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天然痘を制圧せよ 世界初のワクチン誕生物語 エドワード・ジェンナー 【後編】

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天然痘を制圧せよ 世界初のワクチン誕生物語 エドワード・ジェンナー 【後編】
8歳のジェームズ・フィップス少年に牛痘接種を施すジェンナー。

■1796年5月、エドワード・ジェンナー(Edward Jenner)は牛痘に感染したという若い搾乳婦、サラ・ネルメスと会った。なるほど彼女の両手や腕にはぷっくり膨らんだ複数の水疱が確認できた。典型的な牛痘感染者の症状だった。牛痘(cowpox)とは牛がかかる天然痘(smallpox)のことでヒトにも感染する。牝牛の乳房の辺りに水疱が現れ、それに触れた乳しぼりの女たちの間で感染する者が多かった。牛痘に感染すると牛は重症化するが、ヒトは腕に疱瘡ができ、多少発熱するものの軽症のうちに10日間ほどで完治した。さらに一度牛痘に感染した者は二度と牛痘に感染しなかった。それどころか牛痘に感染した者はその後、天然痘に感染しないという言い伝えがあった。ジェンナーは、牛痘に感染し快復する過程で獲得する免疫が天然痘に対しても免疫力を発揮するのではないかと仮説を立てていた。そしてついに、この仮説を実証する機会を得た。

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/本誌編集部

仮説は正しかった

牝牛の乳房に現れた膿疱のスケッチ画。

ジェンナーはサラの膿疱内にある液体を採取した。そして5月14日、ジェームズ・フィップスという8歳の健康な男児の両腕に2本の引っかき傷を作り、そこに牛痘種痘を行った。ジェームズはジェンナー家の使用人であった貧しい庭師の息子だった。後に全人類を救うターニングポイントとなる重要な実験だったが、安全が100%担保されていない、仮説に基づく人体実験だった。今なら医療訴訟を起こされても何の不思議もない、ある意味とんでもない実験だ。しかしジェンナーは実行した。それが問題にならないほど社会が人道や人権に対して未成熟だったことが人類に幸いした。

種痘を受けたジェームズは7日目に腕の付け根部分に不快感を訴えた。さらにその2日後、頭痛と悪寒を訴え、食欲が減退した。牛痘感染者の典型的な症状だった。ところがその翌日、状況は一変しジェームズはほぼ快復した。

それから6週間後、ジェンナーは再びジェームズに種痘を行った。ただし今度接種したのは天然痘患者の膿疱から取り出した体液だった。

何日経ってもジェームズは天然痘を発症しなかった。その後、何度天然痘接種を繰り返してもジェームズは天然痘の症状を発しなかった。どうやら牛痘に感染することで獲得する免疫が天然痘に対しても効力を発揮するというジェンナーの仮説は正しいようだった。

これまで中東やヨーロッパで広く行われていた「人痘法」は天然痘に感染した患者の体液を健康な人に接種し、あえて天然痘を発症させて免疫を作るという乱暴な方法だった。効果はあったが2~3%の人が重症化し、死に至る危険なものだった。その上、生涯顔に醜い痘痕(あばた)を残す人が多かった。しかし、ジェンナーが辿り着いた種痘であれば重症化の危険性も痘痕も回避できた。ジェンナーはこの後も11歳になる息子ロバートを含む23人の子どもたちをグループに分けて考察を繰り返した。その結果、牛痘種痘を施した子は全員が天然痘に対する免疫を獲得している事実を確認できた。

2000年、フィンランドの農村で牛痘に感染した4歳女児の腕に現れた疱瘡。

収まらない拒絶反応

1797年、ジェンナーはこの実験の結果をまとめ、王立協会に論文を送付し出版するよう依頼した。世界中で大勢の人の命が救われる大きな一歩となるはずだった。ところが王立協会はこの論文を無視し、そのままジェンナーに送り返した。理由は明らかになっていない。失意のジェンナーはさらなる実験の結果を追記した上で翌年『インクワイアリー(Inquiry:審理)』を自費出版した。『インクワイアリー』はたちまち医師や学者の間で話題となり議論が噴出した。

