう。「軍事力によって国境が書き換えられることがあってはならない」と、武力には屈しない姿勢で提案を跳ね返したのだ。
英国民にとって、はるか遠くに位置するこの諸島は、決してなじみのあるものではなかったが、日々伝えられる戦況に触れ、かつて大英帝国と称された誇りの、最後の断片をたぐり寄せるかのように、愛国心は高まりを見せていく。
そしてアルゼンチンのフォークランド上陸から約2ヵ月、アルゼンチンの降伏によってこの紛争に終止符が打たれた。
「Great Britain is great again.英国は再び偉大さを取り戻したのです」。この勝利は、フォークランド諸島を守り抜いたという事実以上のものを意味し、将来の見えない母国に不安を感じていた国民の心に大きな希望の光をともした。右肩下がりだった『冷血な女』の支持率は、祖国に自信を取り戻させた『英雄』として、急上昇するのだった。
翌年に行われた総選挙では、労働党に対し、前回の選挙を上回る圧倒的大差をつけて勝利。政権は2期目に突入し、サッチャーの世直し政策は勢いを増す。



良好な盟友関係を築いていたロナルド・レーガン米大統領と。
1984年、 米大統領別荘キャンプ・デーヴィッドにて。

 

夢を与えた大衆参加の資本主義

 

 首相就任直後から行われた国有企業の民営化も、引き続き実施されており、国民生活に大きな変化をもたらしていた。
新政権発足時に政府の管理下にあった企業の数は、放送や銀行などの公共性の高い企業のほかに、およそ50社。なかには、今では民営が当たり前と考えられるような、自動車メーカー「ロールスロイス」「ジャガー」なども含まれた。
国が運営する以上つぶれる心配はないといった安心感は、同時に就労者の意欲や向上心を低下させる。そう考えるサッチャーのもと、国有企業の民営化が次々と図られていった。
民間への移管は、政府の持ち株を一般大衆も対象に売却する形で行われた。つまり従業員も株を取得することが可能となり、業績が好転すれば配当金も受け取れるようになった結果、株主たる労働者の仕事に対する姿勢が変わったのは言うまでもない。
さらに政府が所有する資本の切り売りは、住宅分野にも適用された。低所得者に賃貸されていた公営住宅の大胆な払い下げが実施されたのだ。
階級社会の英国で、当時、家や株などの資本を持つということは、上流あるいは中流層の特権。そのため労働者層にとって、マイホームを持つということは、夢のまた夢と考えられていただけに、人生観に大きな変化を生じさせかねないほど革新的な政策だった。サッチャーは勤勉に励めば夢がつかめるということを示し、その夢は手頃な価格で手に入るよう配慮された。売却額は平均で相場の50%オフ。破格のものだった。
この政策を通し、一部の労働者層は、これまで手に届くはずなどないと思われた幸福をつかみ、財を手にする者も増えていった。サッチャーは、「労働者階級の革命家」とも称されるようになる。

 

Great Britain is
great again.
(英国は再び偉大さを取り戻したのです)

 



フォークランド紛争から帰港した空母「HMS Hermes」。
勝利を祝うため多くの市民がユニオン・ジャックを手にかけつけた。

 

労働組合との死闘

 

 労働組合が強大な力を有していたことも、英国経済と人々の勤労意欲にブレーキをかける原因のひとつだった。1970年代には毎年2000件以上のストライキが行われるような状況の中で、企業経営者の経営意欲は低下。好んで英国に投資する外国企業などあるはずもなく、サッチャー政権にとって労働組合の力を押さえ込むことは急務だった。
なかでも、やっかいな存在だったのは全国炭鉱労働組合(NUM: The aional Union of ineorkers)だ。石炭は国の重要なエネルギー資源であるため、彼らは政府の弱みを握っていたといっても過言ではない。当然、政府もしぶしぶ要求を呑まざるを得ない状況にあった。1973年にはストによるエネルギー不足のため、当時の政府が国民に「週3日労働」を宣言したこともあるほどだ。
そのNUMに、まるで宣戦布告をするかのようにサッチャーが打ち出した政策は、採算の取れなくなっていた鉱山20ヵ所を閉鎖し、合理化を図ることだった。もちろんNUMはだまっていない。1984年3月、無期限ストに突入した。政府にも劣らぬ権力を持っていたNUMは、サッチャー政権の打倒を目指し、政治闘争を激化させた。サッチャーにとって敗北はつまり、政権の終焉を意味し、結果次第では自身の進退も問われる状況となっていた。
当初は勢いのあったNUM。しかし、ストが長期化するにつれ、ストよりも雇用の確保という現実的な世論が強まり、次第に力を失っていく。これに対し、サッチャーは組合活動に規制を設けたほか、非常事態に備え、あらかじめエネルギー供給源を確保するなど、緻密な準備を行い、挑んでいく。最終的には政府の『作戦勝ち』で1年に及んだ闘いは幕を閉じた。
以降、労働組合によるストは減り、組合の攻勢の中で萎縮していた企業経営も活動意欲を見せ、健全さを取り戻していくこととなる。
一方、炭鉱の町では、「私の家族は、あの女に殺された」と、今も根に持つ人も少なくない。仕事を奪ったばかりか、町に暮らす若者の希望の芽を摘み取ったと嘆く人もいる。職を失い途方にくれる人々にとって、『鉄の女』がもたらした政策は非情かつ冷徹。弱者を踏み潰したと、恨みを募らせていった。サッチャーの毅然とした態度は、「そんなことなど構うものですか」という印象を与え、ますます嫌われていくようになる。
このように、サッチャーが求めた国民の意識改革は、すべての人を幸せにしたわけではなかった。見方によっては、弱者を支えた福祉制度を壊し、自由という名の競争社会で強者をより強くしたと捉えられ、さらなる格差につながったといわれている。またコミュニティの崩壊により、周りと協力し合った時代は過ぎ去り、代わって訪れたのは、自由競争社会の中で、自分さえ良ければいいという自己中心的な社会と指摘する人もいる。



産業の活性化を目指し、英国企業の売り込みや、外国企業の英国誘致を先頭に立って行ったサッチャー。
日本の自動車産業にも目をつけ、1986年9月に日産自動車が進出するに至った。
英国日産本社の開所式に訪れ、発展を祈った。© PA

 

割れるサッチャリズムへの評価
 サッチャーが行った「ビッグバン」と呼ばれる一連の金融自由化政策により、外国の資本が多く流入することになった英国。世界中から資金が集まり、なかでもロンドンは世界最大級の金融都市に発展したことで、サッチャーの政策は一定の評価を得てきた。しかし2007年に起きた世界金融危機は、英国金融業界にも深刻な影響を及ぼした。脆弱さが露呈し、サッチャリズムの重大な欠陥として表面化している。
また製造業から金融業などのサービス業へと重点がシフトしたため、国内の産業が空洞化する結果となった事実は長年指摘されていることである。

 


 

九死に一生を得た強運の持ち主

 

 英国でくすぶる火種は他にもあった。アイルランド統一を目指す、IRA(アイルランド共和軍)との確執だ。IRAは北アイルランドのみならずロンドン市内の公共交通機関や金融街などを狙い、テロを繰り返していた。NUMとの闘いが続く中の1984年10月、サッチャーの身にもその危険が襲いかかる。
開幕を控えた次期国会に向け、さらなる改革の促進に向け、弾みをつけるべく保守党の党大会がイングランド南部ブライトンで開催されようとしていた。自分の描くビジョンをより正確に力強く伝えたいと考えるサッチャーは、滞在していた壮麗なグランド・ホテルで、翌日のスピーチ原稿の確認に余念がなかった。作業も終わり、スピーチ・ライターらも自室に戻っていったときには、深夜2時半を回っていた。ようやく落ち着き、そろそろ就寝の準備に取り掛かろうとしていたところ、秘書が書類を確認してほしいと訪ねてきた。サッチャーは居間部分で対応し、書類に目を通して、自分の意見を述べた。秘書が書類を片付けようとしていたときだ。突然、衝撃をともなった激しい爆発音、続いて石造りの建物が崩れ落ちる轟音が響き渡り、居間には割れた窓ガラスの破片が飛び込んできた。
すぐにデニスが寝室から顔を出したおかげで、彼が無事であることはわかったが、浴室はひどいありようだった。
サッチャーのほか、閣僚、保守党員らが滞在していた同ホテルには、IRAによる爆弾が仕掛けられていたのだ。幸いサッチャーは無事だったものの、この爆破で5人の命が奪われ30人以上が重症を負うこととなった。
秘書に書類の確認を頼まれなければ危うく浴室で命を落としていた可能性もあったサッチャー。たったひとつの書類によって難を逃れた強運の持ち主は、すぐに官邸に戻る案が出されるものの、午前9時半より予定通り会議を行うことを決めた。多くは着の身着のまま避難しており、最寄りのマークス&スペンサーに朝8時の開店を依頼し、服の調達をしなければならないほどの状況だったが、テロをものともしない強硬な姿勢を見せつけたのだった。



IRAによって爆破されたブライトンのグランド・ホテル。© D4444n

 

強力なサポーター

 

 サッチャーが自らの信念のままにリーダーシップを発揮していく影には、10歳年上の夫デニスの存在がある。妻を温かく見守り、たゆむことなく支えたデニス。しかし、ふたりの関係は常に良好だったわけではない。1960年代、サッチャーが国会議員として仕事に没頭していくにつれ、デニスは孤独を感じていた。その頃、家族が経営する化学関連の会社で役員を務めていたデニスは、すれ違いの生活に神経を弱らせ、離婚まで考えていた時期もあった。心を癒すため、2ヵ月間英国を離れ、南アフリカを訪れたこともある。それは妻の元に戻るかどうかさえわからないという旅だった。しかし、何かがデニスを思いとどまらせ、ふたりは夫婦として再び歩み始める。
デニスが役員職から引退し、サッチャーが首相に就任して以降は、ふたりの関係は良好となっていった。危機を乗り越えた夫婦の絆は深く、政治家の夫として妻の活動を一番近くで支える、ますます力強い存在となる。
一家が大変なときは、その長が率先して事にあたることを、父の姿から学んでいたサッチャーは、一国を背負う者として寝る間も惜しんで仕事に励んでいた。深夜2時、3時までスピーチ原稿を確認していることも多く、平日の睡眠時間は4時間。親しい友人らと休暇旅行に出かけても、楽しいひと時を終え、友人らが寝室に引き上げると、サッチャーの仕事の時間が始まるといった具合だ。働きすぎのサッチャーに「眠った方がいい」と助言できたのは、夫デニスのみであった。

 

冷戦終結にむけて

 

 国内の経済活性化に取り組む一方、世界を舞台に外交面でもサッチャーはその力を遺憾なく発揮していく。
米大統領のロナルド・レーガンとは、互いの目指した政策が同じ方向を向いていたこともあり、良好な盟友関係を築いていた。後年、サッチャーが「自分の人生の中で2番目に大切な男性だった」と語り、『恋人関係』とも揶揄されるほどでもあった。
第二次世界大戦後から続いていた冷戦真っ只中にあった1970年代に、「(旧ソ連が示してきた)共産主義は大嫌いだ」と言い放ち、『鉄の女』のニックネームを与えられたサッチャー。のちにロシアの大統領となるゴルバチョフと出会うと、「彼となら一緒に仕事をしていくことができる」と評価している。
1987年に3期目に突入していたサッチャーは、両者との信頼関係を築くと、冷戦状態にあった米レーガン大統領と、旧ソ連ゴルバチョフの橋渡しに努め、冷戦終結に一役買ったともいわれている。
自分の推し進める政策と外交。何の後ろ盾もなかった彼女がここまでのし上がってきたのも、勤勉と努力の成果にほかならず、それによって彼女の自信が裏付けられた。そして、英国を新たな世界へと向かわせ、冷戦終焉に尽力、時代は大きく変わりつつあった。
しかしそのとき人々が求めたのはもはやサッチャーではなくなろうとしていた。

 

退陣までの3日間

 

 1990年11月、1期目からサッチャーを支えてきた閣僚ジェフリー・ハウが、欧州統合に懐疑的なサッチャーと彼女のリーダーシップのスタイルに反旗を翻す演説を行い、辞任したのだ。サッチャーが導入を決めた、国民1人につき税金を課す人頭税が市民からの強い反発を受けていたこともあり、ハウの演説を機に、党内での確執が表面化。党首選へ向けた動きが活発になる。
11月19日から開催された全欧安全保障協力会議で、ヨーロッパにおける冷戦終結が宣言されており、サッチャーは、党首選が行われた11月20日、同会議に出席するためパリに滞在していた。
英国では午後6時30分頃、投票結果が発表されていた。372票中、マーガレット・サッチャー204票、対立候補マイケル・ヘーゼルタイン152票。得票数ではサッチャーが勝っていたものの、その差が当選確定までに4票届かず、結論は2回目投票へと持ち越される。フランスの英国大使館前でインタビューに応じたサッチャーは、2回目の投票に立つ姿勢を見せるが、350キロ離れた英国国会議事堂の会議室に集まった議員たちの間には大混乱が巻き起こっていた。サッチャー派のメンバーも、今後の作戦を練り直す必要に迫られていた。
翌21日、ロンドンに戻ったサッチャーは、午後、官邸に着くとすぐにデニスのいる上の階へ向かった。冷静に状況を見極めていた彼は、ここで勇退を選ぶよう助言するのだった。それでも、自分を支持してくれる人がいる限り戦い抜くことを主張するサッチャー。しかし同僚たちと会って話すうちに、自分の辞任を望む人が数多くいる実情を悟っていく。
サッチャーは父が市会議員を辞したときのことを思い出していた。一時は市長を務めていたが、1952年に対立する政党によって上級議員の座を追われた父は、集まった支持者の前で誇り高くこう語った。
「私は名誉をもってこの議員服を脱ぐのです。私は倒れましたが、私の信念は倒れることはありません」
思い出すだけでも切ない、父に襲いかかった出来事が、今自分の身にも起こっている。
翌22日、ついに退陣を発表した。
首相官邸を去る日、男性政治家も顔負けの力強いリーダーシップで英国を率いてきた『鉄の女』は、長い在任期間を振り返り、声が震えるのをおさえるように口を開いた。
「みなさん、11年半のすばらしい日々を経て、去るときを迎えました。ここにやってきたときよりも、現在の英国の状態が格段に良くなっていることを、とても、とてもうれしく思っています」
彼女の側では11年半前と同じようにデニスが静かに寄り添っていた。
首相の座を追われるようにして官邸を去ることになったサッチャーの視界が涙でくもっていた。

 



首相官邸を去る日、官邸前で会見を行ったマーガレット・サッチャー。
20世紀では英国首相として最長の在任期間を誇った。
© PA/photo by SEAN DEMPSEY

 


 

寂しさか、達成感か

 

母にとって、
まず1番は国。
私たちは2番目なの

 

 2000年頃から認知症を患っていたことを、のちに娘キャロルが公にしている。繰り返し起こる脳卒中と、認知症に悩まされていたサッチャー。医師のアドバイスにより、2002年以降に公の場で話すことをやめた。そしてその翌年、政治家の夫として長きにわたって彼女を支え続けたデニスが88歳で他界。結婚生活は52年に及んだ。深い悲しみに包まれたサッチャーの症状は、悪化の一途を辿り、近年は、デニスが亡くなった事実を忘れることもあった。
昨年12月のクリスマス以降、ロンドン中心部のホテル「ザ・リッツ」で過ごしていた。1970年頃、尊敬してやまなかった父が最期のときを迎えようとしていた時期に、サッチャーは帰省している。親しい友人らが続々と父を訪ねてきたのを目の当たりにし、「自分も人生の終わりにはこのように多くの親友に恵まれていればいい」と思ったと自伝に記している。だが、政治家としての生涯は、その希望が叶うことをサッチャーに許さなかった。自分が死を迎えようとしている今、愛する夫に先立たれ、ふたりの子供の姿はそこにはなかった。娘キャロルが「母にとって、まず1番は国。私たちは2番目なの」と、母親の愛情を十分に受けることができなかった悲しみを告白している。サッチャー自身も晩年「私はいい母親ではなかった」という後悔の念をもらしていたという。
認知症を患ったサッチャーの心に最後にあったものは、寂しさか達成感か、それとも、愛する英国の輝かしい未来か。
サッチャーの行った政策によって、英国は大きく変化した。夢を与えられたと感謝する人もいる一方で、生活をつぶされたと嘆く声も根強い。
しかし、「英国病」とさげすまれ、瀕死の状態にあった母国を救うために奮闘し、強固な信念で国民を率いたひとりの女性政治家の名は、英国の歴史と人々の心に深く刻まれている。

 



セント・ポール大聖堂で行われた葬儀に参列するエリザベス女王。
女王が首相の葬儀に参列するのはきわめて稀で、ウィンストン・チャーチルの葬儀以来となった。
© PA/photo by PAUL EDWARDS

 



「サッチャーの葬儀が国葬級の規模で開催される一方、
街角では、死を喜ぶ一部の市民の姿が見られた。

 

サッチャーと ハンドバッグ
 『女性初』の英国首相としてフェミニズムの推進に貢献したと考えられてもおかしくはない。しかし実際は、「女性解放運動に対して義務はない」と述べているサッチャー。女性の権利を主張するよりは、むしろ女性であることを『武器』にしていた節も見られる。
封建的な男社会で力を発揮したが決して『男勝り』ではなかったことは、マーガレットの外見によく現れている。決してパンツ・スーツを着用せず、スタイリストを頻繁に官邸に呼んでおり、髪は常に綺麗に整えられていた(余談だが、スプレーでビシっと固められた髪型は、まるで『ヘルメット』のようで、彼女の信念のように『ぶれない』と冷やかされている)。夫デニスから贈られた真珠のネックレスを愛用。さらに女性らしさを表すかのように、いつもハンドバッグを手にし、それは彼女のシンボルとなっている。ちなみにオックスフォードの辞書にはマーガレット・サッチャーに由来するものとして、handbagの動詞の意味が記載されている。「handbag =〈動〉言葉で人やアイディアを情け容赦なく攻撃する」。

ヘンリー8世、6人の妻たちの愛憎劇

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ヘンリー8世、6人の妻たちの愛憎劇
1509年から1547年にかけてイングランド王として類稀な政治手腕を発揮したヘンリー8世。ヨーロッパの弱小国に過ぎなかった英国が後に大国へと発展するその礎を築いた強運王として名を残す一方、ローマ・カトリック教会と決別してまで離婚を宣言し、その後王妃を次々と取り替え、中には王妃を断頭台送りにするなど、残酷非道な王としても知られている。そこでヘンリー8世の6人の妻たちと、彼らを取り巻く愛憎劇をご紹介したい。

1番目の妻
元々は兄嫁 キャサリン・オブ・アラゴン
Catherine of Aragon

誕生:1485年12月16日
結婚:1509年6月11日(24歳、ヘンリー8世 18歳)
離婚:1533年(48歳)
死去:1536年1月7日(51歳)
家柄:スペイン王フェルディナンド5世の娘。ヘンリー8世の兄、アーサーの未亡人。空前の大帝国を支配下においた、ハプスブルグ家の嫡男カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)は甥にあたる。家柄についていえば、6人の中で突出している。

ヘンリー8世より6歳年上。教養もあり、思慮深い良妻だった。離婚後、反ヘンリー8世勢力とともに、自分の名誉とカトリック巻き返しのために戦うことも可能だったが、英国に内乱が起こるのを好まず、イングランド王妃としてでなく、「Princess Dowager of Wales」の名で逝去することに甘んじた。ピータバラ・アビーに埋葬された。 6人の子どもを出産。うちふたりは男子だったが、ともに生後2ヵ月も生き長らえることはできなかった。成人したのは、次女のメアリー(後のメアリー1世)のみ。このメアリーはカトリック教徒として育ち、即位後にスペイン王フェリペ2世と結婚、プロテスタントを迫害し、イングランドを一時、スペインの属国のような立場におとしいれ、ヘンリー8世が築いたものを台無しにするところだった。意識していなかったかもしれないが、母を裏切ったヘンリーへの復讐だったのかもしれない。

2番目の妻
野心家 アン・ブリン
Anne Boleyn

誕生:1500年?
結婚:1533年1月(33歳?、ヘンリー8世 42歳)
死去:処刑1536年5月19日(36歳?)
家柄:ウィルトシャー伯トーマス・ブリンの娘。

フランス王ルイ7世のもとに嫁いだ、ヘンリー8世の妹メアリーに仕えるべく、12歳ごろ渡仏。ルイ7世が逝去し、メアリーがイングランドに戻ってからもアンは6~7年、フランス宮廷に留まった。ここでフランス語はいうまでもなく、洗練されたみのこなし、マナー、男性の「あしらい方」などを身につけたとされる。
左手に指が6本あったというのは有名な話。中肉中背、髪も瞳も濃いブラウン、肌も白くなく、金髪碧眼で色白という美人の条件は満たしていなかったが、男性をひきつけるオーラを発していたようだ。
1521年ごろ、イングランドに帰国。ヘンリー8世と初めて会ったのは1526年とされる。それまでにアン自身も結婚を経験したがうまくいかなかった。きわめて現実的な結婚観を抱いており、その後も安定した生活を求めて、裕福な貴族とつきあうなどしていた。
ヘンリー8世に見初められた際も、国王の愛人に甘んじた実姉のメアリーのようになるのはまっぴら、と確固たる信念を持っていた。手紙を書くのが大嫌いだったヘンリー8世だが、アンに拒まれて、ますます恋心をつのらせ、ラブレターを頻繁に送ったという。そのうちの17通は今もヴァチカン図書館に保存されている。
1532年、ようやくヘンリー8世の思いは実り、アンはその年の暮れに懐妊。この子どもを嫡子にすべく、宗教改革が行なわれるわけだが、ご存知の通り、生まれたのは女の子(のちのエリザベス1世)だった。1534年、再び懐妊するも流産(または死産)。1535年、3度目の正直で懐妊したものの、やはり流産。しかも、これは男の赤ちゃんだった。もともと、気性が激しく、口も達者なアンがヘンリー8世から疎まれ始めるのは、この流産後だったとみていいだろう。1536年、実兄ジョージらに続き、反逆罪(不貞は王に対する反逆。ただ、この不貞の罪は、「でっちあげ」だったとされる)で捕らえられ、ロンドン塔に送られたアンは、タワー・グリーンで処刑され、同じ敷地内の聖ピーター・アド・ヴィンクラ礼拝堂に埋葬された。処刑が非公開(通常は「見世物」。処刑見物は民衆の娯楽だった)で行なわれたのは、せめてもの慰めとなったに違いない。

3番目の妻
従順な妻 ジェーン・シーモア
Jane Seymour

誕生:1509年
結婚:1536年5月30日(27歳、ヘンリー8世 45歳)
死去:1537年10月24日(28歳)
家柄:ジョン・シーモア卿の娘。

アン・ブリンに仕える女性のひとりだったジェーンが、ヘンリー8世に見初められたのは、1535年ごろのこと。1536年、アンの処刑から数えてわずか11日後にヘンリー8世と結婚。翌年、10月12日、ハンプトン・コート宮殿で待望の男子を出産。15日には、この新生児とは異母きょうだいになるメアリー、エリザベスも臨席させて洗礼の儀式が行なわれた。出産後の疲労と産じょく熱に悩まされたジェーンは、このセレモニーには出席できたものの体力は回復せず、その9日後にこの世を去った。
ヘンリー8世は、ウィンザー城の聖ジョージ・チャペルにすでに墓を用意しており、ジェーンもそこに埋葬された。同王と墓所をともにしているのは、このジェーンのみ。ヘンリー8世と口論すらしたことがない、といわれるほど従順だったらしいこの女性は、男子を産み、惜しまれながら亡くなることにより、ヘンリー8世からの愛を永遠のものにしたのだった。

4番目の妻
わずか半年で離婚 アン・オブ・クリーヴズ
Anne of Cleves

誕生:1515年
結婚:1540年1月6日(25歳、ヘンリー8世 49歳)
離婚:1540年7月(25歳)
死去:1557年7月16日(42歳)
家柄:ドイツのプロテスタント有力貴族、クリーヴズ公の娘。

ヴァチカンから破門されたイングランドは国際社会で孤立しがちだった。ジェーン・シーモアの死後、2年間、独身のままでいたヘンリー8世だったが、プロテスタントの有力勢力と手を結ぶ必要があった。側近のトーマス・クロムウェルが白羽の矢を立てたのは、クリーヴズ公の娘、アメリアとアン。カメラなどなかった当時、頼るは肖像画のみ。宮廷画家、ハンス・ホルバインがクリーヴズ公のもとに送られ、ふたりの娘の肖像画を描いて持ち帰った。
これにより、アンが花嫁として選ばれるのだが、実際にイングランドにやってきたアンはヘンリーの意にそぐわなかった。音楽も、文学も、当時のヘンリー8世の宮廷で流行していたものには通じておらず、「フランダースの雌馬」というあだなまで与えられたアンだったが、クリーヴズ公の機嫌をそこなわないよう、離婚の理由探しには細心の注意が払われた。結局、アンが以前に破棄した婚約が、まだ実は有効だったという苦しい理由で離婚成立。
賢明だったアンはこれを受け入れ、ヒーヴァー城(アン・ブリンの育った城/スコットランド・エディンバラ)などを与えられ、カントリーサイドで静かに余生を送った。逝去後はウェストミンスター・アビーに葬られた。

5番目の妻
30歳も年下の奔放な妻 キャサリン・ハワード
Catherine Howard

誕生:1521年?
結婚:1540年7月28日(19歳?、ヘンリー8世 49歳)
離婚:1542年2月13日(21歳?)
死去:処刑1542年2月13日(21歳?)
家柄:エドモンド・ハワード卿の娘。アン・ブリンのいとこ。ノーフォーク公(カトリック派)の姪。

ヘンリー8世の側近でプロテスタント派のトーマス・クロムウェルの政敵であった、ノーフォーク公に利用され、「イングランド王妃」の真の意味など理解することなくヘンリー8世と19歳で結婚。
魅力的なティーンエイジャーではあったが、お世辞にも貞淑とはいえず、奔放な性格だった。当時、既に性的不能に陥っていたとの説もあるヘンリー8世の目を盗み、愚かにも不貞(王に対する反逆罪)を重ねてやがて処刑されてしまう。処刑直前、イングランド王妃としてより「カルペパー(不倫相手のひとり)の妻として死にたい」と叫んだとされる。アン・ブリンと同じタワー・グリーンで処刑され、同敷地内の聖ピーター・アド・ヴィンクラ礼拝堂に埋葬された。ハンプトン・コート宮殿に幽霊として現れるという。

6番目の妻
ヘンリー8世を看取った良妻 キャサリン・パー
Catherine Parr

誕生:1512年
結婚:1543年7月12日(31歳、ヘンリー8世 52歳)
死別:ヘンリー8世崩御1547年1月28日(35歳)
死去:1548年9月5日(36歳)
家柄:トーマス・パー卿の娘。2度結婚したが、どちらも夫に先立たれ、ヘンリー8世とは3度目の結婚。ヘンリー8世の死後、3番目の妻、ジェーン・シーモアの兄のひとり(エドワード6世のおじ)、トーマス・シーモアと結婚。

ますます気難しく、また、体が弱っていく晩年のヘンリー8世に良く尽くした。聡明で心優しく、いわゆる「よくできた」女性だった。母親がヘンリー8世から離縁されたことにより「プリンセス」の称号を剥奪されていた、メアリー(1番目の妻、キャサリン・オブ・アラゴンの娘)とエリザベス(2番目の妻、アン・ブリンの娘)にも心を配り、ふたりの「復権」をはかり、のちの国王、エドワードにも愛情を注いだという。
ヘンリー8世の死後、いったんは断った、トーマス・シーモアのプロポーズを受けて結婚。1548年8月30日には、女子を出産するが、それから1週間もたたぬうちに逝去した。ただでさえ短い結婚生活だったうえに、トーマス・シーモアが、当時預かっていた14歳のエリザベス(のちのエリザベス1世)を誘惑して一大スキャンダルを引き起こすなどし、心穏やかには過ごせなかったようだ。最後まで、苦労人だったといえる。

Anyway the wind blows...フレディ・マーキュリー

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Anyway the wind blows...フレディ・マーキュリー [Freddie Mercury]
ブリティッシュ・ロック・バンド、クイーンのリード・ヴォーカルとして圧倒的なパワーでファンを惹きつけ続けたフレディ・マーキュリー。
エイズによる、その衝撃的な死は、悲劇のロック・スターの印象を強くした。
しかし、その死後、彼が大切にした人々により、ミステリアスだった彼の生き様は、広く語られるようになる。
彼がどれほど愛すべき人物で、いかに人生を謳歌したかということも。

Special Thanks to: Phil Symes, Richard Gray

●Great Britons●取材・執筆/内園 香奈枝・本誌編集部

アフリカ・ザンジバル島での超お坊ちゃん時代

フレディ・マーキュリーの顔を初めて見た時、「この人がクイーンのヴォーカル?」と、驚いた経験がある人は少なくないのではないか。あの何ともエキゾチックな顔立ちは、一体どこからきたのだろう。
1946年9月5日、アフリカの東海岸にある、当時英国保護領だったザンジバル島(現タンザニア領)で、ファルーク・バルサラ(英語での発音はブルサラに近い)は生まれる。父親のボミは英国政府の役人だったが、もともと資産家の家系。ファルーク(後のフレディ・マーキュリー)は、使用人が一日中世話を焼いてくれるような、良家のお坊ちゃんとして育った。
彼の両親はインド系英国人で、日本人にはあまり聞きなれない「パールシー」だ。パールシーとは、8世紀にゾロアスター教からイスラム教への改宗を拒んでペルシャ(イランの旧称、今はイスラム教を広く信仰)からインドに移った教徒のことで、裕福な人々が多く、インド語で「ペルシャ」を意味する。また、「ゾロアスター教」というこちらも珍しい宗教は、紀元前600年頃に古代アーリア人が生み出したもので、他の宗教と違う大きな特徴として「Life is a celebration.(人生は祝祭)」と考えることが挙げられるという。これは「退屈」を何より嫌い、楽しむ事を求め続けたフレディの生き方そのもののようだ。
彼のファルークという名前は、当時、ゾロアスター教の人々の間で流行の名前だった。彼はとても両親や妹を大切にし、クイーンとしてスターダムへ登りつめても、母親の誕生日にはいつも家に駆けつけたり、家族にまめにカードを送ったりしていた。彼が両親らの愛情をいっぱいに受けて育ったことは想像に難くない。
ザンジバル島は海に囲まれた、美しい、のどかな場所だ。ただ、船で2ヵ月遅れで届く欧州の雑誌の話題がニュースになる、といった環境は、ファルークのような好奇心旺盛な子どもには、物足りない所でもあった。

15歳で初バンド結成

インドの寄宿学校時代のバンド「ザ・ヘクティックス」のメンバーと。もちろん真ん中がフレディ少年。かなり面影がある。
Courtesy Mrs Bulsara
ファルーク少年がまだ8歳と幼い頃、父親がインドに異動になったのだが、そこには適当な学校がなく、彼は一人ボンベイ(現ムンバイ)にある寄宿舎学校、「セント・ピーターズ・スクール」に通うことになる。インドがかつて英国の植民地だったこともあり、学校は権威主義で規律正しい、伝統的な英国風の教育方針を打ち出していた。この頃から、ファルークではなく英語式に「フレデリック」、転じて「フレディ」と呼ばれるようになる。
彼の得意科目はスポーツ、美術、そしてやはり音楽。彼の作曲ツールのメインとなるピアノも8歳ごろから始めた。さらに、15歳の頃、学友たちと一緒に「ザ・ヘクティックス」という、生涯初のバンドも結成。ヘクティック(Hectic=熱病、てんやわんやの)という名前は、ピアノ・ボーカル担当のフレディの演奏スタイルからきている、ということなので、この頃から彼の大げさなステージ・パフォーマンスはすでに確立されていたのだろう。メロディアスな音楽を奏でる「ザ・ヘクティックス」は、学校でも大人気だった。
興味深いことに、この学校に彼は初恋で片思いの「女の子」がいたということだ。しかし、男の子に対し、女の子でも使わない「ダーリン」と呼びかけ美術の先生を驚かせていたそうだから、ゲイ(ホモセクシャル)嗜好は、この頃からあったのかもしれない。ちなみに、彼は男女問わず「一緒にいたい人間といる」というスタイルのバイセクシャルであった。
しかし、1962年にカレッジの進級試験に落ちて、落第。フレディはザンジバル島に戻ることになる。

「クイーン」結成と、「マーキュリー」への変身

写真左:4歳のファルーク。着ているものからもお坊ちゃんとして育った、育ちのいい彼が見て取れる。
写真右:母親のジャーに抱かれる、生後7ヵ月のファルーク。愛らしい笑顔が何とも印象的。赤ちゃんの頃からカメラの前でポーズをとるのが大好きだったとか。
By Bomi Bulsara, courtesy Mrs Bulsara
1964年、ザンジバル革命が起こり、ザンジバルとタンガニーカが合併、タンザニア連合共和国となる。そんな国内の混乱から逃れるため、バルサラ一家はザンジバル島から、英国、フェルサムへの移住に踏み切った。
それまでの使用人付きの裕福な暮らしから一変、バルサラ家は中流家庭の暮らしを始めることになる。そんな暮らしぶりであっても、ザンジバル島よりずっと刺激的な英国に来られたことをフレディは喜んだ。しかし、非白色人種として、差別されることを経験したのも事実。後に、世界的に認められるために、西洋的な名前に変えるが、これはその影響もあったと思われる。
フレディは、イラストレーターを目指し、イーリング・アート・カレッジでグラフィック・デザインを学んだ。この頃、ジミ・ヘンドリックスに憧れ、いくつかバンドも組んでいる。
そんなある日、フレディは「スマイル」という3人組のバンドに出会う。ボーカルは同じカレッジの友人ティム・スタッフェル、そして、後のクイーンのメンバーとなるインペリアル・カレッジで天文学を学んでいたギタリストのブライアン・メイ、そしてロンドン・ホスピタル・メディカル・カレッジで歯科医を目指していたドラムのロジャー・テイラー。
彼らのファンだったフレディは、しょっちゅう彼らのライブを見に行っては、「音楽性はいいのに、ビジュアル面の見せ方が悪い」など、あれこれ口を挟んでいた。音楽の方向性の違いから、ボーカルのティムが脱退となった時、ティムの推薦もあり、1970年、運命的にもフレディが後任のボーカルとなる。

初期のクイーンの曲は層の厚いコーラスや、多重録音などを駆使した凝ったつくりのものが多かったため、ライブでの演奏が難しかった。フレディがライブ映えする太い声を身につけ、ライブ・バンドとして評価されるのは後期になってからだったが、舞台装置やパフォーマンスでは多くの人を惹きつけ、驚かせた。
By Douglas Puddifoot, © Queen Productions Ltd
その後、バンドの名前を決めるミーティングが開かれる。そこでフレディが推したのが、男のバンドなのに「クイーン」。もちろん、ほかの2人は、クイーンという言葉には「男のゲイ」という意味もあるため嫌がったが、フレディは「威厳があって、シンプルで響きがよく、世界中の誰でもわかる、華麗な名前」ということを強調。この頃から、フレディには、「音楽で絶対に成功し、ナンバー・ワンのバンドになる」という並々ならぬ決意があったのだ。
また、「マーキュリー」という名前も、乙女座の彼の占星術における上昇星、水星からきている。パールシー的な「バルサラ」という姓からこの西洋的な名前を芸名とする時、身内への後ろめたさもあったのか、母親に相談したそうだ。母親は「家族のことを変わらず愛してくれれば、それでいい」と答えたという。
それはフレディの「変身」の第一歩だった。ステージ外で見せる、シャイな一面や素顔を見事に封じ、彼は「フレディ・マーキュリー」という、大勢の観客を楽しませる雄雄しいロック・スターを、自ら演出し、見事に演じていくことになる。
幾重にわたるオーディションを経て、チェルシー・カレッジで電子工学を学んでいたベースのジョン・ディーコンが加わり「クイーン」の4人がそろう。
フレディは後に、この4人の誰一人が欠けてもクイーンは成功しなかった、と語っている。クイーンは、フレディが死ぬまで、解散もメンバー交代もなく、20年以上活動し、レコード・セールス2億枚を超える世界的なロック・バンドへと成長した。(下記コラム『インテリ4人の奇跡!』参照)

衣装で見るフレディ変身ヒストリー

クイーンといえば、その音楽はもちろんのこと、奇抜なフレディの衣装(彼は笑われることも意識してやっていたらしい)やルックスの変化もかなり印象的だった。華麗なる貴公子から、ヒゲ・マッチョのおじさんにまで、艶やかに変身したフレディの衣装の変貌(ほんの一部)を追ってみよう。

【1】まるで、ベルばら、王子様
「シラサギ・ルック」

Courtesy EMI Photo Archive
【1975年ごろ】白いたっぷりとしたドレープがついた華麗なひらひら衣装。1972年から大流行した「ベルサイユのばら」に出てきそうだ。黒マニキュア、長髪、長身、細身の白馬の王子様のようなルックスに、日本人女子は熱狂。クイーンはアイドルだったのだ。

【2】ボディラインくっきり
「バレエ・タイツ」

By Neal Preston © Queen Productions Ltd
【1976年ごろ】体のラインがはっきりと分かるピッチリタイツ。銀、白、ダイヤ柄、黒と様々なバリエーションもとりそろえており、バレエ好きだった彼らしい衣装。見てはいけないものを見てしまったというべきか、官能的で美しいというべきか…。

【3】ゲイ路線へ?
「黒レザー」

By Neal Preston © Queen Productions Ltd
【1979年ごろ】このころからマッチョ路線になるフレディ。黒のレザーの帽子、ピッタリとしたパンツがセクシーだ。まだ髭は生やしだしていなかったが、彼のゲイ嗜好が表れだした一着といえよう。

【4】登場! ヒゲ・マッチョ姿
「ランニング」

By Neal Preston © Queen Productions Ltd
【1985年ごろ】ヒゲ、ランニングにマッチョなこの姿がフレディの定番イメージの人は多いだろう。エイズや死のことを気にせず、彼が自由に生きていた時代の姿ともいえるかもしれない。ただ、初期に王子様として彼を愛していた多くの女性たちには、このヒゲのおじさんと化したフレディはショックであった…。

【5】王者の貫禄
「黄ジャケット」

By Denis O’Regan © Queen Productions Ltd
【1986年ごろ】ラスト・ツアーのこのジャケット姿は、すっかり大きなスタジアムの似合うライブ・バンドに成長した風格が現れている。この衣装に、天に向け片腕を上げた姿は、銅像などのポーズとしてもおなじみだ。