ジェンナーはさらに自説を実証するため単身ロンドンに向かった。そこでボランティアの募集を試みたが初めの3ヵ月間、自ら手を挙げる物好きは誰一人として現れなかった。それでも諦めなかった。ある日、ジェンナーの前に自分の患者に接種してみても良いと協力を申し出る医師が2人現れた。さらにジェンナーは『インクワイアリー』に興味を抱いた医師たちに対して牛痘種痘を指南して回った。しかしこの当時、人々の間では「牛の体液を体内に入れたら牛になる」といって種痘を拒絶する意見が圧倒的だった。これは幕末、種痘を日本でも広めようとした適塾の緒方洪庵も直面した分厚い壁だった。牛痘種痘法を扱う医師らへの執拗ないやがらせが続いた。さらに種痘のやり方を間違えた医師から「効果なし」といった報告が上がるなど、激しい向かい風に吹き飛ばされそうになる日々が続いた。しかしやがて「効果あり」という声が圧倒的となり、その声は英国全土へと拡大していった。

「牛の体液なんか入れたらウシになる」と牛痘を拒否する人たちを描いた風刺画。

天然痘根絶へ

ジェンナーは苦労の末に辿り着いた種痘の特許を取得することは遂になかった。特許を取ってしまうと種痘が高価なものになり、より多くの人を救うという自身の理念と矛盾した。それどころかジェンナーは問い合わせがあれば世界中、誰が相手でも私費で指南書やサンプルを提供し続けた。

1802年、英議会はそんなジェンナーに対し1万ポンド、さらに5年後には2万ポンドの褒賞金を与えた。褒賞金を出すことで政府公認の印象を作り、種痘をいち早く国民に認めさせる狙いがあった。にもかかわらずその後も種痘を否定する声が止むことはなく、ジェンナーの元には批判や中傷の手紙が届き続けた。しかしそういった雑音を打ち消すかの勢いで種痘は世界に拡大していった。

ジェンナーは誰もが種痘の有効性を認める前の1823年1月26日、脳卒中のため死去した。享年73。ジェンナーの死から17年後の1840年、英議会は種痘以外を禁止。種痘が完全に人痘法に取って替わった。もはや種痘を非難する者は一人もいなかった。その後ジェンナーは「近代免疫学の父」と呼ばれ、その功績は今も世界中で高く評価されている。1980年、世界保健機構(WHO)は天然痘の根絶を宣言。天然痘は人類史上初、そして唯一根絶に成功した感染症となった。

種痘の正当性が認められ、ジェンナーの前から逃げ出す反対派の医師たち。© Wellcome Images

ワクチンは牝牛への敬意

ジェンナーが到達した感染症に対する予防接種はワクチン(vaccine)と呼ばれるようになった。これはラテン語で牝牛を意味する「vacca」から来ている。ジェンナーが診療や研究にあたっていたバークレーの実家は現在、博物館となって一般に公開されている。その一角にはワクチン開発のために体液を提供した牝牛ブロッサムの角も展示されている。ジェンナーが最初に種痘を行ったジェームズ・フィップスはその後もジェンナー家に仕え、結婚後はジェンナーからコテージを生涯無償で提供され、住み続けた。没後、ジェンナーが眠るバークレーの聖メアリー教会墓地に埋葬された。

カッコウの托卵(たくらん)を発見したジェンナー

自分より大きいカッコウの雛に餌を与えるオオヨシキリ。 © Per Harald Olsen

エドワード・ジェンナーが恩師ジョン・ハンター医師のもとを離れ、故郷のグロスターシャーに帰ったのは彼が外科や解剖学よりも自然科学により興味をいだいたためだった。探検家のジェームズ・クック(キャプテン・クック)=下の肖像画=が第1回目の航海を終えて帰国すると、彼が持ち帰った博物標本の整理をなみなみならぬ興味を持って手伝った。クックは好奇心旺盛な若きジェンナーを大変気に入り、2回目の航海に同行しないかと熱心に誘ったがジェンナーはこれを固辞した。

故郷バークレーに戻って開業医となってからもジェンナーは地質学や人間の血液に関する研究に没頭した。さらにハンター医師からの提案でカッコウなどの生態を研究する中、カッコウがウグイスなど、他の鳥の巣に産卵して他人にわが子を育てさせる、いわゆる「托卵(たくらん)」の生態を発見し1788年、この研究結果をまとめて発表した。この功績が認められ、ジェンナーは王立協会のフェローに推薦された。しかし保守的なイングランドの博物学者たちの多くは「托卵」を「ひどいデタラメ」と一蹴し全く取り合わなかった。1921年、カッコウの生態を追っていたカメラマンが托卵の瞬間の撮影に成功。これによってジェンナーの説は完全に証明された。発表から133年、ジェンナーの死から98年が経っていた。また、一部の鳥が食料や繁殖、環境などの事情において長距離を移動する「渡り鳥」の性質を持つことを発見したのもジェンナーだった。

週刊ジャーニー No.1160(2020年10月22日)掲載


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