【6】厚いメイクで病気を隠した
「道化師」

By Simon Fowler, © Queen Productions Ltd
【1991年ごろ】彼の晩年のプロモーション・ビデオ撮影での衣装。かなり病状が悪化しており、休み休み撮影していたそうだ。少しでも元気にみせるために、カツラを付け、彼が大好きなライザ・ミネリをイメージした厚いメイクをした。茶目っ気たっぷりに演じる姿は愛しく、しかし切なくもある。

生涯愛した、一人の女性

また、そのミーティングの場所で、フレディが生涯愛し、彼の人生の中で欠かせない女性となった、メアリー・オースティンと出会っている。
彼女はケンジントンの「ビバ」という人気ブティックで働いていた。フレディやブライアンも、美人ぞろいで有名なそこの店員たちを見るのが楽しみでよく通っていたそうだ。ブライアンはインペリアル・カレッジのライブでメアリーに出会っており、フレディが彼女を好きなことが分かったので、紹介したという。
だが、始めの半年間は、彼が店に行き、「やあ」と挨拶をする程度。こういうところでは、シャイだったようだ。その後やっとフレディが彼女をデートに誘う。彼らは惹かれあい、深く愛し合った。後に、6年という月日を共に暮らし、フレディも彼女のことを内縁の妻だと紹介していたという。

デビュー前から最期までフレディを支え続けたメアリー・オースティン。ブロンドの髪に、青い瞳、白い肌で小顔の美しい女性だ。
© Richard Young / Rex Features
しかし、その後2人の恋愛関係は終わりを告げることになる。フレディがゲイであることを公表(カミングアウト)したためだ。
だが、彼らの絆はそれで終わることはなく、より深く結ばれるようになる。フレディはメアリーを仕事のパートナーとして雇い、特に彼女には最大の信頼をおいて財政面をまかせた。
フレディにとってメアリーは、心を開いて話ができ、一緒にいて幸せを感じられる最高の親友となった。また、彼女も彼がゲイだと分かっても、それを彼の一部として受け入れ、仕事のパートナーとしてだけでなく、親友としても彼の信頼を決して裏切ることなく、彼を思いやり、理解した。その絆はフレディの最期まで絶えることはなかった。
後にメアリーは他の男性と結婚し、子どもも生まれる。フレディはそれをとても祝福し、喜んだという。「自分が先に逝くようなことがあれば、財産のほとんどは彼女に渡したい」とも語っていた。
実際、フレディが、ハリウッド映画に出てくるような贅沢な装飾を施した高価な家が欲しくて買ったという、ロンドン、アールズ・コートにある全28室の大豪邸(通称・ガーデン・ロッジ)は、彼の死後、メアリーに託され、今も彼女が家族とともに暮らしている。

シングル化を大反対された「ボヘミアン・ラプソディ」

クイーン結成から3年後、彼らはやっとデビューにこぎつけた。しかし、ファースト・アルバムやセカンド・アルバムは、売り上げはそこそこだったものの、英国の音楽評論家からは、「バケツいっぱいの小便」「彼らが成功したら、私は帽子でも何でも食おう」など酷評の嵐。フレディはすっかりマスコミ嫌いになってしまう。
しかし、そんな中、彼らを大歓声で迎えた国がある。日本だ。彼らが初来日した1975年、英国から来た貴公子たちに、日本人女性の心はすっかり奪われてしまった。初来日ライブは、黄色い声、もみくちゃ、失神者続出…。これには本人たちも驚き、とても感激したという話は有名だ。それまでよく知らなかった極東の地、日本を、彼ら、特にフレディは大いにひいきするようになる(下記コラム『フレディの「心の友」ニッポン』参照)。
そんな彼らを世界的なスターに押し上げたのは、フレディの多様な音楽性が現れ、バラード、オペラ、ロックが一体となった大曲「ボヘミアン・ラプソディ」だった。3分台という曲が主流だった時代に、5分55秒という長さは衝撃的で、プロダクションはシングル化に大反対。しかし、メンバーは「面白い曲だからリリースしたい」と言い張った。大ヒットするか、全く売れないか、それは賭けだったのだ。
結果的には「全英チャート9週連続1位」と見事に大ヒット。当時は新曲を出すと、人気番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」などの音楽TV番組に出演する、というプロモーション法が定番であった。しかし、当時ツアーで出演ができない代わりとして作られた、「ボヘミアン・ラプソディ」のビデオは、事実上世界初のプロモーション・ビデオとなっている。ちなみに、暗闇から4人のメンバーの顔が浮かび上がるコンセプトは、セカンド・アルバムのジャケット写真を再現したものだ(下記年表参照)。
その後も、パンク旋風が吹き荒れる中、方向転換を図りながら、「ウィ・ウィル・ロック・ユー」「伝説のチャンピオン」などのヒット曲を連発。1980年のクイーン9作目のアルバム「ザ・ゲーム」は、全米で初の1位に輝き、彼らの最高の売り上げを記録する。
クイーンは、10年前の結成当初にフレディが決意した通り、世界に名だたる怪物バンドへと育ったのだ。

フレディー・マーキュリー年表

1946 年 0歳 9月、アフリカのザンジバル島(現タンザニア領)で生まれる
1964 年 18 歳 1 月、ザンジバル革命。バルサラ家は英国に移住
1970 年 24 歳 4月、クイーン結成。このころ生涯の親友、メアリー・オースティンと出会う
1973 年 27 歳 7月、クイーン・デビュー・アルバム「Queen/戦慄の王女」発売。英国では酷評される
1974 年 28 歳 3月、2nd アルバム「QueenⅡ/クイーンⅡ」発売。英国で初のトップ10 入り。ジャケットは「Bohemian Rhapsody/ボヘミアン・ラプソディ」のプロモーション・ビデオにも再現された、暗闇の中で浮かび上がる4 人の顔【写真①】
11月、3rdアルバム「Sheer Heart Attack/シアー・ハート・アタック」発売。英最高位2 位
1975 年 29 歳 4 月、初来日、7都市8公演
10月、「Bohemian Rhapsody/ボヘミアン・ラプソディ(フレディ作)」発売。英チャート9週連続1位
11月、4thアルバム「A Night At The Opera/オペラ座の夜」発売。英1位に輝く。「Bohemian Rhapsody/ボヘミアン・ラプソディ」収録【写真②】
1976 年 30 歳 12 月、5th アルバム「A Day At The Races/華麗なるレース」発売。「Somebody To Love/愛にすべてを」「Teo Torriatte(Let Us Cling Together/手をとりあって(ブライアン作)」収録。日本でも1 位に
1977 年 31 歳 10 月、6th アルバム「News Of The World/世界に捧ぐ」発売。「We Will Rock You/ウィ・ウィル・ロック・ユー(ブライアン作)」「We Are The Champions/伝説のチャンピオン(フレディ作)」収録
1978 年 32 歳 11 月、7th アルバム「Jazz/ジャズ」発売。「Don't Stop Me Now(フレディ作)」収録
1979 年 33 歳 6 月、8th アルバムで、初のライブ・アルバム「Live Killers/ライブ・キラーズ」発売
1980 年 34 歳 6 月、9th アルバム「The Game/ザ・ゲーム」発売、全米でも初の1位を獲得し、最高売上を記録。主夫実践中だったジョン・レノンがこの曲に刺激され曲作りを再開したという逸話も残る「Crazy Little Thing Called Love/愛という名の欲望(フレディ作)」や、「Another One Bites the Dust/地獄へ道づれ(ジョン作)」収録
12月、10th アルバムで、初のサウンドトラック・アルバム「Flash Gordon /フラッシュ・ゴードン」発売
1981 年 35 歳 11 月、11th アルバムで、初のベスト・アルバム「Greatest Hits/グレイテスト・ヒッツ」発売。現在、英国で最も売れたアルバムという記録を持つ【写真③】
1982 年 36 歳 5月、12th アルバム「Hot Space /ホット・スペース」発売。商業的には失敗。
10月、5度目の来日。クイーンの活動の半年間休止を宣言
1984 年 38 歳 2月、13th アルバム「The Works /ザ・ワークス」発売。「Radio Ga Ga/RADIO GA GA(ロジャー作)」収録
1985 年 39 歳 4月、フレディの初ソロ・アルバム「Mr. Bad Guy(Mr.バッド・ガイ)」発売。売上げは16万枚で、大ヒットには至らず【写真④】
5月、6度目、最後の日本公演。クイーン解散の危機
7月、ウェンブリー・スタジアムで「ライブ・エイド」に出演
1986 年 40 歳 6月、14th アルバム「A Kind Of Magic /カインド・オブ・マジック」発売
6月、英・欧州で、最大にて最後となった「マジック・ツアー」公演
12月、15th アルバム「Live Magic /ライブ・マジック」発売
1987 年 41 歳 フレディ、エイズ感染を知る
1988 年 42 歳 10月、憧れのオペラ歌手、モンセラ・カバリエとのアルバム「Barcelona/バルセロナ」発売【写真⑤】
1989 年 43 歳 5月、16th アルバム「The Miracle/ザ・ミラクル」発売
1991 年 45 歳 2月、17th アルバム「Innuendo/イニュエンドウ」発売。「The Show Must Go On/ショウ・マスト・ゴー・オン」収録【写真⑥】
10月、18th アルバムで、2枚目のベスト・アルバム「Greatest Hits Ⅱ/グレイテスト・ヒッツVol.2」発売
11月、死の前日に、自身のエイズ感染を公表し、翌日ロンドンの自宅で死去
1992 年   4月、ウェンブリー・スタジアムで「フレディ・マーキュリー 追悼コンサート」開催
5月、19th アルバム、ライブ・アルバム「Queen Live At Wembley '86/クイーン・ライヴ!! ウェンブリー1986」発売
1995 年   11月、フレディが生前に残した音源をもとに、20th アルバム「Made in Heaven/メイド・イン・ヘブン」発売【写真⑦】

奔放なゲイ・ライフ

1980年ごろのステージでのフレディ
By Neal Preston, © Queen Productions Ltd
この頃、フレディは前述の恋人、メアリーと別れ、ゲイの象徴であるかのような髭を生やしだす。スターの地位、富と名声は手に入れた。しかしその一方で、アルバムを出してはツアーを行うことの繰り返しや、プライベートにも介入し、相変わらず中傷記事を書くマスコミの存在など、心の疲弊も大きくなった。
そんな彼が解放されたのが、ニューヨークやミュンヘンの街。ゲイ・コミュニティが発達しており、お気に入りのゲイ・クラブもあった。しばらくそれらの街に住んだのは、税金逃れの理由もあったようだが、彼をスター扱いせず、ひとりの人間として接してくれるという環境がとても心地よかったからだ。
この80年代前半は特に、彼がゲイ・ライフを最も謳歌した時期だといえる。しかし、その頃はエイズやドラッグへの警告、セーフ・セックスという考え方はほどんどなかった。この時期にフレディがHIVに感染したことは間違いないだろう。
この頃、初のソロ・アルバム「Mr.バッドガイ」をリリースしたが、売り上げはクイーンのアルバムには及ばなかった。クイーンで良い意味で中和されていた彼の「アクの強さ」が強烈に出てしまったため、受け入れられにくかったのかもしれない。しかし、演奏がシンプルな分、彼の生き生きした声を堪能できる、彼らしいアルバムだ。

起死回生の「ライブ・エイド」

ブラック系の音楽を取り入れたアルバム「ザ・ゲーム」が最高の売上げを記録し、大成功したこともあり、1982年のクイーン12作目アルバム「ホットスペース」ではさらにダンス・ブラック色を濃厚にした。しかし、これが商業的に大失敗作となる。今でこそ時代を先取りしすぎただけで決して出来の悪い作品ではない、と擁護されているが、当時はブラック市場ではもちろん、重厚なクイーン・サウンドからかけ離れた内容に、ファンまでも興味を示さなかったのだ。やりすぎてしまうことが多い彼ららしい。精神的に疲れ果てた彼らは、半年間クイーンとしての活動を休止することを発表する。
1984年、クイーンらしい曲調に戻ったともいえる13作目アルバム「ザ・ワークス」で持ち直す。しかし、悪いことは続き、同年、アパルトヘイト政策が国際社会から激しく非難されていた南アフリカ共和国、サンシティで公演を行ったことで、国連のブラックリストにのり、英ミュージシャン組合から除名され(後に解除)、罰金を払わされるなど、散々なバッシングにあう。
デビューから10年以上同じメンバーでやってきて、印税の配分など、メンバー内の不協和音も聞かれるようになってきた。4人は、1985年5月の日本公演を最後に、「解散」をほぼ決めていた。
しかし、神は彼らを引き離さなかった。1985年7月13日にウェンブリー・スタジアムで行われた、アフリカ難民救済を目的とした、一大チャリティ・コンサート「ライブ・エイド」は、彼らの大きなターニング・ポイントになる。演奏時間は20分。解散寸前という状況もあり、最初はのり気でなかった彼らだが、世界中のツアー先を追いかけて説得した、主催者のボブ・ゲルドフの熱意に折れた。
あまりのどが強くなかったフレディは、この日ものどに炎症が認められ、医者に歌うのを止められていたという。しかし、そんなことは微塵も感じさせない、「ボヘミアン・ラプソディ」で、彼らのステージはスタート。次の曲「RADIO GA GA」では、クイーン・ファンだけではないスタジアムの8万人の観客が、同曲のビデオ・クリップ同様に両コブシを突き上げ、圧巻の手拍子を披露。さらに「ウィ・ウィル・ロック・ユー」「伝説のチャンピオン」と豪華ヒット・メドレー6曲を繰り広げた。

1985年7月の「ライヴ・エイド」にて。全8万人の観客をひとつにし、ライブ・バンドとしての格の違いを見せつけた。
By Neal Preston, © Queen Productions Ltd
8万人の観客、そして衛星同時生中継で80ヵ国以上、15億人もの人々が見守ったと言われるこの日、クイーンのショーは「出演者の中で、最も素晴らしかった」と絶賛される。
それは、意気消沈の彼らを大いに元気づけ、解散という危機からをもクイーンを救ったのである。

インテリ4人の奇跡!

By Terry O’Neill, © Queen Productions Ltd
バンドの顔として、キャッチーな魅力を振りまき、オペラなど多様な音楽性を取り入れたフレディ・マーキュリー。父親と一緒に暖炉の木から作ったギター、「レッド・スペシャル」を駆使する、ハード・ロック好きのブライアン・メイ。華やかなロックン・ローラー気質と、端正なルックスを持ち合わせるロジャー・テイラー。そして、クイーンの庶民派といった地味な存在ながら、抜群のビジネスセンスで経営面を引っ張ったジョン・ディーコン。独特の世界観を持つ「クイーン」は、この4人のバラバラの個性がぴったり合わさったことから生まれた「奇跡」だったと言えよう(写真は1970年代半ば、左からジョン、フレディ、ブライアン、ロジャー)。それぞれが大ヒット曲を書いていることも特筆すべき点だ。また、全員が学位もちのインテリ集団だった(ブライアンは2007年に天体物理学の博士号も取得)というのも、クイーンの曲に品のよさが感じられる一因かもしれない。

壮絶なラストスパート

1986年、「マジック・ツアー」でのフレディ
By Neal Preston, © Queen Productions Ltd
自信を取り戻し、その勢いでクイーンは14作目のアルバム「カインド・オブ・マジック」をリリース。その直後に英・ヨーロッパで行なわれた1986年の「マジック・ツアー」は、デビュー14年目にして、最大の、そして最も成功したツアーとなった。そして、これが4人での最後のツアーとなる。
そのツアー後は、おしのびで日本での1ヵ月にわたるショッピング三昧(下記コラム『フレディの「心の友」ニッポン』参照)、自分にピッタリの歌といってはばからなかったカバー曲「ザ・グレイト・プリテンダー」がソロ・シングルの中で最大のヒットになるなど、うれしいことが続く。
さらには、憧れのオペラ歌手、モンセラ・カバリエとのセッションも実現。1992年のバルセロナ・オリンピック開会式でも歌われた「バルセロナ」の歌詞には、彼が彼女に出会え、夢を叶えられた喜びがピュアに歌われていて感動的だ。ロック・スターと、オペラ会のディーヴァという異色の組み合わせは、1988年にはアルバム「バルセロナ」として結実、見事にその世界を融合した。このアルバムはフレディ自身、彼のキャリアの中でも最高のご褒美で、とても誇りに思うと語っている。

「バルセロナ」で競演したオペラ歌手、モンセラ・カバリエに、後ろから抱きしめられるフレディ。憧れのディーバに少し緊張しつつも、うれしそうな表情の彼が微笑ましい。彼女のことは、1983年にパバロッティの「仮面舞踏会」を観に行った時に初めて知り、その声のあまりの美しさに、フレディは口をポカンと開けたままになったという。
By Terry O’Neill, © Mercury Songs Ltd
しかし、1987年、モンセラとの競演が進行し始めていた頃、彼の身体に彼の人生においてもっとも悲劇的な事実が判明している。エイズ(HIVウイルスに感染し、免疫不全をおこした状態)を発症したのだった。彼は、メアリーや、彼の最後の恋人となり、当時「僕のハズバンド(たまにワイフ)」と紹介したジム・ハットンら、ごく近しい人だけに、それを打ち明けた。当時はエイズという病気の正体は現在ほど分かっていなかったが、彼の人生が確実に死に向かうであろうことは明らかだった。彼らはそれに一様にショックを受けたが、騒ぎ立てず、周囲にその事実を隠し通した。
フレディはジムに「別れてもいいよ」と告げた。しかし、彼らは別れることはなかった。数年後、お互い辛かったに違いないジムのHIV感染が判明しても、ジムは彼の元を離れることはなかった。世界的ロック・スターと、街の美容師(後にフレディの家の庭師)という一見変わったカップルであったが、6年間ともに暮らし、夫婦のような関係が最期までつづいたという。
自分のエイズ感染を知ったフレディは、それまで以上に仕事に打ち込み、プライベートでは、まだ空き部屋などがあった、「ガーデン・ロッジ」の装飾にも力を注ぐようになる。
1989年はほとんど、クイーン16作目のアルバム「ザ・ミラクル」を完成させるため、ロンドンと、スイスのモントルーのスタジオを行き来して過ごした。この頃はまだ、メンバーにエイズの事実を知らせていなかったとされるが、日に日にやせ細っていく彼の異変にメンバーも気づいていたはずだ。それまで個人名だった作曲クレジットも、印税の配分についてのもめごとをさけるために、すべて「クイーン」に統一され、4人の団結が強まったアルバムとなる。
しかし、当時の決して健康そうには見えないフレディの様子などから、フレディの健康状態に関して、マスコミで様々な報道がなされていた。「エイズでは?」という憶測もかなりあったが、その事実を知る人々はマスコミに対して、それを否定し続けた。この頃の彼は、人前で会うときには、病状を隠すため、かなり厚いメイクをして出て行っていた。
そして1991年2月には、彼の生前では最後となるクイーン17作目のアルバム「イニュエンドウ」をリリースし、英チャート1位に輝く。そこでのフレディの歌声は「ショウ・マスト・ゴー・オン」でも聴かれるように、この世のものとは思えないような、荘厳さや美しさに満ちた絶唱だ。愛猫「デライラ」への曲も歌っている。猫をとてもかわいがり、生涯を通じてたくさんの猫を飼ったフレディは、闘病中も寝室の大きなベッドの上で愛する猫たちに囲まれて過ごしていたという。この頃の彼は本当に弱りきっていたが、それでもシングルのリリースの度に力を振り絞り、ビデオを撮影した(上記衣装コラム『衣装で見るフレディ変身ヒストリー』参照)。

フレディの「心の友」 ニッポン

お忍び来日での散財…数百万ポンド!

ショッパホリックだったフレディ。特に、日本画や骨董品が大好きな彼は、全6回の来日公演の度に、たっぷりショッピングをして帰っていた。最もすごかったのは、1986年にプライベートで来日した時。歌川広重の浮世絵、人間国宝の漆塗りの作品、伊万里焼、薩摩焼、アンティークの着物スタンド、屏風、刀、電化製品、そして火鉢30個などをお買い上げしていったそうだ。一時間もたたないうちに25万ポンド、はたまた100万ポンドを使った時もあったという。

日本のファンへのラブソング

クイーン5作目のアルバム「華麗なるレース」は、日本のファンに贈った曲、「手をとりあって」を収録。「♪手をとりあって このまま行こう 愛する女(ひと)よ 静かな宵に 光を燈し 愛しき教えを抱き」というロマンチックな日本語のサビは、日本のファンをとても喜ばせ、アルバムもチャート1位を記録した。
さらに、フレディとモンセラ・カバリエのアルバム「バルセロナ」には、「ラ・ジャポネーゼ(La Japonaise)」(スペイン語で日本人)を収録、随所に日本語が使われているが、一番の聴き所は、フレディが完璧な発音で歌う「♪朝が微笑みかける いつも君だけは 心の友~」という部分。歌詞カードにのっていないこのメッセージが聴けるのは、日本人の特権だ。

最も愛した家に 日本間、日本庭園

フレディが手塩にかけて、装飾した家「ガーデン・ロッジ」。そこには、日本間や、日本庭園もあるのだという。庭にはフレディが好きだったというツツジと、竹が植えられ、滝、錦鯉の泳ぐ池、茶室、石灯籠まで作られた。彼が来日時たくさん買いこんでいった日本のものも、彼の家を彩っていったことだろう。日本が彼を幸せにした一つだったというのは、誇らしいことである。

エイズ感染の公表―そして死

彼は1991年、スイス・モントルーに家を買う。美しい湖と街が見渡せる静かな家だったが、彼が訪れることができたのは3回だけだった。最後に訪れたのは10月末。この時、彼は治療をやめて、死ぬ決心をする。だが、彼の死のほんの1週間前まで、彼は奇跡的な体力で、家族や友人と会っていたという。
11月23日、フレディは自分のエイズ感染に関する声明を公に発表する。瞬く間にそのニュースは世界中に広まった。それまで彼が公表しなかったのは、彼がともに暮らした仲間や、家族、友人たちに対する気持ちからだったという。当時のエイズへのイメージや特性により、大衆から眉をひそめられたり、根掘り葉掘り詮索されたりすることから、愛する人々を守りたかったのである。
その翌日、11月24日、フレディ・マーキュリー永眠。享年45という若さだった。彼が息を引き取ったのは、ジムたちがフレディを着替えさせようと抱きかかえた時であったという。愛する人たちの腕の中で、彼は最期を迎えたのだ。彼の左手の薬指には、ジムとのウェディングリングが灰になるまではめられていたという。死因はエイズの合併症、「ニューモシスチス肺炎(カリニ肺炎)」だった。

今もなお生き続けるフレディの音楽

1980年代後期、アルバム「ザ・ミラクル」リリース時のクイーン。フレディ(一番右)は、この時すでに自分のエイズ感染を知っていたが、最後まで、音楽への情熱とユーモアを失うことはなかった。
By Simon Fowler, © Queen Productions Ltd
1995年には、死の間際まで音楽のアイデアを持ち続けたフレディが残した音源を元に、残された3人のメンバーがクイーン20作目アルバム「メイド・イン・ヘブン」を発表する。
フレディの死後も、彼とクイーンへの賞賛は高まるばかりだ。
2002年には、「ボヘミアン・ラプソディ」がジョン・レノンの「イマジン」などを押さえ、ギネスブック認定の「英国で最も愛されるシングル」の一位に選ばれた。また、クイーンのベスト・アルバム「グレイテスト・ヒッツ」の「英国で一番売れたアルバム」という記録は、未だに破られていない。
日本でも、2004年木村拓哉が主演し、クイーンの曲が数々使われたフジテレビ系月九ドラマ「プライド」をきっかけに、日本限定のクイーンのベスト・アルバム「JEWELS」が、170万枚以上を売り上げる大ヒットを達成。これにより、クイーン再ブームが訪れた。
スポーツシーンで「ウィ・ウィル・ロック・ユー」「伝説のチャンピオン」は定番曲と化す。2005年、08年に行われたクイーン+ポール・ロジャースのライブでも、「ボヘミアン・ラプソディ」の演奏中、フレディの歌う姿が映し出された時には、会場は大歓声と大合唱に包まれた。
彼は、今もなお私たちの元に、色あせることのない歌を届け、時に慰め、励まし、元気をくれる。
時にはやりすぎとされることもあったが、フレディは愛する音楽と、人生を、楽しみ抜いた。悔いなく生きるということにおいて言えば、これは何より幸せなことではないだろうか。短い生涯ではあったが、愛する人や大切な仲間たちと出会い、エネルギーを思いっきり発散させながらまっとうしたのだから。
「退屈」を何より嫌った彼は、死後も私たちを飽きさせることなく、とことん楽しませてくれる、生粋のエンターテイナーなのである。きっと、これからもずっと。

ロンドンの 「フレディ詣で」に出かけよう!

フレディがクイーンとして成功し、そして生涯を閉じたロンドン。フレディの遺骨は遺族による火葬の後、散骨されたそうだが、彼のお墓は「誰にも掘り起こされずに、静かに眠りたい」という遺言から、場所は明らかにされていない。「ガーデン・ロッジ」の庭に埋められたという説もあるが、真相は謎のままだ。とはいえ、「フレディ詣で」に行きたいという読者のために、おすすめの地を紹介しよう。

「ガーデン・ロッジ」(Garden Lodge)

フレディ・ファンにとっては聖地ともいえる、彼が晩年を過ごした家。ロンドン、アールズ・コート(1 Logan Place)にあり、入口の緑のドアにはファンによるメッセージがたくさん書き込まれている。高い壁に囲まれているため、家の様子は屋根しか見えないが、ここでフレディが死を迎えたと思うと感慨深い。彼の命日11月24日には毎年、世界中からファンが集まり、たくさんの花束がたむけられる。今はあくまでメアリーがその家族とともに住んでいる家だということを忘れず、迷惑のないように訪れよう。

「ブリティッシュ・ミュージック博物館」

2009年3月にオープンした、英国を代表するミュージシャンの衣装などが展示された博物館。クイーン関連では、フレディが1986年のマジック・ツアーで着た「ジャケットとパンツ」、ブライアンのギター「レッド・スペシャル」、ロジャーのクイーンの紋章入り「バスドラム」、ジョンの「『ブレイク・フリー』の直筆の歌詞」を見ることができる。様々なミュージシャンによるバーチャル・ステージでは、クイーンが「伝説のチャンピオン」でトリを務めており、短いが、一見の価値あり。難曲「ボヘミアン・ラプソディ」の録音にも挑戦してみては?
British Music Experience
The O2, Peninsula Square, London SE10 0DX
www.britishmusicexperience.com
Tel:0844-847-1761

マニア向け「ウェブで調べる縁の地」

フレディとメアリーが70年代に暮らした家、「ボヘミアン・ラプソディ」が録音されたスタジオ、フレディの火葬場など、マニアックなフレディ&クイーン縁の地は、住所、交通アクセスを含め、下記ホームページで調べることができる。ロンドンでのフレディの足跡をたどることは、ファンには感慨深いはずだ。
Queen Concerts内のQueen places in London
www.queenconcerts.com/london.html

フレディの遺言を遂行しよう!
マーキュリー・フェニックス・トラスト
- Mercury Phoenix Trust -

フレディの「共にエイズと闘って欲しい」という遺言により、クイーンのメンバーと、マネージャーのジム・ビーチ氏は、1992年、基金団体、「マーキュリー・フェニックス・トラスト」(通称MPT)を設立。エイズと闘う世界中のチャリティ団体への支援などの活動を続けている。

週刊ジャーニー No.572(2009年4月30日)掲載


映画のすべてを知りすぎていた男 アルフレッド ヒッチコック

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映画のすべてを知りすぎていた男 アルフレッド ヒッチコック [Alfred Hitchcock]
『知りすぎていた男』や『サイコ』をはじめとした数々の名作を生み出し、現在でもサスペンス映画の神様として称されるアルフレッド・ヒッチコック監督。生涯に制作した作品は53作にも上り、悪夢を紡ぎ出す手腕は他の追従を許さない。「シルエットだけでわかる監督はチャップリンとヒッチコックだけ」といわれる程の、ユーモラスとも言える特徴ある風貌の下にはどんな素顔が隠されているのか。観客を怖がらせることに心血を注いだ、「サスペンスの巨匠」の生涯を辿ってみたい。

●参考文献『It's Only a Movie - Alfred Hitchcock A Personal Biography』Charlotte Chandler著、『定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー』山田宏一・蓮實重彦訳

●Great Britons●取材・執筆/佐々木敦子・本誌編集部

主題なんか、どうでもいい。演技なんか、どうでもいい。大事なことは、映画のさまざまなディテールが、映像が、音楽が、純粋に技術的な要素のすべてが、観客に悲鳴をあげさせるに至ったということだ。大衆のエモーションを生みだすために映画技術を駆使することこそ、わたしたちの最大の歓びだ。(中略)観客をほんとうに感動させるのは、メッセージなんかではない。俳優たちの名演技でもない。原作小説のおもしろさでもない。観客の心をうつのは、純粋に映画そのものなのだ。(―定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー 訳:山田宏一・蓮實重彦)

1960年作『サイコ』の大ヒットに満足したヒッチコックは、フランスの映画監督フランソワ・トリュフォーとの対談で上記のように語っている。役作りに悩む俳優から助言を求められると、「たかが映画じゃないか」という言葉をしばしば口にしたという。ありふれた日常に潜む恐怖や、幸せと隣り合わせに存在する悪など、白日のもとに襲い来る恐怖に心引かれたというヒッチコックは、後年インタビューで「人間は本当に恐ろしいものからは目を背けるものだ。映画はしょせん映画だよ。一番怖いのは現実なんだ」とも語っている。冒頭の作品を始め、『鳥』『北北西に進路を取れ』『裏窓』『めまい』など、エンターテインメント色の強い作品をハリウッドで数えきれない程制作しながらも、常に冷めたシビアな視点を維持していたように思われる、ヒッチコック監督の秘密を探っていこう。
アルフレッド・ジョセフ・ヒッチコック(Alfred Joseph Hitchcock)は、1901年に幕を閉じることになるヴィクトリア朝の最後期にあたる、1899年8月13日にロンドンのイーストエンド、レイトンストーンの青果商の次男坊として誕生する。当時は産業革命による景気の拡大が既にピークを越え、英国経済は次第に陰りを見せ始めていた。失業者が増加し社会主義も台頭する中、街頭では労働者たちによるデモが絶えず、また『切り裂きジャック』として知られるホワイトチャペルでの連続殺人事件も、まだ人々の記憶に新しい時代であった。
そんな状況にあって、アルフレッド・ヒッチコックの生家である青果商店は、父親のウィリアムによって手堅く営まれており、一家は裕福とまではいえないまでも、比較的余裕のある暮らしを送っていた。末っ子でもあったアルフレッドは、年の離れた兄姉が家業を手伝う中、地図や列車の時刻表を眺めて空想旅行を楽しんだり、窓からの眺めをスケッチしたりと、一人でおとなしく遊ぶ夢見がちな少年だったという。
プロテスタントの多いイングランドには珍しく、敬虔なカトリック教徒だった一家は、近所の人々から「ちょっと変わった家」と見なされていたようである。毎週日曜日にきちんと正装し家族揃って教会へ出かけたが、特に熱心な母親のエマが教会へ行かなかったのはただの一度だけ、それはアルフレッドを出産した日曜日のみだったという。父のウィリアムは堅実かつ厳格な人物で、過度に道徳を重んじるヴィクトリア朝の時代にありがちな価値観の持ち主だったようだ。ある時、彼が幼いアルフレッドに施した「ちょっとした教育」が、その後のアルフレッドの人生に影響を及ぼすトラウマを植え付けることになる。

警官嫌い

アルフレッド・ヒッチコックが4、5歳の時のこと、父親の言いつけで知り合いの警察署長に手紙を持って行くお使いに出された。警察署長はその場で父親からの手紙を読むや否や、いきなりアルフレッドを留置所に閉じ込めてしまったという。5分後には釈放されたものの、恐怖におののくアルフレッドにはそれが数時間にも感じられた。釈放後「悪い子にはこうするんだ」(This is what we do to naughty boys.)と署長に言われたが、彼は悪いことをした覚えもなく、ただひたすら恐ろしがるばかり。成人した後ですら、背後で閉まる重い鍵の音や、暗くて長い刑務所の廊下の様子などをありありと思い浮かべることが出来たという。父親ウィリアムの思惑は予想以上の効果をもたらし、ヒッチコックはこれが原因で警官に恐怖を抱くようになり、子供心に「警察にお世話になる様なことは絶対避ける」と誓った。やがて成長するに従い、それが権力への漠然とした恐怖感や嫌悪へと転化していくわけだが、『間違えられた男』(1956) や『北北西に進路を取れ』(1959) をはじめ、ヒッチコック作品に「身に覚えのない罪で追われる主人公」が繰り返し登場するのは、幼い頃に起きたこの事件の影響だという。
やがてアルフレッドはロンドン北東部トテナムにある、聖イグナチウス・カレッジというイエズス会の寄宿学校に通い始める。ヒッチコックと同級生だったヒュー・グレイ教授は後に当時のヒッチコックの姿を回想し、「休み時間に校庭へ出ても、他の子供たちとけっして遊ぼうとしない丸顔の太った少年」と表現している。スポーツが苦手で、自分の体型にコンプレックスを抱いていたアルフレッドは、仲間の少年たちが校庭で無邪気に走り回るのを離れたところから観察したり、読書に没頭して一人で時間を過ごすような、孤独で無口な少年だったようだ。ヒッチコックはこの時代の愛読書にエドガー・アラン・ポーやコナン・ドイル、そしてディケンズの著作を挙げている。
当時のイエズス会の寄宿学校は体罰の厳しいことで知られ、若いヒッチコックの通う聖イグナチウス・カレッジもその例外ではなかった。教師たちはクジラの骨で出来たムチを持っており、言いつけを守らない生徒を、罪の重さに応じて規定の回数ビシビシ打ったという。ヒッチコックはフランソワ・トリュフォーとのインタビューに答えて、何かムチで打たれる様な悪いことをしたのではないかという恐怖心が常にあり、体罰が恐ろしくていつもビクビクしていたと当時を振り返っている。
さらに、悪とは何か、善とは何かを考えるきっかけにもなったとして、カレッジで学んだことがいかに映画作りに役立っているかを、皮肉まじりに語っている。また体罰そのものよりも、エンマ帳に彼の名前がメモされ、放課後改めて呼び出しを受けるまでの「猶予時間」こそが、体罰それ自体よりも恐ろしかったと強調しており、これはまさにヒッチコックが観客をジワジワと怖がらせるために用いた、彼の映画手法と同じであるともいえる。

1914年、第一次世界大戦勃発の年に、父親のウィリアムが心臓麻痺のため52歳で急死。ヒッチコックは15歳になったばかりだった。兄が家業を継ぐことになり、アルフレッドも聖イグナチウス・カレッジを去り、手に職をつけるための訓練校である海洋技術専門学校に入学。そこで技師になるために必要な電気工学などを学んだ後、W・T・ヘンリー電信会社に勤め始める。当初ヒッチコックの担当は海底ケーブルの電力測定だったが、単調な仕事に飽き足らなくなった彼は、同社の広告デザイン部門へ押し掛けて、難なくグラフィック・デザイナーとしての仕事を得てしまう。そこで広告やチラシのデザインを始めたヒッチコックは社内報の編集も手伝い、時には自分で書いた短編小説も掲載した。その中の一作である『Gas』は、パリに出かけた英国人女性がギャングに誘拐され、セーヌに投げ込まれる話だが、最後にはそれが全て、その女性が歯医者の診察台の上で空想した事だったという、いかにもヒッチコックらしい話のオチがついている。
こうして彼の社会人生活が始まったわけだが、仕事の後は同僚たちとパブへ行くわけでもなく、ロンドン大学のイブニング・コースでドローイングを習っていた。そして休日には一人でアメリカ映画を観に行き、映画産業の業界誌を眺める毎日だったという。

映画との関わり

幼い頃から人付き合いが悪く、一人で過ごす時間の多かったヒッチコックだが、芝居好きだった両親の影響もあり、16歳頃から映画や演劇に興味を持ち始めた。好きな映画はチャップリンやD・W・グリフィス作品。当時人気のあったバスター・キートン、ダグラス・フェアバンクスの出演作も観たという。また、F・W・ムルナウやフリッツ・ラングといったドイツの巨匠が作りあげる奇妙な世界にも心惹かれていた。映画雑誌も多く購読したが、それはよくあるファン雑誌ではなく、制作に関する技術雑誌や業界誌ばかりだったとされている。「監督になるつもりは全くなかった」と語るヒッチコックだが、何らかの形で映画の世界に関わりたいという気持は常にあったようだ。
1919年、そんな彼にいよいよ転機が訪れる。いつものように読んでいた業界誌に、フェイマス・プレイヤーズ・ラスキー(Famous Players-Lasky:のちのパラマウント社)という米映画会社のロンドン支社設置のニュースが載っていた。イズリントンに撮影所を建設中で、製作予定作品のラインナップも発表されている。ヒッチコックは早速自分なりに字幕デザインのサンプルを作り上げると、映画支社に駆けつけた。そして自分の作ったデザインを見せると、「映画を撮影する際に必要になるだろうから置いて行きます。ご自由にお使いください」と言ったという。生来の性格に似合わぬ強気の行動には驚かされるが、ヒッチコック自身「若くて物を知らないからできた事だ」と回想している。
このおかげでフェイマス・プレイヤーズ・ラスキー社の字幕制作班に配属されることになったヒッチコックは、そこで数多くのアメリカ人脚本家たちと知り合い、シナリオの書き方を学んでいくことになる。
サイレント映画では、俳優は口を動かしているだけで、セリフはそのあとに字幕で出る。つまりテキスト次第で登場人物にどんなことも言わせることができるため、字幕テキスト上で脚本が書き直されることも度々あったという。わずか3年後、フェイマス・プレイヤーズ・ラスキーのロンドン支社は業績不振により閉鎖されるが、その間にヒッチコックは映画作りの過程を内側から観る幸運に恵まれ、字幕制作はむろん、脚本や美術なども手掛け、助監督的な仕事すらこなすようになっていた。ヒッチコックの未完の処女作『第十三番』はこの頃作られたコメディだが、ヒッチコックの言葉を借りれば「ハリウッドでチャップリンと仕事をしたことがあるというだけで、皆に天才扱いされていた女性」―アニタ・ロスの脚本によるお粗末な作品だったようで、ヒッチコック自身はこの作品を処女作と呼ばれることを嫌っている。幸か不幸かフェイマス・プレイヤーズ・ラスキー社がロンドン支社を閉鎖したため撮影も中止になり、この作品は「世に出ないで済んだ」のである。

凝り性だったヒッチコック

恐怖の純度を上げるため、効果的な映像を得ようと様々な工夫を凝らしたヒッチコック監督。
そんなことまでやっていた!?と驚いてしまうようなエピソードをご紹介しよう。

【1】下宿人 (1926年)
The Lodger: A Story of the London Fog

『下宿人』のワンシーン
2階に住む下宿人が殺人犯である可能性が濃厚になり、それに気づいた娘と恋人が小声で話し合っていると、頭上で下宿人が神経質に歩き回る足音が聞こえて来る…… 
→この時代はまだサイレント映画。どうやって頭上の足音を表現したのか。ヒッチコックは大きな透明のガラス板を天井にはめ込み、その上を歩き回る下宿人を下から撮影した。観客は2階の床の上を歩く殺人者を、まるで自分の頭に思い描いたかのように見ることができる。

【2】断崖 (1941年)
Suspicion

『断崖』のワンシーン
浪費家でウソつきの男性と結婚してしまったヒロイン。彼女は夫が殺人者で、いつか自分も殺されるのではないかと思い始める。ある日、夫が妻に飲ませるため毒入りのミルクを持って階段を上がってくる……
→このシーンでヒッチコックは、観客の眼がミルクの入ったコップだけに注がれるように、ミルクの中に豆電球を入れたという。おかげでミルクの白さが輝く印象的なシーンが出来上がった。

【3】ロープ (1948年)
Rope

『ロープ』のセット風景に腰掛けるヒッチコック©Universal Studios
ニューヨークの高層マンションの一室で、ある日の夕方から夜までの1時間45分の間に起きた殺人事件を、進行時間そのままに映画に置き換えた。カメラは切れ目なくワンカットで事件を追っていく……
→マンションの外景は遠近感をだすためにマンションのセットより3倍大きくつくり、透明なワイヤーで雲も浮かべた。さらにスタッフたちがこの雲を少しずつ移動させ、時間の経過を表現したという。

【4】北北西に進路を取れ (1959年)
North by Northwest

『北北西に進路を取れ』の国連本部のセットで演技指導をするヒッチコック=写真中央©MGM
米国情報部が敵のスパイを欺くために作り上げた架空の人物に間違えられた男性が、スパイたちから命を狙われる……
  →主人公が駆け込んだ国連本部の建物は、内外とも全てセット。国連内での撮影は禁止されていたため、隠しカメラで資料になる写真を撮影し、本物と一分も違いがないように作り上げた。これはヒッチコックが常にこだわる点で、どの作品も実際の場所で撮影できない場合は、本物そのままのセットで再現した。

【5】鳥 (1961年)
The Birds

『鳥』のセットにて。ヒッチコックとメラニー・ダニエルズ©Universal Studios
屋根裏部屋に向かったヒロインが鳥たちに襲われる……
→機械仕掛けの精巧な鳥や、よく調教された鳥を使うことも考えたヒッチコックだが、結局はヒモで足を結わえた本物の鳥を大量に使うことに。そのためヒロインのメラニー・ダニエルズは実際に鳥たちに襲われ、顔などに深い傷を負った。これが原因で彼女とヒッチコック監督の関係は不和になったといわれる。なお、鳥の不気味な鳴き声や羽ばたきの効果音は、作曲家のバーナード・ハーマンが電子音を使い編集した。

監督としての出発/伴侶との出会い

デビュー作『快楽の園』のセットにて
©Granada International
1922年にフェイマス・プレイヤーズ・ラスキー社が撤退した後、英国の映画会社であるゲインズボロ・ピクチャーズ(Gainsborough Pictures)が撮影所を買い取り、ヒッチコックを始めとする多くのスタッフが、そのまま撮影所に残ることになる。ヒッチコックはここで助監督として5本の作品を撮っているが、そのうちの『女対女』(1922)を作るにあたり、アルマ・レヴィルという女性をフィルムの編集に抜擢する。後にヒッチコックの妻となる彼女は、これ以降57年にわたり常にヒッチコックを影で支えるかけがえのないパートナー、そして彼の作品のよき理解者として存在していくことになる。

1926年12月2日、挙式したヒッチコックとアルマ
1925年、26歳のヒッチコックは初の監督作品『快楽の園』に着手する。オリヴァー・サンデスの原作を基にしたメロドラマ色の強いサスペンス物で、英独合作としてミュンヘンで撮影された。第一次世界大戦後の当時はヨーロッパ映画界の好況期にあたるが、なかでもドイツは映画製作会社ウーファ(UFA: Universum Film AG)に牽引され、『カリガリ博士』(1920) 『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922) 『メトロポリス』(1927) といった数々の実験的で過激な名作を生み出し、ドイツ表現主義映画の隆盛期にあった。ヒッチコックはそこで英国映画にない最先端の技術や、斬新なカメラワークを貧欲に吸収していく。もっとも影響を受けた監督はF・W・ムルナウで、『吸血鬼ノスフェラトゥ』や『最後の人』(1924)などの斬新な演出で知られるこのサイレント期の巨匠から、「言葉に頼らず映像だけで映画を作ること」を学んだという。のちのインタビューでも「映像は映るものではなくて、つくるものだ」、つまり見えるものを単に映すのではなく、頭の中で厳密にイメージした映像を再現することが、結果的に映画のリアリズムに達する方法だと語っている。ヒッチコックの映画作りにおいて最も重要な点のひとつであろう。現にヒッチコックは全ての絵コンテを撮影開始までに完成させ、一度決まった構図は俳優の位置を含め1センチ足りとも動かさなかった。コンテをカメラマンに渡し、現場ではカメラを覗かなかったヒッチコックにとって、俳優の余計な動きや演技などは、煩わしいだけであった。

娘のパトリシア、妻アルマと
監督3作目にあたる『下宿人』(1926)は、写実を排し象徴や比喩をふんだんに用いるドイツ表現主義的手法と、ヒッチコックのストーリー作りが見事に融合した、「ヒッチコックらしさ」のあふれた最初の作品といえる。自分の作品中にこっそりカメオ出演することで知られるヒッチコックだが、この『下宿人』において初めてスクリーン上にその姿を見せている。本作のヒットで一躍有望な若手英国監督として認められた彼は、その後も矢継ぎ早に作品を発表していく。1928年には一人娘であるパトリシアも誕生し、ヒッチコックは公私ともに充実した日々を送る。

出たがりだった(?)ヒッチコック

ヒッチコックが自分の作品中にほんの一瞬だけ登場することはよく知られているが、これは初期の作品でエキストラに欠員が出たり、予算不足でエキストラが雇えなかったりといった単純な理由で始まったことだった。やがてヒッチコック作品に人気が出るとともに、恰幅のよい監督の姿を探すファンが増え、いつのまにかカメオ出演は恒例になった。その多くは通行人役で、バスに乗り遅れる人物であったり(『北北西に進路を取れ』)、プードルを連れてペットショップからでてくる男性(『鳥』)であったりする。
ただしヒッチコックは『救命艇』(1948年)制作の際、自分の出演場面を決めるのに大いに苦労した。この作品は第二次世界大戦中、1隻の救命艇に乗り合わせた9名の男女の物語で、舞台は海上であるから、いつものような通行人役はあり得ない。ちょうどこの頃減量に取り組み、50キロのダイエットに成功していたヒッチコックは、記念に撮ったダイエット前とダイエット後の写真を組み合わせ、劇中の人物が読む古新聞の広告欄に自分を登場させた。『Reduco』という架空のやせ薬の広告がそれで、作品封切後には、『Reduco』はどこで手に入るのか、という問い合わせが殺到したという。
テレビ『ヒッチコック劇場』を始め、『サイコ』や『鳥』の予告編では自ら作品を解説するなど、カメラの前に出ることを厭わなかったヒッチコック監督。自分の太った姿を映すのがイヤで、鏡はなるべく見ないようにしていたという逸話も残っているが、実は映画出演を案外楽しんでいたのではないだろうか。

写真左上:『泥棒成金』のワンシーン。バスでケイリー・グラントの隣に座るヒッチコック。出演時間10秒。
写真左下:『第3逃亡者』でカメラを持ち裁判所の前に立つヒッチコック。出演時間15秒。
写真右:『私は告白する』で階段から続く道を横切るヒッチコック。出演時間1秒。©Warner Brothers

ハリウッドの英国人として

ヒッチコックが家族と共にハリウッドに移ったのは1939年。米国プロデューサーからの製作依頼がきっかけだった。ロンドンでは米国映画会社に勤めたこともあり、何より米国映画を偏愛していたヒッチコックにしては、このハリウッド行きは遅いようにも思える。映画監督フランソワ・トリュフォーは、ヒッチコックを「ハリウッドで映画を撮るために生まれてきた様な人間」といい、それにも関わらずヒッチコックが英国にしばらく留まっていたのは「こちらからノコノコ出かけて行くのではなく、ハリウッドから招かれるまで待っていた」とし、ヒッチコックの自尊心の強さが理由だろうと推測している。
この頃すでにヒッチコックは英国でもっとも才能ある監督の一人に数えられており、俳優より小道具に気を配るという評判や、「俳優は家畜だ」という毒舌でも知られ、ひねりのあるユーモアを持つ少々エキセントリックな人物という風評を得ていた。さらに、幼い頃から太り気味だったヒッチコックだが、肥満に関する問題は成人してからも続いていた。若い時から美食を好んだ彼は、撮影合間の昼食もフルコース並みだったという。お気に入りのメニューはステーキ、ポテト、サラダで、毎日好んで同じものを食べた。昼食に招かれた俳優たちは、その量の多さに驚いている。
また、ヒッチコックと言えば黒のスーツに黒のネクタイが定番だが、自宅のワードローブには何十着もの仕立ての良い黒いスーツが並び、どれもほとんど同じデザインだったとされる。まだ冷房装置もない時代、ライトの照りつけるスタジオで、背広も脱がずネクタイさえ緩めないヒッチコックの姿は、米国においてはかなり異質なものに映ったであろう。これは青果商の父親がいつもきちんとした服装で働いていたという、ヒッチコックの思い出に繋がっている。「レタスに敬意を表していたわけではなく、自分の仕事に誇りをもっていたから」ネクタイを緩めなかったのだとして、自分のスーツ姿にも同じ意味合いがあるとしている。

米国進出第1作目となった『レベッカ』の撮影風景。ローレンス・オリヴィエ=写真右、ジョーン・フォンテイン=同中央=と。 ©ABC/Disney/Buena Vista
米国での第1作は、英国の女流作家ダフネ・デュ・モーリアの小説を映画化した『レベッカ』(1940)。ヒッチコックはハリウッド進出当初、プロデューサーから英国がらみの作品ばかりを依頼されている。だが米国人の考える「英国」のイメージを忠実になぞらなければいけないことや、ロンドンの街中で男性がふつうに使う言い回しが、米国では「ホモセクシャル的」として、即座に書き直しを命じられてしまうなど、ヒッチコックは英米の違いにかなり頭を痛めたようだ。さらに、当時のハリウッドではミステリーやサスペンスなどのジャンルは「B級映画」と考えられていたため、ヒッチコックが出演依頼をした有名俳優たちの多くが、その依頼を断って来るという悲劇にも見舞われた。
ヒッチコックがハリウッドに移って間もなく、第二次世界大戦が勃発。1940年にはドイツ軍による英国本土爆撃が激化し、戦火は次第にヨーロッパ全土へと広がっていく。連合国に危機が迫っている時期に、一人ハリウッドで安穏としているべきではないと考えたヒッチコックは、1944年にロンドンへ飛び、フランスの対独レジスタンス運動を称賛する2本の短編作品を作り上げる。さらに翌年のドイツ降伏の際には、英国情報省(Ministry of Information)の依頼で、終戦直後のユダヤ人強制収容所の記録映画製作にも協力している。収容所を訪れたヒッチコックは、想像を遥かに超えた惨状に非常なショックを受けるが、いかなる状況であろうと目を背けずに記録しようと決意する。
だが出来上がった記録フィルムを観た英国政府は、その作品があまりにも残酷に描かれていることに驚き、これをお蔵入りにしてしまう。フィルムは、収容所で骨と皮ばかりになり、目の落ち窪んだユダヤ人たちの死体のアップと共に、赤い頬をして健康的な、収容所近隣に住む小太りの一般ドイツ市民を映し出しており、そこにヒッチコック自身のユーモアを交えた辛辣なナレーションがかぶさるショッキングな出来映えで、有刺鉄線に隔てられた2つの世界の違いをあますことなく捉えている。
英国政府は「敗戦から立ち直り、これから新たに国を建て直そうとしているドイツ国民に、このような物を見せるのはモラルに反する」というのを理由に上映を禁止。ヒッチコックは落胆し、冒頭の名言、「どんなに怖くても映画はしょせん映画だよ。一番怖いのは現実なんだ」を吐いた。ちなみに本作品にタイトルはなく、単に整理番号『F3080』、通称『Memory of the Camps』と呼ばれ、この作品が初めて日の目を見るのは、約40年後の1980年代後半、英国のテレビ・ドキュメンタリー番組『A Painful Reminder』としてであった。この時も、ショックを受けた視聴者からの非難がテレビ局に殺到したという。

写真左:『裏窓』のセットにてジェームズ・スチュアート=左=とグレース・ケリー=同中央=と。©Universal Studios
写真右:『めまい』のセットにてキム・ノヴァクと。©Universal Studios

愛妻家だったヒッチコック

自作のヒロインにクールなブロンド女性を起用することが多かったヒッチコック監督。だが彼の「ブロンド好み」は作品中のことに過ぎず、実生活において彼が生涯を通じて愛した唯一の女性は、妻のアルマ・レヴィルだった。彼女は小柄で赤毛の可愛らしい英国人女性で、巨体のヒッチコックと彼に寄り添う小さなアルマのおしどり夫婦ぶりは、映画界では有名だったという。ヒッチコックは仕事上で大切な決断をする際に「うちへ帰ってマダムに相談するよ」としばしば言ったそうで、アルマに対する彼の信頼の程が伺われる。
20歳のヒッチコックが字幕制作係としてフェイマス・プレイヤーズ・ラスキー社に入社した時、アルマはすでにスクリプト担当のベテランだった。それまで女性とつき合った経験もなく奥手だったヒッチコックは、明るく皆の人気者だったアルマになかなか声をかけることが出来ずにいたという。最初の出会いから実に3年後、ヒッチコックがアルマに仕事依頼の電話をかけたのがきっかけで、それ以降、彼女は常にヒッチコックを影で支える重要なパートナーになる。2人は1926年の12月に結婚するが、プロポーズはドイツでの撮影が終了し英国へ向かう船上で、アルマはヒッチコックの助監督として同行していた。あいにく折からの悪天候で船の揺れがひどく、激しい吐き気に悩まされていた彼女は、ヒッチコックの申し出に、口を覆ったままうなずいたという。
撮影のない時、ヒッチコックはアルマと一緒に過ごす時間を何よりも楽しみにしており、ほとんど外出もしなかった。インタビューでも、夕食後二人で一緒にソファに座り、黙って別々の物を読む静かな楽しみについて言及している。ヒッチコックはタイムズ紙を、アルマは小説を好んだが、それが次の作品のアイデアに繋がる場合もあったといわれる。1979年にヒッチコックが米国映画協会(American Film Institute)から功労賞を贈られた際、ヒッチコックは「この場を借りて、特に4人の協力者の名前を挙げてお礼をいいたい。—編集者、脚本家、我が娘パットの母親、そして素晴らしい料理を作る家庭人。—この4人とはいずれも我妻アルマ・レヴィルのことです。彼女なしでは、今の私も存在しないのです」とスピーチしている。
ヒッチコックは晩年、肥満が原因の病に悩まされるが、彼と同年齢のアルマも看護師に付き添われる毎日であった。アルマに先立たれ自分だけが取り残されてしまうのではないかという恐怖心は、ヒッチコックを酒びたりにし、プロダクション事務所から泥酔状態のところを担がれて帰宅することも度々あったという。「絶対に妻より先に死にたい。彼女なしでは生きて行けないから」と言われていたアルマは、夫の言いつけを守る様にヒッチコックの死を見届け、そのわずか2年後に死去する。

お茶の間の人気者に

『白い恐怖』(1946)以降、デヴィッド・O・セルズニックを始めとする、口うるさい辣腕米国プロデューサーとの契約が切れたヒッチコックは、自らのプロダクションを立ち上げ、以後全ての自作のプロデュースに携わる。これによりヒッチコックは水を得た魚のようにヒット作を放ち始める。

写真左:最愛のアルマと
写真中:『サイコ』セットにて。ジャネット・リーにアドバイスするヒッチコック
写真右:『マーニー』の撮影風景。ティッピ・ヘドレン=左、ショーン・コネリー=中央=と。©Universal Studios
1955年以降は彼の最も創作活動の盛んな時期であり、『知りすぎた男』『めまい』『北北西に進路をとれ』『サイコ』『鳥』などを矢継ぎ早に発表する。さらにテレビという新しい映像媒体にも興味を向け、米テレビ・シリーズ『ヒッチコック劇場』(原題 : Alfred Hitchcock Presents)を総監修する。これは1962年まで放映された毎回完結の短編サスペンスドラマ・シリーズだが、どのエピソードにもユーモアやどんでん返しの妙味が効いた人気番組となった。葬送行進曲で始まるこの番組は、ヒッチコック自身も数エピソードを監督する他、自ら司会役を買って出て、番組内の冒頭と終わりに軽妙なユーモアを交えた解説を行い、一躍お茶の間に顔を知られることになる。このシリーズは日本を含む海外でも放映され(日本では朝倉一雄がヒッチコックの声を担当)、当時は新人であったロバート・アルトマン、アーサー・ヒラー、シドニー・ポロックといった現在米映画界で活躍する有名監督たちの作品も見ることができる。

写真左:『北北西に進路を取れ』の出演者と。左からケイリー・グラント、エヴァ・マリー・セイント、ヒッチコック、ジェームズ・メイソン
写真中:『鳥』のセットにて=写真中央 ©Universal Studios
写真右:『ヒッチコック劇場』でおどけた司会役をこなすヒッチコック©Universal Studios
1960年代に入ると、「ウーマンリブ」と呼ばれる女性解放運動が米国に吹き荒れる。ちょうど同じ頃、ヒッチコック作品のヒロインたちが皆「ブロンド美人」ばかりであるという批判が噴出した。確かにヒッチコックは好んでブロンドの女性を起用しており、中でもグレース・ケリーは大のお気に入りだった。ヒッチコックによれば、彼が都会的なソフィスティケートされた金髪美人ばかりを使う理由は、「内面に炎のように燃える情熱を秘めながら、表面は冷ややかに慎ましやかに装っている女性」の方が驚きや発見があり、サスペンスに向いているからとのことで、マリリン・モンローやブリジッド・バルドーのような開けっぴろげな性的魅力を持つ女性には驚きがない、と説明している。ヒッチコックが俳優を小道具のように扱うといわれる所以だろう。ベトナム戦争やヒッピー・ムーブメントが起こる中、ヒッチコック作品の登場人物たちは、ヒッチコックの黒いスーツ姿と同様に、次第に「時代遅れ」の様相を示し始めていた。

東ロンドンのレイトンストーンにあるヒッチコックのブループラーク
1960年代後半、長年ヒッチコックの手足となって働いてきたスタッフの死が相次ぐようになる。ヒッチコックの気性もクセも心得ていた彼らの死は、妥協をしないヒッチコックには大きな痛手であった。さらに、肥満が原因で次第に歩行に困難を感じ始めてもいて、『ファミリー・プロット』(1976)の撮影中に心臓発作を起こした彼は、歩くことができずに車の中から指示を出していたという。
次作『みじかい夜』のシナリオを前にスタッフと話し合うヒッチコックは、腎臓病と関節炎も併発しており、もはや自分が思うように映画を撮れない体であることに絶望していた。1979年5月、ヒッチコックは自ら「アルフレッド・ヒッチコック・プロダクション」の事務所を閉じてしまう。もう映画を撮ることができないということは、ヒッチコックには死を意味していた。『たかが映画じゃないか』といったサスペンスの巨匠にとって、映画は彼のすべてだったともいえる。翌年の4月29日、アルフレッド・ヒッチコックはビヴァリー・ヒルズの自宅で眠ったまま息を引き取る。80歳であった。死の半年前にナイトの称号を受けていたため、5月8日に故郷のロンドン、ウェストミンスター寺院で国葬扱いの礼拝が行われる。だが生前の希望通り遺体は米国で火葬にされ、遺灰は太平洋に散布された。2年後には妻のアルマの遺灰も、同じ場所で散布されたという。

ケイリー・グラントと。ヒッチコックが亡くなる前年の1979年の撮影。
東ロンドン・レイトンストーン生まれのアルフレッド・ヒッチコック卿の人生は、チャンスと才能と生涯の伴侶に恵まれ、好きなことだけをやり通した幸福な一生だったといえる。
ヒッチコックが『サイコ』を制作するまでの葛藤を描いたスティーヴン・レベロのノンフィクション小説『アルフレッド・ヒッチコック&ザ・メイキング・オブ・サイコ』をもとに、現在ヒッチコックその人を描いた映画が製作中だ。ヒッチコック役はアンソニー・ホプキンス、妻のアルマをヘレン・ミレンが演じるという。また、『鳥』をジョージ・クルーニーとナオミ・ワッツでリメイクする企画も進行中とのことだ。世の中に怖がりたい観客がいる限り、ヒッチコックの名は忘れ去られることはなさそうだ。

週刊ジャーニー No.585(2009年7月30日)掲載

英国繁栄の礎を築いた強運王 ヘンリー8世

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英国繁栄の礎を築いた強運王 ヘンリー8世
第二次世界大戦以降、「弟分」にあたる米国にトップの座を譲らざるをえなかった英国だが、かつては『日の沈まぬ国』と呼ばれ、世界をリードする大国として繁栄を謳歌していた。
この繁栄につながる転機のひとつとなったのは、カトリック教会からの決別だったといえよう。
その種をまいた、すなわち繁栄の礎の一角を築いたといえる人物、ヘンリー8世についてお届けする。

※本特集は2004年1月8日号の週刊ジャーニーに掲載したものを再編集してお届けしています。

● Great Britons ●取材・執筆・写真/本誌編集部

偉大なる王の条件

古今東西、偉大なる統治者の条件としてまず挙げられるのは「強運」であることだ。家柄が良いこと自体、すでに運が良くなければ叶えられぬことなのだが、たとえ王位継承権の順位があまり上位でなくとも、様々な出来事が重なった結果、即位して長く豊かな統治時代を築く、というパターンは多々見られる。英国王室に関していえば、エリザベス1世、ヴィクトリア女王、現女王陛下をはじめ、幼少のころは国家元首になるなど遠い夢、あるいは夢にも思わなかったケースも少なくない。
一見、「たまたま」即位したように思われる場合でも、それは運命という名の必然に導かれた結果であり、そうした運命は、強運と呼ばれるべきだろう。ヘンリー8世も、英国史において、強運を持つ統治者リストの上位にランクインすることは間違いない。本稿では、同王の強運ぶりを検証してみたい。

強運の証 その1
賢明なヘンリー7世の息子として誕生

チューダー朝を開いた王、ヘンリー7世。ヘンリー8世の父にあたる。
英国史では、ヘンリー7世ことヘンリー・チューダー(Henry Tudor 在位1485~1509年)はチューダー朝を開いた王として定義付けられている。ヘンリー・チューダーは、1455年から30年続いた「バラ戦争」の最中、いったんはフランスに亡命したが、1485年、ウェールズ経由で帰国を果たして進軍。ヨーク朝の最後の王、リチャード3世(在位1483~85年)をボズワースの戦いで戦死させ、その同じ戦場で電撃的に戴冠し、バラ戦争を終結させたのだった。
このバラ戦争は、名前のとおり、白バラを紋章の一部とするヨーク家と、赤バラを掲げるランカスター家の戦い。プランタジネット朝の第7代君主、エドワード3世(在位1327~77年)の三男からの血統を女子を経由して継承しているヨーク家は新興勢力(在野勢力)の代表格。対して、エドワード3世の四男の血統を引き継ぐランカスター家は、その支持者には古い家系の諸侯が多く、旧勢力(宮廷勢力)のもとじめ的存在。
かくして、白バラと赤バラの対決は、イングランドを二分する内乱として熾烈をきわめたのだった。
このバラ戦争が始まってまもなく、ランカスター朝(1399~1461年)は倒れ、ヨーク派のエドワード4世(在位1461~83年)が即位し、ヨーク朝がスタート。しかし、これも長くは続かず、わずか24年の後、チューダー朝にとってかわられてしまう。
チューダー家に幸運をよびこんだのは、ヘンリー・チューダーの祖父、オーウェン・チューダーだった。オーウェンは、ランカスター派のヘンリー5世(在位1413~22年)の未亡人であるキャサリンの後妻ならぬ「後夫」となり、ふたりの間にできた3人の男子のうち、長男がやはりランカスター派で、その中心的名門ボウフォート家の一人娘と結婚。そして生まれたのがヘンリー・チューダー(のちのヘンリー7世)である。このヘンリーは、即位後、ヨーク派のエドワード4世の娘との縁組を実行し、ランカスター派とヨーク派の和解に尽力した。
もともと、男子系の祖先がノルマン人でも、アングロ・サクソン人でもなく、ケルト系ウェールズ人という、異色のチューダー家出身であるヘンリー7世は、王家を名乗るには「血がいやしい」として軽蔑されることもあったとされ、ヨーク派の名門諸侯による陰謀・反乱の危機に常にさらされていたのである。
ヘンリー7世は、生真面目で君主としてきわめて有能だったという。商工業を奨励すると同時に、厳しく税をとりたて財政の立て直しに着手。また、星室庁(Star Chamber)裁判所を設置するなど、王権の強化をめざし、反対勢力の抑制に努めた。この賢明な王の跡を継ぐことは、恵まれたスタートラインを与えられたのと同じ。ヘンリー8世は父王に大いに感謝すべきだろう。

強運の証 その2
病弱な兄と対照的に文武に秀でたヘンリー

ヘンリー8世は、ヘンリー7世の次男として生まれた。もし、兄のアーサーが丈夫で、ある程度の統治能力ももちあわせていれば(無能な場合、王位から引きずり下ろされるのが普通)、生涯、「国王の弟」として終わっていた可能性もないとはいえない。しかし、これは論じても意味のない「もし」であろう。事実、アーサーは病弱で、即位することなくこの世を去ったのだ。
これに対し、ヘンリーは健康闊達、文武両道にわたり万能に近かった。ラテン語、フランス語、スペイン語などにも精通。乗馬、音楽、舞踏といったスポーツ・教養部門でも秀でた才能を示した。しかも、当時の基準でいうとハンサムで、体格にも恵まれていた。生まれながらにして、強運の遺伝子を有していたのである。
ヘンリーの最初の妻となったキャサリン・オブ・アラゴンは、兄アーサーの妻だった。キャサリンはスペイン国王フェルナンド5世の娘。まだ「二流国」に過ぎなかったイングランドにとって、大国スペインとの関係をより密接にするための政略結婚は必要不可欠なものだった。
キャサリンは16歳で、14歳のアーサーと結婚。しかし、そのわずか半年後にアーサーは病死、キャサリンは未亡人となってしまう。
当時、兄弟の妻と交わることは「姦淫」としてカトリックで禁じられていたが、8年後、ヴァチカン(教皇庁)からの赦免が得られ、ヘンリー7世の死去により即位したヘンリーとキャサリンの縁組が成立。ヘンリー、18歳の時のことだった。知性あふれるキャサリンは24歳という姉さん女房。政略結婚ではあったが、お互いに好意を抱いていたといわれ、結婚生活そのものはまずまずうまくいっていた。

強運の証 その3
第1の妻との間に男の世継ぎなし

左:ヘンリー8世の娘で、「ブラディ・メアリー」の異名を持つメアリー1世。
右:ヘンリー8世の息子で、9歳で即位したエドワード6世。15歳で病死し、王位はメアリー1世へ。
キャサリンは6人の子どもを出産したが、唯一生き残ったのは女子ひとり。これが後の「ブラディ・メアリー(Bloody Mary)」ことメアリー1世であるが、ヘンリー8世が切望した男子は、ひとりは生後数時間で、ひとりは数週間後に亡くなった。
英国では、女子による王位継承は否定されていなかったものの、女子が王位を継いだ場合、その夫(多くは国際結婚)、およびその背後にいる国家に干渉されることが大いに予想され、ヘンリー8世はそれを極端におそれ、男子の世継ぎにきわめて強いこだわりを見せていた。イングランドが国際社会で、他国の支配下に入ることなく生き残ることは、ヘンリー自身、および後継者の地位を保証することを意味する。自分のため、ひいては自国のため。ヘンリーが必死になるのも無理はなかった。
ヘンリーがキャサリンとの離婚を考えるようになったのは、彼女が42歳の時。キャサリン付きの女官のひとりであったアン・ブリンと恋に落ちたヘンリー8世が、カトリック教徒として破門されるよりアンとの恋を選んだと見る、ロマンチストも多いようだが、ヘンリー8世をつき動かしたのは、統治者としての危機感だったと見るほうが理屈にかなっているように思える。
ヘンリーには、愛人との間にできた男子もいたが、しょせんは庶子。婚外交渉により生まれた子どもに、正当な王位継承権は認められていなかった。なんとしても、健康な若い女性と結婚しなおす必要があったのだが、それは離婚を認めないカトリック、すなわちヴァチカンと正面から対立することを意味した。
そのころのヨーロッパはカトリック主体。イングランドも完全なカトリック教国だった。1519年、神聖ローマ帝国のマクシミリアン皇帝が死去したのをうけ、ハプスブルグ家の当主となったスペイン王カルロス1世がカール5世として即位。オーストリア、ドイツ、チェコ、オランダ、ベルギー、スペイン、イタリアの一部という、ヨーロッパ大陸の半分以上を領地として相続し、巨大帝国を統治下においたのだった。しかも、このカルロス1世(カール5世)はキャサリン・オブ・アラゴンの甥。
ヴァチカンとハプスブルグ家ににらまれては、当時の欧州では死刑を宣告されたも同然である。しかし、ヘンリー8世は、結果的に「宗教改革」への道を選ぶことになる。当初は、自殺行為ともとられただろうが、歴史を振り返ってみると、カトリックからの決別なくしてイングランドの真の繁栄はなかった。エリザベス1世が1588年にスペイン無敵艦隊を破り、本格的な世界貿易に乗り出すにいたって、それは初めて証明されるわけだが、キャサリン・オブ・アラゴンが健康な男子を生んでいたら、こうした展開にはなっていない。何が幸いするかわからないものだ。

離婚・熱愛・処刑…
ヘンリー8世と6人の妻たち

1番目の妻
キャサリン・オブ・アラゴン

後のメアリー1世の生母。ヘンリーは男児の世継を求めて離婚を決意。離婚問題によりカトリック教会と決別した。

2番目の妻
アン・ブリン

ヘンリーの猛アタックの末に結婚。後のエリザベス1世の生母。結婚から3年後、反逆罪で、ロンドン塔で処刑される。

3番目の妻
ジェーン・シーモア

アンの処刑から11日後に結婚。後のエドワード6世の生母。出産後の疲労と産褥熱により死去。

4番目の妻
アン・オブ・クリーヴズ

同盟相手を得るための政治的結婚。ヘンリーは肖像画を見て結婚を決めるが、実際は気に入らず、半年後に離婚した。

5番目の妻
キャサリン・ハワード

19歳のときに30歳上のヘンリーと結婚。奔放な性格で、王の目を盗み不貞を重ね、やがてロンドン塔で処刑された。

6番目の妻
キャサリン・パー

ますます気難しく、体が弱っていく晩年のヘンリーに尽くした良妻。4年弱の結婚生活の後、ヘンリーが崩御した。

強運の証 その4
宗教改革のおかげで財政ピンチも救われる

イングランドにおける「宗教改革」は、純然たる信仰上のものではなかった。政治的な色彩が濃く、国王と議会により進められたという点で、ヨーロッパ史上に登場する宗教改革とは異なっていた。
最初は、できればヴァチカンから破門されることなく、この離婚問題を解決したいと願ったヘンリー8世だったが、時の大法官、トーマス・ウルジー(Thomas Wolsey)による工作は不成功に終わり、ウルジーは失脚。かわって大法官となった、トーマス・モア(Thomas More)は、アン・ブリンとの結婚に反対の立場をとる道を選び、やはり大法官の地位を追われた。理想の世界をえがいた『ユートピア』を著したことでも知られる、このトーマス・モアは1535年、処刑されたのだった。
ここでもう2人のトーマスを紹介したい。1人は、ウルジー卿が失脚した後、事実上、ヘンリー8世の影の右腕として手腕をふるった、宮内長官トーマス・クロムウェル(Thomas Cromwell)。もう1人はカンタベリー大司教に新しく任命された、トーマス・クランマー(Thomas Cranmer)。この2人のトーマスは、ヴァチカンからの決別をためらうヘンリー8世の背中を押す役割を果たし、ついにヘンリーとキャサリン・オブ・アラゴンの結婚は無効であったという裁定をカンタベリーで下すに至らせ、1533年、ヘンリーとアンの結婚が成立した。
既にアンのおなかにはヘンリーの子が宿っており、この子を嫡子として認知させることが火急の業務だったのだ。
この結婚を可能にしたのが、国内の問題をカンタベリー大司教の法廷を飛び越して直接ヴァチカンに上告することを禁止した「上告禁止法」だった。これにより、イングランドはヴァチカンの干渉を受けずに、重大決定を行うことを宣言したのである。また、1534年には「国王至上法」が定められ、国王(または女王)を「イングランド国教会の地上における唯一最高の首長」とみなす、イングランド国教会(Church of England)が成立したのだった。これらの法が議会の承認を得たものである点も、英国の宗教改革の大きな特色だった。
ヘンリー8世もクランマーも、当然のごとくヴァチカンから破門された。しかし、もう後戻りはできない。ヘンリー8世はクロムウェルとともに、イングランド国内のカトリック勢力の弱体化に着手。英国内で大きな力を保持していた、200近い修道院をことごとく解散させ、それらが有していた土地や財産をすべて没収した。土地は即座に売却され、困窮していた国庫立てなおしに当てられたのだった。
強引かつ手荒なやりかたが、カトリックへの信仰心篤い有力貴族らの反感を買い、暴動も招いたものの、それを抑えつつ、改革は進められた。この間、基本的に国民はヘンリー8世を支持し続けた。教会・修道院は、イングランドの富の約3分の1を占有していたといわれており、イングランド国民は、さまざまな形でヴァチカン、すなわちローマ教皇から搾取されていたのだ。「外国人」による、こうした搾取は反カトリック(教会)感情、そしてナショナリズム(愛国主義)を育てる結果となり、ヘンリー8世が男子の世継ぎほしさで進めた改革ではあったが、イングランド国民の利害と一致していたのである。

強運の証 その5
後継者は、やはり強運のエリザベス1世

第1子は女子(後のエリザベス1世)、第2子は男子だったものの死産に終わったアン・ブリンは、わずか1000日で王妃の座を追われ不貞の罪(この罪は「でっちあげ」と言われる)で処刑された。
3人目の妻、ジェーン・シーモアは、1537年、後のエドワード6世となる待望の男子を出産。しかし、産後の肥立ちが悪く約2週間後に死去。4人目の妻は、ドイツのプロテスタント勢力の中で有力だったクリーヴズ公の娘、アン。1540年に結婚したものの、アンのことがよほど気に入らなかったのか、彼女に指一本ふれることなくわずか半年でこの結婚を無効とした。
同じ年、ヘンリーは30歳も下のキャサリン・ハワードを5人目の妻に迎えるが、無教養でまわりに良いアドバイザーもいなかったキャサリンは、おろかにも不貞を重ね、1542年、ロンドン塔で処刑された。その18ヵ月後の1543年、ヘンリーはキャサリン・パーと結婚。既に2人の夫と死別していたキャサリンにとっては3度目の結婚だった。キャサリンはよくできた女性で、ヘンリーは55歳で亡くなるまでの4年間、比較的心穏やかに過ごしたようである。とはいえ、1536年ごろにかかったとされる梅毒のためか気が変わるのが早く、朝令暮改は日常茶飯時、不興をかった宮廷人は容赦なく処刑されるなど、「暴君」のレッテルを決定的なものにするに値する挙動をヘンリー8世は繰り広げた。
巨食のため晩年には130キロほどにもなっており、静脈瘤のできた足ではとても支えきれるものではなく、どこにいくのも、4人がかりでかつぐ輿に乗らざるを得なかった。また、肉中心で野菜を嫌う食事内容は動脈硬化などを招いていたといわれる。また、55歳は、当時の世界では十分長寿で、老衰も進んでいたようである。
やや病弱な嫡男エドワードの身を案じつつ、キャサリンらにみとられてヘンリー8世がホワイトホール宮殿で息をひきとったのは、1547年1月28日のことだった。

メアリー1世の跡を継ぎ女王に即位したエリザベス1世。チューダー朝の黄金時代を築いた。ヘンリー8世とアン・ブリンの娘。
ヘンリーは38年の統治期間中に、イングランド国教会の首長となり、反対勢力である諸侯を抑え絶対王政の強化に尽力したほか、アイルランド支配を本格化させ「アイルランド国王」を名乗り、常設の郵便制度の基礎をつくり、海軍力アップに投資するなど、精力的に動いた。
こうした「種」は、エドワード6世(在位1547~53年)、9日間のみ在位し処刑された悲劇の女王レディ・ジェーン・グレー、カトリック教徒でスペイン王フェリペ2世と結婚し、プロテスタント教徒を数多く殺害したため「ブラディ・メアリー」と呼ばれたメアリー1世(在位1553~58年)などの、「寄り道」を経て、1558年に即位した、エリザベス1世へと引き継がれるのである。
45年間の在位中に、絶対王制をさらに強化しようと努めたエリザベス1世も、強運の人。男子の跡継ぎを熱望したヘンリー8世の強運の遺伝子を受け継いだのが女性であったことは、皮肉なことだったと言えそうだ。しかし、後継者に恵まれたといえるヘンリーは、この世を去ってなお強運だったと思わずにはいられない。

ヘンリー8世の建築愛

「超」がつくほどの建築物好きだったヘンリー8世。即位時、王室所有の宮殿やハンティング・ロッジは12にすぎなかったが、亡くなった時点で55を数えたという。

トーマス・ウルジー卿の失脚にともないヘンリー8世が没収した、ロンドン近郊サリーにあるハンプトン・コート宮殿。

ハートフォードシャーのハットフィールド・ハウス。狩猟で訪れたヘンリー8世が気に入り王室用に購入した。

週刊ジャーニー No.1028(2018年3月29日)掲載

庶民派の偉大なる文豪 チャールズ・ディケンズ

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庶民派の偉大なる文豪 チャールズ・ディケンズ [Charles Dickens]
大英帝国の黄金期といわれるヴィクトリア朝時代を生きたチャールズ・ディケンズ。
シェイクスピアには及ばないまでも、英国が世界に誇る文豪の一人として広くその名を知られる。
その作品の多くは貧しき人々を物語の主人公にすえたもので、慈愛精神や社会変革を強く訴え、現在においても英国人が「子供に読ませておきたい文学作品」の上位に文句なく選ばれる名作群として不動の地位を占めている。
今回は国民的作家として親しまれるディケンズの生涯をたどってみたい。

タイトル画像右下写真:『クリスマス・キャロル』の一場面
タイトル画像中写真:再現されたヴィクトリア時代のロンドン。下町独特の怪しい雰囲気が漂う。

● Great Britons ●取材・執筆/根本 玲子・本誌編集部

「お坊ちゃん」から「苦労人」への転落人生

「それはおよそ善き時代でもあれば、およそ悪しき時代でもあった。知恵の時代でもあるとともに、愚痴の時代でもあった。(中略)…前途は全て洋々たる希望にあふれているようでもあれば、また前途はいっさい暗黒、虚無とも見えた。 人々は真一文字に天国を指しているかのようでも有れば、 また一路その逆を歩んでいるかのようにも見えた…。」
(『二都物語』中野好夫訳/新潮文庫)

まるで現在我々の暮らす社会を思わせるような繁栄と危機の時代であったヴィクトリア朝の作家、チャールズ・ディケンズ。冒頭の『二都物語』のほか、『クリスマス・キャロル』『オリバー・ツイスト』『デイヴィッド・コパーフィールド』『大いなる遺産』など、数多くの名作を世に送り出し、英国の生んだ大文豪として国際的な名声を誇る。クライマックスまで、物語が『大どんでん返し』の連続という作品も少なくなく、エンターテインメントとして人々を存分に楽しませつつ、それでいて、巧みに盛り込んだ社会性の強いメッセージを嫌味なく読み手に伝える、卓越した技能の持ち主だったと断言できる。筆者が独断で選んだ、主要5作品のごく簡略なあらすじについては、下記のコラム『ディケンズの5つの名作 ほーら、読みたくなる!あらすじ簡略版』をご参照いただくとして、ディケンズが大文豪となるに至った『秘密』について、早速見てみることにしよう。

海軍事務員であった父親、ジョン・ディケンズの胸像。浪費癖が災いし、家計はいつも火の車だったという(ロンドン・チャールズ・ディケンズ博物館蔵)。
チャールズ・ジョン・ハッファム・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens 1812―1870)は、1812年2月7日、8人兄弟の2番目、長男としてイングランド南沿岸部ポーツマス郊外のランドポートで誕生。海軍の下級事務員である父親と、ロンドンにある楽器製作所の経営者の娘である母親の間に生まれた、特に裕福な訳でもないが使用人を雇う余裕はあるという、中流階級の家庭だった。
父親の転勤により2歳でロンドンへ。その後5歳で軍港の町ケント県チャタムへと引越したディケンズは、姉と共に学校にも通い、少々病弱ながら読書や歌の好きな少年として、一見不自由のなさそうな生活を送っていた。
だがディケンズが10歳にも満たないうちに、一家にある問題が持ち上がる。快活で社交好きの父親の見栄っ張りで浪費癖ありという一面が災いし、家計が次第に苦しくなっていったのだ。
父親が見栄で借りていた大きな屋敷を出て同じ町にある小さな家へと引越すことになったディケンズは、この家の屋根裏部屋で父親の蔵書を読み漁ったり、シェイクスピア演劇に関心を持ったりするなどし、教師である近所の牧師から、前途有望な少年として目をかけられていたという。
ディケンズが10歳になった年、一家は再び父親の転勤によりロンドンへと移る。しかし父親の浪費家ぶりは変わらず、また母親も夫に劣らず経済観念がなく、給料の前借りや友人への借金はいよいよかさんでいく。場末の安い下宿屋を転々とし、日々のパンを買う金にも困るようになった一家は、親戚の勧めもあり、12歳になったばかりのディケンズ少年をテムズ河畔ハンガーフォード・ステアーズ、現在のチャリング・クロス駅の近くにあった靴墨工場にとうとう働きに出すことにした。
現在のような児童労働保護法など存在せず、賃金の安さから子供が貴重な労働力とみなされ、働かされることが珍しくない時代だったが、これは幼いディケンズにとってひどく屈辱的な事件であった。貧しいとはいえ中流家庭の長男として生まれた彼は、自分は学校で学問をおさめ、将来出世するのだと思い込んでいたであろう。それが不甲斐ない親のために学校へもろくに通わせてもらえず、挙げ句の果てに労働者階級の子供たちと一緒に、朝から晩まで働かされる羽目になってしまったのだ。
この靴墨工場で子供たちに割り当てられた仕事は靴墨用の壷を洗い、新しいラベルを貼りつけるというもので、決して過酷な内容ではなかったというものの、ディケンズはみじめな境遇に身を落としたという思いを拭うことができなかった。しかも傷心の彼にさらに追い打ちをかけるような事件が起こる。父親ジョンが、膨れ上がった借金を返済することができずとうとう逮捕され、監獄に入れられてしまったのである。

大富豪誕生の『秘密』

『オリバー・ツイスト』ほか彼が初期の代表作を書き上げたというグレイズ・イン法学院近くの住居は、現在、「ロンドン・チャールズ・ディケンズ博物館」として一般公開されている(コラム『ディケンズゆかりの観光スポット』参照)。
親が入れられたマーシャルシー債務者監獄は、監獄といっても殺人者や強盗などの犯罪者が入れられる恐ろしげなものとは異なり、規則は厳しいが、家族ぐるみで生活できる公営住宅のような施設だった。収監者本人以外であれば、門限はあるものの自由に出入りもできたため、一家は数ヵ月に渡り家族ぐるみでここで暮らすことになった。
しかし、児童労働者に身を落とした上、借金を踏み倒した犯罪者の息子になるという、二重の屈辱を味わうことになったディケンズ少年だけは監獄の住人となることをよしとせず、近くに安下宿を借り、そこから仕事場に通うことを選ぶ。家賃のかからない監獄の一室で皆が暮らす中、家族のために生活費を稼いでいる彼が、わざわざ自室を別に借りたという行動の影には、他人に自分の惨めな境遇を知られたくない、という強い自尊心が働いていたのだろう。
幸か不幸か、この事件の数ヵ月後に父方の祖母が亡くなり、その遺産で借金を返済することができた父親は、出獄後1ヵ月ほどしてディケンズに仕事を辞めさせることにし、彼はウェリントン・ハウス・アカデミーという私立小学校へ通うことを許された。ただ、夫がまた借金で首がまわらなくなるかも知れないという懸念からか、当初母親は息子を働かせ続けようとし、自分の気持ちを理解してくれない母親に、ディケンズ少年の心はひどく傷ついたという。

若き日のディケンズは繊細な美少年といった面持ち。なお、ディケンズは生前、派手な葬式や記念碑を辞退し、私人としてロチェスターに埋葬されることを望んでいたが、結局、国家の偉人として、ウェストミンスターに葬られた。
こうした一連の騒動、そして彼が覗いたロンドンの庶民社会は、ディケンズの慈善精神や、皮肉っぽさをたたえた生き生きとした人間描写といった作風を形づくる要因となっている。「人間万事塞翁が馬」という故事さながら、大文豪ディケンズは、子供時代の貧乏暮らしと、幼くして大人の苦労を味わうことになった経験なくしては誕生し得なかったのだ。
ようやく学業に復帰し、アカデミーを卒業した15歳の頃、ディケンズはある法律事務所で助手の仕事に携わるようになる。しかしこの仕事にあまり興味が持てず、そのころ海軍を退職して新聞の議会通信員となっていた父親にならいジャーナリストを目指して速記法を学び、16歳で民法博士会(ドクターズ・コモンズ)の速記者として働き始める。
十代後半のディケンズは政治ジャーナリストになるべく修業を積む一方、裕福な銀行家の娘との叶わぬ初恋を経験したり、仕事の後に大英博物館付属の図書室に通い独学で文学を勉強したり、演劇好きが高じて俳優を夢見ては挫折したりと、若者らしい青春時代を送ったようだ。

ディケンズの5つの名作
ほーら、読みたくなる!あらすじ簡略版

Oliver Twist
『オリバー・ツイスト』(1837-39年)

救貧院で育った孤児の少年オリバーは、仲間の代表として配給の粥のお替わりを要求したことで反抗的とみなされ、葬儀屋のもとへ厄介払いされる。だがそこでもトラブルを起こし、ロンドンへと逃げ出した彼は、小悪党フェイギン率いる少年スリ団の仲間に加えられる。その後ある騒動で出会った紳士に引き取られ、つかの間の平穏を得たオリバーだったが、再びフェイギンの一味に連れ戻されるなど、クライマックスに向かって物語はジェットコースター並みに二転三転。やがてオリバーの出生の秘密が明らかになる…。ディケンズ初期の代表作。

A Christmas Carol
『クリスマス・キャロル』(1843年)

冷酷無慈悲で知られる強欲な商人スクルージがクリスマス前夜、3人の精霊に連れられて過去・現在・未来の世界を垣間見る。やがて夜が明け、人間愛に目覚めた彼は、自分には未来をよりよいものに変えていく力がまだ残っていることに気付く…。ちなみに、英語で「守銭奴」という意味を持つ単語「scrooge」は、このスクルージ老人が由来になっているとか。

David Copperfield
『デイヴィッド・コパーフィールド』(1849-50)

ディケンズが「自著の中で一番のお気に入り」と語っている作品。誕生前に父親を失った主人公デイヴィッドは、冷酷な母の再婚相手のため辛い幼少時代を送る。母の死をきっかけに学校を辞めさせられ商店の小僧として働きに出された彼は、意を決して逃げ出し、大伯母を頼ってロンドンへと旅立つ…。

A Tale of Two Cities
『二都物語』(1859年)

貴族の地位を捨て渡英したフランス人青年ダーニーと、酒浸りの放蕩生活を送る弁護士カートンの2人は、 無実の罪により投獄生活を送った医師の娘ルーシーに恋をする。彼女はやがてダーニーと結婚するが、その頃フランス革命が勃発。国に戻ったダーニーは革命派の陰謀によって捕らえられ、死刑を宣告されてしまう…。世紀末を背景に 歴史に翻弄された悲劇的な恋の顛末をえがく、ディケンズ後期の長編。

Great Expectations
『大いなる遺産』(1860-61)

孤児として貧しい生活を送っていた主人公が、謎の人物の好意により莫大な財産を相続することになり、紳士教育を受けるためロンドンへと向かうが…。階級社会への鋭い視線や人物描写の巧みさなどからディケンズの最高傑作といわれることも多い。何度も映画化されている。

新活字時代の波に乗ってデビュー

念願かなって新聞の政治記者となり多忙な日々を送っていた21歳の頃、ついにディケンズにもチャンスが巡ってくる。仕事の傍ら書き上げて投稿した短編作品が、月刊誌『マンスリー・マガジン』に採用されたのだった。初めての創作が活字になったことに感激した彼は、これ以降「ボズ」というペンネームを使ってあちこちの雑誌に短編小説やエッセイ等を発表。投稿作をまとめた初の短編集『ボズのスケッチ集』は、その優れた観察眼が認められ、ディケンズは一躍、新進作家として注目を浴びる。
ディケンズが作家としてデビューしたヴィクトリア朝前期においては、文学は未だ大衆のものではなく、書籍は贅沢品として一部の裕福な階級の手にしか届かないものだった。しかも、当時小説は低俗とみなされ、その読者人口も多くはなかったという。しかし18世紀後半から始まった産業革命により経済が飛躍的に発展し、大英帝国が絶頂期を迎える中、出版界は印刷技術の向上などにより劇的な変貌を遂げ、それに合わせるように国民の活字文化もまた変わっていく。こうした時代の流れが、大文豪ディケンズの誕生を可能にした、もうひとつの『秘密』だったと言えるだろう。
小説は三巻本で出版され、その値段は労働者の週給にも相当するほどだった当時、あまり裕福ではない大衆層をターゲットに新しい事業を立ち上げようとしていた出版社チャップマン・アンド・ホールが、新人作家ボズことディケンズ青年に白羽の矢を立てた。そして1836年、彼の初の長編作品となる小説と挿絵によって構成された小冊子が、大衆に手の届く月刊分冊形式で発売の運びとなる。ディケンズが24歳の時のことだった。
この『ピクウィック・クラブ(ピクウィック・ペイパーズ)』は、当初売れ行きは思わしくなかったが、第4冊目の物語に登場した愉快なロンドンっ子「サム・ウェラー」が人気を呼び、その後は驚異的なベストセラーを記録。ディケンズは人気作家としての名声を確立していった。

ディケンズ夫人となったキャサリン・ホガース(1846年頃)。夫婦の不和とその後の破局は、ディケンズの死後まで伏せられていたという。封建的なヴィクトリア時代らしい話だ。
またこの前年から、新創刊の夕刊新聞『イヴニング・クロニクル』に短編を寄稿していたディケンズに、私生活でも大きな変化が訪れる。同紙の編集長の長女であるキャサリン・ホガースとの結婚である。だが2人は10人もの子供に恵まれながらも、のちに性格不一致のため別居生活を送るなどその関係はあまり幸せなものではなかったようだ。
加えて結婚当初、ディケンズは妻よりもその妹であるメアリーに、より深い愛情を抱いていたといい、彼女が17歳で急死した際には哀しみのあまり一時執筆活動ができなくなってしまったほどだったとされている。日本の文豪、夏目漱石は夫人が悪妻だったことで有名だが、結婚生活に何らかの問題があったほうが創作活動にはプラスになるのかもしれない。

チャールズ・ディケンズ年表

1812 2月7日、ポーツマス郊外ランドポートに生まれる
1814 ロンドンに転居
1817
(5歳)
チャタムに転居、隣町のロチェスターで幸せな少年時代を送る
1821-22 家計が悪化。チャタムで学期を終えた後、再びロンドンに転居した一家に加わるが、ロンドンでは学校に通えなかった
1824
(12歳)
テムズ河畔の靴墨工場に働きに出される。その直後に父親が借金返済不能に陥り逮捕、投獄される。父親の借金返済後、学業に復帰
1827
(15歳)
アカデミー卒業後、法律事務所に勤めながら新聞記者を目指す。翌年、法廷速記者となる
1833 雑誌に短編作品を投稿、採用される
1836
(24歳)
『ボズのスケッチ集 (Sketches by Boz)』出版。『ピクウィック・クラブ (The Pickwick Papers)』発表。キャサリン・ホガースと結婚
1837
(25歳)
月刊誌『ベントリーズ・ミセラニー (Bentley’s Miscellany)』の編集長に就任、『オリバー・ツイスト』連載開始
1838 『ニコラス・ニックルビー (Nicholas Nickleby)』発表
1840 『骨董屋 (The Old Curiosity Shop)』発表
1841 『バーナビー・ラッジ (Barnaby Rudge)』発表
1842
(30歳)
米国にて長期旅行。帰国後に旅行記『アメリカ覚え書 (American Notes for General Circulation)』発表
1843
(31歳)
『マーティン・チャズルウィット (Martin Chuzzlewit)』発表
年の暮れ、『クリスマス・キャロル 』発表
1846 スイスに滞在、『ドンビー父子 (Dombey and Son)』発表
1849 『デイヴィッド・コパーフィールド』発表
1852 『荒涼館 (Bleak House)』発表
1855 『リトル・ドリット (Little Dorrit)』発表
1856 ギャッズ・ヒルに邸宅を購入
1858 妻キャサリンと破局
1859 『二都物語』発表
1860 『大いなる遺産』発表
1861 この年から精力的に公開朗読興行を行う
1864 『互いの友 (Our Mutual Friend)』発表
1865 健康悪化。休養旅行の帰りに列車事故に遭遇
1867 公開朗読巡業のため再び米国を訪れる
1870
(58歳)
執筆活動復帰を宣言。3月、ヴィクトリア女王に単独謁見。
4月より『エドウィン・ドルードの謎』を分冊発表するものの、完成を待たず6月8日に倒れ翌日9日に死去、同14日、ウェストミンスター寺院に葬られる

ワンマン編集長 兼 作家のアメリカ訪問

米国とディケンズの縁は意外に深い。これは米国フィラデルフィアにある、ディケンズの唯一のブロンズ像。
初の長編小説で成功を収めたディケンズは新聞記者を辞め、作家としての道を歩み始めるとともに、記者経験を見込まれ新月刊誌『ベントリーズ・ミセラニー』の初代編集長に任命される。彼はここで編集作業にいそしむとともに、初期の代表作となる『オリバー・ツイスト』や『ニコラス・ニックルビー』を連載。また、自らのスケッチをもとに軽喜劇の舞台を上演するなど精力的な創作活動をスタートしたのだった。
3年後、出版社主ベントリーとの契約上の不和が生じ、編集長の座を退いてからも雑誌編集への情熱は止み難く、28歳の年には自らが執筆、編集を務めたワンマン週刊誌『ハンフリー親方の時計(The Master Humphrey's Clock)』を発行し、そこでも自作を連載、英国と米国で多数の読者を得る。これがきっかけとなり1842年、ディケンズは夫人を伴ってリバプール港からボストンに向けて発ち、長期の米国旅行を行うことになった。
彼は行く先々で大歓迎を受けたものの、南北戦争前夜の米国での経験は、ディケンズにとって楽しいものばかりではなかった。まず、自作が海賊版として出回っていることに困惑した彼が国際著作権について協定の必要を訴えたものの受け入れられず落胆。また、各地で精力的に訪れた刑務所や精神病院、養護学校等の施設の粗末さに驚き、奴隷制の横行に心を痛めた。このため、旅行後に出版された紀行文には、米国への批判的な思いが率直に綴られ、多くの米国人読者の反感を買う結果を招いた。ただ、この訪米により親交の深まった、ワシントン・アーヴィング(著作『スリーピー・ホローの伝説』ほか)といった米国人作家たちとの関係は、その後も長く続くこととなった。
なお、25年後の1867年、公開朗読巡業のため再び訪米を果たした際には、ディケンズは商業的に成功を収めたこともあり、米国社会の四半世紀の進歩を素直に認めて以前の印象を修正し、米国民もまた改めて好意をもって彼を迎えたという。

実体験はネタの宝庫!

作家として大成したのち、ディケンズが幼少時代の出来事を綴った回想文の中には、両親の不甲斐なさに失望した幼い日の思いをユーモアを交えて振り返った一節が登場する。また、一家の貧乏生活の元凶となった浪費家の父親は、自伝的要素が強いという『デイヴィッド・コパーフィールド』に出てくる能天気な貧乏人ミコーバー氏のモデルに、お高くとまった母親エリザベスは『ニコラス・ニックルビー』に登場する主人公の母親などのモデルになっているといわれ、小説の中にも2人の影は見え隠れしている。
さらにこの回想文にはもう1人、ある人物が登場する。靴墨工場で働いていた当時、体調を崩し腹痛に苦しむディケンズに気付いたいじめっ子の少年が、彼を親切に介抱してくれた上、仕事後家まで送ってやろうと言い出したのだ。善意はありがたいが、家族の秘密を絶対に知られたくなかったディケンズは、少年と共に家族の暮らす監獄のあるテムズ南岸まで歩いた後、苦し紛れに見知らぬ家のドアの前で立ち止まり、ごていねいにもその家のドアをノックして自分の家だと思わせてから別れたというのである。この少年の名前は、小説『オリバー・ツイスト』内で、少年スリ団を率いる悪党の名前と同じボブ(ロバート)・フェイギン。親切にしてもらったことより、いじめられた思い出のほうが強かったらしい。

スランプ期に生まれた名作

ポーツマスにあるディケンズの生家では朗読会も随時開催されている(写真右)。また、彼がこの上で息を引き取ったという寝椅子も展示(同左)。
米国旅行の翌年の1843年ごろから、ディケンズは作家として初のスランプ期に突入する。新しく連載を始めた長編小説はこれまでのような人気を得ることができず売れ行きは低迷し、大家族を養わねばならなかった彼は経済的にも苦境に立たされたのだった。
しかし、幸運の女神はディケンズのもとを去りはしなかった。
この年の暮れ、彼はかねてから関心を抱いていた社会改善や、慈善の精神を訴えた中編小説『クリスマス・キャロル』を自費出版する。人間愛を強く押し出した作品を、クリスマス・シーズンに発売して収入増をはかろうというビジネス的目算もあったこの小説は、大いに売れた。装丁に凝り過ぎたため予想ほどの儲けは出なかったが、これ以降、彼は毎年クリスマスになると『クリスマスの本』を発表するようになる。ディケンズはなかなかの商売上手でもあったようだ。
ただ、ディケンズが再び長編作品に取りかかるまでには数年の空白が生まれることになった。この間、彼は家族とイタリアに滞在したり、常々挑戦したいと考えていたと思われる素人劇団を結成、演出と役者の一人二役を受け持ったりした。さらに、自作朗読が友人らの好評を博したことに気を良くして、たびたび朗読会を開くようになるなど精力的に動いた。たとえスランプ期であろうとじっとしていられない、エネルギッシュな一面をディケンズは持っていたと見える。
この空白期間を乗り越えた30代後半から40代後半にかけての十数年間の彼は、自伝色の濃い『デイヴィッド・コパーフィールド』、ヴィクトリア朝社会の腐敗をえがいた『荒涼館(Bleak House)』、債務者監獄に対する風刺をえがいた『リトル・ドリット(Little Dorrit)』ほか多くの長編作品をコンスタントに発表。作家として円熟期を迎え、名声を高めていく。
その間もこれまで何度か手掛けては挫折していた雑誌編集への情熱は止まず、新しく立ち上げた雑誌『家庭の言葉』では、経営から編集・執筆作業や出版まで一人でこなしていた。ここでは新人作家に発表の場を提供しながらも、投稿された原稿に勝手に手を加えてしまうといったワンマンぶりも依然健在だったと伝えられている。

図々しかった、『人魚姫』の作者

44歳になって、ディケンズはチャタムでの貧しい幼少時に憧れたというギャッズ・ヒルの大邸宅を買い取り、翌年には以前より交流のあったデンマークの童話作家、ハンス・クリスチャン・アンデルセン=写真=を招待している。
ところが彼の好意に甘え過ぎたアンデルセンはずるずると5週間も長居し、とうとうディケンズ一家に厄介者扱いされてしまう。彼がようやく出立した後、ディケンズは彼の滞在した部屋のドアに「アンデルセンはこの部屋にあまりにも長く滞在しすぎた」という抗議の旨を記した札を貼ったという。

国家の偉人となった「出たがり」文豪

ロンドンを離れ、幼少時代の思い出の地、チャタムのギャッズ・ヒルに居をかまえた1858年頃、演劇活動を通して知り合った若手女優エレン・ターナンと愛人関係にあったディケンズは、もともとそりの合わなかった妻と、ついに破局を迎え、2人は別居に至る。
妻と子供たちを養った上、愛人エレンの生活を保証していかねばならなくなった彼は、以前から児童養護院などを会場に行っていた慈善朗読会に加えて、収入を得る手段として有料の公開朗読会を開始する。のちに彼の伝記作家となる親友のジョン・フォースターをはじめとする友人たちは、文豪としての名声を得た彼が役者のように巡業することに強く反対したものの、ディケンズはおかまいなしに各地を訪問し始める。
これには創作よりも手っ取り早く収入が手に入るという理由もあったが、舞台に立ち、聴衆からの拍手喝采を浴びるという体験が、芝居好きの彼にとって大きな魅力となっていたことも事実だろう。
実際に朗読ツアーは各地で大きな成功を収め、彼は身動きができないほどの聴衆に囲まれることもあったという。だがこの精力的な巡業公演は、彼から創作時間を奪い、旅の疲労はじわじわと健康を蝕んでいくことにもなった。
1865年、体調不良のためフランスで休暇を取ったディケンズを悲劇が襲った。その帰路、愛人エレンと一緒に乗っていた列車がロンドン南東のステープルハーストで鉄橋から転落するという事故に遭遇したのだ。2人の乗っていた車両は辛うじて難を逃れたものの、事故の精神的ショックは大きく、彼はその後PTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされることになる。
心的ストレスから創作活動に手がつかなくなってしまったうえに、朗読活動に力を傾け過ぎた彼は急激に健康を害し、まもなく主治医から朗読を禁じられるまで衰弱してしまう。
1870年、朗読旅行を取りやめ、本来の作家活動に立ち戻ったディケンズであったが、月刊分冊で発表を始めた長編小説『エドウィン・ドルードの謎(The Mystery of Edwin Drood)』の完成を待たずして、6月、ギャッズ・ヒルの自宅で倒れ、意識の戻らないまま、翌日の午後、息を引き取った。脳溢血が原因であったと言われる。58年の生涯だった。
「故人は貧しき者、苦しめる者、そして虐げられた者への共感者であった」と墓碑銘に刻まれたディケンズは、今もなお「英国の良心」として人々に愛され、各界の錚々たる著名人と共に、ウェストミンスター寺院の「詩人のコーナー」に眠っている。

もっと知りたーい!ディケンズゆかりの観光スポット

※情報はすべて2008年1月20日現在のもの

The Charles Dickens Museum London
ロンドン・チャールズ・ディケンズ博物館

ディケンズが暮らした住居の中で、ロンドンに唯一現存する建物を博物館として公開。当時使われていた家具や貴重な出版物、直筆原稿などを展示している。
48 Doughty Street, London WC1N 2LX
Tel: 020-7405-2127
www.dickensmuseum.com

ロンドンに現存するディケンズゆかりのパブ

The Grapes
グレープス

幼き日のディケンズは、このパブのテーブルの上に立って歌い、利用客たちを楽しませていたとか。
76 Narrow St, London E14 8BP
Tel: 020-7987-4396
最寄駅: DLR Westferry

Ye Olde Cheshire Cheese
イ・オールド・チェシャー・チーズ

ディケンズも常連だった、往年の文学者が集った歴史あるパブ。
145 Fleet St, London EC4A 2BU
Tel: 020-7353-6170
最寄駅: Blackfriars

The Trafalgar Tavern
ザ・トラファルガー・タヴァーン

文豪となったディケンズが、好んで訪れたというタバーン(居酒屋)。同時代の作家、ウィリアム・サッカレーもお気に入りだったという。
Park Row, Greenwich, London SE10 9NW
Tel: 020-8858-2437
最寄駅: DLR Cutty Sark、地下鉄Maze Hill 

Dickens Discovery Room
ディケンズ・ディスカバリー・ルーム

ロンドンから南東方向へ車で約1時間のところにある街、ロチェスターには、04年まで「チャールズ・ディケンズ・センター」が置かれていた。このセンター閉館後、ロチェスターのギルドホール内に設けられたのがこの展示ルーム。なお、彼が幼少時代と晩年を過ごしたここロチェスターでは、毎年6月に「ディケンズ・フェスティバル」を開催。街の通りを舞台に音楽やダンス、演劇の祭典が繰り広げられる。
Rochester Guildhall Museum, High Street, Rochester, Kent ME1 1PY
Tel: 01634-332-900 www.medway.gov.uk

Charles Dickens Birthplace Museum
チャールズ・ディケンズの生家

ディケンズが誕生した住居を博物館として公開。食堂や彼の生まれた部屋など、当時の内装を再現している。ちなみにディケンズの誕生日は2月7日で、冬季もこの日だけはオープン。
393 Old Commercial Road, Portsmouth, Hampshire PO1 4QL
Tel: 023-9282-7261
www.charlesdickensbirthplace.co.uk

The Dickens House Museum
ディケンズ・ハウス・ミュージアム

『デイヴィッド・コパーフィールド』の登場人物、ベッツィのモデルになった婦人が暮らしていたという住居に、ディケンズゆかりの品々や当時の衣装を展示した博物館。
2 Victoria Parade, Broadstairs, Kent CT10 1QS
Tel: 01843-861232
www.visitthanet.co.uk

週刊ジャーニー No.508(2008年1月31日)掲載

英モダン・デザインの先駆者 ウィリアム・モリス

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英モダン・デザインの先駆者 ウィリアム・モリス [William Morris]
英国モダン・デザインの大御所といえば、真っ先に挙がる名前の一つに違いないウィリアム・モリス。
優れた芸術家であると同時に実業家としての手腕も兼ね備え、商業的にも成功、そのうえ、詩人、政治活動家としても大きな功績を残した。
しかし、その成功者としての顔の裏に、親友と妻との関係に耐え忍ぶ夫の顔も持っていた。
今回は、この偉大な人物の様々な顔をご紹介したい。

●Great Britons●取材・執筆/山口由香里・本誌編集部

ロマンチックな作品を好んだ本の虫

1896年10月3日。日が少しずつ短くなり始め、やがて長く暗い冬が間違いなく訪れることを予感させる、ある秋の日、ひとりの紳士が息をひきとった。
その人物の名をウィリアム・モリス(William Morris 1834―96)という。死亡診断書にはこう書かれた。「成人男性10人分の働き以上の仕事を成し遂げたことによる」、すなわち「働きすぎ」と医者は言いたかったようだ。実際、モリスの多才ぶりは尋常ではなく、生涯にわたって、成人10人分どころではない活動を精力的に繰り広げた。
しかし、我々がウィリアム・モリスの名を聞いて、もっとも身近に思い浮かべるものといえば、草花をモチーフとした数々のプリント・デザインではないだろうか。「リバティ・プリント」に用いられているものも含み、英国で暮らせばしばしば目にするはずだ。
葉脈まで美しく描き出された大きな葉、優美な曲線を見せるツタ状の茎、四季を感じさせる花々と果実、そしてそのまわりでさえずる声が聞こえるかのような小鳥たち。それらが、まるで万華鏡をのぞいているかのように、一定のリズムで繰り返される。かといって、決して単調すぎず、日々眺めても飽きることがない。モリスの卓越した色彩センスにより、注意深く選ばれた色の組み合わせとあいまって心地よい空間を演出する、そうしたデザインの人気は百年たった今でも衰えることを知らない。
そのようなデザインを生み出した自然を愛でる気質は、幼少の頃の環境によって出来上がったものと言えそうだ。
モリスは1834年3月14日、東ロンドンで産声をあげた。最終的には9人の子持ちとなるウィリアムとエマのモリス夫妻にとっては3番目の子供、そして待望の長男として誕生。父親と同じウィリアムと名付けられた。証券仲買人として成功した父のおかげで、経済的に恵まれた幼少時代を送ったと本人も述懐している。
モリスは、東ロンドンのウォルサムストーのエルム・ハウスから、6歳でエセックスの広々としたカントリーハウス、ウッドフォード・ホールに移る。王室の狩猟場でもあったエッピングの森近くに位置し、豊かな自然が残る場所だった。それはそのままモリスの広大な遊び場となった。少し大きくなってからは、乗馬も楽しんだ。「三つ子の魂―」とはよく言ったもので、成人してからも、しばしばカントリーサイドに家を構え、生涯、その自然志向は変わらなかった。
2人の姉エマ、ヘンリエッタと仲が良かったモリスだが、1人で本を読んで過ごすことも多かった。家にある数多くの本を読みあさり、中でも『アラビアン・ナイト』や、歴史小説家のウォルター・スコットの作品がお気に入りだったと伝えられている。この頃の読書により、ロマンチックなもの、歴史的なものへの志向が根付いたと考えていいだろう。
こうして屋外と屋内の両方で、モリスの感性は絶え間なく磨かれ、後に多方面で花開く素地がモリス本人も気づかぬうちに、しかし着実に築かれていったのだった。

人生を決めたオックスフォード時代

モリスは13歳の時に父親を亡くすが、父親は、残された家族が不自由しないだけの財を成していたため、進学にも困ることはなかった。
19歳になる1853年、オックスフォードのエクセター・カレッジに入学。このオックスフォード時代に、その後のモリスの人生における主要登場人物となる人々と次々に知り合う。

フルハムにあったエドワード・バーン=ジョーンズの自宅の庭で1874年に撮影された写真。左から3人目がバーン=ジョーンズ、5人目が妻のジョージアーナ、右から3人目がウィリアム・モリス、その右隣が妻、ジェーン。
まず、オックスフォードに赴いて間もなく、生涯の友で共同事業主ともなるエドワード・バーン=ジョーンズ(下のコラム参照)と出会う。英国モダン・デザインの歴史をふり返る時、この出会いは、例えるならジョン・レノンとポール・マッカートニー級の出会いだったといって過言ではないだろう。
モリスは、バーン=ジョーンズとフランスを旅する。優れた建築物や芸術品を目の当たりにしたこの旅での経験が、その後の2人が進む道を決定した。聖職者となるための勉学に励んでいた彼らだったが、一転、芸術の道を志すようになる。
当時、注目を集めたネオ・ゴシックの建築家ジョージ・エドモンド・ストリートの事務所に研修生として入ったモリスは、そこでフィリップ・ウェッブとの友情を育む。建築家のウェッブは、モリスが新婚時代に住んだ家(後述のレッド・ハウス)の設計や、モリスの終の棲家といえる墓石のデザインも手がけることになる。
さらに、後に友という言葉だけでは説明しきれない関係となるダンテ・ガブリエル・ロゼッティと知己となったのも同時期だ。時として、偉大な人々が磁石に吸い寄せられるように集まることがある。この時のモリス周辺は、まさにそうした状況にあったと言えよう。

モリスに階級の壁を越えさせた、ジェーンの美貌

ロゼッティは、当時、最も影響力のある美術批評家だったジョン・ラスキンが支援したラファエル前派の中心的な画家だった。

ラファエル前派の画家の中で、もっとも成功したひとりといえるミレイの代表作『オフィーリア』(1852年)。
モリスが発起人の1人となった『オックスフォード&ケンブリッジ・マガジン』は、ラファエル前派が短期間出していた『ジャーム』誌を基にしたもので、詩や小説、批評を掲載していた。この刊行物に、詩作もたしなむロゼッティが寄稿したこと、画家になったバーン=ジョーンズもロンドンでロゼッティと知り合っていたことなどが重なり、モリスとロゼッティは自然に同じ芸術家グループのメンバーとして活動するようになる。
モリスが、後に妻となるジェーン・バーンズ(Jane Burns)と出会ったのも、ロゼッティを通じてだった。バーン=ジョーンズと出かけたオックスフォードの劇場でジェーンに会ったロゼッティは、すぐにモデルとしての素質を見抜く。背が高く痩せ型のジェーンは、当時の美の基準からは外れていたが、その大きな目、豊かな波打つ髪は、アヴァンギャルド(前衛的)な美の象徴として、ロゼッティの絵にそれから30年にもわたって登場し続ける。

モリスがジェーンをモデルに描いた『Queen Guenevere』(1858年)。
ロゼッティ、及びその友人画家たちのモデルとなったジェーンに出会ったモリスもたちまち、その魅力の虜となった。
それから間もない1858年、2人は婚約したことを発表する。それは、周囲の大反対を押し切っての結婚だった。
1834年生まれのモリスの人生は、1837年から1901年まで続いたヴィクトリア朝と、ほぼ重なる。このヴィクトリア朝時代にあって、異なる階級に属する者同士の結婚は、まず起こりえないことと見なされていたのである。ワーキング・クラスの出身だったジェーン。かたや裕福なミドル・クラスという育ちのモリス。ジェーンに対する、モリスの熱病のような思いを、友人たちは冷まそうと試みるが2人の決意は固かった。
モリスは美しいジェーンに純粋にひかれ、一方のジェーンはモリスとの結婚に安定した豊かな暮らしを見ていたとも言われている。しかし、この身分違いの結婚の先に、大きな試練が待ち受けていることをモリスもジェーンも予見していなかった。
後世になって我々が何を言っても詮ないことだが、もし、先に出会い、互いにひかれあってもいたであろうロゼッティとジェーンが結ばれていたら、二つの不幸な結婚の代わりに、一つの幸福な結婚が生まれていたのでは、と考えずにはいられない。
だが、ジェーンと知り合った時には、ロゼッティには既に婚約者のエリザベス・シダルがいたのである。

愛憎は芸術のコヤシ!?
ラファエル前派 関係メンバー

ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)はロイヤル・アカデミーの学生だったウィリアム・ホルマン・ハント、 ダンテ・ガブリエル・ロゼッティ、ジョン・エヴァレット・ミレイによって、1848年に結成された芸術家グループだ。当時、アカデミーでも主流となっていた古典主義に反発、古典主義を完成させたルネッサンスの画家ラファエロ(英語では「ラファエル」)以前のように、対象をあるがままに描くことをスローガンとして、命名された。ウィリアム・モリスや友人のエドワード・バーン=ジョーンズも、その中に含めて考えられることもある。
血気盛んな若者たち、画家とモデルの恋愛ざたも多かった。モリスと関わりのあった人々をご紹介しよう。

偉大な批評家で元祖ロリコン説もある
ジョン・ラスキン
John Ruskin 1819 - 1900

ラスキン、その妻エフィ、ミレイの三角関係は当時、一大スキャンダルとして騒がれた。
批評家のラスキンは当時のアート界で大きな影響力を持ち、モリスもオックスフォード以前から、その著作のいくつかを読んでいた。
ラファエル前派を支援していたラスキンが、中でも一番その才能を見込んでいたのがジョン・エヴァレット・ミレイだった。ミレイはラスキンの肖像画やその妻エフィをモデルとした絵も描いている。
ラスキンより10歳近く年下だったエフィはミレイと恋仲になり、離婚、再婚した。当時は難しかった離婚が成立したのは、結婚が非完成(=夫婦生活がない)であると裁判で認められたため。ラスキンは不能であったとも、ロリコンの語源となった小説『ロリータ』の主人公である男性のモデルとも言われている。

後に、反発していたロイヤル・アカデミーの学長となった
ジョン・エヴァレット・ミレイ
Sir John Everett Millais 1829 - 1896

ヴィクトリア女王の寵愛を得たが、ラスキンの妻との不倫騒動で怒りを買った。死の直前にようやく女王に赦された。
ミレイの代表作『オフィーリア』のモデルは、当時、ロゼッティの婚約者だったエリザベス・シダル。こちらはロゼッティと三角関係になるようなことはなかったが、水面に浮かぶオフィーリアを描くのに、長い間、エリザベスを水につけ、ひどい風邪をひかせてしまった。ミレイがエリザベスの父親に医療費を請求された記録がある。

ロゼッティのモデル兼妻、画家でもあった
エリザベス・シダル
Elizabeth Eleanor Siddal 1829 - 1862

エリザベスの死を悼んだロゼッティが描いた『ベアタ・ベアトリクスBeata Beatrix』(1864-70年)。
ダンテ・ガブリエル・ロゼッティの初期作品ほとんどのモデルを務め、ロゼッティに励まされ、絵も描いた。10年もの婚約期間を経て、ロゼッティと結婚したが、結婚生活は短かった。子供を死産で失って間もなく、薬の過剰摂取により亡くなった。ロゼッティと、モリスの妻ジェーンの間を気に病んでいたとも言われ、自殺とも疑われている。

女性を描き続けた
ダンテ・ガブリエル・ロゼッティ
Dante Gabriel Rossetti 1828 - 1882

ジョージ・フレデリック・ワッツGeorge Frederic Watts作の肖像画。
©National Portrait Gallery
ジェーンの前にも、モデルのファニー・コーンワースと恋愛関係にあったロゼッティ(日本では「ロセッティ」が一般的)だが、エリザベスを亡くしてから薬に溺れ、精神を病み、一時は絵が描けなくなった。最後は友達関係であったとされるものの、ジェーンとのつきあいは長く続いた。当時、人目にたつ不倫ざたとなってしまった妻と友のスキャンダルの影で、モリスが心を通わせたのが、モリスの親友バーン=ジョーンズの妻で画家でもあるジョージアーナ・マクドナルドだった。

バーン=ジョーンズの妻、そしてモリスの心の友
ジョージアーナ・マクドナルド
Georgiana Burne-Jones (旧姓McDonald) 1840 - 1920

夫、エドワード・バーン=ジョーンズによる肖像画。
モリスの生涯の友エドワード・バーン=ジョーンズもモデルとの関係でスキャンダルを起こした。同病相哀れむということか、バーン=ジョーンズの妻で画家でもあるジョージアーナに、モリスは手紙を送り、悩みを打ち明けている。恋愛感情があったのでは、とも推測されているが、離婚は考えられないことだった当時、モリス、バーン=ジョーンズ夫妻とも、それぞれ添い遂げている。
ジョージアーナを含む4人の女きょうだいは、それぞれの夫、息子らが、画家、首相、作家など後世に名を残したことからマクドナルド・シスターズとしても有名。

最後までモリスの親友だった
エドワード・バーン=ジョーンズ
Sir Edward Coley Burne-Jones 1833 - 1898

写真右:エドワード・バーン=ジョーンズ(左)とウィリアム・モリス。1874年撮影。
写真左:アーサー王伝説で活躍する魔術師マーリンを題材にした『The Beguiling of Merlin』(1874年)。
画家として、当初ロゼッティからの影響を色濃く受けながらも、次第に自分のスタイルを確立したバーン=ジョーンズだったが、不倫問題でもロゼッティを追う形となった。その波紋の大きさから、美術界を締め出されそうにもなった、ギリシャ人モデルのマリア・ザンバコとの恋愛は、ザンバコが自殺を図ったことで終焉を迎えた。
学生時代からのモリスとの友情は晩年まで続き、モリスの死の翌々年に亡くなっている。モリスの死にショックを受け、弱っていったとも伝えられている。

☆ドラマチックなラファエル前派の人間関係は、BBCで2度もドラマ化されている。『ザ・ラブ・スクール』という1975年のドラマではベン・キングズレーがロゼッティ役で出演した。2009年放映の『デスパレート・ロマンティックス』は、BBCのサイトでおおまかなストーリーが、いくつかの場面やインタビューと楽しめる。
☆『オペラ座の怪人』などの作曲家で、最近ではオーディション番組の審査員としてもお馴染みのアンドリュー・ロイド・ウェバーは、ラファエル前派の収集家としても知られる。ロイヤル・アカデミーで展示会を開いたこともある。

才能が結集したレッド・ハウス

晴れて夫婦となった25歳のモリスと20歳のジェーンは、ロンドンのブルームズベリーのグレート・オーモンド・ストリートに住みながら、自宅の建築に取り掛かる。モリスが選んだのはケントのべクスリーヒース。そこに赤レンガを使って建てられた2人の家は、レッド・ハウスと呼ばれ、間もなく、モリスと親しい芸術家たちの溜まり場となる。

ロンドンの東郊外にあるレッド・ハウス。家の前の「井戸」が、デザイン上のアクセントになっている。
このレッド・ハウスは、ウェッブが建築家として初めて設計した家であり、彼にとって記念すべき『作品』となった。また、モリスの友人たちがインテリアを担当。モダン・デザインのパイオニアたちの才能が結集し、それが実現されるという、贅沢な場となったのだ。
これはそのままモリス・マーシャル・フォークナー商会の誕生につながった。モリスとその友人たち、つまりロゼッティ、バーン=ジョーンズ、ウェッブに、フォード・マドックス・ブラウン、チャールズ・フォークナー、P・P・マーシャルらがデザインした家具、ステンドグラスなどを商品とするビジネスをスタート。モリスはこの時27歳。やがて、モダン・デザイン界の先頭を走り続けることになるモリスにとっては、まだ助走に過ぎなかった。
レッド・ハウスを愛していたモリスだが、モリス・マーシャル・フォークナー商会のビジネスが軌道に乗り、忙しくなると、ロンドン中心部まで半日がかりというレッド・ハウスに住むことが困難になっていく。加えて、当時のレッド・ハウスのまわりは何もない田舎で、友人もいないジェーンが寂しさのあまりノイローゼ気味になっていたこともあり、レッド・ハウスで生まれた2人の娘とともに、モリス一家はロンドンに居を移すことになった。

葛藤を乗り越え、容認を選んだ夫

こうして、表面的には順調に見える結婚生活を送るモリスとは対照的に、ロゼッティの私生活はきわめて難しい局面を迎えていた。結婚後も頻繁にロゼッティのモデルを務めたジェーンとの間を、ロゼッティの妻のエリザベスが疑わぬはずがなかった。ロゼッティは、彼の『ミューズ(美の女神)』として多くの作品のモデルとなったエリザベスと10年の婚約生活を経て結婚したものの(ラファエル前派 関係メンバーコラム参照)、結婚生活は突然、残酷な形で終わりを告げる。子供を死産で失ったことから立ち直れず、エリザベスが薬物の過剰摂取で急逝してしまうのである。ロゼッティとジェーンの関係に悩んだ末の自殺だったとも言われている。
エリザベスを亡くしたところに、ジェーンがロンドンに戻ってきたため、ロゼッティとジェーンの関係は世間で取り沙汰されるまでになっていく。
だが、当時、離婚は考えられないことだった。多忙でもあったモリスが状況をそのままにしたのは、致し方ないことだったのかもしれない。また、大反対を押し切って結婚したという経緯も、モリスに意地を張らせる理由となっていたようにも思える。
私生活での苦悩を昇華する道を探るかのように、モリスは、文学の分野でも認められるきっかけとなった叙事詩『地上の楽園(The Earthly Paradise)』の執筆に励む。

ケルムスコット・プレスの刊行物の口絵に使われた、ケルムスコット・マナー。
それにしても不可解なのは、そのような時期に、モリスがロゼッティと共同でオックスフォードシャーにケルムスコット・マナーという別荘を借りたことだ。モリスが、神話などアイスランドの文化に興味をいだき、旅行に出かけた際は、なりゆきとして同マナーでロゼッティとジェーン、娘たちが過ごすことになった。
モリスは、ロゼッティをどう見ていたのだろう。
モリスが出合った時には既に芸術家として一派をなし、年齢でも6歳年上だったロゼッティに、あるいは、妻を託すような気持ちもあったのだろうか。ジェーンが自分を愛して結婚したのではないことに気づいていたモリスは、自分を責めていたとも考えられる。ジェーンがロゼッティのそばにいられるよう、敢えてそういう機会を作り出していたとすれば、それはジェーンを愛するがこそで、ジェーンを女性として幸せにしてやりたいという、モリスの痛々しいまでの思いの表れだったといえるかもしれない。

友人との決別を招いたモリス商会

ロゼッティがジェーンをモデルにして描いた『Proserpine』(1874年)。
苦悩する人間は、しばしばそれを忘れようとするかのごとく、他の道に多大なるエネルギーを注ぐ。モリスもその典型といえ、芸術と生活の一致を目指し、幅広く活動を展開した。これは、「アーツ・アンド・クラフツ運動(Arts and Crafts movement)」と現在呼ばれるものだ。アートとデザインの垣根を取り払い、さらにそれを生活の場に取り込もうとする思想は、アートの大きな転換点となるものだった。
モリス・マーシャル・フォークナー商会を、もっと理想に近づけようと考えたモリスは、それを解散して、1875年、新たに単独でモリス商会を設立。これにより、従来以上に自分の目が行き届いた商品を生産できるようにした。
しかし、残念なことながらモリス・マーシャル・フォークナー商会に携わってきた友人たちは、そこで二派に分かれた。バーン=ジョーンズ、ウェッブ、フォークナーらはモリスをサポートし、ロゼッティ、マーシャル、ブラウンらはモリスを非難し、離れていったのである。その前年にケルムスコット・マナーの共同賃貸契約も解消していたロゼッティは、モリスとは袂を分かつ形となってしまった。
ジェーンとは長らく手紙のやり取りなども続けたものの、最後は友人としてのつきあいだったと言われているロゼッティは、1882年、53歳でこの世を去った。

大車輪の活躍

時間の許す限り、ケルムスコット・マナーで過ごし、釣りなども楽しんだモリスだが、それもままならないほど日々の忙しさは増していく。
さらに広いスペースを必要とするようになったモリス商会は移転し、ますます発展する。モリスは、ラグ、カーペットなどテキスタイルのデザイナーとしても才能を発揮、超のつく多忙な時期を過ごす。当時からおしゃれな通りであった、オックスフォード・ストリートの新しい店で、家庭で必要なインテリア用品のほとんどを買えるようにもし、英国各地の顧客の家に出向いてインテリア・デザインも請け負った。
本も執筆し続けていたモリスは、文学の分野でも、オックスフォードの教授に推されるまでとなっていく。時間的・体力的に難しく、さすがにそれは辞退したが、アートの分野では、美術史に関する造詣の深さも手伝って、講師として迎えられることも増えるなど、その活動の幅の広さには脱帽するしかない。

ケルムスコット・プレス刊『The Nature of Gothic』(ラスキン著、1890年)
自著『地上の楽園』の書籍としてのデザインについても理想を持っていたモリスは、それも自らの手で実現させる。ケルムスコット・プレスと命名した出版社を興し、美しい本を世に送り出し始める。
モリスはカリグラフィー(アルファベットの飾り文字)のデザインにも優れた素養を持っており、それをここで存分にいかしたのだ。ケルムスコット・プレスから出された全ての本は文字デザインなども含めモリスのデザインで、バーン=ジョーンズがほとんどのイラストを手掛けている。黄金のコンビと呼んで良いだろう。
芸術家、事業家としても名が広まるにつれ、ロンドンでの生活の比重が大きくなっていくが、都市とともにカントリーサイドも美しく保ちたいと願ったモリスは、ナショナル・トラストの元ともなるグループに属し活動に従事。下で紹介しているモリス縁の場所の中にも、ナショナル・トラストの手で管理されているものがあり、彼の先見の明について考えずにはいられない。

ケルムスコットでの静かな最期

ともに白髪となった、エドワード・バーン=ジョーンズ(左)とウィリアム・モリス。1890年ごろ撮影。
産業革命により、大量生産品に手工芸品が押しやられた当時の英国は、モリスの意に染まないものだった。
芸術家であると同時に理想主義者で実務家でもあったモリスは、理想の実現には社会変革が必要と考え、政治活動にも積極的に参加。マルクス主義に傾倒し、1884年には社会主義同盟を結成、その機関紙に5年間寄稿を続けた。罰金で済んだが、街角に立って演説し、逮捕されたこともある。
やや太り気味で、ロゼッティやバーン=ジョーンズなどに丸っこく描かれた風刺画的な絵も残されているモリスは、腎臓を患い、糖尿病でもあった。また、長女ジェーンは十代の頃、テンカンに苦しみ、モリスとジェーンを大いに心配させたが、これはモリスの家系からの遺伝で、モリス自身をも蝕んだことが最近の研究で発表されている。
もてる才能を余すところなく使い、多方面で活躍していたモリスも、天命には逆らえなかった。50代に入ってからは徐々に磨り減っていくかのように、次第に弱っていった。やがて、モリスはケルムスコット・ハウスと名づけられたロンドンの家で、1896年、息をひきとった。62年の、常人には味わい得ない中身の濃い生涯だった。
モリスは、生涯愛した地ケルムスコットで、友人ウェッブのデザインした墓石の下に安息の場を与えられた。ジェーンも、今は娘達とともにモリスのそばで永久の眠りについている。

ウィリアム・モリス縁の地

レッド・ハウス
Red House

写真左は、レッド・ハウスを庭から眺めたところ。中は、同ハウスへの入口の門に掲げられたブルー・プラーク。
モリス自身が計画段階から参加して建てさせた唯一の自宅。モリスの生涯の友、エドワード・バーン=ジョーンズが「地球上で最も美しい所」とたたえた。現在はナショナル・トラストが管理している。設計も担当したフィリップ・ウェッブと、モリスのデザインによる家具、バーン=ジョーンズによるステンドグラスや絵画など家全体が見どころといえる。モリスがデザインのヒントを得たのではないか、と思わせる草花が植えられた庭もお見逃しなく。

【アクセス】

最寄の駐車場からの距離と、ベクスリーヒース駅Bexleyheathからの距離はほぼ同じで約1.2キロ。バスで途中まで行けるが、歩いても20分余りの距離。ロンドン・ブリッジ駅からベクスリーヒース駅まで30分に1本(ダートフォードDartford方面行き)、所要約30分。
Red House Lane, Bexleyheath,
London DA6 8JF
Tel: 020 8303 6359
https://www.nationaltrust.org.uk/red-house

ケルムスコット・マナー
Kelmscott Manor

モリスの別荘。グレードIの歴史的建築物に指定されているチューダー朝様式のファームハウス。この地を愛したモリスの墓は、同じケルムスコットの聖ジョージ教会にある。
Kelmscott, Lechlade, Gloucestershire GL7 3HJ
Tel: 01367 252486
www.kelmscottmanor.org.uk

ウィリアム・モリス・ギャラリー
William Morris Gallery

©David Gerard
父を亡くした後、広大な屋敷が不要となっため、モリス一家が越してきた家。1848年から1856年まで一家が暮らした。モリス・マーシャル・フォークナー商会を立ち上げた頃の、モリスとその友人たちがデザインした家具、ステンドグラス、タイルなどが展示されている。 Lloyd Park, Forest Road, Walthamstow E17 4PP
Tel: 020 8496 4390
http://www.wmgallery.org.uk/

ワイトウィック・マナー・アンド・ガーデンズ
Wightwick Manor and Gardens

ダンテ・ガブリエル・ロゼッティとエドワード・バーン=ジョーンズの作品やモリスの手によるインテリアなど、当時のアーツ・アンド・クラフツ運動の影響が保たれているヴィクトリア朝後期のマナー・ハウス。
Wightwick Bank, Wolverhampton, West Midlands WV6 8EE
Tel: 01902 761400
https://www.nationaltrust.org.uk/wightwick-manor-and-gardens

週刊ジャーニー No.623(2010年4月29日)掲載

出版200年 フランケンシュタインを生んだ女 メアリー・シェリー波乱の生涯

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出版200年フランケンシュタインを生んだ女メアリー・シェリー波乱の生涯
怪奇小説『フランケンシュタイン』の作者として知られる英作家、メアリー・シェリー。 『フランケンシュタイン』は、単なる怪物ホラー・ストーリーと捉えられがちだが、 実は誰からも愛されず孤独に苦しむ「クリーチャー(Creature)」の姿を描いた哀しい物語である。 今回は、20歳という若さで後世まで語り継がれる怪物を生み出したメアリーの波乱の人生と、 出版から200周年を迎えた名作誕生の背景を追う。

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/本誌編集部

継母との確執と孤独

メアリーの父ウィリアム・ゴドウィンと、母メアリー・ウルストンクラフト。
1797年8月30日、無政府主義を唱える思想家ウィリアム・ゴドウィンを父に、同じく思想家であり「フェミニズム」の先駆者であるメアリー・ウルストンクラフトを母として、メアリーはロンドンで生まれた。
しかしメアリーを産んだ10日後、母親は産褥熱により死去。彼女には、ウィリアムとの結婚前に米国人実業家との間にできた娘ファニーがおり、メアリーよりも3歳年上だった。2人の娘を抱えるウィリアムは「母親が必要」と考え、メアリーが4歳になる年に再婚。継母にはチャールズ(当時5歳)とジェーン(同3歳)という2人の連れ子がおり、メアリーは母親とさらなる兄妹を得たのであるが、残念ながらこの再婚はメアリーに「温かい家庭」をもたらしてはくれなかった。メアリーは継母になつかず、継母もまたメアリーの大人びた態度に手を焼き、2人の関係はまるで水と油であった。
父の教えに従い、メアリーは父の書斎にある書物を端から読んでは様々なことを学び、幼少の頃からその賢さは際立っていたという。そんなメアリーをウィリアムは可愛がり、友人たちと科学や哲学の話をする場にもメアリーを同伴した。メアリーは父たちの議論を興味深く聞き、また肖像画でしか見たことのない実母が、男女同権や女性への教育の機会の必要性を提唱するなど、いかに聡明で素晴らしい人物だったかという話も聞かされながら成長していった。
賢く自立心の強い少女に育ったメアリーだが、生来身体が弱く、14歳の時に療養のために海辺の町ラムズゲートで半年ほど過ごしたものの、さほど改善されなかった。しかし、ロンドンの家に戻れば継母との確執によるストレスが体調に悪影響を与えることを案じた父は、メアリーをスコットランドの海辺の町ダンディーに住む知人の所へ預けることを決める。こうして彼女は1812年から約2年間を主にダンディーで過ごし、初めて「家庭の温かさ」を味わった。

奔放な詩人との出会い

メアリーの夫、27歳の頃のパーシー・シェリー。
英国を代表するロマン派詩人の一人として知られているパーシー・ビッシュ・シェリーは、1792年8月4日、サセックスの裕福な貴族の家に生まれた。名門校イートンを卒業し、オックスフォード大学に入学。ところが啓蒙思想に目覚め、大学在学中の1811年に発行した『無神論の必要性(The Necessity of Atheism)』が引き金となって退学処分となってしまう。その後間もなく、妹の友人で16歳になったばかりの少女ハリエット・ウェストブルックとスコットランドに駆け落ちし、周囲を驚かせた。一説によると、この駆け落ちはつまらない学校生活を嘆くハリエットにパーシーが同情した結果とも言われている。
突飛な行動を繰り返す「問題児」のパーシーと、地元の名士であった父親との仲は思わしくなかった。父親との確執が進むにつれ、パーシーはウィリアム・ゴドウィンの思想に傾倒。著作を読み込み、ついに直に教えを請う手紙を送った。その手紙には、財政面でのサポートを申し出る内容も含まれていたという。おそらく、父親と同年代のウィリアムに、思想家への憧れだけでなく「理想的な父親像」を重ね合わせていたのではないだろうか。
ウィリアムは、自らの本を出版するかたわらロンドンで書店を経営していたが、財政事情は厳しかった。そんな時に送られてきたパーシーからの手紙。もしその内容が本当なら、ウィリアムにとってはまたとない機会である。パーシーの真意を確かめるべく、手紙でのやりとりが重ねられた。実はこの2人のやりとりをもっとも楽しんでいたのは、ゴドウィン家の娘たち――ファニーとジェーン(メアリーはダンディーに滞在中)だった。手紙を熱心によこすパーシーのことを「一体どんな人物なのだろう?」と少女らしく思いを巡らせていたのである。
1812年10月、ついにパーシーと妻ハリエットがゴドウィン家にやってくる。しかしながらメアリーはまだダンディーにおり、彼女がロンドンに戻ってきたのは翌11月。ただ、帰宅した翌日にパーシー夫妻は再びゴドウィン家を訪れているため、一般的にはこの日に初めてパーシーとメアリーが出会ったと考えられているが、定かではない。確実に2人が対面した記録が残っているのは、1814年5月5日。メアリーが父の書店で働いていたところにパーシーがやってきた日である。彼はメアリーの美しさに目を奪われただけでなく、時代を代表する思想家を父母に持ち、知性を備えたメアリーへの興味を膨らませた。やがて2人は、メアリーの母が眠るセント・パンクラス教会へ散歩に出かけるなど、次第に距離を縮めていった。当時パーシーが友人に宛てた手紙は、メアリーがいかに賢明な女性であるかを称える言葉で埋め尽くされている。
一方で、パーシーと妻ハリエットの仲は冷めはじめていた。ハリエットはこの時、2人目の子を妊娠していたのだが、パーシーは本当に自分の子であるかどうか疑っていたという。

略奪愛と駆け落ち

パーシーとメアリーが書店で顔を合わせてから1ヵ月後、2人はお互いに愛し合っていることを周囲に告白するが、当然祝福されるわけもなく、パーシーはゴドウィン家への出入りを禁止されてしまった。やがてパーシーは服毒自殺を図ったものの一命を取り留めるという騒動を起こす。2人はメアリーの義妹ジェーンを連れてフランスへの駆け落ちを決行。メアリーは16歳、パーシーは22歳だった。ところが一方で、パーシーは夫の逃避行に落胆するハリエットに「君もフランスに来て『心の友』として一緒に暮らさないか?」と手紙を出すなど、周囲を混乱させ続けた。
翌年、パーシーとメアリーの間に第一子が生まれるが、生後間もなく逝去。メアリーはひどく落ち込み、「赤ちゃんの冷たくなった身体を、暖炉の前でさすったら生き返ったという夢を見た」という日記を残している。
資金繰りが苦しくなった3人は、同年秋にロンドンへ戻った。メアリーは実家を訪ねるも、ウィリアムは面会を拒否。結婚制度に対して懐疑的で「自由愛」を提唱する父が、なぜ自分の行動を受け入れないのか、彼女は理解できなかった。さらにはパーシーの友人に言い寄られ、それをパーシーに相談したところ、「どうせなら関係を持ってみてはどうか」と逆に勧められてしまい、人間関係に悩む日々を送った。

嵐の夜に生まれた大作

1816年の春、パーシーとメアリー、誕生したばかりの第二子、そしてジェーンは再び英国を後にする。行き先はスイスのジュネーヴにあるレマン湖。彼らの借家は美しい湖畔に建っており、詩人ジョージ・ゴードン・バイロンとその主治医ジョン・ポリドリが滞在する別荘「ディオダディ荘」の近くであった。

バイロンが滞在していた、レマン湖のそばに建つ「ディオダディ荘(Villa Diodati)」。
1788年にロンドンで生まれ、急逝した大伯父の男爵位を10歳で継いだバイロンは、ケンブリッジ大学を卒業した後、スペイン、アルバニア、ギリシャなどを巡り、詩集『チャイルド・ハロルドの巡礼』が好評を博して一躍時代の寵児となった。しかし、かなりのプレイボーイとしても有名であり(相手が女性とは限らなかった)、そのあまりにも乱れた生活に世間から非難が集中、英国を離れていたのである。
案の定、バイロンとパーシーは意気投合し、2人は哲学や文学について毎日のように語り合った。医者のポリドリは、クレア(メアリーの義妹ジェーンのこと。彼女は名前をクララやクレアと改名。バイロンの愛人だった)がバイロンの愛人であったことをすぐに見抜いた。そして、メアリーにほのかに想いを寄せるようになったが、当の本人に「兄のように思っている」と言われしまい、落ち込んだという。
6月に入ると、ジュネーヴは悪天候に見舞われ、一行はディオダディ荘内に閉じ込められる日が続いた。風雨が叩き付け、雷が轟く17日の夜、暖炉の前で当時流行していた幽霊物語をみんなで読んでいると、バイロンが「各自、怖い話を作ってみないか」と提案。翌日、バイロンは後に出版される『マゼッパ(Mazeppa)』のくだりを、パーシーは幼少の頃に体験した話を、ポリドリは鍵穴から覗き見してひどい罰を受けた骸骨女の話をしたのである。しかし、メアリーはいいアイディアが思いつかず、話を披露することはできなかった。その後も、バイロンに「何か思いついたかい?」と聞かれる度に「まだできていない」と答え続けた。
7月22日、パーシーとメアリー、クレアらはアルプスに向けて旅立つ。そして、アルプスの氷河を見たメアリーは、ダンディーで過ごした時に聞いた捕鯨船の話を思い出した。当時、英国では鯨油が手ごろな燃料として使われ、ダンディーは英国捕鯨漁の中心地として栄えていた。話とは、氷山に行く手を阻まれた船が7週間立ち往生してしまい、その時に船員たちが経験した飢えや寒さ、死への不安との戦いなどについてである。

執筆中のメアリー・シェリー。
また、パーシーとバイロンがディオダディ荘で披露していた話も、ふと思い浮かんだ。科学者エラズマス・ダーウィン(『進化論』を唱えたチャールズ・ダーウィンの祖父)が行った「電気を通してパスタを動かす」実験について聞いた時に「電気を通せば死体を生き返らせることができるかもしれない」と思ったこと、奴隷売買の話をしていた際に「人の価値が知性や人間性でなく、肌の色や見た目で判断されること」に強い印象を受けたこと――。前者は人造人間創造の方法、後者は見た目の醜さゆえに迫害される人造人間、という小説『フランケンシュタイン』の設定に直結している。このように、アイディアをひとつずつ紡いでいき、メアリーは物語をつくり上げていった。
8月後半に再び英国に戻った一行を待っていたのは、メアリーの異父姉ファニーの服毒自殺、続いてパーシーの妻ハリエットによるハイドパークのサーペンタイン湖での入水自殺だった。とくにハリエットの自殺に関して、世間から2人への非難は激しいものだった。娘を失うことを恐れた父ウィリアムはついに折れ、パーシーとメアリーは正式に結婚した。
1818年、1年近くかけて書き上げた小説『フランケンシュタイン』がついに発行された。メアリー、20歳の時である。ちなみに、翌1819年に発行されたポリドリによる『吸血鬼(The Vampire)』は、手違いでバイロン作として発行されたものの、なかなかの評価を得た。吸血鬼といえば、1897年に発行された作家ブラム・ストーカーの小説『吸血鬼ドラキュラ』が有名だが、実はポリドリが書いたのはこれよりも78年も早い。ポリドリは、メアリーたちがスイスを去った後にバイロンとケンカ別れをし、これを機にディオダディ荘で途中だった話の続きを書き上げたのである。ポリドリが描いた吸血鬼の特徴は、バイロンの特徴と当てはまる節が多いという。
1816年夏、レマン湖畔の別荘での集いは、『フランケンシュタイン』と『吸血鬼』という歴史に残る二大怪物誕生のきっかけとなった。

船が転覆して溺死

ルイ・エドゥアール・フルニエが描いた「シェリーの葬送」(1889年)。浜辺で火葬されるシェリーをバイロン(中央)が見守っている。
『フランケンシュタイン』の発行後、パーシーとメアリーは北イタリアへと居を移した。ところが、ここで授かった子どもを次々と失くすことになる。
1822年7月5日、5番目の子を流産したばかりのメアリーを残し、パーシーはピサにいるバイロンを訪ねようと、レリチからトスカーナ地方のリボルノに向けて船で出航。その帰路に就いた同8日、パーシーの乗る船は嵐で転覆した。パーシーの行方はわからなくなっていたが、10日後、ヴィアレッジョ郊外の浜辺に遺体が打ち上げられているのが発見される。身につけていたジャケットのポケットに、詩人ジョン・キーツの詩篇などが入っていたことから、それがパーシーだと確認された。30歳になる直前の早すぎる死を知ったメアリーの錯乱ぶりは、見るに堪えないほど凄まじいものだったという。
パーシーの遺体は浜辺で火葬され、参列したパーシーの友人が彼の「心臓」を奪い取っている。というのも当時、遺体の一部を保存すると「魔よけ」になると考えられていたのである。パーシーの遺灰は、3年前に死去した3歳の息子とともに、ローマの墓地に埋葬された。
あのレマン湖畔の夏から8年の間に、メアリーの異父姉とパーシーの前妻が自殺。第二子はマラリア、第三子は赤痢で死去した。1821年にはポリドリが青酸を飲んで自殺。その翌年に第五子を流産で亡くし、夫パーシーは溺死。1824年にはギリシャ独立戦争に参加していたバイロンが熱病で命を落とすなど、メアリーのまわりには死の影が付きまとった。

心臓のゆくえ

ボーンマスから8キロほど東へ行った町、クライストチャーチにあるプライオリー教会には、メアリーの死後、息子が依頼してつくらせた「溺れたシェリーを抱くメアリー像」が飾られている。
24歳という若さで未亡人となったメアリーは、再婚することはなかった。パーシーの伝記の執筆や夫が書き残した作品を編集して詩集を出版することに尽力し、1836年に父ウィリアムが亡くなるまで精神的・資金的に彼を支えた。
生まれた計5人の子どもたちの中で、唯一成人まで成長した息子パーシー・フローレンス・シェリーは、1849年、身体の弱い妻ジェーンと母メアリーが養生できる場所として、ボーンマスの東に隣接する小さな町ボスコム(Boscombe)に邸宅を購入。だが、体調を崩し、ロンドンのベルグレイヴィアに居を構えていたメアリーの健康状態では、ボスコムまで移動することは不可能であった。

1844~79年まで35年間もかけて建造された、ボーンマスにあるセント・ピーターズ教会。建物の裏側にメアリーの両親、メアリー、パーシーの心臓、息子夫婦が眠る墓(手前)がある。
1851年1月23日、メアリーは昏睡状態に陥る。そのまま目覚めることなく息子夫妻に看取られ、2月1日にロンドンでその生涯を閉じた。享年53。死因は、症状の記録から脳腫瘍と考えられている。生前メアリーが息子の妻ジェーンに「私が死んだらあなたたちの家の近くのボーンマスに埋めてちょうだい。その時には私の両親も一緒にお願いね」と話していたことを受け、息子夫妻はセント・パンクラス教会に埋められていた祖父母の墓を掘り起こし、ボーンマスのセント・ピーターズ教会にメアリーとともに埋葬した。
彼女の死から1年後、息子夫妻はメアリーが始終手元に置いていた小さなライティング・デスクの鍵を開けた。すると、メアリーの日記とパーシーの作品『アドナイス(Adonais)』の1ページを切り取って作られた封筒を発見。なんと封筒の中には、パーシーの心臓が入っていた。メアリーはパーシーの心臓を奪った友人から、その心臓を譲り受け、絹の布に包み大切に保管していたのである。発見された心臓は、メアリーとその両親の墓に新たに埋葬された。
時代の先端を行く両親のもとに生まれ、自由奔放な詩人パーシーを情熱的に愛したメアリー・シェリー。小説『フランケンシュタイン』は、手に入れることのできなかった母からの愛、家族との距離から生まれた寂しさと孤独、次々と亡くなった親族や子供への想いを「怪物」の姿に投影した、メアリー自身の物語なのではないだろうか。
穏やかに過ごすことのなかったメアリーは、死後ようやく、父母と愛する夫、息子夫婦と一緒に静かな眠りについている。

メアリーが1846~51年まで暮らした、ロンドンの家。ここで息を引き取った。
24 Chester Square, London SW1W 9H
5分で読める!

「フランケンシュタイン」ってどんな話?

1831年に出版された『フランケンシュタイン』(改訂版)の挿絵。ヴィクター(右端)が逃げ出す場面。
■フランケンシュタインといえば「死体をつなぎ合わせて作られた人造人間」というイメージを思い浮かべるだろう。さらに、「怪物」=「フランケンシュタイン」と思っている人も多いようだが、実際には怪物をつくった科学者の名が「ヴィクター・フランケンシュタイン」であり、怪物に名前はない。ちなみに、パーシーが幼少時に使っていたペンネームが「ヴィクター」で、彼の姉の名は「エリザベス」。これは小説の中に登場するヴィクター・フランケンシュタインの義妹で、妻となる女性と同じ名前である。
北極へ向けて航海していたウォルトン船長は、氷上で青年を見つける。その青年は、科学者ヴィクター・フランケンシュタイン。激しく体力を消耗していたヴィクターを船長は船に招き入れ、手厚くもてなす。やがてヴィクターは身の上話をはじめる。
スイス・ジュネーヴの名家の出身であるヴィクターは、優しい両親のもとで育った。イタリアで出会った不遇な少女エリザベスを気に入った両親は、養女として迎え入れる。美しく気立てもよく成長したエリザベスをヴィクターは妻にしたいと考えるようになり、両親もそれを望んでいた。

1931年公開された、ボリス・カーロフ主演による映画「フランケンシュタイン」。怪物のイメージはこの映画が発端となり定着した。
一方、大学で自然科学を勉強していたヴィクターは、電流を通すと死体が動くことに着目。「死んだ生命を蘇らせたい」という野望に取り憑かれ、夜な夜な墓場から死体を集めては実験を繰り返した。ついに実験は成功するが、「人造人間」の醜い姿を見たヴィクターは激しい嫌悪感と罪悪感にさいなまれ、実験室を飛び出てしまう。翌日、実験室に戻ると怪物は姿を消していた。その後、ヴィクターの弟が殺害されたのをはじめ、身のまわりで次々と事件が起きる。ヴィクターは犯人が、人造人間であることを知る。
会いに来たヴィクターに、人造人間は語った。最初から人間に敵意を持っていたわけではなく、親しく付き合いたかったが、自分があまりにも醜いために人々に嫌われ迫害された。やがて自分を生み出したヴィクターを恨むようになり、復讐しようと考えたのだ。そして、ヴィクターに「自分とともに生きる女性の人造人間」を要求。それを拒否すると、人造人間はヴィクターにさらなる復讐を誓って姿を消した。
ヴィクターの結婚式の夜に人造人間が現れ、花嫁のエリザベスが殺されてしまう。悲嘆に暮れたヴィクターは、人造人間を殺すべく彼を追って北極に向かう。その途中で出会ったのが、ウォルトン船長だった。北へと向かう航路の途中で、船は氷山に閉じこめられヴィクターの体調は悪くなる一方だった。ある時、船長がヴィクターの様子を見に行くと、人造人間がヴィクターを殺した後だった。恐怖で硬直する船長に人造人間は「これで自分の目的は果たした。自分が死ねば人々から我々の記憶はなくなる」と言い残し、船から去って行った。

週刊ジャーニー No.1037(2018年5月31日)掲載

英国を守り抜いた、隻腕隻眼の英雄 ホレイショ・ネルソン

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英国を守り抜いた、隻腕隻眼の英雄ホレイショ・ネルソン
「トラファルガー海戦で英国を勝利に導いた提督」として、英海軍史上もっとも賞賛された男、ホレイショ・ネルソン(Horatio Nelson)。12歳で海軍へ入隊してから人生の大半を海上で過ごし、生涯を通して120もの戦いに参加。一方、歴戦の陰では妻帯者でありながら公然と不倫を続けるなど、スキャンダルにも事欠かなかった。激戦の末に片目と片腕を失いながらも、退くことなく戦い、海で散っていった「英雄」の波乱の人生を追う。

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/本誌編集部

近づく勝利、遠ざかる意識

1843年に完成した、トラファルガー広場のネルソン記念柱。柱の上に立つネルソンは、スペイン・トラファルガー方面を見つめている。
時計の針を巻き戻すこと、200年以上前の1805年10月21日。
スペイン南端のトラファルガー沖で、当時「強国」といわれた英国とフランスそれぞれの命運を担った両海軍が、ついに直接対決を迎えていた。この「世紀の一戦」を勝利に導いた英国側の総司令官が、ロンドン・トラファルガー広場にある記念柱の頂上に立つ人物、ホレイショ・ネルソン提督だ。
海戦の火蓋が切って落とされてから約半日が経過したころ、ネルソンが編み出した独自の接近戦(通称ネルソン・タッチ)で、先頭をきって敵艦隊に突撃する旗艦「ヴィクトリー号」は、砲弾の嵐の中にあった。ネルソンは何度も部下から身を隠すよう進言を受けたが、それを聞き入れずにデッキに立ち、司令官自らが率先して身を危険にさらすことによって兵士を鼓舞した。そして午後1時半、ついに隣接するフランス軍艦の狙撃兵による銃弾がネルソンを襲う。ネルソンは肩から銃弾を浴びてデッキに倒れ込み、医務室に担ぎ込まれた。銃弾は脊柱を貫通しており、痛みに喘ぎ苦しみながらも、艦長から伝えられる戦況を受け「攻撃せよ!」と大声で命令を出し続けた。

トラファルガー海戦における「ネルソン・タッチ」の図。前方で弧を描いて待ち受ける敵艦隊(青)に向かって、英艦隊(赤)は直角に2列縦隊を組んで突進するという斬新な戦法。
しかしながら、爆音であるはずの砲声が、彼の耳にはだんだんと遠く小さくなっていくように感じられた。左目に映る風景も色褪せて薄暗く、ぼんやりとしていて輪郭がつかめない。体温も急激に奪われていく…。
負傷からおよそ3時間後、「完璧な勝利です。ただ各艦がはっきりとは見えないので、何隻の敵船を捕獲したのかは不明です」と告げる艦長の勝利報告に安堵したのであろう。ネルソンは「神に感謝する。我が義務を果たした(Thank God, I have done my duty.)」とつぶやきながら、静かに息を引き取った。午後4時30分、享年47。大量の体内出血による最期だった。

信念を貫いた少年時代

緑の森と青く澄んだ小川、遠くまで起伏の続く麦畑の丘に囲まれた美しい田園の村、ノーフォークのバーナムソープ(Burnham Thorpe)。ネルソンはこの村で、牧師夫妻の息子として1758年9月29日に誕生。ノーフォーク内の寄宿学校に通った後、母方の叔父であるモリス・サクリング艦長を頼り、ケントにある英海軍に入隊した。9歳で母親を亡くし、男手ひとつで子供たちを育てていた父親も病気を患い、家計を按じていたこと、さらには厳格な学校教育を通じて愛国心が芽生えていたことからの入隊志願だった。やがて12歳で叔父が指揮する戦列艦に士官候補生として乗り込み、海軍兵のキャリアをスタートさせた。
少年時代のネルソンは体格には恵まれず頑丈とは言いがたかったものの、負けん気が強く、強情な一面を持っていた。それは時として頑固で融通の利かない性格として表れることもあった。そうした彼の性格を物語るエピソードとして、次のような話が伝えられている。
ネルソン少年は小学校時代、生徒に体罰を科することで有名だった教師たちに普段から目を付けられていた。ある日、鳥の巣を教室に持ち込んだネルソンを教頭が厳しく注意すると、彼は「ごめんなさい、先生。でもこの卵、僕が抱いてやらないと上手くかえらないんです」と詫びながらも、自分の正当性を主張。ネルソンは同級生の前で上半身を裸にされ、教頭から背中に何度も鞭を打たれたが、背を真っ赤に腫らしながらも自分の意見を最後まで覆さず、決して「二度と鳥の巣を持ち込みません」とは言わなかったという。「己が正しいと信じることは何が何でも貫き通す」――これはネルソンの生涯に通ずる信念であり、その礎は幼少期にすでに築かれていたと言えるだろう。

世界各地で恋する色男

数々の浮名を流した恋多き男、ネルソンの23歳のときの肖像画(左)。同い年の妻フランシスとは赴任先の西インド諸島で出会った(右)。
今日残っているネルソンの肖像画を見てもわかる通り、若いころのネルソンは整った要望の持ち主であったことは容易にうかがえる。「行く港ごとに恋人がいる」という通説で知られた当時の海軍人の例に漏れず、ネルソンも赴任地が変わるたびに新たな恋人をつくり、様々な浮名を流した。
まずは1782年、英植民地だったカナダのケベックで町娘と恋に落ち、結婚を考えるも、友人たちの反対にあって断念。続く翌83年、フランスでの休暇中に英国人の裕福な牧師の娘に恋をし、またしても結婚を考えるが、経済格差を理由に相手に断られてしまう。さらに翌84年、カリブ海の密貿易監視任務で赴いたアンティグア島では、弁務官の若妻に熱を上げるも親密な仲にはなれずに終わっている。
そして翌85年、西インド諸島ウインドワード島で、生涯の伴侶となるフランシス・ニズベットに出会う。上級裁判官の娘で、未亡人となり、先夫との間に息子がいた彼女は、ネルソンの恋心を「海軍人の一時の気の迷い」と捉え、相手にしなかった。それでもネルソンは諦めずにラブレターをしたため続け、「――わが胸はあなたを恋焦がれ、あなたと共にあります。私の頭の中にはあなたしかいません。あなたから離れると私には何の喜びもありません――」と歯の浮くような口説き文句で、彼女の心を揺さ振っていった。筆まめのネルソンのアプローチが功を奏したのか、出会いから2年後の1787年、ネルソンは29歳でフランシスと結婚した。

名誉のためなら目も腕も

ネルソンの魅力を倍増させているのは、その整った容姿とは不釣合いの「隻腕隻眼」という身体的『特徴』ではないだろうか。冒頭のトラファルガー海戦にいたるまでの歴戦で、ネルソンは右目、右腕を失っている。常人ならば退役を考えそうなものだが、現役でいることを彼が選んだのは、軍人としての強い出世欲と名誉欲があったことは否定できないだろう。
ネルソンの肩書きをさかのぼってみると、20歳で「勅任艦長(post captain/現在の階級では大佐に相当)」となるまで順調に出世していた。上官たちに将来を見込まれていたこともあるが、叔父の縁故も大きく作用したと言われている。だが、結婚した年の人事異動で英国に戻ったものの、フランスなどとの外交関係が改善されたことから、昇進できるような海戦もなく給与は半分ほどに減額。ノーフォークの実家暮らしに甘んじることになってしまった。
不遇な日々を送っていたネルソンを救ったのは、1793年の英仏戦争だった。89年に勃発したフランス革命が英国に飛び火しないよう、英政府がフランス革命軍に宣戦布告したのだ。ネルソンには地中海艦隊任務の一環として、臨時提督の資格が与えられた。5年近くも任務から遠ざけられた後の現役復帰。それにかけた思いは相当のものだったに違いない。 1794年のカルビー湾攻略の戦いでは、敵の砲弾で飛び散った砂利が右目に突き刺さり、視力を失いながらも引き下がらずに英国軍を勝利に導いた。この功績により「艦隊司令官(commodore)」、そして97年には「海軍少将(rear admiral of the Blue)」へと昇進していく。しかし同年、カナリア諸島での戦いを指揮した際、敵の狙い撃ちが右腕を襲い、切断せざるを得なくなったばかりか、戦いにも敗れてしまう。切断部分は重度の炎症をおこし、中毒症状も出たが、驚異的な回復力で翌年には戦いに復帰している。
隻腕隻眼の身となったネルソンは、ナイルの海戦(アブキール湾の戦い)の前夜、士官たちと食事をしながら「明日のこの時間までには、私は貴族の称号を手に入れているか、ウェストミンスター寺院(英国で国葬が行われる場所)に行くかのいずれかだ」と話したと伝えられている。この戦いでネルソンは前頭部に重傷を負い、大量の流血に耐えながらもフランス軍に大勝。宣言に違わず貴族の地位を与えられ、「ナイル及びバーナムソープ男爵」となったのだった。

恥も外聞も捨てたダブル不倫

長年の愛人エマ・ハミルトン。ネルソンの戦死後、ギャンブルや浪費による借金地獄に陥り、逃亡先のフランスで死去した。
実は、ネルソンはヴィクトリー号での死の間際、最愛の女性エマ・ハミルトンと娘ホレイシアをくれぐれも見捨てないようにと、艦長らに念を押して世を去っている。ネルソンとエマ――両者にとっては純愛であったようだが、世間的には「ダブル不倫」であったため、2人の関係はタブロイド紙で格好のネタにされた。
そもそもエマとの最初の出会いは、ネルソンが不遇の時代を終えた1793年にさかのぼる。地中海艦隊の守備領域内であったナポリ王国に、援軍要請のために赴いた時のことである。この時のネルソンはまだ五体満足であり、エマも駐ナポリ英国大使夫人として上流階級の華やかな暮らしを謳歌していたので、心惹かれつつもお互いに「淡い想い」を胸に隠して過ごす程度であった。2人の恋が本格的に動いたのは、ネルソンがナイルの海戦を終えて艦の修理と補給のためにナポリに立ち寄り、5年ぶりの再会を果たした時だった。
エマはもともと下層階級の出身で、幼い頃は貧しい生活を強いられていたが、美貌と舞踏の表現力を武器に権力者の妾になるなどして生活していた。美術品収集家としても知られていたナポリ在住の英国大使ウイリアム・ハミルトンとは、エマが26歳の時に結婚。34歳差の「年の差夫婦」となった。これにより、エマは上流階級の貴婦人の仲間入りを果たしたのであった。
ナイルの海戦で勝利を手にしたものの、隻腕隻眼という変わり果てた姿で再び現れたネルソンにエマはショックを受けるが、彼女の中で同情が愛情へと変わるまでに時間はかからなかった。再会以降、エマはネルソンのもとを片時も離れようとせず、次第にあちらこちらで噂が立てられはじめる。ナポリでの滞在を伸ばし、軍務よりもエマとの日々を優先するネルソンの行動は、やがて英国民の知るところとなり、連日醜聞がタブロイド紙をにぎわせた。英国でネルソンの帰還を待つ妻フランシスは、世間からの好奇の目に耐えなければならなかった。

歓喜と醜聞の中での帰国

1799年、10年間に及ぶフランス革命がナポレオンの独裁政治の開始とともに終焉し、ネルソンとハミルトン夫妻も英国への帰路についた。ウィーン、プラハなどを充分過ぎるほどの時間をかけて周り、1800年11月に帰国。市民は戦功を立てたネルソンの帰国を素直に歓迎したものの、上流階級の人々の間には愛人と享楽にふけり、のんびりと帰ってきたことに嫌悪を表す者も多かった。
ネルソンは妻と再会したが、不倫騒動によってできた深い溝は埋まることなく、翌年1月には別居。当時の法律では、夫の暴力行為がある場合しか離婚が認められなかったことから、2人は最後まで書類上夫婦でいなければならなかったのである。これ以降、ネルソンがフランシスと会うことは二度となかった。皮肉にも別居の直後、エマがネルソンの子どもを出産。生まれた子は女の子で、唯一の実子となった。
このような慌しい私生活の中、ネルソンは「海軍中将(vice-admiral of the Blue)」に昇進し、艦隊次席司令官としてコペンハーゲンの海戦に出陣、またしても「伝説」をつくる。戦闘不利と判断した司令長官が「撤退せよ」という信号旗を揚げるも、視力のない右目で望遠鏡をのぞきながら「本当に何も見えん」と言い、命令を無視して交戦を続行したのだ。自分の信念のためなら上官の命令すら断固として退ける、強引で一本槍な性格の表れと言えよう。結局、海戦は見事勝利を収め、ネルソンはこの功績により子爵位を受爵している。戦勝歴を更新し、出世も名誉も思いのまま、子宝にも恵まれてまさに人生の絶頂期を迎えていた。

英雄、戦場で散る

ポーツマスのヒストリック・ドックヤードには、ネルソンがトラファルガー海戦で乗船したヴィクトリー号が、現在も係留している。船体の黄色と黒の横縞は「ネルソンチェッカー 」と呼ばれ、1800年の導入以降、英戦列艦の標準色となった。
1803年になると、再び英仏関係が悪化。英政府はフランスに対し、二度目となる宣戦布告を行う。エマや娘とつかの間の隠遁生活を楽しんでいたネルソンは、再び地中海艦隊に召集され、ついに「司令官(Commander in Chief, Mediterranean Fleet)」に任命された。ネルソンは旗艦のヴィクトリー号に乗船し、艦隊を率いて出航。これは同時に、約2年半後に火蓋が切られる「世紀の一戦」に向けての出発となった。
宣戦布告から2年半近く経た後での直接対決は、陸上戦ならば考えられないほど時間が経過している。実は、これは陸上戦を得意とするナポレオンの立てた作戦が、生粋の海軍人であるネルソンにとって突飛なものだったからである。ネルソンはフランス艦隊の動きをなかなか掴むことができず、地中海上を迷走することになってしまったのだ。
そして、いよいよ1805年10月21日がやって来る。
トラファルガー沖でフランス軍と相対したネルソンは、有名な信号旗「英国は各員がその義務を果たすことを期待する(England expects that every man will do his duty.)」を掲げ、艦隊の士気を高めた。英艦隊は戦艦27、小型艦5の計32艦。対するフランス・スペイン連合艦隊は戦艦33、偵察用小型艦7の計40艦。しかも連合艦隊の戦艦は英国のものより大型で、数でも大きさでも英国が不利なはずだった。
その敵艦を抑えての英国の勝利は、様々な要素が絡み合っていたと分析されている。まずフランス・スペインは政治的なつながりのみの連合艦隊で士気が低かったこと。次に「ネルソン・タッチ」という想定外の戦法に、連合艦隊が大混乱に陥ったこと。英艦隊の艦載砲が最新式で連射能力に長けていたこと。さらには、連合艦隊の提督が無能の烙印を押された人物であったことなどが挙げられよう。
しかし何よりも英軍が勝ったのは、兵士たちを鼓舞することに長けたネルソンの手腕だ。「勇将の下に弱卒なし」の言葉通り、彼の覇気と闘志は周囲に伝染し、司令を受ける海軍兵の団結力と勇敢さは群を抜くものだった。
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週刊ジャーニー編集部では、ポーツマス歴史ドックヤードにある戦艦ヴィクトリーを題材にショートフィルムを制作しました。下の動画をご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=NToyH310pCg

海を制した男

トラファルガー海戦から2ヵ月半が過ぎた1806年1月9日、君主以外の人物として歴史上初となる大規模な国葬がセント・ポール大聖堂で執り行われ、ネルソンの遺体は大聖堂の地下に埋葬された。
200年以上経った今もネルソンにまつわる多くの逸話が残されているのは、彼の勝利への強い執念、戦いの場における粘り強さ、自分の判断で突き進む信念や類まれなる軍才に、英国民が敬愛の念を寄せ続けているからであろう。提督として自ら進んで銃弾飛び交う最前線で指揮を執り続け、ナポレオンの攻勢から英国を守り切ったネルソン。勝利を手にするとともに戦場で命を散らすというドラマチック性も相まって、海を制した「英雄」は現在も根強い人気と憧れをもって語り継がれている。トラファルガーは、まさに彼の「人生」を集約した墓場として、それ以上を望むべくもないほどの舞台だったに違いない。

セント・ポール大聖堂の地下墓地にある、ネルソンの墓。© mhx
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週刊ジャーニー編集部では、セント・ポール大聖堂を題材にショートフィルムを制作しました。下の動画をご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=hG1D91kQgv0

ネルソンの「血」の行方

この時代、遠征先で命を落とした海軍兵は、遺体を海に投げ込まれて水葬されるのが一般的だった。しかし、ネルソンはトラファルガー海戦の総指令官という特別な階級にあり、ナポレオンの英国上陸を妨げた「英雄」でもあったことから、遺体は本国へ送還すべきであると考えられた。
もちろん当時、冷蔵設備などは船に備えつけられておらず、船員たちは遺体の腐敗防止のため、船内に貯蔵していた大人がひとり入るほどの大きさの酒樽に遺体を保存し、英国まで運ぼうとした。1805年10月21日、満タンのラム酒に浸されたネルソンの遺体とともにトラファルガー岬を出航したヴィクトリー号は、同28日、ジブラルタル海峡までたどり着く。しかし、その時に遺体とともに樽にたっぷり入っていたはずのラム酒が半分に減っていることに気づき、蒸留ワインをさらに補充したという。
ラム酒が減っていたのは、アルコール好きの船員たちがネルソンの功績にあやかろうと、「樽に小さな穴を開けてそこからストローで飲んでしまったから」と伝えられている。この出来事から、英海軍仕様の隠語「Tapping the Admiral(提督の栓を抜く=お酒を盗み飲む)」が生まれ、海軍で飲まれるラム酒を「Nelson's Blood(ネルソン提督の血)」と呼ぶようになった(写真上はPusser's社のラム酒)。
なお、この逸話には諸説あり、遺体を浸していたのはラム酒でなくブランデーだったという説(ヴィクトリー号が係留しているポーツマスのヒストリック・ドックヤードでは「ブランデー」と解説されている)や、ジブラルタル海峡の時点でアルコールが半分に減っていたのは船上で蒸発し、さらに遺体がアルコールを大量に吸収してしまったからというものもある。いずれにせよ、「ネルソン提督の血」は200年以上経った今も、ラム酒として英海軍兵たちに愛飲されている。

フランス狙撃兵の銃弾により、ヴィクトリー号のデッキの上に倒れ込むネルソン(中央)。

週刊ジャーニー No.1061(2018年11月15日)掲載

クリスマスを生んだ、偉大なる文豪チャールズ・ディケンズ

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クリスマスを生んだ、偉大なる文豪 チャールズ・ディケンズ

「オリバー・ツイスト」「クリスマス・キャロル」「二都物語」「大いなる遺産」など、数多くの名作を世に送り出し、英国の生んだ大文豪として知られるチャールズ・ディケンズ。
その作品の多くは貧しい人々を主人公にしており、「大どんでん返し」の連続でストーリーとして存分に楽しませつつも、慈愛精神や社会変革の必要性を嫌味なく読み手に伝えるものだった。
クリスマスが迫った今号では、ディケンズの生涯をたどるとともに、170年以上も人々を魅了し続ける名作「クリスマス・キャロル」が生まれた背景を紹介する。

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/ネモ ロバーツ・本誌編集部

「お坊ちゃん」から「児童労働者」への転落

ポーツマスにあるディケンズの生家
ポーツマスにあるディケンズの生家。現在は博物館として公開されている。

チャールズ・ディケンズは1812年2月7日、8人兄弟の2番目、長男としてイングランド南沿岸部ポーツマス郊外のランドポートで誕生。父親は英海軍の下級事務員、母親はロンドンにある楽器製作所の経営者の娘で、特に裕福な訳ではないが使用人を雇う余裕はあるという、典型的な中流階級の家庭で育った。
父親の転勤により2歳でロンドン、さらに5歳でケントにある軍港の町チャタムへと引越したディケンズは、姉と共に学校に通い、少々病弱ながらも読書や歌の好きな少年として、不自由のない生活を送った。だが、やがて一家に「ある問題」が持ち上がる。快活で社交好きの父親の「見栄っ張り、かつ浪費癖あり」という一面が災いし、家計が次第に苦しくなっていったのだ。ついに父親が見栄で借りていた大きな屋敷を出て、同じ町にある小さな家へと引越すことになってしまったディケンズは、好奇の目にさらされるのを厭い、学校から帰宅すると、屋根裏部屋で父親の蔵書を読み漁って過ごすようになった。

靴墨工場で働く12歳のディケンズ
靴墨工場で働く12歳のディケンズ。この苦い経験はトラウマになるとともに、小説家としてのスタイルを確立させた。

ディケンズが10歳になった年、一家は再び父親の転勤によりロンドンへと移る。しかし、父親の浪費家ぶりは変わらず、また母親も夫に劣らず経済観念がなかったため、給料の前借りや友人への借金がかさんでいった。場末の安い下宿屋を転々とし、日々のパンを買う金にも困るようになった一家は、親戚の勧めもあり、12歳になったばかりの息子をテムズ河畔のハンガーフォード・ステアーズ(現在のチャリング・クロス駅の近く)にあった靴墨工場に働きに出すことにした。
現在のような児童労働保護法など存在せず、賃金の安さから子供が貴重な労働力とみなされ、朝から晩まで働かされることが珍しくなかった時代とはいえ、これはディケンズにとってひどく屈辱的な「事件」であった。貧しいとはいえ中流家庭の長男として生まれ育ったのに、不甲斐ない親のために学校を退学し、労働者階級の子供たちと一緒に働かされる羽目になってしまったのである。ただ、この靴墨工場で子供たちに割り当てられた仕事は靴墨用の壷を洗い、新しいラベルを貼りつけるというもので、決して過酷な労働内容ではなかった。とはいうものの、労働者階級の子供たちが大勢いる中に、突如放り込まれた「お坊ちゃん」が、格好のいじめのターゲットになったであろうことは想像に難くない。周囲と打ち解けることなく工場の片隅で黙々と作業をしながら、ディケンズはみじめな境遇に身を落としたという思いを拭うことができなかった。

一家での監獄生活

傷心のディケンズに、さらに追い打ちをかけるような事件が起こる。父親が膨れ上がった借金を返済することができずに逮捕され、監獄に入れられてしまったのである。 父親が入れられたロンドン・サザークにある「マーシャルシー債務者監獄」は、監獄といっても強盗犯や殺人犯が収監されるような恐ろしげなものとは異なり、規則は厳しいが、家族で生活できる公営住宅のような施設だった。収監者本人以外であれば、門限はあるものの自由に出入りもできたため、一家は数ヵ月に渡りここで暮らすことになった。
ところが、児童労働者に身を落とした上、借金を踏み倒した犯罪者の息子になるという二重の屈辱を味わうことになったディケンズは、「監獄の住人」となることをよしとせず、近くに安下宿を借り、そこから仕事場に通うことを選んだ。家賃のかからない監獄の一室で家族が暮らす中、一家のために大黒柱となって生活費を稼いでいる彼が、わざわざ自室を別に借りたという行動の影には、「他人に自分の惨めな境遇を知られたくない」という強い自尊心が見てとれる。

飢えと寒さに苦しむ路上生活者たち
ヴィクトリア朝の画家ルーク・フィールズが描いた、飢えと寒さに苦しむ路上生活者たち。

幸か不幸か、逮捕事件の数ヵ月後に父方の祖母が亡くなり、その遺産で借金を無事に返済。出獄後に父親から仕事を辞めることを許されたディケンズは、「ウェリントン・ハウス・アカデミー」という私立校へ通いはじめた。しかし、母親は夫が借金で首がまわらなくなるかも知れないとの懸念を捨てきれず、息子を働かせ続けようとし、自分の気持ちを理解してくれない母親にディケンズはひどく傷ついたという。
こうした一連の騒動や、産業革命による急速な工業化・都市化の陰で流行する疫病、拡張していくスラム街と増加する路上生活者、長時間労働といった都市問題を身をもって知った経験は、のちにディケンズ独自の作風を形づくる要因となった。子供時代の貧乏暮らしと、幼くして大人の苦労を味わうことになった経験なくしては、彼の小説は誕生し得なかったのである。
15歳で学校を卒業した後、ディケンズは法律事務所で助手の仕事に携わるようになる。しかし、この仕事にあまり興味が持てず、そのころ海軍を退職して新聞の議会通信員となっていた父親にならって速記法を学び、16歳で民法博士会(ドクターズ・コモンズ)の速記者として働きはじめた。以降、ディケンズは政治ジャーナリストを目指して修業を積む一方、裕福な銀行家の娘との叶わぬ初恋を経験したり、仕事の後に大英博物館付属の図書室に通い独学で文学を勉強したり、演劇好きが高じて俳優を夢見ては挫折したりと、若者らしい青春時代を送った。

念願の作家デビューと不穏な夫婦関係

30歳の頃のディケンスと、妻のキャサリン。
30歳の頃のディケンスと、妻のキャサリン。

さて、念願かなって新聞の政治記者となり多忙な日々を送っていた21歳の頃、ディケンズに大きなチャンスが巡ってくる。仕事の傍ら書き上げて投稿した短編作品が、月刊誌「マンスリー・マガジン」に採用されたのである。初めての創作が活字になったことに感激した彼は、「ボズ(Boz)」というペンネームを使ってあちこちの雑誌で短編小説やエッセイ等を発表。投稿作をまとめた初の短編集「ボズのスケッチ集」は、その優れた観察眼が認められ、新進作家として注目を浴びるようになった。
ディケンズが作家デビューしたヴィクトリア朝前期においては、書籍は贅沢品として一部の裕福な人々の手にしか届かないものだった。しかも小説は低俗とみなされ、読者人口も多くはなかったという。だが、産業革命により経済が飛躍的に発展し、大英帝国が絶頂期を迎える中、出版界も印刷技術の向上などで劇的な変貌を遂げ、それに合わせるように国民の活字文化も変わっていった。こうした時代の流れが、大文豪ディケンズの誕生を可能にしたと言えるだろう。
当時の小説は「3巻本」で出版されるのが一般的で、価格は労働者の平均週給に相当するほどだったが、あまり裕福ではない大衆層をターゲットに新しい事業を立ち上げようとしていた新興出版社が、新人作家ボズことディケンズに白羽の矢を立てた。そして1836年、彼の初の長編小説が大衆の手が届く「月刊分冊形式」で発売の運びとなる。ディケンズが24歳の時のことだった。この長編小説「ピクウィック・クラブ(ピクウィック・ペイパーズ)」は、当初売れ行きは思わしくなかったものの、4冊目の物語に登場した愉快なロンドンっ子「サム・ウェラー」が人気を呼び、驚異的な売り上げを記録。一躍人気作家としての名声を確立していった。
またこの前年から、新創刊の夕刊新聞「イヴニング・クロニクル」に短編小説を寄稿していたディケンズに、私生活でも大きな変化が訪れる。同紙の編集長の娘で、3歳下のキャサリン・ホガースとの結婚である。しかし、2人は10人もの子供に恵まれながらも、のちに別居生活を送るなど、その関係はあまり幸せなものではなかった。別居の原因としては、性格の不一致のほか、キャサリンの妹メアリーやジョージアナ、舞台女優エレン・ターナンらとディケンズの浮気が一因と考えられている。実際に、メアリーが17歳で急死した時には、ディケンズは哀しみのあまり執筆活動ができなくなってしまったといい、夫婦生活が破綻するのは時間の問題だったのかもしれない。

暗黒時代に生まれた名作

ディケンズは新聞記者を辞め、作家としての道を歩みはじめると同時に、記者経験を見込まれて月刊誌「ベントリーズ・ミセラニー」の初代編集長に任命された。彼は編集作業にいそしむとともに、同誌に初期の代表作となる「オリバー・ツイスト」も連載。また、自らの短編小説をもとに軽喜劇の舞台を上演するなど、精力的な創作活動をスタートした。やがて出版社と契約上の不和が生じ、編集長の座を退いてからも雑誌編集への情熱は止み難く、28歳で自らが執筆・編集を務めるワンマン週刊誌「ハンフリー親方の時計(The Master Humphrey's Clock)」を発行。そこでも自作を連載し、英国のみならず米国でも多数の読者を得たことから、1842年、ディケンズは妻を伴って長期の米国旅行も決行している。行く先々で大歓迎を受け、各地で開かれた講演会や自作の朗読会は、常に「満員御礼」だった。
このまま順風満帆に大文豪への道を邁進していくように思われたが、米国旅行から帰国した翌1843年頃から、ディケンズは作家として初のスランプ期に突入する。なかなか新作のアイディアが浮かばず、やっと新たに連載しはじめた長編小説も、これまでのような支持を得ることができずに売れ行きは低迷。大家族を養わねばならなかった彼は、経済的にも苦境に立たされてしまう。
しかしながら、幸運の女神はディケンズのもとを去りはしなかった。
同年の12月、中編小説「クリスマス・キャロル」を自費出版。この小説は、冷酷無慈悲で強欲な「町の嫌われ者」スクルージが、これまでの自身の行いを反省して改心し、町の住民と初めて心からクリスマスを祝う人間愛を強く押し出した心温まる物語。「クリスマスの物語など売れない」と出版社に断られたために自費出版となった小説だったが、その予想を裏切って大いに売れた。
もともとディケンズは、孤児など貧しい市民を主人公に据え、社会的弱者の視点で物語を描くのを得意としていた。社会の「陰」の部分を小説内で表現することで、その実態を世に広めようとしたのである。そしてスランプ中に取材の一環として訪れたカムデン地区の貧民学校で、児童を取り巻く環境の劣悪さに愕然とし、靴墨工場で労働に明け暮れた幼い自分を思い出した結果、彼が書き上げた作品が「クリスマス・キャロル」だった。
発売からわずか6日で完売した大ベストセラー本に感銘を受け、自らもスクルージのように心を改めようとする人々が続出した。街中ですれ違うたびに「メリー・クリスマス」と挨拶を交し合い、救貧院や孤児院への寄付金額も急増。夕食時が近づくと、家族で食卓を囲むために人々は家路を急いだ。この年には世界初の商業用クリスマス・カードが登場したほか、ヴィクトリア女王と結婚したドイツ出身のアルバート公が、同国の伝統であったクリスマス・ツリーを飾る習慣を英国へと持ち込んだことも、クリスマスの過ごし方を見直す後押しとなったと言えるだろう。偶然の出来事が重なったとはいえ、我々がイメージするクリスマスの風景はディケンズが生み出したと言っても過言ではないのだ。
これを機に、彼は毎年12月になると『クリスマスの本』を発表するようになる。生涯で執筆したクリスマスの物語は5冊ほど、クリスマスの風景を描いた中短編となると20作品以上に及んでいる。

主人公の心の変化に注目!「クリスマス・キャロル」って、どんな話?
クリスマス・キャロル

クリスマスを間近に控えたある夜、強欲で冷血な商売人スクルージ(Scroogeは英語で「ケチ」の意味)のもとに、死んだはずの共同経営者マーレイが現れる。スクルージと同様に非情であったマーレイは、生前の行いの悪さゆえに天国へ行けないことを話し、「明日から毎晩3人の幽霊がやって来る。その幽霊たちがスクルージを救ってくれるだろう」と言い残して消えた。

クリスマス・キャロル
スクルージ(左)のもとに現れる、マーレイの幽霊。(「クリスマス・キャロル」挿絵より)

やがて姿を現した3人の幽霊は、スクルージに自身の過去・現在・未来を見せていく。友人もなく寂しく過ごした子供時代、あまりに強欲なために町一番の嫌われ者となっている現在、そして死んだ後に身ぐるみ剥がされ誰ひとり自分の死を悲しまない未来…。スクルージは今までの所業を悔い、これからどのように生きればいいのか、幽霊に教えを乞う。

雑誌での「別居宣言」

晩年のディケンズと、13年間ともに過ごした愛人のエレン・ターナン。
晩年のディケンズと、13年間ともに過ごした愛人のエレン・ターナン。

1858年、46歳を迎えたディケンズはロンドンを離れ、幼少時代の思い出の地、チャタムにあるギャッズ・ヒルに新居を構えた。演劇活動を通して知り合った当時19歳の若手女優エレン・ターナンと愛人関係にあったディケンズは、22年連れ添った妻キャサリンと別居し、エレンと一緒に暮らしはじめたのである。
別居に至るまでの道のりは、泥沼だった。ディケンズは妻と寝室を分けるために隣接する衣裳部屋で眠り、部屋を行き来できないよう扉を木板で封鎖。やがて家にも帰宅しなくなり、最終的には自身が手がける雑誌の紙面上で一方的に別居を宣言した。あまりの強硬手段に、子供たちも大きく反発したという。
目論見どおりに新生活をスタートさせたが、別居中とはいえ妻と子供たちを養わなければならず、また愛人とその家族(エレンの父親は早逝していた)の生活も保証することになった彼は、以前から児童養護院などで行っていた慈善の自作朗読会に加えて、収入を得る手段として有料の公開朗読会を開始する。著者本人による朗読会は当時かなり珍しいものだったが、ディケンズは自作の朗読が友人らの好評を博したことに気を良くして、たびたび朗読会を開いていた。多くの友人たちが文豪としての名声を得た彼が役者のように巡業することを強く反対したものの、ディケンズはおかまいなしに各地を訪問した。これには創作よりも手っ取り早く収入が手に入るという理由もあったが、芝居好きであった彼にとって、役柄になりきって朗読し、聴衆から拍手喝采を浴びる体験が大きな魅力となっていたことも事実だろう。女優であった愛人エレンの影響も少なからずあったかもしれない。

破棄された遺言

劇場のステージ上に立ち、自作朗読会を行うディケンズ
劇場のステージ上に立ち、自作朗読会を行うディケンズ

朗読ツアーは各地で大きな成功を収め、ディケンズは身動きができないほどの聴衆に囲まれることもあった。なかでも一番人気があった朗読作品は、やはり「クリスマス・キャロル」。だが、精力的な巡業公演は彼から創作時間を奪い、「二都物語」「大いなる遺産」の発表以降、机に向かうことは減っていった。
1865年、フランスで休暇を過ごしたディケンズを悲劇が襲う。英国への帰路で、エレンと一緒に乗っていた列車が、ロンドン南東のステープルハーストで鉄橋から転落するという事故に遭遇したのだ。2人の乗っていた車両は辛うじて難を逃れたものの、多くの死傷者を出した事故の精神的ショックは大きく、彼はその後PTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされることになる。心的ストレスから創作活動にまったく手がつかなくなってしまっただけでなく、度重なる旅の疲労は健康を蝕み、不眠、食欲不振、慢性的な足の腫れ、心臓の痛みなど、数知れない症状に苦しみ、急激に衰弱していった。

博物館に展示されている、朗読会でディケンズが使った本。朗読方法についての細かい書き込みが見られる。
博物館に展示されている、朗読会でディケンズが使った本。朗読方法についての細かい書き込みが見られる。

やがて医者から朗読を禁じられ、本来の作家活動に立ち戻ったディケンズであったが、月刊分冊で刊行しはじめた長編小説「エドウィン・ドルードの謎(The Mystery of Edwin Drood)」の完成を待たずして、1870年6月8日、ギャッズ・ヒルの自宅で昏倒。意識の戻らないまま、翌9日の午後、静かに息を引き取った。享年58、脳溢血が死因であった。
実は、ディケンズは死の1週間ほど前、派手な葬儀や記念碑の建立を辞退し、「私人」としてチャタム近郊にある都市ロチェスターの大聖堂に埋葬するよう遺言をしたためていた。ところが、その希望は叶わず「国家の偉人」として盛大な葬儀が行われた後、ロンドンのウェストミンスター寺院に埋葬された。彼の墓碑に刻まれた言葉は、「貧しき者、苦しめる者、そして虐げられた者への共感者」。自身の体験をもとに、慈善精神の大切さや環境の改善を訴え続けた社会派作家は、今もなお「英国の良心」として人々に愛され、各界の錚々たる著名人とともに、ウェストミンスター寺院の「詩人コーナー」で眠っている。

愛人が歩んだ苦難ディケンズ、晩年の秘密の愛とは…
クリスマス・キャロル

ディケンズとエレンの愛を描いた映画「エレン・ターナン~ディケンズに愛された女~」(英題:The Invisible Woman)が、2013年に制作されている。
刺激のない妻に退屈していたディケンズは、舞台演出の仕事を通してエレンと出会い、25歳以上離れた若き女優に強く惹かれていく。一方、エレンもディケンズの才能に魅せられ、やがて2人は恋仲へと発展する。しかし、国民的な人気作家のディケンズにとって、その「不適切」な関係は世間に決してバレてはならない大スキャンダル。家庭を捨てたディケンズとの愛に生きることを決めたものの、エレンは「日陰の身」での生活を余儀なくされる…。
ディケンズを英俳優のレイフ・ファインズ、エレンを英女優のフェリシティ・ジョーンズが演じている。

ロンドンに唯一現存する、当時のままの家 チャールズ・ディケンズ・ミュージアム
チャールズ・ディケンズ・ミュージアム

ディケンズが暮らした場所としてブループラーク等が飾られている建物は、ロンドンだけでも10ヵ所近くある。しかし、その中でもディケンズが暮らした当時のままの姿を留めている唯一の家がホルボーンの近くにあり、博物館として一般公開されている。
ディケンズは結婚した翌年の1837年にこの家に引越し、2年半ほど妻や子供たちと生活。妻キャサリンの妹で、ディケンズ一家と一緒に暮らしていたメアリーは、この家で亡くなった。館内にはディケンズが愛用していた家具や蔵書のほか、直筆原稿や手紙などが展示されている。

 ダイニング・ルーム
ダイニング・ルーム

様々な作家や画家を招待し、たびたび夕食会が開かれたダイニング・ルーム。ディケンズは結婚当初、テーブル・マナーがよくわからず恥ずかしい思いをした。

ディケンズの書斎
ディケンズの書斎

朝食から昼食までを「執筆時間」と決めていたディケンズは、邪魔されるのを嫌い、書斎に閉じこもった。手前の机と椅子はギャッズ・ヒルの自宅にあったものを移送。

主寝室
主寝室

夫婦の寝室。キャサリンはこの部屋で、長女と次女を出産した。この部屋にある鏡は、ギャッズ・ヒルの自宅にあったもの。ディケンズは鏡を見ながらキャラクターを作り出していた。

Charles Dickens Museum

48 Doughty Street, London WC1N 2LX
オープン時間: 月~日曜 10:00~17:00(12月25・26日は休館)
入館料: 大人£9.50(音声ガイド +£3)

週刊ジャーニー No.1066(2018年12月20日)掲載


処刑されたスコットランド女王、メアリー・ステュアート

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宗教対立や権力闘争が激化する激動の時代に、3度の結婚と死別を繰り返し、長い幽閉生活の末に断頭台で命を散らせた美貌のスコットランド女王、メアリー・ステュアート。今号では、フランス、スコットランド、イングランドの「3つの王冠」に翻弄された、メアリーの波乱の生涯をたどってみたい。

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/本誌編集部

1568年5月13日、スコットランド南端。
土埃をあげながら、一心不乱に馬で駆け抜ける一群がいた。その数、およそ20騎。多少遠回りになろうとも人目につくような町を避け、身体を休める時間も惜しんで、ひたすら駆け続けている。彼らが目指す先は、隣国イングランド。スコットランドとイングランドの間に広がるソルウェー湾まで行き、そこから小舟に乗って対岸のイングランドへ渡るという筋書きだ。
この命がけでスコットランド脱出を図る騎馬集団の中に、男性たちに引けを取らない見事な手綱さばきを見せる、一人の若い女性の姿があった。灰暗色の飾り気のないローブが身をすっぽりと覆っているものの、凛とした気品は隠せておらず、フードの陰から整った容貌が時折のぞく。彼女の名前はメアリー・ステュアート。自由と権力を取り戻すために、一縷の望みをかけて従姉エリザベス1世が治めるイングランドへと向かう、25歳の「元」スコットランド女王だった――。

生後6日で女王に即位

フランスの王太子フランソワ(左、14歳)とメアリー(15歳)の結婚生活は、2年半で終わった。

メアリーは1542年12月8日、スコットランド王ジェームズ5世の長女として、リンリスゴー宮殿で誕生。しかしながら、父王は国境沿いで起きたイングランドとの戦いで命を落とし、メアリーは出生から6日後の12月14日、スコットランド王位を継承した。
当時のスコットランドとイングランドは、宗教や領土をめぐり対立していた。英国国教(以降、プロテスタントと記載)を創設したイングランド王ヘンリー8世は、息子(のちのエドワード6世)とメアリーの婚約を一方的に押しつけ、スコットランドを手に入れようと画策する。ところが幸いにも、ヘンリー8世が間を置かずに死去したことから、スコットランド側は「婚約無効」を宣言。メアリーはスコットランドと同様にカトリックを信仰するフランスの王太子の元へ嫁ぐことが決まり、5歳で海を渡っていった。
フランス宮廷で大切に養育されたメアリーは1558年、15歳のときに1歳下の王太子フランソワと結婚。卵型の顔、透き通るような白い肌、大きな目と艶やかな髪を持つ、輝くばかりに美しい王太子妃の誕生に、フランス国民は熱狂した。幼馴染として共に学び育った2人は、とても仲の良い夫婦だった。
しかし翌年、国王アンリ2世が馬上槍試合で負った傷により急逝。若干15歳の王太子が、フランソワ2世として即位することになってしまう。メアリー自身、これほど早く「フランス王妃」になるとは想像していなかったはずだ。スコットランドとフランスの2つの冠を戴いたこの時が、おそらく人生の絶頂期だったのではないだろうか。以降、坂道を転がり落ちるように、彼女の人生は転落の一途をたどっていくことになる。

強行した「スピード再婚」

義父、夫、母親と肉親の死が相次ぎ、喪服をまとうフランス時代のメアリー(左)。帰国したスコットランドで、眉目秀麗なダーンリー卿(右)と出会い、瞬く間に恋に落ちた。

1560年6月、メアリーの代わりにスコットランドで執政を行っていた母親が死去したとの報が、メアリーの元へ届く。さらに半年後、元来病弱だった夫のフランソワも病死。結婚生活は2年半という短いものだった。18歳で未亡人になってしまったメアリーは、スコットランドへ帰されることになった。
13年ぶりに足を踏み入れた故国に対してメアリーが抱いた印象は、「何だか暗くて田舎くさい」。ウィットに富んだ会話が繰り広げられていた華やかなフランス宮廷が恋しく、公の場以外では侍女たちとフランス語で話した。また、宗教問題にも悩まされた。スコットランドでは宗教改革が進み、イングランドの影響を受けてプロテスタント教徒が急増。敬虔なカトリック教徒である女王の帰国は、国民に困惑をもたらしたのである。そして、最大の頭痛の種が跡継ぎ問題。直系の王族はメアリーしかおらず、「早く女王に夫を!」という側近たちの声は日に日に高まっていった。
そんな「孤高の若き女王」に運命の出会いが訪れる。彼女の心を動かした人物は、イングランド貴族のダーンリー卿ヘンリー・ステュアート。メアリーと同様、ヘンリー8世の姉を祖母に持つ従兄であった。金髪碧眼で優美な顔立ち、女性としてはかなり長身(180センチあったとされる)の自分に負けない高長身、すらりとした体型、ロンドン宮廷仕込みの優雅な物腰…メアリーの胸はときめいた。男性顔負けの馬術を誇るメアリーにとって、狩猟や乗馬、ゴルフなどスポーツが得意なダーンリー卿とは趣味も合った。一気に燃え上がった恋の炎は誰にも止めることができず、ついにダーンリー卿との結婚を断行。出会ってから5ヵ月という「スピード婚」を周囲は反対したものの、メアリーは「私は女王。女王の夫は自分で選びます!」の一点張りだった。
このときメアリーは22歳、ダーンリー卿は19歳。強引な再婚劇は、彼女が断頭台への道を歩む「ひとつめの分かれ道」となった。

夫の裏切り、寵臣の虐殺

メアリーの祖父、スコットランド王ジェームズ4世が建造した、エディンバラのホリルードハウス宮殿。メアリーの寝室は向かって左の塔の3階部分、夫のダーンリー卿の部屋はその下の2階だった。

早計すぎた結婚は、破綻も早かった。
メアリーが懐妊すると同時に、夫の「化けの皮」が剥がれはじめる。見栄っ張りで短気、傲慢で野心家だったダーンリー卿は、「女王の夫」という立場が我慢ならず「国王」としての実権を要求、次第に泥酔して暴力を振るうようになり、メアリーの愛情は急激に冷めていった。そうした中でメアリーを支えたのは、有能で細やかな気遣いができるイタリア出身の音楽家デイビッド・リッツィオ。メアリーは自身の相談役としてリッツィオを秘書官に任命し、常に彼を側に置くようになった。

一方、ダーンリー卿は「メアリーの態度が冷たくなったのは、リッツィオと浮気しているからに違いない」と、2人の関係を邪推するようになっていた。そして1566年3月9日夜、事件は起きた。
エディンバラのホリルードハウス宮殿。女王の寝室に隣接する小さな晩餐室で、メアリーがリッツィオと食事を楽しんでいると、リッツィオの権勢に反感を抱いていた貴族らがダーンリー卿と手を組み、武器を携えて乗り込んできた。ダーンリー卿はメアリーの寝室の下階に部屋を構え、警備兵に見つからずに寝室間を行き来できるよう「隠し階段」があるのを知っていた。一団はその階段をのぼって、メアリーの部屋を秘密裏に襲撃したのだ。「助けてくれ!神よ!」。武装した男たちに晩餐室から引きずり出されそうになったリッツィオは、メアリーのドレスの裾にしがみついて必死に抵抗。メアリーも彼を助けようとするが、背後からダーンリー卿に羽交い絞めにされ、身動きが取れない。大声を上げて警備兵を呼ぼうとしたメアリーの腹部に、ダーンリー卿がナイフを押し当てた。
「子どもを無事に生みたいだろう?」
メアリーの負けだった。リッツィオはメアリーの目の前で身体中を何度も刺された。その回数は、なんと56回。彼らの憎しみの程がうかがえる。
事件の3ヵ月後、メアリーは流産の危機を乗り越え、エディンバラ城で息子ジェームズを出産。しかし、生まれた子どもはメアリーの手元からすぐに引き離され、プロテスタント派貴族のもとで育てられることになった。

メアリーの目の前で、寵臣のリッツィオが刺殺される場面。助けようとするメアリーを、夫のダーンリー卿が後ろから羽交い絞めにして止めている。

強要された「電撃再々婚」

3番目の夫となった、7歳上のボスウェル伯。

世継ぎの王子を産んだことで自身も暗殺の危機を感じはじめたメアリーは、側近の一人、ボスウェル伯爵ジェームズ・ヘプバーンを重用するようになる。ボスウェル伯はイングランドとの国境地帯の軍事指揮権を持ち、イングランド兵を幾度も退けてきた軍人で、判断力と決断力に優れていた。親密さを増していく2人に、「主従以上の関係があるのでは?」「リッツィオの二の舞にならなければいいが…」とあちこちで囁かれるようになっていく。
そして1567年2月10日深夜、再び事件は起きた。ただし、今度の被害者はダーンリー卿だった。天然痘を患うダーンリー卿が療養していたエディンバラ郊外にある旧司祭館カーク・オ・フィールド教会が爆破され、彼の遺体が庭で発見されたのである。
女王の夫暗殺事件の報は瞬く間に広がり、疑いの目はボスウェル伯とメアリーに向けられた。とくに、ボスウェル伯は事件後に妻と離婚しており、メアリーと結婚するために邪魔なダーンリー卿を殺した可能性は否定できなかった。さらに事件から数日後、メアリーがボスウェル伯とともに消息を絶ってしまったことも疑惑を深める一因になった。メアリーは一体どこへ消えたのか――。実はこの時、彼女はボスウェル伯に誘拐され、監禁されていた。
メアリーにとってボスウェル伯はあくまでも信頼する臣下であり、結婚相手として考えたことはなかった。当然ながら、夫の急死以降も2人の距離は変わらなかったのである。これに痺れを切らしたのが、ボスウェル伯だった。野心家の彼は「女王の夫」の座を得るために、実力行使に出ることを決意。既成事実をつくり、結婚せざるをえない状況に追い込もうとしたのだ。
ボスウェル伯は入念に計画を立て、メアリーがスターリング城にいる息子を訪ねた帰路を狙って待ち伏せ、自身の城へ強引に連れ去った。やがて監禁から1ヵ月が過ぎた5月15日、メアリーはボスウェル伯と3度目の挙式を行う。2人の間でどのようなやりとりがあったかは想像するしかないが、メアリーにとって苦渋の決断だったに違いない。また一歩、断頭台への道が近づいた。

イングランドへの逃亡

前夫の謎の死から3ヵ月での電撃婚、しかも相手が殺害容疑をかけられている人物だったことから、今回の結婚は大スキャンダルとして批難が集中した。国民もあきれ返り、メアリーは反ボスウェル伯派の貴族らによって、エディンバラから30キロほど北上した湖上に建つロッホ・リーヴン城に幽閉されてしまう。さらに不幸は続き、幽閉中にボスウェル伯との子どもを流産。双子だったという。気力も体力も使い果たしたメアリーは、追い討ちをかけるように「サインか死か」と迫る彼らにとうとう屈し、女王退位と1歳の息子への譲位を認める書類に署名した。
ちなみに、多額の懸賞金をかけられ逃亡していたボスウェル伯は、デンマークで捕まり、監獄で狂死している。
7年間で3人の夫と2人の子どもを次々と亡くし、地位も奪われた元女王。でもメアリーは、自分の人生を、女王に再び返り咲くことを諦めなかった。
幽閉されてから約1年後の1568年5月2日、城主の弟の篭絡に成功したメアリーは、彼の協力で侍女に扮し、夜の闇にまぎれてロッホ・リーヴン城から脱走する。復位を目指して挙兵し、同13日、メアリーの軍勢はグラスゴー近郊のラングサイドにて反乱鎮圧軍と相対した。メアリー側の兵士は約6000人、鎮圧側の兵士は約4000人と、人数ではメアリーの方が優勢だったものの、実践経験の少ない若い指揮官を中心に形成された軍であったため、開戦から45分であっけなく敗走。メアリー軍の死者は100人以上に及んだのに対し、なんと鎮圧軍の死者は1人だけという完敗ぶりだった。

「反逆者」になったメアリーに残された道は、2つしかなかった。縁故のあるフランスへ亡命するか、エリザベス1世の治めるイングランドへ保護を求めて逃げ込むか…。メアリーが選んだのは、後者だった。カトリック派の貴族を頼り、無事にフランスへ亡命できていれば、まったく違った人生を送れただろう。だが、彼女はイングランドへ向かうという「致命的」な選択ミスを犯し、自ら希望の芽を摘んでしまったのである。およそ20騎の仲間を伴い、メアリーはスコットランドとイングランドの間に広がるソルウェー湾へ向けて一路南下していった。

長引く幽閉、進む陰謀

メアリーより9歳上だった、イングランド女王のエリザベス1世。

ヘンリー8世の「庶子」であるエリザベス1世にとって、イングランド王女を祖母に持ち、正統な王位継承権を持つ「嫡子」のメアリーは危険きわまりない存在だった。ようやく「プロテスタント国家」として落ち着いてきた矢先のカトリック教徒メアリーのイングランドへの亡命は、宗教問題はもちろん、スコットランド問題、王位継承権問題など、トラブルの種となるのは目に見えていた。かといって、従妹にあたる王族のメアリーをスコットランドへ送り返し、みすみす処刑されるのを見逃すわけにもいかない。苦肉の策として表向きは囚人のように扱いながらも、実質は「高貴な客人」として丁重にもてなすことに決めた。
ただし、居場所を特定されてカトリック派に担ぎ出されないよう、また城主と親しくなりすぎないよう、イングランド各地の城を転々とさせる点だけは譲れなかった。それを除けば、幽閉生活といっても侍女も召使もおり、比較的自由で静かな生活を送ることができた。
しかしながら、メアリーは不満を隠せなかった。スコットランド貴族たちを説得し、自分が再び女王に復位する助力を請う手紙を、エリザベスへ何度も書き送るものの、さっぱり音沙汰がない。一体いつまで待てばいいのか…。いつまでも諦めないメアリーに脅威を抱いたエリザベスの側近、ウィリアム・セシルは、メアリーを排除すべく罠をしかけることにする。侍女や召使の人数を減らし、監視を強化し、薄暗く状態のよくない城へとメアリーを移送。メアリーの精神状態は、徐々に追い詰められていった。
そして1584年、決定的な出来事が起きる。18歳になったメアリーの息子が、スコットランド王ジェームズ6世として直接統治を開始。プロテスタント派のもとで母親の悪評を聞かされて育ったジェームズは、生まれて初めてメアリーに親書を送ってきたのである。喜びと期待とともに開封した彼女の目に飛び込んできたのは、「貴女は王太后(国王の母)にはなれるが、もはや女王になることはない。スコットランドの君主は私だ」という文面だった。せめて王位だけでも取り戻したいという夢も、いつか息子が助け出してくれるのではないかという希望も、すべて消え失せた。でも、このままでは終われない。スコットランドの王冠が無理ならば、次なる王冠は…。メアリーは命をかけた最後の「賭け」に出る。
メアリーはイングランドに潜伏する自身の支持者たちと、密かに連絡を取りはじめる。小さなビール樽に暗号を用いた手紙を隠し、エリザベスの暗殺計画を練った。ところが、動向はウィリアム・セシルに逐一報告され、解読された暗号文が決定的な証拠となって、メアリーは反逆罪で逮捕、処刑が言い渡された。幽閉されてから19年近い歳月が過ぎ、メアリーは44歳になろうとしていた。

断頭台での壮絶な最期

真っ直ぐに正面を見据え、フォザリンゲイ城のグレートホールに設置された断頭台にのぼるメアリー。黒いローブの裾から赤いドレスの一部が見える。
ノーサンプトンシャーの東端にあったフォザリンゲイ城

1587年2月8日、ノーサンプトンシャーにあるフォザリンゲイ城。
グレートホール内は、黒い服を身につけた聖職者、死刑執行人や見届け人らであふれかえっていた。中央に設置された断頭台が、異様な存在感を放っている。人々のざわめきが石造りの壁に反響し、少々騒々しいくらいだったが、扉が開く音が聴こえた途端、水を打ったように静まり返った。メアリーの死装束は美しかった。漆黒のベルベットのローブをまとい、手には愛用の祈祷書、胸元に下げられたロザリオは金色の光を放っている。
毅然とした態度で断頭台への階段をのぼり終え、侍女に祈祷書とロザリオを渡す。そしてローブが肩から滑り落とされると、人々は思わず大きく息をのんだ。漆黒の下から現れたのは、まるで血のような深紅のドレス。赤はカトリック教徒にとって殉教の色でもある。メアリーは満足そうにその反応を見渡した後、ドレスの裾を整えながら床に膝をつき、細い首をゆっくりと断頭台に横たえた。
「主よ、御身元に近づかん。汝の御手の中へ」
死刑執行人により斧が大きく持ち上げられ、うなり声を上げながら勢いよく刃が落下した。

メアリーの処刑以降、誰も住むことなく廃墟となった。現在は建物の一部だった石や砦跡の丘のみ残る

本来なら、ここでメアリーの物語は幕を降ろすはずであった。ところが、刃は首ではなく後頭部を直撃。メアリーはすすり泣くようなうめき声を上げ、「おぉ、神よ」とつぶやいたという。ようやく首を切り落とせたのは3度目だった。そして処刑人が落ちた首を見物人へ掲げようと髪に手をかけた瞬間、首はゴトリと床に転がり落ちてしまった。長い幽閉生活で身体は衰弱し、髪も抜け落ちていたため、美しく結い上げられた豊かな髪はかつらだったのだ。

メアリーが最初に埋葬された、ピーターバラ大聖堂内の墓跡。「FOREVER BURIAL PLACE OF MARY QUEEN OF SCOTS」の文字が見える(関連記事5頁)。

メアリーは自身の遺体はフランスへ運ぶよう遺言を遺したが、エリザベスはその願いを無視し、心臓はフォザリンゲイ城の敷地内、身体は同城から程近い地にあるピーターバラ大聖堂に埋葬されている。しかし、エリザベスが跡継ぎを持たないまま1603年に死去し、メアリーの息子ジェームズがイングランド王としても即位すると、母親の棺を歴代君主が眠るウェストミンスター寺院へ移送。エリザベスより少し高い位置につくられた墓所で、やっと安らかな眠りについている。

映像で見られる!映画が絶賛上映中「Mary Queen of Scots」(ふたりの女王 メアリーとエリザベス)

互いに複雑な感情を抱く2人の女王、メアリー・ステュアートとエリザベス1世の波乱に満ちた人生を描いた映画「Mary Queen of Scots」が、現在上映中。
黒いローブに身を包み、背筋をすっと伸ばしたメアリーが、コツコツコツ…と靴音を響かせながらフォザリンゲイ城の通路を歩いていく場面からスタート。そして時間は巻き戻り、18歳で未亡人となったメアリーが、故国・スコットランドへ帰国するところから物語が動き出す。その「知らせ」を聞き、ハッと表情をこわばらせるエリザベス。ひとつの島を分け合い、それぞれの国に君臨する若き女王同士の「因縁の対決」の火蓋が切って落とされる。

結婚・出産(しかもイングランド王家が恵まれなかった男児)と自分の感情に素直に生きるメアリーに対し、嫉妬にかられて泣き崩れるイングランドに生涯を捧げた「処女王」エリザベスの姿は切なさを呼ぶ。
メアリー役をアイルランドの女優シアーシャ・ローナン(24)、エリザベス役をオーストラリア出身の女優マーゴット・ロビー(28)が熱演。日本では、3月15日から公開予定。

https://www.youtube.com/watch?v=riSROsdT-f0

週刊ジャーニー No.1071(2019年1月31日)掲載

「カンタベリー物語」の生みの親、ジェフリー・チョーサー

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■ 英国には、シェイクスピア誕生より遥か以前に、庶民の言葉で語り、市井の人々に文学の扉を開いた人物がいた――。偉大なる詩人・著述家であるジェフリー・チョーサー(上図)が作品に込めた、中世の社会・思想、そして男女関係とは? 今号では、チョーサーが歩んだ人生をたどるとともに、奥深い「カンタベリー物語」の世界に足を踏み入れてみたい。

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/本誌編集部

世界遺産にも登録された 英国最古の巡礼地

英国にキリスト教を広めた聖アウグスティヌスが眠る、聖アウグスティヌス修道院跡。歴代の大司教らが埋葬された。カンタベリー市壁の外にあり、ヘンリー8世による修道院解散令で閉鎖された。

水仙や桜が花開き、日を追うごとに日照時間も長くなり、英国特有の暗く長い冬が終わるのを感じる、この季節。心浮き立ち旅に出たくなるのは、600年以上前も今も同じなのかもしれない。
中世の頃から人々をひきつけてやまない土地と言えば、イングランド南東部ケントにある都市、カンタベリー。ローマ時代の城壁に囲まれた小さな街に、多くの観光客が訪れる最大の理由は、英国国教会の総本山「カンタベリー大聖堂」(写真上)にある。「神の館」「天国への門」とも呼ばれる大聖堂の起源は、6世紀にローマから約40人の修道士とともにキリスト教の布教にやってきた、聖アウグスティヌス(初代カンタベリー大司教)の教会建立までさかのぼる。その後、二度の火災によって再建・増築を重ね、英国最初のゴシック建築として知られる現在のものに姿を変えた。
内部を彩るステンドグラスの数々には、キリストやヘンリー2世、そしてここに訪れる巡礼者の様子などが描かれており、宗教観の有無を問わず、人々を放心させるほどの美しさを備えている。百年戦争の英雄・エドワード黒太子(Black Prince)やヘンリー4世夫妻が眠る墓など、見所はたっぷりあるが、何と言っても3本の剣が掲げられた一角に注目してほしい。ここは1170年、当時のカンタベリー大司教トマス・ベケットがヘンリー2世との確執の末、騎士たちに暗殺された忌まわしき場所。ベケットは大聖堂内の霊廟に埋葬されたが、彼の墓所のそばから出る霊水は「治癒力がある」と言われ、死者が蘇るなど数々の奇跡が起きたという。それゆえに死後、異例とも言えるわずか3年で聖人に列せられ、以降、英国屈指の巡礼地としてヨーロッパ中にその名が知られるようになった。中世時代のカンタベリーは、イスラエルのエルサレム、イタリアのローマ、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラと並ぶ4大巡礼地だったのである。
ロンドンからカンタベリーまで、現在なら電車で1時間半、長距離バスに揺られても2時間弱と、ひと眠りすれば着いてしまう距離であるだけに、祈願や懺悔の心を抱え、幾日もかけて旅した中世時代の人々に思いを馳せるのは難しいかもしれない。それでも当時の旅の情緒を少しでも味わいたいなら、カンタベリーを訪れる前にぜひ目を通して欲しい書物がある――それは14世紀の偉大なる詩人、ジェフリー・チョーサーが執筆した中世文学最大の傑作「カンタベリー物語(The Canterbury Tales)」だ。

カンタベリー大聖堂内にあるエドワード黒太子の墓(左)。墓のそばには身につけていた防具等が展示されている。/大聖堂内陣の様子(右)。カトリックから英国国教会に変わった今も、総本山の地位を維持。ロイヤル・ファミリーの結婚式は、カンタベリー大司教が必ず執り行っている。
動画へGO!「トマス・ベケットの暗殺」についてもっと知りたい人は…

編集部制作のショートフィルムをご覧下さい。 https://www.youtube.com/watch?v=OZm7znN4vnM

戯言? 教訓?英国版「アラビアンナイト」

15世紀初めの写本「カンタベリー物語」の中から「バースの女房の話」のページ。

4月のある夜、ロンドンはテムズ河の東南岸、サザークの宿「陣羽織亭(The Tabard Inn)」。
ここに、聖人として崇められているトマス・ベケットの殉教の地、カンタベリーを目指す30人あまりの巡礼者たちが宿を共にしていた。それぞれ身分も職業も異なる人々だが、宿の主人は偶然にも同じ目的で集まった彼らに、退屈しのぎとして粋な提案をする。「巡礼の途、行きと帰りに1人2話ずつ話を披露しないか。もっともためになり、もっとも楽しい話をした者には、宿に戻った際の夕食をみんなでおごろうじゃないか」――。
こうして始まる「カンタベリー物語」には、14世紀に実在したであろう聖職者や庶民の思想、振る舞いなどのヒントが散りばめられており、ただの旅物語に留まらない未知の世界へと我々を誘ってくれる魅力がある。1066年の北フランスのノルマンディー公(のちのウィリアム1世 )によるイングランド征服以来、書物に使われる言語といえば、宮廷など上流階級の人々が使用していたフランス語と、書き言葉専用として用いられていたラテン語が一般的だった。そうした時代に庶民の話し言葉である英語で執筆された「カンタベリー物語」は、「英文学の礎」ともいうべき重要な作品なのだ。
巡礼者らが次々とショートストーリーを披露するスタイルは、ペルシャ王に妻が毎夜物語を語り聞かせるという手法で書かれた説話集「アラビアンナイト(千夜一夜物語)」に似ている。崇高かつ説教くさい話もあれば、庶民の間で流行っているゴシップ、思わず顔をしかめたくなるような与太話もあり、中世を舞台にした多様な芝居を見ているかのような気にさせられる。
とくに著者が男性だからか、女性や妻に対する愚痴や理想論はたびたび登場。5回もの結婚歴を持ち、色恋沙汰に関しては百戦錬磨というバースに住む女房が、男性陣に「いつ寝取られ男になるかとびくついて暮らすほど若く美しい女を妻にするか、真心と安心感のある年老いた醜い女を妻にするか」という究極の選択を投げかけ、神学生、豪商、近習らが結婚に対する様々な意見を交わし合う場面などは、当時の人々が夫・妻に求めたものや金銭的価値観、対人関係がわかり、興味深く読めるだろう。

19世紀に描かれた、カンタベリー詣でをする人々。騎士や商人、農夫、尼僧まで様々な人々が、道中の安全のために集団で聖地へ向かった。

王族に目をかけられた 順風満々な人生

「カンタベリー物語」の中には、チョーサー自身も登場人物のひとりとして出てくる。小太りでシャイだったとされる自分の姿を「腰格好が立派で、顔つきがぼんやりしている男」と自嘲気味に描写するなど、少々屈折した面も見られるが、キリスト教的思想が中心の社会で、罹患すると死に至るペスト(黒死病)が猛威を振るい、圧政と長期に及ぶ戦争が繰り広げられる中、いかにして豊かな想像力を得たのだろうか。
チョーサーの生年は諸説あるが、1343年頃にロンドンのシティに代々続く、裕福なワイン商の息子として誕生。庶民の公用語である英語はもちろん、初等学校ではラテン語を、家に帰ればフランス語を耳にするような(上流階級の顧客が多かったため)、当時としては恵まれた教育環境の中で育った。宮廷でも顔の利く父を持ったおかげか、チョーサーは初等教育を修了すると、当時の国王エドワード3世の三男で、エドワード黒太子の弟にあたる王子、ライオネル・オブ・アントワープの妻の小姓となっている。
1359年には、フランスとの百年戦争にライオネル王子とともに出征して捕虜となるも、エドワード3世が身代金の一部を負担し釈放されるという格別な措置が取られている。ここから察するに、チョーサーは王族に気に入られており、詩人としての才能を開花させる前に、すでに強い後ろ盾を得ていたように見える。
そして1366年、23歳頃にエドワード3世妃の侍女であったフィリッパと結婚。フィリッパは王の四男である王子、ジョン・オブ・ゴーントと「深い仲」であったとされ、また彼女の妹も同じくジョン王子の愛人になったことから(のちに3番目の妻となっている)、チョーサーは宮廷人として一目置かれるようになっていった。ジョン王子は、やがて詩人として活動を始めたチョーサーをパトロンとして支えていくことになる。

イタリアでの文芸復興
創作への目覚め

チョーサーがいつから創作を始めたのか定かではないが、結婚から数年後、王の側近を務めていた彼は、宮廷で開かれる昼・晩餐会にて「物語でもてなす」という天職に巡りあう。披露する物語はロマンスから喜劇まで幅広く、自作のショートストーリーを声高に読み上げ、宮廷人たちの歓心を得るようになった。ちなみに、1369年にジョン王子の最初の妻が亡くなった際に書いた哀悼詩「公爵夫人の書(The Book of the Duchess)」が、チョーサーの最初の作品とされている。
やがて外交使節としてたびたび赴いたイタリアで、ルネサンスを代表する詩人・人文主義者のペトラルカと親交を結んだり、同じく詩人のダンテやボッカッチョの傑作に触れたりして刺激を受け、イタリアに興った文芸復興の力強い息吹をみるみるうちに吸収していった。とくに「カンタベリー物語」は、「アラビアンナイト」に似ていると前述したが、実際にはボッカッチョの短編集「デカメロン」に登場する『十日物語』(フィレンツェで蔓延したペストから逃れようと街から離れた10人の男女が、気晴らしに10日間、毎日1話ずつ話をするという物語)の影響を強く受けた作品とされている。チョーサーはこれを巡礼の旅に変え、自身がそれまでに耳にした噂話や書物から得た逸話、そしてオリジナルで創ったとされる話などで構成したのである。
1374年にはロンドン港における関税と特別税の検査官となり、衣食住も給与も申し分のない報酬を受けていた時代は1385年まで続く。その後、イングランド南東部ケントに移った彼は、治安判事に就任。翌年には同地の議員を1年間務めた。そして、これらの職務の合間に「トロイルスとクリセイデ(Troilus and Criseyde)」や「善女列伝(The Legend of Good Women)」の刊行、「カンタベリー物語」などの執筆を重ね、詩人としての名声も着実に得ていった。
1387年に妻のフィリッパを亡くすという不幸に見舞われたが、間もなく王室関連施設の修理工事官に任命され、ロンドン塔やウエストミンスター宮殿といった重要建造物を多数手掛ける。階級制度が明白な時代に、「カンタベリー物語」に登場する上流階級から下層民まで、個性豊かな登場人物に息吹を与えることができたのも、生涯を通じて数多くの職務に就き、そこで出会った人々があってのことなのかもしれない。

19世紀の画家、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスが描いた「デカメロン」。暇をもてあました女性たちに、男性が話を語り聞かせている。

「取り消しの言葉」にみる後悔と懺悔

15世紀初めの写本に描かれた、チョーサーの肖像画。

イタリアなどヨーロッパを飛び回っていたチョーサーは、妻と過ごす時間は多くなかったものの、2人の子どもに恵まれた。権力者のパトロンにも寵愛され、詩人としても成功し、華やかな人生を送ったかに思えるが、そんな彼も「老い」からは逃れられなかった。
晩年の10年以上を費やして書かれた「カンタベリー物語」は、30人あまりの巡礼者たちが当初の設定通り、カンタベリーへの行きと帰りに2話ずつ話をしていれば、全120話にもおよぶ超大作になっていたはずだ。しかし実際には1人1話ずつ、しかも全員が話すこともなく、全24話で終わっている。執筆半ばにして死を迎え、未完のまま終わったように見えるため、「未完の大作」とも呼ばれているが、実は巻末に、それまでの全著書の執筆を悔やむ「取り消しの言葉(Chaucer's Retraction)」が記されている。
「これらを読んで何らかの知恵が生じ、喜ぶべきものを見つけたのなら、イエス・キリストに感謝を。そうでなければ、著者の能力不足のせいにしてほしい」
自分なりに終止符を打っているようにも見える「取り消しの言葉」。妻亡き後、子も巣立ち、男やもめとして年金生活を送る中で、老いていく自分を実感していたのだろうか。執筆作業は進まず、だんだんと悲しみに暮れる詩が増えていき、生きることに幻滅して創作意欲をなくしてしまったという説もある。「カンタベリー物語」の最後のページは、この「取り消しの言葉」で幕が閉じられており、当時そして今に伝わる名声とは裏腹に寂しい晩年を感じさせる。
1399年、チョーサーは何かを予期したかのように、ウエストミンスター寺院の庭園内に家を借り、翌年10月25日に死去。享年56~57だったとされる。そのまま同寺院に埋葬され、現在は英文学史における中英語期の最大の詩人として、詩人の墓所(Poets' Corner)で眠りについている。多くの観光客が日々訪れる同所なら、きっと寂しさを感じている時はないだろう。

「カンタベリー物語」傑作3選 あらすじを紹介!
美姫をめぐって争う騎士の話/The Knight's Tale

アテネの君主テーセウスは、北東に位置するテーベでの戦いの末、2人の傷ついた騎士、アルシーテとパラモンを捕らえる。彼らは敵の王族出身だったため、自国に連れて帰り、生涯、牢の中で暮らすことを命ずる。
牢獄で絶望に暮れる中、ある日、塔の窓から王妃の妹の姿を目撃。あまりの美しさに一目ぼれした2人は、互いに敵対心を燃やす。やがて、ひょんなことから出獄の許しを得たアルシーテは「アテネに一歩でも足を踏み入れれば打ち首にする」という約束をテーセウスと交わしたにも関わらず、素性を隠して宮廷に戻り、姫君の小姓となる。一方、塔に閉じ込められたままのパラモンは叶わぬ恋心と悲しみに気も狂わんばかりとなり、ついに脱獄を図るが…。

騙されて樽の中で暮らす夫 粉ひき屋の話/The Miller Tale

下宿屋を営む年老いた大工には、若く美しい妻がいた。嫉妬深い大工は、妻に悪い虫がつかないようにと日夜、気が気ではないが、彼らの家に下宿していたオックスフォード大学の学生は大工の目を盗んで若妻にちょっかいを出すようになる。
やがて意気投合した学生と若妻は、大工に内緒で一晩をともに過ごすために「神のお告げ」と称し、大工にとんでもない嘘をつく。計画はうまく言った様に見えたが、そこにもうひとり、若妻に夢中の教会書記が現われて…。
真っ赤な嘘に翻弄される哀れな老大工と、恋に狂う「第3の男」に屈辱のしっぺ返しをされる学生。一笑に付すには痛すぎる、あきれ話。

悪党3人による金儲け 免罪符売りの話/The Pardoner's Tale

フランドルに住む大酒飲みの悪党3人が、人間に「死」をもたらす死神退治に出かけ、大金を発見する。
祝宴を開くために、一番年下の男に酒を買いに行かせ、その間、残りの2人は自分たちだけで大金を山分けしようと、その男の殺害を企む。一方、その年下の男も財宝を独り占めしようと、2人の毒殺を計画していて…。
教会に寄付をした人に与えられる「免罪符」(死後天国に行けるという保証書のようなもの)を売る免罪符売りらしい、欲を出しすぎた人間に下る天罰についての話。

Travel Information

(2019年4月16日現在)

カンタベリーへの行き方アクセス

電車:カンタベリーには、Canterbury West駅とCanterbury East駅がある。Westの方がロンドンから行くと手前にあるが、中心街に出るにはEastで降りる方が便利だ。ロンドン・ヴィクトリア駅から所要1時間半ほど。

長距離バス:ロンドン・ヴィクトリア・コーチ・ステーションから所要1時間45分ほど。交通事情にもよるが、電車を利用するのとそれほど時間は変わらない。カンタベリーのバス停は中心街のすぐそばにあるので、かなり便利。

車:A2を南下し、ジャンクション1でM2に入り、ジャンクション7で再びA2に入る。市壁の回りはラウンド・アバウトがいくつも続き、中心部へ入るところを見逃しがちになるので要注意。所要1時間半ほど。

「カンタベリー物語」を楽しむならココを訪れよう!

The Canterbury Tales

St Margaret's Street, Canterbury, Kent CT1 2TG
Tel: 01227 696002
www.canterburytales.org.uk
営業時間:
4~8月10:00~17:00
9~3月10:00~16:00
(11~3月は水~日曜のみ営業)
料金 :
大人 £10.95
子ども £8.95

「カンタベリー物語」の世界を体験できるアトラクション。旅の始まりは物語同様、「陣羽織亭」から。ヘッドホン片手に中世の町並みを歩けば、巡礼者のひとりになった気分で物語の世界を堪能できる。日本語ガイドもあるのでご心配なく!

週刊ジャーニー No.1082(2019年4月18日)掲載

フレディ・マーキュリー 衣装で見る変身ヒストリー

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フレディ・マーキュリー 衣装で見る変身ヒストリー
ブリティッシュ・ロックバンド、クイーン。クイーンといえば、その音楽はもちろんのこと、奇抜なフレディの衣装(彼は笑われることも意識してやっていたらしい)やルックスの変化もかなり印象的だった。華麗なる貴公子から、ヒゲ・マッチョのおじさんにまで、艶やかに変身したフレディの衣装の変貌(ほんの一部)を追ってみよう。

Special Thanks to: Phil Symes, Richard Gray
●Great Britons●取材・執筆/内園 香奈枝・本誌編集部

【1】まるで、ベルばら、王子様 「シラサギ・ルック」

Courtesy EMI Photo Archive
【1975年ごろ】白いたっぷりとしたドレープがついた華麗なひらひら衣装。1972年から大流行した「ベルサイユのばら」に出てきそうだ。黒マニキュア、長髪、長身、細身の白馬の王子様のようなルックスに、日本人女子は熱狂。クイーンはアイドルだったのだ。

【2】ボディラインくっきり 「バレエ・タイツ」

By Neal Preston © Queen Productions Ltd
【1976年ごろ】体のラインがはっきりと分かるピッチリタイツ。銀、白、ダイヤ柄、黒と様々なバリエーションもとりそろえており、バレエ好きだった彼らしい衣装。見てはいけないものを見てしまったというべきか、官能的で美しいというべきか…。

【3】ゲイ路線へ? 「黒レザー」

By Neal Preston © Queen Productions Ltd
【1979年ごろ】このころからマッチョ路線になるフレディ。黒のレザーの帽子、ピッタリとしたパンツがセクシーだ。まだ髭は生やしだしていなかったが、彼のゲイ嗜好が表れだした一着といえよう。

【4】登場! ヒゲ・マッチョ姿 「ランニング」

By Neal Preston © Queen Productions Ltd
【1985年ごろ】ヒゲ、ランニングにマッチョなこの姿がフレディの定番イメージの人は多いだろう。エイズや死のことを気にせず、彼が自由に生きていた時代の姿ともいえるかもしれない。ただ、初期に王子様として彼を愛していた多くの女性たちには、このヒゲのおじさんと化したフレディはショックであった…。

【5】王者の貫禄 「黄ジャケット」

By Denis O’Regan © Queen Productions Ltd
【1986年ごろ】ラスト・ツアーのこのジャケット姿は、すっかり大きなスタジアムの似合うライブ・バンドに成長した風格が現れている。この衣装に、天に向け片腕を上げた姿は、銅像などのポーズとしてもおなじみだ。

【6】厚いメイクで病気を隠した 「道化師」

By Simon Fowler, © Queen Productions Ltd
【1991年ごろ】彼の晩年のプロモーション・ビデオ撮影での衣装。かなり病状が悪化しており、休み休み撮影していたそうだ。少しでも元気にみせるために、カツラを付け、彼が大好きなライザ・ミネリをイメージした厚いメイクをした。茶目っ気たっぷりに演じる姿は愛しく、しかし切なくもある。
他の英国の偉人を読む

週刊ジャーニー No.572(2009年4月30日)掲載

世界でもっとも美しい遺書 ヴァージニア・ウルフ

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ヴァージニアが遺した遺書( © openculture.com)

■ 英国のモダニズム文学を代表する作家ヴァージニア・ウルフ。戦争、フェミニズム運動など変革の風が吹き荒れた20世紀初頭を生き、作家として評価を得るも自ら命を絶ってしまう。今回は、世界でもっとも美しい遺書を残したとされるヴァージニアの人生をたどることにしたい。

●Great Britons ●取材・執筆・写真/本誌編集部

モンクス・ハウスにある執筆のための小屋。

第二次世界大戦真っ只中の1941年3月28日金曜。ナチス・ドイツによる激しい空襲によってロンドン市内は甚大な被害を受け、市民らが恐怖に包まれる中、抗うことのできない闇に飲み込まれた一人の女性がいた。
空襲によってロンドンの家を焼かれ、イースト・サセックスの別荘に疎開していた彼女は、コートを羽織り帽子をかぶって家を出ると、近くを流れるウーズ川のほとりで足を止めた。どのくらいの時間、水面を眺めていただろう。川岸にあった石を手に取り、それをポケットいっぱいに詰めると、川の流れに足を踏み入れた…。
ベストセラー作家ヴァージニア・ウルフ、59歳である。

男は学校で、女は家庭で

母ジュリアに抱かれる2歳の頃のヴァージニア(1884年撮影)。

ヴァージニアは1882年1月25日、ロンドンのサウス・ケンジントンに生まれた。50歳を目前にした父レズリー・スティーブンは歴史家で編集者、35歳の母ジュリアはラファエル前派のモデルを務めた人物。ともに子供を連れての再婚で、さらに4人の子を授かり、ヴァージニアはその3番目だった。
英国では同年、「妻財産法」の制定により既婚女性の財産所有が認められるなど、女性の権利が拡大しつつあった。とはいえ、時は女子教育が軽んじられていたヴィクトリア朝時代。スティーブン一家の男の子らは学校に通い、女の子らは家庭で教養を身につけた。
だからといって、彼女が受けた教育が不十分だったかといえばそうではない。ヴァージニアと3歳上の姉ヴァネッサは母からラテン語と歴史を、父から数学を習った。「好きなだけ読みなさい」。当時にしてはリベラルな教育方針の父は、自分の図書室へのアクセスを娘に許し、ヴァージニアは貪るように本を読んだ。さらに文化に造詣の深い両親の元には、ヴィクトリア朝文学界を代表する作家トーマス・ハーディー、詩人アルフレッド・テニスンらが訪れた。知的な客人と出会う中で教養や社会に関する鋭い洞察力を磨いていった。

連続する家族の死

まさに未来の小説家にふさわしい環境で順風満帆な子供時代を送ったように思えるかもしれないが、現実は違った。文学に対する情熱を共有した父は自己中心的で気が短く、「暴君」のように振る舞うこともあった。献身的な母はそんな夫への対応に追われた。その結果、子供に注がれるはずの母の時間が奪われてしまう。知的な成長は促されていたヴァージニアだが、心の欲求においては満たされない思いを抱いていた。

父70歳、ヴァージニア20歳のときの写真(1902年)。1904年2月に父が亡くなると、ヴァージニアの精神状態は悪化した。ヴァージニアは双極性障害(躁うつ病)だったとされ、遺伝的気質として受け継いだとみられている。このときは、国王が藪の中で猥褻なことを叫んだり、小鳥がギリシャ語で話したりといった支離滅裂な幻聴が聞こえたという。
スティーブン一家が暮らした22 Hyde Park Gate。ヴァージニアはこの家で父が亡くなるまで過ごした。

また、異父兄ジョージとジェラルドの存在も彼女を混乱させた。ヴァージニアとヴァネッサは10歳近く離れた彼らから性的虐待を受けており、ヴァージニアに関しては6歳のときにはすでに虐待が始まっていたという。
13歳を迎えた1895年、突然の母の死によって未成熟だったヴァージニアの心にひびが入り始める。追い打ちをかけるように2年後には、母親代わりの異父姉ステラも早世する。妻を亡くして以降、失意のどん底に落ちた父は絶望と自己憐憫を子供たちに押し付けることもしばしばで、家庭内の雰囲気は、ヴァージニアの心の病を助長こそすれ、改善などしなかった。
そんな父が1904年2月にガンで死去すると、22歳を迎えていたヴァージニアの心はとうとう壊れてしまう。父を尊敬する反面、自分勝手に振る舞う姿に嫌悪感を抱くこともあったヴァージニアは、自分の感情を処理するすべを持たなかったのだろう。不眠、不安感、食欲減退…。かつてないほどの発作に襲われ、窓から飛び降り、自殺を試みたのだった。この時ばかりは自宅を離れ、本格的な治療を受けることとなった。
スティーブン一家の子供たちは、死のにおいがまとわりつく重苦しいケンジントンの家と決別。家を売ってブルームズベリーへと住まいを移した。回復しつつあったヴァージニアも年の暮れまでにはきょうだいの住む新居に移ることが適った。

紅茶ではなくコーヒーを

自由な雰囲気が漂うブルームズベリーでの生活は、すべてが新鮮だった。夕食後に紅茶ではなくコーヒーを飲むような、これまでの型にとらわれない生活の中で、ヴァージニアの創造性が開花していく。
2歳上の兄トビーはケンブリッジ大の友人を家に招き、夕食と会話を楽しむ会を定期的に催した。政治やアート、文学など、物静かだったヴァージニアも次第に会話に加わるようになり、優秀な学生らと対等に意見を交わした。このメンバーらが、のちに社会から一目置かれる文化人集団「ブルームズベリー・グループ」となっていく。

文化と芸術の開拓者集団 ブルームズベリー・グループ

カジュアルな夜会が繰り返されるうちに形成された知的集団。ヴァージニア姉弟のほか、伝記作家リットン・ストレイチー、画家ロジャー・フライ、作家EMフォースター、美術家ダンカン・グラント、美術評論家クライヴ・ベル、経済学者ジョン・メイナード・ケインズなど錚々たるメンバーがいた。彼らは閉塞的なヴィクトリア朝時代の価値観に疑問を投げかけた。写真は、モンクス・ハウスで撮影されたもの。

画家で、姉のヴァネッサ・ベル。子供の頃から支え合った姉妹の関係は大人になってからも続いた。ふたりは互いを動物のニックネームで呼び合うこともあり、ヴァネッサはヴァージニアを「Ape(サル)」と、ヴァージニアはヴァネッサを「Dolphin(イルカ)」と呼んだという。

刺激的な日々が続いていた1906年11月、兄トビーが腸チフスを患い急死してしまう。過去の傾向からすると、身内の死に直面し、ヴァージニアが精神を病んだことが容易に想像できる。ところが今回は激しい発作に襲われてはいない。その理由として、母、異父姉、父に対しては複雑な感情を抱いており(一方、トビーに対しては深い愛情を注いでいた)、彼らの死によって後ろめたい気持ちが芽生えたと考えられている。そこにヴァージニアの繊細な性格が浮かび上がる。
仲間の死という悲劇は、ブルームズベリー・グループのつながりを強くした。姉ヴァネッサが、メンバーのひとりクライヴ・ベルと結婚。以降も夜会は続けられ、のちに英国で活躍することになる知識人が参加した。その頃にヴァージニアのキャリアもスタートし、彼女の記事や書評が活字になった。

英国中が笑った⁉ 前代未聞の偽エチオピア皇帝事件

1910年2月、英海軍が誇る戦艦「ドレッドノート」の将官のもとに電報が届いた。内容は、東アフリカに位置するエチオピアの皇族とその随員が視察に訪れるというもの。大慌てで準備が進められ、海軍は一行を大歓迎し、当時最先端技術を搭載したこの戦艦を案内するなどして視察が終了した。
ところが、この一連の出来事はすべてフェイク。ケンブリッジ大の学生だったヴェア・コールとその仲間らによるいたずらだったのだ。「偽の皇帝訪問」がメディアで報じられると、面目をつぶされた英海軍は激怒したが、英国民は大笑いしたという。
参加メンバーには、まだ作家として名が知られる前のヴァージニア=写真左端、弟エイドリアン、ブルームズベリー・グループのダンカン・グラントらが名を連ねた。

幸せな生活と執筆ストレス

1912年、30歳を迎えたヴァージニアは、グループで交流のあったレナード・ウルフと結婚する。2歳上のレナードは政府職員としてセイロン(現在のスリランカ)にいたが、休暇中のロンドンでヴァージニアとの結婚を決めると、職を辞し、ロンドンで執筆などの仕事を始めた。

ヴァージニアとレナード、婚約時の写真=1912年7月23日。翌月、セント・パンクラス・タウンホールで結婚した。

新婚夫婦はシティの小さなフラットで幸せに暮らしていたが、翌年ヴァージニアは執筆中だった小説「船出」を書き上げるストレスに押し潰され、睡眠薬を過剰服用してしまう。レナードの迅速な対応で事なきを得たものの、彼女のうつ症状は2、3年ほど間、断続的に現れた。静かな環境を求めてふたりは郊外のリッチモンドに引っ越し、看護師らが住み込みで様子をみながら、タイピングや料理などシンプルな手作業で自分を取り戻していった。
ヴァージニアの神経が簡単にすり減ってしまうことを実感したレナードは、彼女の精神状態の変化を詳細に記録し、不必要のストレスを回避するために彼女の執筆時間を管理した。妻の健康を第一に考えるならば、レナードは執筆を止めさせることもできただろう。しかし、彼女の才能にほれ込んでいたレナードは、ヴァージニアが創造性を発揮できる環境を整えることに神経を注ぎ、揺るがない愛情で妻を支えた。結婚から20年が過ぎた頃のヴァージニアの日記には、「もしレナードがいなければ、私は何度、死について考えたことでしょう」とあり、彼の存在の大きさを知ることができる。

新時代の小説

1917年4月、ウルフ夫妻に転機が訪れる。外出先のショーウィンドウで小さな印刷機を発見したのだ。印刷に関心を抱いていたヴァージニアと、「ヴァージニアの健康に良いに違いない」と確信したレナードは、印刷機を購入。ふたりは独学で印刷技術を学んだ。彼の考え通り、印刷インクで手や服を汚しながら機械と格闘する作業は、執筆でストレス過剰になりがちだった彼女の心に安らぎをもたらした。
ふたりはすっかり印刷にのめり込み、出版社「ホガース・プレス」を設立。自分たちの本を印刷出版したほか、将来が期待された作家TSエリオットらの作品を世に送り出した。初めは趣味程度の規模だったが、4年後には大きな印刷機を導入し、書店へと販路を拡大させた。ふたりでの共同事業は、子供を持たなかった夫婦の絆を一層強固なものとした。さらに重要なことに、ヴァージニアは編集者や出版社に迎合することなく、自分の書きたいものを書く自由を手に入れたのだった。
ヴァージニアの精神状態が復活すると、再びロンドンに引っ越し、代表作となる「ダロウェイ夫人」「灯台へ」を出版。ヴァージニアは非凡な才能を発揮し、人間の複雑な意識の流れに忠実な新時代の作品に挑んでいった。
1928年の小説「オーランドー」が大ヒットを収め、「女性とフィクション」をテーマに行った講義をまとめたエッセイ「自分だけの部屋」がフェミニズム運動の高まりを受けて支持されると、ベストセラー作家として名を馳せたのだった。

愛で結ばれた友人 ヴァージニア&ヴィータ

若い頃に母親を亡くしたヴァージニアは、生涯において同性の友人に癒しを求めた。そのひとりが作家で園芸家のヴィータ・サックヴィル・ウェストだ。10歳下の若きヴィータと初めて会ったのは1922年のこと。作家として成功していたヴィータに、ホガース・プレスで出版することを依頼して以降、ふたりは親しくなる。ともに結婚していたものの、次第に惹かれ合い、短期間ながらも恋愛関係へと発展する。レナードは「ヴァージニアが幸せであるのなら」とふたりの関係に理解を示していたという。
1928年発行の「オーランドー」は、ヴィータをモデルにした半伝記的な物語で、ヴァージニアがヴィータに捧げた文学的ラブレターだともいわれている。

あなたのおかげで…

1939年、第二次世界大戦が勃発し、翌年ロンドン空襲で当時住んでいた家が被害を受けると、夫婦はイースト・サセックスの別荘「モンクス・ハウス」へ疎開。戦争に反対していたヴァージニアの心は激しく動揺した。新作「幕間」の仕上がりにも自信が持てず、画家で友人のロジャー・フライの伝記が不評だったことも重なり、過剰なストレスから幻聴が聞こえるようになる。耐えられなくなったヴァージニアは、わずかに残る「自分」に意識を集中させて遺書をしたためると、1941年3月28日、姿を消した。

最愛のあなた
自分がまたおかしくなっていくのがわかります。私たちはあのひどい時期をもう二度と乗り切ることはできないでしょう。それに今回は治りそうもありません。声が聞こえるようになり、集中できないのです。だから最善と思うことをします。あなたはこれ以上ないほどの幸せを私に与えてくれました。(略)もう闘うことはできません。私はあなたの人生を台無しにしています。私がいなければあなたは自分の仕事ができるし、きっとそうするでしょう。ほら、この文章さえきちんと書けない。読むこともできないの。言っておきたいことは、あなたのおかげで私の人生は幸せだったということ。あなたは私に対してとても忍耐強く、信じられないほどよくしてくれた。誰もがわかっていることです。もし誰かが私を救ってくれたのだとしたら、それは紛れもなくあなたでした。あなたの優しさを確信する以外、もう私には何も残っていません。これ以上あなたに甘えるわけにはいかない。私たち以上に幸せになれるふたりはきっと他にはいないでしょう。V

サセックスを流れるウーズ川。ヴァージニアが消息を絶ってから3週間後、地元の子らが川岸で遺体を発見した。70年以上が過ぎた今、川は穏やかに流れていた。

消息を絶ってから3週間後、ヴァージニアはモンクス・ハウスの近くを流れるウーズ川岸で変わり果てた姿で発見された。遺体は火葬され、遺灰はレナードが愛情を注いだモンクス・ハウスの庭に埋められた。心の闇と闘う一方、変わりゆく社会の中で新時代の文学に挑戦したヴァージニア・ウルフ。夫の愛に抱かれるようにして、ようやく安らかな眠りについたのだった。

動画へGO!世界一美しい遺書 ヴァージニア・ウルフ

編集部制作のショートフィルム https://www.youtube.com/watch?v=LzdfveQwfH8

週刊ジャーニー No.1099(2019年8月15日)掲載

ハワード・カーター ツタンカーメン発掘に生涯をかけた男

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■1922年、世界中の専門家が実在を否定していたツタンカーメンの墓が、未盗掘で発見された。 その偉業を成し遂げたのは、無名の英国人考古学者、ハワード・カーター。
現在開催中の展覧会にあわせ、世紀の大発見に隠された男の苦難と悲哀をたどる。

● Great Britons ● 取材・執筆/本誌編集部

少年王の死

時をさかのぼること、約3300年前。

紀元前14世紀、エジプトの首都テーベ(現ルクソール)の町は、深い悲しみに包まれていた。まだ19歳であった国王、ツタンカーメンの早過ぎる死。先王が強行した宗教改革や遷都などによって国政が混乱していたこともあり、その突然ともいえる「不可解な死」は、事故死説、病死説、そして暗殺説など、様々な憶測もまた呼んでいた。

人々が寝静まった頃、松明の光を受けて輝く少年王の棺のそばには、王妃としての威厳を保つべく、今にも目から溢れ出そうになる涙を必死にこらえているアンケセナーメンの姿があった。豪奢な黄金の人型棺には緻密な装飾が施されており、アンケセナーメンはそれをゆっくりと目で追っていく。やがて、王の生前の面差しを写した頭部にたどりつくと、とうとう彼女の視界はぼやけ、大粒の涙が頬を伝ってこぼれ落ちていった。

2人は幼馴染で、異母姉弟であった(当時のエジプトでは近親婚は許されていた)。父王の死にともない、弱冠9歳でツタンカーメンが王に即位するのと同時に結婚。政略結婚であったが、複数の妾妃を持つのが当然であったこの時代に、ツタンカーメンはアンケセナーメン以外の女性をそばに置くことはなかった。権力闘争の渦巻く王宮にあって、年若き王が唯一心を許せた存在が、7歳上のこの王妃だったのである。

アンケセナーメンは、亡き夫のもとへとさらに一歩足を進め、手にしていた花をそっと捧げた。

「花はいつか枯れてしまうけれど、私の心は永遠に貴方のそばに…」

20年に満たない短い生涯を終え、永遠の眠りについたツタンカーメンへ向けて、彼女はそう静かに語りかけた。

絵の才能を買われた青年

©MykReeve
ツタンカーメンのミイラの頭部に被せられていた、王の面影を刻んだ黄金のマスク。

時は流れ、1891年。エジプトのベニ・ハッサン。

ナイル河中流域にある岩窟墳墓の中で、一心不乱に壁画の模写をしていた少年は、一息つこうとスケッチブックを小脇に挟み、薄暗い墳墓から抜け出した。目の前に広がるのは、一面の砂漠と透き通るような青い空、照りつける太陽。そこに佇むかつての繁栄の面影を伝える壮大な遺跡の数々は、何度見ても少年の心を強く揺さぶる。この少年が、のちにツタンカーメンの墓を発見するハワード・カーターである。

カーターは、1874年にロンドンのサウス・ケンジントンで、9人兄姉の末っ子として生まれた。体が丈夫でなかったカーターは学校に通えなかったが、絵を描くことは得意であった。動物画家である父親から手ほどきを受け、次第に父親の助手として、わずかながらも収入を得るまでになっていく。

父親の顧客からの紹介で、エジプト考古学の第一人者フリンダーズ・ピートリー率いる発掘隊がエジプトから持ち帰った、出土品などの模写画を整理していたカーターのもとに、ある日運命の話が舞い込む。目に映るものを精密に描くことのできる才能を高く評価され、エジプト調査基金(現在の英国エジプト学会)の調査隊のスケッチ担当として、「エジプトに同行しないか」と誘われたのである。このときカーターは17歳、エジプトでの長い発掘生活の幕開けであった。

カーターは、この調査が終わっても英国へ戻らなかった。ピートリーや他の遺跡発掘隊に引き続き助手として参加し、やがて発掘作業にも加わるようになる。朝は誰よりも早く起きて現場に向かい、昼間は発掘の一からを実地で教わり、夜は古代エジプト史やヒエログリフ(象形文字)を独学で学ぶ日々を送った。

1899年、25歳になったカーターは、これまでの現場経験やピートリーらの推挙もあり、エジプト考古局のルクソール支部・首席査察官に就任。この若さでの首席査察官採用はきわめて例外的だったはずであり、カーターの優秀さがうかがえよう。

古代エジプト時代に「テーベ」と呼ばれていた古都ルクソールは、ナイル河で分断されており、その一帯には多くの遺跡が残されている。日が昇る方向であるナイル河東岸にはカルナック神殿やルクソール神殿など『生』を象徴する建造物が建ち並び、日が沈む方向である西岸には『死』を象徴する「王家の谷」などの墓所が広がる。カーターは査察業務の傍ら、米国の富豪セオドア・デイヴィスが発掘中の王家の谷で、遺跡発掘の現場監督としても采配をふるっていた。発掘への情熱をいかんなく注ぎ込むことのできる職を得て、カーターはやりがいと充実感を味わっていたに違いない。

ところが1903年、首都カイロ近郊のサッカラ支部へ異動が決まったことにより、順調に進んでいた人生は急変する。サッカラの遺跡入口にいた警備員と、入場料を払わずに入ろうしたフランス人観光客の間で起きた小競り合いに巻き込まれたのだ。カーターは仲裁に入るが、観光客たちは酔っ払っており、警備員と殴り合いに発展。事件を知ったフランス総領事は責任者であるカーターを非難し、公式な謝罪を要求した。しかし、彼は謝罪を拒んだため、考古局を解雇されてしまう。

失業したカーターはルクソールに戻り、観光ガイドをしたり、自身で描いた水彩画を観光客に売ったりしながら凌ぎ、発掘に携わるチャンスが巡ってくるのを待った。

執念と財力、運命の出会い

1907年、遺跡発掘に投資している一人の英国人紳士が、カイロのエジプト考古局にやって来た。考古局長は「またか」とひっそりため息をついた。当時、発掘の真似事をしたがるヨーロッパの上流階級出身者は珍しくなかった。だが、そう簡単に遺跡が見つかるはずはなく、また作業中は発掘現場に立ち会わなくてはならないため、1~2年ほどで音をあげる。その結果、中途半端に放置される場所が増え、考古局長は頭を悩ませていた。ところが、「発掘放棄の話だろう」と覚悟を決めて会った紳士の態度は、これまでの投資者とは少し異なっていた。

王墓発掘に莫大な資産をつぎ込んだ、第5代カナーヴォン伯爵ジョージ・ハーバート。

11世紀にさかのぼる家柄を誇るカナーヴォン伯爵家の第5代当主、ジョージ・ハーバートは子どもの頃から好奇心旺盛で、冒険にあふれた生活に憧れていた。乗馬やヨットを好み、爵位を継いでからは自動車に熱中。自らハンドルを握ってヨーロッパ中を旅した。しかし、数年前にドイツで起こした自動車事故により、毎年冬は英国を離れて療養するようになる。ギリシャやスペイン、南イタリアでの生活に飽きたカナーヴォン卿は、医者に勧められてエジプトで過ごすうちに、神秘的な遺跡群に魅了されて発掘投資を決めたのであった。

発掘開始から数ヵ月が経ち、ほとんど成果が出なかったにもかかわらず、カナーヴォン卿に諦める気配はなかった。どうすれば墓が見つかるのか真剣に相談を持ちかける、その並々ならぬ熱意は「ある男」を彷彿とさせた――。考古局長は、発掘には知識のあるプロの考古学者が必要であることを説き、無職であるものの、情熱だけは人一倍熱いカーターを推薦したのである。

事故? それとも暗殺?ツタンカーメン 死の真相

即位後まもなくに着手し、長い時間をかけて造営する王墓。ツタンカーメンの墓は、あまりに小規模だったことから、王の死が「予想外の急逝」であったことがうかがえる。
2010年、エジプト考古学研究グループがツタンカーメンのミイラの検証を行った結果、ツタンカーメンは近親婚で生まれたことによる「先天的な疾患」を患っていたことが判明。背骨の変形、足指の欠損、臓器疾患の跡が確認された。ただ、こうした疾患による病死ではなく、おそらく死因は「大腿骨骨折による敗血症とマラリアの合併症」という。
かつては、後頭部に強い打撃を受けて命を落としたという暗殺・事故死説が有力視されていたが、X線写真に写っていた頭蓋骨内の骨片は、ミイラ作りの際に脳をかきだすために開けられた穴から落ちたものと、現在では結論づけられている。
大腿骨には縦にひびが入っており、太い大腿骨を縦に割るにはかなり強い力を要することから、疾走する2輪戦車等から落下したのではないかと考えられているが、それが不幸な事故であったのか、何者かによる暗殺未遂であったのかは、今や知る術はない。

忘れ去られた王

カーターとカナーヴォン卿は、すぐに意気投合したわけではなかった。カナーヴォン卿は名のある考古学者と組みたがり、考古局から解雇されたというカーターの履歴は不安材料でしかなかった。だが、自分を上回るほどの情熱と忍耐力に感服し、何より同じ目標を持っていたことが発掘を任せる決定打となった――2人は「王家の谷」での発掘を狙っていたのである。

古代エジプトにおいて、ミイラとして墓に埋葬されたのは、王族や貴族などの身分の高い者や裕福な者に限られていた。数々の豪華な副葬品が納められた墓は、常に墓泥棒による盗掘の危険に曝されており、新王国時代・第18王朝の王トトメス1世は、「自分の墓が暴かれないように」と険しい岩壁がそびえたつ地に岩窟墓の造営を考え出した。以後500年の間、歴代の王がそれにならって岩窟墓や地下墓を造ったため、その地は「王家の谷(Valley of the Kings)」と呼ばれるようになったのである。カナーヴォン卿は未盗掘の王墓を発見できる可能性があるとすれば、王家の谷しかないと考えていた。

しかし、カーターにはもっと具体的な目標があった。それはツタンカーメン王墓の発見である。ツタンカーメンは謎に包まれた「考古学者泣かせ」の王で、「歴代の王名リスト」にその名はないにもかかわらず、ツタンカーメン王の印章が刻まれた指輪などが、時々単独で見つかったりする。実在した王かすら確かではなく、実在したとしても在位の短い、歴史上あまり重要ではない王だと推測できた。それでも「忘れ去られた王」の墓を見つけることは、考古学者なら一度は夢見るロマンだ。多くが夢半ばで諦めていった中、カーターはツタンカーメン王墓は実在すると考え、それを発見するのは自分だと強く信じていた。そして、そのターゲットを王家の谷に絞っていたのだ。

王家の谷の発掘権は、引き続きセオドア・デイヴィスが握っていた。彼もツタンカーメンの墓を探し求める一人で、王家の谷から離れる様子はない。カーターたちは他の候補地を発掘しながら、時期をうかがっていた。

1914年、ついにデイヴィスが10年以上保持した王家の谷の発掘権を放棄。知らせを聞いたカーターは、英国にいるカナーヴォン卿に電報を打ち、発掘権を至急手に入れるよう訴えた。とはいえ、やはり好事魔多し。いよいよ念願の作業開始という時に第一次世界大戦が勃発し、発掘は一時中断となってしまった。

進まぬ発掘と許されぬ恋

第一次世界大戦が終結し、王家の谷で発掘作業が再開されてから3年が過ぎた1920年、何も発見できないことにカーターは焦りを感じていた。カナーヴォン卿もしびれを切らしはじめ、カーターは調査方法を一新する。考古局の資料と照らし合わせて、過去数十年にわたって王家の谷で発掘された全箇所を記した測量図を作成し、未着手の場所を徹底的に掘る作戦だ。ところが結局成果は上がらず、失望したカナーヴォン卿は翌年の発掘権を手放し、投資からも手を引くことを示唆してきた。慌てたカーターは再度測量図を作成し直し、今度は発掘の際に積み上げられた土砂で覆われ、作業が困難なために避けてきた箇所をしらみつぶしに調べる方法を提案して説得を試みるものの、カナーヴォン卿は難色を示した。土砂を取り除きながらの作業は、2倍の手間と時間がかかるからだ。しかし、最後にはカーターの勢いと必死さに折れ、翌年も発掘続行を許可した。

自分だけの指揮で結果を出さなければならない状況と、周囲から遮断された岩山の狭間での長期間にわたる仕事は、強靱な意志と忍耐力、強い信念がなければ続けられない。そんなカーターを支えたのは、ツタンカーメンに寄せる執念ともいえる思いと、ある女性――カナーヴォン卿の娘、イヴリンの存在だった。

©Francisco Anzola
険しい岩壁が続く「王家の谷」。盗掘されないよう、ひそかに造られた岩窟墓や地下墓に王族は埋葬された。
ツタンカーメン王墓の入り口に立つ(左から)カナーヴォン卿、娘のイヴリン、カーター。

カーターがイヴリンと初めて出会ったのは、王家の谷であった。第一次世界大戦の終戦により情勢が落ち着くと、カナーヴォン卿はエジプトに娘を伴って来たのである。父からずっと話に聞いていたエジプトを訪れるのは、イヴリンにとって長年の夢であった。イヴリンは上流階級の女性にありがちな気取ったところのない控えめな人柄で、考古学の造詣も深かったといわれており、カーターの発掘への思いを理解してくれる唯一の女性であったのかもしれない。当時40代半ばを迎えていたカーターと17歳のイヴリンは、親子ほどに年齢が離れていたが、瞬く間に心を通わせるようになったと伝えられている。イヴリンが英国に戻ってからも2人の手紙のやり取りは続き、毎冬の発掘シーズンには父に付き添ってエジプトに滞在するようになっていた。

最後のチャンス

©RBETZ
王家の谷の発掘作業時にカーターが生活していた、ルクソールの高台にある「カーター・ハウス」。2010年に修復を終え、博物館として一般公開されている。

1921年、勝負の年が始まった。山のように堆積した土砂を取り除きながらの発掘は、通常通りに行っていたのではすぐに時間切れになってしまう。カーターは作業員の数を増やし、人海戦術で広範囲にわたってひたすら掘り進めていくことにする。膨大な量の土砂を休まずに動かし続けたが、実りのないままその年も終わってしまった。

翌1922年の夏、カナーヴォン卿はついに探索打ち切りを決め、王家の谷の発掘権を放棄する旨をカーターに手紙で伝えた。大戦により一時中断を余儀なくされたとはいえ、王家の谷を発掘し始めてから8年。遺跡発掘への投資を始めてからだと15年以上が経過している。カナーヴォン卿が「そろそろ潮時だ」と判断したとしても不思議ではない。たとえ盗掘されていたとしても、埋もれた遺跡の発見は学術的には大きな意義があるが、投資する者にとっては多大な犠牲を払うことになる。大戦前とは違って英国も物価が上がり、道楽というには発掘は強大な負担になっていた。

カーターは手紙を読み、部屋で呆然と立ち尽くした。本当に王家の谷は掘り尽くされてしまったのか。それともツタンカーメンの墓を探し当てるなど、自分には大それた夢だったのか。あるいはツタンカーメンは実在しなかったのか…? ぼんやりと測量図を眺めていると、ふとある場所に目がとまった。

「そうだ! ここはまだ手を付けていなかった!」

ラムセス6世の墓の壁画は保存状態が良いため、人気観光スポットの一つとなっている。その隣には墓を造る際に建てられた、作業員小屋の跡とされる遺構が残っており、王墓の上に作業小屋を建てるなどありえないとして、これまで見逃されてきた場所であった。しかしよく考えると、第18王朝の王とされるツタンカーメンと第20王朝のラムセス6世の治世は、少なくとも200年ほど離れている。埋葬場所がわからないように地中に造られた墓だ。200年の間に所在が忘れられ、その上に小屋を建ててしまった可能性もあるはず…。カーターの心に、一筋の希望の光が駆け抜けた。

カーターはすぐに英国に渡り、カナーヴォン卿のもとを訪れた。自分の蓄えをすべて放出しても構わない。もし何か発見できた場合は、自分はその遺跡に関するすべての権利を放棄し、カナーヴォン卿に一任する――。話し合いは三日三晩続き、カナーヴォン卿はその熱意に負け、「今回が最後」という条件で発掘権の延長を決断した。

封印された扉

「ダウントン・アビー」のロケ地として知られる、ハイクレア城。現在もカナーヴォン伯爵一家が暮らしており、夏の一般公開時には地下階に再現されたツタンカーメン墓内部を探索できる。

11月5日、英南部ハンプシャーのハイクレア城。

私室でのんびりと新聞を読んでいたカナーヴォン卿のもとに、エジプトから一通の電報が届く。

「ついに谷で見事な発見。無傷の封印を持つすばらしい墓。元通りに封鎖して貴殿の到着を待つ。おめでとう」

カナーヴォン卿は、この短い電報の意味を把握するまでにしばらく時間がかかった。そして理解した途端、ソファから勢いよく立ち上がり、家族が集っている談話室へと駆け込んだ。「カーターがとうとうやったぞ!」。カナーヴォン卿は、イヴリンとともに急いでエジプトへ向かった。

最後の発掘権延長を申請した後、カーターはラムセス6世の墓の隣にある作業小屋の土台除去に着手した。土台をすべて取り除くと、そこから南に向かって掘り返し始める。そして「その日」は突然やってきた。

発掘開始から4日目の11月4日朝、カーターが現場に到着すると、作業員が誰も仕事をしていなかった。異常なほどの緊張感と静けさに包まれており、作業員の一人がカーターの姿を見るなり何か叫びながら駆け寄ってくる。

「見つかりました! 階段です!」

カーターはすぐに掘り進めるよう指示を出した。一段、また一段と下降階段が現れるたび、隠しきれない興奮で身体が震える。やがて12段目に辿り着いた時、盗掘された気配のない、封印されたままの漆喰扉の上部が姿を見せたのである。

11月24日、駆けつけたカナーヴォン卿とイヴリンが見守る中、調査を続けたカーターは、封じられた扉の下部にツタンカーメンのカルトゥーシュ(王の印章)が押されているのを発見した。これこそがツタンカーメンの墓だ…! カーターとカナーヴォン卿は思わず固く抱き合った。イヴリンは感激のあまり涙をこぼし、作業員たちは一斉に歓声を上げた。

2日後、扉を崩して墓室へと続く通路の瓦礫を片付けたカーターらは、封鎖された第2の扉につきあたった。中の様子を探るため、扉の一部に穴を開けて顔を寄せると、カビくさい臭いとともに熱気が流れ出てくる。3000年以上密閉されていた古代の空気だ。カーターは、はやる気持ちを抑え、ろうそくを持った右手をその穴に差し込み、内部を覗いた。

「最初は何も見えなかった。しかし目が慣れていくにつれ、室内の細部がゆっくりと浮かび上がってきた。数々の奇妙な動物、彫像、黄金。どこもかしこも黄金だった」

ツタンカーメンの王墓発見のニュースは瞬く間に広まり、世界中を驚愕させた。まだ発掘途中で見学ができないと知りつつも、世界各地から人々が王家の谷に押し寄せた。忘れられた王は、一夜にしてエジプト史上もっとも有名な王となったのである。

漆喰の壁で封鎖されたツタンカーメンが眠る玄室の入り口は、王自身の姿に似せた、等身大の一対の番人像が守っていた(左)/玄室内の色鮮やかな壁画の様子。今年2月に、9年におよぶ修復作業が終了した(右)。

少年王の呪い

世紀の大発見から5ヵ月後、突如悲劇の幕が上がる。

第3・第4の扉も開け、黄金の玉座やベッドといった贅を尽くした副葬品の整理を終えた後、いよいよ王の棺が納められた巨大な黄金厨子の解体作業に取り組もうとするカーターのもとに、青天の霹靂ともいえる知らせが届く。それはカイロのホテルに滞在しているイヴリンからのもので、カナーヴォン卿が危篤だと告げていた。カーターは翌朝一番の船でカイロに向かうが、カナーヴォン卿と再び言葉を交わすことはできなかった。

1923年4月6日午前1時50分、カナーヴォン卿が56歳で死去。黄金のマスクやツタンカーメンのミイラと対面することなく、その遺体は英国へと帰っていった。死因はひげを剃っている際に、蚊に刺された箇所を誤ってカミソリで傷つけてしまったことにより菌血症を患い、肺炎を併発したためといわれている。

ところが、これが一連の不思議な事件の始まりとなった。カナーヴォン卿の急死後、発掘関係者が次々と不遇の死を遂げていったのである。カナーヴォン卿の弟と専任看護婦、カーターの秘書と助手、調査に協力した考古学者やエジプト学者…その数は20人以上。ほとんどが病死と診断されたが、当時のマスメディアはこの異常事態を「ツタンカーメンの呪い」と大きく報道した。

やがてカーターも受難に見舞われる。最初にそれをもたらしたのは、父の跡を継いで第6代カナーヴォン伯爵となった息子ヘンリーであった。ヘンリーは考古学に興味がなく、発掘投資は「浪費の極致」だと考えていたため、王家の谷の発掘権を今期限りで手放すと宣言したのである。発掘権が他者に移ると、ツタンカーメンの墓の調査権もその相手に渡ってしまう。カーターはヘンリーに連絡をとるが、話し合いの場さえ持つ気はないようだった。

行き詰ったカーターに、さらなる衝撃が訪れる。イヴリンが敏腕の実業家でもある準男爵と婚約したのだ。カーターとイヴリンの恋は、当然周囲に反対されていた。カーター自身もその身分差、年齢差を理解していたと思うが、ツタンカーメンの調査権を失おうとしている今、イヴリンまでもが奪われてしまうという残酷な事実に、どれだけ悲嘆に暮れたであろうか。その衝撃は計り知れないものがある。

しかし、状況はさらに一転する。イヴリンが慌ただしく結婚した後、ヘンリーが発掘権放棄を撤回したのだ。一体何がヘンリーの気持ちを変えさせたのか?――そこにはイヴリンの犠牲があった。ヘンリーは、イヴリンが身分に相応しい相手と結婚し、カーターと二度と会わないならば、発掘権を延長してもいいとイヴリンに持ちかけ、彼女はそれを了承したというのである。カーターがこの話を知っていたかどうかは、今となっては知ることはかなわない。

黄金よりも美しいもの

1924年2月12日。4重の黄金厨子の解体がようやく終了し、カーターが設計した滑車によって、石棺の重い蓋がゆっくりと持ち上げられていくのを、カーターと調査に協力している学者らは固唾を呑んで見守っていた。王はどのようにして姿を現すのだろうか? 一秒が一分に、一分が一時間にも感じられる。石棺の中に少しずつ光が注がれていくと、古びた布で覆われているのがわかった。カーターはそれを慎重に巻き取っていき、最後の布が取り除かれたとき、驚きのあまり呼吸をするのを忘れてしまうほどに眩い光景を目にした。若い王の姿をした、光り輝く黄金の人型棺が横たわっていたのである。

ツタンカーメンの棺が納められた4重の黄金厨子の扉を開封し、内部をのぞきこむカーター(中央奥)と助手たち。

「死後も存在する崇高な雰囲気を感じた。深い畏敬の念に満ちた静寂が墓内を支配し、時が止まったように思われた」

静まり返る玄室内で黄金の棺を見つめるカーターの心を最初に占めたのは、おそらくカナーヴォン卿への思いだったのではないだろうか。意見が合わず、対立することも多々あったが、ともに歩んだ15年間を思い出し、この歴史的瞬間に彼が立ち会えなかったことが残念でならなかったに違いない。

白いアラレ石と黒曜石で飾られた人型棺の王の両眼はまっすぐに天井を見つめ、胸の前で交差された両手は王を表す王笏と殻竿をにぎっており、その若々しくも力強い王の威厳をまとった姿に、学者たちから感嘆の声がもれた。しかし、カーターは別のものに目を奪われていた。それは棺の上に置かれている「花」である。

「最も感動的だったのは、横たわった少年王の顔のあたりに、小さな花が置かれていたことだ。私はこの花を、夫に先立たれた少女の王妃が、夫に向けて捧げた最後の贈り物と考えたい。墓はいたるところが黄金で包まれていたが、どの輝きよりも、そのささやかな花ほど美しいものはなかった」

奇跡的にもほのかに色を留めていた花は、石棺の開封によって外気に触れた途端、ゆっくりと形を崩し始めた。思わずカーターが手を伸ばすと、まるで空気中に溶け込むかのようにパラパラと崩れ去っていった。3300年の間、孤独を癒すかのように王に寄り添い続けた花は、カーターの目の前で最後の輝きを放ち、過去へと帰っていったのだろう。カーターは、時代に翻弄されながらも強く生きようとした、若い夫婦の苦闘と悲哀、そして愛情をそこに見て、胸が熱くなったのだと思われる。墓には、死産だったと思われる2体の女児のミイラも丁寧に葬られていた。

© Heritage Image Partnership Ltd / Alamy Stock Photo
ツタンカーメン夫妻の仲睦まじい様子が描かれた「黄金の小厨子」(下コラム参照)を運ぶ、現地作業員らとカーター(左端)。

永遠の眠りへ

1939年3月、ロンドン。

冷たい雨が降りしきる中、ロンドン南部パットニーの墓地では、カーターの葬儀が行われていた。かつての国民的英雄は人々の記憶のかなたに消え、最後の別れの挨拶をするために集まった人は、ほんの一握りだった。その中に、地面に横たわる質素な棺を見つめる準男爵夫人イヴリンの姿があった。牧師の祈りが終わると、イヴリンは棺の上にそっと花を置いた。イヴリンは結婚後、エジプトを一度も訪れていない。カーターとも会っていないが、手紙のやり取りだけは続けていた――王墓発見の瞬間を共有した同志として。

花が添えられた棺が土の中へと納められていくのを見つめながら、イヴリンはカーターから届いた一通の手紙を思い出していた。そこにはカーターが黄金の棺を目にした時の思いが綴られていたが、なかでも印象的だったのが、その人型棺に添えられていたという枯れた花の話だった。カーターの魂がこの地に留まることはきっとないだろう。すでに飛び立ち、遥か海を越え、王家の谷へと辿り着いているかもしれない…。

40年にわたるエジプト生活に終止符を打ち、1932年にカーターは英国に帰国するが、その後の人生は寂しいものであった。ツタンカーメン発掘という偉業を成し遂げながらも、高等教育を受けていなかったため、考古学者として高く評価されることはなかった。独身を通し、自宅で黙々と「ツタンカーメンの学術報告書」をまとめ上げる毎日を送り、結局その報告書の完成をみないまま、1939年3月2日、64歳で息を引き取った。

ツタンカーメン王墓の発見は、20世紀におけるエジプト考古学史上最大の発見である。墓内にあった遺物のほとんどは、カイロ考古学博物館で見ることができるが、訪れた人はその質量に驚くことだろう。出土品はミイラも含め、研究と保存のために博物館へ移されるが、カーターはツタンカーメンのミイラを移動することだけは断固拒否した。そして、カーターの願い通りにツタンカーメンは今も王家の谷で静かに眠っており、本来の王墓に納められている唯一の王だという。

学者たちの唱える「常識」に屈せず、ツタンカーメン王墓の存在を確信し、鋭い感性と緻密な観察力、情熱と忍耐を持って、エジプトの大地を掘り続けたカーター。ひたすら追い求めた夢が現実となった時、彼の心をもっとも大きく揺り動かしたのが、黄金でもミイラでもなく、枯れた花であったとは予想だにしていなかったに違いない。全調査を終えるまでツタンカーメンと2人きりで過ごした10年が、カーターにとって一番幸せな時間だったのかもしれない。

発掘からもうすぐ100年
ロンドンでツタンカーメン展 開催中!

ツタンカーメン王墓の発見から、2022年でちょうど100年。遺品の大半が収められているエジプト・カイロ考古学博物館が現在、100周年にあわせて移転工事中のため、貴重な収蔵品の数々が世界を巡回している。初めてエジプト国外へ出たものも多く、3000年以上前の少年王の生活を身近に感じられる貴重な機会だ。
カーターらが墓から運び出している姿が写真に残されている「黄金の小厨子」(下写真・左)や、玄室を守っていた番人像のうちの一体(上見取り図の写真・左)などを、実際に目にすることができる。本展は日本へも巡回する予定。

©Laboratoriorosso, Viterbo, Italy
Tutankhamun: Treasures of the Golden Pharaoh
2020年5月3日(日)まで
Saatchi Gallery
チケット: £24.50~
www.saatchigallery.com
www.tutankhamun-london.com

週刊ジャーニー No.1113(2019年11月21日)掲載

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